邪気眼を持たぬものには分からぬ話 まとめ @ ウィキ

ミネルヴァの梟 5.

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jyakiganmatome

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ミネルヴァの梟 

5. 第五夜


    ◆◇◆


 3階部分まで登った所で、怪物の攻撃は止んだ。この高さまでは、流石に瓦礫も投げつけられなかったらしい。だけど同時に、私の身体の方も、何とか動いているような状態だった。血を流しすぎたせいか、どんなに激しく呼吸をしても、全然息苦しさが無くならない。血は酸素を運んでいるって、いつか保険の授業で習った事を思い出す。
 全身が痛い。皮が剥けて、肉が切れて、骨が折れてる。もうぼろぼろだった。左の足の感覚が無いのは痛みのせいか、それともどこかの神経が切れちゃったりしてるんだろうか。これが夢じゃなかったら、私は身体障害者になっていることだろう。
 朦朧とした意識、だけど私は足を引きずりながら歩き続けた。
 目の前には、錆付いて、それでもぎりぎりと動き続ける、機械がある。
 怪物の頭を吊るしているロープ、その巻き取り機械。
「…………」
 私はずるずる足を引きずりながら、機械の前に立つ。機械は私の体の半分くらいの大きさで、歯車や、中身が丸見えだった。だけど止めるためのレバーもスイッチもついてないし、こんなに硬くちゃナイフでも壊せそうにはない。
 目線を上げると、私の目の前には、怪物の頭を支えながらぴんと張り詰めるロープがある。
 太くて毛羽立っていて、荒縄みたいなロープ。
 私はまだ何とか動く右手でぎゅっとナイフを握り締めて、そして一思いに、目の前のロープにその刃を叩き付けた。

 ぶづん、というような音が聞こえて、足元に小さな揺れが伝わる。ロープが切断されたせいで、怪物の巨体がぐらっと揺れた。怪物は異変に気が付いたみたいだけれど、あんな所からじゃどうしようもできないだろう。
 私は残り3つの巻き取り機械を目指して、ドーナツ状になった3階通路をまた歩き出す。このまま全部のロープを切って、あとは動けなくなった怪物を、下に降りて殺せばいい。

 そう思っていたら、突然、次の巻き取り機械が動き始めた。ぎりぎりぎりと嫌な音を立てて回転し始め、ロープが巻き取られる。
 怪物が、上に上がってこようとしている。
 私は走り出した。とはいっても、足を引きずりながら、今までよりも少しだけ速度が上がっただけ。だけど少しでも急がないと、このままじゃ怪物の腕の射程距離に入ってしまう。もしもそうなれば、腕で通路を壊されて、私に残されたチャンスは無くなってしまうだろう。
 足元から振動が伝わる。怪物の腕がそこまで迫っていた。そしてあと数秒というところで、私は次の巻き取り機械に到着した。
 今度は間髪居れずに、ロープにナイフを叩きつける。またぶづんという音。今度はさっきよりも大きな振動が足元に伝わった。
 ぎゃぎゃぎゃ、という音と共に、怪物が数メートル地面に下がる。どうやら半分の巻き取り機械を使えなくしたせいで、ついに機械が怪物を支えきれなくなったらしい。私はそれでもまだ速度を落とさないまま、次を目指した。

 途中で、がくんと膝が折れた。
 力が入らない。
 どんなに息を吸っても、全然酸素を取り込んでいる感じがしない。体中の痛みはもう感じられなくなってきていて、その代わり、他の感覚まで無くなって来た。
 動きたいのに、動けない。
「…………」
 声を出して自分を奮い立たせようとしても、声も出ない。
 血が出すぎたせいだろうか。
「……ぅ」

 死ぬ。
 このままじゃ死ぬ。

「……殺さなきゃ」
 折れた左手をついて、ずるりと前に前進する。もう左手の感覚はとっくに無くなっていた。

 そうだ、殺さなきゃ。
 殺せば、私は助かるんだ。
 私より先に怪物が死ねば、私は目覚める事ができる。
 この怪我も、痛みも、全部夢の出来事にすることができる。
 殺さなきゃ。
 その考えだけで、私の頭は一杯だった。
 振り絞るように呻いて、私は震える脚を無理矢理動かし、先に進みはじめる。
 殺さなきゃ。
 殺さなきゃ……


     ◆◇◆


 3本目のロープを、私は切り離した。
 するとぶづんという音の後に、今まで聞こえなかった、金属が軋み合うひどい音が聞こえはじめた。何かと思ったら、残り一台になってしまった機械が怪物の重さで引っ張られ、通路ごと外れようとする音だった。運がよかった。機械がばりばりと外れて落下し、そしてそれと一緒に怪物も地面に落ちる。
 ついに、怪物がその頭を地面に落とした。
 醜く膨れ上がった頭部はずしんと落っこちて、私の足にもその衝撃がありありと伝わった。崩れた通路の端から下を覗いて見ると、身体と腕が頭で潰れて蠢いている巨大な影が私の右眼に映った。
 だけど、
「ぅ、ぐ、ぁ」
 ついに私はその場で意識を失いそうになった。ここまで来て、とうとう私の身体の機能は壊れようとしている。
 気力はある。
 だけど、その気力に身体がもう付いていけない。
 視界は暗く狭くなって、脚は動かない。
 下では、蠢く醜い怪物。
 最後の2本がまとめて外れたせいか、今はほとんど私の真下に横たわって、その無数の目を開いてぎょろぎょろ動かしている。
 だけど、もうあそこまで降りてゆけない。
 あまりにも出血しすぎた。きっと、途中で意識を失って、そのまま死んじゃうだろう。とても2階分の高さを戻る時間は、

「あ……」

 ふと、私の頭にひとつの考えが過ぎった。
 あまりにも乱暴で危険な考え。
「……」
 私はゆっくり、数歩後ろに下がった。
 少し右にずれると、目の前には手すりが崩れて消えた空間がある。
 いくしかない。
 これしかない。

 大きく深呼吸して、私は全身全霊を篭め、そこから飛び降りた。

 空中で、私は地上に横たわる怪物の姿をはっきりと見た。
 その怪物の頭に、脚から吸い込まれるようにして落下していく。
 脚のひとつも折れるかもしれないけど、そんな事どうでもいい。
 今更何が起きようと、私はとにかくこの怪物を殺すんだ。


     ◆◇◆


 私は怪物の頭の上に、脚から落ちた
 左足が硬い怪物の皮膚に落ちて、骨が折れた。膝の下の肉が裂けて、骨が外に飛び出した。だけど痛みは驚くほどに無かった。

 そして右足は、怪物の目玉に突き刺さった。
 怪物が、この世のものとは思えない(実際この世のものじゃないけれど)叫び声を上げた。動物でも人間でもない、声というか、音。まるで深い深い穴の底で空気が渦巻いているような、そんな音が、誰も居ないショッピングセンターに響き渡った。
 暖かい。巨大な眼球を潰した右足から伝わった感触に、そんな事を考える。透明な液体と赤い血が交じり合って、そこに私の右脚が太腿まで沈んでいる。引き抜くことは難しそうだったけれど、私は構わず、そのまま右手のナイフを逆手に握りなおした。

 ナイフがずぶりと沈み込む。
 私の右脚が潰した、怪物の目玉に。
 また、絶叫が上がる。

 効いてる。
 殺せる。

 私は何度も、怪物の目玉にナイフを突き立てた。手も肘も、怪物の肉にうずまるほど深く。
 その度に絶叫が上がって、どろどろした液体には赤黒い血が混じる。
 怪物の頭の下で、その腕が、何とか逃げ出そうと暴れまわる。だけど私には届かない。怪物の顔面の全部の目玉がぎょろぎょろ動いて暴れ回り、苦しみにもがいているのがわかった。私は怪物の断末魔を聞きながら、自分の太腿がずたずたになるのも構わないまま、一心不乱にナイフを突き立て続けた。


     ◆◇◆


 いつしか、私の耳には怪物の絶叫以外の咆哮が届いてきていた。
 それはまるで首を絞められた鳥が最後に上げる断末魔みたいな、聞くに堪えない鳴き声。

 それが自分の叫び声だって気が付いたのは、怪物の叫びが段々と小さくなって、そして消えうせる瞬間だった。





     ◆◇◆




 目が覚めた。 
 私は飛び起きる。
 暫くの間、私は目覚めた事に気がつけなかった。

「…………」

 教室の床で上半身だけ起こしたまま、私はぐるりと視線を巡らせた。
 黒板。
 机。
 椅子。
 落ちた日誌とランドセル。
 右手に握り締めたナイフ。
 もうほとんど沈みかっている夕日。

 自分の身体を撫でる。
 痛みも、怪我も、何も無かった。
 残っていたのはただ、怪物に何度も突き立てた、ナイフの感触だけ。
 ナイフを手から離そうとして、右手が固まって全然離れなくて、少し困った。ようやく手から離れたナイフをシースに仕舞って立ち上がり、ランドセルを拾う。
 大きなため息が出た。

「……早く帰らなくっちゃ」

 ランドセルを背負って、誰にとも無く呟いた。日誌を拾って、倒れた椅子を元に戻した。日誌を提出しないといけないから、職員室に寄り道しよう。
 私は日誌を抱えて教室を出た。










     ◆◇◆

 槞坏光の記憶。
 数年前。
 公園のベンチに座っている槞坏光の横に、一人の女性が現れる。
 黒尽くめの服を着ている。サングラスで目は見えない。
 しかし槞坏光は何故かこの女に恐怖心を抱かない。

「こんにちは」

 女が槞坏光に声を掛ける。槞坏光は不思議そうに相手を見つめる。

「おねえさん、だれ?」

 女はその問いに答えない。
 代わりに一方的に話を始める。

「ねえ、高い所から落っこちる夢って見たことある?」

 槞坏光は少し考える。

「うん。ある。怖かった」

「うん、そう。そうだよね。
 普通は、そういうときって、びくってなって起きちゃうじゃない?
 だけどね、そういう風に高い所から落ちる夢を見て……
 そのまま目が覚めなかったときって、そのまま死んじゃうんだって」

 女は槞坏光から視線を外す。

「私ね、そう言う風に死にたいの。
 誰にも、何にも知られないまま、夢の中で死にたいの。
 それって、とっても素敵だと思わない?」

 槞坏光はその問いに答えない。
 ただ、もう一度訊いた。

「おねえさん、だれ?」

 女が槞坏光を見る。
 サングラス越しに、一方的に槞坏光の目を見つめる。



「私は、『烏』。
 これからよろしくね。『梟』さん」



 槞坏光の記憶は、ここで途絶える。





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