第1話(BS15)「孝〜断ち切れぬ縁(えにし)〜」 1 / 2 / 3 / 4

1.1. 落城の炎

「どうして……、なんで……」

 宵闇の中、侵入者達によって放たれた火矢による激しい炎に包まれた領主の館の中で、一人の女魔法師(下図)が全身から血を流して床に倒れ込みながら、絶望に満ちた瞳で「主」の死を目の当たりにしていた。


 彼女の名は、マライア・グランデ。ブレトランド北東部に位置するアントリア領内の小さな漁村ラピスの領主ラザール・ゼレンの契約魔法師である。もともとは没落貴族の家に生れながらも、魔法師としての才能を発現させたことで魔法都市エーラムのグランデ一門に入門し、過去に大病を患った経験もあって、人々の身体を癒す治癒師としての道を選んだ。年齢は魔法師としてはまだ若輩の19歳だが、この地の領主であるラザールはその才能を高く評価し、高齢で引退した先代の契約魔法師に代わり、一年前に新たな専属魔法師として彼女と契約を交わした。
 今、そんな彼女の目の前で、その領主ラザールが殺された。突如としてこの地に現れ、多くの魔物達を引き連れて領主の館へと攻め込んだ「謎の妖刀を持つ魔人」(下図)が放った妖しい斬撃によって、その身体は無残にも引き裂かれてしまったのである。


 そして、それを防ごうとしたマライアもまた、別の方向から放たれた火炎の魔法をその身に受けて、その場に倒れこんでしまっていた。魔法師でありながらも戦時においては鎧や盾で身を固めることを常としていた彼女であったが、そんな彼女の防具など何の意味も為さないほどの強力な一撃によって、彼女の身体も死の淵にまで追い込まれてしまっていたのである。その美しい豪奢な金髪が、自身の鮮血で紅く染まる。

「運が無かったわね、マライア。せっかく契約魔法師になれたのに。仕えた主が悪かった」

 そう言ってマライアの目の前に現れたのは、長い黒髪を風になびかせた一人の女魔法師であった(下図)。どうやら、マライアに火炎の魔法を放ったのは彼女らしい。


 彼女の名はアンザ・グランデ。エーラム時代のマライアの姉弟子である。同門の先輩として、彼女は常にマライアを気遣い、そして導いてくれた「優しい義姉」であった。しかし、彼女は数年前、学院内での召喚魔法の実験の失敗により、その身体は異界へと消失した筈である。そんな彼女が今、突如としてマライアの目の間に現れ、当時とはまるで別人のような冷たい視線で彼女を見下ろしていた。

「残念だけど、この聖印の持ち主に生きていてもらっては困るのよ。元姉弟子のよしみで、ここは見逃してあげるから、さっさとエーラムに帰って、新しい契約相手を探しなさい」

 そう語る彼女の背後で、ラザールの聖印がその死と同時に彼の身体から浮かび上がり、やがて混沌核へと変わっていくと、魔人はその混沌核を身体に吸収し、更にその力を強めていく。その姿を見ながら、アンザは満足そうな笑みを浮かべていた。どうやら、この魔人をこの世界に召喚したのは彼女らしい。

「なんで殺したのよ!? どうしてこの人を……。教えなさいよ!」

 マライアには、今のこの状態が全く飲み込めていない。なぜ、突如として行方不明だった姉弟子が現れたのか? なぜ、彼女が自分の君主を殺したのか? 今まで彼女はどこで何をしていたのか? これから彼女は何をしようとしているのか? そして、彼女が呼び出したこの魔人は、一体何者なのか?
 何もかも分からないまま、半ば錯乱した状態でアンザに詰め寄ろうとするマライアだが、彼女は回復魔法の専門家であり、他人を傷つける術を持たない。今、自分の周囲に味方が一人もいないこの状況で、彼女に出来ることはもはや何もなかった。

「残念ね。もう少し、物分りがいい子だと思ってたんだけど」

 アンザがため息まじりにそう言うと、突然、マライアの周囲の空間が歪み、次の瞬間、彼女は館の外へと弾き飛ばされていた。一瞬、何が起きたのか分からず混乱していたマライアだが、やがて、はるか遠方で何かが燃えているのが目に入る。それが、先刻まで自分がいた「領主の館」であることに気付くまで、それほど時間はかからなかった。どうやらマライアは、今、村の遥か西方の森の近くまで、アンザの魔法によって瞬間転移させられてしまったらしい(なお、マライアの知る限り、アンザの専門は召喚魔法の筈であり、空間転移の術が使えるという話は聞いたことがない)。
 そして、領主の館が炎上し、ラザールが命を落としたということは、この地の秩序が完全に崩壊したことを意味していた。この世界に出現し、人々を苦しめる原因となる「混沌」を浄化出来るのは、聖印を持つ君主のみである。この地においてその役目を担ってきたのはラザールであったが、彼は死に、その聖印は消滅した。息子のカノンにも彼の従属聖印が与えられていたが、彼はラザールよりも先に、館に攻め込んできた魔物達との戦いで命を落としてしまっている。もはやこの地に、魔物達を浄化出来る者は誰もいない。あの妖刀の魔人やアンザが何の目的でこの地を襲ったのかは分からないが、彼女達がこの地に留まるにせよ、去るにせよ、この地を正常化するためには君主の力が必要である。なぜならば、このラピスはもともと混沌濃度の高い地域で、頻繁に「魔物(投影体)」が出現することでも知られており、このまま放置しておけば、この地が魔境と化す可能性は極めて高い。
 しかも、この地域に出現する魔物は、他の地域のそれとは異なる特殊な能力を持つ。それは、自らの身体を「透明化」して、その姿を隠して行動することが出来る、という異能である。その戦闘力自体はそれほど脅威ではないが、姿が見えない以上、いつどこに現れるか分からず、対策も難しい。主にティル・ナ・ノーグ界(妖精界)からの投影体が多いため、人々は彼等のことを「透明妖精(インビジブル・フェアリーズ)」と呼び、その神出鬼没の不気味な存在を恐れていた。
 一方で、そんな透明妖精から村人達を守る「守護神」的な存在もいた。その名は「シリウス」。村の西方の森に住む白い巨大な犬のような姿をした投影体で、透明妖精による被害が村に及ぶ度に村に現れ、類まれなる嗅覚で透明妖精の位置を察知し、鋭い爪と牙で次々と撃退していった。村人達はシリウスのことを「犬神様」と呼び、歴代のラピスの領主も、投影体であるシリウスのことを「共に村を守る盟友」として、友好関係を続けてきたのである。
 だが、そのシリウスが、数日前、あの妖刀の魔人によって殺されてしまったという凶報がラザールとマライアの下に届いた。本来、シリウスの身体は、通常の刃では傷をつけることすら出来ず、あらゆる魔法や混沌の力をも寄せ付けないと言われていただけに、この事態は村の人々にとっては信じられないほどの衝撃であった。そしてその数日後、魔人によって率いられた透明妖精達が村を襲い、そして今、ラザールまでもが倒されてしまった。それが、今のマライアを取り巻く状況である。
 今の彼女に出来るのは、近隣のアントリアの村に赴いて、その地の君主にラピスの浄化を要請することくらいだが、現実問題として、あれほど強力な力を持つ魔人と、姿を察知することも困難な透明妖精達を相手にすることが、近隣の地方領主に可能なのかと考えると、かなり怪しい。そうなると、アントリアの首都スウォンジフォートに依頼して、本格的な討伐軍を派遣してもらう必要がありそうだが、現状、アントリアは近隣諸国との戦争や旧子爵家を信奉する反乱軍(「ブレトランドの英霊」第2話「聖女の末裔」参照)との戦争で疲弊している上に、現子爵であるダン・ディオードがコートウェルズに遠征中で不在という混乱状況のため(「ブレトランドの英霊」第4話「帰らざる翼」参照)、辺境の村の討伐のために本格的な大軍を派兵する余力があるかも分からない。
 しかし、だからと言って、この地を放置しておく訳にもいかない。ラザールが死んだことで、現在のマライアと彼との契約は解消されているため、アンザが言っていた通り、マライアにはエーラムに帰還する権利がある。だが、自身の姉弟子に契約相手を殺された状態で、その無念を果たせぬまま何事も無かったかのように次の主を探すことなど、彼女には出来なかった。
 とはいえ、まずこの状況を打破するために、何から始めれば良いのかも分からない。そんな彼女が途方に暮れている時、突如として彼女の脳裏に、何者かによる微かな声が聞こえてきた。

「ラピスの魔法師よ、私の声が聞こえるか?」

 その声は、空気の振動による「音」という形ではなく、何らかの形で直接彼女の脳に届いている。おそらくそれが混沌の力によるものだということは、魔法師である彼女にはすぐに理解出来た。

「誰? 誰なの……?」

 全神経を集中させてその小さな「声」を感じ取ろうとしたマライアは、やがて、これが何者かの「残留思念」の類いであることに気付く。生命魔法の使い手である彼女は、生命を落とした人間や動物の「心」だけが、その死後もこの世界に留まり続けることがある、という話を魔法学院時代の講義で学んでいた。ただ、それは極めて稀な事例であり、そのような形で残留思念を残すのは、生前の段階で既に混沌に染まっていた者か、あるいは混沌そのもの、すなわち「投影体」である可能性が高い。
 そして、この森において命を落とした投影体と言えば、思い浮かぶ答えは一つである。

(まさか……、シリウス?)

 半信半疑ながらも、もしこれが彼の残留思念なら、現状を打開するための手掛かりになるかもしれない。そう思った彼女は、その声に導かれるように、その森の奥地へと足を踏み入れて行くのであった。

1.2. 犬神の遺志

 一方、森の反対側では、この村とは何の縁もない筈の別の女性(下図)が、同じように「シリウスと思しき声」に導かれて、この森の奥地へと足を踏み入れつつあった。


 彼女の名は、キヨ。この世界とは異なる「地球」という星で生み出された「日本刀」のオルガノン(擬人化体)である。オルガノンとは、様々な世界で用いられていた道具などが廃棄された後に、その道具に宿っていた魂が行き着くと言われる「ヴェリア界」と呼ばれる世界から投影された存在であり、その姿は「人」のような形で現れる(ただし、状況に応じて「本来の姿」に戻ることも出来る)。彼女は地球にいた頃、多くの人々に愛用されており、現在の彼女の姿は、その歴代の持ち主の中の一人の姿に似ているようだが、おそらくそれは彼女の中に残っていた「持ち主」の記憶が反映されたのであろう。
 ちなみに、彼女の正式名称は「加州清光」で、これは本来は彼女を作り上げた刀工の名であり、地球ではこの名で呼ばれていたが、こちらの世界の人々(特にこの地域の人々)には彼女の名は発音しにくかったようで、「キヨ」という呼び名が定着した(ちなみに、この名を付けたのは、彼女がこの世界に来て最初に出会ったメアという少女であった)。
 彼女は地球にいた頃から、多くの人々に大切にされてきたこともあり、この世界においても、多くの人々の役に立ちたいという願望を強く抱いている。それ故に、自分の力を役立てることが出来る場所を探して各地を転々としていたのであるが、そんな中、この地域に立ち寄った彼女は、かつて地球にいた頃に感じたことのある、独特の妖しい「殺気」を感じた。それは、凶々しい悪意に満ちた「妖刀」の気配である。
 この時、彼女は瞬時に理解した。この殺気の持ち主が、自分と同じ「日本刀のオルガノン」であることを。しかも、それはかつて自分と(文字通り)刃を交えたことのある存在であることも確信していた。彼女の記憶が間違っていなければ、その刀の名は、肥前忠広。かつて、彼女の持ち主と斬り合ったこともある「伝説の人斬り」と呼ばれた侍が用いていた刀である。地球にいた頃から、幾多の人々を斬り続けたその刀身に禍々しい妖気が宿っていたことはキヨも実感していたが、どうやらその「妖刀」は、その禍々しい悪意をそのままこの世界に反映する形で投影されてしまったらしい。
 そんな妖刀を放置しておけば、何らかの形でこの世界に害を及ぼすことになる、そう直感的に認識したキヨは、その妖気の漂う方角へと向かって歩を進めて行くと、やがてラピスの森の近くにたどり着く。その時、彼女の脳裏に、謎の「声」が響いた。

「お主、あの刀と同郷の者か?」

 その声の正体は分からぬまま、その「声」が発せられていると思しき方角へと向かいながら、彼女は素直に答える。

「懐かしい気配を感じたので、おそらく、そうなのでしょう」

 すると、その謎の「声」が、再びキヨの心に届く。

「あやつを倒せるとしたら、同じ『あの世界の刀』くらいしかないかと思っていたが、まさか、ここでお主が現れるとはな」

 その「声」の主の真意が分からぬまま、更にその方角へと近付いていくと、やがて、彼女の目の前に、マライアが現れる。

(え? 何? この人が、この声の主?)

 一瞬、マライアが混乱していると、すぐに再び彼女の精神に「あの声」が響き渡る。

「ラザールの契約魔法師よ、無事だったのだな」

 その声は、さきほどの「森の入り口」で聞いた時よりも、遥かにはっきりと聞こえる。そして、この声は同時に、キヨにも聞こえていた。どうやら、今、彼女達がいる場所が、この「残留思念」の発生源らしい。

「私自身は、無事と言えば無事ですが……」
「大丈夫だ。お主がいてくれれば、まだ望みはある。それに、あの妖刀を倒せる術を持つ者も今、この地に現れた」

 そう言った上で、その声の主は、自らが「シリウス」の残留思念であることを明かした上で、この状況について説明する。曰く、キヨが実感した妖気の発生源である「ラザールを殺した妖刀の魔人」は、地球からヴェリア界を経てこの世界に現れた「日本刀のオルガノン」であり、しかも、その刃は「本来は人間の力では傷付けることが出来ない存在」である筈のシリウスの身体を斬ることが出来る能力の持ち主であったという。
 シリウスの推測によれば、その「妖刀の魔人」をこの世界に召喚したのは、彼の傍にいた女魔法師であり、その女魔法師の力によって、もともと「透明妖精」を呼び出しやすい空間であったこの地で、(その透明妖精を察知出来る能力を持つ)シリウスが倒された後、次々と彼等が呼び出され、そしてその魔人に率いられる形で村を襲撃することになったらしい。ただ、その目的が何なのかは、シリウスにも分からない様子である。
 だが、シリウスは死ぬ直前、自身の力の源である「八つの混沌珠」を自分から切り離し、この小大陸の各地に四散させたという。その混沌珠は、その力を持つに相応しい者を探してその身体に入り込み、「邪紋」として取り込まれ、シリウスが持っていた「(透明妖精などの)混沌を嗅ぎ分ける能力」を含めた投影体としての力を授けている筈だと、そのシリウスの残留思念は語っている。

「ラザールの契約魔法師よ、今からお主に、その混沌珠の力を察知する能力を授ける」

 そう言われたマライアは、自らの身体に「何か」が入り込んできたのを感じたが、それが何なのかはよく分からない。そもそも「混沌珠」なるものが具体的にどういう代物なのかも分からない以上、現状では今ひとつ実感出来ないというのが、正直なところであろう。

「これで、お主は私の力の後継者の存在を感じ取れるようになった筈だ。お主が神経を集中させれば、どの方角にその力の持ち主がいるのかは分かる筈。そして、この力を受け継ぐ者達が集まれば、透明妖精達も倒せる筈だ」

 そう説明した上で、シリウスの残留思念は、この地を浄化する上での「もう一つ問題点」について指摘する。それは、あの妖刀の魔人である。彼は特殊な経路でこの世界に出現した投影体であり、彼を浄化することは通常の聖印では出来ず、それが可能なのは「ラピスの領主の聖印」のみであるという。しかし、ラザールは命を落としてその聖印は消滅し、その従属聖印を持っていた息子のカノンも、その前に殺されてしまっている。

「誰か、ラピスの領主の聖印を部分的にでも受け継いでいる分家の者などはおらぬのか?」

 そう問われたマライアには、一人、心当たりがあった。というのも、彼女自身は会ったことがないが、ラザールには実はもう一人、先妻との間に生まれていた「長男」がいたという話を、生前のラザールから聞いたことがある。その長男の名は「ルーク」。現在は先妻の実家であるヴァレフール南部の港町オーキッド(下図参照)の領主の家に養子に行っているらしいが、彼の聖印もまた、ラザールの聖印から切り分けられた従属聖印であるらしい。


「そうか、ならば、そやつと、そこの『刀』と、私の力を受け継いだ八人の邪紋使いがいれば、ラピスを正常な形に戻すことが出来るだろう」

 「そこの刀」と言われて、キヨはすぐに自分のことだと理解出来たが、マライアは一瞬、混乱する。だが、そこはさすがに彼女も魔法師である。キヨの発している独特のオーラが、先刻の妖刀の魔人のそれに近いことから、おそらくは彼女もまた「刀のオルガノン」なのであろう、ということは、この文脈から想定出来たようである。

「ところで、そこの刀よ、お主はいつ、こちらの世界に来た?」

 そう問われたキヨは、答えに困っていた。彼女はまだこの世界に出現して間もないため、そもそもこの世界の「暦」という概念がよく分からないので、答え様がないのである。
 だが、実はシリウスが聞きたかったのは「こちらの世界」での年月の話ではなかった。そのことに自分で気づいたシリウス自身が、答えあぐねているキヨに対して、改めて問い直す。

「いや、違うな。重要なのはそこではない……。お主がいた世界では『里見の里』はまだ健在であったか?」

 「里見の里」と言われても、今ひとつ彼女にはピンとこない。東国の地名として、里見の名は聞いたことはあったが、彼女自身はその地に行った(持って行かれた)ことがないので、どちらにしても答え様がなかった。どうやら、彼もまた「地球」の出身のようだが、そもそも彼の言っている「里見の里」が、キヨの知っているそれと同じ土地とは限らない。更に言ってしまえば、もしかしたら「彼の出身地である地球」と、「キヨや忠広が生まれた地球」が、同じ地球なのかどうかも分からない。一説によれば、この世界に投影される様々な異世界にはそれぞれに平行関係にある別の世界が並存しているとも言われている。

「まぁ、分からんなら、仕方がない。ともかく、あの妖刀を止めてくれ。あの妖刀に対抗出来るのは、おそらくこの世界には、お主しかいない」

 その発言の真意は今ひとつキヨには伝わらないままであったが、そう言い残すと、そのシリウスの残留思念は、徐々に消えていく。どうやら、彼の中で「誰かに伝えなければならなかったこと」を伝え終えたことで、かろうじて維持していた魂の緊張感が途切れ、そのまま消滅していったようである。
 色々と唐突に伝えられた情報が多すぎて、困惑した状態のマライアではあったが、ひとまず、今の自分が為すべきことは分かったので、改めてキヨの方を向いて、語りかける。

「じゃあ、『刀』さん、私と一緒に、『8人の邪紋使い』と『ルーク』さんを探しに行ってもらえますか?」

 そう問われたキヨは静かに頷く。彼女も今の状況はよく分かっていないが(それ以前の問題として、そもそもこの世界のこと自体もよく分かっていないのだが)、少なくとも、自分が元いた世界からの因縁の相手である「妖刀」が、この地の人々を苦しめていると聞いたら、このまま黙っている訳にはいかない。
 こうして、ラピスの人々を救うために、この地を襲った二人と浅からぬ縁を持つ二人の、長い旅が始まったのである。

1.3. 二人の来訪者

 その頃、その彼女達が探し求めている「ラザールの長男のルーク(下図)」は、オーキッドの領主家であるザンシック家の一員として、自分の実父が命を落としたことを知らないまま、ごく平凡な貴族としての日常を送っていた。


 彼は現在、21歳。本来はラピスの領主の跡取り息子として生まれたが、彼が生まれると同時に母は死去してしまったため、彼は母親の顔を知らない。その数年後にラザールが後妻を娶り、そして弟のカノンが生まれたことで、後継者を巡る混乱を避けるために、ルークは死んだの母の実弟であるヴァレフールの港町オーキッドの領主イノケンティスの養子として引き取られることになった(この当時は、まだアントリアとヴァレフールの関係は、今ほど険悪ではなかった)。
 当初、自分がラザールの後を継ぐものだと思っていた彼は、遠い異国のオーキッドに養子に出されると聞いて少なからず失望していたが、養父となった伯父イノケンティス・ザンシックはルークのことを我が子のように可愛がり、やがて彼はザンシック家の一員として新たな人生を歩んでいく運命を受け入れるようになる。ただ、それでも、時折、イノケンティスや彼の実子である義兄達との間で、どこか隔意を感じることもあった。
 そして、彼は幼少時に実父ラザールから従属聖印を与えられていたのだが、このオーキッドに来て数日後に見た夢の中で、自身の聖印が「この世界に変革をもたらす特別な聖印」であるという「予言」を聞かされることになる。それが何を意味しているのかは分からなかったが、それ以来、彼は「一流の君主」を目指すことを志し、日々武芸の鍛錬に励んでいた。ちなみに、彼の得意武器は弓であり、曲がったことが嫌いなその性格故か、その矢筋は常に一直線に敵の急所を貫くと言われている。


 そんなルークには、ラスティとウォートという、二人の義兄がいた。長兄のラスティ(下図)は、やや細身のルークとは対照的に筋骨隆々とした体型で、武芸に関してはルーク以上の実力者ではあるが、彼は父イノケンティスの後継者とはみなされていない。なぜならば、彼は産まれながらにして「聖印を受け取れない体質」だったからである。


 聖印を受け取れる資質は遺伝する傾向が強いと言われているが、彼のような例外もいる。中には、若い頃には受け取れなくても、歳を重ねることで体質が変化して受容可能になる者や、突発的に自力で聖印を生み出せるようになった者もいるが、ラスティに関しては、すでに28歳という年齢に至っていたにも関わらず、そのような兆候は見られなかった。
 しかも、彼は金遣いが荒く豪快な性格のため、過去には大借金をして、やむなく家を飛び出したこともある。様々な経緯の末に、最終的には家に戻ることになったが、この一件で家中の者達の間でも「ラスティは領主の器ではない」という評価が定まってしまい、イノケンティスの後継者の証としての従属聖印は、弟のウォートに与えられることになった。父のことを尊敬していたラスティにとっては、その父の信頼を失ってしまったことに寂しさを感じてはいたが、こうなってしまった以上は、自分は武人として戦場で名声を得ることを目指そうと、心を切り替えていた。
 そして、そんな彼にとっての転換点となる出来事が数日前に起きた。ある日の夜、ザンシック家の屋敷の裏庭で武芸の鍛錬に励んでいた彼の目の前に突然、北方から謎の「珠」が現れ、彼の身体目掛けて飛び込んできたのである。避ける間も無くその珠をその身で受け止めてしまった彼は、やがて自らの身体に変調が起きてるのを感じ、そして激しい痛みと共に、その身体に邪紋が刻まれていったのである。それは、彼が長年、「力の象徴」として憧れていた「龍」の力を自身に憑依させることを可能とする「レイヤー」としての邪紋であった。
 聖印と邪紋は、元はどちらも混沌核から生まれ、他の混沌核を吸収することで成長するものだが、その性質は大きく異なる。聖印は混沌を浄化した上で吸収することが出来るが、邪紋にはその力はないため、混沌核を吸収する時は、その混沌としての禍々しい力をそのまま体に取り込むことになる。そのため、邪紋使いは混沌を吸収すればするほどその力は増すものの、それを続けていけば、やがて自身が混沌に取り込まれて暴走してしまう。故に、この世界においては、邪紋使いは君主と同様に「混沌と戦う力を持つ人物」と認識されてはいるものの、「混沌からこの世界を救う力を持つ人物」とはみなされないため、人々の上に立つ「領主」となる権利は持たない。それが、魔法都市エーラムによって定められたこの世界の理(ことわり)である。
 しかも、君主の聖印が、その気になればいつでも手放したり、他人に譲渡したりすることが可能な代物であるのに対して、邪紋は一度体に刻まれたら、二度と外すことは出来ない。つまり、理論上、君主が邪紋使いに転向することは出来ても、一度邪紋使いとなった者は、もう二度と君主にはなれないのである。したがって、この力を手に入れたことで、ラスティは念願の「戦場で名声を得られる可能性」は高まったものの、一方でそれは、父の跡取りの座に返り咲く道が完全に閉ざされたことも意味していた。
 そんなラスティにとって、義弟であり従弟でもあるルークは、自分と同じ「後継者の座を弟に奪われた人物」という意味では共感出来る部分もあったが、聖印を持つ身である以上、弟のウォートに何かあった時は、ルークがザンシック家の第一継承者になると考えると、どこか心中穏やかではなくなる側面もある。ルークの側もそれを感じ取っているのか、ラスティとの間では(イノケンティスやウォートとの関係以上に)距離を感じることもあった。
 さて、そんなある日、色々と複雑な感情を抱きながら武芸の鍛錬に励んでいたラスティの元に、一人の若い魔法師が訪れた。エーラムから「魔法師見習い」として実地研修のために派遣された少女、ヴェルナである(下図)。


「ラスティ様、イノケンティス様がお呼びです」

 魔法師見習いと言っても、彼女は既に一人の君主と契約を結ぶに足る実力の持ち主であり、実質的には「就職活動」の一環として、契約相手を探すためのお試し期間として赴任していると言った方が適切である。
 ちなみに、ラスティから見ればヴェルナは10歳も年下の「小娘」にすぎない筈なのだが、彼女とはなぜかウマが合うようで、互いに実力を認め合う関係であった。もしかしたらそれは、彼女の中に流れる「龍」の血(「ブレトランドの英霊」第4話「帰らざる翼」参照)をラスティが無意識のうちに感じ取り、親近感を得ていたのかもしれない。
 そして、ラスティに用件を伝え終えると、今度は彼女は同様にルークの私室に赴き、彼にも同じ内容の伝言を伝える。こうして、このオーキッドの領主であるイノケンティスの前に、ラスティとルークが揃って呼び出されると、彼は二人の「息子」にこう告げた。

「この度、ヴァレフール伯爵位を継承されたワトホート様と、大陸のローズマンド伯爵の側近であるアルフォート家のヘルマン様が我が街にいらっしゃることになった。お前たち二人には、お二人の御案内と接待を任せたい」

 ワトホート・インサルンドは、先代ヴァレフール伯爵ブラギスの長男であり、先日、そのブラギスが何者かの手で毒殺されたことで、その後継者となった人物である。ただ、その継承の正統性に関して、ヴァレフール騎士団の団長ケネス・ドロップスは、ワトホートのことを「ブラギス暗殺の首謀者」と断じて異論を唱え、今は亡き次男トイバルの忘れ形見であるゴーバンをその後継者とすべきと主張して、自身の本拠地である海上交易都市アキレスを中心にワトホートの新体制への非恭順の姿勢を示している(「ブレトランドの英霊」第6話「炎のさだめ」参照)。
 現状、ヴァレフール全体の中ではケネスの意見に全面的に賛同するのは少数派ではあるが、彼は大陸との最大の窓口となるアキレスの貿易港を領有していることもあり、これまで長年に渡って幻想詩連合との連絡役を担ってきた。よって、このまま両者の対立が長引いた場合、やがて幻想詩連合がケネスの言い分を受け入れて、ゴーバンを正統後継者とみなす認識が連合諸国の間で広がってしまうかもしれない。
 このような事態を避けるために、ワトホートは大陸の幻想詩連合諸国の中でも特にブレトランドと関係の深いローズマンド伯爵領との関係を強化すべきと考え、首都ドラグロボウに最も近い貿易港であるオーキッドに、その側近のヘルマン・アルフォート子爵を招聘し、その場で自身と会談する機会を設けようと考えたのである。今のところ、ワトホート体制を受け入れる姿勢を示しているイノケンティスにとっては、自領内でそのような重要な会議が開かれるということ自体、またとない大役であり、現在の自身の盟主であるワトホートにも、大陸の要人であるヘルマンにも、決して粗相があってはならないと考えていた。
 その上で、自身の三人の「息子」のうち、後継者であるウォートに街全体の警備の指揮を任せた上で、ラスティとルークに接待役を任せることにしたらしい。

「分かりました。謹んで拝命します」

 ルークはそう言った上で、ラスティにどちらがどちらを担当すべきか相談すると、彼はあっさりと即答した。

「俺は、成り立ての伯爵様よりも、ヘルマンさんと話がしたいね」

 その意図がどこにあるのかは不明だが、ルークの方は特に希望があった訳ではないので、素直にその希望を受け入れる。

「分かった。では、ワトホート様は私が担当しよう」

 こうして、二人はそれぞれに、北の陸路と南の海路からこの地を訪れる要人達を迎え入れるための準備を進めることになったのであった。

2.1. 再会と邂逅

 そして数日後、ローズモンド伯爵の側近であるヘルマン・アルフォートは、予定通りに大陸からオーキッドに向かう船に乗船する。そして、彼等を乗せた船の甲板の上で、体調を崩している二人の女性がいた。
 マライアとキヨである。彼女達は、スウォンジフォートから海路で大陸を経由した上でオーキッドへと向かう便に乗船していた。ラピスからオーキッドに行くには陸路よりも海路の方が早いのは明白であったが、現在のアントリアとヴァレフールは戦争状態ということもあり、直行便が存在しなかったので、大陸経由のルートを選ばざるを得なかったのである。
 ただ、二人とも船に乗った経験は乏しかったため、それぞれに船酔いに苦しんでいた。そんな中、甲板でぐったりした様子のマライアに対して、声をかける男性(下図)が現れる。


「大丈夫か、あんた…………、って、お前……、マライアか?」

 眼鏡をかけて作業着を着たその青年は、マライアの顔を見るなり、驚きの声を上げる。それに対して、まだ吐き気が収まっていないマライアは、不機嫌そうに顔を上げた。

「っさいわねぇ、こんな時に……、え? ヨハン?」

 マライアもまた、彼の顔に見覚えがあった。彼の名はヨハン・デュラン。エーラム時代に、基礎魔法習得の講義を共に受講していた仲である。彼の専門は錬金魔法だが、回復薬の使用に長けた人物でもあったため、「治癒師」であるマライアとは同じ講義を受講することが多かった。

「お前、アントリアの領主と契約してたんじゃないのか?」

 アントリアとヴァレフールが戦争状態にあることはヨハンも知っている。この状況下で、大陸からヴァレフールへと向かうこの船の中にマライアがいれば、ヨハンが不自然に思うのも当然だろう。
 これに対して、マライアはやや返答に困っていた。敵の正体も目的も分からない状態である以上、今の自分達の動向を他人に知られるのはあまり好ましくない。しかも、マライアの記憶が間違っていなければ、ヨハンが契約している相手は、アントリアが所属する大工房同盟と対立する幻想詩連合の一角を担うローズモンド伯爵の側近「ヘルマン・アルフォート」であり、立場上は敵同士である。いくら元学友といえども、そう気軽に事情を話す訳にもいかなかった。

「いや、ちょっと訳あって、ちょっとした旅に出ようかと思ってね……」

 マライアのその返答に明らかに不審な様子を感じたヨハンではあったが、何か言いたくない理由があることを察したようで、それ以上、何も追求しようとはしなかった。魔法師の中には、積極的に軍師・宰相として軍事・政治に関わろうとする者達もいれば、魔法の研究に極力専念したいと考える研究者気質の者達もいる。ヨハンは後者の部類であり、ここで主君のために敵国の内情を探ろう、という心意気までは持ち合わせていなかった。
 そんな二人の間で微妙な空気が漂っている中、そこに割って入る一人の少女が現れる。

「あら、ヨハン、お知り合いですか?」

 その少女は10歳程度と思しき風貌で、見るからに貴族と分かる豪奢な服を身にまとい、そして、その傍らには黒服に身をまとった執事らしき長身の男が立っていた(下図)。


「えぇ。エーラム時代の同輩です」
「ブレトランドの方ですか?」
「……私は、そう記憶しておりますが」

 マライアの今の立場がよく分かっていないヨハンは、少女の問いに対して、ひとまずそう答える。彼のこの態度から察するに、どうやら、この少女は彼の契約相手と縁のある者らしい。彼女は、マライアに向かって歩み寄ると、丁寧な口調ながらもやや高慢そうな態度で語りかけた。

「はじめまして。わたくし、ヘルマン・アルフォートの娘で、エリーゼと申します。一つお伺いしたいのですが、今、ブレトランドで一番毛並みのいいコーギーを買うならば、どちらに行けばよろしいのでしょうか?」
「コ、コーギー……、ですか?」
「はい。ウェルシュ・コーギー・ペンブロークでも、ウェルシュ・コーギー・カーディガンでも、どちらでも良いのですが」

 ウェルシュ・コーギー・ペンブロークも、ウェルシュ・コーギー・カーディガンも、ブレトランド産の犬の一種である。短い足が特徴で、王侯貴族を中心に愛好家が多い。どちらも、トランガーヌ地方が原産地と言われているが(前者の名は、トランガーヌ子爵家の名に由来する)、現在はヴァレフールの方が飼育業者が多いと言われている。

「今、向かっているヴァレフールであれば、それなりに……」

 実際にヴァレフールに行ったことがないマライアとしては、その程度の知識しかないので、そう答えるしかない。しかし、それを聞いただけでも、その「エリーゼ」と名乗る少女は、どこか嬉しそうな様子であった。

「そう。楽しみですわねぇ、ヴェルトール」
「はい、お嬢様」

 傍にいた執事らしき男性に声をかけると、その「ヴェルトール」と呼ばれた男は、静かにそう言って頷く。どうやら、彼もまたヨハンの主家の関係者のようだが、今のマライアには、そんなことを特に気にとめる余裕もなく、再び湧き上がる吐き気を抑えるだけで精一杯であった。


 一方、その頃、少し離れたところでマライアと同様に船酔いに苦しんでいたキヨの前に、見覚えのない女性が現れ、何やらほくそ笑みながら近付いてきた。ベレー帽を深く被り、この地域の人々の装束としてはやや奇妙な服装に身をまとった三つ編みのその女性(下図)は、キヨに対して単刀直入にこう問いかけた。


「あなた、オルガノンですよね?」
「……どちら様ですか?」

 一応、キヨも「オルガノン」という言葉が、自分のような形でこの世界に現れた者達全般を指す言葉だということは知っている。だが、この女性に関しては、全く見覚えがない。

「私、『週刊ローズモンド』の記者のアンナっていうんだけど……、むしろ、こう言った方がいいわね。私、地球人なのよ」

 「地球」とは、キヨが本来「刀」として用いられていた頃に存在していた世界の名である。つまり、彼女はキヨが元いた世界から現れた投影体、ということらしい。ちなみに、「週刊ローズモンド」とは、ローズモンド伯爵領の一部で発行されている新聞の名であるが、この世界に来て間もないキヨが、そんな媒体の存在を知っている筈もない。

「あなた、地球の『刀』がヴェリア界を通じてこの世界に来た、というパターンでしょ? ウチの雑誌にはね、そういう珍しい人達を紹介するコーナーもあるのよ。刀のオルガノンって、初めて見たから、色々話を聞きたいんだけど、あなた、いつこの世界に来たの? 今、あなた自身は誰かに仕えてるの? 主人というか、持ち主というか、そういう人はいるの?」

 矢継ぎ早にまくしたてるようにアンナはそう問いかける。なぜ、彼女がキヨを一目見ただけで「刀のオルガノン」と見破ることが出来たのかは謎であるが、もしかしたら、地球人であるが故に、どこかで「同じ匂い」を感じたのかもしれない。
 一方、聞かれた側のキヨは、何をどこまで答えて良いのか分からず困惑しながらも、とりあえず、最後の質問に関してだけは、素直に答える。

「特に目的は無く、さまよってたんですけど……」
「なるほど。野良オルガノン・タイプね。じゃあ、今も一人旅?」
「今は一応、二人旅……」
「あ、そうなんだ。で、今は、どこに向かってるの?」
「オーキッドに……」
「ふむふむ、オーキッド自体が目的地なのね。何をしに? 武術大会でもあるの?」

 キヨとしても、これから向かう先が、ラピスにとっての「敵国」であることは知っていたので、ここで目的を明らかにする訳にはいかないことは理解していた。そこで彼女は、この船に乗る時に乗客達の間で話題になっていたことを思い出し、こう答える。

「オーキッドには、いい犬がいるから……」

 実は彼女は、地球にいた頃から、大の犬好きであった(もしかしたら、それは歴代の持ち主の中の誰かの影響なのかもしれない)。大陸の港でこの船に乗り継ぐ際、オーキッドにはコーギーの飼育業者が多いという話を乗客達が話しているのを偶然聞き、それが彼女の脳裏に強く刻み込まれていたらしい。

「へぇ、犬が好きなんだ。そういえば、あそこのお嬢さんもそうだったわね。いや、実はね、私、ウチの国の重鎮のヘルマン卿がヴァレフール伯爵と会談すると聞いて、その取材のために随行してるんだけど、ヘルマン卿のお嬢さんが犬好きらしくてね。どうしてもブレトランド産のコーギーが欲しいって言って、ついて来たらしいのよ。でね、そのお嬢さんってのがね……」

 アンナはキヨに対して、聞かれてもいないことを次々とベラベラと話していく。とりあえず、自分の持っている情報は(話せる範囲で)どんどん提供することで、相手に対して自分を信頼させた上で相手の握っている情報を引き出すのが、新聞記者としての彼女の手法である。この時点で、彼女がキヨから何を聞き出そうとしていたのは不明であるが、キヨにしてみれば、アンナの話にさほど興味もなかったこともあり、結局、アンナは大して有益な情報も得られないまま、ただ一人で話し続ける不毛な時間を過ごしてしまうのであった。

2.3. 癒しの空間

 こうして、奇妙な形での再会と邂逅を経て、やがて彼女達を乗せた船がオーキッドに到着すると、この船の中で最も豪華な客室から、ヘルマン・アルフォート子爵(下図)が現れ、契約魔法師のヨハン、娘のエリーゼ、執事のヴェルトール、そして新聞記者のアンナが、その後方から随行する。


 そんな彼等の前に護衛の兵達を引き連れて現れたのは、この地の領主イノケンティスからヘルマンの護衛を命じられていた、彼の長男のラスティであった。

「この度は、長旅お疲れ様でした」

 そう言って頭を下げる彼に対して、ヘルマンは軽く笑顔を浮かべながら問いかける。

「オーキッドの領主殿の家臣の方かな?」
「いえ、私は領主の息子のラスティと申します」
「おぉ、これは失礼した。跡取りの方であったか」

 正確に言えば、ラスティは「跡取り」ではないのだが、そう言われて嬉しかったのか、特に否定もしなかった。すると、その「跡取り」という言葉に、少し離れた場所にいたマライアが反応する。

(このオーキッドの領主の跡取りということは、もしかして、あの人が……?)

 彼女は、ルークがオーキッドの領主家の養子に入った、ということしか聞いていないため、他に跡取り息子がいるのかどうかも分からない。「ラスティ」と名乗ってはいたが、養子に入ったことで名を変える者もいる以上、現時点でその可能性は否定出来ない。それに加えて、この時点でマライアはラスティに対して、本能的なレベルで「何らかの特別な力」が備わっているように感じていた。そのことからも、彼が「ラピスを浄化するための特別な聖印の持ち主」であるかのように思えたのかもしれない。
 一方、そんな遠方からの視線に全く気付いていないヘルマンは、自分の後ろに立っている娘のエリーゼをラスティに紹介しながら、こう告げる。

「ところで、少々申し訳ないのだが、ウチの娘が、どうしてもブレトランド産のコーギーが欲しいと言っていてな。どこか、良い飼育業者を知らないか」

 唐突にそう問われたラスティは、困惑する。実は、彼自身も結構な動物好きではあったのだが、自分から動物を買いに行ったことはないので、具体的な飼育業者の場所までは把握していない。

「あいにくと、そういったことには不心得なものでして……」

 彼がそう言うと、ヘルマンの後方にいたエリーゼは「仕方ないですわね」と言いたそうな顔をしながら、一人で勝手に父の元から離れて歩き出す。

「じゃあ、さっきの記者さんから聞いた場所に行ってみますわ」
「いえ、さすがにお嬢様一人という訳には……」

 そう言って、執事のヴェルトールがついて行こうとすると、ラスティもそこで名乗りを上げる。

「では、私も御同行しましょう」

 一応、父から命じられていたのはヘルマンの接待だが、この状況であれば、エリーゼの身の安全の確保も重要な任務であることは間違いない。こうしてラスティは、ひとまずヘルマンを宿舎に案内するのは部下に任せて、彼女の護衛を優先することになった。
 一方、そんな彼等の様子をやや離れた場所から見ていたマライアは、この機にラスティに近付き、話しかける。

「あの、私達もコーギーを探しに来たんですけど、同行してもよろしいでしょうか?」

 とりあえず、キヨが犬好きということはマライアも聞いていたので、いきなり本題に入るよりも、まずはそれを口実に接点を作ろうと考えたようである。少なくとも、ここがヴァレフールという「敵国」である以上、相手の正体についての確信が持てない状態のまま、こちらの目的を明かすよりは、搦め手から接触していくべきと判断するのは、妥当な作戦と言える。
 すると、エリーゼはマライアの後をついて近付いてきたキヨの装束に興味が湧いたようで、彼女に対して話しかけてくる。

「あら、あなた、面白い格好をしていますのね」

 キヨの服は、地球にいた頃、歴代の持ち主の中の一人が羽織っていた装束が元になっている。彼女の中でのその「持ち主」との鮮明な戦いの記憶が、そのまま彼女自身の姿として反映されたのであろう。

「あなたもコーギーをお探しですの? 今、犬は何頭飼ってらっしゃるんですか? 私の家には、シェパードと、ゴールデンレトリバーと、チワワと、チャウチャウと……」

 別に聞かれてもいない犬自慢を得意気に語るエリーゼであったが、キヨは素直に羨ましそうな顔をしながら耳を傾ける。その反応が気に入ったのか、エリーゼはそのまま上機嫌な様子で、飼育場に向かって歩を進めて行く。そうこうしながら、やがて彼女達は無事に、この街の一角にある動物の飼育場にたどり着いた。
 店内に入り、コーギーを探している旨を店員に告げると、店舗の奥にある、ウェルシュ・コーギー・ペンブロークの仔犬が集まっている部屋へと案内される。

「わぁ〜、かわいい♪ どの仔にしようかしら♪」

 そう言って、エリーゼは仔犬達に近付いて行こうとするが、なぜか彼等は、エリーゼの姿を見るなり、何かを感じ取ったように、彼女を避けようとする。そして、マライアでも、ラスティでも、ヴェルトールでもなく、なぜかキヨの元に集まってきた。どうやら、同じ犬好きでも、キヨは「犬に好かれるタイプの犬好き」で、エリーゼは「犬に嫌われるタイプの犬好き」らしい。その違いがどこにあるのかは、本人達も周囲の者達も分からない。

「もう、どうして私の所には誰も来てくれませんの!? もういいわ。別の店に行きましょう」

 そう言って、不機嫌そうな顔で店を出て行こうとするエリーゼに対して、ヴェルトールが申し訳なさそうに口を開く。

「お嬢様、そろそろ戻らなければ。夕刻の御会食に間に合いませぬ」

 この日の夜は、来客一同を集めた宴会を催す予定らしい。さすがに、その場に遅刻するようでは、子爵令嬢として失格である。

「あら、今晩のメインディッシュは何ですの?」
「ロブスターと伺っております」
「えー? ザリガニ? いやですわ、気持ち悪い。別のメニューに変えて下さる?」

 露骨に嫌そうな顔をしながら、彼女はそう告げる。ちなみに、ロブスターもまたブレトランドの名物の一つであるが、高級品のため、あまり一般的に食される料理ではない。
 そんな彼女達のやりとりを横目に見ながら、キヨは、自分の周りに群がる仔犬達に対して、名残惜しそうな顔で別れを告げるのであった。

2.2. 静かなる襲撃

 一方、その頃、街の北側の入口で待機していたルークは、予定通りの時刻に、新ヴァレフール伯爵に就任したばかりのワトホート・インサルンド(下図左)と、その側近で「ヴァレフールの七男爵(騎士隊長)」の一人であるファルク・カーリン(下図右)を出迎えていた。どうやら、ファルクは今回、ワトホートの護衛役として同行することになったらしい。その背後には、ヴァレフール騎士団の精鋭達が厳重な面持ちで随行する。


「お待ちしておりました、ワトホート様」

 そう言って、ルークは恭しく一礼する。ヴァレフール領であるこのオーキッドの領主の一族である彼にとって、ワトホートは現在の「主君」に相当する。

「貴殿は?」
「私は、オーキッドの領主イノケンティスの養子のルークと申します」

 ワトホートに問われた彼は、素直にそう答える。すると、今度はワトホートの傍らにいたファルクが口を開いた。

「わざわざの御足労、感謝致します。ところで、今晩のワトホート様のお食事に関して、一つお願いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 ファルク曰く、ワトホートは生来病弱な体質で、食べ物に関しても様々なアレルギーを示す症状を抱えているらしい。そのため、今晩の会食時の料理に「卵」「牛乳」「落花生」「甲殻類」は避けてほしい、とのことである。
 突然そう言われたルークは、慌てて傍にいた部下に確認を取る。

「おい、今夜の会食のメニューは何だ?」
「えーっと、確認してないので……、今から行って、伝えてきます!」

 そう言って、部下の一人が急いで領主の館へと戻るのを確認すると、ルークは当初の予定通り、街の中を案内しながら、ワトホートを宿舎へと案内する。街の人々も、新たに「国主」となったワトホートの来訪を歓迎し、老若男女が総出で出迎える。それは一種のお祭りのような華やかな光景であった。
 だが、そんな彼等が街の中心部へと足を踏み入れた瞬間、突然、何かに気付いたファルクが、ワトホートの身体に覆い被さるように立ちはだかって盾を構えた。すると、その彼の盾に一本の矢が的中したのである。突然の出来事に周囲は騒然となるが、ルークは冷静にその矢の飛んできた方角から、それが放たれたと思き場所を特定する。ただ、かなり離れた場所であり、おそらく今から現地に走って行っても、その間に逃げられるであろう。

「あんな遠い場所から正確に狙うとは、相当な弓の名手だな……。お怪我はありませんか?」
「あぁ、大丈夫だ。ファルクが庇ってくれたからな」

 ルークはワトホートの身を案じるが、ワトホートは笑顔で無事をアピールする。実際、彼には傷一つなかった。そして、ファルクの盾に防がれた矢の先を見ると、何かが塗ってあるように見える。一本だけで狙ってきたということは、毒矢の可能性が高そうである。
 現状、ワトホートを狙う者の心当たりは、いくらでもいる。おそらく、ケネス派(ゴーバン派)の刺客という可能性が一番高いだろうが、アントリアの手の者かもしれないし、今は友好関係を築いているグリース子爵や神聖トランガーヌ枢機卿も、裏では何を考えているか分からない。更に言えば、最近は秘密結社パンドラがブレトランドの各地で暗躍しているという噂もある。
 様々な可能性を考慮しつつ、その後の彼等はより一層の警戒を強めながらも、どうにか無事に宿舎に到着すると、ルークは部下達に、宿舎の周囲をより厳重に警備するように伝えた上で、ひとまず領主の館へと戻るのであった。

2.4. 合流と決意

 一方、ラスティは、コーギーに逃げられたことで微妙な不機嫌な様子のエリーゼを領主の館まで連れ帰り、そのまま彼女と共に館の中へ入ろうとするが、そこで、マライアが彼を呼び止める。ここまでは成り行きで同行したものの、さすがに今の関係のままでは、この奥に入ることは出来ない。意を決して、彼女は彼に「真実」を告げる。

「あ、すいません、実はその、コーギーとはまた別に、お伺いしたい本題がありまして」
「ほう、なんだい?」
「実は先ほど、あなたがイノケンティス様の後継者という話を伺ったのですが、あなたがルーク様ですか?」

 正直、ここで(第一継承者候補であるウォートではなく)「ルーク」の名が出てくることにラスティは微妙な違和感を感じていたが、ひとまず、この場は素直に答える。

「いや、私の名は、ラスティ・ザンシック。ルークではない。それに、私は後継者ではないのだ。これを見てくれ」

 ここで見栄を張っても、かえって事態がややこしくなると感じた彼は、自らの胸部を覆っていた服のボタンを外し、その身に刻まれた「邪紋」をマライアに見せつける。

「見ての通り、私は聖印を受け取れぬ身体なのだ」

 彼の邪紋は胸の上部に広がるように刻まれている。確かにこれを見れば、彼が聖印の持ち主ではないことは分かるだろう。だが、その彼の邪紋の中央部に、奇妙な「文字」が書かれていることに、マライアの後ろにいたキヨが気付いた。

「その『漢字』は……」

 それは、キヨが昔いた世界において使われていた「孝」という文字である。子が父を敬い、父のために尽くすことを意味する文字であるが、漢字という文化自体が存在しないこの世界の住人達には、それは「文字」ではなく、記号や紋様にしか見えない。

「カンジ? なんだ、それは?」

 そう言って首を傾げるラスティであるが、キヨとしても、その文字の意味をどう伝えれば良いのか、いま一つよく分からない。だが、この世界に来て以来、「漢字」を見たことが一度もなかった彼女にしてみれば、この邪紋が、自分が元いた世界と何らかの形で関わりのある邪紋であることは容易に想像がついた。
 一方、その文字の意味は理解出来なかったマライアも、彼の邪紋が何か特別な力を発していることは理解出来た。そして、最初に彼を見た時に感じていた「特別な力」が何なのかも、この瞬間、はっきりと確認出来た。彼のその邪紋こそが、シリウスによってこの小大陸の各地に放たれた彼の力の「欠片」の一つだということを、ようやく確信出来たのである。
 こうして、今、自分の目の前にいる人物が「ラピスの浄化のために絶対に必要な人物」だと確信したマライアは、自分の知っている全ての真相を彼に話した上で、彼に協力を要請する。現状、彼はヴァレフール側の人間であり、アントリアの地方都市の危機に対して手を貸す義務がある訳ではない。だから、事情を話したところで協力してもらえる確信があった訳ではないが、ここで彼に断られてしまっては、どちらにしても投了なのである。
 だが、そんな彼女の心配は全く無用だったようで、ラスティの側は、その話に対して非常に強い興味を示す。

「そういうことであれば、私も邪紋使いとして名を上げる機会が欲しいと思っていたところだ。ぜひとも、協力させてもらおう」
「ありがとうございます。あと、ルーク様の居場所についても、ご存知でしたら、紹介していただきたいのですが」
「分かった。では、こちらに来てくれ」

 こうして、ラスティはマライアとキヨを連れて館の中へと入り、私室に彼女達を案内する。そして、しばらく待っていると、やがてワトホートの警護を終えたルークが帰還し、ラスティの案内で、二人の待つラスティの私室へと連れて来られた。

「はじめまして、ルーク様。私、ラザール様の契約魔法師を務めておりました、マライア・グランデと申します」

 そう自己紹介した上で、マライアがラピスの現状について彼に告げると、これまで何も知らされていなかったルークは、驚愕の表情を浮かべる。

「ラピスの村が……、父上が……」

 彼の聖印は、本来は実父であるラピスの領主ラザールから受け取った従属聖印だった。故に、ラザールが死んだ時点で、ルークは自身の聖印に微妙な「違和感」を感じていたものの、初めての経験だったこともあり、それが「親聖印の消失に伴う独立聖印化」によって生じた違和感であるということまでは気付けなかったのである。

「守りきれなくて、申し訳ございません」
「いえ、あなた一人の責任では、ない、と、思います……」

 動揺しながらもそう答えるルークではあったが、マライアとしては、自分の姉弟子の所業である以上、責任を感じない訳にはいかない。だからこそ、エーラムに逃げ帰るのではなく、自分自身の手で決着をつけるために、敵国ヴァレフールのオーキッドにまで足を運んだのである。

「あの妖刀の魔人を倒すために、協力して頂けないでしょうか?」
「……分かりました。必ずや父上の無念を、共に晴らしましょう」

 ルークとしても、実父や故郷への思いは強い。養子に入って以来、オーキッドの地に馴染めなかった訳ではないが、やはり、自分自身の「本来の居場所」はラピスにこそある、という気持ちは、彼の中では消えていなかったのである。
 こうして、マライアとキヨは、ラピスを浄化出来る聖印の持ち主であるルークと、透明妖精を嗅ぎ分ける力を持つ八人の邪紋使いの一人であるラスティを同志に加えることに成功する。この瞬間、ラピス奪還に向けての本格的な一歩が、ようやく踏み出されたのであった。

2.5. 疑惑のロブスター

 とはいえ、今はルークもラスティも、「父」であるこのオーキッドの領主イノケンティスから、来客の接待役を命じられている最中である。さすがに、この任を終えるまではこの街を離れる訳にもいかない。ひとまず、今回の会談が終わったところで、ラピスへ向けて旅立つ許可を得ようと考えつつ、しばらくは現状を確認するために、マライアはラピス近辺の詳しい情報をルークとラスティに伝える。
 そうこうしているうちに、徐々に日も暮れ、館の中ではワトホートとヘルマンを交えた形での「歓迎の宴」の準備が進む。そんな中、ラスティの私室をもう一人の「領主の息子」が訪れた。

「兄上、ロブスターが余ったらしいのですが、一緒に食べませんか?」

 そう言って、車輪付きの食器台に載せたロブスター料理を持って現れたのは、ラスティの実弟(ルークの義兄)のウォートである。イノケンティスから従属聖印を受け取り、いずれその後継者になると目されている彼は、現在24歳。だが、体格的には小柄で、むしろルークよりもやや年下に見える程度の童顔である。
 彼は今回の会談中の街の警備全般を担当する立場なのだが、どうやら、間も無く始まる伯爵・子爵を交えての会食の場には彼は同席せず、館の警備に専念する予定らしい。ただ、その前に、「余ってしまったロブスター料理」を、捨てるには忍びないということで、調理場から運び出してきたようである。

「なんでも、ワトホート様はアレルギーで、あっちのお嬢様は食わず嫌いだとかで、二人分、余ってしまったみたいなんですよ。一応、その代わりの料理はエーラムから来てる例のヴェルナ嬢が、腕によりをかけて作ると言ってましたが」

 ここで「ヴェルナ」の名を聞いて、マライアは反応する。彼女のエーラム時代の知人に、同じ名を持つ者がいたのである。

「ヴェルナというのは、まさか、時空魔法師のヴェルナ・クアドラントですか?」

 突然、見知らぬ女魔法師に話しかけられて、やや驚いた様子のウォートであるが、兄や義弟と一緒にいるところからして、怪しい者ではないだろうと判断したようで、素直に答える。

「えぇ。今、魔法師としての研修のために我が街に来ているのです。一応、父上としては、私の契約魔法師候補として考えてくれているようですが……、あなたのお知り合いですか?」
「そ、そうなんですが、彼女、相当な味覚オンチですよ……」

 そう、実はヴェルナ自身は日頃から「料理が趣味」と公言してはいるが、通常の人間とは異なる味覚の持ち主なのである(それが、彼女が龍の血を引いているせいかどうかは不明)。そんな彼女が料理を作ると聞いて、マライアの中では不安が広がる。
 一方、ラスティはそんな彼女の心配を聞き流しつつ、ウォートが持ってきたロブスターの内側から、奇妙な「匂い」を感じていた。それが何なのかは分からないが、どうやら「混沌」に類する何かのような気がする。彼自身はまだ明確に自覚していないが、まさにこれこそが、シリウスの持っていた「混沌の存在を嗅ぎ分ける能力」なのである。

(こいつ、ロブスターの中に何か仕込んでるのか?)

 ラスティとウォートは、決して仲の悪い兄弟ではないと言われている。ただ、自分を差し置いて後継者となったウォートに対しては、ラスティの中でも色々と思うところはあるし、ウォートが自分に対して本心でどう思っているのかも不明である。ただの軽いイタズラ心で何かを仕込んでいるのかもしれないし、あるいは、何かとんでもない陰謀を心に抱いているのかもしれない。彼の真意を測りかねたラスティは、彼の出方を見るために、こう言ってみた。

「ウォート、お前、先に食べてみろよ」

 すると、ウォートはあっさり笑顔で答える。

「いいんですか? じゃあ、とりあえず食堂に行きましょう」

 そう言って、彼はその廊下の先にある、使用人達が用いる食堂へと料理を載せた台車を運んで行き、ラスティはその後を追う。そして、そのラスティの様子から、彼が何かを企んでいるのではないかと勘ぐったルークも後を追い、そうなるとなし崩し的に、マライアとキヨの二人も同行することになる。
 そしてウォートは食堂に着くと、城の警備や雑用を担当する者達に混ざるような形で席に料理を置き、周囲の(安い乾パンや干し肉を食べている)兵達が羨ましそうな目でそのロブスターに目を向ける中、ナイフとフォークで綺麗にロブスターの甲羅を割り、中の白く鮮度の良さそうな光沢を放った身を切り出し、その口へと運ぶ。

「いや〜、旨いですね、この身の引き締まり方、最高ですよ、兄う……え…………」

 食べ始めた当初は笑顔で頬張っていたウォートであったが、徐々に顔色が悪くなり、そして、その場にうつ伏せになって倒れる。

「ウォ、ウォート、大丈夫か!?」

 自ら進んでウォートに食べさせたラスティ自身が、驚愕の声を上げる。どうやら、彼の見立て通り、あのロブスターには何か有害な「何か」が含まれていたらしい。ラスティは、それはウォートの手によって仕組まれたものかと思っていたのだが、何も気付かず食べていた彼の様子から察するに、どうやら勘違いだったようである。

「だ、誰か、医者はおらぬか!?」

 ルークがそう叫ぶと、すぐさま、マライアがウォートの身体に駆け寄り、その体内の混沌濃度を調べる。治癒師でもある彼女が見たところ、どうやら彼は現在、かなり強力かつ特殊な毒物を摂取してしまった状態らしい。

「これは、私の力では解毒出来ません。エーラム製の特殊な薬なら、どうにかなるとは思いますが……」

 そこまで言ったところで、彼女はヨハンのことを思い出す。彼は治癒や解毒の薬物の専門家であり、彼ならば、この症状を治せる薬を持っているかもしれない。現在、彼は主君であるヘルマンと共に会食の席にいる筈だと考えた彼女は、ルーク、ラスティ、キヨと共に、屋敷の中央に位置する広間へと向かうが、そこでは彼等の想定外の緊急事態が発生していたのである。

2.6. 宴席の惨劇

「旦那様、大丈夫ですか!?」
「子爵様! しっかりして下さい!」

 イノケンティスとヘルマンが、どちらもロブスターを食べかけの状態で、その場に倒れこんでいたのである。どうやら彼等も「同じロブスター」を食べて、ウォートと同じ症状に陥っているようである。その傍らで、ヨハンが治療薬を二人に投与し、両家の関係者達が心配そうにその様子を見つめる。
 一方、別の料理を食べていた筈のワトホートとエリーゼもまた、その傍らで気持ち悪そうな顔を浮かべていた。

「大丈夫ですか、ワトホート様!」

 ワトホートの傍らにいたファルクが心配そうに見つめる中、彼の接待役を命じられていたルークも血相を変えて駆け寄って、その身を案じる。だが、治癒師であるマライアが見た限り、ワトホートとエリーゼに関しては、身体に異変が生じている様子はない。そして、二人の目の前の皿に乗せられた「エーラム時代に見覚えのある料理」を目にして、マライアは納得した表情を浮かべてこう告げる。

「心配ありません、ワトホート様とエリーゼ様が食べた料理には、毒物は一切入っていません。これは、純粋に、その料理を作った物の腕が……」

 彼女が言いにくそうに説明しようとした瞬間、当の「料理人」が現れる。

「あれ? マライア? どうしてあなたがここに?」

 そう言って、ヴェルナは久しぶりに会った学友を目の当たりにして、戸惑いの表情を浮かべる。もっとも、それ以前の時点で、自分の料理を食べた二人がなぜ気持ち悪そうな顔をしているのかを、彼女は理解出来ていなかったのだが。

「いや、その、ちょっと旅行で来たというか……、というか、あなたの味覚センスが問題なのよ! 少しは自覚しなさいよ!」

 そんな「割とどうでもいいやりとり」がなされている傍らで、ヨハンはイノケンティスとヘルマンの症状について、こう説明する。

「これはかなり特殊な毒だな。今、私の手持ちの抑制剤で、毒の症状を抑えることは出来ているが、完治させるには、特効薬が必要だ。私なら、この場で調合出来なくもないが、問題は、そのための材料だ……」

 そう言って、彼はイノケンティスの契約魔法師から、現在、この館の中にある「薬の材料となりうるもの」について一通り確認する。

「そうか、それならば、あとはスヴァットさえあれば、どうにか出来るんだが……」

 スヴァットとは、山岳地帯に稀に咲くと言われる、黒い花弁が特徴的な高山植物である。それほど珍しい植物ではないが、混沌濃度が高い地域で咲くことが多いらしく、あまり市場には多く出回ってはいない。

「スヴァットであれば、カーレル川を挟んだ西側の山岳地帯にて入手することは出来る筈です。私が採りに行きましょう」

 そう発言したのは、ヘルマンの執事のヴェルトールである。それに対して、イノケンティスの契約魔法師は、やや驚いた表情を浮かべる。

「確かに、あの地域ではスヴァットが発見されることもあるが、なぜ貴殿がそのことを?」
「私は、今はヘルマン様に仕えておりますが、元々はヴァレフールの出身ですので、この地域のことはある程度は存じております。道案内も不要ですので、ご安心を」

 淡々とそう答えるヴェルトールだが、さすがにこの状況で、「他所者」に全てを任せる訳にはいかない。カーレル川の対岸の山岳地帯は、混沌濃度が高く、投影体が出現することもある。

「私も同行します。あの地域は、一人で足を踏み入れるのは危険かと」

 ルークはそう言って名乗りを上げると、ラスティもそれに同調する。

「お前らだけじゃ不安だからな。俺も行く。父上やウォートがこんな目に遭って、黙っている訳にはいかない」

 厳密に言えば、ウォートはラスティが止めていれば助かったのだが(そして、その時点で会食の場に注意勧告すれば、イノケンティス達も食べずに済んだ可能性はあったのだが)、そんな自分の判断ミスを棚に上げた上で、ラスティも義憤に燃えて参戦を宣言する。
 そして、行きがかり上、マライアとキヨも彼等に同行することになった。特にマライアの場合、スヴァットがどのような植物なのかについても、エーラム時代に学んだことはあるため、その識別のためにも彼女が同行した方が適切であることは明白である。
 こうして、彼等はラピスへの旅立ちの前に、想定外の任務を請け負うことになったのである。

2.7. 魚問屋

 しかし、この時点で既に陽は落ちかけていた。川を越えて山岳地帯を捜索するためには最低でも半日を要することを考えると、この時間帯から「混沌の広がる領域」である現地に向かうのも危険である。幸い、ヨハンの手持ちの抑制剤の数には余裕があるようで、あと数日程度であれば問題がないという判断だったので、万全を期すために、翌朝から出発するという方針で、ルーク、ラスティ、マライア、キヨ、そしてヴェルトールの5人の方針は一致する。
 その上で、ルーク達としては今回の毒物混入が、「事故」なのか「事件」なのかが気になるところである。用意されていたロブスターは、イノケンティス、ワトホート、ファルク、ヘルマン、エリーゼ、ヨハンの6人分。しかし、ワトホートとエリーゼは直前に別の料理に変わったことで、結果的に難を逃れた。そして、ファルクとヨハンは、主君よりも先に手をつけるべきではないと遠慮したのか、自身が口にする前にイノケンティスとヘルマンが倒れたため、被害を被るなく、結果的に、被害者はこの二人とウォートの三人だけに留まっている。
 ヨハンの見解によれば、ロブスターの体内に入っていた毒物は、自然界でロブスターが摂取するような代物ではなく、明らかに人為的に調合された特殊な(普通の料理人が見ても気付かないように偽装された)毒薬であり、何者かによって混入された可能性が高いという。ただ、仮にこれが何者かによる暗殺計画だったとしても、誰を狙ったのかが分かりにくい状況のため、動機の推測は難しく、必然的に犯人像も絞れない。
 こうなると、まずは実際の混入ルートを探ってみるしかない。まず、混入されるとすれば、この館の中の調理場か、そこに来る前の段階かの二択である訳だが、館の料理長曰く、特に調理場に怪しい人影もなく、厳重に管理していたため、館の中で混入されることはありえない、とのことである。この料理長自身は何十年も前から仕えていた者であり、イノケンティスからの信頼も厚い。ただ、魔法師でも君主でも邪紋使いでもないため、ロブスターの体内に混入されていた(混沌に起因する特殊な)毒の存在までは見抜けなかったようである。
 そうなると、次に疑うべきはそのロブスターの仕入先である。料理長が把握している限り、今回のロブスターを搬入したのは、長年御用達の信頼ある魚問屋とのことであるが、他に手がかりがない以上、まずはそこを当たってみるしかない。ひとまず、ルーク、ラスティ、マライア、キヨの4人は、閉店間際の魚問屋に赴き、話を聞くことにした。
 魚問屋の主人は、自分が提供したロブスターが原因で、領主と異国の要人が命の危機に晒されていると聞き、激しく動揺した様子を見せるが、仕入れ元の漁師達は「いつもの馴染みの者達」ばかりであり、そもそもロブスターを誰に提供するとも伝えていないため、誰かを暗殺する目的で混入される可能性は低い、と告げる。
 ただ、ルークと主人がそんな会話を交わしている最中、少し離れた場所で、若い下働の男が、やや怯えた様子で不安そうな表情を浮かべているのが、ラスティの目に入る。

「おい、そこのお前、何ビクついてんだ!?」

 大柄なラスティにそう言われたその男は、露骨に体を震わせながら、小声で答える。

「い、いや、その、思い過ごしだとは思うんですが、実は、あの、ロブスターを届ける時に、ちょっとしたヤボ用がありまして、少し目を離した隙に、荷物を見失ってしまって……、いや、その後すぐ見つけたんで、何事も無かったとは思うんですけどね……」
「……ということは、その時に毒を混入された可能性が高い、ということか」

 その声を聞いたルークが、そこに割って入る。その若い店員曰く、彼がその荷物を載せた台車を発見した時には、その近くに「背の高い男」がいて、声をかけようとした瞬間、「通常の人間とは思えない速度」で走り去って行ったという。おそらくは、邪紋使いかその類の能力者である可能性が高い、というのが彼の見解であった。ちなみに、時間帯的には、ルークが館に帰還した頃のようである。

「で、お前、そのヤボ用とは何だったんだ?」
「いや、実は、その、知り合い、と会って、それで、ちょっと話している隙に、その……」

 どうも何かを隠している様子ではあるが、結局、口を割らせることは出来ずに、うやむやにごまかされてしまった。ルークは、こういった形での口八丁の技術は持ち合わせていないようである。ただ、その様子からして、この男がその毒物混入の陰謀に関わっているとは考えにくそうな雰囲気である。おそらくは、純粋な職務怠慢でサボッている間に起きてしまった出来事ではないか、というのが、彼の口ぶりに基づくルーク達の推測であった。
 ともあれ、とりあえずは「背の高い邪紋使い(と思しき人物)」という手掛かりを得ることが出来た彼等は、ひとまず今夜は館へ戻り、マライアとキヨにも客室を宛てがった上で、明日に備えて英気を養うのであった。

3.1. 対岸の魔物

 そして翌朝、ルーク達はヴェルトールと共に、街の西側を流れるカーレル川を越えて、山岳地帯へと向かうことになる。途中までは特に問題なく歩を進めて行った彼等であるが、徐々に山道に入っていくごとに、混沌濃度が高まっていくのを感じる。
 そんな中、彼等は自分達の進む先に、投影体の気配を感じる。どうやら、ティル・ナ・ノーグ界に住むと言われる最下級の妖魔、ゴブリンのようである。それぞれに武器やタクトを構えて臨戦態勢を整える中、それまで丸腰だと思われていたヴェルトールもまた、懐から短剣のような何かを手にする様子が見える。
 だが、この執事が何者なのかを見定めるほどの余裕は、ルーク達には無かった。まずは今、目の前の敵を倒すことに専念する必要がある。それが、この場にいる者達の共通見解だった。
 まず、最初に動いたのはルークであった。彼が自身の弓の射程に敵を捕えられる範囲まで移動すると、ラスティとキヨが彼を守るようにゴブリン達の前へ向かって駆け出し、前線を形成する。それに対して、ゴブリン達はラスティに向かって襲いかかり、彼の隙を突いて強烈な一撃を食らわせようとしたが、ルークの放った防壁の印によってその毒刃による傷は最小限に食い止められ、その直後にマライアがキュアライトウーンズを放ったことで、その傷はあっさりと回復する。初めての共同戦線にしては、まずまずの連携である。
 そして、ルークが後方から次々と矢を射掛けてゴブリン達の急所を射抜く一方で、自らの半身を龍の姿に変えたラスティが豪腕を振り回し、キヨもまた自らの「本体」である刀で着実に敵の弱点を突き、ゴブリン達を葬っていく。ゴブリンの毒刃によってある程度の傷は受けたものの、毒を治す技術にも長けたマライアの援護もあり、最終的には全員がほぼ無傷のまま、ゴブリン達の撃退に成功したのであった。
 一方、その傍らではヴェルトールが、別方向から来たゴブリン達を、一人であっさりと撃退していた。戦いに集中していたルーク達には、彼の動きははっきりとは見えなかったが、少なくとも、「ただの人間」ではないことは伺える。

「そちらは大丈夫でしたか?」

 戦いを終えた後、ヴェルトールは涼しげな表情を浮かべながら、そう言ってルーク達を気遣う余裕を見せる。

「えぇ、我々は大丈夫です。多くの敵を、あなた御一人で引き受けさせることになってしまって、すみません」
「いえ、これも執事の務めですから」

 淡々とそう答えるヴェルトールであるが、この戦いぶりから察するに、どう見ても彼は「ただの執事」ではない。確かに、執事とは、時には主人の身を守る必要もある以上、武芸に秀でた者も中にはいるが、たった一人で援護も無しに何体ものゴブリン達を葬ったその状況から察するに、彼の実力は、ラスティやキヨと同等かそれ以上と判断するのが妥当であろう。ルーク達は、頼もしさ以上に得体の知れない不気味さを感じ取っていた。

3.2. 深まる容疑

 そんな中、ラスティはヴェルトールの身体の中から、「混沌」の力を感じる。どうやら、彼の中での「シリウスから受け継いだ嗅覚」が、激しく反応しているらしい。

「あなたの身体からは、邪紋の力を感じるのですが?」
「えぇ。あなたもそうですよね?」

 ヴェルトールは、あっさりとそう認める。この瞬間、彼等の中で魚問屋の若者が遭遇したという「背の高い邪紋使い」というキーワードが頭をよぎる。ルークやラスティも長身だが、ヴェルトールの身長は彼等よりも更に高い。

「あなた、昨日、お嬢様と一緒に館に戻った後、どうしてました?」

 ラスティがそう問うと、ヴェルトールは淡々と答える。

「客室をお借りしたので、そこで一人で待機しておりましたが」
「それだと、アリバイがないな」

 そう言って話に割り込んできたのは、ルークである。そのあまりにも露骨な物言いに、ヴェルトールは鋭い視線をルークに向けつつ、あくまでも冷静な口調で切り返す。

「私が、我が主の食事に毒を盛った、と?」

 その瞬間、空気が凍りつく。確かに状況的に言えば、彼ならばロブスターに毒を盛ることは理論上は可能であろう。ただし、問題はその動機である。

「私を犯人とお疑いなら、なぜ私がわざわざ自ら薬を取りに行く必要があるとお思いなのですか?」

 もっともな反論であるかのように見えるが、それに対してはマライアが「一つの可能性」としての仮説を提示する。

「先に現地の薬草を根こそぎ確保した上で、そのまま帰らず『任務に失敗して死んだ』かのように思わせる、ということも可能でしょう。その後で私達が採取に行こうとしても、そこに薬草が残されていなければ、入手することは出来ない」

 確かに、これならば彼が犯人であっても、筋は通る。更に続けて、今度はルークもまた別の可能性を提示する。

「あなたは最初、一人で薬草を取りに行くと言ったのが、私にはどうにも引っかかる。手に入れた薬草に何か細工をした状態で提出することもあり得るだろう」

 確かに、これもこれで彼が犯人であった場合の動機としては、十分に考えられるだろう。だが、ヴェルトールは彼等の言い分に対して、深いため息をつきながら否定する。

「やれやれ、今のヴァレフールの方々は、疑い深い。私がいた頃は、そんな国民性ではなかったと思うのですがね」

 少なくとも、現状における彼等の言い分は状況証拠ではあっても、彼が犯人であることの決定的な証明とは言い難い。それ故に、彼を完全に犯人と決めつける訳にもいかないルーク達に対して、ヴェルトールは改めて問いかける。

「では、私にどうしろと? 帰れと言うのであれば帰りますが、ここから先、皆さんだけで大丈夫ですか? 今の戦いで、かなり精神力を消耗したのでは?」

 この指摘は、確かに的を射ている。身体的には無傷のように見えるルーク達だったが、精神的には相当に集中力を使い果たし、疲労していた。この先により強力な投影体が待ち受けていた場合、四人だけで戦い抜ける保証はない。
 そんな中、ラスティの嗅覚はヴェルトールの懐から、何か彼の邪紋とはまた異なる「別の混沌の力」を感じ取っていた。おそらくは、これは精神力を回復させる類の薬ではないか、というのが、彼の直感的な推測である。

「お前が味方だと言うなら、俺達を今、治療してくれよ」
「私は治癒師ではありませんが? むしろ、それはこちらの魔法師の方の専門でしょう? 残念ながら、私は今、薬の類は持ってはいませんし」

 この瞬間、ラスティの中ではヴェルトールは「少なくとも、味方ではない」と認識された。彼の直感が間違っていなければ、この執事は「薬」を持っているにも関わらず、それを疲労した自分達に対して用いようとはしない。こうなると、当然、彼を信用する訳にはいかない。

「なるほど、分かった。お前を野放しにしておく訳にはいかないな」

 それがラスティの結論である。ここで彼にオーキッドに帰るように要求したところで、素直に帰るとも思えない。先回りして薬草を奪う可能性もあるし、後方から自分達を襲撃する可能性もある。それよりは、まだ自分達と共に行動させた方が安全性が高い、というのが彼の判断であり、他の者達もそれに同意する。
 こうして、互いに疑心暗鬼が広がる中、相互に警戒しながらの一触即発の状態で、彼等は共に山道を進んで行くことになったのである。

3.3. 呉越同舟

 そこから先の道のりは平坦ではなかった。ヴァレフールにしては珍しい山岳自体である上に、滅多に人が入らない領域ということもあり、道らしき道は整備されておらず、一歩足を踏み間違えばすぐに転落してしまうような危険な獣道を、彼等は慎重に進んで行く。
 そんな中、今度はラスティが、前方に混沌の匂いを感じた。先刻のゴブリンよりも更に強力な魔物の気配である。だが、今回はそれに気付いたのは彼だけのようで、他の者達は気にせずそのまま進んで行こうとする。

「待て。この先は危険だ。迂回路を探そう」

 ラスティがそう言うと、ヴェルトールは怪訝そうな表情を浮かべる。

「この先に、何がいるというのですか?」
「お前も、同じ邪紋使いなら分かるだろう? この先には、強力な魔物がいる筈だ」
「……私には、特に何も感じられませんが」

 そう言って首を傾げるヴェルトールに対して、ラスティは、彼が自分達を危険な場所へあえて導こうとしていると考え、より一層警戒心を強める。だが、実は真相はそうではなかった。ラスティの嗅覚がシリウスの力によって極端に強まっているだけで、ヴェルトールには本当に、この先に何がいるのか把握出来ていなかったのである。しかし、自分以外の邪紋使いのことをよく知らないラスティは、自分の持つ「混沌を嗅ぎ分ける嗅覚」が、他の邪紋使いにも備わっている能力だと勘違いしていたため、「ヴェルトールは本当に気付いていない」ということに気付けなかったのである。
 とはいえ、ラスティがそこまで確信に満ちた表情で主張していたため、ヴェルトールもその主張を一考に価するものだと位置付けていた。

「ふむ……、まぁ、いいでしょう。ただし、迂回路を辿るとなると、それはそれで少々足場が危険なルートを通らざるを得ませんが、仕方ないですね」

 皆が同意して、彼等は更に足元が不安定な道を使って迂回する。なんとか気をつけながらその山道を登って行く彼等であったが、その途上、ヴェルトールがどこか遠くの方に向けて、何か不自然な手の動きを見せていることに気付く。見様によっては何か「手信号」のようなものを送っているようにも見える。

「キヨさん、ちょっと、あいつに張り付いててもらえませんかね?」

 ラスティが、キヨにそう耳打ちする。彼女が無言で頷き、ヴェルトールに対して厳しい視線を向けながら近付くと、彼もその意図を察したのか、時折、遠方に視線を向ける素振りは見せながらも、その「手信号」のような動きをやめる。
 そんな微妙な駆け引きを繰り返しながら、やがて彼等は、スヴァットがあると思われる「山岳地帯の奥地」に辿り着くのであった。

3.4. 悪魔の騎士

「おそらく、この奥に例の薬草があると思われます。ただ、おそらくその周囲には巨大な投影体が待ち構えていることでしょう」

 ヴェルトールは四人にそう告げる。スヴァットは混沌の力によって生み出される薬草である以上、そのリスクは最初から織り込み済みである。この時点で、まだ彼等の精神力は回復していなかったが、ここで野営して英気を養うには、ヴェルトールの存在が危険である。逆にヴェルトールの側も、明らかに自分に対して敵意を持っている彼等の前で、安心して眠る気にもなれなかった。
 こうして、彼等は疲労した精神状態のまま、その奥地へと強行軍で突入していく。すると、更に高まって行く混沌濃度の中、彼等の視界に、見たことがない形状の黒い花弁の花が映る。マライアには、それがエーラム時代に図鑑で見た「スヴァット」であることがすぐに分かった。
 だが、その近くには、明らかに禍々しいオーラをまとった投影体がいることが分かる。アビス界の住人であり、この世界の人々にとっては最も厄介な存在とも言える一族、「悪魔」である。その中心に立つのは、炎に覆われた鎧と槍を持つ、一般に「地獄の騎士」と呼ばれる上位悪魔であり、周囲には歪んだ剣を手にした下級悪魔達が蔓延っている。どうやら、この地は彼等の「縄張り」らしい。スヴァットを手に入れるためには、なんとしても彼等を除去するしか道は無さそうである。
 ここでの戦いが回避出来ないと判断したラスティは、即座に自らの半身を龍に変え、他の者達も臨戦態勢を整える。そんな中、ヴェルトールはその姿を周囲の背景に同化させることで、他の者達の視界から消える。シャドウの邪紋使いの「瞬間影化」と呼ばれる得意技である。この状態になると、何か積極的な行動を取らない限り、誰の目にもその存在は映らない。
 だが、ラスティだけは、その嗅覚から、その存在を感知出来ていた。シリウスの能力を引き継ぐ彼は、目には見えなくても、その嗅覚で位置を特定出来るのである。とはいえ、今はまず、目の前の敵を倒すことに集中すべき、と彼は考えていた。
 そして、まずラスティとキヨが飛び出して前線を形成しようとするが、ここで下級悪魔達が、一歩先に出ていたキヨに集中して襲いかかる。ルークは防壁の印で彼女を庇おうとするが、届かず、キヨは瀕死状態に陥り、その場に倒れこんでしまう。そして、前線の「壁」が消滅したことを確認した地獄の騎士は、一直線にその後方にいたマライアに向かって襲いかかってきた。ゴブリンよりも遥かに高い知能を持つ彼等は「効率的な戦術」を心得ているようである。
 このままでは戦線が崩壊すると思われたその時、ヴェルトールが動いた(と言っても、その動きを感知出来ていたのはラスティだけなのだが)。彼は倒れているキヨの身体を、マライア達がいる方向に向かって蹴り飛ばしたのである。この瞬間、隠れていた彼の姿がその場にいる者達の視界に入ると、彼はそのまま下級悪魔達に向かって対峙する。

(この人、私達を助けた?)

 彼が動かなければ、キヨは下級悪魔によって止めを刺されていたかもしれない。てっきり、彼は姿を消したまま、自分達と悪魔達を共倒れにさせる思惑なのかと考えていたマライア達は、この行動に対して驚愕の表情を浮かべる。
 だが、この状況で彼の真意を確認する余裕はない。ヴェルトールが下級悪魔達の一部を引きつけている間に、ルークはまず、地獄の騎士に対して矢継ぎ早に次々と射掛けるが、あっさりとかわされてしまう。そして、地獄の騎士は目の前のマライアに対して槍で猛攻を加えるが、彼女は盾でその攻撃を防ぎつつ、なんとか倒れずに踏みとどまる。治癒師でありながらも軽戦士並の装備で固められた彼女の装甲が、ここに来て役に立ったのである。
 すかさずマライアはその地獄の騎士から離れて間合いを取りつつ、倒れているキヨに対して回復魔法を放つことで、キヨも再び立ち上がる。そして彼女は、目の前の下級悪魔達をひとまずヴェルトールに任せて、ルークの方に向かって襲いかかろうとしていた下級悪魔達に向かって斬り込む。先刻は集中攻撃を受けたことで不覚を取ったキヨではあったが、その鋭い刃を閃かせて、下級悪魔達を次々と葬っていく。更に、そこにルークが続けて近距離から次々と矢を射掛けたことで、着実に敵の勢いを削いでいく。 
 一方、ラスティはマライアを庇うように地獄の騎士に接敵し、その猛々しい龍の爪牙で真正面から殴りかかる。地獄の騎士もそれに対して応戦するが、ギリギリのところでその攻撃を受け流しつつ、着実にダメージを与え続けたことで、徐々にその騎士の勢いにも陰りが見え始めてきた。やがてそこに、下級悪魔達を掃討したルークとキヨも加わったことで騎士は防戦一方となり、最後はラスティの剛腕が騎士の体を貫き、苦戦しながらもどうにかこの難敵を倒すことに成功するのであった。

3.5. かりそめの和解

 だが、その間にいち早く下級悪魔を倒していたヴェルトールが、悪魔達の後方に生えていた薬草を採取していた。真意の読めない彼に対してルーク達は警戒しつつ、真正面から対峙する。

「さて、薬草は無事に手に入った訳だが……、お前達はまだ私のことを疑っているのか?」

 冷めた瞳で四人を見つめながら、ヴェルトールはそう問いかける。先刻までの丁寧な物腰とはうって変わって、それは「戦場にいる者」の顔であった。この局面に至って何かスイッチが入ったのか、口調も明らかに先刻までとは異なっている。

「私は疑ってはいない。短絡的な発想だが、今の戦いで、我々に協力してくれていた訳だからな」

 ルークが神妙な面持ちでそう告げると、ラスティもまた複雑な表情を浮かべながら、ゆっくりと口を開く。

「確かに、お前が協力してくれたことも事実。ということは、お前には何か事情があるのではないのか?」

 明らかにヴェルトールがまだ何かを隠しているという確信を持ちながら、ラスティがそう問いかけると、ヴェルトールは呆れたような顔で答える。

「事情も何も、あれだけ敵意を向けられたら、こちらも警戒せざるを得んだろう」

 実際のところ、ヴェルトールの方から彼等に対して、何か危害を加えるようなことは何一つしていない。ただ、一方的にルーク達が「不確実な情報」に基づいて彼に容疑をかけていただけである。とはいえ、実際のところ彼自身の中にも「後ろ暗い事情」があったからこそ、必要以上に対して彼等に対して警戒していたのだが、その真相にまで彼等は到達していないことを確信した彼は、自分の黒服の中に隠していた「薬」を取り出す。それは、ラスティが予想していた通り、精神力を回復させるポーションであった。

「まだこれから先、帰りに魔物が出現する可能性もある。もし何かあった時には、この精神回復薬をお前達に渡す。力付くで私からこれを奪うのは、お前達も骨が折れるだろう。ひとまず下山してこの薬草を届けるまで、我々は協力すべきではないか?」

 実はこのポーションは、ヨハンから「五人分」として渡されていた代物であり、ゴブリンとの戦いが終わった時点で、彼等に与えるつもりであった。だが、最悪のタイミングで彼等が容疑をかけてきたことで、ヴェルトールは「彼等が自分を後ろから急襲するかもしれない」と判断し、渡すに渡せない状態となってしまっていたのである。
 だが、ひとまずルーク達が自分への容疑を取り下げるのであれば、ここから先の帰路のことを考えて、こちらの手の内を明かすことを決意したのである。もっとも、この時点ですぐに彼等に渡さない辺り、まだ彼の方の警戒心は解けていない様子ではあるが。

「分かりました。ただ、薬草に関しては、それだけで足りるかどうか分からないので、私達の方でも採取させてもらいます」

 マライアがそう言うと、ヴェルトールも特にそれを邪魔することなく、彼女達はその場に残っていた薬草を採取する。やがて、三人分の特効薬を作るには十分すぎるほどの量を手に入れたところで、彼等は共に下山を始める。
 当然、その帰路においてはまだ互いに警戒した空気は残っていたが、そんな疑心暗鬼の道中でありながらも、最終的にはどうにか無事にオーキッドへの帰還を達成するのであった。

4.1. 解けない疑惑

 こうして、無事に届けられた薬草を元に、ヨハンはすぐに特効薬を完成させ、ヘルマンとイノケンティスとウォートに投与した結果、無事に三人の体内の毒は浄化され、健康を回復させる。
 しかし、さすがにこのような事件が起きた直後の段階では、互いに疑心暗鬼な状態となり、まともに会談を進めるのは困難であったため、この毒物混入事件についての犯人探しが街を上げておこなわれることになったが、結局、これといった目星がつけられないまま、不毛に時が過ぎていった。その中で、甲殻類アレルギーを理由にロブスターを食べなかったワトホートを黒幕と疑う者、ヘルマン陣営の自作自演の可能性を論じる者、果てはオーキッドの継承権争いに関わる三兄弟(ラスティ、ウォート、ルーク)の争いが発端だと言い出す者も現れ、不穏な雰囲気だけが町を支配する、そんな状況が続いていたのである。
 それでも、せめて何か手掛かりはないかと町中を駆けずり回っていたルークは、ある時、偶然、町の裏路地の一角で何者かと接触を取っているヴェルトールの姿を見かける。明らかに「裏社会の住人」と思しき風貌の者達と、何か会話を交わしているように見えたが、その会話の内容を聞こうと近付いた結果、彼等に気付かれてしまう。やはり、隠密活動という点において、シャドウであるヴェルトールの目を欺くのは難しかったらしい。彼と話していた者達はすぐに退散し、そしてヴェルトールは鋭い目線をルークに向ける。それは、あの山の奥地での悪魔との戦闘後に見せた時と同じ「戦場に身を置く者」としての顔であった。

「どこまで聞いていた?」
「…………今、来たばかりだ」

 この状況においてそう聞かれたら、たとえ話の全容を聞いていたとしても、そう答えるしかなかろう。だが、現実に彼は何も聞けていない。そして、その表情から、「おそらく、本当にこの男は何も聞いていない」と判断したヴェルトールは、カマをかけるつもりで、質問を続ける。

「お前は、何をどこまで知りたい?」

 そう聞かれたルークは、その質問の意図に戸惑いながらも、単刀直入に答える。

「今回の毒物混入事件と、その直前のワトホート様の暗殺未遂事件。この二つの事件について、私は調べている」
「何のために? ここの領主はワトホート派のようだが、ここの領主の身の潔白を晴らすためか? それとも、ワトホートの身の安全を守ること自体が目的か?」

 客観的に見れば、むしろこの質問自体の目的が理解しがたいと考えるのが自然であろう。ちなみに、この時点でヴェルトールが「ワトホート」と呼び捨てにしていることにもルークは気付いてはいたが、そのことには触れずに、ひとまず率直に回答する。

「私はただ、与えられた任務を遂行しているだけだ。ワトホート様の身の安全を守ることが私に与えられた任務であった。そのワトホート様に危機が及んだ以上、この件に関わる疑念は、払っておきたい」

 実際のところ、毒物混入事件については、ワトホート自身は被害には遭っていない。だが、彼が食べる予定であったロブスターにも毒物は混入されていた。犯人がそのことを見越した上での計画だったのかどうかは分からない以上、その直前の毒矢の一件とも関わりがある可能性は十分に考慮して然るべきであろう。

「その任務は、もう終わったのだろう?」
「確かにそうだが、もう一つ理由がある。私は父のような優秀な君主になりたい。そのために、あらゆる悪事は放ってはおけない。だから、その悪事を暴くために、この調査をやめる訳にはいかない」

 そう言い放つと、ヴェルトールはより一層鋭い表情を浮かべて、更に問いかける。

「お前の言う『悪事』とは何だ? 人を殺すことか? 民を苦しめることか?」

 突然、予想外の質問が出てきたことに、ルークは困惑する。彼の中でも、明確な「悪事」の定義が確立している訳ではなく、ただ漠然とそれを信念として掲げていただけであった。返答に困っているルークに対して、ヴェルトールは彼が答える前に、より具体的なレベルへと質問を切り替える。

「少なくともお前の父は、悪事を働くような君主ではない、と?」
「あぁ、名君だ」

 この時点で、実は二人の間では微妙に会話が食い違っていた。ヴェルトールは、ルークが言うところの「父」とは、この町の領主のことを指すものだと思っていたが、ルークが想定していたのは、彼の実父である今は亡きラピスのラザールのことだったのである。だが、その食い違いは、この会話においてさほど重要な問題ではなかった。

「では、ワトホートは?」

 そう問われると、ルークとしても返答に困る。実際のところ、ワトホートという人物について、ルークはあまりよく知らない。伯爵位を継いだばかりの彼が、果たして名君となるのか、暴君となるのか、今の彼では想像が出来なかったのである。
 そんな彼が回答に窮していると、再びヴェルトールの方が先に口を開く。

「分からぬのなら、それを見極めてからにすべきだな。お前の父が名君だと言うのであれば、その父のために命懸けで何かを成すのも良いだろう。だが、ワトホートが名君かどうか分からないのであれば、そのために、無駄な詮索で命を落とす必要は無かろう」

 そう言われて、何も言い返せないまま立ちすくむルークに対して、ヴェルトールは更にこう付け加える。

「安心しろ。仮にワトホートがもう一度、この町に来たとしても、狙われることはない。十分すぎるほどに警戒しているだろうからな。そんな場所でもう一度暗殺を決行するほど、実行犯達も馬鹿ではないだろう。その上で、他の町でワトホートが危機に陥った時、それでもお前が助けに行くべきかどうかは、もう少しあの男のことを見極めた上で、判断すべきだな」

 自身が実行犯である可能性については否定も肯定もせぬまま、彼はそう言い残して、その場を去って行く。「悪事」とは何か、「名君」とは何か、君主として、自分の進むべき道はどうあるべきなのか、様々な想いが去来する中、ルークはただ、黙って彼が去って行くのを見過ごすことしか出来なかった。

4.2. 闇に消える真相

「今回は、事前調査不足だったみたいね、執事さん」

 ルークと別れた後、宿舎に戻ってきたヴェルトールを出迎えるように、宿舎の前で一人の女性が待っていた。今回の対談に随行していた新聞記者のアンナである。ヴェルトールは、周囲に人がいないことを確認した上で、彼女を宿屋の裏へと連れ出す。微笑を浮かべた彼女の表情から、ヴェルトールは「何か」を直感的に感じ取ったらしい。

「貴様、ワトホートのアレルギーのこと、知っていたんだな! なぜ言わなかった?」

 声を殺しながら、しかし激しい口調で、彼はアンナを糾弾する。それに対して、アンナは涼しい顔で答えた。

「聞かれなかったからよ。主人の体調管理も執事の仕事なんだから、世の中には甲殻類アレルギーの人がいるということくらい、あなたなら言われなくても想定して然るべきでしょう?」

 彼女には、新聞記者としての彼女とは別に、もう一つの「裏の顔」がある。実は彼女は諜報結社「ヴァルスの蜘蛛」(『基本ルールブック1』309頁参照)の一員でもあり、「週刊ローズモンド」に寄稿する記事とは別に、表に出せない様々な情報を彼女は握っている。今回、ヴェルトール達が企てていた「計画」は「彼女から買った情報」に基づいて遂行されていた。
 そんな彼女は、実はヴェルトールの正体も知っている。彼がかつて、ヴァレフールの小さな村の出身だということも。その村で伝染病が蔓延した時、その感染を防ぐためにワトホートの命令で住民達が全員焼き討ちにされたことも。そして、彼がその中の数少ない生き残りで、今もヴァレフールに残る仲間達と共に、今回、復讐のためにワトホートの暗殺計画を進めていたことも。
 とはいえ、彼女はあくまでも「中立の情報屋」である。自分の売り渡した情報が元になって、人が死んだり、戦争が起きたりすることには何ら罪悪感を感じることもないが、積極的にそれを後押しする理由も、彼女の中には無かったのである。

「大体、あの新伯爵様は身体が弱いのは有名だったんだから、アレルギーの一つくらい持ってると考えるのは当然でしょう。流通経路やら何やら、徹底的に調べ上げてたのに、肝心な部分の詰めが甘いんだから」

 そう言って彼女は呆れ顔を見せるが、実際のところ、ヴェルトール達の計画は、アレルギーの件以外は極めて綿密に組み上げられていた。魚問屋から領主の館へのロブスターの配達員の性癖まで調べた上で、彼の気を引く村娘(に変装させた売春婦)をその路上に配置して台車から彼を引き離した隙に、ヴェルトールが毒を混入させていた訳だが、実はその毒は、より強力な聖印の持ち主に対してより強く反応する性質があり、伯爵級の聖印の持ち主でありながらも身体が弱いワトホートが摂取したら、おそらくその場で即死していた筈である(逆に言えば、聖印を持たない者には効果が無いため、毒見役がいても判明しにくい)。
 その上で、ワトホート以外の者達が食した場合は即死には至らず、ヨハンの持っている抑制剤で抑えられることも、近くの山で薬草を手に入れれば特効薬が作れることも、全て織り込み済みだったのである。複数の対象に同じ毒を仕込むことで犯人探しを困難にした上で、最終的に自分自身が薬草入手に奔走することで、失敗しても表沙汰になることなく、次の計画に移行出来る(ちなみに、当初は現地の仲間達が薬草の入手に協力する予定だったが、ルーク達が協力を申し出たことで、彼等とは同行せず、別ルートで薬草探索に向かわせたが、手信号を途中で封じられたことで、途中からは彼等との連絡も途絶えてしまっていた)。
 無論、あくまでもこれは机上の計算であり、一度に摂取した量によっては、彼の主であるヘルマンが命を落とす可能性も十分に考えられたが、最悪の場合、それでも良いとヴェルトールは割り切っていた。彼にとっては、今の主人への忠義心よりも、ワトホートへの復讐心の方が勝っていたのである。
 アンナもそんな彼等の思惑は理解していたが、その中で一つ、気になっていた点があった。

「そもそも、どうしてロブスターを選んだの? 別に他の料理でも混入させることは出来たでしょうに。もしかして、あのお嬢様がロブスターが嫌いだったからとか?」

 そう言われたヴェルトールは、一瞬、虚を突かれたような表情を浮かべるが、すぐに平静を取り戻し、冷笑しながら答える。

「何を馬鹿な。ただの偶然だ」

 ちなみに、エリーゼも父から従属聖印を受け取っている。微弱な聖印ではあるが、身体そのものが未発達である以上、その未熟な抵抗力が毒の効果に耐えられるかどうかは分からない。彼がそのことを考慮に入れていたかどうかは不明だが、アンナもこの件については、これ以上、追求する気がなかった。少なくとも、彼のエリーゼに対する個人的な感情に関する情報を手に入れたところで、その情報を買う者がいるとは思えなかったからである。
 結局、ここでアンナに恨み節を言ったところで事態が変わる訳でもないと判断したヴェルトールは、素直に宿舎の玄関へと戻り、そのまま自室へと向かっていく。そんな彼を見送りながら、アンナは密かに心の中で呟いていた。

(なんだかんだ言って、女に甘すぎるのよ、あなたは。でも、それがあなたの本性なんでしょう? 昔の復讐なんかとっとと忘れて、今の人生をまっとうすればいいのにね)

 だが、そんなアンナの考えとは裏腹に、ヴェルトールの中には「今、世話をしている女性」以上に、忘れられない女性がいた。実は一度は彼も、復讐を忘れて執事として第二の人生を歩もうかと思いかけたこともあったのだが、彼が再び今回の陰謀に加担することになったのは、「彼女」の死が引き金になったのである。

(すまない、アルフリード。奴を葬るためには、また次の機会を待つ必要がありそうだ)

 そう思いながら、自室の扉を開け、中に入った彼は、窓の外に広がるヴァレフールの大地を見ながら、もう一人の同胞への想いを口にする。

「アレス、なぜ動かない……。お前の力があれば、きっと……」

 ドラグロボウよりも更に北に位置する街にいる筈の旧友のことを想いながら、自身の不甲斐なさを呪うヴェルトールであった(この事件の背景については、「ブレトランドの英霊」第6話「炎のさだめ」を参照)。

4.3. 旅立ち

 結局、最終的に真犯人不明のまま、やがてこの事件は「ワトホート派とローズモンド伯爵の接近を妨害するためのケネス派(ゴーバン派)の陰謀」という噂が街の内外に広がっていく。何の証拠もない憶測にすぎなかったが、今のヴァレフールの状況を知る者達にとっては、それが一番説得力がある解釈だと捉えられたようである。そして、それがワトホートにとっても、ヘルマンにとっても、イノケンティスにとっても、「最も都合のいい解釈」であった。
 とはいえ、結局、この真相究明に時間がかかりすぎたこともあり、両者の会談は具体的な成果が得られないまま、ヘルマン達は大陸へと帰還することになる。ちなみに、エリーゼはこの間にヴェルトールを連れ回して町中を探し回った結果、なんとか「彼女のことを嫌がらない、おとなしいコーギー」を一頭見つけたようで、彼女一人だけは満面の笑みでブレトランドを後にしたという。
 そして、ワトホートもドラグロボウへと帰還し、オーキッドに平穏が戻った頃合いを見計らって、マライアはイノケンティスに「ラピスの現状」を伝える。すると、彼は二つ返事で、彼女の申し出を受け入れた。

「私を助けてくれた魔法師殿の頼みということであれば、我が息子達を派遣することに、いささかの躊躇もない。確かに今、ヴァレフールとアントリアは敵対関係にはあるが、それは必ずしも、オーキッドとラピスが敵対していることを意味する訳ではない。ましてや今、ラピスが混沌に染まっているのであれば、その浄化のために尽力することは、全ての君主の責務だ」

 そう言われたラスティとルークは、父とウォートに別れを告げ、マライアとキヨと共に、ラピスへと向かうことを改めて決意する。そしてルークは、この日をもって、「ルーク・ザンシック」から、本来の家名である「ルーク・ゼレン」へと、その名を改めることになったのである。
 その上で、マライアが、自らの中に眠る「シリウスから与えられた感覚」に全神経を集中させて「ラスティの邪紋と同じ波動」の存在を感知しようとした結果、このオーキッドから北に数日ほど進んだ先に、同じような「力」の持ち主がいるような、そんな感覚を覚える。まずは彼女のこの感知能力を頼りに、陸路を北上していくしかないと考えた四人は、それぞれの想いを胸に抱きながら、長く険しく続く旅路の最初の一歩を踏み出すのであった。

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最終更新:2015年01月04日 08:26