観念論


概説

観念論(idealism)という語は実に多義的であるが、通俗的な意味においては、観念的なものを物質的なものに優先する立場を観念論といい、唯物論に対立する用語として使われる。なお「観念論者(idealist)」の語を最初に用いたのはライプニッツである。

しかし哲学用語としての観念論は、歴史的に以下のような二つの対極的な立場で使われている。

(1)人間が直接経験できないものが実在し、それがわれわれの認識を成り立たせているとする思弁的な立場。プラトンのイデア主義に起源をもつ。新プラトン主義のプロティノスや大陸合理論スピノザライプニッツを経て、イマヌエル・カントの超越論的観念論を近代の転換点とする。超越論的観念論はフィヒテやシェリングなどを経由し、ヘーゲルによってドイツ観念論として一応の完成を見た。ヘーゲル左派のフォイエルバッハ、その思想を継承するカール・マルクスやレーニンは唯物論者であるものの、人間が直接経験できない「物質」を実在するものと措定しているため、このタイプの観念論の系統の哲学者である。彼らの「弁証法的唯物論」の基本構成は、ヘーゲルの弁証法における「精神」を「物質」に置き換えたものである。

(2)人間が直接経験できる感覚や観念だけが実在している、または直接経験できないものを語ることは無意味であるとする経験主義的立場。ジョージ・バークリーに始まる。バークリーの観念論はデイヴィッド・ヒュームに継承され、そのヒュームにおいては人間が直接経験できない「自我」の存在も否定された(自我は感覚を対象化する作用であり、自らは対象化されないからである)。英国経験論の方法論は、オーギュスト・コントの実証主義に影響を受けたエルンスト・マッハの「新実証主義」に継承される。マッハの思想は「現代経験主義」とも呼ばれ、またマッハ以降は形而上学的含意のある「観念論」とは呼ばず「現象主義」と呼ぶのが一般的である。なおマッハの影響を強く受けて発足したウィーン学団の、ルドルフ・カルナップたちから始まる「論理実証主義(Logical positivism)」という思想運動は「論理経験主義(Logical Empiricism)」とも呼ばれ、その思想運動に大きな影響を与えたバートランド・ラッセルウィトゲンシュタインもマッハ思想の後継者である。

観念論に対する批判

心の哲学において、観念論はしばしば唯心論と同じ意味で使われるが、唯心論とはバークリーのタイプの観念論に限られる。また現象主義も観念論と同一視されることがあるが、現象主義とは経験主義的な方法論であって、形而上学的含意がないのが一般的である。

唯物論や物理主義の立場から二元論の立場を批判する際に、観念論は一種の蔑称のような意味で使われる。特にマルクス主義に影響を受けた学者にはその傾向が強い。これはマッハが現象主義の立場から「唯物論は非科学的で時代遅れの形而上学である」と批判し、それに対してレーニンがマルクスの弁証法的唯物論を擁護する立場から、マッハを「バークリーの焼き直しの主観的観念論者である」と批判したことに端を発する。マルクス主義哲学者であった森宏一などは、論理実証主義の系統にある分析哲学でさえ、「マッハ主義を源流のひとつとしている現代ブルジョア哲学の主流」と語っている(森宏一編集『哲学辞典』青木書店)。

各種の観念論


超越論的観念論

超越論的観念論(独:transzendentaler Idealismus 先験的観念論ともいう)はカントの哲学的な立場をいう。カントは生得観念を認めるデカルトやライプニッツの大陸合理論と、生得観念を否定するロックやバークリーの英国経験論を総合した。カントによれば、人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリにそなわっている。感性には純粋直観である空間と時間が、悟性には量、質、関係、様相の純粋悟性概念(カテゴリー)が含まれる。人間は先験的に与えられたその二種の形式(感性と悟性)にしたがってのみ物事を認識する。

人間のアプリオリな認識の諸形式に従って構成された物質的世界としての自然は、客観的妥当性をもつ「現象」とみなし、「現象」の背後に「物自体」を想定し、「超越論的観念論は経験的実在論にほかならない」とする。このカントの哲学は後の観念論に大きな影響を与える。

※カントのカテゴリー論については以下のページが詳しい。
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card2851.html

超越論的観念論はフィヒテやシェリングにも見られるが、その場合には実在論的性格が払拭されている。

ドイツ観念論

ドイツ観念論者と総称されている思想家は多いが、その内容は思想家によって様々に異なる。しかしイマヌエル・カントの批判哲学を出発点として「自我」や「精神」などの心的なもの、その根底として神または絶対者と呼ばれる観念的原理を置き、その原理の自己展開として世界および人間を捉え、説明しようとする立場の哲学であるという点では一致しているといえる。
  • J・G・フィヒテの著作『知識学』は形而上学と認識論の綜合である。フィヒテは観念論的形而上学を作り出すことによって知識の限界も定めようとした。認識するものであると同時にもっとも十全に実在している者とは、主観的意識である。自我は根本的に自発性をもち、その活動をとおして己を意識していく。自我が経験世界に「位置を占める」ことで、「自我:非我」「自己:世界」の区別が生じる。我々が日々相対している世界とは諸事物が時空間に連続している世界である。しかしこうした世界は自我の経験から構成されてくるのである。客観的世界とみなされているものは、実は主観によって知的に構成された世界であると彼はいう。このことからフィフィテの観念論は「主観的観念論」と呼ばれる。そう名づけたのはヘーゲルである。
  • シェリングは、デカルト的二元論ないし分離論は、人工的・非現実的な考えであり、自分の「絶対的観念論」ははこれを統合・克服する思想であるという。「対象:知覚」「自己:世界」といった明確な二分法があるわけではなく、それらの区別はみな意識の反省によって生み出されるのであり、精神的で統一的な全体の視点から眺めてこそ、それらを本当に理解できる。人は反省によって二元論の幻想を生み出しているという。ゆえにシェリングは反省を精神の病ととみなし、そして自分の「同一哲学」によって、対立物が相互依存していることを明かし、日常的思考から生じるさまざまな対立を取り除こうとした。こうした、特に二元論を克服するのは世界精神であるというシェリングの考えは、ヘーゲルの思想の多くを先取りしている。
  • ヘーゲルは、デカルト的な二元論を批判した。ひとたび心身二元論を認めてしまえば、心身の相互作用の説明が困難だからである。よって二つの実体が存在するのを否定する。「物質的なものと非物質的なものとの区別は、根本的な両者の統一をもとにしてはじめて説明しうる(『精神の哲学』)」という。これは異なった性質の心身が実は一つの実体の二側面だという中立一元論的な考えである。ヘーゲルにとってその根本的な実在は精神的なものである。バークリーの唯心論との違いは、心的なものと物理的なものが精神という新たな綜合において存在しているという見方であり、これがヘーゲルの「絶対的観念論」である。

イギリスの観念論

  • ジョン・ロックは、対象を知り理解するという我々の認識作用の一切を、経験によって得られた観念の結合によって説明する。たとえば、「この水は冷たい」という認識は、経験から得られた「この水」という単純観念と「冷たい」という単純観念とが結合したもの(複合観念)である。認識と単純観念や複合観念との関係は、文章と文字や単語との関係のようなものである。ここから、我々の認識は経験の範囲を越えないという帰結が出てくる。なおロックは「観念」という語を、「感覚」「思考」「概念」「心象」など、広い意味で使っていたことに留意する必要がある。しかしロックは、我々に経験をもたらす物理的な対象が存在すると仮定していたため、純粋な観念論者ではなく二元論の立場であった。そして物理対象は一定の時空を占め、運動可能である性質を「一次性質」と呼び、物質が我々に色・味・音・匂いなどを経験させる性質を「二次性質」と呼んだ。このロックの分類を批判して、バークリーは観念論を徹底させることになる。
  • ジョージ・バークリーは物質の実在性を否定し、「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)という基本原則の主観的観念論を提唱した。この世界に実在するのは心的なものだけであり、物質的なものはそこから派生した見せ掛けの存在にすぎない。彼においては世界とは観念である。たとえば私が机を叩いてその硬さを認識したつもりでも、実は「机の硬さ」ではなく「硬いという感覚」を認識しているわけである。眼で机を見たとしても同様であり、私は決して「机自体」を認識することにはならない。人間は感覚と思考という現象以外のものを認識することは決してない――このバークリーの結論から哲学史において現象主義実在論批判が始まることになる。
19世紀の終わりごろにはドイツ観念論、とくにヘーゲルに影響を受けた思想家たちによってイギリス哲学は席巻されることになる。このグループにはF・H・ブラッドリ、バーナード・ボサンケット、トーマス・ヒル・グリーン、ジョン・MT・E・マクタガートが含まれる。
  • ブラッドリは『現象と実在』のなかで、自我という概念についてはフィフィテと同様に、非自己との対比がなければ意味を成さないと考えた。彼はすべての関係がひとつに統一されている全体を「絶対者」と呼ぶ。絶対者とは精神的全体者のことである。その部分のいくつかは我々の意識に現れているが、絶対者はその諸部分の総和を超えているのである。それは物理世界以上に実在的である。ブラッドリは、物理世界は自然科学によって定式化された観念的な構築物、仮想物にすぎないと考えていた。
  • バーナード・ボサンケットもブラッドリと同じく、もろもろの二元性や対立は実在全体のうちで統合されると考えていた。彼もまた全体としての実在を絶対者と呼んだ。克服されるべき特に根深い哲学的二元論は、個別と普遍、個体と種のあいだのそれである。有限の人間精神は、絶対者つまり唯一の無限精神の一部分・一局面にすぎない。また物理世界は、有限の精神による経験から独立には存在しないのである。ボサンケットはこのヘーゲル的な形而上学を『個体の原理と価値』という著作で提唱している。
  • トマス・ヒル・グリーンは、心的出来事が物理的原因をもつことを認めていた。しかし物理的なものは何であれ、経験世界から構成されたものでしかないと論じた。経験を可能にしているのは物理的なものでありず、経験とその内容は精神諸原理によって決定されているという。
  • ジョン・MT・E・マクタガートは著書『存在の本性』(1927)において、意識的・精神的自我は宇宙の基本的な構成要素であると論じる。我々個人はそうした自我のひとつである。そして経験世界の方は知覚によって存在している。彼によれば物質としての実体などは存在せず、一方、我々の精神的自我は永遠である。彼は無神論を前提に自我の不滅を主張した。
現代のイギリスの観念論者としてはジョン・フォスターとティモシー・スプリッジの二人が挙げられる。
  • ジョン・フォスターは『観念論の言い分』で、観念論的現象学を提唱した。彼は、物理世界は感覚内容からの論理的構成物であり、究極の実在は物理的でなく、おそらく心的であるという。
  • ティモシー・スプリッジは『絶対的観念論の擁護』で汎心論的ヘーゲル主義を提唱した。彼は汎心論こそが意識的主観の存在を認めることが出来る唯一の形而上学だという。意識は宇宙の究極的構成要素なのである。意識が存在しなければ何ものも存在しない。

主観的観念論と客観的観念論

観念論の分類の仕方のひとつとして主観的観念論と客観的観念論に分ける考え方がある。この分類はヘーゲルによる。主観的観念論とは、物理的なものの実在性を否定し、それらを個人の意識の所産と考える立場である。バークリーやフィヒテなどに代表される。対して客観的観念論とは、精神的・観念的なものを主観的意識から独立した客観的原理として立て、世界をその現れとする立場である。プラトンやヘーゲルらに代表される。


  • 参考文献
S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 勁草書房 1999年
種村完司『知覚のリアリズム―現象主義・相対主義を超えて』勁草書房 1994年
神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史4』講談社 2012年
  • 参考サイト