第5話(BS37)「鮮血に染まる空」 1 / 2 / 3 / 4

※注:本記事の前にブレトランドの英霊3を読んでおくことを、強く推奨します。

1.1. 長城線の危機

 ヴァレフール北東部に位置する対アントリア国境付近に「長城線(ロングウォール)」という名の巨大な城壁が存在する。その長城線に沿うように存在するオディール、オーロラ、ジゼルの三町村では、「長城線の三本槍」(下図)と呼ばれるケリガン家の三兄弟が領主を務め、アントリア軍の侵略に備えていた。


 その三兄弟の末弟にあたるジゼル領主リューベン・ケリガン(上図右)が、独自の情報源から、アントリア軍に関する不穏な噂を入手した。時を同じくして、長城線の中核に位置する城塞都市オディールを守る長兄ロートス・ケリガン(七男爵の一人/上図左)の契約魔法師オルガ・ダンチヒ(下図左)もまた、自身の未来予知能力によって、この長城線に危機が迫りつつあることを察知する。二人からの進言を受けて、ロートスは次兄ゲンドルフ・ケリガン(オーロラ領主/上図中央)や、ロートスのもう一人の契約魔法師であるオデット・ダンチヒ(下図右)を招聘し、対策を講じることになった。


「ノルド侯国の空襲部隊が、極秘裏にアントリアに入国した模様です」

 ノルド侯国とは、ブレトランド小大陸から見て海を挟んだ東側に位置する大陸北部の半島を支配する大国であり、アントリアが所属する大工房同盟の中核国家の一つである。アントリアとノルドは密接な協力関係にあり、アントリアによるトランガーヌ侵攻の際にはノルド所属の白狼騎士団が大きな役割を果たしたことで知られている。ノルドの主力は海軍だが、陸海両面において活躍する特殊な「空襲部隊」も存在するという情報は、以前からブレトランドにも届いていた。

「我等が長城線の投石機を用いれば、空からの攻撃にもある程度の数までは迎撃出来ますが、ノルド空軍に関してはその実態も数も不明確である以上、敵の総数次第では、現状の投石器の数だけでは対応は困難かもしれません」

 リューベンはそう語る。これに対して、オデットが手を挙げた。

「私がペリュトン(半鳥半鹿の魔獣)の瞬間召喚の魔法を使えば、我が軍の部隊を飛行可能にすることで、空中戦を展開することも可能です」

 この時、彼女の姉弟子であるオルガは一瞬動揺する。オデットは「青(本流)」の学派出身の召喚魔法師であり、ペリュトンを呼び出す魔法は「浅葱(亜流)」の学派の魔法なので、まだ本業である青の学派の魔法ですら一線級とは言えない(ことになっている)オデットが、専門外である浅葱の学派の魔法を習得していることを公にすることは、彼女の「魔法師としての経歴」への疑念を抱かせる可能性のある不用意な発言である。だが、幸いにしてこの場にいる中で、そのことに気付ける者はオルガしかいなかった。
 そんな心配性のオルガの心の内には誰も気付かぬまま、今度は次兄ゲンドルフが口を挟む。

「だが、その空襲部隊が敵の本隊かどうかは分からん。陽動だった場合、主力部隊が空に上がっている間に地上から攻められるかもしれんぞ」

 もっともな指摘である。そもそも、現状のオディールの戦力は、アントリア側の最前線基地であるクワイエットの常備戦力を抑え切るだけでも手一杯なので、そこにノルドからの援軍が加わるとなると、そもそも根本的に兵の頭数が足りなくなる可能性が高い。そのことを踏まえた上で、長兄ロートスが打開策を語り始める。

「それなら、万が一に備えて援軍を呼びたいところだけど、どこに依頼すればいいかな? 半年前の継承問題の時にウチは立場を明確にしなかったこともあって、どっちの陣営からもあまり快くは思われていないんだよね……。とはいえ、さすがにこの状況であれば、派兵してくれるとは思うんだけど……」

 先代ヴァレフール伯爵ブラギスの急死後、長男ワトホートによる継承を認める者達(副団長派)と認めない者達(騎士団長派)で分裂した際、ロートスは(ユーフィーやイアンと共に)「中立」を宣言した。これには、ロートスの二人の弟の「婿入り先」の事情も影響している。次兄ゲンドルフが領主を務めるオーロラ村は聖印教会の影響力が強いため村内には副団長派に近い者達が多いのに対し、末弟リューベンの妻は騎士団長ケネスの縁者であるため、どちらに協力することになっても、三兄弟の間に亀裂が入る。対アントリア戦線の最前線であるこの地でそれだけは絶対に避けなければならないと考えたロートスは、あえて「伯爵位継承問題には一切口出ししない」という方針を弟達と共有することで、中央の対立から距離を置き続けてきたのである。
 そんな中、彼の契約魔法師であるオルガが手を挙げた。

「それならば、まず騎士団長殿に話を通すのが筋ではないでしょうか? 立場を鮮明にしなかった以上は、序列に従って行動すべきです」
「なるほど、序列か……」

 ロートスは納得したような表情を浮かべるが、次兄ゲンドルフは即座に異議を唱える。

「序列というなら、今の時点ではワトホート様の意向を優先すべきではないのか?」

 ゲンドルフの立場としては、そう言わざるを得ない。実際のところ、彼は本来は聖印教会のことをあまり快く思っている訳でもないため、中央の対立に関しては「どちらでもいい」というのが本音なのだが、妻の実家の家臣達が副団長派で固められている以上、ここで現伯爵よりも騎士団長の意向を優先することを看過する訳にはいかない。
 これに対して、騎士団長派に近い立場であるリューベンからは特に反論もなかった。彼がその裏で何を考えているのかは不明であるが、オルガはその二人の様子を踏まえた上で、話を進める。

「そうかもしれません。いずれにせよ、どこかの領主に個別に頼むのではなく、『ヴァレフールという国家そのもの』に要請するのが筋でしょう」

 問題は、その「ヴァレフールそのもの」の主権者がどちらなのか、という認識を巡って国内が割れている点なのだが、彼女はひとまずその点は曖昧にしたまま、喫緊の課題の解決を優先する。ロートスは、その方針に対してどちらの側からも反論がないことを確認しつつ、暫定的な結論を下す。

「では、ワトホート様に連絡した上で、誰かを派遣してもらうことにしよう。オルガ、お願いしていいかな?」
「分かりました。では、私が手配します」

 オルガはそう答えると、その場で首都ドラグボロゥに滞在するワトホートの契約魔法師団に対して、魔法杖を用いて「援軍要請」の旨を即座に伝えるのであった。

1.2. 援軍要請

 オルガからの依頼に対して、ドラグボロゥの魔法師団からの反応は早かった。彼等は、現在ヴァレフール北西部の古城クーンに滞在中のトオヤ・E・レクナ率いるタイフォン軍が、現時点で最も自由に行動出来る遊軍であると判断し、彼等を援軍として派遣することを提案する(距離的には中北部の湖岸都市ケイに駐在するガスコイン軍なども存在するが、戦略的に中央山脈を経由したアントリア軍の侵攻を警戒するという意味でも、彼等を動かす訳にはいかなかった)。
 これはオディール側にとって、最も望ましい提案であった。ワトホートに援軍を依頼した上で、騎士団長派のタイフォン軍が派遣されるのであれば、結果的にどちらの側の顔を立てることにも繋がる。しかも、現在、タイフォン軍にはワトホートの娘である次期伯爵候補のレアも加わっているとのことなので、兵の士気を上げるという意味でも、理想的な人選であった。
 オルガがその方針を快諾すると、すぐさまクーンに滞在中のチシャの元へ、ワトホートの契約魔法師団から、正式に「オディールへの援軍要請」の連絡が届く。そしてこの時、チシャは(いつも通り)トオヤに付き合わされる形で、クーンの城下町の甘味処巡りの最中であった。その場には(いつも通り)カーラも「レア」もいる。

「……ということで、援軍要請が来ているのですが、どうしましょう? 私としては、受けて問題ないと思いますが」

 チシャはそう問いかける。一応、まだトオヤ達は形式的にはワトホートの直属の傘下に加わった訳ではないため、あくまで「命令」ではなく「要請」ではあるのだが、特に断る理由も彼女の中では思い浮かばなかった。

「構わないさ。どうせ、遅かれ早かれオディールには行くつもりだったんだろう?」

 「レア」はそう答える。実際、オディールの領主ロートスは、ユーフィー、イアンと並ぶ「中立派」の大物である以上、これはまさに渡りに船の依頼である。
 一方、カーラはやや不安そうな顔でトオヤに問いかけた。

「レア様も御一緒に、ということでいいのかな? 前線地帯だよね……?」
「だからこそ、レア様が行くことに意義があるとも言える。今回の旅の趣旨を考えれば、そういった地を巡ることもまた、ちょうどいい機会でもあるしな」
「そうだね。前線で戦っている人達にとっても、レア様が慰問に来るのは励まされるだろうし、ボクは賛成だよ」

 こうして、トオヤ達はオディールからの要請に従い、即座に現地へと向かうことになった。なお、オディール側からは、少しでも早くトオヤ達に到着してもらうために、オデットがペリュトンに乗って迎えに行くという旨が伝えられる。彼女の呼び出すペリュトンは、飛行に特化する形であれば大量召喚が可能であり、通常の騎兵の倍の速度で大部隊を移動させることが可能となる(しかも、飛行移動であれば地形を気にすることなく直線距離の最短ルートで移動可能である)。
 とはいえ、それでも彼女がクーンに到着するまで二日はかかる見込みだったため、その間に少しでも近付くために、ひとまず隣町のイェッタへと向かうことになった。幸い、オデットとチシャはエーラム時代に同じ召喚魔法科で学んだ間柄のため、互いの魔法杖で直接連絡を取り合うことも可能であり、「行き違い」を心配する必要もない。
 こうして、急遽出立ことになった彼等が、ひとまずイアンとヴェラに挨拶に向かうと、イアンは政務で多忙であったため、ヴェラが話を聞くことになった。

「なるほど。それは一大事だな。そういうことならば、むしろ私も同行した方がいいのでは? 私も前線からはしばらく遠ざかっていたが、だからこそ、そろそろ実戦で戦場の勘を取り戻したいところではあるし……」

 そう言って、久しぶりに「騎士」としての本能を燃え上がらせようとしていたヴェラに対して、慌ててカーラが止めに入る。

「旦那様が泣かれるので、お辞めになった方が……」
「あぁ、そうだったな。いかんいかん、ついまた悪い癖が出てしまった」

 思わずヴェラが自嘲気味に苦笑すると、トオヤとチシャも立て続けに釘を刺す。

「しばらくは夫婦水入らずで過ごされてはいかがでしょう?」
「その方がいいと思います」

 ここで彼女が不在になったことで再びリャナンシーが出現するとも限らないが、それ以前の問題として、帰郷したばかりのヴェラに再び単身赴任を依頼することは、色々な意味で心苦しい。だからと言って、イアンと共にオディールに向かうというのも、それはそれで対神聖トランガーヌ戦線を考えると不安が残る。代替わりしたばかりの二代目枢機卿は比較的穏健な宥和政策を打ち出そうとしていると言われているが、まだその政権基盤が安定している訳でもない以上、どうなるかは不透明であった(神聖トランガーヌに関してはブレトランドの光と闇2を参照)。
 こうして、彼等はドラグボロゥからここまで同行してきたヴェラに別れを告げ、副団長派(聖印教会派)のファルクが治めるイェッタへと向かうことになった。

1.3. 風雲児の正体

 トオヤ達が援軍要請を受諾した旨を伝えられたオルガは、彼等の出迎えのためにペリュトンに乗って飛び去ったオデットを見送った上で、自身の政務室へと戻り、誰もいない部屋の中で、時空魔法の秘儀を用いて「トオヤ・E・レクナ」という人物についての解析を始める。
 まだオディールに赴任して一年にも満たないオルガは、トオヤとは面識がない。騎士団長の孫であるにもかかわらず、政敵であるワトホートの娘であるレアを護衛してヴァレフール各地を回っているという情報は伝わっているが、果たして彼がどのような人物で、何を目的に行動しているのか、この国を支える七男爵の一人の契約魔法師として、当然、彼女の中でも関心は高まっていた。彼の進む未来の先に何が訪れるのか、この世界の根源に問いかけるような形で検証したオルガは、やがて彼に関する五つの「鍵」となる概念に辿り着いた。

「風雲」
「偽装」
「救国」
「純愛」
「闘病」

 それが、トオヤという人物の未来に待ち構えている運命である、というのが彼女の解析結果であった。無論、これはあくまでも「一つの未来の可能性」であって、この通りの運命を彼が辿ることが確定している訳ではない。

「『風雲』と『救国』は、それなりの実力を持つ者であることの証だろう。『純愛』と『闘病』は個人の問題だから、私の関与するところではない。しかし、『偽装』は気になるな。何を隠すことになるか、あるいは今の時点から既に、何か隠し事でもしているのか……」

 オルガはそう呟きつつ、タイフォン軍と合流した後に採るべき戦略について、一人思案を巡らせるのであった。

1.4. 聖騎士と魔法薬

 翌日、トオヤ達がイェッタに到着すると、この地の領主であるファルクが出迎える。その手には、高級そうな革製の鞄が握られている。

「皆様、ご壮健なようで何よりです」

 ファルクはトオヤ達をドラグボロゥに送り届けた後、すぐに単身このイェッタへと帰還していた。その間にトオヤ達がテイタニアの魔獣問題を解決したことは、彼の耳にも届いている。

「お久しぶりですね、ご機嫌麗しゅう」

 「レア」が笑顔でそう答えると、ファルクも軽く会釈しつつ、やや深刻な表情で話を続ける。

「姫様達はこの後すぐ、オディールに向かわれるのですか?」
「えぇ。既にお聞き及びでしたか」
「しかし、皆様、大丈夫なのですか? 連戦でお疲れなのでは?」
「私はいつも守られてばかりですから、大丈夫です。トオヤ達については心配ですけど、大丈夫ですか?」

 そう問われたトオヤは、胸を張って答える。

「いや、全然大丈夫ですよ。俺は体力があることと頑丈なことが取り柄なので」
「……だそうです。それならば、私が心配することはありません」

 そんな二人の様子を見て、少し安心した表情を浮かべたファルクは、その手に持っていた鞄を彼等に差し出す。

「では、もしよろしければ、餞別というほどのものではありませんが、こちらをお持ち下さい」

 その中に入っていたのは、エーラム製の魔法薬であった。ファルクは聖印教会の中でも比較的穏健派のため、エーラムに対して敵対的な姿勢は取らず、彼等からの技術提供も素直に受け取っている。しかし、彼の(特に父親の代からの古参の)配下の中にはその使用を快く思わない者達も多いため、滅多に使われることはない。そのため、このまま自分の手元に残しておくよりは、この機に彼等に渡した方が有用であろうと判断したのである。

「ありがとうございます、助かります」

 チシャがそう言って受け取り、トオヤ達に配分する。ケネスがファルクのことを「聖印教会派の中では話が分かる人物」と評しているのは、このような柔軟な対応が可能な点である。実際、ファルクは父親が熱心な信徒であったが故にその地盤を引き継がされてはいるが、彼自身は魔法師に対しても邪紋使いに対しても、特に悪印象を抱いてはいない。ただ、それでも父の代からこの街を支えてきた信徒達への義理もある以上、余計な軋轢を生み出さないように、契約魔法師を迎え入れることだけは避けていた。
 その意味では、先日の「チシャがトオヤと契約を交わした状態のままファルクの妻となる」というケネスの提案は、突拍子もない暴論のように見えて、実は北西部国境の防衛拠点としてのイェッタの最大の弱点である「魔法への対応力の弱さ」を補うためのギリギリの妥協策なのである。とはいえ、それはチシャにとっては「町の内外の信徒達の反感」と「国の内外の女性達の嫉妬」に囲まれた新婚生活を送ることを意味しており、ファルク個人への感情はともかく、とても現実的に受け入れられそうな話ではなかった。

1.5. 不可解な異変

 その頃、オディールの兵舎では、対アントリア迎撃戦の準備を進めていたオルガの元に、邪紋使いのセリム(下図)が駆け込んで来た。彼は龍に変身する能力を持つ邪紋使いであり、三兄弟の次兄ゲンドルフの親友として知られているが、実はオルガとも同郷の幼馴染の関係であった。


「オルガ、さっきオーロラのゲンドルフから連絡があったんだが、どうやらオーロラ近辺で急に混沌濃度が高まっているらしい」
「混沌濃度が……?」
「本来、あの村は聖印教会の加護もあって、そこまで混沌濃度が高い筈はないんだがな」

 このタイミングで混沌濃度が不自然に上がるということは、明らかに何らかの作為が感じられる。陽動の可能性もあるだろうが、少なくとも、放っておいて良い問題ではない。ちなみに、発生しているのは、オーロラの北東部、すなわち、長城線の外側(北側)の、ややオディール寄りの区域であるらしい。

「で、俺が救援に行きたいところなんだが、俺はあの村の連中からは色々と嫌われてるんでな」
「それを言ったら、私もだけどな」
「それでも、まだ魔法師の方が幾分マシだろう」

 聖印教会の教義として、「魔法師」と「邪紋使い」のどちらをより危険視するかは、実は宗派によりけりなのだが、まだ魔法師の方が「君主に忠実な存在」であるという印象が強く、見た目は「普通の人間」ということもあり、一般の信徒達に与える恐怖心は少ない(無論、中には「だからこそ、より危険」と考える人々もいるのだが)。邪紋使いの場合、混沌そのものをその身体に宿している上に、「いずれは必ず混沌に取り込まれて暴走する」と信じられている以上、一般大衆から見れば、「より分かりやすい脅威」なのである。ましてやセリムの場合、自身の身体を「龍」という異界の怪物に変身させる力の持ち主ということもあって、より敵愾視されやすい存在であった。

「分かった。そういうことなら、私が出よう。その代わり、このオディールにはオデットも私もいない状態になる。ロートス様のことは頼むぞ」
「もちろんだ」

 こうして、オルガは自身の直属の弓騎兵部隊を率いて、長城線の「頂面」に相当する屋根部分を西進し、オーロラへと向かうことになるのであった。

1.6. 飛行訓練

 一方、オデットは当初の予定通り、その翌日に無事にイェッタに到着し、ペリュトンに乗った状態で上空からトオヤ達の前に現れる。その光景を目の当たりにしたチシャは、思わず呟いた。

「あれは浅葱の系譜の魔法の筈……。別流派の魔法まで使えるようになっているとは……。そこまで差をつけられてしまったのですね……」

 もともとオデットの方が若干先輩であり、チシャも魔法師としての成長速度はかなり早かった方なのだが、それ以上にオデットの才能は当時の魔法学科の間では際立っていた(無論、その背後に彼女の「特殊な経歴」があることをチシャは知らない)。

「お久しぶりです、チシャ」
「はい、お久しぶりです」
「あなたがこの国の君主と契約したと聞いた時から、何度か挨拶に行こうと思っていたのですが、最前線ということもあって、なかなか余裕がありませんでした」
「いえいえ、わざわざ迎えに来て下さり、ありがとうございます」

 そんなやりとりを交わしつつ、オデットはトオヤ達にも軽く挨拶した上で、準備万端の状態で彼女の到着を待っていたタイフォン軍の面々に呼びかける。

「では皆さん、私の近くに集まって下さい」

 その声に応じて、オデットを取り囲むように兵士達が集まると、オデットは集中して魔法の詠唱を始め、やがて兵士達一人一人の足元に「小型の飛行型ペリュトン」が出現し、そのまま部隊全体が少しずつ宙に浮き上がる。この状態のペリュトンには戦闘能力はなく、運ぶことだけに特化された存在である。

「すごいですね、さすがです!」

 思わずチシャがそう声をかけると、オデットは軽く笑顔で答えつつ、全体に呼びかける。

「このペリュトンは、皆さんの指示に従って行動します。しかし、くれぐれも皆さん、私から離れすぎないようにして下さい。私の統御出来る範囲の外側に出ると、ペリュトンは消滅してしまいます」

 そんな彼女の指示に従いつつ、兵士達は戸惑いながらも、足元のペリュトンに命じながら、飛行の練習を始める。

「なかなかに現実味のない光景だな、これは」

 思わず「レア」がそう呟く。なお、さすがに馬車ごと乗せるのは難しいので、今回は彼女はそのまま「生身」の状態でペリュトンに乗っている。そのため、トオヤの部下の兵士達の一部では、当然のごとく「ある事実」に対する困惑が広がっていた。

「あれ? ドルチェ隊長は?」

 それに対して、トオヤは咄嗟に辻褄を合わせる。

「彼女は、姿を消すことも出来るんだ。だから、いざという時のために、こっそり見えない位置に控えてもらっているよ」
「なるほど。敵を騙すには、まず味方から、ってことですね」

 どうにかドルチェ分隊の兵士達はその説明で納得したらしい。実際のところ、ドルチェにはそんな能力はないのだが、邪紋使い一人一人の実態に関して、そこまで詳しく理解している者など、一般兵の中にいる筈もなかった。

1.7. 収束する混沌

 長城線の頂面を駆け抜けてオーロラ村に辿り着いたオルガは、ひとまず長城線の頂面にそのまま陣を張りつつ、領主のゲンドルフに話を聞くために伝令兵を送ったところ、彼は現在、村の近辺で発生した小さな混沌災害に対応するため出払っているという報告が届く。詳しい場所を聞いてみたところ、それはセリムが警戒していた「混沌濃度が上がっている区域」とはまた別の案件であるらしい。
 ひとまず彼女は長城線の頂面の上に陣を貼りつつ、セリムから聞かされていた長城線の外型(アントリア側)の一角を確認してみたところ、確かに、異様なまでに混沌濃度が上がっていることが分かる。彼女が更にその地域を細かく注視してみると、その領域の中心部分に、何者かが隠れている気配を察知した。

(これは……、姿を消す魔法?)

 オルガにはその魔法に心当たりがある。というより、彼女自身もその魔法を習得している。

(アントリア軍の中でこの魔法が使える者、ということは……)

 彼女は相手の正体の憶測を廻らせつつ、このまま放置しておく訳にはいかないと判断し、その領域の中心部に向かって、一直線に雷撃魔法を放つ。彼女にとっては、最初の牽制のつもりであったが、もともと混沌濃度が上がっていることもあって威力が膨れ上がり、その中心部にいた「犯人」に大打撃を与える。
 そして、彼(下図)は姿を現した。


「さすがに同業者の目はごまかせないようですね。しかし、これでもう大方私の役目は終わったと言っていいでしょう」

 彼はそう言って上空を見上げ、オルガに視線を移して一言呟く。

「adieu mademoiselle」

 故郷アロンヌの方言で彼はそう告げた上で、時空の扉を開いて、その場から消え去った。

「相変わらずキザっぽいというか、なんというか……」

 本人にはそのつもりはないのだが、アロンヌの方言は、他の地域の人々にはキザっぽく聞こえてしまうらしい。
 彼の名はスュクル・トランスポーター。アントリアの南東方面軍司令官ファルコン・トーラスの契約魔法師であり、オルガと同じ時空魔法師である。歳はオルガよりもかなり年上であり、彼女よりも先に契約魔法師としての地位に着いたが、同時期に魔法大学に在籍していたこともある。また、どちらも学生時代に一度大きな挫折を経た上でこの地に就職したという意味では、どこか似た境遇の持ち主であった(彼の人物像についてはブレトランドの英霊5を参照)。

「とはいえ、これでは追いかけようが無い。ひとまず、この辺りを調査して……」

 オルガがそう呟きつつ、スュクルが見上げていた空に視線を向けると、空中で徐々に混沌が収束しつつあるのが分かる。どうやら、スュクルが混沌濃度を上げた結果として発生した収束現象のようである。彼が召喚魔法を使えるという話は聞いたことがないが、ここまで大きな混沌核が偶然発生するとも考えにくい。おそらくは、時空魔法を用いて「収束が起きやすい空間と時間帯」を予想して引き起こしたのであろう。

「そういうことか……」

 彼女は伝令をオディールに走らせた上で、オデットに魔法杖で連絡を試みる。

「オデット、今、どの辺りにいる?」
「あ、はい、お姉さま、もうすぐオーロラの村が見えてくるところです」
「そこからもう少し東の方で混沌核が発生しつつある。そのまま援護に来てくれないか?」
「分かりました」

 オルガはその旨を確認すると、改めて兵士達に警戒態勢を取らせる。一度収束を始めた混沌核は、いくら混沌濃度を下げても自然に消え去ることはない(収束中の混沌核に雷撃の魔法を打ち込んでも、逆に混沌を吸収して強化されてしまう可能性もある)。浄化するには聖印が必要だが、混沌核の規模からして、オーロラ村に残っているゲンドルフの配下の従騎士程度では対応出来そうにない。
 ひとまず彼女は、兵士達に警戒を促しつつ、そのままオデット達の到着を待つことにした。

1.8. 鉄鎖の悪魔兵団

 それから数刻後、西の方角からペリュトン部隊が到着するのとほぼ同時に、オルガ隊が見上げる空中に、異形の魔物の集団が出現する。それは、鉄のような何かが鎖状に連なった悪魔のような怪物達であった。オルガも、オデットやトオヤ達も初めて見る投影体だが、その規模と数から察するに、相当な強敵であることが伺える。
 ペリュトン部隊の先頭に立つトオヤは、後方の「レア」に向かって叫んだ。

「レア姫、俺は空戦が初めてで、狙われた時に庇えるか分からない。下がっててくれ」

 「レア姫」はその声に応じて、自身の乗機であるペリュトンに命じて後方へと下がった。もっとも、これはあくまでも「建前」である。実際には彼女が本気を出せばトオヤが庇う必要もなく、大抵の攻撃はかわせるのであるが、今は「レア姫」の姿である以上、邪紋を使うことで周囲の面々を困惑させる可能性がある(一般兵だけならともかく、オデットの目をごまかせるかどうかは怪しい)。そして、逆に前線に立っているにもかかわらず聖印の力を使わない状況もまた、周囲に不信感を与えかねない以上、この姿の時は極力戦場から遠ざかるのが得策であった。
 そんな彼女の様子を確認した上で、トオヤは自身の聖印を掲げる。

「変身!」

 彼はそう叫びながら、新たな聖印の力を用いた「新装備」を初披露する(彼のこの力はあくまでも「鎧を強化する力」なので、鎧すら着ていなかったクーンの城での戦いの際には発動出来なかった)。以前の鎧の時は、聖印の力を加えることで肩の部分が黄色に輝く外装となっていたが、テイタニアで装備を新調した時に、武器を「槍」から「剣と盾」へと持ち替えると同時に、新たな鎧に対してもより強固な聖印の力を注ぎ込むようになった結果、全体的に「赤」を基調とした外観へと進化したのである(なお、このデザインとカラーリングの変化はトオヤの個人的なこだわりらしいが、 その由来 は不明である)。
 そして彼等の到着を確認した上で、オルガは彼等が鉄鎖の悪魔兵団に接敵する前に、地上から彼等に向かって一歩踏み込んだ上で、巨大な雷撃球を叩き込み、それに呼応する形で空中からはチシャがジャック・オー・ランタンの火炎を彼等に解き放つ。この大規模な魔法連撃で悪魔達の大半は消し飛んだが、それでも生き残った者達がオルガとチシャに向かって襲いかかってきた。
 トオヤ隊はその動きに気付くと、オルガ隊に向かって急降下して彼女達の間に入って、悪魔達の猛攻を完全に食い止めた。どうやら彼の新装備である「赤の装甲」は、並の部隊なら一撃で吹き飛ばすほどの威力でも弾き返す程にまで強化されているらしい。

「ほう、あれがトオヤか、凄いな」

 オルガは思わずそう呟く。もし、彼の助けがなければ、今の攻撃で自分は瀕死の重傷に追い込まれていただろう。やはり、彼等の到着を待っていたのは正解だったようである。ひとまずこの場は「お手並み拝見」とばかりに、彼女は一歩下がって上空の彼等に応戦を任せることにした。
 一方、チシャ隊へと遅いかかった悪魔達に対しては、チシャはオルトロスを自分と彼等の間に瞬間召喚することでどうにか耐えきり、そして彼女の傍らに固定召喚されていたトロールの一撃で、その悪魔達を一網打尽に粉砕する。
 それに続くカーラ隊の突撃で、トオヤ隊の前に立ちはだかる悪魔達の半分は消滅し、残り半分はトオヤ隊の攻撃耐え凌ぐものの、最終的にはチシャが放った攻撃魔法によって殲滅される。そんな彼等の様子を、「レア姫」は後方から静かに眺めていた。

(いざとなったら、こっそり変身して飛び込もうかとも思ったけど、必要なかったな)

 こうして、オーロラ村の近辺で発生した鉄鎖の悪魔兵団は、オディール・タイフォン連合軍によって、瞬く間に殲滅されたのであった。

1.9. 合流と再会

 トオヤが残された混沌核を浄化し、チシャとカーラが周囲の状況を警戒している中、オルガは下馬して「レア」に挨拶する。

「レア・インサルンド様でしょうか?」
「いかにも。オディール村の契約魔法師の方ですね?」
「はい」

 オルガはオディールに赴任してまだ一年未満なので、レアとは初対面である。

「そんなに固くならなくても結構ですよ。もう大方片付いたとはいえ、一応、戦場ですし」
「いえ、次期ヴァレフール伯爵となられる方に、不遜な態度を示すではないかと」
「とはいえ、まだ決まった訳でもないことですし」

 その発言を、オルガはあえて聞き流す。彼女は伯爵位継承問題に関しては建前上は「中立派」ではあるが、内心では現伯爵ワトホートの継承の正統性を支持していた。自分自身が先代オディール男爵の長男であるロートスの継承の正統性を主張してきた以上、よほどのことがない限り、「長子継承」の原則を曲げることは彼女には出来ない。よって、彼女の中ではワトホートの後継者は(彼の長女であるフィーナが行方不明である以上)レアであるべきと考えていたが、そのことをこの場で声高に主張出来る立場でもなかった。
 そんなオルガの本音を知る由もない「レア」は、素直に彼女の先刻の働きを労う。

「この戦いは少しばかり不測の事態でしたが、あなたの実力を確認させてもらうという意味では、良い機会だったかもしれません。素晴らしいお手並みでした」
「えぇ、オディールの兵は、そうそう負けることはないですよ」

 オルガが胸を張ってそう答えたたところで、混沌核の浄化を終えたトオヤが合流し、「レア」は彼にも労いの言葉をかける。

「トオヤ、ご苦労様でした」
「姫様の方は、大丈夫でしたか?」
「あなた方が前線で守ってくれたおかげで」
「それは良かった」
「『私の出番』が無いくらいにね」

 実際、「彼女の出番」が必要になった場合、色々と面倒な事態に陥っていた可能性がある。彼等がもっと苦戦を強いられていた場合、後方で何もせずに待機しているだけの「レア」に対して、オディール側からの(不信感とまでは言わないまでも)疑念は発生していただろう。

「えぇ、まぁ、若干チシャが傷を負ってしまいましたが、あの程度なら自力で治せるでしょう。彼女は回復魔法も得意ですから」

 トオヤは「レア」に対してそう告げるが、実質的にはこれはオルガに対しての「レア姫様が聖印の力を用いて癒す必要はない」というアピールであった。実際、チシャは自らの怪我を自らの魔法で完治させた上でカーラと共にトオヤ達の輪に加わる。
 そしてちょうどそのタイミングで、オーロラの領主であるゲンドルフ達が率いる警備隊が到着した。この一連の戦いの間に、彼等は彼等で村の反対側で発生した小規模の混沌災害に対応していて、こちらへの到着が遅れてしまったらしい。

「おぉ、私が出る前に一掃してしまうとは。さすがは噂に名高きトオヤ・E・レクナ殿!」

 ゲンドルフは素直に感嘆の声を上げるが、その直後、トオヤの隣に立つカーラの「本体」を見て、声を荒げる。

「そ、その剣は……、お前、どうやってその剣を!?」

 突然そう言われたカーラが、どう反応すべきか分からず混乱していると、彼はそのまま、まくし立てるように問いかける。

「その剣は、ドラグボロゥの近くの『あの洞窟』に眠っていた剣だろう? 俺が十数年前に引き抜こうとして、どうしても手に入れられなかったその剣を、なぜお前が……」

 そこまで言われたカーラは、ようやく「察し」がついた。

「あぁ、そういえば……、今のあるじ達に起こして頂くよりも前に、『どなたか』からの声が聞こえたことがあったような気がしましたが……、あなたでしたか」

 今から十年前、まだカーラが洞窟で眠っていた頃、トオヤ達よりも先に偶然その洞窟に迷い込んだ少年がいた。それがまだ子供だった頃のゲンドルフだったのである。彼はカーラを発見し、手に入れたいと強く願い、必死で引き抜こうとしたが、結局、カーラを完全に目覚めさせるには至らなかった。ただ、その時の強い思いは、休眠状態だったカーラに一瞬届いて、かすかにその記憶に残す程度には鮮烈であったらしい。

「どういうことだ?」

 ゲンドルフが首を傾げているのに対し、カーラは丁重な口調で素直に答える。

「この剣を見たことがある、とのことでしたが、私は『この剣を本体とするオルガノン』なので、眠っていたために、誰かの声に応えることが出来なかったのです」

 これだけを聞いても、何を言っているのかよく分からない説明ではあるが、ゲンドルフは自分の中でその言葉を咀嚼する。

「オルガノン、そうか……」

 ゲンドルフはオルガンンの実物を見たことはない。だが、話に聞いたことはある。

「で、五年ほど前に、まだ子供だった『こちらの方々』がいらっしゃって、その、何かしら『符号』か何かが合ったようで……、目覚めることになりました」

 そう言われたゲンドルフは、カーラが指し示したトオヤ達に目を向ける。

「五年前ということは、十年前の俺と同じか、あるいはもっと子供だった頃か……。そうか、つまり、お前の中で、お前の持ち主に相応しいのが此奴ら……、あ、失礼、レア様もいらっしゃいましたか」

 カーラの示した先に彼女がいたことに気付いて慌てて訂正するゲンドルフに対して、「レア」は涼し気な笑顔で語りかける。

「あ、お久しぶりです、ゲンドルフ殿。カーラがどうかしましたか」
「いや、実は……」

 そう言って、彼は自分の過去を語る。それはカーラの中でのかすかな記憶と、確かに一致していた。

「あれから聖印を手に入れ、剣技も磨き、『今の俺なら引き抜けるか』と思って行った時には、もうお前はいなかったんだがな……。そうか、オルガノンであったか。まぁ、しかし、仕方がないな。そしておそらく、お前を目覚めさせた要因は『レア様の中の高貴な血統』なのだろう」

 ゲンドルフの中では、そう確信出来る明確な根拠はなかったが、「そういうこと」にしておいた方が諦めがつくと思ったようである。

「どうなのでしょう? あの時はトオヤやチシャも一緒にいたので、誰の力が作用したのかは分かりません」

 「レア」はひとまず、そう答えておくことにした。実際のところ、「血統が要因」というゲンドルフの予想は本質的にはほぼ正解だったのだが、さすがにここで「真相」を語る訳にはいかないカーラ(とチシャ)は、無言でやりすごしていた。

「ともあれ、来て頂いたことはありがたい。さっそく我が村で歓迎の宴を、と言いたいところなのですが、残念ながら我が村の住人達は、投影体全般に対して偏見を持っている者達が多いので……、とりあえず、オディールまで私がご案内しましょう」

 実際のところ、カーラがオルガノンだということは、黙っていれば村人達には分からないだろうが(そして、厳密に言えば彼女自身は「投影体」ではないのだが)、どちらにしても長城線の中心地であるオディールに早めに着いた方が良いであろうと判断した彼等は、そのまま再びペリュトンに乗って、東へと向かうのであった。

2.1. 到着と歓待

 無事にオディールに到着したトオヤ達を、住民達は熱烈に歓迎する。このような最前線基地に伯爵令嬢が足を運ぶということは、かなり異例の話であり、そんな彼女が「テイタニアの魔獣騒動を解決した英雄」を伴ってこの地に来訪すれば、民衆も兵士達も沸き立つのは道理である。
 ペリュトンの上から民衆達に手を振りつつ、トオヤ達がオディールの城に到着すると、ロートスが爽やかな笑顔で出迎えた。

「皆様、ありがとうございます」

 ロートスは現在、24歳。トオヤ達よりは歳上だが、七男爵の中ではユーフィーに次いで二番目の若さである。父親の急死を経て、男爵の地位を継いでからまだ一年にも満たない程度であり、領主歴としては七人の中で最も浅い。温厚な人柄で知られる彼は、権力闘争とは無縁な「素朴な青年」といった雰囲気を漂わせており、とても最前線基地の指揮官とは思えないような穏やかな空気が、彼の周囲では広がっていた。

「お久しぶりです、レア姫様。この街は立地上、街の資源を防備に回さねばならない土地ですから、あまり居心地の良い土地ではないかもしれませんが、それでも精一杯、おもてなしはさせて頂きます」

 彼とレアは子供の頃に新年の挨拶などで顔を合わせたことがある程度の関係である。トオヤやチシャとも何度か面識はあるが、互いにこれまであまり意識し合う関係でもなかったため、それほど深い印象には残っていない。

「お心遣いに感謝します。こちらもその歓待に応えられるよう、果たすべき役目を果たさねばなりませんね」

 現実問題として、彼女はレアではない以上、レアとして聖印を用いて防戦に協力することは出来ない。だが、周囲から彼女に主に期待されているのは、兵士達への慰問と士気の鼓舞である。人々の心を盛り上げる技術に関しては、ある意味で彼女は本物以上に長けていた。

「よろしくお願いします。それでは、オーロラでの戦いの勝利のお祝いも含めて、ささやかながら皆様の歓迎会を開きたいと思います。ということで、オデット、君も大変だったと思うけど、任せていいかな?」
「はい、分かりました。では、皆様、こちらへどうぞ」

 そう言って、オデットはトオヤ達を連れて退室する。実は彼女は出発前から、歓迎会の準備は既に整えていたのであった。この辺りの配慮が出来るところが、彼女がロートスの次席契約魔法師として、多くの人々に慕われている要因である。

2.2. 下町の祝宴場

 彼女が会場として手配していたのは、下町の大衆食堂である。本来ならば伯爵令嬢をもてなすような会場ではないが、城の中で宴会を開くと城砦全体の空気が緩んでしまう可能性を配慮した上での選択であった。
 ロートスは警戒のために城に残っていたが、彼以外の大半の街の有力者達が店に集まり、そして店内の食卓の上には、とても最前線の城塞都市とは思えないような豪華な、しかも見たことがない料理が山のように並べられていた。チシャにはそれらが「異界から投影された食べ物」だということが分かる。おそらくはこれらも、オデットが浅葱の系譜の召喚魔法によって出現させた料理であろう(浅葱の召喚魔法は、生命体だけでなく、道具や食物を召喚することも出来る)。
 集まった人々に対してオデットが軽く挨拶した上で開宴の辞を述べて、乾杯と共に祝宴が始まると、彼女は奥の食卓に並べられていた焦茶色の菓子を皿に乗せ、トオヤに差し出す。これは異界(地球)で作られた「チョコバウムクーヘン」と呼ばれる菓子であった。

「トオヤ様が甘いものがお好きだということは、ロジャー様から伺っておりますので」

 ロジャーとは、トオヤの弟である。彼はこのオディールの東方に位置するジゼルの村に出仕中の従騎士であった。トオヤは眼を輝かせながらその異界の菓子を受け取り、周囲がまだ前菜を食べている段階にもかかわらず、早速その甘味を堪能し始める。トオヤが内心で弟のことを深く労いつつ、一皿目を軽く平らげたところで、そのロジャーが彼の前に現れる(下図)。


「兄上、お久しぶりです」
「おぉ、ロジャー、元気にしていたか?」
「お噂はかねがね伺っています。私も弟として鼻が高いというか、誇りに思っています」
「まぁ、かなり色々尾ひれを引いてる噂だろうがな。実際には、そこまでのことでもない」

 そんなやりとりをしている中、今度は横からカーラが現れる。厳かなクーンの古城での歓迎会の時とは異なり、下町の大衆食堂での宴会ということで、今回は彼女も比較的に気楽に参加出来ている様子である。彼女は、久しぶりに会ったロジャーを見るや否や、いきなり彼の頭を撫で繰り回す。

「かなり背が高くなられたようで」

 カーラにとってロジャーは、彼がまだ幼かった頃から世話をしてきた相手だったので、今でも「かわいがり(悪い意味ではない方)」の対象のようである。いつまで経っても子供扱いされることに対して、ロジャーは困惑しつつもまんざらでもない表情を浮かべつつ、話を続ける。

「私は今、リューベン様の元で軍略の基礎から勉強させてもらっているところです」

 リューベンは君主達の中でも特に知略に優れたことで知られている。どうやらロジャーは、彼と同じ「支配者の聖印」を駆使する君主の道を歩もうとしているようである。

「そうか、元気でやっているようで、何よりだ」

 そんな二人の会話を聞きつけて、今度はリューベンがトオヤの前に現れる。

「ロジャー君には、いつも私も助けられております」

 リューベンは涼し気な笑顔でそう語りかけた。彼はトオヤの父が健在だった頃(トオヤが謹慎事件を起こす直前の時期)にジゼル村の領主の娘と結婚式を挙げており、トオヤとはその時に会って以来である。

「リューベン殿、不出来な弟ですが、これからもよろしくお願いします」
「いえいえ、彼がいるおかげで、私も随分助かっています。ところで……」

 彼は周囲を見渡し、小声でトオヤに問いかける。

「この祝宴の後で、二人で少しお話をさせていただけないでしょうか?」
「はぁ……、何かあったのでしょうか?」
「いえ、個人的に、ちょっとお伺いしたいことがありまして」
「そうですか。それに関しては問題はないと思いますが」

 そんな会話を交わしつつ、リューベンは別の出席者の元へと向かう。なお、二人が密かにそんな会話を交わしている間、カーラは自分が乱したロジャーの髪を整え直していたため、会話の内容には全く気付かなかった。

「そうそう、チシャお嬢も来てるんですよ〜」

 そう言って彼女がロジャーをチシャのところに連れて行こうとしたところで、トオヤは彼女に声をかける。

「カーラ、ロジャーを愛でるのはいいが、姫様の警護も少し頼むぞ。俺は少し、この街のことを見て回るから」

 トオヤはチョコバウムクーヘンが乗った皿を片手に持ちながら、カーラにそう告げた。

「分かったよ、あるじ」

 そう言いながら、カーラはようやくロジャーから手を離した上で、近くの食卓に置いてあった牛乳を飲み始める。どうやら彼女は、先刻出会ったオルガが、魔法師であるにもかかわらず自分より背が高かったことを気にしているらしい(オルガは女性としてはかなりの長身で、実はトオヤよりも高い)。

(やっぱり、高い位置から振り下ろした方が威力があるよね……)

 牛乳を飲めば背が伸びるという情報を彼女がどこから仕入れたのかは不明であるが、ヴァレフールは畜産業も盛んな土地であり、牛乳は一般家庭の間にも広く普及した飲み物であった。そんな彼女に対して、ロジャーがふと問いかける。

「そういえば最近、兄上の部隊に『新しい女傭兵さん』が入ったという話を聞きましたが、その人は来られなかったのですか?」
「えーっと……、来てはいるんですが、『邪紋使い』の方なので、この近くには聖印教会の人達も多いみたいですし、あまり目立たないようにしているのです」
「そうですか。どうも兄上の周りには、女性の側近ばかりが増えているような気がして」

 もっともな疑問をロジャーが呈しているところに、唐突に「レア」が現れた。

「おいおい、私の護衛を珍獣のような扱いをするのはやめてくれよ」

 冗談めいた口調でいきなり「大物」が割って入ってきたことに、ロジャーは恐縮する。そんな彼の反応を楽しむように、「レア」はそのまま問いかけた(なお、年齢的にはレアの方が一歳上である)。

「確かに、トオヤの周りには女性の部下ばかりが増えている。そのことを心配しているのかい、ロジャー君?」
「えーっと、その、これは大変不遜な言い方だとは思いますが、もし、もしですよ、もしかしたら、ウチの兄上が姫様の『お相手』になられるかもしれないという噂がありまして、そうなった時に、『そういう話』があるのは好ましくないのではないかと……」

 遠慮しながらも率直な物言いでロジャーがそう答えると、「レア」は更に翻弄するような言葉を投げかける。

「そうだね。私は案外嫉妬深い性格かもしれないから、『相手』の周りに悪い虫がついていたら、何か思うところがあるかもしれないね。誰のこととは言わないよ。私にも立場というものがあるんだ。それ以上はご想像にお任せしよう」

 実際のところ、本物のレアがどこまで嫉妬深い性格なのかは、彼女にも測りかねている。というよりも、今の自分とトオヤの関係のことを思えば、彼女自身、あまりそのことについて真剣に考えたくはなかった。
 そして、カーラもまた、とぼけたような口調で呟く。

「『女性ばかり』と言うけど、ボクはオルガノンだよ。『物』が『人』に恋?」

 この時点で、完全に母親のことは棚上げされているのだが、そんな事情など知る由もないロジャーは、なんとなく納得したような、そうでもないような、微妙な表情を浮かべる。

「そうか、そういうものなのかな……」

 ロジャーとしては、「尊敬する兄上」がレア姫と結婚することになれば、これほど嬉しいことはない。だからこそ、あまり「他の女性との噂」が広がることは望ましくないと思っていたのだが、そもそもどこまでを「女性」と数えるべきなのかという、哲学的な問いに直面し、明らかに困惑していた。そんな彼に対して、カーラはこう付け加える。

「まぁ、だからと言って、ボクが『剣』に惚れるかどうかも分からないんだけどね」

 そもそも、彼女と同じような「剣のオルガノン(のような何か)」が自分以外に存在するのかどうかも、彼女には分からない。それ以前に、そもそも自分の中に恋愛感情があるのかどうかも、彼女自身がよく分かっていない。とはいえ、後者の問題については彼女に限った話ではなく、仕事や使命に生きる多くの若者達に共通の問題でもあった。

2.3. 先輩と後輩

 一方、その頃、チシャは、この祝宴の主催者であり、エーラムの召喚魔法科の先輩でもあるオデットに話しかけられていた。

「あなたの契約相手のトオヤ様に関しては、私もお会いするのは初めてですが、あなたから見て、どんな方ですか?」
「非常に頼りになると思っていますよ。ちょっと抜けたところはありますが、それが彼らしいといえば彼らしいところでもありますし」
「世間では、レア姫様の『お相手』候補だということになってますが」
「今のところ、『そういった流れ』なんですかね。まだ、はっきりとしたことは決まっていないですけど」

 チシャがそう言って軽くごまかすが、オデットはそのまま語り続ける。

「先程のオーロラでの戦いぶりからしても、十分に『その資格』のある方だとは思いますが、問題は、あの方の周りに他に『そういった方』がいらっしゃるのかどうか。というよりも、あの方自身がそういうことに対して、どれくらい『積極的』な方なのかどうか、という点が問題でしょうね。この街は、それで色々と揉めることになりましたし。まぁ、消極的すぎても困るのですけどね。ウチの領主様のように……」

 オデットは微妙に酔っているのか、聞かれてもいない(そしてチシャとしてもさほど興味のない)本音をそのまま漏らし続ける。

「あの人も、そろそろ身を固めて頂きたいのですけどね。弟様達はもう家庭を持っていらっしゃる訳ですし。まぁ、立場が立場だからこそ慎重にならざるを得ない、ということも分かるんですけどね。実際のところ、『両陣営』から『話』はあるのですよ。ケネス様からもグレン様からも。だからこそ、そう簡単に決められないというか……」

 ロートスの「上の弟」であるゲンドルフの婿入り先はグレン系、「下の弟」であるリューベンの婿入り先はケネス系である。その絶妙なバランスによってこの長城線の権力関係は保たれていることもあり、ロートスとしてはどちらの陣営にも肩入れすべきではないと考えているらしい。その点に関してはオデットもオルガも基本的には同意していた。

「確かに、難しいところではありますね。どちらかに肩入れすればもう片方が……」

 チシャがそう呟いたところで、ほろ酔い顔のオデットは不意に問いかけた。

「ちなみに、あなたはどうなのですか?」
「いえ、特にそういうことは考えてはいないですね。あくまで私は契約魔法師として、友人として、と同時に、主君として……」
「私は特に『誰』との関係が、とは聞いていないのですけどね」

 酔った勢いのように見せかけて、完全に「乗せられた」ことに気付いたチシャは、顔を隠して黙り込む。そんな彼女に対して、オデットは優し気な、それでいて冷静な声で忠告する。

「あなたの契約相手は、一人の男性としても素敵な方だとは思いますよ。ただ、契約魔法師としての本分は忘れないように。そこを一歩踏み外すと、とんでもないことになりますから」

 オデットにとって、それは極めて切実な話である。彼女はチシャの出生の秘密については何も知らない。だが、くしくもこの二人は、親世代の因縁に振り回された人生を送る者同士である。だからこそ、自分自身の立ち振る舞いに対しても、周囲の人間関係に対しても、慎重にならざるをえない。ある意味、この街における複雑な人間関係はヴァレフール全体の縮図でもあった。

2.4. 次世代の君主達

 宴会場の外では、契約魔法師のオルガと、邪紋使いのエリザベス(下図)が警備を担当していた。エリザベスは、リューベンによって「発掘」された古代の邪紋使いであり、リューベンがオディールにいた頃は、彼の側近にして「最愛の女性」として彼を支え続けた。リューベンがジゼルの領主家に婿入りした時には、体面上、彼との男女の関係を清算する必要からオディールに残ったが、今でもリューベンとは深い関係にあるとも噂されている。


 二人は今後の防衛方針についての打ち合わせを進めていたが、その話がひと段落したところで、エリザベスがふと問いかける。

「私はこの街から出たことがないので、中央のことはよく分かりませんが、あの方々がいずれ我々の主君になられる方々、ということでよろしいのでしょうか?」
「順当に行けば、というところですかね」

 二人がそんな会話を交わしていたところで、宴会場の中から、チョコバウムクーヘンの皿を持ったトオヤが現れる。その不可解な行動に対して、当然のごとくオルガが声をかけた。

「どちらへ?」
「いえ、ロートス殿にお話したいことがありまして」
「なるほど……。夜道は何があるか分からないので、私が同行しよう」
「ありがとうございます。初めての街ですので、助かります。あ、食べます?」
「あ……、いや、今はいい」

 こうして、オルガは彼を城の執務室に残っていたロートスの元へと連れて行くことになった。

 ******

「おや、もう宴席は終わりましたか?」

 少し意外そうな顔のロートスにそう問われると、トオヤはチョコバウムクーヘンを手に持ったままの状態で答える。

「いえ、まだ盛況なのですが、いつ敵が襲ってくるかも分からない状態なので、お酒も程々に切り上げてきました」
「なるほど」

 実際、いつ襲撃があるかも分からない状態で、あまり酒に酔ってもいられないというのは本音であろう。トオヤは真剣な表情でロートスに問いかけた。

「一応、今の状況について大まかな話は伺っているんですが、あなたから見て、今回のアントリア側の動きについて、どうなると思いますか?」
「正直なところ、情報がまだ少ないのでなんとも言えないのですが、警戒しておくにこしたことはないでしょう。ノルドが本格的にアントリアに協力して、本気で主力部隊を注ぎ込んでくることになったら、その時はヴァレフールだけでは太刀打ち出来ないのかもしれない。アロンヌやハルーシアにも協力を仰がなければならなくなるかもしれない。そうなると、今は大陸で展開されている同盟と連合の争いの主戦場がこちらに移動して、今より多くの人々の血がこの地で流れるかもしれません」

 穏やかな物腰ながらも、ロートスは冷静に今の状況をそう分析する。本来の彼は権力闘争にも覇権闘争にも興味を示さない性格であったが、それでもこの街の領主に就任して以降、民を守るために自分が為すべきことを考える過程で、必然的に今の国際情勢についても真剣に向き合うようになっていた。無論、その陰には「軍師」としてのオルガの手厚い指導があったことは言うまでもない。

「それは、想定される中で一番最悪の状況ですね……」

 想像以上にスケールの大きな話を聞かされたトオヤは、思わずそう呟く。実際、現在の大陸における両勢力の戦況は一進一退であり、そんな停滞した状況に風穴を開けるために、ブレトランドに本気の攻勢を仕掛けてくる可能性も無くは無い。ダン・ディオードがコートウェルズ遠征を勝手に始めてしまったことで、アントリアは以前ほど闇雲な勢いで侵攻しようとする動きは見られなくなったが、結果的にその状況が、ノルドを初めとする大陸の同盟諸国を苛立たせ、彼等を「本気」にさせてしまう可能性は、十分に考えられるだろう。

「皮肉なことに、この長城線の防備を固めれば固めるほど、敵はより大きな戦力をこちらに投入してくる。僕等やオディールの民が街を守るために頑張れば頑張るほど、戦いは大きくなっていく……。どうして、こんなことになってしまっているんだろうな……」
「昔は、ヴァレフールとアントリアの間も今ほど険悪ではなく、両国の間でも普通に行き来することは可能なくらいの関係だったのですけどね。向こうにも色々と事由はあったりするのでしょうが……」

 二人の君主の会話を聞きながら、オルガは興味深そうな顔を浮かべつつ、あえて口出しせずにその様子を見守っていた。そんな彼女の思惑を知ってか知らずか、ロートスは語り続ける。

「そもそもこの長城線は、北のアントリアの民がヴァレフールに攻めてくるのを防ぐため。そしてアントリアの民はヴァレフールよりも貧しい生活をしているらしい。その格差が生んだ壁でもある。でもだからと言って、僕らの富を彼等にあげれば解決する、という問題でもないんだろうし。争いを無くすには、どうしたらいいんだろうね」

 遠い目をしながらそう呟くロートスに対して、トオヤは素直に思うところを語る。

「ひとまず、今の状況を何とかする必要はあるでしょう。アントリアの体制も変わりつつある以上、両国の歩み寄りも無いわけではない。おそらく向こうも一枚岩ではないでしょうし、状況次第では和平を実現出来る可能性はあると思います」
「そうだね。今のアントリアの子爵代行殿は、少なくとも子爵殿ほど好戦的ではないみたいで、今は国を富ませることを最優先に考えているらしい。最終的にそれがヴァレフールを侵略する力を蓄えるためだとしても、今のところは本格的な再侵攻の動きはないみたいだ。もしかしたらそれで、ノルドの海洋王は業を煮やして空襲部隊を派遣することにしたのかもしれないけど」
「そうですね……。とはいえ、あまり暗い話ばかりしていても気持ちが滅入るばかりですし。バウムクーヘンでも食べましょう」

 トオヤがそう言って、手に持ってきたチョコバウムクーヘンをロートスの前に差し出すと、彼も素直に笑顔でそれを手にする。その様子を見て、オルガは部屋の奥でお茶を淹れ始めた。
 そして二人はチョコバウムクーヘンを口にしながら、今後の方針について確認する。ロートスは、おそらく敵は空と陸の両面から攻め立ててくるであろうという想定の上で、陸戦はこの地になれたオディール軍が担当した上で、空戦部隊の迎撃をトオヤ達に任せたい、という旨を伝える。無論、その場合は再びオデットの呼び出す「飛行乗騎用ペリュトン」に乗って戦うことになるのだが、オルガからの報告を聞く限り、オーロラでの戦いにおける彼等の様子から、任せても問題ないだろうという結論に達したらしい。その方針にトオヤが同意したのを確認した上で、ロートスは作戦の要となるオデットについて、どこか誇らしげに語り始める。

「あんまり身内を褒めすぎるのもどかと思うけど、オデットは本当によくやってくれてる。君達を連れて来てくれた上に、すぐに宴会場を手配してくれるとか、人々の心を和ませる仕事にも長けているし。そういう意味では本当にか……、あ、いや、ごめん、何でもない」

 彼が何を言おうとしたのかは分からないが、なんとなく気まずい空気になったところで、トオヤはふと、いつも自分が聞かれているような質問を、逆にロートスに投げかけてみた。

「そういえば、ロートス殿の弟君達は既にご結婚されているようですが、ロートス殿にはそのご予定は?」
「僕はなかなかね……。立場が立場だから、慎重にならなきゃいけないのもあるし、あと、知ってるかどうかは知らないけど、僕は正妻の子ではないんだ。それで色々あったからこそ、余計に慎重にならざるを得ないんだよ。だから、少なくとも今の時点では、騎士団長家とも副団長家とも、縁は結ばない方がいいと思ってる。弟達がああいう状況だしね。もっとも、だからと言って他にいい相手がいる訳でもないんだけど」

 そんな話をしている中、扉をノックする音が聞こえる。

「いいよ」

 トオヤがそう言うと、入って来たのはリューベンであった。

「ずるいですよ、兄上。トオヤ殿とは私が先に話をしようと思っていたのに」

 やや冗談めかしつつも、微妙に皮肉を込めた口調で、リューベンはそう言った。どうやら彼は、いつの間にかトオヤがいなくなっていたことに気付き、周囲の人々の話を聞いて、後を追ってきたらしい。

「あぁ、これは失礼。ロートス殿がこんな美味しいバウムクーヘンを食べられないのは、あまりにも可哀想だと思ったので、私の方が勝手に動いてしまっただけなのです」

 一聴しただけだと、ただの言い訳や建前のようにも聞こえるが、実際のところ、これがトオヤの本音である。個人的にロートスに話を聞きたかった気持ちもあるが、それ以上に「街のために頑張っているロートスにバウムクーヘンを届けたい」という気持ちの方が強かった。

「では、私はもう一人分の紅茶を入れて参ります。どうぞ『御三人で』御歓談下さい」

 オルガがそう言って立ち上がったところで、リューベンは彼女を手で制す。

「いえ、兄上はまだお仕事があるでしょうし、今度はトオヤ殿を私の部屋で接待させて下さい」

 リューベンは日頃はジゼルに滞在しているが、有事の際にはオディールに長期滞在する必要もあるため、自分がオディールにいた頃の部屋をそのまま残している(日頃は、エリザベスが管理しつつ、実質的に彼女の私室として使われていた)。

「そうですね。では、ロートス様、これで失礼致します」

 トオヤはそう言って、残ったバウムクーヘンを回収しつつ、リューベンと共に部屋を出て行くのであった。

2.5. 焚きつける魔法師

 客人が去った後、オルガはそのままロートスの部屋に残った。謀略家として知られるリューベンとトオヤを一対一で会わせることには不安を感じつつも、あまりその点を厳しく問い質して事を荒立てるのはロートスの方針に反するため、あえて二人のことは放置した上で、彼女は彼女で自分の中での「謀略」を進めようとする。

「ところでロートス様」
「ん? なんだい?」
「結婚のお相手として、レア・インサルンド様を考えてみたことは?」

 その唐突な申し出に対して、ロートスは思わず苦笑する。

「いやいや、さすがにそれはないよ。僕がそんなことをしたら、この国中を敵に回してしまう」

 オルガとしても、この反応はほぼ予想通りである。その上で、彼女は話を続けた。

「個人的には、テイタニア男爵の妹君も良いかと思ったのですが、あちらもあちらで別の方に『お熱』を上げてましたしね」
「テイタニアの、あぁ、サーシャ殿か。そういえば彼女もまだ独り身だったな」
「以前にお会いした時に、話をふってみようかと思ったのですが、ファルク殿とあまりに親密だったので」

 オルガは、半年前のテイタニア騒動の時の七男爵会議を思い出しながら、そう呟く。とはいえ、サーシャの中ではファルクへの想いは所詮「憧れ」程度の話であり、彼女自身、自分が本気でファルクと結婚出来ると考えている訳でもない。

「そうだね。まず、ファルク殿に身を固めてもらわないとなぁ」

 実際のところ、彼が独り身のままでいることによって、いつまでも「夢」を捨てられずに結婚に踏み切れない女性も多い、という説はある(サーシャがその例の中に含まれるか否かは定かではないが)。
 そして、他人事のように語るロートスに対して、オルガは思わず溜息をつく。

「マイロードは、もう少し覇気を持たれた方がいいと思いますよ」
「でもね、それを言うなら……、オルガは僕と同い年だっけ?」
「えぇ。私も今年で24です」
「君の方も、そろそろ身を固めてもらわないとね。男君主と女魔法師だと、色々と『噂』が立ってしまうから」

 ロートスとしては、これで上手く切り替えしたつもりだったが、これに対してオルガは涼しい顔で「次の一手」を打ち込む。

「あぁ、それに関しては大丈夫です。オデットとの噂の方が立ってますから」
「えぇ!?」

 ロートスは思わず驚嘆するが、実際のところ、彼とオデットの「真の関係」を知らない者達が日頃の二人の「仲睦まじい様子」を見たら、誤解しない方がおかしい。ロートスヘの忠誠心に関しては、決してオルガもオデットに負けてはいないが、オデットがロートスと一緒にいる時に彼に対して向ける視線からは、「臣下としての忠誠心」とは別種の「個人的好意」が溢れていることは、誰の目にも明らかである。

「しかし、あなたとオデットが結ばれることは絶対にない」
「そうなんだよね、君はそこの事情を分かってくれてるからいいんだけど、でも、その『事情』は表には出せないんだよ」

 実際のところ、オデットの出自そのものは、公開してもさほど問題がある訳ではない。ただ、その情報が広まることで、そこから派生して彼女の「エーラム入学前の経歴」が表に出ることだけは絶対に避けなければならない。だからこそ、迂闊に公表する訳にはいかなかった。

「なので、外から誰か『いい人』をお招きするしかないのです」
「そうだよね、君達にまで『悪い醜聞』が立ってしまうかもしれないしな……」

 完全に「一本取られた顔」を浮かべながら、ロートスは頭を悩ませるのであった。

2.6. 焚きつける君主

「兄上とは、どんな話をされましたか?」

 自室にトオヤを招き入れたリューベンは、率直にそう問いかけた。

「長城線の現状について、僕等の間で認識不足があったかもしれないので、そのあたりの情報を色々と」
「なるほど。では、おそらく兄上が聞かなかったであろうことをお伺いしますが……、あなたが今、各地の諸侯を転々としているのは、なぜです?」

 実際、トオヤとしてもそのことを聞かれなかったのは意外だった。どうやら、この地域ではこの末弟が「そういう話」を担当しているのだろうと予想しつつ、彼はここまで各地の諸侯に話してきたような内容を、彼に対しても語り始める。

「そうですね……、一年後の七男爵会議の話は既にお耳に入っていると思いますが、その会議でレア姫様がワトホート様の後を継ぐことを認めてもらうために、レア姫様がヴァレフールの伯爵位を継ぐための『経験』を積まれることをお助けしている、といったところです」
「それはそれで分かります。その上で、あえて単刀直入に聞きます。あなたは、レア姫様の『夫』となって、この国を支えるつもりはありますか?」
「そのお話については、今までの旅の中で何回か尋ねられましたが、レア姫様の婚儀に関して、僕はどのように話が進んでいるか全く知らないので、何とも答えられないのが現状です」

 いつも通りに軽くはぐらかそうとするトオヤであったが、今回の相手は、今まで以上にこの点に対して執拗に食い下がろうとしていた。

「私は、血統的に言えばあなたの遠い縁戚ということになります。あなたがレア姫様の夫として本気で立候補するつもりがあるのなら、あなたを応援するつもりでいます。しかし、あなたが今のような態度を採り続けるつもりならば、私は『他の選択肢』を推挙したいと思います」
「はぁ」
「レア姫様の即位に関して、おそらくグレン殿達も反対はしないでしょう。問題は、誰がその夫となられるか。おそらくグレン殿達はファルク殿を推挙してくると思います。多少歳は離れてはいますが、夫婦としてあり得ない年齢差でもない。そうなった時に、あなたはそれでもいいとお思いですか?」

 明らかに挑発するような口調で、リューベンは問いかける。それに対して、トオヤは平静を装いつつ黙っていると、彼はそのまま語り続けた。

「もし、あなたがそこで『自分が彼女の夫になる気がない』というのであれば、私は我が兄ロートスをレア姫様の夫にすべく、あらゆる手を尽くすつもりです」

 結果的に、オルガとリューベンは互いに相手の動きを警戒しつつも、同じようなことを考えていたらしい。今のリューベンの戦略では、ひとまず兄を要職に就けることが自身の出世の近道と考えており、その点ではオルガと方針も一致してる。

「左様ですか」

 トオヤは淡々とそう答えつつ、それ以上は何も言わない。再び沈黙が広がる中、あえてリューベンは更に切り込もうとする。

「『外』の人々を相手にする時は、本音を出してはいけないこともあるでしょう。しかし、私はあなたの身内です。少なくとも、私はそう思ってます。その私には、あなたにその気があるのかどうか、教えて頂けませんか?」

 リューベンはケネスの縁戚であり、ジゼルの家臣達の大半は明らかに「騎士団長派」である。その意味では確かにトオヤから見て「身内」と言うことは出来る。ただし、それはあくまでもトオヤ自身が「ケネス」を身内と考えていることが前提の話であり、トオヤ自身、自分の中でのその位置付けが、まだ曖昧なままであった。
 そんな彼の複雑な心境を知らないリューベンは、沈黙を続けるトオヤに対して、なおも語り続ける。

「正直なところ、ファルク殿相手に我が兄ロートスで勝つのは難しいです。まぁ、それでも『手』は色々とあるのですが……」

 最も有効な手段は、ファルクの方を先に他の誰かと結婚させるよう、裏から手を回すことであろう。実際の縁談にまではこぎつけられなくても、そのような噂が広がるだけで、レア姫との縁談を牽制する材料にはなり得る。もっとも、それは「逆」の陰謀を仕掛けられる可能性も十分にあるのだが。

「しかし、あなたであれば、レア姫様とも歳が近いし、ここまで御尽力されたことで国内の評判も上がっている。条件的には、ファルク殿と比べても『五分』と言って良いでしょう。グレン殿達がそれで納得するかは分かりませんが」

 そう言ってまくし立てるリューベンに対し、このまま黙っていても話を終わらせてはくれないと判断したトオヤは、諦めたような顔を浮かべながら、ようやく口を開く。

「なるほど。そこまであなたの思惑を語ってくれるのであれば、私の考えもある程度はお伝えしておくのが筋というものでしょう」

 そう前置きした上で、彼は『身内向けの口調』に切り替えて語り始める。

「俺は正直なところを言うと、俺自身がレアの相手になることに対して、そこまでこだわりがある訳ではない。あなたは知っているかどうかは分からないが、ウチの両親の間では『色々』あったので、結婚そのものに対して、忌避感とはいかないまでも、色々思うところはある。そういう意味で『レア』との結婚については、全く考えたくない。というよりも、考えられない、かな。いずれ誰かと結婚せざるを得ない立場というのは頭では理解しているんだが、それ以上に、自分が結婚している姿は想像出来ない。けれど、どんな形であれ、俺がレアに対して忠誠を捧げるのは変わらない」

 ここまで話す必要があったのかは分からないが、ここまで話せばリューベンもこれ以上この話を続けようとはしないだろう、トオヤはそう思っていたが、それに対してリューベンは、完全に想定外の方向から、新たな爆弾を投げかける。 

「そうですか……。ちなみに、実は我が兄の他に『もう一人』選択肢はいるのですよ」
「もう一人?」
「あなたの弟です」

 あまりに唐突なその言葉に、トオヤは思わず絶句する。

「血統的に言えば彼もまた騎士団長の孫であり、あなたと条件は同じだ。レア姫よりも歳下ではあるが、あなたよりも近い。今のところ、あなたほどの名声はないが、それもこれから先、どうなるかは分からない。ここ数ヶ月の間にあなたがの評価が急上昇したことと同じことが、彼にも起きるかもしれない」

 確かに、表面的な条件だけで言えばその通りである。そしてロジャーは現在、リューベンの強い影響下にあることを考えれば、リューベンにとってはそれこそが最も理想的な展開であろう。

「つまり、あなたも我が兄もレア姫様との結婚を拒むのであれば、あなたの弟という選択肢も無くは無い。それに、あなたはご存知かどうかは知らないが、おそらく彼も、それを提案されれば満更ではないと思いますよ。彼はあなたのことは尊敬している。あなたに関する話は、彼の口からよく聞く。あなたのことを話す時の彼の目は、本当に輝いている。それと同じくらい、あなたの幼馴染であるレア姫様の話をする時も、楽しそうな目で話している。だからおそらく彼の中にも、レア姫様のことを想う気持ちはあるのでしょう。しかし、今のところ、彼の中で自分がレア姫様の相手になれるとは思ってはいない。むしろ、あなたが彼女と結ばれることで、彼女も含めて一つの家族になれるのではないかと期待することで、自分の気持ちをごまかしている。ただ、あなたにその気がないのであれば、彼の方がその気になる可能性もあるかもしれません。弟のことをいつまでも子供だと思っていると、どうなるかは分かりませんよ」
「黙って聞いていれば、ずけずけと……」

 さすがに怒りが限界に達したトオヤは、露骨に表情を歪ませる。

「リューベン殿、その辺りにして頂けませんか? 私の家族をあなたの道具のように扱うのはやめていただきたい」
「これは失礼。ただ、我々貴族というものは、誰かを道具とすると同時に、誰かから道具とされるもの。その相互関係によって国は成り立っている。そういうものではありませんか? それが貴族に生まれた者としての宿命なのでは?」
「確かに、誰かを使うという意味では『道具』と言っても良いのかもしれない。しかし、俺達……」

 ここで、トオヤは一旦落ち着いて、冷静さを取り戻そうとする。

「……私達君主の本当の宿命は、この身に宿った聖印を用いて混沌を祓い、民を守ることです。それ以上でもそれ以下でもない。あなたの先程の言動は、あなた自身のためにそれ以外の者達を使おうとしているようにしか聞こえない。あなたがどのような野心を抱こうがあなたの勝手だが、あなたの野心に俺の家族を巻き込むのはやめていただきたい」
「別に、あなたの弟君がヴァレフール伯爵の夫となったところで、私に何か見返りがある訳でもないでしょう?」
「さて、本当にそうかな? それに、先程から聞いていたら、レア姫様のことを何かの踏み台のように扱っているように聞こえるのが、何より気に食わない」

 そう言い放ったトオヤの表情から、彼が本気で怒りを覚えていることを確認したリューベンは、内心でほくそ笑みながら、頭を下げる。

「分かりました。私も少々、話を急きすぎたようです。ご無礼については謝りましょう。その上で、もしお考えが変わったら、またいつでも御一報下さい。私にも確かに野心がある。だが、私の野心はまず第一に、この国が存続してこそ成り立つもの。この国の民を守るために、この国を守らなければならないという考えは、あなたも同じでしょう?」

 そんな彼に対して、トオヤはバウムクーヘンをその手に持ったまま、無言で立ち去る。そんな彼を見送りながら、リューベンは心の中で呟いた。

(少なくとも、彼が姫様に対して「個人的に特別な感情」を抱いていることは間違いない……。こっちは嫌われ役を買って出てまで挑発して差し上げたのですから、これで少しは「その気」になってくれれば良いのですけどね……)

 一方、トオヤはトオヤで、扉の外に出たところで、ボソッと呟く。

「『あなたの野心』が悪い訳ではない。しかし、今、この国を乱している原因は『貴族の野心』なんだ……」

2.7. 友誼と責任

 複雑な想いを胸中に押し殺しながら、ひとまず宴会場に戻ろうとしたトオヤであったが、既にその時点で祝宴は散会しており、彼が城の外に出ようとしたところで、帰城しようとしていた「レア」と遭遇した。その後方には、チシャとカーラも一緒にいる。

「おや、トオヤ」
「これは、レア姫様」
「宴会を途中で抜け出して、どうしたんだい?」
「ロートス様と、ちょっと色々とお話をね。あと、リューベン殿とも……」
「少し、不機嫌な顔のように見えるが?」
「いえ、その……」

 どう答えていいか分からず困惑していると、「レア」が何かを察したような顔を浮かべる。

「その二人なら、リューベン様の方が、君を不機嫌にするようなことを言いそうだね」
「まぁ、色々と……」
「別にいいけど、それで心を乱されて、本来の目的を忘れるようなことになるんじゃないよ」
「それについては、反省しています」

 どうやらトオヤの中でも、かなり心を乱されているという自覚はあるらしい。そんな彼のことを心配に思いながら、「レア」もまた、ふと今の自分の心境を述懐し始める。

「僕もね、少し気にかかることがあるんだ」
「え? それは……?」
「ノルドから来る空襲部隊、と言っていたかな?」
「えぇ、それが?」
「どちらかというと外れてほしい予感だが、一人、そういうことが出来そうな人物に心当たりがあってね……。マルグレーテ・リンドマン、という名前に心当たりは?」
「初めて聞く名前だな」
「まぁ、王族とはいえ、姉君ほど有名な方ではないからな。ノルドの海洋王の姪でね。飼っている梟を聖印の力で巨大化させて、それに乗って戦う騎士なんだ。周囲からは『梟姫』と呼ばれている」

 トオヤはその通称にも聞き覚えはなかったが、後方にいたカーラは、昔、流れの傭兵からその名前を聞いたことがあった。巨大な梟に乗って戦場を飛び回るその姿は、実際に目撃した者達にとってはかなりの衝撃であったらしい(なお、彼女はブレトランドの光と闇1に登場した「鯨姫」ことカタリーナ・リンドマンの妹である)。

「ノルドからの空襲部隊と聞いて、真っ先にその名前が思い浮かんだ。サンドルミア時代に、少し親交があってね。もし彼女が率いているのだとしたら、油断は出来ないよ。腕は確かだ」

 サンドルミアは、連合にも同盟にも属さない中立国ということもあり、その首都にはどちらの勢力からも様々な人々が留学している。レアとマルグレーテは、互いに敵対する陣営の姫でありながら、同地で偶然出会って、なんとなく意気投合して友誼を結んだものの、やがて戦争の激化に伴い、マルグレーテはレアよりも先に帰国し、空襲部隊の指揮官として名を馳せつつあるという。
 物憂げな顔でそう語る「レア」に対し、トオヤは言葉を選びながら、慎重に語りかける。

「レア姫様のことは俺がお守り致しますので、ご心配なさらず、と言いたいところなのですが、その梟姫様に手加減出来る余裕があるかと言われると……、まぁ、俺の攻撃なんて、所詮、最初から手加減されているようなものですが……」

 自嘲気味にそう言ったトオヤに対し、「レア」は鋭い口調で切り返す。

「手加減? 何のことだ?」
「いや、お知り合いとのことだったので」
「気にすることはない。ノルドの騎士として、このヴァレフールに攻めてくるのであれば、手加減など必要は無い」

 もし、ここにいるのが仮に本物のレアだったとしても、彼女はそう答えていただろう。実際、マルグレーテもまたノルドに帰国する直前には「戦場で会った時は、容赦はしないから」と言い残して去って行った。それが、それぞれの「姫」としての覚悟である。ただ、覚悟はしつつも、当然、割り切れない心は互いの中にあるだろうし、それは今この場にいる「レア」もまた同様であった。トオヤはその心情を慮りながら、改めて口を開く。

「とはいえ、生け捕りにすることが出来れば、色々と選択肢も増えるので、それが可能であれば、殺すよりもそちらの方が良いかと思うのですが」
「それはそうだが……、そのための無茶はするなよ」

 「レア」がそう言って、少し不機嫌そうな顔でその場を去り、城内にあてがわれた自分の客室部屋へと一人で向かおうとするが、そこでトオヤが呼び止めた。

「あ、あの、バウムクーヘン……」

 そう言って、トオヤが手に持っていた皿を差し出す。あまりの間の悪さに、チシャは思わずため息をつくが、「レア」は表情を変えずに立ち止まる。

「……一つ貰おう」

 「レア」はその皿からひとかけらを受け取り、改めて立ち去って行った。そんな彼女に対して、カーラは声をかける。

「お、お茶を届けるよう、誰かに頼んでおきますね」

 チョコバウムクーヘンはトオヤ好みの「濃い味」なので、水分が必要だろうという配慮であろうが、クーンの時のように自らお茶を淹れに行こうとはしなかったのが、今の「レア」が一人になりたがっていることを察したからかどうかは定かではない。

2.8. 真夜中の破壊工作

 そのまま各自が部屋に戻り、残っていたチョコバウムクーヘンを食べ終え、そろそろ明日に備えて就寝の床につこうとする頃、「レア」は一人部屋を出て、城の二階の中庭側に突き出たバルコニーから、一人夜空を眺める。彼女の脳裏には、上空から月光に照らされて長城線へと襲い掛かる「梟姫」の姿が思い浮かんでいた。

「外れてくれよ、この予感……」

 いつもは飄々とした態度で周囲を翻弄する彼女が、サンドルミア時代のレア姫にとっての盟友であり、自分自身にとっての数少ない友でもある梟姫との「最悪の再会」を忌避しながら、珍しく本気で憂鬱な気分に陥っていた。もっとも、それは梟姫だけが原因ではない。先刻のトオヤとの会話の中で、彼女の中でもう一つ、新たな葛藤が生まれつつあったのである。

(僕は、彼女と何を秤にかけようとしているんだ? ヴァレフールの未来? 姫様への忠義? それとも……)

 「レア」の中でその答えが導き出されるよりも前に、彼女の耳にかすかな喧騒の物音が届く。それは、長城線の東側の方角からであった。
 彼女は即座に「ドルチェ」の姿になった上で、一人でそちらに向かおうとするが、クーンの城でトオヤに言われたことを思い出し、嫌な顔を浮かべながら、トオヤの部屋へと向かう。

「トオヤ、外が何か騒がしい。調べに行くぞ」
「分かりました」

 先刻、彼女を不機嫌にさせてしまったトオヤは、目の前にいるのが「レア」ではなく「ドルチェ」であるにもかかわらず、つい敬語で答えてしまう(幸い、周囲に人はいなかったので、その不自然さが露呈することはなかったのだが)。トオヤは(クーンの城での反省を踏まえて)装備を整えつつ、隣の部屋にいたチシャとカーラ、そして同様に異変に気付いたオルガとも合流した上で、長城線の頂面伝いに東へと向かう。
 すると、彼等の目の前に広がっていたのは、混乱した様子の兵士達と、そして原型を留めぬ程にまで完全に破壊された投石機の残骸であった。その近くに誰かが倒れている様子もなければ、流血の形跡なども見られない。兵士達は投石機の残骸を取り囲みながら、困惑した表情で小声で何かを確認し合っていた。

「お、おい、あれ、そうだったよな……」
「あぁ、でも、さすがに……」

 そんな彼等に対して、ドルチェが真っ先に声をかける。

「おい、何があった?」

 なお、「ドルチェ」がこの町で姿を現したのは、今回が初めてである。オルガは先刻彼女を初めて見た時、トオヤ達と同行していたので、おそらく彼の部下なのだろうと納得していたが、この長城線東部(ジゼル寄りの区域)の頂面での警戒の任務に着いて兵士達は、まだトオヤ達との面識すらなかった。

「な、なんだお前は!?」

 当然の反応を見せる兵士達に対して、トオヤは聖印を掲げて、彼等を落ち着かせようとする。

「私は今、この街に来ている。トオヤ・E・レクナだ。彼女は私の部下のドルチェ。すまないが、話を聞かせてくれ」

 彼の聖印は、ここまでの戦いを通じて、既に七男爵の一人であるロートスの聖印と同規模にまで成長していた。それを目の当たりにした彼等は、その輝きに圧倒されつつ、事情を説明する。

「あ、はい、私達が見たのは、エリザベス様とロジャー様が投石器を壊している姿でした」

 その証言に、オルガを含めた五人は当惑する。

「は!? え、えーっと、エリザベスというのは……」

 一番困惑した様子のトオヤに対して、ドルチェが口を挟む。

「リューベン様の部下だ」

 どうやら彼女は、先刻の宴席の場で「レア」としてこの町の情報を一通り仕入れていたらしい。厳密に言えば現在のエリザベスはリューベン直属の立場ではないので「元部下」と呼ぶ方が正確なのだが、どうやら町の人々の中では、エリザベスは今も「リューベンの部下」という認識のままのようである。

「その彼女とロジャーが? な、なぜ……?」
「分かりません。我々が呆気にとられている間に、姿を消してしまって……」

 兵士達はまだ混乱した様子であったが、トオヤはそのまま問い続ける。

「どっちの方に逃げた?」
「階段を降っていったように見えたのですが、しかし、下の者達は、お二人が通った姿は見ていない、と」

 つまり、全員の証言が本当であれば、リューベンの傘下にいるロジャーとエリザベスは、長城線の頂面に設置されている投石機を破壊した上で、階段を降りていく途中で姿を消した、ということになる。
 今度はチシャは問いかけた。

「今、この周囲に他の兵士の人達は?」
「それぞれの担当場所に通常通りに配備されていますが、我々以外は誰もその姿を見ていないと言ってます」

 つまり、どこから侵入したのかも分からないらしい。そして、オルガが知る限り、ロジャーもエリザベスも、姿を消したり、変えたりする能力は持ち合わせていない筈である。ロジャーが用いる「支配者の聖印」を一定程度まで極めれば、離れた場所にいる者達との間で「居場所」を入れ替えることも可能だが、まだ修行中の従騎士である彼に、そこまでの高等技術が使えるとは思えない。
 ただし、彼等の実質的な上役であるリューベンであれば、それも可能である。もっとも、その場合は代わりに「誰か」がこの場に現れることになるので、ここにいる兵士達の中に「本来ならば今晩の警備担当ではない者」がいるとしたら、その者を問い詰める必要があるだろう。オルガは現場の警備隊長に「この場にいる部下」が全員「本来の担当者」かどうか、そして「いなくなった者」がいないかどうか、改めて確認するが、どうやら特に異常はないらしい。
 そんな中、今度はカーラが兵士達に問いかける。彼女としても、ロジャーがそのような奇行に走るとは考えにくい以上、当然「偽物」の可能性を考え始めていた。

「その二人は『普段通りの得物』を使っていましたか?」
「はい、暗かったのですが、私達が見た限り、普段通りに見えました」

 兵士達はそう答える。少なくとも外見的には、日頃から二人を見慣れている彼等から見ても、「本物」にしか見えなかったらしい。つまり、現状においては二人が破壊したという証言を覆せる要素はないのだが、証言者達自身が「自分達が見た光景」を現実として受け入れられずに困惑している、という状況である。
 そして、現状で一番冷静な視点でこの状況を分析していたのは、ある意味、この手の話の専門家でもあるドルチェであった。

「これだけでは何とも言えない。リューベン様が何らかの策で投石機を怖す必要があったのかもしれない。あるいは……」

 彼女は、トオヤ達にだけ聞こえる声で呟く。

「『僕みたいな奴』の仕業かもよ」

 実際、それが一番可能性としては高いだろう。だが、「彼女のような存在」がこの世界にどれほどいるのかは分からない。少なくともトオヤが知る限り、「彼女」以外で同じ能力を駆使する人物は、タイフォンで彼を訪ねてきた「ヴァルスの蜘蛛」のクリステルだけである。
 オルガはひとまずオデットに魔法杖を用いてこの状況をそのまま伝えつつ、投石機が破壊されたと思しき時間帯のロジャーとエリザベスの行動について内密に調べさせることにした。その上で、この場にいる兵士達に箝口令を命じ、トオヤ達にも「他言無用」と釘を刺しつつ、現場の警備隊長には、他の投石機の状況を確認させると同時に、周囲に何らかの痕跡がないかどうかを改めて再確認させた。

「私達も、見間違いだとは思うのです。ただ、あの場にいた者達が全員、同じ光景を見ていたので……」

 警備隊長がオルガに対してそう伝えると、彼女は険しい表情を浮かべつつ、淡々と答える。

「では、今回は『見間違い』だということにしておくように」

 実際のところ、オルガとしては、それが「見間違い」であると思いたかったが、そう確信出来る根拠はなかった。リューベンに関しては昔から、何を考えているのか分からない節があり、これまで明確な証拠は無かったものの、いずれロートスを追い落として自らがこの地の領主になろうとしているのではないか、という噂は今でもある。最悪の場合、彼が敵と内通している可能性も考慮しなければならないが、少なくとも今の時点で憶測だけが一人歩きすることが一番危険なので、彼女としては兵士達に対して、そう言わざるを得なかったのである。
 オルガが深刻な表情で今の状況を分析しつつ、周囲の状況に警戒を張り巡らせる中、ドルチェが彼女に声をかけた。

「緊急事態だったので、挨拶も出来なくてすまない。レア姫様の護衛のドルチェだ。よろしく頼む」

 さすがにこの状況で、自分が「姿を変える能力を持つ邪紋使い」であるとは名乗らなかった。隠しておくことは不審を招く恐れもあるが、聞かれてもいないことを答えるのも不自然である。それに対してオルガが名乗ろうとした直後、オルガの魔法杖にオデットから連絡が入る。

「エリザベス様は御一人で『下町』の警備に出ていらっしゃいました。ロジャー様は私と一緒に宴会の後片付けを手伝って頂いた後、御自宅へと帰る途中だったようです」

 オデットは魔法杖を通じてそう告げる。つまり、二人とも「犯行時刻」の時点で誰かと一緒にいたということが明確に証明出来る訳ではない以上、現時点では「犯人ではない」と断言は出来ない。
 その情報を踏まえた上で、オルガはあえてリューベンに対して「警備強化のために人足を、出来ればロジャーを貸してほしい」という旨の伝令を走らせることで、彼の出方を伺うことにした。

2.9. 兄と弟

 しばらく彼等が長城線の頂面で警戒しながら待機していると、ロジャーが現れる。オルガは彼に対して(「誰が」とは伝えずに)投石機が破壊された旨を説明し、トオヤと共に警備の任に就くように通達した上で、自分自身は昼間の任務で精神力を使い果たしていたこともあり、ひとまず休眠を取ることにした。同様に、悪魔兵団との戦いで精神力の消耗が激しかったチシャとカーラもまた、与えられた客室へと向かい、床に就く。

「兄上は大丈夫なのですか? 長旅でお疲れなのでは?」
「まぁ、これくらいは大丈夫だ。昔から俺は、体力だけが取り柄だから」

 ロジャーとトオヤがそんな会話を交わしている中、横からドルチェが口を挟む。

「私は昼の戦いには参加していないからな。私もこのまま警備につく」

 初めて見る「美しき傭兵隊長」を目の当たりにして、ロジャーは兄に問いかける。

「そちらの方は? もしかしてあなたが、最近、兄上の下で働いているという……?」
「あぁ、宴会の時にも私の話をしていたようだね。後で聞いた話だが、カーラからは珍獣のような扱いをされていたようだがな」
「あ、いえいえ、そんなことは全然、えーっと、その、初めまして……、ロジャー・F・レクナ、と、申します……」

 ロジャーはやや頬を紅潮させて、微妙に目を逸らしながら自己紹介する。

「珍しいものを見れたから、何かいいことがあるかもしれないよ」
「いえいえ、そんな……。その、よろしくお願いします」
「あぁ、よろしく」

 そんな緊張した様子のロジャーに対して、トオヤは空気を変えようと軽く雑談を始める。

「さっきはあまり長いこと話をすることが出来なかったが、最近はどうなんだ?」
「今は日々是勉強ですよ。リューベン様は本当に博識な方で、アキレスでもタイフォンでも学べなかったことを学ばせてもらっています。貴重な軍略書も色々と貸していただけてますし、よく分からないところを御指南して頂けています。ただ、一つだけちょっと気になることが……」
「気になる?」
「あの方のご側近のエリザベス様なのですが、どうもその、噂によると、リューベン様と過去に『関係』があったとか、実は今でも『関係』が続いているだとか、もうリューベン様はご結婚されているのですが……」
「ほう」
「まぁ、『英雄色を好む』とも言いますし、さほど問題はないのかもしれないのですが……」
「あまり、その辺に変に首を突っ込むとろくなことにならないと思うから、仮にそんなような場面に出くわしたとしても、見ないふりをしておけ」
「でも、それを言ったら、兄上も『美しい女性』ばかり周りに揃えているじゃないですか。それはそれで、色々と悪い噂が立ちそうな……」
「い、いや、別に揃えている訳じゃないし……」

 実際、別にトオヤが意図的に揃えている訳ではない。チシャとの契約に至った背景には(少なくとも家系図上の)縁戚関係があったし、カーラも「女性」だと分かった上で入手した訳ではない。「レア」を助けることになった契機も元を正せば祖父の謀略の一環であったし、「ドルチェ」に関してもあえて「女性」の姿をトオヤの方から要求した訳ではなかった。だが、端から見れば、美少女達を侍らせる好色騎士のように見えてもおかしくはないだろう。

「まったく、ズルいですよ、兄上ばっかり……」
「あのな、俺にだって男の友達はいるし、誤解するなよ」
「おや? いたかな?」

 唐突にドルチェがそう言って話に乱入してくると、あえてトオヤはよそよそしい口調で返す。

「ドルチェさんは最近加わったばかりだから、知らないと思いますが、ちゃんといますよ」
「では、いずれ会うことを楽しみにしておこう」

 そんな冗談めかした口調の二人を見て、ロジャーは微妙に違和感を感じた。

「というか、最近知り合ったばかりにしては、妙に親しくないですか?」
「まぁ、人それぞれ『距離感』というものが違うから」

 トオヤが、そんな「答えになっているのかどうかよく分からない言葉」でごまかすと、ドルチェは魔性の笑みを浮かべながら付言する。

「それが私の性分でね。『この距離感』が羨ましいなら、君も『こちら』に来るかい?」

 「こちら」の意味がよく分からないまま、ロジャーは再び頬を紅潮させる。

「いや、別に、その、羨ましいとか、そういう訳ではないんですが、えーっと……」
「そうか、それは残念だ」
「あ、嫌じゃないんです。嫌じゃないんですが、その……」

 どう返せば良いか分からなくなったロジャーは、思わずトオヤに助けを求めるような視線を向ける。

「ドルチェ、あまり人の弟をからかうのはやめておけ」
「おや、ヤキモチかい?」
「さぁね」
「まぁ、さすがにそろそろやめておくよ」

 そんな他愛ない会話を交わしつつ、長城線の警備の任にあたった彼等であったが、結局、この日はそれ以降、特に怪しい動きもなく、静かに夜明けを迎えるのであった。

3.1. 最前線の魔法師達

 夜明けと共にチシャとカーラは目を覚まし、入れ替わりに寝室に向かったトオヤとドルチェに代わって、 警備に出ようとする。そんな中、同様に目を覚まして職場に戻ろうとしたオルガは、城内の廊下で二人に遭遇し、声をかけた。

「二人は、これからどちらに?」
「あるじ達に代わって、私達が見回りに出ようかと」
「そうか、よろしく頼む。ところで、あの投石機を壊したのは、ノルドの特殊部隊の仕業だと思うのだが……、何か心当たりはないか?」

 そう問われたカーラは、どこまで話して良いか少し迷いつつ、あくまでも「自分が過去に聞いたことがある話」の範囲で答えることにした。

「ノルドで空戦部隊と言えば、傭兵界隈で『梟姫』という人の噂を聞いたことがあります。もしかしたら、その人かもしれませんね。梟ならば、夜こそ本領発揮しそうですし。まぁ、その人に限った話ではないですから、昼間も警戒は必要だと思いますが」
「なるほど。参考になった。ありがとう」

 オルガがそう言って、二人の前から去って行くと、チシャとカーラは、ひとまず長城線の頂面へと登り、そこから壁の外側(アントリア側)と内側(城下町)を同時に観察することにした。
 外側に関しては、今のところ人の気配も混沌の気配も感じられず、特に不穏な様子もない。内側も、兵士達は警戒した様子で巡回してはいるが、街の人々の雰囲気は思いのほか平静であった。そんな中、城下町の内側のとある路地裏で、オデットが魔法杖を用いて、誰かと交信している姿が目に入る。カーラはそんな彼女を見ながら、ふと「どうでもいいこと」を思いつく。

(今、あの人が話してるところにお嬢が魔法杖で連絡しようとしたら、混線するのかな? 三者同時通話とか出来るのかな?)

 一方、チシャはそんな彼女の様子から、一つ大きな違和感を感じる。オデットが使っている魔法杖が、いつも彼女が用いていた「エーラムから支給されている一般的な魔法杖」ではなかったのである。それは、見た目には普通の人では見分けがつかない程度の違いでしかないのだが、エーラムの魔法師である彼女の目には、それがはっきりとわかった。

(あえて「いつもと違う魔法杖」を使うということは、一体、誰と……?)

 魔法師の中には、自分の魔法杖に自己流の装飾を施す者もいるし、特殊な力を持った魔法杖を自力で作り出す者もいる。オデットが浅葱の召喚魔法にも精通しているのなら、自力で召喚した異界の魔法杖を用いていてもおかしくはないだろう。だが、普通、一人の魔法師が二本の魔法杖を併用することはあまりない。もし、彼女が「通常時の魔法杖では交信出来ない相手」と会話をしているのだとしたら、その相手とは……。
 様々な可能性が考えられるが、あえてチシャはこの時点では何も言わず、何事もなかったかのように、その場をやりすごすのであった。

3.2. 策士二人

 その頃、二人と別れたオルガが、昨日の事情をまだ知らない兵士達に警戒するよう指示を出しつつ、怪しい者を見ていないかと確認しているところに、リューベンが現れた。

「オルガ殿、少々二人で話をさせて頂きたいのですが、よろしいか?」

 オルガとしても、彼からは直接色々と問い質したいところではあったので、その言葉に応じて、彼を連れて自身の執務室へと移動する。部屋に入って扉を閉めたところで、リューベンの方から問いかけた。

「あなたの方から私に協力を求めるとは、なかなか珍しいことなので、よほどの緊急事態のようですが、何がありました?」

 「協力」とは、昨晩の「ロジャーを貸してほしい」という依頼の件であろう。オルガにとっては、それは協力要請というよりも、むしろ「探り」を入れるための依頼だったのだが、ここでリューベンがこのような形で問いかけてきたことに対して、オルガは少し迷いつつも、そのまま素直に答える。

「実は昨晩、城壁に不審者が出たようでして、投石器が一つ破壊されました」
「なるほど。それは厄介ですね。やはり、空戦部隊が来るという、私が仕入れた情報は間違いではなかったようだ」
「そして、その投石機を壊した犯人が、あなたの部下によく似ていたそうなのですが」
「ほう? 私の部下? 具体的には?」
「予想はつくでしょう」

 オルガはそう言って、リューベンの出方を伺う。

「ロジャーと、そして……」

 そこまで言ったところで、リューベンは「あぁ、なるほど」と言いたげな表情を浮かべる。その表情からは、彼がこの時点で昨晩のオルガの申し出の真意に気付いたように見えるが、この一連の反応が全て「芝居」である可能性もある。オルガが警戒しながら彼の反応を伺っていると、彼はそのまま思案を巡らせているような表情を浮かべつつ、語り続ける。

「しかし、投石機を壊すとなると、相応の腕力が必要な筈。ロジャーの聖印は私同様、破壊活動に向いているとは思えない。そうなると……」
「別人と考えるのが自然ですね」

 オルガはそう答えた。実際、その点に関する違和感については彼女も昨夜の時点から気付いている。ちなみに、エリザベスの方は邪紋によって肉体を強化された優秀な女戦士ではあるが、彼女の邪紋は「破壊されない能力」に特化された邪紋であり、彼女自身が「破壊する能力」に長けているとは言えない。そう考えれば、あの二人が「いつもの武器」を手にして投石機を破壊していた状況というのは、確かに不可解ではある。

「……あなたは今、本気でそう思っていますか?」

 リューベンが鋭い視線を向けながらオルガにそう問いかけると、彼女は少し動揺する。それに対して彼女がどう反応すべきか迷っている間に、リューベンは話を続けた。

「まぁ、本気でそう思っていなくても、あなたはそう言うでしょうね。とはいえ、ここはひとまず、あなたが本気でそう思ってくれているという前提の上で話をしましょう」

 リューベンとオルガは、表面上は特に対立はしていないが、互いに策士として名を馳せる者同士であり、常に互いに警戒し合う関係である。とはいえ、現状で嫌疑をかけられているのはリューベンの側である以上、彼としては(彼が黒幕や内通者であろうと、そうでなかろうと)まず自分の方から彼女に対して、協力的な姿勢を見せる必要がある。彼はオルガに対して、「真犯人として想定しうる可能性」について、いくつか提示することにした。

「人が姿を変える方法は色々あります。一つは『幻影の邪紋使い』と呼ばれる者達。彼等は自在に姿を変えることが出来るので、もし犯人がその手の邪紋使いであった場合、ロジャー達に化けて破壊した後に、また別の誰かに化けた上で、まだこの城の中に潜伏している可能性はある」
「しかし、当直の兵士達を確認してみたところ、怪しいものはいなかったようです」

 オルガはそう答えるが、現実問題として、ずっと前から忍び込んでいた間者がいたとすれば、それも確実な情報とは言えないことは分かっている。その上で、リューベンは更にその可能性が高いと考えられる根拠を挙げる。

「幻影の邪紋使いの中には『人以外のもの』に化けられる者もいると聞きます。中には器物に化けることも出来る者もいるらしいので、我等の目をごまかす方法はいくらでもあるでしょう」

 もし、そこまで高度な技術を修得した邪紋使いが忍び込んでいるとしたら、通常の人間では発見はほぼ不可能である。一部の魔法師の中には「邪紋を用いている者達」の存在を感知出来る者もいるが、オルガはその魔法は未修得である(なお、オデットが使えるかどうかは、確認してみないと分からない)。

「もう一つは、これはあなたの方が詳しいと思いますが、どの学派の人々でも学べる基礎魔法の中に『虚偽の映像』を見せる魔法があると聞きます。工作員達が投石機を破壊している情景に、ロジャー達が壊している映像を上から被せる、という形で目を欺くことも可能でしょう」

 その場合、あくまでも「映像」を見せるだけなので、破壊している音を消すことは出来ない。破壊時に関しては、破壊音に合わせて姿だけを変えることは可能だろうが、その後の脱出時に「歩く音」を消すことは出来ないことを考えると、厳戒体制の城から物音を立てずに出入りするのは難しいし、長期間の潜伏も困難である。

「そして第三の可能性として、高位の生命魔法の中には、完全に他の誰かに姿を変えることが出来る者もいる、という話を聞いたことがあります。ノルドやアントリアにそれが可能な魔法師がいるのかは分かりませんが、そこまでの実力の魔法師が来ているとしたら、正直、お手上げかもしれませんね」
「確かに」

 オルガもその点については同意する。姿を書き換えることが出来るほどの生命魔法の使い手など、世界中を探しても数えるほどしかいない。そこまでの大魔法師を投入されたら、今の自分達では勝ち目はないだろう。
 ここで、ふとリューベンは思い出したかのように問いかける。

「そういえば、時空魔法師の奥義の一つを用いれば、この世界の『根源』に対して、何らかの『真偽』を問うことも可能らしいですね。それを用いて、たとえば『この城の中に幻影の邪紋使いがいるか?』と確認することは出来ますか?」
「なるほど……。では、後で試してみましょうか」

 ちなみに、実はオルガはこの奥義を修得してはいない。ただ、ここはあえて「容疑者」であるリューベンに対して、そのことを伝える必要はない(なお、もし彼女がこの魔法を使えた場合、パペットが存在する以上、状況は更に混乱していた可能性もあった)。その上で、ひとまずこの辺りで「腹の探り合い」を終わらせようと彼女は考える。

「参考になりました。ありがとうございます。ちなみにリューベン殿、私は正直、あなたのことを心から信頼している訳ではない。しかし、ロートス様はあなたのことを心から信頼しておられるし、私もこれ以上、兄弟で争うところばかりを見たくない」
「それは同感です」
「だから、あなたのことを信じているかと聞かれたら、私は『信じたい』。覚えていて下さい」
「私も、あなたに『信じていてほしい』と思っています」

 そう言い残して、リューベンは彼女の部屋から去って行った。

3.3. 客将達の思惑

 昼頃になってトオヤとドルチェは目を覚まし、そしてカーラ、チシャと合流する。

「ありがとう、カーラ、チシャ。午前中は何か起こってなかったか?」

 トオヤがそう問いかけると、チシャは迷いつつも正直に話し始める。

「実はオデットさんが……」

 そう言って、彼女はオデットの魔法杖のことを伝えるが、魔法師達の通信事情に精通している訳でもないトオヤ達としては、それを聞かされても、それがどこまで不自然な行為なのか、よく分からない。ただ、トオヤの中では、この街の裏側で不穏な何かが動いているのではないか、という疑惑は広がっていた。昨晩のリューベンとのやりとりからもそれは感じられたし、投石機の破壊事件の直後のオルガの下した箝口令に関しても、身内に対してやや厳しすぎるようにも見えたため、そこに何らかの「裏」があるのではないか、と思えたのである(もっとも、彼等自身も「レア姫」に関する重要な情報を隠蔽している身である以上、そこはお互い様なのだが)。

「……だから、リューベン殿もオルガ殿も、どこまで信用して良いのかは分からない」

 トオヤがそう言ったところで、カーラはもう一人の重要人物のことを思い出す。

「ゲンドルフさんは、なんというか、ゴーバン様に近い雰囲気を感じました」

 それは他の面々も概ね同意していた。ゴーバンがあの素直な性格のまま育てば、彼のような騎士に成長するのではないか、というのが彼等の総意である。

「まぁ、ああいう人は裏表がないから、分かりやすいとは思う」

 トオヤはそう言ったところで、今度はドルチェに問いかける。

「ドルチェは今、どこを調べに行きたい?」
「一番手っ取り早いのは、アントリアの内情を探りに行くことだが、ここで一人で敵陣に忍び込もうとしたら、また君は怒るだろう?」

 彼女の変身能力を以ってすれば、それも可能ではある。ただ、その場合は彼女が単身で敵陣に乗り込むことになり、トオヤがそれを助けに行くことは出来ない。おそらくは、クーンの城での捜査の時以上に、危険な任務になるだろう(もっとも、その時の真相は未だに彼女自身しか知らないのであるが)。

「当然怒るし、そもそも時間が足りないだろう」
「そうだね。あと、投石機を壊した敵の狙いも気になる。当然、空戦となれば投石機は一台でも壊した方がいいだろうが、それでも『たかが一台』だ。それだけで決定的に戦局の趨勢が変わる訳でもない以上、本当の狙いは他にあるのかもしれない。たとえば、こちらの不和を狙うこと、とかね」

 ちなみに、この長城線には合計五台の投石機が設置されている。今回破壊されたのは、その中で最も東側(ジゼル側/海側)の投石機であった。
 彼女のその指摘に対して、トオヤも概ね同意する。

「確かに、この街の内側で、何か対立があるのだとしたら、それが何か関係しているのかもしれない」
「とはいえ、外様の僕等があまり内情を嗅ぎ回るのも心象が悪い。僕等はあくまで、アントリアを倒すために来た、ということにしておくべきだろう。少なくとも表面上は」

 出来ることなら、今後のヴァレフールの新体制構築に向けて、オディール近辺の内側に不穏な動きがあるのかどうかも確認しておきたところではあるが、今ここで下手に疑心暗鬼を広げることは、短期的にも長期的にも得策ではない、と彼女は考えていた。それについてもトオヤは同意する。

「そうなると、援軍として上手く機能するためにも、オディールの人々と交流を深める、という形で挨拶回りをしつつ、情報を集めるのが良いのかもしれないな」
「それは、『ドルチェ』ではなくて『姫様』の仕事だね」

 彼女はそう言って、その姿を「ドルチェ」から「レア」へと変化させる。

「それなら、俺と『レア姫様』と、あとロジャーに道案内を頼むことにしようか」

 トオヤがそう言うと、カーラとチシャが立ち上がった。

「OK、分かった。じゃあ、連れてくるよ」
「私も一緒に行った上で、その後でオデットさんに話を聞いて来ます」

 こうして、ひとまずカーラとチシャは一緒にロジャーの部屋へと向かうことになった。

3.4. 独自の情報網

 ロジャーも昨晩は徹夜で警備していたため、おそらくこの昼の時点ではまだ寝てるだろうと思いつつ彼の部屋へと向かったカーラとチシャであったが、既に彼は目覚めて正装を整えていた。彼の身支度を手伝おうと思っていたカーラはその様子が不満で、自分の手で彼の髪を整えるために、あえて彼の頭を撫でくり回そうとする。

「あぁ、せっかくエリザベスさんが整えてくれたのに!」

 そう言ってロジャーが抵抗すると、カーラは余計に頬を膨らませて一心不乱に髪を乱し、その上で整え直して、彼にトオヤの元へと向かうように伝える。
 その後、チシャとカーラは城内の人々にオデットの所在地を聞いて回った結果、ほどなくして彼女達はオデットの姿を廊下で発見するが、その直後、彼女はオルガの部屋へと入って行った。

「入っちゃったね。じゃあ、出てくるまで待ってようか」

 カーラが廊下でそう言うと、その声は部屋の中のオデットとオルガにも聞こえていた。

「すみません、どうやらお客人がお姉さまに用事があるようですが、一つだけ」

 オデットはそう言った上で、外に「人」がいることを意識して、オルガに小声で伝える。

「昨晩のこともあって、リューベン様からの『アントリア軍に関する情報』が本当かどうか不安になったので、私も『独自の情報網』を使って調べてみました。これから私が話すことをお姉さまが信じるかどうかは、お姉さまの判断にお任せします」

 その「独自の情報網」という言葉から、オルガの脳裏には嫌な予感がよぎったが、あえて黙ってそのまま話を聞くことにした。

「どうやら、間違いなくノルドの空襲部隊は来ているみたいです。しかも、『巨大な古代龍』を連れている、とのこと。指揮官は、『梟姫』の異名を持つ海洋王エーリクの姪のマルグレーテ・リンドマン。更に、前線であるクワイエットの町には、銀十字旅団も配置されているようです」

 銀十字旅団とは、大工房同盟の盟主直属の傭兵集団である。現在はアントリアに派遣されており、半年前までは旧トランガーヌの首都ダーンダルクの警備を担当していた(詳細はブレトランドの光と闇1参照)。

「空襲部隊の数は?」
「正確には分かりませんが、基本的には、その巨大な古代龍の護衛部隊のようです」

 おそらく、それは実質的には「護衛」というよりも、古代龍が暴走しないように「管理」するための部隊なのであろう。ノルド軍が古代龍を所有しているという話は聞いたことがなく、どれほどの脅威なのかは分からないが、一般的に龍は長い年月を重ねれば重ねるほど強くなる。「古代龍」と呼ばれている時点で、相当な強さであることは間違いないだろう。

「そして、『この情報をもたらした者』は『あの古代龍に対抗するためには、黄金龍の力が必要になるのではないか』とも言っていました。ただ、それを真に受けるかどうかは、お姉さまの判断にお願いします」

 門外不出の情報である筈の「黄金龍」の話を出された時点で、オルガは自分の中での「嫌な予感」が当たっていたことを確信しつつ、不機嫌そうな声で答える。

「……その判断を下すのは、私ではなく、ロートス様だ」
「ならば、おそらくは『無い』でしょうね。実際、その『情報源』の人物もあえて誇張して言っている可能性はありますので、そこまでの脅威かどうかは分かりません」
「そうか……、昨日の投石器破壊事件の犯人についての情報は何かあるか?」
「一応、それについても調べてはみましたが、分かりませんでした。ただ、敵軍はもう既に陣容もかなり整っているようで、いつ攻めてきてもおかしくない状態のようです」
「では、そのことも含めて、ロートス様にお伝えしておいてくれ」
「分かりました。おそらく、私がまだ『あちらの筋』に通じているということを知れば、ロートス様はお怒りになられるでしょうが……」

 この話を正直に告げれば、当然「そのこと」もロートスに伝えなければならなくなる。はっきりとは言わなくても、「黄金龍」の話を持ち出せば、すぐに分かってしまうだろう。だが、ここでオルガが助け舟を出した。

「それについては、私の密偵が調べた情報、ということにでもしておいてくれればいい。ただ、オデット、私も、お前がまだ彼等と手を切っていないということに関しては、ちょっと……」
「そう仰られるとは思っていました。しかし、私自身、この町のために、お姉様と……」

 オデットは少しためらいつつ、「誰にも聞かれていない」という前提で話を続ける。

「……『お兄様』のために、私に出来ることは全てやりたいのです。その上で、私のことを内通者・反逆者として処罰すべきと判断された時は、いつでもそうして下さい」

 以前と同様、強い「覚悟」が込められた瞳でそう言われたオルガは、深くため息をつく。

「そうだな。仮にこの件が外にバレたら、私やロートス様は『何も知らなかったこと』にして、お前を処分するしかない」
「えぇ、それで構いません」
「だからこそ、無茶をしてくれるな」
「……承知しました」

 そう言って、オデットは部屋から出て行った。良くも悪くも変わらない義妹の「確固たる信念」を目の当たりにさせられたオルガは、もう一度、深いため息をつくのであった。

3.5. オカリナの響く街

「あ、お姉様に御用でしたら、どうぞ」

 部屋の前で待っていたカーラとチシャにオデットがそう言うと、チシャが首を振りながら答える。 

「いえ、どちらかというと、オデットさんの方に用事がありまして」
「私に、ですか?」

 意外そうな顔を浮かべるオデットに対して、カーラが説明する。

「街中の様子を知るために、色々とオデット様にお伺いしたいと思いまして。オデット様は日頃から下町の方々と一緒にいることが多いとお伺いしましたので」

 さすがに、魔法杖のことについて堂々と聞く訳にはいかない以上、あくまでも名目として、このような形で話題を切り出そうとしたのである。

「なるほど。では、ちょうど私はこれから下町での仕事場に向かうところだったので、お二人共、御一緒されますか?」

 オデットにそう言われたチシャは、即答する。

「はい、それでお願いします」

 街の様子を知りたいというのは、半分は名目だったが、実際に見てみたい気持ちも彼女達の中にはあったので、これはこれで好都合な話でもあった。

 ******

 一方、先に下町に出ていた「レア」、トオヤ、ロジャーの三人は、必然的に道行く人々の注目を集めていた。

「おぉ、あれがレア姫様か」
「隣におられるのが、例の噂の若き騎士様?」
「いや、騎士様というより、そろそろ男爵様くらいなのでは?」
「まぁ、もともと騎士団長家の方ですし、いずれはそれくらいになられるのでは」
「いやいや、男爵どころか、あの方こそ次代のヴァレフールの……」

 オディールの民が、トオヤと「レア」を見てそんな噂話を立てているのを聞きながら、「レア」は面白がってトオヤに語りかける。

「随分と噂になっているようだね、トオヤ」
「えぇ、まぁ」

 素っ気なく答えるトオヤであったが、その横を歩くロジャーは実に誇らしげである。

「兄上の御名声も、ここまで広がっているのですよ」
「いや、だから噂というのは尾を引くものだから。真に受けるんじゃない」

 一方で、彼等に聞こえないように語られる声の中には、このような意見もあった。 

「うーん、でも、やっぱり、姫様のお相手にはファルク様の方がよくない?」
「そうねぇ、ファルク様のお相手が伯爵家の姫様なら、諦めもつくわね」

 なお、レアの婚約相手として、「ロートス」という選択肢を語る話題はあまり出ていないが、それは決して彼が住民達の間で不人気だからではなく、むしろ「自分達の領主様」だからこそ、中央に取られたくない、という意識が強いためでもある。

「この街は活気があっていいな」

 住民達の生き生きした笑顔を目の当たりにしたトオヤが(アキレスの閑散たる現状と比較した上で)素直にそう呟くと、ロジャーも嬉しそうに答える。

「えぇ。最前線の街だから、もっとピリピリした雰囲気かと思っていたのですが、ロートス様の就任以来、町の人々の心にも余裕が出来てきた、と皆は話しています」

 ロジャー自身の出仕先はあくまでも隣村のジゼルなのだが、彼は軍略の師であるリューベンから「人心掌握のための技術は、私の兄上を見習いなさい」と言われていた。そして最近はオディールとジゼルを行き来する仕事を任されているため、この街に来る度に、街の人々からロートスに関する話を聞いて回っていたのである。
 そして、「レア」もまたこの街の雰囲気が気に入っていたようである。

「確かに、最前線の街だからこそ、こういった雰囲気が必要なのかもしれません。過度にピリピリした雰囲気は、兵の士気を下げますしね」

 彼女がそう呟いたところで、彼等の耳に、城塞の頂上から美しい旋律が鳴り響いてくるのが聞こえる。それはこのブレトランドでは珍しい「オカリナ」の音色であった。

「お、今日も領主様の音色が聞こえてきたな」

 街の人々がそう話しているのを聞いて、「レア」はロジャーに問いかける。

「あれは、ロートス様が吹いておられるのですか?」
「えぇ。ロートス様はオカリナの名手なのです」
「ほう」

 彼等は静かにその音色に聞き入る。それは大陸由来の独特な旋律であり、人々の心に安らぎをもたらすような、そんな優し気な波長が町中に響き渡っていた。

 ******

 その頃、チシャとカーラは、オデットに案内される形で「生活相談所」という看板の掲げられた下町の小さな小屋を訪れていた。

「オデット様、いつもありがとうございます」

 街の人々が、そう言いながらオデットに頭を下げているのに対し、オデットは気さくな笑顔で応じている。

「私は日頃は、ここで町の人々の問題事・悩み事を解決するのが私の仕事です。『上』の方での軍務・政務に関する仕事はお姉さまが担当して下さっていますので、私はこちらで人々に直に接する仕事に就かせていただいているのです」

 彼女がそうチシャとカーラに説明しているところで、こちらでも「オカリナの音色」が聞こえてきた。

「あ、もうそんな時間ですか。ちょっと失礼」

 オデットはそう言うと、懐からオカリナを取り出し、城から流れてくるオカリナの音色に合わせて、絶妙なハーモニーを奏で始める。施設を訪れている人々は、うっとりした顔を浮かべながらその合奏に聞き入っていた。
 カーラは街の人々に小声で問いかける。

「オデット様は、毎日同じ時間に演奏されているんですか?」
「えぇ、よほどお忙しい時でない限り、城からは領主様が、街中ではオデット様が、この美しい音色を聞かせて下さいます」

 つまり、街の人々にとっては、時報の鐘の音のような存在らしい。

「綺麗な曲ですねぇ」

 チシャも思わずそう呟き、その音色を堪能する。このような形で、最前線の住民の心を少しでも和ませようとする彼等の心意気が、この街の人々に活気を与えているのかもしれない。

 ******

 やがて、領主と契約魔法師によるオカリナの二重奏がひと段落した頃、街を巡回していたロジャーが、街角の「とある店」を指差しながら、不意にトオヤに語りかける。

「兄上、こちらのお店などは、きっと兄上のお気に召すのではないかと」

 その店の看板には「シュークリーム」と書かれていた。思わずトオヤは咳き込み、内心でロジャーに感謝しつつ、上ずった声で語り始める。

「あ、うん、そうだな、こういう店での民衆の様子を確認することもまた、今の姫様にとっては重要なお役目なのではないかと。いいだろう。ここらで一つ、甘いものでも食べようじゃないか。甘い者は緊張をほぐしてくれますからね」

 口調を乱れしながら適当に言葉を羅列するトオヤに対して、「レア」は呆れ声で答える。

「別に、無理にそんな理由をこじつけなくてもいいんだぞ」
「あ、えーっと、まぁ、とにかく、行きましょう」

 そんなやりとりを経て、三人は店の中へと入って行く。

 ******

 それからしばらくして、生活相談所での仕事をひと段落させたオデットが、カーラとチシャを連れて街を案内している最中、ふとカーラが「とある店」の看板を目にする。

「チシャお嬢、気のせいかな? あの店に、あるじがいるような気がするよ」
「奇遇だね、私もそんな気がする」

 その店の看板には「シュークリーム」と書かれていた。

「そういえば、甘いものがお好きなんでしたね」

 オデットがそう言ったのに対し、カーラは必死で取り繕う言葉を探し始める。

「あのですね、一応、あるじとしては、新しい果物が入荷された時の価格の変動とか、それに対する市民の方々の反応とか、そういうことを調べるためという目的もあってですね……」

 カーラがそんな熱弁を振るっている間に、店の中から一般客と思しき住人達が出てきた。

「あれが伯爵家の姫君か」
「思ってたより、庶民的なんだな」

 彼等がそんな会話を交わしているのを目の当たりにしたカーラは、自分の予感が当たっていたことに頭を抱え、チシャもまたため息をつく。

「あぁ、やっぱり……」
「どうします? 私達もちょっと休みます?」
「うーん」

 カーラとしては、オデットに「今のあるじの姿」を見せて良いかどうか悩むが、オデットの様子を見る限り、彼女の中では特に悪印象でもない様子である(むしろ、彼女の中では「ウチの兄上様と気が合いそうな人だな」という意味で、好印象ですらあった)。その空気を感じ取ったチシャは、開き直って二人に提案する。

「お店の前で悩んでいるのも迷惑なので、入りましょうか」

 こうして、六人でオディール名物のシュークリームを堪能することになる巡回者一行であった。

3.6. 軍師の決断

 トオヤ達がオデットやロジャーと共に「下町の味」を満喫していた頃、オルガは一人、執務室に鍵をかけた上で、時空魔法を駆使して「投石機を壊した犯人」に関する情報を探ろうと試みた。彼女には、調べたいと考えている事象に対して、リューベンが言っていたような「真」と「偽」を問い質す奥義は習得していないが、トオヤの到着前に彼の人物像を調べた時のように、何らかの「鍵」となる概念を導き出すことは出来る。
 彼女が集中して昨晩の事件の真相に迫る概念を探り出そうとした結果、以下の五つの言葉が導き出された。

「神」
「姫」
「魔法師」
「北」
「空」

 おそらく、「北」はアントリアで間違いないだろう。「空」と「姫」はおそらく梟姫のことであろうと推測出来る(さすがに「レア姫」という可能性までは、彼女は考慮しなかった)。梟姫が自ら乗り込んでいたのか、もしくは彼女の命令によって誰かが忍び込んでいたのかは分からないが、彼女の参戦と連動した作戦である可能性は、状況証拠的に考えて極めて高い。
 「魔法師」については、さすがに絞れない。クワイエットのスュクルかもしれないし、更なる「大物」がアントリアもしくはノルドから忍び込んでいた可能性は十分にある。梟姫には契約魔法師はいないらしいが、「お目付役」としてエーリク直属の魔法師団の誰かがついてきた可能性もありうるだろう(なお、銀十字旅団の団長ニーナ・ヴェルギスには、ダン・ディオードから借りていた魔法師が一人いたが、彼女は今、コートウェルズにいるらしい)。
 そして、「神」に関しても、オルガの中には心当たりがあった。

「銀十字旅団には『神』と名乗る少年がいる、と聞いたことがある……」

 この世界には、稀に異界の「神格」が投影されることがある。もっとも、それが本当に神なのかどうかは、普通の人には区別はつかないのだが、以前にオルガが聞いた話によれば、その少年はアントリア子爵代行マーシャル・ジェミナイ自身が「神」と認めた存在であるらしい(もっとも、それと彼が「神」に相応しい扱いを受けているかどうかは、全く別問題なのであるが)。
 現状において、まだ犯人を完全に絞るには至っていない。だが、オルガはそこまで求めてはいなかった。今の彼女にとって重要なのは、ここで導き出された五つの言葉の中に「リューベンを連想させる言葉」が何一つ入っていなかった、ということである。彼は(オルガが知る限り)どんな神も信仰しておらず、娘も、契約魔法師もいない。「北」や「空」という言葉も、直接的に彼と結びつけられる要素が見つからなかった。
 無論、だからと言って、彼が関与していないことを100%立証したことにはならないし、新たな証拠が出て来ればその時点でオルガの認識も変わる可能性はあったが、ひとまず彼女はこの時点で「リューベン犯人説」を一旦考慮の外に置いた上で、彼と彼の配下の者達が「味方」であるという前提の上で、今後の防衛策を考慮することにした。オルガにとっては、この時点でその方針を確定出来たことだけでも、今後の戦略を練る上で大きな前進であった。

3.7. 弟達の本音

 一方、そのリューベンの元に、この日の夕刻、一人の女性が訪れた。トオヤ達との「シュークリーム屋訪問」から帰還した「レア」である。

「どうなされた、姫様?」
「もしかしてとは思うのですが……、あの晩餐会の夜に、トオヤと何かお話しましたか?」

 そう聞かれたリューベンは、意外そうな顔を浮かべる。この姫君が自らそのようなことを聞きに来るとは、彼の中では全くの想定外であった。

「そうですね。彼とは、この国のあるべき未来について、色々と」

 嘘は言っていない。ひとまず彼はこう答えた上で、彼女の出方を伺うことにした。

「あの後、彼の様子がいつもと違っていたので。もしかしたら、あなたに何か言われたのかもしれないと思いまして」
「どんな様子でした?」
「そうですね……、何か『焦り』のようなものを少し感じました。もちろん、私が見た印象だけの話ですから、それが正しいとは限りません。トオヤの全てが分かっていると言えるほどの自信はありません」

 この反応から、彼女がトオヤに対して「特別な感情」を抱いているであろうことをリューベンは確信した上で、更にもう少し踏み込んでみることにした。

「彼も、色々と思うところはあるようですが、私としても、この機会にあなたから色々とお伺いしたいことはあります。ただ、私は色々と不躾な物言いをしてしまうので、その点は御容赦下さい。実際、それで彼を怒らせてしまったようですし」
「構いませんよ。そういうことがあったであろうことを推察した上で、あなたのところに来たのですから」

 どうやらこの姫君は、思ったよりも度胸がいいらしい、と実感しつつ、リューベンは彼女を見極めるべく、問うべき言葉を探り始める。

「では、まず最初にお伺いしたいのですが、あなたは今、御自身が様々な『政略の駒』として利用されつつあるという自覚はありますか?」
「えぇ。自覚するなと言う方が難しいでしょう」
「では、その上で、あなたはその御自分の境遇について、どう思います?」
「そうですね……。私のこの心すら自由に出来ず、誰かの道具として使われることを、仕方ないからの一言で済ませられるほど、私は割り切った人間でもありませんし、軍略家でもありません」
「なるほど」
「出来る事ならば、政略結婚などではなく、本当に好きな人と一緒にいたい、という思いは確かにあります」

 これは「レア」としての想いの代弁でもあるし、「彼女自身」の想いでもある。もっとも、「彼女自身」がそのことを自覚しているかどうかは定かではない。

「では、あなたの心の中には既に『誰か』がいる、ということですか?」
「そうですね。少なくとも、他の誰よりも気にしている人はいます」

 これについても同上である。そして、その「誰か」が誰であるかについては、リューベンにも概ね察しはついていた。

「とはいえ、私の置かれた身分の重さも自覚しているつもりではあります。私が自分の想いを優先することで、このヴァレフールの全ての民の運命を危険に晒すようなことをするつもりはありません。ですが、もし、幸運なことにも、私が『私の想い人』と一緒になって、このヴァレフールが国として成立するなら、それが一番だと思います」
「私も、そうあって欲しいと思っています。ただ、問題は『あなたの想い人』にそこまでの覚悟があるかどうか」
「それは、聞いてみなければ分かりませんね」
「私の勘違いであればお許し下さい。しかし、おそらく『あなたの想い人』も、本音ではあなたと同じことを考えている。ですが、彼はこれまでの自身の出生や家庭環境故に、家族を持つことへの戸惑いやためらいを抱え込んでいるように私には見えます。もっとも、こんなことは私が言わなくても、彼のことを分かっているあなたであれば、既に察していることなのでしょうが」
「分かってなんていませんよ。だから、こうして悩んでいるんです」

 この反応を目の当たりにしたリューベンは「自分の推測の正しさ」を確信する。そして実際、彼の判断はほぼ正解だったのであるが、ここでリューベンはまだ重要な事実に気付いていない。それは、今彼が話している相手が「次期ヴァレフールの継承者」ではなく、「彼女」と「彼」が結ばれたとしても、リューベンが望んでいる未来には繋がるとは限らない、ということである。
 無論、そんな事実に彼が気付ける筈もない。そして、気付いていないからこそ、彼は自分の中での(ほんの少しだけ、しかし致命的に)誤った想定に基づいて、話を続ける。

「そうですね、私には『彼』は英雄の器であるように思えます。ただ、問題は、英雄は長生き出来るとは限らない、ということです。彼が英雄の器を持っているということはすなわち、彼の人生は平坦ではないということ。だからこそ、私もあなたに彼を勧めて良いのかどうかは分からないし、それが彼にとって進むべき道なのかどうかは分かりません。ただ、『彼』の言い方を借りるならば、私はあなたが『彼』と結ばれることを願っています。私の野心のために」

 自信に満ちた表情でそう語るリューベンに対して、「レア」は苦笑を浮かべる。

「正直なのは、今は美徳と思っておきましょう」
「あなたは本当に話が分かる方でありがたい」
「あなたもね。でも、そこまで言ってくれるとは、意外とリスクを背負える方なのね。もっと慎重で堅実な方かと思っていたわ」
「私は何も言わなくても周囲からは色々と無駄な嫌疑をかけられやすい立場なもので。既に嫌疑がかかっているのであれば、むしろ正直に話した方が信用してもらえるでしょう。私にとっては、まずこの戦いをヴァレフールの勝利に導くことが第一目標です。その上で、私がどこまで登り詰められるかは、これから先の状況次第でしょう。今、ヴァレフールがまとまるためには、『あなた』と『彼』が結ばれるのが一番だ。その上で、『あなた』と『彼』が、末長くこの国の支配者として君臨するか、あるいは英雄として華々しく散るか、それは分かりませんが」

 リューベン自身、ここまで彼女を相手に腹を割った話が出来るとは思っていなかったのだが、彼女との会話を通じて、なぜか彼は「この女性はただの『お飾り姫』ではない」と確信し、中途半端な小細工よりでごまかすのではなく、互いの利害と打算に基づいた同盟関係を結んだ方が得策であろうと推察していたのである。実際、その推察は正しい。ただ、リューベンと彼女の利害が一致するかどうかは、「今、この場にいないレア」の動向次第なのであるが。

「とんだ策士ね……。とはいえ、面白い話が聞けました。そろそろ夕食の時間ですので、私はこれで」
「そうですね。私にはなぜか『女癖が悪い』という根も葉も無い噂が立てられたりしていますので、あまりこの部屋に長居されるのも、お互いにとってよろしくないでしょう」
「分かりました。では、失礼します。あ、そうそう、私がもしヴァレフール伯爵になった暁には、あなたには気をつけさせて頂きますわ」

 そう言い残して去って行く「レア」を見送りながら、リューベンは満面の笑みを浮かべていた。彼は政略・軍略だけでなく、男女の関係においても、それなりに精通している。そのリューベンが見る限り、「彼女」が確かにトオヤに対して本気で好意を抱いていることは間違いない。このまま二人が結ばれれば、騎士団長家に連なる自分の今後の立身出世にとっても大きな前進になるだろう。だが、繰り返し述べてきた通り、彼のこの目論見には、致命的な欠陥があった。それは「彼女」がレア・インサルンドではなかったということである。

 ******

 その頃、城に戻ってきた他の者達のうち、トオヤとロジャーはそのまま城内の警備に周り、オデットはロートスに「例の件」を伝えるために領主の執務室へと向かったのに対し、カーラはこの日の夜に徹夜で警備を担当することを前提に、ひとまず仮眠を取ることにした。
 そんな中、結局オデットから魔法杖の件について聞き出せないままになっていたチシャが、もう一度彼女に問いかけるべきかどうかで迷っていたところに、意外な人物が訪ねてきた。ゲンドルフである。実は彼は、当初は(旧知の?)カーラに話を聞こうとしていたのだが、彼女が休眠中であると聞かされて、代わりに隣の部屋にいたチシャを訪問することになったのである。

「チシャ殿、この度は本当に御足労頂いて、助かっている」
「いえいえ」
「ところで、レア姫様に関してなのだが、」
「はい。何かありましたか?」
「まぁ、俺はこういったことに関しては疎いのでよく分からないのだが……、レア姫様は結局のところ、どなたの元に嫁ぎたいと考えておられるのだろうか?」
「え? あ、はい、えーっと……」

 いきなりの直球すぎる質問に対して、思わずチシャは面食らって混乱する。

「こういうことは、女性同士の方がよく分かるのではないかと思ってな」
「うーん、そう言われましても、直接そのようなことについて話をしたこともないですし……」

 そもそもチシャ自身、「本人」には五年前から会ってない。

「もし、今の時点で特にこれといったお相手がいらっしゃらないのであれば……、我が兄ではダメだろうか?」

 どうやら、彼もまた、リューベンやオルガと同じことを考えていたらしい。とはいえ、チシャとしては「ダメか」と言われても答えようがない。そんな彼女が反応に困っていると、そのまま彼は語り始める。

「我が兄は、まぁ、なんというのか、こう、良く言えば『人が良い』、悪く言えば……、いや、悪く言っても『人が良い』ということになるんだろうか……」
「そのような方だというお話は、確かにお伺いしております」
「俺は、君主には必ずしも『才覚』が必要だとは思っていない。あ、いや、我が兄にも才覚はあるぞ。あるんだが……、君主にとって最も必要なのは『徳』であると思っている。人々が『ついていきたい』と思うかどうかだ」
「確かに」
「その意味で、贔屓目かもしれないが、我が兄であれば、このヴァレフールをまとめていけるだけの器なのではないかと、俺は思っている」

 今のゲンドルフはリューベンとは異なり、自分自身の立身出世以前に、本気で兄に心酔した上でそう語っている。自分自身がオーロラの領主に就任して以来、聖印教会の信徒達との折り合いのつけ方に今も苦戦している彼は、黄金龍の騒動の時に暴徒化した信徒達を一言で説き伏せたロートスの潜在的な「君主としての器」の偉大さを、改めて痛感していた。

「そう……、です、ね……。町の皆さんに慕われているのは、今日も街を回ってみて、よく伝わってきました。ただ、ご結婚という話になると、レア様に聞いてみないと、私としてはお答えしかねますかね……」
「そうであろうな。巷では、トオヤ殿と恋仲なのではないか、という噂も立っているが、あなたから見て、どうなのだ、彼は?」
「二人の様子を見ていると、仲が良さそうではあるのですが、それが恋愛の感情なのかどうかは、なんとも言えないですかね……」

 実際のところ、チシャ自身が恋愛感情というものをよく分かっていない以上、それ以上は答えようがない。もっとも、それ以前の問題の問題として、チシャにしてみれば「今この場にいないレア」の気持ちについては、確認の仕様もなかったのであるが。

「そうか……。いずれにせよ、早めに結論を出してもらいたいものだ。グレン殿もファルク殿も、レア様の即位に異論を挟むことはないだろうが、問題はそのお相手だ。グレン殿はおそらくファルク殿を推しているとは思うのだが、果たして、それで騎士団長派が納得するかどうかと考えると、難しい」
「そうですね」

 そこまで話したところで、唐突にゲンドルフは話題を変える。

「ちなみに、ゴーバン殿は最近はご息災か?」
「えぇ、武芸に励んでいます。あとまぁ、一応、勉強にも、それなりに……」

 実際のところ、ドギがあまりに勉強熱心すぎるだけで、ゴーバンも座学に対してそこまで不真面目な訳ではない。ただ、弟に比べて、圧倒的に「勉強への適性」が足りないだけである。

「正直に言えば、俺個人の感性としては、レア様よりもゴーバン様の方が、素直に仕えられる君主になられそうな気がする。レア様は、なんというか……、正直、子供の頃にお会いした頃に比べて、良くも悪くも聡明になられた。もしかしたら記憶違いかもしれないが、子供の頃にお会いした時は、もっと素直な、純真な方だったというか……、あ、いや、別に今のあの方が邪(よこしま)だという訳ではないが、あの歳にしては、どこか何か悟りすぎてるというか、周囲に『壁』を作っているように見える……」

 ゲンドルフには、リューベンのように物事を「理」に基づいて分析する能力はない。だが、そんな彼だからこそ、リューベンでは気付けなかった「レア姫」の違和感を、直観的に感じ取っていたのである。だが、幸か不幸か、彼にはその直観を「偽物疑惑」へと発展させるだけの推理力が欠けていた。

「まぁ、それが『大人になる』ということなのかもしれないがな。残念ながら、俺は『大人になりきれなかった大人』なんだ」

 彼は一人で勝手にそう納得して、チシャの部屋から去って行く。もし、ゲンドルフとリューベンが懇意な関係で、この件について二人で話し合う機会があれば、いずれ真相に辿り着いていた可能性はある。だが、結果的にこの二人が犬猿の仲だったことで、この二人には「彼女」の正体は明かされずに済んだのである。

3.8. 軍略会議

 この日の夜、オルガ主導で本格的な軍略会議が開催された。アントリアからの侵攻準備が既に整っていることを伝えた上で、夜襲に警戒しつつ、部隊編成についての確認に入る。当初の計画通り、オディール、オーロラ、ジゼルの三軍の主力部隊は城塞に残って地上からの侵攻に備える一方で、タイフォン軍はオデットのペリュトンの力で空襲部隊に対応するという方針を確認するが、敵の全容がまだ不明のため、念のためオルガ隊もタイフォン軍と共に最初は空軍側に加わった上で、地上の戦況を確認しつつ状況に応じて地上に降りる、という作戦でまとまった。
 本来ならば、地上軍と空戦軍の連絡の都合上、オルガかチシャのどちらかが地上軍に残っていた方が都合が良いのだが、空軍の主力が古代龍という情報がある以上、相当な魔法火力を集中させなければ、最悪の場合、一瞬にして空戦部隊が壊滅する可能性もある。それに、魔法師としての技術はオデットの方が上だとしても、作戦指揮官としての能力が高いオルガには、より重要度の高い空戦部隊の方に加わるべき、とオデットは考えていた。そして、オルガがこの方針を受け入れることが出来たのは、リューベン、ゲンドルフが地上部隊に加わっていたからこそ、安心して彼等に地上部隊を任せられる、という事情があったことは言うまでもない(彼女がそこまで吹っ切れた要因には、リューベンに対する疑惑がひとまず払拭されたという点も大きい)。
 そして、今回の作戦においては「レア」もまた、トオヤ達と共に空戦部隊の指揮官として参戦することになった。当初はテイタニアの時と同様に「レア」は後方で待機させるという名目で「ドルチェ」として前線に出るつもりだったが、オディール側が「レア」をロートス率いる地上部隊の後方司令部に待機させることを提案してきたのである。さすがに、「援軍の指揮官」としてこの地に来ている以上、その申し出を断って客室に引き篭もる(という名目で「ドルチェ」として出陣する)というのは難しい。
 テイタニアでの火口への突入の時には、領主不在で町が混乱していた上に、アレクシスという「より目立つ存在」がいたからこそ「長旅の疲れで、今は客室で休眠中」という名目を立てた上で、見張りの兵士達を彼女の誘惑能力でごまかすことで乗り切ることが出来たが、さすがに男爵級聖印の持ち主であるロートス相手にその手が通用するとは限らないし(実はイアンには通用したのだが、その事実はパペット自身しか知らないし、彼が精神的に動揺していたという事情もある)、総指揮官を誘惑状態にして混乱させるのは、戦局全体を危険に晒す恐れもある。
 「彼女」としては、「レア」として何もしないまま砦で皆の帰りを待つという道もあったが、敵の戦力が不明である以上、出来れば自分も前線でトオヤ達を支援したいと考えていた。そのため、あえてオディール側からの「本陣残留案」を拒否して、「レア」として空戦部隊に加わる道を選んだのである。一応、彼女は変身能力を用いている時は邪紋を隠すことは可能ではあるが、戦場において彼女が本気で「能力」を駆使した場合、見る人が見れば、それが聖印ではなく邪紋の力であることは容易に見破られるだろう。特に、魔法師であるオルガやオデットの目をどこまでごまかせるかは、かなり怪しい。
 つまり、最悪の場合、オディールの人々には「全ての事情」を説明しなければならなくなるかもしれないが、それでも彼女は、その危険性を冒してでも、ここは自らが前線に立つことを選んだ。ここで自分が参戦しないことでトオヤ達が命を落とす危険性が高まることと比較すれば、彼女の中ではどちらを優先すべきかは明白な問題であった。
 こうして、一通りの会議を終えて、ひとまず各自が持ち場に着こうとした際、「レア」はトオヤに声をかける。

「トオヤ、あとで話がある。この戦いが終ってからでいい」
「あ、はい、分かりました……」

 なぜ急に敬語で返してしまったのかは分からないが、「レア」の思わせぶりなその言い方に、トオヤは奇妙な緊張感を感じていた。

「それだけ、覚えておいてくれ」

3.9. 月下の攻防戦

 そして、まもなく深夜にさしかかろうとする時間帯に入った頃、長城線の西方で、見張りの兵士達が騒ぎ出す。トオヤ達がそれぞれの部隊を率いて臨戦態勢で現地へと向かうと、どうやら再び投石機が破壊されたらしい。しかも、兵士達の証言によると、今度はゲンドルフと、彼の親友であるオディールの武官のセリムが投石機を破壊して、すぐに姿を消したという(なお、目撃者達は、昨晩の東方の投石機近辺にいた兵士達とは別の部隊である)。
 二人はいずれも破壊能力に長けた戦士であり、この二人であれば短時間で投石機を破壊することは可能だろう。だが、さすがに状況的に不自然すぎるため、トオヤ達もオルガも、それが何らかの形で姿を変えた敵の工作であろうことはすぐに察しがついたが、兵士達は明らかに動揺した様子であった。
 そんな中、ゲンドルフとセリムが現場に現れる。

「おい、どうしたんだ?」
「あ、いや、その、今、ゲンドルフ様が……」
「俺がどうしたって?」

 より混乱が広がろうとする中、ロートスが彼等の前に姿を現し、聖印を掲げる。

「皆、落ち着いて。ゲンドルフ達がそんなことする筈ないだろう? これは、僕達を仲間割れさせようとする敵の罠だよ。騙されないで!」

 彼のその言葉で、兵士達はピタッと静まり返る。彼の指示の下、兵士達がそれぞれの持ち場に戻ることで、騒動は一旦沈静化しようとしていたが、その直後、北の空から、何者かが近付いてくる影を発見する。

「タイフォンの皆さん、すぐに私の近くに集まって下さい。お姉さまも!」

 オデットがそう叫ぶと、トオヤ達とオルガは彼女の周囲に結集し、そしてイェッタの時と同様に、彼等の足元にペリュトンが現れ、ゆっくりと浮上を始める。そして、彼等が空中に上がった時点で、彼等の視界に「空を飛ぶ巨大な影」と「複数の飛行部隊」、そして地上からも「アントリア軍と思しき部隊」が進軍しつつある状況を確認する。どうやらオルガの目論見通り、地上と空中の両方から同時侵攻を仕掛けてきたらしい。
 オルガが慣れないペリュトンの上から敵の全容を確認すると、確かに敵軍の中核には巨大な龍と思しき魔物が翼を広げており、その周囲に三種類の飛行群体が随行しているのが分かる。
 その中の一つは、巨大な梟に乗った少女(下図)指揮された飛空騎士達の集団である。その乗騎は各自バラバラだが、掲げている旗は間違いなくノルド侯国の軍旗であり、おそらくは梟姫率いる本隊で間違い無いだろう。


 その傍らには、背中に「紅の翼」を広げた兵士達の集団がいる。その中心にいるのは、異界の装束に身をまとった少年(下図)であった。おそらくは彼こそが「異界の神」であり、彼や兵士達の背中に生えている翼は、彼の力によって生み出された代物であろうと推測される。


 そして最後の一つは、あまりにも小さな群体であったため、最初は視認が困難であったが、どうやら羽を生やした女性型の小型妖精達(下図)の集団らしい。ティル・ナ・ノーグ界の妖精ということであれば、オデットやチシャの専門分野であろうが、周囲に魔法師らしき者の姿が見えないため、おそらく彼女達は召喚魔法師によって呼び出された従属体ではなく、混沌の力で自然発生した投影体だろう。だとすると、オデットやチシャでも、どこまでその能力に精通しているかは分からない。


 敵軍の全容を確認したオルガが敵陣の特徴や弱点などを推察してトオヤ達に伝えると、レアはペリュトンの上から、あえて自分が注目を浴びるような仕草を見せて、敵の注目を集める。本来、姫としてあるまじき行為だが、自軍に魔法師が三人もいる状況において、彼女達への敵軍の特攻を避けるためにも、自分が囮となる必要があった。「彼女」は攻撃を避ける技術に関しては、間違いなくこの場にいる誰よりも長けている。無論、それは「彼女」が邪紋の力を用いることを前提とした戦略である以上、極めて危険な行為ではあったのだが、ここは力を出し惜しみしている場合ではないと「彼女」は判断したようである。
 そして実際、古代龍も紅翼隊も妖精隊も、彼女を「捕捉すべき総大将」と認識し、彼女に視線が集中する。しかし、本来ならば最もレアに執着しそうな関係にある梟姫だけは冷静であった。

「そうやって、あえて自分の存在を目立たせるということは、他に『狙われちゃいけない人』がいるってことよね、レア?」

 彼女はそう言いながら、ヴァレフール軍のペリュトン部隊を見渡す。空戦の専門家である彼女は、彼等の載っているペリュトンが召喚魔法師によって呼び出された存在だということはすぐに分かる。つまり、呼び出した本人を倒せば、直後に彼等は足場を失って地上に急落下することになる。梟姫は、誰が召喚魔法師なのかは識別出来なかったが、ひとまず最前線に立つ魔法師であるオルガに照準を合わせることにした。
 そんな梟姫達に先んじて、オルガは自身が放てる最大級の攻撃魔法である雷撃球を叩き込もうとするが、梟姫はその動きを見切ってかわし、そのままオルガ隊に向かって突撃してきた(一方、古代龍には直撃するが、妖精隊は紅翼隊に庇われることで損傷を免れる)。

「これはこれはノルドから、わざわざのお越し、ありがとうございます」

 オルガがそう呟いて余裕を見せるが、さすがにここで魔法師隊を危機に晒すわけにはいかないと判断したトオヤ隊が間に入って、梟姫の滑空突撃を新装備の盾で凌ぎきる。

(今の一撃、私がまともに食らったら、立っていられたかも分からんな……)

 オルガは内心で冷や汗をかきつつ、突撃を受けても全く崩れる様子もないトオヤの圧倒的な防御力に脱帽する。
 一方、チシャはジャック・オー・ランタンを紅翼隊に向かって放ち、見事に直撃したものの、あまり致命的な損傷には至らない。どうやら彼等は(先刻の雷撃球もあまり効いていない様子から)火属性の攻撃には耐性があるようだ。
 そして、「レア」は不気味に空中に漂う妖精隊に対して、ペリュトンの上から短刀を構えて、護衛の兵達と共に特攻をかけようとするが、その次の瞬間、彼女達の目の前にいた妖精達が姿を消し、それと同時に古代龍が現れる。

「なに!?」

 ヴァレフール軍全体がその現象に目を疑う。これは妖精族特有の、空間を捻じ曲げて友軍との「居場所」を入れ替える奥義であった。「レア隊」はそのまま古代龍の脇腹に突入し、古代龍を出血させるほどの軽傷を負わせるものの、結果的に「姫様」の目の前に古代龍が現れるという緊急事態が発生してしまった。そして、古代龍はそのまま炎の吐息を「レア隊」に向かって放とうとする。

(問題ない。むしろ、好都合だ)

 「レア」は内心そう思いながら、古代龍の視線の焦点を自分に向けさせつつ、古代龍自身の巨大な身体の一部を巻き込む形で炎を吹かせることに成功する。古代龍は自らの炎で悶絶する一方で、「レア」はあっさりとそれをかわし、巻き添えを食らいそうになったカーラ隊に対しては、トオヤが聖印の力を使って壁を作ることで炎の威力を軽減させる。
 それに続いてカーラ隊は妖精隊を攻撃しようとするが、ここで再び古代龍と妖精隊の場所が入れ替わる。古代龍はカーラの渾身の一振りをまともに直撃しつつも、そのままカーラを巨大な爪で貫こうとするが、そこに再びトオヤ隊が突撃して、どうにか彼女を庇い切る。更に間髪入れずに、今度は神と思しき少年に率いられた紅翼隊がカーラ隊に対して激しい炎撃を打ち込もうとするが、そこで「レア」が邪紋の力で彼の視線を自分に釘付けさせた結果、彼はカーラ隊ではなく「レア隊」に向かってその一撃を放ってしまう。その動きを見切っていた「レア」はあっさりとそれを避け、結果的に彼女の近くにいた妖精隊だけに直撃する。

「あ、すまん!」
「痛いよー!」

 少年と妖精が思わずそう叫ぶ中、チシャによって呼び出されたトロールが妖精隊を攻撃しようとするが、そこで再び妖精隊に変わって古代龍が現れて、その攻撃を受け止める。古代龍は今度は尾を振り回して周囲を一気になぎ払おうとするが、「レア」はそれも軽々と避け、チシャ隊はトオヤ隊に庇われつつ、そろそろ心身共に疲労が蓄積してきたトオヤは、ファルクから受け取っていた魔法薬で傷を癒しつつ、聖印を掲げることで味方全体の士気と精神力を回復させる。
 こうして、互いに「妖精による空間湾曲」と「『レア』による翻弄」を繰り返すことで戦場が混乱する中、「レア」は梟姫に再び誘い込むような視線を送る。

「こっちを向いてよ、マルグレーテ。友人の顔も忘れた?」

 その挑発するような仕草に、今度は梟姫も完全に激昂し、「レア」に向かって襲いかかる。

「随分、下品な戦い方をするようになったじゃない、レア!」
「これでも、サンドルミアであなたといた時から、変わってないんだけどね」

 実際、当時から現地においても彼女は「レア」としてマルグレーテと接する機会は多かった。だからこそ、「彼女自身」の中でも、マルグレーテに対して一定の思い入れはある。そして、完全に冷静さを失った梟姫の一撃を避けることなど、「レア」には造作もないことであった。
 そんな彼女達の様子を少し離れたところで伺っていたオルガは、今、自分が一直線に雷撃を打てば、梟姫も古代龍も紅翼隊も同時に巻き込むことが可能であることに気付く。だが、その場合、「レア姫」を射程から外すことは不可能であった。常識的に考えれば、ここで「姫様」を巻き込んで魔法を放つなど、臣下として絶対にやってはならない暴挙である。だが、ここで彼女の中で、とある疑念が広がりつつあった。

(あの姫様は、何者だ……? さっきから、敵の攻撃をあまりにも軽々とかわしている。しかも、聖印の力を使っている様子もない……)

 オルガには、彼女の邪紋は見えていない。そもそも、彼女はこれまで幻影の邪紋使いを見たことがない以上、その力の正体を識別することは不可能である。だが、明らかにそれが「聖印の力」ではないと彼女は確信していた。

(あの動きを見る限り、「彼女」なら、私の魔法もあっさりと避けられるだろう。だが、しかし、さすがにここで後方から「姫様」を撃つ訳には……)

 オルガはかつてアントリアの将軍ハルク・スエードを撃つために、味方である傭兵団「暁の牙」を巻き添えに雷撃を放ったことがある。だが、あの時の「暁の牙」はリューベンが独断で極秘裏に雇用していた「非公式の友軍」であったのに対し、今回の「レア姫」はこちらから依頼した援軍の総大将である。彼女の正体が何者であろうと、ここでその彼女を巻き込んでいいかどうか、オルガの判断が揺らぐ。だが、その時、オルガの視線の先にいた「レア姫」が、オルガに視線で訴えた。

(構わない。撃ちなよ)

 彼女の瞳がそう言っていると確信したオルガは、一直線に雷撃の魔法を放つ。次の瞬間「レア」は目の前の古代龍の精神に、邪紋を用いて語りかける。

(汝、楯となれ!)

 得体の知れぬ力に精神を支配された古代龍は、彼女に命じられるがままに、オルガの雷撃から「レア」を守るように立ちはだかり、激しい激痛にその顔を歪ませ、更にその直後に「レア」の繰り出した「得体の知れない謎の一撃」を受けて絶命し、その身は地上へと落下していく。
 その直後、今度は妖精隊に向かってチシャが魔法を放つと、妖精隊はそれをかろうじて回避した上で、そのまま真下に広がる「地上の戦場」へと降下する。どうやら、古代龍が倒されたことで不利を悟って、この戦場からの離脱を決意したらしい。
 そして紅翼隊を率いている異界の少年は、カーラ隊と交戦していた梟姫の元へと急行する。

「マルグレーテ、もう限界だ、撤退するぞ」
「ちょっと、まだ私は全然平気なんだけど!」
「もうこれ以上、ここで戦う意味はない。義兄(あにき)の言うことは聞け!」
「誰がアニキよ!」

 そう言って反論する梟姫であったが、少年は彼女の口を強引に手で押さえると同時に、自らの周囲に「何か」を張り巡らせ、姿を消した。オルガもトオヤ達もその周囲に目を凝らすが、姿は見えない。何が起きたのかは不明だが、いずれにせよ、この時点で「上空の戦場」からは、敵軍はいなくなった。

「いずれまた会いましょう、梟姫」

 「レア」はそう呟きつつ、地上の戦場に目を向ける。どうやら地上のアントリア軍も古代龍の落下と共に、無勢を悟って撤退を始めたらしい。「レア」は内心、旧友を殺さずに済んだことに安堵していた。生け捕りに出来ればいいとトオヤは語っていたが、現実問題として、機敏性に優れた騎乗の聖印の持ち主である彼女を無力化するには、チシャかオルガの全力魔法攻撃くらいしかない。それでも当たるかどうかは分からないが(実際、オルガの魔法を彼女はあっさりとかわしているのだが)、もし本気の一撃が直撃した場合、一瞬で落命する可能性も十分にありえた。
 こうして、アントリア・ノルド連合軍による深夜の奇襲攻撃は、トオヤ達を加えたヴァレフール軍との激戦の末に、失敗に終わったのであった。

4.1. 魔法師達の追求

 陸空共に勝利に湧き返るヴァレフール軍は、ひとまずアントリア軍の完全撤退を確認した上で、ロートス達の待つ城塞へと帰還する。その途上、ペリュトンに乗った状態のまま、オデットがオルガに密かに語りかけた。

「お姉様、私、戦闘中にレア姫様から一度も『聖印の気配』を感じなかったんですが……、あの動きは、どう考えても『生身の人間の動き』ではなかったですよね」

 どうやらオデットも同じ違和感に気付いたらしい。そして兵士達の中でも「戦場での姫様」の話題でもちきりであった。

「いやー、凄いな、レア様。自ら前線に立って、ドラゴン相手に一歩も引かずに渡り合うなんて」
「おとなしいお嬢様だと思ってたけど、やっぱり、英雄王の末裔なんだな」
「もしかしたら、トオヤ様よりも強いかもしれんぞ」
「そりゃあ、大変だ。ただでさえ尻に敷かれそうだってのに」

 どうやら戦勝気分のおかげで、彼等の中では純粋に賞賛の声が上がるばかりで、特に不信感を抱いている者はいないようである。一方で、オデットと同じことに気付いた者もいる。

「ところでお前、レア様の聖印を見たか?」
「いや? 結局、一度も掲げられてはいなかったようだが」
「すげーな、おい、聖印使わなくても、あんなに戦えるのかよ。じゃあ、姫様が本気を出したら、どんだけ強いんだ?」
「下手したら、ヴェラ様よりも上なんじゃないか?」

 こちらも勝利の高揚感がもたらした影響だろうか(あるいは、彼女の邪紋による一瞬の催眠効果の影響だろうか)、誰もその点に対しては疑念を抱いていないらしい(ちなみに、戦いが終わると同時に、微妙に傷を負っていたトオヤとカーラは即座にそれぞれファルクから貰った薬を使い切ることで「レアの癒しの聖印を使う必要性」を未然に消し去っていた)。
 そんな空気の中、オルガは密かにオデットにこう告げた。

「オデット、とりあえず、彼の契約魔法師の方を突いてみてもらえるか?」

 ******

 砦に戻った時点で、オデットは後輩であるチシャに声をかける。

「チシャ、一つ聞きたいのですけど」
「なんでしょうか?」
「あの姫様は、何者ですか?」

 そう問われた瞬間、チシャはオデットの中で既に相当強い疑惑が発生していることを察する。ただ、これについてはチシャ達の側でも想定済みの事態であった。チシャは、昨晩の軍略会議の後に密かにトオヤ達と一緒に話し合って決めていた「釈明」を語り始める。

「実は、今回の戦いでは『影武者』を使わせてもらったのです。事前にお話しなかったのは申し訳ないですが、『投石機を壊した敵の内通者』がまだこの城の内側にいる可能性もあったので、言えませんでした。すみません」

 後継者問題でレアを推してほしいと考えている彼女達としては、ここで「本物」が行方不明であることを知られたくはない。そこで、あくまでも「この地に来ているレア姫様は本物」という体裁は維持した上で「最前線の戦場に立たせるのは危険すぎるので、今回だけはやむなく影武者を用いた」という形でごまかすことにしたのである。

「なるほど、『敵を騙すには、まず味方から』ということですか。では、本物の姫様は今、どこに?」

 当然の疑問であるが、一応、これに対する「言い訳」も準備していた。

「それについては、トオヤと姫様の間で話し合った上で、どこかに隠れているらしいのですが、私も聞いていないのです」

 トオヤもチシャもカーラも、あまり「嘘」が得意な性格ではない。故に、細かいところまで口裏を合わせようとしても、細かく突かれるとボロが出て「証言」が食い違ってしまう可能性があったので、ここはあえて「言い訳担当」をトオヤに一本化しておいた方が良いと考えたのである。

「なるほど……。あなたですら知らないということは、それだけ『あの方』が姫様にとって特別な存在ということなのでしょうね」

 オデットは、ひとまず納得したような表情を浮かべる。まだ少し釈然としない気持ちもあったが、チシャが知らないと言っている以上、これ以上彼女を追求しても仕方がないと判断したようである。チシャはひとまず愛想笑いを浮かべてごまかしつつ、あとはトオヤと「レア」が上手く乗り切ってくれることを祈っていた。

 ******

 同じ頃、そのトオヤの元にはオルガが現れ、オデットと同様のことを問いかけ、トオヤもまたチシャと同じ説明を伝えた。

「……ということだったのですよ」
「では、その間に本物の姫様はどこに?」
「とりあえず、砦の中で空いていた部屋を俺が探して、そこに隠れてもらっています」
「どの部屋だ? この砦の部屋は私が全て管理している」
「2階の、私がお借りしている客室の斜め向かいの、物置部屋に……」

 トオヤがそう言ったところでオルガは懐から、複数の鍵を束ねた鉄輪を取り出す。

「その部屋の鍵は、私が持っている」

 これはハッタリである。確かに彼女には、城の従者達に命じて部屋を開けさせる権限はあるが、全ての部屋の鍵を常備している訳ではない。だが、ここでトオヤは明らかに動揺を見せる。出撃直前の時点で、その物置部屋の鍵が開いていたかどうかまでは確認していないので、ここでオルガが「この時間帯なら、あの物置部屋には鍵をかけてある筈」と言われたら、その時点で矛盾が露呈する。
 これに対して、どう反応すれば良いか分からず、明らかに狼狽するトオヤの後ろから、「レア」が現れた。

「トオヤ、無理だよ」
「ひ、姫様?」

 既に精神的に追い詰められていたトオヤは、思わず、半分裏返ったような声を上げる。

「人を騙す仕事に関して、この人を相手に君が勝てる見込みがないことくらい、分かるさ」

 「レア」は苦笑を浮かべつつ、オルガに対して上目遣いで語りかける。

「聞きしに勝る眼力、ということですか?」
「いや、時空魔法で彼について調べた時に『偽装』という予言が出ていたのでね。彼が何かを隠していることを知っていたから、少し強気に行かせてもらった」
「その点も含めて、あなたの軍師としての実力、ということなのでしょう。トオヤ、いいよね?」

 さすがにもう、これ以上は無理だと判断したトオヤは、肩を落としつつ答えた。

「……まぁ、仕方ないな」

4.2. 告白と忠告

 こうして、「レア姫」ことパペットは、一通りの事情をオルガに説明する。オルガは表情を変えないまま、淡々とその説明に聞き入っていた。

「……つまり、私達は皆さんを欺いていたことになります。レア・インサルンドという姫様は今ここにいないどころか、サンドルミアで別れた後、ブレトランドに戻ってきているかどうかも分かりません。ワトホート様が仰るには、聖印の繋がりは切れていないので、生きていることは間違いないらしいのですが……」

 パペットがそう告げたところで、オルガは少しだけ安心した表情を浮かべる。彼女の本音としては、やはり「本来の継承順」通りにレアが継ぐことが望ましいと考えていた。

「……ですので、ここにいる僕は、レア姫様が戻って来るまでの間、その影武者を仰せつかっている者です」

 その説明を聞き終えたところで、オルガは「影武者」に問いかけた。

「では、一つだけ確認させてもらう。レア姫様は、戻ってくる意思はあるんだな?」
「えぇ。それなりに長い間、レア姫様の影武者および侍女として仕えた身として、そこは断言させてもらいましょう。彼女はこの守るべき国を放棄してどこかに行ってしまうような、責任感のない人間ではありませんよ」
「分かった。私個人の考えとしては、彼女が素直に爵位を継承してもらう方がありがたい。そして、そちらから話してもらった以上、私がこのことを『外』に漏らすのはフェアではない」
「ありがたいことです」
「この話は、私とロートス様の中で留めさせてもらおう」

 さすがに彼女も契約魔法師として、主君に伝えない訳にはいかない。その点に関しては、トオヤ達も文句を言える立場ではなかったし、ロートスの性格上、こちらの事情を彼女が正確に伝えれば、理解はしてくれるだろうとトオヤは考えていた。その上で、トオヤはもう一つ気になったことを問いかける。 

「オデット様はどうします? あの方も現場をみていた以上、ごまかしきるのは難しいと思いますが」
「オデットか……」
「その辺りの判断はお任せします」

 そう言われたオルガであったが、内心では、今は彼女には伝えない方が良いだろうと考えていた。彼女を信頼しない訳ではないが、今でもパンドラとの繋がりがあることが分かった以上、彼女に国家の最重要機密を伝えるのは、軍師としてあるまじき行為である。もし仮に、パンドラの中に相手の精神を操ったり、脳内を覗き込んだりすることが出来る者がいた場合、彼女がいくら隠そうとしても、その情報が伝わってしまう可能性は十分にある。
 オルガがそんな考えを巡らせていることなど知る由もないまま、トオヤは彼女に対して改めて、強い決意を込めた瞳で訴えた。

「彼女は必ずこのヴァレフールに帰ってきます。それまで、この国を荒れた状態にしておく訳にはいきません。そのために、僕達全員の力で、彼女が帰ってきた時に、彼女の故国が素晴らしい国であると思ってもらえるように、頑張っているだけです。今後、どのように情勢が動くかは分かりませんが、彼女が戻ってきた時に、改めて彼女の資質を見極めてほしいのです」

 真実を知られてしまった以上、本人不在の今の時点で「レアの継承への賛同」を求める訳にはいかない。それ故に、今はここまでしか言えないのがトオヤとしては歯痒い心境ではあったが、その誠意はオルガに伝わったようである。

「分かった。君が信頼に足る人物だということは、昨晩のロートス様との会話を聞いていて、十分に感じた。その言葉を重く受け止める」
「そう言って頂けると助かります」
「ところで、君のことを時空魔法で調べた時に出てきた言葉は、他に四つあるんだ」

 オルガとしては、彼等がここまで話してくれた以上、自分も「彼」に関することについて、包み隠さず話しておくべきだと考えたらしい。

「そのうちの二つは『風雲』と『救国』。君はきっと大きなことを成すのだろう。そして『純愛』、まぁ、見ての通りなのだろうな」

 この「見ての通り」という言葉には、解釈次第で何通りかの意味が存在するのであるが、オルガがどのような意図でそう言ったのかは不明である。

「は、はぁ……」
「そして残りの一つは『闘病』だ」
「と、闘病?」
「身体には、気をつけろよ」

 そう言って、彼女は立ち去って行く。当惑するトオヤに対して、パペットが声をかけた。

「甘い物の食べ過ぎじゃないかな」
「い、いや、ちゃんとその分、身体を動かしてるし。絞ってるし」

 確かに、トオヤの体型は今のところ、肥満化の傾向は見られない。だが、体の内側で既に糖尿病や高血圧の前兆が進行しつつある可能性もあるし、今は平気でも、歳をとって身体の代謝が悪くなった頃に、若い頃に暴食のツケが回ってくるのも、よくある話である。とはいえ、それは解釈次第によっては、「身体の機能が低下し始める頃までは生きていられる」ということを意味する吉兆とも捉えられなくもないかもしれない。
 救国の風雲児の伝説は、華々しい英雄的な死で終わることが多い。歳をとって病気と戦いながら余生を過ごす未来図は、物語としては美しくはないが、一人の人間としては、そちらの方が充実した人生なのかもしれない。少なくとも、彼を支えている、彼のことを大切に想っている人々にとっては、その方が遥かに幸せな未来であろう(もっとも、若くして糖尿病や高血圧になる者もいるし、そもそも「闘病」の正体が糖分由来の病気とも限らないのだが)。

4.3. 敗軍の将

 その頃、無念の撤退を強いられた梟姫は、アントリアの前線基地であるクワイエットの城で敗戦の失望感に打ちひしがれていた。
 今回の作戦は、もともとノルド側からの提案であった。アントリア子爵代行マーシャルが、現状は国力回復に努めるべきと主張し続けていたのに対して、ノルド側が業を煮やして、勝手に追加の遠征軍として梟姫達を送り込んで来たのである。両国の力関係上、マーシャルにはそれを追い返すのは難しかったため、やむなく彼等を受け入れた上で、その処遇を南東方面軍の指揮官であるファルコンに任せることにしたのである。
 もともと主戦派のファルコンは梟姫達を歓迎した上で、彼女とは旧知の関係である同盟盟主直属の傭兵集団「銀十字旅団」と共に、梟姫の指揮の下で長城線の攻略作戦を開始した。敵軍の防備を分散させるために、スュクルにオーロラ近辺での混沌濃度を上昇させたのも、敵軍を混乱させるために、敵軍の要人の仕業に見せかけつつ長城線の投石機を破壊したのも、全て彼女の立案である。
 なお、投石機破壊に関しては、実際に潜入して破壊していたのは「梟姫」と「紅翼の神」であり、その姿をロジャー達であるかのように見せていたのは、神が用いた「静寂の映像」の魔法である(この世界の投影体の一部には、魔法を習得出来る者もいる。彼もその一人であった)。そして彼等を長城線に潜入させたのは、妖精(彼女もまた銀十字旅団の一員である)による空間湾曲とスュクルの転移魔法の合わせ技であった。すなわち、妖精がその小さな身体を生かして密かに城内に潜入した後、長城線の北側で密かに待機していたスュクル・梟姫・神の三人と「空間の入れ替え」をおこなった上で、神が唱えた「静寂の映像」の魔法で姿を偽装して破壊しつつ、スュクルの空間転移魔法で撤退したのである(なお、空中戦の終盤で梟姫と神が部隊ごと姿を消したのも、この「静寂の映像」で「自分達がいない夜空」を映し出すというカラクリであった)。
 ちなみに、今回の作戦立案に関して、ファルコンの軍師であるスュクルは殆ど関与していない。それは、ファルコン自身が「今回はノルド軍の方針に全面的に従う」という方針を掲げていたからである。彼のその真意は不明であるが、結果的に全ての指揮権を梟姫に委ねたことで、今回の敗戦の責任は全て彼女が負うことになった。地上戦はあくまで牽制のための攻撃であったため兵の損害は少なく、空襲部隊もあまり死傷者は出ていないのだが、ノルド空軍の切り札である古代龍を失った責任は、あまりにも重い。

「帰れないわ……、こんな失態を犯して、帰れる訳ないじゃない…………。帰れないのよ! 私は! 最低限、長城線だけでも落とすまでは、帰る訳にはいかないの!」

 彼女は、自分と同じ「客将」の身である銀十字旅団の団長ニーナ・ヴェルギスを相手に、取り乱した表情を浮かべながら、そう叫ぶ。実際のところ、今回の彼女の作戦も、戦場での判断も、決して間違ってはいなかった。彼女の誤算は、ヴァレフール側にタイフォン軍という想定外の援軍が加わっていたことである。とはいえ、ノルドの将として、全権を委任されながらの敗戦という汚名を背負って帰ることは、彼女には出来ない。ノルド法の過去の判例に照らし合わせて考えれば、たとえ王族といえども、追放や死罪が言い渡される可能性も十分にある。
 とはいえ、アントリア側にしてみれば、一度失敗した彼女に再び侵攻作戦の指揮権を与えることはありえない。かといって、異国の姫将軍に滞在され続けても扱いに困るだけなので、丁重に帰国を促されることは間違いないだろう。そんな八方塞がりの状態の梟姫に対して、ニーナはこう言った。

「ならば姫様、我等と共にこの地で、汚名返上の日まで戦いますか? 我等はどんな素性の人々でも受け入れます。罪人であろうとも、王族であろうとも、神であろうとも」

 銀十字旅団は同盟盟主マリーネ直属の部隊であり、隊内の人事権は団長のニーナに一任されている。彼女が梟姫やその配下の者達を「新たな団員」として受け入れると言えば、アントリア子爵代行マーシャルも、ノルド侯爵エーリクも、それに対して口出しは出来ない。

「ただし、ここに残るのであれば、我等の規律には従って頂く。それでよろしいか?」

 ニーナはそう付言したが、実際のところ、それほど厳しい規律がある訳もない(そうでなければ、隊の風紀を乱し続けている「異界の神」などを受け入れることなど出来ないだろう)。強いて言えば、「姫」としての特権が無くなる程度の話である。

「……分かったわ。どちらにしても、あの長城線を落とすまでは、私は帰れない。ただし、兵士達には、帰るか残るかは選択させてあげて。彼等は私の命令通りによく働いてくれたわ。責任は全て私にある。叔父様もそのことは分かって下さる筈。罪に問われることはないわ」
「了解した。では、私の方から彼等にそう伝えておこう」

 ニーナがそう告げたところで、どこからともなく、隊内の風紀違反の常習犯である「異界の神」が現れる。

「安心しろ。お前の面倒は、ちゃんとこの義兄が見てやるからよ」
「だから、アンタのことを義兄だなんて、絶対に認めないっての!」

 そんな二人のやりとりを眺めながら、ニーナはまたしても頭痛の種が増えそうな状況に、深くため息をつく。
 ちなみに、この後でニーナから梟姫の意向を告げられた彼女の傘下の空襲部隊の者達は、結局、全員がこの地に残ることになった。彼等もまた誇り高きノルド軍人である。敗戦の汚名を背負ったまま、幼い指揮官だけを残して帰国しようとする者は誰もいなかった。こうして、マルグレーテ・リンドマン率いるノルド屈指の空襲部隊は、そのまま(一時的に)銀十字旅団に加わることになったのである。

4.4. 驕らぬ勝者

「それはまた、厄介なことを抱え込んだね」

 オディールの領主の執務室で、オルガから話を聞かされたロートスは、思わずそう呟いた。

「その話を聞かされたなら、むしろ、この機会に『僕等の秘密』も彼等に教えても良かったんじゃないかな。もっとも、君は軽々しくそういうことをしない人だということは分かってるけど」

 オルガは口が堅い。それは、彼女が軍師となる以前からの性分である。

「まぁ、いずれ彼等に『こちらの事情』を話すかどうかは、また僕が判断するよ。その上で、オデットにはこのことは……、言わない方がいいだろうね。彼女は彼女で、もう既に何か察しているかもしれないけど」

 この点に関しても、彼とオルガは意見が一致している。決して彼女を信用していない訳ではないが、事が重大だからこそ、物事を必要以上に深刻に捉えがちな彼女を、あまり面倒事に巻き込みたくない、という気持ちもロートスの中にはあった。

「そうですね、マイロード」

 オルガは短くそう答えた上で、改めて自分の中で今回の戦いについて総括する。人的被害が最小限で済んだことは幸いだが、投石機が二基破壊されたことの損害は決して少なくはない。復旧には相応の時間と費用も必要となるだろう。自分がもっと早い段階でリューベンを信用して適切な対応策を講じていれば、二基目の破壊は免れたかもしれない。結果的にトオヤ達のおかげで勝利出来たとはいえ、軍師としての自分は決して万全を尽くしたとは言えないと彼女は考えていた。
 そして、今回の件の過程でロートスに提言したものの、いつの間にか流されてしまっていた彼の縁談についても、再び彼女の中で課題として浮上していた。

(やはり、テイタニアの妹君が年齢的にも家格的にも一番適切ではあるのだが……、どちらもあまり結婚に積極的ではない以上、話を進めるのは難しそうだな……)

 なお、オルガは軍略以外のことに時空魔法を用いることは少ないため、まだ気付いてはいないが、実は近い将来、ロートスの周囲で彼を巡る女性達の攻防が繰り広げられる運命が待ち受けていた。そのことについては、いずれまた別の語り部の口から語られることになるかもしれない。

4.5. 告白と告白

 翌日、戦いの疲れを客室で癒していたトオヤの元に、「レア」が訪れた。

「今回はお疲れ様。遂に僕ら以外にバレてしまったね」
「いつかこういう時が来る気はしてたんだけど、予防線を張っていてもダメだったね。まぁ、無理のある作戦ではあったしな」
「それは仕方ない。というか、結果的にはこれで良かったと思っているよ。オルガさんにも納得してもらえたようだし。それ以上に、僕の中でここのところずっと迷っていた心に、ようやく決着がついた」
「迷っていたこと?」

 トオヤが首を傾げたところで、「彼女」は意を決して語り始める。

「そうさ。単刀直入に言おう。トオヤ、僕は君のことが好きだ」

 その瞬間、トオヤは完全に硬直する。いつもの彼なら噎せて咳き込むところだが、今回はそんな反応すら出来ないほどに、完全に彼の身体の全ての機能が停止したかのように、ただ呆然と立ち尽くしていた。そんな彼に対して、「彼女」は真っ直ぐな瞳で語り続ける。

「今までずっと、この気持ちが『本物』なのか『姫様からの借り物』なのか、分からなかった。姫様が、トオヤのことを想っていたのは知っていたし。だったら、その姫様を演じるにあたって、トオヤにそういう素振りをみせるのは、決して悪くない手段だ。最初はそう思っていたんだ。けどさ、それを続けている間に、燃えてくるこの感情は何だ、姫様から植えつけられた感情じゃない、僕の感情なのか、これは。そして影である僕にそれが許されるのか、テイタニアにいた辺りからかな、結構悩んでた」

 今の彼女の姿は「レア」のままである。しかし、トオヤの目には、別の誰かに見えた。それは少なくとも「レア」ではなく、そして「レアの影武者」でもない。紛れもなく「彼の中での特別な誰か」であった。

「それがここに来て、ようやく合点がいったよ。この街に来て、梟姫の話を聞いてから、ずっと僕は心の中で苛立ちを感じていた。彼女は僕の中では『大切な友人』だったんだよ。借り物ではない友人というのは、結構貴重な存在なんだ」

 自分が影武者を務める前からのレアの幼馴染だったトオヤ達とは異なり、マルグレーテとの関係においては、レアとパペットは同時に彼女と出会い、そして二人共同時に、彼女に対して好印象を抱いていた。一緒にいた時間の総計としては(彼女は「レア」としても「レアの侍女」としても彼女と会っているため)むしろパペットの方が長い。だからこそ、マルグレーテに対しては、はっきりと「自分自身の感情」としての「友情」を感じていたのである。

「僕としては、そんな友人である彼女のことを殺したくはない。でも、君のことを思うなら、手加減してる場合じゃない。そこで葛藤した。葛藤している間に自覚したんだ。彼女に対する友情と天秤にかけるくらい、僕の中での君への感情は『本物』なんだということを。『姫様からの借り物』ではなく、『本当の自分の感情』なんだということを」

 まさか、こんな形で「自分自身の感情」を見つけ出すことになるとは、彼女は全く想定もしていなかった。無論、そこに至るまでの、これまでのトオヤ達との旅を通じて積み重ねてきた感情の蓄積がその根底にあることは間違いない。その意味では、今回の件はあくまで一つの引き金にすぎない。遅かれ早かれ、いずれ彼女はこの感情の正体に気付くことになっていただろう。

「君のためを思うなら、彼女に手加減なんか出来ないけど、君のことを思ってる訳じゃなければ、彼女との友情を優先したかもしれない。彼女はサンドルミアで出来た、僕の大切な友人だったからね。借り物じゃない友人というのは、結構貴重な存在なんだ。それと天秤にかけなきゃいけないと思った時、ようやく自覚したよ。僕自身の感情としての、君への気持ちをね」

 ただ黙って聴き続けているトオヤに対して、彼女はここまで一気に語り終えた上で、軽く一息いれつつ、改めてトオヤを見つめる。

「はぁ、言ってしまったね……」

 やや照れ臭そうにそう語った彼女に対して、ようやくトオヤは、明らかに動揺した面持ちのまま、慌てて何か言おうと試みる。

「あ……、い……、う…………、え……………………」
「おいおい、人がせっかく勇気を振り絞って言ったのに、その反応はないんじゃないかい?」

 顔を膨らませる「彼女」に対して、トオヤは改めて「伝えるべき言葉」を探し出そうとする。

「あ、あぁ、え、えーっと……、ごめん、10秒くれ。10秒時間をくれ」
「10秒とは言わない。これからも僕が『ヴァレフール伯爵令嬢レアの影武者』である以上、これからずっと続く問題だ。ゆっくり答えを出してくれ。それで構わない」

 実際、彼女としては、ここで答えを求めるつもりはなかった。ただ、「自分の気持ちを彼に伝えたい」という衝動が抑えられなくなっただけであり、今の時点で彼との間に「特別な関係」を求めている訳でもなかった。
 だが、トオヤの中でも、彼女に対して言いたいことがあった。彼の中では少なくとも、クーンの城で彼女に対して本気で怒りを見せたあの時から、ずっと心の中に押し殺していた感情があったのである。
 トオヤはひとまず深呼吸した上で、唐突に自分の頬をつねり、伸ばす。

「痛っ!」

 現実であることを確信した彼は、改めて口を開く。

「ごめん、こういう時に、いい台詞とかをすぐさま言えるような奴じゃないってことは……」
「知ってるよ」
「そうだよな。そうなんだけど……」

 しばしの沈黙が広がった後、彼は唐突に自分の顔をパンパンと叩くと、「彼女」に近付き、そして、抱き締める。今の自分のこの感情は、彼女の顔を見ながらでは恥ずかしすぎて言えない、そう思ったからこその、咄嗟の抱擁であった。

「お、俺も、あの、その、えっと……、好きです。今言われたからそうじゃなくて、ずっと、その、なんというか、君のことが、気になっていた」

 そう言い切った彼に対して、顔が見えない状態のまま「彼女」は問いかける。

「ずっと、というのは、いつからだい? まさか、幼少の砌の『姫様』の頃からじゃないよね?」
「そ、その通りです」
「あの頃の君が想っていた僕は、たまには僕だったし、たまには姫様だったじゃないか。それを言われるのは、複雑な気持ちだよ」

 だが、それがトオヤの本心であった。彼は子どもの頃からずっと、レアに惹かれていた。その気持ちは誰にも言えないまま、ずっと自分の中に押し殺していた。おそらく「彼女」はそのことに薄々気付いていたし、「本物のレア」も心のどこかで察していたのかもしれない。
 しかし、タイフォン近海での襲撃事件の後に「真相」を聞かされたトオヤは、ずっと自分の中で思い悩んでいた。自分が子どもの頃から好きだった「レア」は、果たしてどちらだったのか? 本物か、偽物か。「今この場にいないレア」なのか「今この場にいるレア」なのか、それが自分の中でも分からず、ずっと混乱していた。

「でも、今は君が好きなんだ」
「姫様じゃなくて?」
「こないだ君がクーンの城で『単独で危険な調査』に出たと聞いて、肝が冷えた。死ぬかと思った。そして心底思い知らされたよ。今まで聖騎士として守るべき存在は『領民をはじめとした、チシャやカーラを含めた皆』だったんだけど、あの時、自分が『君を守れる場所』にいなかったことを自覚した時に気付いたんだ。心底君に惹かれてる、って。だから、これは後出しとかではなくて、ずっと君に惹かれてたんだ」

 アキレスで祖父に(自作自演の)救出作戦の全容を聞かされた時から、ずっと自分の中でモヤモヤしていた感情をようやく言葉に出来たことで、トオヤの心は言いようのないほどの充実感に満たされていた。これまで自分を覆ってきた全ての殻を、一瞬にして破壊し尽くしたような、そんな心境であった。
 彼に抱きしめられながら、その想いを伝えられた「彼女」は、改めて感慨深そうな声で語り始める。

「はぁ……、まったく……、なんというか、人に気持ちを伝えるってのが、こんなに緊張することだとはね……。僕はこういう仕事を続けてきたから、色々な形で姫様の気持ちを他人に伝えてきたことはあったけど、いざ本気で自分の気持ちを伝えようと思うと、なかなかどうして、緊張するじゃないか……。ありがとう、トオヤ……」

 そんな「彼女」に対して、トオヤは彼女を抱きしめたまま、ずっと自分の中で迷っていた「もう一つのこと」を問いかけることにした。

「前から一つ聞きたかったことがある」
「なんだい?」
「俺は君のことを、何と呼んだらいい?」
「あぁ、そうか。『レア』は借り物だし、『パペット(人形)』は論外だな」
「パペットなんて呼びたくないな」
「あれは仕事上の偽名みたいなものだからね。だから、『ドルチェ』でいいんじゃないかな。君が付けてくれた名前だから、僕の中では結構大切な名前なんだ」
「そうか。分かった。ドルチェ、これからどうなるか分からないけど、よろしく頼む」

 こうして「レア・インサルンドの影武者」こと「パペット」は、過去の記憶を失って以来初めて「本当の名前」を手に入れた。これまで「本当の姿も名前も性別も分からない」と言い切っていた彼女であるが、少なくとも今の彼女にとっての「ドルチェ」は、仮称としての「パペット」とは異なる「本当の名前」であった。「過去の自分」が何者なのかは分からない。だが、少なくとも「今の自分」は「聖騎士トオヤを愛する一人の女邪紋使い」としての「ドルチェ」であることを、彼女は強く自覚する。「借り物」ではない、「仮者」でもない、本当の意味での「第二の自分」を手にいれた瞬間であった。

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最終更新:2017年10月14日 08:48