第1話(BS33)「思い出の残照」 1 / 2 / 3 / 4

1.1. 騎士団長と孫

 ヴァレフール伯爵領は、先代伯爵ブラギスの急死後、その聖印を引き継いだ長男ワトホートを中心とする「体制派」と、その継承を認めず先代伯爵の次男トイバルの遺児ゴーバンへの聖印献上を求める「反体制派」とに事実上分裂した状態が続いている(下図参照)。


 反体制派の中心人物であるヴァレフール騎士団長ケネス・ドロップスには、三人の子供がいた。長女プリスはケネスの直弟子であった騎士レオンの妻となり、次女シリアは上述のトイバルに嫁ぎ、長男にして末子のマッキーは先代伯爵ブラギスの妻レオリアの侍女であったネネを妻に迎えた(下図参照)。


 だが、唯一の男子であるマッキーは数年前に病死し、二人の娘婿が半年前の混沌災害で命を落とした結果、現状においてケネスの後継者候補の最有力と目されているのは、レオンとプリスの長男であるトオヤ・E・レクナ(下図)であった。


 トオヤは現在、17歳。死んだ父に代わり、現在はケネスの本拠地アキレスの南に位置する漁村タイフォン(下図参照)の領主を務めている。


 だが、彼が今の座に就くまでの経緯は、決して平坦ではなかった。彼の外見は、父であるレオンにも、母であるプリスにも似ていない。そして、プリスはレオンとの結婚を発表する直前まで「地球人の投影体」と恋仲だったと噂されていた時期があったため、トオヤにはその地球人の子ではないか、という憶測が常につきまとっていたのである。
 そのせいか、トオヤは父であるレオンとは子供の頃からどこか疎遠で、父を初めとする大人達全般に対して不信感を抱いていた時期もあり、騎士としての素養を疑われていた頃もあった。それ故に、一時は弟のロジャーが後を継ぐべきではないか、とも言われていたが、最終的にはレオンが「トオヤは自分の子である」と明言した上で、正式に自身の後継者として指名するに至った(現在、弟のロジャーは対アントリア国境に位置する長城線のジゼル村に出仕している)。
 だが、その直後、今度はトオヤが、父や祖父の実質的な主君筋であるトイバルに対して、その横暴な振る舞いを公の場で咎めたことで、トイバルからの勘気を被るという事件が発生する。直後に父のレオンがトオヤを殴り倒した上でトイバルに平謝りしたことで、ひとまず「聖印剥奪の上での謹慎処分」で済んだが、これでもう、トイバルの下ではトオヤが騎士として再起する可能性はないだろう、という空気が広がることになった。
 ところが、その後のテイタニアでの魔物騒動(ブレトランドの英霊6参照)においてトイバルが戦死し、その戦いでレオンもまた命を落としたことで、レオンの所領であったタイフォン村の領主が不在、という事態が発生してしまう。しばらくはレオンの遺臣達の手で村の運営は摂り仕切られつつ、ケネスによって派遣された傭兵騎士が仮の領主としての役割を果たしてきたが、その後のパンドラ革命派との抗争(ブレトランドの光と闇3参照)などを通じて多くの人材を失ったケネスは、先月、トオヤの謹慎を解き、聖印を再び与えた上で、タイフォンの領主に任命することを決定したのである。
 そんなトオヤが、謹慎を解かれた一月前の出仕以来、久々に祖父であるケネス(下図)から呼び出される形で、ケネスの本拠地であるアキレスを訪れていた。トオヤが複雑な思いを噛みしめながら、祖父であり上官でもあるケネスの執務室へと向かうと、ケネスは彼に対して、真剣な表情で語り始める。


「既に聞いているかもしれないが、レア姫が間もなくブレトランドに戻ろうとしている」

 レア姫とは、現ヴァレフール伯爵(ケネス達の立場から見れば「僭主」)ワトホートの次女であり、現時点で伯爵位の第一後継者と目されている少女である。歳はトオヤの二つ下にあたる15歳。ヴァレフールが内乱状態に陥る以前の子供の頃には、トオヤとも親しい関係にあった。彼女は5年前に父の命令により、大陸のサンドルミア辺境伯領に留学に行っていたが、ワトホートが伯爵位を継いだことで、予定よりも早く彼女の帰国が促されているという噂は、トオヤも聞いていた。

「そして、どうやらそんな姫様を攫おうと計画している者達がいるらしい」

 淡々とケネスがそう告げると、それまで無表情だったトオヤが、思わず声を荒げる。

「何だって!?」

 そのトオヤの反応から、彼がレアに対して「何らかの特別な感情」を抱いていることを確信したケネスであったが、ひとまずこの場はそのまま淡々と説明を続ける。

「この情報は『ヴァルスの蜘蛛』から得たものだ」

 「ヴァルスの蜘蛛」とはアトラタン大陸(およびブレトランド小大陸)全域に幅広い情報網を持つ諜報機関であり、その情報の正確さには定評がある。

「レア姫は、サンドルミアから海路でローズモンド伯爵領へと向かい、そこから船を乗り換えてオーキッド(ヴァレフールの首都ドラグボロゥの南に位置する港町)へと向かうつもりらしい。そこで、お前とチシャには、一足先にローズモンドに行って、姫が乗ろうとする船に『偶然』乗船してもらう」

 サンドルミアとヴァレフールの間には直接的な国交がないため、直航便も存在しない。ローズモンドはブレトランドの対岸に位置する(ヴァレフールと同じ)幻想詩連合所属の自由都市であり、両国を行き来する旅人達の中継点としてよく用いられる。
 なお、「チシャ」とはトオヤの契約魔法師の名であり、彼女もまた、ケネスの孫に相当する(詳細は後述)。

「誘拐犯達は、姫を攫うために船を乗っ取ろうと画策しているらしい。そこで、『偶然』そこに居合わせたお前が其奴等を倒した上で、姫の安全を確保するために、『偶然その近くの海域を航行していた我がアキレスの巡回艇』に乗っている魔法師に、チシャのタクトを通じて連絡を取れ。すぐに彼等が救援へと向かった上で、他にも誘拐犯が船内に残っている可能性を考慮して、レア姫を我々が保護する。誘拐犯達については、別に無理に殺す必要も、拘束する必要もない。適当に、海にでも放り込んでおけばいい」

 あくまでも「偶然」を強調するケネスであったが、その「偶然」をここまで綿密に打ち合わせている時点で、どう考えてもそれが「偶然」ではないことは明白である。トオヤはケネスの思惑を察しつつ、平静を装いながら淡々と答える。

「なるほどな」
「私が言いたいことは分かるな?」
「あぁ、大体は分かったよ。留守の間のタイフォンは、部下に任せておけばいいか?」
「タイフォンは最前線ではないからな。それほど気にする必要はないだろう」

 ケネスはそう言った上で、改めてトオヤの表情から彼の心理を読み取りつつ、話を続ける。

「レア姫は、今の我々から見れば敵対勢力ではあるが、レア姫自身に罪がある訳ではない。罪があるのは、あくまで『先代伯爵を毒殺してその座を奪い取ったワトホート』だけだ。そして、いつまでもワトホート派と冷戦状態を続けていることが、この国にとって望ましくないことも分かっている」

 ケネスがそこまで態度を軟化させるに至った最大の要因は、先日のパンドラ革命派との騒動における完全敗北なのだが、さすがにそのことを認める訳にはいかない。そして、そう簡単に自分達からワトホート派に歩み寄る姿勢を見せる訳にもいかない。それが政治というものである。

「ワトホート派との和解を進める上での最良の策は、我等がゴーバン殿下とレア姫との間で婚儀を結ぶことだと思う。まぁ、レア姫の方が少々年上ではあるがな。今回の件で、『偶然』お前達が彼女を助けて、『偶然』我々が彼女を確保することになれば、そのような形での縁談も進めやすくなるだろう」

 実際、レアとゴーバンの婚姻による和議を求める声は、体制派の内部にもある。だが、現実問題としてワトホートの持つ伯爵聖印をどちらが引き継ぐことになるのか、という点を明確化しないことには、そのような形での和平も成り立たない。そのための交渉を有利に進める上で、ワトホート側に恩義を売った上でレア姫の身柄を確保しておくことは、確かに重要な布石になると言えよう。
 トオヤはそのような祖父の思惑に対して内心で様々な葛藤を抱えつつも、自分の実直さ故に謹慎を申し渡された過去を思い出しながら、湧き上がる感情をひとまず抑え込み、返すべき言葉を選びながら、訥々と返答する。

「なるほど。まぁ、今回は、あなたの言う通りにしよう。私も、幼馴染が危険な目に遭うと聞いて黙っていられるほど、薄情者ではないからな。とはいえ爺さん、若輩者があんたに忠告するなんて身の程知らずだと思われるかもしれないが、一つ言わせてくれ」
「なんだ?」
「世の中には『策士策に溺れる』という言葉もある。そんな余計な策を巡らせる暇があるなら、もっと手っ取り早く和解を進める策を考えた方がいいのでは?」
「もっと効率良く話をまとめる策があるならば、献上するが良い。だが、今のお前に、これよりも有効な策があるというのか?」
「そうだな……、しいて言うなら、そろそろあんたは引退する時じゃないのか? あんたが引退することで、向こうも少しは譲歩出来るだろう」
「まぁ、そうかもしれん。問題は、退いた後、我等を束ねられる人物がいるかどうかだがな」

 ケネスはそう言って、改めてトオヤを値踏みするような視線で見つめる。それに対してトオヤは何も言わず、部屋を立ち去って行った。
 現在のヴァレフールにおける体制派と反体制派の対立の争点は三つ。一つはブラギス暗殺事件におけるワトホート派の関与疑惑だが、これについてはケネスの中ではあくまで「建前論」であり、それほど重要な主題ではない。
 むしろ重要なのは、騎士団内における団長ケネスと副団長グレンの、「聖印教会」との関係を巡る対立である。副団長グレンはワトホートの岳父であり、敬虔な聖印教会の信徒でもある。現在のワトホート派の中核にはグレンを中心とする聖印教会派の騎士達が多く、それ故に、神聖トランガーヌに対しても融和的であり、逆にエーラムとの関係はあまり深く無い。また、アントリア内の聖印教会派とも友好関係を結んであるが故に、対アントリア戦に対してもあまり積極的ではない。
 これに対して、ケネスを中心とする反体制派は、エーラムおよび大陸の幻想詩連合諸国との関係を重視しており、彼等の支援を受けた上で、神聖トランガーヌやアントリアと対抗すべきと考えている。つまり、実質的にはこの「対聖印教会(神聖トランガーヌ)問題」と「対大工房同盟(アントリア)問題」を巡る方針の違いこそが、両者陣営の最大の対立の争点なのである。
 トオヤとしては、混沌の有効利用すらも忌避するような聖印教会の考えには反対だが、現在のヴァレフールの分裂状態を回避するためには、一定の譲歩も必要だと考えている。その意味では、ケネスとは通じ合っている部分もあるが、国内の分裂状況を早期に解決しなければならない、という意識は、おそらくケネスよりも強い。
 そのために今の自分が成すべきことが、ケネスの今回の策に乗ることなのかどうかは分からなかったが、そのような政治的な事情とは別次元の問題として、今はレアを助けなければならないという気持ちが彼の中で高まっていた。なぜならば、彼の中ではレアは、子供の頃からずっと「特別な存在」だったからなのであるが、今はまだ、そのことをはっきりと口に出せる立場ではないことは、トオヤ自身が深く自覚していた。

1.2. 王子と魔法師

 トオヤが祖父ケネスの命令でアキレスに出仕していた頃、彼の契約魔法師であるチシャ・ロート(下図)は、その留守居役として、タイフォンの執務室で公務を淡々と片付けていた。


 チシャは、ケネスの唯一の息子であった故マッキー・ドロップスの長女であり、トオヤから見れば母方の従姉妹にあたる。歳はトオヤより一つ上の18歳。5年前に魔法師としての素養を見出されてエーラムに留学し、青の系譜の召喚魔法師としての修行を終えた後、トオヤの契約魔法師として帰国することになった。その直後にトオヤが上述の事件を起こして謹慎することになってしまったため、その立場は一時的に宙に浮くことになったが、彼の復帰を信じてタイフォンに留まって村の公務を続けた上で、先月の彼の騎士復帰に伴い、改めて彼の契約魔法師として、タイフォンの実質的な筆頭政務官に就任することになった。
 彼女はマッキーの子供の四兄弟の中では長子であり、ケネスの九人の孫達の中でも最年長だが、年下のトオヤに対して、あくまで「臣下」として仕えている。それが彼女の「契約魔法師」としての矜持なのかは不明であるが、彼女はトオヤに対して(少なくとも公の場では)基本的には敬語で応対し、彼を影から支え続ける。その献身的な姿勢は、多くの騎士達が羨む理想的な「良妻」の姿そのものであった。
 そんな彼女の元へ、意外な客人が現れた。先代伯爵ブラギスの孫にして、今は亡きトイバルの次男であるドギ・インサルンド(下図)である。ドギの母シリアはチシャの父マッキーの姉(トオヤの母プリスの妹)であるため、ドギもまた、チシャ(およびトオヤ)から見れば従兄弟ということになる。まだ9歳の幼年であり、チシャの父方の従兄弟(ケネスの孫)達の中でも最年少である。現在の反体制派にとっての「伯爵位正統後継者」であるゴーバン・インサルンドの弟ではあるが、生まれつき身体が弱く、また「聖印を受け取れない体質」であるとも言われているため、今のところ「伯爵位後継者候補」とは見做されていない。


「ねぇ、ちょっといいかな?」

 そう言って、ドギは侍女を伴って、執務室に入ってきた。彼は日頃は隣町であるアキレスの城で、兄のゴーバンと共に暮らしている。どうやらちょうどトオヤと入れ違いになる形で、このタイフォンへと訪問に来たらしい(両地の間は半日で移動出来る程度の距離である)。

「あら、ドギさん、どうしました?」

 チシャはそう言って、小さな訪問者を迎える。従弟とはいえ、主君筋の血統である以上、子供相手でも最低限の礼節を崩すつもりはないらしい。

「ひとつ、教えて欲しいことがあるんだけど」

 そう言って、彼は小脇に抱えていた一冊の本をチシャの前に差し出した。その表紙には異界の文字で「植物図鑑」と書かれている。どうやらそれは、先日殺された祖父ケネスの契約魔法師ハンフリー・カサブランカの遺品らしい。生前のハンフリーは、ドギの家庭教師も務めていたが、彼がパンドラの刺客の手によって暗殺されたことで(ブレトランドの光と闇3参照)、ドギが教えを乞える人物がいなくなってしまった。そこで、ハンフリーと同じ召喚魔法師であるチシャに話を聞くために、わざわざこのタイフォンまで訪ねてきたようである。
 さすがにまだ9歳の、しかも魔法師の修行をしている訳でもないドギに異界の文字が読める筈もないため、彼はハンフリーから断片的に聞いた知識を元に、その図鑑を広げつつ、そこに描かれた絵を見ながらにチシャに問いかけた。

「異界には、こんな木を育てて、その実を食べてる人達がいるらしいんだけど、同じ物をブレトランドで作ることは出来ないのかな?」

 そういってドギが指し示した先には、様々な異界の果物が描かれていた。特に彼が興味を示していたのは、その中でも「黄色い房」が束になった食べ物であり、それは一本の木から沢山の房が収穫可能で、効率良くエネルギーを摂取可能な果物である、とその本には記されている。また、その隣には、その実を好んで食べる生き物として、「黒い毛むくじゃらの人型の生き物」の姿も映っている。

(うーん、面妖な……)

 チシャはその生き物を見ながらそんな感想を抱きつつ、改めてその図鑑に描かれている文言を読みながら、それぞれの植物が育っている地域に関する説明の項目に目を通していく。ちなみに、チシャの契約相手であるトオヤは甘いものが好物なので、そんな彼に「糖分過剰摂取にならない程度の甘味」として果物を勧めたこともあるチシャは、こういった知識にも長けていた。

「そうですね……、この黄色い房の食べ物に関しては、このブレトランドの寒冷な気候で育てるのは難しいと思います。しかし、こちらの『赤くて丸い実』の木であれば、この辺りでも栽培は可能かもしれません。他にも……」

 そう言って、チシャが図鑑に載っている果物を一つ一つ説明していくと、ドギは興味深そうな表情でその説明に聞き入る。

「なるほど、やっぱり、それぞれの土地ごとに、合う、合わないの違いはあるんだね」

 ドギはそう呟きながら、教えてくれたチシャに対して素直に尊敬の念を抱きつつ、彼女のような博識な者が自分の周囲にいない現状を実感して、軽くため息をつく。

「死んだ父様も、爺様も、兄様も、考えるのは戦争のことばっかりで……、でも、国が栄えるために必要なのは、そういうことじゃないと思うんだ」

 国を守るために戦争が必要、ということはドギも分かっている。しかし、その戦争が引き起こされる最大の原因は、国と国の間にある「貧富の格差」であり、それを防ぐためにも、人々が飢えや貧困に苦しまずに済む方法を探す必要がある、と彼は幼いながらに考えていた。そのために、今の自分に出来ることを探したいというのが、今の彼の切なる願いだったのである。

「僕は、身体も弱いし、爺様が言うには、聖印を受け取れない身体らしくて、かといって、魔術の素養もないし……。でも、そんな僕にも、この国のために出来ることはないかと思って……。でも、ハンフリーも死んじゃって、なかなか相談出来る人がいなくて……」

 そう言って肩を落とすドギに対して、チシャは優しく声をかける。

「そうでしたか……。私でよろしければ、何なりとお教えしますので、いつでもお越し下さい」
「そうだね。まぁ、僕自身が『異界の木』を呼び出せる訳じゃないけど、何か僕でも出来ることを探してみるよ」

 そう言って、ドギは執務室を去っていく。彼の傍らの侍女が静かな笑みを浮かべて頭を下げながら彼と共に去っていくのをチシャは黙って見送り、再び政務へと戻るのであった。

1.3. 王子と剣

 それと時を同じくして、ドギの兄であるゴーバン・インサルンド(下図)もまた、弟と共にこのタイフォンの領主の館を訪れていた。と言っても、彼が会いたがっていた人物は、運悪く不在だったのであるが。


「なぁなぁ、トオヤ兄ちゃんいるか?」

 ゴーバンは現在、11歳。今は亡きトイバル・インサルンドの長男であり、反体制派にとっては「伯爵位の正統後継者」であるが、本人はまだ遊びたい盛りの子供である。とはいえ、亡き父の武勇の才能を色濃く引き継いでいるとも言われており、謹慎前までは従兄弟であるトオヤが、彼に「武術」と「聖印の使い方」を教え込んでいた。
 そんなゴーバンが、久しぶりにトオヤに剣術の稽古を頼もうと思ってタイフォンを訪ねていたのであるが、上述の通り、ちょうどトオヤは入れ違いにアキレスに出仕していた。おそらく街道の途中ですれ違ったのであろうが、ゴーバンとドギは「お忍びの馬車」に乗っていたため、トオヤの方も気付かなかったようである。
 そんなゴーバンをトオヤに代わって出迎えたのは、トオヤに仕える一人の黒髪の少女剣士であった(下図)。


「ようこそいらっしゃいました、ゴーバン様。ですが、残念ながらトオヤ様はお爺様に呼ばれて、現在、この家を離れております。何かご用がございましたでしょうか?」

 彼女の名は、カーラ。見た目は「漆黒の先割れ大剣を持った人間の少女」であるが、その実態は「逆」であった。彼女の本体は「少女」ではなく、「大剣」。つまり彼女は「大剣のオルガノン」なのである。
 彼女は5年前まで、ヴァレフールの首都ドラグボロゥの近辺に位置する小さな洞窟の中に封印されていた。彼女の中では、封印される前の記憶は何も残っていないため、自分の「本体」がどこの世界に存在していたのかも分からない。
 五年前、レアとチシャがそれぞれサンドルミアとエーラムに留学することが決まった時、その出発直前の「思い出作り」として、二人と仲の良かったトオヤが彼女達を連れて、偶然見つけたその洞窟へと探検に出掛けた。その洞窟に入る直前、一人の「魔法使いの少女」と出会った三人は、彼女に導かれるように洞窟の奥地へと足を踏み入れ、そして「大剣」の状態のカーラを見つけ、三人で力を合わせて、彼女を封印していた魔石から彼女を引き抜くことに成功したのである(なお、三人をその場所まで導いた「魔法使いの少女」に関しては、いつの間にか途中でいなくなっていたらしい)。
 それ以来、彼女はトオヤを「あるじ(主)」と認定し、「トオヤの剣」として彼に仕えることになった。基本的には世話好きの性格であり、戦場で「剣」として支えるのみならず、彼の日常生活に伴う雑用も自ら率先して手伝いたがる。また、帰国したチシャに対しても「チシャお嬢」と呼び、トオヤと変わらぬ敬意を持って接しているため、おそらくレアが帰国した場合も、同様の対応になるだろう。
 ただ、トオヤ達に対して敬意は抱いているものの、実質的には家族同然の生活を送ってきたこともあり、基本的には彼等に対しての口調は「タメ口」である。そんな彼女にとって、トオヤ達の主君筋にあたるゴーバンは、やや苦手な存在であった。「主君の主君」である以上、相応の礼節を以って対応しなければならないことは分かっていたが、封印前の記憶がなく、実質五年分の人生(?)経験しか持たない彼女は、そこまで社交界の常識に通じているとは言えない。そのため、彼女のゴーバンへの敬語口調は、どこかぎこちなかった。

「あー、なんだ行き違いかよ。まー、それなら、お前でもいいや。ちょっとさ、稽古に付き合ってくれよ」
「稽古、でございますか? 」
「お前、剣なんだろ? 剣そのものと戦ったことって、俺まだないからさ」
「それは、なかなか無いとは思いますが……。まぁ、その、稽古自体は構いませんが、私の本体となりますと、その、殺傷力が高すぎて、御身に御怪我を負わせてしまう恐れがありますので……、その、私本体と戦うのはさすがにまずいので、木剣か何かを用意しますから、それでなんとか……」

 ゴーバンからの予期せぬ要求に対して、必死で言葉を繋いで対応しようとしているものの、徐々に口調がたどたどしくなってくる。

「まぁ、別にそれでもいいけどよ、お前、『お前自身』を使わずに戦えるのか?」

 ゴーバンは、カーラが「大剣のオルガノン」であることは知っている。その詳しい原理構造までは分かっていないが(というよりも、それはこの世界に住む殆どの人々が分かってはいないのであるが)、彼女が「本体」を身体から切り離せないことは直感的に理解していた。

「出来なくはないです。まぁ、その、慣れてはいませんが……」
「じゃあ、もういいや。それなら、いっそ素手でやろうぜ」
「素手、ですか?」
「そっちが本気を出さないなら、俺も聖印の力を使う訳にはいかないだろ?」
「聖印の力を使う気だったのですか!?」
「だって俺、聖印使わないと、武器出せないもん」

 ゴーバンの聖印は、混沌を相手に戦う時にその本領を発揮する聖印であり、彼はその力を用いて、「光の大剣」を作り出して戦うことを得意とする。もっとも、さすがにまだ年少故に、実際の戦場に出たことはないため、その剣技もまだまだ未熟ではあるが、その光剣を「混沌の産物」であるカーラに対して向けられると、カーラとしても本気で対応しなければ身が危うくなる。

「それならば、お互いに木剣という訳には参りませんか?」
「うん、じゃあ、それでいくか」

 ようやく話がまとまったところで、カーラが館の警備兵達の訓練場から木剣を借りて、館の裏庭で稽古を開始することになる。

「じゃあ、いくぜ!」

 ゴーバンはそう言ってカーラに向かって踏み込む。トオヤ相手に訓練を積んできただけあって、その剣筋はとても11歳の子供とは思えぬほどの鋭い剣捌きではあったが、カーラは間一髪のところでそれを避ける。そして、当初は手加減するつもりであったカーラも、その太刀筋を目の当たりにしたことで「武器としての本能」が目覚めてしまったのか、その剣を避けた直後、無意識のうちにゴーバンの鳩尾(みぞおち)に木刀を突きつけてしまった。鎧を着ていたとはいえ、その圧倒的な剣圧によってゴーバンは吹き飛ばされ、館の外壁にその身を打ち付けられる。

「も、申し訳ありません!」
「いや、いいんだ。そうか、『本体』を使わずにこれか……。でもな、俺だってな、聖印の力を使えば……」

 そう言って、ゴーバンはその身に光剣を出現させようとする。鼻っ柱をいきなりへし折られて、負けず嫌いな本性が抑えられなくなったらしい。

「あ、あの、私達は、敵対する関係ではありませんので、全力で戦う訳には……、 というか、これは稽古なのですよ!」

 しどろもどろに必死でカーラが止めようとしていたところに、ゴーバンの護衛の兵士達が現れた。

「ゴーバン様、ここで何を!?」

 どうやら彼等は、この地に到着すると同時にトオヤを探して勝手に走り出したゴーバンのことを探し回っていたらしい。この状況から、ゴーバンが勝手にトオヤの部下に食ってかかって返り討ちに遭ったことは、ゴーバンの性格を知り尽くしている彼等には容易に想像出来た。

「申し訳ございません。我々がついていながら、ゴーバン様をお止めすることが出来ず……」

 そう言って頭を下げる兵士に対して、カーラはそれ以上に深く頭を下げる。

「こちらこそ、申し訳ございませんでしたぁぁぁ!」

 そんな「互いに平謝りする二人」の横で、別の護衛の兵士がゴーバンを無理矢理その場から連れ去っていく。

「離せよ! まだ始まったばかりだろ!?」

 どうしてもカーラに一太刀入れなければ納得がいかないゴーバンであったが、カーラは後のことは兵士達に任せて、目を合わせないようにその場から慌てて立ち去るのであった。

1.4. 姫と魔法師

 トオヤ達がブレトランドでそんな日々を送っていた頃、彼等の幼馴染であるレア・インサルンド(下図)は、留学先であるサンドルミアから、ブレトランド対岸の都市国家ローズモンドへと向かう船の甲板の上にいた。かつてはトオヤと共に洞窟探検をするなど、天真爛漫で無邪気な性格であったが、五年間の留学を経て、現在は「第一伯爵位継承者」としての強い自覚に芽生え始めている、というのが、彼女を警護する従者達の実感であった。


 そんな彼女の前に、一人の「奇妙な風貌の少女」が現れる(下図)。


「ほう、あの時の姫君か、久しいな」

 そう言って語りかけたその少女の姿は、五年前にレア達がカーラを発見した洞窟探検の時に出会った「魔法使いの少女」の姿そのものであった。

「あなたは、洞窟を探検した時の……」

 とレアが言いかけたところで、彼女は笑顔を見せる。

「あぁ、そうだ。いやー、でっかくなったなぁ」

 レアを見上げながら、その少女はそう語る。と言っても、レアは15歳にしてはそれほど背が高い訳ではなく、むしろ小柄な方ではあるが、それでも五年前よりは間違いなく背は伸びている。それに対して、この少女は五年前と全く何も変わらない体型であった。それ故に、レアには彼女が「五年前の魔法使いの少女」本人であると、すぐには認識出来なかった。

「あの時の方の、妹君ですか? 随分と似ていらっしゃいますね」

 ひとまずレアはそう問いかけたが、だとしたら、彼女が自分のことを知っていることに違和感を感じる。故に、必然的に「それ以外の可能性」も、魔法や邪紋の知識についてもある程度学んでいるレアであれば想定は可能だったであろうが、レアはあえてそのような「常識的な推察」に基づく反応を示す。それに対して、これまでの数百年の人生の中で、幾度となくこのような状況に直面してきた彼女は、いつも通りに淡々と応対する。

「いや、私は私だよ。しかし、カマをかけてみて正解だったようだな。今のお主が『あの時のお主』かどうか、少々自信がなかったのだが、どうやら『あの時のお主』と同じお主のようだな」

 そう言われたレアは、少しニヤッと笑って答える。

「おや、それはどういうことでしょうか? 5年の時を経ても、私がさほど成長していないと?」
「いや、『お主』は確かに成長しておるよ。『お主』も、そして『お主自身』もな」

 端から聞いても何を言っているのか分からないようなことを言われたレアであったが、少なくともこの少女が、自分が背負っている「特殊な事情」をある程度まで知っている可能性があるということは推察する。

「あまり深くは聞かなかったことにしておきましょう。どうやら、この話はあまり深くは関わらない方が良さそうですし」
「まぁ、そうだな。で、サンドルミアから急に帰ることになったのは、父上の命令か?」
「命令でもありますが、仮にその命令がなくとも、そうせざるをえないという心境ではあります。今の、父上に世継ぎがいない状態でヴァレフールを長く留守にする訳にはいきません。どちらにせよ、近いうちに私は帰らなくてはならなくなったでしょう」

 実際のところ、ヴァレフールからは、もっと早い段階から帰国を促す手紙は来ていた。そして彼女自身、出来ることならば、もっと早く帰るつもりであった。今も彼女が密かに悩んでいる「特殊な事情」さえなければ。

「だが、本当に帰らなければならなかったのは『お主』だったのかどうか……、あ、いや、このことは触れない方が良かったんだったな」
「そうですね、そうして頂けると助かります」
「まぁ、『お主』は『お主の人生』を、『お主』の思う通りに生きてくれればいい。それが『今のお主の人生』だというのであれば、これ以上は私は何も言わん」
「難しいことを仰いますね。『今の私の立場』を知った上で言っているのなら、随分と意地の悪いことを」
「さて、私も全てを見通している訳ではないからのう」
「それでも、私よりは遥かに沢山のものが見えているようにお見受けいたしますが」
「さぁ、どうかのう? まぁ、道中、達者でやれ。ローズモンドから先は別の道を往くことになだろうからな。私は少し大陸の方に、というよりも、お主の『おば』に、少々用事があってのう」
「おば、ですか……」

 レアの「叔母(伯母)」に相当する人物と言えば、父ワトホートの異母妹のヴェラ、父方の叔父トイバルの妻シリア、母方の伯父ウェルスの妻ティアの三人である。このうち、大陸にいる人物と言えば、故あって「侯爵級以上の聖印」の持ち主を探して放浪を続けていると言われるヴェラしかいない。

「あやつも、あまり現実逃避をしている場合ではないと思うんだがな。いや、現実逃避と言っては悪いが、どうも私には、祖国を放り出して、逃げ込める任務に逃げ込んでいるように見える」
「その辺りの事情、私は詳しくは存じあげませんが、立場から逃げ出したい気持ちというのも、分かりはしますよ。あ、勘違いしないで下さいね。『私』は逃げませんよ」

 レアはそう宣言すると、その少女はそれ以上は何も言わなかった。ただ、レアを見つめるその瞳には、どこか同情の念が込められているようにも感じられたが、レアはそれが「何に対する同情」なのかまでは推察出来なかった。そして、これ以上、この場でこの「得体の知れない少女(のような誰か)」と問答を続ける気もなかった。

「では、また次に会う時まで、お達者で。もしヴァレフールに立ち寄る機会がありましたら、ぜひドラグボロゥの方にもお立ち寄り下さい。昔のよしみですし、歓迎致します」
「うむ、そうだな」

 そう言って、二人は甲板を後にする。いずれそう遠くない未来に、再び邂逅するであろうことを、どちらもうっすらと予感しながら。

2.1. 従兄弟にして師弟

 レア達を乗せた船がローズモンドへと順調に航海を進めている中、ケネスからの密命を受けたトオヤはタイフォンへと帰還する。それは、アキレスから来訪していた二人の王子が、まさにアキレスへの帰路のために馬車に乗り込もうとしていたその時であった。

「今頃帰ってきても、おせーよ!」

 トオヤを見つけたゴーバンがそう叫ぶと、トオヤは馬車に向かって近付きながら声をかける。

「なんだゴーバン、来ていたのか?」

 トオヤは「主君筋」であるゴーバンに対して「武術の師」としての威厳を保つ意味も込めて、あえて呼び捨てで「弟分」に接するような姿勢で応じている。ゴーバンもまた、そんなトオヤに対しては実の兄のように懐いており、それだけに、今回このような形ですれ違いになってしまったことに、深く落胆していた。

「せっかく、この俺がわざわざ出向いてやったってのに」
「そうだな、巡り合わせが悪かったようだ。ん? どうした? 怪我をしているのか?」

 カーラに突き飛ばされた時に出来た傷にトオヤが気付くと、ゴーバンはその傷を隠しながら強がる。

「いや、別に、怪我じゃねーし、ちょっと転んだだけだし。で、爺様からは何の用だったんだよ?」
「ちょっとした仕事が出来てな。しばらくはまたタイフォンを離れることになった。ただそれだけだ」
「そっか。あ、ところでさ、お前んところの、あの、カーラだっけ? あいつ、俺にくれねーか? どうせお前、槍使いなんだから、剣いらねーだろ?」

 実際のところ、トオヤの得意武器は槍であり、カーラを「武器」として手に持って戦うことは(少なくとも今までは)無かった。もっとも、それを言い出すと、自力で剣を作り出せるゴーバンも、別に武器としてのカーラを必要としている訳ではないのだが、彼は純粋に「動いて喋る剣って、カッコいい」という気持ちから、彼女を自分の傍において置きたいらしい。
 だが、それ以前の問題として、トオヤはカーラを『モノ』扱いされたことに腹を立てたのか、おもむろにゴーバンに近付いて、軽く拳で彼の頭を叩く。

「何すんだよ!」
「とりあえず、色々言いたいことはあるが、カーラをお前にやる訳にはいかん。あいつは俺の大事な剣だからな」
「でも、あれだろ? 最近聞いたんだけど、もうすぐレア姉ちゃん帰ってくるんだろ?」

 ゴーバンから見ると、レア、トオヤ、チシャの三人はいずれも「年上の従兄弟」であり、逆に三人から見れば「やや年の離れた弟分」である。故に、五年前の「洞窟探検」の時にも、ゴーバンは彼等と一緒に行きたいと言い出していたが(それを言い出せる程度には親しい関係であったのだが)、さすがに当時まだ六歳の彼を連れて行くのは危険すぎると判断して、置いて行くことになった。

「あぁ、そうらしいな」
「チシャ姉ちゃんだけじゃなくて、カーラまでお前の近くにいたら、レア姉ちゃん、やきもち焼くぞ。だって、レア姉ちゃん、お前のこと好きだろ?」

 突然そう言われたトオヤは、思わず動揺して咳き込みつつ、呼吸を整えた上で、もう一度、ゴーバンを軽く殴る。

「何を言っている、このマセガキ!」
「いってーなーもう。見てろよ、俺が正式に伯爵位を継いだら、お前なんて一生、俺の剣の相手しかさせてやらねーからな」
「ほーう、やれるものならやってみろ。俺は一生、お前の兄貴分として、お前を鍛え上げていくからな。そんな口を叩くようになるのは、まず俺を倒してからにしてみろ」

 ちなみに、ゴーバンの聖印の力は、君主相手にはほぼ通用しない。一方で、トオヤもまた「守り」に特化した聖印の持ち主なので、おそらくこの二人が本気で戦っても、互いに決め手を欠く状況が続き、決着はつかないだろう。
 そんな二人のやりとりに対して、横で黙って見ていたドギが口を挟む。

「兄様、もういい加減に帰るよ!」

 そう言われたゴーバンは、弟に手を引かれる形で、しぶしぶ馬車へと乗り込む。一方、ゴーバンから「想定外の指摘」を受けたトオヤは、まだ軽く内心で動揺していたが、それでも平静を装いながら、自身の館へと歩を進めるのであった。

2.2. 不審なる助言者

 だが、そんなトオヤが館に着くよりも前に、館内の執務室にいたチシャの目の前に「トオヤ」が現れた。

「お帰りなさい、トオヤ」

 チシャがそう言って出迎えると、トオヤは自身の留守を守っていた彼女に対して、いつもとはやや異なる「キメ顔」で語りかける。

「あぁ、チシャ、ご苦労だったな。ところで最近、アキレスに評判のクレープ屋が出来たらしいのだが、今度、『二人で』食べに行かないか?」
「二人で……? あ、はい、喜んで食べに行きます」

 トオヤが甘いものが好きなことはチシャもよく知っており、今までも彼の甘味所回りに付き合わされたことは何度もある。ただ、なぜ彼が改まって、しかも「二人で」ということを強調して、このようなことを言い出したのか、そこにチシャはやや違和感を感じていた。 

「そろそろ、お前とも『これから先の将来』について、色々と話し合いたいことがあってな」

 彼はチシャに対して、露骨な「色目」を使いながら、チシャの手を取り、恋人に愛を語るかのような声色でそう言いながら顔を近付ける。この世界では、君主と契約魔法師との間での恋愛事も、従兄弟同士の結婚も、決して珍しくはない。だが、これまでトオヤは自分に対してそのような態度を示したことは一度もなかった。それ故に、いつものトオヤとは明らかに様子が異なることに、チシャは戸惑っていた。
 そんな中、トオヤが帰って来たと知ったカーラが、執務室の扉を開く。ゴーバンを本気で殴ってしまったことで気まずい心境の彼女であったが、部屋に入るなり、チシャに色目を使って迫っているトオヤを見て、思わず彼をチシャから引き剥がそうとする。

「ちょっと! あるじ、何をやってるんだい!?」

 首根っこを引っ掴まれながら引き剥がされたトオヤは、特に悪びれることも動揺することもなく、平然と今度はカーラに対して、先刻までのチシャと同じ態度で語りかける。

「おぉ、カーラか。すまんすまん、いや、お前に秘密にするつもりはなかったんだがな。安心しろ。お前のためにもな、アキレスで良い鍛冶屋を見つけたんだ。その鍛冶屋なら、どんなナマクラでも一発で名剣になる。いや、お前がナマクラだと言ってる訳ではないぞ。お前は今のままでも素晴らしく美しい。だが、その輝きを更に増すことによって……」
「キミは、ボク達の、機嫌取りを、しなければ、ならない、ことが、何か、あったのかい?」

 カーラはそう言いながら、トオヤの首を羽交い締めにしつつ、頭に拳をグリグリと押し付ける。明らかに「いつものトオヤ」ではないことは、彼女にもすぐに分かった。

 ******

 そして、ちょうどその頃、「トオヤ」が館へと帰って来た。それに対して、館の入口で掃除をしていた使用人が驚く。

「あれ? 領主様、いつ『外』に出られました?」

 その対応に対して、逆にトオヤの方が戸惑う。

「俺は今、帰ってきたばかりだが?」
「え? いや、でも、さっきお館の中にお迎えしたばかりと思うのですが?」
「どういうことだ? 人違いじゃないのか?」

 トオヤはそう言いながら、もし「人違い」だとしたら、それはそれで大事だということに気付き、慌てて館の中に入る。すると、チシャの執務室の方から、「自分の声」が聞こえてきた。明らかに「尋常ならざる異変」が起きていると感じたトオヤは、急いで部屋へと急行する。

「おい、何やってんだ!」

 そう言って彼が扉を開けると、そこには「カーラに羽交い締めにされている自分」がいた。

「あるじが二人!?」

 困惑するカーラとチシャ、そして「入ってきたばかりのトオヤ」を横目に、「羽交い締めにされている方のトオヤ」は、苦笑を浮かべる。

「あれ? 思ってたより、帰って来るのが早かったなぁ」

 「彼」はそう言いながら、 カーラに首を絞められた状態のまま、その姿を「露出部分の多い服を着た女性(下図)」へと変化させる。


「失礼致しました。私、『ヴァルスの蜘蛛』所属のエージェントで、クリステル・カンタレラと申します」

 困惑した状態のまま、ひとまずカーラが捕まえていた手を離すと、その「先刻までトオヤであった女性」は、トオヤに対して軽く一礼しつつ、饒舌に語り始める。

「こちらの領主様に、ちょっと耳寄りの情報をお教えしようと思いまして、参上した次第です。ただ、私の流儀として、情報をお知らせする前に、皆様の人となりを確認させて頂くことにしております。決して、下世話な報道機関に情報を売るためではないですよ。確かに私、週刊ローズモンドには知り合いの記者がおりますが」

 明らかに不審な風貌のこの女性に対して、トオヤは訝しげな視線を向けながら問いかける。

「ほう、ペラペラペラといらんことを喋ってくれているようだが、それで、本当の目的は何だ?」
「では、お伝え致しましょう。実は今現在、このブレトランドにお戻りになろうとしているレア姫様を狙う『よからぬ者達』がいる、ということを……」
「それは、ジジイのところに伝えた情報と同じだろう? その話なら、もう聞いている」

 辟易した顔でトオヤがそう言うと、今度は逆にクリステルが驚いた表情を浮かべる。

「おや、既にご存知でしたか。我々以外にその情報を掴んでいた者がいたとは……」
「ジジイはヴァルスの蜘蛛からの情報だと言っていたが、行き違いがあったのではないのか?」

 「ヴァルスの蜘蛛」は情報の二度売りはしないことで有名である。もし、今回の件が、トオヤの言う通りの「組織内での行き違い」ではないとすれば、この「クリステル・カンタレラ」と名乗る女性自身が「ヴァルスの蜘蛛を語る誰か」なのか、あるいは、ケネスにその情報を伝えた者の方が偽物、ということになるだろう。
 クリステルはこの状況に首を傾げつつ、自分以上にトオヤ達が困惑しているであろうことを察した上で、改めて語り始める。

「まぁ、私の存在が信用出来ないのであれば、『ヴァルスの蜘蛛』の人間だと信じて頂かなくても結構です。ただ、私、この方とも知り合いでして」

 そう言うと、彼女はその姿を、今度は「五年前の洞窟探検の時に出会ったトオヤ達が出会った魔法使いの少女」の姿に変化させる。

「お前……、あの時の?」
「あ、いえ、五年前に皆さんとお会いした『この方』は、本物の『この方』ですよ」

 そう語る彼女の様子を見て、ようやくカーラは「この世界には、自在に自身の姿を変えることが出来る『幻影の邪紋使い』なる存在がいる」という話を以前に聞いたことを思い出し、その旨をトオヤとチシャに伝える。それでもなお、彼等から見れば、この「クリステル」と名乗る女性の言うことが信用に値すると確信出来る根拠はなかったのだが、彼女は構わずそのままトオヤ達に説明を続けた。
 クリステル曰く、レアを狙っている者達は「パンドラ新世界派」の者達であるという。新世界派とは、ブレトランド・パンドラの中でも最もラディカルな集団であり、この世界を「混沌に満ちた世界」へと根本的に作り変えようとしている者達と言われている。彼等がレア姫を狙う直接的な理由は不明だが、どうやら彼等は400年前にこのブレトランドを混沌から解放したと言われる(ブレトランドの現三王家の共通の祖先である)「英雄王エルムンド」の末裔を必要としているらしい。
 「パンドラ」と聞いて、エーラム出身の魔法師であるチシャは思わず身構えるが、そんな彼女に対して、クリステルはおもむろにこう言った。

「あなたに少し、お話を伺いたいのですが。出来れば、二人きりで」

 そう言われたチシャが、トオヤの方に視線を向けると、従兄弟にして契約相手でもある彼は、短く答えた。

「お前の判断に任せる」

 トオヤとしては、明らかにこの女性は不審ではあったが、チシャと二人きりにしたところで、チシャがそう簡単に不覚を取るとは思えなかった。召喚魔法師である彼女は、常に自分の周囲に自身に従属する投影体を忍ばせており、もし物理的な形で自分の身に危機が訪れた際には、その投影体を用いて身を守ることが出来る。そして、もし仮にこの女性がチシャに対して、精神的な形で「危害」を加えようとしたとしても、チシャがそう簡単にそれに屈することはない、と思えるだけの信頼はあった。

「主人の許可を得られましたので、ひとまず、別室にご案内します」

 そう言って、彼女はクリステルを客室へと連れ出す。ここは本来、チシャの執務室なのだが、なんとなく「主人」を外に追い出すのも気が引けたらしい。この辺りの立ち振る舞いからも、どこまでも「主人を立てる魔法師」としての彼女の生き様が滲み出ていると言えよう。

2.3. 出自の疑惑

 客室へと案内されたクリステルは、チシャに対して、小声でこう問いかけた。

「実は、パンドラ新世界派の面々が攫おうとしている『エルムンドの末裔』の候補の中に、あなた自身も含まれているようなのですが、何か『心当たり』はありますか?」

 そう言われたチシャは、クリステルが自分を連れ出した理由を理解する。確かに、これは「公の場」で話して良い話題ではない。そのことを実感した上で、彼女に対して、自分の知りうる限りの「自分の出自」に関する秘密を語り始める。
 チシャは騎士団長家という名門貴族家の出身ではあるが、少なくとも家系図上は、エルムンドの直系の子孫ではない。だが、チシャは自分自身の出自に対して、前々から疑問に感じていたことがあった。彼女の家族の中で、チシャだけが「瞳の色」が異なるのである。
 チシャの父であるマッキーは彼女の留学中に病死しており、母のネネはその直後に失踪し、現在も行方不明のままである。チシャの弟妹達のうち、すぐ下の弟であるアンディは(トオヤの謹慎によって一時は将来の騎士団長候補にも浮上したが)半年前のテイタニアの魔物騒動でトイバルやレオンと共に戦死し、次女のモニカは大陸国家アロンヌの貴族家の令息との間で婚約が決まっており、末弟のラファエルは中央山脈のマーチ村に出仕中である。
 彼等はいずれもその瞳の色が「黒」であったのに対し、チシャの瞳の色だけが「青」だった。そのことについて、家族の者達も従者達も誰一人何も言わなかったが、チシャは子供の頃からずっと、その点に対して違和感を感じていたのである。
 それ故に、彼女はエーラム留学中に、とある高名な時空魔法師に、自らの出自を調べてもらったことがあった。その結果、彼女は、自分の「本当の父」はマッキーではない(しかし、それが誰なのかまでは分からない)、という結論を聞かされたのである。
 なお、母親については、その時空魔法師は何も言っていなかったが、チシャの顔立ちにはどことなくネネの面影が残っており、おそらくネネが彼女の母親であろうことは、チシャもあまり疑ってはいなかった。そして、ネネはもともと庶民出身であり、彼女がエルムンドの血を引く人物であるとは考え難い。ただ、彼女はマッキーの妻となる以前は先代伯爵ブラギスの正妻レオリアの侍女を務めており、その頃から「宮廷随一の美女」として多くの男性達を虜にしていた存在であったため、マッキーの妻となる以前に(あるいはその直後に)「伯爵家の血を引く誰か」の手がついている可能性は十分にありうる。 

「もっとも、父は既に病死してしまいましたし、母も現在は行方不明ですので、本当のことは分からないのですけどね」

 チシャがそう言って一通りの説明を終えると、クリステルは納得したような表情を浮かべた。

「なるほど。では、もし我々がネネさんの消息を掴んだら、あなたにお伝えした方が良いですか?」
「はい、ぜひ」

 チシャとしては、自分が仮に伯爵家の血を引いていたとしても、今更自分や自分の子孫に伯爵位の継承権があると主張する気は毛頭ないし、あくまでも自分が「父」と呼ぶべき存在は、たとえ血が繋がっていなくても、自分を育ててくれたマッキーだと考えている。ただ、それとは別次元の問題として、行方不明の母の現状を知りたいと考えるのは、娘として当然の感情であった。

「では、その時はお伝え致しましょう。その上で、またこちらも個人的に、あなたに何かをお伺いすることになるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」
「分かりました。こちらこそ、よろしくお願いします」

 こうして「秘密会談」はひとまず終了する。チシャは改めて、自分がトオヤや弟妹達とは実は血が繋がっていないということを実感させられることになったが、それでも、自分にとってトオヤや弟妹達が「守るべき親族」であるという気持ちは、彼女の中で揺らぐことはなかった。

2.4. 大陸への出立

 客室からチシャと共に執務室に戻ってきたクリステルは、改めてトオヤ達に対して、エルムンドの末裔である伯爵家の人々のへの注意喚起を促す。彼女が言うには、その中でも特に「若い人達」が狙われやすい傾向にあるらしい。それを聞いたカーラは、先刻までこの館にいた「あの二人」のことを思い出す。

「ゴーバン様とドギ様にも、狙われてるかもしれない、ということをお伝えしてくれるかい? というか、もうお伝えしているかい?」
「うーん、それについては、私からは言ってないですが、先程の話だと、既にケネス様に情報は伝わっているようなので、そちらの筋から伝わっているのではないですかね?」

 それについては、トオヤもケネスから詳しい事情を聞いていないので、そもそもケネス自身がどこまで正確な情報を掴んでいるのかは分からない。ちなみに、先日、パンドラ革命派の面々がゴーバンを誘拐しようとする動きもあったらしいが、それについては「捕まっていたパンドラの囚人を脱獄させるための陽動」であったと言われており、今回の新世界派の動向とは無関係のようである。

「とはいえ、一応、お伝えしておいた方が良いでしょうね。ちなみに、あの二人を喜ばせるには、どんな格好で行けば良いですかね?」
「いたいけな子供に、そんな悪戯をするんじゃない」

 トオヤに冷たくそう言われると、クリステルはそれまでの「形式的な敬語口調」から一転して、拗ねたような言葉遣いに変わる。

「せっかくだから、お客さんが一番喜ぶ姿でご挨拶したい、と思ってるんだけどなぁ。まぁ、いいわ。それはこっちで調べておくから」

 そう言って、その場から去ろうとするクリステルに対して、カーラが恐る恐る手を挙げる。

「一つ言わせてもらえるなら、あまり露出の多い服装はやめてほしいかな……」
「あー、そうね、確かにこういう格好は、ちょっと教育上よろしくないかもね」

 最後にそう言い残して、クリステルは部屋から立ち去っていく。結局、彼女が本当に「ヴァルスの蜘蛛」の一員なのかどうかは確認出来なかったが、どちらにしてもトオヤ達にはそれを確かめる術はなく、彼女のペースにこれ以上巻き込まれるのも望ましくないと考えた彼等は、あっさりと彼女をそのまま帰らせることにした。
 その上で、カーラが改めて、帰還した主君とチシャのためにお茶と茶菓子を用意する中、トオヤはチシャに対して、落ち着いた口調で問いかける。

「さて、チシャ、さっき何か話していたようだが、報告出来ることはあるか?」

 トオヤとしては、チシャが話したくないことまで無理に聞き出す気はないが、話せることばあれば聞く、という方針である。それに対して、チシャがどう答えれば良いか迷っていると、トオヤは先に「自分がチシャに伝えるべき要件」を説明することにした。

「まぁ、聞きながら考えてくれ。今回、爺さんに呼ばれたのは、さっきの話にもあった『レア姫の救出』のためなんだ」

 トオヤはチシャに対して、ケネスから言われた計画をそのまま説明する。その話は、その場に居合わせることになったカーラにも伝わることになった。

「つまり、俺とお前で、その船に『たまたま』乗り合わせて助けて来い、とのことだ」
「『たまたま』ですか」

 チシャも、祖父の企みはすぐに理解出来た。ワトホート派に伝えずに、自分達の力だけでその事件を解決することで彼等に恩を売るためには、あくまでも「偶然乗り合わせて事件に遭遇しただけだったので、他に協力要請を出す暇もなかった」という建前が必要なのであろう。

「俺としては、そんなことを考える前に、やるべきことがあると思うのだがな。まぁ、今の俺の立場で逆らって余計な波風を立てる訳にはいかない。それに、どちらにしても幼馴染のレア姫を助けない訳にもいかないからな。ちなみに、その後、『たまたま』近くを通りかかったアキレスの船に彼女を連れて行く予定らしい」
「それも、『たまたま』なんですね」
「あぁ、『たまたま』らしい」

 呆れ半分に言いながら顔を見合わせる二人であったが、放っておく訳にはいかない、という点に関してはチシャも同意見である。

「あるじー、今、チシャお嬢とあるじで行く、ということだったけど、当然、『召使』としてのボクも、そこには含まれているんだよね?」

 カーラが「当然」の部分を強調しながらそう問いかけると、トオヤも素直に答える。

「あぁ。爺さんは『お前』のことを、戦力として数える以前に、そもそもちゃんと把握している訳ではないからな。お前にも、ついて来てもらおうと思う。とりあえず、目立たないように潜伏する必要があるから、俺もお前も『流れの傭兵』のフリをした方がいいだろうな」
「OK、分かったよ」

 それに対して、今度はチシャが問いかける。

「私の服装は、どうしましょうか?」
「そうだな……、魔法師の姿は目立つから、俺やカーラと同じように、傭兵のような鎧を着てもらった方が良いかもしれない」
「鎧ですか……、うーん、動きにくそうだな……」
「まぁ、その辺りは任せる」

 そんなやりとりをしていると、カーラが割って入ってきた。

「じゃあ、ボクが『軽めの革鎧』を用意しておこうか?」

 彼女は日頃から、トオヤやチシャの装束の手配なども率先しておこなっているのだが、チシャは基本的にいつもエーラムの制服を着ているため、この機会に彼女に「いつもとは違う服装」を着せたい、という欲求が湧き上がってきたようである。

「お願いします」
「うん、任せてよ」

 カーラはそう言うと、早速、トオヤとチシャをどうコーディネートすべきかについて、二人を遠目に眺めながら構想を練り始める。そんな中、トオヤはチシャに、懐に忍ばせていた短剣を差し出した。

「任務中、どうなるか分からないから、とりあえず、これを武器として渡しておこうか」

 それは、彼が領主になった時に、母から貰った護身用の短剣である。

「俺が持っていても、使うことはないだろうからな。万が一の時は、それで身を守ってくれ」
「はい、分かりました」

 もともと武器の扱いに慣れていないチシャに、あまりに本格的な武器を持たせても、かえってその重みが原因で逃げ遅れてしまう可能性がある以上、「傭兵の偽装」として渡すにしても、この程度が妥当であろう。
 そしてこの後、三人はカーラが用意した偽装用の装備で身を整えつつ、この日の夜のうちに、密かにローズモンドへと向かうことになるのであった。

3.1. 港町の珍味

 翌日、ローズモンド伯爵領に到達したレアは、ブレトランド行きの船の乗船時間になるまで、しばらく護衛の兵達と共に、ローズモンドの街を散策することになった。そんな中、港の近くの街角で、彼女はトオヤ達三人の姿を発見する。

「おや、彼等は……? 公式に迎えに来るなら、連絡の一つもありそうですが……、何かキナ臭いものを感じますね」

 彼女は独り言のようにそう言いつつ、自身を警護する兵士達にも、周囲を警戒するように伝えた上で、遠目から彼等を観察する。
 一方、チシャもまた、レア姫の一行が自分達の近くにいることに気付いたが、その傍らでは、トオヤが全くそれには気付かぬまま、屋台で売られている「チョコバナナクレープ」を食べていた。これは南方の珍味と異界の食材を混ぜて作った、かなり希少な菓子であり、トオヤの好物でもある。彼は子供の頃に一度食べて以来、すっかり虜になっていたが、ブレトランドでは普通に売っている代物ではないため、小遣いを貯めてわざわざ大陸から取り寄せるほどの熱の入れようであった。
 チシャは当然、そのことは知っている。だから、トオヤがこの地に来たと同時に、真っ先にクレープ屋を自力で見つけ出したのも(おそらくはそのための下調べもしていたことも)、予想出来たことではあったのだが、前日の「偽物」とのやりとりを思いだしてしまったチシャは、複雑な心境に陥っていた。

(よりによって、クレープか……)

 チシャは、自分が「偽物」にクレープ屋デートに誘われていたことをトオヤに話していた訳ではないので、トオヤには特に他意がないことは分かっている。だが、見慣れている筈の「トオヤとクレープ」の組み合わせが、どうしてもあの「色事師のような雰囲気のトオヤ」を連想させてしまい、なんだか妙な気分が湧き上がってくる。
 そのせいか、チシャが「いつもと微妙に違った雰囲気」になっていることに気付いたトオヤは、食べかけのクレープを差し出しながら問いかける。

「チシャ、どうした? クレープが食べたいのか?」
「あ、あぁ、えーっと……、ありがとうございます」

 どう反応するのが正解なのか分からなかったチシャは、とりあえず、言われた通りにそのクレープを口にする。そんな二人の様子を、カーラは後ろで微笑ましく眺めながら、どのような服装を着せれば、この二人をもっと「下町の住人」風にコーディネート出来るか、ということを考えていた。

「あぁ、そういえばチシャ、例のパンドラという組織について、俺は実態をよく知らないので、教えてくれないか?」
「うーん、私もあまり詳しくは知らないのです。不勉強ですみません」

 チシャの中では、パンドラは「エーラムに敵対する闇魔法師達の組織」という程度の認識でしかない。エーラムの講義の中でも「得体の知れない悪の秘密結社」という程度の説明しか聞かされておらず、彼等が具体的にどのような形でエーラムと敵対しているのかも知らない。そもそも、「パンドラ」を名乗る組織は世界中に点在しており、それらは必ずしも一枚岩の組織ではない、という話もあり、その実態を正確に把握している者は、エーラムの中にも殆どいないであろう。

「いや、まぁ、別に、そんなことを勉強して来いなんて言われた訳でもないだろうし、知らなくてもしかないことだろう。カーラは、何か知らないか?」
「さすがに、そういうことまではちょっと……」

 彼女は封印を解かれた後の五年間を通じて、トオヤと共に様々な人々に接してきた。基本的に日頃は自由行動が許されているため、トオヤが知らない下町の諸情報などにもある程度は通じているが、パンドラのような裏社会の組織にまで触れる機会は、さすがに無かったようである。
 チシャとカーラがそれぞれに「パンドラ」という謎の組織の正体について思案を巡らせている中、二人にその話を振ったトオヤの視線は、既にその「先」へと向かっていた。

「お、あそこに林檎飴がある」
「まだ食べるんですか?」

 呆れ声のチシャを横目に、トオヤは林檎飴を売っている屋台へと向かって行く。そんな様子の彼等を、レアは困惑した顔を浮かべながら眺めていた。

(彼等は、純粋に観光のためにここに来ただけなのだろうか……)

 トオヤ達との再会に向けて、様々な想いを巡らせていたレアとしては、想定外のトオヤの呑気な振る舞いに拍子抜けする。だが、結果的にそんな彼等は完全に「港町の旅人達」の中に溶け込むことになり、レア以外の誰にも気付かれぬまま、港町に潜伏することに成功したのであった。

3.2. 乗船者達

 やがて船が到着し、トオヤ達三人は、レア達から少し遅れる形で乗船を開始する。その途上、乗客達に目を向けていると、明らかにガラの悪そうな者達が、レアとその護衛の者達を注視している様子に気付く。おそらく、彼等が「例の者達」なのだろう。
 一方、レアもまたその者達の視線に気付き、自分が狙われている可能性が頭をよぎる。そして同時に、トオヤ達が同じ船に同船していることにも気付いていた。

(とりあえず、「私」は部屋からは出ない方がいいだろうな。ガラの悪い連中もいるし、トオヤ達と船内で鉢合わせるのも、面倒なことになりそうだ) 

 彼女はそう思いながらも、やはりトオヤ達の動向が気になっていたし、それ以前の問題として、やはり「久しぶりに彼等と会って話がしたい」という気持ちも彼女の中では確かに湧き上がっており、どうすべきか思案に揺れていた。
 そんな中、カーラはトオヤ達が発見した「明らかにガラが悪そうな面々」とはまた別に、魔法師らしき雰囲気を醸し出している男の気配を察知する。その男は、チシャと同じように偽装していたものの、カーラは直感的に、彼の周囲から混沌の気配を感じ取っていたのである。彼女は密かにトオヤに問いかけた。

「あるじ、あの人、偽装してるけど、魔法師じゃないかな? パンドラじゃないかな?」
「確かに、言われてみればそうとも見えるが……、パンドラかどうかは分からん。チシャと同じように、まっとうな魔法師がお忍びでどこかに行こうとしているんかもしれないが……、警戒はした方がいいだろうな」

 彼はそう答えつつ、船内の一等客室にレアが入っていくのを確認した上で、ひとまず「ガラの悪い連中」の動向に視線を向けると、彼等が船内の酒場へと向かっていく様子が見える。その状況を踏まえた上で、彼等は今後の作戦について小声で話し合った。

「ボクは明るいうちに仮眠を取っておこうかな。彼等が動きだすとしたら夜だろうし」
「それなら、昼は俺とチシャで奴等を監視しておくことにしよう。その上で、カーラが起きたら、チシャと交代すればいい。俺は一晩中起きて監視しようと思っている」
「分かりました」

 そんな会話を交わしつつ、ひとまずカーラだけが客室へと向かい、トオヤとチシャは酒場へと足を運び、遠目にその「ガラの悪い連中」を監視することになった。

 ******

 それからしばらくすると、トオヤとチシャの目の前に、見覚えのある女性が姿を現した。

「トオヤ様ではないですか、お久しぶりです」

 その女性は、レアの侍女である。名は覚えていないが、レアと共にサンドルミアに同行していた女官の一人であり、先刻レアと共に乗船した中にも、確かに彼女の姿はあった。

「あぁ、久しぶりだな」
「どうしたのですか、こんなところで? この船にレア様が乗っていることは、ご存知なのですよね?」
「さすがに、あれだけ物々しくしていれば分かるさ。もっとも、それに気付いたのは、さっきの港町でチョコバナナクレープを食べていた時だが」

 正確に言えば、その時点ではトオヤはまだチョコバナナクレープに夢中で、気付けていなかったのであるが、別にそのことはどうでもいい。

「相変わらずですね、トオヤ様は。では、レア様にお会いになるために来た訳ではない、と?」
「たまたま乗り合わせただけだ。とはいえ、せっかく同船出来たのであれば、旧友であるレア様ともお会いしたいところではあるのだが、可能か?」
「分かりました。では、今からお伺いして参ります」
「あぁ、頼む。無理なら無理で構わないのだが」

 トオヤがそう言うと、その侍女は一旦その場を離れ、そしてしばらくすると戻って来て、トオヤとチシャをレアの部屋へと案内することになった(なお、実はこの時、「この『侍女』と全く同じ姿をしたレアの侍女」が、夜勤に備えて客室で仮眠をとっていたのだが、その事実をトオヤ達が知ることは最後までなかった)。

3.3. 五年ぶりの再会

 レア用の一等客室へと案内された二人であったが、その部屋の中に彼女の姿はなかった。侍女曰く、レアは間も無く食堂室から戻ってくる、とのことである。侍女がその部屋から退室し、そしてしばらくすると、レアが別の侍女を伴って、扉を開けて客室へと入ってきた。

「お久しぶりですね、トオヤ、そしてチシャ」

 そう言って二人の前に現れた彼女は、五年前の面影を確かに残しつつも、どこか表情は強張っているように見えた。それが「第一継承者」としての自覚故の緊張感なのか、それとも、何か別の要因によるものなのかは分からないが、そんな彼女に対して、トオヤとチシャもやや形式ばった笑顔で答える。

「あぁ、本当に、久しぶりだな」
「お久しぶりです」

 そんな二人に対して、レアは客室の椅子に座り、そして表情を更に強張らせた表情を浮かべながら、二人に対して話し始める。それはまさに、臣下に対して接する国主のような態度であった。

「今の私の立場故、このような話し方しか出来ないが、それは許してくれ」
「それは構わない」

 トオヤが短くそう答えると、レアは早速、一番聞きたかったことから問い始める。

「さて、単刀直入に聞こう。どうしてこの船にいる?」

 それに対してチシャが返答に迷っていると、トオヤがおもむろに口を開く。

「そうだな、ここは、本当のことを言っておこう」

 その発言に対してチシャが一瞬驚いた表情を浮かべるが、トオヤは構わず真剣な表情で、レアに対してこう告げた。

「俺は、チョコバナナクレープを食べるために、ローズモンドに来た。その帰り道で、偶然同船したんだ」

 その隣で、チシャは自分の表情が崩れそうになるのを必死で堪えていたが、レアはそんな彼女の様子に気付くこともなく、安心したような笑顔を浮かべる。

「そうか、変わらないな、君は。では、話をするのに菓子が無いのも寂しかろう」

 レアはそう言うと、侍女に茶菓子を用意させる。レアもまた、トオヤと同様の甘党であった。そして、徐々にその場の雰囲気は和み始め、五年前の「対立陣営に別れる前」の頃に戻ったかのような空気に包まれていった。

「サンドルミアはどうだった?」

 トオヤがそう問いかけると、レアは心なしか笑みを浮かべながら答える。

「それなりに実りのある日々ではあったよ。お父様が強く推薦してくれただけのことはある」
「あそこは、連合にも同盟にも所属していない、独特の国柄だからな」

 サンドルミア辺境伯領は、現在のアトラタン大陸における中立国の中では最大勢力である。それ故に、連合諸国とも同盟諸国とも国交を維持しており、レアは滞在中に同盟諸侯の子弟と交流することもあった。その上で、レアはあえてこう切り返す。

「ある種、このブレトランドも似たようなものだろう?」

 ブレトランドを一つの政治共同体と考えれば、確かにそう言えなくもない。実際、以前のブレトランドは、三国全体で一つの連合国家のような存在であったし、現在でもそうあるべきだと考える人々もいる(特にヴァレフールには多い)。そのような立場の人々から見れば、まさに今のブレトランド全体こそが、連合につくべきか同盟につくべきかが定まっていない状態であるとも言える。

「同じような境遇にあるサンドルミアを見て、私は、そのような不安定な国を背負って立つ身なのだということを、実感せざるを得なかったね」

 「ヴァレフール伯爵」は、かつては実質的にブレトランド全体の盟主的な立場であった。その爵位を継承する身としては、確かに、そのような自覚が芽生えるのも当然の話であろう。
 そんな感慨に浸っている彼女に対して、今度はトオヤが自らの身の上を振り返りながら、静かに呟く。

「俺は、この五年間、本当に色々あった」
「ほう? 君の話も聞きたいな」
「面白い話なんて、何も無いさ。ただ、小さな田舎の領主になったというだけだ」
「風の噂で聞いているよ。タイフォンだね」
「あぁ。親父ほど上手く治められているとは思えないが、俺なりに、少しでも祖国を良くしようと頑張っている」
「それは私にも分かるよ。今のヴァレフール東部の混乱の中で、村一つをまとめ上げているのは、それだけでも賞賛に価する」

 どうやらレアは、現在のヴァレフールが分裂状態にあることは知識として知らされているらしい。それはつまり、自分とトオヤが「相容れない立場」に立たされていることを自覚している、ということでもあった。トオヤはその状況に改めて落胆しながら、話を続ける。

「本当なら、その混乱も、きちんと何とか出来ればいいんだがな」

 浮かない顔のトオヤに対して、レアは複雑な表情を浮かべながら、落ち着いた口調で答える。

「今の立場としてはこう言うしか無いが……、ヴァレフール伯爵位を継ぐ者として、その働きに敬意を示そう」
「そういうお前は、このヴァレフールを背負って立つ気なのか?」
「もちろんさ、そのために戻ってきた。ただ、当然の話だが、すぐにこの国を継ぐとか、そういう訳ではないよ。お父様を勝手に殺さないでくれないかな」

 苦笑しながらレアはそう言ったが、現実問題として、彼女の父であるワトホートが病弱であることは周知の事実である。そして昨今、その体調が更に悪化しつつあると言われていることも、二人共分かっていた。

「本当だったら、お前に対して、全力で……」

 トオヤはそこから何かを言おうとしたが、続く言葉が出てこなかった。彼の立場と心境を察したレアが、遮るように言葉を繋ぐ。 

「無理はしなくていいさ。今の君には、私よりも優先して守るべきものくらいはあるだろう。タイフォンの人々もそうだろうし」

 それが「責任ある領主」としての立場である。トオヤもそのことは分かっている。だが、それでもなお、そう言われたトオヤの表情には、どこか「迷い」が垣間見れた。

「だけど……、本当にそれでいいのかな。俺が守るべき者は、それだけでいいのかな? 時折思うんだ。俺のこの『守護の聖印』を見て。俺が守るべきものは、今の現状だけでいいのかな、と」
「君は、妙なところで理想が高いね」
「小さい頃にも話したかもしれないけど、混沌が蔓延るこの世界では、人々は生きるのに必死だ。俺は騎士として『守ること』しか出来ないけど、いつかこの世界が変わったらいいと思ってる。もっと皆が笑顔で平和に暮らせる世界に」
「それが君の理想なのかい?」
「あぁ」

 先刻までの苦悩の表情からは一変して、そう言い聞いたトオヤの瞳には、一片の曇りも迷いもなかった。そのまっすぐな表情を目の当たりにして、レアは静かに笑みを浮かべる。

「そうか。今日は興味深い話が聞けたよ」
「俺も、久しぶりに君と話せて嬉しい」
「向こうで聞いた私の好きな言葉だがね。『高い理想は叶うことはなくても、高い理想を持ち続けることは、きっと君の力になってくれる』」
「あぁ、その言葉を大切にしておくよ」
「もちろん、これは私への自戒でもある」
「自戒?」
「言った通りの意味さ」

 そんな二人のやりとりを、チシャはしばらく黙って聞いていたが、そんな彼女に対して、レアの方から語りかけた。

「チシャも、久しぶりだね」
「えぇ。ただ、お久しぶりにお会いして、正直、どのような言葉で話せば良いものか……」

 年下の幼馴染みであると同時に、敵対する陣営の姫君でもあるレアに対しての「立ち位置」は、確かに難しい。それはレアにも理解出来た。

「まぁ、好きな言葉で話すといいさ。ただ、私の言葉は私の立場がそうさせるものだが、不敬な態度を取られたからと言って、別にそれを気にするようなこともない。今は彼の契約魔法師として、仕えているのだろう?」

 そう言われたチシャは、トオヤがレアに対して対等な口調で話している状態で、ここで自分だけが彼女に対して敬語を使うのも不自然だと感じたのか、自然と「五年前の口調」に戻る。

「あぁ、うん、そうね」
「普段の彼はどうだい?」
「まぁ、相変わらずかな。でも、よくやってくれているよ。味覚は相変わらずおかしいけどね」
「『相変わらずの彼』を見られるのなら、私にとっては少し羨ましいな」

 微妙に意味深なことを口走ったレアであったが、そんな彼女の発言の裏にある感情を気にすることもなく、トオヤが口を挟む。

「最近はちゃんと、チョコバナナクレープだけでなく、林檎飴にも手を出している」

 なぜこの話の文脈でそんなことを言い出す必要があったのか、レアにもチシャにも分からなかったが、そんな「相変わらずの彼」に対して、思わず二人とも笑みがこぼれる。

「まぁ、さっきの話はちょっと堅苦しすぎたね。出来れば、もっと気軽に色々と話したいところだったけど……」

 レアがそう言いかけたところで、突然、船内に乗客達の悲鳴が響き渡り、三人の「再会談義」は、一旦ここで打ち切られることになった。

3.4. 海賊と蝿

「海賊だ! 海賊が船内に忍び込んでいたぞ!」
「皆様、船室に避難して下さい!」

 船員達がそう言って、船内を激しい足音で駆け回る。その物音に先に気付いたのは、レア達ではなく、船室で仮眠をとっていたカーラであった。
 カーラが目を覚ました時点で、客室には彼女一人しかいなかった。ただ、そこにはトオヤの武器である槍が残されている。さすがに、姫君に会うのに槍を持って客室に入る訳にはいかないので、それは当然の話なのであるが、そんな事情など知る由もないカーラは、海賊達が船を乗っ取ろうとしていると思しきこの時点で、トオヤが武器を持たないまま船内のどこかにいるという状況に、顔面蒼白になる。

「あるじー! どこに行ったんだよー!」

 彼女はそう叫びながら、トオヤの槍を持って船内を走り回る。一方、トオヤもまたそんな喧騒の中で異変に気付き、レアの客室の中で、自身の右手の甲に聖印を具現化させる。その上で、レアの客室にいた護衛の兵士達に「レア姫を守ってくれ」と告げた上で、チシャと共に、自分の槍を確保するためにひとまず部屋へと戻ろうとした。だが、それに対して、レアは首を横に振る。

「この船を狙って潜入したのであれば、おそらく狙いは私でしょう。彼等が私を探しているのであれば、私がここに隠れ続けることによって、関係無い方々に無用の被害が出ます」

 そう言って、レアはトオヤやチシャと共に行動することで、あえて敵の目を自分達に引き付けて、返り討ちにする、という案を提示する。レアは腰にレイピアを下げており、騎士として最低限の剣技も嗜んでいる。また、彼女の聖印は「治癒」を得意とする聖印である。
 その言葉を聞いたトオヤは少し考えた上で、頷きながらこう言った。

「あまり前には出ないでくれ」
「分かっています。あなたの力に期待しましょう」

 そう言って、彼等がチシャと共に部屋を出たところで、船内の通路で数人の「海賊達」と遭遇する。それは確かに、乗船時から「怪しい」と思って警戒していた者達であり、彼等の下卑た視線は、明らかに「レア」と「その周囲の護衛達」に向けられていた。。出来れば、武器を確保した状態で遭遇したかったが、こうなった以上は仕方がない。トオヤは覚悟を決めて、手の甲の聖印を腰のベルトのバックル部分に掲げた。

「変身!」

 彼がそう叫ぶと、それまで簡素な革鎧のように見えていた鎧が、「防具の印」の力によって強化され、肩当て部分がバナナの皮を形取った特殊な形状へとその姿を変貌させる。一方、チシャは空飛ぶカボチャの魔物「ジャック・オー・ランタン」を出現させ、海賊達が自分達に近付くよりも先に彼等の方へ向かわせて炎を浴びせかけつつ、その直後に今度はウィル・オー・ウィスプを瞬間的に召喚し、炎に焼かれた前衛の海賊達にとどめを刺す。青の系譜の召喚魔法師の真骨頂とも言うべき、圧倒的な魔法火力である。
 それに対して、生き残った海賊達がトオヤやチシャに対して反撃とばかりに斬りかかろうとするが、トオヤは「光の盾」を召喚することで、素手ながらもチシャを庇いながら、海賊達の攻撃を全て受け止め続ける。その間に繰り出されるチシャの召喚魔法によって、次々と海賊達は倒れていった。
 そんな中、チシャの魔法の気配を察知したカーラが通路の反対側から現れ、ひとまず槍をその場に置いた上で、チシャの近くにいた海賊に対して自らの「本体」を用いて斬りかかり、あっさりと瞬殺する。

「ヒィィィ、かなわねえ!」
「逃げろ!」

 そう言って、海賊達は彼等から逃げ去ろうとする。だが、ここでトオヤ達が後方に目を向けると、レアは怪我一つなく無事であったが、トオヤ達が戦っている間にレアの従者達が次々と海賊達に倒されていた。と言うよりも、海賊達はレアでもトオヤ達でもなく「レアの従者達」を集中的に襲っていたようにも見える。
 そんな状況下で、トオヤはカーラが持ってきた槍を受け取った上で、チシャ、カーラ、レアと共に生き残った海賊達を追いかけていくと、その海賊達が向かう先の甲板の方から、不気味な「蠅らしき何か(以下、蝿)」の大群が現れ、その海賊達に襲いかかった。

「なんだ、こいつら!?」
「こんなの、聞いてねえぞ!」

 海賊達はそう叫びながら、その蝿の大群に囲まれる。それは明らかにただの蝿ではなく、異界から出現した「吸血蝿」であった。蝿達は海賊に取り付き、少しずつ血を吸い取っていく。海賊達は剣を振り回して追い払おうとするが、全く通用しない。
 そして、甲板の方面からは、一般客と思しき人々が蝿に襲われて悲鳴を上げている声も聞こえてくる。状況的に考えて、海賊達がこの蝿の大群を呼び出したとは考えられないが、かといってこのまま放っておいて良い存在ではないらしい、ということを察したレアは、やや戸惑いながらもトオヤに提言する。

「なかなかに厄介な手合いのようですね。トオヤ、ここは引きましょう。あれが投影体だとするならば、このタイミングで自然に発生するとは思えない。誰か使役している者がいる筈。それを探しましょう」
「とはいえ、いくら君を襲った連中であろうとも、投影体に襲われている者達を見捨てる訳にもいかない。カーラ、チシャ、悪いが姫を船内の安全なところに連れて行ってくれ」

 トオヤにそう言われたチシャは、一瞬戸惑う。

「『安全なところ』ですか?」
「あぁ。まぁ、無いかもしれないが、それでも、ここよりはマシな場所がどこかにあるだろう。俺はその『逃げる間の時間』を稼ぐ」

 トオヤはそう言って、蝿達に向けて槍と盾を構える。

「なるほど。では、その間に安全な場所を探しつつ、敵の首謀者を探すことにしよう」

 レアがそう言うと、それに対してチシャが黙って頷く一方で、カーラは微妙に逡巡した表情を浮かべながら、ひとまずレアに一礼した。

「ご挨拶が遅れてしまって申し訳ございません、レアお嬢様……、えーっと、ごめん、普通に喋るね! とっとと避難しよう!」
「構わない。あの状況では、挨拶も何もなかろう」
「その上で、チシャお嬢、レアお嬢、ボクはあるじ様のところに残っていいかい? あの虫達を、あるじ様一人で食い止められるとは思えないんだ。それに、僕の中で一番優先すべきは、やっぱりあるじ様だから。キミ達が許してくれるなら、ここに残りたい」

 そう言って、カーラはトオヤと同じ方向を向きながら、彼の隣に立つ。

「いや、ここは俺一人で……」
「この通路の幅を考えたら、横をすり抜けられる可能性があることも考えておくれよ!」

 確かに、蝿達が極小の群体であることを考えれば、トオヤ一人では完全にその進路を塞ぐことは難しいだろう。更に言えば、カーラはトオヤ同様の重装備なので、むしろ一緒に逃げる場合、速度的な意味で足手まといになる可能性もある。
 その意図を理解したレアとチシャは、それぞれに頷きながら、トオヤとカーラに二人に背を向けた。

「私達が逃げる退路を確保するためでもあるのだろう? ならば、頼む」
「反対する理由はないですね、お願いします」

 そして走り出そうとする直前、改めてレアはカーラに一言告げる。

「私が言えた義理でもないが、トオヤを頼んだ。私達はその間に、召喚主を探そう。チシャ、行くぞ!」
「はい!」

 こうして、ジャック・オー・ランタンを伴い、二人はその場から走り去って行く。それを確認した上で、トオヤとカーラは改めて蝿達に向かって武具を構えた。この時点で、既に海賊達の大半は蝿に倒され、無残な死骸が通路に転がっている。

「カーラ、攻撃は任せる。防ぐのは任せろ!」
「当然だよ!」

 トオヤがそう言うと、蝿達は、まるでそのトオヤの意を汲んだかのように、トオヤ一人に向かって襲いかかってきた。トオヤは光の盾を召喚してどうにか食い止めるが、その身に毒を受けてしまう。
 それに対して即座にカーラが横から蝿達を薙ぎ払おうとするが、相手が極小すぎて、なかなか思い通りに当たらない。ひとまずトオヤが手持ちの解毒薬を服用しながら蝿達の襲撃に耐え続ける中、なかなか戦況が好転しないまま、気付いた時には海賊達も全滅し、全ての蝿達がトオヤに向かって集中して襲いかかる。
 だが、ここでトオヤが、重装備をもろともせぬ奇跡的に機敏な動きで、その蝿達の攻撃をかわしきった。

「お前達の動き、見切ったぞ!」

 それに続いて、カーラもまたようやく蝿達の動きを完全に捉える。

「我が姿は、敵を撃つ!」

 その掛け声と共に、蝿達はカーラの刃から放たれた光の波動のような剣撃と共に、一瞬にして廃塵と帰した。この時、カーラは何か「特別な手応え」を感じたが、それが何なのか、この時点のカーラには分からない。ひとまず、治療キットと気付け薬でトオヤの傷を癒した上で、二人はレアとチシャを追う。

3.5. 偽物と本物

 その頃、レアとチシャは、混乱する船内を走り回りながら、周囲の状況を確認していた。どうやら船内の各地で同じような蝿達が発生しているらしい。なんとかそれらを避けながら、発生源を探して奔走していると、二人は甲板に立つ一人の魔法師風の男を発見する。それは、乗船前にカーラが見つけた「偽装した魔法師」と思しき、あの男であった。

「おや、自力でここまで辿り着きましたか」

 悠然とした態度で魔法師風の男がそう呟くと、レアは気丈に言い返す。

「甘く見られては困る。修羅場を乗り越える宿命は、生まれた時から背負っている」

 だが、そう言われた男は、レアをチラッと流し見た上で、彼女に対してではなく、チシャに対してこう言った。

「どうやら『良き護衛』に恵まれたようですね」

 「護衛」である筈の自分を見ながら彼がそう言ったことに対して、チシャが困惑した表情を浮かべていると、男はそのままチシャに向かって語り続けた。

「とはいえ、ここであなたが抵抗すれば、犠牲者が増えます。あなたが私と一緒に来てくれれば、我々はこれ以上、被害者を増やしません。さて、おとなしく投稿して頂けますか、レア様?」

 彼は、はっきりと「チシャ」の顔を見て、そう言った。

「え!?」

 当惑するチシャを横目に、レアが呆れたような口調で言い放つ。

「自分達の誘拐対象くらい、きちんと顔を覚えておけないのか?」
「何!? 違うのか? では……」
「余計な情報を与えてやるのも癪だが、どうにも看過出来んな。私がレア・インサルンドだが?」

 レアがそう言うと、その男は改めて二人を値踏みするような目で見比べる。

「違うな。仮にそこの女性がレア様ではないにしても、少なくともお前はレア様ではない。なぜならば……」

 その男の発言を遮って、レアが口を挟んだ。

「君は魔法師か。ならば、『分かる』のかもしれないな」

 レアは何かを察したような表情を浮かべながら、小声でチシャに問う。

「チシャ、こいつは『敵』だという認識でいいな?」
「はい」
「もう一つ、確認したい。君は口が堅い方かね?」
「……軽くはないと思ってます」
「ならいい。あいつを倒す!」

 レアはそう言いながら腰のレイピアを抜くと同時に、反対側の手で懐に隠していたマイン=ゴーシュを取り出す。そして、それまでの「気品ある姫君」としての態度から一転して、どこか妖しくなまめかしい表情と雰囲気を醸し出しながら、誘惑するような視線を魔法師風の男に向ける。

(なんだ、この女……、私の心に、何かを訴えかけてくるような……)

 魔法師風の男はその視線に困惑しながらも、「蝿」の群れを新たに召喚する。だが、その直後にジャック・オー・ランタンが彼に向かって襲いかかった。レアに視線を奪われて、心を乱されていたその男は、カボチャの身体から発せられる燃え盛る炎を直撃し、火傷を負う。次の瞬間、今度はレアがレイピアとマイン=ゴーシュを両手に構えた態勢から即座に踏み込み、その男に向かって斬りかかる。男は即座に飛び避けて致命傷は避けられたものの、明らかにその「王族の剣技とは思えぬトリッキーな動き」に困惑させられる。
 そんなところに、トオヤとカーラが到着した。自分が「先程までとは明らかに異なる雰囲気」を醸し出していることを自覚しているレアは、援軍の来訪に対して、複雑な表情を浮かべる。

「おや、来てしまったか。まぁ、心強くはあるが……」

 視線を逸らしながらそう呟くレアに対して、トオヤは困惑した顔で周囲を見渡す。

「これは一体、どういう……?」
「あれは敵です!」

 チシャが目の前の魔法師風の男を指して、そう叫んだ。レアの不可解な動作はともかく、この男が「蝿」を召喚していることは確認出来た以上、まずはこの男を止める必要がある。チシャはそう考えていた。
 だが、その直後、その魔法師風の男は、今度はカーラを凝視しながら、こう叫んだ。

「そうか、あなたこそがレア様であったか!」
「は!?」

 先刻のチシャ以上に困惑した顔を浮かべるカーラに対して、一人納得した表情のその男は、感極まった声で語り続ける。

「間違いない! これほどまでに強い気配を感じたことはない!」
「えっと……」
「お前は一体、何を言っている?」

 困惑するカーラの横から、思わずトオヤが口を挟むが、その男はまるで相手にしようともしない。戸惑いながらも、カーラはその男に問いかけた。

「ボクは『ちょっと普通じゃないかもしれないオルガノン』なんだけども……、なんでそうなるんだい?」
「オルガノン?」

 男が不可解な顔を浮かべると、今度はレアが再び口を開く。

「その様子から察するに、魔法師だろう? オルガノンを知らんとは言わせんぞ」
「いや、さすがに、オルガノンは知っているが……、しかし、オルガノンな筈が……、いや、しかし、確かに彼女からは混沌核の力が……、ど、どういうことだ?」

 今度は男の方が混乱した様子を見せる中、レアは改めてその男に向かって二本の刃を向ける。

「まぁ、いい。話はお前を捕らえた後で聞こう」

 そう言って再び斬りかかろうとするレアに対して、その男は魔法の光弾をレアに向かって打つ。至近距離からの一撃がレアを捉えようとした瞬間、チシャが異界からその場にケット・シーを呼び出した。

「汝に祝福を与えるニャ」

 瞬間的に呼び出されたそのケット・シーの加護もあって、レアはかろうじてその光弾を避ける。それと同時に、彼女は再び魔法師風の男に視線を向けて呟く。

「そうさ、私だけを見るんだ。さぁ、もっと深く、こっちにおいでよ……」

 男がその視線に再び心を奪われているところに、またしてもジャック・オー・ランタンが襲いかかり、その男の身体は炎に包まれる。レアはその様子を見ながら、更に挑発するような表情で呟きつつ、畳み掛けるように斬りかかる

「そうだ、よそ見をしていたら、身を滅ぼすよ……」

 その動きは、明らかに通常の人間の動作ではない。そして、彼女の周囲から「邪紋」の気配が漂っていることが、その場にいる全員に伝わった。

(レア、君は一体……?)

 トオヤが困惑した表情を浮かべる中、彼女はなおも微笑を浮かべて、魔法師風の男に向かって艶っぽい表情を浮かべながら、彼の心を乱すような言葉を囁き続ける
 一方、ケット・シーの力を用いたことで魔力を使い果たしたチシャは、気付け薬を用いて再び大技の魔法を放とうと試みるが、(彼女の持っていた薬がたまたま低品質な代物だったせいか)今ひとつ精神力が回復せず、苦しそうな表情を浮かべる。
 これに対して、援軍として到着したトオヤのところには、先刻この男に呼び出された蝿達が襲いかかって来るが、それに対してカーラが全力で斬りかかった結果、その大半がその場で即座に消滅する。この時、カーラの斬撃が再び「特殊な輝き」を放っていたことに、カーラ自身も、トオヤも、そして魔法師風の男も気がついた。男は驚愕の声を上げる。

「その輝きは……、ヴィルスラグ!? なぜ、あの宝剣がここに……」

 ヴィルスラグ、それは英雄王エルムンドが用いていたと言われる伝説の宝剣の名である。代々ヴァレフール伯爵家の当主に引き継がれ、現在はレアの父であるワトホートが所有しているが、近年は式典などの際に稀に持ち出される程度で、武器として使用された記録は殆どない。

「ボクが、ヴィルスラグ……? いや、そんな筈は……」

 カーラは、宝剣ヴィルスラグの存在自体は聞いたことはあるが、実物を見た記憶はないし、少なくとも自分が目覚めた後の五年の間に「ヴィルスラグが宝物庫から消失した」などという騒ぎが起きていないことから察するに、自分自身がヴィルスラグである筈はない。更に困惑を深めるカーラであったが、どうやらこの蝿達を倒せるのはカーラしかいないらしいということを察したトオヤは、ひとまず目の前のレアを守るために、彼女の近くへと駆け込む。

「カーラ、すまん、任せた!」
「仕方ないなぁ、任されたよ、あるじ!」

 それに対して、魔法師はレアとトオヤを同時に巻き込む形で火炎魔法を放つが、レアはそれを華麗に避け、トオヤは直撃するも聖印の力によって耐えきる。
 一方、蝿達はトオヤが目の前から消えたことで、カーラに襲いかかるかと思われたが、彼等はカーラには目もくれず、再びトオヤの方向へ向かって飛びかかる。この状況は、先刻の蝿達との戦いでも同様であった。彼等がトオヤ一人を狙っているのか、あるいは、カーラには本能的に手が出せないのかは不明であるが、いずれにせよ、主人を守ることを本懐とするカーラは、その蝿達を止めようと追いかける。
 そんな中、ジャック・オー・ランタンの執拗な攻撃に苦しめられていた魔法師は、突如、その身を変化させる。そこに現れたのは、人間と同じくらいの大きさの、巨大な「二足歩行の蝿のような姿の怪物」であった。その姿に四人が絶句する中、その怪物は背中の羽を広げて、海に向かって飛び去って行く。そして彼を追うように、船内の各地で暴れまわっていた蝿達も、一斉に海上の空へと消え去っていくのであった。

(結局、私は誰を拐えば良かったんだ……?)

 その蝿のような姿の男は、最後まで状況が把握出来ないまま、そのまま何処かへと姿を消す。そして、チシャが力を使い切ってしまった現状において、トオヤ達には彼等を空中から追い討ち出来る術はなく、ただそのまま黙って見送ることしか出来なかった。

4.1. 解けない困惑

 レアやトオヤ達が蝿の魔法師と戦っている間に、海賊達も、レア姫の部下達も、そして船の衛兵達の大半も、吸血蝿達の群れによって命を落とし、一般乗客にも多くの犠牲が出ていた。そんな中、トオヤ率いる「旅の傭兵達」が蝿達を撃退してくれたと考えた乗客や乗員達は、素直に彼等に感謝の意を示す。
 だが、トオヤとしては、ここで彼等の歓待を素直に受けている余裕はなかった。ひとまず、当初の予定通り、チシャはタクトを用いて「偶然この海域を通りかかる筈のアキレスの巡回艇」に乗船している魔法師への通信を試みる。しかし、一切の反応がない。やむなく、チシャはアキレスにいる別の魔法師に連絡を取ってみたが、彼等もまた、巡回艇に乗っている魔法師とは連絡が取れない状態になっているという。

「向こうでも、何かあったのだろうか。これは面倒だな……」

 トオヤはそう呟く。明らかに、これは想定外の事態である。先刻の状況から察するに、あの「海賊達」と「蝿の魔法師」は協力関係ではなかった。つまり、自分達以外に、二つの異なる勢力がレアを狙っていたことになる。ケネスがそこまで把握していたなら、最初からそう告げていた筈である。トオヤが指摘していたように「策に溺れた」のかは分からないが、少なくとも、肝心の巡回艇と連絡が取れなくなっている時点で、ケネスの計画が破綻したことは間違いない。
 そして、このまま何もしなければ、この船はオーキッドに向かうことになる。アキレスから別の船を派遣してもらっても、おそらく合流する前にこの船はワトホート派の領主が治めるオーキッドに到着してしまうだろう。一応、「トオヤが偶然レア姫を助けた」という建前は成立するものの、レア姫の身柄はそのままワトホート派が確保することになり、逆に自分達の身柄が拘束されることになりかねない。
 そんな中、カーラは自分の「本体」を見ながら、トオヤに問いかける。

「うーん、ボクの剣、何か変なとこあるかい?」
「いや、立派な剣にしか見えないが」

 ヴィルスラグは滅多に表には出さない宝剣である。トオヤも、稀に式典の際に持ち出されているのを見たことがあるが、確かに、カーラの本体とも、どこか似ていると言えば似ているかもしれない。しかし、ヴィルスラグの先端部分は割れてはいないし、誰がどう見ても「別の剣」である。

「だが、そのことについて、今は調べる術がない。だからカーラ、その問題は一旦、横に置いといていいか? それよりも今は……」
「うん、まぁ、そうなんだけど、ただ、これだけ言っておきたいんだ。ボクは昔、あるじのお爺様の契約魔法師の方に『投影体の気配がしない』と言われたことがあるんだよ」

 「あるじのお爺様の契約魔法師」とは、先日パンドラ革命派によって殺されたハンフリーのことである。彼はカーラのことをオルガノンであると知りながらも、通常の投影体から感じ取れるほどの混沌の気配が感じ取れない、不思議な存在であると言っていた。ハンフリーはチシャと同じ召喚魔法師であり、魔法師の中でも特に投影体に詳しい専門家である。カーラは、その彼でも正体の判別がつかないほどの特殊な存在であるらしい。
 実際、カーラも過去に幾人かのオルガノンと出会ったことはあるが、皆、自分よりも強い混沌の気配を発していた。ハンフリー曰く、カーラの体内に存在する純粋な混沌量は、実は邪紋使いと同程度しか感じられないらしいが、どう見てもカーラは邪紋使いではなく、その身体はオルガノンそのものとしか思えない。だからと言って、それが「レア」と間違えられる要因とは考えにくいのだが、先刻の魔法師の発言から察するに、もしかしたら、彼女の身体には「エルムンドにまつわる何か」が埋め込まれている可能性もある。

「結局、そのことについて詳しい話を聞く前に、彼が亡くなってしまったから、良く分からないけど、とりあえず、ボクは『普通の投影体』ではないそうだよ。それはもしかしたら、ボクの記憶がないことにも関係あるのかもしれない」
「そうか……。ありがとう、教えてくれて」
「まぁ、今のこの状況では、何の役にも立たないような気がするけどね」

 実際のところ、この情報だけでは何も分からない。そして、今の彼等にとっては、カーラの正体以上に、確かめなければならない事案があった。

4.2. 「姫」の正体

「で、そちらの話は終わったか? なら、そろそろこちらに矛先が向く頃だと思とうが」

 レアがそう問いかけると、トオヤが恐る恐る問いかけた。

「レア、君は、邪紋使いだったのか?」
「そうだな……、そういう訳ではない。見せてしまった以上は仕方がないだろう。ここまで言ってやる義理もないとは思うが……。先程、『私』を、いや、『僕』を逃すために身体を張った君は、すごくカッコ良かった。それに報いることはしなければな。僕のことを話そう」

 彼女はそう前置きした上で、改めて三人を見渡して語り始める。

「僕は、レア・インサルンドではないよ。とはいえ、なんて自己紹介したものか……。僕には『名前』も『本来の姿』もない。ヴァレフールのお偉方、グレンの副団長やその辺りは、僕のことはパペット(人形)と呼ぶけどね」
「パペット……?」

 トオヤとチシャが、口を揃えてそう呟く。

「その通りの意味さ。この力を生かして、レア姫の姿の代わりを務める。それだけの存在だ。この姿だと混乱を招くね。姿を変えよう」

 彼女はそう言うと、その身を変化させる。それは、男性なのか女性なのかもよく分からない、中性的な一人の若者の姿であった(下図)。


 その変化の瞬間、トオヤ達三人は、先日自分達の村を訪れた、「ヴァルスの蜘蛛」の一員を名乗っていた女性のことを思い出す。そう、彼女(?)もまた、己の身を変化させ、人を惑わす能力に長けた、幻影の邪紋使いであった(ちなみに、実はトオヤ達を「レア」の客室まで案内した「レアの侍女」も、実はこのパペットの変身した姿である。パペットが、「レア」の姿のまま外に出る訳にはいかないと判断した上で、それでもトオヤと会話する機会を作りたいと考えたが故の「奥の手」であった)。

「あ、でも、勘違いしないでくれよ。この姿が僕の『本来の姿』という訳ではない。幻影の邪紋使いに本来の姿を問うのがどれくらい無意味なことかは、分かってもらいたい。そもそも、僕にも分からない」

 淡々とパペットは語り続けるが、そんな彼女(?)に対して、トオヤは動揺のあまり、言葉が出てこない。チシャも、先刻の問答から、「本物のレアではないのかもしれない」ということはある程度予想していたものの、さすがに驚いて何も言えない状態であった。
 その上でパペットは、彼等が今、最も聞きたがっているであろうことを察して、聞かれる前にそのことについての説明を始める。

「サンドルミアに向かったレア姫だが、いくばくか事情があって、今はヴァレフールに戻って来れない」
「それは一体……?」

 トオヤが心配そうな顔で問いかけると、パペットは「どこまで話して良いものか……」と言いたげな顔を浮かべながら、やや歯切れの悪い言い回しで答える。

「少しあちらで、レア姫の身にトラブルが起きて、それの解決のために時間が必要なのさ。だから、僕がレア姫の代わりとして、しばしこのヴァレフールに戻ることになった。君達を騙していたことは謝ろう。僕はずっと君達を騙し続けていた。五年前の『あの時』からね」

 そう言われたトオヤは、自分の中の「レア」の記憶を思い返しながら、まだどこか信じられないような顔で問いかける。

「『あの時』から既に、レアは君だったのか?」
「レアがレアであった時もあった。レア姫はね、父親ほどではないけど、たまに体調を崩すことがあって、その時は僕が『代わり』を務めていた。だから、あの頃、君達が会っていたレアは、時折本物でもあったし、時折僕でもあった。ちなみに、カーラさん、君を見つけた時は僕だよ。本当は『あの時』も、レア姫は『どうしても自分が行きたい』と言ってたんだけど、出発前の激務もあって、体調を相当崩していたからね」

 そう言われたカーラは、まだどこか半信半疑ながらも、自分を封印から解き放った「五年前のトオヤとチシャとレア」のことを思い返しながら、ひとまず彼女(?)の言う話を、自分の頭の中で整理しつつ受け入れる。

「だったら、ボクはレア姫でもなく、君のことを『恩人』だと思えばいいんだね。というか、君のことは『お嬢』と呼んでいいのかな?」
「どちらでも構わないよ。僕は、本来の性別すら忘れてしまったから」

 パペットは苦笑しながらそう答える。この時、カーラの中では、自分が三人に引き抜かれた時に実感した「不思議な感覚」のことが思い返されていたが、ここで「その時点でのレア姫」の正体が分かったところで、まだその真相を明らかに出来るだけの情報が揃っていなかったため、この場で口にする訳にはいかなかった。

「なんというか、頭が痛くなる話だな」

 トオヤが心底悩ましい顔でそう呟くと、パペットは再び苦笑いを浮かべる。

「本当にね」
「さて、どうしたものかな……」

 トオヤが天を仰いで考えをまとめようとしている中、再びカーラがパペットに問いかけた。

「パペット君は、誰の指示でレア姫の代わりとして帰ってくることになったんだい? それとも、元々『彼女の調子が悪かった時は、必ず君が戻る』という話になっていたのかい?」
「正直な話、いつまで僕がレア姫の代わりをすればいいのかは分からない。ただ、僕がここに戻ってきたのは、レア姫の意思だよ」
「レア姫の父君は分かっているのかな?」
「分かっていないだろうね。ただ、僕が影武者を務めていること自体は知ってる。まぁでも、僕は別にヴァレフールに仕えている訳じゃなくて、レア姫個人に仕えている訳だからね。ヴァレフールを騙すことになったとしても、僕はレア姫として生きるさ」

 なお、レア姫はワトホートから従属聖印を受け取っている以上、もしレア姫に何かあったら、ワトホートには分かる筈である。その上で、目の前に「偽物のレア姫」が現れた時に、それを彼が見破れるかどうかは定かではないが、さすがに「聖印の提示」を要求されれば、それはごまかしきることは出来ないだろう。見かけ上、「聖印のような光」を生み出すことは出来ても、それが本物か否かは、実際に力を発動させてみればすぐに分かる話である。

「ちなみに、当然だけど僕は、この話が広まるのを良しとしない。チシャには一応、口は堅いかと確認は取ったつもりだが、とはいえ、思ったよりも壮大な話ではあっただろう? もし君達がこの話を『レア姫の望まぬ方向』に伝えるのであれば、僕はここで君達と刃を交えなければならなくなる」

 それを聞いたトオヤは、持っていた槍をその場に放り投げる。その様子に対して、パペットは少しだけ驚いた顔を見せる。

「武器の扱いが随分雑じゃないか」
「確かに、俺の魂を預ける武器ではあるが、あれは武器だ。仲間を殺すためのものじゃない。だから、今は必要ないのさ」

 つまり、トオヤにとっては、たとえ「偽物」であろうとも、「彼女(?)」は仲間だという認識であるらしい。一方で、さすがに「自分自身」をその身体から外す訳にはいかないカーラは、ひとまず刀身を納める。

「僕の恩人は、レア姫じゃなくて君なんだろ? だったら、僕は『お嬢』のために黙っていることは構わないんだが」

 ここで言う「お嬢」とは、パペット自身のことらしい。そして、チシャもまた、ジャック・オー・ランタンをその場から消し去る。

「私も、レアの望まぬことはしたくないし、あなたと戦うつもりはないです」

 三人のそんな様子を確認したパペットもまた、静かにレイピアを腰の鞘に収めて、ようやく穏やかな笑顔を見せる。

「そうか。では、お礼を言うべきなのだろう。ありがとう」

4.3. 若き守護騎士の決意

「それよりも、君達は大丈夫なのかい? これからこの船が行く場所は、君達にとって『敵地のど真ん中』だぞ」

 パペットにそう言われたトオヤは、改めてそのことに思案を巡らせつつ、まずは一つずつ状況を整理しようとする。

「さて、どうしたものか……。ひとまず、今回は大きな襲撃があった。『彼等』は『本物のレア姫』を拐おうとしている筈だから、サンドルミアの方には警告しなければならないな」

 実は、今の時点で「サンドルミア」にそのことを伝える必要はなかったのだが、ひとまず今は、まだそのことを説明すべき時ではないと判断したパペットは、その点については黙っていた。その上で、話を本題に戻す。

「向こうに着けば、僕は『レア姫』だ。可能な限り君達のために便宜を図ろう。ただ、父上やグレンの副団長殿の圧力を防ぎきれる自信はない」
「グレンの副団長殿から見れば、俺とチシャは政敵の孫だからな。利用価値など、いくらでも見出すだろう。こうして考えている時間も惜しいが、さて、どうしたものか……」

 オーキッドに着いた時点で、トオヤ達三人の正体が発覚する前に、三人がその場から立ち去って陸路でタイフォンを目指すことも可能だろう。体制派と反体制派は対立しているが、まだ明確に「国境」が引かれている訳ではなく、比較的中立的な地域を経由すれば、反体制派の領域まで辿り着くことは出来る。ただ、「レア」の現状を聞かされた三人は、このまま「彼女(?)」を一人でワトホートの元に送ることに、ためらいを感じ始めていた。
 しばしの沈黙が流れる中、カーラが口を開く。

「あるじとチシャお嬢は向こうに知られているだろうけど、ボクは向こうに顔が割れていない可能性がある。だから、ボク一人であれば、『船で姫を守った傭兵』を姫がその場で雇った、という形で、『姫』について行くことは出来ると思うけど」

 つまり、カーラとしては、自分一人でも「恩人」であるパペットを守るために、彼女(?)の近くに居続けたいという考えらしい。だが、トオヤとしては当然、それはそれで心配事の種が増えることになる。

「お前、それは大丈夫なのか? 単身で敵地の中に入って、『姫』を守ることが出来るのか?」
「うーん、『姫』のために動いてくれる人が、果たしてどれくらいいるか、ということにもかかってきちゃうんだよね」

 それに対して、パペットはやや暗い表情を浮かべる。

「正直言って、ろくにいないだろうな。ここ五年間でヴァレフールの政局は大きく動いた。その中で『私』が不在だった、というハンデは大きい」

 パペットがそう呟くと、トオヤは何かを決意したような瞳で彼女(?)を見つめながら、こう言った。

「もし、今向かっている『本土』の地で、君の身が安全でないというのなら、悪いけど、俺についてきてくれないか?」

 自分が「偽物」だと知った上で、そう問いかけてきたトオヤに対して、パペットは神妙な顔で問い返す。

「本当に? それは、冗談ではなくて?」
「あぁ、本当だ。確かにそうすることによって、反体制派と体制派による争いが激化する可能性も十分にある」
「だろうね。なにせ騎士団長殿の孫と、ヴァレフール伯爵位の第一継承者だよ」
「とはいえ、君をこのままそちらにやる訳にはいかない。危険だと分かっている幼馴染を、このまま放っておく訳にはいかない」
「でも、僕は『影武者』だよ」
「それでも一緒だ。『幼馴染』だろう?」

 トオヤのその真っ直ぐな視線を見つめながら、パペットは少し意外そうな表情を浮かべつつ、小声で呟く。

「ふーん……。レア姫の立場を借りてるというのに、好き勝手したら、怒られるかな……?」

 様々な意味で逡巡した表情を浮かべるパペットであったが、トオヤはあっさりと言い放つ。

「でも、レアが『昔通りのレア』なら、それくらいは許してくれるさ」
「そうだね。彼女はそういう人だ。さて、そろそろ動かなければならない頃合いだが……」

 そう言って、パペットはその姿を再び「レア姫」に戻す。

「せっかくだから、こっちの方がいいな。私の手を引いて、連れて行ってよ。さぁ、私を攫ってくれるんでしょう?」
「あぁ、それくらいはしてやるさ。では……、今からこの船を乗っ取ろうか」

 トオヤはそう言って、槍を構える。当初の祖父の命令では、あくまでも「穏便に」レア姫の身柄を確保する予定であったが、既に祖父の計画は崩れている。ここは「流れの傭兵」改め「流れの隠れ海賊」として、船長を脅して、船の行き先をアキレスもしくはタイフォンの方角へと向かわせるのが、この状況を最も確実に打開出来る道であるように、トオヤには思えた。船の兵士達も大半が死傷した現状であれば、それも決して難しくはないだろう。
 しかし、さすがにそれに対しては、カーラが異論を唱える。

「いや、待ってよ、あるじ。もっと穏便な方法があるだろう? この戦いで人足が失われたから、そのための船員補充とか、そういった理由で、『他の港町』に寄ることを提案してみてはどうだい?」

 カーラとしては、さすがに主人が(幼馴染を守るためとはいえ)堂々たる犯罪行為に手を染めるのは見過ごせなかったらしい。とはいえ、仮に船長にそう提案してみたとしても、今から他の港町に寄るために航路を変えるよりは、このままオーキッドに向かった方が早い、と言われる可能性が高いだろう。船員を補充するにしても、中途半端な漁村ではなく、本格的な港町であるオーキッドの方が望ましいことは明らかである。
 そうなると、この船の航路を変えずに「レア姫」を連れてタイフォンへと向かうには、船に設置されている緊急脱出用の小舟で船を出るのが一番確実ではあるが、あえてこの状況で、自分達が「ヴァレフールの姫君」を連れて航路の途中で船から降りるのは、それはそれで明らかに不自然であり、船員達に不審がられることにもなりかねない。

「じゃあ、ここは僕がなんとかしようか」

 パペットはそう言って、再びその姿を「別の人物」へと変化させるのであった。

4.4. 小舟に揺れる想い

「おーい、さっきの蝿の化け物の死体がまだ残ってんだ。片付けるために、ちょっと手伝ってくれよ」

 脱出用の小舟を管理している部署の船員達に対して、そんな声が響き渡る。声の主は「どこにでもいそうな顔をした船員」である。既に多くの船員の死傷者が出て、人手不足なことが分かっていたこともあり、その場にいた船員達は揃って、その声のする方へと向かっていった。
 しかし、彼等がその声のする場所へと向かった時には、その声の主はどこにもいない。そして、その声の主は、再び「レア姫」の姿に戻って、トオヤ達と共に、見張りのいなくなった「小舟」に乗って、そのまま海へと漕ぎ出していた。これもこれで、明らかな「小舟泥棒」という犯罪行為ではあるが、船の航路を強引に変えさせるために脅しをかけるよりは、まだ幾分穏便な方法と言えよう(航路変更に伴う乗客達への損害賠償に比べれば、小舟一艘の値段の方が安い)。
 船の舵は、漁村であるタイフォンで諸々の雑用をこなしてきたカーラが取る。彼女の見事な舵裁きによって、荒波の中を彼等はどうにか乗り切り、ブレトランドの東部へと向かう海流に乗ることに成功する。
 そんな中、トオヤは改めて、今回の件についてチシャに問いかけた。

「チシャ、あの『蝿の連中』について、何か気付いたことはあるか?」

 トオヤは、まだこの時点では「合流前の時点でのやりとり」は聞かされていなかったため、純粋に「異形の魔法師」に関する情報を、魔法の専門家であるチシャに聞こうとしただけだったのだが、チシャはここで、何かを決意したかのような表情を浮かべる。

「いい機会ですし、話しておきましょうか」

 そう言って、チシャは自分がカーラと同様に「レア」に間違えられたことをトオヤ達にも伝えた上で、自らの出自についても語り始める。自分だけが家族と目の色が違うこと、エーラムで出会った時空魔法師に「マッキーは本当の父ではない」と診断されたこと、そして先日出会ったヴァルスの蜘蛛の彼女曰く、自分もまた「パンドラが狙っているエルムンドの末裔」の一覧の中にその名が記されていたことを、包み隠さずそのまま話した。

「私のことをレアと間違えたのは、そのせいでしょう」

 それはつまり、チシャの父親は「ヴァレフール伯爵家の誰か」である可能性が高い、ということになる。無論、パンドラ側が何か勘違いをしているのかもしれないし、そもそもオルガノンである筈のカーラを「レア」と間違えている時点で、彼等にまともな識別眼があるとも考えにくい。とはいえ、チシャが実は自分と同じような「出自に関する疑惑」を抱えて生きてきたという事実を聞かされたトオヤは、困惑しながらも、はっきりとした言葉でこう言った。

「その話を聞いたところで、チシャはチシャだからな」
「……ありがとう」

 チシャは素直にそう答える。ちなみに、ヴァレフール伯爵家には金髪碧眼の人物が多い。チシャの瞳の色も確かに青系であるし、カーラの目の色も「緑がかった青」ではあるが、二人とも髪の色は異なるので(チシャの髪色は赤茶系、カーラは明確な黒髪)、明確に伯爵家の関係者であると言える根拠はない(なお、オルガノンの外見に関しては「元の持ち主に似る」とも言われているが、反証例も多く、明確な定説はない)。
 色々と不可解な事案が多い中、改めてチシャは同船する三人に対して、こう言った。

「せっかくですので、この機会に、他に何か隠していることがある人がいれば、今ここで話しておくべきだと思います」

 それに対して、しばらく沈黙が続く中、トオヤは遠い目をしながら呟くように答えた。

「まぁ、俺は、母に不倫疑惑があったくらいだな」

 それはそれで大問題なのだが、そのことは比較的有名な話なので、三人とも断片的に聞いたことがある。ただ、チシャの場合とは異なり、不倫疑惑の相手が「地球人の投影体」なので、爵位後継問題とはおそらく無関係であるし、パンドラによる誘拐候補の対象にもならないだろう。

「そのせいで父からも疎まれたりもしたが……、その点では、君達がいてくれて助かった」

 実際、一時は人間不信気味だった少年時代のトオヤにとって、同世代(?)の彼等は、数少ない「信頼出来る仲間」であり、精神的に助けられていたことは自覚している。だからこそ、そんな貴重な存在である彼等のことは、どれだけ危険を冒してでも守りたい、という気持ちが極めて強かった。
 もっとも、彼の中ではその中でも特に「レア」に対してだけは「ある特別な想い」があったのだが、そのレアが実は「二人」いた、という事実を目の当たりにした彼は、その自分の「想い」が果たしてどちらに(あるいは両方に?)向いていたのか、自分でもよく分からないまま、困惑した状態が続いていた。

「貴族のお家の問題が絡むと、厄介だね。どこもかしこも」

 レアの姿をしたパペットが、しみじみとそう呟く。そして彼女(?)もまた、「レアの影」として生きてきた自分の中にある「レアの感情を模造した感情」が徐々に一人歩きして、自分の中で特別な位置を占めつつあることを実感していた。五年ぶりに再会したトオヤが、自分のことを「偽物」だと知った上で言ってくれた言葉が、彼女(?)の心に深く染み渡っていたのである。だが、この時点ではまだ、その感情を表に出すことは許されない、という気持ちの方が強かった。それが、これまで「人形」として生きてきた彼女(?)の矜持だったのである。

4.5. 暁の誓い

 カーラが夜通し舵を取り続けた甲斐あって、翌朝にはどうにかブレトランド南部の海岸へと辿り着く。おそらくここは体制派と反体制派の勢力の中間地点付近であり、ここから北上すればおそらく、タイフォンへと続く街道に辿り着くであろうことは推測出来た。
 その状況を踏まえた上で、改めて「レアの姿をしたパペット」は問いかける。

「一応、確認だが、トオヤは『レア姫である僕』のことも背負ってくれる覚悟で、連れ出してくれたんだろう?」
「あぁ、もちろんだ。今のレアがどういう状況なのかは知らないが、今、この国はすごく荒れている。それは知っているだろう?」
「そうだね。サンドルミアでも、風の噂くらいは聞こえたさ」
「それはこのまま放っておいていい問題じゃない。だから……」
「君がヴァレフールをなんとかする、と?」
「あぁ。久しぶりに幼馴染に会って、改めてそう思ったよ」
「随分と理想が高いことで。だが、船の中でも言った通り、高い理想を持つことは、僕はいいことだと思っているよ。君の言葉は確かに聞き留めた。そして、レア姫は僕にとって、『レア姫』ではなくて『私』だ。よろしく頼むよ」

 その言葉の意味を噛み締めつつ、トオヤは彼女(?)の瞳を見ながら答える。

「あぁ、よろしく頼むよ、『レア』」

 彼はそう言った上で、チシャとカーラへと視線を移した。

「二人も大変かもしれないけど、俺の大切な病弱な幼馴染を守るためにも、この国の動乱を治めるためにも、これから色々と奔走するつもりでいるから、よろしく頼む」

 チシャは笑顔で答えた。

「当たり前ですよ。トオヤだけの幼馴染ではないですからね」
「そうだったな」

 カーラもまた、笑顔で答える。

「もちろんだよ。僕は君の剣だからね」
「俺には『敵を倒せる力』はないからな。それは本当に嬉しい。その代わり、俺は君を守ろう。これからも、よろしく頼む」
「承ったよ。こちらこそ、よろしく」

 こうして、暁に染まる水平線を目の当たりにしながら、それぞれに複雑な事情を抱えた四人は誓う。この国を、そして「レア」を救う為に、力を合わせて戦い続けることを。それは、この国全土を巻き込む、壮大なる風雲録の幕開けであった。

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最終更新:2017年04月14日 16:10