第4話(BS36)「愛は輝きの果てに」 1 / 2 / 3 / 4

1.1. 男爵家の醜聞

 テイタニアの魔獣が湖中島の火口へと消え去ってから数日後、混沌災害の再発の可能性に備えて、まだ町の中が微妙な緊張感を漂わせている中、トオヤ達四人は、領主のユーフィーから受け取った「お勧め甘味処一覧」を片手に、下町の菓子屋を巡回する日々を送っていた。

「この街に来たらコレが食べたい、と思ってたんだ」

 もう何軒目かも分からないケーキ屋の中でトオヤが満面の笑みを浮かべながら頬張っているのは、この街の近くの森で収穫された「異界の木の実」を用いたタルトである。チシャが持っていた異界の文献によると、元の世界ではその木の実は「マンゴー」と呼ばれているらしい。

「タイフォンにいた頃から、珍しい木の実を使ったタルトの噂は聞いてたんだけど、本当に食べられるとは思ってなかったよ」

 侯爵級聖印を借りた上での魔獣の封印という重責を終えたトオヤは、それまでの緊張感から解放された反動からか、すっかり緩みきった表情で、タルトを満喫する。
 そんなトオヤの隣に座る「レア」もまた、同じタルトを(がっつくように食べるトオヤとは対照的に)上品な手つきで味わっていた。

「ボルフヴァルド大森林は混沌濃度が高いから、こういう木の実も見つかりやすいんだろうね」

 彼女はそう呟きながらそのタルトを味わう。ただ、彼女は(「レア」としても「パペット」としても)この地に来たことは初めての筈なのだが、「この地でしか食べられない」という触れ込みのこのタルトを口に入れた瞬間、なぜか以前にどこかで食べたことがあるような感覚に捉われていた。

(どうしてだろうな……?)

 人知れず内心でそんな疑問を抱いていた「レア」の向かい側の席では、チシャがトオヤの前に積み上げられていく皿を数えながら、冷や汗を流している。まだまだ若いとはいえ、さすがに彼女もそろそろトオヤの血糖と脂質が本格的に心配になり始めていた。
 一方、トオヤの向かい側の席のカーラは、どこか居心地が悪そうな顔で座っている。どうやら彼女は、公衆の面前において、従者である自分が主人と同席して食事をして良いものかどうか迷っているらしい。
 そんな彼女の様子を悟ったチシャが「いいんじゃない?」と言いたげな視線で頷くと、カーラはメイプルシロップを使ったお菓子を頼んだ。彼女はオルガノンとしての自身のルーツを調べようとしていた頃に手に入れた「マンゴーは漆の一種だから体質によってはカブれる可能性がある」という、およそオルガノンにとっては心配する必要の無さそうな情報を気にしていたらしい。
 そんな彼等が座っているテーブルから程近いカウンター席では、この店の常連客と思しき町娘達が、最近話題となっている「真偽不明の噂話」に興じていた。

「ねぇねぇ、聞いた? 最近クーンのイアン様が、新しい愛人を囲ってるらしいわよ」

 このテイタニアから北に数日ほどの距離に位置する古城クーンを守るイアン・シュペルターは、ユーフィーと同じヴァレフール七男爵の一人であり、姫将軍ヴェラの夫である。隣町のファルクと並んで「ヴァレフールの二大貴公子」と呼ばれるほどの美男子であり、独身時代はそれなりに様々な女性との間で浮名を流していた。ヴェラとの結婚前に全ての女性関係は清算したと本人は宣言しているものの、本当に清算しきれているのかどうかについては、民衆の間では異論もある。

「私も聞いたわ。今度の相手は、銀髪で色白の美人らしいわね」
「確か、ここの政務補佐官さんも、昔、関係があったとかどうとか」
「まーねー、奥さんが半年も家を空けてたらねー、そりゃあねー」

 ちなみに、上記の「異論」がテイタニアの民衆の間で広がっているのは、主にその「政務補佐官」の仕業である。なお、彼女は銀髪ではないし、ヴェラが不在の間もほぼ毎日テイタニアで目撃されている。そして、その間にイアンがテイタニアに来た形跡もない(本来、彼はヴェラから「テイタニアで何かあったら手助けしてやれ」と言われていたのだが、その「政務補佐官」がいるからこそ、逆に訪問し辛い状態が続いていた)。
 彼女達のそんな会話が耳に入ってきたチシャ、カーラ、「レア」の三人は、先行き不安な未来を感じ取るが、トオヤだけはタルトに夢中で、全く気付かずに笑顔で食べ続けている。そんな中、カーラがふとトオヤの席の後方に目を向けた瞬間、紅茶のカップを持っていた彼女の手が、まるでゴルゴンに睨まれたフロッグマンの如く硬直した。

「……!」
「ん? カーラ、どうしたの?」

 惚けた表情のままそう問いかけるトオヤが、カーラの目線の先を見ようと振り返ると、そこにいたのは、明らかに引きつった表情でカウンター席の娘達を眺める姫将軍の姿であった。それに気付いた店主が娘達に耳打ちすると、彼女達は振り返り、青ざめ、その場を走り去る。

「あ、あの、姫将軍閣下、今のは、えー、他愛ない庶民達の戯言と言いますか、彼女達はその、火の無い所に煙を立ててでも話題を欲しがるものですので……」

 店主がそう言って必死に取り繕うとする中、トオヤだけが小首を傾げる。

「え? 何か話してたの?」

 そんな彼に対してカーラは「き・い・て・な・か・っ・た・ん・か・い」と目で訴えかけ、チシャと「レア」も呆れ顔でため息をつく。
 不穏な空気が広がる中、ヴェラはうっすらと笑顔を浮かべながら、あくまでも淡々とした口調で答えた。

「まぁ、気にすることはない。イアンはいい男だからな。そういうこともあるだろう。愛人の一人や二人ごときでガタガタ言うようでは、正妻としての程度が知れるというものだ」

 彼女は口ではそう言っているものの、その左手で自身の剣の鞘を強く握りしめ、やがてその鞘にヒビが入りつつあるのがトオヤ達には分かる。

 「レア」はトオヤに小声で話しかけた。

「どうするんだい、あれ? 継承問題を控えたこの時期にクーンでお家騒動とか、僕は嫌だよ」
「そ、そうだね、ヴェラ様が何で怒ってるのか分からないけど、とりあえず、宥めてくる」

 トオヤのその反応を見て、「レア」は内心で「あ、ダメだこいつ」と思いつつも、そのまま何も言わずにトオヤの動向を見守る。

「ヴェラ様、このタルトすごく美味しいので、一緒に食べませんか? 甘いものを食べると、心が落ち着くらしいですよ」
「そうか。しかし、私もそう若くない。甘いものを食べるとすぐ脂肪がつくからな」

 とても脂肪がついているとは思えない引き締まった二の腕を見ながら、彼女はそう呟く。

「い、いえ、大丈夫ですよ。そんな……」
「久しぶりに夫に会うのだから、若い女に負けないような体型を保っておかないとな」

 ミシミシミシと、更に鞘を握り締める音が強くなりつつある。トオヤはどうして良いか分からず困惑し、チシャは苦笑を浮かべ、「レア」が目線をそらす中、カーラは誰にも聞こえない程度の声でボソッと呟く。

「外見はお婆様に似てるけど、お婆様はああいうタチじゃなかったみたいだから……、あの性格はお父様の奥方様の血筋なのかなぁ……」

 詳しい話はカーラは聞かされていないが、カーラの祖母であるマルカートは、確かに「他の二人の妻」とも友好な関係を築いていたのは事実である(とはいえ、彼女とヴェラでは身分も立場も状況も全く異なるのではあるが)。一方で、「父の奥方(正妻)」であるアクア・インサルンドについてもカーラは何も聞かされていないが、自身の存在を(封印してまで)隠さなければならなかったことら察するに、おそらく「愛人」の存在を許せる性格ではなかったのであろうことは予想出来る。

「そろそろ私も、クーンに帰らないとな。さすがに半年間家を空けるような妻では、見限られても仕方がないだろう」

 ヴェラはあくまでも(引きつった)笑顔を保ちながら、左手の甲に血管が浮き出た状態のまま、自分に言い聞かせるように呟きつつ、店を後にするのであった。

1.2. 店主の見解

 残された者達が顔を見合わせる中、トオヤは申し訳なさそうに俯く。

「だ、ダメだった……。それにしても、何があったんだ?」

 その様子を見て、さすがに耐えかねたカーラが、従者としての世間体も忘れて思わず叫ぶ。

「今のヴェラ様のお言葉を聞いて、察することが出来なかったのかい、君は!?」
「え、えぇ?」

 困惑するトオヤを見て、「レア」が再びため息をつく。

「その様子じゃ、分からなかったようだね……」
「ご、ごめん、説明してくれ」

 呆れ顔の「レア」が、先刻の娘達による「庶民の戯言」をそのまま伝える。

「そ、そうか、そういうことがあったんだ……」

 ようやく理解したトオヤが、彼を囲む三人の美少女達に呆れた表情でため息をつかれている様子を見ながら、カウンターの奥のケーキ屋の主人がボソッと呟く。

「若旦那も、あんまり他人事じゃない気がするんだけどなぁ……」
「え? な、なんと?」
「いえ、庶民の戯言です。お気になさらず」

 そう言って目線をそらす店主に対して「レア」が釘を刺す。

「そうだね。鋭いのは商売する上でいいことだけど、あまり語りすぎるのは感心しないな」
「まったくですね。以後、気をつけます」

 そんなやりとりを見ながら、カーラは笑顔を浮かべつつ、すっとトオヤから距離を取った。確かに「女性」である自分がトオヤにここまで親しく人前で接していると、そのような噂話を立てられても仕方がないということは、カーラにも分かっていたようである(なお、カーラは「本物のレア」のことはよく知らないので、彼女が嫉妬深い女性なのかどうかは分からない)。

「ところで、さっきのイアンさんの噂は、いつ頃の話なんですか?」

 トオヤが店主にそう問いかけると、店主は「どこまで語って良いものやら」という顔を浮かべつつ、訥々と答える。

「この辺りに伝わってきたのは、一週間くらい前でしたっけね……。真偽の程はさっぱり分かりませんが……、まぁ、イアンの旦那も色々大変なんだとは思いますよ。逆玉っちゃあ逆玉ですけど、それはそれで重圧があるというか……、あの人の家は七男爵家の中でも、ちょっと格下ですしね」

 現在のイアンの所領である古城クーンとその城下町は、40年前までは「バーミンガム家」と呼ばれる別の一族によって治めてられており、当時は彼等が「七男爵」の一枠を占めていた。ところが、40年前にその古城で大規模な混沌災害が起きて、当時その城に住んでいた同家の一族郎党が死滅してしまい、最終的にその混沌災害を治めたのが、イアンの祖父であるロジャー・シュペルターであったため、その功績によってバーミンガム家に代わってシュペルター家が七男爵家に加わることになったのである。
 つまり、シュペルター家は七男爵家の中で最も歴史が浅く、そのような「格下」の家の当主だからこそ、主家である伯爵家(インサルンド家)の姫君を娶ることには相当な覚悟が必要だったであろうというのが、店主の推察であった。

「まぁ、若旦那は騎士団長家ですから、新興貴族家のイアン様とはお立場は違うかもしれない。ただ、ヴェラ様の場合は継承権を放棄することを前提とした嫁入りだからまだ良かったでしょうが、継承権を持った方がお相手だと、また色々と大変なのではないかと」
「はぁ……」

 反応に困って生返事しか出来ないトオヤに代わり、カーラが横から口を出す。

「あるじへの助言、痛み入ります」

 そう言って頭を下げる彼女の横で、チシャは再び苦笑を浮かべつつ、「レア」はあえて何も言わずにその状況を興味深そうに眺めていた。そんな中、トオヤが改めて店主に真剣な表情で問いかける。

「なるほど……。ところで主人、このタルト、お持ち帰りは出来るか?」
「まだ食べる気なんですか!?」

 驚いてそう言ったのは、チシャである。店主も少し困った顔で答えた。

「まぁ、いいですけど……、あんまり日持ちはしないんで、気をつけて下さいな。一週間後に食べて腹壊したりしても、責任は持ちませんからね」
「あぁ、大丈夫。今回お世話になった人に、今日帰ってからすぐ配るから」

 トオヤはそう言って、領主であるユーフィー達への「お土産」を何袋か包んでもらう。その横ではカーラが部下の人々への「お土産」として、クッキーなどの「日持ちしそうなもの」を購入するのであった。

1.3. 護衛任務

 その日の夕刻、トオヤ達が領主の館へと帰還すると、ユーフィーが彼等に面会を申し込んできた。彼女はトオヤからタルトを受け取りつつ、申し訳なさそうな顔を浮かべながら、「レア」の御前ということもあり、年下の「はとこ」に対して、公的な口調で一つの「依頼」を持ちかける。

「わざわざありがとうございます。ところで、ヴェラ様が明日にはクーンに向けて出立されるそうなのですが、出来れば、あの方のクーンまでの護衛をお願いしてもよろしいでしょうか?」

 ヴェラは単身で大陸に赴き、この地まではアレクシスの護衛と共に来たため、アレクシスが帰国した今、彼女には護衛の兵は一人もいない。無論、それは彼女自身が望んだことであり、彼女としては自分が一人で街道を歩いていても、でもよほどのことがない限り危険はないだろうと考えていたが、テイタニアにとっての大恩人を一人で放り出すのは、さすがにユーフィーとしても心苦しい。
 だが、テイタニア軍は今回の騒動で相当に疲弊しており、魔獣問題も完全に解決したと言って良いか不透明な側面もある以上、町の人々の平穏を守るためにも、貴重な兵をあまり町の外に出したくはない。そこで、今のこの町に滞在する最大の「余剰戦力」であるトオヤ達に、このような依頼を申し出たのである。

「それはこちらとしても問題ないです。どちらにしても、これからレア様と共にクーンに行って、イアン様とお話させて頂くつもりでしたから」

 トオヤは率直にそう答える。ユーフィーも、先日の会談の際にその方針は聞いていたからこそ、彼がこう答えるのを期待した上でこの話を持ちかけた訳だが、それでも少々心苦しく思えたのは、ユーフィーの耳にも「例の噂」が届いており、「ヴェラを送り届ける」という行為が、そのままある種の「貧乏籤」に繋がるかもしれない、という懸念があったからである。
 そして、ユーフィーの隣のインディゴも、少々困った顔を浮かべながら付言する。

「本来なら、我が町からもイアン殿に、これまで色々と御協力頂いたことへのお礼を伝えるための使節団を派遣したいところではあるし、自分から率先してクーンに行きたがる人員も一人いるのだが……、あいつは、特に今は、絶対にクーンに行かせてはならないので……」

 それが「政務補佐官」の話であろうことは(先刻の娘達の噂話から)概ね理解しつつ、トオヤ達は今回の任務を引き受けることにした。実際のところ、テイタニアからクーンまでの公道は治安もよく、混沌濃度も低いため、何らかの危険にヴェラが見舞われる可能性はほぼない。むしろ、ここでトオヤに課せられているのは「ヴェラの護衛」というよりも「ヴェラから周囲を守る護衛」という意味合いの方が強いことは、薄々彼等も理解していた。

1.4. 新装備

 その上で、ヴェラが翌日の出発を予定していると聞いたトオヤは、その前にユーフィーに一つ、「個人的な頼みごと」を持ちかける。

「ユーフィー殿、私に剣の稽古をつけてくれないだろうか?」

 トオヤはこれまで、長槍を主な得物として用いてきた。だが、先日の戦いを経て、攻防共により幅広い状況に対応するためには、長剣と盾を用いた戦術に切り替えた方が良いのではないか、と考えるようになり、ここ数日の甘味処巡りの傍ら、下町の冒険者御用達の武具屋で、自分の体格に合った長剣と盾を購入していたのである。
 だが、それに対して、ユーフィーは首を横に振った。あくまでも「個人的なお願い」ということなので、彼女は親族に語るような口調で答える。

「私が使っている剣と君が購入したその剣とでは、勝手が違うと思うよ。むしろ、カーラさんの方が近いんじゃ無いかな?」

 ユーフィーは確かに「剣士」ではあるが、レイピアとマイン=ゴーシュの二刀流である。確かにどちらも片手剣という意味ではトオヤの入手した長剣に近いが、あくまでも彼女の剣は「相手の攻撃を受け流すこと」を前提とした武器であるのに対し、どちらかというとトオヤはその長剣を「相手の攻撃を受け止めること」を主目的に用いようとしていたため、その意味では、実質的には「大剣」であるカーラの方がまだ近いと彼女は判断したのである。

「それなら、カーラ、稽古をお願いしていいかな?」
「オッケー、あるじ!」

 カーラがそう答えると、二人は館の裏庭へと向かい、そしてここでトオヤは、この新しい武具に合わせた新たな鎧の形状をイメージしながら聖印を自身のベルトのバックルに掲げる。

「変身!」

 彼がそう叫ぶと、これまでとは異なる形状に自身の鎧が強化される。今までの彼の鎧(特に肩の部分)はどことなく「バナナ」に似た形状であったが、今度は「リンゴ」のような赤を基調とした装飾となる。

「今までは、槍を使って受け流すことを前提に戦ってきたけど、これからはこの武装で、真正面から受け止める戦法に切り替えたいと思う。だから、思いっきり打ち込んでくれ」
「分かった。行くよ、あるじ!」

 そう言って、カーラは本気でトオヤに向かって踏み込み、(自身の内なる混沌の力そのものは発動させないまでも)強烈な一撃を叩き込む。少なくとも、ゴーバンを相手にした稽古よりは、安心して打ち込んでも良いだけの信頼感がある分、彼女としても戦い易かった。そして実際、トオヤはカーラの大剣をきっちりとその剣と盾を用いて受け止める。

「使い始めたばかりにしては、様になってるじゃないか!」

 カーラはそう言いながら、そのまま完全に陽が落ちるまで、トオヤの訓練に付き合う。ただ、この訓練が本当の意味で役に立つのは、もうしばらく先の話であった。

{1.5. 新聞記者

 翌朝、トオヤ達はヴェラを連れてクーンへと出立しようとする。ここまでの旅路と同様の方式で、「レア」が(既に中に「ドルチェ」が入っているという体裁で)馬車の中に乗り込もうとするのをトオヤが見守っていたところに、突如、前髪の長い奇妙な風貌の女性(下図)が現れる。


「あ、そこの皆様〜、はじめまして〜、私、『週刊ローズモンド』ブレトランド支局長のアンナと申します〜」

 ローズモンドとはブレトランド対岸の都市国家である。先日、トオヤ達が「レア」と同船するために立ち寄った港町でもあり、その時に「週刊ローズモンド」という新聞が街中で発行されているのは、確かにトオヤ達も確認していたが、特に彼等に接触を取った訳でもなく、当然、この女性とも初対面である。当惑するトオヤ達に対して、彼女は構わずそのまま話し続けた。

「レア姫を救い、テイタニアの危機を救ったトオヤ様にぜひお話をお願いしたいと思いまして。あ、ちょうどレア様もいらっしゃいますね」
「話?」

 トオヤがやや不審そうな視線を彼女に送るが、そのまま彼女はトオヤとレアに向かって問いかける。

「はい。さて、ではまず早速ですが、お二人がお付き合いされているという噂は本当でしょうか?」
「あ、えーっと、すまないが、これから出発するので……」

 そう言ってトオヤは話を打ち切ろうとするが、彼女は食い下がる。

「分かりました。では、ご同行させて頂きながらお話をお伺いしたいと思います」

 それに対して「レア」の方は面白そうな顔を浮かべながら答える。

「いいんじゃないかい、トオヤ? でも、私達にも立場があるから、そんなにご期待に添えるような答えが出来るとは限らないよ。それでもよければ」
「分かりました。それで問題ありません。与えられた情報から推測して記事を書くのが我々の仕事ですから」

 胸を張ってそう答える女記者に対して、トオヤは当然の疑問をぶつける。

「それって、捏造じゃないのか?」
「いえいえ、火の無い所に煙は立てませんよ。どんなボヤでも見逃しませんが」

 そんなやりとりをトオヤの横で目の当たりにしたカーラは不穏な空気を感じつつも、自分はこれからヴェラの護衛に回ろうとしていたところだったため、チシャに「あるじがボロを出しそうになったら、止めて」と頼んだ上で、ヴェラの元へと向かおうとする。だが、逆にその動きは、女記者の視線を「その先にいる馬上のヴェラ」へと向けさせた。

「あ、そこにいらっしゃいますのは、姫将軍のヴェラ様ですよね? そういえば最近、旦那様であるイアン様に関して……」

 それに対して、カーラが「殺気」を込めた視線を放って止めようとするが、ヴェラはむしろ自分から彼女達の方へ近寄ってきた上で、トオヤに対して諭すように告げた。

「大陸の方では、『週刊ローズモンド』はそれなりに大きな影響力がある。敵に回さない方がいいぞ。余計な誤解を産まないためには、素直に答えるべきことは答えておいた方がいい」

 すると、その女記者は躊躇することなく、いきなりヴェラに対して直球で切り込む。

「ところでヴェラ様、最近銀髪の……」

 次の瞬間、ヴェラの剣の鞘が左手で握り潰され、その下の刃をそのまま握りしめてしまった彼女の掌から、大量の血が流れ出る。

「あぁ、すまない。鞘が壊れてしまったようだ。今から治療するから、その話はまた後でしてくれ」

 平然とそう言ってのけるヴェラに対して、トオヤは青ざめた顔を浮かべる。

「で、では出発を遅らせて……」
「大丈夫。私も聖印を使える身である以上、自分の身体の傷を自分で癒すことくらい、馬上で移動しながらでも出来る」

 そう言って、実際に彼女は自らの聖印を用いて、その左手の傷を癒し始める。実際のところ、このような形で聖印を治療のために用いるのは、君主なら誰でも出来る訳ではないが、万が一のためにその技術を習得している者は多い。そして、本来このような治癒技術に関してはレアが専門家であるため、今ここにいる「レア」がここで何もしないのは不自然がられると思い、彼女はその光景に気付かないふりをして、そそくさと馬車の中へと入り込む。

「心配かけて済まなかったな。さぁ、出発しよう」

 ヴェラがそう言うと、彼等は微妙な空気を漂わせたまま、クーンへと向けて街道を北へと出発する。そして新聞記者のアンナはトオヤの愛馬の真横を歩きながら、馬上のトオヤを見上げつつ、(前髪で目が隠れているため分かりにくいが)真剣な表情で質問を開始する。

「まず、ご確認したいのですが、トオヤ様としては次期後継者としてレア様を推している立場、ということでよろしいのですか?」
「はい、そうです」
「それは、お爺様である騎士団長様もご了承の上ですか?」
「えぇ、そういうことになります」
「なるほど。しかし、それだけ聞くと非常に不自然な話であるように聞こえますよね。今までゴーバン様を推していた方々が、急にレア様を推すようになった訳ですから。そうなると、我々が想定出来る可能性は二つ。ゴーバン様とレア様の縁談が裏で進んでいるのか、もしくは、既にトオヤ様とレア様の間での御成婚が既定路線となっているのか……」

 アンナは先刻までの下世話な口調から一転して、現状の本質に関わる問題についての鋭い推論を展開させていく。

「もし、ゴーバン様とレア様の御結婚という形を進めようというのであれば、ことさらにレア様の方が聖印を継ぐことをトオヤ様が推す必要はないと思うのです。あえてここでトオヤ様にレア様を推させるということは、やはりトオヤ様をレア様の王配とすることで、名目上は現伯爵派の顔を立てつつも、実質的な主導権を騎士団長派が掌握しようとする目論見なのではないかというのが当局の推測なのですが、いかがでしょうか?」

 実際のところ、この推論はケネスの思惑をほぼ言い当てている。だが、トオヤ自身としては、その方針に全面的に同意している訳ではないし、そもそも彼女に対して「祖父の思惑」を正確に伝える必要もなかった。

「ウチのお爺様がレア姫様を後継者として推されるようになったのは、レア姫様と帰国後に一度お会いした上で、その『お人柄』と、留学先で学んできた『博識さ』と、そして『君主としての資質』を認めた上で、『この方ならばこの国を任せても大丈夫』だと認めたからです。なので、ゴーバン様や私との婚約などという話はありません」

 実際のところは、ケネスが「彼女」のことをどう評しているかは分からない。ただ、体面上、話の辻褄を合わせるためには「そういうこと」にしておく必要があった。

「しかし、それならば、もっと早く話を進めても良いのではないですか? わざわざ一年という期間を空けたのは、その間にレア様のご結婚に関する裏交渉を進めるためでは?」
「さぁ? それについては何とも。ただ、僕自身は、この期間はレア様が爵位を継ぐことを各地の皆様に認めてもらうための『準備期間』のようなものだと考えています。そのために、こうして各地を回ることで、レア様の継承をヴァレフールの国民に認めてもらうと同時に、ヴァレフールで起きている問題を姫様自身にも理解していただこうと考えています」

 祖父の思惑はともかく、この点についてはトオヤ自身の本音であるので、いくら突っ込まれてもボロが出る心配はない。だが、アンナはここでもう一つの重要な問題へと切り込んでくる。

「では、ゴーバン様の方は、レア様が爵位を継ぐことに納得されているのですか?」
「ゴーバン様はゴーバン様で、今はまだ成長過程で、政治について学んでいる途中ですので、まだはっきりと自分の意見を示した訳ではないのですが、彼は国王となるかどうか以前の問題として、まず君主としての役割を果たすための教育を受けていますから、今の時点では何とも……」

 この問題については、曖昧にごまかすしかない。実際、それはトオヤ自身もどうやって彼を納得させれば良いか、まだ分からない状態であった。

「では、今のところ、後継者候補はレア様で一本化するという方向で良いのですか? 我々としては、ヴェラ様が帰ってきたことで、多少流れが変わるかもしれないとも思ったのですが」

 実際、この国内冷戦状況を改善するためには「中立派」のヴェラによる継承が望ましいという声は国内にも根強い。トオヤ自身、それ自体は有効な解決策の一つであるとは考えているが、当のヴェラ本人にその気がない以上、現状では現実的な選択肢とは言えなかった。

「そうですね。先ほども申し上げましたが、この一年間は『レア様が七男爵家の皆様に王として認められるための期間』ですから、その間に他の方がレア姫様以上に王として相応しいと認められるのであれば、その方が継承することになるかもしれません。まぁ、僕はその可能性はないとは思っていますけど」

 そんなやりとりを繰り返しながら、トオヤはアンナの追求を受け流し続けることに成功する。そして彼等が最初の宿場村であるアトラスに到着した時点で、ひとまずアンナはトオヤへの質問を打ち切り、そこから先は兵士達への調査へと切り替えていった。最終的に彼女が兵士達からどのような情報を仕入れたのかは定かではないが、少なくとも最大の極秘事項である「レアの正体」については、兵士達は誰も知らない筈なので、その点について核心的な事実が漏洩する心配はないだろう。

1.6. 真夜中の楽士

 トオヤ達はアトラスの村で領主達からささやかな歓待を受けた後、翌日には無事にその次の街道沿いの村であるソーナーに到達する。この地の領主は武器の買い付けのために不在であったため、彼等は留守居役の政務官から、村で一番の宿屋をあてがわれる。
 そんな宿屋で彼等がそろそろ休眠に入ろうかとしていた頃、宿の近くから「奇妙な音色」が聞こえてきた。それはヴァイオリンと呼ばれる高級弦楽器によって奏でられた旋律であり、一聴しただけではただの「奇妙な楽曲」でしかなかったが、チシャはこの曲に聞き覚えがあった。それは、エーラムでの召喚魔法科の特殊専門講義で習った「異界の呪曲」である。エーラムの魔法技術とは異なる手法で投影体を呼び出す魔法であり、それを用いる者は、「異界の投影体」か、もしくはエーラムの定義するところの「闇魔法師」である可能性が極めて高い。
 そしてもう一人、この曲に聞き覚えのある人物がいた。「レア」である。彼女はサンドルミアへの留学時代に知り合った「とある楽士」が、この曲を奏でていたのを覚えていた。

(なぜここで、この曲が……?)

 彼女が不審に思っているところで、隣の部屋にいたチシャが「レア」の部屋の扉を叩く。彼女達はトオヤ、カーラとも合流した上で、ひとまずこの「危険な旋律」が聞こえてくる方向へ向かって、宿屋を飛び出して行った(ヴェラに対しては、ひとまずカーラが警戒するよう伝えた上で、そのま宿に残ってもらうことにした)。
 そして彼等は、その音色の発生源が、宿屋に程近い村の中央広場であることに気付き、現地へと向かうと、そこにいたのは、紅(くれない)のヴァイオリンを奏でる、一人の若い男の楽士の姿であった(下図)。


 その楽士の周囲には女性型の「風の妖精(シルフ)」が漂っており、彼はそんな彼女達を眺めながら、満足気にヴァイオリンを奏でている。今のところ、彼にも妖精達にも、特に不穏な気配は感じられない。妖精達は、笑顔で彼の楽曲に聴き入りながらその周囲を楽しそうに飛び回り、彼はその妖精達の姿をただ眺めて満足している、そんな様子に見えた。
 しかし、やがて彼は四人が自分の目の前に現れたことに気付くと、その時点で演奏を止め、そして妖精達は姿を消す。その上で、彼は真っ先に「レア」に声をかけた。

「おや? そこのお嬢さんは確か、サンドルミアでお会いした……」
「まさか、ブレトランドでも出会うとは思いませんでした」

 レア(とパペット)がサンドルミアに留学していた頃、彼は「神出鬼没の謎の楽士」として有名な存在であった。彼は国内の各地に出没する度に、次々と美しい女性を見つけては口説き文句を語りかけるが、そのあまりに軽薄で胡散臭い雰囲気故に、大半の女性からは相手にされていない。そして当然のごとく、本物のレア姫に対しても何度も執拗に口説こうとしていたが、なぜか彼は「パペット」が影武者を務めている時は、あまり積極的に近付いてこようとはしなかった。
 なお、彼は自分の名前については「心を開いてくれた女性」にのみ教える、と公言していたため、結果的にサンドルミア内で彼の名を知っている者は(少なくともパペットの知る限りは)誰もおらず、人々の間では「紅の楽士」などと呼ばれていた。
 その楽士は久しぶりに再会した「レア」の姿をまじまじと凝視した上で、ボソッと呟いた。

「そうか、『君』の方か」

 次の瞬間、彼は「レア」に対してどこか冷めた視線を向けながらも、そのまま会話を続ける。

「そういえば、『君』はこの国のお姫様だったね」
「えぇ。ですから、サンドルミアで色々と学んだ後、私がこの国に戻ってくるのは道理というものです。あなたこそ、どうしてこの国に?」
「ちょっと、昔の知り合いに会うためにね……」

 微妙に物憂げな表情で楽士がそう言ったところで、トオヤが割って入った。

「レア姫様、お知り合いのようですが、こちらの方は?」
「あぁ。サンドルミアで何回かお会いした人だ」
「なるほど。向こうでのお知り合いでしたか」

 二人がそんな会話を交わしている間に、その楽士は残りの二人に視線を向け、そしてチシャと目があった瞬間、彼女に問いかける。

「君は……、もしかして、ネネの娘か?」
「あ、はい。母をご存知なのですか?」
「そうか、やっぱり、そうなんだな。魔法師になっているとは聞いていたから」
「母のお知り合いですか?」
「まぁ、そうだね。知り合いといえば知り合い、そういうことになるかな」

 その微妙に含みのある言い方に対し、それまで黙っていたカーラは警戒心を強める。

「チシャお嬢の母君のお知り合い、ですか……」

 彼女はそう言いながら、何かあってもいいように、剣に手をかける。だが、その楽士はそんな警戒した空気を一切気にすることなく、カーラに向かって歩いて近寄ってきた。

「そういうお嬢さん、あなたは?」
「……オルガノンのカーラと言います」
「オルガノン……、そうかそうか、オルガノンか。オルガノンの知り合いは何人かいるけど……、なるほど、剣のオルガノンなんだね」
「は、はい」
「オルガノンの人間体は、一説によると、元の持ち主の姿に似ると聞く。さぞや君の元の持ち主は、美しい人だったんだろうね」
「あ、ありがとうございます……」

 カーラにしてみれば「元の持ち主」が誰なのかもよく分からない状態で、そんな婉曲的な褒め方をされても、どう反応すれば良いのか分からない。ただ、間近に彼の顔が近付いてきて、その顔の表情の動かし方や雰囲気などから、カーラはあることに気付く。

(この人、ちょっとだけ、チシャお嬢に似てる……? でも、チシャお嬢に感じた時のような「父様に似た懐かしさ」は感じられない……)

 カーラがそんな感慨を抱いて困惑している中、この場にもう一人、新たな女性が現れた。『週刊ローズモンド』のアンナである。彼女はトオヤ達の高級宿舎の近くの別の宿に泊まっていたが、彼の奏でるヴァイオリンの音色が気になって、夜中であるにもかかわらず一人でこの公園まで足を運んできた。それは、普通に考えれば明らかに不用心な行動である。彼女が「ただの普通の女性記者」であるならば。

「あなたは確か、大陸各地で色々と話題の楽士さんではありませんか?」

 アンナがそう尋ねると、楽士よりも先に「レア」が口を挟む

「あら、そんなに有名な方だったのですか?」
「えぇ、そこかしこで、所構わず曲を奏でて女性を口説き、何か揉め事が起きると、いつの間にかそこからいなくなっていることで有名な……」
「そ、そうですか……」
「で、どうしてあなたがここに?」

 改めてそう問われた楽士は、先刻と同じように答える。

「昔の知り合いに会いに行くためだよ。ただ、申し訳ないけど、僕はマスコミは苦手でね。しかも、君、僕と『同類』だろ?」
「……やっぱり、そうでしたか。いや、そうじゃないかとは思ってたんですけどね」
「『こっちの世界』でまでマスコミに色々嗅ぎ回られるのは嫌なんでね。とりあえず、退散させてもらうよ」

 そう言って、その楽士は公園から歩き去って行こうとするが、チシャが走って彼を追いかけ、呼び止める。

「待って下さい。私の母のネネについて、少しお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 楽士はピタリと足を止め、振り返って笑顔で答える。

「彼女は元気だよ。今はこの小大陸にはいないけど、近いうちにまた訪れることになると思う」
「そうですか……。もしよろしければ、どのようなお知り合いなのかをお聞かせ頂きたいのですが?」

 そう言われた彼は、ニヤリと笑って問い返す。

「じゃあ、どんな関係だと思う? 一発で当てたら、『ご褒美』をあげよう」

 唐突に質問を返されたチシャは、困惑しながらも改めてその楽士を凝視する。見た目は普通の人間の若者であり、年齢的には母よりも明らかに若そうではあるが、もし彼が投影体や闇魔法師であるならば、その外見も参考にはならない。つまるところ、あらゆる可能性がありえるため、特定の仕様がなかった。

「友人……、とかですか?」

 やむなく「無難な回答」を提示してみるが、彼は首を横に振る。

「残念! まぁ、そのうち分かることになると思うよ」

 彼はそう言いながら、再びヴァイオリンを弾き始める。すると、今度は黒い蝙蝠の群体が彼の周囲に出現し、彼の周りを覆い始め、そのまま彼と共に姿を消した。
 唐突な出来事に困惑する中、チシャの後方から話を聞いていたトオヤがチシャに駆け寄る。

「今、何かされなかったか? 怪しい技のようなものを使ったようだが」
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫」
「あれは魔法か何かか?」
「エーラムで習う類の魔法では無いけど、投影体が用いる魔法の中に、あんなような術があるらしいです」
「確かに、投影体は『元の世界の法則』を持ち込むという話を聞いたことはあるが……」

 二人がそんな言葉を交わしていると、少し遅れて追いついた「レア」が呟く。

「もしかしたら『僕達』の区別がついてたのも、そのせいかもね」

 先刻の、そしてこれまでの彼の言動から察するに、あの楽士はおそらく、「自分」と「姫様」が別人だということに気付いている。パペットはそう考えていた。そして、もしそうだとしたら、今の自分達にとって極めて危険な存在、ということになる。
 ちなみに、このやりとりの間に、いつの間にかアンナは姿を消していた。彼女のことをあの楽士は「同類」と呼び、そして「こちらの世界」とも言っていたことから、彼女の正体についてもある程度の推測は出来るが、今の時点ではそれ自体は大きな問題ではない。とはいえ、アンナがいなくなったことで、「込み入った話」が可能になったと判断したカーラは、思い切ってチシャに対して「あの楽士を間近で見た時に思ったこと」について聞いてみることにした。

「ねぇ、チシャお嬢、お嬢は、お嬢のお母さんの親類にあったことはあるかい?」
「覚えてる限りでは、ないですね」

 チシャの毋であるネネの素性は「庶民出身」ということ以外は明らかになっていない。娘であるチシャ達に対してすらも、自分の出自について詳しく語ったことはなかった。

「ボクにはあの人が、どこかチシャお嬢と似てるところがあるように思えたんだ。だから、もしかしたらチシャお嬢のお母様の親類だったんじゃないかな、と……」

 カーラがチシャに感じた「カーラの父親の気配」があの楽士から感じられないということは、彼はインサルンド家の末裔であるとは考え難い。その上で、チシャと似た何かを感じられるということは、チシャの母親の親族である可能性が高いと考えるのは、自然な発想である。そしてチシャもまた、そう指摘されたことで、彼の雰囲気や立ち振る舞いが、どこか母親と似てなくもないような、そんな気がしてきた。
 ただ、もしあの楽士が投影体であり、ネネがその親族であるとすると、ネネも、そしてチシャ自身も「投影体の血を引く者」である可能性が出てくる。投影体の混血児の場合、その血をどこまで強く引くかは人それぞれであり、カーラのように投影体の力を強く引き継ぐ者もいれば、アトラタン人の特性の方が強くなることもある。いずれにせよ、あの楽士が言うことが本当なら、母は今も元気に大陸で生きているということになる。そのことが分かっただけでも、チシャにとっては有益な情報であった。
 なお、ネネの失踪に関しては、当時から様々な憶測が飛び交っているが、真相は明らかにはなっていない。ただ、彼女は失踪直前の三十代後半の頃になっても、未だ宮廷内では一、二位を争うほどの美貌の持ち主として評判であったため、夫が亡くなったことにより、誰か別の男と駆け落ちしたのではないか、あるいは誰かに拉致されたのではないか、というような噂も多かった。
 一方で、ネネ自身は極めて物静かで控えめな女性であったが、むしろそのような日頃の立ち振る舞い故に、何か裏がある人物なのではないか、と推測する者もいる。ただ、少なくともチシャや子供達から見れば、間違いなく彼女は「心優しい、理想的な母親」であった。

2.1. 顔のない男

 翌日、彼等は無事にクーンに到着する。姫将軍にして領主夫人であるヴェラの半年ぶりの帰還で盛り上がる住民達に対して、ヴェラは馬上から笑顔で手を振るが、どこか物憂げな雰囲気を押し殺している様子が、トオヤ達には見て取れた。
 そんな中、ヴェラや「レア」を近くで見ようと取り囲む人々の中には小さな子供達もいたため、馬上のままでは群衆をかき分けて進むのは事故が起きる危険性があると判断したトオヤ達は、ひとまず馬を降りて「レア」の馬車の隣を歩くことにする。
 そんな中、町の群衆達の一人が、トオヤにぶつかりそうになった。

「あ、すみません」

 そう言って、彼はギリギリのところでトオヤを避けるが、その瞬間、トオヤの上着のポケットの中に、彼が「何か」を入れたことに、チシャ、カーラ、そして馬車の中の「レア」が気付く(しかし、トオヤ本人は全く気付いた様子がない)。
 不審に思った「レア」は姿を即座に「ドルチェ」に変えて、密かに馬車を出て、その男を追いかけることにした。その男は巧みに路地裏へと入り込んで群衆から離れようとしていたが、ドルチェはその動きを見切って、路地裏の中でその男に追いつく。
 すると、周囲に他の人の姿見当たらないことを確認した上で、その男(下図)は振り返ってドルチェに問いかけた。


「私に何かご用ですか?」

 その立ち振る舞いも、声も、極めて平凡な「ごく普通の街の住人」にしか見えない。だが、ドルチェは警戒しながら逆に問い返す。

「君こそ、トオヤに何か用があったのかい?」
「失礼ですが、あなたは?」
「トオヤの部下の一人、邪紋使いのドルチェという者だ」
「邪紋使いのドルチェ……、聞き覚えはないですね。私の名はリチャード・ロウ。そうトオヤ様にお伝え頂ければ、分かると思います」

 どうやらこの男は、自分はトオヤと縁のある者だと主張しているらしいが、ドルチェの方も彼の名には聞き覚えがなかった。もっとも、つい数日前までこのブレトランドにいなかった彼女にしてみれば、「自分が知らないトオヤの味方」がいたとしても、何ら不思議はない。

「トオヤに危害を与えようとした訳ではないんだな?」
「えぇ、もちろん。むしろ、あなたの方こそ、先ほどまでどこにいました? あの隊列の中にはあなたの姿は見えなかったのですが」
「『こういう仕事』をしている者だからね。『そういった技術』の一つや二つ、あるものさ」
「なるほど。ということは、もしかしたら同業者なのかもしれませんね」
「へぇ、同業者ねぇ……」

 ドルチェはそう呟きながら、改めてその「リチャード・ロウ」と名乗る男を凝視するが、聖印の力も邪紋の力も感じられず、魔法師であることを示すような何かも見当たらない。どこをどう見ても「ただの一般人」にしか見えない風貌であった。

「まぁ、いいや。トオヤの知り合いということなら、トオヤに聞けば分かるだろう。危害を加える気がないならいい。仕事の邪魔をして悪かったな」
「もし私に要件があれば、トオヤ様のポケットに入れた紙に私の居場所は書いてあります。そちらまでどうぞ」
「承知した。では、必要があればまた会おう」

 ドルチェはそう言って、トオヤの元へと帰還する。この時点で、全面的にこの男を信用した訳ではなかったが、誰かが「レア」の不在に気付く前に馬車に戻らなければならない以上、どちらにして、あまり長時間に渡ってこの男を問い詰める時間はなかった。

 ******

 一方、その頃、ドルチェと同様に「通りすがりの男」の所作に気付いていたカーラは、人混みがひと段落したあたりで、おもむろにトオヤの上着のポケットに手を入れる。

「さっき、何か入れられたようだから、出しておくよ」
「え!?」

 突然そう言われて驚くトオヤであったが、カーラは構わず彼のポケットの中から、小さく折りたたまれた紙片を取り出す。彼女がそれを開いたところで、隣にいた(カーラと同様に一連の所作に気付いていた)チシャもその中身を覗き込むと、そこには以下の短いメッセージが記されていた。

「現在、この城下町の調査中です。もし何かありましたら、こちらの宿屋までどうぞ。リチャード・ロウ」

 彼女達に一瞬遅れてそのメッセージを確認したトオヤは、自分の記憶の中にある「その名前の人物」のことを思い出す。

「リチャード・ロウ……? あぁ、お爺様が言っていた密偵のことか」

 その人物は「顔のない男」という異名を持つ、ヴァレフール屈指の密偵である。聖印を持たず、魔法も使えず、邪紋も刻んでいない、何の特殊な力も持たない一般人であるが、あまりにも平凡で印象に残らない風貌を利用して、国内外の各地で諜報要員として数々の実績を上げてきた。本人は特に国内のいずれかの派閥に属している人物ではないと言われているが、現在は(理由は不明だが)騎士団長側に協力しており、トオヤは前々から「旅先でこの男にあったら、その情報網を頼れ」とケネスに言われていた。

「なるほど。だから、あんな渡し方だったのか。じゃあ、この紙はあるじが持っていればいいんだね?」
「そうだな。まぁ、詳しい話はまた後で。ともあれ、気付いてくれて、ありがとう」

 実際のところ、誰にも気付かれずに手紙を渡すのがリチャードの役目だったのだが、肝心のトオヤ自身がそれに気付かず、周囲の三人の方が気付いているというこの状況は、色々な意味で問題である。
 そして、馬車が街の中心の「城」に到着する前にドルチェも無事に帰還して馬車の中に潜り込み、すぐさま「レア」に戻った上で、何事もなかったかのように、城門の前で馬車の中から優雅に姿を現すのであった。

2.2. 夫婦の再会

「よくぞ無事に戻って来てくれた、ヴェラ」

 城門が開かれると同時に、城主であるイアン(下図)が両手を広げてヴェラを出迎える。だが、この時、「レア」だけは、イアンの動きが微妙にぎこちないことに気付いていた。


「あぁ。長い間、留守にしてすまなかった」

 ヴェラは笑顔でそう答えるが、イアンの「ぎこちない雰囲気」を察したのか、ヴェラのその声からも、再会を心から喜んでいるようには思えない「心の揺らぎ」が「レア」には感じられた。

「ところで、私がいない間のことで、何か私に言わなければならないことはあるか?」
「あ……、いや、大丈夫だ。特に大きな揉め事も事件も起きてはいなかった。うん、大丈夫、なかった……」

 そんな二人の間で徐々に(他の人々にも伝わる程度に)不穏な空気が広がりつつある中、「レア」が口を開いた。

「夫婦の会話に割り込むような形になってしまって申し訳ないけど……、シュペルター男爵、お久しぶりです」
「おぉ、姫殿下も無事に御帰還なされたようで」
「えぇ、そこにいるトオヤのおかげで」

 そう言って、彼女はトオヤを左手で指し示す。トオヤにしてみれば、イアンと会うのは、イアンとヴェラの結婚式に自身が出席した時以来であった。

「お久しぶりです」
「ここまでの護送大儀。今夜は、せっかく我が妻が帰ってきたのだから、大々的に晩餐会を開こうと思う。レア姫を救った英雄譚も、ぜひ聞かせてほしい」
「あ、は、はい。まぁ……」

 「英雄譚」と言われて、アキレスの城で「レア」が語っていた「散々脚色された物語」を思い出したトオヤは複雑な表情を浮かべる。そんな中、再びヴェラが割って入った。

「イアン、すまないが、私達もここまでの長旅で疲れているのでな。まず、彼等に部屋を与えてくれないか?」
「あぁ、それは勿論。我が城の最高級の客室へご案内しよう」

 こうして、トオヤ達はクーンの城内において各自個室をあてがわれることになった。その客室はヴェラの私室に近い間取りであったため、ヴェラ自身が彼等を案内することになったが、イアンと一旦分かれた後、ヴェラの顔が徐々に曇りかかっていくことに、トオヤとカーラも気付く。
 ちなみに、トオヤもチシャもカーラも「レア」も(そしておそらく「本物のレア」も)この城を訪問するのは初めてである。この城は英雄王エルムンドによるブレトランド平定よりも遥か昔から存在する古城で、その歴史は1000年以上に及ぶとも言われており、その建築様式はドラグボロゥの城ともアキレスの城とも明らかに異なる、独特の雰囲気を醸し出している。そんな中、カーラはふと、自分が子供の頃に両親が話していた噂話を思い出す。

(そういえば、この城には魔物が出るとかいう話があったっけ……)

 当時の両親が言うには、歴代のこの城の城主の中には、不可解な死を遂げた者も多く、それはあの城に巣食う魔物の仕業だと言われているらしい。それ故に、誰をこの城の主にすべきかで色々と頭を悩ませていたようだが、実際のところ、両親共にその「魔物」の噂の実態については、よく分かっていなかったようである。

2.3. 浮気調査

 客室に案内されたトオヤ達は、ひとまずそれぞれの自室に荷物を起きつつ、一旦トオヤの部屋に集まって今後の方針について相談することにした(なお、この時点で「レア」は再び「ドルチェ」の姿となっている)。
 そして、カーラは「従者」として自らの手でお茶をトオヤ達に振る舞いたいと思い、城の厨房へと向かうが、彼女が厨房の扉の前まで来たところで、その中で働いている女性給仕と思しき娘達の話し声が聞こえてきた。

「大丈夫かな……、ヴェラ様帰って来ちゃったけど……」
「とりあえず、今日は見てないけどね、あの銀髪の人……」
「給仕長からは『絶対に言っちゃダメ』と言われてるけど、本人が見ちゃったら、さすがに言い逃れ出来ないよね」

 その話から不穏な空気を感じつつも、ひとまずは「聞いていないフリ」をして、カーラは扉を開けた。

「申し訳ない、お茶をいただけないだろうか?」
「あ、は、はい、ただいま、お持ち致します、どうぞ」
「いや、私が持って行きますので、ポットと、レア様とトオヤ様とチシャ様のためのカップを一つずつお願いします」

 カーラは淡々とそう言って、淡々と食器を受け取り、淡々とそのままトオヤの部屋へと向かう。彼女が到着した時には、既に他の三人は揃っていた。

「カーラ、わざわざ持ってきてくれたんだ、ありがとう」
「あぁ、うん。そのついでに、ちょっと噂話も聞きかじってきたかな……」
「噂話? まぁ、その件も含めて、さっきのことを説明するよ」

 ここでトオヤは改めて、「顔のない男」ことリチャード・ロウについて皆に説明する。と言っても、彼が何の目的でこの街にいるのかは分からない。おそらくは、今後の国政の鍵を握るであろう七男爵の一人であるイアンの動向を探っていたのであろう。

「なるほど、そういうことだったか。いきなり不審な行動をされたから、警戒してしまったよ」

 ドルチェはようやく納得した顔を浮かべる。邪紋の力を用いずに自分と同じような隠密活動が出来る人物というのは、彼女にしても色々な意味で興味深い存在であろう。

「僕も面識はある筈なんだけど、あんまり覚えていなくてね……」

 トオヤはそう呟くが、ある意味、その「印象に残らないこと」こそが、彼の強みなのである。実際、チシャも過去に一度面識はある筈なのだが、彼女の方も殆ど覚えてはいなかった。
 その説明が一通り終わったところで、今度はカーラが口を開いた。

「ボクが拾ってきた噂なんだけど、やっぱりいるらしいよ。銀髪で色白の美人さん」

 そう言われた三人は「やっぱり」と言いたげな顔を浮かべる。それが何者かはまだ分からないが、少なくとも「ヴェラに会わせられない存在」がいるということは事実のようである。
 トオヤはカーラの話を踏まえた上で、彼なりに様々な可能性について考え始める。

「『今日は見かけない』と言ってたということは、日頃はこの城のどこかに篭ってる人なのかな……。出たり現れたりする、人間離れした髪の色の女性ってことは……、もしかしたら、伝承で聞く『クーンの魔物』だったり、とか……」

 彼は冗談っぽくそう語るが、それに対してカーラが反応する。

「あるじも知ってるの、その噂話?」
「え? あぁ、噂っていうか……」

 それに対して、チシャが口を挟む。

「私も聞いたことはありますが……、お伽話程度の話ですよね?」

 どうやら「クーンの古城に住む魔物」の伝承は、トオヤやチシャでも聞いたことがある程度に、現代にまで伝わっているらしい。トオヤやチシャからしてみれば、むしろ400年以上前の時点ではそれが城主人事に影響するほどの話だったということの方が衝撃なのだが、今のところ、その女性が魔物であると確証出来る要素は何もないため、それ以上の推察には至らなかった。
 むしろ問題は、人間であろうと魔物であろうと、その存在が原因でイアンとヴェラの夫婦仲にヒビが入り始めている、ということである。

「どうしたもんですかねぇ……」

 チシャはどこか遠い目をしながら途方に暮れる。この場にいる中で最も博識な彼女も、この手の話に関してはまるで疎いので、有効な解決策は何一つ思いつかない。
 同様に、色恋沙汰には決して強いとはいえないトオヤもまた、過去の嫌な思い出を振り返りながら、しみじみと語る。

「こういうことに、他人があんまり口出しするといいことないというか……」

 トオヤはタイフォンにいた頃に、お忍びで下町に出かけることは多かったが、そこで出会った友人達の痴話喧嘩を仲裁しようとして、逆に大火事にしたことがあるらしい。

「とはいえ、鞘を壊すほどですからねぇ……」

 チシャはそう呟きながらも、どうすればいいか分からない。まず何より、真相が分からない状態では、下手に動くと事態を悪化させる可能性がある。

「じゃあ、さっそくだけど、リチャードのツテを使わせてもらうか。イアン様のことについて、 何か知ってるかもしれないし、もしかしたら、夫婦間の問題以外にも、この町で何か別の問題も起きてるかもしれないからな」

 トオヤがそう言うと、それまで黙っていたドルチェが頷きながら口を開く。

「なるほど。それは彼と面識がある人が行った方がいいだろうから、トオヤ達にお任せするよ。僕は『別の方向』から調べてみる」

 彼女がそう言ったのに対して、トオヤはやや心配そうに声をかける。

「あんまり無理はしないようにな。今のところ、大きな問題は無さそうだけど、またパンドラや何かがいつ襲ってくるかは分からないから、気をつけておくにこしたことはない」

 それに対してドルチェは笑顔で頷き、一人部屋を去って行く。

「では、私はトオヤと一緒にリチャードさんに会いにいきます。一応、私も面識はありますし」
「じゃあ、ボクはヴェラ様の様子が心配だから、そっちに行ってみるよ」

 こうして、彼等は三方に分かれて調査を開始した。

2.4. 古城の伝承と紅の楽士

「お久しぶりです、トオヤ様。チシャ様もご息災のようで」

 リチャードの宿へと到着したトオヤとチシャに対して、リチャードがそう挨拶すると、彼はトオヤに対して、彼等がこの町に至るまでの経緯について確認する。

「この街に届いてきた噂によると、レア姫様を助け、テイタニアの魔物を平定して、ヴェラ様をお連れしてこの地にいらっしゃった、とのことで間違いはないですか?」
「あぁ、間違いはない」
「何かそれ以上の密命を帯びていたりはしますか?」
「まぁ、表向き以上のことは特に」
「では、私がお伝えすべきことというか、お聞きになりたいことはありますか?」

 そう言われたトオヤは、率直に問いかける。

「これから、晩餐会を通してイアン様とお話をしながら、次期後継者にレア姫様を推していただきたい、という話に持っていきたいんだが……、それに関して、差し当たってこの町で何か変わったことが起きていないかを聞きたいんだ」

 それに対して、リチャードも率直に答えた。

「街の間ではイアン様の不倫疑惑が話題になっていますね」
「それについては、テイタニアでも噂になっていた」
「やはりそうですか。ただ、『銀髪の娘』に関しては、昔から『あの城にそのような娘が現れる』という伝承があるそうです」
「ほう?」

 「クーンの古城に魔物が住む」という「お伽話」自体はヴァレフール中に広まっているが、それがどのような魔物なのかについては諸説ある。その諸説の中の一つで描かれている「魔物」の姿が、どうやら今回の「不倫疑惑の女性」と合致しているらしい。まだ今の時点で、今回の女性がその「魔物」であると言える証拠はどこにもないのだが、少なくとも一般の町の住人達の中には「銀髪で色白の若い女性」は見当たらないため、異形の存在である可能性は十分に考えられるという。

「そして、最近のイアン様は、やや情緒不安定な様子にも見えます」
「なるほど」
「それが、ヴェラ様が御不在なためなのか、あるいは、ヴェラ様が御不在の間に『良からぬこと』をしていたためなのかは分かりませんが」
「う、うん、そうか……」

 その点に関しては、今の時点ではまだリチャードとしても判断は出来ないらしい。ただ、イアンの人となりに関して、興味深い話が聞けたという。
 この街の人達の評判によると、若い頃のイアンは、あまり人前に出ようとはしない、目立つのが苦手な「おとなしい性格」であったらしい。それが徐々に成長していくにつれ、堂々とした立ち振る舞いで人々(特に女性)を魅了するようになり、今では隣のファルクと並ぶ社交界における二大貴公子のような扱いとなったという。
 子供の頃からイアンを知っている人達から見ると、最近の彼の情緒不安定さは、昔の彼に戻っているようにも見える、とのことである。もし、彼の周囲に現れている「銀髪の女性」が本当に「魔物」の類いなのだとしたら、その性格の変貌に何か関わっている可能性は十分にあり得るだろう。
 ただ、トオヤ自身は「昔のイアン」のことは知らないので、その話を聞いても、それがどこまで信憑性のある仮説なのかは判断が出来なかった。その上で、彼はもう一つ、気になっていたことを問いかける。

「それ以外で、何かおかしなことは起きていないか?」
「たとえば?」
「パンドラのこととか……」

 そう言われたリチャードは、一瞬、チラッとチシャを見た上で、目でトオヤに何かを訴える。どうやら、チシャの前では言いたくないことらしい。チシャも何となくその空気を察して、それまで座っていた椅子から立ち上がる。

「とりあえず、私はちょっと席を外します」
「すまない」

 トオヤが軽く頭を下げる中、チシャが部屋の外へ出たのを確認すると、リチャードは小声で話を再開した。 

「では、私がこれから話すことを、チシャ様に話すかどうかの判断はお任せします」
「あ、あぁ」
「実は現在行方不明のチシャ様の母君であるネネ様は、失踪直前の時点から、パンドラと通じていたという噂がありまして」
「何!?」

 トオヤは思わず声を荒げる。

「いなくなったのも、『それ』が原因ではないかと考えられます」
「パンドラと? ネネ様は、聖印も邪紋も身につけていない普通の一般人の方だった筈だが……」
「おそらくその通りです。しかし、私も聖印も邪紋も身につけていませんが、密偵は出来ます。むしろ、そういう人間だからこそ出来ることもあるのです」
「確かに……」

 トオヤの記憶にある限り、およそネネはそのような大それたことをする人物ではない。だが、自分の目の前にいるこの男が「国内随一の実力を誇る密偵」であると言われても、にわかには信じられないだろう。それと同じだと言われれば、確かにその可能性も否定は出来ない。

「そして、ネネ様の出自に関して、色々と調べてみたところ、まだ不確定情報ではありますが、あの方の御実家と思しき一族の中に、パンドラに通じる者がいた疑いがあります」
「なるほど」
「それについては引き続き調査中なのですが、実はもう一つ、気になる情報があります。ネネ様とパンドラの関連の人脈を調べている関連で、一人、奇妙な人物を見つけました」
「奇妙な人物?」
「『紅のヴァイオリン』を持った楽士です。そして……」

 この時点で、トオヤの脳裏には当然のごとく、昨日出会った男が思い浮かぶ。だが、リチャードが口にしたのは、更に衝撃的な事実であった。

「……大変申し上げにくいのですが、トオヤ様のお母上のプリス様がその昔、旦那様以外の男性と親しくされていた噂がある、ということはご存知ですか?」
「あぁ。まぁ、なんとなく、程度のことしか聞いていないが。母上にそのことを聞く訳にもいかないし……」
「私自身はその男性を見たことはないのですが、その男性も紅のヴァイオリンを持っていたという話です」

 その話を聞いたトオヤは、あまりの動揺のあまり、激しく咳き込む。

「と言っても、その噂はトオヤ様が生まれるよりも前、20年以上も前の話です。そして、更に奇妙なことには、およそ40年前にも、『紅のヴァイオリンを持った人物』がこのクーンの街に現れたと証言している者がいるのです。それらの目撃された『紅のヴァイオリン』が全て同じ楽器なのかは分かりませんし、彼等が同一人物なのかどうかも分かりません。ただ、いずれにしても、その人物とネネ様やパンドラが関わっている形跡があるようです」

 これに対して、トオヤも自分が見ていたことをそのままリチャードに伝える。

「実はな……、テイタニアからこの地に向かう途中で、その紅のヴァイオリンを持つ楽士と出会ったのだ」
「ほう」
「チシャが言うには、その男は投影体である可能性が高いらしい。そして、投影体の中には年を取らない者もいると聞く。もし、そのような投影体だとするならば、40年前からこの周辺を転々としているのかもしれない。その度に女性を口説いて……」

 そう語っているトオヤ自身の中で、徐々に怒りがこみ上げてくる。昨日何食わぬ顔で現れたあの男が「自分の母親の不倫疑惑の相手」だとすれば、彼は「自分の母親を孕ませて無責任に姿を消した実の父親」である可能性もある。テイタニアの一件で、トオヤは自分がレオンの息子である可能性が極めて高いという結論に到達していたにも関わらず、ここで彼は再び自分自身の正体が何者なのか分からなくなってきた。そして真実がどうであれ、その「紅の楽士」のために、自分とレオンの関係がかき乱され、子どもの頃から「冷え切った家庭環境」で育つことになったのは、紛れもない事実である。
 そんなトオヤの怒りを察したのか、リチャードが冷静に言葉を挟む。

「まだそのヴァイオリンを持つ者達が同一人物かどうかは分かりませんが……」
「そうか……。まぁ、一旦その話は置いといて、この街でパンドラが暗躍している様子は無さそうなのか?」
「今のところは。ただ、パンドラの間者はどこに潜んでいるかは分かりません」

 そこまで言った上で、リチャードは一つ思い出したかのように付け足す。

「そういえば、トオヤ様と一緒にこの町にやってきた、前髪の長い、奇妙な装束の女性がいたと思います」

 それがアンナのことだということは、トオヤにもすぐに分かった。彼女は町に着くなり、いつの間にか姿を消していたが、おそらく今もこの町のどこかで様々な聞き込み調査に没頭しているのだろう。

「彼女は、表向きは大陸の新聞記者として活動していますが、彼女の正体は『ヴァルスの蜘蛛』の諜報員です。色々とこの国のことを探ろうとしていて、どこかに売ろうとしているのでしょう。気をつけた方良いかと」
「なるほど。ヴァレフール国内でも、レア姫さまの動向を知りたい者はいるだろうしな。まぁ、ヴァルスの蜘蛛とは持ちつ持たれつというか、付かず離れずくらいの関係がちょうどいいだろう」

 タイフォンで自分達に情報を提供しにきた「タチの悪い幻影の邪紋使い」のことを思い出しながら、トオヤはそう呟く。実際、彼女からの情報のおかげで、色々な意味で行動が取りやすくなっているのは事実であった。

「とはいえ、色々情報をありがとう。これで『動くべき方向性』は見えてきた気がする。それと、俺の方から一つ頼みがあるんだが……、件の紅の楽士、情報収集の過程でまた何か知ることがあれば教えてほしい。俺やチシャとも因縁があるらしいからな」
「分かりました」
「あ、それとさ、このことは他の人にはあまり言わないでほしいんだが、この街のオススメの甘味処を……」
「そうですね、ここは由緒ある街なので、由緒あるプディングやスコーンのお店などもあります。見つけ次第お教えしましょう。ただ、私がそれをお伝えしようとしても、あなたが気付かなければ意味がないので、気をつけて下さい」

 こうして対話を終えたトオヤは、部屋の外で待っていたチシャと合流した上で、宿を出る。トオヤはまだこの時点では、チシャに先刻の話をどこまで話すべきかについて決心がつかず、チシャもまた自分の方からリチャードとの話の内容を聞こうとはしないまま、二人は城へと帰還した。

2.5. 妾の子

 その頃、カーラはヴェラの部屋へと向かおうとする途中の廊下で、女性給仕達が葡萄酒の瓶を互いに押し付けあっている光景に出くわした。

「あんたが行きなさいよ」
「いやよ、あんたがやってよ」

 そんな二人と目があったカーラは、率直に問いかける。

「どうかされましたか?」
「あ、護衛の隊長の方ですよね」
「はい」
「いや、あのヴェラ様からお酒を届けるようにと頼まれたんですけど……」

 なお、この時点ではまだ昼間であり、この後で晩餐会が準備されている。

「これ、もう3本目でして、そろそろ中に入るのが怖くなって……」

 どうやら、完全にヤケ酒状態になっているらしい。

「……お酒だけですか? 肴は頼まれてますか?」
「えーっと、私達が頼まれたのはお酒だけですが……」
「では、私が行きます」
「お、お願いします」

 給仕達はカーラにその酒瓶を手渡すと、逃げるようにその場から去って行く。カーラは懐から、テイタニアで買っていたクッキーを取り出した上で、ヴェラの扉に手をかけた。

「ヴェラ様、失礼します」

 そう言って中に入ると、そこにはやや頬を赤らめた状態のヴェラが、軽く着崩した私服で椅子に腰掛けていた。

「……お主が、どうして……?」
「えーっと、その……」
「あぁ、そうかそうか、私の酒の相手をしてくれるんだな」

 彼女はそう言いながら、カーラを部屋の中へと引っ張り込んだ。彼女はカーラ用のグラスを取り出し、受け取った瓶からトクトクと葡萄酒を注ぎ込んでいく。

「ちょうど少し、誰かと話がしたかったところだ……。お主、確かあのテイタニアの店で娘達が噂話をしていた時、いたよな?」
「は、はい、いました……」
「さっきのあのイアンの態度、どう思う?」

 どうやら、ヴェラもイアンの態度を不自然に思っていたらしい、ということを察したカーラは、どうにか場を収めようと頭を巡らせる。

「私から見れば……、そうですね、長い間離れていると、やっぱり、多少ぎこちなくなってしまうものですし、致し方ないかと。半年も会っていなかったのでしょう?」

 カーラの中では、先日の船上での母親との対面が思い出されていた。もっとも、彼女達の場合は半年どころか、約400年ぶりの再会だった訳だが。

「まぁ、そうだな。私もそういうものであると思いたいんだが……、もしお主が私の立場だったら、夫を問い詰めるか?」
「そうですね……、問い詰めた上で、せめて堂々と話を通してくれるならば……、ゲンコツ一つで済ませますかかね」

 そもそも「夫」という存在が何なのかも良くわかっていないカーラが、それでもどうにか想像力を膨らませた上でそう答えるが、それに対して、ヴェラは視線を逸らしながらポツポツと語り始める。

「今の私には、彼を問い詰めることは出来ない。真実を知ったら、私は彼を許せなくなる。だが……、私は彼を失いたくないんだ……」

 そう語るヴェラの表情は、今まで見たことがないほどの悲壮感に満ちていた。

「だから、聞かなかったことにすればいいかと思っていたのだが……、それでも心の中のモヤモヤが晴れない。どうすれば良いのか分からないんだ…………。所詮、妾の子は妾にしかなれんということなのかな……」

 彼女は先代ヴァレフール伯爵ブラギスが、契約魔法師であったパリスに産ませた子供であり、長年にわたってその負い目を背負わされて生きてきた。今の時点ではヴェラはイアンにとって間違いなく正妻であり、その銀髪の女性については妾ですらない状態なのだが、今のヴェラには、自分がいつまでも「正妻」でいられるかどうかすら危うく思えてきたらしい。まだ実態も分からない「銀髪の女性」という存在への不安な心から、いずれその女性が自分から正妻の座を奪い取ってしまうほど、イアンの愛を独占してしまうのではないか、という妄想に取り憑かれていたようである。

「私自身も愛人の子だ。だから、男の『そのような行為』を咎める権利はない。だが、理屈では分かっていても、いざ自分がその立場になると、なかなか割り切れないものだな……。今にして思えば、正妻であったレオリア殿が私や母のことを毛嫌いしていたのもよく分かる……。むしろ、殺されなかっただけありがたいと思うべきなのかもしれない……」

 ヴェラが相当に思いつめていることは、カーラにも分かる。そして、何の因果かカーラ自身もまた『妾の子』であった。母親が「魔法師」か「武器」かという違いはあれど、「間近で支える側近」の関係から「第二の愛」が芽生えたという、極めて良く似た状況か出生の経緯である。無論、そのことを話す訳にはいかないカーラとしては、どう声をかけて良いか迷い、悩む。

「親の因果が子に報いてきたのかもしれんな。我が母が父を奪ったことが……」

 明らかに自暴自棄な思考になりかけているヴェラを目の当たりにして、これ以上一人で考え込ませる訳にはいかないと思ったカーラは、思い切って今思っていることを素直に伝える。

「とりあえず、イアン様に平手打ちを一発お見舞いして、全て話してもらうところから始めるべきなのではないでしょうか?」

 それが、「武器から生まれた女性」としてのカーラの提案であった。

「……やはり、それしかないか」

 それが、「武人として生きてきた女性」としてのヴェラの返答である。やはりこの二人、遠縁であるというだけでなく、どこか精神的に通じ合うものがあるのかもしれない。ようやく少し解決の糸口が見えてきたカーラは、そのまま畳み掛けるように提案する。

「それで正直に話してもらえるなら、そこから先は喧嘩でも手合わせでもなんでもして、お互いの落とし所を探すしかないでしょう。正直に話さないようなら、その噂を持ち出して、話してくれるまで帰ってやらんと言って、どこかに出奔されるのもよろしいかと」

 ここでまで言ってしまっていいのか、少々不安になりながらも言い切ってしまったカーラに対して、ヴェラは少し考え込んだ上で、ふと疑問に思ったことをカーラに問いかける。

「すまんな、唐突に変なことを聞くが……、オルガノンというものは、そもそも、その、なんというか……、『男女』で一つになるものなのか? 最初にこれを聞かないまま、こんな話をして悪かったとは思うのだが……」

 それについて聞かれると、カーラもどう答えるべきか迷うのだが、ひとまず「誰の話」かは伏せた上で、彼女が知っている「唯一の実例」を紹介する。

「えーっと……、私と同じ剣のオルガノンで、使い手の剣士と恋仲になった者がいるとは聞いたことがあります」
「なるほど。では、お主自身はどうなのだ? 今の持ち主でなくてもいい。これまでに誰か男と恋仲になったことはあるのか?」
「件のオルガノンは、奥方のいる方に想いを寄せてしまったようで……」
「いや、そうではない、お主自身のことを聞いているのだ。無論、お主にも話せぬ事情があるなら、無理に聞きはしないが……」

 そう言われたカーラは、少し自分の中で考えをまとめた上で、正直に答えることにした。

「私にとって身近な男性といえば、あるじしかいない訳ですが……」
「まぁ、そうだろうな」
「私としては、今の『武器』として信頼され、『部下』としてそれなりに傍に置いてもらえるこの状態が一番なので、それ以上を望むというのはちょっと……。『今』が心地良いですし、『あるじの剣』として振るわれることに喜びを感じている私は、『武器としての感情』が強いので、恋情にはまだ至っていないと思います。そして、今後も武器としていたいです」

 厳密に言えば、彼女自身をトオヤが「武器」として使ったことは殆どない。だが、それでも彼女は、あるじを守るために、自分自身で自分の「本体」である大剣を振るうことは、「あるじによって振るわれている」という状況と同じことだと考えている。そして、それこそが彼女の中では、人間にとっての恋愛や家族愛にも勝るほどの充実感をもたらす行為なのであった。
 ヴェラはそう語るカーラを、どこか羨ましそうな瞳で見つめる。

「そうか……、私もオルガノンだったら、同じように思えたのかもしれんな。私自身がお主のように、イアンの剣になれるのであれば、今からでもこの身を剣に出来るのであれば、そう思えたのかもしれない……。だが、どうやら私の中には、自分で思っていた以上に『女としての私』がいるようなのだ……」

 その「女としての自分」が自分の中でもどうしようもないほどの嫌悪感を引き起こしていることを自覚しつつ、彼女は話を本題に戻す。

「先ほどのお主の提案は理屈では分かる。理屈では分かるが、そうなった場合、イアンが私を諦めて、私をそのまま手放すことが、今の私にはどうしても怖いんだ……」

 結局、どこまで話しても結論は変わらない、ということを改めて実感したヴェラの中では、そんな「不毛な会話」にカーラを付き合わせてしまったことへの罪悪感が湧き上がってくる。

「すまなかった。このようなことをお主に話すべきではなかったというか……、いや……、しかし、むしろ、お主でよかったのかもしれないな……」
「そうかもしれませんね。男性が相手であれば話すことも出来ませんし、人間の女性であれば、私のように『自分は武器』と割り切れる訳ではないので。ヴェラ様としては、そのような方とお話しした方が共感は得られたかもしれませんが、共感しすぎて一緒になって、浮き上がれないところまで沈んでしまっていたかもしれませんし……。あの、これからも、私でよければ、愚痴くらいは聞きますので」
「ありがとう。一通り話せたことで、少しは気が楽になった。まぁ、とりあえずは、素直に話してくれるのを、しばらく待つ。その上で、話してくれなかったら、またその時に考える」

 彼女はそう言いながら、拳を握りしめる。どうやら、このままイアンが沈黙を続けた場合、「平手」では済まない事態に発展しそうである。

「あの、あまり、手を痛められないように……」

 そんな、どこか的外れな助言を思わずかけてしまったカーラに対して、ヴェラはこの日初めて、心の底からの笑顔を見せた。

2.6. 創造される虚像

 一方、その間にパペットは、ひとまず「ドルチェ」の姿で城内を見て回りつつ、仕事を終えて帰ろうとしている女性給仕の姿を確認すると、すぐさまその給仕の姿に変身する。
 そして彼女はその姿のまま、カーラから聞いた「噂話をしていた給仕達」の集まる厨房へと向かった。

「大丈夫だった? ヴェラ様、お酒、ちゃんと受け取ってくれた?」

 この「女性給仕」と同僚と思しき者達に突然そう言われたパペットは、よく事情は分からないまま、なんとなく話を合わせることにした。

「うん、一応、受け取ってはくれたけど……、これ以上はどうかと思うよ……」
「そうよね、やっぱり……」

 心配そうな表情を見せる同僚に対して、唐突にパペットは「本題」を問いかける。

「そういえば、戻ってくる途中で、『銀髪の女の人』の後ろ姿を見かけたんだけど、あれって、もしかして……」

 なお、実際にはパペットはそんな外見の女性など一度も見ていない。

「え? あなたも? あなたも見たの? どこの廊下?」
「ヴェラ様の部屋から戻ってくる道半ばの辺りくらいかな……」

 当然、そんなところにいるかどうかも分からない。だが、その言葉に対して、同僚の給仕は激しく反応した。

「まずいじゃない! それ、一番足を踏み入れちゃいけないところじゃない!」
「じゃあ、なんであんなところにいたんだろう? でも、私は今まで見たことないから、その人かどうかも分からないし……。噂になってたその人って、どんな姿だったの?」

 パペットはそう言って、実際に彼女を目撃したことがあるという給仕に問いかける。

「私が見たのは、銀色の長い髪で、その毛先がちょっと巻いてて、こんなような形の髪飾りをつけてて、服は袖口がこう広がってて……」

 その給仕が語る「銀髪の女性」の外見を説明を、パペットは入念に記憶した。

「……っていうようなカンジの人だったと思うけど、あんたが見たのも、その人だった?」
「後ろ姿だったから、よく分からなかったけど、でも、ちょっと違うような……。今来てるお客さんの従者さんとかかもしれないし……。今、この城の中には、知らない人も沢山いるから」
「あー、なるほど。そうかもね……。でも、もしあの人だったら、さすがにまずいわよね。とはいえ、もう隠し通せることじゃないからな……。旦那様も、どういう事情か知らないけど、素直に話してくれた方が楽になると思うんだけどね」
「私、その人の噂とかよく知らないんだけど、イアン様と一緒にいるところを見たの?」
「一緒にっていうか、イアン様の寝所入って行くところを……」
「えぇ!? それって……」
「だから、問題になってるんじゃない!」
「し、知らなかったわ……」

 そんなような会話を交わしつつ、適当なところで話を切り上げて、パペットは厨房の外に外に出る。そして、給仕が話していた「銀髪の女性の姿」の情報をイメージして変身した上で、警備兵の視界にギリギリ入るくらいの場所にあえて姿を現し、彼等の反応を確認する。

「おい、あれ、もしかして、『例のアレ』じゃないか?」

 彼等がそんなヒソヒソ話をしているのを耳にしたパペットは、ここで思考を巡らせた。

(うーん、さすがにこの程度の反応じゃあ、厳しいか。本人を前にしたら、偽物と分かるだろうしな……。まぁ、失敗してもいいから、やってみようか)

 こうして彼女は、人伝のイメージだけで作り上げた「銀髪の色白美人」の姿になった上で、イアンの部屋へと向かうのであった。

2.7. 虚構の姉妹

 だが、ここでパペットにとって、良くも悪くも想定外の事態が訪れる。彼女がイアンの私室を訪問しようとしたまさにその時、「今の自分の姿」とは似て非なる「銀髪の女性(下図参照)」が、廊下の反対側から現れたのである。


(あー、これが本物か。やっぱり、今のこの姿とはちょっと違うな……)

 パペットが内心そう思っている一方で、相手の方も「微妙に自分と似た外見の女性」が目の前に現れたことに衝撃を受け、やや警戒した様子を見せつつ、パペットに対して問いかけてきた。

「……どちら様ですか?」
「あなたこそ、こんなところで何を?」
「私は城主様に御目通りに来ただけですが」
「じゃあ、私も」

 イアンの部屋の扉の前でそんな会話を交わしながら、彼女は「今のパペットの姿」を改めて凝視する。

「あなた……、私と同類……、ではなさそうね? でも、なんだろう、ある意味、私よりも危険な存在かもしれない……」
「えー? いきなり見た人を危険呼ばわりなんて、ちょっとひどくない?」

 パペットがそんな反応を見せながら相手の出方を伺っていると、やがて二人の会話に気付いたのか、部屋の中から扉を開けて、イアンがこの場に現れる。二人の姿を目の当たりにした彼は、当然の如く、困惑した。

「おい、ローラ、こいつはお前の……、仲間、か?」

 「パペット」を指しながら、「本物の銀髪の女性」に対してイアンがそう問いかけると、彼女が答えるよりも先に、パペットが反射的に動いた。

「はーい、ローラの妹のリオラっていいます。よろしくー」

 突然の意味不明な言動に対して、「ローラ」と呼ばれた銀髪の女性は「こいつは何を言ってるんだ!?」という感情から惑乱状態となったのに対し、イアンは一瞬驚いた表情を見せた上で、「ローラ」に向かって怒りをぶつける。

「妹!? お、お前、どこまで状況を混乱させれば気がするんだ!」
「知りませんよ、こんな子! 私に妹なんて……」
「あれー? ローラ姉様、一体この人に何をしたの? 状況を混乱させたとか、私、聞いてないんだけどー」

 そう言って、「リオラ」ことパペットは、更にこの場をかき乱そうとする。そして次の瞬間、イアンは自分が廊下で大声を出してしまったことに気付き、慌てて二人をまとめて部屋の中に引っ張り込んだ上で、扉を閉める。

「きゃあ! お部屋の中にまで連れ込んで、私をどうするつもり?」

 小悪魔的な瞳と仕草で「リオラ」はイアンを見つめ、そして邪紋の力を発動して、彼を誘惑へと陥れる。イアンの中での混乱は更に深まり、もはや何が真実なのか、皆目見当がつかない状態に陥っていた。

「というか、私何も聞いてないんだけど、ローラ姉様が何をしたのよ?」

 錯乱状態のイアンに対して「リオラ」がそう問いかけると、彼はもはやまともな思考が出来ない状態のまま、率直に答える。

「何をしたも何も、お前もローラの妹なのであれば、分かっているだろう。お前達リャナンシーのやることなんて、一つしかないだろうが!」

 リャナンシーとは、ティル・ナ・ノーグ界に住む妖精の一種である。魔法師でもないパペットはその詳しい実態を知らないが、一般的には「男性を魅了し、その精を吸い取り、その代償として何らかの『力』を与える美女」であると言われている。

「あー、やっぱり、そういうことかー」
「待って下さい、城主様。この子は私の妹ではありませんし、そもそも、おそらくリャナンシーでもないです」
「えー、ローラ姉様、この人を独り占めしたいからって、ひっどーい!」

 イアンに正常な判断能力があれば、ここで「リオラ」なる存在が本物のリャナンシーかどうか、確認する術はいくらでもあっただろう。だが、ただでさえ最初から混乱していたところに、邪紋の力で誘惑状態に陥ってしまったことで、もはや彼にはそのような冷静な理性など残ってはいなかった。彼は混乱した様相のまま、「本物の銀髪の女性」に再び怒りをぶつける。

「ローラ、もうお前に求めるものは何もないと言っただろう! 早く消え去ってくれとも言った筈だ! それなのに妹まで連れてくるなど……、そこまで私を苦しめたいのか!?」
「いえ、ですから、この子は妹ではないんですが、それ以前の問題として……」

 彼女はここで一呼吸入れることで、少しずつ平静を取り戻しつつ、イアンに訴えかけた。

「その言い分は、あまりにもつれないではないですか。せめて、私が満足するまでお相手して頂けるものかと期待して、私は再びこの城に現れたのです。私が現れることを期待したのは、あなた自身でしょう?」
「あぁ、確かにそれはそうだ……。だが……、私は少なくとも、二人も呼んだ覚えはない!」
「ですから彼女は……」

 そんな二人のやりとりを見て、パペットは「潮時」を悟る。もう必要な情報は概ね手に入れたので、これ以上ここに長居してボロを晒す危険を冒す必要はなかった。

「あー、まぁ、いいよ、二人掛かりで相手しようとは思わないし。ローラ姉様のことが気になってきただけだし。ローラ姉様からその人を奪おうとは思わないし。私はどちらかというと、隣の町の『盾の騎士様』の方が好きかな」

 その場の勢いの捨て台詞のつもりでそう言ってみたパペットであったが、その最後の言葉が、パペットの想像以上にイアンの心に突き刺さる。

「そうか……、やはりリャナンシーも本音ではファルクの方が……」

 イアンはそう呟きつつ、その場に項垂れる。そんな彼に対して銀髪の女性が寄り添おうとするのを眺めながら、「リオラ」は扉を開ける。

「という訳で、これ以上ここにいるとお邪魔みたいだし、あとはローラ姉様とよろしく!」

 そう言って「リオラ」は出て行こうとするが、ここで逃す訳にはいかないと判断した銀髪の女性が、その身から特殊な混沌の気配を漂わせつつ、「リオラ」に絡み付こうとする。

(この混沌の力……、どうやら本当にリャナンシーみたいだな……)

 「リオラ」は内心そう思いつつ、その「リャナンシーと思しき彼女」を相手に幻影の邪紋の力を発動させて混乱させつつ、自身を搦め捕ろうとした彼女の両手からも絶妙な身のこなしで逃れて、そのまま廊下へと走り去って行く。彼女はなおも「リオラ」を追おうとしたが、「リオラ」が目の前から去ったことで多少なりとも冷静さを取り戻したイアンが、リャナンシーを後ろから抱え込んで止めて、そのまま扉を閉めた。さすがに、部屋の外で「彼女達」に騒ぎを起こされる訳にはいかないらしい。
 こうして、かろうじて脱出に成功したパペットは、ひとまず姿を「ドルチェ」に戻す。

「いやー、ちょっと危なかったなぁ……、それにしても、リャナンシーか……。なかなか有用な情報だった」

 誰にも聞こえない程度の小声で彼女はそう呟きながら、ひとまず自分の部屋へと戻ろうとする。そんな中、改めて「ローラ」と呼ばれていたあの銀髪の女性の表情を思い返していた。 

(そういえば、あのリャナンシー、ちょっとだけチシャに似てたような気も……?)

2.8. 愛故の不安

「ヴェラ様は、かなり精神的に参ってるみたいよ」

 トオヤの部屋に再び四人が集まったところで、最初にカーラがそう言って話を切り出した。ヴェラの現状について、彼女は自分が見たままの彼女の様子をそのまま伝える。
 一方、トオヤはリチャードから聞いた話のうち、「チシャが部屋から出て行く前に聞いた情報」だけをまとめて伝えた。すなわち、「現在のイアンが情緒不安定気味になっていること(それが昔の彼への逆戻りに見えること)」と「クーンの魔物に関する伝承の中には『銀髪の女性』の姿で伝わっている説もある」という二点なのだが、後者を説明したところで、「ドルチェの姿に戻ったパペット」が、しれっと口を開いた。

「あぁ、その銀髪の女性、リャナンシーらしいよ」

 彼女はその「情報源」を伝えないまま、銀髪の女性の正体がリャナンシーで、しかもそれはイアン自らが呼び出したものの、現在の彼は彼女の存在を疎ましく思っているらしい、という「情報」だけを伝える。しかし、これに対しては当然、トオヤは疑問を投げかけた。

「まて、その情報、どうやって集めたんだ? 普通の方法じゃないだろ?」
「知りたいかい、トオヤ?」
「あぁ、聞かせてくれ」
「知りたいというなら教えるけど、怒らない?」
「君の能力を考えると、色々なことが出来てしまうんだろうが……、危険なことをしていたのなら、多分、俺は怒る」

 トオヤの中では、アキレスで彼女がガフに化けた時と同じような状況が想定されていた(そして、それはほぼ正解であった)。

「じゃあ、言わない」

 ドルチェにそう言われてしまったトオヤは、ひとまずその「手段」に関しては脇に置いた上で、「ここまでの自分達が集めた情報が全て正しかった場合」という前提の上で、推論を立てていくことにした。

「やっぱり、その愛人疑惑の正体は、そのクーンの魔物であるリャナンシーだよね、きっと。ということは、昔、イアンさんはあのリャナンシーに何かを与えてもらった、ということなのかな。社交的な能力とか……」

 カーラはそう憶測する。状況的に、そう考えれば全ての辻褄は確かに合う。リャナンシーは、男性の精を吸い取ることによって、その男性に力を与える。その場合の「力」に関しては様々な個体差が報告されており、幸運を与える者もいえば、能力を与える者をいる。その上で、リャナンシーが人間にとって有害かについてどうかも個体差があり、エーラムがその存在を認可しているリャナンシーもいれば、危険と判断されて討伐されたリャナンシーも多々いる。

「まぁ、そんなところが妥当だろうね」

 ドルチェは、相槌を打つようにそう呟く。イアンとローラ(と呼ばれていた銀髪の女性)の会話を聞いていた彼女としては、その仮説でほぼ間違いないだろうと確信しているが、その内容を詳しく説明すると、「情報を手に入れた方法」まで教えなければならないので、それ以上は何も言えなかった。
 それ故に、そこまでの確信が持てないトオヤは、まだ他の可能性についても考慮した上で、現場について改めて分析する。

「それについては、憶測しても正しいことが分かる訳じゃないしな。とはいえ、そういう存在がこの城の中をウロウロしていたのだとしたら、危ないな……」

 リャナンシーがもたらす主な実害としては、彼女達は概ね全員好色なため、彼女達の存在が様々な形での男女の痴情のもつれ(もしくは彼女をめぐる男同士の奪い合い)を引き起こすことが挙げられる。また、リャナンシーに入れ込みすぎた男が精を吸い取られ尽くして死ぬこともあるが、それについては多くのリャナンシーは「彼等が勝手に私達を求め続けただけ」と開き直っており、そういった問題に関する倫理性の解釈については、人々の間でも意見が分かれている。
 そして、この世界に存在する投影体には、召喚魔法師あるいは他の投影体などによって呼び出された者もいれば、自然発生した者もいる。また、彼等がどれだけ長く「この世界」に存在し続けるかについても個体差がある。消滅の原因についても法則性は解明されておらず、何らかの本懐を遂げることで消えていく者もいれば、絶望することで消えていく者もいる。
 ちなみに、同じ召喚魔法師に呼び出された投影体達は、基本的に常に「同じ個体の影」であり、少なくともこちらの世界に投影されている間は、以前に呼び出された時の記憶も持っている(つまり、チシャが呼び出すジャック・オー・ランタンやオルトロスも、過去に呼び出された時の記憶は彼等の中にある)。それと同じように、自然発生する投影体達に関しても、一度こちらの世界から消滅した後で、「同じ個体の影」が再び出現することもあるらしい(それは混沌核を破壊もしくは浄化された場合でも同様である)。
 この城に出現する銀髪の女性がリャナンシーであるならば、おそらく彼女は四百年以上前からこの城に出現する同一個体である可能性が高い。常に存在し続けていた「歳を取らない投影体」なのか(なお、一般的にリャナンシーが歳をとるかどうかは不明だが、少なくとも「歳をとったリャナンシー」を見たという報告を聞いたことはない)、あるいは「出現と消滅を繰り返す投影体」なのかは現時点では不明であるが、彼女が人間にとって「有害な存在」かどうかについては基本的にはエーラムの判断を仰ぐ必要があり、今この場にいる中では、チシャにはその判定を下す権利がある(無論、同じことはイアンの契約魔法師にも言えるのだが、彼は現在、エーラムからの特命により、この地を離れていた)。
 この前提情報を踏まえた上で、改めてカーラは自身の仮説を展開させる。

「イアン様がもう一回リャナンシーを呼んだ理由が、『ヴェラ様が帰ってこない原因が、自分の魅力がないから』と思い込んだから、とか?」

 確かに、それも可能性としては十分に考えられる話だろう。もし、イアンの本性が「自分に自信が持てない小心者」であった場合、妻として娶った主家の娘が半年間帰らない状況に、不安を抱くのも当然と言えば当然である。
 いずれにせよ、イアンの元に現れたのがリャナンシーであるというならば、彼女との間で情事に至っている可能性は極めて高い。たとえその原因がヴェラにあるとしても、イアンとしてはその事実は絶対に隠さなければならないと考えているだろう。だが、それが隠しきれていない状況が、ヴェラを余計に不安にさせているのである。
 ここまでの話を踏まえた上で、チシャは思い悩んだ様子で口を開く。

「このことを、ヴェラ様に教えていいものやら……、教えるのが筋なんでしょうけど……」
「でも、今の状態でヴェラ様にこのことを話したら、確実に刃傷沙汰だよね」

 ドルチェは淡々とそう答え、そしてチシャも頷く。

「確かに血を見ることになるでしょうね、きっと……」

 そんな会話に対して、トオヤも頭を悩ませる。

「それは色々な意味でまずい。ともかく、イアン様自身に話を聞いてみないとどうにもならないが……」
「話聞きに行ける?」

 カーラにそう問われたトオヤは、改めて思案を巡らせる。

「うーん、まぁ、なんとかやり方を考えてみよう。今夜の晩餐会の様子を見てから考えるでもいいしな。それはそれとして……」

 彼はそう言いながら、ドルチェに視線を向ける。

「君がやったことは大体は想像はついてるんだけど……」
「ん? 何のこと?」
「確かに君の力を使えば『そういうこと』は出来るかもしれない。でも、それを一言の相談もなしに……」
「言ったら、止めるだろ?」
「そりゃな。しかし、誰の助けも借りられない状態で一人で突っ込むのは、どうなんだ?」

 トオヤは今回の彼女の行動に対して、本気で怒っていた。彼は「守ること」を本懐とする君主であり、自分の手の届く範囲にいてくれさえすれば、全ての仲間を守り続ける覚悟はあった。だが、自分の預かり知らぬところで、彼女が危険な状況に自ら飛び込んで行ったという憶測に至った時、本気で心の底からの「恐怖」を感じたのである。まかり間違ったら、彼女が命を失っていたかもしれないという可能性に、内心激しく怯えていた。

「大丈夫、大丈夫。ちゃんとこうして戻って来れたんだし。僕にとっての第一は、姫様の影武者を続けることだからね。それが出来なくなるような真似はしないさ」
「あぁ、確かに、その使命を果たしながら、今回の諜報を成功させる自信は君の中にはあったんだろう。だが、その話を後で聞かされる方の身にもなってくれ。もし万が一、何かあったらどうするつもりだったんだよ」
「それは、僕を心配してくれるってことかい?」
「あぁ。『レア』じゃない。『君』を心配してるんだ」

 この瞬間、トオヤの中で今まで曖昧なまま結論を保留していた感情が、初めて一つの「言葉」として結実した。そして、その言葉は「彼女」の心にも突き刺さる。彼女は決して、意図的にその言葉を引き出そうとした訳ではないだろう。だが、結果的に言えば彼女はこの問答を通じて、それまで彼女自身も自覚しきれていなかった「自分が一番聞きたかった言葉」を引き出してしまったのである。

「……その言い方は、ちょっと『くる』ものがあるね。分かったよ。今度からは先に相談させてもらう。あ、でも、相談はさせてもらうけど、やることは許してね」
「え?」
「それとも、この情報を知る方法が、他にあったのかい?」
「いや、色々あっただろ、きっと」
「えー、もっと具体的に教えてよ。色々じゃ分からないって」

 彼女はそう言ってトオヤを困らせるが、トオヤの中で明確な代替案がある訳ではないことは察しがついている。いくら待っても答えなど出ないだろうと判断した彼女は、自分の方から勝手に結論を出した。

「まぁ、そういう訳だから。でも、今度からは先に相談させてもらうよ。それでいいよね?」
「今回はいいよ、それで」

 トオヤは若干不機嫌そうながらも、ひとまずこの場は引き下がる。その上で、彼はカーラとドルチェに対して、こう言った。

「二人とも悪い、ちょっとチシャと二人きりにさせてもらえないか?」

2.9. 子供達の憂鬱

 二人が退室した後、トオヤはリチャードから聞いた話を、そのままチシャに伝える。ここまで話すかどうか迷っていたが、最終的には「伝えた方がいい」という結論に至ったようである。

「パンドラの関係者、ですか……」

 さすがにその話を聞かされると、チシャとしても動揺せざるを得ない。もしそれが本当なら、エーラムの魔法師協会の一員である自分とは、明確に敵対することになる。

「あくまで関係があるかもしれない、ということだから、正しいことは何も分からない。積極的にパンドラに関与してるという証拠もないし、全く関係ないのかもしれない。だから、今はあまり気にする必要はないのかもしれないが、とはいえ、一応、チシャも聞いておいた方がいいかもしれないと思ってな」
「そうですか、母様が……。教えてくれて、ありがとう」

 彼女が最初からパンドラによって送り込まれていた間者なのだとしたら、自分をエーラムに留学させたことにも、何か裏の意味があったのかもしれない。更に言えば、そもそも「伯爵家の誰か」と密通して自分を産んだことすらも、何らかの陰謀の一環だったのかもしれない。だが、少なくともチシャの記憶にある母は、何らかの打算で自分を育てているような女性には見えなかった。他の家庭の母親と比較することは出来ないが、チシャの中では彼女は「普通の、一般的な、家族愛に溢れる母」であった。だからこそ、彼女としては情報が確定なこの時点では、まだ結論を出す訳にはいかなかった。

「それで、例の紅の楽士なんだけど、あいつ、うちの母親とも仲良かったしいんだよな……」
「えぇ!?」

 チシャもトオヤの母プリスの不倫疑惑については聞いたことがあったが、その相手がどのような人物なのか、ということまでは知らされていなかった。

「まぁ、まだよく分からないんだけど……」
「その話を聞くと、余計に紅の楽士についても調べたくなりますね」
「あぁ。だが、どういう真実なのかは知らないけど、あまり気にしても仕方ないかもしれない。親は親、自分は自分だ。確かに、親の悪行を子が背負うこともあるのかもしれない。でも、俺達は俺達だ。自分の思いに従って生きればいい。とはいえ、まぁ、話くらいは聞いてもいいけどな。ただ単純に何してんだって怒るだけじゃなくて。聞いた上で怒ったら、怒鳴るなり殴るなり、魔法ぶっぱなすなりすればいいんじゃないか」

 自分の中での気持ちの整理がついていないまま、トオヤはまくし立てるように言葉を並べる。そこまで言い切ったところで、最後にボソッと呟いた。

「はぁ、まったく、今日は色々ありすぎた……」

 彼はそう言って、心底憔悴した表情を浮かべる。とはいえ、まだ終わった訳ではない。この後で「ギクシャクした夫婦が主催の晩餐会」という、更なる厄介事が待ち構えているのである。トオヤもチシャも「きっとこの後も何かある」という予感を胸に抱きつつ、チシャは自分の部屋に戻って、晩餐会のための身支度を始める。
 そして、そんな彼女と入れ替わりに、外に部屋の外に出ていたカーラが部屋に戻ってきた。

「あるじ、さっき給仕さんから、晩餐会用の貸衣装を預かったから、今から着付けするね」

 そう言いながら、彼女はトオヤの前に豪奢な紳士用礼服を取り出し、寸法が合っているかを確認し始める。

「もう、そういうのは大分慣れてきたし、手伝ってくれなくても大丈夫だよ」

 トオヤがそう言っている間にも、彼女はトオヤの背後に周り、跳ねていた後ろ髪をちょいちょいと直す。

「あぁ、ありがとう……」

 そう言ってもらえたカーラは、ほんのりと笑顔を浮かべつつ、そのままテキパキとトオヤの着付けを勝手に始めていくのであった。

3.1. 晩餐会

 この日の晩餐会には、クーンの城下町の有力者達が軒並み顔を揃え、そして近隣の町村からも彼女の帰還の噂を聞いて駆けつけた者達が現れるほどの大盛況となった。
 この日の主役であるヴェラの周囲には多くの人々が集まり、彼女が大陸でどのような日々を送っていたのか、いかにしてエーラムやハルーシアの人々を説得したのか、といったことを次々と質問攻めにしている。公的な場とはいえ、普通は「久しぶりに再会した夫婦の会話」をあまり邪魔しすぎるのも良くないと配慮するものだが、町の人々はむしろ(おそらくはイアンの噂を知っているが故に)酒の席でこの二人に会話をさせないように「配慮」して、ヴェラを取り囲んでいるようにも見える。
 そんな中、イアンはトオヤに話しかけてきた。

「レア姫の救出に加えて、テイタニアの魔獣も問題の解決するとは、なかなかの活躍ぶりだな」

 イアンは七男爵の若手組(イアン、ファルク、ロートス、ユーフィー)の中では最年長であり、騎士団内での「青年団長」のような立場であるため、若い騎士達に対しては、このような形で気さくに話しかけることが多い。

「聞いた話によると、レア姫様の護衛として各地の諸侯を回っている、とのことだが」
「えぇ」
「しかし、本来ならば君は、ゴーバン殿下を推すべき立場だろう? そんな君がレア姫様を推すことを騎士団長様が認めたのは……、おそらく、君がレア姫を娶るということが前提になっているのではないかと思うのだが、まず、そこをはっきりさせてくれないか?」

 アンナも同じことを言っていたように、実際のところ、ヴァレフール内でもそう考えている人は多い。イアンの場合は、ある意味で『似たような立場』だからこそ、その点が特に気になるのであろう。彼としてはこの「酒宴の席」を利用して、トオヤの本音を聞きたいらしい。

「私としては、君が一人の男性として彼女を支えていく覚悟があるなら、君達を応援しようと思う。しかし、そこがはっきりしないのであれば、今の時点では次の後継者候補に関して何も言えない。レア姫様が継ぐことに異論はないが、結局のところ重要なのは、誰がその夫になるか、ということだ。王族の、しかも継承権を持つ女性を娶るということは、相当な重圧だろう。おそらくその重さは、私の時とは比べ物にならない。今の君に、それだけの覚悟があるのか? あるいは、この私の憶測自体が間違っているのか?」
「確かに、それはイアン様のお立場ならではのご意見だとは思いますが、少なくとも今の僕の立場では、レア姫様の結婚については何も聞いていませんので、何とも答えようがありません。僕が彼女を推す理由は、彼女ならばヴァレフールを治めていくことが可能だと思ったから。それだけです」
「ならば、少々意地の悪いことを聞くが、ヴェラに比べてレア姫が優っている点はどこだ?」

 現実問題として、動乱の続くブレトランドの現状を考えれば、まだ幼いレアではなく、騎士として実績のあるヴェラが継承すべきだという声は根強い。イアンは決してヴェラの戴冠を望んでいる訳ではないが、レア個人にそこまでの評価を下すのであれば、確かにその根拠は確認しておくべきだろう。

「そうですね……、『背負う覚悟』が既に出来ているところですかね」
「なるほど。確かに、ヴェラは自らその任を放棄した身だからな。では、あの姫君は既にその覚悟が出来ている、と?」
「えぇ」

 実際には「本物のレア」の中でどこまでの覚悟が備わっているのか、今のトオヤには確認の仕様がない。だが、真相を知らないイアンとしては、ここまで断言されたら、その言葉を信じるしかないのである。

「ならば、これ以上は君に対してではなく、姫様自身に聞くべきことなのだろうな」
「えぇ、それに関してはレア姫様と直接お話しして頂いた方がよろしいかと」

 そう言ってトオヤは、会場の反対側で町の人々相手に会釈をしている「レア」に視線を向ける。その上で、彼はイアンの顔色を伺いながら、「聞きにくい話題」を切り出した。

「ただ、その前に、失礼ながら一つ気になる点と申しますか……、最近、イアン様のご様子がおかしいという話をお伺いしたのですが……」
「そう思う者がいるのであれば、そうなのだろう。少なくとも、そう思わせてしまったことは事実なのだろうな……」
「はぁ……、では、あまり体調などが優れないという訳ではないのですか?」
「そうだな。体調は問題ない。体調はな……」
「それ以外に何か?」
「いや、それは、その……」

 先刻までの強気な口調から一転して、イアンは動揺した心境を露呈する。むしろ、この話を切り出されないように、強気な姿勢でごまかしていたらしい。その様子を確認した上で、トオヤは思い切って、この場で「現状の事態の深刻さ」を伝える決意を固める。

「人様の人間関係について、あまり口出しするのはどうかと思うのですが……、ヴェラ様は、鞘を握り潰していました」
「鞘を……、どういうことだ、それは!?」

 唐突に「その話」だけを告げられてもイアンに理解出来る筈もなく、彼は露骨に動揺した様子を見せる。

「まぁ、なんといいますか、『おかしな噂』がたまたまヴェラ様の耳に届きまして……、その時、左手に持っていた剣を握りしめた時に、何度か力を込めた結果、砕けてしまったようで」
「噂……、噂か……、そうか、噂が立っていたのか……」

 それが何の噂なのかは、さすがにイアンも察しがついているらしい。

「まぁ、そのあたりは、なんと言いますか、若造の戯言ではありますが、イアン様が話したくないのであれば仕方がありませんが、ヴェラ様に対して『誤解』を与えているのであれば、きちんと話さないまでも、『誤解』であることは伝えた方がよろしいかと。話さないと、人間というものは、与えられた情報から、おかしな結論に至ってしまう生き物ですから」

 自分の両親のことを思い返しながら、トオヤはそう助言する。そしてトオヤ自身、まだ母親から「真相」を聞かされていないからこそ、自分にまつわる「噂」の真偽が分からぬまま、今も悩み続けている。

「そうだな、確かにその通りだ……」

 イアンは素直にその言葉を受け入れた上で、ふと「あること」を思い出す。

「そういえば、君の契約魔法師は、確か召喚魔法師だったな……」

 そう言って、彼は一瞬チシャを見るが、チシャも遠目に二人の様子を見守っていたので、必然的に彼と目が合う。そして次の瞬間、イアンはすぐに目をそらした。

(うーん、私、やっぱり避けられてますかね……?)

 イアンは(昔はともかく、少なくとも今は)社交的な人物として知られているが、なぜか前々から、チシャに対してだけは、常にどこかよそよそしい態度を取り、あまり声をかけようとはしなかった。

「チシャがどうかしましたか?」
「あ、いや、召喚魔法に関して、少し助言をもらいたいんだ」
「そうですか? その程度でしたら、おーい、チ……」
「いや、後でいい。この晩餐会が終わった後でいいから、私の執務室に彼女と一緒に来てくれ」

 そう言って、イアンは話を切り上げ、トオヤの元から去って行った。どうやら「この場」では聞けない話らしい。
 一方、カーラは剣を包装し、リボンを巻いて、抜く気がないことをアピールしつつ、部屋の隅の方で部屋全体を観察している。「自分自身」である大剣を消し去ることが出来ない以上、いくらそれを装飾包装でごまかしたところで、華やかな晩餐会の場にはふさわしくないことは分かっていたので、今の彼女に出来ることは、極力「自分の存在感を消すこと」しかなかった。
 そんな彼女は、トオヤとイアンの会話が終わったのを確認した上で、今度は「レア」に視線を向ける。彼女は彼女で、「次期伯爵候補」という意味ではこの場の誰よりも好奇の視線に晒される立場であり、必然的に、サンドルミアでの思い出話などについての質問攻めにあっていたが、ある意味でトオヤよりもこの種の空気に慣れている彼女は、当たり障りなく無難に答える。そして当然、貴婦人達の中には「あの話題」についての質問を投げかけてくる者もいた。

「ところで、トオヤ様とはどのようなご関係で?」
「もちろん、好感は持っていますとも。私が危なかったところを助けてくれた方ですから。その縁もありまして、こうしてヴァレフールを回るにあたって、護衛をお願いしている訳です」
「どうですか? その、一緒に旅をなさっていて、トオヤ様の印象などがまた変わったり、また改めて見えてきたものとか……」
「本人に言うと怒られるかもしれませんが、少し間の抜けたところもあったりして、そういうところは一緒に旅をしてみないと分からなかったことでしょうね」

 そう語る彼女の口調は、微妙に嬉しそうな声色であった。そしておそらくそれは「レアとしての演技」ではなく「彼女自身の感情」の発露なのだろう。
 こうして晩餐会が進む中、相変わらずイアンとヴェラは微妙によそよそしい様子であったが、やがてヴェラがイアンの元へ向かい、そして初めて声をかける。

「すまない、まだ少し身体が疲れているようなので、早めに上がらせてもらおう」

 実際、彼女の顔色はよくない。長旅の疲労もあるだろうが、おそらくは晩餐会直前まで散々ワインを飲み明かしていたこともその一因だろう、とカーラは推測していた。

「では、今夜のところは、この辺りでお開きにしようか」

 イアンはそう言って、そのまま晩餐会は粛々と解散となった。町の人々はヴェラの体調を気遣いつつ、静かに退室していく。そしてトオヤも、イアンがまだ後片付けの指示のために会場に残るであろうことを見越した上で、ひとまず自分の部屋に集まるように三人に告げて、その場を去るのであった。

3.2. 虚像の使い魔

 トオヤの部屋に集まった三人のうち、まずカーラに対して、トオヤは提案する。

「カーラ、一つ頼まれてほしいんだが、ヴェラ様の様子を少しみていてもらえないか? まだ不安定かもしれないし、やけ酒で変なことをするかもしれないし……」
「うん、分かった。ただ、もし、酒の勢いでイアン様のところに突撃することになったら、その時は許してほしいな」

 カーラとしては、どんな形であれ、ヴェラとイアンが直接話し合う機会が必要だと考えていた。無論、刃傷沙汰になるのは困る訳だが。

「あぁ、うん。その程度なら。とりあえず、俺とチシャがこれからイアン様の部屋に行くから、何かあったら止める。で、『レア』をどうするかなんだが……」

 ヴェラから見れば、レアは「姪」なので、カーラと一緒に彼女がついて行った場合、叔母としての体面もある以上、どこかギクシャクした空気になってしまうだろう。かといって、呼ばれてもいないイアンの方に、彼女がついて行くのも不自然である。しかし、トオヤとしては、彼女を一人にしておくと、また勝手に「危険な行動」に走りそうなので、どちらかと一緒に行動していてほしかった。

「じゃあ、これでどうかな?」

 彼女はそう言うと、小柄な人間ほどの大きさの「二足歩行の猫」の姿に変わる。シルクハットをかぶったその姿は「少し大柄なケット・シー」のように見えた。

「『チシャの使い魔』ってことで」

 確かに、チシャが召喚魔法師であることを前提とした会談の場であれば、「助手」のような形で使い魔を連れていても、そこまで不自然ではないだろう。こうして、カーラ以外の三人(二人と一匹)はイアンの執務室へと向かうことになった。

3.3. 譲れぬ矜持

 トオヤ達が到着すると、イアンは深刻な表情で彼等を部屋に迎え入れ、周囲に人がいないことを確認した上で、扉を閉める。そして彼は、おもむろにチシャに対して問いかけた。

「一つ聞きたいんだが、自然発生した投影体を、魔法師の力で『強制送還』することは出来るのだろうか?」
「……出来る人もいますが、私は出来ないです。すみません」
「そうか……。いや、それはこちらが一方的に言っているだけのことだから……」

 彼は目を逸らしながら、そう答える。やはり彼は、チシャに対しては、なぜかその顔を直視するのが苦手らしい。

「それが何か?」
「いや、その、この城に厄介というか、扱いに困る投影体がいてね……、それをなんとかする方法が無いかと思ったんだが……」
「扱いに困っているということは『エーラムの認定を受けていない投影体』ですか?」
「そうだな……。これは、一度、ちゃんと聞いてもらった方がいいかもしれない」

 イアンは意を決して、今の自分を取り巻く状況を、彼等に語り始める。

「この城には、何百年も昔から投影体が出現する。その投影体は人間に対して、『益』ももたらすし、『害』ももたらす。その投影体は、この城の城主が『力』を望んだ時にこの城に現れ、そして城主に『力』を与える」

 どうやらここまでの話を聞く限り、やはり「城に取り憑いているリャナンシー(もしくは、それに類する何か)」という認識で間違いはないらしい。

「かつての『若き日の私』と、そして『今の私』の弱さが、その投影体を招き入れてしまった。それを何とか強制的に『異界に送り還す』方法はないかと思ったんだが……、無理であれば仕方がないし、そもそも、この国の恩人にこれ以上頼るべきではないな……。ありがとう、あとは、私自身の手でけりを付ける」

 そう言って彼はトオヤ達に退室を促しつつ、部屋の奥の壁に掲げてある剣を手に取った。

「それは……、その投影体を討ち果たすということですか?」

 トオヤがそう問いかけると、イアンは自分に言い聞かせるように答える。

「そうだ。それが君主である私の本来の使命だ。それを怠って、自らの弱さをごまかすために、あの魔物の力に頼ってしまった。そんな私自身を断ち切るためにも、この手でケリをつける」
「確かに、君主の使命は混沌を鎮め、人々の平和を守ることではありますが……、今のイアン様では、その剣に『迷い』が生じるのでは?」

 その言葉に、自分の心を見透かされたような動揺を覚えたイアンだが、それでも彼は、もう引くに引けない心境になっていた。

「そうかもしれない。だから、もし私がその迷いを断ち切れずに、もし打ち損じて、万が一にも命を落とすことになったら……、その時は申し訳ないが、ヴェラを連れてどこか他の都市に救援に行ってくれ。そうだな……、ファルクがいいだろう。イェッタのファルクに、救援を頼む」
「……分かりました、とは言えませんね。少々勝手が過ぎませんか」
「そうだな。勝手は百も承知だ。こんなことを君達に……」
「いえ、私に対してではなく、ヴェラ様に対して、勝手が過ぎませんか?」

 その言葉は、イアンの胸に深く突き刺さる。しかし、だからこそ、彼はここで決意を曲げる訳にはいかなかった。

「ヴェラを巻き込む訳にはいかない。これは全て私の弱さが招いたことだ。ここで討ち果たせないようでは、私は彼女の夫たる資格はない」
「まず、そこが少し……、いえ、結婚もしたことがない若造が言っても仕方ないかもしれませんが……、ヴェラ様は決して弱い方ではないですし、あなたが助けてくれと言ったところで、あなたのことを不甲斐ないとか情けないとか詰ったりはしないでしょうし、それは恥ずべきことではないのでは?」
「これが『普通の投影体』が相手であれば、そうだろう。だが……、君がどこまで事態を把握しているかは知らんが、彼女に全てを話す訳にはいかない。全てを話さなくても済む状況にするためには、ここで私がケリをつけるしかない。くだらぬ男の見栄だと言うなら、その通りかもしれない。だが、君も男なら、その気持ちは分かってもらえるのではないか? 男には、どうしても自分の手でケリをつけなければならない時があるのだ」
「確かに、それは分かります。人には他人に話したくないこともある。それも分かります。だからと言って、今のヴェラ様に向き合わずに勝手に死んだのでは、あまりにヴェラ様が哀れです。一人で向かうなら、せめてヴェラ様に何か言ってからにすべきでは? 僕に言伝を頼んで、逃げるように一人で戦うというのなら、それは君主としてというよりも、人として卑怯じゃないですか?」
「……向き合うことが彼女の心に傷を残さぬと確信出来るのであれば、そうだろう。だが……」

 イアンはしばらく考え込み、少し冷静さを取り戻した上で、話を続ける。

「君はさっき、ヴェラのことを強いと言った。確かに彼女は強い。少なくとも私よりは強い。精神的な意味での強さでは、私とは比べるべくもないだろう。だが、それでもおそらく、君達が思っているほどは強くない。それだけは、夫の私が自信を持って言える。だから、これ以上、彼女の心を蝕みたくはないんだ。勝手は百も承知だ」
「そうですか……。失礼なことを色々申し上げてすみませんでした。ただ、『あなたとその投影体の関係』も『あなたとヴェラ様の関係』も知らない者が色々言うのはどうかとは思いますが、『向き合う機会』を失ってしまってからでは、本当に遅いのですよ。俺には、『向き合う機会を失ってしまった人』がいますから……」

 それが自身の父親のことだということは、イアンには伝わらないし、イアンもそれが誰のことを指しているのかを、ここで確認するつもりはない。
 ただ、トオヤとしては、イアンがあえてチシャに「強制送還」という選択肢の可否を訪ねたことから、イアンの本音としては、その投影体のことを「出来れば殺したくない」と思っているのではないか、と推察していた。それ故に、仮にイアンが強引に気力を振り絞ってその「リャナンシーと思しき女性投影体」を倒したとしても、心のどこかに何かが引っかかる形になってしまうのではないか、という心配もあった。だからこそ、今のイアンには、あまり「無理」をしてほしくなかったのである。

3.4. 取り戻すべきもの

 イアンの部屋でそんな押し問答が繰り返されている頃、カーラはヴェラの部屋へと辿り着き、扉の前で聞き耳を立ててみたところ、中からは「静かな寝息」が聞こえてきた。どうやら、酒と疲労の蓄積で、疲れ果てて熟睡しているらしい。
 その状況にカーラが一安心したのも束の間、近くの廊下を誰かが歩いて近付いて来る音が聞こえる。彼女が視線を向けると、そこに現れたのは「紅の楽士」であった。

「おや、これはオルガノンのお嬢さん、こんばんは」
「こ、こんばんは……、なぜ、このようなところでお会いするのでしょう?」

 さすがに、ここでこの男が現れるのは、彼女の中では全くの想定外であった。

「それはこちらも聞きたいところではあるのだけど、その扉の奥にいるのがここの城主殿の奥方、でいいのかな?」
「……そうです」
「君は、ここで奥方の護衛をしているのかな?」
「護衛というか……、今回は晩餐会の途中でヴェラ様が体調を崩されたので、心配になって来たのですが……」
「なるほど。それなら、しばらくここで彼女を看ておいてやるといい。ちょっと騒がしいことが起きるかもしれないけど……」
「騒がしい?」
「いくら姫将軍と言われていても、美しい貴婦人が争いに巻き込まれるのは、僕は望まないから。もちろん、それは君も含めてのことだ。ここを動くんじゃないよ、絶対に」
「なぜ『それ』をあなたがご存知かを伺ってもよろしいですか?」

 明らかに警戒した様子で、カーラは楽士を見つめる。

「そうだね……、これは、あまり貴婦人達に話すべきことではないんだがな……」
「女性として気遣ってくれてるのは分かりますが、私は武人ですから。気にせず言って下さい」

 彼の中では「武人か否か」は「女性か否か」に比べて極めて些細な問題でしかなかったのだが、話さないと見過ごしてはくれそうになかったので、遠回しに語り始める。

「僕は、取り戻すべきものを取り戻すために、ここに来た」
「取り戻すべきもの?」
「最初は、彼女が望んでいるのであれば、今のままでもいいかと思っていたんだが、どうもそういう訳ではないらしいのでね。もう一度『あの時』と同じことをしなければならなくなった。君は、この街の住人ではないのだろう?」
「えぇ、まぁ……」
「それならなおさら、関わる必要はない」
「彼女とはもしや、『クーンの魔物』と呼ばれている『この城の投影体』ですか?」

 それに対して、彼は肩を竦めて答える。

「ひどいアダ名だよなぁ、まったく。『彼女』が何をしたというんだ」
「千年くらい前から、変死をする城主が絶えないという話を聞いていて、それが魔物のせいだという伝説があるのですが……、では、その魔物と呼ばれる存在は『女性』なのですね?」
「あぁ、そうだね。だが、それは彼女のせいじゃない。ただ単に、男の側に甲斐性が足りなかっただけだ。今のここの城主はそれなりに漢気のある人物だとは聞いていたけど、色々調べてみると、そうでもないらしい。ならば、このまま放っておく訳にはいかない」

 穏やかな口調ながらも、その話している内容が明らかに不穏であることを実感したカーラは、思わず口調を荒げる。

「その女性は、リャナンシーか?」
「この世界の分類では、そういうことになるのかな」
「なるほど。イアン様は対価を払って願いを叶えてもらったのに、それをイアン様が鬱陶しがっている、という状態ですか?」
「端的に言ってしまえば、そういうことになるだろうな。まぁ、男は身勝手なものさ。だから、彼の身勝手を責める権利は僕にはないのかもしれない。ただ、彼が自分の身勝手を押し通すつもりならば、こちらもこちらで、男として通すべき筋を通す。それもそれで身勝手というのであれば、僕はその身勝手を通す」

 そこまで言ったところで、彼は唐突に話題を変える。

「そういえば君は『ネネの娘』と一緒にいたね」
「チシャお嬢のことですよね? はい」
「彼女は、どこまで事情を知っている?」
「この件のことについて、ですよね?」
「この件と自分が、どう関わっているかについて」

 唐突に想定外のことを聞かれたカーラは困惑する。

「この件が、チシャお嬢に何か関わっているのですか?」
「彼女自身が関わっているという訳ではないんだが……、ネネが何も言っていなかったなら、言うべきことではないのかもしれない」
「教えて頂けるなら教えて頂きたいところですが」
「じゃあ、教えたら、彼女と君は今回の件にかかわらずにいてくれるかな? 僕としては、ここの奥方にも君にも関わってほしくないが、一番関わってほしくないのは、実は彼女なんだ」

 なぜ彼がそう思うのか、カーラにはさっぱり分からないが、現実問題として、既にチシャはイアンの部屋にいる筈である。この男がイアンに対して危害を加えようというのであれば、もはや彼女をその場から遠ざけるには手遅れであった。

「その条件を飲むことは難しいので、『はい』とは言えないですね。なにしろ私達のあるじは、なかなか情が深い方で、イアン様とヴェラ様の件も心を痛めている様子でしたから、あるじが首をつっこむとなると、チシャお嬢は一緒に行動することになると思いますので」
「あぁ、そういえばあの青年騎士君、さっきここの人達から聞いたんだが、名前を『トオヤ』というらしいね」
「はい、そうですが」
「もしかして、彼はプリスの息子か?」
「あるじの母君は、確かにそのような名前ですが……」

 カーラはこの男が「トオヤの母の浮気相手」の容疑者でもあることは聞かされていない。

「それなら尚更、君達全体に関わらないでほしくなったな」

 二人がそんな問答を続けているところで、どこからともなく『男性達』の声が聞こえてきた。

「もうこれ以上、話しても無駄だよ」
「俺達がここの城主を倒せば、それで済む話だ」
「他の奴らには手を出さん。それでいいな?」

 彼等の声に、カーラは全く聞き覚えがない。そして、どこにも「人の気配」が感じられない。 カーラが困惑する中、楽士は周囲を見ながらポツリと呟く。

「もうしばらく黙っててほしかったんだけどな……。まぁ、仕方がないか。これ以上モタモタして、『取り返しがつかないこと』になっても困るしね」

 彼はそう言いながらヴァイオリンを構えて、静かな音色を奏で出す。それに対してカーラは剣を構えるが、それとほぼ同時に、二人の間に「次元の扉」が開く。どれが空間転移のための扉であることは、カーラには察しがついた。

「ごめん、ここでこれ以上君が動くと、このまま君を無事にこの街から出してあげられる自信がない」
「……どうせ行くところは分かっているから、追いつきますよ」

 彼女はそう言うが、その直後、楽士の背後から、三人の「人型の魔物」が現れる。一人は狼男、一人は半魚人、そしてもう一人は、大柄な機械人形であった。彼等のうち、狼男と半魚人は楽士と共に次元の扉の中へと消え、その場には大柄な機械人形だけが残り、カーラの前に立ちはだかる。

(この体格なら、足は遅い……、さっきの話を聞く限り、ヴェラ様が狙われることはない……)

 そう判断したカーラは、正面からその機械人形に向き合おうとはせず、あえてイアンの部屋とは反対側の方面に向かって走り出す。その行動に対して、その機会人形は追いかけるべきか判断に迷い、その場に立ち尽くした。
 カーラとしては、イアンの部屋に行く前に、まずトオヤの部屋に「武具」を取りに行く必要があったのである(状況的に、イアンの部屋にいるトオヤはどう考えても丸腰である)。
 その途中、彼女は城の衛兵とすれ違った。

「おや? 確かトオヤ様の……」
「ヴェラ様の前になんか変なのがいるから、よろしく! あと、イアン様のところでも何かあるかも!」

 慌ててそう伝えた彼女だが、その意図が兵士にどこまで伝わったのかは分からない。ただ、今はとにかく、あるじに一刻も早く武具を届けなければならない、そんな決意を胸に秘め、夜の城内を疾走するカーラであった。

3.5. 古城の夜は真紅に染まる

 イアンの部屋でトオヤとイアンの言い争いが続く中、扉の外から、誰かが廊下を走って近付いてくる音が聞こえてくる。足音からして、明らかに複数人であった。

「何があった?」

 そう言ってイアンが扉を開けようとしたが、その前に部屋の外から響き渡る轟音と共に扉が破壊され、その破片が飛び散ると同時に狼男がイアンの前に立ちはだかり、そしてその背後からは半魚人と「紅の楽士」が姿を現した。

「なんだ、お前達は!?」

 咄嗟に剣を構えたイアンがそう叫ぶと、後方から紅の楽士が、鋭い眼光をイアンに向けながら言い放つ。

「俺はローラを救うためにここに来た。お前が生きている限り、彼女はお前から離れることは出来ない。ならば、お前を倒して彼女を解放する!」

 その声色も口調も、レアやカーラを口説いていた時の楽士とは明らかに異なっていた。相手が男だからなのか、それとも本気で怒っているからなのか。  

「待て、それは一体、どういうことだ?」

 イアンの横からトオヤが口を挟む。この時点で、そもそもトオヤには「ローラ」が何者なのかも分かっていないが、楽士はその点については分かっているものだという前提の上で答えた。

「ローラには、遥か昔から、この城の主に尽くす『制約』が掛けられている。この城の主が彼女の『力』を求めた時だけ、この城に現れる。お前達は彼女を『魔物』と呼ぶが、彼女はこの城にとっては、むしろ『守護霊』なのだ」

 ここまで聞いた上で、ようやくトオヤとチシャも、彼が言うところの「ローラ」が誰なのかを概ね理解する。

「だが、その男は、自ら彼女を呼び出したにもかかわらず、自分の都合で彼女を虐げようとしている。『四十年前のあの男』と同じように。だから俺もあの時と同じように、俺がこの城の主を倒し、俺が新たな城主となる。そうなれば彼女はこの城の守護妖精として、あるべき生をまっとう出来るようになるだろう。この男が『彼女の主』にふさわしい男ならば殺す必要もない。だが、自分の都合と保身のために彼女を苦しめるような男を、俺は許す訳にはいかない」

 イアンを睨みつけながら楽士がそう語るが、そんな彼に対して、茶化すような口調で狼男が割り込む。

「なぁ、大将、そんなこと言ってるけど、要は此奴にムカついてるだけだろ? ムカついてるからぶっ殺す、それでいいじゃないか。いちいち難しいこと言わなくても」

 それに対して楽士は否定も肯定もせぬまま、トオヤに向かって言い放った。

「お前達はこの城とは関係ない。だから、今すぐこの城から立ち去れ」

 これに対して、トオヤよりイアンが口を開く。

「お前達が何者かは知らんが、お前達に言われるまでもなく、お客人を巻き込むつもりはない」

 そもそも、今は三人とも完全に丸腰である。特に、重装備を着こなして味方の盾となることを本懐とするトオヤにとっては、この状況では戦おうと思っても本領が発揮出来る状態ではない。

「とはいえ、イアン殿を殺しに来たのなら、相手もそれなりのものを用意してる筈ニャ。僕等の助太刀がないと厳しいんじゃニャいかニャ?」
「さすがに、三対一はまずいですよね」

 それまでずっと黙っていた「ケット・シー」とチシャが、そう言ってイアンを後方から支援する態勢に入る。彼女達は能力の性質上、武具がなくても戦えないことはない。

「君達は、ヴェラのところに行ってくれ!」

 イアンはそうは言うが、そもそも壊れた扉の前に狼男がいる状況では、彼等を倒さなければ部屋の外に出ることも出来ない状態であった。
 そして、トオヤやチシャを巻き込みたくないと考えていた楽士も、さすがにここで彼等を外に出して増援を呼ばれるのはまずいと判断したため、速攻でイアンだけを倒すしかない、と腹を括った上で、ヴァイオリンを弾き始める。
 すると、彼の目の前に「やや大型の異形の蝙蝠(以下、大型蝙蝠)」が出現し、更にその周囲には小型の蝙蝠の群体が楽士を取り囲む。

「絶滅の時だ、喜べ!」

 大型蝙蝠がそう叫ぶと同時に、彼等は一斉にイアンに襲い掛かろうとする。だが、それより一瞬早く、「ケット・シー」が艶かしい動きを披露して彼等の視線を自分へと引き寄せて足並みを乱したところで、チシャによって召喚されたコカトリスが楽士と小型蝙蝠達に向けて石化の吐息を吹きかけた。この結果、小型蝙蝠達は一網打尽に出来たが、楽士の隣にいた半魚人が彼を庇ったことで、楽士は無傷のままヴァイオリンを弾き続ける(なお、この時点で、傍目にはチシャが二体の投影体を同時に従属体として操るという、通常の魔法師では不可能な離れ業をやっているように見えるのだが、そもそもそれが「通常の魔法師には不可能」だと理解出来る程に召喚魔法に通じている者は、幸いにもこの場にはチシャの他にはいなかった)。
 一方、狼男はイアンに対して激しく爪を立てて彼の身体を切り裂こうとするが、イアンはそれを華麗な剣技でかわしつつ、そのまま反撃に転じる。一方、大型蝙蝠もまた鋭い毒牙でイアンに食いつこうとするが、丸腰のトオヤが(聖印を力を自身の腕にかけて強化した上で)間に入って庇い、更にそこにチシャがオルトロスを瞬間召喚して大型蝙蝠の突撃の勢いを逸らしたことで、トオヤはかろうじて致命傷を免れた。トオヤは即座に魔法薬で傷を癒しつつ、体内に入り込んだ毒を除去するが、その身は激しく消耗させられており、この大型蝙蝠の攻撃をそう何度も素手で受け続けることは危険であることを実感する。
 そして、この状況でも楽士は構わずヴァイオリンを弾き続け、彼の周りに再び小型蝙蝠達が次々と召喚される。そんな中、廊下の外から新たに誰かが走ってくる音が聞こえてきた。

「ようやく!」

 それはカーラの声だった。だが、彼女が到着した時点で、扉の周囲には楽士と蝙蝠達が立ちはだかっており、部屋の中にいるトオヤに武器を届けるのは難しい。そんな中、自らの攻撃をトオヤに邪魔された大型蝙蝠は、楽士に対して申し訳なさそうに呟いた。

「旦那、すまん、俺、『あの女』嫌いだったんだ」

 大型蝙蝠はそう言って、その標的をトオヤに切り替える。トオヤは再び聖印の力でどうにか喰い止めようとするも、二度目の毒牙を完全に食い止めることは出来ず、深手を追う。トオヤは朦朧とした意識の中で、素手の拳で目の前の小型蝙蝠を一つずつ叩き潰しながら、カーラに向かって叫んだ。

「俺のことはいい! 先にお前がそいつらを倒してくれ!」

 せっかく武具を運んできてくれた彼女には悪いと思いつつ、この場を切り抜けるにはその方が確実だと彼は判断したのである。その言葉を受けて、カーラは楽士を守ろうとする半魚人へと斬り掛かるが、走りこみながらの一撃では、半魚人に致命傷を与えるには至らない。これに対して、半魚人は返す刀でカーラに逆襲の二連撃を試みるが、一撃目はトオヤが聖印によって生み出した壁と、チシャが呼び出したオルトロスによってどうにか食い止め、二撃目はカーラが奇跡的な反射神経で見事にかわしきる。
 一方、狼男はコカトリスの呪いの雄叫びで出足を封じられたところに、チシャが放ったウィル・オー・ウィスプの直撃と「ケット・シー」の幻惑攻撃によって重傷を負うが、それでもまだ倒れず、大型蝙蝠と共にイアンへの攻撃を猛攻を続ける。イアンはトオヤとチシャの援護を受けながら彼等の猛攻に耐えつつ、楽士に斬りかかろうとするが、今度は大型蝙蝠に庇われてしまい、その刃は楽士には届かない。
 そんな一進一退の攻防が続く中、楽士は突然、奏でる音色を一変させた。それまで小蝙蝠を呼び出していた不気味ながらも優雅な楽曲から、聞く者の精神を内側から破壊するような狂気の旋律へと一転し、トオヤ達は激しく苦しみ始める。
 このままでは状況が悪化する一方だと判断したカーラは、一気に勝負をつけるべく、自らの内なる力を全て解放し、自分の「本体」を巨大化させて、敵全体を一気に薙ぎ払う。既にそれぞれに深手を負っていた狼男と半魚人、そして大型蝙蝠を含めた蝙蝠群がまとめて一掃され、この場に残ったのは楽士一人となった。だが、既にこの時点でトオヤ達はほぼ気力体力ともに限界であるのに対し、彼はまだほぼ無傷の状態である。
 しかし、ここで楽士が「次の曲」を奏でようとする前に、一人の女性が現れた。「ローラ」である。

3.6. 二度目の「本気」

 トオヤもチシャもカーラも、彼女の姿を見るのは初めてであったが、美しい銀髪と色白の肌、そしていかにも男の欲情を掻き立てそうな体型から、彼女がリャナンシーであることは一目で察しがついた。
 そしてローラもまた、部屋の状況からすぐに事態を把握した上で、楽士に向かって叫んだ。

「もうやめて下さい、オトヤ!」

 そう言われた彼は、一旦ヴァイオリンを弾くのを止めた上で、ローラに問いかける。

「ここで引いたら、君はまだこの男に縛られ続けることになる。それでいいのか?」
「ここで城主様を倒しても同じことです。また四十年前と同じように、私がここを去っても、私の混沌核は『私』を保てなくなる」
「だから今回は、この城を去らない。俺がこの城の主となって、君を守り続ける。それではダメなのか?」
「無理です。この国全てを敵に回して、耐えきれる筈がありません。それに、四十年前とは違います。私は今の城主様に虐げられてなどいない。私が彼を困らせているだけなのです。ようやく巡り会えたから。あなた以外で初めて、ようやく本気で支えたいと思える人に出会えたから」

 彼女はそう言いながら、イアンに視線を向ける。その目は、一般的な人々が想像する「男を惑わす好色なリャナンシー」の瞳とは、どこか雰囲気が異なっていた。

「だから、ついこの人に対して無茶を言ってしまった。でも、この人は本来、私の力など必要としていなかったのです」

 彼女はそう言いつつ、イアンに対して申し訳なさそうな顔で語りかける。

「あなたは昔、私を初めて抱いてくれた時に言いましたね。隣町の若様のような『女性を魅了する輝き』が欲しいと。でも、私はあなたにそんな輝きは与えていません。私があなたに与えたのは、ただの自信です。あなたが自分にもともと備わっていた『自分自身の輝き』に自信を持てるように、暗示をかけただけ」
「な、なん、だ……と…………?」
「あなたはその後、様々な女性との関わりを経て、最終的には子供の頃からの念願であった『ヴェラ様の愛』を手に入れました。ところが、半年前、そのヴェラ様がいなくなったことで、ヴェラ様がもう帰って来ないかもしれないという恐怖から、再び心が揺らいでしまった。私はそんなあなたの怯えた心の叫びに応じて再び現れ、昔と同じように、あなたに抱かれながら、あなたの願いを叶えるふりをして、もう一度あなたに同じ暗示をかけました。しかし、それでも、あなたの心の闇は晴れなかった。なぜならば、私を抱いたことで、あなたの中でヴェラ様への罪悪感が湧き上がり、あなたの心はより不安定になってしまったのです」

 突然告白された真実にイアンが呆然とする中、彼女はそのまま語り続ける。

「私はその悪循環に気付いていました。しかし、それでも私は、あなたの近くにいたかったのです。あなたから『女』として求められる存在でいたかった……。でも、もういいです。やはりあなたにふさわしいのはヴェラ様。そして私はあくまでこの城を支えるリャナンシー。これ以上、無駄な犠牲を出したくはありません。これ以上、あなたを苦しめたくもない。40年経っても再び来てくれた彼がいるだけで、それでもう私は十分です」

 彼女はそう言いながら楽士に視線を向けるが、彼は目を合わせようとはしない。今の彼女の心が、自分以上にイアンに向いていることが、彼の中では納得出来ない、というよりも、納得したくなかったのかもしれない(もっとも、彼女がその心変わりに至るまでの間に、彼自身もまた幾人もの女性達を「本気」で愛してきた身である以上、彼女を責められる立場ではないことは自覚していたのだが)。

「出来ればもう、私のことを呼び出さないで下さい。次に呼び出したら、今度こそ、未練が収まらなくなりそうですから」

 彼女はそう言いつつ、最後にチシャに視線を向ける。

「あなたは、ネネの娘ですね。今、ネネがどこで何をしているのかは知りませんが、せめてあなたは生きていて下さい。あなたが存在し続けることが、40年前に私が見つけた愛が幻ではなかったことの、唯一の証なのだから」

 そう言って、彼女は姿を消し、その場に残った混沌核もまた、そのまま自然蒸散していった。

3.7. さまよえる地球人

「結局、俺はまた彼女を救ってやることは出来なかったのか……」

 楽士はそう言って去って行こうとするが、トオヤ、カーラ、「ケット・シー」の三人が、彼の退路を塞ぐ。

「待て!」
「説明してくれるとありがたいんですが……」
「諦めるニャ。ちゃんと説明しないと、こいつらは納得しないニャ」

 三人に問い詰められた楽士は、呆れたような諦めたような顔で答える。

「説明? 何が聞きたい? 私の恋の一つが今、終わった。それ以上の説明が必要か?」
「せめてチシャに、事実関係が分かるように説明してくれよ」

 トオヤはそう言いながら、ローラの最後の言葉に呆然としているチシャに視線を向ける。

「正直、何が何やら……」

 そんなチシャの様子を目の当たりにした楽士は、ため息をつきながら答える。

「何をどこまで知りたいかは知らないが、聞きたいなら聞かせてやろう」

 そう言って、彼はまず、「四十年前にクーンで起きた混沌災害」から語り始める。当時のクーンの城主であったダグラス・バーミンガムは野心家だったことで知られており、一般的には、彼が契約魔法師に命じておこなわせた不用意な魔法実験の失敗が混沌災害を引き起こしたと言われているが、彼はそれが捏造された歴史であると断言する。

「あれは、俺が起こしたものだ。ローラを救うためにな」

 当時の領主であったダグラスは、ローラが持つリャナンシーの力を、自分自身がより強大な君主となるために利用しようと考えていた。だが、リャナンシーが与えられる力にも限界があり、本人の「潜在能力」以上の力を与えることは彼女には出来ない。そのことを理解しないダグラスから際限なく力と身体を求められ続けた結果、彼女は毎日ただ無意味に虐げられるだけの日々を送っていた。
 そんな彼女の見るに耐えない姿に我慢が出来なくなったのが、たまたまこの地を訪れた通りすがりの地球人・オトヤ(音也)であった。彼はローラを救うため、混沌を呼び寄せる紅のヴァイオリンを用いて領主を倒し、その過程において混沌災害が発生したが、彼は構わずそのまま城を放置して、ローラを連れて逃げ去った(その後は史実通り、イアンの祖父ロジャー・シュペルターが混沌災害を平定して今に至る)。
 その後、二人は各地を転々としつつ、やがて二人の間には子供が生まれ、ネネ(音々)と名付けられた。だが、長きに渡って城を離れていたことで、「城の守護妖精」としての制約が掛けられていたローラの混沌核が徐々に弱まっていき、出産の直後に彼女はこの世界から消失してしまう。その結果、心に深い傷を負ったオトヤもまた、自身の混沌核が消散しかかっていることに気付いた。彼はこれまで何度もこの世界に出現し、様々な女性と愛を育み、その愛が消失すると同時にこの世界から消えて行く、という形で「出現」と「消失」を繰り返してきた存在であった(その意味では、本質的にはローラと類似した性質の投影体である)。彼はネネを、旅先で出会った友人の自然魔法師アルフレッド・リンフィールドに託し、この世界からひっそりと姿を消す。
 その後、彼は世界各地で幾度もの出現と消失を繰り返した後、18年前に再びブレトランドに現れる。自分の娘であるネネの行方を知ろうとアルフレッドに聞きに行ったところ、彼女は美しく成長し、伯爵家の侍女として宮廷に入り、騎士団長の息子の妻になったと聞き、その姿を一目見ようとドラグボロゥに忍び込んだ。そこで彼は、騎士団長の娘(ネネの義理の妹)であるプリスと出会い、互いに恋に落ちることになる。

「その後は色々あった。色々あったが、詳しいことはプリスから聞いてくれ。ただ、一つ言えることは、俺は最終的に彼女にフラれた。そして彼女にフラれたことで、俺は再び消失した」

 その後も幾度かの出現と消失を繰り返した後、最近になって再びこの世界に出現した彼は、当初は大陸各地を転々としていたが(その過程でサンドルミアにも立ち寄った)、大陸でネネと再会する。ネネは「宮廷の人々に素性を知られそうになったため、出奔した」と言っていたが、その「素性」が何を意味するのかまでは語らなかったという。そして、クーンの城にローラが再び現れたという噂を聞いて、この地を訪れるに至ったらしい。

「だから、ネネが今何をやってるのかは知らないし、俺がプリスにフラれた理由は、プリスに聞いてくれ。それくらいは、答えるのを拒否してもいいだろう」

 唐突に語られた壮大で身勝手な物語に一同は唖然とさせられるが、「ケット・シー」がひとまず話を整理する。

「簡潔に事実としてまとめると、アンタはチシャのお爺さんにして、トオヤの父親、ってことなのかニャ?」
「だったら良かったんだがな……」

 オトヤはそう言いながら、自重気味な表情を浮かべる。どうやら、この話はまだ完結していないらしい。

「……面倒臭いことだニャ」

 呆れた声で「ケット・シー」がそう呟いたところで、遂にトオヤが口を開く。

「結局のところ、『だいたいお前のせい』だよな?」

 40年前の混沌災害も、18年前の母親の不倫問題も、近年におけるチシャの母ネネの失踪も、そして今回の一連の騒動も、全てこの男の身勝手な行動が原因であるようにしかトオヤには思えなかった。それに関して、オトヤは肯定も否定もしなかったが、トオヤにとって一番重要な問題については、彼は明確に「真実」を突きつける。

「はっきり言っておくが、お前の父親は俺ではない。ただ、俺がいなければ、お前は生まれなかっただろう。それは紛れもない事実だ。だから、この世に生を受けたことを、間接的に俺に感謝するんだな」
「は!?」

 さっぱり意味が分からない。どう反応すれば良いのかも分からないトオヤに対して、「ケット・シー」はひとまず「今、為すべきこと」を提案する。

「トオヤ、こいつは一発殴ってもいいと思うニャ」
「あぁ。本当は、殴るべきは俺じゃないんだが、代表して俺が殴る!」

 そう言ってトオヤはオトヤの顔面に拳を突きつけるが、オトヤはあえて避けずに、そのまま殴られた。

「まぁ、今のはプリスに殴られたと思っておくか……。じゃあな、またそのうち会うこともあるだろう」

 彼がそう言うと、周囲に再び蝙蝠達が現れて、その蝙蝠に包まれるように消えていく。

「待て! まだもっと聞きたいことが……」

 トオヤはそう叫ぶが、彼はその声を無視して、そのままこの部屋から姿を消した。

3.8. 夫婦の問題

 この間、イアンはまだ一人呆然とローラの消えた後の空間を眺めていたが、そんな彼に対して、カーラが問いかける。

「イアン様、ヴェラ様にどう説明されるおつもりでしょうか?」

 その言葉で我に返った彼は、しばらく考え込んだ上で、改めて「覚悟」を決めた表情を浮かべる。

「……全てを話そうと思う。『彼女』がもう一度現れる可能性も全く無いとは言えないからな。仮に私が大丈夫でも、いずれ『私の息子』が同じ状況に陥る可能性もある。『将来生まれるであろう私の息子の母親』には、そのことは伝えておいた方がいいだろう」
「一発殴られることくらいは御覚悟して下さいね。相当抱え込んでいらっしゃったので」
「あぁ、何発でも殴られてやるさ」
「その覚悟があるなら、それが一番だニャ」

 こうして、全てが解決したかのような空気が広がったところで、カーラは重要な「未解決の問題」を思い出す。

「そう言えば、あの機械人形……!」

 カーラはそのことをイアンやトオヤ達に告げた上で現場に向かうと、そこには幾人かの倒れた兵士達と、寝間着姿で剣を片手に混沌核を浄化しているヴェラの姿があった。どうやら、部屋の前での兵士達と機械人形の戦いの物音で彼女は目を覚まし、そして最終的には彼女自身の手で機械人形を倒すに至ったらしい。

「ヴェラ、話がある。すまない、あとは私達だけで話をさせてくれ」

 まだ微妙に寝ぼけ眼だったヴェラは、そのイアンの一言で完全に目を覚まし、静かに頷き、彼を扉の奥の寝所へと招き入れる。その様子を確認したトオヤ達は、倒れた兵士達を治療しつつ、その場から静かに立ち去るのであった。

3.9. 古城の夜は二人を包む

「そういうことだったのか…………」
「あぁ、全ては俺の弱さが招いたことだ。そして結局、その弱さを克服しきれないまま、周囲の人々を巻き込み、あの前途ある若者達の前で醜態を晒し、そして何より、お前の心を蝕んでしまった。本当に、悔やんでも悔やみきれないし、いくら謝っても許される話ではないだろう」
「私にも責任はある。結婚したばかりの夫を放り出して、自分の実家の問題から逃げるように大陸に行ったのは、確かに私の身勝手だ。旅先での私の不貞行為を不安に思うのも当然だろうし、私を愛してくれているからこそ、お前がそこまで心を病んだのだろう。だから、私にはお前を責める権利はない。ただ、少しくらい怒る権利はあると思っている」
「お前が怒るのは当然だ。ただ、これだけは分かってほしい。俺は子供の頃からずっと、お前に憧れていた。それは紛れもない事実だ。だが、俺は自分に自信が持てなかった。子供の頃から歳下のファルクと比較され続けた俺は、ずっと自分に劣等感を抱いていた。聖印教会の連中がファルクとお前を結婚させようとしていたことも知っている。だから、どうしてもファルクを超えたかったが、俺は何をやってもあいつに勝てる気がしなかった。そんな俺に自信を与えてくれたのが、あのリャナンシーなんだ。彼女がいなければ、お前に求婚することなど、生涯出来なかっただろう。だからこそ、俺は彼女を心から憎む気にはなれなかった。そんな情けない男なんだ、俺は」
「私が怒っているのはそこではない。なぜその弱さを、情けなさを、私と共有しようと思ってくれなかったのだ? 私はお前に、万能の強さなど求めてはいない。お前の中に弱さがあるなら、それを支えていくのが妻の務めだろう? 私に弱さを曝け出すことが、そんなに怖かったのか? 弱さを曝け出せば逃げ出すような女だと思っていたのか? 弱さを支えきれないほど未熟な妻だと思われていたのか? いや、そう思われても仕方がないのかもしれないが、だが、しかし、それでも私は……」
「すまない、俺には、こんな自分を曝け出してなお、お前が俺の妻でいてくれるとは思えなかったんだ。お前が俺の妻でいてくれること自体が、今でも夢のようで、だからこそ、その夢はいつか覚めてしまうのではないかという恐怖に苛まれていた。だからこそ、リャナンシーなどという異形の魔物にすがってしまった……」
「異形の魔物か……。結局、私はこの目で見ることは出来なかったが、銀髪で色白で、愛らしい風貌の女性だったらしいな」
「……」
「正直、その話を聞いた時は、やはり、お前が本当は、私のような武骨な女ではなく、その『銀髪のリャナンシー』や例の『金髪の地球人』のような『守ってやりたくなる女性』の方が好みなのではないか、という思いが湧き上がってきた。だからこそ、私の中でも不安に……」
「俺は、他の誰よりもお前を一番に守りたいと思ってる! それも今も昔も、ずっと同じだ!」
「そ、そうか……。ま、まぁ、そう言ってもらえるのは嬉しいんだが…………。それで、その……、実際のところ、どうだったのだ? リャナンシーというのは……?」
「どう、とは……?」
「……抱いたのだろう?」
「…………あぁ。そのことについては、何度謝っても足りないとは思うが……」
「いや、そうじゃない。そうじゃなくて、その…………、私と比べて、どうだったのだ?」
「お、お前……、そんなこと、比べるような相手じゃないだろう!? そもそも人間じゃないんだぞ、あいつらは!」
「そういう逃げ口上はいい! いや、違うか、逃げ口上ではないか……、私を気遣って、そうやってごまかしてくれてるんだよな……」
「何を言ってるんだ、お前は?」
「いいんだ。私は正直なお前が好きだ。ただ、その、出来れば、気休めでもいいから、一人の女性として、私の方が『良かった』と言ってほしかっただけで……」
「お前の方が『いい』に決まってるだろ! この半年間、何度あいつを抱いたところで、お前の代わりになんてなる筈がない! お前以上に『女』として俺を満たしてくれる存在なんて、有り得る筈がない!」
「……そうか、何度も抱いたのか。てっきり、一度か二度だと思っていたんだが……」
「あ、いや、その、リャナンシーの能力というのは、その、恒常的に、吸い取られないと……」
「……すまん、せっかく、お前が私を慰めるために絞り出してくれた言葉だったのに、変なところで揚げ足をとってしまった。本当に、面倒な女だな、私は」
「お前を慰めるためじゃない! いや、もちろん、その、元気になってほしいとは思うが、そんな慰めとかそういうこと以前の問題として、本当に、比べ物にならないくらい、お前の方がいいと、俺は心の底から言ってるんだ!」
「そこまで言うなら、態度で見せてもらうぞ。この半年間、私がお前に会えずにいた淋しさを、今夜一晩で埋め合わせるつもりで、私を愛してみろ」
「それは無理だ……。今夜一晩で終わる訳がないだろ……。これからずっと、一生、毎晩、俺は全力でお前を愛し続ける。だから、もう俺を置いて勝手に出て行ったりしないでくれ、ヴェラ」
「……すまなかった、本当に」

4.1. 晴れやかな朝

 翌朝、トオヤの前に現れたイアンは、心身ともに激しく消耗した様子ではあったが、それでも表情はどこか晴れやかであった。その傍らに立つヴェラの満足気な雰囲気からも、どうやら二人の間で、納得出来る形で話はまとまったようである。

「今回は本当にありがとう。昨日は私も好き勝手に言ってしまったが、結果的に言えば、君が言っていたことの方が正しかったのかもしれないな」

 トオヤとの口論を思い出しながら、やや気恥ずかしそうにそう語るイアンであったが、それに対してトオヤは、なぜか自分の方が申し訳なさそうな気持ちになっていた。

「今回に関しては、ほぼ『あの災害みたいな男』が悪いので……」

 あの男は「俺はお前の父親ではない」と言ってはいたものの、母親と恋仲だったことは堂々と認めていた以上、どうしてもトオヤの中では「自分の身内」であるかのような印象が拭えない。一方、そんなトオヤの傍らでは、今回の件にほぼ関わることなく蚊帳の外だった(ことになっている)「レア」が笑顔を浮かべる。

「その騒動もなんとか一件落着したところだし、私としてはトオヤが活躍してくれたなら嬉しいよ。直接見ることは出来なかったがね。奇襲を受けたイアンを庇って、丸腰ながらも勇猛果敢に戦ったと聞いているが」
「あぁ、意外と、拳って当たるものなんだな」

 実際のところ、トオヤの拳が戦況に大きな影響を与えたとは言い難いのだが、それでも、今までほぼ防御一辺倒だった彼にとっては、自分の拳で幾匹かの蝙蝠を倒せたことは意外だった。
 そしてイアンは、チシャに対して申し訳なさそうな表情で声を掛ける。

「今まで、君に対しては冷たい態度をとってしまって、すまなかった。まさか君が『彼女の孫』だとは思っていなかったが……」

 どうやら彼は、チシャの立ち姿から、どこかローラの面影を感じ取り、それが彼の中のトラウマを引き起こしてしまっていたらしい。

「いえいえ」
「君の母親に関しては、何か分かったことがあれば、すぐに連絡する」

 イアンの本音としては、ネネもどちらかと言えば「関わり合いになりたくない存在」ではあるのだが、クーンの城主として、クーンの魔物が生み出した存在である彼女のことを、他人事だと切り捨てる訳にはいかなかった。
 一方、ヴェラはカーラに対して頭を下げた。 

「すまなかったな、色々と心配をかけて」
「いえ、幸せそうで何よりです」

 実際、顔を上げたヴェラの表情からは、迷惑をかけたことへの悔恨の念以上に、イアンとの心のわだかまりが解けたことへの歓喜の念の方が溢れ出てしまっていることを隠せない、そんな様子であった。
 その上で、イアンはトオヤ達に対して「七男爵の一人」として、改めてこう言った。

「今回は色々と君達には世話になった。いずれこの恩は返したいとは思う。ただ、私にも立場があるから、それが継承問題の時に返せるとは限らない」

 それに対して「レア」もまた「筆頭後継者候補」として率直に答える。

「私としても、恩義がどうこうで支持してもらおうとは思っていませんよ。私が伯爵位を継ぐことを決めたのは、まず第一にはヴァレフールの民の安寧のため。ですから、真にその恩に報いようと思ってくれているなら、真にこのヴァレフールの皆が幸せとなるような一票を、七男爵会議の時に投じて頂きたい。その対象が私でなくとも構いませんから」

4.2. それぞれの家庭

 その後、トオヤは客室へと戻る廊下の途中で、傍らのチシャに対して語りかける。

「チシャとしても、あいつに色々と言いたいこととかあったかもしれないけど、すまん、俺が殴ってしまった」
「まぁでも、トオヤが殴ってくれたから、気は晴れたかな。ありがとう」
「なんというか……、どうしようもない人だったな……」
「正直、あれが自分の祖父だとは、思いたくないかな……」

 そう呟くチシャであったが、彼とローラの話に一切の矛盾が感じられない以上、自分が本当に彼等の孫である可能性は極めて高いと考えていた。その場合、彼女は「4分の1」は地球人で、「別の4分の1」はリャナンシー、そして残りが「伯爵家の誰か」という、カーラ以上に複雑な血統の存在ということになるのだが、まだチシャの中には、それが自分の正体であるとは実感出来ずにいた。
 もっとも、地球人やリャナンシーのような「見た目がアトラタン人とほぼ変わらない投影体」の血は、公的な記録に残っていないだけで、実際には多くの人々の間に紛れ込んでいるという説もある。そしてトオヤもまた、自分の中に「地球人の血」が流れているという可能性を否定出来ずにいた。
 あの地球人は否定していたが、彼の名が「オトヤ」という、極めて自分とよく似た名であることからも、どうしても自分と無関係とは思えない。先刻のテイタニアでの騒動の家庭で、トオヤがリルクロート家の血を引いていることがほぼ確定したことで、レオンの息子である可能性が極めて高いという結論に至った筈であるが、その結論が揺らぐほど、彼の存在は強烈な印象をトオヤの心に残すことになったのである。

「いい加減、そろそろ母さんにも話を聞かなきゃいけないだろうし、いい機会にはなったかな」

 トオヤの母は今もタイフォンで一人静かに生活しており、話を聞こうと思えばいつでも聞ける。とはいえ、あまり人前に出ることなく、日頃から喪服に身を包んで、夫レオンの墓の傍らで静かに暮らしている彼女にそのような話を持ちかけることは難しい。
 そんな彼に対して、自分自身もまた「不倫の子」であるカーラは、自分と母親のことを思い返しながら助言する。

「親子の間でも、ぶっちゃけて話した方がいいこともあるよ」

 カーラはそう語りながら、クーン城の伝承について、今後は「魔物」ではなくて「守護妖精」として広めていくべきだろうと考えていた。もっとも、イアンの名誉のためにも今回の件を公に話す訳にはいかないし、少なくともネネの今の立場が明らかになるまでは、チシャが彼女の孫である事実も表に出す訳にはいかないだろう。オトヤが言うところの「宮廷の人に知られたら困る素性」の中身次第では、その事実は今後のチシャの社会的立場を大きく揺るがす可能性がある。

「あれ? そういえば『レア様』は?」

 トオヤもチシャもカーラも、さっきまで一緒にいた「彼女」の姿が、いつの間にかまた見えなくなっていることに気付く。いつも通りの「独断行動」にトオヤは不安と不満を抱きながらも、昨日の約束がある以上、きっと「危険な行為」には走っていないだろうと信じることで、どうにか平静を保とうとしていた。

4.3. 消えゆく「妹」

 その頃、トオヤ達やヴェラと分かれて、一人執務室に入ったイアンの前に「彼女」が現れた。

「やあ!」
「お前は……。えーっと……」
「リオラ! 忘れちゃった?」

 そう言って微笑む「ローラと似て非なる誰か」に対して、イアンは冷静に問いかける。

「本当にお前は、ローラの妹なのか?」
「そうだよ。姉さんの方とは話はついたみたいじゃん」
「あぁ……。もうこれから先は私は、君達の力は頼らない」

 ローラは(当然の如く)最後まで彼女のことを「妹ではない」と主張していたが、イアンにしてみれば、どちらにしても彼女の正体が不明である以上、少なくとも「リャナンシーか、それに類する何か」なのであろう、と推察していたようである。

「まぁ、私はあなたをどうこうしようとは思わないけどね。もし仮にそういう気を起こしたとしても、今のあなたが相手なら無理なんじゃない?」
「そうだな。今の私はどんな理由であろうと、妻以外と交わることはない」

 その目に宿った強い信念を感じ取った「リオラ」は、納得した表情を浮かべる。

「ふーん……、そこまで確固とした意思を持ってくれるなら、姉様も満足だろうね。リャナンシーもそれぞれ色々だから何とも言えないけど……、一説には、リャナンシーが人間に力を与えるのは、その人の『生き様』をみせてほしいからだとか、そういう話もあるそうよ」
「なんだか、他人事のような言い方だな」
「だって、姉様は姉様だし、私は私だし」

 小悪魔的な表情で飄々とそう語る「彼女」であったが、イアンは惑わされることなく、はっきりと言い放つ。

「まぁ、いい。君が本当にローラの妹なのかどうかも、そもそもリャナンシーなのかどうかも、どちらでもいい。重要なのは、どちらにしても、ここは『君の居場所』ではないということだ」
「分かってる、分かってる。じゃあ、私は『私の居場所』を探しに行くことにしましょうか。多分、もう会うことはないけど」
「出来れば私の子孫にも、もう会わないでほしいものだ」
「え〜?」

 おどけた表情でそう語る「彼女」を目の当たりにしたイアンは、それなりに本気で「自分の息子」が、リャナンシー姉妹(と思しき二人)に翻弄される未来図を想像し、内心青冷める。せめて子供達には、自分のこの「弱気な本性」は受け継がれないでほしい、彼がそんな想いに苛まれている間に、「彼女」は扉に手をかける。

「それじゃ、さよなら。私が姉さんと会うことも、もうないと思うけど、色々な意味で、姉さんのこともよろしくね」

 そう言って「彼女」は部屋を立ち去り、そして次の瞬間、そこには「ドルチェ」の姿が現れた。おそらくこれから先、「リオラ」を自分が演じることはもう無いだろう。彼女はそう思いながら、小声でボソッと呟く。

「結構、気に入ってたんだけどな、あの姿」

4.4. しばしの休息

 そして「ドルチェ」はトオヤ達の元へ合流する。何をしていたのかは、トオヤは(危険なことはしていないと信じて)あえて聞かなかった。
 一方、カーラは、トオヤがテイタニアを出て以来、一度も「甘いもの」の話を切り出さないことを不自然に思い、よほど緊迫した心境で今回の事態の解決に当たっていたのであろうと察した上で、珍しく自分から提案する。

「皆で、町に甘いものでも探しに行きますか?」

 すると、トオヤは満面の笑みを浮かべながら、懐から手紙を取り出した。

「いや、ちょうどさ、さっき、僕の客室にリチャードから手紙が届いてたんだよ」

 そう言って彼がその手紙を開くと、そこには「クーンの街の甘味処地図」が描かれていた。

「あ、通常運転だった……」
「まぁ、それがいつものトオヤってことだよ」

 チシャとドルチェがそう言って顔を見合わせる中、トオヤは彼女達を連れて下町へと向かう。飲食店街の中で、どの店から入ろうか迷っているトオヤの背後で、カーラは立ち並ぶ居酒屋の看板を眺めながら「しばらくはお酒はいいかな……」と心の中で密かに呟くのであった。

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最終更新:2017年09月24日 08:06