第2話(BS31)「日輪の輝き」 1 / 2 / 3 / 4

1.0. 枢機卿と宣教団

 ブレトランド中西部に位置する「神聖トランガーヌ枢機卿領」は、かつてトランガーヌ子爵と呼ばれたヘンリー・ペンブローク(下図)が、2年前にアントリアに敗れて大陸へ亡命した後、聖印教会の中でも特に急進派と呼ばれる「日輪宣教団」と手を組み、世界中から集められた信徒達の力を結集した大兵団によって、旧領の一部を奪還して建国された宗教国家である。


 日輪宣教団とは、聖印教会の中でも特に激しく混沌を嫌う人々の集団であり、投影体や投影装備のみならず、邪紋使いや魔法師の存在すらも認めない、徹底した混沌排斥主義を掲げる組織である。指導者は、エストレーラ出身のイザベラ・サバティーニ(下図)という女性であり、当初は辺境の一司祭に過ぎなかったが、その圧倒的なカリスマによって急速に支持者を増やし、今では次期教皇候補の一人と呼ばれるほどの地位にまで昇りつめている。


 「混沌の産物に頼る生き方を続ける限り、人は永遠に混沌から逃れることは出来ない」という彼女の主張が「正論」であることは、多くの者達が認めている。だが、それは「正論」であるが故に、現実に混沌に頼った生活をしている人々の心を動かすことは出来ない。そんな葛藤を抱えながらも、彼女達は反エーラム勢力の急先鋒として、世界中の魔法師や邪紋使い、そして彼等の力を利用する君主達との闘争を続けている。
 だが、そんな彼女達に支えられた神聖トランガーヌは今、一つの難題を抱えていた。一ヶ月前、国主であるヘンリー・ペンブローク枢機卿が重病に倒れ、生死の境をさまよう中、未だにその後継者が定まっていないのである。彼には「聖印を継げる子供」がいない。聖印教会の教義的には、枢機卿の座の後継者が血縁者である必要はないが、現実問題として、日輪宣教団自体がトランガーヌの民から見れば「よそ者」であるからこそ、民の支持を繋ぎ止めるために、ペンブローク家の血筋を引く者が継承することで、旧トランガーヌ子爵領との連続性を強調する必要があった。
 ペンブローク家の支流と言われる有力貴族家のうち、現在の神聖トランガーヌにおいて現役の騎士を排出しているのは、「カーディガン家」と「ウェルシュ家」の二家のみである。故に、このどちらかの当主がその後継者となるべき、というのが国内の大半の人々の認識であったが、この国の目指すべき方向性(特に日輪宣教団との関係)に関する認識の差異も相まって、複雑な対立構造が形成されていた。

1.1. 悩める青年当主

 カーディガン家の現当主は、ネロ・カーディガン(下図)という名の、若き青年騎士である。2年前の旧トランガーヌ崩壊時に、先代当主である父を亡くした彼は、当時18歳にしてその家名を継ぎ、ヘンリーと共に大陸へと落ち延び、彼と共に聖印教会に帰依した上で、日輪宣教団と共にこの地を奪還するに至った。現在の立場上、エーラムの爵位制度からは外れているが、実質的には「男爵」級の聖印の持ち主である。見た目はまだ少年のような小柄な体格ではあるが、長剣と細剣を同時に操るその二刀流の剣技の使い手として知られており、旧子爵領崩壊後、大陸へと亡命したヘンリーを、最も間近で守り続けた功労者でもあった。


 現状において、旧トランガーヌ子爵家以来の譜代の家臣達の中では、ヘンリーの後継者としては、ネロが最有力候補とみなされている。それは、旧トランガーヌ崩壊時に行方不明となっているヘンリーの妻ジェーンがネロの叔母であり、現時点では血縁的に最もヘンリーに近い血筋の人物だからである。また、旧トランガーヌ子爵領の崩壊以降、常にヘンリーと共に苦楽を共にしてきた身であるが故の「連帯感」もまた、多くの他の側近達からは高評価であった。
 一方、ブレトランドにおける聖印教会の「聖地」フォーカスライトを治める大司教、ロンギヌス・グレイ(下図)もまた、ネロのことを後継者として特に強く推していた。フォーカスライトは、旧三国鼎立時代においては「三国いずれにも属さぬ中立地帯」として、聖印教会の信徒達が集う宗教都市であったが、現在は、なし崩し的に神聖トランガーヌに編入されている。


 フォーカスライトの地には、聖印教会成立以前の時代から「あらゆる混沌を寄せ付けぬ特殊な結界」が存在しており(その起源には諸説あり、英雄王エルムンド、あるいはファーストロード・レオンの遺産であるとも言われている)、それ故に、この地を治めるグレイ家は、ヴァレフールとトランガーヌの緩衝地帯的な立地も相まって、両国から一目置かれる独立勢力としての地位を保っていた。数十年前に聖印教会が結成された際に、当時のこの地の領主(ロンギヌスの祖父)がその教義に共鳴して初代教皇の傘下に加わり、「大司教」の称号を賜ったことで、以後は実質的にブレトランドにおける聖印教会信徒達の頂点に立つ存在となったのである。
 もっとも、聖印教会の教義解釈は人の数だけ存在するとも言われており、フォーカスライト大司教の解釈を受け入れない信徒もブレトランドの中には多い。それでも、様々な宗派の人々との折り合いをつけながら、どうにか「大司教」としての権威を保ってきたロンギヌスであったが、半年前の神聖トランガーヌによる侵攻・編入以降、その地位は徐々に揺らぎつつある。
 そんな彼が、ダーンダルクの王城の廊下で、ばったりとネロに遭遇した。

「これはこれは殿下、お久しぶりです。私はヘンリー陛下の慰問のために参上したところです」

 ロンギヌスはそう言って、ネロに対して恭しく頭を下げる。「枢機卿」である現在のヘンリーへの敬称は、一般的には(上位聖職者への敬称としての)「猊下」であるが、ロンギヌスはあえて現在でも(子爵時代と同様に)「陛下」と呼んでいる。これは、彼の中ではあくまでヘンリーは今でも「世俗権力者」であり、自分と同じ「聖職者」の枠組の中に位置付けるべき存在ではない、という意図が込められている。

「ところで、ご存知ですかな? 世間では、イザベラ様の御息女と、ネロ殿下もしくはリーベック殿下との御婚約の噂がある、ということを」

 ロンギヌスが意味深な声色でそう問いかけると、ネロは、明らかに動揺した表情を浮かべる。

「そ、そうでしたか。それは、その……、知りませんでした」

 ひとまず、ネロはそう答えたが、実際のところ、知らない筈はない。むしろ、この問題こそが、今のネロにとっての最大の悩みであった。
 現在の神聖トランガーヌを支える日輪宣教団の団長であるイザベラ・サバティーニには、ブリジットという名の一人娘がいる。歳はネロよりも1つ下の19歳。彼女とネロが結ばれることこそが、旧トランガーヌ子爵家譜代の家臣と、大陸からイザベラを信奉してこの地に渡ってきた日輪宣教団員との融和のためにも最適の道である、と考える人々は多かった。
 だが、一方で、ブリジットにはもう一人の花婿候補がいた。その男の名は、リーベック・ウェルシュ。カーディガン家と並ぶもう一つの「ペンブローク家の支流」に相当する名家の当主であり、歳もネロと同じ20歳である。彼の父は熱心な聖印教会の信徒であったこともあり、彼は幼少期からイスメイアの教皇庁に留学していたため、結果的に旧トランガーヌの崩壊時に難を逃れることとなり、対アントリア戦で戦死した父に代わって家名を継ぐことになった。その後、亡命したヘンリー達が聖印教会へと帰依する際の橋渡し役も担当することになったのも彼である。
 現状、このネロとリーベックの二人が、実質的にヘンリーの後継者候補の双璧と言われていた。旧トランガーヌ以来の家臣の中ではネロを推す声が強いが、日輪宣教団の人々は、教皇庁で長年修行したリーベックこそが枢機卿の座に相応しいと考え、実質国論が二分されている状態である(正確に言えば、第三の候補として「ヘンリーの庶子」の存在に目をつけ、その人物に帰還を促そうとしていた勢力もいたのだが、結局、彼等の望みは実現せぬまま、その主導者達は命を落とすことになった。詳細はブレトランドの遊興産業6を参照)。

「無論、こういったことは御本人様の御意向が第一とは思いますが、私個人としては、この国を継げる方は、ネロ様を置いて他にはおらぬと思っております故、ネロ様とブリジット様との御婚儀が、この国のためには一番ではないかと」

 そう言われたネロは、更に困惑の表情を深めるが、気にせずロンギンスは語り続ける。

「リーベック様には申し訳ないですが、トランガーヌの民の大半にとっては、血統的にも立場的にも、ネロ様こそが後継者に相応しいと考えております。おそらくリーベック様では、トランガーヌの民はついてきません。それに……」

 ここで彼は、声のトーンを下げる。

「日輪宣教団の暴走を止められるのも、ネロ様だけでしょう。このまま彼等の偏った教義解釈にこの国を委ねて良いとお思いですか? おそらく陛下も、内心では彼等のことを快く思ってはいない筈です。何せ陛下は今、実の息子と対立する立場ですし、色々と心をお痛めでしょう」

 現在、ヘンリーの長男であるジュリアンは、日輪宣教団の教義的には存在すらも許されない邪紋使いとなって、対立するグリース子爵の下で匿われている(詳細はブレトランド戦記7を参照)。過激派の日輪宣教団の意向に従い続ける限り、ヘンリーは息子とは対立し続けなければならない定めを背負っているのである。

「私も聖印教会の信徒である以上、神の御意志は尊重すべきかと思います。しかし、だからこそ、やみくもに敵を増やすだけの日輪宣教団にこの国を任せておくべきではないと考えています」

 二代目教皇ハウルからは「神聖トランガーヌ枢機卿」としてのヘンリーに、ブレトランドを「邪悪なエーラムと手を組む君主達」の手から取り戻すように命令が下されている。それ故に、ロンギヌスとしては、その方針に協力しない訳にはいかない。ただ、その行きすぎた暴走は止めなければならない、と考えていたのである。その考え自体に対しては、ネロも理解を示していた。

「私としても、いたずらに敵を増やすのはどうかと思います。私が聖印教会の教えに共感出来たのは、少しでも多くの民を混沌から救いたいという気持ちからであり、信者以外の人々との間で争いを生むためではありませんから」

 ネロがそう答えると、ロンギヌスは「我が意を得たり」と言いたそうな顔を見せる。

「全くもってその通りです。やはりあなたは、この国にとって必要なお方だ。ブリジット殿との婚儀に関しては無理強いは致しませぬが、どちらにしても、あなたが今後、この国の中核となって下さることを期待しています」
「期待されているのであれば、私もその期待には応えなければなりませんね。それが、私の役割でしょうから」

 よく言えば客観的な、悪く言えばどこか他人事のような口調でネロがそう受け流すと、ひとまず「言いたいこと」を言い切ったロンギヌスは満足した様子でその場から去って行く。
 実際のところ、ネロとしては、この国を自分が背負うことになった場合、進むべき方向性がまだ見えないままであった。というのも、彼は、聖印教会の人々の言うことには一定の理解を示しつつも、彼等の教義の中で、一つだけ腑に落ちない点があったのである。

(聖印もまた、混沌から生まれたものではないのか?)

 ファーストロード・レオンは、混沌核を自らの手で作り変えることで、「最初の聖印」を作り出した。その後も、同じような形で自力で聖印を作り出した者達の記録は残っている。ならば、「混沌の力を使う魔法師や邪紋使い」と「聖印の力を使う君主」は、本質的には同じではないのか? そんな疑問が、彼の中ではうっすらと浮かんでいたのである。だが、彼はこの仮説を、本格的に理論として確立しようという気はない。現実問題として、聖印教会の人々の協力によって、この国を奪還することが出来たのは事実である以上、彼等の信仰に水を差すような言論を声高に振り翳すことは、この国にとって望ましくないと彼自身が考えていたからである。故に、彼はこの仮説を、誰にも伝えないまま封印していた。
 そして、彼にとってのもう一つの悩みは「ブリジット姫」と「リーベック卿」である。現状、彼の中でこの二人は「共にこの国の未来を支える仲間」である。その上で、前者との間で「それ以上の関係」を望むべきなのか、そのために後者と争うべきなのか、彼の中では、まだ気持ちが定まらないままであった。
 そんな複雑な心境を抱えながら、ネロはダーンダルクの王城の一角に位置する、軍務用の会議室へと向かっていく。この後、ネロはその会議室に於いて、まさに「その二人」との会談が待っていたのだが、ロンギヌスがそのことを知った上で、このような話をもちかけてきたのかどうかは分からない。ただ、嫌なタイミングで聞きたくない話を聞かされたネロの足取りは、どこか憂鬱な様子であった。

1.2. 敬虔なる貴公子

 一方、もう一人の「後継者候補」であるリーベック・ウェルシュ(下図)もまた、ネロ達との会談のために、ダーンダルク城の会議室へと向かっていた。風貌的には、眼鏡をかけて、長めの髪を後ろで結いあげた、爽やかな雰囲気の優男であるが、その内に秘めたる本質は苛烈にして果断であり、過去には幾多の「混沌を身に宿した者達」を、年齢・性別・社会的立場を問わず、その手で「浄化」し続けてきた、聖印教会の中でも特にラディカルな信徒の一人である。その聖印はネロと同等の「男爵級」であり、教団内の「実行部隊」の中でも屈指の実力派と言われていた。


 そんな彼の前に、彼よりもやや年上の、一人の騎士が姿を現わした。

「おぉ、そちらにおわしますは、リーベック殿下ですか?」

 そう言って声をかけてきた男の名は、フランク・シュペルター(下図)。彼は、元来はヴァレフールの七男爵家の一つであるシュペルター家の次男坊であったが、聖印教会への信仰心が強く、それ故に、実兄が投影体の少女と恋仲になったことに憤慨して出奔し、日輪宣教団の教義に感銘を受けて神聖トランガーヌへと馳せ参じた人物である。故に、彼は旧トランガーヌ子爵家派にとっても、日輪宣教団にとっても「外様」ではあったが、実質的には後者に近い立場であった。


「あぁ、フランク殿。いかがなさいましたか?」
「本日は、我が領内の施政に関する定時報告のために参上致しました」

 フランクの上司であるジニュアールは、ヘンリーの子爵時代からの側近である。それ故に、今でもヘンリーからの信頼は厚いが、彼は旧子爵領崩壊後に、一度アントリアに降伏して所領を安堵された後に、神聖トランガーヌの建国時に謀反を起こして馳せ参じるという「二度の裏切り」の前科を持つ人物のため、日輪戦教団側が警戒し、フランクを「お目付役」として副官に任命することになった。それ故に、彼の「定時報告」とは、実質的には「領主の監査報告」でもある(逆に言えば、外様でありながらも、そこまでの任務を任される程度には、宣教団側からのフランクへの信頼は厚かった)。

「それはご苦労様です」
「そういえば、風の噂で、リーベック様は近々ブリジット様と御婚儀を結び、正式にヘンリー猊下の後継者となられるとお伺いしたのですが……」

 そう言われたリーベックは、ひとまず社交的な笑顔を浮かべつつ答える。

「まぁ、今は状況が状況ですからね。そのような噂が流れるのも致し方ないことだと思います」
「ということは、まだ本決まりではない、と?」
「もちろんです。御令嬢自身の御意志もあるでしょうし、何より今は私自身が、神にこの身を捧げている立場ですしね」

 イスメイアの教皇庁の教義の中にも、日輪宣教団の団則にも、聖職者の妻帯を禁じる規定はない。ただ、修行の身であることを理由に自主的に色欲を断つ若者もいる。この点に関して、リーベックがこれまでどのような青春時代を歩んできたのかについては、不明な点が多い。そして今、彼自身がその「御令嬢」に対してどのような想いを抱いているのかについても、様々な憶測は流れているものの、誰もはっきりとした確信は持てずにいた。

「そうですか。私は、リーベック殿下こそが、この国を継ぐに相応しいと考えている次第です。教皇庁で神の正しき教えを学んだ殿下であればこそ、きっとこの国を、あるべき方向へと導いて下さると信じています」

 それは、まさに日輪宣教団の信徒としての彼の本音であり、実質的にこの国を支える「外来の宣教団」の人々の大半は、より教会と深い繋がりのあるウェルシュが後継者となることを望んでいた。
 ただ、そんなフランクにはもう一つ、国家や教団の未来とは別次元で、「一人の男性」として、リーベックに対して言いたいこともあった。

「とはいえ、もし、リーベック様の中に、既に心に決めた方がおられるなら、そのお心を大切にすべきかと思います。己の恋心を偽って生きるのは、それはそれで、人の道に反するおこないですから」

 フランクが唐突にこのようなことを言い出した背景には、まさに今、彼自身が「一人の女性」に対して強い恋心を抱いていたからなのだが、そんな事情など知る由もないリーベックは、当然のことながら、やや怪訝そうな表情を浮かべる。

「先ほど申し上げた通りです。私は神に仕える身であり、まだそういったことは……」
「まぁ、ごゆっくり考えて頂ければよろしいかと思います。ただ、私はネロ殿下のことはよく存じませんが……、カーディガン家には、投影体の血が混ざった『呪われた血筋』である、という噂もあります」

 フランクがそう口にすると、リーベックがやや険しい表情をみせるが、それに気付かずフランクは話し続ける。実際のところ、宮廷内ではそのような噂は前々から密かに広がっていた。

「猊下の御嫡男であるジュリアン殿下が聖印を継げない体質となってしまったのも、母君であるジェーン様の血統故だったのではないか、とも言われています。もしその噂が本当なら、たとえネロ殿下が高潔な人格のお人であっても、そのような血筋の方の許にブリジット様を嫁がせる訳にはいかないでしょう」

 彼がそこまで言い終わると、リーベックはしかめた表情のまま、冷たく言い放つ。

「カーディガン家の名を貶めることは、そのままウェルシュ家の名を貶めることに繋がります」

 リーベックの中では、カーディガン家もウェルシュ家も同じペンブロークの一族であり、ネロは彼にとって、イスメイアへの留学以前からの大切な知己である。後継者争いのために、そのような噂を流布することは、たとえそれが自分のためを思った言動であっても、彼としては許し難いことであった。

「これは失礼致しました。ただ、現実問題として、この世界には、体質的に『混沌を招きやすい人物』がいるとも言われております。ネロ様がそのような方ではないと思いたいところではありますが、とはいえ、ブリジット様も大切なイザベラ様の御息女ですし、出来ればより正統な、より高貴な血筋の方の元に嫁がれるのが、あの方のためなのではないかと」

 そう言って、余計な発言で不興を買ってしまったことを後悔しながら、フランクは足早にその場を立ち去る。そんな彼のことを、リーベックはやや難しい顔を浮かべながら見送りつつ、会議室へと歩を進めるのであった。

1.3. 日輪の聖女

 そんな二人と共に、この国の未来を担う存在と言われているブリジット・サバティーニ(下図)は、ダーンダルクの城下町に新たに築かれた日輪宣教団の本拠地となる聖堂内に存在する母イザベラの私室に呼び出されていた。ブリジットは、見た目はまさに深窓の令嬢のような「麗しき姫君」であるが、彼女もまたネロやリーベックと同等の強力な聖印の持ち主であり、特に「味方を守る能力」に関しては、現在の日輪宣教団の中でも屈指の実力者であると言われている。


 ブリジットの父(イザベラの夫)はエストレーラの辺境の村民であったが、まだブリジットが幼かった頃に、現地の領主の契約魔法師であったエーラムの魔法師の気まぐれな施策によって、理不尽な形で命を落としている。その後、イザベラは女手一つでブリジットを育てつつ、やがて聖印の力に覚醒し、聖印教会に入門した後、混沌の即時使用禁止を主張する苛烈な教義解釈で同志を増やし、教団内で確固たる地位を確立するに至った。現在の彼女は、神聖トランガーヌと教皇庁の間を行き来する日々である。
 そんなイザベラが先日、ブリジットに「神聖トランガーヌ東部のエフロシューネの近隣の森で頻発している混沌災害を浄化するための出撃命令」を通達した。エフロシューネの混沌災害は、神聖トランガーヌの成立以前から未解決のままの難題であった。かの地は、元来は風光明媚で豊かな土地だったが、約1年前から混沌災害が出現し始めたらしい。
 そして、その出撃部隊の指揮官に任命されたのが、ブリジット、ネロ、リーベックの三人である。この人選に「特別な意味」が込められていることは、多くの人々が内心で察していたところであるが、ひとまずはそのことには触れないまま、イザベラは愛娘に出陣を命じる。

「エフロシューネの領主のマーグ殿は猊下からの信頼厚き御方。御力になって差し上げなさい」

 ちなみに、マーグもまた、タレイアの領主ジニュアールと同様、旧子爵領崩壊後に一度はアントリアに降った後、ヘンリーの帰還に応じて再離反した身である。ただ、彼は旧子爵領時代から聖印教会の信徒であり、以前から契約魔法師も持たない身だったこともあり、日輪宣教団とも今のところは友好的な関係を保っているようである。

「分かりました。お母様」
「ところで、猊下が重病なのはご存知ですね? もし万が一、猊下が天に召されることになった時に備えて、そろそろ後継者を決めねばなりません。今のところ、猊下の一族の中で後継者候補とみなされているのは、カーディガン家のネロ殿と、ウェルシュ家のリーベック殿のお二人です。どちらも、今回あなたと共に討伐部隊を率いる予定の方々ですが、今のところ、あなたとしては、どちらが国主に相応しいと思いますか?」

 ブリジットは子供の頃からイスメイアで修行していたため、同じように幼少期から同地に留学していたリーベックとは幼馴染に近い関係である。一方で、ネロは2年前にイスメイアに亡命してきて以来、気の合う友人として交友を重ねてきた(なお、この時にネロやヘンリーを教皇やイザベラに引き合わせる橋渡し役を果たしたのが、リーベックであった)。
 故に、彼女は確かに二人のことを最も良く知る人物の一人と言っても良いだろう。とはいえ、国主としてどちらが相応しいかと問われても、「あるべき国主の姿」自体がまだ自分の中で確立されていないブリジットとしては、答えようがなかった。

「私が、そのようなことを考える立場にいるとは思えません」
「今のところはそうでしょうね。では、質問を変えましょう。あなたも、もう19です。私があなたの歳の時には、もうあなたを産んでました。もし、あなたの伴侶にするとすれば、どちらが相応しいと思いますか?」

 現実問題として、この後継者問題と絡めて、自分と彼等二人のどちらかとの縁談を(本人達の意向を無視して)進めようとする動きがあることは、ブリジットも知っている。彼女としては、二人に対して、憎からず想う心がない訳ではない。しかし、この二人のどちらかと結ばれる未来像、というものが、まだ今の彼女の中では、現実感のある話とは思えなかった。それ故に、彼女はやや顔を膨らせながら、不機嫌そうに答える。

「お母様はズルいです。私にこのような立場を強要しておきながら、そのようなことを聞くのですか?」

 そう言われたイザベラは、複雑な表情を浮かべつつ、真剣な口調で話を続ける。

「無論、あの二人のどちらかでなければならない訳ではありません。もし他に『この方』という人がいるのなら、それでも良いでしょう。例えば、今回の赴任先であるエフロシューネのマーグ殿はあなたとも歳が近いですし、あるいは、その途上にあるタレイアのジニュアール殿も、少し歳は離れてはいますが、今は独り身です。あなたにはまだ精神が少々幼いようですから、年上の人に導いてもらった方が良いかもしれませんしね」

 イザベラがブリジットのことを「幼い」と評する理由は、彼女の「趣味」である。ブリジットは子供の頃からぬいぐるみが好きで、今でもその私室には沢山のぬいぐるみが並べられている。ただ、彼女が「かわいい」と思う基準はやや常人とズレているようで、その中には(普通の人から見ると)「不気味な投影体」のようなデザインの代物も多い。

「また、あなたの伴侶となる人が、必ずしもこの国の国主である必要はないと思います。しかし、おそらくその方が、この国はまとまるでしょう。無論、あなたにその覚悟が無いというのであれば、その立場を強要するつもりはありません」

 ブリジットは、膨れた顔から真剣な顔に戻って答える。

「私の身はもう既に、神の導きのままに存在しているものです。この国が、神の降臨される国であるとするならば、私はこの国を支えるためにこの身を捧げることに、いささかの躊躇もありません」

 彼女は毅然とした態度でそう言い放つ。ただ、そんな言葉とは裏腹に内心では「19歳の乙女」としての心も捨てきれずにいた。実は彼女の中では、密かに憧れを抱いている人物がいたのである。その人物の名は、ヴァレフールの七男爵の一人、ファルク・カーリン。ヴァレフール内の聖印教会派の代表格の一人である。
 現在、神聖トランガーヌとヴァレフールは緩やかな中立関係である。ヴァレフール内では、神聖トランガーヌのことを「アントリア以上に危険な存在」として敵視する者達もいるが、神聖トランガーヌ側は、まずはグリースおよびアントリアとの戦いを優先する立場であるため、ヴァレフールに対して敵対的な姿勢を取るつもりはない。
 それ故に、ヴァレフールの北西部国境を守るファルクとの間で友好関係を築くために、ヘンリーは、フォーカスライト大司教ロンギヌスの仲介を通じて、彼と頻繁に交友を重ねている。その過程で幾度か彼と顔を合わせることになったブリジットは、その端正な顔立ちと優雅な気品溢れる物腰に、純粋に一人の女性として恋心を抱いていた。
 出自は平民の娘とはいえ、現在のブリジットであれば、男爵位を持つファルクとも釣り合いは取れるであろうし、ブリジットがファルクに嫁ぐことでヴァレフール内に味方を増やすことは、大局的な戦略としては悪くない。ただ、それはヴァレフール側にとっては大きな「爆弾」を抱え込むことにもなるため、そう易々と受け入れられる道ではない。おそらく、そのことはブリジットも察していたであろうし、それに加えて「この人の妻になることは、幾多の女性を敵に回す覚悟が必要」だということも直感的に感じ取っていたため、少なくともブリジットの方から、積極的にファルクに対して「それらしい態度」を取ることはなかった。
 そんな彼女の本心に気付いているのか否かは不明だが、これ以上問い詰めても望ましい答えは引き出せないであろうと察したイザベラは、改めて話を本筋に戻す。

「分かりました。では、此度の任務が『あなたの進むべき道』を神が示して下さる良き機会となることを私は願っています」

 彼女がそう言うと、ブリジットは黙って一礼して、部屋を出て行く。娘に重い責務を負わせてしまうことに対して、イザベラの中にも躊躇や後悔が無い訳ではない。だが、この世界を正すために、聖印の力を授かる立場に生まれた者には、相応の責務がある。たとえ娘であっても、その宿命から逃れさせる訳にはいかない。イザベラは自分自身にそう言い聞かせながら、静かに娘の背中を見送るのであった。

2.1. 黄昏の城下町

 この日の夕刻、ダーンダルクの王城の軍務様会議室では、翌日のエフロシューネへの出陣に向けて、ネロ、リーベック、ブリジットの三人による作戦会議が開かれる予定であったが、開始予定の刻限の時点で、部屋の中にいたのは、ネロとリーベックの二人だけである。彼等は、ブリジットが遅れている理由が、「いつもの店」に寄り道しているからではないかと考え、自ら彼女を探しに行くことにした。
 その「いつもの店」とは、城下町の一角に存在する「珍しい動物のぬいぐるみ」を売ってる玩具店である。その店で取り扱われている商品は、いずれもブレトランドの各地に出現したと言われる「異世界からの投影体」をモデルとしたぬいぐるみばかりであり、神聖トランガーヌ建国時には、その存亡が危ぶまれたが、それらがあくまでも「投影体を模したぬいぐるみ」であり、「ぬいぐるみの投影体」ではないことが確認されたことで、かろうじて営業を許されて現在に至る。
 ネロとリーベックが店内に入ると、そこには顔を綻ばせて「異形のぬいぐるみ」を物色しているブリジットの姿があった。

「あぁ、かわいい……」

 思わずそんな独り言を漏らす彼女の背後から、リーベックが声をかける。

「これ以上、ベッドを狭くして、どうするつもりだい?」

 そう言われたブリジットは、ビクッと反応して、恐る恐る振り返る。

「やぁ、リジー」

 リーベックは、ブリジットのことをそう呼んでいる。彼は公の場では誰に対しても礼節を重んじるスタンスだが、幼馴染であるブリジットに対しては、このような態度で接している。そしてまたブリジットにとっても、彼は貴重な「対等に語り合える存在」であった。
 一方、その傍らに立つネロは、やや呆れた口調で問いかける。

「それでも変装しているつもりですか?」

 ブリジットとしても、さすがに今の自分の立場で「投影体のぬいぐるみ」を愛でることが体面上望ましくないことは分かっているようで、自分の身分がバレないよう、一番地味な服を着て「庶民」のフリをしてはいるのだが、いかんせん、全体的な雰囲気は全く隠せていない。

「せめて、髪型くらいは変えないとね」

 リーベックが苦笑しながらそう付言すると、ブリジットは会議の時間を過ぎてしまっていたことに気付き、二人に謝罪しつつも、横目で一つのぬいぐるみ(下図)に対して、物欲しそうな視線を向ける。それは、赤い武者鎧を纏った白猫(のような何か)の姿であり、口の部分から火を模した布が飛び出ている。それは数百年前にブレトランドに現れたと言われる「火を呼ぶ猫(俗称:火呼にゃん)」がモデルなのだが、そこまでの知識は彼女にはない。ただ、純粋に「かわいいから欲しい」と思っているだけのようである。


「イザベラ様には黙っておいてあげるよ」

 リーベックが優しい笑顔でそう言うと、ブリジットはパッと顔が明るくなり、そのぬいぐるみに手を伸ばす。すると、店主の眼鏡の奥の瞳がキラッと光った。

「お嬢ちゃん、よかったら、こっちの巨大黒蜥蜴や光の巨人の人形もあるけど……」
「さすがに、一つだけだよ」

 リーベックがすぐさまそう言って釘を刺すと、ブリジットは残念そうな顔をしながらも、白猫(?)のぬいぐるみを店主に差し出す。

「やっぱり、この猫ちゃんにします」

 こうして、彼女はお目当ての品を手に入れると、嬉しそうにそれを手に抱えながら、「すみません、ご迷惑をかけしました」と言って、持って帰ろうとする。

「見つからないように、しまった方がいいと思うよ」
「あぁ、そうですね」

 リーベックにそう言われた彼女は、ぬいぐるみを鞄の中の下の方に押し込みつつ、ちらっとそれを見て、改めて嬉しそうな表情を浮かべる。そんな二人の様子を、ネロは複雑な表情を浮かべながら、ただ黙って見ていた。

 ******

 その後、城に戻る途中で、おもむろにブリジットが二人に語りかける。

「こんな楽しい日も、ひとまずは今日でおしまいですね」

 おそらくは彼女自身、そのことが分かっていたからこそ、その前にせめてもの「癒し」が欲しくなって、あの店に立ち寄ったのだろう。

「そうだね。明日からは、しばらく忙しくなりそうだ
「我々は聖印を持つ者である以上、それは仕方のないことかと」

 二人の王子は、対照的な表情と口調でそう語る。しかし、二人が内心では同じ決意を抱いていることは、ブリジットにも分かっていた。

「えぇ、もちろん、その通りですね」
「まぁでも、僕達には、神のお導きがある訳だから、混沌に負けることなど、絶対にありえないさ」

 リーベックがそう言うと、ブリジットは改めて力強く頷く。

「そうですね。このような平和な時間を、もっと多くの人に味わってもらうことこそが、私達の使命ですからね」

 彼女がそう言うと、二人も同意を示す。ただ、ネロの中では、今でも「神」への疑念がない訳ではない。それ故に、敬虔な信徒であるリーベックやブリジットとの間には、どこか「温度差」が生まれていた。そして、そのことがまた「婚約問題」とも関わって、ネロの中にどこかモヤモヤとした感情が広がっていく。

(混沌さえ無ければ、こんな思いを抱くこともないのにな……)

 ネロは内心、そう呟いた。ただ、結果的にはこの混沌に対する明確な嫌悪感という点においてだけは、彼は二人と心を同じくすることが出来ていたのである。

2.2. 真夜中は別の顔

 その後、出撃に向けての夕刻の打ち合わせはつつがなく終わり、三人はそれぞれ自室へと帰還する。そして陽が落ちて、夜の街の灯が広がり始める頃、リーベックの部屋から、一人の「美女」が姿を現す(下図)。それは、リーベックの「もう一つの姿」である。


 その「変身」は聖印の力ではなく、ましてや混沌の力である筈も無い。純粋な「化粧」と「異性装」である。眼鏡を外し、髪を下ろし、町娘風の装束に着替えた彼は、完全に別人と化していた。彼は同性愛者でもなければ、性的なアイデンティティが身体と異なる訳でもない。ただ単に、純粋に一つの「趣味」として、「日頃の自分とは異なる自分」を演じて、夜の町を徘徊する。それは、敬虔な信徒として、真面目一筋に生きてきた彼にとっての、ほんのささやかな「戯れ」の時間であった(なお、彼がこの趣味に目覚めた契機は、かつて任務に失敗して敵軍に捕まった際に、とある幻影の邪紋使いに弄ばれたことだったのだが、その邪紋使いの正体については、彼は未だに知らない)。
 ちなみに、「この状態」の時の彼は「レベッカ」と名乗っている。ダーンダルクの夜の酒場街ではそれなりに顔の通る存在となっているが、当然、その正体を知る者はいないし、絶対に知られる訳にはいかない。そんなスリルを楽しみながら、この日も「彼女」は行きつけの酒場へと足を運ぶ。すると、そこにはこの町では見慣れない(しかし、つい先刻会ったばかりの)一人の騎士が、激しい喧騒を巻き起こしていた。

「貴様、いい加減なこと言ってんじゃねぇぞ!」

 その怒号の主は、フランク・シュペルターである。王城内で出会った時の彼とは別人のような荒れた口調で、酒場の客に対して怒鳴り散らしていた。

「いや、その、確実な話ではないんですけど、私の目には、その方の服は、その、異界の方々の装束であるように見える訳でして……」

 酒場の客は怯えながらそう答える。どうやらフランクは「かつてタレイアの街で出会って一目惚れした女性」が描かれた絵を見せて「この人を知らないか」と聞いて回っていたらしい(その女性の正体についてはブレトランド八犬伝5を参照)。

「あの方が投影体の筈がないだろう! 全く、どいつもこいつもいい加減なコト言いやがって!」

 どうやら彼は、他の場所でも様々な人々から同様の反応を返されてきたらしい。レベッカがそんな彼の様子を酒場の入口の外側から見ていると、その入口付近に繋がれている一匹の短毛の大型犬が、「彼女」に近付いてきた。吠える様子もなく、素直に彼女になつこうとしている様子である。

「ちょっと、静かにしててね」

 そう言いながら、レベッカがその犬を撫でていると、酒場の中からフランクが怒りの形相を浮かべながら出てきた。

「もういい! お前らでは話にならん!」

 そう言って彼は、レベッカの方へ近付いてきた。すると、その犬が嬉しそうな顔でフランクに近付いていく。

「これはお嬢さん、ウチのジョンが粗相をしていたようで」

 どうやら、この犬はフランクの飼い犬らしい。フランクが自分の正体には気付いていないことを確信しつつ、レベッカは笑顔で答える。

「あぁ、いえ。可愛らしいワンちゃんですね。ところで、何か揉め事でも」
「実は、人探しをしておりまして、このような装束の女性を見たことはありませんか?」

 そう言って見せてきたその絵に描かれていた女性の装束は、レベッカの目にも、明らかに異界の代物であるように見える(なお、フランクは名家出身ということもあって、芸術にもそれなりに造詣が深く、人並み以上に絵心はある)。ただ、ここで同じ反応を見せても、フランクが荒れるだけだろうと考えたので、ひとまずは無難な回答に止める。

「変わった服を着ていますね」
「そうなのです。海の向こうの、東の方から来たと仰っていたのですが、東国に詳しい者がこの辺りにはいないようで」
「しかし、東の国から来た旅人さんとなると、旅の目的を終えたら、帰ってしまうのではないでしょうか? だとしたら、会いに行くのは……」
「そういえば、今は何か任務があるというようなことを仰っていた。そうか、もしかしたら、もうブレトランドにはおられぬのかもしれんのか。しかし、せっかく今、私はこの神の国で働ける立場を得た以上、この国を去る訳にはいかないし……。生きていればいずれ会えると、信じても良いものだろうか……」

 酒に酔っているせいか、一人で勝手に盛り上がりながらも勝手に困惑している彼に対して、レベッカは笑顔で言葉をかける。

「大丈夫です。きっと神様は、良き出会いにあなたを導いて下さいます」

 その「良き出会い」が「彼女との再会」であるとは言っていないのだが、フランクの側は、勝手にそう解釈したようである。

「これは見知らぬお嬢さん、ありがとうございます」

 そう言って、少しだけ機嫌を直したフランクは、そのまま犬をつれて立ち去っていった。

「まぁ、知らないのは罪ではないからね」

 フランクのことを見送りながら、レベッカは小声で密かにそう呟く。仮に彼の想い人が投影体であったとしても、彼がそうとは知らずに勝手に想いを寄せているのであれば、それはレベッカの中では「罪」ではない。もし万が一、彼がその女性と再会し、そしてその女性が投影体と発覚した場合、その時点で彼がどうするかは、彼の「信仰心」次第であろうが、今の時点でそれを推測しても意味はないだろう(ちなみに、もしレベッカがこの時点で「ジョン」の正体に気付いていた場合、非常に「厄介な事態」を引き起こしていた可能性があるのだが、幸いにもその「最悪の展開」は免れた)。
 そして、彼女は改めて酒場に足を踏み入れると、カウンターに座って酒場主に声をかける。

「こんばんは、おじさま」
「おぉ、これはいつものお嬢さん。今日は何にするかい?」
「オレンジジュースをお願いします」

 彼女はこの店でも、それなりに常連である。

「そういえば、知ってるかい? ここの王子様とお姫様が混沌討伐だか魔物討伐だかに行くってことで、酒場の中でも盛り上がっていてねぇ。これは一種の婚前旅行なんじゃないか、なんて言い出す奴もいるくらいで」

 酒場主にそう言われたレベッカは、内心苦笑しながら話を続ける。

「でも、王子様は二人いるんでしょう?」
「そうそう、そこが問題なんだよ。姫様は一体、どちらをお選びになるのか。いやー、結構ねぇ、それは街の人達の間でも色々と意見があってねぇ」
「じゃあ、おじさまは、どっちの王子様が相応しいと思ってるの?」

 まさか、その王子様本人に問われていると気付く筈もなく、酒場主は素直に思案を巡らせる。

「そうだなぁ……。正直、俺は、ウェルシュの王子様に関しては良く知らないからなぁ。とはいえ、今、この街も色々ややこしい状態になってる。大陸から来た人達と、本来のトランガーヌの民と、その両者の架け橋となりうるのがどちらか、と考えると、それは難しい問題だ。というか、あんたはどう思う?」
「うーん……」

 さすがにこれについては、どう答えるべきか、レベッカとしても判断が難しい。彼女が返答に迷っていると、酒場主は更に困らせる質問を投げかける。

「と言うよりも、むしろ、アレだな。姫の相手として相応しいかどうか、よりも、アンタ自身としては、どっちの王子様が好みだい?」
「そうねぇ……、まぁ、私も、あの二人の王子様について、よく知ってる訳ではないわ。特にウェルシュの王子様は、こちらに馴染みのある方ではないし、ネロ様も一度はこの地を去った身だしね。まだお二人とも若いから、目立った勲(いさおし)を立てている訳ではないでしょう。でも、今回のエフロシューネの討伐の結果次第で、それも自ずと見えてくるんじゃないかしら」

 そんな当たり障りのない回答でごまかすと、酒場主もそれに素直に納得した表情を浮かべる。

「そうだな。そういう意味では、今回の出陣は、ちょっと見ものではある。ちなみに、姫様の方も、実は隠れファンが多くてな」
「まぁ、私達の聖女様だしね」

 これについては、レベッカ(というよりもリーベック)としても素直に納得した心境でそう答える。ちなみに、実はブリジットの方も、ちょくちょくお忍びでこの酒場には顔を出しており、「レベッカ」とも面識がある。

「だから、今回の募兵においても、この機会に俺もひと旗あげて、姫様にいいとこ見せよう、と考えてる奴もいるらしい。まぁ、そう簡単にはいかないだろうけどな」
「王子様も、ライバルが多くて大変ね」

 他人事のようにレベッカがそう呟くと、酒場主が何かを思い出したような顔を浮かべる。

「あ、そういえば、姫様がアンタに会いたいと言ってたよ。今夜あたり、出撃前にそろそろまた来るんじゃないかな?」

 ちなみに、当然のことながら、ブリジットも「レベッカ」の正体は知らない。彼女の中では純粋に「酒場で自分に対して物怖じせずに話し相手になってくれる女性」でしかない。

「じゃあ、もう少しここで待ってよっと」

 レベッカはそう呟きながら、酒場主から出されたオレンジジュースをゆっくりと口元へと運ぶのであった。

2.3. 人としての感情

 その頃、城内のロビーでは、ネロとブリジットが遭遇していた。

「ネロさん、おつとめ、ご苦労様です」
「おや、ブリジット姫ですか」
「明日の準備の方はよろしいですか?」
「今、ひと段落したところです」

 そんな事務的な会話を交わしつつつ、ブリジットは突然、申し訳なさそうな顔を見せる。

「夕方は、変なところを見せてしまってゴメンなさい」

 それが、ぬいぐるみ屋の一件のことであることは、ネロにもすぐに分かった。

「別に、姫様が悪いことをしていた訳ではないですし、咎められることではありませんよ。私達は『聖印を持つ者』ではありますが、それ以前に『人間』なのですから、人として、楽しいと思うことを楽しまなければならないのです」

 これは、ネロの中での君主としての信念である。とはいえ、彼自身が日頃から質素すぎる生活を送っているため、あまり説得力はないのであるが、それでも、ネロにはっきりとそう断言してもらえたことで、ブリジットは少し安堵したような表情を浮かべる。

「そうですよね。私も、このような立場の者として担ぎ上げられてはいますけど、人並みに楽しいことを楽しみたいという気持ちはあるんですよね」

 ブリジットはそう言いながら、また別の何かを思い出したかのように、少し頬を紅く染めながら、ネロに問いかける。

「町に流れている『噂』はご存知です?」
「な……、なんのことでしょう?」

 明らかに動揺した様子でネロがそう答えると、ブリジットも彼の内心を察する。

「ご存じのようですね。私を、ネロ様かリーベック様か、どちらかと婚約を結ばせるという話のことを」

 そう言って、ネロの反応を見るブリジットであったが、彼は、困惑しているのか、あるいは、まんざらでもないのか、よく分からないような素振りを見せながら、そのまま無言を貫く。その沈黙に先に耐えかねたブリジットが、そのまま語り続けた。

「私としては、今回の魔境の浄化作戦の後で、お二人のどちらかと婚約することになっても、それはそれで構わないと思っています。それが、この国の、ひいてはこの小大陸の、全ての人々のためになると思うからです」

 それは、あくまでも「立場上の話」であることに力点を置いた主張であり、それに対して、ネロは少しだけ残念そうな表情を浮かべる。

「そうですね。それが私達の『立場』であり、聖印を持つ者としての……」

 彼はそこから続けて何かを語っていたが、小声になってしまいブリジットにはよく聞こえなかった。ただ、それは、あえて訊き返さなくても良いことなのだろう、ということは彼女にも分かっていた。

「ネロさんが、そういう志でいて下さるのであれば、私としても安心です。明日からの作戦、頑張りましょうね」

 彼女はそう言って、にっこりと笑う。

「そうですね。民のために頑張らなければ」

 ネロはそれに加えて何か言いたいが、その一言が出てこないまま、言葉に詰まって黙ってしまう。そんな彼を置いて、ブリジットは去って行った。

(私は、彼女に何を言いたかったのだろう……)

 ネロの中では、ブリジットに対しては、間違いなく「一人の人間として」伝えたい気持ちがある。だが、「君主としての自分」の中に「彼女と共にこの国を支えていく未来像」への疑念がある状態では、その気持ちを表に出すことが出来ないままでいた。
 自分自身が自分の中の「人としての感情」を把握出来ないまま、ネロは残された王城のロビーで、一人苦悩を続けることになる。

2.4. 姫の本音

 その後、ブリジットは夜の城下町へと、お忍びで足を運ぶことにした。先刻、二人に注意されたこともあり、目立たない黒系の服を着て、髪をまとめて帽子の中に入れるなど、それなりの工夫を施した上で、行きつけの酒場へと向かう。ネロに言われた通り、君主としての使命を果たす前に、人として、やりたいことをやりきっておこうと考えたのであろう。ブリジットの中では、なんとなく、この日に酒場に行けば、「彼女」に会えるのではないか、「彼女」に対してであれば、自分の本音を曝け出せるのではないか、と考えていたのである。
 そして、その予感は的中した。ブリジットが行きつけの酒場に入ると、そこには「レベッカ」の姿があった。レベッカの方もすぐに彼女に気付くと、すぐにブリジットに対して、「こっちこっち」と手招きをする。この時点で、レベッカはカウンター席から、(ブリジットが来た時に二人で話がしやすいように)端の方のテーブル席へと移動していた。
 ブリジットがそのテーブル席に着くと同時に、レベッカはブリジットの帽子を取って、髪をいじり始める。

「あぁ、何するんですか!?」
「相変わらず、お忍びがなってないわ」
「こ、これでも頑張ったんですよ」
「こんなに上まできっちり襟を止めていると、見るからにいいとこのお嬢様みたいじゃないの」

 レベッカはそう言いながら、ブリジットの服を着崩させ、よりラフな風貌へと変装させる。

「ほら、可愛くなった」

 満足気にレベッカにそう言われたブリジットは、少し赤くなりながら、小声で語りかける。

「ありがとう。レベッカ、ちょっと話を聞いてもらっていい?」
「うん。なあに?」
「街の噂は知ってるわよね?」
「どこもかしこも、あなたのことで持ちきりよ」

 本当はそれは「自分のこと」でもあるのだが、あくまでもここは「レベッカ」として、他人事のように振る舞う。

「このままいけば、噂通りに、私は二人のどちらかと結婚することになると思う。でも、レベッカ、本当は私、普通の子みたいに、本当の恋をしてみたかった……。今日もお母様が私に、二人のことをどう思うか、と聞いてきたの」
「で、なんて答えたの?」
「私は今まで、そういうことを考えないように、考えないように、って、ずっと気持ちを押し殺してきたから、何も答えられなかった。だけど……、本当は私にも、憧れている人がいるのよね」

 突然そう言われたレベッカは、内心の動揺を表に出さないようにしつつ、話を続ける。

「そんな人がいるなんて、初耳なんだけど」
「だって、人に聞かれたら困るし。私、そういう立場でもないから。でも、レベッカのことを信用して言うね。私……、ヴァレフールのファルク・カーリン様に憧れてるの」

 頬をより一層赤らめながらそう語るブリジットに対して、レベッカは苦笑いを浮かべる。

「それは……、二人の王子様には荷が重い話ね」

 ファルク・カーリンという人物が、いかに人間としても男性としても魅力的か、という話は、聖印教会に身を置く者であれば、知らぬ者はいない。唐突に出現した「強力すぎる恋敵」の名前を聞かされて、「レベッカの中のリーベック」自身もまた、苦笑いを浮かべざるをえなかった。

「でも、私とファルク様では、立場も国も違うし、到底私の気持ちが通じるとは思えないわ。だから、このことは、あなたに伝えたことで、もうおしまいにするつもり」

 ブリジットが、精一杯「すっきりした表情」を見せようとしているのを目の当たりにさせられたレベッカは、しばらく考えた上で、「レベッカ」として伝えるべき言葉を紡ぎ出す。

「私は、いいと思うわ。そうやって、『女の子の幸せ』を求めるあなただって、あなたな訳だし。そういうあなたを素敵だと思う人もいると思う」

 それに対して、ブリジットもまた、少し考えた上で、改めて「すっきりした表情」を作りながら答える。

「うん、ありがとう。でも、もう、私は私一人だけの存在ではないから。私を慕ってくれる皆さんの期待に応えなきゃいけないと思うから」

 すると、レベッカはポンと彼女の肩を叩く。

「力が入りすぎよ。まぁ、難しいことは考えないで、とりあえず、無事に帰ってきてくれることだけ考えてくれれば、私はそれでいいわ」

 ブリジットはそう言われて、ようやく本当に安堵した表情を浮かべながら、コクリと頷く。

「そうね。ありがとう。やっぱり、レベッカと話していると、自分の気持ちが整理出来るわ」

 その純粋な笑顔に対して、レベッカは内心で浮かび上がる「彼女を騙していることによる罪悪感」を抑えつつ、どうにか笑顔で答える。

「じゃあ、明日も早い訳だし、今日はこれでお開きにしましょうか」
「そうね。あ、そうだ、レベッカ、これ」

 そう言って、ブリジットは小さい「ぬいぐるみ」を一つ渡す。それは、どの世界から来たかも分からないと言われる「巨大ゴリラ」を模した人形である(ただし、大きさは掌サイズである)。

「これ、私が好きなぬいぐるみなんだけど……」
「……相変わらず、あなたの趣味は分からないわ」

 さすがに、レベッカとしては、そこまで話を合わせる気はないらしい。

「えぇ!? あなたなら、共感してくれると思ったのに」
「まぁ、でも、リジーがくれたものだからね。大事にする」

 彼(彼女)はレベッカの状態の時でも「リジー」と呼んでいるのだが、声色を変えているためか、それで正体が気付かれることはなかった。

「じゃあ、また話を聞いてね」
「もちろん。だから、ちゃんと帰ってきて、話してね。あなたに神のご加護がありますように」

 そう言って、レベッカはゴリラを懐に入れ、やがて二人は酒場を後にするのであった。

2.5. 王子二人

 その後、王城の近くにレベッカが戻ってきた時点で、今度はネロと遭遇する。

「おや、お嬢さん。こんなところで何を?」

 一応、ネロも「レベッカ」とは面識がある。無論、その正体は知らない。

「あら、こんばんは。夜のお散歩です」

 そう言って、いつも通りに適当にやり過ごそうとするが、若干動揺して声が上ずっていることは、本人も気付いていた。先刻の姫との会話における罪悪感を、まだ引きずっていたようである。その不自然さに気付かれる前に、あえてレベッカは自分からネロに対して話題を振る。

「明日、エフロシューネへの遠征に行かれるんですよね?」
「えぇ、それが私の役割でもありますし、混沌で苦しんでいる人々を少しでも多く救うことが、私の使命ですから」

 定型文のような口調でそう答えるネロに対して、レベッカはあえて突っ込む。

「その割には、難しい顔をなさるのですね」

 その一言に、ネロは自分の中の様々な感情を見透かされたようで、やや動揺しつつ、つい本音が出てしまう(おそらくは、彼もまたブリジットと同様に、誰かに自分の気持ちを伝えたいという感情が湧き上がっていたのだろう)。

「私には、聖印を持つ君主としてというより、一人の人間として、守りたい人がいるのです」

 日頃、このようなことを口にすることがないネロの突然の述懐に、レベッカは少し驚いた顔をしながら問いかける。

「あのお姫様ですか?」
「……こういう言い方をすると、バレてしまいますね」

 そう言われたレベッカは、若干ムッとしたような顔を見せる。

「それなら、迷うことなんてないじゃありませんか。あなたがお姫様のことを守りたいと思っているなら、その通りに行動すればいいのに、どうしてそんな顔をされているのですか?」
「姫様も言っていましたが、我々には君主としての身分もあります。今の私と姫との関係は、今のままでは、『人と人』としてではなく、『君主と君主』としての関係になってしまう。それが少し寂しいのです。それが私達の役割と言ってしまえば、それまでかもしれませんが」

 思いがけず友人の本音を聞いてしまったレベッカは、それに対して「リーベック」として反応したい気持ちを抑えて、あくまでもレベッカという別人格として振る舞い続ける。

「それは、私のような町娘には分からないかもしれませんけど、そのようなことで悩んでいるようでは、姫様の心は射止められませんよ。何せあなたには、ライバルが多いのでしょう?」

 そう話しているレベッカ自身がまさにそのライバルだということに気付かないまま、ネロは自分の中の思いを打ち明け続ける。

「私個人としては言いたいことがあっても、君主としては言えないこともあるのです。あなたには、難しい話かもしれませんけど」
「そうですか」

 「レベッカ」はまだ怒った様子のままであったが、そのままネロは自分の考えを語り続ける。

「どちらにしても、私が出来ることは、戦場で姫様を守ること。それしかありませんから」

 そう言って話を終わらせようとするネロに対して、レベッカはこう告げる。 

「神は、あなたがた君主に力を与えてくださいます。けれど、その使い方を決めるのは、そして人生をどう歩むかを決めるのは、他ならぬあなた自身なのですよ。そこに、君主としての使命はありません」

 そう言って、彼女は踵を返し、背を向けながら最後に声をかえて去って行く。

「では、ネロ様、明日の遠征、あなたに神のご加護がありますように」

 ******

 その後、ネロが隊舎の方に点検に向かおうとすると、彼に向かって一人の兵士が小走りに近づいて来た。

「ネロ様、ちょっとよろしいですか?」
「何かあったのですか?」

 ネロは兵隊に対しても、このような口調である。

「実は、この度の遠征に向けての募兵した者達の身辺調査をしてみたところ、ちょっと『変な奴』が混ざってまして。いや、害のある奴じゃないんですが……」
「どういうことですか?」

 ネロが小首を傾げながら、その兵士について行くと、兵舎の奥から、顔を傷を持つ小柄な少女が姿を現わす(下図)。


「だ、だから言ってるじゃないっすか! オレ、男っすから! もう18っすから! 普通に戦えますから!」
「とりあえず、本人はこう言ってるんですけど……」

 どう見ても、まだ未熟な少女である。一兵士として戦力になるかと言われれば(彼女が見た目通りの能力しか持たない者なのであれば)、難しいだろう。

「多分、何かの手違いで審査を通してしまったのでしょうが、こちらも一度通してしまった手前、どうにも扱いに困っていて。このままウチの隊に入れてしまって良いものかどうか……」

 ちなみに、この兵士はネロの直属の部隊である。少し考えた上で、ネロはこう提案した。

「まぁ、配属するとすれば……、姫様の部隊が良いのではないでしょうか? 一人くらい、こういう者がいた方が、姫様の気持ちが和むでしょうし?」
「なるほど。よし、ケリィ、お前は姫様の部隊に配属だ」
「わ、分かったっす。姫様を守る騎士になればいいっすね。頑張るっす!」

 そう言って決意を新たにする少女であったが、ネロは内心では「姫の強さを目の当たりにすればいい」と考えていた。ブリジットは、見た目こそ「まだぬいぐるみが手放せない幼い少女」であるが、聖印の力を掲げて戦う時の彼女の実力は、ネロやリーベックにもまったく引けを取らない。その強さを目の当たりにして、心が折れるか、奮起するかは、この少女次第であろう。

 ******

 その頃、ネロと別れて「リーベックの部屋」に戻った「レベッカ」は、変装を解き、ベッドに横たわって、一人呟く。

「僕は、卑怯だな……」

 自らの正体を偽ることで、ブリジットも、ネロも、本来ならば自分が知ることが出来ない筈のことまで話してくれた。その罪悪感に苛まれつつ、自分が今回の任務で、「リーベック」として二人に対してどう接するべきかを、彼は一人静かに考えていた。

2.6. 湖岸都市に潜む影

 翌日、三人はそれぞれの舞台を率いて、エフロシューネに向けて出陣する。ブリジットの部隊には、昨夜ネロ隊から転属した少女(であることを隠した兵士)のケリィが加わっていた。

「姫様、よろしくお願いします」
「えぇ、あなたの力、頼りにさせて頂きます」

 そんなやり取りを交わしつつ、三部隊は進軍を開始した。ダーンダルクとエフロシューネの間には湖が存在しており、その湖を囲むように「北回り」と「南回り」の街道が存在するが、現在、北回りの街道の途中に位置するクラカラインの町が巨大な魔境と化して通行不可能な状態となってしまっているため、南回りのタレイアの町経由の街道で向かうことになった。通常の進軍速度では、エフロシューネまで二日を要するため、タレイアでひとまず一泊する方針である。
 そして、タレイアまでの道中は特に何の問題なく、無事に同地に到着する。だが、この町に入り、ひとまず挨拶のために領主の館へと向かおうとした矢先、多くの町の住人達が「王子様」と「お姫様」を一目見ようと彼等の周囲に人だかりを作る中、その群集達の中に紛れていた「赤髪の少女」の姿を発見したネロは、その彼女が「自分の記憶にある一人の少女」と酷似していることに気付く。

(あれは確か、子爵様の侍従の……)

 それがネロの見間違いでなければ、その少女は、子爵時代のヘンリーの侍従の一人である。名は、クローディア・シュトライテン。ダーンダルクの落城以降の彼女の行方については、ネロは聞いたことがない。以前の彼女は金髪に近い髪色であり、当時に比べて背も伸びているため、最初は分からなかったが、その表情や素振りは、彼の記憶の中のクローディアと完全に一致していた。
 しかも、彼女はただの侍従ではない。「影」の能力を駆使する邪紋使いである。かつての彼女は、ヘンリーへの忠義心の厚い公儀隠密的な存在であったが、日輪宣教団の守護者となった今のヘンリーとは、もはや相容れない立場である。その彼女がこの神聖トランガーヌ領内にいるということは、他国の密偵として潜り込んでいる可能性が高いだろう。グリースか、ヴァレフールか、アントリアか、最悪の場合、闇魔法師組織パンドラに雇われている可能性もある。かつての仲間を敵として疑うのは偲びないが、彼女にしてみれば、裏切ったのはヘンリー達の方である。居場所を無くした彼女がどの陣営に与していたとしても、文句を言えた立場ではない。

(今すぐ、彼女を追いかけなければならない気もするが、ここで彼女を止めようとすると、騒動になる。そして、おそらく「影」の能力者である彼女には、あっさりと逃げられる……)

 客観的に見て、ネロとしてはそう判断せざるをえなかった。更に言えば、日輪宣教団の教義への信仰、および「かつての仲間」である彼女個人への認識・感情に関して、ネロは他の二人とは明らかに「温度差」がある。もし仮に、ここで彼女の捕縛に成功したとしても、その処遇を巡って対立や混乱が発生する可能性もあるだろう。

(ここは、事を荒立てるべき時ではない。人と人が無駄に争うべきではない)

 そう判断した彼は、ひとまず、彼女のことを密かに横目で確認しようとすると、どうやら彼女は、町の「東側」の入り口へと向かおうとしているように見える。その先にあるのは、まさに彼等が今向かおうとしているエフロシューネであった。
 そこからは様々な憶測が可能であるが、どう推理したところで、どこまでいっても「憶測」でしかない。やむなく、彼はあえて誰にも言わずに、立ち去る彼女を見送るのであった。

 ******

 その後、彼等は無事にタレイアの領主の館へと到着する。領主のジニュアール・リーオ(下図)は、笑顔で彼等を出迎えた。


「ようこそ我が町へ。本日はごゆっくりお休みになった上で、明日以降の戦いに備えて下さい」
「お心遣い、痛み入ります」

 三人を代表してリーベックがそう言いつつ、三人同時に軽く一礼する。

「エフロシューネの領主のマーグは、我が長年の盟友です。彼は子供の頃からあの村で生まれ育った身ですし、あの村のことは彼が一番分かっています。ですので、現地では彼の指示に従って行動して下さい」
「分かりました」

 リーベックが改めてそう答える。本来なら、ネロも一緒に何か言葉を添えるべきだったかもしれないが、この状況において彼は、先刻のクローディアの件が気になったままで、その動揺を隠すので精一杯の状態であった。

 ******

 その後、ひとまず町の兵舎を間借りする形で兵士達が腰を落ち着けると、若い兵士達の一部
は、翌日に備えて軽く鍛錬を始める。そんな中に、ケリィの姿があったが、彼(彼女?)がいくら「剣の稽古つけてくれよ」と他の兵士達に言って回っても、皆、どの程度の加減で相手をすれば良いのか分からず、やりにくそうな雰囲気が漂っている。
 そんな中、様子を見に来たブリジットが、鎧姿でケリィの前に現れた。

「稽古をしているなら、私もご一緒してよろしいですか?」

 ケリィは、予想だにしなかった大物の登場に、思わず直立不動で敬礼する。

「姫様! きょ、恐縮です! オレ、姫様みたいな、才色兼備の立派な騎士になりたいんです! あ、いや、オレ、男ですし、その、姫様みたいな、ってのは、ちょっと違うかもしれないですけど……。なんというか、その、姫様みたいな優雅な騎士になりたいというか、いや、その、別に貴族でもないんですけど……」
「その心意気を神は見ていますよ。きっと、神のお導きがあります」

 ブリジットはそう言って、訓練用の剣と盾を持って、稽古をつける。彼女は「味方を守ること」に特化した聖印の持ち主であり、当然、一対一においても、その守りはまさに鉄壁である。ケリィがどれだけ必死に彼女に一太刀浴びせようとしても、全く歯が立たない。

「す、すごいです! 姫様! やはり、私のような平民では、聖印を持つ姫様をお守りすることは出来ないのでしょうか?」
「確かに、あなた方の力は、それほど強いものではないかもしれません。しかし、神は見てくれています。強い心を持つ者の元に、聖印が発現するのです」
「そ、そうっすよね。頑張っていれば、オレもいつかは……」
「えぇ」

 そんな会話を交わす二人の様子を、少し遠目でリーベックは微笑ましく見ている。その傍らにはネロもいるが、彼の中では二人の会話を聞いて、再び「あの疑念」が湧き上がってくる。

(しかし、聖印も本来は……)

 当然、この場でそんなことを口にするつもりはない。だからこそ、その「誰にも言えない疑念」がいつまで経っても彼の脳裏から消えないままでいた。だが、ここで、そんな彼の悩みを一瞬で吹き飛ばすような一言が、ケリィの口から飛び出す。

「ところで姫様、他の兵士の人達が言ってたんですけど、姫様、近々結婚されるんですか?」

 あまりにも空気を読まないその発言に、周囲の兵士達も凍りつくが、当の「姫様」は、笑顔で答える。

「神のお導きがあれば、そうなるかもしれませんね」

 ひとまず無難に彼女がそう返すと、ケリィは一応納得したような顔を見せつつ、話を続ける。

「なるほど。いや、実はですね、このタレイアの街には、とっておきのデートスポットがあるんですよ。湖の近くに、蛍がよく出る場所がありまして。夜にそこに行くと、すごくロマンティックな光景になるんだと、私の……、あ、いや、オレの、その、女友達が言ってました」

 その会話は、当然「二人」にも聞こえていた。

「あなたは、この辺りには詳しいんです?」
「はい。子供の頃、この辺りに住んでいたこともあったので」
「じゃあ、道案内をお願いしてもいいですか?」

 リーベックは、そわそわしながら、そんな二人のやりとりに目を向けている。彼女が、ここで「誰と」行くことを想定しているのか、気にならない筈がない。
「いや、でも、俺なんかが姫様と一緒に行くのは申し訳ないというか」
「そうですか」
「とりあえず、簡単な場所をお教えします」

 そう言って、ケリィは簡単なメモ書きをブリジットに渡す。そのメモ書きを書いている間、ブリジットは明らかに「ちょっと行ってみたいな」と言いたそうな顔をしていた。
 それを察知したリーベックが、いち早く彼女に近付く。

「楽しそうな話をしてるね。ちょっと行ってみるかい、リジー?」

 言われたブリジットは、素直に嬉しそうな笑顔を笑顔をみせる。

「そうですね、リックさん。そのような綺麗な場所があるなら」

 「リック」とは、彼女がリーベックを呼ぶ時の愛称である。「さん」付けではあるが、このように、互いに略称で呼び合っている辺りからも、二人の親密さが伺える。そんな二人との間に、再び微妙な距離感を感じていたネロであったが、そんな彼に対してもブリジットは声をかける。

「ネロさんも一緒に行きませんか?」

 この発言に対して、リーベックは内心色々と思うところがあっただろうが、その感情は一切表に出さず、ネロの反応を見る。すると、彼は少しだけ考える間を空けつつも、明朗に答えた。

「はい、行きます」

 ネロとしては、先刻、「他国の間者かもしれない人物」の存在を見てしまった以上、二人だけに行かせるのも危険だという気持ちもある。無論、彼自身、自分の中でそれ以外の感情が湧き上がっていることも自覚はしていたが、あくまでも「二人の警護が目的」と、内心で自分に言い聞かせていた。

「じゃあ、三人で行こうか」

 リーベックは爽やかな笑顔でそう言うと、ブリジットもネロも頷き、ひとまず、この場はそれぞれの旅荷物を置くために、与えられた客室へと向かうことにした。

 ******

 こうして、リーベックがタレイアの館の中にあてがわれた客室へと向かおうとする中、突然、「謎の声」がリーベックの耳に届く。

「あれ? なんで君がここにいるの?」

 それは、どこか子供じみた口調だったが、明らかに成人男性の声である。しかも、リーベックには、その声に聞き覚えがあった。ただ、それが誰の声かまでは思い出せない。そして、その声がどこから聞こえているのかも分からない。明らかに、この廊下の中のどこかに身を潜めていることは分かるのだが、その場所までは特定出来ない。

「誰だ!?」
「僕の声に聞き覚えがないのか。じゃあ、ここは君を頼るべきではないかな」

 思わせぶりな口調でそう語る「謎の声の主」に対して、リーベックは警戒心を強めつつも、平静を装いながら問いかける。

「僕に用があるのかい?」
「まぁ、君でなくても良かったんだけどね。君は、ここの領主様とは親しい関係かい?」
「少なくとも、敵対するような間柄ではない。協力関係と言ったところかな」
「協力関係、か……」

 そこで会話が途切れる。そして、その声の主がどこかに去ろうとしていることを、その口調からリーベックは感じ取っていた。

「待ってくれ。君の声、どこかで聞いたことがあるような気がするんだが……」
「まぁ、いいや。やめておこう。この国は色々とややこしそうだからね。やっぱり、ここは僕が直接行くべきかな。人伝にすべきことでもない。正直、僕はあまり彼とは顔を合わせたくなかったのだけど」

 そう言い残して、その廊下から、その「謎の誰か」の気配は消えた。リーベックは顔をしかめながら、ため息をつく。「自分のことを知っている誰か」がこの館のどこかに潜んでいるという状況は、なんとも心地の悪い状況ではあったが、今の自分にはどうすることも出来ず、そして、その人物の目的も分からない以上、あまり他人に公言して良いかどうかも分からない、そんな、なんとも悩ましい状況であった。

 ******

 そして、そんな彼の苦悩など気にせず、その声の主は「懐かしい友人」と偶然出会ったことで、ちょっとした感慨に浸っていた。

(そうか、結局、彼はあのまま立派に「教会の騎士」になったんだね。じゃあ、「今の僕」とは、もう相容れぬ関係、ということなんだな。「あいつ」と同じように……)

 リーベックと出会ったのは、まだリーベックが幼少期に騎士見習いとして、混沌に侵された様々な地を遍歴していた頃。その頃の自分は、まだ何者でもなかった。その後、エーラムへの入門と挫折を経て、諸々の経緯の末に「今の力」を手に入れた。聖印教会の者達からは決して許容されない「混沌」の力を。

(さて、これから僕は、どんな顔をして「あいつ」に会えばいいのかな。姉さんの手紙を渡したら、即帰りたいところだけど、一応、その反応を伝えてあげないといけないだろうし……)

 そんな想いを抱きながら、彼は一人、この街の領主の私室へと視線を向けつつ、まだこの時間帯の領主は公務中のため一人になることはないだろうと察して、ひとまずは「勝手知ったるこの館」の現状を確認しようと、他の「顔見知り」の元へと足を運ぶのであった(彼の正体についてはブレトランド八犬伝5参照)。 

2.7. 蛍の光

 その後、改めて合流した三人は、ケリィに手渡されたメモ書きを元に、「蛍が見える湖岸」へと向かう。既に陽は落ち、月光に照らされた道を進む彼等であったが、王子二人はそれぞれに「自分だけが知っている『謎の侵入者』の存在」のことが気になって、どこか厳しい顔つきになっていた。 

「お二人とも、このような場所は楽しくないですか?」
「あぁ、すまない。ちょっと考え事をしていて」
「最近、考えなければならないことが多くて」

 二人がそう言うと、ブリジットは安心して笑顔を浮かべる。そして、その途上、ネロとブリジットは、彼等三人を尾行するように、誰かがついて来ているのに気付いた。どうやら、それは彼等の部下の兵士達のようである。

(むしろ、彼等がいてくれた方が安全でいいか)

 ネロは内心そう思いつつ、ブリジット共々、彼等のことを「見て見ぬ振り」をしながら、やがて彼等はその湖岸へと辿り着いた。そこでは、この小大陸では珍しい蛍達が飛び交い、今まで見たことがないような美しい光景が広がっている。

「ダーンダルクは海辺の町だけど、タレイアにはこんな景色もあるんだね」

 リーベックがそう呟くと、ブリジットも相槌を打つかのように答える。

「そうですね。こんなに沢山の蛍が飛んでいる幻想的な風景、初めて見ました」

 すると、そんな彼女の発言に対して、ネロは反射的に自分の中で湧き上がった「素直な考え」を口にする。

「幻想的、という表現が正しいかどうかは分かりませんね。彼等は確かに生きているのですから」
 そんな彼の発言にたいして、後方で出歯亀をしていたネロ隊の兵士達は「いや、隊長、そこでかけるべき言葉は、それじゃないでしょう」と言いたげな雰囲気を醸し出していたが、リーベックはそんな彼に合わせて言葉を繋ぐ。

「まぁ、そうだね。彼等も『生きとし生けるもの』だからね」

 その一言で、(一瞬崩れかけた)「ロマンティックな雰囲気」がかろうじて保たれたことに後方の兵士達が安堵する中、ブリジットは改めて蛍を眺めながら、その想いを口にする。

「まるで、星が動いているようですね」

 そう言いながら、彼女は空を見上げた。そこには確かに、岸辺に広がる蛍の光景とどこか似た雰囲気を漂わせた、綺麗な星空が広がっている。

「うん、色々な風景を見てきたけど、ここは特別に綺麗だ」
「これからもずっと、こういう風景を見られるような、そういう生き方が出来ればいいんですけどね」

 素直に彼女に話を合わせて感慨を語るリーベックに対して、ネロは彼女の感動に共感しながらもどこかその感動に浸りきれない様子である。そんな中、リーベックが「先手」を打った。

「僕は、特にリジーと一緒に来れて良かったよ」

 そう言われたブリジットは、顔が赤面しそうになるのを必死に耐えつつ答える。

「私も、『お二人』と一緒にこういうところに来れて、嬉しいです」

 あくまでもその口調からは「二人との友情」が強調されている。これに対して、ネロも何か言いたかったが、リーベックが隣にいる状態では、彼は何も言えなかった(ちなみに、リーベックの方は、これでもまだ少しネロに遠慮したつもりであった)。

「そろそろ遅くなりますし、戻りましょうか」
「そうだね。あまり遅くなると、兵舎の皆も心配するだろうし」

 二人の王子がそう言うと、ブリジットもそれに同意して、三人は帰路につく(当然、出歯亀していた面々も、彼等の後に続いて帰還する)。
 その途上、夜道が暗かったせいか、ブリジットが川辺で滑って、転びそうになってしまう。

「きゃっ!」

 即座に、それをネロが身を挺して支えた。

「姫様、大丈夫ですか?」
「ごめんなさい、ネロさん」
「あ、いえ、私は大丈夫です、はい」

 転んだ当人のブリジット以上に動揺した様子で、結果的に彼女に抱きつかれる形になったネロがそう答える。その隣では、リーベックは内心穏やかではない心境ではあったが、それを表に出すことはなく、前を向きながら声をかける。

「もう足元も暗いからね。気をつけなきゃ」
「そうですね」

 ブリジットはネロに寄りかかった姿勢のまま、そう答える。この状況で、ネロは何かを言おうとしていたが、結局、何の言葉も出てこなかった。その状況を見て、後方で出歯亀を続けていたネロ隊の兵士達が何を思っていたのかは、定かではない。

2.8. それぞれの夜

 こうして、無事に帰還した三人が、それぞれの自室へと戻る。すると、帰還した直後のネロの部屋に、ケリィが訪ねてきた。

「あ、あの、俺、隊長に認めてもらった上で、この隊に入れてもらえて、だから、その、俺、隊長にはすごく感謝してるんです。だから、俺、隊長のこと、応援してます」

 どうやら、出歯亀していた兵士達の中に彼(彼女?)もいたらしい。だが、ネロはケリィが何の話をしているのか分かったような分からないような心境のまま、一言だけ答えた。

「ま、まぁ、うん、頑張る」

 その一言を聞くと、ケリィは自分が「差し出がましいこと」を言ってしまったことを改めて認識し、少し頬を赤らめながら、慌ててその部屋から立ち去って行くのであった。

 ******

 一方、リーベックは先刻の「謎の声の主」について思い出そうとするが、やはり、何も思い出せない。ただ、その声を聞いたのは、もう随分昔であるようにも思えるので、おそらく、現在の神聖トランガーヌに与する人物ではないと推測するのが自然である。そうなると、必然的に「敵」である可能性が高い、という結論に行き着く。
 その上で、先刻の会話内容から察するに、その「敵と思しき誰か」はこの地の領主と接触しようとしていたように思える。その接触が成功したのか否かは不明だが、この状況から察するに、領主であるジニュアールが、何か「後ろ暗いこと」を隠している可能性は十分にあり得るだろう。
 そう考えた彼は、自室で密かに「レベッカ」の姿となり、ジニュアールに関する街の人々の噂を
聞くため、夜の城下町へと繰り出して行った。この街でこの姿となるのは初めてであるが、少なくとも「首都から派遣された貴族」としてよりは、「女性の旅人」の姿の方が話が聞きやすいであろうと判断したのである。
 そして実際、いくつかの酒場を転々として話を聞いた結果、色々と「不穏な噂」の存在を知ることになる。ジニュアールは数年前に奥方を病気で失い、それ以降は独り身なのであるが、どうやらアントリア支配下の時代に、当時彼と契約していた女魔法師と内縁の関係になっているのでは、という噂があったらしい。一応、神聖トランガーヌ建国時に彼が馳せ参じた時点で、その女魔法師とは契約を解除して追放したと申告していたが、その後の彼女の行方を知る者はいない。そして、現体制になって以降も、一向に誰か後妻を迎えようとする気配も見せないことから、実はまだその女魔法師に未練があるのではないか、と噂する者もいるという(彼はまだ若く、亡き妻との間にも子はいないので、普通の貴族ならば再婚の道を探るのが自然である)。
 更にそれに加えて、ジニュアールには「自らの身に邪紋を刻んで勘当された異母兄」がいるという話もある。現在は傭兵としてアントリアに仕えており、表面上はこの地には足を踏み入れていないようであるが、今でも裏で何らかの接点があるのではないか、と勘ぐる者もいた(この「異母兄」の現状に関してはブレトランドの遊興産業5を参照)。
 いずれもあくまで「噂」にすぎず、明確にジニュアールが他国と通じているという確証はない。ただ、疑うべき状況証拠がこれだけ揃っている以上、リーベックとしては、今後は彼に対して一定の警戒心を持って接しなければならない、と確信する。

 ******

 その頃、夜の街に「レベッカ」が出現していることなど露知らず、ブリジットは改めてジニュアールに、宿の提供への御礼を述べるために、彼の私室を尋ねる。すると、その扉の奥から、かすかに「話し声」が聞こえる。どうやら「先客」がいるらしい。彼女は出直すべきかどうか少し考えつつ、ひとまず扉をノックする。
 すると、部屋の中から、一瞬にしてその「先客」の気配が消えたことをブリジットが感じ取り、その次の瞬間、扉を開いてジニュアールが姿を現わす。

「おや、これは姫様、どうなされました?」

 彼の背後の部屋の中には、一切人影が見えない。もしかしたら、部屋の奥に誰かが潜んでいるのかもしれないが、さすがにここで領主の私室を捜査する権限はブリジットにはない。

「あの、正式なご挨拶がまだだと思ったので」
「いえ、こちらとしては、ただ一夜の宿を提供しているだけの立場ですので、そこまでお気になさる必要はありません。姫様は明日に備えて、ごゆっくり、お休み下さい」
「お心遣い、感謝致します」

 そう言って改めてブリジットが頭を下げると、ジニュアールは何かを思い出したかのような表情を浮かべる。

「そういえば、蛍を見に行かれたそうで」
「はい。とても美しい光景でした」
「このようなことをお伺いするのも失礼かと思いますが……、『皆様で』行かれたのですか?」

 ジニュアールとしても、彼女達の関係に突っ込むことが不躾であることは百も承知であるが、それがこの国の方向性に大きく関わる問題である以上、無関心ではいられない。

「えぇ、私と『あの二人』の三人で」

 その答えを聞いたジニュアールは、少々複雑そうな表情を見せる。そんな彼の内心を知ってか知らずか、今度はブリジットの方から問いかけた。

「ジニュアール様は、どなたかと見に行ったことはあるのですか?」
「えぇ。亡き妻とはよく行ったものです。私と妻との思い出の場所でもありますし……」

 少し遠い目をしながらそう呟きつつ、彼は真剣な表情で改めてブリジットに語りかける。

「これは、私の様な、中途半端な風見鶏が言えた立場ではありませんし、姫様が真に受ける必要もない話ではありますが、出来れば、心の片隅に入れておいて下さい」

 そう前置きした上で、やや視線をそらしながら、婉曲的に話を始める。

「この世界で生きて行くためには、どこかで誰かを切り捨てなければならないこともあると思います。実際、私は結果的に、二度にわたって主君を裏切ることをになりました。本来の主君の元に戻ってこれたこと、今は後悔はしておりません。ヘンリー様と共に大陸に行かなかったことを後悔する気持ちはありますが、結果的にそこで私がアントリアの軍門に降ったことで、この街の平和を維持出来たことも事実です。姫様もこれから先、そういった決断を迫られることもあると思います。二人の中からどちらかを選ばねばならないこともあるでしょう」

 やや回りくどい言い方ではあったが、彼の言いたかったことは、概ねブリジットも理解した。

「御炯眼、恐れ入ります。私も、自分の立場をわかっているつもりです。ですので、そのような決断をしなければならないことは、ずっと心の中にあります」
「出過ぎたことを申し上げました」
「いえいえ。私はジニュアール様がヘンリー様の元に戻ってきて下さったことは、それ以前のことも含めて、神のお導きだと思います」

 ブリジットは、胸の前で手を握り、神に対して祈るような姿勢を見せながらそう語る。一方、ジニュアールの方は、神聖トランガーヌの建国以前は、聖印教会とは無縁の騎士であった。今は教会に対して従順な姿勢を示してはいるものの、今の彼の中でどこまで強い信仰心が備わっているのかは定かではない。だが、この瞬間、彼は素直に彼女の言葉を受け入れる。

「そうですね。所詮、我々は神の掌の上でなければ、生きていけない存在なのかもしれません。せめてその中で、後悔しない生き方をしていきたいものです」

 おそらく、それは彼の中での本音である。神とは果たして何者なのか? そもそも神が実在するのか? もし仮に実在するとして、人は神に対してどのような姿勢を示すべきなのか? ジニュアールには分からない。ただ、この「神に仕える聖女」の言葉に対して、うっすらとそのような感慨を抱いていたのである。

「このような時間に失礼致しました」

 ブリジットがそう言ってその場を去ろうとすると、ジニュアールはやや苦笑しながら忠告する。

「そうですね。私も今は男鰥(やもめ)ですから、姫様が夜中に私の部屋を訪問されるということは、あらぬ疑いをかけられぬとも限りません」

 ブリジットは言われて初めてそのことに気付きつつ、ひとまずこの場は微笑みを返した上で、
静かに自分の客室へと戻っていった。

2.9. 湖岸領主の憂鬱

 翌朝、三人はそれぞれに複雑な想いを抱きながらも無事に起床し、出立の準備を進める。その一方で、ジニュアールはその三人を見送るために彼等の前に姿を現わすが、この時、彼の脳裏では、昨夜の「ブリジットの前に自室を訪問していた来客」との会話が思い出されていた。

 ******

「姉さんは元気だよ。でも、妊婦を放り出して平気な顔してる父親のことが気になって、なかなか寝付けない日もあるみたいだけどね」
「……今の私が何を言っても、言い訳にしかならないだろうな」
「僕にとってはね。でも、もしかしたら、寂しくて仕方がない姉さんは、言い訳でもいいから、夫の言葉が聞きたいのかもしれない。お腹の中の子供もね」
「元気な子を産んでほしい。そして、幸せになってほしい。そう伝えてくれ」
「この期に及んでも、まだ他人事のようなことを言って、今の立場にしがみつく気かい? 僕がその気になれば、いつでもこの秘密を口外して、君の居場所を奪うも出来るのに」
「お前は、そんなことはしないだろう?」
「まぁ、姉さんが望まないことはしないよ。それに、君がこの『歪な国』と心中したいなら、それを止めてやる義理も僕にはない」

 ******

 そこでジニュアールが何かを言おうとした瞬間、ブリジットが扉を叩いたため、その「先客」は姿を消し、そして彼女が去った後も、再び現れることはなかった。おそらく、そのまま館の外へと退散したのであろう。「影」の邪紋使いである彼にとっては、それは造作もないことである。
 もっとも、仮にブリジットの来訪が無かったとしても、おそらく、ジニュアールはその客人に対して、それ以上の何かを告げることは出来なかったであろう。その意味で、彼はブリジットの来訪で彼との会話が途切れたことに、内心では感謝していた。その上で、ブリジットに対して自分が言ったことを思い出すと、徐々に自虐的な感情が湧き上がってくる。

(私のような不埒者が、どの面下げて「男女の問題」に口を出していたのだろう……。まったく、我ながら、おこがましいにも程がある……)

 心の内側ではそんな自省の念に苛まれつつ、平静を装いながら三人を見送ろうとするジニュアールに対して、昨日と同様、リーベックが代表して挨拶する。

「我々の魔境討伐のために力を貸して下さったことに感謝します」

 そう言った上で、リーベックは昨日の「噂」を思い出しつつ、冷たい笑顔を浮かべながら語り続ける。

「神は見ていらっしゃる。我々の成したことに対して、誉れを与えることもあれば、罰を与えることもあるでしょう。『神聖トランガーヌ』を支える一員として、この美しい街と良き関係を築いていきたいと考えています」

 そんな彼の表情と口調から、何らかの疑惑を抱かれていることをジニュアールは察していたが、もはやそれは「二度の裏切りを経験した領主」にとっては、「いつものこと」であった。

「そうですね。私もこれから先も、ヘンリー様や『ヘンリー様の後継者となられる方々』と共に、この国を守っていきたいと考えています」

 彼のその言葉に対して三人は静かな会釈で返答し、そしてエフロシューネに向けて出立する。その後ろ姿を、湖岸領主は複雑な心境で見送っていた。

(神よ、もし本当に存在するのならば、どうかあの前途ある若者達に「悔いなき道」を示したまえ。そして、私に対して、相応の罰を与え給え……)

 これまで、本気で神を信じる気持ちにはなれなかった彼の中で、初めてこのような感情が芽生えつつあった。それが、彼等に感化されたが故なのか、それとも、純粋な彼の内発的自省によるものなのか、今の彼には、まだ分からなかった。

3.1. 森の町の領主

 そして、この日の夕刻、討伐隊は無事にエフロシューネに到着し、この地の領主であるマーグ・ヴァーゴ(下図)が彼等を出迎えた。


「皆様、我が町のためにご足労頂き、感謝致します」

 彼は穏やかな笑顔でそう言った上で、そのまま彼等に対して、今後の討伐作戦についての具体的な方針を提案する。

「あの森の構造は非常に複雑ですので、初めて来られた方がいきなり足を踏み入れるのは非常に危険です。よって、皆様には、我々が森の調査に行く間の町の警備をお願いしたいと思います。そうして頂ければ、我々としても、全力で森の調査に向かうことが出来ますので」

 この申し出に対して、当然のことながら、三人は怪訝そうな顔を浮かべる。互いに顔を見合わせつつ、まずはリーベックが口を開いた。

「おや? 私達が伺っていた話では、魔境の討伐に手を貸す、という任務だった筈ですが」
「えぇ。イザベラ様からは、その様なお達しがありましたが、皆様はこの国の未来を背負う方々ですので、不用意に危険な前線に立っていただく訳にもいきません。皆様に後方を守って頂くことで、結果的に我々の魔境討伐を手助け頂けることになりますので、その意味では、皆様の御助力は無駄ではありません」

 丁重な口調でマーグはそう答えるが、要約すれば、それは「魔境は自分達が討伐するから、手出し無用」ということである。これは、彼等がイザベラから命じられていた任務内容とは、明らかに合致しない以上、リーベックとしては即座に了承出来る話ではない。

「その話は、イザベラ様には通っているのでしょうか? 我々はイザベラ様の命令でこの地に赴いているのです。あなたの仰ることよりも、イザベラ様の命令を優先する義務があります」
「とはいえ、この地の領主は私です。郷に入りては郷に従え、という言葉もありましょう。不用意に前線に立って命を落とされては、それこそ私の立場もありません」
「まさか、神の御加護を受けた我々日輪の者を、その程度の災厄に打ち負かされる存在だとお思いですか? それは神への冒涜です」
「神のご加護があろうとも、敗れる時は敗れます。半年前の対グリース戦のことをお忘れではないでしょう? あの戦いでは、Dr.エベロを始めとする多くの同胞を失いました」

 マーグの口調は穏やかだが、そこには明確に、領主として、彼等が魔境へ足を踏み入れることを拒む姿勢が示されている。それに対して、今度はネロが疑問を呈した。

「では、なぜ我々に出兵を要請されたのですか?」
「いえ、こちらから要請した訳ではありません。イザベラ様の方から御助力のお申し出があり、こちらもその御助力を『不要』と言えるほど芳しい状況ではないので、お受けすることにしました。ただ、来て頂いた方々に無駄死にはしてほしくないのです」
「先程から、その危険性を繰り返し強調されていますが、あなたはそこまで『無駄死に』を警戒する理由は何なのでしょうか?」
「我々は一年かけてもこの魔境を浄化出来ていない。それだけでも、十分にその危険性は理解して頂けるでしょう」

 一応、マーグの言っていることには、一定の筋は通っている。だが、ここまで強硬な姿勢を見せることに対して、三人共どこか違和感を感じていた。そんな中、リーベックが再び口を開く。

「なるほど。ですが、我々にはイザベラ様への報告の義務があります。我々を町の警護にだけ回したとあっては、イザベラ様のあなたへの心証も悪くなるでしょうし、とりあえず、魔境に関して今分かっていることだけでも教えて頂きたいのですが」
「そうですね。では、簡単に御説明致しましょう」

 マーグはそう言うと、三人を自身の館に招いた上で、森の地図を見せながら「事情」を伝える。曰く、1年ほど前から森の中核のあたりに「巨大な混沌核」が発生し、その混沌核の周辺が「魔境」に近い状況と化しているらしい。しかも、その魔境内では方向感覚が狂わされるため、その混沌核を浄化しようとこの街の警備兵が近付いても、なかなか近づくことが出来ない。それに加えて、聖印を持たない者では、そもそも足を踏み入れることも出来ないという。
 このマーグの説明に対して、三人は一応は納得した姿勢を見せるが、それでも「魔境に入らないでほしい」という彼の申し出をそのまま受け入れることには、やはり難色を示す。とはいえ、どちらにしても既に夕刻を過ぎており、今から足を踏み入れると夜になるので、ひとまずこの日は、三部隊に与えられた宿舎で休養することになった。
 その上で、三人の指揮官はひとまずブリジット用の客室に集まる形で、密かに対応を協議する。リーベックとしては、自分自身の手で真実を確かめるために、夜陰に紛れてこっそり森に足を踏み入れるという選択肢もあったが、さすがに見知らぬ土地の魔境に「夜」に足を踏み入れるのは危険すぎることは分かっていたし、マーグの申し出を一方的に無視して行動することで彼との対立を生み出すことは望ましくないと考え、ひとまず自重する。
 一方、ブリジットは、マーグが何か隠しているのではないか、という疑念を抱く。ただ、マーグは聖印教会内では昔から敬虔な信者として評判は高く、かつては同じ信徒でありながらも魔法師と契約していた叔父のサミュエル(現在は信仰を捨て、グリース傘下の領主)とは対照的に、極めて信仰心の強い人物と言われており、統治者としての評価も高い。ただ、基本的に温和な性格故に、日輪宣教団の過激な教義とは合わないところもある、とも言われている。
 そのことを踏まえた上で、ひとまずマーグに対しては、これからネロが改めてその真意を確かめに行くことにした。おそらく、立場的に一番近いネロが相手の方が、マーグの本音を聞き出しやすいのではないか、という配慮である。
 一方で、リーベックとブリジットは、先刻の時点では顔を出していなかった、マーグの副官である老将ガルブレイスのところに、事情を聴きに行こうと考える。ガルブレイスは現在60歳。一度は聖印を返上して引退した身であったが、マーグに請われて副官として復帰した歴戦の強者であり、軽佻浮薄を嫌う頑固者ながらも、若き兵士達からの信頼も厚く、「親父殿」などと呼ばれて親しまれている。彼が聖印教会に対してどのような感情を抱いているかは不明であるが、ひとまず、話を聞いてみる価値はあると彼等は考えていた。

3.2. 古参の老将

 先に面会が実現したのは、リーベックとブリジットの方であった。ガルブレイス(下図)は、二人と顔を合わせると同時に、深々と頭を下げる。


「わざわざ御足労頂いたのに、申し訳ない」

 自分の三倍もの年齢の老将に頭を下げられたリーベックは、恐縮した姿勢を見せつつも、すぐに話の本題へと切り込んでいく。

「私も聖印を持つ者として、この地の混沌について、もう少し詳しく知りたいと思っている次第です。マーグ殿も立派な君主ではあると思いますが、前線で主に戦っているあなたの方が、より深く分かっているのではないかと思いまして」

 そう言われたガルブレイスは、少し間を置いた上で、訥々と語り始める。

「そうですな。マーグ殿は騎士としても優秀な方ではありますが、どちらかと言えば、彼は統治者としても武人としても、まだ甘い。じゃが、儂はその『甘さ』が好きでしてな」

 老将はそう前置きした上で、唐突に話の流れとは無関係な質問を投げかける。

「むしろ私も、あなた方、日輪宣教団の方々にお聞きしたい。なぜ、『神の国』を築く地として、トランガーヌを選ばれた? 御力を貸す相手は、ヘンリー様でなくても良かったのでは?」

 実際のところ、この地を選んだのはこの二人ではない。実質的には、リーベックがネロを介してヘンリーとイザベラや教皇を引き合わせたことが契機ではあったが、最終的に彼等への協力を決めたのはイザベラであり、彼女の真意については娘のブリジットでも分からない。二人がどう答えるべきか考えている間に、老将は更に質問を重ねる。

「確かにこの地域は、昔からブレトランドの中では聖印教会の信者が一番多い。じゃが、全ての民があなた方の教義に従っている訳ではない。あなた方としては、教義を受け入れない民をどうなさるおつもりで、この地に来られた? 人の心を無理矢理にでも変えられると思って、この地に来られたのか? 無骨者故、物言いが粗野なのは御容赦頂きたいが、あなた方がこの地に本気で神の国を築くつもりなら、避けては通れぬ問題ではあるまいか?」

 なぜ、このタイミングで彼がこのような問いを投げかけてきたのかは分からないが、聖印教会の一員として、聞かれたからには答えない訳にはいかない。

「それについては、私がお答えした方がよろしいでしょうね」

 そう言って、ブリジットが前に出る。

「私達、日輪宣教団は、混沌の力を嫌っています。それは我々だけでなく、一般の民の方々にも分かって頂けることでしょう。この地の混沌災害しかり、お隣のクラカラインもそうですし、サロメの村もそうでした。混沌を祓わなければ、平和に見えるどの地、どの場所でも、同じような災害が起こってしまう。私達はそれを止めたいというのが根本にあります」

 そう言って隣のリーべックを見ると、彼もはっきり頷く。これについては、ガルブレイスも異論はなかった。

「それ自体は、全ての君主が同じ事を考えているであろう、と儂は信じている」

 そう、この点については問題ない。問題は、ここからである。

「今の人々の生活の中に混沌の産物が沢山紛れていることは、もちろん承知しております。ですが、それらも、その中に混沌の欠片を含んでいるのであれば、やはり、混沌災害の元になってしまう可能性はどうしても残っていることになります。民の皆さんは、その事実を知らない、と私は考えています。もしくは、知っていても、自分にまではその災害は及ばないだろうと考えているのではないでしょうか。そういった方々を導くことが、私達の役目だと思います。勿論、知らない方々全員に、知識を持てだとか、考えを押し付けるつもりはありません。そういった方々を全てまとめて救うのが、私達の役目だと考えているのです。ですので、そのために、混沌があれば浄化する。ただ、それだけを考えています」
「そこまでは儂も分からんではない。儂も、一刻も早く混沌は無くすべきだと思っている。問題は『人のために混沌を使う者』だ。それが危険だということは儂も分かる。出来ることなら、全ての人が聖印を持ち、混沌の力に頼らず、全て聖印で解決出来るのであれば、その方が良いと思う。じゃが、現実問題として、何十年も戦場に立ってきた者として言わせて貰えば、魔法師や邪紋使いの戦友も儂にはいた。彼等なくして混沌と戦えたかは分からん。じゃが、まぁ、そこは良いとしよう。百歩譲って、聖印だけで混沌を消し去ることは可能であったとしよう。その上で、これまで人の世を守るためにその力を使い続けてきた、魔法師や邪紋使い、更に言うならば友好的な投影体、彼等の存在をも、あなた方は抹消すべきとお考えか?」

 まさにこの点こそが「日輪宣教団の君主」と「それ以外の君主」の最大の分水嶺であり、聖印教会の中においてさえ、意見は割れている。混沌殲滅主義の極北と言われる日輪宣教団の次期当主と目されている彼女もまた、この点については幾多の信者達と論争を交わしてきた。

「これはあくまでも私の考えでしかないですが、私は、今まで混沌との戦いに力を貸してくれた人達の心まで踏み躙ろうとは思いません。ですが、その力は危険なもの。それは同意して頂けると思います。ですので、今後は我々聖印を持つ者だけが力を使い、それ以外の力を持つ方々は、その力を一生封印して、他の一般の方々と同じように静かに生活してもらえるのであれば、それで構わないと思います」

 この点に関しては、ブリジットはイザベラよりも穏健派である。イザベラは、魔法師や邪紋使いに対しての不信感が強く、「力を封印する」と言っても信用せず、多くの者達を極刑に処してきた。だが、そのような徹底した方針が多くの人々の反発を招いてきたことを間近で見てきたブリジットは、より多くの人々に教義を理解してもらうために、ある程度の「妥協」は必要だと考えているようである。

「ただ、投影体の方々については……、彼等は混沌による『影』でしかありません。魂すらも、この世界に本当にあるものかどうかは分かりません。そのような存在を、『表向きの姿』に惑わされて浄化をせずにいるのであれば、それは魔境をずっと放置することと同じ事だと思います」

 実際、ブリジットも、投影体達の「表向きの姿」を愛らしいと思う心はある(それ故の「ぬいぐるみコレクション」である)。しかし、だからと言って、その存在を許して良い訳ではない。この点に関しては、ブリジットは明確に「感情」と「信念」を分離させた上で両立していた。
 そこまで話した上で、ブリジットは一旦下がって、リーベックの方を見ると、今度は入れ替わるように彼が前に出て語り始める。

「我々の教典は、その大元は共通ですが、その解釈は一人一人に委ねられています。ですので、姫と解釈が異なることが多少はあるでしょうが、御容赦下さい」

 実際のところ、リーベックの教義解釈はブリジットとの間でも若干の相違があり、実質的には彼女以上にイザベラに近い。彼はかつて、力に目覚めたばかりの幼い邪紋使いを、その場で迷わず「浄化」した過去を持つことでも知られている。

「混沌は、言うならば『甘美なる毒』です。扱うには便利ですが、人の世を蝕むものです。いかに優れた邪紋使いであろうとも、最後は混沌にその身を奪われ、無垢な人々に害を為す存在となるでしょう。我々はそれを許してはなりません。ですから、混沌の力を進んで使うのであれば、私はそれを許そうとは思わない。たとえそれが幾人もの民に恨まれることになろうとも、それが神の思し召しであるならば、その恨みを背負い続ける覚悟は私には出来ています」

 そう言い切ったリーベックの瞳に、その言葉以上の強い信念をガルブレイスは感じ取る。その上で、老将は徐々に話題を「本題」へと戻していく。そして、徐々にその語り口が、当初の「お客様への対応口調」から、「対等な君主への論戦口調」へと変わっていく。

「なるほど。教団の中でも様々な考えがある、と。まぁ、そうであろうな。結局、この世界で何が真実なのかは、我々には分からん。最終的には、それぞれの信じた道を進むしかないのであろう。それを踏まえた上で、お主らに問いたい。イザベラ殿の望みは『この地から混沌災害が無くなること』。それでよろしいか?」

 彼が語るところの「この地」というのが、エフロシューネなのか、あるいはトランガーヌやブレトランド全体を指しているのか、非常に解釈しにくい文脈ではあるが、ひとまずリーベックは「エフロシューネ」を指しているものだと判断した上で答える。

「少なくとも、そのために私達を派遣した以上、その点は間違いないでしょう」
「であるならば、あの混沌のことは我等に任せて頂きたい。今、その可能性がようやく見えてきたところなのだ。いや、正確に言えば、その可能性は前からあったが、マーグ殿はその道を選ぶことを躊躇された。その道が、最終的にこの神聖トランガーヌに対して害を与えるかもしれない、と考えたからだ。じゃが、少々、状況が変わった。この状況を我々に任せてくれれば、状況が変わる可能性が出来た。なので、しばし待ってもらいたい」
「しばしとは、いかほど?」
「そうじゃのう……、三日だ。もっとも、あくまでこれは儂が言ってるだけじゃから、後でマーグ殿とまた改めて相談する必要はあるがな」

 この瞬間、リーベックもブリジットも、「マーグが何かを隠している」という憶測が正しかったことを確信する。そして、彼等が「自分達に黙って何かを進めようとしている」と知った上で、その行動を看過することは出来ない。リーベックはそのまま追求を続ける。

「さすがに、その内容を聞かずに頷けというのは、無理がありましょう」
「そうか。じゃが、全てを知ることが、世の中を平和に導く道とは限らぬぞ」
「先程も申し上げたでしょう。私は恨まれる覚悟は出来ています」
「お主が恨まれるだけで済むのならば良いのだがな。儂も余計な血は流したくない」

 「余計な血」とは、果たして誰の血なのか。誰によって流される血なのか。この文脈においては、様々な解釈が可能である。

「なおさら、その話を聞かずに帰る訳にはいかなくなりました」

 リーベックはその眼鏡の奥の眼光を鋭く煌めかせながら、一歩も引かない姿勢を見せる。この後、彼等は更なる押し問答を続けることになるが、結局、ガルブレイスからこれ以上の情報を引き出すことは出来なかった。

3.3. 忠義と教義

 その頃、マーグの執務室にネロが行こうとしていたところに、タレイアで見かけた「赤髪のクローディア」が、マーグの執務室へと向かっているのが見える。

「ちょっと、よろしいですか?」
「何か?」

 そう答えた彼女の声は、やはり、ネロの記憶の中のクローディアの声と似ている。

「私の記憶違いでなければ良いのですが、私はあなたに見覚えがあるのです」
「人違い、という可能性はありませんか? どなたかと勘違いされている、とか?」
「もしかしたら、あなたはただの一般人かもしれないし、私の知っている人ではないのかもしれませんが、あなたから話を聞かなければ、それは判断出来ません」
「何を聞きたいのです?」
「なぜ、あなたがここにいるのか? あなたが、変装してこの神聖トランガーヌにいる理由です」

 婉曲的な言い方ながらも、いきなり本筋の質問を投げかけてきたネロに対して、彼女は少し間を置いた上で、静かに口を開く。

「『変装』ですか……。逆にお伺いします。では、あなたはこの町に何をしに来られたのですか?」

 質問に答えずに、全く関係のない質問を投げかけてきたことから、少なくとも彼女がただの一般人ではないことを確信した上で、ネロは素直に答える。

「私はこの地の民を混沌による苦痛から解放しに来たのです」
「それならば、私が誰かを詮索しない方が、誰にとっても幸せな道に繋がると思います」

 この返答の意図は不明である。だが、おそらくこの物言いからして、彼女がクローディア本人か、少なくとも彼女と関係のある人物である可能性が高いことは推測出来る。

「誰にとっても、ですか……。それは、私が神聖トランガーヌに属する者だから、ですか?」

 ネロがそう問いかけると、今度は彼女は即答する。

「あなたがどこの所属であろうと、あなたがこの町の浄化を目指すのであれば、私がこの地にいることは、あなたの目的にも合致する。この町の人々も、この地から混沌が無くなることを願っている。それで良いのでは?」
「残念ながら、今のあなたのその姿からは、それが正しい道なのかは分からないのです」
「あなたの中では、私は『あなたの知っている誰か』であり、その認識はどうあっても変えてはもらえない、ということですか?」
「記憶違いかもしれませんね。しかし、それでもあなたがここで何をしているかは、問わねばなりません」

 あくまでもはぐらかそうとする彼女に対して、ネロは徹底して正論で問い詰める。このような実直な姿勢に関しては、実は彼もリーベックとあまり変わらない。

「分かりました。しかし、私がここでそれを話して良いかどうかを決定する権限は、私にはないのです。その話をするのであれば、もういっそのこと、二人で一緒に領主様のところに行きませんか? もしかしたら、あなたがいることによって、話が上手く進む可能性もある」
「そうですね。私もそう思っていたところです」

 こうして、二人は揃ってマーグの執務室へと赴く。すると、「その二人」の組み合わせを目の当たりにしたマーグは、驚いた様子を見せる。

「マーグ様、申し訳ございません。こちらの方が、私のことを『この人の知っている誰か』である、と決めつけてかかっているようで」
「仮にそうでなかったとしても、私の立場からすれば、あなたがここで何をしているのか、聞かねばならぬのです」

 そんな二人の問答を目の当たりにしたマーグは、薄々「事情」を理解する。

「まぁ、そうですね。今、ここにいるのが『あなた一人』なのであれば、この話をしても良いのかもしれません。どちらにしても、ごまかしきれるかどうかは分からない。ならば、せめてあなたには、真実を話しておいた方が良いでしょう」

 マーグがそう言うと、「赤毛の少女」に目配せをすると、彼女はその赤毛を頭からむしり取り、その下から異なる色の長い髪がバサッと広がる。それは確かに「ネロが知っているクローディア」の姿であった(下図)。彼女がそのまま無言でマーグに視線を向け続けている状態において、マーグはネロに問いかける。


「では、まず一つお伺いしたい。あなたは今、聖印教会に対して、どれくらいの強い気持ちで、その教義に帰依しているのですか?」

 それは今のネロにとって、一番答えにくい質問である。答えたくない、というよりも、どう答えれば良いのか、彼自身が分かっていない。その心境を表情から読み取ったマーグは、質問の争点を切り替える。

「いや、言い方が悪かったかもしれない。どの程度の混沌まで、あなたは浄化すべきだと考えていますか? たとえば、あなたにとって最も大切な人が混沌にまみれてしまった場合、あなたはその状況でも、その『最も大切な人』を殺せますか?」

 これはこれで「答えにくい質問」であることには変わりない。だが、これに答えないことには話が進まないであろうことを察したネロは、言葉を選びながら回答する。

「殺すという表現を用いるのであれば、確かに、私はそういう人を殺すことは出来ないかもしれません。しかし、私はそういった人々を『混沌の苦痛から救う』ために、これまで剣を振るってきました」

 歯切れの悪い回答であるが、ここまで抽象化された仮定の話に対しては、ネロとしては、それ以上のことは言えない。

「では、そのような状況があったとして、その人を混沌の苦痛から救うための『殺す以外の方法』を、あなたは探しますか? それとも、安易に殺しますか?」
「それは……、今まで思いもつかなかったことです。そのような方法が本当にあるのだとしたら、私はそれを捜し求めようと思います。しかし、それが今、私の近くにあるとは思えない」
「あるかどうかは分かりません。しかし……」

 マーグは少し間を開ける。彼にとってもこの場は、言葉を選びながら交渉しなければならない局面であった。

「誤解無きように言っておきますが、私は今も昔も聖印教会の信者です。その私があえて言いますが、本当に神がいることを証明することは、誰にも出来ません。それでも私は神の存在を信じています。ならば、それと同じように、今の時点で見つからない道を探すことも、自分の信念として、それを信じることは出来るのではないですか? 私はそれは聖典の教義と両立出来ることだと考えています」
「それはそうかもしれない。しかし、その結果として、今まさに混沌の被害に遭っている人々の救助が遅れることになってしまうのではないですか?」
「その可能性もあります。ですから、最終的には聖印を持つ者それぞれの判断、ということになるでしょう。その上で、一つお伺いしたい。あなたにとって大切な人、大恩ある人、守らなければならないと思い続けてきた人、誰でも構いません、その人を救いたいと願い、その可能性を模索すること、それは悪ですか?」
「その方法は人それぞれでしょうが、人を救うこと自体は悪ではないでしょう」

 この回答を引き出した時点で、マーグは「言質を取った」と確信し、一つの決断を下す。

「分かりました。では、それを踏まえた上で、あなたにこちらの状況をお話ししましょう」

 そう言った上で、マーグは言いにくそうな表情を浮かべながら、しかし、はっきりとした口調で、ネロに対してこう告げる。

「端的に申し上げますと、今、ここで起きている混沌災害の原因となっているのは、ジェーン様です」

 ジェーンとは、ネロの叔母であり、現トランガーヌ枢機卿ヘンリー・ペンブロークの妻である。2年前の首都落城以来行方不明と言われているが、まさかこの場でその名前が出てくるとは予想だにしていなかったネロは、驚愕の表情を浮かべる。一方、その「予想通りの反応」を目の当たりにしたマーグは、そのまま話を続ける。

「あの方は、ダーンダルクの攻防戦において、両軍の魔法師達の手によって王城内の混沌濃度が急上昇した際に、その身に混沌を宿してしまったのです。あなたもカーディガン家の方なら、噂には聞いたことがあると思います。カーディガン家の者は混沌を招きやすい、と。それがなぜなのかは分かりません。あなたがそうなのかも分かりません。しかし、稀にそのような方があなたの一族の中にいらっしゃることは事実です」

 確かに、その噂はネロも聞いたことはあるし、陰口としてカーディガン家と対立する貴族家の間で流布されていることは知っている。だが、本当にそのような人物が自分の身内から生まれるとは、全く想定していなかった。

「しかし、あの方はその身に混沌を宿してもなお、理性を失わなかった。その身は、もはや邪紋使いと呼ぶのも憚られるほどに『混沌化』してしまったにもかかわらず、理性を維持したまま、混乱するダーンダルクを脱出し、このエフロシューネの森に身を隠されたのです」

 エフロシューネの地を選んだ理由は、彼女を守っていた侍従隊の従騎士達の中に、マーグの縁者がいたからである。その縁者を通じてマーグを森へと呼び出し、事情を説明した。マーグは聖印教会の信者ではあるが、邪紋使いなどに対しても(その力の使用をあまり快くは思わないが)寛大な姿勢を示してきたため、彼ならば見逃してくれると考えたのであろう。
 そして実際「『人としての心』は残っているが、人前に姿を出せる状態ではない」というジェーンの状況を知ったマーグは、彼女がその森に身を潜めていることを隠した上で、彼女を元に戻す方法を模索することになる(なお、マーグがアントリアに従順な姿勢を示した一つの理由には、「自分がこの地の領主としての立場を維持することで、ジェーンを守らなければ」という使命感もあったのだが、そのことは口には出さなかった)。
 だが、結局、その解決法が見つからないまま、徐々に時が経つにつれて、ジェーンの精神状態が乱れ始めた。暗い森の奥で一人孤独な日々を送り続けることによって、徐々に心までもが混沌に侵され始めてしまったのである。その結果、彼女の周囲の混沌濃度が高まり、小規模の混沌災害が少しずつ森の近辺で頻発するようになっていく。
 マーグは自らの聖印の力でその混沌災害を押さえ込みつつ、ジェーンの心の平穏を保つために、いつか愛する家族(ヘンリー、エレナ、ジュリアン)と再会出来る日が来ることを信じて、彼等の帰還を待ち続けるよう説得を続けてきた。そんな中、その愛する夫ヘンリーを旗印とする日輪宣教団による反抗が開始されたのである。

「私はあなた方を責めるつもりはありません。ヘンリー様のこの地を取り戻すための、仇敵アントリアを倒すための苦肉の策だったのでしょう。しかし、その結果として、あの方は、もう二度とヘンリー様の前には出られなくなってしまった。その絶望感があの方の心を更に蝕み、更なる混沌濃度の上昇をもたらしてしまったのです」

 ここまでの話を聞いた上で、ようやくネロは理解した。マーグがこのことをイザベラに対して隠し続けた理由も。そして、ジェーンの甥である自分だけに対してであれば話しても良い、と判断した理由も。だが、話はここで終わりではない。

「今あの方は森の奥で御自身の力を押さえ込んでいる状態です。この状況を打開するための方策はないものかと思案を巡らせていたところに、この方が現れました」

 そう言って、マーグはクローディアを指す。彼は、クローディアが現在、神聖トランガーヌと交戦中の隣国グリースに仕えていることを説明した上で、ネロにこう告げた。

「当初この方は、ジェーン様をグリースが引き取ると仰ったのです」

 現在、グリースはヘンリーとジェーンの間に生まれた長男であるジュリアンを匿っている。彼はヘンリーの亡命中にその身に邪紋を刻まれてしまったため、もはや神聖トランガーヌには足を踏み入れることは出来ず、ジェーンがこの地に居続ける限りは会うことも出来ない。だが、ジェーンの身柄をグリースが引き取れば、(ジェーンの状態次第ではあるが)一緒に暮らすことも出来る。そうなれば、ジェーンの精神状態も安定するのではないか、という提案である。
 そして、ここでようやくクローディアが口を開く。

「しかし、マーグ殿はそれをお認めにならなかった。それはジュリアン様だけでなく、ジェーン様までもがグリースの手に渡ることにより、トランガーヌの民の心がグリース側に傾くことを危惧したからでしょう。こちらとしては『ジェーン様を引き取った後も、その存在は隠す』と申し上げたのですがね。まぁ、ウチの子爵様やトーニャ様の言うことなど信用出来ないと言われたら、それはそうかもしれませんが」

 淡々とした口調で彼女はそう語る。マーグがそう判断せざるを得なかったのは、彼の中での神聖トランガーヌへの忠誠心の強さ故でもあり、その背景には、彼が同国建国以前からの敬虔な信者であったことも影響しているであろう(もし、この地の領主がジニュアールであった場合は、おそらく二つ返事でこの「王妃を救うための裏取引」に応じていた筈である)。

「そこで、こちらはもう一つ、見返りの条件を出したのです。ジェーン様を引き取らせて頂けるなら、これをお渡しする、と」

 クローディアはそう言いながら、懐から「薬瓶のような何か」を出す。この国の有力貴族家の出身であり、自国の産業にも詳しいネロは、その正体が一目で分かった。

「それは……、ヴィット!?」

 ヴィットとは、メガエラの近辺の森で採れる薬草を原材料とした特殊な薬であり、主に大陸で頻発する「黒死病」という伝染病の特効薬として知られている。

「既にご存知かどうかは分かりませんが、私の情報源が間違っていなければ、ヘンリー様を苦しめている病気の正体は、黒死病です」

 クローディアはそう断言し、それに対してマーグは神妙な表情で頷く。これまで、ヘンリーの病気の正体は公的には一切発表されていなかったが、その正体が黒死病ということであれば、ネロも納得は出来る。現状、黒死病はどのような聖印の力を以ってしても治すことは出来ない。そして唯一の特効薬であるヴィットは、その力の根源が混沌にあると言われており、日輪宣教団の教義においては、その使用は認められていないのである。

「つまり、この薬があれば、ヘンリー様は助かります。私としては、我が村の森を焼き払おうとしたあなた方にこれを渡すことは反対したいところなのですが」

 クローディアが言うところの「我が村」とはメガエラのことなのだが(厳密に言えば、現在のメガエラはもはや「村」というよりは「町」と呼ぶべき規模にまで発展しているのだが、彼女は今までの慣習から、ついそう呼んでしまっている)、現在の彼女がメガエラの領主に仕えていることを知らないネロとしては、この発言の意味は伝わっていない(詳細はブレトランドの英霊1を参照)。しかし、構わずクローディアはそのまま話し続ける。

「この薬を使わなければ、ヘンリー様は間も無くお亡くなりになられます。そして、この薬を使えば、病状は快復するでしょうが、『トランガーヌ枢機卿としてのヘンリー様』は、この世からいなくなるでしょう。あの方は筋を通される方です。自らがこの『混沌の産物』によって助かったことを知れば、自主的に今の地位からは退かれる筈です。私としては、今の主人であるティファニア様に仇なすヘンリー様をこの手で倒すつもりでいましたが、ティファニア様もそこまでは望んでおられません」

 つい勢いで、言わなくてもいいことまで口走ってしまっているクローディアであるが、ネロにとっては、現在の彼女の立場など気にならなくなる程の衝撃的な事実の前に、ただひたすら呆然と棒立ち状態となる。そして、そんな彼に対して、マーグはこう言い放った。

「結論を言いましょう。私としては、この薬を使ってヘンリー様を助けたい。そして、出来ることならばジェーン様もグリースにお送りしたい」

 聖印教会の信徒であるマーグは、苦渋の表情を浮かべながらそう言った。主君を救うため、たとえ教会から破門されることになろうとも、どのような神罰を受けることになろうとも、あえて「混沌の薬」を手に入れるための裏取引を決意したのである。
 ネロはその決意の重さを理解しながらも、「今の自分の立場において果たすべきこと」を改めて考えた上で、慎重に言葉を選びながら語り始める。

「あなた方の考えは分かりました。先ほども言った通り、人を救うための方法は人それぞれです。その上で私の考えを申し上げますが、私としては、混沌に苦しんでいるジェーン様をそのままにして放っておく訳にはいきません。ですので、『彼女の魂を解放すること』を見逃しては頂けないでしょうか?」

 ネロの中では、身内であるジェーンを助けたい気持ちは強い。だが、仮にジェーンをグリースに引き渡したとしても、それは「混沌化を遅らせること」に繋がるだけで、根本的な解決にはならない(そして、根本的に解決する手段は、今のところ見つかっていない)。ならば、これ以上苦しむ彼女を放置するよりも、自らの手で彼女を「浄化」することこそが、本当の意味で彼女を救う道なのではないか、というのが、今の彼の中で導き出した苦渋の決断であった。

「救える可能性を模索することよりも、今この場であの方を楽にする方が望ましい、と?」
「それが望ましいと言える根拠がどこにあるのかは分かりませんが、私はそう思うのです」

 湧き上がる様々な感情を抑えながら、ネロはそう答える。人として、どちらの考えが正しいのかは分からないが、少なくとも今のネロの立場としては、そう言わざるを得ないのである。そして、マーグもまた、彼女の身内であるネロがそう言い切った以上、これ以上の原理的論戦を続けるつもりはなかった。

「分かりました。それがあなたの信念であるならば、少なくともそれは私の信念とは相容れられない。しかし、我々がここで争うことは、ヘンリー様にとっても、ジェーン様にとっても、望むべきことではない。ならば……」

 マーグはしばらく逡巡しつつも、精一杯の「妥協案」を提示する。

「ここは、あなた方にひとまずお任せします。しかし、我々はそれに協力は致しません。我々もここで一年間手をこまねいていた以上、我々だけに任せろとは言えないのも事実。ですから、あなた方がジェーン様を浄化するというのであれば、止めはしません。しかし、それに失敗した場合、我々は我々のやり方でジェーン様をお助けさせて頂く。その上で、我等のおこないを、国家への反逆、もしくは神への冒涜と糾弾したいのであれば、そうなさるがいい。それが、ヘンリー様やこの国のためになるとお考えであれば、我々は甘んじてその裁きを受けましょう」

 そこまでの覚悟を聞かされたネロは、あえて視線をそらしながら、答える。

「私はただ、どこかで偶然ジェーン様のことを知ってしまっただけです」

 つまり、ネロとしては「マーグ達が『混沌化したジェーン』を匿っていた」という事実を公にするつもりはない、ということらしい。マーグとしては、別に口封じをするつもりはなかったが、そうしてもらえるのであれば、その方が望ましいことは間違いない。

「その上で、我々がジェーン様を『浄化』することに関しては、黙認して下さるということで、よろしいのですか?」
「あなた方がその道を行くのであれば、止める気はありません。私はジェーン様に大恩ある身ではありますが、ジェーン様との繋がりはあなたの方が近い。そのあなたがそうなさるのであれば、ジェーン様も納得されるでしょう」

 それぞれに思うところがありながらも、ようやく話がまとまりかけたところで、一人話題の外に置かれていたクローディアが口を挟む。

「ということは、私との交渉は決裂、ということですか?」

 そう言って、彼女が薬壜を懐に戻そうとすると、マーグがすぐに答える。

「いえ、まだ彼等が成功するとは限りません。彼等が失敗した場合は、我々はあなたと共に『当初の計画』を実行させて頂きます。次の『第二討伐隊』が来る前に」

 マーグとしては、ネロ達が失敗することを望んでいるとは言えない。だが、失敗した後の「次善の策」を用意することは、この地の統治者として、筋の通った措置と言って良いだろう。ネロも、その点については何も言うつもりはなかった。だが、そのネロに対して、クローディアはあえて問いかける。

「で、あなた方が成功した場合、この薬は必要ないですか? 私としては、どちらでも良いのですが」

 本来ならば、ネロ達がジェーンを殺すのであれば、その時点で、薬を引き渡すための条件は破綻することになる。だが、結果的にこの薬でヘンリーが命を取り留めるのであれば、それだけでも神聖トランガーヌを混乱させることにも繋がる以上、敵国であるグリースにしてみれば、本来の交換条件を無視してでも彼等に渡すことには意味がある。
 ネロの記憶にある限り、クローディアは本来、このような「相手の精神をえぐるような交渉」をもちかけるような少女ではなかった。昔は隠していただけで、これが彼女の本性なのか。時が経つにつれて彼女の性格が変わっていったのか。あるいは、彼女に対してグリース内の誰かが「余計な入れ知恵」をしたのか。
 いずれにせよ、ここは明確に意思を示さねばならない局面だと判断したネロは、苦渋の表情を浮かべながらも答える。

「ヘンリー様のことを、助けられるならば助けたいです。しかし、その薬によって病気を治すことは、助けることにはならないと私は考えています」
「分かりました。あなたの信念がそうなのであれば、私はそれで構いません。もし、別の方法であの方が息を吹き返したら、その時は『私の本来の力』の見せ所ですから」

 「暗殺術」の専門家である彼女は、鋭い視線を向けながらそう告げる。かつてはネロと共にヘンリーを守る立場だった筈の彼女と、なぜここまで道を違えることになってしまったのか。やるせない思いを抱えながら、ネロは彼女とマーグに背を向けて、ひとまずこの会談の場から立ち去っていくのであった。

3.4. 信念の戦旗

 こうして、ネロとマーグの間での「裏交渉」が成立したことで、マーグはひとまず部下の伝令を通じて、副官であるガルブレイスに「話をしたい」という旨を伝える。その結果、リーベックとの「終わりなき押し問答」は、一旦打ち切られることになった。
 その上で、リーベックとブリジットは納得のいかない心境ながらもひとまず宿舎へと戻り、ネロと合流する。ネロとしては、さすがにこの二人に事情を話す訳にもいかないので、「領主殿が混沌浄化を自分達に任せてくれた」ということだけは伝えたが、なぜ急にそうなったのか、リーベックとしては釈然としないので、再びガルブレイスに話を聞きに行くことになった。ブリジットも、先刻のリーベックの様子から、彼が交渉の過程で暴走して衝突に発展する可能性を危惧して、再び彼について行く。
 こうして、ガルブレイスとの問答の第二幕が開くことになったが、老将は先程よりはすっきりした表情で彼等の前に姿を現した。

「マーグ殿と話し合った結果、ひとまずお主らに任せてみよう、ということになった。マーグ殿も仰っていたが、やはり我々も一年手をこまねいていたのは事実だからな」

 それに対して、リーベックは少し怪訝な顔で問いかける。

「ですが、あなた方にも十分に混沌を祓うだけの力はある筈です。一年、手をこまねいていたのには、それなりの理由があるのでしょう?」
「そうだ。だから儂としても、出来れば危険なあの場所に行かせたくはないのじゃが、それでもお主らが行くというのであれば、若い者達に道を譲る。まぁ、マーグ殿も十分若いがな」

 実際、マーグも世代的にはネロやリーベックと殆ど変わらない。それ故に、ガルブレイスはそのマーグの決断を優先することにした。それでこの場を丸く収めようと考えていたのだが、リーベックとしては、やはり「何かを隠されたままの状況」には納得が出来ない。

「あなたは、多くの血が流れるのは嫌だと仰いましたね。それは私も同意見です。だからこそ、裏に何があるのか分からないまま、混沌のみを排除して、それが果たして民のためになるのか。私には分かりません。私は全てを聞いた上で、自分の為すべきことを判断したいと考えている。そのために、詳細を教えては下さいませんか?」
「詳細か……。何を聞きたい? ここに混沌がある。それを倒す。それがお主ら日輪宣教団の信念ではないのか?」
「なぜマーグ様が、浄化出来る筈の混沌を、一年以上も放置していたのかという理由です。マーグ様が敬虔な信者であることは私も存じています。ですので、彼が民に害を為す混沌を放置することなど、ありえない筈なのです」
「つまり、マーグ殿は『あえて混沌を放置していた』と、お主は考えているのじゃな?」
「何かしら、放置せざるをえない理由があるのだとしか思えません。そうでないとするならば、彼はただの反逆者です」
「失敗した者を反逆者呼ばわりとは、トランガーヌも随分と恐ろしい国になったものじゃのう。儂も失敗したことなど、いくらでもあるぞ。それに、そこまで言うならば、なぜクラカラインはいつまで経っても浄化されぬ? サロメの混沌も、我々は何年も解決出来ないままであった。魔境の大きさの違いはあれども、我々がこの森の問題を解決出来ずにいる期間はたかだか一年。どこまで浄化に手こずれば反逆者になるのか? そこに明確な基準はあるのか? お主の中では、クラカラインはあと何年浄化出来なければ、反逆者扱いになる?」
「クラカラインは大きな魔境です。現状、我々にはそれを浄化出来るだけの力が無いと私は考えている。しかし、エフロシューネの魔境はあなたとマーグ様の力があれば浄化出来るのでは?」

 実際のところ、クラカラインの魔境が浄化されないのは、その規模の問題ではなく、グリース・アントリアの二正面作戦を避けるための戦略的措置として放置されているのではないか、という憶測が強いのであるが、リーベックはその可能性については言及しなかった。彼の中で、そのような可能性自体を完全に否定しているのか、話を横道にそらさないためにあえて触れなかったのか、ガルブレイスには判断がつかなかった。
 とはいえ、ガルブレイスとしても、クラカラインの現状についてはよく分かっていないし、本当に「浄化しようと思えば出来る程度の魔境」なのかどうかの確信もない。だが、それに関しては、リーベックにとってのエフロシューネもまた同様であった。

「この森の魔境を見てもいないのに、よくそのようなことを言えるのう」
「まぁ、そうですね。とはいえ、実際のところ、本気で浄化しようと思っても出来なかったのであれば、あなた方はその程度の器だった、というだけのことだ」
「それでいい。もう儂は既に一度隠居した身であるしな」

 あっさりと、そう言ってリーベックの挑発を受け流す老将であったが、それでも若き日輪の志士は、引き下がることはなかった。

「しかし、それでも私は信じたいのです。神があなた方に聖印を与えた以上、あなた方は相応の器の持ち主ではある筈。だからこそ知りたいのです。ここまであなた方を苦戦させた原因を。この地で何が起きているのかを。神の名の下に、包み隠さず真実を話して下さい」

 その語気に押されて、ガルブレイスは理解した。自分が真実を話さない限り、リーベックはこの問答を終わらせる気がないことを。ここで自分が真実を話せば、マーグとネロがようやく導き出した「妥協的合意」が水泡に帰してしまうかもしれないが、ここで彼の追求をかわしきる術が、もはやガルブレイスには残されていなかったのである。

「分かった。そこまで言うのであれば、全てを話そう。ただし、全てを話した上で、お主が我等を反逆者と断じるのであれば、我々は武器を持ってお主らと戦う。ヘンリー様が死ねと仰るのであれば我々はいつでも死ぬ覚悟は出来ているが、いかに子爵家に連なる身であろうとも、今のお主らの命令に従うことは出来ん」

 そう断った上で、ガルブレイスは全てを語った。ジェーンの現状も、ヘンリーの病気の正体も、そして、二人を助ける道を模索するために、マーグがグリースと裏取引しようとしていることも。それを聞いたリーベックは、内心で湧き上がる感情を抑えながら、冷静な口調で問いかける。

「つまり、あなた方は、混沌に侵されたジェーン様を、こんな言い方はしたくありませんが、グリースに売り渡そうとして、その代償に手に入れた『混沌によって汚された薬』で、枢機卿猊下を救おうとした、ということですか?」
「その通りだ。それが許せぬというのであれば、儂は今この場で、お主らの首を撥ねる」

 ガルブレイスはそう言って、本気の殺気を込めた眼光でリーベックを睨みつける。今、この部屋の中にいるのは、ガルブレイス、リーベック、ブリジットの三人だけである。ガルブレイスの中で、若造相手であれば二対一でも勝てるという確信があったのかは分からない。あるいは、ここで死ぬならそれも本望と考えていたのかもしれない。だが、そんな老将に対して、リーベックは淡々と冷たい口調で語り始める。

「安心して下さい。あなた方は反逆者などではありません。混沌の力に唆され、一年もの長きに渡って、この町の民を混沌の脅威に晒し続けた、ただの腑抜けです」

 そう言い放ったリーベックの言葉をガルブレイスは表情を変えずに受け止める。そしてリーベックは徐々に語気を強めながら、自らの内なる信念を爆発させる。

「その程度の者達に国主を名乗る資格はありません。自らの決断が生み出す誹りを飲み下すことも出来ぬような君主ならば、それは君主とは言えない。皇帝聖印に至ることなど、出来る筈もない。ならば、私がやってみせる!」

 この瞬間、リーベックの背後に「ミュルミドーン」の戦旗(フラッグ)が出現した。戦旗とは、聖印を持つ者の精神が「確固たる道」に辿り着いた時に出現すると言われる。その旗に描かれた紋章はその持ち主の本質を表すと言われており、彼の戦旗に描かれたミュルミドーンの紋章は「自己の目的を実現させるための強い信念」を意味している。
 戦旗を現出させた君主は、通常の君主よりも「格上」の存在と見做されることが多く、それ故に、戦旗を生み出すことを一つの到達目標と考える君主も多い。だが、今のリーベックは、自らの戦旗を現出させたことへの感慨よりも、ガルブレイス達への怒りの感情の方が勝っていた。

「ジェーン様を浄化することは、あの方を殺めてしまうことになるでしょう。ヴィットを受け取らなければ、トランガーヌ卿の回復の見込みもほぼ無いと言っても過言ではありません。それによって私を恨む者も当然いるでしょう。それを飲み下す覚悟もないようなあなた方に、私は『反逆者』などという肩書きを与える気もありません」

 このように、ガルブレイス達がジェーンを浄化出来なかったことの原因を「誹りを飲み下す覚悟」の有無の問題として語るリーベックに対して、ガルブレイスは呆れた口調で言い放つ。

「お主はどこまでいっても『自分の誇り』のことしか考えておらぬようじゃの。まぁ、若いうちはそれでも良かろうが」

 マーグと共に、既に二度も「裏切り者」の誹りを受け続けた老将にとっては、もはや自分の体面など、どうでもいいことである。むしろ、他人の行動原理をそのような基準のみで測ろうとすること自体、リーベック自身が「自分の体面」にこだわっている(「混沌を放置することによって受ける誹り」を恐れている)ことの証左であるかのように、この老将には思えた(実際のところは、リーベックの発言には「自分自身からの自分への誹り」をも飲み下す覚悟、という意味も込められており、対外的な体面だけにこだわっていた訳ではなかったのだが)。

「我等にとっては、もはや自分の名誉や誇りなど、どうでもいい。我等はただ、目の前で苦しんでいる者を救うために最善の道を探す。それをお主らが諦めて、浄化という『安易な道』を選ぶのであれば、それで良い。儂がそれをどうこうするつもりはない。お主と儂が歩むのは、異なる道なのじゃろう。じゃが、お主が言った通り、一年間どうにも出来なかったことは我々の失態。無能とでも何とでも罵るがいい」

 話が噛み合ってないことを互いに察しつつ、リーベックとしても、これ以上の問答を続けても不毛だと考えたのか、話を本筋に戻す。

「混沌は、いつか必ず人々に害を成します。少なくとも、そのような状態のジェーン様を一秒も長く放置しておく訳にはいかないのです。この町の民のためにも」
「分かった。ならば、好きにするがいい。ただ、儂はお主らの武運は祈らんぞ。お主らが失敗して、我等のやり方でジェーン様をお救いする道を、まだ諦めてはいないからな。じゃが、道を塞ぐ気もない。若人達は、若人達の道を行け」
「勿論です。私がこの魔境に敗れる程度の者なのであれば、あなたが言ったことの方が正しいのでしょう。ですが、私は決して負けません。神の御加護は、いつも私の後ろにある」

 そう言ってガルブレイスを一睨みした上で、リーベックは踵を返し、部屋から立ち去ろうとする。このやりとりを、ブリジットは彼の後ろでずっと無言で聞いていた。もし、何か問題が起きたら、リーベックを止める気でいたが、彼女の中では、リーベックの言動の中で「止めなければならないこと」は何一つなかった。彼の発言は苛烈ではあったが、その主張はブリジットの理念とも完全に合致していたのである。
 そんな彼女に対して、リーベックは部屋から去る直前に、一言こう告げる。

「リジー、これが僕の覇道だ。僕は、神聖トランガーヌを背負うだけの覚悟は、十分に出来ている」

 そう言って、リーベックが部屋から出て行くが、あえてブリジットは彼の後を追わず、その場に残った。どうやら彼女としても、ガルブレイスに対して何か言いたいことがあるらしい。

「お主は一言も話さなんだが、それで良かったのか? 大陸の姫君よ」
「私は、いえ、私達、 大陸からの遠征軍は、この地の人々にとっては所詮、他人です。そのくらいの立場はわきまえています。その上で、私は、あなた方の気持ちも分かる。ですが、それでも、リーベックさんの判断に同意します」
「では、一つだけ聞きたい。もし『彼』が、巨大な混沌に飲まれた場合、お主はどうする?」

 そう言われたブリジットは、穏やかな笑顔ではっきりと断言する。

「その時は私が、責任を持って彼を『浄化』しますよ」

 彼女の笑顔の目に宿った「強い信念」を目の当たりにしたガルブレイスは、諦めたような納得したような苦笑を浮かべつつ、目線をそらしながら独り言のように呟く。

「そこまで覚悟が決まっているのであれば、もう儂は何も言わん。ただ、儂は、そこまでいい切れぬマーグ殿の方が、人間として好きなだけだ。あとはもう、好き嫌いの問題でしかない」

 そう言って背を向けたガルブレイスに対して、ブリジットは「では、失礼します」と告げて、そのまま部屋を出て行く。
 こうして、ネロとマーグの裏交渉は破綻した。この後、ガルブレイスから真実を引き出した、という旨をリーベック達から聞かされたネロは、もはや何も言わなかった。色々と思うところはあったが、まず今は、翌日の混沌征伐に専念すべき、と自分に言い聞かせていたのである。大恩ある叔母にして、主君の最愛の妻でもあるジェーンを、この手で浄化するために。

3.5. 悪魔の群れ

 翌日、微妙に異なる想いを抱く三人の若き指揮官は、エフロシューネの森の奥地で広がりつつある魔境へと向けて、進軍を開始する。
 マーグ達は「魔境の奥へは部隊を連れては行けない」と言っていたが、実際のところ、魔境の中に入っても、兵士達に特に異変が起きたようには見えなかった。どうやら、あれはネロ達に魔境への進軍を諦めさせるための方便だったようである。実際のところ、エフロシューネの警備兵達も森に足を踏み入れることを禁じられていたが、それも「真相」を知られないための措置だったのであろう。
 だが、そんな中でリーベックは、この空間の中では通常の方向感覚が意味を成さなくなっていることに気付く。

「『道に迷いやすい森』という話は、どうやら嘘ではないようだ。はぐれないように、僕についてきて」

 彼がそう言うと、ネロとブリジットも彼に従って部下達と共に魔境の中を慎重に探索していく。すると、やがて後方から、何か魔物の気配が近付いてくることにネロが気付いた。どうやら、ディアボロス界から投影された下級悪魔達のようである。しかも、相当な数のように思えた。
 ネロはすぐさま皆に戦闘隊形を取るように命じ、それに応える形でリーベックは自らの「戦旗」を掲げる。そして、聖印の力によって辺り一面を照らし出し、周囲の混沌の力を弱めつつ、自ら悪魔達の前に特攻し、その掌から聖なる光弾を放つことで、次々と悪魔達を撃ち抜いていく。彼の聖印は、混沌を浄化する能力に特化された聖印であり、武器を持たずとも混沌を打ち破ることが出来る。まさに、聖印教会の信徒に相応しい聖印の持ち主であった。
 だが、その反面、彼は「守り」には長けていない。すぐさま悪魔達が彼に向けて反撃の炎を打ち込むが、それでも彼は、まさに「神懸かり的な動き」でそれらを避け続ける。今の彼は、戦旗を出現させたことの高揚感故か、本来の力以上の何かに支えられているかのようであった。
 それでも、さすがに全ての炎を避けきることは出来ない。二発の炎弾が軽装の彼を捉えようとした時、そのうちの片方をブリジットが守りの聖印を掲げて庇う。鉄壁の防御を誇る彼女の聖印の前には、地獄の業火を以ってしても火傷一つ負わせることは出来ない。

「その程度の炎では、我々をくじくことは出来ません」

 彼女がそう言い放つ一方で、残りの一発を直撃させたリーベックは、その身を炎に包まれ、相応の深手を負う。だが、それでも彼は気丈に叫んだ。

「その程度か、悪魔め!」

 こうして、友が必死で体を張って戦っているのを目の当たりにして、ネロの戦意が燃え上がらない筈がない。彼は自らの二本の剣に聖なる炎を宿して踏み込み、その双剣で悪魔達を次々と斬り捨てていく。彼の聖印は剣技を極めることに特化された聖印であり、どんな相手であろうとも、近接戦においては圧倒的な強さを発揮する。そして、彼が悪魔達を屠っていく度に、部下の兵士達の指揮も否応なしに高まり、徐々に悪魔達は劣勢へと追い込まれていく。
 こうして、ネロの双剣とリーベックの光弾、更に途中からはそこにブリジットの「盾を武器として用いる戦技」も加わり、悪魔達は完全に殲滅され、その身を構成していた混沌の欠片は三人の聖印によって吸収されていく。それなりに味方の損害もあったが、全体を通してみれば、鮮やかな大勝利であった。

「す、すごいです、姫様!」

 ケリィは思わずそう叫ぶ。初めての実戦としてはかなりの強敵であったが、結局、彼女自身はほぼ何もしないまま、ブリジットを初めとする周囲の者達がケリィを守るような陣形を形成したことで、結果的により強固な防御陣となって、悪魔の攻撃を防ぎきるに至った。

「これも神のお導きです」

 笑顔でそう語るブリジットに対して、ケリィは瞳を輝かせながら問いかける。

「私も……、私も信じていれば、いつか聖印や戦旗を持てるのでしょうか?」
「そうですね。精進して下さい」

 ブリジットとしても、それ以上のことは言えない。現実問題として、神がどのような人物に対して聖印や戦旗を与えるのかは、彼女にも分からないのである。
 その傍らで、序盤の先行故に最も深い手傷を負ったリーベックは、治療器具を用いて自らの傷口を塞ぎつつ、助けてくれたブリジットに頭を下げる。

「ごめんね、リジー。ちょっと先走ってしまった」
「いえいえ、気にしないで下さい。これが私の役割ですから」

 こうして、二人は仲睦まじい姿を(おそらくは無自覚に)周囲に見せつけていたが、今のネロは、その二人の様子すらも気にならなかった。彼の中では、この後に待ち受けている「もっと辛い現実」に直面した時のことを考えるだけで精一杯だったのである。

3.6. 解放のための刃

 その後も、彼等は魔境の森の構造に戸惑いつつも進軍を続けるが、その過程で、ネロにとって聞き覚えのある「声」が、彼の耳に届く。

「陛下……、エレナ……、ジュリアン……、今、いずこに……」

 それは、確かにジェーンの声であった。戸惑いながらも、彼等がその声のする方向に向かうと、やがて巨大な「化け物」の姿が彼等の眼に入る。その身体は獅子のような骨格だが、背中から巨大な蝙蝠のような翼を生やし、更に不気味な無数の毒針を持つ尾が生えている。しかし、その首の先にある「顔」は、間違いなくジェーンの顔であった。
 更に、その周りに「首のない騎士のような姿をした何か」が四体、彼女を取り囲むように立っている。その鎧の形状から察するに、おそらくはジェーンを守って死んだ侍従隊の騎士達の成れの果てであろう。彼女を守るためにあえて混沌に身を委ねたのか、死してその身を混沌に取り込まれたのか、あるいは、混沌化した彼女を守るために冥界から蘇ったのかは分からないが、いずれにしても、討伐隊にとって「浄化しなければならない存在」であることは間違いない。
 そして、近付いてくる足音に気がついた「彼女」は、ネロに視線を向ける。

「あなたは……、ネロ? そこにいるのは、ネロ、ですか?」
「お久しぶりです、ジェーン様」
「なぜ、あなたがここに?」
「あなたを『混沌の苦しみ』からお救いするためです」

 張り裂けそうな気持ちを押し殺しながら、ネロはそう告げる。

「では、あなたは、マーグ殿の代わりに来てくれたのですか? マーグ殿は私をジュリアンのところへ連れて行って下さると仰った。そうすれば、私の心は元に戻ると。そういうことでよろしいですか?」

 そう言われて、ネロの決意は揺らぐ。かつてのジェーンは、一族の中でも特に心優しき人徳者として知られていた。それ故にヘンリーに見初められ、良妻賢母として、国民に敬愛される子爵夫人となった。その彼女の変わり果てた姿を前にして、様々な思いがネロの心に去来する。
 だが、ここで方針を覆す訳にはいかない。自分の中の迷いを断ち切るため、自分に言い聞かせるように、一呼吸置いてから、伝えるべき言葉を必死で絞り出す。

「マーグ様の仰った方法とは、少し違いますが……」
「それは、どういうことでしょう」
「あなたはこれ以上、苦しむ必要も、悩む必要もないのです」

 辛そうな顔を浮かべつつそう伝えるネロの様子から、ジェーンは「事情」を察する。

「……ネロ、あなたは昔から、優しい子でしたね。そして、マーグ殿もそうでした。マーグ殿から話は伺っています。今のあなた方がどのような立場にいるのかも。そして陛下も陛下で今、必死で戦っていらっしゃる。この地を護るべき君主として……」

 全てを悟ったかのような口調で、彼女はそのまま語り続けた。

「私は陛下の足を引っ張りたくはない。一度は自ら命を絶つ決意もしました。でも、マーグ殿はそんな私に言いました。最後まで希望を捨ててはならない、と。私のわがままに付き合わせてしまって、本当に悪いと思っている。でも、私は最後まで希望は捨てない。だから、あなたが連れて行ってくれないのであれば、私は今から、ジュリアンの元へと向かいます」

 そう言って彼女は立ち上がると、四体の「かつて騎士であったと思しき何か」が、彼女の周囲を守るように取り囲む。

「でも、今の私が、この国と、陛下と、そして子供達にとって害を為す存在なのであれば、私を今ここで止めてほしい。あなたの信念に基づいて、私をこの場で討ちなさい」

 どう答えるべきか分からず、ネロが逡巡していると、その両隣の二人が声をかける。

「ネロ」
「ネロさん」

 最初は名前だけを呼び、ネロの反応を見るが、それでもまだ彼の中では「迷い」が断ち切れない。そんな彼の心境を察してか、リーベックが語りかける。

「僕は君の信条に口を出すつもりはない。ただ、あの方を救うと決めたのなら、それを貫くべきだと思う。僕は自分の信条に従う」

 そう言って、リーベックは戦旗を掲げる。そんな友の姿を目の当たりにして、遂にネロも決断を下した。

「私としては、あなたには、これ以上、あなた自身を苦しめないでほしい。だからこそ、私は
あなたを止めます!」

 そう言って、ネロは全力でジェーンに向かって踏み込もうとするが、それより先に、彼女の尾が反射的に跳ね上がり、その無数の毒針を以って討伐隊全体に襲いかかる。だが、その攻撃は全てブリジットがその身を挺して庇いきった。彼女はまだ平気な顔をしてはいるが、明らかに消耗しており、毒がその身に入り込んでいることも分かる。
 一方、周囲の「首のない騎士達」がジェーンを庇おうとするのを見たリーベックは、まずはその周囲の壁を崩すために、光弾を彼等に向かって次々と放ち、その包囲網を崩していく。
 そんな中、ネロはまっすぐにジェーンに向かって踏み込んだ。ここは自分自身の手で決着をつけなければならない、そう決意したのだろう。その剣先にはまだ迷いが見られたが、それでも、彼の双剣は確かにジェーンを捉えた。そして持てる全ての聖印の力を、その一対の刃に注ぎ込む。
 だが、その渾身の連撃を受けても、ジェーンは倒れなかった。我が子に会いたいという一心で、ギリギリのところで彼女は踏みとどまる。
 そして次の瞬間、周囲の騎士達がネロに向かって一斉に斬りかかった。ジェーンへの斬撃に全てを賭けたネロには、その連撃を避けきるだけの集中力は残されていない。しかも、あまりにも急速に先行しすぎたが故に、ブリジットの聖印による守護の力さえも届かない距離となっていた。それでも、かろうじてどうにか一刀だけはかわしたが、残りの三本の剣がネロの身体を貫き、彼はその場に前のめりに倒れ込む。

「ネロさん!」

 後方で戦線を展開していたブリジットはそう叫びながら一気にネロの元へと走り出すと、自らの身体を蝕む毒の苦しみをもろともせず、ジェーンに向かって走り込み、自らの盾を武器としてジェーンに目掛けて叩き込む。その衝撃は、既にボロボロの状態だったジェーンの身体の中心部に位置する混沌核を崩壊させるほどの威力であった。

「ごめんなさいね、ネロ……、最後まで……」

 そう言いながら、ジェーンは消滅する。そして、彼女の周囲を取り囲んでいた首なし騎士達も含めた全ての魔境が消滅していく。倒れていたネロも、かろうじて立ち上がり、リーベックに抱えられながら、無事にその森から帰還するのであった。

4.1. それぞれの未来像

 こうして、エフロシューネの混沌災害は収束し、彼等は帰還することになった。問題は、今後のこの町をどうするかである。
 リーベックとしては、マーグとガルブレイスが長期にわたって混沌を放置したことを理由に、彼等に今後もこの地の領主を任せ続けるべきではないと考えていたが、今の自分達にそこまでの権限がないことも分かっていたので、ひとまず全てをヘンリーやイザベラに報告した上で、彼等の判断に委ねるべきと主張する。
 ネロとしては、マーグとの約束を違えることになってしまうが、彼等の秘密会談とは別次元で、リーベックがガルブレイスから真実を聞き出してしまった以上、彼が報告すべきと主張するのを止めることは出来ない。そして、ガルブレイスもマーグも、今更隠し立てをする気もなかった。

「今回の一件については、全て上に報告させてもらう。ただ、あなた方も、ヘンリー様やジェーン様への忠誠心があったからこその判断だったことは分かっている。だから、信じてはもらえないかもしれないが、私としてはあなた方のことを特別悪く報告するつもりはない」

 帰還したリーベックがマーグとガルブレイスに対してそう告げると、マーグは黙って頷いてその方針を受け入れる一方で、ガルブレイスはそっけない態度で答える。

「我等の忠誠心は、あくまでも我等の自己満足のためのもの。わざわざ配慮してもらう必要はない。この国にとって、我等にまだ利用価値があると判断されれば、今後もお仕えすることを許されるであろうし、その価値がないと判断されれば、首を撥ねられる。それだけのことだろう」

 複雑な感情を押し殺しながら老将がそう言い放つと、今度はリーベックの傍らにいたブリジットが口を開く。彼女としては、この機会に、自分達の理念を正しくマーグやガルブレイスにも理解してほしいと考えていた。

「これから私は、世界中から日輪の人々を集め、この地の浄化に協力してもらうつもりです。エフロシューネだけではなく、クラカラインを初めとするこのブレトランドの全ての魔境を浄化するために」

 ガルブレイスはその言葉を聞いて、少しだけ表情を和らげる。

「そうじゃな。結果的にそれでこの地が平和に収まるのであれば、儂はもう何も言うことはない。もう一度聖印を返上して、隠遁生活に戻っても構わん。というよりも、戻るべきなのであろうな。おそらく儂がいつまでも今の地位にいたら、いつか再びお主らと衝突することになる」

 だが、そんな老将の言葉に対して、年若き上官が苦言を呈する。

「ここでそう仰るのは、少し卑怯ではありませんか? ガルブレイス卿。この国が今、歪な構造になっていることは、誰もが知っていることです。大陸から来た方々の力が無ければ、この国は成り立たなかった。しかし、大陸から来た人々と、この地の人々との間で、どうしてもまだ埋められない溝があるのも事実。私も陛下から隠遁しろと言われれば隠遁するつもりですし、聖印を返上しろと言われればするつもりです。しかし、今の時点で若人だけに責任を押し付けるのは、まだ時期尚早かと。やめるのであれば、私もやめますよ。私の居場所が今のトランガーヌにないというのであれば、これ以上この地位に居続ける理由もない」

 苦笑を浮かべながらそう語ったこの町の領主の言葉を受けて、ネロもまた、自分の思いを素直に述懐する。

「この国の中に様々な考えの人がいることは仕方がないことですし、それはそれで当然のことだと思います。国としての一定の方向性を示すことは必要ですが、全ての人の考えを完全に統一することは出来ない。肝心なのは、人がそれぞれに自分の考えに基づいた人生を生きられるようにすることだと、私は考えています」

 そのために何が必要なのか、そのために自分が出来ることは何なのか、まだネロの中では答えが出ていない。しかし、そのために必要な何かを探し求めていかなければならない、という意識は、ネロの中でうっすらと固まりつつあった。
 そんな若者達の様子を眺めながら、老将は再び口を開く。

「いずれは、お主らがこの国を引き継いでいくことになるだろう。その上で、もし我々が必要ないと考えた場合は、この地の領主をお主らのいずれかに継いでほしいと思う。これは、お主らが魔境に行っている間に、マーグ殿と話し合って決めたことだ」

 それに対して答えたのは、リーベックであった。

「分かりました。ですが、今はそれを決定する権利は我々にはありません」
「じゃが、いずれその決定権は、お主らの誰かが握ることになるのじゃろう?」
「その時は、自分達の頭で考えて、然るべき決断をします。神は力を与えてはくれますが、その力の使い方を決めるのは、私達自身なのですから」

 そう言い残して、彼等はこの「森の町」を後にする。それぞれの中で、この国の、そしてこの世界の目指すべき道を思い描きながら。

4.2. 湖畔の誓い

 討伐隊は往路と同じ経路でダーンダルクへと帰還するため、必然的に帰路において再び湖岸都市タレイアに立ち寄ることになる。そしてこの町に到着した時点で、リーベックは密かにブリジットに「今夜、あの蛍の見える湖畔に晩に一人で来てくれ」と伝えた。
 その日の夜、言われた通りにブリジットがその場所へと赴くと、そこにはリーベックが一人で待っていた。

「どうしたんです、リックさん?」
「リジー、来てくれたんだね」
「改まって、あんな手紙を出すなんて」
「今回の討伐騒動を通じて、少し考えたことがあったんだ」

 彼は、自分の聖印を見つめながら、これまでの人生を思い出しつつ、これから先の人生に向けての想いを語り始める。

「僕は、教皇様の元で修行した、日輪宣教団の人間だ。僕がこの国を継ぐことになったら、当然、反感を持つ者も現れると思う。中にはおそらく、僕が今の枢機卿を殺したとなじる者もいるだろう。実質、それは間違っていないしね」

 彼としては、黒死病やヴィットのことを隠すつもりはない。無論、国の体面のために隠蔽すべきと国や教団の重鎮達が判断した場合は、彼等の意見を尊重する可能性もあるが。

「だけど、僕はそういった非難も全て受け入れて、その上で混沌に抗っていこうと決めた。悪しき力に頼らない、正しい方法でこの国の全てを背負って、この小大陸、いや、世界に覇を唱えようと、僕は決めたんだ」

 そう言って、彼はブリジットの前に跪く。

「リジー、いや、ブリジット・サバティーニ、どうか私の傍を、共に歩いてはくれませんか?」

 「傍らを共に歩く」という言葉の意味を噛み締めながら、ブリジットは数秒にわたって沈黙する。やがて、リーベックはおもむろに立ち上がった。

「すぐに答えてくれとは言わない。君にも思うところはあるだろう。それに、さっき僕が話した覇道は生易しいものではないと思う。僕自身でも、それを達成出来るか不安に思うからこそ、君に傍を歩いてほしいのだけど、その決断のために時間が必要なら、僕は待つよ、いつまででも」

 そう言って、彼はその場を立ち去ろうとする。

「待って」

 ブリジットは、必死で声を絞り出した。

「リック、ずるいです。自分の言いたいことだけ言って。私の話を聞いてくれないんです?」

 リーベックは少し困った顔を浮かべながら、改めて彼女に向き合う。

「もちろん、聞くとも」

 しかし、ブリジットはなかなか言葉が出てこない。再び沈黙が続く中、今度は涙がボロボロと溢れてくる。これには、さすがにリーベックも動揺した。

「なんで、泣くんだよ……」
「リックは本当にずるいです」

 彼女の言わんとすることが分からず、リーベックは混乱する中、ブリジットもまた混乱した状態のまま、自分の中の「まとまらない気持ち」を、そのまま言葉にする。

「今、私の中にもいろんな気持ちがあるの。でもそれが、どれが私の本当の気持ちなのか、それとも、全部神の導きなだけなのか、今はなにも分からないんです。だから、少し、今はこのままでいさせて下さい」

 そのまま泣き続けるブリジットに対して、リーベックは困惑しながらも、黙って彼女の隣で立ち続けた。そして、やがて彼女が泣き止んだところで、「焦らなくていいから」と告げて、二人は街へと戻っていく。

 ******

 そして、客室に帰ったリーベックは、一人、手紙を書く。「リーベック」として伝えるべき言葉を伝えきった彼は、今度は「レベッカ」として、ブリジットに伝えなければならない言葉を文字にしたためた。彼は、それをダーンダルクの「いつもの酒場」の酒場主に匿名で届けるよう、部下の兵士に託す。

「『あのお嬢さんが来たら、渡してくれ』と酒場主に伝えてほしい」

 そう言って手紙を部下に渡した後、再び部屋に帰った彼は(日頃はほぼ使うことがない)腰に下げた護身用の短刀を握りしめ、一括りに結い上げている長い髪をばっさりと切り落とした。

「卑怯な真似は、もうしない」

 彼はそう呟きつつ、同じ館に滞在する友のことが脳裏に浮かぶ。

「これであいつが、好きな人に想いも伝えられないような腰抜けなら、僕の相手にはならない」

 誰に対してでもなく、彼はそう言い放ち、そして静かに就寝の床についた。

4.3. 協調の戦旗

 同じ頃、館に戻ってきたブリジットの前に、今度はネロが訪れた。

「ネロさん、どうしたんです?」

 涙の跡を見られないように気を配りながら、ブリジットがそう問いかけると、彼はこれまで見せたことのない「決意」を込めた表情で語り始める。

「僕は君に、どうしても伝えなければならないことがあって、ここに来たんだ」

 その口調は、いつもの「誰に対しても他人行儀なネロ」とは明らかに違う。2年前のダーンダルクの陥落以降の激動の中で、ずっと表に出さずにいた「素の自分」となって、これまでずっと心に秘めていた想いを、彼は打ち明けた。

「ここから帰ったら、リーベックと僕のどちらかが、この国を引っ張っていくことになるだろう。もし僕が、国を引っ張っていくことになったら、ブリジットに傍にいてほしいんだ」

 ここまでは、先刻のリーベックとほぼ同じ言葉である。まるで示し合わせたかのような展開にブリジットは困惑するが、そこから先の言葉は、全く異なっていた。

「今回のことでも分かったように、同じ神聖トランガーヌの一員と言っても、人それぞれ、考え方も信念も違う。それを完全に統一させることは出来ない。だけど、混沌に対して立ち向かっていく姿勢は変わらない。だから、信念がバラバラな民達を、頑張ってまとめていかなければならない」

 確固たる自身の信念に向けて突き進む覚悟を固めたリーベックとは対照的に、ネロは多くの異なる信念の人々を尊重しつつ、一つの国としてまとめていく必要性を説く。無論、それはそれで、決して容易な道ではない。

「でも、それを為すためには、言ってしまえば、僕は弱いんだ。僕は自分の中でさえ、はっきりした信念がまだ定められずにいる。だから、もしかしたら僕は、時には自分のことだけで精一杯になってしまうかもしれない。そんな時に、僕を支えてくれる人が必要なんだ。そして、出来ればその役目を担うのは、君であってほしいんだ、ブリジット」

 覇道を進むために自らが強くあらねばならないことを誰よりも強く自覚するリーベックとは対照的に、ネロは、自分の弱さを自覚している。自覚しているからこそ、他人を必要とする。他人を必要とするからこそ、他人の信念を尊重しなければならないことが分かっている。それはある意味で、苛烈すぎる母の思想が混乱を引き起こしてきたが故に一定の寛容さの必要性を実感してきたブリジットの思想とも、どこか通じる理念でもあった。

「僕の心はまだまとまっていない。でも、今はまだそんな僕だからこそ、バラバラな民の心をまとめていくことが出来るかもしれないし、そうしなければならないと思っている。今回のことで、それが僕の果たすべき役割だと、はっきり分かったんだ」

 ネロがそう言い切った瞬間、彼の背後に、リーベックとは異なる紋章が刻まれた戦旗が出現する。その紋章の名は「ライトスタッフ」。様々な才を持つ人々をまとめ上げる君主の手に現れる
と言われている。
 ブリジットは、その戦旗の輝きに圧倒されつつ、眩しそうな瞳でネロを見ながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

「ネロさん、あなたのお気持ちは、とても嬉しいです。でも、この場ですぐに答えを出せる訳ではないので、少し、時間を頂けませんか?」
「もちろん。正直言って、僕自身、もっと自分の心に向き合う必要はあるから。返事はいつでもいいよ」

 それを聞いて、ブリジットは頷き、ネロは戦旗をおさめ、ゆっくりと部屋から立ち去っていく。ブリジットはそんな彼を見送りながら、「彼等」の決意の重さを改めて受け止めた上で、自分もまた「決断」を下さねばならない時が近付いていることを実感する。

 ******

 部屋に帰ったネロは、自分自身に言い聞かせるために、改めて自らの想いを口に出した。

「この国のために、僕はもっと頑張らなければならないんだ。たとえブリジットの心が得られなかったとしても、それが僕の果たすべき役割だから」

 やり方は違えども、ほぼ同じ想いを友が抱いていることを知らずに、彼もまた、一人静かに眠りにつくのであった。

4.4. 二つの継承

 翌日、彼等はダーンダルクに無事到着し、病床の(意識があるかどうかも不明な)ヘンリーの傍らに、イザベラや他の重臣達も立ち並ぶ形で集まった謁見の間へと召集され、「一通りの顛末」を全て報告する。
 ヘンリーの側近である旧トランガーヌ時代からの重鎮達は一様に重苦しい表情を浮かべ、イザベラの側近である日輪宣教団側の幹部達も、表立ってその結果を賞賛して良いものか分からず、微妙な表情を浮かべる。
 しばしの沈黙を経て、最初に口を開いたのは、この討伐作戦の立案者であるイザベラだった。

「三人共、ご苦労をかけました。大変な任務を押し付けてしまったようですね」

 それに対して、リーベックは「三人だからこそ出来た、という気はします」と返す。そして、ブリジットは一歩歩み出て、周囲を見渡しながら宣言した。

「お母様、そしてこの場にいる皆様、私は今回の浄化の任務を通じて、決意を新たにしました。皆さんには、その私の決意表明の証人になって頂きたいと思います」

 突然の申し出に、その場の空気が静まり返る。これまでの彼女は、どうしても母親の影に隠れがちな存在であり、公の場で彼女が自分の意思を表明することは少ない。その彼女が、この重臣達が立ち並ぶ中で何かを宣言するということは、それはこの国の未来に関わる重要な話なのであろうと、誰もが予感していた。

「まず、これは、私個人の行動です」

 そう言って彼女は自らの聖印を現出させると、それをリーベックに向かって掲げる。

「私の聖印を受け取って下さい」

 その行動に重臣達はざわめくが、イザベラは黙ってその様子を見守る。ただ、イザベラの表情から、それがイザベラの指示ではなく、ブリジット自身の独断であろうことは、その場にいる者達にも推測が出来た。

「分かりました」

 リーベックは彼女の聖印を受け取り、自らの聖印と融合させた上で、改めて受け取った聖印と同じ規模の「従属聖印」を作り出し、それをブリジットに返す。
 その「儀式」を完了したところで、ブリジットは周囲の人々に対して改めて語り始める。

「私は今回の任務を通じて、リーベックさんの覚悟を知りました。そしてそれは、私達の神のお導きに沿うものだと確信したのです。私達の目標は、皇帝聖印を現出させ、神の平和な世界を築くことです。リーベックさんなら、それが出来る、そう私は確信致しました」

 そう言いながら、ブリジットはイザベラに視線を向ける。

「ですので、私達は今後、リーベックさんの下で戦うべきではないかと思っています」

 リーベックが本気で皇帝聖印を目指すのであれば、彼を「トランガーヌの枢機卿」という地位に縛り付けることは望ましくない、とブリジットは考えていた。それ故に、あえて彼を「一国の主」ではなく「国の枠組みを超えた組織の指導者」に据えることで、彼を一国の利害から解き放たれた「究極的な理想の体現者」へと昇華させるべきだと彼女は考えたのである。
 この唐突な娘の申し出に対して、母は内心では面食らいつつも、表面上は落ち着いた表情を維持しながら、その意図を改めて確認する。

「つまり、『私の後継者』をリーベック殿にすべきである、と」
「そうです」
「あなたではなく?」
「はい」

 このブリジットの申し出は、ここにいる誰もが予想だにしない提案であった。皆、ブリジットが日輪宣教団の団長の座を継ぐことは既定路線だと考えていたのである。だが、彼女はリーベックの目指す理想が、自分が求める理想とほぼ完全に合致していることを確信した上で、あえて自身の聖印をリーベックに捧げ、その従属騎士となる道を選び、なおかつ自分の継ぐべき地位を彼に与えるべきと宣言した。しかも、母親に一切の相談もせずに、である。
 イザベラは、まだ幼い子供だと思っていた一人娘から、ここまで確固たる強い意志が示されたことに対して複雑な想いを抱きながらも、ひとまずは、その決断を尊重すべきと判断した。

「分かりました。もともと私も、出自はただの村娘です。血筋云々を言える立場ではありませんし、言うつもりもありません。ひとまずそれは、あなたの意見として聞き入れましょう」

 日輪宣教団はイザベラが設立した組織であり、団長の継承権については明確に定めていない以上、実質的にはイザベラがその決定権を握っていると誰もが考えている。だからこそ、イザベラはこれから見極めなければならない。リーベックが本当に自身の後継者にふさわしいかどうかを。そしてそれは、一朝一夕で決められる話ではないことも皆が理解していた。ただ、リーベックの思想がイザベラに極めて近いことは皆が理解していたし、実力的にも格的にも、彼女が認めれば異論を挟む者は少ないであろうことも予想出来る。
 それ故に、イザベラの側近達はこの瞬間から、リーベックに対して様々な想いを込めた視線を向ける。一方で、「期待していた言葉」とは全く別次元の宣言を聞かされたヘンリーの側近達が困惑していると、ブリジットは更に「話の続き」を語り始める。

「その上で、あくまでも私個人の意見ですが、トランガーヌの地を治めるのは、ネロ様がふさわしいと思います」

 あえてここで彼女は「ネロさん」ではなく「ネロ様」と呼んだ。

「今の彼には、私達、日輪宣教団のような確固たる覚悟はありません。ですが、それは逆に、あらゆる民の考えを受け入れられるということでもあります。彼の戦旗を見て下さい」

 彼女がそう言うと、ネロは昨夜の時点で彼女の前で現出させたライトスタッフの戦旗を掲げる。その存在を知らされていなかったリーベックも含めて、その場にいる人々は驚愕と感銘が織り交ざったような表情を浮かべる。

「この戦旗は、あらゆる者の才を、生かすべきところで生かせることを示す戦旗です。この戦旗を現出させたネロ様であれば、この地を治めることも可能だと思うのです」

 彼女がそう言い終わると、イザベラが再び口を開いた。

「なるほど、それがあなたの判断ですか。お二方はどうです? あなた方自身に、その志はありますか?」

 ネロとリーベックの様子から、彼等もまた、ブリジットから事前に通達された訳でもなく、この時点ではじめて「彼女の考え」を聞かされたであろうことが、イザベラには読み取れていた。
 これに対して先に答えたのは、リーベックの方である。

「私は、このような場では主観的にものを言うべきではないと思うので、私個人の希望はこの場では捨て置いて頂きたいと思います。しかし、その大役を私にお任せ頂けるのであれば、私は全身全霊を以てその役をまっとうしたいと思います。たとえいかなる困難があれど、私は聖印教会の一員として、この場にいる皆さんと、自分自身と、ご令嬢と、そして何より、神に誓います」

 はっきりとした口調でそう答えると、イザベラはようやく、軽く笑顔を見せる。

「その決意、心強く思います。そしてブリジット、あなたは私に、早く引退しろと、そう言いたいのですね?」
「い、いえ、そういったつもりでは……」
「まぁ、いいでしょう。どちらにしても、私もこれから教皇庁での仕事も増えることになります。今まで、私の名代はあなたに任せてきましたが、これから先は、正式にリーベック殿を日輪宣教団のブレトランド支部長に任命させて頂きましょう。私も、リーベック殿であれば、私の後継者にふさわしいと考えています。早く私を引退させてくれるくらいの気概で、励んで頂きたい」

 現状において、日輪宣教団のほぼ全ての戦力がブレトランドに集中している以上、「ブレトランド支部長」となることは、実質的に宣教団の実行部隊の大半をその傘下に収めることを意味する。最終決定権はイザベラが掌握し続けるにしても、現実問題として確かにイザベラの不在期が増えつつある現状においては、「実質的な団長代行」と言っても差し支えない立場であろう。

「光栄です」

 リーベックが短くそう答えると、今度はネロが口を開いた。 

「仲間として戦ってくれたブリジット嬢がそこまで言ってくれたのです。そこまでの大役であったとしても、私は引き受けさせて頂きます。そのための、この戦旗です」

 とはいえ、現状のブリジットには、枢機卿の継承者を指名する権利など、ある筈もない。「日輪宣教団の後継者としてのブリジット」がネロと婚約でもするというのであれば、それは確かに「新旧のトランガーヌを束ねる存在」としてのネロを後継者とすべきという主張の正統化に繋がるだろうが、ブリジットがその「後継者」の立場を放棄してしまった以上、この発言自体には、まさに「一個人の意見」以上の価値はない。
 だが、現実問題として、リーベックが日輪宣教団の後継者となるのであれば、そのリーベックに「トランガーヌ枢機卿」としての地位をも与えることに対して、伝統的なトランガーヌの旧臣達は断固として反対するであろうし、聖印教会側の人間からも、そこまで彼に権力を集中させることを危惧する人々が出てくるだろう。その意味で、先刻のブリジットの宣言をイザベラが受け入れた時点で、事実上、ネロを枢機卿とする以外の選択肢は、ほぼ絶たれていたのである。
 それでも、これが「日輪の後継者候補ですらなくなった一人の女騎士」の提案だけで決められる問題ではないことは明白であり、重臣達の間で騒然とした空気が漂う中、それまで病床に臥せっていたヘンリーが、おもむろに上半身を起こし始めた。

「猊下、大丈夫なのですか?」

 主治医の者達が驚く中、ヘンリーは落ち着いた口調で答える。

「あぁ、話は全て聞かせてもらった……。ネロ、こちらに来てくれるか?」

 そう言われたネロが近づくと、ヘンリーは自らの聖印を取り出し、ネロの前に差し出す。

「私が不甲斐ないばかりに、この国を混乱に陥れてしまって、申し訳なかった。だが、あとは、お前達、次の世代の好きにすればいい。私はこれから、ジェーンの元へ往く。すまなかったな、最後まで頼りない国主で」

 間近で目の当たりにしたネロは、今のヘンリーが、聖印の力によって強引に「最期の力」を振り絞って話していることが分かる。

「猊下、ご安心下さい。たとえこの地が混乱していても、『集うべき旗』があれば、人は一つの方向へ向かうことが出来ます」

 そう言って、ネロが聖印を受け取ると、ヘンリーは憑き物が落ちたかのような安らかな表情となり、そのまま静かに永遠の眠りに就く。薄れゆく意識の中でヘンリーの脳裏に流れる走馬灯の中には、家族達の姿が映っていた。ジェーン、エレナ、ジュリアン、そして(偶然にも「彼女」と同じ名を持つ)ヘンリーにとっての「初めての女性」と、その間に生まれてしまった「もう一人の息子」……。そんな思い出に浸りながら、初代トランガーヌ枢機卿ヘンリー・ペンブロークの魂は、静かにこの世界から何処かへと旅立っていった。
 そして次の瞬間、イザベラが周囲の人々に向かって、声高に宣言する。

「皆様、よろしいか? 今ここで確かに猊下は『御遺志』を示された。そして私も、私の後継者となるブレトランド支部長を任命させて頂いた。異論のある方は?」

 誰も何も言わない。言える筈もない。それぞれに内心で思うところはあっただろうが、ヘンリー自身の手で「継承の儀」がおこなわれた以上、そこに口を挟める者は誰もいなかった。

「では、これから神聖トランガーヌは、新たな時代を迎える。志半ばで天に召されたヘンリー猊下と、新たに枢機卿に任命されたネロ猊下、そして、私に代わってブレトランドの日輪宣教団を束ねることになったリーベック卿に対して、静かに敬礼を願いたい」

 そのイザベラの言葉が響き渡ると同時に、皆が一斉に、無言で(それぞれの流儀での)「敬礼」をおこなう。こうして、「神聖トランガーヌ」と「日輪宣教団」は、新たなる指導者を迎え、それぞれの「第二章」への幕が、静かに開くことになったのである。

4.5. ただ一つの席

 その日の夜、ようやく重責から解放されたブリジットが、最後に残された「もう一つの決断」を下すための精神的な後押しを求めて、「いつもの酒場」に赴くと、酒場主から「レベッカからの手紙」を渡された。

「訳あって、この地を去らねばならなくなりました。あなたに黙って出て行くことになってしまうことをお許し下さい。ですが、あなたであれば、きっと任務を果たして無事にこの街に帰ってくると信じています。これから先は、あなたの信じる道を、あなたの力で選んで下さい。どのような道を選ぼうとも、神はあなたに御加護を与えてくれます」

 その手紙を読み終えたブリジットは、そっと折り畳んで、その胸元にしまう。

「レベッカ、ありがとう。あなたは、ずっと、いつまでも、私の友達」

 そう呟きながら、彼女は王城へと向かう。「彼等」の想いに応えるために。

 ******

 夜更けのダーンダルク城の中庭に、ブリジットと、そして彼女に呼び出された二人の王子が集まっていた。ネロの姿を確認したリーベックは、彼が「腰抜け」ではなかったことを察して、少し嬉しそうな顔をする。

「今日は色々なことがありました。私達自身も混乱していると思うのですが、先に、はっきりさせておきたいと思って……」

 まず、彼女はネロの方を見て、頭を下げる。

「ネロ、ごめんなさい」

 その意図を理解したネロは、込み上げる様々な感情を抑えながら、穏やかな口調で答えた。

「ブリジット、頭を上げてよ」

 言われた通りにブリジットが頭を上げると、ネロは笑顔で彼女に「今の自分の率直な想い」を伝える。

「僕は君から、十分すぎるほど勇気をもらった。たとえ場所や立場が離れることになっても、君が言ってくれたことは忘れないだろう。その勇気のおかげで、君主として立つことが出来る。本当に、ありがとう」
「気持ちにきちんと答えられる訳ではないですけど、今まで通り、色々な形で手助けはさせて頂きたい。それが私の心からの想いです」

 ブリジットはそう答えた上で、今度はリーベックの方を見る。

「リーベック、私で良ければ、あなたの伴侶にして頂けますか?」

 リーベックはにっこり笑いながら、

「君以外にはいない」

と言って手を差し伸べ、彼女はその手をそっと握る。
 ブリジットの中では、二人の間に「優劣」をつけることは出来なかった。ただ、「自分が共に人生を歩む相手を選ばなければならない」と考えた時に、最終的には「より自分に近い価値観」を共有出来る相手を選ぶことを決意した。彼女はリーベックの信念が理解出来るからこそ、「己の信念をまっとうするために、一人で全てを背負って孤高の道を歩もうとするリーベック」のことを(彼と同じ目線で、彼の隣に立って)支えられるのは自分しかいない、そして彼のことを生涯をかけて支え続けたい、と心の底から願ったのである。加えて、彼と一緒にいる時の自分が、他の誰と一緒にいる時よりも「自然体の自分」を曝け出せることもまた、重要な要因であった。
 そんな二人を複雑な想いで見つめながら、ネロは静かにその場から立ち去って行く。彼はリーベックとは対照的に、自らの弱さを自覚した上で、全てを自分一人で背負うのではなく、多くの人々の力を頼る道を選んだ。ネロには「他人を信じて頼ることが出来る強さ」がある。だからこそ、ブリジットは彼のことを信頼して「王」に推挙した。だが、皮肉なことに、そのような「多くの人々と手を結ぶことが出来るネロ」であるが故に、結果的に、自分の手を彼女一人に握ってもらうことだけは出来なかった。それはブリジットからの「自分が一人で支えなくても、ネロは(自分を含めた)皆から支えられる存在になれる」という絶大な信頼を勝ち取ったことの証明でもある。しかし、その結果として失われたものは、ネロの中では「国主の地位」では埋め合わせにならないほどの「唯一無二の価値」であった。
 だが、それでも、自分の思いを伝えた上でのこの結果に対して、ネロの中で後悔はない。明日から彼はトランガーヌ枢機卿として、この矛盾と混乱に満ち溢れた国を背負っていかなければならない。今の自分には個人としての感傷に浸っている余裕はない、そう自分に言い聞かせていた。

 ******

 一方、そんな「三人」のやりとりを、偶然立聞きしてしまった「顔に傷を持つ少女」がいたのだが、そのことに気付いた者は誰もいなかった。

(隊長さん、いえ、枢機卿猊下、あなたにはきっと、もっとふさわしい相手がいる筈です。だって、もし私が姫様の立場だったら、間違いなくあなたのことを……)

 そこまで想いを巡らせた上で、彼女は自分の頬を両手で平手打ちにする。

(バカ! 何言ってんだ! 俺は男だ! そう生きると決めたんだろ!)

 自分の中で自分にそう言い聞かせながら、その「自称:少年兵」は夜の城の警備を続ける。たとえ自分が「姫様」のような存在にはなることは出来なくても、いつか力をつけて、彼を支えられるような存在になれればいい、そんな希望を小さな胸に抱きながら、静かに彼の背中を見送るのであった。

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最終更新:2017年01月18日 03:30