スリーピング・ドール




題名:スリーピング・ドール
原題:The Sleeping Doll (2007)
作者:ジェフリー・ディーヴァー Jeffery Deaver
訳者:池田真紀子
発行:文藝春秋 2008.10.10 初版
価格:\2,381


 近頃、ディーヴァーがすっかり好きじゃなくなったのに、なぜぼくはディーヴァーを読むのだろうと、自分に問いかけてしまう。まあディーヴァーはそこそこ面白いと言うことだけは言えるからな、と自分に肯く。ただ、マンネリに陥っているところがあるし、何よりもご都合主義の目立つプロットが鼻につくんだよな。じゃあ、読まなければいいのだが、本当に好きになりきれない作家の場合は、図書館で借りることができるし、何も散在するわけじゃない。ディーヴァーのハードカバーはとても高いし、ちょうどそんな具合に無料(ただ)だと思って読めばいい。

 そんな言い訳を自分に対して読むから、どこかいつも落ち着かない。犯罪者と捜査側との追いかけっこを、またかと思いながら読むだけ。せいぜいそのバリエーションと、最後の最後のどんでん返し(最近ではツイストと呼ぶ奴だ)の重ね張りがマンネリをすれすれのところで逃れようとする技術的傾向なのだが、その策は常に十分には成功していない。

 ディーヴァーの短篇集『クリスマス・プレゼント』を、なぜぼくはあれほど楽しく読んだのだろう、と今思い返すのだが、いくつか思い当たる点がある。まず、ツイストをやり過ぎるゆえに、現実的ではなくなる傾向。法螺話のように見えてくる傾向が、最近の長篇にはあるということ。短編ではそれがなく、気の利いたホイップ一発で決めてしまうという小気味のよさがあるのだ。

 さらに冗長な語り口ゆえに、犯罪者側の余分な心理描写を読者だけが見せられているこの古臭い描写のリズム、そして古臭い舞台装置だ。ディーヴァーはジョン・ペラムのシリーズではさすがに主人公が映画のロケーション・ハンターということもあって舞台装置に価値を与えていたように思う。しかしリンカーン・ライムのシリーズでは、犯人との追いかけっこや心理描写が主体となり、舞台の価値なんていうものはなくなってしまった。

 ただただ冗長なとにかく一語でも多く犯罪者の背景描写に費やしたいというのが最近のディーヴァーの傾向。それが短篇には見られないのだ。すっきりして、それでいて内容は長篇並みのツイストを持っているのだ。短篇作家になればいいのに、とは言い過ぎだろうか。

 さて、本書、今、流行りのリンカーン・ライムシリーズのスピンオフ作品である。ライムシリーズの前作『ウォッチ・メイカー』にゲストで登場し、主役を食う勢いすらあった西海岸の人間嘘発見器キャサリン・ダンスが、本書の主人公である。ライムが鑑識を主体とした科学捜査に精通しているのに対し、ダンスは人間観察により真実に迫る専門家。表情や目線はともかく、指先の動きや、言葉の用い方で、相手が感情のどういう段階にあるのかを分析してしまう。ライム同様スーパーなことに変わりはない。ライムも珍しくダンスへのリスペクトをさほど隠さなかったという下り、その時点でキャサリン・ダンスのシリーズは作者の中でスタートしていたのかもしれない。

 ダンスの相手には、カルト犯罪者である脱獄囚マイケル・ペルがいる。カルト教団の祖は人の心を操るのが得意であり、心理操作対決といったところが本書の軸になる。さらにはカルト犯罪の専門家なるウィンストン・ケロッグなるFBI捜査官が出現する。心理学のプロみたいな連中がどんどんこの事件に集まってきてしまうわけだ。終いには誰が誰を操っているのかわからなくなる面白さというところを狙ったのだと思う。

 タイトルのスリーピング・ドールは、カルト犯罪者に殺されたある一家のうち、眠っていたゆえに一人だけ生き残った少女のことであるが、なぜかこの少女が物語中さほど意味を持たないでいることに座りの悪さを感じる。

 さらに追いかけっこ対決という単純さを、ツイストを売り物とする作家だけに台無しにしてしまっているように思う。こういう物語はシンプルな構図で大団円に持って行くべきと思うのだが、気持ちが萎えるほどにツイストにこだわる作家の悲劇が本書をライム・シリーズのマンネリに突き落としてしまっているように思う。

 せっかくライム・シリーズのマンネリを脱したかなと感じていた中盤までの疾走感は、終盤に来ていろいろな価値を失うことにより(とりわけターゲットへの集中力を殺がれるのだ)、ただのひねりの利いた貧相な小話といったところに堕してしまう感があるのだ。

 冗長に過ぎた小説であると思う。ツイストを重ねすぎることにより作品の良さを壊してしまった例であると思う。登場人物が多すぎる。物語が長すぎる。懲り過ぎる。小説にそうしたものを求めている読者にはいいだろう。人間の現実や真実を求める読者にとって、小手先の技術はかえって仇になる。最近のディーヴァーは少しも変わっていない。変わろうとしない。ぼくの悪い予感は決して覆えされずにただただ期待ばかりが萎んでゆく。このマンネリズムは、いつ終息するのだろうか?

 ディーヴァーの健康的で病んでいないところが、クライム作家としての致命傷なのかもしれない。大甘なスイーツを食べ過ぎたような食感しか残らないのだ。饒舌に落ちず、すぱっと人間の怖さのようなものを語り口で切り拓いてみせることができないのだ。そういう技術も性格も持ち合わせていないのがディーヴァーなのだろう。だから作品に非情な凄みのようなものが出ないのだ。コーマック・マッカーシーみたいな歯切れが。

(2008/12/13)
最終更新:2008年12月14日 22:22