第5話(BS28)「禁断の魔酒」 1 / 2 / 3 / 4


1.1. 川の飛び石

 モラード地方の内陸部に位置するエルマの村は、この地方でのみ生み出される独特の「大麦」と「水」を用いたウイスキーの産地として知られており、世界中にその愛好家が存在する。
 この村の先代領主であったブルース・バランカは、2年前のアントリア軍の侵攻に対して、一切抵抗することなく降伏し、この戦いで功績を挙げた当時19歳のアントリア軍の俊英ベアトリス・オピュクスを「養女」に迎えた上で、自らは引退して家督を彼女へ譲る、という道を選んだ。もともと高齢であった上に、子供がいなくて後継者に悩んでいたブルースとしては、この敗戦を機に、平和的な形での「体制移行」と「お家の存続」を実現したいと考え、その方針がアントリアにも受け入れられたのである。
 こうして、アントリア体制下におけるエルマの新領主として、ベアトリス・オピュクス改め、ベアトリス・バランカ(下図)が赴任することになった。彼女の実家であるオピュクス家は、旧アントリア子爵家であるカークランド家の分家に相当する名家であったが、彼女は末子故に後継者候補とはみなされていなかったため、あえて家格としては劣るバランカ家の養女となることで、まずは「領主」としての経験と実績を積む、という道を選んだのである。


 彼女は、旧主家から爵位を簒奪したダン・ディオードの行為に関しては「やむを得ぬこと」であったと認識している。芸術文化に溺れて堕落した先代子爵ロレインよりも、この世界を救うという高い志と、それを実行出来る力を持った人物の方がアントリアの国主としてはふさわしいと彼女は考えていた。だからこそ、ダン・ディオードのトランガーヌ侵攻にも積極的に加担し、現在もその体制を支える立場にある。しかし、英雄王エルムンドの血を引く名家に生まれた者として、いずれは自分自身の手で、この混乱するブレトランドを、そして混沌に満ちた世界を統一して、皇帝聖印に至らなければならない、という使命感も抱いていた。
 そんな彼女の下に、自分と同世代の一人の若き騎士が、このアントリアの東岸で大きな功績を挙げた、という報が届いた。突如現れた謎の混沌勢力によって占領されていたラピスの村が、先代領主の息子のルーク・ゼレンによって奪還・浄化された、とのことである(ブレトランド八犬伝・簡易版を参照)。だが、この朗報に対して彼女が抱いたのは、賞賛でも嫉妬でもなく、不安な感情であった。

(あんな優柔不断な奴が領主になって、大丈夫なのか?)

 実は彼女とルークは、子供の頃に同じアントリアの騎士学校で、対混沌戦術について共に学んでいた時期がある。途中でルークがヴァレフールの親戚家に養子に出されることになったため、それほど長い付き合いではなかったが、彼女の記憶の中のルークは、良く言えば思慮深い、悪く言えば決断力のない性格であり、およそ人を率いる立場に向いた性格とは思えなかった。君主たる者、この世界を救うために皇帝聖印を目指すことが当然の義務だと考えていた彼女とは、まさに真逆の感性の持ち主だったのである。
 そんな旧友の帰還に複雑な感慨を抱いていた彼女の元に、ある日の朝、彼女の養父である先代領主ブルース・バランカが訪ねてきた。彼はベアトリスの領主就任以降、「今後は政務には一切口を出さない」と宣言して、一人静かに、川釣りや家庭菜園に興じる隠遁生活を送っている。そんな彼が領主の館を訪れること自体、非常に珍しいことであった。

「どうしました、父上?」

 形式的な関係とはいえ、一応は「養父」である以上、ベアトリスは儀礼的にブルースのことをそう呼ぶ。名家の出身である彼女は、格式をおろそかにするようなことはしなかった。

「今朝、いつも通りに釣りをしようと川の合流点に行ったら、川面に奇妙な岩がいくつも現れておった。川の北岸から、合流点の中心へと向かって設置された飛び石のようにも見える」

 エルマ村は、東西に流れる(この地方の総称の語源でもある)モラード川と、南方からそこに流れ込むシュリーズ川の合流点の北側に位置している。この川の恵みこそがエルマ・ウイスキーを生み出す上での重要な資源なのだが、その合流点に、川面から飛び出るほどの「岩」など、従来は存在しなかった筈である。

「飛び石? 何のため?」
「分からん。ただ、どう見ても自然に出てきたとは思えんので、誰かが飛び石を設置したようにしか見えない。一晩でそんなことが出来る者がいるとしたら、おそらく魔法師だと思うが、いずれにせよ、警戒した方がいいだろう。何か心当たりはあるか?」
「気をつけておきます。ただ、残念ながら私には、そのような心当たりはございません」
「そうか、ならば、契約魔法師殿に聞いた方が良いのかもしれんな」

 そう言って、彼は去って行く。ブルースは、元領主として、村の近辺で起きた異変をベアトリスに伝える義務はあると考えていたが、彼女の施政方針に口出しをする気はなかった。もともと、この村の近辺は混沌濃度の高い地域であり、だからこそ「対混沌戦」の訓練を騎士学校で重点的に習っていたベアトリスが、後継者に選ばれたのである。魔法師が相手ということであれば、自分よりもベアトリスやその契約魔法師の判断に任せた方が良いと彼が考えるのも道理であった。
 そしてこの後、ベアトリスは一通りの政務を終えた後で、自身の契約魔法師エステル・カーバイトの元へと向かう。折しもこの日は、エステルの師匠であるカルディナ・カーバイトが訪問に来ていたのだが、まだこの時点では、ベアトリスはそのことを聞かされてはいなかった。

1.2. 酒の出荷

 一方、その頃、このエルマの村で作られた「出荷直前のウイスキー」の大半を一括で管理する酒蔵の前に、一人の邪紋使いに率いられた「運び屋」の一行が到着した。内陸地にあるこの村で生成されたウイスキーは、隣町のエストの港から世界中に出荷されていく。そのため、エストからは定期的にその酒の運搬を担当する荷馬車とその護送のための精鋭兵が派遣されてくるのだが、現在、それを担当しているのは、ユリシーズという名の邪紋使いであった(下図)。


 彼はトランガーヌ南部の湖岸都市タレイアの領主家の出身であり、「正妻の第一子」であったため、本来ならば同家の後継者となる筈であったが、自分よりも聡明な「妾腹の兄」がいたため、自分よりも彼の方が領主としてふさわしいと考えたが故に、あえてその身に邪紋を刻んで勘当されたという、風変わりな人物である(彼の実家は聖印教会に近い立場であったため、邪紋を刻むことは、それだけで十分に勘当に価する行為であった)。その後、諸々の経緯を経て、彼の異母兄が神聖トランガーヌの騎士となったのに対し(ブレトランド八犬伝5参照)、ユリシーズは一人の傭兵として、自由気儘な生活を送っている。現在はエストの領主である老将ジン・アクエリアスに気に入られ、高価なエルマ・ウイスキーの輸送という大役を任されるに至った。
 一方、エルマの酒蔵の警護を担当しているのも、そんなユリシーズと同等以上に風変わりな、彼と同世代(20代半ば)の一人の女剣士であった(下図)。彼女の名は、リッカ。見た目は普通の人間だが、実は彼女はこの世界の住人ではない。彼女の「本体」は「地球」という別世界に存在する「白神陸華」という女性であり、この村にいる彼女は、混沌の力によってこの世界に出現した投影体であった。


 彼女は、二本の刀を自在に操る独特の剣術の使い手であり、その剣技を極めるため、「自分よりも強いかもしれない」と思われる人物に対して勝負を挑むことを生き甲斐とする求道者であった(それ故に、元の世界では「辻斬り」などと呼ばれたこともある)。この世界に出現した後も、様々な人物を相手に勝負を挑み、各地を転々とした結果、いつの間にかこの村で「酒蔵の番人」という職に落ち着いていた。エルマのウイスキーは高価で取引されているため、その酒蔵を狙う者も決して少なくはない、そう言われてこの任に就いた彼女であったが、実際には、彼女の就任以降、その武勇に恐れをなして、酒蔵を襲う者達が激減したため、彼女としては、いささか退屈な日々を送っていた。
 そんな彼女にとって、ユリシーズは数少ない、気心知れた同志であり、好敵手でもある。彼は日頃は「飄々とした遊び人」として知られているが、その剣の実力にはリッカも一目置いており、この村に来てから何度か彼に勝負を挑んだものの、未だに勝利出来ずにいた。おそらく、「この男に勝ちたい」という気持ちが、彼女を(今の「退屈な任務」にやや辟易させられながらも)この村に引き留めている一つの大きな要因でもあるのだろう(なお、彼女にはもう一人、「いずれ再戦したい人物」として、かつて旅の途中で出会った身長120cmのテロリストもいたのだが、残念ながら現在の彼はグリースの武官である以上、頻繁に遭遇出来る立場ではない)。
 リッカが、そんな「見知った顔」の人物が眼の前に現われたことを確認すると、彼女よりも先に相手の方から先に声をかけてきた。

「よう、久しぶりだな」
「あぁ、いつもお疲れさん」
「また今回も、いつものように頼むよ」

 そう言われたリッカは、部下に指示して、酒蔵の中身を目の前の人物達が護衛している荷馬車へと積み入れさせる。ただ、この時、リッカは微妙に違和感を感じていた。率いている隊長以外の兵士達の顔ぶれが、明らかに前とは変わっていたのである。

「護衛を変えたのか?」
「あぁ、エストの方で、色々と配置換えがあってな」

 そう言われたリッカは、特に理由も聞かないまま、新たな護衛兵達の体格や動作から、その兵士としての力量を見極めようとする(これは彼女の本能のようなものである)。その結果、おそらく前の護衛兵達よりも若干実力は上のように思えたが、それでも、リッカを相手に一人で太刀打ち出来るほどの剣技の持ち主がいるようには思えなかった。そして、この時点でリッカの中では、彼等への興味関心は失せていた。
 その間に、輸送隊は酒蔵に入っていた出荷用のウイスキーの大半を受け取り、足早に酒蔵を後にする。リッカとしては、久しぶりにユリシーズと手合わせしたい気持ちもあったが、どうやらエストへの帰還を急いでいるように見えたので、無理に彼等引き止めはしなかった。

1.3. 魔境の気配

 こうして、酒蔵から大量のウイスキーが輸送隊によって運び出されたのとほぼ同時刻、エルマの村の最大の酒場である「北の川虎亭」に、「エストから派遣された酒の輸送隊」が到着した。それを率いているのは「ユリシーズ」という名の邪紋使いである。
 そんな彼の姿を見るなり、この酒場の用心棒を務めている、大柄な中年の邪紋使い(下図)が陽気な面持ちで声をかけた。


「やぁ、ユリシーズ、今日もいい酒日和だな」

 この男の名は、サカロス。本来の名は「ローレント・シーヴェル」なのだが、この村で自分からその名を名乗ることはないので、誰も彼のことはそう呼ばない。同じ邪紋使いでも、ユリシーズが「武器と自身を一体化させる能力」の持ち主であるのに対して、彼は「異界の英雄と自身を(自分の妄想の中で)一体化させる能力」の持ち主である。そして、彼が自己同一化している「異界の英雄」とは、「ラクシア」と呼ばれる異世界における「酒と幸福の神」であり、「サカロス」とは、その神の名なのである。
 異界の英雄を模倣する邪紋使いのことを、この世界では一般に「レイヤー」と呼ぶが、彼のように、自身の本来の名前すらも捨てて、日常生活の次元から「異界の英雄(神)」になりきるレイヤーは、かなり珍しい。彼は子供の頃、ラクシアからの投影体が書き残したと言われている書物の中に書かれていた「酒幸神サカロス」の項目を読んで感銘を受け、憧れを抱き続けた結果、いつしか自分自身がサカロスであると言い始め、気付いた時には「サカロスのレイヤー」となっていたのである。
 「この世界に降り立った酒幸神サカロス」としての彼の目標は、「究極の銘酒」を作り出すことであり、その可能性を求めて世界中を旅した結果、この「酒造りの村」であるエルマに辿り着いた。現在は、酒場で用心棒を務めつつ、その裏庭でワイン用の葡萄を育てるなど、酒の研究には余念がない。また、基本的に好事家であり、様々なものに積極的に興味を示す傾向もある(放浪時代には、ケイの街でSFCという名の謎の投影体と意気投合していたこともあった)。
 日頃は酒場で呑んだくれているだけの人物のように見えるが、村の人々からの信頼は厚く、彼を中心として「飲屋街の自警団」のような組織も作られ、領主であるベアトリスからも公認の存在となっており、職務上この村に頻繁に出入りするユリシーズとも親しい関係にあった。ユリシーズはサカロスの誘いに応じるように、彼の座っていたテーブルの向かい側へと腰を下ろし、彼の部下達も、次々と周囲の席に座っていった。

「あぁ、さっきようやく、この村に着いてな。今回は日程的にも余裕があるから、今日はここで一杯やりながらゆっくり休んで、明日、出発する予定だ」
「おぉ、それはいい。おーい、ダンカン、客だぞー」

 サカロスがそう言うと、カウンターの奥にいたこの「北の川虎亭」の主人であるダンカン(下図)が、苦笑しながら答える。


「へいへい、神様。ちょっと待ってくれよ」

 明らかに小馬鹿にしたような言い回しで、接客の準備を始める。そのやり取りを見ながら、ユリシーズは「神様」ことサカロスの方を窘めようとする。

「おい、ここの主人は、本来ならお前ごときがそんな口を利いていい相手じゃないんだぞ」

 ダンカンは、かつては旧トランガーヌ子爵家に仕えていた騎士であった。アントリアの侵攻よりも前の段階で廃業して酒屋を始めていたが、もし彼が現役であったら、トランガーヌはまだ健在だったのではないかと主張する者がいるほどの名将であり、今でも彼を慕う武人や冒険者達は数多くこの店を訪れている(なお、この店の名前である「北の川虎」とは、彼の現役時代の通称である)。

「まぁ、本人が神様だっつってんだから、別にいいんじゃないか? 神様にとっちゃ、騎士も将軍も関係ないんだろうよ」

 ダンカンはグラスを準備しながら、冗談半分、からかい半分の口調でそう言った。もともとダンカンは格式や肩書きにこだわるような人物でもないので、別に誰にどんな態度で何を言われようとも、気分を害するようなことはない。そして「自分は神だ」と名乗るこの人物に対しても、その立ち振る舞いを「無礼」とも「横柄」とも思わず、純粋に「面白い奴だ」と思って用心棒に雇うことに決めたのも、ダンカン自身であった。
 そんなやり取りを経て、ユリシーズはサカロスと酒を酌み交わしつつ、思い出したかのようにサカロスに問いかけた。

「ところで、最近、この辺りで魔境が出現した、という話を聞いたことがないか?」

 ユリシーズが言うには、彼の現在の主人であるジンの契約魔法師であるフィネガンが「エルマ近辺で巨大な魔境が出現しそうな気配がある」と予言しているらしい。フィネガンはアントリア全体の中でも指折りの時空魔法師であり、その予言の正確さには定評がある。
 そして、そう言われたサカロスは、自警団員達の間で広がっていた噂話を思い出した。

「そういえば最近、モラード川の下流で『奇妙な魚』を見たという話があったが……、もしかしたら、それも魔境の影響だったのかもしれんな」
「なるほど。ということは、川の周囲で何かあった、ということか」

 もともとこの地域は魔境が発生しやすい土地柄である。その「奇妙な魚」の正体が、混沌の力で投影された「異界の魚」である可能性は十分にあるだろう。

「大規模な魔境が出現するとなると、酒造りにも影響が出るかもしれん。そういうことなら、その調査のために、自警団を借りて行くぞ、ダンカン」

 この村の飲屋街の自警団は、サカロスの指揮下にある。ただ、あくまでも「飲屋街の揉め事を解決すること」を目的に結成された集団であるため、その外に連れ出す時は、実質的な元締めであるダンカンの許可を取る必要があるとサカロスは考えていた。日頃の立ち振る舞いは破天荒だが、このような場面で人として通すべき筋に関しては、きちんとわきまえている。

「それは構わんが、お前達だけで大丈夫か?」
「確かに、私達だけでは、仮に手掛かりを見つけたとしても、見逃してしまうかもしれない。出来れば、契約魔法師殿にもついてきてほしいところだな」

 サカロスの異界知識は、子供の頃に書物を通じて得たラクシアに関する情報のみであり、混沌の原理そのものに関しては、さほど造詣が深い訳ではない。仮に魔境の入口を見つけたとしても、それをどうすれば良いのかまでは、分かる筈もなかった。その意味で、彼が「契約魔法師殿」に同行を願うのは当然の話であろう。というのも、この村の領主の契約魔法師であるエステル・カーバイトは、魔法師の中でも特に「魔境探索の専門家」と呼ばれる系譜の魔法師だったのである。
 だが、彼がエステルに同行を依頼するよりも先に名乗りを上げる人物が現れた。向かいのテーブルに座っていたユリシーズである。

「そういうことなら、俺も付き合おうか?」
「おぉ、あんたが来てくれるなら、それは頼もしい。とりあえず、景気付けに一杯飲むか?」
「うん、まぁ、そうだな。飲んでからでいいか」

 そう言って、まさに今から出撃しようとする勢いだった筈の二人は、ダンカンに次の酒を注文する。ユリシーズもまた、サカロスほどではないにせよ、相当な酒好きである。こうなると、当然のごとく「一杯」で済む筈がなかった。

「そういうことなら、酒蔵のリッカも興味あるんじゃないかな。どうせ、酒蔵の番人なんかやってても、敵もいないだろうし。あ、でも、さすがに酒蔵を空にするのもまずいか」
「とりあえず、伝令を送ってみれば良いのでは? その上でどうするかは、彼女が自分で判断すれば良いだろう」
「そうだな。おい、お前、とりあえず、酒蔵に行って、リッカにこの件について伝えておいてくれ。暇なら手伝ってくれ、ってな」

 ユリシーズにそう言われた部下の一人は、酒蔵へと向かった。この時点で、既にリッカの守る酒蔵の中の「ユリシーズに渡す筈のウイスキー」が、「ユリシーズと名乗る男が率いた輸送部隊」の手に渡っていることを、彼等は知る由もなかった。

1.4. 漂流図書館

 こうして、魔境探索に向けての準備が(千鳥足で)進んでいる中、この村で一番の「魔境探索者(ミステリー・ハンター)」ことエステル・カーバイト(下図左)は、久しぶりに訪れた師匠のカルディナ・カーバイト(下図右)を、領主の館内の自身の政務室で出迎えていた。


 エステルは現在22歳。女性にしてはやや背が高めで、美しい金髪と濃い茶色の瞳が印象的な、学者風の雰囲気が漂う魔法師である。その右の瞳には、魔法陣のような紋様が刻まれているのだが、細やかすぎて傍目には何が描かれているのかは分からない。
 彼女は、薬品の取り扱いなどを得意とする錬成魔法師であるが、その中でも特に、魔境の発見や魔境内での調査に適した魔法を得意とする「菖蒲」の系譜の魔法師である。クセ者揃いと言われるカーバイト一門の中では、兄弟子のゲルハルトと共に、「良識派」と言われる部類であるが、自身の契約相手に高い理想を求める(それ故に苦悩する)ゲルハルトとは異なり、彼女は「君主の役割は混沌を払うことであり、政務は魔法師がやればいい」と割り切っていたため、ベアトリスに対しては最初からあまり為政者として大きな期待をかけず、結果的にそれが両者の良好な(悪く言えば、冷めた)関係を築いていると言える。

「久しぶりだな。元気にしていたか?」

 師匠であるカルディナにそう問われたエステルは、素直に答える。

「えぇ、特に異常はありません。ただ、何も無さすぎるというか、最近は『動画』のネタが無くって……」

 エーラムで習得可能な基礎魔法の中には、自身の中で作り上げたイメージを「映像」として視覚的に人々の目の前に出現させる魔法が存在する。エステルはこの魔法を応用し、様々な魔境を探索して、その魔境で自分が見たものを記憶し、頭の中で「動画」として編集して、一つの映像作品として披露することを趣味としていた(ただし、映し出されるのはあくまで「映像」であり、音声は再現出来ないため、その映像の横で彼女が活弁士のように解説する形になる)。
 それ故に、エルマの近辺では魔境の出現率が高いという事前情報を聞いていたエステルは、「この村に赴任すれば、魔境探索動画が沢山作れる」と期待に胸を膨らませていたのだが、思った以上に「平和な日常」が続いてしまっていることに、やや落胆していた。

「まぁ、とりあえず元気なら、まずは飲み行こうか。とりあえず、付き合え」
「はい、分かりました」

 こうして、エステルは師匠を接待するために、共に村の飲屋街へと向かうことにした。カルディナがエステルをこの地に派遣した理由の一つは、前述の通り、彼女が魔境探索者として優秀であったからであるが、それと同時に、彼女が自分の弟子達の中では年長組であり、「自分と一緒に酒が飲める歳」であるということもまた、重要な条件であった(この世界には飲酒年齢に関する明確な規則はないが、未成熟な身体にアルコールを飲ませるべきではない、という程度の良識は、カルディナの中にもあった)。
 だが、そんな二人が政務室を出たところで、ベアトリスと遭遇する。明らかに自分を訪ねて来た様子であることは、エステルにはすぐに分かった。

「何か御用でしょうか、ロード・バランカ?」
「あぁ。少し、時間はあるか?」

 ベアトリスのその言い方から、なんとなく「それほど急ぎの用件でもなさそう」ということをエステルは察する。問題は、それが「師匠や他の人に聞かれても問題のない案件かどうか」である。

「酒を飲みながらでも良い話でしょうか?」
「そうだな……。問題はないだろう」
「では、一緒に行きましょう」

 こうして、期せずして領主を加えた三人は村の飲屋街へと向かうことになった。カルディナとしては、飲み交わす相手が増えるのは歓迎であり、この期にベアトリスから色々と話を聞ければ良いと思っていた。というのも、彼女が今回、この村に来たのは「表敬訪問」と「飲み歩き」という「いつもの要件」とは別に、もう一つ、気になる案件があったからである。酒場へと向かう途上で、彼女はおもむろに二人に対してその件について語り語り始めた。

「昔、この地で『究極のウイスキー』なるものが作られた、という話を聞いたことがあるんだが、実は先日、その製法についての手がかりを掴んだのだ。出来ればその件に関して、領主殿の許可を得た上で、ぜひ調査したいところなのだが、いかがかな?」

 その「究極のウイスキー」の伝承については、確かにベアトリスもエステルも聞いたことはある。だが、その具体的な製法については一切伝わっておらず、その実在そのものを本気で信じている者の方が、村の中ではむしろ少数派である。
 カルディナのこの問いかけに対して、ベアトリスとエステルがどう答えるべきか言葉を選んでいる間に、カルディナはそのまま話を続ける。

「領主殿、このブレトランドやアトラタン北部の諸国には、稀に『漂流図書館』と呼ばれる魔境が出現することがある、という話を御存知か?」
「いえ、初耳ですが」

 ベアトリスがそう答えると、カルディナは得意気に話を続ける。

「それは、この世界の様々な叡智を結集させた書物が詰まった図書館で、世界各地で目撃情報があるのだが、その出現時点を繋げると、どうやらこのような軌道になるらしい」

 そう言って彼女は、二人の目の前に「世界地図」の映像(下図)を映し出す。これは上述のエステルの得意とする基礎魔法の一つだが、当然、彼女の師匠であるカルディナもまた同じ魔法を使える。そして、その世界地図の上には、アトラタン北部の半島の中西部を中心点として、コートウェルズ、ブレトランド、ランフォード、ヴァンベルグなどを通る「巨大な赤い円」が描かれており、その円の軌道上には、このエルマの村の近辺も含まれているように見える。


「そして、この漂流図書館の中に『究極のウイスキー』の製法を記した本があるのではないか、と私は睨んでいる。まぁ、詳しい話は、領主殿の方の要件が終わった後で良いのだがな」

 そう語るカルディナの眼が、珍しく「本気」になっていることにエステルは気付く。日頃のカルディナは、基本的に研究にも教育にもやる気を見せず、ただ天賦の才能だけで(その才能を活かしきることもないまま)自堕落な生活を送っているダメ人間だが、己の求める快楽に関することに対してだけは、稀に並々ならない熱意を燃やす。どうやら今回はその「稀な事例」らしいということを察しつつ、エステル自身も、久しぶりに「動画のネタ」が出来そうな予感から、密かに心が高揚していた。

2.1. 「本物」の証明

 そんな三人が飲屋街へと向かおうとしていたその頃、ほぼ空になった酒蔵の前で暇を持て余していたリッカの前に、「見知った顔の兵士」が訪れた。いつもならばユリシーズの部下として、彼と共に輸送帯の護衛をしていた者の一人である。

「リッカさん、今、ウチの隊長が『北の川虎亭』で飲んでるんですけど、ちょっと用があるそうです。今、酒蔵の状態は大丈夫ですか?」

 そう言われたリッカは、状況が分からずに混乱する。

「お前……、配置転換があったんじゃないのか?」

 少なくとも、彼女の記憶の中では、ユリシーズが先刻そう言っていた筈である。そして実際、輸送隊の中に、この兵士の顔は見当たらなかった。

「え? 何の話ですか?」

 兵士が首を捻ると、リッカは念のため、更に問いかける。

「さっき、ユリシーズがここに来た時、お前も一緒にいたか?」
「え? いや、だから、私等はさっきこの村に来たばかりで、今、隊長は北の川虎亭で飲んでるところです。ここにはまだ誰も来てませんよ」

 明らかに「この兵士が言っていること」と「自分の記憶」が矛盾している。この状況が理解出来ないリッカは、事態を確認するため、ひとまず北の川虎亭へと向かうことにした。現状、酒蔵の中は既にほぼ空となっているので、あまり警戒する必要はない。それよりも、彼女の中では、自分がとんでもない失態を犯したのかもしれない、という不安が広がっていた。

(あれは確かに、ユリシーズだった筈。だが、もしや……)

 「最悪の可能性」を考慮しつつ、リッカは北の川虎亭へと駆け込む。すると、そこにいたのは、主人のダンカンと、用心棒のサカロスと、そしてユリシーズと「いつものユリシーズの部下の兵士達」であった。

「やぁ、リッカ。早かったな。さぁ、お前も飲め飲め」

 サカロスはそう言って、リッカにグラスを勧める。もはや、何のためにリッカを呼んだのか既に理由も忘れている様子だが、リッカの心境としては、今はそれどころではない。

「その前に、話したいことがあるんだが……」

 そう言って、ユリシーズの方を見る

「ユリシーズ、『久しぶり』だな」
「あぁ。お前も元気そうで何よりだ」

 この反応を見て、少なくとも「つい先刻会ったユリシーズ」と、「今、自分の眼の前にいるユリシーズ」が別人であることを、リッカは確信する。

「あんたが偽物なのか? それとも、さっき来た奴が偽物なのか?」
「お前は、何を言っているんだ?」

 ユリシーズが困惑した表情でそう答えると、リッカは必死にこの状況を説明しようとする。

「さっき、『あんたと同じ顔をした奴』が来て、酒を持って行ったんだが……」
「少なくとも、俺達はさっきこの村に来たばかりだから、まだ酒蔵には行っていないぞ。ということは、俺と同じ顔をした偽物、ということか? しかし、そんな都合良く同じ顔をした偽物なんているのか? まぁ、世界に3人くらいは、同じ顔をした奴がいるとかいう話もあるが……」

 ここで、リッカは一つ、重大なことに気付く。

「この世界には、自分の姿を変えられる邪紋使いもいるらしい」

 それは「幻影(ミラージュ)」と呼ばれる類いの邪紋を身体に刻む者達である。数は少ないが、その力を極めた者は、どんな者の姿にでも(「人ではない者」の姿にすら)化けることが出来るという。

「ということは、俺の姿に化けた偽物が、俺のフリをして、出荷用のウイスキーを盗んで行ったということか?」

 ユリシーズがそう言うと、リッカよりも先にサカロスが反応する。

「酒泥棒だと、それは許せんな!」

 「酒と幸福の神」を自称する者として、当然の反応である。だが、その前にリッカとしては、確かめなければならないことがあった。

「ただ、その前に、あんたが本物かどうかを確認したい」

 「本来のユリシーズの部下」が今この場にいる状況から考えて、先刻酒を運んで行った者達の方が偽物である可能性の方が高そうではあるが、それでも、逆の可能性も疑う必要があると考えるのは、疑心暗鬼の状態になっている彼女としては、当然の反応であろう(もしかしたら、両方共偽物という可能性も十分に有り得る)。

「なるほど。では、どうすればいい?」
「邪紋の力で姿を真似ることは出来ても、剣技まで模倣することは出来ない筈だ」

 そう言って、リッカは自身の腰に差されていた双刀を抜き、ユリシーズに向かって構える。その姿を見て、ユリシーズはすぐにその意図を理解した。

「なるほど。俺の剣筋を見れば分かる、ということか」

 ユリシーズはそう言いながら立ち上がり、自身の持つ大剣を構える。すると、彼の腕に刻まれた邪紋が掌を通じて剣にも伝染するように広がり、その邪紋から発せられる禍々しいオーラが、剣全体へと伝わっていく。

「行くぞ、リッカ!」

 そう言って彼は全力でリッカに斬りかかる。リッカはそれを避けようとするが、かわしきれず、彼女の左腕にユリシーズの刃が突き刺さった。激痛に歪むリッカの顔を見て、思わずユリシーズは剣を止める。

「すまん、やりすぎたか」
「いや、これで、あんたが本物だということは分かった」

 少なくとも、この剣筋は間違い無く、以前に手合わせした時のユリシーズと一致している。彼女はそう確信しつつ、またしてもこの男の剣を避けられなかったことに、静かな悔しさを感じていた。

2.2. 出撃命令

 そんな二人のやりとりの直後、北の川虎亭に、ベアトリス、エステル、カルディナの三人が到着する。店内が重苦しい空気になっていることに、エステルは微妙に違和感を感じつつも、主人のダンカンに向かって声をかける。

「ダンカンさん、ウイスキーをお願いします。確か、今日は出荷日でしたよね」
「ちょうど今、そのことで、大変なことが起きてるようでな」

 ダンカンがそう答える。彼は、自分が他人からタメ口で何を言われても文句を言わないのと同様に、君主や魔法師が相手でも、一般客を相手にするのと同じような口調で答える。

「と言いますと?」

 ベアトリスがそう問いかける。どうやら彼女は、身分は下でも自分より明らかに目上の者に対しては礼を尽くす必要がある、という倫理観の持ち主らしい。

「どうやら、そこのユリシーズの偽物が出たらしい。エストに出荷予定だった酒を、酒蔵から大量に盗んでいったそうだ」
「なんと!」
「どこに行ったか、方角は分かっていますか?」

 エステルがそう問うと、ダンカンは首を横に振る。すると、エステルは今度は「酒蔵の番人」であるリッカに問いかけた。

「あなたは、どうして見間違えたのですか? あなたは『よく会う人間の顔』も見間違えるような人でしたか?」

 辛辣な物言いのようだが、エステルの中ではこの時点で既に「一つの仮説」が思い浮かんでいた。これは、その仮説を確認するための質問である。

「いや、あれは間違いなく、ユリシーズの顔だった」

 リッカとしては、自分の失態に関して一々言い訳したくはなかったのだろうが、そう言われてしまったら、そう答えるしかない。

「それはつまり、犯人は『混沌の力』によって姿を変えていた、と?」
「多分、そうだ」

 そう言われたエステルは、おもむろに村全体に対して「混沌の気配」を察知する魔法をかける。魔境探索者としての能力に長けた彼女は、自身の周囲で具現化している混沌の存在を、容易に探し出すことが出来る。
 つまり、「偽ユリシーズ」が「幻影の邪紋使い」なのであれば、その気配を彼女は察知することが可能なのである。ちなみに、もう一つの可能性として、先刻カルディナが用いた「相手の視界内に自分の思い描いた映像を見せる魔法」を応用して「自分とは異なる者」の姿を相手に見せる、という手段もあるが、いずれにしても、それが具現化している間は、彼女のこの魔法によって、その位置を特定出来る筈である。
 ただし、この魔法はその混沌の詳しい形状までは確認出来ないため、その偽ユリシーズとは無関係の何かが反応する可能性もある。だが、ちょうど都合の良いことに、この村の中で「混沌」の気配を持つサカロスとリッカ、そして(本物と思しき)ユリシーズは目の前にいるため、彼等の気配と誤認する心配はなかった。
 こうして、エステルが神経を集中させて村の周囲の混沌の気配を探った結果、この村の南方に向かって、「混沌の気配を持つ者」が移動しているのを彼女は察知した。この村の南方には街道は存在せず、その先にあるのは、モラード川のみである。「ただの通りすがりの邪紋使い」の進路としては、明らかに不自然であった。
 エステルはその旨を皆に伝えた上で、ベアトリスに向かって進言する。

「さて、不届き者は成敗すべきかと思いますよ、君主」
「当然だ。今すぐ向かおう。その方角ならば、父上が言っていた『川の合流点』にも近い」
「川の合流点?」
「どうもそこに、奇妙な飛び石が発生しているらしい。それと何か関係があるのかもしれない」
「まぁ、それについては、また後で確認することにしましょう。ということで、先生、ちょっと行ってきます」

 エステルがそう言うと、カルディナは黙って頷く。一方、それに呼応するように、今度はサカロスがベアトリスに進言した。

「領主殿、俺達にも出撃命令を出してくれ」

 サカロスの率いる自警団は、あくまでも有志による志願兵なので、明らかに村に仇なす存在である酒泥棒の討伐に参加する上では、必ずしも領主の許可を取る必要もない。だが、あえてここで彼がそう言ったのは、「領主の命令」で出撃すれば、その分の俸給が貰えるかもしれない、という算段である。この辺り、彼は「豪放磊落な神様」になりきっているようで、意外にこういった「人として抜け目ない一面」も持ち合わせている。

「分かりました。酒幸神サカロス、並びに酒蔵の番人リッカ、それぞれ部隊を率いて、私達と共に、酒泥棒の追撃に同行しなさい。そして、出来れば、ユリシーズ殿にもご協力を願いたい」

 ここで、部外者であるユリシーズにまで協力を申し出たのは、純粋に戦力として期待しているだけでなく、相手が「偽物のユリシーズ」である以上、「本物と思しきユリシーズ」が自分達と一緒に行動していた方が、余計な混乱を招く可能性も減る、という判断でもあった。
 一方、もう一人の「部外者」であるカルディナには、誰も協力は要請せず、そして彼女自身も積極的に手伝おうとはしなかった。「酒泥棒くらい、自分達でなんとか出来るだろう」というのが彼女の認識であったし、出撃する者達の中には、むしろ自分達の留守中の村を守れる存在としての彼女に期待していた者もいた(その期待が妥当かどうかは微妙だが)。ひとまず彼女は、先刻のユリシーズとの手合わせで手傷を負ったリッカに、治癒の魔法をかける。

「これでいいだろう。さぁ、行ってきな」
「かたじけない!」

 そう言って、リッカは酒蔵に戻って自分の部下を集めようとしたが、その前にエステルが動いた。彼女は酒場の外に出ると、上空に向かって「緊急招集」のサインを「映像」として表示したのである。それを見た村の兵士達は、そのサインが指し示す「北の川虎亭」へと向かって、続々と集まってきた。

(趣味の動画作りだけでなく、こんな使い方も出来るようになったとはな)

 カルディナが弟子の成長に感心している中、兵士達と共に「もう一人の魔法師」が、この場に駆けつけてくる姿が皆の目に映る。と言っても、まだ見た目は10代半ば程度の少年であり、どこか頼りなさそうな風貌である。

「オラニエ・ハイデルベルグ、招集に応じ、馳せ参じました! エステル先輩、ご命令を!」

 彼は、エーラムから実地研修生としてエルマに派遣されてきた学生である。一門は異なるが、エステルと同じ錬成魔法学科に所属する後輩であり、彼女の助手として、日々の政務や薬品管理を手伝っている。

「とりあえず、リッカさんの刀に強化の魔法をかけて下さい」
「分かりました!」

 そう言って、彼はリッカから刀を借り受け、そこに錬成魔法をかけることで、その斬れ味と強度を増幅させる。今のところ、彼が使える魔法の中で、この状況で役に立てるのはこれくらいしかない。そして、あえて領主であるベアトリスではなく、リッカの武器強化をエステルが優先したのには、理由がある。それはベアトリスの「武器」が、今この場に存在していないからであった。
 ベアトリスの武器を強化するためには、その武器の「性質」の都合上、オラニエにも戦場まで同行させる必要がある。だが、エステルとしては、まだ魔法師としては未熟で、この村とは何の契約も結んでいないオラニエを戦場にまで駆り出す気にはなれなかったのである。

(魔法師協会から預かった貴重な人材ですからね。大切にしなければ)

 エステルは、ベアトリスの契約魔法師であり、カルディナの弟子(養女)でもあるが、実はそれ以上に、エーラムの魔法師協会の一員としてのアイデンティティの方が強い。この世界を救うための魔法師協会という存在そのものの必要性を重視する彼女なればこそ、魔法師協会の未来を背負う若人を無闇に危険に晒すつもりはなかった。

2.3. 追撃戦

 こうして、急遽招集された兵士達を率いたベアトリス達は、エステルの先導に従い、「偽ユリシーズ」と思しき者達の後を追う。やがて、村の外に出て、その先に流れるモラード川の水音が聞こえ始めた頃、彼等の目線の先に「酒蔵に現れた荷馬車」と、それを守る輸送兵達の姿が見える。

「あれだ! あの荷馬車の中に、ウチの酒蔵のウイスキーはある筈だ!」

 リッカがそう叫ぶと、各部隊はその荷馬車に向かって全力で走り出す。そして、自分達が追走されていることに気付いた輸送兵達は、このまま走っても逃げ切れる保証はないと考えたのか、足を止め、迎撃態勢に入った。
 この時点で、リッカ隊の面々は、その輸送兵の中に先刻の「偽ユリシーズ」と、彼に率いられていた者達がいることを確認するが、それと同時に、酒の引き渡しの際にはいなかった「別の部隊」が彼等と並走していることにも気付く。その「別の部隊」を率いているのは、漆黒のローブを纏った、見知らぬ魔法師である。
 そして、真っ先に動いたのはその魔法師であった。彼は先行したエステル隊に向かって、火炎の魔法を放つ。突然の攻撃に対し、兵士達が必死でエステルを守ったことで、どうにか彼女は致命傷を免れたものの、この一撃で自分を含めた部隊全体が大打撃を被ったことを即座に理解する。

「まぁ、これは想定内ですが……、さすがに厳しいですね」

 敵を逃がさないために、あえて自分が「標的」になることを覚悟した上での先行であったが、さすがにここまで深い痛手を負ってしまった以上、このまま前線に立ちつづけるのは無謀と考えた彼女は、自前の回復薬で傷口を塞ぎつつ、すぐに部隊ごと後方へと退く。もともと、彼女が得意とするのは戦場で使うには適さない系譜の魔法である以上、相手の足止めにひとまず成功した時点で、この戦場における自分の役割は終わったと考えていた。

(さぁ、あとはお任せしましたよ、ロード・バランカ)

 そんな彼女と入れ違いに前線に出たベアトリスに対して、「ユリシーズの姿をした人物」が斬りかかる。その剣技は、明らかにユリシーズの「剛剣」とは異質の「柔剣」とでも呼ぶべき変幻自在の剣筋であり、困惑したベアトリスの身体を貫くようにその刃が突き立てられたが、次の瞬間、後方からサカロスが間に割って入って、その攻撃を真正面から受け止める。その鋭い「突き」は通常の人間であれば軽く一刺しで貫けるほどの威力であったが、「異界の神」の力が宿ったサカロスの鎧には、傷一つ付かない。
 そのあまりの強靭な装甲に敵が怯んだ直後、今度は反対側から、リッカが二本の刀を振りかざして、「ユリシーズの姿をした人物」へと襲い掛かる。部下の兵達に守られつつ、なんとか彼はその連撃に耐え続けるが、着実にその体力を削られていく。研修生のオラニエの魔法によって強化されたその刃を振るいながら、リッカは、今自分が戦っている相手が「明らかにユリシーズよりも(少なくとも剣士としては)格下の存在」であることを確信する。
 こうして、徐々に「偽ユリシーズ隊」が劣勢になっていく中、後方へと下がりつつ戦況を確認していたエステルが叫ぶ。

「ロード・バランカ、挟撃のタイミングです!」

 その声に応じて、ベアトリスは、聖印を掌の中に出現させると、そこから光り輝く「大剣」を出現させる。これこそが彼女の「武器」であった。彼女は日頃は武器を持ち歩かず、戦場において必要に応じてこの「光の大剣」を発現させ、その圧倒的な威力で混沌を斬り裂く。それが「対混沌戦の専門家」としての彼女の戦闘術だったのである。

「我が領内で狼藉を働くとは、いい度胸だな。生きてたら、話くらいは聞いてやる!」

 そう言って彼女は大剣を振りかぶり、偽ユリシーズに向かって振り下ろす。だが、その一撃は紙一重のタイミングで、かわされてしまった。幻影の邪紋使いは、状況に応じて変幻自在にその身体能力を高めることが出来る。どうやら彼は、この時点で自身の身のこなしを更に強化する方向に、その身体を強化していたらしい。

(大振りしすぎですよ、ロード様……)

 遠目に見ながら、エステルが心の中でそう呟く。その直後、今度は漆黒のローブの魔法師がリッカ隊に向かって火炎魔法を放ち、更にそれに合わせて偽ユリシーズがリッカに向かって反撃する。実力では「本物」には遠く及ばぬ程度の剣技であったが、なまじ「本物」と似ているが故に、同じような構えから繰り出される異質の斬撃にリッカは戸惑い、火炎と合わせて相当な深手を負ってしまう。
 だが、次の瞬間、「今度こそ!」という気合を込めたベアトリスの渾身の一撃が偽ユリシーズに直撃し、その圧倒的な聖印の力によって、偽ユリシーズ隊は、一人残らず跡形もなく消滅した。

「やりすぎたか……」

 ベアトリスは思わずそう呟く。本来ならば、ここで敵を捕らえて、その正体を確認しなければならなかったのであるが、初撃をかわされたことで焦ったのか、つい力加減が出来なくなってしまっていたようである。彼女の光の大剣は、混沌の産物に対しては圧倒的な威力を発揮するものの、大振りしすぎるが故に、その精度は低い。だからこそ、調整が難しいのである。
 この状況を目の当たりにした黒いローブの魔法師は、荷馬車を放棄した上で、部下達を連れて、モラード川の方へ向かって走り出す。ベアトリスとしては、ひとまずこれでウイスキーを取り戻すことは出来たものの、このまま敵が何者かも分からぬまま逃がす訳にもいかない以上、荷馬車の確保は手負いのエステル隊とリッカ隊、そして後方から駆け付けたユリシーズ隊に任せた上で、自身はサカロス隊と共に魔法師達を追走する(そして、この時点でエステルは、魔法薬を預けていたオラニエをこの場に呼ぶために、再び上空に「映像」を提示した)。
 共に全力で駆け抜ける両軍の距離はなかなか縮まらなかったが、逃げる魔法師達の前にはモラード川が流れている。モラード川は、川幅という点から考えても、水深という点から考えても、通常の人間が生身で容易に渡りきれる程度の川ではない。ただ、ベアトリスの脳裏には、ブルースに言われた「飛び石」の存在がよぎっていた。

(もしかしたら、その飛び石を使って川を渡るつもりなのかもしれない)

 そう思っていた彼女であったが、黒いローブの魔法師の取った行動は、文字通り、「彼女の予想の斜め上」であった。彼等が川の近くまで来た時点で、確かに、川面には「飛び石」と思しき岩がいくつも出現しているのはベアトリス達にも見えた。だが、その飛び石は「川の反対側」までは届いておらず、「川の合流点の中央部」のあたりで止まっている(下図)。少なくとも、この飛び石だけで川を渡りきることは出来そうにない。


 だが、川岸に近付いてきた時点で、突然、その黒いローブの魔法師は、自らの体を宙に浮かせ、そして部下達を陸地に残したまま、「川の合流点」の方面へと向かって飛んで行ったのである。

「ちょ、ちょっと待って下さい、魔法師様」

 ここまで魔法師を守ってきた護衛兵達は、突然の行動に狼狽する。そして、この時点で追撃側に弓兵がいれば、飛行中で無防備となった彼を狙撃することが出来ただろうが、残念ながらベアトリスにもサカロスにも、弓の心得はなかった。彼等が呆然とその魔法師を見送っていると、その魔法師は「川の合流点」の上空(一番奥に設置された飛び石の真上)数メートルの高さまで来たところで、魔法を唱えるような構えを見せると、突然、そこに「空間の割れ目のような何か」が開き、その中へと消えて行く。それが何なのか、その場にいる誰も理解出来ないまま、その「何か」は消滅してしまう。
 こうして、護衛対象に見捨てられる形でその場に残された護衛兵達は戦意喪失し、あっさりとベアトリス達に投降するのであった。

2.4. 捕虜尋問

 この終盤の追撃戦の間、荷馬車を確保したエステルとリッカが、ユリシーズ隊に守られた状態でその中身を確認すると、そこには確かに、リッカが渡したウイスキーが全て積まれていた。ウイスキーは体積あたりの単価が高いため、この荷馬車全体の売却額は、相当な額になることが予想される。これを奪還出来なければ、村としての存続すら危うくなるほどの大損害となっていたであろう。
 そして、やがてこの場に、エステルの送った映像連絡に応じたオラニエが到着する。その手には、大量の魔法薬が抱えられていた。

「エステル先輩、大丈夫ですか?」
「えぇ、とりあえず、その薬をリッカさんに処方してあげて」

 駆け込んできた後輩に対して、エステルはそう告げる。実際、自分もそれなりに深い手傷を負ってはいたが、前線で戦っていたリッカの方がより重傷であった。彼女は大型の日本刀を二本同時に使うだけで相当な体力を消費するため、せめて機動力を確保するために、金属鎧などを着てはいない。それ故に、今回のような形で敵に攻撃を集中されると、深手を負いやすい。
 その後、敵の護衛兵達を拘束したベアトリス隊およびサカロス隊と合流した上で、彼女達は捕虜に対して尋問を開始する。

「い、いや、その、自分達はただ雇われただけで、詳しいことは何も……」

 そう言って、何を聞いても答えようとしない捕虜達に対して、エステルは彼等の目の前に、エーラム時代に学んだ「正気を失わせるほどの異界の邪神」の映像を出現させる。捕虜達がその姿に驚愕の声を上げると、彼女は笑顔で問いかけた。

「もっと身の毛もよだつような恐怖画像とかありますけど、見ます?」
「わ、分かった。とりあえず、知ってることは話す!」

 そう言って、彼等は「知っている限りの情報」を伝える。実際のところ、彼等は本当に「雇われただけの兵士」であって、その雇い主の詳しい情報までは聞かされていなかったのだが(だからこそ、あっさりと見捨てられて置き去りにされることになったのだが)、それでも、この状況を理解する上で、ある程度必要な情報を得ることが出来た。
 彼等は、もともとはアトラタン大陸中部に位置するメディニアで、あの魔法師に雇われた傭兵達であった。メディニアからこのエルマの村までは、陸路と海路の両方を用いて、どれだけ急いでも10日以上はかかる計算だが、あの魔法師はメディニアで出現した「魔境の入口」から、彼等を連れて「巨大な建築物を中心とする魔境」に入った上で、その建築物の近辺に存在する幾つかの「出口」を通じて、世界各地に瞬時に現れるという、奇妙な魔法(?)の使い手であり、その「出口」の一つが、先刻の「川の合流点の上空に現れた空間の狭間」であったらしい。
 そして、ユリシーズと瓜二つの姿をしていた人物は、あの魔法師の部下の「幻影の邪紋使い」であり、あの魔法師と共に世界各地に出現しては、その変身能力を用いてそれぞれの地域の特産品を騙し取り、それを原産地から遠く離れた地域に運んで売りさばく、という行為を続けていたらしい。あの魔法師の詳しい目的は不明だが、「組織への多額の上納金を稼ぐ必要がある」と言っていたことから、おそらくパンドラなどの反社会組織ではないかと彼等は推測していた(ただし、詳細は不明、とのことである)。
 この話を聞いたベアトリスとエステルは、先刻カルディナが話していた「漂流図書館」のことを思い出す。彼女が提示した地図の映像の中の「赤い円」の円周上には、確かにメディニアも含まれていた。ということは、彼等は、カルディナが言うところの「漂流図書館」という魔境を「素通り」することで、世界各地を転々としていたのであろう。なお、その魔境の中にあった「巨大な建築物」に関しては、「あの建物の中には、絶対に入ってはならん」とその魔法師は厳命していたらしい。
 ここまでの話を聞いた上で、概ね状況は見えてきたが、ベアトリスには一つ、不可解に思える点があった。

「あの飛び石の意味は?」

 魔法師が飛行して空中にある「入口」を開くことが出来るのであれば、わざわざ川面に「足場」を作る必要などないように思える。だが、それに対する兵士達の答えは単純明快であった。

「我々は、空を飛べないですから」
「なるほど」

 どうやら、あの魔法師は部隊全体に飛行能力を持たせる魔法は使えないらしい。だからこそ、川の合流点の上空に出現した「出入口」からこの村に降り立つためには、「兵士用の足場」としての飛び石が必要だったのであろう。飛び石と「空間の割れ目」の間には高さがあるが、それは魔法師が召喚した「梯子」を使って対処していた、とのことである(荷馬車は隣村で調達したらしい)。だが、先刻の追撃戦の状況では、飛び石と梯子を用いて兵士一人一人を悠長に引き上げて魔境へと連れ込む時間が無いと判断し、彼等を見捨てて一人で逃げることにしたようである。
 現状、その魔法師が飛び込んだ後の空間には「割れ目」と思えるような何かは発見出来ない。だが、エステルが本気を出して探せば、その位置を特定し、魔境への入口を再び開けられる可能性もある。

「このまま突入することも出来ますが、どうしますか?」

 エステルがベアトリスにそう問いかけると、彼女は即答した。

「一時撤退だ」

 魔法師を捕らえるためには、すぐに追いかける必要があるだろう。だが、現時点で自軍も疲弊している上に、この先にある魔境の情報が何もない状態で、闇雲に突入することが得策とは思えない。最低限、盗まれたウイスキーの奪還には成功した以上、ここはひとまず村に戻って体勢を整え直すべきと考えるのは、当然と言えば当然の判断であった。

2.5. 背徳の魔法師

「お、エステル、帰ったか。で、どうだった?」
「パンドラらしき者を、逃してしまいました」

 追撃戦から戻ったエステルは、酒場で呑気に飲み続けていた師匠に、そう報告した(この時点で、既に時刻は昼を過ぎ、間も無く夕刻にさしかかろうとしていた)。逃げた相手がパンドラだと確信出来る証拠は何もないが、「パンドラである可能性がある者」を逃したというだけでも、魔法師協会の忠実な構成員であるエステルとしては、恥ずべきことと考えているようである。
 そんなエステルの肩を、共に帰還したサカロスが軽く叩く。

「苦い敗戦の味は、酒で癒すのが一番だ。飲もう」

 そう言いながら、既に彼は飲み始めている。とはいえ、別に負けた訳ではない。盗まれたウイスキーも取り返しているし、実行犯である偽ユリシーズも見事に打ち果たした。ただ、サカロスとしては、「酒泥棒」という大罪人の首領を捕まえられなかったことが、やはり悔しいらしい。彼等と同様に、ベアトリスもリッカも、今ひとつ納得出来ない表情での帰還であった。
 その上で、エステルはその「パンドラらしき者」が消えていった「空間の割れ目」のことをカルディナに詳しく報告すると、それまでほろ酔い状態であったカルディナの表情が一転して真剣な顔つきに変わる。

「おそらく、その割れ目の奥にある魔境こそが、漂流図書館だ。奴等はその『扉』を開く方法を把握した上で、その図書館には入らず、ただの『移動手段』として使っていたのだろう」

 実際、世界各地に存在する「出入口」に、その魔境を介すことで自由に出入り出来るのだとすれば、それだけでも十分に利用する価値はある。ただ、その魔法師が本当にパンドラの一員だとすれば、その図書館を素通りしていたというのは、妙な話ではある。仮に活動資金稼ぎが目的だとするならば、それこそ、その漂流図書館の中には、もっと「金儲けの種」になりそうな書物が眠っている可能性が高そうにカルディナには思えた。

「いずれにせよ、魔境がそこにあるのなら、踏破しに行っても良いと思います。久しぶりのネタですし。目の前に飛んでくる火球的スペクタクルですよ」

 エステルは先刻の戦闘で直撃した火炎魔法を思い出しながら、よく分からない言い回しを用いつつ、魔境調査に向けての意欲を露わにする。ようやく、本格的に自分の本領を発揮出来そうな機会が訪れたのだから、当然の反応であろう。そして、カルディナもまた、そんな彼女に同調しつつ、不敵な笑みを浮かべる。

「ともあれ、これで魔境の入口の発生点が分かったなら、手間は省けた。おそらく私ならば、その『割れ目』をもう一度開くことは出来る。ただ、放っておくと閉じてしまう可能性があるから、私がその扉を開いた後は、しばらく私自身が外からその扉が閉じないように留めておく必要があるだろう。中に入った後、もう一度同じ要領で開けられるかどうかも分からんしな」

 つまり、カルディナの方針としては「自分が外から扉を開けておくから、その間にお前達が魔境の中に入って探索して来い」ということらしい。エステルはそれに対して特に異論は無く、その傍らで話を聞いていたベアトリス、サカロス、リッカの三人も、それが一番妥当な作戦に思えた。魔境の全容が不明である以上、突入するならば退路を確実に確保しておくのは賢明な策である。
 ただ、ここで問題なのは「何を目的としてその魔境に入るのか?」ということである。逃げて行った魔法師を追うということであれば、おそらく彼は既に魔境内の別の出入口から、あの円周軌道上のどこか他の地域へと降り立ってしまっていると思われるので、その足跡を辿るのは極めて難しい。よしんば彼がまだその魔境の中にいたとしても、その魔境を日頃から利用している彼の方に地の利がある以上、捕まえられる保証は無いだろう。
 あるいは、いっそのこと、その魔境そのものを浄化する、という選択肢もあるが、その選択肢に関してはカルディナは同意する気はない。少なくとも、彼女が求める「究極の酒」の製法を記した書物がその漂流図書館の中にあるのであれば、その本を取って来るまでは、その魔境を浄化される訳にはいかないのである。

「とりあえず、私が知る限りの情報をお教えしよう。その上で、どうするかは領主殿ご自身が判断すれば良い」

 そう言って、彼女はエーラムで仕入れた歴史書に基づく自身の見解について語り始めた。曰く、その昔、このエルマの村で「究極の酒」を作った魔法師がいたという。その者の名は、トラーオ・エステリア。もう三百年以上も昔の人物であるため、あまり正確な記録は残っていないが、当時のこの村の領主の契約魔法師であったという。記録によれば、どうやら彼は、この地域に出現した「時空の扉」を開いて、その先にある「魔境」から、「究極の酒の製法」が記された本を持ち帰ったらしい。だが、その本のその後の行方については不明である。一説によれば、トラーオがその製法を他の者達に知られるのを嫌って焼却したとも言われているが、定かではない。
 カルディナは、このエルマの村が、大陸各地に伝わる「漂流図書館」の目撃情報を繋げた円周の軌道上にあることから、おそらくはトラーオが足を踏み入れた「魔境」こそが、その「漂流図書館」なのではないか、という仮説を立てている。
 なお、「漂流図書館」に関しては、その実態すらもまだ今ひとつ明らかになっていないが、その起源についても様々な説があり、その中でも一番有力なのは、ファーストロード・レオンの仲間であり、エーラムの魔法師協会の創始者でもあるミケイロの直弟子であった「キャメロデオ」という魔法師の私設書庫である、という説である。
 キャメロデオとは「この世のありとあらゆる類いの快楽を追い求め、己の欲望を満たすために魔法を使い続けた結果、エーラムを追放され、闇魔法師となった人物」として語り継がれている、半ば伝説上の人物である。当時はまだパンドラという組織もなく、野に下った後の彼の足取りは不明であるが、そのあまりの利己的な性格から、「背徳の魔法師」と呼ばれているらしい。

「どこかで、似たような人の話を聞いた気がしますが、気のせいですかね?」
「私は、たまには他人のための魔法を使うこともあるぞ」

 皮肉めいた弟子の一言をカルディナはそう言って軽く受け流しつつ、「そのキャメロデオの叡智を集めた書庫こそが、漂流図書館である」という説があることを、この酒場にいる者達全員に向かって力説する。もしそれが正しければ、確かに、その図書館の中に「究極の酒」の製法を記した本があっても、おかしくはないだろう。
 そして、この話を聞かされたら、サカロス達が黙っている筈はない。

「そういうことならば、ぜひともその製法を手に入れなくては。そうだよな、ダンカン?」
「あぁ。俺も噂で聞いたことはあるが、本当にそんなウイスキーがあるなら、ぜひこの店にも入荷したい。皆も飲みたいよな?」

 ダンカンがそう呼びかけると、他の来客達も一斉に同意する。当然の反応であろう。そして、ベアトリスとしても、酒がこの村の産業の根幹である以上、その製法を手にするための魔境探索に対して、特に反対する理由も見当たらなかった。彼女は対混沌戦に特化した騎士であり、その特性故に、同門には(混沌を利用すること自体を嫌う)聖印教会の信者も沢山いるが、彼女自身は「混沌の産物」を人々の生活のために有効活用することに、特に抵抗がある訳ではない。

「分かりました。では明朝、改めて魔境の調査に向かいましょう」

 こうして、ベアトリスとエステルの就任以来初の、本格的な魔境調査が実施されることが決定されたのである。

2.6. 出陣前夜

「よぉぉぉし、みんな、今夜は俺の奢りだ! 究極のウイスキーへの前祝いとして、思う存分飲もうじゃないか!」

 この日の夜、ユリシーズはそう言って、自分の部下だけでなく、この村の兵士達や、「北の川虎亭」に集まる冒険者達も招いて、盛大な「宴」を催した。彼は貴族家出身であるため、実は今でも莫大な私財を有している。そして生来の遊び人である彼は、このような場において、それらを一気に散財することに、何の躊躇もなかった。
 サカロスやリッカが彼等と一緒になってその酒宴を楽しんでいる中、エステルは酒場の入口で、先刻の戦いの記憶を脳内で再編成した「武勇伝動画」を、村の人々に見せていた。

「……こうして、我が村の領主、ベアトリス・バランカ様の聖印によって造り出された光の大剣から放たれた聖なる波動によって、一瞬にして偽ユリシーズ率いる酒泥棒達は一網打尽となり、盗まれたウイスキーは無事に取り戻されたのでありました!」

 小気味よく語られたその「領主様の武勇伝」に、村人達は感激し、拍手喝采が沸き起こる。

「おぉ、さすが領主様!」
「まだお若い方だと思っていたが、なんと頼もしい立ち振る舞い!」
「さすがは名門家の血筋を引く御方だ。戦う時のオーラが気品に満ち溢れている!」

 正確に言えば、そこに至るまでの間にベアトリスは目の前の敵を相手に見事なまでの「空振り」をやってのけ、その後は首謀者である魔法師に逃げられているのであるが、全てを正しく伝える必要はない。彼女は新聞記者ではなく、あくまでも「娯楽」として動画を作っている以上、「娯楽作品にそぐわない場面」まで再現する必要はないと考えていた。もっとも、後者に至ってはそもそもエステルは最後の追撃の場面を見ていない以上、どちらにしても映像として再現することは出来ないのであるが。

(実際、いつもこれくらい綺麗にキメてくれればいいんですけどね……)

 戦場での確実性に難がある契約相手のことを思いながら、エステルは内心で軽くため息をつく。一方、そのベアトリス本人は、酒宴の途中で先代領主のブルースからの伝令に呼び出され、途中で抜け出す形で、彼の私宅を訪れていた。

「盛り上がっていたところ、呼び出してしまって、すまんな。だが、一つだけ、お主に伝えておかねばならないことがある」

 ブルースは、言いにくいそうな表情を浮かべながら、ベアトリスに対してそう切り出した。

「何でしょうか?」
「どうやら、伝説の『究極のウイスキー』の製法を探しに魔境に行くことになったようだが……、実は我が一族の間では、その伝承にあるウイスキーには手を出してはならない、という言い伝えがあってな」

 ブルース自身が、今まではその「究極のウイスキー」なるものの存在そのものに否定的であったが故に、わざわざベアトリスに伝える必要もないと思っていたようだが、エーラムの高等魔法師までもがその可能性に言及した上での調査隊が派遣されるという事態になり、「もしかしたら、本当に実在するのかもしれない」と思い、忠告する必要があると考えたようである。

「なぜそう言われているのかは、分からん。この言い伝えが、信憑性のある話なのかどうかも、私には判断出来ない。だから、このことをお主に伝えた上で、最終的にどうするかは、お主に任せる」

 そう言われたベアトリスは、やや反応に困りながらも、この場は「無難な回答」で受け流すことにした。

「分かりました。とはいえ、どちらにしても魔境を放っておく訳にはいかないので、ひとまず調査して、その製法を確認した上で、然るべき判断を下したいと思います」

 現状、彼女としてはそう答えるしかない。もし、その製法そのものが、何らかの「非人道的な手段」を伴うのであれば、彼女としてもその製造を認めるつもりはない。また、造られた酒に「人体に何らかの悪影響を及ぼす何か」が含まれているとエステルやカルディナが判断した場合も、それを誰かに飲ませる訳にはいかないだろう。様々な可能性を考慮に入れつつ、まずは魔境探索そのものを成功させるために、この日の夜は静かに休むことを決めたベアトリスであった。

2.7. 架橋作業

 翌日、ベアトリス、エステル、サカロス、リッカの四人は、昨日と同様に改めて自身の部隊を率いて、川の合流点へと向かった。「魔境の扉」を開くために、カルディナもエステルの部隊に随行する。ユリシーズも出来れば参加したいと言っていたが、彼には「エストに持ち帰るべき酒の警護」という任務がある以上、今回は彼等の不在時の村の警護の役割も兼ねて、彼等の帰還を村で待ち続ける役に回ることになった。
 そして、川の合流点まで来たところで、彼等はよりスムーズに「合流点の中心(魔境の扉の真下)」まで移動するために、設置された飛び石の上に「簡易橋」を架けることにした。この川は(普通の成人男性では足がつかない程度には)深く、流れも激しいため、不安定な飛び石から飛び移る時に、足を踏み外す危険性を回避するための安全策である。

「では、まずは私があの石に飛び渡った上で、橋を飛び石に固定化させよう」

 そう言って、リッカは一番手前の飛び石へと飛び乗るが、ここで彼女は、うっかり足を踏み外してしまう。昨晩の二日酔いがまだ残っていたせいかどうかは不明だが、そのまま彼女の身体は川の激流に飲み込まれてしまった。

「大丈夫か、リッカ! 誰か、引き上げを!」

 ベアトリスがそう叫ぶと、川の中で必死に陸地に向かって泳いでもがこうとするリッカに対して、咄嗟にサカロスが手を差し伸べる。彼はその巨体を生かした怪力で、一気に川の激流から引っ張り上げた。

「す、すまない……」
「なぁに、どうってことはないよ」

 ひとまず呼吸を整えた上で、改めてリッカが、今度はより慎重に「一番手前の飛び石」へと飛び渡り、そして、川岸に立つサカロスと協力しながら、「一つ目の簡易橋」の設置を完了する。ここで、彼女が次の飛び石に渡ろうとした時、エステルが声を上げた。

「待って下さい。念のため、その飛び石を調べてみます」

 そう言って、彼女は再び混沌の気配を探知する魔法を唱える。身体能力に優れている筈のリッカが、一見すると何でもない飛び石の上で転んで川に落ちたことから、「もしかしたら、何かの罠が仕掛けられているかもしれない」と彼女は判断したようである。
 そして、エステルのこの予想は、半分誤解で半分正解であった。リッカが最初に転んだ飛び石の上には何の罠も仕掛けられていなかったが(つまり、これは純粋にリッカの不注意で起きた事故だったのだが)、その先にある二つの飛び石のうち、片方は混沌の力で作り出された「幻影」であることが分かったのである。そして、「本物」の飛び石の先にある二つの飛び石のうちの片方もまた「幻影」であることが判明した。

「なぜ、そんな幻影を?」
「おそらく、我々が追撃するのを防ぐためでしょう。追っ手の何割かが引っかかって川に流されればもうけもの、という程度の撹乱策だったのではないでしょうか」

 ベアトリスの疑問に対して、エステルはそう答える。だが、昨日の追撃戦では、当初の想定以上に緊迫した状況であったため、この飛び石を利用する余裕すら無かったのかもしれない。

「あの兵士達、全て話すと言っておきながら……」
「まぁ、彼等は『正解の飛び石』を通って来た訳でしょうから、『偽の飛び石』があることを知らされていなかった可能性もありますけどね」

 とはいえ、今この時点でその真偽を確かめることは出来ないし、確かめたところでどうなるものでもない。ひとまずエステルは、自身が率いる軍楽隊に、エーラム時代に見た「異界の映画」の中で流れていた この架橋作業の場面にふさわしい曲 を演奏させることで、地味な作業に慎重に従事するリッカ隊とサカロス隊の士気の維持に努める。

「サル・ゴリラ・チンパンジー♪」
「なんだその歌詞?」
「いや、ただなんとなく、思いついただけ」

 兵士達の一部でそんなやりとりがあったか否かはともかく、どうにか無事に架橋作業は完了し、彼等は無事に「魔境の入口」の真下までの足場を確保したのであった。

2.8. 大巨人

 こうして架けられた簡易橋を渡って、まずはエステルが、その「魔境の入口」があると思しき上空に向けて探知魔法をかけ、改めてその混沌の強度を確認する。その結果、確かにそこには何らかの「混沌の扉」が存在していることと、その奥には何らかの「魔境」と呼ぶべき空間が広がっていることを彼女は確認する。そして、おそらくそれは、エステルの魔法の力で拡散させることも、ベアトリスの聖印の力で浄化することも出来ないほどの強力な混沌核によって構成されていることも分かった。同時に、エステルの力ではこの「扉」を強引にこじ開けることは出来ないであろうことも実感する。

「ということで、師匠、お願いします」
「あぁ、分かった」

 川岸に立っていたカルディナはそう言うと、おもむろに召喚魔法を唱え始める。すると、彼女の傍に、巨大な人型の投影体が現れた。オリンポス界の投影体、ギガースである。全長数メートルはありそうなその巨体を目の前にして、周囲の兵達が驚愕の表情を浮かべる中、その大巨人はカルディナを右手の掌の上に乗せ、そして川の中にそのまま入って合流点の中央部まで来ると、その掌を上空に掲げることで、その上に乗ったカルディナを「魔境の入口」があると思われる高さまで移動させる。

「うむ、ここだな。では、今から開くぞ」

 カルディナはそう言うと、その空間に向かって魔力を込める。すると、徐々にその空間に「割れ目」のようなものが出現していく。ベアトリス隊とサカロス隊の者達の目には、それが昨日の「黒いローブの魔法師」が逃げ込む際に出現した「割れ目」と同じであるように見えた。

「やはり、ここで間違い無かったようだ。とりあえず、私とこのギガースが、お前達が戻ってくるまで、この場に誰かが近付いて来ないよう監視している。例の本を手に入れたら、なるべく早く帰ってくるんだぞ」

 彼女はそう言うと、大巨人の肩の上へと飛び移り、そして大巨人は、今度は下の飛び石の上にいたエステルに向かって「右手」を差し伸べる。どうやら、この「右手」を伝って、この上空に開かれた「魔境への入口」の中に入って行け、ということらしい。
 その意を受けたエステルとその護衛の兵達は、大巨人の掌に乗り、そしてそのまま、魔境の入口へと運ばれる。

「では師匠、行ってきます」
「期待しているぞ」

 そう言って、彼女達は魔境の中へと消えて行く。それに続いて、他の者達も次々と大巨人の右手によって運ばれていた。ただ、そんな中で、兵士達の一部では、ふとした疑問が沸き起こる。

(これって、最初から大巨人を呼び出して、橋をかければ良かったのでは?)
(むしろ、大巨人自身が『橋』になれば良かったのでは?)

 もしかしたら、カルディナはその選択肢があることを分かった上で、弟子達がこの局面をどう乗り切るかを、面白がりながら見物していたのかもしれない。そんな疑念を抱きつつ、彼等は空中に出現した「魔境」の奥地へと、足を踏み入れて行くのであった。

3.1. 闘犬

 彼等が突入した「魔境」の中は、うっすらとした光で照らされた森林のような空間であった。周囲の木々はブレトランド北部でもよく見かける類いの針葉樹であり、その光景はエルマの村の近辺とあまり変わらない。そして、その木々の隙間から、やや離れたところに「建物」のような何かが見える。カルディナの仮説が正しければ、おそらくそれこそが「漂流図書館」であろう。
 一番最初にこの地に降り立ったエステルは、周囲に一定の光があることを確認しつつも、まずは自身の周囲に「光の魔法」をかける。混沌の中ではいつ何が起きるか分からない以上、自分の視界を着実に確保しておいた方が無難という判断である。
 そして、後続の部隊が全員到着すると、彼女達はその建物に向かって行軍を開始する。混沌濃度はかなり高いため、周囲を警戒しながら慎重に歩を進めて行くと、やがて木々の無い「広々とした平原のような空間」へと辿り着いた。その平原の先に「図書館と思しき建物」が見えるのだが、その建物と彼等の間に、数十頭の「中型の獣」が闊歩している様子が目に入る。

「あれは……、土佐犬!?」

 この場にいる者達の中で唯一、この「獣」を見たことがあるリッカがそう叫ぶと、隣にいたサカロスが問いかける。

「なんだそれは?」
「闘う犬だ」

 端的な回答である。リッカは、地球時代の自分が何をしていたのかは殆ど覚えていないが、地球に存在していた生物や物品に関する知識までは失っていない。彼女の記憶によれば、「土佐犬」とは、彼女の祖国の一部で飼育されている犬であり、犬同士を闘わせる「闘犬」と呼ばれる賭け事で用いられる強靭な犬種であった。ブレトランドに来て以来、リッカはこの種の犬を見たことが無いので、おそらく彼等は異界から投影された犬達なのであろう。もしかしたら、その投影の過程において、本来の土佐犬以上の戦闘能力が付加されている可能性もある。
 彼等は当初、二つの群れに分かれて睨み合っていたようだが、この空間に「見知らぬ来訪者」が現れたことで一時休戦し、ベアトリス達に向かって襲ってきた。彼女達のことを「危険な侵入者」だと考えたが故の行動なのか、あるいは「強そうな者」に対して本能的に立ち向かおうとする本性が彼等に備わっているのかは分からない。だが、いずれにせよ、その鋭い牙を剥き出しにして襲ってきた以上、ベアトリス達としては、応戦するしかなかった。
 彼等は、犬にしてはかなり大型の部類であるが、その巨体に見合わぬ俊足で、ベアトリスやリッカへと襲い掛かる。ディフェンスに定評のあるサカロスが二人の間に陣取った上で、なんとか両者を守ろうとするが、さすがに全ての攻撃を庇いきることは出来ず、一部の土佐犬達の牙がベアトリスやリッカにまで届いてしまい、軽装のリッカは深手を負う。だが、それでもリッカは怯まず真正面から斬りかかって応戦し、一歩も退く気はない。もともと、彼女の戦闘術は、防御を捨てた攻撃特化型である。自分がどれほど重傷を負おうとも、退くつもりは全くなかった。
 一方、彼女と同じく戦闘特化型の騎士であるベアトリスもまた、再び光の大剣を造り出し、目の前の土佐犬達に向かって大きく振りかぶり、その対混沌仕様の聖印の力で一気に斬り裂こうとするが、あっさりと避けられてしまう。彼女の剣は「一撃必殺の剣」であるが故に、どうしても確実性という点では難がある。当たれば強いが、当たらなければどうということはない。
 そんな彼女達の戦いを後方から見守っていたエステルであったが、自分が動くよりも先に乱戦状態となってしまったため、彼女としては、打つ手がない状態であった。というのも、彼女が使える唯一の攻撃手段は、混沌の力で造り出した万能溶解剤を投げつけることであり、その性質上、乱戦状態において敵に向かって投げつけても、味方を巻き込んでしまう。この攻撃によって、ベアトリスやリッカの服や鎧が溶ける様子を記憶に収めて映像化すれば、それはそれで人類の約半分に対して需要のある動画を作れるであろうが、さすがに村人の血税によって整備された装備を溶かしてしまうことには抵抗がある(厳密に言えば、リッカの服は異界の装束であり、この村の資金で購入したわけではないが、それはそれで貴重な物品であることには違いない)。ひとまずエステルとしては、周囲の混沌濃度を下げることで、せめて敵の攻撃の勢いが弱まることを願うしかなかった(投影体の中には、混沌濃度によって、その力が上下する者としない者がいる。この土佐犬達がどちらなのかは、初見のエステルには分かる筈もなかった)。
 こうして、後方からエステルが心配そうな面持ちで見つめる中、再び土佐犬は前線の三部隊に対して襲い掛かる。サカロスの必死の防戦によって、どうにか戦線を保ってはいるものの、ベアトリスもリッカも徐々に傷口が広がり、その表情が歪んでいく。だが、それでもどうにかリッカは、自分の受けた傷以上の深手を土佐犬達に与え続けることでその勢いを殺し、そしてベアトリスもまた、改めて振りかぶり直した「二撃目」で土佐犬達に大打撃を与えたことで意気消沈させ、やがて土佐犬達は、左右に分かれて逃走していく。
 この時点で、追撃することも可能ではあったが、既にベアトリス隊もリッカ隊も負傷と疲労が蓄積しており、しかも二手に分かれて追う場合、「盾」となって彼女達を守るサカロスはどちらか片方にしか随行出来ない以上、もう片方はサカロス不在の状態で戦わなければならない。さすがに、それは危険性が高すぎると判断した彼女等は、やむなくその土佐犬達が逃げて行くのをそのまま見逃すことしか出来なかった。

「不甲斐ないですねぇ。あの犬達の混沌核を浄化すれば、あなたの聖印を成長させる好機だったのですが……、まぁ、今のあなたでは無理でしょうし、仕方ないですか」

 後方から合流したエステルは、自家製の回復薬でベアトリス達の傷を癒しながら、辛辣な口調でそう告げる。ベアトリスとしても、それに対しては何も言い返せない。実際のところ、ベアトリスが「初撃」を外さなければ、二撃目で片方の群れは殲滅出来ていたであろう。そうなれば、もう片方の群れが逃走して行ったとしても、全員で追撃することは可能だった筈である。

(てゆーか、本当にこの人で大丈夫なのかしら……)

 エステルの心の中で、徐々に不安が募っていく。これまで、ベアトリスが「対混沌戦に強い騎士」であるという触れ込みを信じて、政務官として彼女を支えてきたエステルとしては、彼女が自分が期待していたほどの戦果を上げられていないこの状況に、やや心が曇り始めていた。だが、そんな彼女の心配をよそに、当のベアトリス本人の士気は高まっている。

「これほどの魔境が我が領内に出現していたとは。これは何としても、私の手でこの魔境を祓わなければ!」

 そう語る君主の意気込みの横で、彼女が今の聖印の力ではそれが到底無理であることを実感しているエステルは、深いため息をつく。エステルは、大言壮語を語る騎士は嫌いではない。むしろ、ベアトリスが君主として「いずれは皇帝聖印を目指す」という志を抱いていることに対して、エステルは好感を抱いている。ただ、その志に対して実力が伴っていない今の状態で、どこまで「騎士としての彼女」に期待して良いのか、エステルの中で迷いが生じ始めていた。

3.2. 悪魔の誘い

 こうして、ひとまず土佐犬の群れを退けたエルマ軍の面々は、目の前にそびえ立つ「謎の建物」へと入ろうとする。その外観は、エルマの領主の館よりもひとまわりほど大きな三階建ての煉瓦造りの建物であり、その建築様式はかなり古典的で、エーラムの中でも古い街並の中に建っていそうな雰囲気が漂っていた。
 そんな建物の中央の入口の前までベアトリス達が歩を進めると、突然、彼女達の目の前に、一人の「異界の住人」と思しき風貌の男(下図)が姿を表す。


「よぉぉこそいらっしゃいまっしったぁ、みなっさっまぁ。通ぅ行ぉ証ぉはぁ、お持ちでしょうかぁ?」

 「早口」と「溜め」を混ぜ込んだ独特のテンポで語るその男に、露骨な胡散臭さを感じながらも、エステルは淡々と応対する。

「申し訳ないですが、そのようなものは持っていないです。酒の造り方を探しているのですが」
「なるほどなるほどぉ。酒の造り方のせ・い・ほ・う、ですっかぁ。あ、しっつれい致しましたぁ。ワ・タ・ク・シ、ディオ・コッキーと、申しまぁすぅ。この主人であるキャメロデオ様に『しょ・う・か・ん』されて、この世界にぃ参りましたぁ。まぁ、皆様の言葉で申しますとぉ、『あ・く・ま』ということになりますけれっどっも」

 この世界において「悪魔」と言えば、一般にはディアボロス界、もしくはアビス界の住人のことを指すが、必ずしも明確な定義がある訳ではない。この「ディオ・コッキー」と名乗る「自称:悪魔」が、果たしてどの世界から投影された人物なのかは分からないが、「キャメロデオ」の名が出たことから察するに、どうやらカルディナの「仮説」が正解である可能性が高そうである。

「皆様はぁ、酒の製法をお・の・ぞ・み。しかし、ワ・タ・ク・シは、キャメロデオ様かっら、『通行証のない者を、みだりに入れてはならぬ』と言われているので〜す〜。し・か・し、ワタクシも鬼ではご・ざ・い・ま・せん。見たところ、当図書館から逃げ出した魔犬達をぉ、追い払うぅ程度のぉ力はぁ、お持ちらっしいぃ。で、あ・る・な・ら・ば、この図書館の『お・そ・う・じ』を手伝って頂けるのであっれっばぁ、ワタクシが図書館からぁ、その本をぉ、持って来てもぉ構いまっせぇぇん」

 この男の言うことが本当なら、どうやら本当にここは「図書館」であるらしい。ただ、「図書館から魔犬(先刻の土佐犬?)が逃げ出す」という状況は、一般的な認識に照らし合わせて考えれば、いささか不可解である。果たして、本当にここは「図書館」なのか、今の時点では確かめる術がない。
 そして当然、「図書館の掃除を手伝えば、酒の製法の本を持ってくる」という彼の言い分も、それが本当なのかどうかは分からない。そもそも、自ら「悪魔」と名乗る人物の言うことを、本当に信用して良いのか、という問題もある。
 だが、エステルは、過去にエーラムで学んだ独自の情報源に照らし合わせて考えた場合、彼のその口調や言い回しから、「この類いの悪魔は、約束そのものを違えることはない」と確信していた。皆が訝しげな表情を浮かべる中、彼女は静かに、この男の説明を聞き続ける。

「じーつはですねぇ、こちらの『図・書・館』は、もともとはキャメロデオ様があ・つ・め・たこの世界の『え・い・ち』を、収めているのですが、残念ながらキャメロデオ様はもう『実・体』をお持ちではおられまっせん。言うならばっ、この魔境自体が、あの方の内なる魔力の『集・積・体』のようなものであり、その意味ではすなわち、もはやあの人自体がこの魔境そ・の・も・の、になったと言ってもよろしいのっかも、しれまっせん」

 邪紋使いが混沌を吸収し続けた場合、最終的には人としての体を失って、世界の一部として溶け込んでいく事例がある、という話をエステルはエーラムで聞いたことがあるが、魔法師が魔力を高めた結果として魔境そのものになる、という事例は、少なくとも彼女が知る限りでは記録されていない。とはいえ、魔力を通じて混沌の力を高めることによってどんなことが起きたとしても、驚くべきことではない。混沌の力によって引き起こされる不可解な現象には、明確な法則性はない。だからこそ、人はその力を「混沌」と呼ぶのである。

「しかぁし、ワ・タ・ク・シは、キャメロデオ様に召喚された身である以上、今でもあの人の言いつけを守らねばなりまっせん。その様な制約がぁ、かけられてぇいるのです。で、ですね、今現在、この図書館の中には、キャメロデオ様が様々な世界から集めた、ありとあらゆる娯楽・快楽に関する書物がぁ、集積してぇ、おりまぁす。酒・煙草・麻薬・賭け事・女・男、あの方は、ありとあらゆる快楽をぉ、嗜まれておられまっしったぁ」

 どうやら、「己の快楽のためだけに魔法を使い続けてエーラムを追放された」という伝承も、あながち間違いではないようである。おそらくはそれ故に、この悪魔と相性が良かったのだろう。見たところ、この悪魔は確かに、そのキャメロデオという魔法師に対して、一定の敬意を示しているように思える。悪魔ですらもシビれ、憧れさせるほどのことを平然とやってのけるほどの「背徳の魔法師」だった、ということであろうか。

「そしてぇ、その書物がぁ、時折、『具・現・化』してしまうのでっす、この図書館のぉ中ではぁ。先ほどの魔犬達もぉ、その『一・例』です」

 これについては、似たような事例は確かに世界中に存在する。元はただの本であった書物が、混沌の力によって内容を具現化させてしまうこともあれば、もともと存在していた何らかの「現象」を、本の中に封印した上で、その封印が解けて暴走してしまうこともある。今回がどちらの事例なのかは分からないが、いずれにせよ、伝説の大魔法師の書庫ということであれば、その様な不可解な現象が起きてもおかしくはないだろう。もっとも、そこまでの知識があるのは、この場にいる者の中では、エステルくらいであるが。
 そして先刻の土佐犬達は、リッカの記憶が確かならば、地球では「賭け事」の道具として飼われていた犬である。この悪魔が言うには、キャメロデオは賭け事にも精通していたとのことであるから、その意味では、確かに辻褄は合っている。

「で、実は現在、この図書館の地下3階にお・い・て、そのように具〜現化してしまった投影体がぁ、暴れておりましてぇ、しょーーじき、ワタクシも面倒臭くて手入れしにくくなるく、ら、い、厄介な状態となってしまってぇ、いるのでぇす。時に皆様、『ア・ヘ・ン』というものを、ご存知でっしょうか?」

 薬師でもあるエステルと、地球出身のリッカは、それが「幻覚を伴う麻薬」であることを知っている。この世界では非常に珍しい物品だが、エーラムにおいては「みだりに触れてはならない要注意薬品」の一つとして、研修時に教えられている。

「そのアヘンを始めとする、様々な『ま・や・く・の・た・ぐ・い』を扱っている地下3階においてぇ、『ケ・シ』が具現化して、ちょぉっと厄介な状態にぃなっているのでぇすぅ。それをぉ、どうにかして頂きたいなぁ、と」

 「ケシ」とは、アヘンの原料となる植物である。ただ、リッカが見た限り、先刻の土佐犬も、明らかに「地球における本来の土佐犬」以上の身体能力を発揮していたので、おそらく彼が言うところの「ケシ」も、ただのケシではないのだろう。そもそも、ただのケシなら、わざわざ他人の手を借りて掃除させる必要もない。おそらく、それはケシが何らかの形で怪物化(?)した存在であり、一定の危険な作業を伴うことは間違いなさそうである。
 だが、ここでエステルは、あっさりと結論を出す。

「ここは引き受けましょう。悪魔というものは、契約を結んだ限りにおいては、その約定に従うものです。主様なら、きっとそのケシも浄化出来ますよ」

 実に楽天的な結論だが、現実問題として、この悪魔が本当に「伝説の大魔法師の使い魔」であるならば、おそらく力づくで戦って勝てる相手ではない。そして、もしそのケシが先刻の魔犬と同程度の混沌核の投影体だと仮定すれば、最後まで全力で戦えば、殲滅・浄化させることも不可能ではないだろう。
 と言うよりも、エステルの本音としては、あの魔犬と同程度の投影体も祓えないような君主ならば、仕える価値はないと考えていた。エステルはこの任務を通じて、ベアトリスが本当に自分が支えるに価する君主かどうかを見極めたい、と考えていたのである。
 このエステルの提案に対して、何としても「究極の酒の製法」を持ち帰りたいと考えているサカロスや、強い敵と戦うこと自体に価値を見出しているリッカが、ここで撤退を主張する筈もない。そして、この地の混沌を祓うつもりで魔境へと乗り込んだベアトリスもまた、エステルの方針に同意する。
 ベアトリスとしては、その前に、出来れば目の前の悪魔を祓ってしまいたい気持ちはあったが、戦って勝てる保証もない上に、仮にこの悪魔を倒したとしても、肝心の書物がどこにあるのかは分からない以上、無闇に戦いを挑むことが得策とも思えなかった。彼女は志が高すぎるが故に、「大言壮語ばかり吐く夢想家」と思われがちだが、それなりに現実も見据えた上での判断を下せる程度には理知的な人物なのである。

「そぉれで〜は〜、こちらが地下3階の地図にぃなりまぁす。ワタクシがこれから皆様をそちらに『空・間・転・移』させる、ということでよろしいでっしょうかぁ?」

 そう言って悪魔がベアトリス達に手渡した地図(下図)によれば、どうやらこの地下3階は12個の「六角形の部屋」から成り立っているらしい。地図の右上に位置する「第一書庫」は「入口」の役割も兼ねており、悪魔が言うには、キャメロデオによって作られた「通行証」を、今彼等がいるこの玄関で掲げることによって、それぞれの階の「入口」へと空間転移することが可能らしいのだが、通行証がなくても、この悪魔が特例として認めれば、その入口へと瞬間移動させることが出来ると言う。ただし、ここで彼等が率いている部隊全体を転移させるのは不可能であり、各部隊を率いる部隊長の四人程度が限界、とのことであった。


「あぁ、構わない。そうしてくれ」

 ベアトリスは、腹をくくってそう宣言する。悪魔と契約して、「背徳の魔法師」の図書館を掃除するという行為自体、君主がやるべきことではないのかもしれないが、現状において、他に有効な選択肢があるとは彼女には思えなかった。
 だが、ここでエステルが手を挙げる。

「あ、ちょっと待って下さい。今から、師匠とオラニエ君に、手紙を書いておきたいので」

 そう言って、彼女は懐からペンと紙を取り出し、以下のように書き記し、それを伝令兵の一人に渡して、魔境の外で待つカルディナの元へと走らせた。

「我々は、師匠の命令で酒を手に入れるために、悪魔と契約しました。もし、我々が『本来あるべき姿ではない何か』になって村に現れた場合は、躊躇なく殺して下さい」

 楽天的な結論を出したエステルであったが、決して、全面的にこの悪魔のことを信用している訳ではない。当然、自分達が彼等に利用された上で、誰かに操られたり、その身を乗っ取られたり、心を失ったりする可能性も考慮している。だが、それでも、彼女はあえてその「危険な賭け」を選んだのである。その覚悟こそが、「魔境探索者」としての彼女の心意気であった。

「そ・れ・で・は〜、今から皆様をぉ、魅惑の麻薬の地下3階へとぉ、ご案内しまぁすぅ。ケシの花の本体は『第12書庫』に生息しておりますので、そぉの辺りを中心にぃ、『お掃除』をぉ、お願いしまっす〜。どうか皆様、ご無事でお戻り下ぁさぁぁい」

 悪魔がそう言うと、ベアトリス、エステル、サカロス、リッカの四人は、瞬時にして部下の兵士達の目の間からその姿を消す。不安気な内心を隠せない兵士達の前で、悪魔は一人、心底楽しそうな笑顔を浮かべている。実はこの時点で、この悪魔の瞳は、目の前にある図書館の外観でも、その向かいに立つ兵士達でもなく、「地下3階」へと転送した彼女達を、特殊な手法で眺めていたのであるが、そのことに兵士達が気付く筈もなかった。

(さ〜て、今度のお客さっまっはぁ、どぉれくらい頑張ってくれますっかねぇ)

3.3. 幻覚の花粉

 図書館の入口から空間転移させられた四人は、見知らぬ部屋の中にいた。部屋の形状は六角形で、それぞれの壁に本棚が設置されている。そんな中、彼らの目の前にある隣り合った二つの壁の本棚だけは、その中央部分が切り取られ、そこに小さな扉が設置されている(下図)。この時点で、自分達がいる部屋が、悪魔が渡した地図における「第1書庫」であるとするならば、おそらくはこの二つの扉は、それぞれ「第2書庫」と「第4書庫」へと続く扉なのであろう。


 部屋の中は、天井がほのかに光ってはいるものの、やや薄暗かったため、エステルは自身の周囲にかけていた光の魔法の光力を強める。すると、本棚に置かれている書物のタイトルも読めるようになるが、どうやらいずれも、あの悪魔が言っていた通り、「麻薬」の類いを扱った本であるらしい。薬品の専門家であるエステルですら見たことがない単語が羅列した背表紙もあるが、その中身を確かめることは今の任務とは無関係である。
 彼女は目先の好奇心を抑えつつ、まずはこの地下3階全体に対して、混沌探査の魔法をかける。すると、悪魔が言っていた通り、「第12書庫」と思しき場所と、そしてその手前の「第9書庫」から、強い混沌の気配を感じる。その規模から察するに、明らかに第12書庫の方が強力なので、確かにこちらの方が「ケシの本体」であることは間違いなさそうである。
 ここで彼女達には、二つの選択肢があった。まず、手前の「第9書庫の投影体」を除去してから「第12書庫の投影体」を浄化するか、それとも、第9書庫を通らずに第11書庫経由で第12書庫へと向かうか、である。現状、第9書庫の投影体が何者なのかは分からないし、そもそも除去すべき対象なのかどうかも不明である。しかし、もし第9書庫の投影体が「自律的に移動する投影体」で、なおかつ自分達に対して敵意を持っていた場合、第12書庫でケシを浄化しようとしていた時に、その投影体の乱入によって妨害される可能性もあるだろう。そう考えると、先に第9書庫の投影体の方を個別で撃破しておいた方が安全にも思える。
 そして、少し迷いながらも、彼等はひとまず、「第11書庫」経由で「第12書庫」へと向かう経路を選択することにした。そのために、まずは第4書庫への扉を開く。すると、その直後に強烈な混沌の気配が部屋に漂っていることに気付く。しかも、その混沌は、極めて微量な物質、すなわち「ケシの花粉」という形で充満していた。通常のケシの花粉であれば、それ単体では人体には何の影響もないが、混沌の結晶体としてのその花粉は、ベアトリス達の呼吸器官を通じて脳に入り込み、その判断能力と認識能力を狂わせ、幻覚症状をもたらそうとしたのである。
 通常の人間であれば、ここで我を忘れてその幻覚に囚われてしまうところだが、彼女達(君主・魔法師・邪紋使い・投影体)はいずれも、人並み外れた抵抗力の持ち主である。ましてや、「酒造りの村」の住人である彼女達が、そう簡単に自我を失う筈もない。
 彼女達が、それぞれの内なる意志の力でその「混沌のケシ」の花粉の脳への侵蝕を食い止めた上で、改めて周囲を見渡すと、その部屋の形状は先ほどまでいた部屋とほぼ同じで、今度は「(入ってきた方向から見て)向かって右側」以外のすべての壁の本棚の中央部に「扉」が設置されている。どうやら、この「地図」に記された「第4書庫」で間違いなさそうである(下図)。


 そして、エステルはここで再び、混沌探知の魔法を使ってみる。もしかしたら、第9書庫の投影体が移動しているかもしれない、という可能性を考慮した上での行動であったが、先刻かけた時と反応は全く変わっていない。どうやら、少なくともそれほど頻繁に移動する類いの投影体ではないようである。ならば、ひとまず第9書庫の投影体には触れずに、依頼された除去対象の潜む第12書庫に(第11書庫経由で)直接向かうことが得策であろう、と改めて確信した彼女達は、今度は第8書庫へと向かう扉を開く。
 すると、今度は先刻よりも更に強力な花粉が彼女達を襲う。そして、一瞬だけ、彼女達の目の前に「本来ならばここにいない筈の人物達(下図)」が現れ、それぞれの耳元で、彼等の声が聞こえたような感覚に陥った。


「すみません、私はこの国を去らねばならなくなりました……」
「動画作りよりも先に、やるべきことがあるだろう」
「お酒なら、やっぱりルイーダさんのお店ですよね」
「お前は幻想詩(ファンタジア)か? それとも……」

 だが、次の瞬間、彼女達はすぐに正気を取り戻した。少しでも気を抜けば、そのまま幻覚の世界に囚われてしまっていたかもしれない、そんな恐怖感が彼女達に広がる。

(これが、「混沌のケシ」の作用か……)

 四人はその脅威を身をもって実感しつつ、部屋を見渡すと、地図の通り、今度は全ての壁に本棚と扉が設置されている(下図)。当初の予定通り、第11書庫の扉に彼等は手をかけ、そして強い警戒心を抱きながら、その扉を開いた。


3.4. 二つの再会

 その扉の向こう側には、再び強力な花粉が飛び散っており、部屋の周囲には、燃やされた植物の欠片と思しき何かが散らばっていた。だが、それよりも先に彼等の視界に入ってきたのは、一人の魔法師風の女性である(下図)。この女性の姿は四人全員に見えている。そして、ベアトリスとエステルには、彼女の姿に明らかに見覚えがあった。


「リリア!?」
「カナン!?」

 二人が同時に、別の名を叫ぶ。今、目の前にいるこの女性が、本物なのか幻覚なのかも分からない混乱した状況の中で、その女性はベアトリス達に向かってタクトを構えた。

「もう、騙されないわよ、消えなさい、この幻影!」

 ベアトリスには「リリア」、エステルには「カナン」と呼ばれたその女性は、そう叫びながら、自身の周囲に混沌を集中させ、そして巨大な火炎弾を形成しようとする。だが、その試みは失敗し、混沌の収束は不十分に終わった。よく見ると、彼女の身体は傷だらけで、その表情から、精神的にもかなり憔悴していることが分かる。その状態で、残る気力を振り絞って大規模な魔法をかけようとした彼女は、その発動に失敗し、思わず膝から崩れ落ちる。
 この状況が今ひとつ把握出来ない四人であったが、ひとまずエステルが彼女に駆け寄り、肩を揺さぶりながら声をかける。

「大丈夫? カナン、私よ。エステルよ」

 「カナン」と呼ばれたその女性は、困惑した表情を浮かべながらも、意識のはっきりとした声で答える。

「え? ちょっと待って。あなた、本物?」
「本物よ。ほら、痛いでしょう?」

 そう言いながら、エステルは、彼女の頬を軽く叩いた。叩いている側のエステルも、そして叩かれている側の「カナンと呼ばれた女性」も、共に触覚を通じて「相手が実際に存在していること」を実感する。

「た、確かに……。で、でも、そこにいるのは、ベアトリスよね?」

 そう言われたベアトリスは、内心混乱しながらも、その動揺を悟られぬよう、毅然とした態度で答える。

「そうだ。ベアトリス・バランカだ」

 ベアトリスの記憶が間違っていなければ、この女性の名は「リリア・カークランド」。現アントリア子爵ダン・ディオードに殺された前子爵ロレイン・カークランドの妹であり、ベアトリスとは幼馴染の関係である。だが、リリアが子供の頃に魔法師としての才能を見出され、エーラムに入門することになって以来、もう十年以上も会っていないため、今、目の前にいる彼女が、本当に「リリア」なのか、ベアトリスとしては、今一つ確証が持てない。
 ちなみに、ベアトリスが「バランカ」家に養子に入っているということは、リリアは知らない。だが、その「姓」の部分よりも先に、この女性は別の部分に違和感を感じていた。

「なんで、あんた達が一緒に?」
「あぁ、私、この人と契約したから」

 エステルがそう答える。ちなみに、エステルの記憶が間違っていなければ、この女魔法師の名は「カナン・エステリア」。エーラム時代の学友である。と言っても、カナンは元素魔法科であり、一門も異なるので、それほど親しい関係だった訳ではない。ただ、両者の師匠が(数少ない女性の高等教員同士ということで)懇意な関係であった為、様々な場所で顔を合わせる機会が多かったのである。
 そして、「ベアトリスの記憶の中のリリア」と「エステルの記憶の中のカナン」は、紛れもなく同一人物であった。彼女は、エーラムに入門する際に、その出自が知られると色々と厄介事に巻き込まれる可能性がある、という配慮から、「リリア」の名を封印し、エーラムでは「カナン」と名乗り続けていたのである。故に、エステルは「カナン・エステリア」という魔法師が、「旧子爵家の令嬢リリア・カークランド」であるという事実は知らないし、ベアトリスも彼女がエーラムで「カナン・エステリア」と名乗っていることは知らなかった。
 一方、カナンことリリアの方は、「自分の記憶の中の、接点がない筈の二人」が同時に現れたことで、彼女達を「ケシの花粉による幻影」だと確信したらしい。だが、冷静に考えてみれば、確かにこの二人が契約関係に成っていてもおかしくはない、ということに気付き、ようやくこの状況を理解したようである。
 そして、現状が全く理解出来ないまま遠目に眺めているリッカの隣で、同じくこの状況を理解出来ていないながらも、ひとまずこの魔法師が「敵ではないらしい」と判断したサカロスは、懐から手持ちの酒を取り出す。

「まぁまぁ、とりあえず一杯」

 そう言って、彼は「友好の証」として酒を勧めるが、さすがに幻覚症状をもたらす花粉が飛び散っているこの状況で酒を飲むのは危険すぎるし、そもそも、リリアもベアトリスもエステルも、今は酒に手が出るような気分ではない。皆が複雑な表情を浮かべながらその酒をスルーする中、今度はエステルの方に一つの疑問が沸き起こる。

「で、あなたがここにいるということは、この図書館、エーラムにも繋がってるの?」

 エステルが知る限り、「カナン」はまだ誰とも契約せず、エーラムの大学院に残っていた筈である。だが、カルディナが見せた地図の中に描かれていた「漂流図書館の出現軌道」の中に、エーラムは含まれてはいなかった。そのことを指摘されると、カナンことリリアは、やや困った様子を見せながら答える。

「いや、私は今、ちょっと事情があって、コートウェルズにいてね」
「コートウェルズ? じゃあ、あなた、ダン・ディオードと契約してるの?」
「えーっと、いや、その件はちょっと置いといて……」

 彼女は今の自分の立場については明言を避けつつ(これについては「ブレトランドの英霊7」および「ブレトランド八犬伝6の1.5」を参照)、状況を説明する。現在、彼女はコートウェルズを「仲間達」と共に旅しているのだが、その「彼女の仲間の一人」が「特殊な風土病」にかかっており、その病気を治すための医学書が、この漂流図書館にあるという伝承を聞き、単身この魔境に乗り込むことになったらしい(「背徳の魔法師」といえども、さすがに「快楽に関する本」だけではなく、普通に役に立つ実用書も、それなりに揃えてはいたようである)。そして彼女は入口で「ディオ・コッキー」と名乗る悪魔から、「この図書館の地下3階を掃除してくれれば、医学書を渡す」と言われたのだという。
 ちなみに、彼女がこの部屋に入った時点では、この「第11書庫」には「巨大なケシの怪物」が存在していた。それはただの植物ではなく、その蔓を触手のように動かして、彼女を部屋の外へと排除しようとしたらしいが、得意の火炎魔法で焼き尽くすことで、どうにか撃退に成功した。そして、どうやらそれは、この奥の「第12書庫」に生息する「更に巨大なケシの化け物」の従属体のような存在だったらしい。彼女はその「本体」を倒すべく第12書庫へと乗り込んだものの、直前の従属体との戦いで消耗した状態のままでは勝機がないことを悟って、ひとまずこの部屋へと撤退したところで、ベアトリス達と鉢合わせることになったようである。

「ところで、あなた達は、どうしてここに?」

 今度はリリアがそう問いかけると、ベアトリスが答える。

「似たような状況だ」
「じゃあ、あなた達も何かの薬を?」
「いや、酒を……」
「酒?」

 想定外の答えにリリアが目を丸くしていると、エステルが付言する。

「ほら、私のお師匠さんって、アレだから」
「あぁ、なるほどねぇ……。って、もしかして、『トラーオの酒』のこと?」

 カナンことリリアがその名を口にすると、横からサカロスが乗り出してくる。

「魔法師殿は、何か知っているのか?」
「まぁ、一応、トラーオ・エステリアは、ウチの一門の御先祖様ですから、話くらいは聞いたことがあります。もっとも、古すぎて、あまり正確なことはよく分からないのですが……、私の師匠のフェルガナ先生から聞いたところによると……、トラーオはその『究極の酒』を飲んだ後、一切の酒が飲めなくなったらしい、と言われています」

 その話を聞いたエステルは、少し考え込んだ上で、ラディカルな案を提示する。

「その話が本当なら……、ウチのお師匠さんに、一度飲ませてみるのもいいかもしれないわね」

 エステルには、これはこれで酒に溺れがちな師匠を改心させるいい機会であるように思えた。もっとも、酒という一つの快楽が失われたところで、それだけで真人間になれるという訳でもないのだろうが。

「いや、でも、それであなたが勘当されても、私、知らないわよ」

 カナンことリリアが複雑な表情を浮かべながらそう言って「予防線」を張る一方で、ベアトリスは深刻な表情で呟く。

「酒が飲めなくなるだけで済めばいいのだがな……」

 実際、どういう原理で酒が飲めなくなったのかが分からない以上、他にも何らかの副作用が発生していた可能性は十分にある。あるいは、「酒が飲めなくなる」というのは、そのトラーオの身に起こった諸々の悪影響の中で、「最もマシなレベルの副作用」だった(それ以外の副作用は、恐ろしすぎて後世に伝えることすら出来なかった)、という可能性もある。

「まぁ、作り方を調べてから考えましょう」

 エステルが笑顔でそう言うと、改めて皆が同意する。どちらにしても、ここまで来て手ぶらで帰る訳にもいかない、というのが彼女達の共通認識であった。

3.5. ケシの怪物


「それじゃあ、敵もカナンとの戦いである程度まで消耗しているでしょうし、このまま私達が踏み込んで、一気に倒してしまいましょう。殲滅は、殲滅するまでが殲滅よ!」

 分かったような分からないような格言でエステルが皆を鼓舞すると、四人は扉を開け、第12書庫へと足を踏み入れる。そこに広がっていたのは、部屋全体が巨大な植物の蔓と蔦と花で覆われた、異様な空間である。そして、その部屋の中に充満していた花粉の量も、これまでの比ではなかった。
 ベアトリス達が必死でその花粉による幻覚症状を振り払おうとする中、ここでサカロスが遂に、その花粉の魔力に囚われてしまう。彼の目の前には、ケイの街で出会った奇妙な姿の投影体の女性が現れていた。

「お久しぶりです、サカロス様。マリカーやりましょう、マリカー」
「マリカーかぁ。マリカーは、何度やってもお前に勝てなかったからなぁ……」

 サカロスは虚ろな瞳を浮かべながら、目の前に現れた女性の「体」を用いた遊戯に興じようと手を伸ばす。だが、次の瞬間、彼の背中に一筋の閃光が突き刺さった。開かれた扉の奥から、サカロスが幻覚に囚われていることを察したリリアが、残り少ない気力を振り絞って、魔力撃を打ち込んだのである。この一撃によって、サカロスは苦痛で表情を歪ませながらも、その瞳には生気が戻る。

「……今のは、なかなか効いたな。魔法師殿、助かった」

 そう言ってニヤリと笑いながら、サカロスは武具を改めて構え直す。

「酒の神でも、薬で酔うことはあるのだな」

 ベアトリスが苦笑しながらそう言うと、その傍らに立つエステルは、今度は彼等がケシの怪物に向かって突撃する前に、自ら混沌濃度を上げた上で、万能溶解液を怪物に向かって投げつける。すると、ケシの「本体」部分の表面を覆っていた皮の一部が溶け、その内側が部分的に露出する程度にまで相手の装甲を削ることに成功する。

「私の仕事はここまで。あとはお願いします」

 エステルがそう言うと、まずは最も機動力に優れたリッカが得意の二刀流でその本体に向かって斬りかかるが、あと一歩のところで、避けられてしまう。どうやらこのケシの怪物、見かけによらず、その身のこなしは俊敏であるらしい。
 すると、ケシの本体に近付いたリッカに対して、今度は精神ではなく、肉体を内側から破壊するような花粉が彼女を覆い尽くそうとする。そこへサカロスが、彼女を突き飛ばすように割って入るが、その花粉を身体に吸い込んだ彼は、直前に受けた魔力撃によって身体が弱っていたこともあり、その場に倒れ込んでしまう。

「サカロス!」

 周囲の者達が一斉に叫ぶ。英雄の装束で身を固めた彼であったが、さすがに身体の内側から蝕まれる攻撃に対しては、防ぐにも限界があった。だが、ここで終わらないのが邪紋使いである。彼の邪紋が、その倒れた体を覆い尽くすように全身に広がリ、その禍々しきオーラに包まれたサカロスは、ゆっくりと立ち上がった。その身体が何度限界に達しようとも、天命が潰えるまで起き上がり、戦い続ける。それが邪紋使いと呼ばれる者達(の一部)に備わった異形の能力であった。
 サカロスの無事を確認したリッカは、改めて二本の刀を振るってケシの本体に斬りかかる。既に体力的には限界を超えているサカロスのためにも、早めに戦いを終わらせなければならないと意を決した彼女の連撃は着実に本体を斬り裂き、その「実」の部分を削いでいく。
 そして、そんな彼女の双刀に続いて、巨大な刃がケシの本体へと振り下ろされた。後方から一気に駆け込んだベアトリスの光の大剣である。彼女のその全身全霊の斬撃は、ケシの怪物の混沌核そのものを貫き、一瞬にしてケシの怪物はその身体を崩壊させ、無数の混沌の塵となって消えていく。それはまさに、一撃必殺の聖剣の煌めきであった。

(まぁ、ちゃんと最後はロードらしくキメてくれたし、及第点、かな)

 エステルが内心でそんな評価を下しているとは露知らず、ベアトリスは崩壊しつつある巨大ケシの混沌核を浄化して、自らの聖印へと吸収していくのであった。

4.1. 写本

 こうして、第12書庫のケシの怪物は浄化された。念のため、隣の第9書庫を確認してみると、つい先刻までそこから発せられていた混沌の気配は感じない。どうやら、カナンことリリアが浄化した第11書庫と同様、ここにいたのは第12書庫の怪物の従属体で、本体の混沌核が消滅したことで連動して蒸散したようである。

「随分見ない間に、立派な君主になったようね」

 リリアがベアトリスにそう告げると、彼女は大剣をひとまず自身の聖印の中へと収納しながら答える。

「いや、まだまだ私には、精進が足りない部分が多い」
「そうですね、出来ればもう少し、着実に剣撃を当てられるようにしてほしいところです」

 エステルに横からそう言われると、ベアトリスは微妙な表情を浮かべながらも、相変わらず、否定することも言い訳することもなく、静かに頷く。彼女自身、自分がまだ騎士としても未熟なことはよく分かっている。政務に関してはエステルに頼りきりである以上、せめて武勇の面では、もっと着実に混沌を祓えるだけの力が欲しい、という想いが、この一連の戦いを通じて彼女の中でも高まっていた。

「ところで、今、あなたは、どういう立場なの?」

 ここに来て、リリアはベアトリスにそう問いかける。エステルと契約しているという話から察するに、何処かの領主を務めていることは想像出来るが、問題は、今、彼女が誰の旗の下で戦っているのか、ということである。

「今は、エルマの村の領主をしている」

 そう言われたリリアは、自分の記憶の中にあるブレトランドの地図を思い浮かべ、「エルマ」がトランガーヌ北部の村の名前であることを思い出し、ベアトリスが現在は「ダン・ディオードのアントリア」の騎士となっていることを理解する。分家の末子とはいえ、ベアトリスもまた旧子爵家の血筋を引く者である以上、彼女が今の自分の立場に関して、内心では複雑な感情を抱いているであろうことは、リリアにも推測出来た。

「そっか、あなたも色々あったのね……。まぁ、詳しくは聞かないわ。私も、あまり今は自分のことを話せる立場ではないし……」

 リリアが呟くようにそう言うと、次の瞬間、書庫中に聞き覚えのある声が響き渡った。

「み・な・さ・ま〜、お〜疲れ様でございましたぁ。たっだいまぁ、地下3階のケシが消滅したこと、た・し・か・に、確認致しましったぁ。どうぞ、第一書庫までお戻りくだっさぁぁい」

 それは紛れもなく、図書館の入口で聞いた、あの悪魔の声であった。その言に従って彼女達が「この地下3階の最初の部屋」へと戻ると、再び空間転移の術によって、四人とリリアは「図書館の入口」へと帰還する。目の前には彼女達の部下の兵士と、そしてあの悪魔の姿があった。

「いやー、楽しませてもらいましたよぉ、みなっさっまっ。はぁっきり言って、今の私はぁ、暇なのです。こぉれくらいしかぁ『ゴ・ラ・ク』がぁないのですっ。あのケシを倒せたお客様はぁ、ずーいぶん久しぶりでしたぁ。もぉっとも、お二組が『お・知・り・合・い』だと分かっていたな・ら・ば、も〜〜〜少し難易度を上げてもぉ、良かったぁのでぇすけどねぇ」

 どうやら、自分達が彼の「暇潰しの道具」として遊ばれていたらしいことを察した彼女達であったが、正直、そのことについては彼女達の中ではどうでも良かった。問題は、この悪魔がきちんと「約束」を守るかどうかである。

「御ぉ安心下っさぁぁい。キャメロデオ様かっらっもっ、『渡す価値のある者』が訪れた時は、本を貸し出しても構わないと言われておりまぁす。とーはいえ、次にいついらっしゃるかも分っかりませんからぁ、返す必要がないよう、ワ・タ・ク・シ、みぃなさまのおぉ掃除のあぁいだにぃ、書庫から見ぃつけて、こちらに書ぁき写しておきましたぁ。あぁ、なーんて優秀な司書なんでしょう、ワ・タ・ク・シ。さぁ、どうぞぉ」

 そう言って、悪魔は、二冊の「写本」を取り出す。実際のところ、彼等が依頼を受けてから帰還するまで、それほど長い時間をかけていた訳ではないのだが、悪魔はそのわずかな時間を用いて、書庫から該当する本を探し出し、そして兵士達の目の前で、その写本作業を行っていたのである(その能力が生来のものなのか、数百年かけて培ったものなのかは不明である)。約束通り、彼はリリアには「医学書」、ベアトリスには「酒の製法指南書」の写本を手渡した。

「しっかし、物好きでっすっねぇ。いぃまさら、そぉの本を持ち帰るな・ん・て。というか、昔、それを持って行った人がいったよぉな気ぃがするんですがねぇ。何百年前かは忘れてしまいま・し・た・が。もう今の世には、伝わってーはーいーなかったぁんですかぁ?」
「いつの間にか途絶えたみたいです。まぁ、有効に使わせてもらいますよ」

 エステルはそう答えると、あまりこの悪魔と長く関わりたくないと思ったのか、彼女達は早々と図書館に背を向け、自分達が来た入口へと向かう。すると、リリアはそんな彼女達とは別の方向へと向かって歩き始めた。どうやら彼女が通ってきた「コートウェルズへの扉」は、そちらの方角にあるらしい。

「私は、これを仲間の元へ届けなければならない。次に会う機会があるかどうかは分からないけど、あなた方の武運を祈っておくわ。あと、ごめんなさいね、そこの……、神様だったっけ?」

 そう言われたサカロスは、彼女が何を言わんとしているのかをすぐに理解した上で、胸を張って答える。

「なかなか良いエネルギーボルトだったぞ。今度会ったら、酒でも飲もう」
「ウチは酒くらいしかないからな」

 ベアトリスが苦笑しながらそう付言すると、リリアも釣られて笑みを浮かべつつ、彼女達は、それぞれの帰るべき場所へと帰還していくのであった。

4.2. そして熟成へ

 こうして、ベアトリス達は無事に「酒の製法指南書」の写本を手にして、エルマの村へと帰還する。川の合流点にそびえ立つ巨人の肩の上で待ちくたびれていたカルディナは、彼女等が戻ってくると同時に、奪い取るようにその写本を手にして、「究極のウイスキー」の項目を精読した(もっとも、実はその前に、魔境内でエステルやベアトリスが、その内容については一度確認していたのであるが)。
 そこに書かれている内容を読む限り、究極のウイスキーを作るには、いくつかの珍しい「異界の材料」が必要ではあるが、特にこれと言って「混ぜたら危険そうな材料」も、「人類社会の禁忌に触れるような手法」も記されていなかった。正直、これを読むだけでは、なぜこれが「手を出してはならない」と言われるような代物として領主家の中で言い伝えられてきたのかは分からない。
 ただ、ここで彼女達は、リリアから聞かされた「三百年前の契約魔法師が、これを飲んだ後、一切の酒が飲めなくなった」という話をカルディナに告げる。

「もしそれが本当なら、これはやはり御禁制にすべき品なのでは?」

 エステルはそう師匠に進言した。最初は黙って師匠に飲ませようかとも思っていたエステルだが、さすがにその危険性については伝えておくべきだろうと考えたようである。だが、その話については、既にカルディナも承知済みであった。

「そのことはフェルガナにも何度か聞いている。で、そのたびに、手を出すのは止められていたんだが……、そう言われると、余計に飲みたくなるよな?」

 三十過ぎて未だに不良学生のようなことを言い出す師匠に呆れつつ、本人がそれでいいと言っているなら、止める必要もない、とエステルは割り切ることにした。どちらにしても、ウイスキーの醸成には最低三年はかかる。カルディナが、持てる全ての金とコネを使って材料をすぐに集めたとしても、その時間を短縮することは、おそらく出来ない。もしかしたら、時空魔法の類を用いれば可能かもしれないが、「無理矢理時間を短縮しても、おそらく味が落ちてしまうだろう」と彼女は考えていた。それに、「待つこともまた楽しみの一つ」でもあるという考えも、彼女の中にはあった。ならば、それまでの間に、何か新しい情報が手に入るかもしれない。それが分かったら、またその時点で対処法を考えれば良かろう。
 そして、醸成場所に関しては、やはりこのエルマの地が良いであろう、とカルディナは考え、その担当者として、サカロスを指名する。

「酒の神様なんだろう? 期待してるぞ」
「あぁ、そうだな。楽しみにしておいてくれ」

 なお、この酒の製法については、ひとまずこの村の住人(とカルディナ)で独占した上で、実際に出来上がった代物を確認した上で、その製法を広めるか隠すか抹消するかを考える、という暫定的な結論で落ち着いた。

「あと、そこの番人、今度は騙されて盗まれないようにな。禁断の魔酒が出来た時に、私よりも先に飲む者がいるのは許せんからな」
「気をつけておく」

 神妙な顔つきでそう答えるリッカの横で、自分こそが一番に飲みたいと考えていたサカロスは微妙な反応を見せる。その表情からその意を察したカルディナは、ニヤリと笑う。

「まぁ、一緒に『毒味』することにしようか。とりあえず、何かあった時にどうにかしてくれそうな、腕のいい生命魔法師のツテはあるから、安心しておけ」

4.3. 数日後の悪魔

「こぉれはこれは、おっ久しぶりです。あ、通ぅ行ぉ証ぉ、どうも♪ いやぁ、もはやいーまーとなってぇはぁ、この通行証をお持ちなのもぉ、あっなった、くらいのものでっすからねぇ。で、本日はどぉぉのような御用でぇ? ……はぁ、『てぃーあーるぴーじー』でぇすかぁ……? うーむむむむ、賭ぁけ事系であ・れ・ば、地下5階なぁのですがぁ……、そんなタイトルの本、ありましたっけっねぇ……? あ、違うので・す・か。いや〜、賭〜け事以外のゲームについてぇはぁ、ちょ〜っとキャメロデオ様の管轄外でっすねぇ、残念な・が・ら。もぉぉっともぉ、大抵のゲームな・ら・ば、お金を賭〜けようと思えば賭〜けられなくはない、と、は、思うのですが、さすがに『勝ち負けのないゲーム』と、言われまっすっと、ねぇ……。あぁ、地ぃ球の文化、ということであれっばぁ、もしかしたら、地球の大衆娯楽雑誌のどぉこぉかぁにぃ、載っている可能性はあるとーはー思いまっすぅ。かぁたっ端から調べてみ・れ・ばぁ、見つかるかもしれませーんーがー、今、そこまでの『お・時・間』は……、まぁぁぁ、そうですよぉぉねぇぇ。お忙しいですよぉぉねぇぇ。それでは、こ・ん・ど、いらっしゃったとぉきぃにぃお渡し出っ来るようにぃ、ワータクシの方でぇ、調べておきまっしょう、はい。ち〜なみに、何か他に分っかりやすいキーワードなどがあ・れ・ば……、あ、ちょ〜っと待って下さいねぇ。はい、お願いします。……ほうほう、ロードス島、ダブルクロス、カオスフレア、で・す・かぁ。あ、Rhodesではなく、Lodossですね。そうい・え・ばぁ、 久遠ヶ原にちょっかいをかけてた頃 っにぃ、そぉんなようなことを言ってる部活動の人達がい・た・よ・う・な・気・も……。まぁ、何はともあっれぇ、分ぁっかりましたぁ。そーれーでーはー、しぃらべておきたいと思いまぁす。どうぞお待ち下っさぁぁい。いやー、ぜーんぜん構いませんよぉ。こっこ最近はぁ、お〜客さんもい・な・く・て、ヒーマーですしねぇ。それというのも、あ・な・た・が、パ〜ンドラさんの間で変な噂をバラまいたかっら、ですよぉ。おーかげでー、闇魔法師の人達もー、だぁぁぁれも近寄ってくれさえーしないっ。便利なポ〜〜〜タルとしてぇ、目の前を素通りされるだ・け・の・日・々です。あぁ、悲しい。あぁ、虚しい。いーくらこの書庫が魅力的だからってぇねぇ、そーこまでして独り占めしたいんで・す・かぁ? オーアナタヒドイヒト、ワタシニクビツレトイイマスカ? いや、まぁ、首吊った程度で〜は〜死なないんですけどね〜、ワタクシ、あ・く・ま、ですし。あ、でもね、この間、久っしぶりにぃお客さんがぁ来〜たんでっすっよぉ、しかも『二・組』も。こ〜んなカンジの人達だったんでっすっけっどっねぇ。いやー、ちょぉっとからかって、ケシの怪物と戦わせてみ……、え? 名前? こっちの人の? うーん、なんと言ったかな、カナンだったか、リリアだったか……、おっ知り合いで・す・かぁ? いや、まぁ、な〜んかその、お仲間を助けるたっめっのっ、医〜学書が欲しいとかなんとかぁ……。あ、なぁんかう〜れしそうな顔してますね? 悪いこととか、また思いついちゃいま・し・たぁ? いやぁ、あ〜なたは、悪いことを考えているとっきっはぁ、本当〜〜にいい顔しますか・ら・ねぇ。ちなみに、あ〜との四人は、例のあの究〜極のウイスキィィィを求めて、やぁって来たんで・す・よ〜。そう、さぁんびゃくねんぶりなんですよね、こ・れ・が。し・か・もぉ、同じエルマの村からぁ、で・す・よ。いやー、なーんというか、れっきしは繰〜り返すんですっかっねぇ。三百年前の時は……、そうそう、トォォラーオさん、とーかなんとか言いました、か。『究極のウイスキー』を実際に作り出した結果ぁ、村人の全員がぁ、そのあんんんまりの美味さぁにぃ、おーぼれてしーまってぇ、ほーかの酒がいっっっさい、飲ぉめなくなってしまってぇぇ、一時はエルマの酒産業が壊・滅・寸・前、にまで陥ってしまったぁぁんですよねぇぇぇ。あ〜の時はぁ、通りすがりのあなたのお師匠様っがぁ、か〜れらの記憶を全ー部まとめて消去するこっとっでぇ、なーんとか事無きを得たようですけれっどっもっ、果ーたして今回はどーんな大混乱が引き起こされるのっかっ、さーんねん後が今から非っっっ常ぉぉぉに、楽しみですっ。あ、もうお帰りになりまっすっかぁ? 分かりまっしったぁ。そぉれでは、数日中に探しておきますのっで、どうかその頃にまでにぃ、まぁたお立ち寄り下っさぁぁい、シ・ア・ン・さ・ま♪」

4.4. 最新動画

「こうして、何度でも立ち上がる酒幸神サカロスの闘志に勇気付けられた、フロイライン・リッカとロード・バランカの見事な連携攻撃により、悪魔のケシは見事に討ち滅ぼされたのでありました! 皆様、ご観覧、ありがとうございましたー!」

 エステルの最新動画が、村の広場で披露されている。例によって例のごとく、程良い長さで「美しい英雄譚」にまとめられており、村の人々は領主達の勇姿に感嘆の声を上げる。

「僕も、大きくなったら、混沌と戦う君主になる!」
「私は魔法師!」
「俺は神様!」

 動画見て勇気付けられた子供達がそんな声を上げる中、一部の観客は、やや訝しげな顔を浮かべていた。

「なぁ、エステル様の他に、もう一人、別の魔法師様が映ってたよな?」
「あぁ、なんか、顔の部分がはっきり見えなかったから、よく分からなかったけど……」

 実は、エステルが動画を作る段階で、ベアトリスから、カナン(リリア)の顔は映さないように、という検閲が発生していたのである。彼女の正体を知らないエステルは、当然、理由を聞いたが、ベアトリスは「事情があるのだ」としか言わなかったので、ひとまずエステルとしては、密かにカナンの顔に「ボカシ」を入れた上で、活弁においても一切彼女のことは触れなかった。

(あの娘は、確かフェルガナのところの……、まぁ、別にいいか)

 広場の片隅に設けられたオープンカフェで、カルディナはエステルが入れてくれた「ウイスキー入りコーヒー」を飲みながら、映像に映っていたカナンが持っていた「魔力の発動体」から、そのように推測していたが、彼女もまた、それ以上詮索するつもりはなかった。既に彼女の頭の中には、三年後の「来るべき日」のことで満たされていたのである。

(極上のウイスキーのつまみに相応しいのは……、カニミソではないよな、多分)

 そんな妄想を思い浮かべながら、彼女は静かに席を立ち、そして村から去って行く。今回の「表敬訪問ツアー」の最後の目的地である「ソリュート」へと向かうために。

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最終更新:2016年04月20日 09:41