「はぁっ、はぁっ……」
「待ちなさい!」
「無駄な抵抗は止めて、素直に止まりなさーい!」
 広大な森の中を一心不乱に走っている少年が一人。そして、その後を追い駆ける二つの影。
 少年の必死な表情から見ると、どうやら彼はその二つの影に追われているようだ。
「仕方ないわね……ルル、あれを!」
「OK!大いなる緑よ、我に力を貸し与えたまえ!緑術、蔓籠の戒(アドモニッシュ・バイン)!」
 ルルと呼ばれた方が何か呪文のようなものを唱えた瞬間、地面に蔓延っていた蔓がうねうねと蠢き始めた。
 そして、物凄い速さで少年を追い駆け、一箇所に集まったかと思うと、そのまま籠のように少年を閉じ込めてしまった。
「……!?」
 突然の超常現象に驚きを隠せずにいる少年。
 そして、ザッ、ザッとまるでいたぶるかのように一歩ずつ、一歩ずつ近付いてくる正体不明の生物に少年は底知れぬ恐怖をも感じていた。
 そもそも、何故、少年がこの少女達に追われることになったのか。それは、数時間前に遡る。
 従姉妹の家に一人で遊びに来た美波 優輝(みなみ ゆうき)は途中で道が分からなくなり、この広大な森で迷ってしまったのだ。
 優輝の従姉妹の家はお世辞にも都会とは言えない田舎の村にあり、その村にはこんな言い伝えがあった。
 あの森は決して踏み込んではならない神聖な場所だ、と――
 その言い伝えを思い出した優輝は出来るだけ早く森から抜け出そうとしたのだが、遅かった。
 優輝は会ってしまったのだ、人ならざるものに。
 一見、人と変わらないのだが、実際は大きな違いがあった。人には存在しないはずの獣耳、尻尾、長い爪、鋭い牙。
 優輝はそれを見てたちまち恐怖し、逃げ出したのだが、途中で見つかってしまい、今に至るというわけだ。
「ふぅ。全く、手こずらせてくれたわね」
「うふふ、つっかまーえた!」
「質問の途中で逃げるなんて酷いじゃない」
「そーだよー!別にあたし達はキミを取って食べようとなんて思ってないのにっ!」
 食べる、という言葉に優輝は更に怯え、ぶるぶると肩を震わせ始めた。
「すっかり怯えちゃってるわね……。とりあえず、それ外してあげたら?」
「ん、そーだねー。緑術、解除!」
 先程まで優輝を閉じ込めていた蔓がその言葉で嘘のようにしゅるしゅると戻っていった。
 今、自分を邪魔するものは何もない。優輝はその隙を狙って逃げ出そうと試みたが、それはいとも簡単に阻まれてしまった。
「おっと、もう逃がさないわよ」
 がっしりと腕を掴まれ、完全に逃げ道を絶たれてしまう。
 これまでかと半ば諦めかけたその時、茂みの中から謎の女性が躍り出た。
 そして、赤い長髪を靡かせながら、ゆっくりと優輝達に近付いていく。
「誰かしら?今、取り込み中なのだけれど」
「それ以上、その人に触れることはこの私が許しません」
「……は?あなた一体、誰なのよ!?見たところ、私達と同じ獣人みたいだけど?」
「ララちゃーん、邪魔者はやっつけちゃおうよー」
「ふっ、そうね。誰だか分からない人に邪魔されるなんて御免だわ!」
 ララとルルが謎の女性に襲い掛かる。
 ララが右から攻撃を仕掛け、ルルが左から攻撃を仕掛ける。つまり、挟み撃ちの形だ。
 しかし、謎の女性はそれをひらり、ひらりとかわしていく。
「ほらほら、避けるだけで精一杯?さっきまでの威勢は何処へ消えたのかしら!?」
「あははっ、よわっちぃ!」
 彼女が故意に反撃をしていないことにララとルルは気付かなかった。
 完全に弱いと決め付け、ただ闇雲に攻撃をし続けている。
 そんなララとルルの攻撃の手が緩むのにそう時間は掛からなかった。
「くっ……何なのよ、コイツ!ルル、あれ頼むわよ!」
「ごめーん、力使い過ぎちゃったぁ……」
「そちらから吹っ掛けて来ておいてもう終わりですか?では、今度はこちらが……」
 そう言うと、謎の女性は片手を横にかざした。
 すると、その手に光が集まり始め、やがて、一本の刀が姿を現した。刀身が陽光で反射してキラリと光る。
 その刀身の真っ赤は元々の色なのか、或いは幾多の者を斬り殺し、吸い続けたきた血なのか。
 それを知っている者は当人だけであろう。
「この私に喧嘩を売ったこと、あの世で後悔しなさい」
 謎の女性がその刀を一振りした瞬間、その跡を沿うようにして数多の赤い斬風が現れた。
 そして、それは物凄い速さで次々と二人を斬り刻んでいき、立ち込めた煙が晴れた所には二人の姿はなかった。
 そこにあったのは、ただ、おびただしい量の血と凄まじい攻撃の跡だけであった。
「己が愚行を悔い改めることですね。……さてと」
 謎の女性はくるりと優輝の方を向き、一歩、また一歩と近付いていく。
 返り血を浴びて赤く染まったその姿に優輝はすっかり竦みあがり、歯をガタガタと鳴らして震える。
 そして、何より、その眼が怖かった。その赤い双眸は優輝を射抜いて決して離さない。
 物理的な何かに縛られているわけでもないのに、まるで金縛りに掛かったかのように優輝の身体はピクリとも動かなかった。
 そうこうしている内に既に謎の女性は優輝の目の前に立っていた。
 特に何かをするわけでもなく、ただただ、無表情のまま優輝をじっと見下ろすだけである。
 やがて、少しずつその距離が縮まっていき、遂にその顔が目と鼻の先まで近づいたとき、優輝は気を失った。
「大丈夫……って、あら?気を失っていますね……。仕方ありません、連れて帰りましょう」
 そう言って謎の女性は優輝の膝の裏と背中の部分を持ってひょいと持ち上げる(いわゆる、お姫様抱っこ)と、そのまま茂みの中へと姿を消した。



 周りに広がるのはただ一面の白。白以外、何も無い、白だけの世界。
(ここは何処だろう……?確か僕は……)
 やがて景色が変わり、そこは森となった。そこに二人の少女と刀を持った一人の赤髪の女性が現れる。
 赤髪の女性は二人の少女を斬り殺し、辺りはたちまち血の海となった。いや、正確には血の森と言うべきであろうか。
 優輝はその光景を見て、思い出した。見るに堪えないおぞましい惨劇を。
 赤髪の女性が血の滴り落ちた刀を引き摺って、今度は優輝にゆっくりと近づいていく。
 そして、目の前まで来ると、にっこりと微笑みながら刀身をぺろりと一舐めし、そして――
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 ガバッと飛び起きる優輝。その額には嫌な汗が滲んでいる。
「ゆ、め……?」
 確かに目の前で行なわれていたあの光景は果たして本当に全て夢だったのだろうか。
 夢にしてはやけに現実性があり過ぎたが、よくよく考えてみれば、人殺しなんて有り得るわけがない。第一、今こうして温かいベッドの中にいる。
(そうだ、森に迷いこんだこと自体が夢だったんだ。少し疲れて、従姉妹の家で眠っていただけなんだ……)
「そ、そうだよ、全部夢だったんだ……」
 優輝はそう信じた。いや、信じたかった。
 だが、それは夢などではなく全て現実に起こったことなのだと知らされる時が近付いていることに優輝は気付かなかった。
 ドアノブがガチャリと回され、ゆっくりとドアが開く。
 そこにいたのは優輝の従姉妹、ではなく先程の赤髪の女性だった。
「……!?」
「あら、目が覚めましたか」
 にっこりと微笑みながら、優輝に近付いていく赤髪の女性。
「ひっ……!」
「あぁ、これが怖いんですね」
 手にしていた刀を宙にかざし、愛おしそうに眺める。
「綺麗な刀でしょう?この刀は一体、どれくらいの血を吸い続けてきたのでしょうか?何千、何万?或いは……。あなたはどう思います?」
「ぅっ……」
「綺麗なだけじゃなくて切れ味も凄いんですよ」
 試してみます?と、刀を優輝の首に突き付ける。
「あぁ、お願いだから殺さないで下さいぃ……」
「……くすくす、うふふっ!ちょっと冗談が過ぎましたか?」
「え……?」
「うふふっ、わたくしはあなたを殺すつもりは毛頭ありませんよ。あ、私、紅狼(こうろう)と申します。『くれない』に『おおかみ』と書いて紅狼ですね」
 紅狼と名乗った女性の頭には確かに名前の通り狼のような耳が生えている。それに、牙も鋭いし、爪もかなり長い。
 先程、優輝を追い掛け回していた少女達と同じ獣人であろう。
「それにしても、どうしてこの森に?」
「あの、知り合いの家に行く途中に道に迷ってそれで……」
「なるほど。それでは、故意にというわけではないのですね?」
「はい……」
 紅狼の表情が急に険しくなる。
「ここは神聖な森です。普通ならば、軽々しく足を踏み入れて良い場所ではないのですが……」
「あぁ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ……!」
「……あなたは可愛いから今回は見逃してあげましょうか」
「へっ……?」
「あら。それとも、この刀の錆になりたいですか?」
「い、いえいえ!ありがとうございます……!」
「うふふっ」
 優輝はこの時、初めて心の底から安心することができた。
 もし、あのまま紅狼に助けられていなければ、今頃は……。
「あっ!あの、危ないところを助けて頂いてありがとうございました!」
「いえいえ。私も良い憂さ晴らしになりましたから」
 にっこりと笑う紅狼の顔を見て先程の光景がフラッシュバックし、軽く鳥肌をたてる優輝。
「そ、それにしても、紅狼さん強いんですね!あの二人はちょっと可哀相でしたけど……」
「この私に反抗的な態度を取ったのがいけないんですよ。それに、あの時は丁度、機嫌が悪かったですから」
 この人は絶対に怒らせないでおこうと優輝は堅く心に誓った。
 怒らせてしまったら、きっと半殺しは免れないであろう。機嫌が悪ければ、血祭り確定だ。
「この森には色々な獣人がいます。神聖と言っても野生は野生ですからね。物凄く凶暴な獣人もいますから、外に出る時は必ずわたくしに声を掛けて下さいね」
「はい、分かりました」
「まだお疲れみたいですから、もう少し休んでみてはどうですか?それに、もうすぐ暗くなる頃ですし」
「えっと、じゃあ、お言葉に甘えて……」
「あ、まだ名前を聞いていませんでしたね」
「あっ、美波 優輝です。優輝って呼んで下さい」
「では、優輝君。私は近くにいますから、何かあれば声を掛けて下さい」
 そう言い残して、紅狼は外へ出て行った。
 やっと落ち着いた優輝は家の中を見回してみる。
 森の中に建っていることだけあって、家の中のほとんどが木で造られているようだ。
 これ程の物を全て一人で造るとなると、相当の時間と労力が必要であっただろう。
「紅狼さんって凄いなぁ……」
 優輝も思わずそう零してしまう。まぁ、実際は獣人にとって家一つ建てることぐらい容易いことなのだが。
 そんなことを考えていると、優輝は強烈な睡魔が自身を襲うのを感じた。
「眠くなってきちゃった……。もう少しだけ寝よう……」
 そして、そのまま優輝は夢の世界へと落ちて行った。
「ん……」
 優輝が目を覚ましたのは辺りがすっかり明るくなってからのこと。
 部屋にはトントンと何かを刻む音が響き渡っている。
 あまり慣れていない森の中に長い時間いたことですっかり時間の感覚が欠乏してしまった優輝はとりあえずベッドから起きて、
その音がする奥の方へと歩み寄り、そっと覗き込んだ。すると、そこには料理をしている紅狼の姿があった。
 木製のテーブルの上にはまだ作り途中ではあるが、二人分の食事が用意してある。
「あら、目が覚めましたか。おはようございます」
「おはようございます」
 優輝の姿に気付いたのか、振り返って挨拶をする紅狼。優輝もそれを返す。実に爽やかな朝だ。
「もうすぐ朝食が出来上がりますから、それまで顔でも洗って待ってて下さい」
「はい、分かりました」
 紅狼に言われた通り、顔を洗いに行く。だが、ここは森の中だから、当然、水道などない。優輝は外にあった井戸を使って顔を洗った。
 優輝はふと辺りを見回した。周りには木しかないが、何処と無く癒される感じがした。木々の独特な香りや柔らかい木漏れ日、静かな森に響き渡る小鳥のさえずり。
 追い駆けられていた時は気付きもしなかったが、そこはとても美しかった。
「これが神聖って呼ばれてる理由なのかな……」
 そんなことをぶつぶつと呟きながら家に戻ると、既に朝食の準備が完了していた。
 木製のテーブルの上にはご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、海苔といった至って一般的な朝食が二人分、並べられている。
「さてと、頂きましょうか」
「はい。いただきます」
 静かな食卓に時折、木製の食器同士がぶつかり合う音が響く。
「食事まで用意してもらって、本当に申し訳ないです……」
「いえいえ、これくらい簡単なことですから。味の方は如何ですか?」
「はい、とても美味しいです!」
「うふふっ、それは良かったです」
 それは、お世辞などではなく心の底からそう思って出た言葉である。
 何でもこなしていく紅狼のことを、優輝はただただ尊敬するばかりであった。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様でした」
「あっ、食器は僕が洗って来ますね。紅狼さんには迷惑ばっかり掛けてますから……」
「そうですか?では、お言葉に甘えて」
 二人分の食器を持って行き、せっせと洗っていく優輝であったが、自分の胸元を見て重大なことに気付いた。
「あれ、無い……!?」
 自分が着ている服のポケットというポケットを探すが、見つからない。優輝は大慌てで家の中に戻った。
「こ、紅狼さぁん!」
「そんなに慌ててどうしたんですか?」
「ぼ、僕が気を失った所でペンダントを拾いませんでしたか!?」
「ペンダント?いえ、見かけていませんけど……」
「あぅ、どうしよう……!」
 今にも泣き出しそうな顔の優輝。紅狼がそれを見て可愛いとか思っていることは内緒である。
「大切な物なんですか?」
「はい……。僕の死んじゃった父さんの形見で、命と同じくらい……いえ、命よりも大切な物なんです!」
「形見……ですか。それは、大変ですね」
「僕、探して来ます!」
 出て行こうとする優輝を紅狼は少し強めの口調で制した。
「待ちなさい。私が優輝君に話したこと、もう忘れたんですか?」
「でもっ……!」
「私も一緒に行きましょう。一人では危険です」
「い、いいんですか……?」
「優輝君こそ、凶暴な獣人に襲われても良いんですか?」
 良いんですか、の部分を強調的に言う紅狼。それを聞いた優輝の顔はたちまち青ざめていく。
「ぅ……。お、お願いします!」
「それに……」
「え?」
「いえ、何でもありません。急ぎましょう」
「はいっ!」
 紅狼はその先は言えなかった。否、言いたくなかったのだ。
 他の獣人に優輝が盗られてしまうのは嫌だ、と。
 何故ならば、この森は……。
 急いで駆け出した二人は優輝が気を失った場所辺りに辿り着いた。
「確かこの辺りですね。落ちていませんか?」
「んー、無いです……」
「じゃあ、もう少し奥かもしれませんね」
「そうで……あっ!」
 優輝は少し遠くで何かがキラリと光るのを見逃さなかった。
 それが探している物かどうかは分からないが、今はそんなことを言ってられる状況ではなかった。
 優輝はそのキラリと光った物に近付いて行き、やがて、喜びの声をあげた。
「紅狼さぁん、ありましたぁ!」
「見つかりましたか。良かっ……優輝君、伏せて!」
「?」
 言われた通り伏せると、頭のすぐ上を何かが通り過ぎて行くのを優輝は感じた。
 そして、ぱらぱらと何かか落ちてくる。それは自身の髪の毛であった。
「え……」
 紅狼は物凄い速さで優輝の許へと駆けつけ、彼を自身の後ろに隠した。
「優輝君には申し訳ないですが、無傷で帰るわけにはいかないようですね」
「どういう……」
「おや、誰かと思ったら紅狼ではないか。久しぶりだな」
「やはり、貴女ですか、蒼虎(そうこ)」
 優輝が後ろからそっと覗くと、そこには紅狼に良く似た獣人の女性が立っていた。
 だが、蒼虎と呼ばれた女性は紅狼とは違い、髪の毛は青い長髪。片手には青い刀を持っている。
「何の用ですか」
「そんな冷たい言い方をするな。お前と私の仲ではないか。……お前の後ろにいるそれは何だ?」
 優輝と蒼虎の目が合った瞬間、優輝は自身の力で立てなくなり、その場に身を崩した。
「ひぁっ!」
「優輝君。極力、彼女のことは見ないで下さい。人間ならば、獣気に当てられてたちまち気絶してしまいますから」
「わ、わか、わかりまし、た……」
「少し言うのが遅かったかもしれませんね……」
 優輝は既に蒼虎の獣気に当てられてしまったため、意識が飛ばないようにするのがやっとである。
「どうして、この森に人間が、しかも、男がいるのだろうな?これは私の見間違いなのだろうか」
「出来れば、そういうことにして欲しいですね。まぁ、貴女のことですから無理でしょうけど」
「紅狼よ、お前、情にでも駆られたのか?男を嫐り、犯し、食らい続けてきたお前が何故、男を庇っている?」
「……それは過去の話です。もう私は獣としての情は捨て去りました」
「獣の情を捨て去ることなど出来ぬこと、お前が良く知っているであろう?」
「私の決意は獣の情などに負けたりはしません」
「愚かな。お前という者が、あろうことか人間如きにたぶらかされたか。……いいだろう。私が真のお前を呼び起こしてやる」
 そう言うや否や、蒼虎は物凄い速さで紅狼に斬りかかった。それを紅狼は受け止め、弾き返す。
「剣の腕は全く鈍っていないな。寧ろ、上達しているようだ。それでこそ我が宿敵に相応しい」
「お喋りが過ぎると、舌を噛みますよ」
「ふっ、心配は無用だ。用があるのはお前ではないからな」
「しまった……!優輝君、逃げて!」
 そう、最初から蒼虎の狙いは紅狼ではなく、優輝だったのだ。
 紅狼も地面を蹴って優輝の許へと急くが、蒼虎の攻撃を受け止められるかは激しく微妙だ。
 やがて、ドスという鈍い音と共に辺りに血が飛び散った。
「お前、何故そこまでして……!」
「どう、ですか……私の決意の堅さが分かった、でしょう……」
 紅狼の腹部からポタリ、ポタリと血が滴り落ちていく。
「愚かな、愚かな!最早、お前は以前のお前ではないようだな……。二人まとめて斬り殺してやる!」
 そう言って蒼虎は刀を二人目掛けて振り上げた。
(あぁ、わたくしはこのまま斬り殺されるのでしょうか。
いえ……私が殺されたら、誰が優輝君を護るんですか。それ以前に、私が死んだら優輝君も殺されてしまう。
優輝君が殺される……?誰に?蒼虎に?私に?優輝君が殺さレル?だレニ?ユウキクンガコロサレ……)
「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「何……!?」
 叫び声と共に紅狼の身体が赤く発光し、辺りには煙が立ち込め始める。
 そして、煙が晴れた場所に立っていたのは確かに紅狼だった。だが、以前の彼女とは何処かが違う。
 頭にあった獣耳は二つから四つに増え、一本だった尻尾は二本に分かれている。
「まさか、超獣力を会得したのか!?だが、あれは……」
 超獣力とは内に秘めた獣力を瞬間的に爆発させ、身体能力を劇的に高める能力である。
 だが、それは身体に相当な負担をかけるため、頻繁に使うのはあまり好ましくない。
 しかも、超獣力はコントロールが出来ない獣人が使用すると、その負担は倍以上に跳ね上がり、更に力の制御も出来なくなる。
 つまり、超獣力は極めて危険な能力なのである。
「紅狼は本当に会得したのか……?獣人の中でも超獣力を使えるのは私と極一部の……」
 いつの間にか紅狼は蒼虎の目の前に回立っていた。そして、無言のまま蒼虎に向けて刀を振り下ろす。
 避けきれないと判断した蒼虎はそれを刀で受け止めた。柄を通じて蒼虎の両手にビリビリと振動が伝わっていく。
 それは、紅狼が超獣力を扱いきれていないことを暗示していた。
「くっ、やはり、制御が出来ていないな……。おい、紅狼!今すぐ、超獣力を解け!」
「……」
「ちっ、私の言葉さえも耳に入らぬか……」
 蒼虎はちらりと優輝の方を見て、そのまま彼の傍まで駆け寄った。
「おい、貴様。よく聞け。今、紅狼は超獣力という能力を発動している危険な状態だ。簡単に言えば、誰彼構わず襲い掛かる殺戮兵器のようなものだ」
「こう、ろうさんが……?」
「そうだ。今から、私も超獣力を発動させて紅狼を止める。だが、貴様がそこにいると気が散ってあいつを止めることが出来ん。もっと遠くに行ってろ。命が惜しければな」
「で、でも、それじゃあ、蒼虎、さんが……」
「黙れ。貴様は自分の心配でもしていろ。さぁ、早く行け」
「あ、でも、からだ、が……」
「ちっ、不本意だが……」
「わわっ……!?」
 蒼虎は優輝を軽々と背負い、そのまま紅狼と反対方向に駆け出す。そして、紅狼と少し離れた場所に優輝を降ろす。
「この辺りか……。良いか。何があっても絶対にここを動くな」
「そ、蒼虎、さん」
「何だ」
「こう、ろうさんを、元に戻してあげて、くださ、い……」
「ふん。貴様などに言われなくても、端からそのつもりだ。良いか、絶対に動くなよ」
 そう言って、蒼虎は紅狼の許に戻って行った。
「待たせたな、紅狼」
「……」
「今から私はお前を殺すつもりで止める。まぁ、せいぜい死なないようにしろ」
「……」
「いくぞ、紅狼!超獣力、発動……!」
 蒼虎の身体が青く発光し始め、紅狼の時と同様に辺りに煙が立ち込める。
 やがて、煙が晴れ、超獣力を発動した蒼虎の姿が現れた。
 姿は特に変わっているようには見えないが、彼女が持っている刀には大きな変化が見られる。
 一本だった刀が三本になり、その内の一本は彼女の背後に浮遊している。
 ただ力が分散しただけのように見えるが、実際は個々で一つ分の力を持っているので、実質は三倍の力を得たことになる。
 超獣力を発動した二人のいる場所は凄まじい獣気が充満しており、何人たりともそこに近付くことは適わない。例え、それが獣人だとしても。
「……」
 ピリピリと張り詰めた空気の中、先に動いたのは紅狼であった。
 目にも止まらぬ速さで蒼虎の背後に回り、斬りつける。だが、蒼虎は少し右に飛んでそれを軽々と避けた。
 そして、着地して間髪を容れず、右足を使って足払いをかけるが、紅狼も大きく後ろに飛んでそれを避けた。
(無駄な動きが無く、隙も全く見えん……。流石、超獣力を発動させただけのことはあるな。以前の紅狼とは大違いだ。
戦闘において感情がこんなにも高揚するのは初めてかもしれないな。ふっ……皮肉なものだ)
「……」
 何を思ったのか、紅狼は円を描くように刀を回し始めた。
(む……?)
 徐々に紅狼の刀身が炎を帯びていく。
(ちっ、いきなり大技を繰り出すつもりか……!いや、こちとら時間は掛けられん。早目に終わらせるに越したことはないな)
 蒼虎が持つ三つの刀の切っ先にバチバチと電撃が生じ始める。
「我が刀が呼び起こせしは厳格なる霆帝、汝を穿つは蒼々たる雷撃、屠れ……蒼雷轟天衝!」
「……」
 紅狼の放った炎と蒼虎の放った雷が空中で激突した。
 お互いは押しつ押されつ、ほぼ互角の威力で滞空している。
(くっ、技の威力も申し分ないな……。私の技と対等、いや、それ以上かもしれん……)
 段々と炎の面積が大きくなっていき、それに反して雷の面積は小さくなっていく。
(まずい、このままでは……)
 蒼虎が焦り始めた時、弱々しかったが、確かに優輝の声がした。
「貴様……!?」
「こう、ろうさん……!」
「馬鹿者!あそこを動くなとあれ程、言ったであろう!」
「で、でもっ……僕の、せいで、こう、ろうさんが……!」
「だからと言って、貴様がここに来ても……」
 蒼虎は炎の威力が一瞬だけ弱まったのを見逃さなかった。
(む……?)
「こう、ろうさん……!」
「……グッ!あ、あたまガ、わレル……!」
(奴の声に反応している……?)
「こう、ろうさん……お願いだから、元に、戻って!」
「あたまガァッ……!いたイ、われル……!」
「そうだ、紅狼!この程度で自我を忘れるお前ではない筈だ!」
「僕は、無事ですから、だから……」
「「元に戻れ(戻って)!」」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
 叫び声と共に紅狼の身体は雷の衝撃で吹き飛ばされ、やがて、動かなくなった。
「!?こう、ろうさ……」
 何とか意識を保っていた優輝も遂に力尽き、その場にドサリと倒れ込んだ。
 蒼虎は超獣力を解いて、二人の傍まで歩み寄り、肩に担ぐ。
「全く、人の話を聞かないからこうなるのだ、大馬鹿者。お前もだ、紅狼」
 そして、蒼虎はそのまま森の奥へと消えていった。

後編

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最終更新:2007年06月30日 21:57