第8話(BS26)「礼〜貫き通す筋〜」 1 / 2 / 3 / 4

1.1. 望郷の忠犬


 ブレトランド小大陸の海を挟んだ南東岸に位置するランフォード子爵領(上図)は、先代子爵の死後、諸勢力が乱立する混乱の最中にあった。その群雄の一角を占めるウィンザレア男爵領は、現アントリア子爵ダン・ディオードの姪イリア・マーストンが治める軍事国家であり、数年前からアントリア騎士団の俊英バット・パイシーズを指揮官とするアントリアからの派遣軍が、援軍として駐屯している。
 その遠征軍の一人に、ラピス出身のプロキオンという名の少年がいた(下図)。幼くして両親を亡くした彼は、ラピス村の近辺を拠点とする山賊団に拉致され、小間使いとして働かされていた。彼を使役していた山賊団は、邪紋を模した「刺青」を身体に彫り、自分達が邪紋使いであると主張することで人々を威嚇し、村人や旅人から略奪行為を続けていたのだが、やがて当時のラピスの領主であったラザール・ゼレンの手によって、あっさりと壊滅させられる。そして、当時まだ子供だったプロキオンは「改心の余地がある」と判断され、ラザールに養子のような形で引き取られたのである。


 なお、「プロキオン」とは元来はラピスの初代領主の名であり、この時にラザールから「新たに生まれ変わった証」として賜った名である(それ以前の名については、彼はその後、一度も名乗っていない)。プロキオンは、山賊崩れの自分がそんな高貴な名を与えられたことに恐縮しつつも、自分を救ってくれたラザールのために一生をかけて尽くそうと心に誓い、彼の勧めに従ってアントリア軍に仕官した後、このウィンザレアへの遠征軍に加わることになったのである。
 だが、そんな中、故郷であるラピスが「謎の女魔法師」と「妖刀の魔人」によって占領され、領主のラザールは彼等との戦いで命を落としたという知らせが、ウィンザレアに駐留していた彼の耳にまで届くことになった。大恩ある主君の死と故郷の危機という状況に、プロキオンは激しく動揺する。そんな中、突如、北西(ブレトランド)の方面から飛来した謎の「珠」が彼の身体の中に入り込み、彼は(偽物ではなく、本物の)「邪紋使い」の力に目覚めることになる。その謎の力によって、プロキオンはウィンザレア派遣軍の中でも有数の実力者として名を馳せることになるが、内心では、故郷の人々の安否を心配する気持ちが、日に日に強まりつつあった。
 一方、アントリア本国においては、現在コートウェルズに遠征中のダン・ディオードに代わってアントリアの政務を取り仕切る「子爵代行」のマーシャル・ジェミナイから、混乱するアントリア軍の立て直しのために、ウィンザレア派遣軍に本国への帰還命令が出ていたのだが、派遣軍の司令官であるバットは、「大工房同盟の一員として、今のウィンザレアを見捨てて帰還することは出来ない」と言って、その命令を無視して駐屯を続けている。この背景には、同世代のライバルであったマーシャルへの対抗心故の反発があるとも言われているが、いずれにせよ、プロキオンにとっては、現在の直属の上官であるバットの命令に逆って単身帰還する訳にもいかない、という状況であった。
 そんな彼は今、ウィンザレア遠征軍の宿舎の前で、憂いを帯びた表情で「海の向こうの故郷」へと想いを馳せている。そんな彼の傍には、一匹の白い雌のサルーキの姿があった。彼女の名はリン。プロキオンの上官であるバットの愛犬である。従軍当初、まだ何の力にも目覚めていなかったプロキオンは、兵士というよりも雑用係として登用され、このリンの世話を任されることも多かった。そして、既に遠征軍の主力を担う立場となった今でも、相変わらずリンからは懐かれていたため、自主的に彼女の世話を続けていたのである。
 しかも、邪紋の力に目覚めた彼は、動物と意思疎通出来る能力を身につけていた。彼の邪紋が獣人(ライカンスロープ)の力を彼に与えていたが故の副産物である。それ故に、黙って海の向こうを見つめるプロキオンの心をリンはそこはかとなく察したようで、心配そうな視線を向ける。余計な心配をかけたくないと願うプロキオンではあったが、誰にも話せない本音を抱いている彼としては、つい、リンに対して秘めたる想いをこぼしてしまう。

「実はッスねぇ、ウチの故郷がヤバいことになってるんスよ。でも、今、この持ち場を離れる訳にもいかないし……」

 小声でそう呟くプロキオンであったが、その直後、この宿舎に向かって、一人の女性が近付いているのに気付く(下図)。


 彼女の名は、セリーナ・グランデ。ウィンザレア遠征軍司令官バット・パイシーズの契約魔法師である。そして、プロキオンの恩人である先代ラピス領主ラザール・ゼレンの契約魔法師マライア・グランデの姉弟子でもあった(年齢的には、ラピスを陥落させた長姉アンザとマライアの中間にあたる)。ラザールがプロキオンをバット傘下の軍属に加わるように進めた一つの理由には、彼女の存在があったのかもしれない。

「プロキオン、ちょっといいか」
「なんでしょうか?」

 深刻な表情を浮かべるセリーナに対して、プロキオンもまた、神妙な面持ちで応じる。

「少々、厄介な事態になった。どうやら、連合の盟主国ハルーシアから、ギルフィアに強力な援軍が届いたらしい」

 ギルフィアとは、現在のランフォード中北部を支配する勢力であり、ウィンザレアとは激しい対立関係にある。そのギルフィアに対して、宿敵・幻想詩連合の盟主国からの援軍が到着したとなれば、これは確かに由々しき事態である。ちなみに、その援軍の主力は「異界からこの世界に投影された天才剣士」と「その剣士を師と仰ぐ邪紋使い(レイヤーヒロイック)達の部隊」らしい。
 現在、バット率いる遠征軍の主力は、ウィンザレアの南方に位置する旧カサドール男爵領に出現した魔境の拡大を防ぐ戦いで手一杯であり、対ギルフィア戦に関しては、ウィンザレア固有の軍隊を中心に対峙しているのだが、現状、あまり戦況は芳しくない。そこに更に強力な敵軍が加わったとなれば、極めて危機的な状況である。
 もっとも、ギルフィアの敵はウィンザレアだけではない。ストラット、ミスタリア、カットナーなど、他の様々な諸勢力とも対立しており、カサドールの魔境から発生する混沌災害への対策のための備えが必要なのは、彼等も同じである。故に、その援軍が自分達を仮想敵とした部隊であるという確証はないのだが、現在、このランフォード内において、明確に大工房同盟を名乗る勢力はウィンザレアのみである。わざわざ連合の盟主国から援軍が派遣されたとあれば、その矛先が自分達に向けられる可能性が高いと判断するのが自然であろう。

「ということで、お前に一部隊を貸し与えた上で、沿岸部の警備を任せたい」

 セリーナは時空魔法師であり、実質的にはウィンザレア派遣軍全体の軍師的役割を担っている。その彼女が、様々な可能性を考慮しながら未来予知を試みた結果、どうやらハルーシアからの援軍は海路でウィンザレアを攻める可能性が高いと判断したようである。無論、東方国境から陸路を通じて正攻法で攻め込むという可能性も考慮すべきではあるが、それに関しては、ウィンザレア男爵イリア・マーストン自身の手で防いでもらうしかない。

「ただし、相手が本気だったら、おそらく一部隊程度では防ぎきれない。だから、戦局が厳しいと思ったら、無理に戦わなくてもいいから、すぐに撤退して南方のバット様の本隊と合流しろ。お前は将来、バット様が天下を取るために絶対に必要な人材だ。だから、こんなところで犬死にはするな」

 セリーナは、契約相手であるバットに対して、絶対的な忠誠を誓っている。数年前、彼女は自分の契約相手を選ぶ際、「皇帝聖印を実現出来る可能性がある者」でなければ契約しないとあらかじめ宣言した上で、当時まだダン・ディオードの侍従の少年騎士にすぎなかったバットを選んだ。そして実際、彼女がバットと契約を交わして以降、彼は着実に戦功を重ね、今では「ダン・ディオードの後継者にふさわしいのは、マーシャルよりもバットなのではないか?」という声も挙がるほどの存在にまで成長している。
 彼女にとっては、バットこそが自分の人生の存在意義そのものであり、自分も、周囲の人間も、彼の覇道のための道具でしかない。そんな彼女の中で、プロキオンは「絶対に欠かすことの出来ない貴重な道具」と位置付けられているようである。

「わ、分かったッス! 自分、やらせて頂きます!」

 その高評価に感激したプロキオンは、素直にそう答える。ラピスのことが気掛かりな気持ちを完全に捨て去ることは出来ないが、自分をここまで高く買ってくれた以上、今はその任務に専念しようと決意する。相変わらず、心配そうな表情を浮かべるリンを横目に、プロキオンは出陣の準備を整えることになった。

1.2. 最後の持ち主

 一方、その頃、ラピスを救うべく旅を続けてきたルーク達は、まだパルテノにいた。これまで、マライアの中の「シリウスの感覚」を頼りに旅を続けてきた彼等であったが、ここに来て、マライアが「最後の一人」のいる方向をなかなか特定出来ない、という状況に陥っていたのである。幸い、この地の領主であるエルネストは彼等のラピス奪還作戦に対して全面的に協力する姿勢を示していたため、今は国賓級の扱いを受けながら、彼等は何不自由なくこの地に滞在していた。
 そんな中、キヨの元を「杏仁豆腐の投影体」であるアニーが、再び訪れた。

「コナイダノ話だけど、ヤパリ、あなたに会わせたいヒトいる。来てクレル?」

 そう言われたキヨは、やや警戒しながらも、彼女に誘われるままに、街外れの古い民家へと足を運ぶ。その一室で彼女を待っていたのは、キヨに極めてよく似た風貌の一人の女性であった。


 常識的に考えれば、キヨにとっての「異世界」であるこの地において、自分とそっくりな顔を持つ人間と遭遇するというのは、極めて奇異な状況に思えるだろう。だが、キヨはこの状況を素直に受け入れていた。アニーと最初に会った時に彼女が発していた「サオリ」という名前から、既にキヨの中では、こうなることはある程度予想がついていたのである。
 そして、それは相手の女性も同じであった。彼女はキヨを見た瞬間、一瞬だけ目を見開いて驚いた表情を浮かべたものの、すぐに平静を取り戻す。

「アニーから聞いた時は、まさかと思ったが、どうやら本当だったようだな」

 彼女の名は、高嶺沙織。地球にいた頃のキヨにとっての「最後の持ち主」である。彼女の着ている水兵の軍服のような装束は、彼女が生きていた時代における「女学生」の制服である。おそらく、今キヨの目の前にいる彼女は、「地球における10代後半の時点での高嶺沙織」が、この世界に投影された姿なのであろう。
 地球にいる彼女の「本体」は、その歳にして名門剣術「柳生新陰流」の免許皆伝となった天才少女剣士であった。ただ、キヨは彼女の存在そのものは明確に覚えているものの、自分と彼女が最終的にどのような顛末を辿った上で、自分が「廃棄」されてヴェリア界に流れ着くに至ったのかまでは、覚えていない。おそらくそれは、道具としての彼女が、その「過去」を無意識のうちに忘れることを選んだのであろう。そして、少なくとも今目の前にいる彼女は、少なくとも「キヨを失う前」の時点での彼女のようである。
 彼女の腰には、日本刀が差されている。だが、それはキヨではない。素人目には分からない程度には似たような形状であるが、明らかに別の刀である。おそらく、何らかの形で彼女が手に入れるに至った投影装備なのだろうが、キヨがそのことを詮索する以前に、互いに確認しなければならないことがあった。

「私が聞いた話によれば、ヴェリア界のオルガノンがこの世界に投影される時、その『人』としての姿が、かつて自分を手にしていた持ち主に似た形態になる場合も多いらしい」

 沙織は冷静にこの状況を受け入れながら、そう語る。どうやら彼女は、今、自分の目の間にいるキヨが「自分がかつて有していた刀のオルガノン」であることまでは、察しがついているようである。
 ちなみに、オルガノンの外見に関してはまだアトラタン世界の中でも定説はなく、本来の持ち主とは似ても似つかぬ姿になる場合も多い。少なくともアニーに関しては、彼女を作った料理人にも、販売していた人々にも、食べた人々にも似ていないとアニーは言っている(もっとも、彼女の記憶がどこまで正確なのかも不明であるが)。

「お前の場合は、私の前にも色々な持ち主がいた筈だ。その中には、歴史に名を刻むような大物もいたと聞いているのだが、その中であえて私の姿が選ばれたことについては、素直に誇りに思っておこう」

 実際のところ、キヨ自身も、なぜ自分が沙織の姿をしているのかはよく分からない。自分の中での「封印された沙織との記憶」の中に、よほど衝撃的な出来事があったのかもしれないが、今となってはそれを思い出すことも出来ないし、思い出しても仕方がない。なお、キヨが着ている装束に関しては、沙織とは全く関係ない。それは、まさに沙織が言うところの「歴史に名を刻むような大物」の出で立ちが反映された結果なのだが、そのことはまだ今のこの時点ではあまり重要な問題ではなかった。
 そして、沙織はキヨに対して、おもむろに「本題」を切り出す。

「今の私の立場については、聞いているか?」
「聞いていないです」

 キヨは短くそう答える。だが、アニーの紹介によってこの場に呼ばれたことから、ある程度の察しはついていた。そして、沙織はそのキヨの予想通りの答えを自ら暴露する。

「今の私は『パンドラ楽園派』の一員だ。この世界に来て以来、様々な土地を渡り歩き、様々な人達と出会った。その上で私は、投影体がこの世界で生きていくためには、投影体自身の国を作る必要がある、と感じたのだ」

 彼女がどのような経緯でその結論に至ったのかは分からないし、その点に関しては(少なくとも今は)キヨも深く追求する気はなかった。
 ただし、実際には「楽園派」の中にも様々な考えが並存している。その中には、この世界の本来の住人達(人間)達から武力で土地を奪い取ろうとする者達もいるが、沙織はそれには反対する立場であり、あくまでも「未開の地」を開拓する方向に楽園派を導こうと考えているらしい。
 そんな彼女達「楽園派」のもとに、ある日、「アンザ」と名乗る女魔法師がやってきたという。彼女は本来は(エーラム打倒を最優先する)「パンドラ革命派」の一員だったのだが、彼女は楽園派の面々に対して、ラピスの村を攻め滅ぼして、その地に「投影体の国」を作ることを提案したらしい。当然、沙織はそのような暴力的な方針には反対であったが、楽園派内で武闘派路線を掲げる者達ですらも、アントリアの首都スウォンジフォートに近すぎるラピスを拠点とするのは現実的ではないという意見が大半を占め、結局、彼女の提案は受け入れられなかった。
 その後、アンザはパンドラそのものを離脱した上で独自行動を開始し、そしてラピスを武力制圧するに至ったらしい。そんな彼女に対して、パンドラ内でも彼女と比較的親しかった者達の中には、彼女に個人的に協力している者もいるという。先日、ルーク達を妨害しようとした「白い塔の男」も、その一人である。

「正直、なぜ彼女がそこまでラピスにこだわったのかは、私には分からない。だが、おそらく、あの土地の混沌を生み出す独特の性質が関係しているのだろう」

 ラピスには、あの地にしか出現しない「透明妖精」と呼ばれる謎の投影体を生み出す不思議な力が存在している。そしてアンザは、その透明妖精達を従えた上でラピスを陥落させた。当初、アンザにとって透明妖精は、ラピスを乗っ取るための「武力手段」にすぎないと思われていたのだが、もしかしたら、透明妖精の存在そのものが、彼女の最終目的に関係しているのかもしれない、というのが沙織の見解である。実際、アンザは現在、ラピスを占領したものの、そこから勢力を拡大しようとはせず、村人達に強制労働を強いる形で、何か特別な実験のようなことを続けているようなのだが、その目的については誰も知らされていない以上、そこに隠されている特別な思惑の背景に、その透明妖精の存在そのものが関わっている可能性は十分にあり得る。

「そして、あの『白い塔の男』が、なぜ彼女にそこまで深く共感したのかも分からないのだが、もう一人の協力者である『妖刀の魔人』もまた、オルガノンだ。もしかしたら、彼女の計画には、オルガノン達を惹きつけるような陰謀が組み込まれているのかもしれない」

 沙織にそう言われて、キヨは「白い塔の男」に「自分達のやろうとしていることが理解出来ることしたら、そこの日本刀くらいだ」と言われたことを思い出す。そして、似たようなことはケイの街でも「ルークの武具のオルガノン」に言われたことがあった(もっとも、彼等はアンザとは全く無関係の思惑で行動していたようだが)。
 ちなみに、沙織曰く、「妖刀の魔人」こと肥前忠広のオルガノンは、パンドラの中で最もラディカルな「新世界派」の首領ジャック・ボンキップによって召喚された投影体らしい。
 「新世界派」とは、この世界を再び混沌で覆い尽くした上で、「その混沌の中で生きられる新人類による新世界」を作ろうと考えている人々である。彼等は、混沌と聖印が混在することによって生み出された現在の身分制度を根底から覆そうと考える者達であり、ブレトランド・パンドラの中では「最も純粋な意味でのパンドラ」であると言われている。更に言ってしまえば、厳密な意味でパンドラと呼べるのは彼等だけであり、他のブレトランド三派(均衡派・革命派・楽園派)は「本来のパンドラ(新世界派)」と部分的に利害が一致しているだけの「パンドラの同盟勢力」にすぎないと解釈する者もいる。
 その首領であるジャックは、ブレトランドの闇魔法師の中でも随一の実力者だと言われているが、あの肥前忠広のオルガノンは、そのジャックを中心とする闇魔法師達によって研究されていた新技術によって生み出された代物であり、通常の投影体とは異なる構造になっているらしい。

「あの妖刀の正体は『邪紋の連結体』だ」

 沙織は端的な言葉でそう説明した。もともと、元来は一部の人間が混沌を取り込むことによってのみ発生する「邪紋」を、その人間から切り離した上で他の邪紋と融合させ、最終的には「邪紋それ自体だけで存在しうる生き物」を作ろうとする計画が、パンドラの中にあったらしい。その場合、実質的にいくつもの混沌核が複雑に連結しているため、自然蒸散することはなく、聖印の力で浄化しようとしても、一部の邪紋の混沌核が浄化されようとすると他の邪紋が妨害するため、非常に困難である。
 そのような複合型の混沌核を組み合わせることによって生み出されたのが、あの肥前忠広の投影体の混沌核であり、それは言わば「人の形をした複合魔境」のような存在であるという。だが、それはあまりにも強力すぎて、ジャックの手を以ってしても制御出来なかったため、生み出された直後の段階から、新世界派の秘密研究所の中で封印されていた。その封印が密かにアンザの手によって解かれた後、彼は彼女に協力することになったらしい。
 今の話を聞く限り、通常の聖印では彼を浄化することは出来なさそうである。ただ、シリウスは「あの妖刀の魔人を浄化出来るのはラピスの領主の聖印だけだ」と言っていた。おそらく、それを可能にする何らかの秘密がルークの聖印にはあるのだろうが、さすがに今のキヨには、そこまでは分からない。
 そして、その魔人と共にラピスを支配するアンザもまた、投影体なのではないかというのが沙織の見解である。一般的に、この世界に現れる「異界の存在」はあくまで「投影体」であり、本体は、今でも別の世界にいる者達ばかりである。その原則に則って考えれば、「一度、異界の扉の向こう側へと消え去った」と言われているアンザもまた、既に「異世界の住人」となった上で、その「異世界の住人となったアンザ」の投影体が逆輸入されるような形でこの世界に現れている、と考えるのが自然のように思える。
 ちなみに、妖刀の魔人は、彼女のことを「サクラ」と呼んでいたらしい。ただ、奴の持ち主であった坂本龍馬にも岡田以蔵にも、「サクラ」という名の知人がいたという話は、沙織もキヨも聞いたことがない。だが、明らかにその響きが「彼女達の文化圏」の人物の名前であるように思えることを考えると、もしかしたら、あの「アンザと名乗る魔法師」が、実は「アンザの名を騙っているだけの全くの別人」である可能性も十分に考えられるだろう。

「久しぶりに会えて、色々とお話したいことはあるのですが、とりあえず、教えてくれてありがとうございます」

 一通りの話を聞いた上で、キヨはそう言って深々と頭を下げる。それに対して沙織は、複雑な表情を浮かべながら、こう付言した。

「私は、情報を提供することしか出来ない。私はアンザのやり方は気に入らないが、それでも、一度は同じ旗の下で戦った元同志と争うことは出来ない。私が協力することが出来るのは、ここまでだ。あとはお前達自身に任せるしかない。ただ……、あの肥前忠広のオルガノンには、並の実力では勝てんぞ」

 そのことについては、キヨも薄々分かっているからこそ、彼女は静かに頷く。ラピスの近くで感じ取った彼の強大な混沌の力は、当時のキヨの内なる混沌を遥かに凌駕するレベルであったし、おそらく今のキヨでも、勝てる保証はないだろう。それに加えて、アンザや透明妖精もいる以上、彼女達が全員で力を合わせても、勝てるかどうかは分からない。

「それが分かった上で、それでもラピス解放を目指す者達に力を貸す理由はなんだ?」

 そう言われたキヨは、やや間を空けて言葉を選びつつ、決意に満ちた瞳で答える。

「ルークさんやマライアさんのことは、最初はよく分からなかったけど、これまで一緒に旅をする中で、この人達なら信用出来ると思えるようになりました。そして、あの人達と一緒に困っている人達を助ける中で、私も強くなりました。だからこそ、今は、彼等と一緒にラピスの解放に尽力したいです。この力を、彼等と、彼等が救いたい人達のために使いたい。それが、今の私の気持ちです」

 そう言われた沙織は、残念そうな顔を浮かべる。

「私とは、再会する順番が悪かったのだろうな。お前がそこまで言うのなら、きっと今のお前の仲間達は、本当に信頼出来る者達なのだろう。だが、私もこの世界に来て各地を転々とする過程で、共に戦うべき仲間を見つけてしまった。そして、私の仲間達とお前の仲間達は、これから先、どこかで衝突することになる可能性も十分にありうる。つまり、私自身もお前と刃を交えることになる可能性もあるということだ。残念だが、それがお前の選んだ道なら、仕方がない」

 そこまで語った上で、沙織はアニーに何かを小声で伝えた上で、この場から去ろうとする。彼女は「パンドラの一員」であるという時点で、一般社会においては「お尋ね者」なので、あまり長く一つの場所に居続ける訳にもいかないらしい。

「今のこの戦いが終わったら、その時はまた……」

 キヨが何か言おうとするが、それが言葉としてまとまる前に、沙織が再び口を開く。

「気が向いたら、アニーか誰かを通じて、またいつでも訪ねてくれればいい。私はまたいつかお前と共に戦える日がくることを願っている。同じ旗の下でな」

 今は、そこまでしか言えない。本当は、この異世界の地で再会した「かけがえのない戦友」と、もっと多くを語りたい気持ちが沙織の中にはあったが、これ以上の会話は、今の自分の仲間達に関する情報を過度に提供してしまうことに繋がりかねない。そのジレンマに苛まれながら、彼女は静かにその民家を立ち去る。そしてキヨもまた、複雑な思いを胸に抱きながら、静かにそんな彼女を見送ることしか出来なかった。

1.3. 魔法師達の見解

「ローガン卿からの手紙です。エーラムからの報告と、ローガン卿自身の見解が書かれているそうです」

 そう言って、パルテノに滞在を続けるレピアに手紙を届けたのは、赤色にカスタマイズされたエーラムの制服を着込んだアントリア子爵預かりの魔法師、ラーテン・ストラトスである。マージャの音楽祭でルーク達とも顔を合わせていたが、レピアとはそれ以前から、アントリアの首都スウォンジフォートにて「ローガンの下働き」として働く仕事仲間であった。
 その手紙の中に書かれている内容は、ラピスの混沌災害の原因に関する調査報告である。もともと、エーラムの魔法師協会も、この国の宰相であるローガンも、今回の件に関しては深く憂慮しており、それぞれに残された文献などから、独自に調査を続けていたようである。

「ありがとう。本来なら、こういうことはマライアあたりがやるべきことなんだろうけど、この国で一番、こういう情報を集められるのは『兄さん』だろうからね」

 レピアはそう言いながら手紙を受け取る。厳密に言えば、エーラムを放校になったレピアにとって、ローガンは「元義兄」と呼ぶべき存在なのだが、彼は今でも彼のことを「兄さん」と呼び、そしてアントリア国内においては「レピア・セコイア」と名乗っている。あくまでもセコイア姓にこだわるのは、自分が今でも「ガブリエラの義弟」であるというアイデンティティを捨てたくないからであろう。
 ちなみに、彼は自分が「ラピスの犬神の力を引き継ぐことになったこと」と「ラピスを解放しようとするルーク・ゼレンの一行に協力していること」についてはローガンに手紙で報告しているが、ガブリエラの件については、一切報告していない。時空魔法師であるローガンには既に知られている可能性もあるが、少なくとも、こちらから積極的に伝えない方が、彼女の身の安全のためにも得策だろうと考えたようである。
 一方、そんな複雑な事情など知る由もないラーテンは、ひとまず手紙を届けるという任務を終えた上で、レピアに対して個人的な願望を付言する。

「出来れば、ルークさんに、俺のこともそれとなく売り込んでおいてもらえると助かります」

 そろそろ、正式な契約相手を探さなければならないと考えていた彼としては、この機にルークの契約魔法師となる道を真剣に考え始めているようである。

「そういうことなら、何がウリなのかをはっきりさせておかないとね」
「ウリですか……、一応、最近は膵臓くらいまでなら簡単に握り潰せるようになったんですが」

 静動魔法師である彼は、どんな強固な鎧に身を固めた敵が相手でも、その臓器を内側から握り潰すことが出来る。それが彼の得意技なのだが、それ自体はさほど珍しい能力ではないし、ルークにとっても、特別必要な能力とは言えなかった。

「一応、マライアのところに伝えておくか」

 スウォンジフォートへと帰還するラーテンを見送ったレピアは、そう呟きながら彼女の客室へと向かう。このパルテノの地においてすら(目下の宿敵である)透明妖精が出現した今の状況において、少しでも味方の戦力を高めておくために、彼女は今、ルークやエルバ達の武具を魔力によって強化する作業に従事していた。
 これは本来、練成魔法の系譜に属する魔法であり、生命魔法師のマライアにとっては専門外なのだが、この旅を通じて自身の魔力を高めた彼女は、旅の過程で少しずつ時間を見つけては、密かに生命魔法以外の魔法についても独学で勉強を続けていたのである。相変わらず、他人を直接傷つける魔法については全く興味を示さなかった彼女であるが、このような形で、味方の戦闘力を強化する魔法ならば、彼女の中では特に抵抗はないらしい。

「お疲れ様、マライア。次は、僕の武器もお願いしていいかな?」

 そう言ってレピアは自らの懐にある戦闘用ナイフをマライアの前に提示しつつ、同時に先刻ラーテンから受け取ったばかりの手紙を彼女に見せる。

「僕の『兄さん』からの手紙だ。少しは君の役に立つかもしれないよ」

 そう言われたマライアは、ひとまず作業を止めた上で、その手紙を開く。その手紙の概要は、以下の通りであった。
 ローガン曰く、ラピスの歴史について、アントリアに残る資料とエーラムの資料を調べてみた結果、どうやらあの地に出現する透明妖精達は、「妖精界(ティル・ナ・ノーグ界)で、恨みを残した死んだ者達の魂」の投影体らしい。つまりは(この世界ではあまり一般的な言葉ではないが)彼等は「怨霊」のような存在であり、「本来は実体が無い者」に無理矢理実体を持たせた投影体であるが故に、その実体が不安定で、その姿を消すことも出来るのだと言う(ただし、透明化している間は、その力は半減されるらしい)。そして、激しい怨念に取り憑かれた存在であるからこそ、いずれも人間社会との間で共存することが難しいため、君主や魔法師達としては討伐せざるを得ないものの、その存在位置を把握すること自体が難しい、そんな厄介な投影体であった。
 なお、稀に「妖精以外の投影体」が同じように「半実体状態」で出現することもあるが、おそらくそれは、何らかの理由で妖精界に転移(あるいは投影)された上で、妖精界で命を落とした者達なのではないか、というのが現時点での有力な仮説である。妖精界が他の世界とどの程度繋がっているのかは不明であるが、たとえばエルフ界とは密接な関係にあるという学説もあり、この世界に異世界からの投影体が出現するのと同じような原理で、妖精界に異界の存在が紛れ込むことも十分にありうるだろうと、ローガン自身も考えているらしい。
 そして、彼等は本体そのものが「命無き者」なので、生命体の存在を感知するような類の魔法では、その存在を検出出来ない。混沌の存在を探る魔法を使えば、彼等が存在していることまでは分かるが、犬並みの嗅覚を持つシリウスおよびその後継者達とは異なり、その気配や匂いだけで相手を攻撃出来るほど、正確に相手の位置や動向を読み取れる訳ではない。
 つまりは、現状において彼等に対抗出来るのは、やはりシリウスの後継者達しかいない、ということである。もう一つの方法として、相手の正確な位置を確認しないまま、広範囲魔法で村ごと焼き尽くすという選択肢もあるが、今のところ、子爵代行であるマーシャルがその「最終手段」に踏み切る決断を保留しているため、ローガンとしても打つ手がないというのが現状らしい。

「ところで、『最後の一人』がいる方角は、そろそろ感じ取れた?」

 レピアにそう問われると、マライアは困ったような表情を浮かべながら答える。

「そのことなんだけど……、どうやら、最後の一人は『海の向こう側』にいるっぽいのよ」

 武具強化の魔法をかけ続ける作業の傍で、自身の中の「シリウスの感覚」を高めながら、必死でその存在位置を探っていたマライアは、ようやく微かな「気配」を感じ取ることが出来たものの、どうやらそれはブレトランドの南東方面のアトラタン大陸の内部にあるらしい。
 そう言われたレピアは、マライア以上に困った表情を浮かべながら問いかける。

「『最後の一人』って、どうしても必要なのかな?」

 レピアとしては、一刻も早くこの任務を終わらせて、マージャのガブリエラの元に帰りたいと考えている。今から最後の一人を探すために大陸に渡るとなると、更にその帰還が遅くなる可能性が高い以上、出来れば避けたい。

「シリウスの言い方から察するに、八人揃わないとラピスの奪還は難しいと思う。もっとも、八人揃ったところで、勝てる保証はないのだけど……」

 マライアとしても、今はそう答えるしかない。そして、レピアとしてもそう言われた以上は、ひとまずその「八人目」の捜索に協力するしかない。

(さて、どうやって探せば良いのやら……)

 アトラタン大陸の広さは、ブレトランドの比ではない。マライアの感知した方角には、ランフォード、ヴァンベルグ、バルレアなどといった国々が存在しているが、レピアはその方面には全くツテがないし、まずそもそも、そこまで行くまでの海路を確保する必要がある。大工房同盟諸国であれば問題はないが、連合諸国に赴くとなると、アントリアからの直行便では難しい。

(これはまた、兄さんに頼まざるを得ないのかな)

 レピアとしては、あまりローガンに頼りすぎるのは好ましくないと思っていたのだが、かと言って、現実問題として裏から手を回して協力してくれそうな人物となると、彼が最も適任であることが明白であるというこの現状が、どうにも悩ましく思えていた。

1.4. 敗軍の将

 同時刻、パルテノの下町では、ティリィが密かに「闇市」へと赴いていた。彼女が手に入れようとしていたのは「毒」である。これから先の戦いで、より確実に敵を倒すための力を得るために、彼女は「毒使い」としての能力を習得しつつあった。一度は、孤児院の院長となって戦いから身を引くことを考えていた彼女であったが、前回の「白い塔の男」との戦いで不覚を取ってしまったこともあり、もはや仲間を守るためには手段を選んではいられない、という心境になっていたようである。
 そんな彼女が、一通りの毒物を仕入れて宿舎へと戻ろうとしていたところで、彼女の視界に、見覚えのある者達の姿が飛び込んでくる。それは、彼女が所属する白狼騎士団の本隊であった。かなり疲弊した様子の彼等であったが、団員達の方もティリィの姿を確認したようで、一部の者達が彼女を見ながら横の同胞に問いかける。

「おい、あれ、例の『死神』じゃないか?」

 その露骨に悪意の籠った言い方に不快感を感じつつ、ティリィがその発言を聞き流しながら視線をそらすと、その舞台を率いる人物と目が合った。白狼騎士団の団長、ヴィクトールである。

「お前、確か、レインのところの……」

 どうやら「死神」としての彼女は、団長であるヴィクトールにすら名前を覚えられるほどの有名人だったらしい。この場で正体を隠しても意味がないと思ったティリィは、素直に答える。

「はい、マージャ軍楽隊のティリィです」
「随分、雰囲気が変わったな」
「マージャに行ってから、邪紋の力に目覚めましたので」

 そのことについても、特に隠す必要はない。よりによって「死神」の力を得てしまったことに、当初は複雑な思いを抱いていたが、今は胸を張ってその力を誇れるようになっていた。

「そうだったのか。俺達は今、ラピスから帰ってきたところだ」
「……ラピスから?」

 まさにこれから自分達が向かおうとしていた村の名前を告げられて、ティリィは困惑する。今の自分の力がラピスの犬神の力に由来するものだという話はレインには告げているが、その話がこの時点で団長にまで伝わっているとは考え難い。
 ヴィクトール曰く、どうやら彼等は、アントリア首脳陣の主導で密かに進められていたラピス奪還作戦に参加していたらしい。と言っても、姿が見えない透明妖精相手に正攻法で戦うのは無理なので、ひとまず白狼騎士団が「囮」となって透明妖精達を引きつけている間に、大陸最強とも言われる傭兵団「暁の牙」が領主の館に突入して、魔法師と妖刀を討ち取る、という作戦だったらしいが、失敗に終わったという。

「大陸でも十指に数えられる武勇の持ち主と言われるヴォルミスでさえ、あの『妖刀の魔人』には全く歯が立たなかったそうだ。これまで全く見たことがない変幻自在の剣術で、その剣先が全く読めなかったと言っていた。その戦いの途中で、奴の部下の……、名前は忘れたが、『大柄な地球人の男』が割って入ったことで、どうにかその場からは離脱したらしいが、あのまま戦っていたら、おそらく命を落としていたであろう、と奴自身が認めるほどの強者だったらしい」

 ヴィクトールはティリィに対してそう語る。ちなみに、その「大柄な地球人の男」とは、ティスホーンの武術大会でルークと対戦する予定だったあの豪傑のことなのだが、そのことはあまり重要な問題ではない。

「一応、ヴォルミスは『あと3回くらい戦えば、奴の剣筋を読みきって勝機が見えるかもしれない』とも言ってたが、あの依頼金でそこまでやるのは割が合わないからやりたくないと言って、奴等はこの件からは手を引いてしまった」

 実際のところ、どれだけの依頼金が支払われていたのかは分からないが、状況が状況だけに、相当な金額であった可能性が高い。それでも全力を尽くすことを渋るということは、その結果として勝利を得るために、相当な犠牲が支払われることを覚悟しなければならない、ということなのだろう。また、単純な金額だけの話ではなく、暁の牙の傭兵団としての「格」を落とさないためにも、敗戦のまま終わるのは避けたいと考えていたのだろうが、それでも作戦の続行を放棄せざるを得ないと判断したことからも、相当に難しい任務であることは想像出来る。

「こうなった以上、我々だけでラピス奪還を実現するのは不可能だと判断せざるを得なくなったので、ひとまず撤退した上で、一応、こちらの領主殿がそのラピス奪還の鍵を握る人物を招いているという噂を聞いて、こうして赴いた訳だが……、なぜお前がここにいる? もしかして、お前もそれに関係しているのか?」
「おそらくそれは、ラピスの先代領主の息子ルーク・ゼレンと、その仲間達のことだと思います。私も、その一人です。団長も、一度会って話をしてみるべきかと」

 ティリィがそう答えると、ヴィクトールはニヤリと笑う。どうやら、自身の直感が正しかったことを確信したらしい。

「あぁ、やはりそうか。いや、実はな、そのルーク殿とは、一度会ってはいるのだ。ティスホーンで、危機を救ってもらったことがある」
「そうだったのですか?」

 この件については、これまで誰もティリィには話していなかった。正直、彼女に出会うまでの間の旅の過程には色々な出来事がありすぎて、あの武術大会の時の一件が、その中であえて話さなければならないほど重要な話であるとは、誰も思っていなかったようである。

「あぁ、あの頃は、そんな者達だとは知らなかったからな。言ってくれれば、もっと早く協力したのだが」

 ヴィクトールはそう呟きつつ、ティリィの案内に従って、ルーク達の元へと向かうことになった。現在のアントリアにおいては「客将」的立場の彼ではあるが、さすがに、このままラピスを放置しておく訳にはいかないという思いもあり、ティスホーンでの借りを返すためにも、出来れば何らかの形で彼等に協力したい、という気持ちを強く抱いていた。

1.5. 犬神の伝承

 その頃、他の者達とは異なり、もともとこのパルテノに住んでいたフィアは、いつ出立しても良いように準備を整えつつも、なかなか次の目的地が決まらない状況を、やや手持ち無沙汰に感じつつあった。
 そんなフィアの部屋を、一人の少女が訪ねた。この街の領主エルネストの長女、マリベル姫である。

「ねぇ、フィア、このあいだルークさん達の話を聞かせてもらってから、思い出したんだけど、私、昔、お婆様に『ラピスの犬神様』について聞いたことがあるの」

 彼女はおもむろにフィアに対してそう語り始めた。マリベルにとっての「お婆様」とは、ルークの祖父の妹であり、ラピス村の領主の家系の人物である。「犬神様」とは、シリウスのことであろう。既にルークに協力する意思を固めたフィアとしても、その話に興味が湧かない筈がないので、ひとまず黙って彼女の話に耳を傾ける。

「お婆様が言うには、ラピスの犬神様は、ラピスの領主にとっての『従属君主』のような存在らしいの」

 彼女の説明によれば、犬神様(シリウス)の力は、初代のラピスの君主から受け取ったものらしい。そして、犬神様は投影体だが、その力の源は「邪紋」であり、その邪紋はラピスの君主との深い精神的な繋がりによって成り立っているという。
 だが、君主が自らの聖印を切り分けて部下に与えることで「従属君主」を作るのはこの世界では一般的だが、「従属邪紋使い」などという概念は、聞いたことがない。

「あなたの邪紋は、犬神様の邪紋の一部なのよね? それは、ルークさんから受け取った、という訳ではないの?」

 突然そう問われたフィアであったが、彼女はそもそも「犬神様」を見たことがないし、まだそこまで詳しい事情も聞かされていない。ただ、少なくともルークに出会う以前の段階で彼女は邪紋の力に目覚めていた訳だから、「ルークから受け取った」とは言えないだろう。

「うーん、フィア、よく分からないな……」

 彼女はそう呟きつつ困惑する。ただ、「よく分からないこと」は、彼女の中では「好奇心」の対象でもある。この「よく分からない事態」に対して、無意識のうちにどこかワクワクする心が、彼女の中で芽生え始めていたのかもしれない。
 そんな彼女の心境を察してかどうかは分からないが、マリベルは最後にこう告げた。

「お祖母様からは、このことはラピスの一族以外には知らせちゃいけないことだと言われてたんだけど、今回は非常事態みたいだし、もしかしたら、何かの役に立つかもしれないと思ったから、あなたには教えておくことにしたの」

 そう言われたフィアとしては、どこまでこの話を伝えても良いものかどうかは分からなかったが、ひとまず、自分の心の中にとどめおくことにした。いずれ、この情報が何かの役に立つ時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。もし、その時が訪れた時にどう判断するかは、その時の自分に任せればいい、そう考えるフィアであった。

1.6. 支援物資

 このように、期せずして各自がラピスの事件に関する情報を断片的に収集していた頃、アストリッド商会経由で、オーキッドからラスティに、カナハからフリックに、そしてケイからロディに、「贈り物」が届いていた。その中身は、いずれもエーラム御用達の高級魔法薬である。
 現在、ルークは「土地も領民も持たない君主」であるため、エーラムから正規の国家支援は受けていない。そんな彼等の少しでも役に立とうという、それぞれの君主からの支援策であった。彼等はいずれもヴァレフールの騎士であるため、立場上、アントリアの領土であるラピスに対して、迂闊に介入することが出来ない以上、せめてこのような形での間接的な支援だけでも果たしたい、とそれぞれに考えていたようである。ラスティもフリックもロディも、一時的にアストリッド商会の護衛の任に就いていたこともあり、現在の居場所は特定しやすかったようである。

「なんとしても、ルーク様をお護りして、無事に帰ってきて下さい」

 カナハの領主ユイリィからは、フリックに対してそんな手紙が添えられていた。その言葉を受けて改めて強い決意を抱くフリックの傍で、ロディは同じように添えられていた手紙の内容に、頭を抱えていた。

「もし、お前が帰ってくるのであれば、ハンスの席は開けておくぞ」

 それが、ケイの領主ガスコインの書き添えである。ロディとしては、正直言って、今更そんなことを言われること自体が面倒臭いし、たまたま邪紋の力で強くなっただけの自分に「弓術師範」が務まるとも思えない。ガスコインの本音としては、純粋に「戦力」としてのロディが欲しいだけなのかもしれないが、いずれにせよ、今更ハンスのいなくなったケイに帰りたいという気持ちは、ロディの中にはなかった。
 とりあえず、ロディとしては、どう言ってこの依頼を断るか(その上で、自分の身の振り方をどうするか)については後で考えることにした上で、ひとまず、隣にいたフリックに、一つ(この支援物資とは全く無関係な)「気になっていた話」を尋ねてみる。

「ねぇねぇ、最近、フリックさんの邪紋に、何か変化は起きてない?」

 実はロディは昨晩、自分の邪紋から奇妙な気配を感じていた。そして、自分がその邪紋に乗っ取られそうになる夢を見たのである。目覚めた時には左目が妙に疼く感覚を覚えていたこともあり、それが自分の邪紋が原因であることは明白だったため、この嫌な予感の正体を確かめようと思って、そう訪ねてみたロディであったが、フリックの回答は短かった。

「いや、特に何も」

 少なくともフリックは、ここまで何らそういった違和感を感じていない。ただ、実はこれは、フリックが不死(アンデッド)の邪紋使いであり、痛みや疼きを感じる感覚そのものが麻痺しているが故に気付かなかっただけで、実はフリックの邪紋にも、微妙な変化が生じていた。だが、その事実を彼が知ることになるのは、もう少し先の話である。

「そっかぁ。いや、夜中に、何か変な急に変な力に目覚めたような気がして……」
「そういうことなら、一応、確認しておいた方がいいかもしれないな」

 フリックとしても、誰もが皆、自分のような特殊な体質である訳ではないことは理解していた。ましてや、ロディはまだ13歳の子供である。そんな幼い身で邪紋を刻んでいる以上、成長に伴って何らかの不具合が発生している可能性もあると考えれば、「検診」の必要性を考慮するのも、大人として当然の反応であろう。もっとも、その診断が出来る者がいるとしたら、マライアくらいしか心当たりはない訳だが。
 一方、その贈り物が館に届いた時点で、兵士達の訓練場で鍛錬に励んでいたラスティは、彼等と同じように実家からの支援物資を受け取り、父からの「ルークを支えてやれ」という手紙に深く感じ入りつつも、その使い方と管理法に迷っていた。
 エーラム製の魔法薬は、普通の市場には出回っていない。裏で取引すれば、一本売るだけで当分は遊んで暮らせるだけの大金が手に入るだろう。そんな魔法薬が何本も届けられたことに困惑したラスティは、ひとまず、隣で剣の稽古をしているエルバに問いかける。

「なぁ、エルバ、俺の実家から、これが届いたんだけどさ」

 突然そう言われたエルバは、一瞬戸惑いながらも、すぐに「ここで自分の果たすべき役割」を理解する。

「……あんたに持たせてたら、ろくでもないことになりそうだからな。とりあえず、私が預かっておくよ」

 そう言って、彼女はラスティに魔法薬を渡すように、左手の掌を広げる(そこには「信」の邪紋が描かれている)。

「そうだな。その方がいいと俺も思う」

 ラスティはそう言って、素直に魔法薬をエルバに預けることにした。さすがに、過去に賭け事で大借金を生み出した前科がある身としては、また借金のカタとして誰かに奪われることになる前に、信頼出来る仲間に渡しておいた方が無難だろう。この辺り、ラスティは短慮なように見えて、冷静に「自分」を省みることが出来る程度の知性の持ち主ではあった。
 ちなみに、この時、エルバは自身の持つ二本の武器のうち、日本刀(大和守安定)の訓練に特化して訓練を重ねていた。というのも、彼女はここに至るまでの間に、何度かキヨから、キヨと自分の日本刀の持ち主である「沖田総司」という名の天才剣士の話を聞かされ、彼の剣術の妙技を会得したいと考えていたのである。
 つまり、この時点で彼女は、俗に言う「レイヤー(模倣者)」としての道を歩み始めていた。ラスティが「異界の竜の力」に憧れた「竜のレイヤー」であるのに対し、彼女やティリィのような「異界の超越的な存在」に憧れる者達の場合は「英雄のレイヤー」と呼ばれる。もっとも、二刀流剣士である彼女が、刀を両手で扱うことを前提とした沖田総司の剣技(天然理心流)をそのまま使える訳ではないので、彼女が独自解釈した形での「エルバ流の沖田総司像」にならざるを得ないのであるが、それでも、異界の英雄を心に思い描きながら特訓を続けることで、少しずつ、だが確実に、自分の剣技が上達していることを実感している彼女であった。

1.7. 海を越えて

 こうして、それぞれに出立に向けての情報や物品を入手した彼等は、この日の夕刻、ひとまず(最も広い部屋があてがわれていた)自主的にルークの宿舎に集まっていた。今、この場にいるのは、ルーク、マライア、キヨ、ラスティ、フリック、ロディ、エルバ、レピア、フィアの9人である。ティリィだけは、ヴィクトールを連れてくる関係上(彼の他の予定が終わるまで待つ必要があったため)、合流が遅れていた。
 まず、「最後の一人」が海の向こう側にいるらしい、というマライアの話を聞かされた彼等は、それぞれにリアクションに困ったような表情を浮かべる。

「大陸かぁ……。私のツテは、使えそうにないな」

 この面々の中で、最も大陸諸国との繋がりが深いのはアロンヌの領邦ルマ出身のエルバであるが、彼女の場合、(幻想詩連合に所属する)祖国に仕える弟の立場のことを考えると、あまり気軽に(大工房同盟の一員である)アントリアの村を救うための協力を依頼出来る立場ではない。その意味では、魔法師であるマライアの方が、ローズモンドのヨハンを初めとする大陸各国の魔法師達との繋がりがあると言えるが、現状、彼女自身の立場が「未契約魔法師」ということもあり、本格的な協力を依頼されても、先方がどう反応するかは予測出来ない状態にある。
 そんなマライアの話に続いて、今度はキヨは「アニー経由で聞いた話」という建前で(沙織の存在は伏せた上で)、アンザと肥前忠広の正体についての「パンドラ側の提示した仮説」を一通り説明し、レピアもまた(元)義兄ローガンの調査報告について皆に伝える。一方、フィアは「今、話しても仕方がない」と思ったのか、ラピスの犬神に関する伝承については、この時点で特に語ろうとはしなかった。実際、この状況において、フィアがそのことを伝えたとしても、まだ事態の全貌を明らかに出来た訳ではない。皆、これらの「中途半端な情報」に対して、興味は示しながらも確信が持てないという状況に、戸惑っていた。
 それらの一連の情報共有を終えた後に、ロディは自身の「左目(の邪紋)」のことをマライアに相談する。魔法師である彼女が検診したところ、明らかに、その邪紋が前よりも際立って肥大化していることが分かった。

「この短期間で、かなり急激に混沌の力が強まっているわね。それに伴って、力もつけているんだろうけど、このペースで成長し続けると、そのうち、自分自身が邪紋に乗っ取られる可能性もあるから、気をつけたほうがいいかもしれない」

 力をつけすぎた邪紋使いが、邪紋そのものに魂をも侵食されて暴走する、という事態は珍しい話ではない。ただ、具体的にどれくらいの規模にまで成長すれば危険状態と言えるのかまでは、マライアには判別がつかなかった。

「まぁ、いずれは人としての姿を失って、消えて無くなるのが、僕達邪紋使いの定めだからね」

 レピアが、淡々とそう語る。エーラム出身の彼にとってはそれが常識的な話だが、それは必ずしも世間の一般的な認識ではない。少なくとも、たまたま邪紋の力に目覚めたばかりの13歳のロディにとっては、かなり衝撃的な発言だったようで、青ざめた表情を浮かべる。

「そう……、なの…………? それって、何か解決策とかは無いの?」

 ロディにそう問われたマライアだが、彼女は黙って天を見つめる。正直なところ、それなりの力を維持した上で天寿をまっとうする邪紋使いもいない訳ではないが、それが可能な人物とそうでない人物の境界線がどこにあるのかは、エーラムの中でも明確な定説がない。
 また、そんな二人のやりとりを目の当たりにしていた他の邪紋使い達の中にも、ロディほどではないにせよ、自分の邪紋の急成長に戸惑っている者達は少なからずいた。もしかしたら、自分もまた、「邪紋使いとしての自分」を維持出来る限界が近づいているのかもしれない。そんな思いを抱く者達の葛藤が交差する重苦しい空気が漂う中、ようやくティリィがヴィクトールを伴って合流する。

「ルークさん達に、会わせたい人がいます」

 そう言って彼女は、傍らに立つヴィクトールを皆に紹介する。と言っても、ルーク、キヨ、ラスティ、フリック、ロディ、エルバの六人はティスホーンで面識があるし、アントリアに仕える身であるレピアも、彼の存在を知らない筈はない。実質的には、ティスホーンの戦いにおいて療養中だったマライアと、アントリアで生まれ育ちながらも「お偉いさん」とは無縁の人生を送ってきたフィアの二人のための紹介であった。
 その上で、彼がラピス攻略作戦の失敗をルーク達に告げると、静かなどよめきが部屋の中に広がる。まさか自分達の知らない間にそのような計画が進められていたとは、全く想定していなかった。だが、その点については、彼等自身も自分達のことをスウォンジフォートに報告していた訳ではない以上、「お互い様」である。
 ヴィクトールは、先刻ティリィに対して話した件について改めてもう一度、ルーク達にも伝える。「妖刀の魔人(肥前忠広)」の剣技が「初対面では太刀打ち出来ない」という点については、実際に彼が「岡田以蔵の刀」として地球で振るわれていた頃に戦った経験があるキヨには、容易に想像がついた。彼女自身の剣技が歴代の持ち主達の性質を踏襲している以上、あの妖刀もまた、変幻自在の岡田以蔵の剣術を引き継いでいることは間違いないだろう。
 その上で、ルーク達がラピス解放作戦に向けての準備を進めていることを告げられると、ヴィクトールもそれに協力したいという意思を示す。

「もう一度、我々が陽動に回ってもいいんだが……、おそらく、奴等も同じ手には引っかからないだろう。その意味では、次は『海』から攻めるというのも、一つの手かもしれんな」

 ラピスは漁村であり、本来は沿岸警備もそれなりに充実している筈だが、村内に突入した彼等が見た限り、明らかに彼等は「海からの攻撃」を警戒しているようには見えなかったという(もっとも、透明妖精達が隠れて潜んでいた可能性も十分にあり得るのだが)。

「ただ、問題は例の女魔法師だ。当初の話では召喚魔法師という話だったが、我々に対しては、火炎の元素魔法を使ってきた。ということは……」

 元素魔法師の中には、海面に「渦」を生み出して、その渦の中に船を巻き込むことで海軍を一網打尽に出来る者達もいる。もし、現在のアンザがその渦潮の魔法を使える者であるならば、よほど特別な(エーラムによる魔法の障壁などの)装備を整えた船でなければ、あっさりと沈没させられてしまう可能性もある。

「船か……」

 ここまでの話を聞いた上で、ルークは頭を悩ませる。現状、エルネストは個人としては協力の意思を示してはいるが、ルークの立ち位置が不鮮明で、ヴァレフール人もいる状態では、アントリアの軍船は使いにくい。また、白狼騎士団にも船はあるが、今はアントリア預かりの身である以上、ヴィクトールの一存だけで動かすのは難しい。そして、スウォンジフォートの現政権が彼等を全面的に支援するかどうかは、まだ分からない。
 海からの突入作戦を実行するかどうかはともかくとして、少なくとも、「八人目」を大陸まで探しに行くためには、船が必要である。しかも、出来れば通常の客船や貿易船への同乗ではなく、マライアの中のシリウスの感覚に合わせて、細かく航路を変えてくれるような、こちら側の「わがまま」に付き合ってくれるような、それでいて「高度な元素魔法師」による渦潮の魔法にも耐えられるような船があれば、それが理想である。だが、そんな都合の良い条件を満たせる船が、そこら中に転がっている筈がない。
 だが、皆がそう思っている中、突然、ルークの部屋の扉が開かれた。

「話は聞かせてもらった」

 そう言って現れたのは、この街の駐在武官の一人、シドウ・イースラーである。実は彼は、エルネストからヴィクトールへの言伝を頼まれてこの部屋まで来ていたのだが、部屋に入るタイミングを探っている間に、図らずも彼等の話を立ち聞きしてしまったらしい。

「船が欲しいならば、ツテは無くもない。ちょうど今、都合良く、私の知り合いの海賊船がパルテノの港に停泊している。海賊船とは言っても、彼女達は我がアントリアとは友好関係を結んでいる存在であり、信頼出来る者達だ。そちらに話を持ちかけてみようと思うのだが、どうかな?」

 シドウ曰く、その海賊船の名は「鮮血のガーベラ」。船長である「傷顔(スカーフェイス)のアクシア」は、アントリア子爵ダン・ディオードの盟友であり、現在は彼と共にコートウェルズの浄化作戦に協力している人物であるらしい。その船は、エーラム製ではないが、遥か昔に高名な魔法使いの手でカスタマイズされた船らしく、おそらく並大抵の魔法による攻撃では沈まぬほどの耐久性と、高波や渦潮にも動じない安定性を兼ね備えているという。
 そして、ルークはその海賊船の名に聞き覚えがあった。幼少期のルークがまだラピスにいた頃、海岸沿いに出現した魔物に襲われた際に、その海賊船に助けられた過去があったのである。

(あの時の女海賊か……)

 向こうがルークのことを覚えているかどうかは分からない。だが、少なくとも幼少期のルークの記憶の中では、彼を助けた「鮮血のガーベラ」の船長は、義侠心溢れる女傑で、信頼出来そうな人格者であったように見えた。
 他に頼るアテもない以上、今はこのシドウの提案を断る理由もない。ひとまず彼等はこの日の夜はそれぞれの宿舎に戻った上で、翌日、シドウの紹介を通じて、その「鮮血のガーベラ」との交渉へと臨むことになった。

1.8. 海賊船

「あんたらが、ラピスの解放を目指す人達なんだね。大まかな話は、こちらの御曹司から聞いているよ」


 シドウによってパルテノの港口に案内されたルーク達10人の前に現れたのは、「鮮血のガーベラ」の船長アクシア(上図)である。

「アクシア殿、その呼び方はちょっと……」

 なぜか「御曹司」と呼ばれたシドウが焦りながらそう言うと、アクシアは少し申し訳そうな表情を浮かべる。

「あぁ、そうか、そのことは言ってはいけなかったのか、すまんな。まぁ、ともかく、我々としては物資補給のつもりで立ち寄ったのだが、今のラピスがそこまで危機的な状況に陥っているのなら、ぜひとも協力させてもらおう。ラピスには昔から色々と縁もあるしな。混沌退治のために帰るのが遅れたとしても、あいつは文句を言わんだろう」

 コートウェルズを見ながら彼女がそう語ると、ルークは深々と頭を下げる。

「よろしくお願いします」
「あぁ、万事任せてくれればいい」

 アクシアはそう言いつつ、内心で「あの時の小僧が、なかなかいい男に成長したな」と思いつつも、そのことは表には出さないまま、ふと、エルバの腰にある短剣に目を向けて、やや怪訝そうな表情を浮かべる。

「あんた、その短剣、どこで手に入れた?」

 突然そう問われたエルバの方もやや驚いた表情を浮かべるが、特に隠す必要もないと考えた彼女は、素直に答える。

「ティスホーンに来ていた行商に勧められて買ったんだよ。異界の物品で、まともに使える人はいないから、買い手がつかないと言ってたんだが、見た瞬間、運命的な何かを感じてね」

 エルバの短剣は、異界からこの世界に投影された武器である。この世界における「投影装備」に関しては、邪紋使いの願望に応じて呼び出される場合もあるが、自然発生的に生み出される代物もある。ただし、後者の場合、普通の人が手に取っても、それをまともに扱うことは出来ないことが多い。この短剣もまた、そんな特殊な投影装備の一つであり、エルフ界で生み出された武器であると言われている。店の店主は「貫くもの」と名付けていた。

「そうか。いや、最近ウチに加わった新人の『船員』に似てる気がしてな」

 「短剣」が「船員」に似ていると言われても、常人であれば理解は出来ないだろう。だが、今、エルバの傍らには「人の姿をした日本刀」であるキヨがいた。

「……投影体、ということか?」
「まぁ、乗ってみれば分かる」

 そう言って、アクシアは彼等の船内に案内する。こうして、「最後の一人」を探すためのルーク達の船旅が幕を開けることになるのであった。

2.1. 海賊船内の諸相

「では、こちらの船室へどうぞ。皆様には、男性用と女性用に大部屋を二つ解放、という形で対応させていただきます」

 そう言いながら、船内に入ったルーク達を客室へと案内したのは、一人の小柄な少年だった(下図)。その耳の形状からして、エルフのようにも見えるが、プライドが高く、人間を見下すことも多いと言われているエルフ族とは思えぬほどに、その態度は従順であると同時に、どこか冷めた、というよりも、無機質な雰囲気に思えた。


 そして、彼の腰に刺さっている「短剣」を見たエルバは、先刻のアクシアと同じような表情を浮かべる。

「あんた、もしかして……」

 そう言いながらエルバは自らの短剣を彼に見せる。それは、彼の腰に刺さった短剣と明らかに全く同じ形状であった。

「それは……、おそらく『私』ですね。正確に言うと、ヴェリア界を経由する前の私、ですか」

 彼は淡々とそう語る。つまり、彼はキヨと同様、ヴェリア界から投影された「武器のオルガノン」であるらしい。

「じゃあ、あんたとコレは、同じモノなのかい?」
「元は同じ、と言うべきですかね。私はもともと、エルフ界で作られた短剣です。その後、様々な人の手を経由した上で廃棄され、ヴェリア界に流れ着き、そしてこの世界に投影されることになりました。あなたのその『私』が、どの段階で投影された「私』なのかは分かりませんが、おそらくは、それこそが『本来の私』の投影体です」

 分かったような分からないような説明を聞かされて困惑するエルバに対して、彼は更にそのまま話を続ける。

「この世界では、異世界で生み出された『同じ物』が同時に投影されることも稀にあると聞きます。『元のエルフ界における私』と『ヴェリア界における私』が同時に現れたとしても、さほどおかしな話ではないでしょう。私は、数ヶ月前にコートウェルズ島に投影されて、右も左も分からぬまま一人で放浪していた中で、ここの船長に拾われました」

 彼がそう言うのであれば、それが真実なのだろう。エルバとしては、なんとも複雑な心境ではあったが、既にキヨという「実例」を目の当たりにしている以上、確かに、そこまで驚くほどのことでもない。
 そして、その少年は淡々とした口調のまま問いかける。

「あなたが手にしているその『私』は、役に立っていますか?」

 それに対して、エルバははっきりと答えた。

「手放すことの出来ない相棒さ」

 実際のところ、エルバには「沖田総司のレイヤー」を目指す時点で、この短剣を捨てて日本刀一筋に切り替えるという選択肢もあった。というよりも、それが本来の沖田総司を目指す上での正道なのだが、それでも彼女の中では、この短剣を捨てるという選択肢は考えられなかった。それほどまでに、彼女の中ではこの短剣は、もはや彼女の身体の一部と呼んでも過言がないほどの位置付けとなっていたのである。

「それならば良かった。船長も、私の『危機を知らせる能力』が、船旅においては役に立つと言ってくれています」

 その能力は、確かにエルバの短剣にも備わっており、今回の旅先に関しても、若干色が変わる程度ではあるが、一定の危機があることを示している。だが、その程度の危険信号など、彼女にとっては日常茶飯事であり、特に憂慮すべき事態とは捉えられていなかった。

 ******

 こうして、ルーク達を乗せた船はパルテノから出航し、まずはマライアの感覚に従い、ブレトランドから見て南東側に位置する、ランフォード、ヴァンベルグ、バルレアなどの大陸諸国の方角へと向かう。この時点ではまだマライアの中で細かい位置までは確定出来ていなかったため、大陸が近くなった時点で改めてマライアの指示に従って行き先を修正する必要がある。船員達から見れば「面倒な客」であったが、その程度の注文には容易に応えられるだけの実力派の船乗り達が揃っていた。
 ただ、そのための航路において、彼等は「嵐の海」と呼ばれる荒れた海域を通らなければならない。前述の通り、魔法によって作られた巨大な渦潮の中でも航行が可能なほどの卓越した安定性を持つこの船ではあったが、それでも船体の揺れを完全に無効化することは出来ない。船に慣れていない面々にとっては、なかなか厳しい船旅となる。
 前回、マライアとキヨが大陸経由でオーキッドへと向かった時は、二人とも船の揺れに散々苦しめられたが、今回は前回の教訓が生きたのか、どうにか吐き気を抑えて平静を保つことに成功する。船旅は今回が初めてであったロディも、なんとかマライアの介助のおかげでどうにか三半規管を平常に保てたが、ここで意外な人物が船酔いに陥ることになった。
 レピアである。彼は過去にエーラムからブレトランドに渡ってきた経歴の持ち主の筈なのだが、どうやら今回は(シャドウとしての本能のせいか)周囲を警戒して海面を見すぎていたのが災いして、悪性の船酔いに苦しめられることになってしまった。もともと、彼は身体そのものはあまり頑健ではないため、一度体調を崩すとそう簡単には治らなかったが、ひとまずこの船の上にいる間は、特に敵襲の可能性も低く、仮に海上で投影体と遭遇したとしても、今のこの戦力であれば、レピア抜きでも大抵の魔物は撃退出来るだろうと考えていたため、ひとまずは静かに船内で床に就くことになった。
 そして、このことが非常に危険な「想定外の事態」をもたらすになるとは、この時点ではまだ誰も予見出来なかったのである……。

 ******

 一方、その頃、内陸育ちであるが故に海に出たのはこれが初めてであった筈のフィアは、全く何の変調も身体に受けないまま、自由気ままに船内を散策していた。「風のエーテル」である彼女は、基本的に身体が揺さぶられることには慣れているのかもしれない(あるいは、誰にも気付かないうちに、微妙に船上から身体を浮かせることで、船の揺れの影響を避けていた可能性もあるが、誰も確認していないので分からない)。
 「初めての船旅」自体が彼女にとっては十分に興味深い体験ではあったが、それだけに飽き足らず、彼女はこの船の中で、何か自分の好奇心を満たせるような何かが眠っていないかと考え、一人でフラフラと歩き回っていた。そんな彼女が、船長であるアクシアの私室の前に辿り着くと、その中から誰の気配も感じ取れないことを確信した。

(何か、面白いものが見つかるかも)

 彼女は、そんな純粋な興味本位だけの動機で扉を開き、そして部屋の中を見渡す。船長室にしては、こざっぱりした雰囲気で、あまり装飾品なども飾られていない。そんな中、中央にある机の隣の「ゴミ箱」の中に、何かを書いて丸めて放り込んだと思しき紙くずを発見する。直感的に、これは何か「面白いもの」ではないかと予感したフィアは、密かにその「丸まった紙くず」をゴミ箱から拾い上げ、そして中身を確認する。
 それは、どうやら船長であるアクシアが、「娘」に向けて書こうとした手紙のようである。

「我が親愛なる娘よ。あのコートウェルズでの一件から随分時が経ったが、お前はそろそろエーラムの魔法大学を卒業する頃だろうか。あの時は、あの愚かな父によるあまりに突然すぎる暴露によって、お前も心の整理がつかないままだったと思う。正直、私も、あの時点でお前に対して、どう接すれば良いのか分からず、正式に『母』と名乗れないまま送り返してしまったことは、申し訳なく思っている。詳しい話は既にノギロから聞いているとは思うが、お前は間違いなく私の娘だ。そして、残念ながらお前の父親は、あの、世界一愚かで、世界一傲慢で、世界一頼もしい、世界一の君主だ。だが、お前が私や奴のことを忘れて生きていきたいと願っているのなら、私も今更母親面するつもりはない。実際、お前の異母弟であるシドウとは今でもパルテノで頻繁に顔を合わせるが、彼は実父のこともクリフォードのことも一切考えずに、一人の邪紋使いとして生きていく道を選んでいる。お前もその道を選びたいのであればそれで良い。実際、お前に対して「親」だと名乗れる資格があるのは、私でも奴でもなく、ノギロだけかもしれない。ただ、もし、これから先の人生で、お前が孤独感に苛まれるようなことがあった時は、いつでも私の元を訪ねてくれればいい。お前が作ったどんな料理でも、私ならば喜んで残さず平らげることが出来るだろう。そして、出来ることならば私のことを、一度だけでもいいから、母」

 この「手紙と思しき紙片」に書かれているのは、ここまでである。ここまで書いた上で、丸めてゴミ箱に捨てられたらしい。よく事情は分からないが、あの女船長には、何か興味深い過去があるらしい、ということを確認したフィアは、満足してその場を立ち去る。実はこの書面自体、出すべきところに出せば相当な金額で買い取ろうとする者が現れるほど価値のある内容なのだが、フィアとしては、そんなことはどうでも良かった。ただ、この書面から面白そうな人間関係が垣間見れただけでも、彼女としては十分に好奇心を満たせたようである。

 ******

 こうして、船内で各自がそれぞれの時をすごしている中、ルークは舳先から、ラピスの方角を見つめていた。とはいえ、肉眼では見る限りにおいては、それらしき陸地の位置が確認出来る程度にすぎない。
 やがて、その傍らにエルバが現れると、彼女はルークの心境を察したのか、遠眼鏡を差し出す。
「使うかい? 君主様」
「あぁ、ありがとう。助かる」

 それを用いてラピスの方角を確認しようとするが、どうにか町の明かりがかろうじて見える程度である。ただ、少なくとも、まだそこに「人」が住んでいて、かろうじて「人」としての営みを続けているらしいことだけは確認出来た。今のルークにとっては、それだけでも、自分の中のラピス解放への動機を高めるには十分であったと言える。
 一方、少し離れたところで、ティリィもまた、同じ方角を眺めていた。そして、「死神」としての力なのか否かは分からないが、彼女には、遠く離れたラピスの街の中から、ほのかに不気味な雰囲気を感じ取っていた。

「混沌の力が高まっている……、そして、何か不吉な気配が……」

 彼女はそう呟きながら、一刻も早くこの地の人々を救わなければならない、という決意を改めて固めるのであった。

2.2. 侵食する邪紋

 その日の夜、嵐の海を渡る船の上で、再びロディが、自身の左目に刻まれた邪紋から発せられる瘴気のような何かよってうなされて、夜中に目を覚ました。

「まただ……、もしかしたら、僕の身体は、もう……」

 出発前にレピアが語っていた「邪紋使いの宿業」のことを思い出して、重苦しい気持ちになるロディであったが、同じ「男部屋」の傍らで、彼以上に悶え苦しんでいる者がいた。
 レピアである。どうやら、船酔いによって身体の抵抗力が失われた彼が、それまではなんとか耐えていた「邪紋の疼き」に耐えられなくなったらしい。その悶え苦しむ声で、やがてルークや他の男性陣も次々と目を覚ます。

「レピアさん、どうしたの!? 大丈夫!?」

 ロディはそう問いかけるが、その声が届いているのかどうかも分からない。ただ、徐々に彼の足に刻まれた邪紋が、彼の下半身全体を覆い尽くそうとしているのが分かる。おそらく、これはマライアが言っていた「邪紋に身体が乗っ取られる状況」であろう。

(まずい、このままでは……)

 そう考えたルークは、ここで一か八かの賭けに出る。彼は自らの聖印を掲げ、レピアの身体を蝕む混沌を浄化・吸収しようと試みる。通常の聖印であれば、邪紋使いを殺さない限り、邪紋を浄化することは出来ない筈である。しかし、ルークは直感的に、この時点でレピアを救うためにはこの方法しかないと判断し、自らの聖印に祈りを捧げた。
 すると、彼の聖印は「今までに見たことのない光」を放ちながら、レピアの身体全体へと広がりつつあった邪紋の一部を、その聖印の中へと吸収していく。そして、そのまま全ての邪紋を吸い込みそうになっところで、ルークが慌ててその聖印によう吸収を止めるよう願うと、そのまま打ち止めとなり、本来の規模の邪紋だけがレピアに残ることになった。

「これは、一体……」

 やってみたルーク自身が戸惑う中、レピアが目を覚ます。というよりも、彼の中には意識は残っていたが、身体が言うことを聞かない状態だったらしい。

「今……、何をした?」

 どこか困惑したような表情を浮かべたレピアにそう問われたルークであったが、彼もまた、この状況が把握出来ていない。

「こちらも、咄嗟にやったことなので、よく分からなくて……」

 正直、この状況を説明出来そうな人材となると、マライアくらいしかいない。

「とはいえ、この時間帯に女部屋に行くのもな……」

 今は夜である。レピアがそんな常識的な発言をつぶやく中、既にドアノブに手をかけて、女部屋へと向かおうとしていた者が一人いた。

「え? ダメ?」

 ロディである。「まぁ、(年齢的な意味で)彼なら良いか」と他の者達が顔を合わせて納得する中、レピアはロディにこう告げた。

「悪いけど、マライアを呼んで来てくれないかな」

 ******

 しばらくすると、ロディが女性部屋から、マライア、キヨ、エルバ、ティリィの四人を連れて戻って来た(この時、フィアだけは、再び何かを探そうと一人で船内を歩き回っていたため、不在だった)。
 真っ先に心配する声を上げたのは、ティリィであった。

「大丈夫? レピアさん……」
「なぁに、そもそも僕等邪紋使いは、いつ消えるか分からないような存在じゃないか。多分、その時期が近付いてきているだけの話だよ」

 このような事態に陥っても、未だに達観した口調でレピアは淡々とそう語る。一方、そんな「邪紋使いの宿命」を改めて聞かされたロディは「やっぱり、そうなのか……」と呟きながら、再び重い気分に包まれていた。
 そして、この状況を説明することを期待してこの場に呼ばれたマライアであったが、実際のところ、彼女としてもその現場を見た訳ではないため、どうにも判断に困る。そんな彼女に対して、傍らに立つエルバが口を開いた。

「実は、私もさっき、自分の中の邪紋が何かを訴えかけてくるような気配を感じたんだ。その勢いに飲まれてはいけないと必死で抵抗した結果、どうにか押さえつけることは出来たが……、もしかしたら、あと一歩間違えば危険な状態だったのかもしれない」

 ロディ、レピアに続いて、エルバまでもがそう言いだしたことで、事態の深刻さは更に深まる。だが、マライアでも説明はつかないと分かった時点で、レピアは腹を括った。

「とりあえず、このまま起きてても何も出来そうにないし、おとなしく、姉さんの夢でも見ながら寝ることにするよ」

 彼はそう言いながら、布団にくるまる。他の者達も互いに顔を見合わせつつ、ひとまずこの場は黙って寝直すしかないのかと割り切りかけた瞬間、男部屋にフィアが現れた。

「あれ? 皆、どうしたの?」

 どうやら彼女は、探索から女部屋に戻ったものの、既に誰もいなかったため、何か起きたのかと察してこちらに来たらしい。

「実は、レピアさんの邪紋が……」

 ルークに事の顛末を一通り説明されたフィアは、ここで、「あの伝承」を思い出す。

「そういえば、姫様が言ってたんだけど……」

 と言いつつ、ルークを見つめる。

「姫様というのは、マリベル姫のことか?」
「正直、言っていいことなのかどうかは分からないけど……、まぁ、いっか」

 ルークはラピスの次期領主となろうとしている人物であり、ここにいる者達は皆、仲間である。そして、おそらくは自分を含めた邪紋使い達全般に関わる話であろうと判断した彼女は、全てを包み隠さず話すことにした。

「ラピスの犬神さんは、ラピスの君主様と深い繋がりがあるらしいけど、何か聞いてる?」

 そう問われたルークだが、そもそも彼はシリウスと直接対面したこともなく、分別がつく歳になった頃には弟が生まれていたこともあり、正式な後継者になれるかどうかも不鮮明な立場だったため、ラザールは彼にそこまで伝えてはいなかった。

「いや、具体的な話までは……」
「なんでも、犬神様の邪紋は、君主様の『従属邪紋』みたいなものらしいよ」

 そう言って、彼女は一通りの話を皆に告げる(ちなみに、実はこの時点ではまだレピアも意識は残っており、彼も寝たふりをしながら全ての話を聞いていた)。

「……ということは、シリウスの力は、本来はラピスの君主から切り分けられた力、ということなのか? マライア、父から何か聞いていることは?」

 ルークはマライアにそう問いかけるが、彼女は首を振る。というよりも、そんな詳しい話を知っていたら、彼女がこれまで黙っている筈もない。どうやら、このことは本当に一子相伝レベルで領主家の中でのみ伝えられている話なのかもしれない。その意味では、マリベルの祖母がそのことを彼女に話すのも、本当は掟に反する行為だったのだろうが、もしかしたら、万が一その伝承が途絶えた時のことを考えた上での「保険」のつもりだったのかもしれない。

「皆に宿ったシリウスの力と、私の聖印には、何か関係があるのかもしれない。だから、もしかしたら、今後、皆の邪紋に何か異変が発生したとしても、今回のように私の聖印の力でなんとかなるかもしれない。だから、少しでも違和感を感じたら、すぐ言ってほしい」

 ルークのその言葉を(寝たふりを続けるレピアを含めた)七人は静かに受け止めつつ、女性陣は女部屋へと戻り、それぞれに再び床に着いた。

 ******

 その後、彼等を乗せた「鮮血のガーベラ」は無事に嵐の海を渡りきり、そして、マライアは再び集中力を研ぎ澄ませて、「八人目」がいると思しき場所を特定した上で、船はその地へと向かう。その向かう先に位置する国は、旧ランフォード子爵領内の一角を占める、ウィンザレア男爵領である。
 どうやら幸いなことに、アントリアにとっての数少ない同盟国であるこの地に、「八人目」は存在するらしい。しかも、ウィンザレア派遣軍の司令官バットの契約魔法師は、マライアの義姉のセリーナである。これならば、比較的あっさりと交渉も進むかもしれない。そんな期待を抱きながら、彼等はウィンザレアの海岸へと向かうのであった。

2.3. 沿岸警備隊

 一方、その頃、そのウィンザレアの沿岸警備を任されていたプロキオンは、遠眼鏡で周囲を警戒する中、一隻の海賊船が近付いて来ていることに気付いた。

「やばいッス! 海賊船来たッス! 迎え撃つッス!」

 どうやら彼は、この海賊船がアントリアと友好的な関係にあるということまでは知らなかったらしい。「鮮血のガーベラ」は、過去に何度もラピスを訪れたこともあるのだが、山賊出身の彼は、「海」の事情にはあまり詳しくなかったようである。
 そして、そんな沿岸警備隊の警戒態勢は、海賊船側にも伝わっていた。船長であるアクシアは、ルークに問いかける。

「さて、向こうの警備隊に警戒されているようだが、どうする、君主様? このまま上陸を強行するかい?」

 この状況で、マライアから姉弟子であるセリーナにタクトの力を用いて連絡するという選択肢もあったが、セリーナが今、この沿岸警備隊の近くにいる可能性は低そうなので、今からではさすがに遅すぎる。

「とりあえず、あの装備から察するに、向こうはアントリアからの派遣兵のようだから、誰か、あいつらに顔の効く人間が代表者として行くのがいいんじゃないかな?」

 皆が判断に迷っている中、アクシアがそう提案すると、皆は一斉に、マライアへと視線を向けた。

「私?」

 妥当な判断だろう。彼女が結んだ「アントリア騎士との契約」は現在は切れてはいるものの、それでも、レピアやティリィやフィアよりは、アントリア内においては彼女の方が社会的地位が上であることは明確である。「グランデ」の姓を出すだけでも、相手がバット傘下の兵であれば、大きなプラス材料となるだろう。
 とはいえ、護衛の一人もつけずに行く訳にもいかない。ひとまずは「守りのスペシャリスト」であるフリックと、そして「全体の代表者」としてのルークも同行した上で、海賊船から小舟を借りて、まずは三人で近付いてみることにした。もし、これに対して相手が矢を射掛てきても、それらを全てフリックが受け止めた上で、ルークが弓矢で反撃すれば、大抵の相手であれば、なんとかなる筈である。
 そして、その小舟が近付きつつあるのを望遠鏡で覗き込んだプロキオンは、その乗員の顔を確認すると、慌てて部下の兵達に向かって叫ぶ。

「あ、あれ、マライア様じゃないッスか! やめるッス、やめるッス、あの人、自分の恩人ッス!」

 そう言われた部下達は、構えていた弓を下ろすが、やや困惑した表情を浮かべる。

「ここの隊長、もと山賊だって聞いてたけど、海賊にもツテがあるのか……」
「いや、そうじゃなくって、えーっと……」

 厳密に言えば、プロキオンにとって恩義があるのはラザールであり、マライアとはそれほど親しかった訳でもない。ただ、自分にとっての最大の恩人であるラザールの契約魔法師という時点で、彼にとっては「恩人」と呼ぶにふさわしい人物であることには変わりなかった。
 突然の(彼にとっての)大物の出現にプロキオンが困惑する中、彼と同様にラピスから徴兵された兵達もまた、彼女の存在に気付く。

「おい、あれ、マライア様じゃねえか?」
「本当だ。ラピス陥落以後は行方不明だと聞いてたけど、無事だったのか。良かったぁ」

 どうやら、マライアはラピスの一般庶民の間でも、それなりに慕われる存在だったらしい。もっとも、10代の美しい女性魔法師が田舎の漁村で働いていたら、それだけで「人気者」になるのも当然のなりゆきであろう。
 こうして、ひとまずプロキオン隊は彼女等の上陸を認めた上で、直接対面する。

「マライア様、お久しぶりッス。ご無事で何よりッス」

 プロキオンはそう言ってマライアに対して敬礼するが、マライアは目の前にいるその彼から、明らかに「八人目」の気配を感じ取っていた。

(この子だったのね……)

 最後の一人が大陸にいると聞いた時点で、どれほど捜索が困難になるかと憂慮していた彼女であったが、まさかの「身内」であることが判明したことで、これは早急に話をまとめるチャンスだと思い、いきなり直球で本題を切り出す。

「あなたは、シリウスの力を受け継いだ八人の最後の一人です」

 ここに至るまでの事態もよく分からないまま、いきなりマライアにそう告げられたプロキオンは、当然のごとく困惑する。だが、ラピス育ちの彼に対しては、わざわざシリウスについて説明する必要はなかった。

「自分が、シリウスの力を……?」
「はい。私には、それを判別する力を持っています。そして、あなたからその力を感じます。『漢字』という文字のような邪紋がある筈なんですが……」

 マライアはそう言いながら彼の顔に描かれた邪紋らしき模様を確認するが、そこにはそれらしき文字は見えない。

「こんなような文字が、身体のどこかに現れていないか? 顔以外にもどこかに……」

 マライアの傍らに立つフリックが、自身の肩に描かれた「義」の邪紋をプロキオンに見せると、彼はすぐに、彼等の言わんとしているところを理解する。

「あぁ、あるッスよ」

 プロキオンは、ぺろっと「腹」を見せる。すると、そこには「顔の邪紋」とは明らかに異なる文様の邪紋が描かれており、そしてその中央には、「礼」の文字が刻まれていた。もっとも、この場にキヨがいなかったので、それが「八犬士の最後の一文字」だという確証までは持てなかったが、今までの経験上、その文字の形が「他の七人と同じ類の文字」であることは、マライアにも察しがついていた。

「この『顔の邪紋』は、山賊時代に付けられた偽物なんッスよ。自分の本当の邪紋は、こっちッス。もっとも、この力に目覚めたのは、つい一ヶ月ほど前なんスけどね。あの時は、ブレトランドの方から、よく分からない珠のようなものが……」

 これはもう、どう考えても間違いはないだろう。そう確信したマライアは、満面の笑みを浮かべる。今まで、ラスティ以外の面々を仲間に加える時には散々苦労を重ねたが、プロキオンに関してはラピス出身ということもあって、思った以上にスムーズに協力を得られそうである。
 だが、次の瞬間、沿岸警備隊の物見役から、不穏な報告が届けられた。

「隊長、ギルフィアの方角から、別の船が近付いてきます!」

2.4. 「誠」の旗

 その船の存在には、海賊船の甲板で上陸したマライア達の様子を伺っていた仲間達も気付いていた。少なくとも、肉眼で確認出来るだけで一隻。物見役が言うには、その奥にさらにもう一隻の姿が見えるという。
 そして、先導する船の帆には、二つの「旗」が掲げられていた。一つは、幻想詩連合の統一旗。そしてもう一つの旗には、浅葱色をベースとしたダンダラ模様の上に「誠」という漢字が描かれていた。この「鮮血のガーベラ」に乗っている者達の中で、その「誠」の文字が読める者は二人いる。一人はキヨ、そしても一人は、キヨからその漢字を学んだエルバであった。そしてそれは、正確に言えば、現時点でエルバが唯一知っている漢字であった。

「なぁ、キヨさん、あれって、アンタから聞いた『新撰組』ってのの旗印じゃあ……」
「そう、ですね……」

 エルバは、キヨの持ち主であった沖田総司のレイヤーとなるために、キヨの記憶にある新撰組に関する様々な情報を学んでいた。その中で、キヨが(八犬士の文字よりも先に)「まず最初に覚えるべき文字」として、あの「誠」の文字をエルバに伝えていたのである。
 果たして、あの「誠」の旗を掲げているのが誰なのかは分からない。新撰組隊士自身の投影体なのか、あるいは、新撰組隊士を敬愛するレイヤーによるものなのか。もし、これが前者であった場合、キヨとエルバにとっては、色々な意味で「戦いたくない相手」である。そして、連合の旗を掲げていることもまた、連合とは敵対出来ない立場にあるエルバとしては、出来れば衝突は避けたい相手であった。
 だが、そんな彼女達の思惑など知る筈もないプロキオンは、獣人の邪紋を発動させることで自らの身を「犬」へと変えて、臨戦態勢に入った。おそらく彼等こそが、セリーナが言っていた「連合の盟主国からの援軍」なのであろう。現在、ウィンザレアを守るための部隊を率いている彼にとっては、明確に「敵」である。その彼に対して、マライアは事情がよく分からないままではあったが、ひとまず彼の「爪」に魔法をかけて、その威力を強化する。

「とりあえず、あの船は上陸させちゃいけないのね?」
「そういうことッス。かたじけないッス」

 一方、「鮮血のガーベラ」の側は、対応に困っていた。ひとまず、万が一の事態に備えて、ラスティはその身を竜に変え、エルバは自身と武器を一体化し、フィアはその身を宙に浮かせるなど、それぞれが臨戦態勢を整える。だが、問題は、今のこの船の上には、全体の指揮を採るべきルークも、その代理人足り得る資格を持つマライアもいない、ということである。
 そうなると、残る者達の中で「アントリアの武官」と言える人物は、白狼騎士団所属のティリィしかいなかった。そのことを理解したアクシアは、彼女に問いかける。

「さて、死神さん、どうする?」
「私としては……、あの船と対話するにせよ、戦うにせよ、あの船に近付かなければならないとは思いますが……、その前に、まず、ルークさん達と合流する必要があるかと」
「そうだな。では、まずはこちらも上陸しよう」

 アクシアの命令により、「鮮血のガーベラ」はルーク達の待つ海岸へと上陸し、彼等と合流を果たす。その間に、更に「誠の旗を掲げた船」が陸に近付き、それを迎え撃とうとするプロキオンの警備隊とは、まさに一触即発の状態になっていた。

「とりあえず、あの子を守って! 彼が八人目の仲間なのよ!」

 マライアがそう叫ぶと、ひとまず、ルークとロディは、弓が「誠の船」に届く範囲にまで移動し、彼等を支援するためにフリックとマライアも後に続く。少なくとも、「八人目の少年」を見殺しにする訳にはいかない以上、彼の部隊と連合の軍が衝突したら、前者を援護する必要があるだろう。そして、「誠」の旗が気になるキヨもまた、まずは相手の正体を確かめるべく、上陸すると同時に彼等を追って駆け出す。一方、エルバは相手が「連合の船」だと分かっているからこそ、ひとまず馬に乗っていつでも走り出せる準備を整えた状態で待機しつつも、まずは相手の出方を見ることにした。
 そして、「誠の船」は上陸すると同時に、プロキオン達と、彼に駆け寄ろうとしていたルーク達に対して「砲撃」を放つ。それは、明らかにこの世界固有の武器ではない、何処かの異世界から出現した「投影装備」であった。だが、キヨが知る限り、新撰組には(時期にもよるが)「大筒」を使う者は殆どいなかった筈である。
 その一撃で、プロキオン隊は相当な打撃を受ける。一方、巻き添えを喰らいそうになったルークはフリックが身を呈して庇い、キヨに対しては後方からマライアが精霊防壁の魔法をかけることで、その被害を最小限に食い止めた。
 その上で、キヨがその砲撃を放った船上の射手を確認する。その者は、黒衣の軍服と思しき装束に身を包んだ薄茶髪の少年であり、その肩に長筒状のバズーカ砲を抱え、そして「赤いアイマスク」を目の上に(バンダナのような形で)装着していた。そして、彼の率いる砲兵隊の背後には「武装警察 真選組」という文字が書き添えられた「葵の御紋」の旗が翻っていた。どうやら、彼等は、キヨの知っている「新撰組」ではないらしい(「新撰組」は「新選組」と表記されることもあったが、少なくとも「新」の代わりに「真」の文字を用いたことはない筈である)。
 更に、それに続けて今度は「誠の船」から、キヨのよく知る新選組の隊服を着た剣士達が上陸し、プロキオン隊に向かって突撃してきた。だが、彼等の風貌は、明らかに「普通の人間」ではない。その髪は老人の如き白さで、その目は眼球そのものが真っ赤に染まっていた。そして彼等は、プロキオン隊の兵士達に対して刀で斬りかかりつつ、隙を見て相手の首筋に食らいつき、その血を吸おうとする。その姿は、侍というよりも、吸血鬼と呼ぶべき存在であった。彼等もまた「自分の知っている新撰組」とは異なる存在であることを確認したキヨは、マライアの魔法と共に混沌の力でプロキオン隊を支援する。ただ、その吸血鬼部隊を率いた長身の男の剣技は、「キヨの記憶の中にある沖田総司」と酷似しており、彼女は再び困惑する。
 一方、そんな突撃隊を支援すべく、「誠の船」の船上からは、彼等を支援する軍歌が聞こえてくる。どうやら軍楽隊が演奏しているようなのだが、その音色は明らかにこの世界の文化とは異なる(そしてキヨがいた時代の幕末とも異なる)、なんとも奇妙な旋律であった。その軍楽隊を率いているのは、銀髪で、白を基調としたステージ衣装のような軍服を着込んだ男である。彼の歌声は吸血鬼隊と砲兵隊の士気を高め、そしてプロキオン隊の者達の集中力を妨げる。攻防一体型の不気味な呪術のような力が込められていた。
 だが、ルークが彼等から(プロキオン隊の巻き添えという形で)攻撃を受けたことで、海賊船に残っていた邪紋使い達も、本気で動き出す。まず、ティリィが海賊船から直接空を舞い飛んで「誠の船」へと飛び移り、砲兵隊に対して大鎌を振るった結果、一瞬にして敵部隊の約半数の首が宙を舞う。そこに、風の力を用いたフィアが同じく空中から船に飛び移って元素破撃を食らわせた上で、更に陸上から走りこんだラスティが、「俺の筋肉の前では、全ては無価値だ!」と叫びながら、赤いアイマスクを装着した敵将を、一瞬にして殴り倒す。
 たった三人で、一部隊を一瞬にして壊滅させるという圧倒的な強さを見せつけられたことで、このままでは船が乗っ取られると判断した吸血鬼部隊の長身の隊長は船への帰還命令を出すが、獣化したプロキオンによって文字通りに食らい付かれ、動くことが出来ないまま(吸血鬼であるにもかかわらず)その足から激しく流血する。そこにルークが矢を射かけた上で、一瞬にしてその側面に回り込んだレピアが手持ちの「戦闘針」を全て投げ込んだ結果、隊長を含めた吸血鬼部隊は、次々とその場に倒れていく。
 そして、残った軍楽隊に対しては、まずロディがその左目を赤く光らせながら放った矢が雨のように降り注いだ結果、彼等を覆っていた(一見するとステージ衣装にしか見えない)強固な装甲が次々と剥がれ落ち、それに続いて船内へと切り込んだキヨとエルバが次々と斬りかかった結果、隊長は瞬殺され、そのまま部隊は壊滅状態へと陥る。残された船員達はあっさりと降伏し、武装船としてのこの船は完全に無力化された。

(ルークさんを守るために勢いで戦ってしまったけど、これ、連合の軍だよな……)

 故郷に残る弟のことを思いながら、エルバはこのことが「弟の主君」に知られないことを切に願う。一方で、キヨは自分が斬り倒した銀髪の男を含めた「三人の隊長」の骸を見比べながら、奇妙な感慨に浸っていた。

(この人達は、明らかに「あの人」じゃない。でも、なぜか、どこか「あの人」に通じる雰囲気も感じる。全然似てない筈なのに……)

 そんな困惑した心境のキヨであったが、甲板に上がった彼女の視界に、もう一つの「敵船」の姿が映る。そして、その船にもまた「誠」の旗が掲げられていた訳だが、その船首に立って指揮をしていたのは、どこかキヨと似たような雰囲気の、キヨとほぼ同じ装束に身を包んだ女性であった(下図)。


「面舵いっぱい! ここは一旦、撤退します!」

 彼女がそう叫んだ瞬間、占領された船の上に立つキヨと目が合った。そしてこの瞬間、二人は互いに、自分達が「極めて近しい関係」にあることを直感的に察する。

「あなた……、清光さんですか!?」

 船首の女性は、キヨに対してそう問いかけた。キヨは静かに頷きつつ、相手の正体をほぼ確信した状態で、問いかける。

「そこで、何をしているのですか?」
「こっちの台詞です! あと、その隣の人も!」

 突然そう言われて、キヨの隣に立つエルバも困惑する。だが、エルバはエルバで、その船首に立つ女性から、ある気配を感じ取っていた。それは、この船に乗った直後、あの「短剣のオルガノン」に会った時と酷似した感覚である。

(まさか、彼女は…………、安定?)

 その確証が持てないまま、その船は大きく旋回し、そして海岸から去って行く。その過程で、船首に立つ少女はこう叫んだ。

「総司はこっちにいます。いつでも来て下さい!」

 どうやら、キヨもエルバも、「自分の直感」が九分九厘当たっていることを確信しつつ、ただ呆然と、その船が去って行くのを見送るしかなかった。

2.5. 揃いし八犬士

 こうして、ウィンザレアはひとまずの危機を免れた。無力化した敵船は、ラスティが自身の腕力だけで陸上へとそのまま引き上げ、一般船員はそのまま抵抗せず虜囚となった。
 そして、プロキオンが改めて皆に自己紹介する。

「自分、プロキオンっていいます。アントリアから派遣された遠征軍の一員で、ラピス村出身ッス。あの敵部隊とは、まともにやっても勝てないと言われていたのですが、まさかこんなにもあっさりと撃退出来るとは。皆さんの協力に、感謝するッス」

 実際、彼等十人が加わっただけで、敵の精鋭部隊がここまであっさりと倒されるとは、敵も味方も考えていなかっただろう。状況によっては、アクシア達も加勢する腹積もりではあったが、まったくその必要もないほどの完勝であった。
 その上で、改めて敵軍の正体を聞かされたエルバは、自分がやってしまったことの重大さを痛感し、静かにうなだれる。一方、フリックもまた連合側であるヴァレフールの武官だが、彼に関しては、自分からは手を出していないので、まだギリギリ言い訳が出来る立場と言えよう。そして、ヴァレフール貴族である筈のラスティに至っては、そもそも最初から、そんな細かいことは考えていなかった。
 そんな中、ラスティと同等以上にマイペースなレピアが、真っ先にプロキオンに話しかけた。

「ところで、『戦闘針』に余裕があったら、ちょっと分けてくれないかな? さっき投げ尽くしてしまったんでね。あと、君がアントリアの軍属なら、上官に僕達を紹介してほしい」
「あ、えーっと、戦闘針はいいんスけど、自分の上官は、今、南方の魔境の討伐に行ってしまってまして……」

 プロキオンがやや困った表情でそう答えている最中、この場に揃った「八つの邪紋」が、同時に輝き、そして疼き始める。更にそれとほぼ同時に、これまでずっと沈黙を続けていたマライアの中の「シリウスの感覚」が、突然、彼女の脳内で彼女に対して語りかけた。

「ようやく、『すべての私』が、再び一堂に介したようだな。今までお主の中で眠っていたこの私の心も、今ならば、最後の力を振り絞って、全てをお主に伝えることが出来そうだ」

 どうやら、消えたと思われていたシリウスの残留思念は、マライアの「中」で休眠状態になっていたらしい。それが、『本来の力の源泉である八つの珠』が周囲に集まり、その力に触発されたことで、再び目覚めることが可能となったらしい。だが、おそらくそれは、あと数分程度で消えてしまうほどの微弱な思念体であることを、マライアは感じ取っていた。

「私は、この世界ではシリウスと呼ばれてはいるが、本当の名は八房。元いた世界では、妖怪、妖犬と呼ばれることもある」

 正確に言えば、「妖怪」に相当するのは、八房そのものではなく、彼を生み出す元凶となった玉梓であるとも言われているが、そんなことは、この世界を生きる者達にとってはどうでもいい話である。

「私がこの世界に来た時、私の体の中には八つの邪紋があった。より正確に言えば、『邪紋を発生させる力を持った八つの珠』を体内に宿した状態で、私はこの世界に投影されてきたのだ」

 「投影体」が、「邪紋」を持った状態でこの世界に出現するというのは、極めて珍しい事例である。それは言わば、「本体」とは別の「八つの命」を同時に体内に宿しているような状態なのだが、元の世界における八房が、まさにそれに近いような存在であったが故に、それがこの世界に変換される際に、そのような複雑な構造で反映されることになったのだろう。

「その八つの『邪紋珠』は、それぞれに独自の意思を持っていたため、時として私自身の心を貪り、暴走させることもあった。それを止めてくれたのが、後にラピスの初代領主となる流浪の騎士、プロキオン・ゼレンだ。彼の聖印は、他の者達の聖印とは異なり、邪紋を本体の身体から引き離した上で、自身の聖印の中に取り込むことが出来る。彼は一度、私の体の中にあった『邪紋珠』を取り出し、それを自分の聖印の中に取り込んだ上で、それを完全な浄化にはまでは至らぬ状態のまま、再び私に戻してくれた。以後、私の中で『邪紋珠』が暴走することは無くなった。おそらくそれは、私とプロキオン、そして彼の後継者となった歴代のラピスの領主達との間での『心の絆』のおかげだろう」

 この過程は、まさに従属聖印と酷似している。しかし、普通の聖印では、このような形の「従属邪紋」を作り出すことなど出来ない。だが、そのラピスの初代領主の聖印だけは、なぜかそれが可能だったようである。その理由は分からないが、君主達の中には、極稀に、そのような特殊な力を持つ者もいる(エルムンドの七騎士の一人、パウザ・ディ・ネラの「愛の聖印」もまた、その一種と言える)。そして、ルークはその聖印の力を引き継いでいるらしい。

「そして、私はこの世界のどの生き物よりも強力な『混沌を嗅ぎ分ける特殊な嗅覚』を有していたからこそ、あの地に生息する透明妖精達を相手に戦うことが出来た。私はプロキオンの指示に従ってあの地を切り開き、プロキオンの手でラピスの村が作られた。彼がラピスの村を築いた後も、たびたび透明妖精が出現することはあったが、私の八つの『邪紋珠』の力があれば、並大抵の者では、わたしに傷を与えることすら出来なかった」

 この辺りのくだりは、一般的に知られているラピスの開拓神話と同じ内容である。ただし、邪紋珠の存在だけは、領主一族にのみ伝わる「秘伝」とされてきたらしい。

「ところが、そんな中、私では対処出来ないほどの強力な敵が現れた。それが、あの『妖刀のオルガノン』だ。奴の剣は変幻自在。私の力を以ってしても全く歯が立たないまま、私は奴に倒されてしまった。そして、最後の力を振り絞って、私の中の八つの邪紋珠を、奴に吸収される前に『その力を受け継ぐに相応しい者達』の元へと届くように四散させたのだ」

 これは、シリウスが「八房」だった頃に、元の世界で似たような形でその力を他人に分け与えた経験があったことから、この世界でも同じことが出来るかもしれないという、一種の賭けに基づいた行動であったのだが、どうやら無事に成功し、その結果として力を受け取ることになったのが、この八人だったようである。
 彼等の邪紋珠は互いに近付くごとにその力を増す。八人中七人が揃った時点で、ロディやエルバやレピアの邪紋が強く疼き始めたのは、まさにその邪紋の急成長の証であった。そして今、遂に八つの邪紋珠が一箇所に揃ったことで、その力は最高潮に達しようとしていたのだが、シリウスには今のこの状況が、同時に非常に危険な状態に思えた。

「今のお主らは、邪紋の力を完全に覚醒させてはいない。それはお主達の心がまだ完全に一つになっていないからだ。しかし、お主達が心を一つにして、その力を完全に覚醒させると、おそらくお主達の力では、その邪紋の力を制御することが出来ないまま、暴走を始めてしまうだろう。それを防ぐためには、かつての私がそうしたように、一度、ラピスの君主の聖印に返した上で、改めてその君主から『従属邪紋』として受け取る必要がある。ただし、ラピスの聖印の君主が死んだ場合、その邪紋としての安定性は失われ、再び危険な状態に陥るということは、覚悟する必要があるのだがな」

 つまり、ルークならば、彼等の邪紋を取り外した上で、従属聖印と同じように「従属邪紋」として彼等に分け与えることが出来る、ということである。もっとも、船の中でレピアを救った時のように、ルークには邪紋を部分的に切り取る力もあるため、完全にルークにその邪紋を捧げなくても、定期的にルークが検診するという形での対応も可能と言えば可能である。
 更に言えば、ルークには、邪紋を受け取った上で、それを彼等に返さずに、他の者に与えるという選択肢もあるし、完全に浄化して自分の聖印の一部として取り込んでしまうことも出来る。ただし、後者の場合、シリウスの持っていた特殊な力はルークに継承される訳でもなくそのまま消滅してしまうので、少なくとも透明妖精の問題がある以上、あまり得策とは言えないだろう。

「お前達は、私の力を受け継ぐにふさわしい魂の持ち主の筈だ。少なくとも、その資質を持つ者でなければ、その邪紋珠は受け取れない筈。だが、そこの『プロキオンの名を継ぐ者』以外は、ラピスとは関係のない者ばかり。だから、お前達自身が望まないのであれば、その力をラピスの君主に返して、君主が別の者にその邪紋を与えるということも出来る。そのことを踏まえた上で、どうすべきか各自が決断すれば良い」

2.6. 決意と決起

 シリウスがマライアにそう言い終えると、マライアは正直に、ここまでシリウスが語った話を、全てそのまま皆に伝えた。彼等に全ての真実を伝える必要はなかったかもしれないが、あえて「他の者に預ける」という選択肢もあるということを踏まえた上で、彼等の協力を仰ぐべきだと彼女は判断したのである。
 実際のところ、レピアとしては、帰ることも選択肢の一つとして十分に考え得るだろう。力を失った状態でも、ガブリエラの元に長く侍ることが出来るなら、それはそれで彼にとっては悪くない。邪紋使いという存在自体が、極めて不安定な存在でもある上に、ルークの死によってその不安定性が更に加速されるという事実を聞かされた上で、彼に今後もついていくかどうかについては、改めて一考する必要があるだろう。
 フィアに関しても、ルーク達に対してそれほど強い恩義を感じている訳ではない上に、もともと気まぐれな性格である。力に対する執着もそれほど強いとは言えない以上、「自分でなくても良い」と言われたら、その力を誰かに預けて気ままな旅に戻る、という道も、彼女にとっては悪くない選択肢と言えるだろう。
 また、ティリィに関して言えば、それとは別次元の問題として、よりによって「死神」の力を与えられたことに、複雑な心境を抱いていた。「死神」としての自分を受け入れ始めていた彼女ではあったが、それでも、その力を与えられたことが「偶然」ではなく「必然」と言われたことで、なんとも言えない心境に陥っていたのである。
 そんな彼等の心境を慮ってか、一通りの説明を終えた上で、マライアは八人の邪紋使い達に対して、そのまま真剣な表情で語りかけた。

「今まで、まともに言えてなかったのですが、ラピスを混沌災害から救いたいという私の個人的な思いのために、これまで皆さんについてきてもらったことに、心から感謝しています」

 そう言って、深々と頭を下げつつ、彼女は話を続けた。

「その上で、私としては皆さんに、このまま最後まで協力していただきたいです。他の人に預けるのではなく、皆さんにお願いしたいです。何か事情や考えがあって、どうしても協力出来ないということであれば、無理にとは言えませんが……、ラピスの混沌災害をおさめる意思があるならば、このまま、私についてきて頂けませんか?」

 これまでにないほどに切実な表情で訴えかけるマライアに対して、一瞬の沈黙が流れる。そして、この沈黙を最初に破ったのは、ロディであった。

「そこまで深く思いつめなくても、単純に『協力してくれ』でいいんじゃない? なんだかんだで、ルークさんにもマライアさんにもキヨさんにも皆、世話になってるんだし。どうせ皆だって、そのことくらいわかってるんでしょ」

 彼の中では、今更改まってこんなことを言われなくても、ここまで身を来て引くつもりはサラサラ無かった。
 そして、そんなロディに続いて、今度はレピアが口を開く。

「誰かに任せる形で楽が出来るなら、いっそ帰ろうかとも思ったけど、僕の力が必要と言われたからには、僕も行くよ。そもそも、こないだの船の中で暴走しかかった時点で、一度、僕の邪紋はルークさんに預けられたようなものだしね」

 いつも通りの坦々とした口調で、レピアはそう答える。その本音がどこにあるのかは相変わらずよく分からないが、少なくとも、ガブリエラから「ルーク達を助けてほしい」と頼まれている以上、その願いを放棄してマージャに帰るという訳にもいかなかった。
 そして、彼と同じくこの任務が終わったらマージャに帰還する予定のティリィもまた、(心の中のモヤモヤはひとまず放置した上で)改めて決意を固める。

「私も同じです。死神と呼ばれた私と一緒にいた皆さんが、最後まで無事に生還出来るところまで、私は一緒に見届けたい」

 一方、そんな彼等の傍で、プロキオンは部下達に視線を向けた上で、勢い良く頭を下げた。

「皆さん、すまないッス、俺、どうしてもラピスに行かなきゃいけないッス。だから、連合を追い返したこの人達に恩返しするために、ちょっとだけ、おヒマを下さい」
「いや、それは、俺たちに言うべきことじゃないっすよ、隊長」
「そのことを、バット隊長に伝えてほしいッス」
「とりあえず、もう伝令は出してるんで、隊長が来てから、直接言って下さい」
「あ、そうなんスか?」

 どうやら、プロキオンが伝令の命令を出すのを忘れている間に、部下が勝手に伝令兵を走らせていたらしい。指揮官によっては「余計なことを!」と言って怒るかもしれないが、プロキオンは素直にその配慮に感謝していた。

「私はもとより、彼についていくと決めてきたんだ。ユイリィ様との約束もある」

 フリックは静かにそう語る。彼もまた、今更このタイミングで抜ける理由はない。もっとも、戦いが終わった後は、彼はヴァレフールに帰還することが前提となっている以上、状況によっては、その帰還後にヴァレフールとアントリアが戦うことになった場合、ルーク達と刃を交えることになる可能性もある。その場合、自分の邪紋がルークに従属した状態のままというのは望ましい状況とは言えないが、それでもおそらく、ユイリィやマイリィは(可能な限り、ルークとの戦争を回避するという前提の上で)自分が邪紋をルークに捧げることに、異論は挟まないだろう。長年彼女達に仕えてきたフリックは、そう確信していた。
 これに対して、より厄介な立場にいたのは、エルバである。彼女にはグリースのマックイーン牧場の人々への恩義と同時に、幻想詩連合に属するアロンヌの領邦国家ルマに仕える弟との関係という難題も抱えていた。

「ティスホーンで6人に世話になって、ここまでずっとついてきたんだ。私も一度決めたことは、最後までやり遂げないと気が済まない。だから、これから先もルークさん達についていきたい。だが、同時に、私は連合の人達にも世話になってるんだ。さっきは勢いで戦ってしまったが、出来れば今後は、連合諸国とは戦いたくないと考えているんだが、それでもいいなら……」
 言葉を濁しつつそう語るエルバに対して、横からラスティが口を挟んだ。

「それを言うなら、俺は今でも自分はヴァレフール人だと思っている。ただ、俺は親父殿から、ラピスを混沌災害から救えと言われてる以上、少なくともそれが終わるまでは、ルークを助けるのが俺の義務だ。俺もお前も、その後のことは、その後で考えればいいじゃねぇか」
「ラスティ……、アンタ、たまにはいいこと言うじゃないか!」

 今のエルバにとっては、ある意味、このラスティの単純明快な理論が救いであった。こうして、彼等が諸々の迷いを(ひとまず)断ち切る中、最後に残された少女は、この状況を楽しむような表情を浮かべていた。

「フィア、どうしよっかなぁ……」

 そう言いながら、彼女はフリックに視線を送る。その意図を察してか否かは分からないが、フリックはいつも通りの誠実な姿勢で、彼女に対してこう告げた。

「いきなり、こちらに連れてきて、正直、迷惑だったかもしれない。だから、無理にとは言えない。君の性格上、こういう責任ある戦いには向かないのかもしれない。ただ、私の思いとしては、この戦いは、しっかり鎮めておきたい。そのためには、君の力は必要だと思う」

 そう言われたフィアは、満面の笑みを浮かべながら、マライアに向かって告げる。

「盾のお兄さんが、どーーーしてもついてきてほしいと言ってるから、ついていくよ」

 彼女はそう言いながら、もう一度チラッとフリックに視線を送ると、彼も笑顔を浮かべながら、「あぁ、よろしく頼むよ」と答える。もっとも、フィアとしては、どちらにしても「子供達に見せるための紙芝居」を作るために、最後まで見届けるつもりではあった。
 そして、この一連の宣言を聞き終えた上で、今まで黙っていたルークが、ようやく自らの思いを言葉にする。

「皆の決意は、しかと受け取った。それぞれに事情もあるだろうし、こんなことになって、それぞれ急に力を得たことで、色々な苦悩があったかもしれない。でも、そんな中で、今まで旅を続けてきてくれて、そしてこれからも力を貸してくれて、本当にありがとう。最後の戦いも、よろしく頼む」

 そして、彼は改めて、マライアに視線を向ける。

「マライア、君も今までずっと旅をしてきて、我が故郷のため、元契約魔法師として、本当にこれ以上なく尽くしてくれた。本当にありがとう」

 マライアにしてみれば、むしろ自分の魔法師としての矜持を貫くためにルークを巻き込んだという気持ちの方が強かったので、今更ルークからこのような言葉をこのタイミングで貰えるとは思っていなかったようだが、この場は素直にその気持ちを受け止めた。
 その上で、最後に残った一人(一刀)に対しても、ルークは思いの丈を述べる。

「そして、キヨさん。あなたも、ここまで本当についてきてくれて、ありがとうございます。今回の混沌災害は、あなた自身にとっては直接関係のないことの筈です。それに、他の方々と違って、シリウスの力が宿っている訳ではありませんし、それこそ、今回の戦いにおいても、絶対に協力してもらわなければならない立場ではなかったのですが、それでもここまで手伝って下さったことには……」

 ルークが言葉を選びながらここまで言ったところで、突然、マライアが割って入った。

「いや、キヨさんの力は、どうしても必要なんですよ」
「え?」
「シリウスが言うには、あの妖刀の魔人を倒せるのは、キヨさんしかいないんです。色々あって、皆には言ってませんでしたけど……」

 そう、実はマライアはこの件について、最初にシリウスに会った際に伝えられていたにもかかわらず、誰にも話していなかった。別に隠していた訳ではなく、純粋に「話すべきこと」が多すぎて、忘れていたのである。そしてキヨもまた、あえて自分の存在意義を強調するようなことを口にする性格ではないため、ルーク達にはその事実が全く伝わらないまま、ここまで来てしまっていたのである。
 シリウスは、あの妖刀の魔人の混沌核を浄化することが出来るのは、ラピスの領主の聖印だけだと言っていた。その理由はおそらく、ラピスの領主の聖印の持つ「邪紋を切り離して浄化する力」であろう。それがあるからこそ、「邪紋の連結体」である彼の混沌核を浄化することが出来る。このことは、これまでの話を総合すれば推測は出来る。
 だが、それ以前の問題として、まずあの妖刀の魔人を倒して混沌核の状態にすることが出来るのがキヨだけだというのが、ラピス陥落直後にシリウスが森で出会ったマライアとキヨに伝えた見解であった。その理由は未だに不明であるが、おそらくそれは、キヨが妖刀の魔人と同じ世界の出身であることと関係しているのだろう。透明妖精達を倒せるのはシリウスの力の後継者達だけであるが、 「暁の牙」のヴォルミスですら倒せなかった妖刀の魔人を倒せる可能性があるのは、キヨしかいないらしい。だからこそ、キヨはこの戦いから絶対に欠かすことが出来ない人物だったのである。
 そのことを突然聞かされたルークは、やや困惑しつつも、改めて話を続ける。

「と、とはいえ、それでも、キヨさんの立場にしてみれば、手伝う義理がないと言えばないと思うのです。先のパルテノでの一件もありますし、先ほどの撤退していった船団も含めて、おそらくあなたを必要としている人は、他にも沢山いるのでしょう。ですから、私達よりも他の人達のことを優先したいと仰るのであれば、それを止める権利は私にはありません。しかし、それでも、このまま私達に協力して頂けるのであれば、この上なく心強く思います」

 色々と複雑なキヨの立場を慮った上でのルークの発言であったが、キヨの中では、もう今更迷うべき要素は何も残っていなかった。

「私が手伝うべき義理があってもなくても、初めてシリウスの声を聞いた時から、私はラピスを救うために、私に出来る限りのことはしようと決意してここまで来ました。ですから、私にも最後まで協力させて下さい」

 それが、キヨの「武具」としての矜持であり、生き様である。改めてその言葉を確認したルークは、この掛け替えのない仲間達と出会えた運命に感謝しつつ、自らの聖印を掲げる。

「君達の力を、私に一度、預けてくれ」

 そう言われた八人の邪紋使い達は、それぞれに自らの邪紋を彼の聖印に向けて掲げる。すると、ルークの聖印は強い輝きを放ちながら彼等の邪紋を吸収し、その上で、再び彼等の元にその力を返した。
 その結果、邪紋使い達は、自らの邪紋の力が、ルークに預ける前よりも遥かに強くなっていることを実感する。今の自分ならば、たとえ数千の敵軍が相手でも、怯むことなく一人で立ち向かえそうな、そんな圧倒的な力を感じていた。ましてやそれが八つも集まっているこの状況で、もはや彼等に恐れるものは何もなかった。

「皆、必ずラピスを解放しよう! そして、皆で揃って生きて帰ろう!」

 ルークがそう叫ぶと、彼等は黙って頷く。そして、その様子を確認したマライアの中の「シリウスの残留思念」は、ゆっくりと消滅していった。こうして、ラピス解放を目指す彼等の旅は、いよいよ最終局面へと突入することになったのである。

3.1. 遠征軍の事情

 だが、この状況に至っても、まだ彼等には一つ、重要な問題が残っていた。それは、プロキオンのブレトランドへの帰還を、彼の上官であるバットに認めさせなければならない、ということである。
 程なくして、プロキオンの部下が放った伝令の報を受けたバットとセリーナが魔境から帰還し、彼等の本来の駐屯地にて、プロキオンおよびルーク一行と合流することになった。

「久しぶりね、マライア。生きてることは分かってたけど、まさかランフォードに来るとは思わなかったわ」

 セリーナは、義妹であるマライアに対してそう語りかける。プロキオンに対する時は厳格な軍師として接するが、「家族」としてのマライアに対しては、やや穏やかな口調で接する。ちなみに、彼女は時空魔法師ということもあり、実はマライアの生存だけは予知能力によって確認出来ていたらしいが、それ以上のことまでは読み取れなかったらしい。

「バット様の元に仕えるというのなら、歓迎したいところだけど、そういう訳ではないみたいね。とりあえず、事情を説明してもらえるかしら?」

 そう言われたマライアは、二人の共通の義姉であるアンザの豹変ぶりも含めて、ここに至るまでの経緯を全て、事細かに彼女に説明した。その上で、セリーナは(マライアが自分に対して嘘をつくとは思えないという前提を踏まえた上で)訝しげな表情を浮かべる。

「正直、いくら異界に飛ばされたからと言って、あの人がそんなことをするとは思えない。あの人の名を騙る偽物か、あるいは、何者かに乗っ取られている可能性が高いと思うわ」

 確かに、冷静に考えてみれば、その可能性も十分に考慮すべきであろう。というよりも、正直なところ、マライアとしてもそう考えておいた方が気分的には楽な筈である。そのような「楽な思考法」になかなか至らない辺りに、マライアの不器用な性格が表れているとも言えよう。
 一方、そのセリーナの契約相手であるバット(下図)は、まず最初に、ルーク達をここまで連れてきた女海賊アクシアに対して一礼する。バットは、元来は「流浪時代のダン・ディオードに拾われた孤児」であり、剣技の才能を見込まれて彼の従属騎士となって、そのままアントリアに仕えることになった身なのだが、ダン・ディオードと共に各地を放浪していた時代に、何度かアクシアに世話になった関係らしい。


 その上で、彼はルークとマライアから一通りの事情を聞き、ラピス解放のためにプロキオンを連れていきたいという彼等の要請に耳を傾ける。彼は(同世代のライバルである現子爵代行のマーシャルとは対照的に)直情型の熱血漢であり、混沌災害を晴らすための協力ということであれば、すぐにでもプロキオンの派遣を認めてくれるだろうとルーク達は期待していた。
 だが、その彼はその要請に対して、非常に険しい表情を浮かべる。

「事情は分かった。分かったが、正直、今、お前にいなくなられては困る。今、ギルフィアと魔境の二正面作戦を続けるには、お前の力はどうしても必要なんだ」

 プロキオンに対して切実な視線を向けながら、バットはそう告げた。ルーク達の活躍もあって、ハルーシアからの援軍の半分は撃退したものの、まだ「主力艦」の方が残っている、というのがセリーナの見解であった。
 セリーナの予言が正しければ、ルーク達が倒したのは、「異界の英雄のレイヤー」を中心とする部隊であったのに対し、主力艦の方に乗っているのは、彼等が模倣する「本体」とでも呼ぶべき「異界の天才剣士」の投影体であるという。噂によれば、その異界の天才剣士は、彼の降臨を切望する多くの彼のレイヤー達の願いが結実する形で、この世界に出現することになった存在らしい。もっとも、その存在は伝承ごとに異なっており、同じ人物を模倣しているにもかかわらず、それぞれのレイヤーは全く異なる姿や戦闘法の持ち主であったらしい。
 この難敵が残っている状態で、プロキオンがこの地を去ることは、魔境とギルフィアの二正面作戦を続けている今の彼等にとっては、致命的な損失となりうる、というのがバットとセリーナの見解である。アントリアの事情だけを考えるのであれば、同盟国であるウィンザレアの防衛のために自国の混沌災害の対応まで手が回らなくなるというのは本末転倒ではあったが、バットとしては、ここで友邦を見捨てるという選択肢を取ることは仁義に反する行為であった(更に言えばセリーナにはそれに加えてもう一つ、重要な「裏の思惑」もあるのだが、それに関しては、少なくともこの時点では彼女は口に出さない)。

 こうして、それぞれの「解決すべき課題」の優先順位が異なるという、非常に厄介な形での意思の衝突から、話し合いは平行線に陥ろうとしていたが、そんな中、予想外の報が彼等の陣営に飛び込んできた。

「ハルーシアからの遠征軍の隊長を名乗る者が、面会を求めています」

 その隊長の名は、沖田総司。地球時代の加州清光と大和守安定の、共通の持ち主であった。

3.2. 異界の剣士

「あなたが清光、ですか? 確かに、あの池田屋の時の匂いがしますね」

 そう言って、アントリアからの遠征軍の陣に現れた人物は、紛れもなく、キヨの記憶の中にある沖田総司その人であった(下図)。


 そして、その傍らには、先刻船首で見掛けたあの女性がいる。その腰には、エルバの日本刀と同じ刀が差されていた。

「大和守安定です。そちらの方の腰に差されているのは、おそらく、ヴェリア界を経由する前の私なのでしょうね」

 エルバの予想通り、彼女もまた、キヨと、そしてアクシアの部下の少年と同じ「武器のオルガノン」であった。このような短期間で、自らの相棒と呼ぶべき二本の武器のオルガノンと遭遇するという奇跡に、エルバは感動を通り越した何とも言えない感慨に浸っていた。しかも、今、自分の眼の前にいるのは、キヨの話を通じて「自らが目指すべき剣士の姿」として憧れていた沖田総司である。もはやこれは、何者かによって仕組まれた巡り合わせとしか思えなかった。
 だが、そんなエルバの感慨など知る由もない当の総司は、にこやかな笑顔で彼女の横に立つキヨに語りかける。

「この安定や、あなたの他にも、この世界に来ている人はいるのかもしれませんね。もしかして、もう既に誰かに会いましたか? 近藤さんとか、土方さんとか、あるいは、鉄くんとか」
「いえ、新撰組の人達とは、まだ誰も……」
「そうですか。ただ、聞いた話では、どこかの傭兵団に、薩摩藩邸の隊長さんがいたとか。いやー、可愛かったですよね、あそこの犬」

 地球にいた頃と変わらぬ穏やかな口調で、彼は無邪気にそう語る。おそらくそれは、ティスホーンで出会ったあの巨漢の男のことであろう。その話が出た時点で、キヨはもう一人の重要人物のことを思い出した。

「会ってはいないのですが……、以蔵の気配を感じました」

 厳密に言えば、それはおそらく、以蔵そのものではなく、以蔵の愛刀である肥前忠広(妖刀の魔人)の気配である。もっとも、このようにキヨ(と安定)と総司が同時にこの世界に存在していることを考えれば、あの妖刀とはまた別に、どこかで以蔵本人が出現している可能性は、十分にあり得る。

「そうですか。彼の剣には独特のクセがありますからね。初対面では彼の一撃は絶対に避けられないですし。私も、あなたがいなければ、おそらく彼の一撃で命を落としていたでしょう。ただ、あなたは京都で何度も彼と戦っている筈です。もっとも、それは向こうも同じかもしれませんが、それでもあなたであれば、おそらくこの世界で彼と対峙することになっても、きっと彼の剣技に対抗することが出来るでしょう」

 この話を聞いて、キヨだけでなく、ルーク達の大半はシリウスの言葉を理解した。おそらく、キヨでなければ肥前忠広に勝てないというのは、同じ世界の出身であるということ以上に、その「対戦経験」の問題なのだろう。希代の天才剣士と共に、その「以蔵の剣」と戦った経験があるキヨだからこそ、彼を倒すことが出来る唯一の存在であるとシリウスは考えていたようである。
 もっとも、シリウスが本当にそこまで分かっていた保証はない。ただ単に、同じ世界から来たからという理由だけでそう言っていただけかもしれない。あるいは、逆に考えれば、「自分を倒した妖刀と戦える存在に出現してほしい」というシリウスの最後の願いが、時空を超えてキヨを呼び出したという可能性も無いとは言い切れない。この沖田総司が、彼を慕うレイヤー達(その中の何人かは先刻倒されてしまった者達)の願いに応じて出現したというのが本当ならば、そのような形でシリウスの願いが反映される可能性も、一考に価すると言って良かろう。
 だが、その二人の会話を皆が聞いている中で、一人だけ、他の者達とは全く異なることを考えていた者がいた。エルバである。彼女は突然、二人の会話に割って入るように、総司の前に身を乗り出した。

「私に、稽古をつけてもらうことは出来ませんか?」

 それは、純粋に「沖田総司のレイヤー」を自負する者としての願いでもあるが、彼の剣技を身につけることによって、自分もまたキヨと同様に、あの妖刀の魔人と戦える力を得られるのではないか、という淡い期待である。
 突然そう言われた総司は目を丸くして驚くが、すぐに穏やかな笑顔に戻って答える。

「いいですよ。何をどこまで教えられるかは分かりませんけど」

 だが、その直後に、今度は彼の傍に立つ「安定のオルガノン」が割って入る。

「そういうことなら、まずウチに入隊するのが筋ではないですか? 少なくともあなた方は、今の我々から見れば敵軍です。既に多くの同胞を斬り殺した身でありながら、敵である我々に対して、いきなり剣の稽古を申し出るなど、あまりにも非常識すぎます」

 もっともな主張である。だが、エルバとしては、ここで引くことは出来なかった。

「私はもう、こちらの君主様についていくという誓いを立ててしまったのだ。彼等にはこれまでも世話になっているし、その恩義を反故にする訳にはいかない。ただ、ラピスにいる妖刀を倒すために、キヨさんの力が必要というのなら、あなたの剣を引き継ぐ私でも、鍛錬すればその力を得られるかもしれない。虫のいい話に聞こえるかもしれないが……」

 そんなエルバの切実な願いに対して、総司が安定と顔を見合わせながら、やや困った表情を浮かべている中、ルーク達の隣でずっと黙って話を聞いていたバットが、しびれを切らしたように口を開く。

「で、わざわざここに出向いて話に来たのは、昔の仲間との雑談のためだったのか?」

 そう言われた総司は、やや苦笑を浮かべながら答える。

「それもあるんですが……、とりあえず、カサドールの魔境が大変なことになっているようなので、ひとまず、一時休戦しませんか? というのが、今日の本題です」

 突然の申し出に、一瞬にしてその場が沈黙に包まれる。彼はそのまま話を続けた。

「こちらも、部下が先ほど、そちらの方々を相手に痛い目をみていますが、それについては水に流しますので」
「水に流すもなにも、それは一方的に攻め入ったお前達の自己責任だろうが!」

 バットは語気を荒げてそう答えるが、彼の本音としても、このタイミングでの休戦はまさに望むところである。もともと、バットも(実質的な育ての親である)ダン・ディオードと同様、「人間相手の戦争」よりも「魔境の浄化」を優先したいと考える性分であり、彼の本音としては、これほどありがたい話はなかった。
 しばしの間、熟考した上で、セリーナと顔を合わせた彼は、彼女が無言で頷くのを確認した上で、結論を告げる。

「まぁ、いいだろう。そういう話なら、少なくとも我々アントリア軍は同意する。『ウチのお嬢』がそれに対して異論を唱えるかもしれないが、あくまで『アントリア軍とハルーシア軍の間の協定』ということであれば、文句を言われる筋合いもない。多分、お前達にとっても、その方が都合は良いだろう?」

 「ウチのお嬢」とは、ウィンザレア男爵イリア・マーストンのことである。女尊男卑の優生思想の持ち主である彼女のことを、バットは決して優秀な君主だとは思っていないが、ダン・ディオードのことを流浪時代から「親父殿」と呼ぶ彼にとって、彼女は「義理の従姉妹」のような存在であり、共にダン・ディオードの治世を支えるための同志であると考えていた(少なくとも、彼の中では「突然認知されたばかりの庶子」にすぎないマーシャルよりも、ずっと前から彼の姪として生きてきたイリアの方に、強い同胞意識を感じている)。

「まぁ、そうですね。私達も、アントリアからの援軍であるあなた達に対抗する必要がある、ということで、ハルーシアから呼ばれて来た訳ですが……、出来ればあなた達と刃を交えるよりも、まず人類社会にとっての共通の脅威である混沌を退治することを優先したいです。もっとも、その混沌の産物である私が言っても、説得力はないかもしれませんが」

 穏やかな笑顔を浮かべながら総司はそう語りつつ、バットと握手を交わし、ここに両派遣軍間の一時的な休戦協定が結ばれた。総司がこの決断に至った背景には、先刻の戦いでの被害の大きさから、「これ以上、異国の事情で無駄に兵士を減らしたくない」という思惑があったことは言うまでもなく、その意味では、ルーク達の活躍によって引き出された妥協策であったことは明白である。
 その上で、目的を果たした総司は上機嫌のまま、改めてエルバの話を聞く。

「で、その稽古とやらは、今すぐやらなければならないことなのですか?」
「ラピスの混沌災害は、日に日にその勢いを強めています。いずれその脅威は、大陸にまで及ぶかもしれません。ですから、大変身勝手とは思いますが、その『イゾウ』なる人物の剣技に対抗する術を教えて頂きたいのです」

 実際のところ、ラピスの災害が大陸にまで影響を及ぼすかどうかは分からないが、そう言っておいた方が、話を容易に進められるであろうと彼女は考えていた。そして、内心では既に彼女に協力したい気持ちに成っていた総司としても、本当にそこまでの脅威があるのかどうかは分からなかったが、「そういうこと」にしておいた方が、彼の傍の「オルガノンの方の安定」も納得するだろうと考え、あえてその点に関しての詳細な説明は求めなかった。
 総司自身は、国家勢力間の駆け引きに関しては、あまり関心がない。現在のハルーシア(および連合)の盟主であるアレクシス・ドゥーセのことが個人的に気に入ったからこそ、彼の旗の下で働く意思を示してはいるが、連合と同盟のそれぞれの大義についてまで理解している訳ではない。また、先刻の戦いで自分を慕う多くの者達が命を落としたのは気の毒だとは思うが、それが戦争というものである以上、彼等を殺したエルバ達を恨むつもりも毛頭無かった。

「そうですね。では、全部終わった後で、また一度、清光と一緒に遊びに来て頂きましょうか。もちろん、あなたの腰にある安定も一緒に。それが、交換条件です」

 そう言って、エルバに剣技を教えることを承諾する。彼にとって重要なのは、剣を教える相手が、その剣を正しい道に使ってくれるかどうか、ということである。その点に関して言えば、混沌を祓うために剣技を教えてほしいと考えるエルバの主張は筋が通っていたし、何より、彼女が自分と同じ「大和守安定」を使っているという事実が、「きっと彼女はいい人に違いない」という思い込みに繋がっているようである。
 逆に安定は、自分が総司以外の者に使われていることに対して違和感を覚えたことから、彼女に対してやや警戒心が強くなっていたようであるが、最終的には総司が稽古をつけることを認めた以上、それ以上反論する気はなかった。

3.3. 新たな任務

 こうして、派遣軍の陣の外で、総司とエルバが独自に剣の稽古を始めることになった訳だが、残りの十人は、この「状況の変化」を踏まえた上で、改めてバットとの交渉に臨むことになった。当然、このウィンザレアを囲む二つの脅威のうちの片方が消滅したのだから、ルーク達としては強気にプロキオンの派兵を要請したいところであったが、彼等の機先を制するように、まずセリーナが口を開いた。

「ハルーシアの隊長との和議は成り立ったものの、ギルフィアの男爵がそれに同調する保証はありません。状況によっては、同調した振りをして奇襲をかけてくる可能性もありうるでしょう。警戒すべき状況が続いている点は、今も変わりません」

 だが、それに対しては、ルーク達よりも先にバットが切り返す。

「確かにそうだな。だが、少なくとも前よりは遥かに余裕のある状態になったことは確かだ。そして、その状況を作り出したのがこいつらであることは間違いない。そうだろう?」

 バットは義侠心に厚い男である。彼等から借りを受けたとあれば、彼等からの要請を無下に断る訳にはいかない、という気持ちが既に芽生えていた。だが、そんな主君だからこそ、セリーナとしては、ただ黙ってプロキオンという「重要なコマ」を貸し出すことを、簡単に認める訳にはいかない。

「確かにそうです。彼等の存在は、このウィンザレアの戦局を大きく変えたことは間違いないでしょう。だからこそ、これだけの実力を持つ彼等を今後どのように遇するのか、という点についても、この時点ではっきりさせておくべきだと思います」
「どういうことだ?」

 彼女言うことを理解しきれていない様子の主君を横目に、セリーナはルーク達に対して、こう言い放った。

「プロキオンを貸し出すのであれば、ルーク殿には、バット様に聖印を預けていただきたい。プロキオンには、それだけの価値があります」

 すなわち、ルークにバットの「従属騎士」になれ、という要求である。確かに、この要求を彼等が飲んだ上でラピスの解放に成功すれば、バットの今後のアントリア内における立場は飛躍的に向上するだろう。だが、この要求がさすがに過大であることはセリーナも分かっている。あくまでも、少しでもバットに利益をもたらす形での交換条件を引き出すための、最初の一手のつもりであった。
 だが、まずそもそも、ルークを従属騎士化するために彼の聖印をバットにひとまず預けて彼の聖印と融合させた時点で、代々受け継がれてきた「ラピスの領主の聖印」としての特殊な力が維持できる保証もない。マライアがその旨について説明すると、セリーナはそのことに納得した表情を浮かべつつ、より現実的な妥協案を引き出すために、まず、根本的な問いを投げかける。

「ルーク殿は、ラピスを解放した後、誰に仕えるつもりなのですか?」

 現在のアントリア子爵はダン・ディオードであるが、彼はコートウェルズに遠征に行ったまま、いつ帰ってくるかも分からない状態である。彼の代役として庶子の(バットとは犬猿の仲の)マーシャルが子爵代行を務めているが、アントリアの四人の「男爵級君主」のうち、マーシャルの義父にして伯父でもある騎士団長バルバロッサ以外の者達は、どこまでマーシャルの方針に従うつもりなのか、今ひとつ考えが読めない。この後の状況次第では、いつ誰が謀反を起こしてもおかしくないし、場合によっては、そこに旧子爵家(カークランド家)の者達や、他国の勢力も絡んだ形での複雑な覇権闘争が発生する可能性もある。
 バットを皇帝聖印へと導くことを目指すセリーナとしては、今後アントリアで内戦が発生することも見越した上で、今はバットにはこのウィンザレアで着実に実力と功績を手に入れるべきだと考えている。その上で、アントリア本国内のパワーバランスについては常に気を配っている彼女だからこそ、ここで「ヴァレフールの騎士家」と縁の深いルークが、どのような立場を選ぶかは、非常に重要な問題であり、まずその意思を確認した上で、バットにとって最良の成果をもたらす妥協案を引き出すことが、自分の使命だと考えていた。
 だが、残念ながら当のルークの中には、ラピス解放後の具体的な方針は、全く固まっていなかった。そもそもルークの中では、未だにアントリアに仕えることへの抵抗もある。その点に関しては、先日のアニーとの会話の時点から、彼の考えはあまり変わっていない。更に言えば、今後、誰がアントリアを治めるべきなのか、そして、真にグランクレストに相応しい者は誰なのか、という点に関しても、それを判断出来るだけの知識が足りない、というのが彼の本音であった。

「私は……、ラピスの浄化が成された後は、私自身がラピスを治めたいと思います。ただ、他の者達については、それぞれ自分の意思で自分の進む道を決めてほしい」

 つまり、プロキオンがバットの元に戻りたいと願うのであればそれを止める気もないし、他の者達がアントリア内外のどの勢力に協力することになったとしても、その意思を尊重する、という方針である。彼等を率いた上でアントリア内に一大軍閥を築こうという意思はない、ということは、ルークとしてはこれではっきりと伝えたつもりであった。
 だが、それに対して、セリーナは最も根本的な問題を改めて問いかける。

「では、あなた自身はどうしたいのですか?」

 はっきり言ってしまえば、ルークとしては、アントリアを誰が治めるかは、どうでもいいことだと思っている。というよりも、ダン・ディオードのことも、マーシャルのことも、バットのことも、他の有力軍閥の人々のことも、ヴァレフールでの暮らしが長かった彼は、何も知らない。何も知らない以上、誰の下に仕えるのが人民のためになるのか、という点についても、どう判断すれば良いのか分からなかった。
 そんなルークが返答に困ったまま黙していると、この一連の「まどろっこしいやりとり」に対する苛立ちが頂点に達したバットが、声を荒げて言い放つ。

「もういい、セリーナ! こんな中途半端な態度の部下など、俺はいらん! そして、この程度の奴に、大事なプロキオンをくれてやることも出来ん!」

 彼はそう言い切った上で、プロキオンに向かってこう告げた。

「お前には、今から新たな任務を与える。それは『リンの散歩』だ」

 突然の意味不明な通告に皆が一瞬困惑する中、彼はそのまま言葉を続ける。

「……ブレトランドまでな」

 次の瞬間、その意図を察したプロキオンが、感激した表情を浮かべながら敬礼する。

「わ、分かったッス、隊長!」
「お前の自慢の故郷を見せてやれ。そして、ちゃんと連れて帰って来いよ」
「分かりました!」

 そう言って深々と頭をさげるプロキオンを一瞥しつつ、バットはこの場を立ち去り、再び南方の魔境へと向かう。結局、何の交換条件も引き出すことが出来なかったセリーナはやや落胆しつつも、この度量の広さこそがバットの君主としての魅力でもあるということを改めて実感する。そして、プロキオンがこのバットの「侠気」に応えて、早く使命を終わらせて戻ってくることを切に願う彼女であった。

3.4. 決戦の地へ

「リン! お許しが出たッスよ! 一緒にブレトランドへ行くッス!」

 そう言って、バットから預かったリンに語りかけるプロキオンであったが、気分を高揚させている彼とは対照的に、リンはどこか面倒くさそうな意思を示す。正直、彼女はプロキオンにもなついてはいるものの、飼い主のバットと離れるのは寂しいし、また長い船旅をさせられることに対しても、あまり心地良く思ってはいなかった。
 そんな彼の傍で、例によって例のごとく、キヨがリンに触れたくてウズウズしながら眺めていると、フィアがすっとキヨの横に立ち、そして彼女の手に、あるものを手渡す。

「刀のお姉さん、これをどうぞ」

 それは、パブロから(本来はマリベル姫の愛犬用に)預かっていた乾燥肉である。結局、誰にあげれば良いのかを(実質的には察しつつも)はっきり言われなかった彼女は、誰に渡すタイミングもないまま、ずっと懐にしまっていたのである。
 それを受け取ったキヨは、そのままおもむろにリンに近付くと、その匂いに反応したリンは、すぐにキヨに向かって駆け寄り、そのまま身体をキヨにこすりつけて、その乾燥肉をねだる。今まで触れたことのないサルーキという品種の犬の感触を恍惚とした笑みで堪能しつつ、その乾燥肉をリンにあてがうキヨであったが、そんな二人の様子を見たプロキオンは、キヨに対して嫉妬とはまた別の不思議な感情が芽生えていることに気付く。

「キヨさんって、投影体なんスよね? なんか、混沌なんだけど、安心する匂いがするんッスよね。なんででしょうね……?」

 ちなみに、彼は「犬系のライカンスロープ」である。先刻の戦いでその事実を確認済みのキヨは、満面の微笑みを浮かべながら答える。

「そう言ってもらえるのは、嬉しいです」

 その微笑みに対して、プロキオンもまた(無意識のうちに尻尾を現出させて激しく振りながら)この上なく嬉しそうな表情を見せるのであった。

 ******

「……どうでしょう、これで、以蔵の剣の性質は、分かってもらえましたか?」

 「武器化した状態の安定」を手にした上で、エルバと一対一の特訓を続けていた総司は、汗を手ぬぐいで拭きながら、エルバにそう問いかける。彼は、自分が以蔵と戦っていた時のことを思い出しながら、その剣筋を真似てエルバに対して披露していたのである。数回戦った程度で、その剣技をほぼ完璧に模倣してしまうことが出来る辺り、やはり彼は剣術に関しては人並みはずれた天才であると言うしかない。

「は、はい……。なんとか……、勝機は見えてきたと思います…………」

 息を荒げながら、エルバはそう答える。とはいえ、あくまでも彼女が見たのは「模倣の剣」であり、果たして本物と本当に同じレベルなのかどうかは分からない。ましてや、地球にいた頃に総司やキヨが戦った妖刀(の持ち主)と、今の妖刀のオルガノンが、同じ強さである保証もない。だが、それでも、訓練を始める前よりは、飛躍的に自分の剣技が上達したことを実感していた。

「とはいえ、あなたの剣は二刀流です。私のレイヤーとは言っても、根本的に私とは全く異なる戦法になるでしょう。そのあなたの流儀で、どうすれば以蔵の剣を防げるかまでは、私には分かりません」
「大丈夫です。そこから先は、私自身の手で道を切り開きますから」

 強い決意に満ちた瞳でエルバがそう答えると、総司は安心したような笑顔を見せる。

「では、そちらの魔境はお任せします。私はこの地で、そちらの隊長さんと一緒に、どちらが先にカサドールの魔境を制圧するかの競争をしなければなりませんので」

 そう言って、彼は去って行く。もっとも、自身が投影体である彼は、自分自身の手で魔境の混沌核を浄化出来る訳ではない以上、その点に関しては味方の君主に頼らざるを得ない。そして、基本的にこの世界では「魔境を浄化した君主」こそが英雄として奉られ、その下で尽力した邪紋使いや投影体に、君主以上の名声が与えられることはまずない。仮に多くの人々がその功績を讃えたとしても、最終的に領主としてこの世界の支配者となる権利を与えられるのは、聖印を持つ君主だけなのである。
 だが、総司にとっても、エルバにとっても、そしてキヨにとっても、(オルガノンの方の)安定にとっても、そんなことはどうでも良かった。彼等はただ、自分達の力で人々を守ることさえ出来ればそれでいい、という行動原理の下で、仕えるべき主の下に使え、その力を発揮してきた。その意味では、実は「道具として生まれたオルガノン」と「実質的に支配の道具として扱われる邪紋使いや投影体」は、本質的にはあまり変わらないのかもしれない。少なくとも今、この世界の人々を救うために混沌災害を除去したい、という純粋な願望のために行動する彼等の心は、ほぼ一致していた。

 ******

 その後、プロキオンが旅支度を終えると、ルーク達は再び「鮮血のガーベラ」に乗り込み、ブレトランドへと船出する。この時点で、彼等には幾つかの選択肢があった。パルテノやスウォンジフォートを経由した上で、アントリア軍の協力を得た上で突入作戦を講じるのか、あるいは、このまま彼等だけでラピスへと海路から突入するのか。
 ここまでの状況を踏まえた上で、船内で様々に議論した結果、最終的に、彼等はこのまま直接ラピスへと攻め込むという選択肢を選んだ。透明妖精や妖刀の魔人という特殊な存在と戦う上では、自分達以外の存在を戦場に招き入れても、無駄な犠牲が増えるだけだと彼等は判断したのである。それに加えて、ランフォードの緊迫した状況などを踏まえた上で、一刻も早く事態を解決したいというプロキオン達の願望もあった。
 ちなみに、ラピスに向かうためには当然、再び「嵐の海」を突破しなければならなかったが、今回は誰も船酔いに陥ることはなかった。それは、往路の際の反省を踏まえた上で、ティリィの作った特製の寝床の効果であったのかもしれないし、あるいは、彼等がルークの「従属邪紋」となったことによる精神的な一体感が、心の平静に望ましい影響をもたらしたのかもしれない。
 そして、実際にラピスが近付いてきた時点で、アクシアはルーク達に向かって、こう告げる。

「私等は、透明妖精に対しては何も出来ないからね。突入した後のことは、あんたらに任せるよ。私に出来ることは、この子と一緒に待ってるだけだから」

 そう言って、プロキオンから預かったリンを撫でながら、彼女は密かに小舟を貸し与え、そしてルーク達は決戦の地へと乗り込む。11人(10人と1刀)の最後の決戦の火蓋が、こうして切って落とされたのである。

3.5. 魔女の正体

 ラピスに上陸した彼等は、邪紋使い達がルーク、マライア、キヨの三人を守るような陣形で、一気に村の中心部へと駆け抜ける。その途上、ゴブリンを始めとするいくつかの透明妖精達が何度か立ちはだかったが、その存在位置を正確に検知出来る嗅覚の持ち主である彼等にとっては、ゴブリン程度の下級の透明妖精など、何の障害にもならなかった。
 そんな彼等が村の中心部へと到着すると、そこには、女魔法師「アンザ」と、妖刀「肥前忠広」の姿があった。彼等が村人や透明妖精達を使役して何か巨大な実験のようなことに従事しているのを目の当たりにしたルークは、彼女達に対して真正面から問いかける。

「お前達、この地で何をしている!?」

 その声に反応したアンザと肥前は、静かにルーク達11人を見渡す。周囲の透明妖精達がアンザと(邪紋使い達以外には見えない状態のまま)ルーク達の間に割って入って幾重もの「壁」を形成する中、アンザはマライアに対して、呆れたような声で語りかける。

「せっかく命を助けてやったのに、みすみす死ぬために舞い戻ってきたのか。愚かなことだ」

 それに対して、今度はマライアが再びルークと同じことを問いかけた。

「あなた達、ここで何をしようとしているの!?」

 アンザと忠広にしてみれば、それに対して答える義務はない。薄ら笑いを浮かべる二人であったが、そんな中、この時初めて「アンザ」を目の当たりにしたキヨは、彼女からはっきりとした「既視感」を感じていた。

「私……、この人のこと、知ってます。この人は、人間ではありません。オルガノンです!」

 キヨがそう言った瞬間、周囲の者達は、キヨが妖刀の魔人のことを言っているのかと勘違いしたようだが、その直後にキヨが言い放った一言で、ようやくその意味を理解する。

「この人の正体は、あの額のサークレットです!」

 妖刀の魔人の額には、サークレットなど存在しない。今、この空間の中でサークレットを装着しているのは、その妖刀の傍に立つ、アンザと名乗る女性だけである。

「……貴様、ヴェリア界で私の近くを漂っていた、あの時の刀か!」

 アンザはキヨに向かってそう叫ぶ。敵も味方も困惑した状態の中で、アンザと名乗ったその女性は、思わずその心の内をさらけ出す。

「お前達に邪魔はさせない! 私はなんとしても、アンザをこの世界に蘇らせてみせる!」

 彼女はそう叫ぶと、少しだけ冷静さを取り戻し、そしてルークやマライア達に対して「真実」を語り始める。

「聞かせてやろう。私がこの世界に帰ってきたことの意義をな」

 ******

 数年前、エーラムの優秀な研究員だったアンザは、魔法大学の教員達の主導で進められていた召喚魔法の実験に携わっていた。だが、その実験は、教員達の杜撰な危機管理意識が原因で大事故を引き起こしてしまい、たまたま魔法陣の一番近くに配置されていたアンザが「異世界への扉」の向こう側へと消え去ってしまった。この時、彼女が肌身離さず装備していた「魔力の発動体」としてのサークレットもまた、彼女と共にこの世界から消滅した。その後の彼女の消息については誰も知ることがなかったが、どうやら彼女は、妖精界(ティル・ナ・ノーグ界)に飛ばされてしまっていたらしい。
 妖精界には様々な住人達がいる。ケット・シーやフェアリーのような比較的温和な種族が平和に暮らしている地域もあれば、ゴブリンやブラックドッグ達が闊歩する弱肉強食の地域もある。そんな中、アンザが飛ばされた土地は、凶悪な暗黒妖精と呼ばれる種族によって支配された大陸であり、そこで彼女は、暗黒妖精達の奴隷として悲惨な生活を強いられ、散々虐げられ、辱められ、慰み者にされた上で、無残な死を遂げることになった。アトラタンでは混沌を操る魔法に長けていた彼女の技術も知識も、妖精界では何の役にも立たなかったのである。
 彼女の魔力の発動体としてのサークレットは、彼女を守るために何一つ役立つことも出来ないまま、彼女の死骸と共に廃棄され、そして気付いた時には、ヴェリア界へと流れついていた。主人を守れなかったことへの悔恨と、あのような世界に自分達が飛ばされる原因を作ったエーラムの教員達への強い憎悪を抱いていたサークレットは、やがて「オルガノン」としてアトラタン世界に投影されることになったのである。
 そして、そのサークレットの「擬人化体」としての姿は、まさにアンザそのものであった。おそらくそれは「彼女」の中でのアンザへの強い思いが反映されたのであろう。当初、彼女は自分がこの世界に再び出現した意義を「エーラムへの復讐」に見出し、自分自身が「アンザ」になりすました上で、反エーラム勢力の急先鋒であるブレトランドの「パンドラ革命派」に参加することになった。
 だが、やがてラピスの存在を知った彼女は、方針を転換する。「妖精界で死んだ者」を透明妖精としてこの地に呼び出すことを可能とするラピスの特殊な環境を利用して、アンザの魂をこのアトラタンに復活させるために、自分はこの世界に帰ってきたのだと考えるようになったのである。だが、透明妖精の出現パターンについて、密かにラピス近辺に潜伏しつつ様々な研究を重ねた結果、現状では「特定の誰かを指定して召喚する方法」が存在せず、そしてラピスの君主とシリウスの存在によって、その出現数自体が極めて抑制されているという事実を目の当たりにする。
 つまり、この地に「透明妖精としてのアンザ」を呼び出すためには、透明妖精の出現数自体を増やすしかない。更なる研究を重ねれば、もしかしたら「特定の存在」を呼び出すための法則も発見出来るかもしれないが、そのためには、いずれにせよ試行回数自体を増やす必要がある。つまりは、「妖精界に付随する冥界」の中で今も苦しみ続けているアンザの召喚を実現するためには、ラザールとシリウスを殺した上で、ラピスの支配権を掌握し、この地でひたすら透明妖精の出現率を上げるための魔法実験を繰り返すしかない。彼女はその結論に至った結果、自分と同じ「主人を守れなかったことへの悔恨」を強く抱いていた肥前忠広と共に、透明妖精達を率いて、この地を占領するに至ったのである。

 ******

 「アンザのサークレット」がこの「真実」を語り終えた直後、重い沈黙がその場を支配する。そして、何人かの者達は、ケイで遭遇した「ルークの武具達による陰謀」を思い出していた。どうやら彼女もまた、彼等と同じ「守れなかった主人」への強い思いを理由に、この世界に出現することになった投影体のようである。
 だが、ケイの事件における最大の当事者であるロディは、あの一件と今回の件を比べた上で、一つの大きな違いに気が付いた。

「ルークさんの武具達は、ルークさんを救おうとして、僕の師匠を殺した。僕にとっては、それ自体が許せないことだけど、その気持ちが全く理解出来ない訳ではなかった。でも今回は違う。今の時点で生きている誰かを救うためではなく、この世界に住む皆を不幸にする混沌災害を引き起こすことが目的だ。あの時以上に、絶対にそんなことを許す訳にはいかない」

 ロディがそう言いながら、強い決意を持って「アンザのサークレット」を睨みつけている横で、やや複雑な表情を浮かべたマライアであったが、それでも、彼女達の意思に賛同する訳にはいかなかった。

「アンザさんにそんな事情があったことは知らなかったし、あなた達の思いも分かる。でも、だからと言って、ラピスを魔境化されて、住民達を犠牲にすることを、放っておくことは出来ない。蘇らせるとは言っても、もうアンザさんは死んでしまっている。今いる私達の人生を、死人に邪魔されたくはない」

 実際のところ、この「アンザのサークレット」は、アンザを透明妖精としてこの世界に呼び出すことを「アンザを蘇らせること」と位置付けているようだが、その表現は正確ではない。仮に彼女の目的が実現したとしても、この世界に呼び出されるのは、あくまでも「妖精界内の冥界で怨霊として苦しみ続けるアンザ」の複製体であり、その「苦しみ続けるアンザ」の本体は、いずれにせよ妖精界で苦しみ続けるのである。
 無論、「アンザのサークレット」も、召喚魔法師であるアンザのパートナーであった以上、そのことが分かっていない訳ではない。だが、それでも、せめてアンザの魂の一部をこの世界に呼び出して、共にエーラムへの復讐を果たさなければ、サークレット自身の魂は収まりがつかなかった。その目的を果たすこと以外に、自分がこの世界に出現した意義を見出せなかったのである(もっとも、オルガノンがこの世に出現すること自体、何らかの「意義」があるのかどうかという根本的命題すらも、誰にも分からないのであるが)。彼女はそんな思いを込めながら、激しい敵意をルーク達に向ける。

「お前達に理解してもらおうとは最初から思ってはいない。理解出来るとしたら、そこの日本刀くらいだと思っていたが、残念ながら、それすらも叶わぬようだな」

 そう言われたキヨであったが、彼女はそれに対して、何も答えない。おそらく、何を言っても分かり合えることはなく、そして何を言っても「アンザのサークレット」の魂を救うことは出来ないと実感していたのだろう。オルガノンとなった者達の気持ちは、オルガノンにしか分からない。そして、悲しいかなそのオルガノン同士の間でも、そこに至るまでの経緯の違いによって、必然的に分かり合えないこともある。
 キヨは幾多の持ち主によって大切に扱われてきた。その中には、沖田総司のように、非業の死を遂げた者もいる。だが、そんな悲しき思い出以上に、キヨは道具として充実した日々を送り続けていたからこそ、「ルークの武具達」や「アンザのサークレット」のような「怨念」を抱かないまま、この世界に出現することが出来たのだろう。その差がどこで生じてしまったのかは分からない。ただ、今のキヨに出来ることは、ここまで旅を続けてきた仲間達と共に、怨念に取り憑かれた「アンザのサークレット」の投影体を、この世界から消し去ることだけしかない。それが「武器」としての彼女に出来る、唯一の解決法であった。

3.6. 最終決戦

 そして、もう一人の「武器」である「妖刀の魔人」こと肥前忠広は、キヨやルーク達から「並々ならぬ強者のオーラ」を感じ取り、思わず武者震いをしつつ、ニヤリと笑う。

「サクラ、ここは本気でやらせてもらうぞ」

 この世界に出現して以来十数年間、ずっと封印されたまま、その力を発揮する機会に飢えていた彼は、先日のヴォルミスに続いて、再び「本気」を出すに値する相手が現れたことに、武器としての本能的な喜びを感じていた。彼が彼女に協力しているのは、自分と似た様な境遇の彼女への同情もあるが、それと同等以上に、武器としての自分の存在価値を見出したいという、原初的な欲求が彼を突き動かしていた。
 ちなみに、「サクラ」とは、「サークレット」という言葉に耳馴染みがなかった彼が、彼女を呼ぶ時に勝手に用いている通称である。通常、アトラタン世界に投影された者達は、混沌の力によってこの世界の人間の言語が話せるようになるのだが、元々存在していた世界(時代)に存在しなかった物品の名称に関しては、この世界に来てからその呼び名を知ることになるため、人によっては、その音の響きに違和感を感じたり、発音しにくいと感じることもあるらしい。

「ウォォォォォォォォォ!」

 忠広は激しい雄叫びを上げる。その怒号はルーク達を一瞬怯ませるが、それでも彼等は立ち向かう。ここまで来て、退くという選択肢は彼等にはありえない。
 まず、真っ先に動いたのはロディである。彼は忠広の怒声によって指先が若干狂いそうになったものの、それでも、ラピスを浄化するという強い意思を抱いた彼の弓矢は、邪紋の力によって「アンザのサークレット」達を守る透明妖精達へと雨のように降り注ぎ、彼等の身を覆っていた重装備を次々と削り穿っていく。
 それに合わせて、マライアが周囲の仲間達の武器を次々と魔法で強化させつつ、ルークもまた馬上から聖印の力を込めた矢を放って、サークレットと肥前を同時に攻撃しようとするが、彼等の傍にいた透明妖精によって阻まれる。だが、彼等はそれと同時に、その「巨大なゴブリンのような姿」を表した。ローガンからの手紙にあった通り、彼等は姿を消している間は、本来の力を完全に発揮することは出来ない。ここで姿を現したということは、「本気で守らなければ、防ぎきれない」と判断したからなのだろう。
 だが、それはあくまでも最後列に待機していた者達であり、それ以外の透明妖精達はまだ姿を隠したまま、いつでもルークやマライアを不意打ちで襲える状態にあった。しかし、彼等よりも先に、彼等の存在を感知出来る邪紋使い達が次々と彼等に襲いかかる。ラスティが龍化した腕を全力で振るって最前線の透明妖精部隊を殲滅させると、フィアは竜巻を起こしてその傍らの者達を吹き飛ばし、更にロディが再び弓矢で後方から彼等を援護する一方で、レピアは相手のお株を奪うような形で敵部隊の死角に入り込み、短刀で透明妖精達の臓腑を抉り取っていく。

「あの世に行った者を思い出そうなんて、それは今を生きる者がすべきことではない」

 レピアは静かにそう言いながら、鋭い視線を「サークレット」へと向ける。「一人の人間に傾倒し、妄執する」という意味では、彼と彼女はある意味、どこか似たような精神構造なのかもしれない(その意味では、実はレピアの方がキヨよりもオルガノン的な性格なのかもしれない)。しかし、だからこそ、自分とは似て非なる道を歩む「彼女」に対しては、人一倍強い嫌悪感を抱いているようにも見える。
 だが、「サークレット」の側も、このまま彼等の好きにさせるつもりはサラサラ無い。彼女は後方で皆を支援していたエルバに対して、強烈な火炎魔法を仕掛ける。ラピスを陥落させる時にも用いていた魔法だが、これはアンザの魔法ではない。「サークレット」である彼女が、この世界に来てから習得した元素魔法である。彼女の激しい怨念が込められたその激しい豪炎は、マライアだけでなく、その近くにいたティリィ、エルバ、フリックの三人をも巻き込むが、フリックによって庇われた状態のマライアが、自分を含めた周囲の者達を守る防御魔法を対抗して放ったことで、どうにか彼等はその地獄の業火を耐えきる。
 そして、その燃え盛る爆煙の中から、深手を負った状態のエルバもまた、愛馬に騎乗した状態のまま、仲間達によって僅かに切り開かれた透明妖精達の壁の隙間を突破し、忠広に対して二本の刃を用いた我流の「二刀流の三段突き」で襲いかかる。その攻撃は確かに忠広の身体を捉え、致命傷には至らなかったものの、その独特の刀の動きに、妖刀は困惑する。

(なんだ、この剣筋……、どこかで見たことがあるか? 少なくとも、此奴の右手の刀には、確かに見覚えがある……。何者だ……? 二天一流ともまた違う、この不思議な剣捌き……)

 忠広がその正体を見極められずに混乱する中、エルバと同様に火炎攻撃を耐え抜いたティリィは、残っていた目の前の透明妖精部隊に対して、全力で大鎌を振り下ろす。

「死神の刃は、死ぬべき者に対して振るうもの……。冥界から来た者達を、再び冥界に返してあげる……。生きている者達のために刃を振るう……、そんな死神がいたって、いいじゃない」

 その一撃で半壊状態となった敵部隊に対して、更にルークが弓矢で追い打ちをかけたことで、敵の最前線部隊は完全に崩壊した。その上で、キヨもまた馬に乗って全力で忠広へと向かおうとすると、忠広は満面の笑みを浮かべて迎え撃つ。

「ここでまたお前に出会えるとはな」

 彼は、ヴェリア界で自分と同じように漂っていたキヨのことを知っていた。無論、それ以前に幕末の時代に何度も当代随一の剣士の刀同士として、何度も凌ぎを削っていた頃の記憶もある。彼は向かってくるキヨに対して、渾身の一撃で斬りかかるが、キヨは間一髪のところでその一撃をかわす。
 一方、残っていた中盤隊の透明妖精達もまた、仲間を次々と葬る邪紋使い達に対して反撃を開始する。まずレピアに対して巨大な装備を用いて斬りかかった部隊が深手を与えると、続いて彼等はロディへと襲いかかるが、フリックが自身の体をも隠すほどの巨大盾を以ってきっちりと庇い切る。一方、別の部隊は忠広を助けるためにエルバに向けて武器を振るうが、逆にその攻撃の隙をついた彼女の逆襲の刃によって打ち取られる。彼等がルーク、マライア、キヨのいずれかを狙えば、彼等の姿を感知出来ない以上、避けられる筈もなかったのだが、絶妙に彼等を庇う位置に邪紋使い達が立ちはだかるような隊列となっていたのである(そして透明妖精達は、そもそも誰が自分達の存在を感知出来ているのか、ということまで確認出来ていなかった)。
 そして、傷を負っているレピアやティリィをマライアが魔法で癒す中、突撃の機会を伺っていたプロキオンが一直線に「アンザのサークレット」へと走り込み、彼女の足に食らいつき、その動きを封じる。

「かまわず、打ってくれッス!」

 食らいついたままの発声しにくい状態で彼がそう叫ぶと、ルークはサークレットを正確に狙って矢を放つが、再び透明妖精達によって庇われ、後一歩のところでサークレットには届かない。だが、この一撃で彼女を守る透明妖精達が一掃されたことで、ラスティが彼女の目の前へと駆け込みながら、全力でその豪腕をプロキオンもろともサークレットへと叩き込む。さすがにその一撃を直撃したらプロキオンの身が持たないかもしれないと判断したルークが、咄嗟に光壁の印を用いてプロキオンだけを庇ったことで、どうにか彼は一命を取り留めるが、この一撃でサークレットは深い重傷を負う。そして、間髪入れずにレピアが脇から回り込んで彼女の急所を突いた結果、アンザのサークレットは、その場に倒れ込んだ。
 一方、中盤から後方に残存していた透明妖精達に対しては、フィアが空中から彼等を蹂躙するように飛び回りながら炎をまとった何本もの短刀を次々と乱舞させることで次々と殲滅し、僅かに残っていた部隊も、ロディとティリィの手によって次々と壊滅状態へと追い込まれていく。
 そして、残った忠広に対して、エルバは再び「二刀流の三段突き」を駆使して追い詰める。

「あんたらのやってることは、あんたらの持ち主を汚すことだ。私は、キヨさんから、一人の剣士の生き様を学んだ。こいつらは、仮に私が死んでも、私を生き返らせようとは思わないだろうね。あんたらがしようとしていることは、何なんだい?」

 忠広に対して、斬りかかりながらそう問い詰めるエルバだったが、その声は彼には届いていなかった。彼はこの時、ようやく、自分の隣で「アンザのサークレット」が倒れていることに気付いたのである。

「サクラ!」
「……すまないね、貧乏籤に付き合わせてしまったようだ……。次にこの世界に来た時は、今度はアンタの持ち主と…………」

 そこから先、彼女が何を言おうとしていたのかは分からない。だが、彼女は最後まで言い終えられないまま、そのまま息絶えた。そして、少しずつ彼女の身体を構成していた混沌が、蒸散されていく。

「安心しろ、一人で死なせはしない!」

 彼はそう言うと、自分を中心として、自分の周囲にいた者達全員に対して、自らの中の混沌を爆縮させた上での衝撃波を放つ。それは、放った本人である彼自身の身体にも深手を負わせるほどの重撃であった。咄嗟にロディが放った弓矢と、マライアが唱えた妨害魔法によって、かろうじてキヨは避けることに成功し、プロキオンを庇ったフリックは不死の邪紋使いとしての自分の能力を限界まで駆使することで踏み止まり、フィアもまた元素防壁の力によってどうにか耐え、エルバはマライアの精霊盾の魔法の力でなんとか九死に一生を得たものの、レピアは瀕死状態に陥り、その場に崩れ落ちてしまう。
 だが、次の瞬間、生命魔法の力によって自らの瞬発力を一時的に極限まで高めたマライアが後方から一気に駆け込んで、その致命傷を高難度の治癒の魔法で塞いだことで、どうにかレピアも一命を取り留めた。マライアとしては、自分の宿敵であるアンザのサークレットを倒すために、危険を冒して前線に飛び込み、そして見事に仕留めてくれたレピアを、ここで死なせる訳にはいかない。
 そして、自らの放った衝撃波によって重傷を負いながらもなお一人でも多くの道連れを探そうとする忠広に対して、最後の止めを刺したのはキヨであった。彼女はこの旅を通じてマライアから密かに学んだ生命魔法の原理を咀嚼した上で、ティスホーンの武術大会の二回戦で見た狐面の少女の「相手の装甲の内側を直接攻撃する魔法」を、自ら習得していたのである。その一撃によって心臓を直接貫かれた忠広は、本体である刀を手にした状態のまま、オルガノンとしての機能を停止し、隣で倒れているサークレットと同様、徐々にその身を構成していた混沌が蒸散し始める。その最後の一瞬、彼の瞳には消えゆく「サクラ」が映り、そして仄かに微笑んだようにも見えたが、それが何を意味していたのかは誰にも(おそらく彼自身にも)分からない。
 しかし、これで終わりではない。沙織が言っていた通り、忠広の混沌核は複数の邪紋の融合体であり、キヨの一撃によってその一部が損傷したことで一時的に機能停止したものの、すぐに他の残存部分によって自己修復されていく。
 だが、そこでルークが自らの聖印を掲げたことで、忠広を構成していた混沌核の中の邪紋が、一つずつ切り離された上で、ルークの聖印へと取り込まれていく。仲間達の邪紋を吸収した時は、浄化せずにそのまま彼等に返したルークであったが、今回は他の(透明妖精やサークレットの)混沌核と同様に、忠広の邪紋も一つずつ浄化し、そして聖印の糧として吸収していく。
 こうして、ラピスで発生していた混沌災害は、先代領主ラザールの長男ルーク・ゼレンの手によって、完全に浄化された。シリウスの死から約二ヶ月間にわたる動乱が、ようやく終結することになったのである。

4.1. 新領主

 こうして、無事に解放されたラピスの人々は、ルークの帰還を喜んで受け入れた。そして、この地が解放されたと知ったアントリア子爵代行マーシャル・ジェミナイは、自身の伯父にして養父でもある騎士団長バルバロッサ・ジェミナイをこの地に派遣し、ルークにアントリア騎士としての臣従の是非を問う。
 ルークとしては、ヴァレフールの人々との絆を考えると、まだ後ろ髪を引かれる思いではあったが、ラピス村の人々と実際に触れ合ってみると、村人達が皆、これから先もアントリア人として生きていくことを自明の理と考えていることを実感させられたことで、ラピスの新領主として、素直にそのままアントリアの臣下となる決意を固め、その旨をバルバロッサに伝える。
 ただし、「臣下」と言っても、彼の聖印の持つ特殊性故に、従属聖印化させることは出来ないと言うことはマライアがバルバロッサに説明し、そのことは彼も了承する。もともと、ラザールやそれ以前の時代から代々そのような慣習だったこともあり(そのことをダン・ディオードが知っていたのかどうかは定かではないが)その点については特に異論もなく受け入れられた。
 そして、ルークの「もう一人の父親」であるヴァレフールのオーキッド領主イノケンティスもまた、ルークが「アントリア領ラピス」の領主となることを素直に認めた上で、ラスティに関しても、帰ってくるか否かは本人に任せると言う旨を記した手紙が届いた。イノケンティスとしては、ラスティが実弟であるウォートの臣下となることに密かに不満を抱いていることは実感していたため、それよりは(義弟とはいえ)従弟のルークの臣下という立場の方が、まだ彼のプライドを保ちやすいだろう、という配慮もあったようである。ラスティは素直にその心遣いに感謝した上で、今後はラピスの武官の一人としてルークを支えていくことを心に誓う。
 こうして、「アントリア領ラピスの新領主としてのルーク・ゼレン」が正式に誕生することになった。だが、魔境状態からは解放されたとはいえ、透明妖精が出現しやすいという状況自体は今も昔も変わらない。そして、その原因が何なのかということについても、まだ明確に解明されてはいなかった。その意味では、ラスティ以外の「シリウスの力を受け継ぐ者達」にも、出来ればラピスに留まって、透明妖精の脅威から村を守り続けて欲しいというのが、ルークの本音ではある。だが、そうも言えない事情があることは彼も分かっていたからこそ、最終的には、皆の自己判断に委ねるつもりでいた。

4.2. 去り行く者達

 邪紋使い達の中で、まず最初にルーク達の元を去ったのは、レピアとフィアである。というよりも、この二人に関しては、ラピス解放の直後の段階で、いつの間にか彼等の前から姿を消していた。二人共、別れの言葉を告げることもなく、あっさりとラピスからいなくなってしまっていたのである。とはいえ、彼等の性格上、それもやむを得ぬだろう、という思いもルークの中にはあったため、無理にその行方を詮索しようとはしなかった(前者の居場所は概ね見当がついているし、後者については探しても無駄だろうという気持ちの方が強かった)。
 一方、ヴァレフール人のフリックは、きちんと皆の前で自分の立場を改めて説明した上で、当初の約束通り、カナハへと帰還することを伝える。

「長い旅だったが、今まで本当にありがとう。どこまで貢献出来たかは分からないし、最初の頃は色々あったが、楽しい仲間と一緒に旅が出来て、本当に良かった」

 晴れやかな笑顔で彼はそう語る。彼は、もともとは流浪の無法者であったが、今の彼には、カナハという帰るべき場所がある。ユイリィとマイリィという、仕えるべき主君がいる。鉄壁の盾となって何度も皆を窮地から救い続けた彼には、出来ることならばこれから先も共にラピスを守って欲しいという気持ちはあったが、さすがにルークとしても、これ以上、ヴァレフール時代の盟友でもあるユイリィの片腕とも言うべき重臣を自分の元に留めておくことは出来なかった。
 そして、彼と同様に「帰るべき家」と「守るべき人々」がいるティリィもまた、約束通り、ラピスの沈静化を確認した上で、マージャへと帰ることを宣言した。

「ルークさんも、マライアさんも、キヨさんも、私と一緒にいても、死ななかった。ちゃんと、求めていたものを掴んでくれた。私は、無差別に死をばらまく死神なんかじゃなかった。ありがとう。誰も倒れなかったのは、マライアさんの回復魔法のおかげ。ありがとう。マージャ村はアントリア領だし、アントリアの人でなくても、誰も拒まない。だから、また、会いましょう」

 ティリィはそう言って深々と頭を下げる。マライアは「いつかまた、子供達の歌を聴かせてね」とティリィに伝えた上で、去り行く彼女の背中を静かに見守る。彼女の所属は厳密に言えばアントリア軍ではなく、ノルドから派遣された白狼騎士団であるため、厳密に言えばいつまでこの地に逗留し続けるのかは不明なのであるが、少なくとも今は、いつでも会いに行ける関係であり、もしラピスに何かあればすぐに駆けつけられる立場でもあるので、その点では比較的安心出来る形での見送りとなった。
 対照的に、本来はこの地の住人でありながら、いつ帰って来れるか分からない旅路に戻らなければならない者もいる。プロキオンである。彼は上官であるバットの命令通り、リンに自分の故郷であるラピス村を一通り散歩させた上で、再び「鮮血のガーベラ」に乗って、ウィンザレアへと帰還することをルークに伝えた。

「ラピスの領主様に救われた命、ラピスのために使いたいのは山々なんスけど、今は、俺を必要としてくれる人がいるんス。だから、今は、別のところから、このラピスとアントリアを守るッス。だから、しばらく、サヨナラッス」
「君は十分、ラピスを守ってくれたよ。君は君の場所で、今後も活躍を続けるのを祈っている」
「そう言われると、照れるッス……。ありがとうございます、ルーク様」

 こうして、彼とリンは再び大陸へと旅立って行った。プロキオンの中には、故郷に留まりたい気持ちも少なからずあったが、自分のことを「大事な存在」と言い切ってくれたバットやセリーナとの約束を裏切る訳にはいかない。マライアの姉弟子でもあるセリーナは、バットを皇帝聖印へと導くために、彼がアントリアの盟主の座を得るための道を秘かに模索している。ルークが現在のマーシャル体制に今後も与するつもりなら、いずれ彼とは戦う日が訪れるかもしれない。そうなった場合、実質的にルークの聖印に依存する状態にあるプロキオンは、極めて難しい立ち位置を強いられることになる。
 ただ、逆に言えば、プロキオンの存在がバットやセリーナの中で重要視されるようになればなるほど、彼等としては「ルークを敵に回さない戦略」を採らざるをえなくなってくる。その意味でも、プロキオン自身のウィンザレアでの今後の活躍が、ラピスの領主であるルークの価値を高めることにも繋がる。そこまでプロキオンが自覚しているかどうかは不明だが、いずれにせよ、今の彼としては「自分のことを重宝してくれる人達のために頑張る」ということが、自分に課せられた唯一の使命であるという、強い決意に満ち溢れていた。
 そしてもう一人、意外な人物が、ラピスを去ることを宣言した。キヨである。

「ラピスを混沌災害から守ることが出来て、良かったです。そして、私はこれから、また、私の力を必要とする人達のために、旅に出たいと思います」

 確かに、肥前忠広を倒した今、シリウスの力がある訳でもないキヨは、透明妖精達に対しては無力であるため、彼女がこの地に残り続けなければならない理由はない。だが、他の者達とは違って、流浪の武芸者でしかなかった彼女には、どうしてもこの地を去らねばならないと思わざるを得ないほどの理由もない筈である。
 しかし、無事に解放されたラピスとは対照的に、今もなお混沌災害に苦しんでいる人々が世界各地にいるということは、誰もが知っている。そして、ルークやマライアにはこの地を治める使命がある以上、彼等には他の地域の人々まで救う余力はない。そうなると、次に自分が成すべきことは、彼等に代わって、世界各地の混沌災害を鎮めるために戦っている人々を支援することであるというのが、彼女の出した結論であった。

「これまでずっと一緒に旅をしてきたキヨさんがいなくなってしまうのは、正直、寂しいですし、キヨさんがいなければ、絶対にラピスは解放出来なかったと思います。今まで本当にありがとうございました」
「また、いつでも遊びに来て下さいね」

 ルークとマライアは、残念そうな表情を浮かべながらも、彼女の意思を尊重して、送り出すことを決意する。キヨとしては、まず、約束通りにランフォードの総司の元を訪れた上で、その後のことについては、その後で考えるつもりで、旅の支度を始めるのであった。

4.3. 留まる者達

 一方、ロディは全ての戦いが終わった上で、「皆、ありがとう」と言って頭を下げた上で、ルークに対して、こう言った。

「僕は、自由なのがいいかな、と思ってたけど、よくよく考えてみたら、ルークさんのことを『マイロード』と呼んじゃったしね。しばらく、ここにいさせてもらうよ。僕の弓の力が必要になったら、いつでも頼ってくれればいい」

 彼は笑顔でそう宣言した。もともと彼の実家はパルテノの商家である以上、アントリアに仕えることに抵抗がある筈もないし、師匠を亡くしてしまった時点で、彼としてはもはやケイに帰る理由も見つからなかった。ガスコインからはハンスの後任を、と請われてはいたものの、自分にハンスの代役が務まるとも思えないし、あの事件のことを吹っ切るためにも、今更ケイに帰るつもりはなかった。
 一方、「帰るべき場所」がありながらも、あえてラピスに留まることを決意した者もいる。エルバは、全てが終わった後で、改めてルークに対してこう告げた。

「いやー、大変だったね。なんだかんだで、また沢山助けてもらったし、このまま、あんたがこの地を治めるなら、もうしばらく、恩義を返したいので、ここに居させてもらえないかな。あぁ、それと、あの馬鹿がまた酷い金遣いしてあんたを困らせるかもしれないから、お目付役として、残らせてもらうよ」

 彼女は横目でラスティを見ながら、そう告げる。本来ならば、ティスホーンのマックイーン牧場に帰る約束であったが、シリウスの力がこの地を守るために必要だと聞かされた以上、その任務をロディとラスティの二人だけに任せるのは忍びないと考えたようである。マックイーン牧場にも深い恩義はあるが、自分がいなくてもあの牧場にとってはそれほど困る訳ではないし、あの街を守る人々は、ペルセポネを初めとする一騎当千の強者揃いである以上、現状おいてラピスの方が人材不足なのは明白であった。

「ただ、私は連合に刃を向けることは出来ない。それでも構わないなら、この地に居させてもらいたいんだが、それでいいかな?」

 ランフォードでの遭遇戦では、おそらく自分の正体が相手には知られていないだろうということもあって、勢いで戦ってしまったが、いずれは自分がラピスの君主に仕えていることが祖国ルマの領主にも伝わることになるだろう。その時に、弟の立場を悪化させないためにも、この点だけは、はっきりと明言しておく必要がある。

「それに関しては、エルバさんの信じる通りの選択をして頂ければいいです。今回の勝利はあなたの力があってこその結果ですから、ラピスに残ってくれるのでしたら、大歓迎ですよ」

 実際のところ、ルークとしても、あくまで彼女の力は「対透明妖精戦」のために必要と考えているだけで、仮にヴァレフールや連合諸国との戦いに自分が出陣することになったとしても、彼女達にはラピスの混沌災害を事前に防止するためにラピスに残ってもらっているべきだと考えていた。現実問題としてラピスの透明妖精の問題が完全に解決するまでは、その名目で彼女を対外戦争に参戦させないことの正当性は担保出来るし、その点についてアントリア政府から責められても、説得力のある形で弁明することが出来るだろう。
 逆に言えば、透明妖精の出現の心配が完全に無くなったら、彼女に無理にラピスに残ってもらう必要はない。ティスホーンでも、ルマでも、彼女が帰りたいと思う場所に帰ってくれれば良い。そんな「緩やかな主従関係」こそが、今のこの二人が共有する「あるべき主従関係」のイメージであった。

4.4. それぞれの再会

「お疲れ様、レピア」

 他の者達よりも一足先にルークの元を去っていたレピアは、早々にマージャ村のガブリエラの家に帰還していた。少しずつ下腹部が広がりつつある「年下の義姉」は、笑顔で彼を出迎える。

「とりあえず、体調はどうだい?」
「今はもう、安定してきたわ」

 そう言いながら、ガブリエラは身体に負担のかからないゆったりとした服の上から、軽く「まだ見ぬ我が子」を撫でる。

「そうか。こっちも、ちっちゃい子に聞かせるにはちょうどいい冒険譚が手に入ったよ」

 実際のところは、小さな子供に聞かせるには少々複雑すぎる物語でもあったのだが、そこは「正確さ」よりも「分かりやすさ」や「面白さ」を優先すれば良いだけの話である。大人になって、「真実の物語」が知りたくなったら、その時にまた教えれば良い。もっとも、その時点で「その子」の近くにレピアがいるかどうかは分からないのであるが。

「ところで、近所の村の時空魔法師さんに聞いたところによると、この子は『女の子』らしいんだけど……、名前、あなたにつけてもらえないかな?」

 予知魔法でそんなことまで知ることが出来ることと、自分にその役割を任されたことに少々驚いたレピアであったが、少し考えた上で、彼は自分にとって、ある意味で「最も呼びやすい名」を選んだ。

「そうか……。じゃあ、エトワールで」

 それは、彼が潜入中に使っていた偽姓である。地域によっては、姓ではなく女性名として使われている地域も多いので、別段不自然なネーミングではない。そして、これから先はもうその偽姓を用いる必要もない以上、その名をこれから生まれてくる子に捧げても、全く何の問題もなかった。その上で、あえて「自分と縁のある名前」をつけたことに意味があるのかどうかは(おそらく彼自身も含めて)誰にも分からなかった。

「分かったわ。いい名前ね、ありがとう」

 ガブリエラが幸せそうな笑顔で答えて安堵したレピアは、今後の彼女の身の回りの世話のために必要な物品を確認しつつ、彼自身の中での「もう一つの計画」のための準備を、幾人かの村の住人達と共に始めるのであった……。

 ******

 数日後、ティリィがマージャ村に到着する。真っ先に孤児院を訪れた彼女が「ただいま」と言いながら扉を開くと、そこで待っていたのは、正装した少年音楽隊のメンバー達であった。

「お帰りなさい!」

 ニコラを筆頭とする12人の声が一斉に建物中に響き渡る。建物の中はパーティー仕様に装飾されており、彼等に続いて、音楽隊以外の他の子供達も次々と彼女の元へと駆け寄ると、やや困惑した様子のティリィに対して、子供達の背後から現れた一人の成人男性が、彼女に声をかけた。

「英雄の凱旋、おめでとう!」

 レピアである。彼は、子供達にいち早く「もうすぐティリィが無事に帰ってくる」と言う旨を知らせて、彼女の帰還を祝う「慰労会」の準備を進めていたのであった。

「レピアさん……」

 まだ呆気にとられた様子のティリィであったが、そんな彼女に対して、もう一人の「部外者」が声をかける。

「じゃあ、私の役目も今日までですね。この村は楽しいところでしたし、この子達と別れるのも名残惜しいですけど、私もそろそろ帰らなければなりません」

 院長代理を務めていたハーミアにそう言われたティリィは、深々と頭を下げる。

「今まで、本当にありがとうございました」
「また遊びに来ます。今度は『あの人』を連れて」

 彼女の言うところの「あの人」が誰を指しているのかは分からないが、ティリィは、いずれまた近いうちに彼女とは再会出来そうな気がしていた。国も立場も性格も趣向も全く異なる二人であるが、彼女達を繋ぐ「音楽」という絆は、そう簡単には崩れそうにないように思えたのである。そして、それはハーミアもまた同様であった。

 ******

 一方、レピア同様に早々にラピスを去ったフィアは、彼とは対照的に、パルテノには帰らず、再び自由な一人の「冒険者」に戻り、ブレトランド各地を一人旅して回っていた。彼女はその旅を続ける合間に先の物語の「紙芝居」を描き続け、やがてそれを完成させるに至る。

「よし!これは傑作ね♪」

 かつてない大作となったその紙芝居を、今後立ち寄る村や町で子供達に聞かせる姿を想像しながら、フィアは旅の足を早める。
 そんな旅の中、フィアがふと「道端」に視線を移すと、彼女は見覚えのある人物を見つけた。真剣な顔をキャンバスに向けていたその人物は、かつて彼女をパルテノの地下アトリエに誘った「あの人」によく似ていた。
 しかし、フィアは声をかけなかった。フィアにとってその人物が「あの人」であろうと、ただのよく似た他人であろうと、あまり関係がなかった。フィアは「あの人」が今も絵に真剣に向き合っていることを疑ったことはない。だから、仮にここにいるのが「あの人」ではなかったとしても、きっと彼は今もどこかで絵を描き続けている。だから、彼女にとっては、ここであえて、その人物が「あの人」かどうかを確認する必要もなかったのである。
 そして、視線を再び「道の先」へと戻したフィアの胸の中は、すぐにこれから先の旅路への期待でいっぱいになった。

「さて、次はどんな旅になるかな?」

 フィアは好奇心を満たすため、今日も風任せの旅を続ける。その先に何が待っているのか、それを知る者は誰もいなかった。

 ******

(ルーク・ゼレンか……、なかなか面倒な人材を発掘してくれたわね、マライア)

 ラピスから遠く離れたウィンザレアの地で、マライアの姉弟子セリーナは、プロキオンの帰りを待ちながら、一人静かに物思いに耽る。既に彼女の元には、ラピスの混沌が浄化され、再びアントリア領に復帰した旨は届いているが、それに加えて、彼女は個人的にルーク・ゼレンという人物に関する情報も集めていた。これらは全て「ヴァルスの蜘蛛」という名の秘密諜報結社を通じて彼女にもたらせれたものである。ただ、それらの情報提供源が、敵国である連合陣営内で活動する『週刊ローズモンド』の記者であるということまでは、彼女は知らない。
 そして、それらの情報を踏まえた上で、セリーナはルーク達と今後どのように向き合うべきか、真剣に考えていた。彼女の計算が間違っていなければ、ラピスの混沌を全て浄化した時点で、ルークの聖印は既に「男爵」級にまで成長している筈である。現在、アントリア騎士団内で「男爵」の爵位を持つのは、バルバロッサ・ジェミナイ(団長)、アドルフ・エアリーズ(副団長)、ファルコン・トーラス(対長城戦方面軍司令官)、ジン・アクエリアス(北トランガーヌ総督)の四人であり、ルークの聖印が彼等と同等以上の規模にまで成長しているのであれば、アントリア国内のパワーバランスに大きく影響することになる。
 幸い、今のルーク・ゼレンからは「田舎村の領主」以上の地位を目指そうとする野心は感じ取れなかったため、バットの直接的なライバルにはなりそうにない。だが、セリーナにとっては、そういう人物の方が、かえって厄介でもある。野心や欲望を剥き出しにする者は、協力や支援を得るための材料が想定しやすいのに対し、むしろ清廉潔白な人物や勤勉実直な人物ほど、利用しにくい側面もある。自分自身が直接会って話した時の印象と、ヴァルスの蜘蛛からの情報を照らし合わせて考えれば、ルークは間違いなく「その種の君主」であり、そうであるが故に多くの人々を惹きつける魅力を持つ。ある意味で、一番「御しにくい君主」である。

(とはいえ、それをどうにかするのが私の仕事、だな)

 幸い、今のところプロキオンはバットに臣従する意思を示しており、マライアもセリーナのことは信頼している。ルーク陣営との関係という意味では、アントリア騎士団内の他の有力勢力よりも、バット達の方が近い立場にある。問題は、それをどう利用するかである。ある意味、バットはルーク以上に実直な性格であるため、そういった「小細工」はセリーナに一任されている。まさに、彼女の軍師としての腕の見せ所でもあった。
 彼女の目算では、おそらく今後数年のうちに、アントリアは内戦状態に陥る。その間に、バットがイリアと共にこのランフォードの地を制圧した上で、今度はランフォード軍を率いてアントリアに凱旋し、内乱を鎮圧してダン・ディオードの後継者として名乗りを上げる、それが彼女の計画であった。その未来像へ向けての第一歩として、まずは一刻も早くカサドールの魔境を鎮圧しなければならない。ルーク・ゼレンという新参者に負けない爵位を手にするためにも、ギルフィアよりも先に魔境の中心部に位置する混沌核を浄化する必要がある。
 そのために必要な戦力を彼女が計算している最中、ドタバタと廊下を走る音が聞こえてくる。セリーナはすぐにその足音の主を察して、かすかに口元が緩む。

「セリーナ様、ただいまッス!」
「無事に帰ってきて、何よりだ。プロキオン。さぁ、魔境討伐の準備に取り掛かるぞ!」
「分かったッス! 俺、頑張るッス!」

 長旅の疲れを感じさせない気合に満ちた声でプロキオンがそう答えると、彼女は彼とリンを連れて、自らの主の元へと向かう。自分が信じた君主を皇帝聖印へと続く道を、この若き忠犬と共に切り開くために。

 ******

「では、誰も死なずに済んだのですね?」
「はい。無事に、ラピスは解放されました」

 ヴァレフールのカナハへと帰還したフリックは、主君であるユイリィにそう伝えた。彼女は安堵した表情を浮かべつつ、どこか寂しげな声で呟く。

「ルーク様も、立派なラピスの領主となられたのですね……」

 ユイリィとしては、彼の立身出世は望ましいことである。だが、アントリアとヴァレフールは今も長城戦を挟んで睨み合いの状態が今も続いていた。現在はアントリア国内がダン・ディオード不在によって混乱すると同時に、ヴァレフールも実質的に分裂状態に陥っているため、事実上の休戦状態が続いてはいるが、いつまた再び戦端が開かれるかは分からない。ルークがラピス浄化によって強力な聖印を手に入れた今、戦局によっては、彼が前線に投入される可能性も十分にあり得るだろう。
 ユイリィ自身は、ヴァレフールという国そのものにそこまで強い思い入れがある訳ではないが、それでもアントリアが長城線や山岳街道を突破して攻め込んできた場合、自分もまた祖国防衛のために招集されれば、それに応じる義務はあると考えている。無論、それを避けるために、思いつく限りの平和外交策をワトホートに提案するつもりだが、所詮は一村領主に過ぎない彼女に出来ることには、限界もある。
 そしてもう一つ、個人的な感情から、今のこの状況を素直に喜んで良いものか微妙な案件が、ユイリィの中にはあった。

「一つ、確認したいことがあるのですが、マライアさんは結局、ルークさんの契約魔法師となられたのでしょうか? あるいは、その……、『それ以上の関係』になられたのでしょうか?」

 主君の言わんとすることを何となく察したフリックは、素直に「個人的見解」を伝える。

「おそらく、このまま契約魔法師にはなると思うのですが……、『それ以上の関係』にはなっていない、と私は思います」
「そう、ですか……」

 ユイリィは呟くようにそう言うと、少しだけ頬を赤らめつつ、目線をややそらしながら、あまり人前では見せないような笑顔を見せる。その様子を片隅で見ていたマイリィは、深く溜息をついた。

(そこまで想ってるなら、もうこんな村なんか捨てて、ラピスに行ってしまえばいいのに)

 マイリィはそう思いながらも、それが出来ないのがユイリィだということも分かっている。彼女の幸せのために自分に出来ることは何かないものかと思案を巡らせつつも、そういう話を切り出すと、逆に「あなたはどうなの?」と切り返されそうな気がしたので、ここは素直に、「いつかルーク様に再会した時の自分」を妄想している双子の姉の姿を、黙って静かに見守ることにしたマイリィであった。

4.5. 契約、そして……

 こうして、次々と仲間達が「帰るべき場所」へと帰還していく中、これまで彼等を束ねてきたルークは、簡易改装を終えた新たな「領主の館」の執務室に、今までずっと自分の傍らで自分を支え続けてきた一人の女性を呼び出し、改めて伝えるべきことを伝える決意を固めた。

「マライア、今更言うのもなんだが……、今まで長い間、ラピス奪還のために尽力してくれて、ありがとう。これで、父ラザールの無念も晴らされたことだと思う。君は本当にラピスの魔法師として、この上ない働きをしてくれた。ぜひ、私の契約魔法師になってほしい」

 ルークとしては、邪紋使い達がそれぞれの居場所に帰還するのはやむをえないことだと思っていた。そして、実はマライアにも、エーラムに帰る権利はある。というよりも、本来ならば、契約相手であるラザールが命を落とした時点で、彼女はエーラムに帰って次の主を探すのが筋である。亡き主君の無念を晴らすことも、亡き主君の息子のために尽力することも、魔法師としての彼女の義務ではない。
 そして、その念願が叶った今、もはや「ラザールの元契約魔法師」としてのマライアには、この地に残る必然性も正当性もない。だが、それでもルークは、彼女にはこの地に残って欲しいと強く願っていた。というよりも、彼女が自分の元を去るということだけは、どうしても避けなければならないと思っていたのである。色々な意味で、彼の中ではマライアは、既に他の仲間達とは異なるレベルの「特別な存在」となっていたらしい。
 しかし、彼女がこれ以上、この地に残るということは、それは彼女が「新たなこの地の領主の契約魔法師」となることが前提となる。つまり、今までずっと「先送り」にしてきた問題について、ようやく決着させるべき時が来たのである。

「あなたの方から言ってきてくれるとは思わなかったわ」

 彼女はそう前置きした上で、あっさりと即答する。

「いいわよ、なってあげる。最初は、ラザールさんの息子であるという理由だけで、契約魔法師になっていいものかどうか悩んだんだけど……、あなたは、道だけじゃなくて、人生にも迷いやすいじゃない。だから、あなたには、私みたいなガサツな女の方がいいわよ。

 ここで「魔法師」でも「部下」でも「相方」でもなく、「女」という表現を用いた辺りに、深い意味があるように読み取れなくもないが、ルークがその意図を類推する前に、彼女はそのまま話を続ける。

「あと、ラスティもね。私達みたいな『単純で、あまり深く物事を考えない仲間』が、これから先もあなたを支えていくわ」

 結局のところ、彼女が自分に対してどういう感情を抱いているのか、ルークにはまだ今一つ測りきれない。もっとも、それは彼自身も同様であった。自分にとってのマライアは、果たしてどのような存在なのか? どのような存在であるべきなのか? 自分は彼女をどうしたいのか? 自分は彼女とどうなりたいのか? 自分でも整理がつかない複雑な感情が胸中を飛び交う中、タレイアで出会ったジニュアールとガブリエラの関係を一瞬思い出しつつ、この小さな執務室の中で互いに見つめ合う二人の間に、これまで感じたことのない独特の空気が広がる。
 その沈黙を破ったのは、ルークでも、マライアでもなく、部屋の外からその扉が開かれる音であった。

「おい、ルーク、今、俺の名前が呼ばれたような気がしたんだが」

 そう言って、部屋の中に踏み込んできた色黒の義兄であったが、その直後、その背後にいた女性と少年が、慌てて彼の腕を引っ張って、その場から引きずり出す。

「馬鹿! 空気読め!」
「すみません、お邪魔しましたー」

 どうやら、この三人の邪紋使いは、ルークかマライアのどちらかに何か用件があって執務室の前で待機していたらしい。彼等が去った後、自分が何を考えていたのかよく分からなくなったルークは、ひとまず、マライアに手を差し出す。

「これからもよろしく、マライア」

 そう言われた彼女は、笑顔でその手を握り返す。こうして、ルーク・ゼレンとマライア・グランデは正式に契約関係を結び、ラピスの統治者として新たな一歩を踏み出すことになる。結果的に、「もう一つの問題」については再び「先送り」されることになってしまったが、おそらく今の彼等にとっては、これが最も「望ましい関係」なのであろう。今後、「それ以上の関係」に発展する可能性があるのか無いのかは、この時点では誰にも分からなかった。 

4.6. 忘れ得ぬ記憶と共に

 それから数日後、一人の「刀」が、ラピスを旅立った。浅葱色の装束を身にまとい、「自分自身」を腰に差し、長い黒髪を風になびかせながら、彼女は一人、街道を往く。元の世界で「刀」としての生涯を300年以上かけてまっとうし、ヴェリア界で更に幾星霜の時を経た上で、この世界に出現することになった彼女にとって、ルーク達と共に過ごした一月半という期間は、決して長くはない。少なくとも、普通の人間にとっての「一月半」に比べれば、遥かに短い、「ほんの刹那の出来事」のようなものである。
 だが、それでも、彼女にとって掛け替えのない時間であったことは間違いない。様々な人と出会い、様々な犬と触れ合ったこの時を、決して彼女は忘れはしないだろう。オルガノンとしての彼女に、あとどれだけの「時」が残されているのかは分からない。今後、数百年、数千年にわたって、この世界に留まり続けることになるかもしれないし、もしかしたら、明日をも待たずにこの世界から突然消え去ってしまうかもしれない。そんな不安定な存在だからこそ、この世界における一瞬一瞬を大切に生きていく、それがオルガノンとしての彼女の信念であった。
 きっと、世界の各地には、まだ多くの人々が混沌災害に苦しんでいることだろう。そんな人々を救うために、あえて旅を続けることを決意した彼女であったが、もしかしたらその中には、今回のように、自分と同じオルガノンによって引き起こされた事件もあるかもしれない。現実問題として、そのような事件を解決するために、同じ「混沌の産物」としての自分が力を貸すというのも、どこか矛盾を孕んでいるようにも思える。だからこそ、聖印教会のように、自分達の存在を拒絶する者もいる。それもまた、やむを得ぬ話であろうと、キヨは思っていた。
 その意味では、オルガノンの手で大切な人を殺されたルークやマライアやロディが、自分のことを信じて、仲間として認めてくれたことは、彼女にとっては、この上ない幸運であったと言えるだろう。辛い過去を乗り越え、偏見に捉われずに未来を切り開くことを選んだ彼等と共に戦った日々は、彼女の中では何よりも大きな宝物である。
 貴重な薬草を手に入れるために危険地帯へと足を踏み入れたオーキッド(の飼育場にいたウェルシュ・コーギー・カーディガン)、行方不明となった自警団長を救うために地下牢へと乗り込んだカナハ(で再会した旧友の連れていたミニチュア・ダックスフント)、殺された老将の犯人を捜すために奔走したケイ(の老将の忘れ形見となった二匹のボルゾイ)、武術大会に出場して優勝を勝ち取ったティスホーン(での対戦相手と共にこの地に出現していた薩摩犬)、居場所を失った妊婦の亡命を手助けしたタレイア(の警備隊長が飼っていたラブラドール・レトリバー)、音楽祭の出場者達を異界の魔王の手から救ったマージャ(の孤児院の少女と共に散歩していたポメラニアン)、仲間を連れ去ったパンドラのオルガノンと戦ったパルテノ(の姫様の部屋にいたアフガンハウンド)、海路から急襲する侵略者を撃退したウィンザレア(の駐留部隊の隊長の愛犬のサルーキ)、目を閉じれば、この一月半の間の記憶(の中の犬達)が次々と脳裏に蘇る。
 果たして、次の村や町で、彼女はどんな人々(や犬達)と出会うのだろう。彼等を救うために、彼女に出来ることは何なのだろう。今の時点で、答えを知る者は誰もいない。だが、これから先、彼女の目の間にどんな困難が立ちはだかろうとも、彼女は戦い続けるだろう。自分を信じて共に戦ってくれた、一人の君主と、一人の魔法師と、彼等の元に集った八人の邪紋使い達の熱き思いを、その胸に抱きながら。

(ブレトランド八犬伝・完)

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最終更新:2016年01月02日 08:28