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ファティックとしての映画─エドウィン・S・ポーターの『大列車強盗』

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ファティックとしての映画

─エドウィン・S・ポーターの『大列車強盗』

Seibun Satow

 

「ハッハッハッハッハ、面白かったぜ」。

黒澤明『用心棒』

 

1 映画の誕生

 一九〇三年一二月一日、アメリカで、『大列車強盗(The Great Train Robbery)』が公開される。この作品のヒットから「映画」が始まる。

 しかし、それは突如として出現した事件ではない。大西洋を挟んだ二つの大陸を中心とした過去約八〇年に亘る研究・実験・開発の成果・蓄積を導きとしている。

 イギリスの学者ピーター・マーク・ロジェ(Peter Mark Roget)は、一八二四年、『動体に関する残像(Persistence of Vision with Regard to Moving Objects)』を刊行する。人間の眼はある対象を知覚したとき、それが消えた後でも、ほんのわずかの時間だけその像が残って見えていることを説き、動くものの視覚的な残像に関する原理を述べたものである。視覚において、運動は知覚されたある像が消え、その次のイメージが続く連鎖にほかならない。これが正しいのなら、残像を利用すれば、連続した絵や写真をある一定の速度で眼の前に登場させ続けると、動く映像をつくり出せることになる。

 ロジェの論文は天文学者のジョン・ハーシェル(Sir John Frederick William Herschel, 1st Baronet)や科学者のマイケル・ファラデ-(Michael Faraday)に影響を与え、さらに多くの学者や写真家などを触発し、実験的研究を促進させる。

 一八二五年、イギリス人医師ジョン・A・パリス(John A. Paris)は、光学玩具のプロトタイプである「トーマトロープ(Thaumatrope)」を考案している。これは、両面に補完し合う画像が描かれた円盤を左右の両端につけた糸で円盤を回転させると、一つの完全な絵に見えるという装置である。また、ベルギーの学者ジョゼフ・アントイネ・フェルナンド・プラトー (Joseph Antoine Ferdinand Plateau)は、一八三二年、「フェナキスティスコープ(Phenakistiscope)」を製作する。軸でとめた円形の紙の縁に連続した絵が描かれており、それを回転させると、絵が動いて見えるという発明品である。ほぼ同時期に、オーストリアのジモン・リター・フォン・シュタンプファー(Simon Ritter von Stampfer)も同様の方法を開発している。さらに、一八五三年、オーストリアのフランツ・フォン・ウハティウス(Franz von Uchatius)が円盤と幻燈の絵を結びつけ、スクリーン上に動画を映写する。その翌年、イギリスの数学者ウィリアム・・ホーマー(William George Homer)は「ゾートロープ(Zoetrope)」を創作している。これは、円筒の内側に連続した絵を順に並べ、回転させてスリットからそれを覗いて動きを見る装置である。同じ原理を用いて、一八七七年、エミール・レイノー(Charles-Émile Reynaud)が「プラクシノスコープ(Praxinoscope)」を発明し、これに改良を加え、一八九二年一〇月二八日、パリで「テアトル・オプチーク(Théâtre Optique)」として一般公開を始める。運動の位相を描いた数百枚の絵をつなぎ合わせ、一五分から二〇分程度の物語に編集したフィルムであり、初期のアニメーションの一つである。一九〇〇年頃まで続けられたが、シネマの普及によって興行としては淘汰される。

 撮影器具・装置もさまざまに発案されている。一八二二年、フランスのジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(Joseph Nicéphore Niépce)とルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacques Mande Daguerre)は協力して永続性のある写真の製作に成功し、一八三九年に「ダゲレオタイプ(Daguerreotype)」と呼ばれる銀板の実用的な写真術を開発する。翌四〇年、イギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot)がネガ=ポジによる近代的な印画法を公表する。五二年になると、動画の装置の研究で、絵に代わって写真が使用されるようになっている。六一年、アメリカの発明家コールマン・セラーズ(Coleman Sellers)が写真とゾートロープを結びつけた「キネマトスコープ(Kinematoscope)」の特許を収得する。これは、被写体に微妙に違ったポーズをとらせた一連の写真を回転する輪にとりつけ、それが動いているように見える装置である。七〇年、ヘンリー・レノ・へイル(Henry Renno Heyl)がこれを応用した「ファズマトロープ(Phasmatrope)」を一六〇〇人の観客を劇場に集め、スクリーン上で公開している。

 さらに、写真の感光速度が速くなると、静止した画像を連続的に再現して動くように見せるのではなく、実際の動きを写真に撮影する方に関心が移る。フランスの生理学者エティエンヌ=ジュール・マレー(Etienne-Jules Marey)は、一八八二年、写真銃を発明する。これはライフル銃の形状をした連続写真撮影機である。マレーは写真銃で鳥の飛翔や人物の動きの連続写真を撮って解析し、研究に利用している。その後、実用的なカメラの開発を進め、八八年、助手のジョルジュ・ドメニノ(Georges Demenÿ)とともに、「クロノフォトグラフ(Chronophotographe)」を発明する。

 一八七七年、カリフォルニア州知事リーランド・スタンフォード(Leland Stanford)は、友人と乗馬愛好家の間で長年続いてきた論争に決着をつけるべく賭けをする。「馬がギャロップ、すなわち全速力で走るときに、四本の脚が同時に地面から離れることがあるか否か」。このセントラル・パシフィック鉄道の設立者は四万ドルを然りに賭ける。彼は自説を証明し、大金を手にするために、写真家のエドワード・マイブリッジに声をかける。

 イギリスの写真家エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)は、一八五五年にアメリカ合衆国に移住し、その後、サンフランシスコで出版業界に身を置くようになる。彼を一躍有名にしたのは、一八七二年、妻の愛人を射殺したものの、裁判で無罪を勝ちとったことという出来事である。知事から依頼されたマイブリッジは、ジョン・D・アイザックス(John D. Isaacs)と共同で、ある実験装置を考案する。

 マイブリッジは、競馬場のコースに沿って電気シャッター付きの一二台のカメラを設置し、レーンを横切るように一二本の糸を張り、走る馬がそれを切るとシャッターが順次作動するメカニズムをつくりあげる。この結果を確認後、試行錯誤をして、彼はカメラを二四台に増やし、同じ実験を行っている。

 この連続写真は全速力で走る馬の姿を収めることに成功し、それにより、スタンフォード大学の創立者が賭けに勝利する。その後も、マイブリッジはシャッター装置の改良を続け、一八七七年には露光速度も二〇〇〇分の一秒まで短縮している。

 この実験の成果は新聞で大々的に報道され、大きな反響を呼ぶ。マイブリッジの友人のウォーレス・M・レヴィソン(Wallace Mark Levison)はカメラのレンズ裏のホイール上で感光板を漸進的に動かして連続写真を撮影する技術を考案し、一八八八年には、ジョージ・イーストマン(George Eastman)はセルロイドの帯状のロール・フィルムを完成させる。また、ドイツの写真家オットマール・アンシュッツ(Ottomar Anschütz)は、一八八八年、フォーカル・プレーン・シャッターの特許をドイツで取得し、一八九一年、ゾートロープを改良発展させた「電気式シュネルゼーアー(Elektrischer  Schnellseher)」を開発している。

 一八八九年、マイブリッジが自慢げに例の連続写真をある著名人に見せる。すると、彼は、早速、回転するフィルムに動く映像を写す技術を発明して見せる。この野心的な人物こそ発明王トーマス・アルヴァ・エジソン(Thomas Alva Edison)である。

 四二歳のエジソンは巻いた35mmフィルムを一定速度で進め、連続撮影が可能な写真機を考え出す。エジソン研究所の助手ウィリアム・ディクソン(William Dickson)が中心となってこの改良に取り組み、一八八九年一〇月六日、彼らはエジソンを前に最初の映写実験を行う。画面には、ディクソンが歩いて登場し、帽子を高く掲げるシーンが映し出され、蓄音機の音声がそれに合わせて、”Good morning, Mr. Edison, glad to see you back. I hope you are satisfied with the kineto-phonograph”と稀代の発明家に話しかけている。

 一八九〇年前後に、イギリスのウィリアム・フリーズ=グリーン(William Friese-Greene)など撮影機や映写機の特許を取得した発明家は少なからずいたが、商業的な成功には恵まれていない。発明のセンスはともかく、ビジネスの才覚という点では、彼らと比べて、エジソンは抜きん出ている。

 一八九一年、エジソンは活動写真の撮影機を「キネトグラフ(Kinetograph)」、映写機を「キネトスコープ(Kinetoscope)」として特許を申請する。キネトスコープは、ゾートロープのように、機械の中に映し出される映像を一人で覗きこんで見る装置である。高さ122cm・幅61cmのキネトスコープは、フィルムが内部の拡大鏡と光源の間を動き、回転シャッターによって各コマが瞬間的に見える仕組みになっている。フィルムの長さは50フィートで、画像は毎秒四八コマの速度で覗き穴の前を流れ、一三秒ほどで終わる。後に、フィルムの速度は秒速一六コマに減らされ、これがサイレント映画の標準となる。

 一八八〇年代まで、科学者の関心は主として映画撮影技術よりも写真の開発に向いていたが、エジソンはその先を見据えている。この装置の特許申請と同時に、彼はメンロパークにある研究所の敷地内に撮影スタジオ「ブラック・マリア(The Black Maria)」を建設し、短い活動写真を作製する。『床屋の風景(Barber Shop)』や『くしゃみの記録(Record of a Sneeze)』、『怪力男サンドゥ(Sandow)』といった作品を撮影したり、動物の生態、闘鶏、ボクシング、舞踊などを記録したりしている。

 実際には、エジソンではなく、ディクソンが映画に関する実験のほとんどを担当している。彼は今でも使用されている「スプロケット(Sprocket)」も考案している。これはフィルムのパーフォレーションと噛み合ってフィルムを動かす歯車である。現在では、スプロケットは「チェーンホイール」とも呼ばれ、自転車やオートバイのチェーンと組み合わせて動力を伝える歯車として知られている。また、ディクソンは、一八八九年に、初期のトーキーの製造にも成功している。自己顕示欲旺盛なエジソンは、ビジネスの世界ではありがちなことではあるが、この優秀な助手のアイデアを搾取したと言っても過言ではない。

 一八九四年四月一四日、エジソンからキネトスコープを購入した「ホランド兄弟のキネトスコープ館(The Holland Brother’s Kinetoscope Parlor)」がニューヨーク市ブロードウェイ一一五番地にオープンする。上映時間わずか一五秒程度であるが、人間や動物などの動く映像を硬貨一枚で見ることができる。中でも、一八九四年一一月一七日に公開された『コルベット対コートニーのボクシング(Corbett and Courtney Before the Kinetograph: The Corbett-Courtney Fight)』は人気を博し、これを見たさに、覗き箱の前に長蛇の列ができたと伝えられている。

 さらに、エジソンの助手のディクソン、ウッドヴィ・レーサム(Major Woodville Latham)、ジャン・リロイ(Jean-Aimé LeRoy)やユージン・ロースト(Eugene Augustin Lauste)などがカメラや映写機の一層の発展を試みるが、現在にまでつながる映写機の原理に最も寄与したのはトーマス・アーマット(Thomas I. Armot)である。彼は、一八九五年、連続する映像を停止させると、その間は映像が動いている時よりも多くの光線があたるマルタ十字型のコマ送りの装置を発明する。これには、フィルムに穴を開け、映写機の中を通過する際の負担を軽減する仕組みがとられている。

 大西洋を渡ったヨーロッパでも、キネトスコープに刺激を受けた発明が生まれる。イギリスのロバート・W・ポール(Robert William Paul)がポータブル・カメラを考案し、ドイツでは、マックス(Max Skladanowsky)とエーミール(Emil Skladanowsky)のスクラダノフスキー兄弟が「ビオスコープ(Bioskop)」を開発している。

 

2 リュミエール兄弟とメリエス

 しかし、決定的な発展はフランスで起こる。オーギュスト(Auguste Marie Louis Lumière)とルイ(Louis Jean Lumière)のリュミエール兄弟は、三色のカラー写真や義手義足の開発によりすでに名が知られていたが、それを不朽のものとするきっかけは、一八九四年に父アントワーヌ・リュミエール(Antoine Lumière)がしたアドバイスである。パリでエジソンのキネマとグラフを見たこの元肖像画家の実業家は、息子たちに映像の研究を勧める。彼らはキネトスコープを改良し、テアトル・歩チークと結びつけて、スクリーンに投影する「シネマトグラフ・リュミエール(Le cinématographe Lumière)」の特許を一八九五年二月一三日付で申請する。エジソンは、キネトスコープの特許申請の際に、スクリーンに投影するということを盛りこんでいなかったし、そもそも欧州で申請することを怠っていたため、兄弟の特許は認定される。

 エジソンが開発した段階では、スクリーンに投影するとチラついて非常に見難く、実用化を断念している。映画を軽蔑的に言う際に、チラチラするという意味の「フリッカー(Flicker)」が用いられるのは、この技術の未熟さに由来する。新世界の発明のチャンピオンがパーソナルな覗きこむ小箱型の映写装置を志向したのに対し、旧大陸の発明デュオは不特定多数で時空間を共有できるスクリーン方式を選ぶ。そのため、リュミエール兄弟が映画の産みの親との栄誉を手にする。しかし、映画に関する発明界の横綱のアイデアにも、現在まで続いているものがある。彼は、直流方式が典型であるが、新たな発明を生み出しても、その方式の普及にはつねに失敗している。映画のフィルムの幅35mmだけが現存する唯一のエジソンが提唱したスタンダードである。

 一八九五年一二月二八日、パリのキャピシーヌ大通り一四番地のレストラン「グラン・カフェ(Grand Cafe)」地階のサロン・ナンディアン(Salon Indien)、すなわちインドの間において、シネマトグラフによる一般有料試写会が開催される。この入場料一フランの上映会をもって「映画の誕生」と見なされている。ロハではないところが意義深い。映画はビジネスの面を無視してはならないというわけだ。上映されたのは、『(リュミエール)工場の出口(La sortie de l'usine Lumière à Lyon)』や『(ラ・シオタ駅への)列車の到着(L'Arrivée d'un train à la Ciotat)』、『水をかけられた撒水夫(La jardinière)』など一二本である。

 当時のカメラに搭載できるフィルムの長さは最大でも一分間程度だったため、いずれもそれ以下の非常に短い作品である。『工場の出口』はアントワーヌ・リュミエールの所有する工場の出口にカメラを設置し、昼食休憩にそこから出てくる従業員を写している。また、『列車の到着』は画面奥から列車が入ってきて停車し、乗客が降りてくる光景を撮影した作品である。列車が近づいてくるのを見た観客は驚嘆の声をあげ、逃げ出そうとしたと伝えられている。さらに、『水をかけられた撤水夫』は、水を撒く役目の撒水夫が逆に水をかけられたという滑稽な設定であり、明らかに観客を笑わせようとしている点で、史上初の喜劇映画と見なすこともできよう。

 いずれの映画もカメラは大人の眼の高さで固定され、構図は、奥行きを感じられるように、縦にとってある。小栗康平は、『映画を見る眼』において、リュミエールの映画を「目の記録」と命名している。見る行為の再現がリュミエールの映画である。

 動く映像は、実際には、存在しない。静止画像を一秒間に一六コマ連続させると、網膜の残像現象により、動いて見えるだけである。しかし、一秒間のコマ数を増やせば増やすほど自然に見えるかと言えば、そうではない。カメラには一つのレンズ、つまり一つの眼しかない。そのため、撮影したものからは奥行きが失われてしまう。カメラで撮影された映像は、それだけですでに人為的であり、二次元的である。二次元画像をどれだけ増やしてみても、三次元にはならない。眼がついていけなくなるだけだ。サイレントにおいては毎秒一六コマ、トーキーでは毎秒二四コマに落ち着いている。

 言うまでもなく、映画の成長と共に、多くの映像作家により奥行きを出す工夫が考案されている。その一つが黒澤明映画でお馴染みの望遠レンズの使用である。坂道を正面から撮っても傾斜が感じられない。ところが、望遠レンズを使うと、奥行きを圧縮できるので、遠近感をある程度感じられるようになる。ただし、これは、『用心棒』の冒頭での犬のカットのように、動いて登場してくものに焦点を合わせるのが難しく、撮影者に高い技能が要求される。また、『夢』(一九八〇)に出演したいかりや長介が回想している通り、演技者にとっても、カメラが見当たらないため、視線をどこに向ければいいのかわかりにくい。

 その後、兄弟はリュミエール協会を設立して、世界中に撮影隊を派遣し、日本を含む世界各地のさまざまな光景を映像に記録させている。

 リュミエール兄弟は映画を物珍しい科学的発明にすぎず、しばらくはもてはやされるものの、いずれ飽きられてしまうだろうと考えている。映画には未来などない。しかし、それを観賞したマジシャンで劇場経営者のジョルジュ・メリエス(Georges-Jean Méliès)は違う感想を持つ。彼は娯楽としての可能性を見出し、特許を売ってくれないかとリュミエール親子にビジネスの話を持ちかけたものの、相手にされない。そこで、イギリスから撮影機を購入し、一八九六年、自分の劇場の出し物にしようと撮影を開始する。製作、監督、脚本、俳優、美術などを一人でこなしている。

 最初は、自分自身がマジックを演じている姿を収めた『奇術の上演(L'Auberge ensorcelée)(一八九六)や『ロベール・ウーダン劇場における婦人の消滅(Escamotage d'une dame chez Robert-Houdin)(一八九六)を制作したが、九七年五月に、太陽光に左右されないため、パリ郊外に撮影スタジオを設立し、次第に、シナリオを用意したストーリー性、撮影トリックやフィルム編集を意識していく。小栗康平は、『映画を見る眼』において、メリエスが「見るという行為」ではなく、フィルム上で人工化された「見えるもの」が映画だという認識があったと言っている。物語映画を撮ったのは、メリエスが初めてではない。一八九七年、RG・ホラマン(Richard G. Hollaman)が俳優を使い、セットを組んで、三巻物の受難劇を制作している。しかし、彼はカメラ・トリックにまで気がついてはいない。リュミエール兄弟にとって映画は記録媒体であったが、メリエスには、娯楽ショーである。これは発明家とマジシャンの関心の違いに起因するだろう。手品のトリックを考え出すように、メリエスは撮影・編集の技術の開発に意欲を示す。一八九九年頃から、画期的な技術に溢れた作品を発表している。フランス陸軍将校アルフレッド・ドレフュスの審理の模様を一〇のシーンに分けて再構成した『ドレフュス事件(L'Affaire Dreyfus)』、二〇のシーンから構成された『シンデレラ(Cendrillon)』を制作している。さらに、『ジャン・ダルクJeanne d'Arc)(一八九九)、『一人オーケストラ(L'homme-orchestre)(一九〇〇)、『ゴム頭の男(L'homme à la tête de caoutchouc)(一九〇二)、『月世界旅行(Le Voyage dans la Lune)(一九〇二)、『ガリバー旅行紀(Le Voyage de Gulliver à Lilliput et chez les géants)(一九〇二)、『音楽狂(Le mélomane)(一九〇三)、『妖精たちの王国(Le royaume des fées)(一九〇三)などの傑作において、カメラ停止、二重焼き、多重露光、オーバーラップ、高速撮影、逆回転などの撮影・編集技術を編み出している。チャーリー・チャップリンをして、彼を「光の錬金術師」と賞賛しているほどである。

 メリエスに対抗すべく、他の映像表現者たちも名乗りを上げる。一九〇一年、フランスのフェルディナン・ゼッカ(Ferdinand Zecca)がリアリズム路線で、『ある犯罪の話(Histoire d'un crime)』を公開している。これは、ヴィクトル・ユーゴー一『ある犯罪者の物語(Histoire d'un crime)(一八七七─七八)を意識した作品である。しかし、いずれもファンタジックなメリエスの人気には及ばない。

 一九〇五年頃から映画は産業へと移行し、プロデューサーが作品ごとに監督や俳優などを起用するなど製作の制度化が進んでいく。内容的にも、もっと刺激的な映画が求められるようになり、メリエス作品は観客に飽きられ始める。経済的に苦境に陥ったメリエスは外部プロデューサーを迎え、『極地征服(La Conquête du pôle)(一九一二)などを撮ったものの、興行成績は芳しくなく、映画ビジネスからの撤退を決意し、所蔵する映画を焼却処分する。この残念すぎる決断もあり、メリエスの製作した映画は五〇〇本余りと見られているけれども、現存するフィルムは断片も含めて一七〇本程度である。しばらくは忘れられていたが、二五年頃から映画史家により再発見され、メリエスはレジオン・ドヌール勲章を受章している。

 メリエスの目論見を超え、映画は商売から産業へと急速に発達していく。一八九六年になると、二月にロンドンとブリュッセル、四月ベルリン、六月にはニューヨークと世界各地でスクリーンのついた映画館がオープンする。リュミエール兄弟の成功に接したエジソンも急遽方針を転換して、大型スクリーンに映像を拡大して映し出せる活動写真映写機「ヴァイタスコープ(Vitascope)」を発明し、一八九六年四月二三日、ニューヨークでお披露目を行っている。それにあわせて、エジソン社はスタジを使って劇場向けの凝った映画を製作する。映画は劇場の出し物の一つとして考えられていたため、当時の寄席芸の時間に相当する一〇〇〇フィートを一巻とするフィルムの標準的長さとなり、この規格は今日でも同じである。

 しかし、ことはすんなりとは運ばない。キネトスコープの製品化の中心メンバーだったウィリアム・ディクソンが彼の元を去り、アメリカン・ミュートスコープ&バイオグラフ社を設立している。一八九七年になって、エジソンがバイオグラフ社を特許侵害で告訴する。この訴訟は長期に及び、その間にバイオグラフ社は消耗してしまう。一九〇七年、エジソン側の言い分を認める形で決着する。

 この訴訟の最中の一九〇三年、エジソン社製作のある映画が公開され、それは映画史上初のヒット作品となる。この成功により映画の産業としての将来性が明白化する。その後、五セントのニッケル硬貨一枚で入場できる劇場の「ニッケルオデオン()Nickelodeon」がアメリカ各地に登場し、移民や労働者の格好の気晴らしの場となる。それは映画産業が今日のような巨大なビジネスへと成長していくきっかけである。

 

3 エドウィン・S・ポーター

 映画を「映画」として確立させた作品、すなわち映画がアイデンティティを獲得した作品が『大列車強盗(The Great Train Robbery)』である。ヒットがアーティストや芸人のアイデンティティにつながることがしばしばあるが、映画ではそれ以上の意味がある。淀川長治は、『淀川長治の映画塾』の中で、シネラマの宣伝の際に、それと比較するために、従来のシネマの代表として『大列車強盗』を上映をしたと語っている。この作品は一八九六年に初演されたスコット・マーブル(Scott Marble)のメロドラマ『大列車強盗』をモチーフにしているが、筈見恒夫が『写真映画百年史』において「舞台劇を脱した最初の映画」と言っているように、原作を凌駕している。このわずか一二分一六カット一巻の映画が歴史を変える。監督・撮影はエジソンのカメラマンを務めていたエドウィン・S・ポーター(Edwin Stanton Porter)である。出演者には、ジュスダス・D・バーンズ(Justus D. Barnes)ブロンコ・ビリー・アンダーソン(Gilbert M. 'Broncho Billy' Anderson)AC・エイバディ(A. C. Abadie) などがいたけれども、クレジットはない。

 『大列車強盗』は次の一六カットから構成されている。

 

一 『大列車強盗(The Great Train Robbery)』のタイトル。

二 強盗たちが駅舎を襲撃。強盗は画面左から右へ、駅員は右から左へ発砲。

三 列車に侵入。列車は右から左へ移動。

四 貨物車内で銃撃戦。強盗は左から右へ、乗務員は右から左へ発砲。

五 機関車へ乱入。強盗は画面下から上へ移動し、次々に乗務員を始末。

六 機関車を停止させ、貨車を切り離し。貨車は右から左へ移動。

七 乗客乗員を列車から降ろし、金品を強奪。右から左へ逃げようとする紳士を射殺。

八 機関車を奪い、逃走。右から左へ移動。

九 汽車を捨てて、逃走。パンとティルトを混ぜ合わせ使い、逃げていく強盗をカメラが追跡。

一〇 金を持った強盗たちが川の向こう岸へ渡るため、入水。パンで逃げる方向が提示。

一一 少女が駅で縛られている駅員を発見。

一二 ダンス・パーティを楽しんでいた保安官たちに事件が伝えられ、捜査開始。

一三 画面上から下に向かって、馬に乗って追跡をしていると、強盗団とはぐれた犯人一人と遭遇し、射殺。

一四 逃げおおせたと油断している強盗団を保安官たちが画面上から下に向かって     包囲。追っ手に気づいた強盗団との銃撃戦。強盗一味は全滅。

一五 タフさを誇らしげにした保安官のクローズ・アップ、暗転。

一六 死んだはずの強盗の首領が一人登場。スクリーンを見ている観客に向けて、拳銃を6発発砲し、弾がきれてからも、なお引き金を引き続ける。

 

 この映画には、後に映画で定番の手法となるいくつかの技法が盛りこまれている。特に、サイズやアングルを含めたカメラ・ワークが巧みである。カットバックやロケーション撮影、パンやティルトのカメラ・ワーク、縦構図での奥行き、斜め構図による不安感・不安定の表現、登場人物の動く向きを暗示させる仮想方向の設定、画面外での出来事を想像させるオフスクリーン、フレーム・バイ・フレームなど意欲的に導入している。

 特に、第九カットはワンシーン・ワンカットのカメラ・ワークによって構成され、ティルトやパンが印象的である。「ティルト(Tilt)」はカメラを上下に振って撮影することを指し、概して、高さのあるものの撮影や動きの追尾に使われる。他方、「パン(pan)」はカメラを左右に振って撮影する技法であり、通常は右か左に振る。広角で風景を撮る、もしくは動きを追うときに用いられる。いずれも再フレーミングのテクニックとしてもよく利用される。このカットは、こうした技法もあり、非常にスリリングで、映画内の最大の見せ場である。

 けれども、こういった新技法の考案がこの映画の画期性ではない。メリエスの映画と違って、撮影テクニックにあまり気がとられない。言うまでもなく、視覚の認知には、「見る」や「見える」だけでなく、「見ようとする」も含まれる。技法はこの見ようとすることによって認識されるが、ポーターの場合、それを意識していない一般の観客にとっては問題ではない。メリエス作品では真の主役が撮影トリックであるとすると、ポーターにおいては、第九カットが端的に示している通り、スリルとサスペンスである。ポーターは、新聞の漫画を映画化した『あるレアビット狂の夢(Dream of a Rarebit Fiend)』(一九〇六)において、メリエスばりのトリックが用いられている。ポーターは、リュミエール兄弟やメリエスなど先人たちの功績を踏まえている。その上で、彼はテンポのいいストーリー展開、スピード感溢れる逃亡と追跡、派手な銃撃戦などにより、観客をかつてないほどハラハラドキドキさせることをスクリーンに具現している。

 ポーターがハラハラドキドキ感を意識していたことは、前作の『アメリカ消防夫の生活(The Life of an American Fireman)』(一九〇二)でも明らかである。これは消防隊による火事現場での救出を描いたドキュメンタリー・タッチの作品である。ポーターは実際の消防隊の出動の記録映画に撮影したシーンを加えている。ジェームズ・ウィリアムソン(James Robert Williamson)によるイギリス映画『火事だ!(Fire!)』(一九〇一)に影響を受けたと見られている。

 ウィリアムソンはブライトン派を代表する映像作家である。一九〇〇年頃、英仏海峡に面したブライトンを拠点として写真家などが映画を撮影し始め、彼らは「ブライトン派(Brighton School)」と呼ばれている。モンタージュ手法を得意とするウィリアムソンのほかに、全景ショットとクローズ・アップ・ショットの交互の入れ替えを発案したGA・スミス(George Albert Smith)がよく知られている。彼らは技法だけでなく、社会的主題を映画に取り入れた点でも、ポーターを含めた後世に影響を与えている。

 『アメリカ消防夫の生活』は次のような映画である。ある消防夫が家族のことを考えていると、そこに火事の発生が告げられ、消防夫たちは馬車で現場に急行する。一人の消防夫が建物に入り、煙にまかれて倒れてしまった女性と子供を部屋の窓から助け出し、別の消防夫たちが消火活動を行う。この映画の現代版がオリバー・ストーン監督の『ワールド・トレード・センター(World Trade Center)(二〇〇六)である。

 ただし、この救出のシーンは、現在の常識的な編集から見ると、いささか奇妙である。まず、カメラは建物の内側にあり、外から入ってくる消防夫が部屋の中の母子を救出するシーンを映し出している。それが終わると、同じ救出が建物の外のカメラからのシーンが始まる。時間軸に沿って内側と外側が交互に入れ替わりながら映されていない。

 なお、これは最初の公開のヴァージョンであって、後に再編集された版では構成や内容が異なっている。

 このスリルとサスペンスは現代におけるカタルシスと言えるだろう。しかし、これはアリストテレス的とも、精神分析的とも異なっている。

 「カタルシス(Κάθαρσις)」は、ギリシア語で、「浄化」や「排泄」を意味し、ディオニュソス信仰に基礎を置くオルゲウス教に起源を持っている。彼らは、地上で肉体に閉じこめられた人間が、オルフェウスの奏でる天上の音楽によって、その魂が浄化されると説く。ピタゴラスはこれを受け、音楽=数学と捉え、数をアルケーとしている。一方、ヒポクラテスは、血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁という体内の四液の調和を重んじ、病的体液の排除、すなわち体内にたまった汚物の体外への排泄としてカタルシスを理解している。

 それらを踏襲し、アリストテレスは、『詩学』において、カタルシスを精神的な浄化と読み替える。ミメーシスの最高形態として悲劇を挙げ、それを観賞した観客の間にカタルシスが起きると述べている。悲劇には、(英雄であるからこそこうした苦悩に直面しなければならないのだという)正当さへの共感と(なぜ英雄がこんな目にあわなくてはならないのかという)不当さへの憐れみの相反する組み合わせがある。この感情の高まりと共に、鬱積していた情緒が発散され、魂が浄化される。アリストテレスはこの作用をカタルシスと呼ぶ。閉じこめられ、鬱屈とした感情解放するために、演劇空間は非日常的な場であることが保障され、そこで演じられるものには、現実空間よりもはるかに広い許容範囲のルールがなければならない。

 精神分析はこの考えを心理療法へと移動させる。抑圧された病的情動のしこりを想起・再体験することで、それを解放していく除反応をカタルシスと呼んでいる。現在では、精神分析だけでなく、心理面接や芸術療法、遊戯療法、自律訓練法、レクリエーション療法などもカタルシス効果の意義を認めている。

 ポーター映画のもたらすカタルシスは個人的と言うよりも、集団的である。それは劇場の中で、不特定多数で時空間を共有するからだけではない。神の死に基づく近代では、「大道徳」に代わって、テーオドール・W・アドルノが指摘するように、「小道徳」が支配的となる。これは共同体を強力に結び付けていく規範の弱体化をも意味する。人々は、その都度、モラル・ジレンマの中で判断していかなければならない。はっきりしない道徳による集団の中で生活をするといいうのはストレスとなる。こうした曖昧な倫理との誰もが直面している摩擦・葛藤では、かつてのような悲劇は困難である。しかし、古代アテナイの市民以上に、現代人には集団生活に伴うストレスが鬱積している。新たな社会のつながりを確認しつつ、カタルシスを感受することが求められる。映画世界は、カメラによる撮影とフィルムの編集のため、演劇以上に、非日常的であり、カタルシス効果の場としての条件を満たしている。ポーターは映画の持つそうしたカタルシス効果を引き出す。

 このカタルシスには「グルーミング(Grooming)」の効果がある。集団生活する動物は、ストレス解消のために、グルーミングを行う。サルであれば、それは毛づくろいである。各種の研究によれば、社会集団の大きさに比例して、グルーミングに費やされる時間も増加する。サルは不特定多数ではなく、家族であるとか、親しいものであるとかいつも決まったパートナーとの間で毛づくろいをし合う。このグルーミング仲間では、餌を見つけたり、敵が近づいてきたりした際に、合図を出し合っている。利他的行為はグルーミングが成立している間柄でなされるのであり、グルーミングは友好的な関係を形成・維持するための行為である。人間の現代社会の規模はサルの集団とは比較にならないほど巨大で、複雑に入り組んでいる。一対一の毛づくろいではストレスを発散するには不十分である。しかし、その反面、多種多様なコミュニケーションの方法も持っている。映画もその一つである。

 近代は人の移動がかつてないほど促進した時代である。欧州の農村の余剰人口は都市を目指す。そこは国内に限らない。伝統的な共同体は崩れ、新たな共同体が形成されていく。アメリカはまさにその最前線である。新大陸には、東アジアからの移民も急増している。一九世紀末の合衆国の社会は対立・混乱し、二〇世紀を迎えると、こうした危機の再来を招かないための新秩序の構築が政治的課題となっている。ウィリアム・マッキンレー(William McKinley)の暗殺死に伴い、四二歳のセオドア・ローズヴェルト(Theodore Roosevelt, Jr)が大統領に就任し、世論の「革新主義(Progressive Movement)」の声に押され、社会の改革を全米に誓う。素朴な社会ダーウィニズムやレッセフェールへの批判も高まり、「マックレーカーズ(Muckrakers)」と呼ばれるジャーナリストたちが企業の横暴や政治家の腐敗、都市住民の置かれた劣悪な環境を暴露し、社会の衝撃を与える。同時に、科学が明るい未来を約束しているという展望が信じられ、急激に科学技術の発展とその応用が促進している。一九〇二年にウィルバー(Wilbur Wright)とオーヴィル(Orville Wright)のライト兄弟が初飛行に成功し、ヘンリー・フォード(Henry Ford)が自動車会社を設立したのは、ほんの一例である。その一方で、「棍棒外交(Big Stick Diplomacy)」で知られるこの若き大統領は中南米・カリブ海諸国はアメリカの裏庭と考え、海外進出に積極的に臨み、アメリカは帝国主義の道を歩んでいく。ポーターが映画を撮影していたのはこういうグルーミングの求められていた時代である。

 いずれの映画にもカタルシスはあるものの、『アメリカ消防夫の生活』と『大列車強盗』はスリルとサスペンスという点では共通しているが、大きな違いがある。前者の主人公が消防夫というヒーローであるのに対し、後者では、悪党の列車強盗団だという点である。しかも、警官もいささかマヌケに描かれている。ただ、たんに悪人が警官隊に撃ち殺されるだけならば、勧善懲悪にすぎない。しかし、最後のシーンによりこの作品からメッセージ性が消えてしまう。観客に銃を向けると観客は悲鳴をあげたけれども、それが映画だと思い出し、すなわちカタルシスのための現実を離れた非日常性を再確認し、思わず笑ったと伝えられている。『大列車強盗』にはグルーミング効果のカタルシスがあるだけで、メッセージ性がない。

 

4 ファティックとは何か

 『大列車強盗』は「ファティック(Phatic)」だと言うことができよう。観客は「ファティック・コミュニケーション(Phatic Communication)」によって覚えたカタルシスがグルーミングと感じられる。

 「交語」とも訳されるファティックは、特にメッセージ性がないけれども、発することにより送信者と受信者の間につながりとつくり、強める言語の機能である。自己を表現するためでも、情報を伝達するためのものでもない。「あいさつは、その代表的なものであって、人間同士の結びつきを作り、社会を作り出す。会っておきながらあいさつをしないと、その人との関係が切れていく。あいさつをするからといって、それだけで関係が深まるわけではない。『おはよう』などのあいさつは、一度できた社会的な関係を維持するという働きをする」(金田一秀穂『新しい日本語の予習法』)。他にも、友人や恋人、家族とのおしゃべりもファティックに含まれる。それらは伝えるべきメッセージ性に乏しく、生産的・建設的内容でもない。それは発すること自体に意味がある。ファティックは関係性をつくり、強め、グルーミングの機能を持っている。

 実際、ポーターはファティックの持つ役割を意識している。彼は『鉄道のロマンス(A Romance of Rail)』(一九〇三)という映画も製作している。これは、駅で出会った男女が二人で旅に出発し、列車の中で結婚式を挙げるという物語である。ポーターはファティックから関係が始まり、それが深まっていく過程を映像化している。

 映画観賞後、流行のレストランで恋人同士が次のよう会話をしているとしたら、それはファティックである。

 

「さっきの映画、面白かったね」

「そうだね」

「最後のシーン、びっくりしちゃった」

「ほんと、意外だったよね」

 

 この会話には、これと言った内容がない。お互いの関係を確かめるために交わされているのであって、行為自体に意義がある。この会話に潜在している意味を顕在化させれば、次のようになるだろう。

 

「あなたが好きよ」

「ぼくもさ」

「あなたが好きよ」

「ぼくもさ」

 

 しかし、こういった他愛のない会話を「あああ、聞いてらんねえや」と軽視すべきではない。なごやか笑い声がし、食器の音が微かに響き、ウェーターが丁寧に応対している雰囲気のレストランで、カップルが無言でいたり、深刻に言い合っていたりしている方が本人たちだけでなく、周囲も気まずい。こうしたファティック・コミュニケーションにはグルーミング効果がある。ファティックこそが言葉の起源という学説もあるほどだ。「ことばはコミュニケーションの道具である、とよく言う。しかし、ことばは情報伝達の道具というだけではすまされない。ことばの起源を見た人はどこにもいないのだから、あくまでも仮説にすぎないけれど、ことばがお互いに仲良くする目的のために生まれたのだという考え方は、ちょっと魅力的だと思う」(『新しい日本語の予習法』)

 『大列車強盗』の最後のシーンからは「心配すんなよ。映画じゃねえか。でも、面白かったろう?」というポーター監督の声が聞こえてきそうだ。これは、明らかに、ファティックである。ファティック・コミュニケーションが成り立つ関係になったということは、映画が社会的に認知されたのを意味する。このシーンを契機に映画は社会に浸透していく。

 

5 ファティック映画の系譜

 観客層を拡大、世界規模の産業と成長し、高い芸術性を獲得しながらも、以降、社会や映画界にグルーミングを必要とするとき、ファティック映画が登場している。

 一九六〇年代後半、ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカは分裂の危機に陥る。そんな頃、アンチヒーローを主人公として、最後に、シニカルさを排しつつ、悲惨な末路で終わる『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)』や『ワイルド・バンチ(The Wild Bunch)(一九六九)、『明日に向かって撃て!(Butch Cassidy and The Sundance Kid)』(一九六九)などの映画が流行する。これはファティック・フィルムであり、人々は映画にグルーミングを求めている。

 また、一九九四年度のアカデミー賞では、インディーズ系のクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション(Pulp Fiction)』が七部門にノミネートされる。これは登場人物が薬の売人やら殺し屋やら賭けボクサーやら悪人だらけで、特に伝わってくるメッセージがないファティック・フィルムである。それは大手映画会社の映画が行き詰まりを見せる中、その状況を打開すべく、映画界が原点を振り返ろうとした動きである。

 数あるファティック映画の中にあって、黒澤明監督の『用心棒』(一九六一)はファティックが映画の原点であることを最も理解し、それを体現している傑作である。棒きれを放り投げていく先を決めて宿場町にやってきた桑畑三十郎は抗争を続ける二組のやくざ連中をまとめてぶっ潰すが、義憤に駆られてと言うよりも、面白そうだからそうしたにすぎない。大暴れした後、桑畑三十郎は刀を抜き、切る真似をして、居酒屋の権爺たちに次のように言って去っていく。

 

「あばよ」。

 

 ファティック・フィルムがファティックによって閉じる。これこそ映画のアイデンティティを知り尽くした映画である。

 映画は近代の産物である。それは光学や力学、化学、電磁気学によって生み出されている。農村や異国から集まってきた新しい住民により都市は構成され、変貌を遂げ、新たなストレスに満ちている。映画はそんな社会におけるグルーミング効果のファティックとして最もふさわしい。『大列車強盗』はその原点にほかならない。

 

 

 このヒットの後、ポーターは業界で一目置かれるようになる。もっとも、映画はまだまだ舞台に比べて低級と思われ、大部分の作品は、ニッケルオデオンで数日上映されたらおしまいという具合に、使い捨てされているのが現状である。それを変えることにポーターは間接的にかかわる。彼は、一九〇七年、訪れてきた脚本家志望の青年を『鷲の巣より救われて(Rescued from an Eagle's Nest)』に出演させている。この若者が後に『国民の創生(The Birth of Nation)』の監督で知られるDW・グリフィス(David Llewelyn Wark Griffith)であり、これが映画界との最初のつながりである。この「映画の父(Father of Film)」を映画界にデビューさせたというのも彼の功績の一つである。ポーターは、一九〇九年にエジソン社を去り、一五年まで草創期の映画界で監督業など現場にかかわり続ける。えげつなさで知られる業界人アドルフ・ズーカー(AAdolph Zukor)とも手を組んでいた時期がある。一七年、ビジネス界へ転進し、AV精密機器の会社の社長に就任するなどしている。

 エドウィンS・・ポーターは、一九四一年四月三〇日、ニューヨークのホテル・タフトで七一年間の生涯の幕を閉じる。翌日のニューヨーク・タイムズ紙に、次のような彼の死亡記事が掲載されている。

 

 "Edwin S. Porter. Pioneer in Films. Collaborator With Edison on Invention of Motion-Picture Camera Dies in Hotel. Once Partner of Zukor. Ex-Head of Simplex Projector Company Was Producer of 'Great Train Robbery'".

〈了〉

 

参考文献

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岡田晋、『映画の誕生物語 パリ・1900年』、美術出版社、一九八〇年

小川徹、『私説アメリカ映画史』、三一書房、一九七三年

小栗康平、『映画を見る眼』、日本放送出版協会、二〇〇五年

紀平英作、『改訂版アメリカの歴史』、放送大学教育振興会、二〇〇〇年

金田一秀穂、『ふしぎ日本語セミナー』、生活人新書、二〇〇六年

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佐藤忠男、『世界映画史』上、第三文明社、一九九五年

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村山匡一郎、『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ 』、フィルムアート社、二〇〇三年

淀川長治、『淀川長治の映画塾』、講談社文庫、一九九五年

四方田犬彦、『映画史への招待』、岩波書店、一九九八年

筈見恒夫、『写真映画百年史』12巻、鱒書房、一九五三─五四年

 

テーオドール・W・アドルノ、『ミニマ・モラリア』、 三光長治訳、法政大学出版局、一九七九年

アンリ・エレンベルガー、『無意識の発見』上下、木村敏訳、弘文堂、一九八〇年

G・サドゥール、『世界映画史1 第二版』、丸尾定訳、みすず書房、一九八〇年

G・サドゥール、『世界映画史2』、丸尾定訳、みすず書房、一九九四年

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スティーヴ・ブランドフォード他、『フィルム・スタディーズ事典―映画・映像用語のすべて』、杉野健太郎訳、フィルムアート社、二〇〇四年

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DVDNHKスペシャル 映像の世紀 SPECIAL BOX』、NHKエンタープライズ、二〇〇五年

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