忘却の浜辺


深海の底を思わせる、重苦しく、
静寂に支配された眠りであった。
二度と醒めることのない、常闇の
深淵へと沈降していくような感覚が、
『彼』の中に微かな警報を奏でていた。

“……目覚めろ……目覚めろ!”
“気を抜くな……狙われて……”
意識の奥底から、途切れ途切れの声が
聞こえてくる。だが、それはくぐもり、
安息に身を委ねようとする欲求に
かき消されてしまいそうになる。

永遠の昏睡へと導く、さらなる奈落に
沈み込む直前に、『彼』の意識に
全く別の声が飛び込んできた。

ヨーコ:
“……た……すけ、て……”
“……助け、て!”

ヨーコ:
助けて、D・S!!

その瞬間、『彼』――D・Sは
覚醒した。眠りの罠が閉じる寸前、
彼の意識は光なき深海から
一瞬に浮上を遂げたのであった。

D・S:
……う……?

初めに感じたのは、潮の香りだった。
ひょうと風が鳴り、それに乗って
海の匂いが鼻孔をくすぐる。
嗅覚への刺激が、彼の五感を急速に
回復させていく。倒れ伏している
大地に体熱を奪われる不快感に、
まだ意識に絡みつく靄を振り払って、
彼はその地を両の足で踏みしめた。

そこは、波音が虚ろに響く砂浜だった。
眼前には暗い色をした海が広がり、
大きくうねっている。
今にも泣き出しそうな曇り空からは
朝なのか、それとも夕刻なのかすらも
読み取ることはできなかった。
この世の果てを思わせる、陰鬱な、
見覚えのない眺めだった。そして――。

そして彼は気づいた。
今この見知らぬ土地に独り佇んでいる
自分が、ダーク・シュナイダーという
己の名前を除いては、何一つ記憶を
持っていないという事実に。
D・Sとは何者で、そのD・Sたる
自分が何故この海辺に倒れていたのか、
それすら思い出すことができない。

D・S:
何も……記憶がねえだと……?

D・Sは暫し茫然と立ち尽くしていた。
潮風は冷たく、彼を追い払うかに
吹き付ける。行くあてはなかったが、
風を遮る場所を探す必要があった。

D・S:
――!

その時だった。
始めは、曇天を裂いて陽光が射した
ように見えた。それが目映い光を放つ
小さな球体であると識別できた時には、
その珠が砂浜に――D・Sに向かって
降下していることもはっきりと判った。
次第に速度を緩めながら、輝く珠は
真っ直ぐにD・Sへと接近する。

D・S:
この球は? ……うおっ!?

D・Sの両手の間で静止した珠は
一際激しい光を放った。
目も眩む閃光の中、彼は見た。
珠の中に、ひとりの美しい少女の姿を。
この瞬間、D・Sに二つ目の記憶が
蘇った。少女の名はヨーコ。
ティア・ノート・ヨーコ。

D・S:
ヨーコ……ヨーコさん?

D・Sが呼びかけた時、少女の像は
何かを訴えかけようとするそぶりを
見せた。だが、次の瞬間に光は止み、
珠の表面は鏡のように磨き上げられた
銀色に変化した。ヨーコの姿は消え、
珠はD・Sの掌に収まった。

それでも、D・Sは確信した。
この少女は、己にとって欠くことの
できぬ重要な存在であると。そして
あの声――目覚める寸前に聞こえた
助けを求める声は、間違いなくこの
ヨーコのものであったと。

D・S:
どこかで俺が来るのを待ってる……
そうなんだろ? ヨーコ……さん

銀色の珠は微かに震え、淡く光を
発して応えたように思えた。
寄る辺もない荒涼としたこの世界で、
ヨーコはD・Sにとって記憶の全てを
占める唯一の、確固たる存在だった。
珠から伝わる彼女の脈動が消耗した
肉体に活力を蘇らせ、疲弊した精神を
奮い立たせる役割を果たした。

D・S:
キミは俺の大切な女だ。そして
俺に助けを求めてる……それだけは
ハッキリと判るぜ。待ってろよ。
必ず見つけだしてやるからな

ティア・ノート・ヨーコの魂を宿した
珠を手に、D・Sは歩き出した。
どこを目指すべきなのかも判らぬまま、
しかし彼女を求める強い意志を秘めて。
海からの風も、もはや彼の肉体から
湧き上がる熱気を奪い去ることは
できなかった。










霧の向こうに、幽かに赤い光が見えた。
それは消えかけた焚き火の、白く炭化
した流木に燻る熾火の色であった。
傍らには青年がひとり、膝を抱えて
うずくまっている。

容姿にまだ少年の面影を残した、
十代と思しき年若い剣士だった。
だが、その瞳は虚ろに霧の彼方を漂い、
身じろぎひとつしない姿からは、本来
彼に備わっているであろう陽気さが
微塵も感じられなかった。
抜け殻のような青年は、人の近づく
気配にすら反応を見せなかった。

D・S:
おい、そこの

ヴァイ:
……

D・S:
辛気くせえ小僧、聞こえねえのか?
ここはどこだか俺に教えろ

焦点の合わぬ瞳をD・Sに向け、
青年は無言で正面に視線を戻した。
口を開くのも億劫といった様子で、
ただ無気力に海を眺めている。
そのまま放置しておけば、恐らくは
息絶えるまでそこで、膝を抱えたまま
座り続けるのだろう。生きる力が
根こそぎ抜け落ちているようだった。

D・S:
……やい。テメエがそうしてるのは
勝手だがな、俺様には助けを待ってる
大事な大事な女がいる……んだ。多分。
くそっ、ヨーコって名前以外は……

ヴァイ:
……? ヨ……コ……?

ヨーコの名に、青年が微かに反応を
示した。瞳にわずかな光が宿り、
今度ははっきりとした意志をもって
首をD・Sに巡らせる。

D・S:
! ヨーコさんのコトが判るのか!?
おい、はっきりしやがれ!

その時だった。
懐にしまいこんでいた珠が激しく震え、
D・Sが取り出すより早く、青年の
眼前に飛び出してきた。

青年の曇った瞳に、珠の輝きが映る。
瞳孔が一度見開かれ、そして彼は
弾かれたように身を乗り出した。

ヴァイ:
……ヨーコ?
ヨーコ、ヨーコか!?

D・S:
おっと……コラ! その小汚い手で
触ろうなんて考えるんじゃねえ!
そもそもテメエ馴れ馴れしいぞ。
俺の女を呼び捨てたあ何事だ

ヴァイ:
俺の女ぁ? 何言ってやがる!
いいか、ヨーコってのはな、まだ
恋人とは呼べないけど、近い将来必ず
そうなる予定の俺の……あれ?

完全に生気を取り戻した様子の青年は、
そこではたと口ごもった。そして、
眉を寄せたまま考え込み始める。

ヴァイ:
うーん……

D・S:
何がうーんだ。テキトーなこと
抜かしやがって。大体テメエはどこの
誰だ? 何でヨーコさんを知ってる?
それからここはどこだ?

ヴァイ:
……ちょっと待ってくれよ。ここは
どこだだの、ヨーコの名前以外はだの、
もしかしてアンタも……記憶が
ないのか?

D・S:
おうよ……!?
おい、アンタもって、
まさかテメエも……

ヴァイ:
ヴァイってんだ。ああ、自分の名の
他は何にも記憶がないんだ。目が
覚めたらここにいて、座り込んでたら
どんどん気力がなくなっちまって……

ヴァイ:
それが、その珠を見た途端にパッと
ヨーコのことだけ頭に蘇ったんだ。
アンタ……いや、名前は思い出せるぜ。
D・S……そうだよな?

D・S:
ヴァイ……どうも聞き覚えがあるぜ。
どうやら俺たちは知った仲らしいな。
で、それが二人とも偶然記憶を失って、
このへんぴな場所で目覚めた、と

D・S:
……そんな偶然があるとは思えねえ。
こりゃあ何者かに記憶を消されたと
考えるのが妥当だな

ヴァイ:
! 何者って誰だよ?

D・S:
……ひとつ思い出した。ヴァイって
野郎は確かバカだ

ヴァイ:
何で!

D・S:
だから記憶がねえのに、それを
消した相手が判るワケねーだろうが!

ヴァイ:
何となく俺とアンタは、仲悪かった
ような気がしてきた

D・S:
言っとくけどな、ヨーコさんは
間違いなく、現在進行形で俺様の女だ。
近い将来も遠い将来もテメエの恋人に
なんざなるこたあねーぜ

ヴァイ:
何だとお!?

D・S:
ま、ともかく俺は行くぜ。どこかで
ヨーコさんが待ってるって、そう
珠から伝わってきた。記憶なんざ
ヨーコさんに会えばもどるだろうぜ

ヴァイ:
待てよ! 俺も行く! イヤだって
言ってもついてくからな! アンタに
ヨーコは任せられねえ!

D・S:
ふん……勝手にしやがれ

その時だった。暖かな光が、D・Sの
掌に浮かぶヨーコ玉から広がり始めた。
それは、限界まで消耗しきった肉体に
瞬時に活力を注ぎ込む。

D・S:
癒しの術か。ああ……ヨーコさん、
俺への愛ゆえに、だね

ヴァイ:
おーい。俺も癒されてるぞ

聖玉が放つ治療の法力は、無尽蔵に
使えるものではなさそうだった。器に
大きさに応じた水しかすくえぬように、
玉が蓄えておける癒しの力も限られて
いる。ヨーコ本体から送られてくる
念を補充しない限り、消費した法力の
回復は見込めないようであった。










海面を隔てて、座礁していると思しき
船が見てとれた。船首に龍を象った
その船は、外部に大きな損傷はなく、
波風に侵食された様子もなかった。
暗礁に乗り上げたのはごく最近の
ことであるらしい。

船までの距離はそう遠くなかったが、
肌を刺す寒風と渦巻く海を思えば、
泳いで渡ろうなどという考えは
起こりようはずもなかった。

ヴァイ:
俺たち、あの船で辿り着いたのかな

D・S:
……いや、違うな

ヴァイ:
だって記憶がないんだろ?

D・S:
勘だな。俺もテメエも、海から
来たんじゃねえような気がする

D・S:
それにあの船――竜船とでも呼ぶか。
あれはどうにも異質に感じる。敵って
ワケじゃねえが、俺が属している
ものでもねえ

ヴァイ:
ふーん? ま、どっちにしても
このままじゃああそこには行けそうも
ないな

ヴァイ:
……! おいD・S、下を見てみろよ!

浅瀬に引っかかるようにして、小さな
舟が岩壁の下で波に洗われていた。
恐らくは竜船に装備された救命艇が
外れ、ここに打ち寄せられたのだろう。

D・S:
さっきまでは流れ着いてなかったんだ
がな、こんな舟――

ヴァイ:
これがありゃあ――

D・S:
沖に出てみようってんならひとりで
行けよ。荒れた外海に出た途端、こん
な小舟はバラバラになるぜ

ヴァイ:
い、いや、そんなこと考えてないっ!
俺のことバカだと思ってんだろ!

D・S:
だから思ってるって

D・S:
とにかく、これで竜船までは渡れるっ
てワケだ。早速行ってみようぜ

小舟は逆巻く波に翻弄されながらも、
予想外にしっかりと、難破船までの
短い航路を渡ってのけた。
近くから見ると、船体には傷ひとつ
ついていないことが判る。まるで
この瞬間に進水した新造船のような、
海の旅を経たとは思えぬほど真新しい
外観であった。

D・S:
気味が悪いほど新しいな、この船は

ヴァイ:
幽霊とかが出てきそうになくって
いいじゃんか。中も調べてみようぜ

D・S:
幽霊ね……もっとイヤなものだって
いるかも知れないんだぜ――



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最終更新:2020年10月31日 21:05