実在論論争


概説

実在論(Realism)とは、われわれが認識する現象から独立して、現象を成り立たせている物質や普遍的概念(イデア)などが世界に実在しているという立場である。物質や外界が実在するという場合は、素朴実在論科学的実在論になり、普遍が実在するという場合は観念実在論になる。実在論と対立する立場は現象主義観念論である。

歴史的には紀元前のパルメニデスが、感覚で捉えられる現象世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは有るものが無いものになることであり、無いものが有るものになることであり、これは矛盾であるとし、感覚を超越した実体を措定したことから始まる。パルメニデス以降の哲学者の多くはこの「不滅の実体」という概念を継承し、生成変化する現象と不滅の実体とをどのように調和させるか考究することになる。彼らの主張は、絶対的な「無い」から「有る」に変化するというのでなく、見かけの変化の根底に不変の基体があるとするものであり、プラトンの場合それはイデア論として主張されて後の普遍論争の一方の立場になり、レウキッボスやデモクリトスの場合それは原子論として主張されて、これが近代・現代まで続く唯物論的な実在論の源流となる。

中世の普遍論争における実在論論争では、個物を超越した普遍概念、つまり「普遍者(イデア)」が実在するか否かを巡る論争であった。しかし17世紀に入り、ルネ・デカルトの方法的懐疑を受けて以降は世界の実在を巡る論争が中心になる。デカルトは「疑いようのないものだけを受け入れる」という方法により、まず心的なもの(観念)の実在を認めた。つまり自分が見ているものが夢や幻である懐疑が否定できないとしても、その「見ているということ」自体は否定しようがないのである。そしてデカルトは知覚によってしか知りえない外界、つまり「世界」の存在が懐疑できることを認めた上で、神によって世界が存在することを証明しようとした。しかし英国経験論のジョージ・バークリーは、デカルトが証明しようとした世界の実在をオッカムの剃刀によって否定し、自分が経験できる「知覚」だけが実在であると考え、「存在するとは知覚されることである」と主張した。つまり世界は人間から独立して存在しないということである。このバークリーの哲学はデイヴィッド・ヒュームに受け継がれ、ヒュームにおいては「因果関係」さえ実在性が否定された。イマヌエル・カントはバークリーの現象主義やヒュームの懐疑主義を受けて、物自体と現象界を区別し、基本的に観念論の立場を取りながらも、時間と空間はアプリオリ(経験に先立つ)なものだとして、現象主義と実在論を調和させようとした。このようなデカルト以来の「世界」の実在に関する論争を伊勢田哲治は「古典的実在論論争」と呼んでいる。

19世紀に入って、全ての物は目に見えない原子や分子から構成されているという原子論が台頭し、実在論論争は原子というものが科学理論とは独立に存在するのか、それとも原子というのは理論上の道具に過ぎないのか、という問題が焦点になる。これが今日まで続くことになる科学的実在論論争の原型であり、要するに「目に見えないものの実在」に関する論争である。

古典的実在論論争における立場と、科学的実在論論争における立場は必ずしも一致する必要はない。世界は人間の認識から独立に存在するけれども、科学の措定する原子などの目に見えない理論対象は存在しないという立場もあるし、逆に世界は人間の認識から独立には存在しないけれども、日常的に知覚される対象と科学の措定する理論的対象は同格ではない、という立場もありうる。

19世紀末のマッハやボルツマンは原子の実在を巡り形而上学的な論争を行った。20世紀初頭のアインシュタインやボーアなどは、当時黎明期だった量子論をめぐって、量子の実在を巡り形而上学的な論争を繰り広げていた。しかし現代の科学においては、科学界内部での一定の手続きやルールにしたがって「存在の証明」が経験的にできるものの場合、「存在している」とみなされ、中間子やニュートリノはそのようにして「存在」が承認された。つまり現代の科学の世界では、われわれの認識する現象を超えて「本当に存在する」というような形而上学的な「実在」についての判断は控えられている。しかし後述する科学的実在論は、われわれが描写する科学理論とは関わりなくクオークなどが「実在する」と、形而上学的な主張している。20世紀後半以降の実在論論争は、この科学的実在論をめぐって行われている。

実在論の種類

観念実在論

中世哲学において、普遍論争の一方の立場となった。この意味のときは実念論とも訳す。「人間」や「リンゴ」という普遍的概念が、それ自体で存在するという立場。個々のリンゴや人間たちとは別に「概念」それ自体が実在すると考える。プラトンのイデア論に起源がある。対立する立場は、個物を指示するための「名前」だけが実在するという『実名論(唯名論)』である。

素朴実在論

素朴実在論(Nai"ve realism , または common sense realism)とは、一般的に人間が生活する上で前提している立場で、この世界は自分の眼に見えたままに存在していると考える。ジェームズ・ギブソンが主張した「直接実在論(direct realism)」やプラグマティズムの立場から主張される「実用的実在論」はほぼ同様の立場であり、人間は外界の在り方を直接的に知覚していると考える。

形而上学的実在論と内在的実在論

ヒラリー・パトナムは科学的実在論の代表的な論者であったが、1981年の著書『理性・真理・歴史・ 内在的実在論の展開』で一転、科学的実在論の批判者となる。パトナムは実在論を以下の二つに分ける。

(1)形而上学的実在論――世界は心から独立(mind-independent)した固定的な全体(fixed totality)から成っている。世界の在り方についての真で完全な記述がただひとつ存在する。その真理は、いわば「神の視点」から描かれている。後述する科学的実在論は形而上学的実在論の一種である。

(2)内在的実在論――世界はいかなる対象から成るか、という問題は、理論や記述の内側でのみ意味を持つ。真理とは理論の合理的受容可能性であり、心から独立した実体との対応ではない。そして「神の視点」から描かれたものは不可知である。

パトナムが科学的実在論を拒否した理由は、彼自身による思考実験「水槽の脳」の懐疑論を反駁できないことである。神の視点を持たない限り、人は自分が水槽の脳でないことを証明できない。またウィトゲンシュタインが考察したように、われわれの言語の限界が思考の限界であり、世界理解の限界となる。われわれの理解は言語と検証能力によって限定されているのだから、理論語と理論対象との間に対応関係があるとする「真理対応説」の代わりに「真理検証説」がとられるべきである。ただしパトナムは、内在的実在論が相対主義や経験主義と異なることを強調する。彼によれば内在的実在論は、真理とは言明と事実との対応ではなく、合理的受容可能性なのだが、その合理的受容可能性――真理検証は客観的なものでなくてはならない。その点が私的な経験を基準にする相対主義や経験主義との違いであるという。

しかし内在的実在論の真理基準は私的ではないものの、その基準は科学者などの集団によって作られるものであるゆえに、後述の「社会構成主義」に近い認識論的含意を持つ。実際カーティス・ブラウンは、パトナムの内的実在論を一種の擬装された主観的観念論にすぎないと批判している。

なお1990年代以降、パトナムの思想はプラグマティズムに傾き、心身問題については「直接的実在論」を採用するようになった。

科学的実在論

科学的実在論(Scientific realism)とは科学哲学における立場のひとつで、科学理論によって記述されるものは、知覚経験が不可能なクオーク、重力、因果関係などであっても、われわれの知覚経験とは独立に存在すると考えるものである。

科学的実在論は論理実証主義から始まった科学についての経験主義的・実証主義的流れに反発する形で、1970年頃にギルバート・ハーマン、J.J.C.スマート、初期のヒラリー・パトナムらによって提唱された。

科学的実在論には、実在についての存在論的主張と認識論的主張がある。存在論的には、われわれの知覚とは独立して、世界には客観的存在や秩序があるとする(独立性テーゼ)。認識論的には、世界に存在するものやその秩序について、われわれは正しく知ることができるはずだとする(知識テーゼ)。現代の科学哲学における実在論論争は、ほとんどがこの科学的実在論の存在論的主張と認識論的主張に関するものである。

科学的実在論は「最善の説明への推論(Inference to the Best Explanation)」および「奇跡論法(argument from miracles)」という議論によって成立している。最善の説明への推論とは、ある出来事を説明することのできる複数の仮説がある場合は、その出来事を最も自然かつ合理的に説明できる仮説を選択すべきだ、とする考え方である。奇跡論法とは、もし電子や光子といったものが実際に理論で記述されるような形で存在しないとすれば、科学の成功は「奇跡」となってしまうので不合理だ、とする考え方である。

科学的実在論は、科学理論が現象を十分に説明できていれば、知覚できない理論対象でもその実在を信じる理由があるとする。例えば原子が実在することを前提にした全ての理論は顕著な成功を収めている。それは原子の存在論的な実在を裏付ける証拠であるとされる。

科学的実在論に対しては、素朴な感覚的経験に依拠しながら、感覚的経験を超えるものを認める形而上学的立場だという批判がある(村上 1990)。また大森荘蔵によれば、科学的実在論は実用的実在論を前提に構築されたものであり、両者は同一のものである(大森 1994: 195-6)。

ラリー・ラウダンは科学的実在論が主張する「奇跡論法」に対し、科学理論にはエーテルやフロギストン、ニュートンの絶対時間や絶対空間など、後になって破棄された理論が多く、科学理論が必ずしも真とはいえないとする「悲観的帰納法(pessimistic induction)」を主張した。つまり科学理論が成功しているからといって、その理論の指示対象の存在は安易に認めるわけにはいかないということである。

悲観的帰納法は科学的実在論に対する最も強力な批判であり、科学的実在論を擁護する論者たちは、いかに悲観的帰納法を回避するかに腐心し、以降は科学的実在論のさまざまな新バージョンが登場することになる。それら新しいタイプの科学的実在論は、科学理論の特定の部分に関してのみ実在性を主張しようとするもので、分割統治(the divide et impera)の戦略とも呼ばれる。

介入実在論

介入実在論はイーアン・ハッキング、ナンシー・カートライトが提案した新しいタイプの科学的実在論で、科学者たちが自分で操作したり介入したりすることができるものは存在する、という立場である。実在論の主張を限定的にして悲観的帰納法をかわそうとする。たとえば実験装置によって電子を自分の思った通りに射出でき、思った通りの結果を生じたのなら電子は実在する、と考える。「実体実在論」または「対象実在論」とも呼ばれる。「準実在論(semi-realism)」は類似の立場である。

ラウダンが悲観的帰納法の例として挙げたような、結局存在しなかったフロギストンやエーテルなどは直接操作できないものだった。しかし光などの直接操作できるものについては、その本性が粒子か波かという考えの違いはあっても存在自体は否定されていない。つまり悲観的帰納法から導けるのは、操作・介入できないものの存在についての理論は真とはいえないということであり、実体として措定した上で、直接操作・介入できるものについては実在を認めようということである。

ハッキングは手で紙に書いた格子を何度も縮小し、そのパターンを金属に写し取ったものを顕微鏡で見るということを行っている。これは観察不可能なサイズでも自分の介入によって存在していることになる。また介入に使われた因果的な力も実在していると考えざるを得ないことになり、これは因果関係の実在性を論証不可能としたデイヴィッド・ヒュームへへの反論となっている。

なお「操作」や「介入」は、通常科学理論が重視する「再現性」よりも厳しい条件である。再現性は操作性が成立するための必要条件である。

構造実在論

構造実在論(structural realism)は新しいタイプの科学的実在論であり、ジョン・ウォラルの「認識的構造実在論(epistemic structural realism: ESR)」と、ジェイムズ・レディマンとスティーブン・フレンチの「存在的構造実在論(ontic structural realism: OSR)」という二つのタイプがある。

ESRは、われわれの認識する現象外部に独立してあるとされる「実在」と、われわれが現象に対して構築する「科学理論」とを区別し、実在はわれわれにとって不可知であり、数学的に記述できる世界の構造としての科学理論のみが真であると主張する。この主張の背景の一つには量子力学の決定不全性がある。たとえば光子は「粒子」であると同時に「波」であるとされる。これは古典的な論理学における排中律に反しているよう思われる。しかし光子を実在とみなさず、光子を記述する科学理論のみが実在であるとすれば、論理的にも問題はないというわけである。

古典力学から量子力学への変革は、「存在」概念のコペルニクス的転換をもたらすものであった。しかし純粋に数学的な構造だけを見ると、古典力学(ニュートンの運動方程式)は、量子力学(シュレーディンガー方程式)に還元できると考えられている。つまり数学的構造そのものは近代科学が始まって以降、安定的に受け継がれているので、構造実在論の立場をとるならば、今後新たな理論の登場によって原子やニュートリノの存在が否定されるような事態になっても問題が無く、悲観的帰納法を回避できるというわけである。

OSRは、以上のようなESRの主張を更にラディカルにしたものであり、科学理論によって記述される世界の数学的構造こそが世界の実在であり、それ以外には何もないとする立場である。世界の本性や実在はわれわれから隠されているわけではなく、構造こそが存在論的に実在的なものであり、物理的対象は構造のノードや交差点へと還元されると考える。

OSRとESRとの違いは、ESRが構造の背後に(不可知であるが)実体を想定するのに対して、OSRではそのような理論対象をまったく認めない点にある。つまりESRは科学的実在論の独立性テーゼをそのまま認めるのであるが、OSRは理論的対象を世界から存在論的に除外し、独立性テーゼを「構造」に限定して認めるということである。

構造実在論は科学的実在論の一種であるが、理論対象の実在にコミットせず、理論のみに存在論的にも認識論的にもコミットすべきだとする立場である。これは反実在論に極めて近く、特に存在とみなすものを構造だけに限定するOSRは、対象に対する道具主義とみなすこともできる。

反実在論

反実在論(anti-realism)とは、実在についての完全な認識はありえないとする立場である。ただし実在そのものを否定しているわけではないのが重要な点である。人の認識から独立した外的世界の実在性を巡る「古典的実在論論争」とは異なり、科学的実在論を巡る論争における反実在論の立場では、外的な世界の存在を認めた上で、科学理論が世界の真理を描けているか否かを問題にしている。そのため伝統的な反実在論である懐疑論や観念論と対比されて、現代の反実在論は実在論に分類され、「科学的反実在論」とも呼ばれる。

なおイーアン・ハッキングは、反実在論という用語を「理論に関する反実在論」と「存在に関する反実在論」に分けている。前者は上述の科学的反実在論の立場であり、後者は後述する非実在論の立場である。

マイケル・ダメットは科学的実在論をめぐる議論において、われわれの認識する現象外部に独立してあるとされる「実在」と、われわれが現象に対して構築する「科学理論」という二分法を設定し、実在論は実在の独立性を前提にして現象についての科学理論は正当であるとするのに対し、反実在論は実在の独立性は認めるものの、それが科学理論によって認識論的には正当化できないとした。つまりダメットのいう反実在論とは、存在論的には実在論ということであり、科学的実在論とは認識論において相違があるということなのである。

ダメットはマクタガートの時間論を研究し、時間のなかに存在するものは「今・ここ・私」というような、状況依存的(token reflexive)表現なしに観察対象の完全な描写をすることはできないという結論を導き出している。たとえば、地球の全歴史が完全に描かれた(ミンコフスキー空間ような)ものを観察できる人物がいたとする。しかしその人物は、時間の流れや運動変化を観察できないはずである。全歴史を鳥瞰的に一望するとは静的なことだからであり、もし歴史の特定の時点の出来事に焦点を合わせて運動変化を観察したなら、それはその時点の観察者の立場に立つことになるからだ。しかし歴史内部にいるものたちは、それぞれが「現在」の動的な時間と変化を観察している。これが、時間の中にいるものは状況依存的表現なしに観察対象を描写することができないということである。つまり、たとえ地球の全歴史が描かれたものを見ても、歴史に生じた全てのことを見たことにはならないのだ。これは明白な矛盾である。

科学的実在論とは、実在について観測者から独立した完全な描写が原理的にありうるとする立場だとダメットは考える。しかし時間については観測者の状況依存的表現なしに描写することはできないのだから、科学的実在論は間違いだということになる(ただしダメットはマクタガートと異なり、時間の実在性は肯定している)。

構成的経験主義

構成的経験主義(constructive empiricism)、または構成主義的経験論とは反実在論の一種で、バス・ファン・フラーセンが1980年の著書『科学的世界像』において、科学的実在論を批判して主張した立場。科学の目標は経験的に十全な科学理論を構成することであり、世界に正確に対応した真なる理論を見出すことではないとフラーセンは考える。ひとつの理論の承認に信念として含まれるのは、それが経験的に十全だという信念だけである。

フラーセンの反実在論では、観察可能な月や木星は実在と認めるが、電子や光子は直接観察できないので実在を認めない。彼によれば科学の目的は「直接観察可能な現象の十分な記述」であり、「観察不可能な存在の導入による現象の説明」ではないのである。

ただし道具主義と異なって、光子など観察不能なものを指す言葉が無意味と考えない。フラーセンは、科学の目的は経験的に十全な理論を組み立てること、換言すると観察可能なレベルでわれわれの経験と矛盾しない理論を組み立てる、つまり「構成」することなのである。科学理論は現象の背後にある実在に関知するべきではなく、われわれの経験レベルでの現象を説明できさえすればよい。

フラーセンは経験主義者であり、彼の科学哲学は論理実証主義の改良番といえる。彼は科学的実在論者とは違って、世界を存在する事物の総体とはみなさない。人は神の視点を持って事物の総体を理解することはできないし、生じうる全ての現象を実際に経験することもできないからである。したがって世界について語ることは、世界の「部分集合」を問題にすることなのである。

論理実証主義の意味論的還元主義プロジェクトにとっての難点は、理論語と観察語の境界が曖昧なことであった。だがフラーセンにおいては両者の区別は問題ではない。理論的言明の構造と外的世界の経験的な構造の対応関係こそが問題なのである。

自然主義

哲学における自然主義(naturalism)とは、哲学は自然科学の知見を前提にして行うべきだとする立場である。また哲学は諸科学との交流を試みるべきであり、哲学に科学の手法を取り入れるべきだと考える。自然主義は科学的実在論や反実在論と一線を隔しており、「実在」に対する形而上学的判断は控えられているため、実用的実在論に近い。

心の哲学では「心の自然化」という言葉が使われる。これは、「心」は科学的には解明できないとされていた20世紀以前の常識に反して、「心」も自然科学の俎上に載せるべきだとする考えを現している。

W.V.O.クワインはラディカルな自然主義者であり、哲学と科学を「同じ船のうちにあるもの」とみなしている。そして伝統的に哲学の分野であった「認識論」も自然科学の一部であるべきだとして「認識論の自然化」を提唱し、認識論の問題はすべて心理学に還元されるべきだとした。伝統的認識論は価値判断と不可分であるが、クワインは価値判断という要素を排除しようとした。クワインは自身の自然主義を「ノイラートの船」に喩えている。それは洋上を航行し続けながら、洋上でのみ修繕できるような船である。ここにはいかなる形而上学的・超越的な視点も必要とされない。クワインの「全体論(ホーリズム:Holism)」はノイラートの船に似ている。我々の知識はネットワークをなしている。個別の知識たちは相互依存的であり、一つの知識に懐疑が生じても、我々は知識のネットワーク全体を懐疑可能な別のネットワークに足場を移すことはできない、ということである。

このようなクワインの哲学からすると、「実在」とは言語のネットワークの構成要素である。我々はネットワーク全体の外部から哲学を基礎付けることはできないのだから「基礎付け主義」は放棄され、ネットワーク内部に存在する「実在」を受容せざるを得ないということになる。これは実用的実在論の立場に近い。

アーサー・ファインは科学的実在論を、科学に対して余計な形而上学を与える立場だと批判し、「自然な存在論的態度(Natural Ontological Attitude: NOA)」を提唱した。これは、科学哲学における自然主義は、科学者の営みをありのままに受け入れるべきだという立場である。ファインは科学者達の「実在」に対する態度について研究している。科学者といっても個人差があり、科学的実在論か反実在論かのどちらかの立場を取っていると一般化することはことはできないとファインはいう。ちなみにアインシュタインは特殊相対性理論の頃はマッハの実証主義(反実在論)の影響を受けていたが、一般相対性理論の頃にはマッハの影響が薄れ、量子力学におけるボーアとの実在論論争では「誰も見ていなくても月は存在する」と全面的に実在論を擁護していた。

非実在論

非実在論(non-realism)とは、知覚から独立して存在するとされる実在を否定する、または不可知であるとする立場。歴史的にはジョージ・バークリー現象主義から実在論批判が始まる。現象主義や観念論は非実在論の極端な立場であり、現代では支持する者がほとんどいないが、近年の科学的実在論を巡る論争においても、経験主義的な哲学者は実在への言及を避けようとする傾向があり、この非実在論の立場に近い主張を行っている。

※なお通常「実在論」に反対する立場は「反実在論」と言われるが、現代において反実在論に分類される立場には、科学的実在論の知識テーゼには反対するが独立性テーゼは認めるものがあり、このページでは立場の違いをわかりやすくするために、独立性テーゼを否定して「実在」を否定または不可知であるとする立場を非実在論として分類する。ちなみにネルソン・グッドマンの「非実在論(irrealisim)」は後述する構成主義の一種である。

現象主義・懐疑主義・実証主義

ジョージ・バークリーは現象主義の方法によって主観的観念論の立場に到達した。われわれは客観的にあるとされる事物を感覚によってしか認識できない。言い換えるとわれわれが認識しているのは常に変化を続ける現象だけである。実体の存在は原理的に知りえないというのみでなく、実体概念自体が不要だとバークリーはみなした。夢や幻覚では外的な物体を知覚しているように思えるが、実際には感覚器官には何も与えられてはいない。従って外的物体なるものを仮定したところで、そんなものは観念発生を説明するのに不必要なことは明らかであるという。

デイヴィッド・ヒュームはバークリーの現象主義をさらに推し進めた懐疑主義者である。ヒュームは因果関係や自我でさえその実在性を懐疑できるとした。自我なるものはそれ自体は決して経験できない。経験されるものは個別的な知覚と観念だけである。また因果関係なるものもそれ自体は決して経験できない。ある出来事と他の出来事の間にはいかなる結びつきも決して見出すことはできず、それらは連接しているように見えるが、結合しているようには決して見えないからだ。このヒュームの因果関係論は、現代の科学哲学においても議論が続けられている難問である。

ヒュームの懐疑主義の洗礼を受けたイマヌエル・カントの認識論によれば、自然科学が普遍的妥当性をもつのは、物理対象が人間に備わっている知覚の形式(時空)と思考の形式(カテゴリー)という、普遍的な原理に従ってのみ認識されるからである。これは知覚経験と科学法則が同質であるとみなすものでもあり、科学の理論対象が知覚から独立して実在するという科学的実在論を否定する立場である。科学哲学においては、カントは観念論者とみなされる。

19世紀、オーギュスト・コントは実証主義を主張し、哲学や科学に大きな影響を与えることになった。コントは「三段階の法則」を唱えた。これは人間の知識が、まず超越的な神によって諸現象を説明する「神学的段階」、次に実体や本質などの抽象概念によって説明する「形而上学的段階」を経て、最終的には現象の内部から記述できる法則のみによって説明する「実証的段階」へと進むべきだというものである。コントは現象の背後に超経験的な形而上学的実体を認めず、観察や実験によって実証された事実のみを認め、これを基礎として諸科学を説明しようとした。なおコントによれば実証的(positif)の意味は六つある。肯定的、相対的、現実的、有益、確実、明確、である。このコントの考えは後のエルンスト・マッハに影響を与える。

マッハは経験主義と実証主義を透徹した現象主義(現象論)の立場を取る。マッハの現象論では、物理学の概念や理論はすべて感覚現象に由来し、それに還元されると考える。実在するものは、色・音・圧・空間・時間といった、それ以上分割できないものとし、それは感覚的でも物質的でもない中立的なものと考えた(要素的一元論)。物理学の仕事とは、事物と事物との連関の探究でなく、人間に与えられた感性的要素と感性的要素の連関を直接的に記述し、その間の法則を立てることである。直接記述できないものは全て否定するのでなく、理論を介入させる「間接的記述」の有効性を認めるが、しかし理論的概念も最終的には感性的要素に還元できると考える。マッハは感覚に還元できない概念や理論を科学から排除しようとし、原子の実在性を否定したが、原子物理学の発展でマッハ流の現象論は衰退した。しかし現象論からニュートン力学を批判したことにより、アインシュタインの相対性理論に貢献し、またカルナップらの論理実証主義にも影響を与えた。

論理実証主義( Logical positivism)は、論理経験主義(Logical Empiricism)とも呼ばれ、その名から分かるように経験主義と実証主義の路線を推し進め、観察という人間の行為を超えた「実在」を不可知とする立場である。論理実証主義はマッハとラッセルの強い影響を受けており、科学理論に含まれるクォークなどの理論的語彙を、温度計などの直接観察可能な観察的語彙へと翻訳・還元する。また理論的命題はそれを翻訳的に還元した観察命題を通して検証することができなければならないとする。科学理論の正しさは直接に検証されるのではなく、観察という人の行為の検証によって間接的になされる。

実証主義や現象主義は経験主義から派生した立場であり、物理学で受け入れる概念や理論は全て観察可能な感覚経験に関係付けられなければならないとし、それができない理論仮説や理論的存在は導入できないとする「還元主義」である点で共通している。しかし大森荘蔵は現象主義的な立場から実在論を否定するものの、理論仮説や理論的存在は、われわれがそれを語ることで存在する「語り存在」として認めている。このような大森の立場は非還元主義的な現象主義と言える。

規約主義・道具主義・操作主義

実証主義や現象主義では、直接観察できない電子や場といった理論的存在は否定されていたが、規約主義や道具主義は経験論的見地に立ちながら、理論的概念や法則の導入を認識論的に認めている。しかし存在論的には理論的概念の「実在」への判断は控えている。なお操作主義と道具主義は論理実証主義から派生した立場である。

規約主義(conventionalism)とは、哲学、数学、法学など、あらゆる原理原則は人間が便宜的に規約として定めた人為的なものであるとし、真理の客観性や絶対性を否定する立場である。数学者のアンリ・ポワンカレが主張した。約束説ともいう。物理学が対象とするのは、対象の実在的性質そのものでなく、対象間の関係である。つまり「要素的現象」の関係を数学的に記述するという数理物理学という形態が物理学の望ましいあり方だと考える。しかしポアンカレはマッハと異なり、時間空間や力学の概念については感覚経験に起源をもつもの、それから帰納的に導出されるものとは考えない。時間空間、ユークリッド幾何学、その他基本原理は、言語における文法のような「規約」とみなす。力学の原理というのは、経験的真理ではなく定義・規約によって「真」なのである。規約主義では、物理体系は語彙と文法から成る言語体系と同じようなものとみなされる。ただしポアンカレは、物理学の全てが規約により成り立つと考えるわけでなく、経験可能な事実に関しては「生の事実」と解釈する。

道具主義(instrumentalism)とは規約主義と類似の考えで、科学理論とは観察可能な現象を組織化・予測するための形式的な道具、または装置であると見なし、現象の背後にあるかもしれない実在は知りえないとする立場である。論理実証主義者のルドルフ・カルナップによって主張された。道具主義では、科学的概念や理論はそれらがいかに精密で無矛盾であっても仮説とみなすべきだと考える。科学的概念や理論はあくまで、ある現象の記述から別の現象を記述するための道具にすぎず、その道具の価値は使用した結果として表れる有効性にあるのだという。つまり規約主義と異なり、道具主義では物理学の理論的部分を「規約」ではなく「道具」と考える。理論的部分は観察可能な現象とは異なり経験的意味をもたず、物理世界にそれと対応するものはないと考える点で規約主義と同じである。しかし理論的部分に対象指示の役割認めないとする点では規約主義より現象論的である。(なお、道具主義についての解説は論者によって異なっており、独立性テーゼを認め、反実在論に分類する学者もいる)

操作主義(operationalism)は1927年に物理学者のパーシー・ブリッジマンによって提唱された。この立場では、観察不可能なものを指す言葉はすべて観察可能なものについての言葉に翻訳されて理解されなくてはならないとする。ブリッジマンは「操作」という方法が質量や長さといった科学における概念の定義を決定すると考える。たとえば物体の長さは定規などによって測られ、惑星間の距離は光によって測られる。つまり長さという概念は、測定操作によって定義づけられるのである。操作主義は科学の言明や概念の意味を、観察可能な操作的なものに還元し、「実在」との対応によっては考えないということである。

ところで道具主義や規約主義は科学的実在論に反対し、人間が直接経験できない素粒子などは実在と対応しているとはみなさかった。しかし素粒子などはそれ自体は経験的意味を持たなくても、人間が経験できる世界と体系的に連携している。ある命題だけを部分的に物理体系から取り出して経験に対応させるというのは原理的に不可能であることがデュエム、クワインらによって指摘された。世界の物理的事象はホーリスティック(全体論)的な性格がある。したがって素粒子などの存在を仮定することによって、人間が経験可能な世界の構造を精密に描写できるなら、素粒子などは認識論的に肯定することの方が生産的であると考えられる。このような立場を明確に主張したのが自然主義とプラグマティズム(実用主義)である。現在の物理学者の大半は意識的ではないにせよこの立場をとっており、形而上学的な主張を含意した科学的実在論、またそれに反対する規約主義や道具主義は顧みられなくなっている。

また道具主義は「観察可能なものを指す言葉」と「観察不能なものを指す言葉」が区別できるという前提だったが、観察可能な対象をどう表現するかは既に理論の影響を受けている。操作主義や道具主義は言葉の意味を焦点に議論した。理論対象の実在が問題だったはずなのに理論対象の言葉の意味の問題にすり替わった。道具主義を提唱したカルナップは、個人体験をベースにすると客観的な科学的知識の構成に困難があるのに気付き、物理主義の立場に転じた。物理主義では、基礎的言明は「熱さ」のような現象論的言語でなく「温度」といった物理言語で表現すべきと考える。

社会構成主義・相対主義

社会構成主義(Social Constructivism)とは、科学的実在論なるものは科学者たちの社会的合意で作り出されたものであるとする立場で、規約主義や道具主義に近い考え方。科学的知識は社会的に構成されるものであり、外的な実在そのものを描いているのではないと考える。代表的な論者はハリー・コリンズ、ブルーノ・ラトゥール、スティーヴ・ウルガーである。「相対主義」も類似の立場である。

科学研究においては、どんな理論を受け入れるか、どんな対象を研究するかといった問題は、科学者集団のバイアスがかかる。すなわち、科学的知識は科学者個人・集団のバイアスを受けるために客観的な真理にはなりえず、科学者が結果として描く世界像は社会による構成物でしかないのだと社会構成主義は考える。

哲学における構成主義(Constructivism)とは、一般的に概念の実在性を否定する立場であり、実念論と対立する。数理哲学においては、有限回の操作で構成できる数学的対象のみを認めるのが構成主義的立場であり、それに対立するのが、数学的対象が構成手続きとは独立に、普遍的に実在しているとする実在論的立場である。

ハリー・コリンズは著作『秩序を変える』において、因果関係というものは実在性がなく、社会制度や慣習によって成り立っているものにすぎないと主張している。これはヒュームの因果関係論と同型である。

心の哲学と実在論論争

(以下は管理者の見解)

心の哲学の立場には様々なものがあるが、いずれも心を科学的に扱おうとする自然主義を前提としている点では共通している。ツーソン会議国際意識科学会には哲学者だけではなく、神経科学者や認知科学者も多数参加しており、現代の心の哲学は哲学と科学の学際領域となっている。

しかし哲学者と科学者の立場には決定的な相違がある。科学者が実用的実在論を前提に心脳問題を研究しているのに対し、哲学者は自然科学の知見を前提としながらも、形而上学的な実在に言及している点である。たとえば物理主義では「物質だけが実在である」と主張し、中立一元論性質二元論では「実在は物理的な性質と心的な性質を併せ持つ」と主張する。つまり心の哲学では実在論論争にコミットせざるを得ないのであるが、しかし心の哲学者でパトナムのように科学哲学の実在論論争にコミットしている者は少ない。

科学哲学では電子やクォークの実在性が問題とされる。量子力学によると、電子のようなミクロの物質の場合は、私たちが見ていない時には「どこか一箇所にいる」のでなく、「さまざまな場所にいる」状態になっている。リンゴやテーブルなどマクロなものとミクロなものは存在論的身分が異なると考える者もいるのだが、しかしマクロなものもミクロなものの集合であることを認めるならば、存在論的身分に違いがないと考えることもできる。物理学者の佐藤勝彦は、量子力学を厳密に解釈すると、月のようなマクロな存在についても、誰も見ていない時には「どこか一箇所にいる」と断言できないとし、ミクロな世界とマクロな世界の線引きもできないと解説している(佐藤 2006)。

ツーソン会議に参加しているような認知科学者や脳科学者は実用的実在論を前提にしており、それで彼らの研究には差し支えないのだが、しかし全ての科学は究極的には物理学に還元されると考えられている。脳科学は化学に還元され、化学は物理学に還元される。だが現代の物理学が立脚する実用主義的な実在論は、素粒子などの存在論的身分を棚上げすることによって成り立っており、科学の世界内部での手続きやルールに従って「存在の証明」がニュートリノのように経験的にされたものの場合、「存在している」とみなされている。マッハやアインシュタインの時代と異なり、現代の物理学は「実在」の形而上学にコミットしていないのである。しかし心の哲学において、心と脳の相関関係を考えるということは、既に素粒子などミクロなものの形而上学的な実在を前提にしていることになる。

茂木健一郎はクオリアは複数のニューロンの発火に相関するという。発火とは電磁波である。ニューロンも素粒子に還元できる。結局、心脳問題を考えることは、素粒子の実在を考えることと並行して行わざるを得ない。要するに心の哲学は、科学哲学における実在論論争にコミットせざるを得ないのである。


  • 参考文献
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  • 参考サイト