第6話(BS14)「炎のさだめ」 1 / 2 / 3 / 4


1.1. 途切れた伝承

 ブレトランド南部を支配するヴァレフール伯爵領の南西部に広がるボルフヴァルド大森林は、混沌濃度が高く、時折、様々な投影体が出現することで知られている。その森林の中核に位置するパルトーク湖から流れるカーレル川のほとりに、リルクロート男爵家が治める街「テイタニア」が存在する。その立地にちなんで、伝説の妖精女王の名を与えられたこの街は、森林を発生源とする様々な混沌災害から、ヴァレフールの首都ドラグロボウを守るための防波堤であると同時に、森林に出没する様々な投影体を倒して名を上げようとする冒険者達の集いの場としても知られていた。
 現在、この街を治めている者の名は、ユーフィー・リルクロート(下図)。まだ19歳のうら若き女性だが、ヴァレフールの七人の騎士隊長の一人であり、代々リルクロート家に伝わる男爵位の聖印の継承者でもある。だが、彼女は本来、この街を継ぐべき立場の者ではなかった。彼女は先代領主の次女で、五人兄妹の第四子だったのだが、数ヶ月前、北方からの侵略者アントリア軍との激戦において、父と兄二人が戦死し、二つ上の姉はすでに大陸の貴族家に嫁いでいたため、その時点で生き残っていた彼女に、戦場から持ち帰られた父の聖印は引き継がれたのである。


 彼女はもともと後継者候補とはみなされていなかったこともあり、父から本格的な帝王学を授けられることもなく、比較的自由気ままに育っていた。趣味で「手品」を嗜み、時折、生家である領主の館を抜け出しては、街の子供達にその腕前を披露することで、彼等の笑顔を引き出すことに喜びを見出す、そんな純粋な少女であった。それでも、聖印を継承する資質は持ち合わせていたこともあり、剣の修行に対しても熱心に取り組んではいたが、あくまでも彼女の剣は「護身」と「護民」のための剣であり、街を襲う混沌に対しては真っ向から立ち向かう決意は固めているものの、その刃は人の命を奪うためには用いないという、「不殺」の信念の持ち主でもあった。
 そんな、駆け出し領主の彼女が、この日の「領主としての執務」を終えて静かに眠りに就いていた夜、彼女の夢の中に、見覚えのない謎の女性(下図)が現れた。その女性は、一糸まとわぬ姿でありながら、その身体はどこか実存感のない不気味な雰囲気を漂わせており、悲しみに満ちた瞳を浮かべながら、ユーフィーに対してこう訴えてきた。


「時が来てしまいました……。テイタニアの領主よ、約束の指輪を、湖にかざして下さい」

 突然、全く心当たりのないことを尋ねられたユーフィーは、当然のごとく困惑する。

「『時』って何です? 何が来るというんです? それに『指輪』って……?」
「エルムンド様から賜った、オリハルコンの指輪です。テイタニアの領主様なら、ご存知でしょう?」

 「エルムンド」の名を知らぬ者は、このブレトランドにはまずいない。それは、四百年前にこの小大陸を混沌から救ったと伝えられている「英雄王」の名である。彼の三人の子供達が、その後の「ヴァレフール」「トランガーヌ」「アントリア」というブレトランド三国の礎を築いたという意味で、まさにこのブレトランドの高祖と呼ぶべき存在と言えよう(ただし、現在のアントリア子爵ダン・ディオードは、彼の末裔ではない)。
 一方、「オリハルコン」とは、この世界のどこかにあると言われている、おそらくは混沌によって生み出されたであろう伝説上の貴金属のことなのだが、そういった混沌の産物に関して本格的に勉強した経験がある訳でもないユーフィーにとっては、全く初耳の単語である。

「ちょ、ちょっと待って。私はそんなものは知りません。もしかしたら、お父様なら知っていたかもしれませんが……」

 「オリハルコン」なるものの実態以前に、ユーフィーにしてみれば「英雄王エルムンドから賜った指輪」なるものがあるなどという話は、一度も聞いたことがない。

「そんな……、まさか伝承が途絶えてしまったというのですか。それならば私はどうすれば……」

 「謎の女性」は驚愕と落胆の入り混じった表情を浮かべながらそう呟きつつ、やがて悲壮な決意を込めた瞳で、再びユーフィーに向き合う。

「分かりました。では、私自身の力でなんとか押さえ込んでみます。ただ、おそらく、カーレル川では大氾濫が起きることになるでしょう。そのことは覚悟して下さい」
「ちょっと待って! そんなことになったら、街はどうなるんですか!?」

 ユーフィーはその女性に向かってそう叫ぶが、次の瞬間、彼女は目を覚ます。

「夢……? 今のは一体……?」

 領主の私室で一人、呆然とした表情を浮かべながら、ユーフィーは静かにベッドから起き上がる。今、彼女の夢の中に出てきた女性が何者なのか、あの女性は何を伝えようとしていたのか、今のユーフィーには全く分からない。だが、少なくとも、この街の傍らを流れるカーレル川とその堤防に関して、改めて調べてみる必要があると考えた彼女は、早速身支度を整え、執務室へと向かうのであった。

1.2. 魔法少女の忠告

 こうして、テイタニアの領主であるユーフィーが「奇妙な朝」を迎えていた頃、彼女の契約魔法師であるインディゴ・クレセント(下図)は、公務としての朝の街の巡回に回っていた。この街は混沌災害に巻き込まれやすい立地という性質もあり、魔法師である彼が頻繁に、街中の混沌濃度の上下などの微妙な変化に気を配っていたのである。


 彼は、領主であるユーフィーよりも18歳年上の37歳。もともとは工房職人の家に生まれ、その後継者となることを志していたが、思うように技術が身につかず、挫折しかけていたところを、たまたま工房を訪れた魔法師にスカウトされて、魔法師の道へと進むことになった。成人後に魔法の力を覚醒させるという珍しい経歴の持ち主であったため、年齢の割にはキャリアには乏しいが、若い領主を支える堅実な側近として、着実にその仕事をこなしている。本人の中では、実家の工房を継ぎたかったという願望も消えた訳ではないが、今はユーフィーの補佐官としての職務に生き甲斐を感じていた。
 魔法師は、その人生の半分以上は契約相手次第で決まると言っても過言ではないほど、君主との相性が重要である。たとえば、彼の兄弟子であったキース・クレセントは、この国を治めるヴァレフール伯爵の次男であるトイバル・インサルンドの契約魔法師であったが、よく言えば豪胆、悪く言えば粗暴すぎるトイバルの振る舞いを諌めようとした結果、反逆者として殺されてしまった。そのことを思えば、いささか覇気に欠けるとはいえ、若くして領民達のために身を粉にして働いているユーフィーは、彼にとっては十分すぎるほどに「理想の君主」であり、彼女を支えるために全力を尽くす覚悟を強く固めていた。
 さて、そんな彼が街の西側の入口にまで巡回に来た時、その視界に奇妙な装束の少女(下図)が映った。体格からして、おそらくは10歳程度の少女にしか思えないのだが、その出で立ちは魔法師のようにも見える。ただ、彼女の持っている杖はエーラム製のタクトではなく、エーラムの学生達に支給されるような服装でもない。そんな彼女は、インディゴの姿を見るなり、彼に対してこう問いかけた。


「お主、この街の領主の契約魔法師か? 彼女はもう限界の筈だ。なぜ、この街の領主は動かない?」
「……一体、何のことを言っているんだ?」

 唐突に訳の分からないことを言われたインディゴは、率直にそう返す。この口調から察するに、どうやら今、彼の眼の前にいるのは「ただの子供」ではないらしい。高位の魔法師の中には、自らの外見を操れる者もいるという話は、エーラムの教養科目で習ったことがある。無論、ただの「なりきり少女」の可能性もあるのだが。

「聞いておらぬのか? というか、この街の領主もお主も、まだ状況に気付いていないのか?」
「……そういうことになるな」

 少なくとも、インディゴには、彼女がいうところの「状況」というのが何を指しているのか、皆目見当がつかない。それが、この街にとって重要な事態を意味しているのか、それともこの少女の単なる妄想なのかは分からないが、いずれにせよ「気づいていない」ことには変わらない。

「ふむ……、最近になって代替わりしたと聞いたが、先代がきちんと伝えていなかったのか、それとも、もっと前から途絶えておったのか……、いずれにせよ、困った話だな…………。とりあえず、川沿いに堤防だけでも作っておけ。数日後には、今のままでは完全に川に飲み込まれるぞ、この街は」

 そう言って、彼女は去って行く。彼女の言っていることの意味がさっぱり分からないインディゴであるが、ひとまずこれは領主に伝える必要があるだろうと考え、急ぎユーフィーの館に方向に向かう彼であった。

1.3. 異界人の邂逅

 こうして、インディゴが街に訪れた奇妙な少女に遭遇していた頃、その街の一角では、ある意味で彼女以上に「特異な存在」である一人の少女が、子供達を相手に「歌」を披露していた。


 彼女の名は、ハーミア。彼女はこの世界とは異なる「地球」と呼ばれる星から投影される形でこの世界に出現した、異世界人である。彼女の故郷は、このブレトランドと似た形状の島国で、かつては世界帝国の中心として栄えた歴史ある王国であり、彼女はその国で女学生として学校に通いつつ、芸能事務所に所属して「歌手」としても活動するという、多忙な日々を送っていた。
 そんな彼女がこの世界に「投影」されたのは2年前、彼女がまだ15歳の時だった。最初は全く勝手が分からぬまま混乱していた彼女であったが、幸運にも魔法師協会の重鎮、アウベスト・メレテスに遭遇して、「危険な投影体ではない」というお墨付きを得た上で、エーラムの保護下に入ることになる。その後、メレテス家の者達の仕事に同行して各地を転々としていた時、偶然出会った(ユーフィーと同じ「ヴァレフール七男爵」の一人である)イアン・シュペルター(下図)と恋に落ち、彼の恋人として、彼が城代を務めていたクーンにて、しばし幸せな日々を送ることになる。彼とは10歳以上も歳が離れた関係ではあったが、一時はイアン自身も本気で結婚を視野に入れるほど、相思相愛の関係であった。


 だが、実は彼にはもう一人、密かに想いを寄せていた女性がいた。それが、ヴァレフール伯爵ブラギス・インサルンドの長女である“姫騎士”ヴェラである。身分違い故に、胸に秘めたその想いを封印していた彼であったが、ある日、そのヴェラの方から突然、彼に対して求婚を申し出てきたのである。ヴェラは元々、伯爵位の継承権争いから逃れて、一騎士として国のために働きたいと考えており、自ら「インサルンド」の家名を捨てて、誰かの元に嫁ぎたいと考えていた。その上で、自らの人生を捧げるに相応しい相手として、共に最前線で戦うことも多かった同世代(一歳年下)のイアンに、白羽の矢を立てたのである。
 もともと、彼女への慕情を胸に秘めていたイアンは、二つ返事でこの申し出を受け入れてしまう。そして、こうなった以上は、もうハーミアとの関係を続ける訳にはいかないと考えた彼は、彼女に別れを切り出した。一般的な王侯貴族であれば、愛人の一人や二人くらい囲っていることも珍しくはないが、さすがに伯爵令嬢であるヴェラを妻に迎える以上、身を清めておく必要があると考えたようである。また、まだ若く美しいハーミアのためにも、早く自分と別れて第二の人生を歩んだ方がいいという想いもあったのであろう。
 しかし、ハーミアにはその想いは伝わらなかった。と言っても、別れたくないとゴネた訳ではない。「この人は、政略結婚のためにやむなく私と別れただけで、本心では私のことを想っているに違いない」と彼女は勝手に思い込んだ上で、「一時的に」身を引くことを決意する。いずれ必ず、彼と自分は駆け落ちして幸せな未来を築くことになるという未来予想図を脳内に想い描きながら、彼女はイアンの元を去り、彼の拠点である古城クーンの南方(徒歩数日程度の距離)に位置するテイタニアの領主のユーフィーに雇われることになったのである。
 異界の技術に精通した彼女の知識は、投影装備が数多く産出されるボルフヴァルド森林地帯に隣接するこの街では重宝される存在であり、また、故郷にいた頃の芸能経験を生かして、街角でその歌声を披露することで、多くの子供達にとっての「癒し」の存在となっていることもまた、子供好きのユーフィーに気に入られた理由の一つである。
 ちなみに、この日の彼女が歌っていた詩の内容は、「素敵な王子様とお姫様が恋に落ちる物語」である。彼女の心の中でどのようなキャスティングになっていたかなど知る由もない子供達は、素直にその美しい歌声と物語に夢中になっていく。

「いい? 女の子にはね、いつかこんな素敵な王子様が現れるんだよ」

 そう言って子供達に「自分の体験談(?)に基づいた物語」を聞かせていた彼女の前に、黒いスーツを身にまとった中年の男性が現れる。

「いやー、この前に『奇妙な歌』を歌う女性がいると聞いていたんだが、まさかお前さんだったとはな」

 その声に、ハーミアは聞き覚えがあった。しかし、その声の主は「この世界」にいる筈が無かった。しかし、半信半疑で視線を向けたその先にいたのは、紛れもなく彼女が知っている人物だった。彼の名はジェームス。ハーミアが「地球の島国」にいた時代に、彼女が所属していた芸能事務所の職員である。小さな事務所だったため、マネージャー業とプロデューサー業を兼任するような形ではあったが、幅広い人脈と卓越した手腕を兼ね備えた彼は、当初は全く無名であったハーミアを、様々な裏交渉の末にメジャーレーベルからデビューさせることに成功させたことで、業界内でもやり手の敏腕プロデューサーとして知られていた。

「え? あの、もしかして、ジェームスさんですか?」
「あぁ。どうやら、お前さんも、俺と同じ様に『こっちの世界』に飛ばされてきたらしいな」

 この世界には、様々な世界からの投影体が存在する。「地球」からの投影体もその一種であり、世界各地に様々な「地球人」達が点在しているが、そんな中で、「地球時代の知人」同士が遭遇する確率はかなり低い。少なくとも、ハーミアもジェームスも、このような形で「旧知の人物」と遭遇したのは初めてである。

「こんなところでお会い出来るなんて、嬉しいです。私、この世界に仲間とか少なくて、不安で……」
「そうか……。俺も、この世界に来たばかりの頃は色々と苦労したが、今はなんとか自分の居場所も見つけて、この世界の中でどうにか生活してはいるんだが」
「居場所、ですか……、いいですね…………」

 つい先日、自分の「居場所」を奪われて間もない彼女は、遠い目をしながらそう呟く。

「お前さんは今、旅芸人でもしているのか?」
「いえ、その、色々ありまして、結論的に、運命的に、今、ここの領主であるユーフィー様にお仕えしてるんです」
「そうか、まぁ、元気にしているなら、何よりだ。とりあえず、俺はこれから行かねばならないところがあるが、また今度色々話そうな。俺もまだしばらくはこの街にいるつもりだから」

 そう言って、ジェームスはハーミアに背を向けて、「冒険者の酒場」に向かって歩き出そうとする。そんな彼を笑顔で見送ろうとしたハーミアは、一瞬、彼が背負っているバッグパックの中から、「混沌」の力を感じさせる何かの気配を感じた。この街では、冒険者の人々が森林地帯で発見された投影装備などの「混沌の産物」を持ち帰るのは日常茶飯事である。ハーミアは、おそらくその「何か」が今の彼の「居場所」に繋がっているのだろうと思いつつも、今の時点で、その件について特に追求しようとはしなかった。

1.4. 邪紋使いの邂逅

 一方、この街にはもう一人、「本来の居場所」を無くして流れ着いた人物がいた。彼の名はアレス。シャドウの邪紋使いである(下図)。


 彼はヴァレフールの辺境に位置する小さな村の出身だが、その村は数年前に(混沌に起因する)伝染病が蔓延して村人の大半が感染し、その拡大を恐れたヴァレフール伯爵ブラギスの長男ワトホートの手によって、村人ごと焼き討ちにされてしまった。アレスはその燃え盛る炎の中、邪紋の力に目覚めることでなんとか生き延びることが出来たが、友人や親族達の大半を失った彼は、ワトホートへの復讐心を密かに抱きつつ、各地を転々とした結果、テイタニアの先代領主に雇われる形で、この村の武官となったのである。
 シャドウの邪紋使いである以上、当然、隠密活動や情報収集、そして暗殺の技術にも長けている彼であるが、その凶刃を弱者には向けることは決してない。いつかは、今のこの様々な矛盾に満ちた世界構造を自分の力で少しでも変えていきたいという気概はあるが、そのために弱者を犠牲にするような(かつてワトホートが自分達に対してやってのけたような)行為には絶対に手を染めない。それが、彼の矜持であった。
 そんなアレスがこの日の朝、街中を歩いていた時、見覚えのある女性とすれ違った。それは、彼と同じ村の出身で、上記の災害の際に、村が焼け落ちると同時に死んだと思われていた友人の姿によく似ている。そして、どうやらその女性の方も、彼の姿に見覚えがあったようである。

「アレス……? あ、あなた、生きてたの?」
「まさか、アルフリードなのか?」

 数年ぶりに再会した二人は、驚愕の表情で見つめ合う。アレスは現在、28歳。彼が「アルフリード」と呼んだその女性は、生きていれば25歳の筈である。10代の頃に生き別れているため、互いに風貌は大きく変わっているが、その声や仕草や雰囲気から、確かに互いに「相手が自分の知っている人物」であることを実感していた。

「あなた、今、何をしているの?」
「俺は、ここの領主様に仕えている」

 そう答えつつ、彼女が向かおうとしていた先に目を向けると、どうやら彼女は「冒険者の酒場」へ向かおうとしているらしい。あの炎の中から生き延びたということは、おそらく彼女もまた、あの時に邪紋か聖印の力に目覚めているのだろう。そう考えると、彼女自身も今、冒険者として生きているのかもしれない。
 アレスがそんなことを考えていると、アルフリードはやや深刻な表情を浮かべながら問いかける。

「そう……。あなたは、今の生活に幸せを感じている?」
「幸せか……、仕事の時はやり甲斐を感じてはいるが、今は仕事が減っているからな……」

 アレスは、領主としてのユーフィーに不満を感じている訳ではないが、現実問題として、彼女が領主になって以降、「暗殺者」としての彼の仕事は激減した。基本的に、人を殺すことを是としない性格の彼女である以上、それは当然の帰結である。その意味では、今の生活にやや物足りなさを感じているのも事実である。
 そんなアレスの表情を見ながら、何かを言いたそうな素振りをアルフリードが見せていると、その彼女の背後から、黒いスーツを身にまとった男が現れる。つい先刻、ハーミアと別れたばかりの地球人、ジェームスである(と言っても、アレスにとっては全く初見の人物であり、地球人の見た目はブレトランド人と大差ないため、アレスの目には「ごく普通の中年男性」にしか見えないのだが)。彼は親しげな口調で、アルフリードに話しかけた。

「おや、お嬢さん、知り合いかい?」

 どうやら、この二人は面識があるらしい。25歳のアルフリードに対して「お嬢さん」と呼ぶのも妙ではあるが、ジェームスから見れば、20代の女性はまだまだ「お嬢さん」のようである。

「そうね、昔の村の知り合いで……」
「ってぇことは、その人も……?」
「あ、いや、彼は違うの! 違うのよ、今は、少なくとも……」

 何かを察したようなジェームスに対して、慌ててアルフリードはその「何か」を否定する。それが何を意味しているのかアレスには分からなかったが、どうやら、彼等の故郷の村に関する何かであることは、この会話から想像出来る。

「まぁいい。取り込み中なら、例のモノは、また後で届けることにしよう」

 そう言って、ジェームスは二人の前から去って行く。色々と気になることを言い残した彼であるが、そのことについてアレスがアルフリードに尋ねようとする前に、彼女の方から口を開いた

「とりあえず、この宿に部屋を取ってるから、一緒に来てくれるかな」

 彼女がそう言って指差したのは、「冒険者の酒場」の二階にある宿である。この世界においては「一階が酒場、二階が宿」というのは、比較的ポピュラーな組み合わせである。アレスは素直に同意して、彼女の後に続いて宿へと向かった。
 久しぶりに再会した同郷の女性から、このような形で誘われたら、艶っぽい展開になることを期待するのが通常の若い男性の反応であろうが、この二人の間においては、そうした空気は全く無かった。アレスを部屋に招き入れると、彼女は真剣な表情で、彼に対して問いかける。

「あなた、私達の村がどうして焼き討ちになったのか、知ってる?」
「伝染病の拡大を防ぐため、と聞いたが」
「あなたは、その理由に納得してる?」
「納得はしていない。いつかワトホートは倒すと決めている」

 今は「宮仕え」している身ではあるが、それがアレスの本音である。と言っても、具体的な方策は何も無い。ただ、今はその時が来るのを信じて、暗殺の腕を磨き続けることしか出来ないのである。もっとも、今の領主になって以降は、その「実戦経験」の機会すら失われているのであるが。
 そして、彼の瞳からその強い決意を感じ取ったアルフリードは、一瞬、安心したような笑みを浮かべつつ、再び真剣な眼差しに戻る。

「私も同じよ。ワトホートも、ブラギス(ヴァレフール伯爵)も、絶対に許す気はないわ」

 そう言い放った上で、彼女はアレスに密かに自らの計画を伝える。曰く、先刻彼女が黒服の男(ジェームス)から受け取ろうとしていたのは「遅効性の毒」の材料となる花らしい。ボルフヴァルド大森林の中でのみ稀に咲く花で、その花弁をすり潰して作られた毒は、食べた直後は全く反応がないものの、数時間後に身体中に浸透し、死に至らしめるという。彼女は、何人かの仲間達と共に、これを用いてドラグロボウにいるワトホートとブラギスを暗殺するための準備を進めているらしい。

「あなたは今、この街に仕えているのよね。この街の領主はどんな人?」
「あの領主は……、まぁ、悪くはない。絶対的に優れた君主だとまでは言えないがな」

 正直、先代に比べると「領主らしさ」には欠けている。そもそも、後継候補とみなされず、屋敷を抜け出して下町の子供達と戯れるような日々を送っていた少女だったため、領主としての帝王学が叩き込まれている訳でもない。だが、そんな彼女だからこそ、ワトホートのような「弱者を平気で切り捨てる決断」を下すとも思えない。彼女に代替わりしてから、アレスへの(暗殺の)仕事が激減してはいるが、「殺すべきではない弱者」まで殺そうとする君主に仕えるよりは遥かにマシである。その意味では「悪くはない」という表現が最適なのであろう。
 そして、彼のその表情を確認した上で、彼女は彼に一つ「頼みごと」を告げる。それは、彼女達がもし失敗した時に、彼女の代わりにその「意志」を継いでほしい、ということである。

「俺を、お前達の計画に加えてはくれないのか?」
「正直なところを言うとね、出来ればあなたの力を貸して欲しいわ。でも、あなたにはあなたの立場があるでしょう? あなたがこの街の領主に満足しているのであれば、巻き込みたくはない。それに、あなたの顔を見る限り、今のあなたは私達とは違う。あなたはまだ、この世界に絶望していないでしょう?」

 アルフリードが言うところの「私達」が、どのような「立場」の者達なのかは分からない。ただ、少なくとも彼女は、今の「宮仕え」の身分にある自分とは明らかに異なる立場であることは、アレスにも察しがついた。

「私達は、今のこの国の支配者達が間違っているということは分かっていても、彼等を倒した後にどうすればいいか、ということまで考える余裕がないの。だから、私達が成功したとしても、失敗したとしても、その後のヴァレフールを正しい方向に導くために動いてほしい」

 その上で、もし彼女達が失敗した時のために、先刻の「黒服の男」から受け取る予定の毒物の原料の一部を、彼にも渡しておきたいと彼女は言う。

「分かった。では明日、また同じ時間にここに来る。その時に受け取ろう」

 そう言って、アレスは部屋を後にする。色々と思うところはあったが、今は彼女の意志を尊重することを優先すべきと考えたようである。だが、そんな彼女達の陰謀が、全く想定外のアクシデントによって方針転換を余儀なくされることなど、この時点での彼が知る由もなかった。

1.5. 詞(ことば)と旋律

 一方、アレスよりも先に帰っていたハーミアの自宅には、一人の少女が訪ねて来た(下図)。彼女の名はサーシャ・リルクロート。ユーフィーの2歳年下の妹であり、5人兄妹の末っ子である。一応、彼女自身も聖印の持ち主ではあるが、生来病弱な体質のため、君主としても、領主としても、その責務をまっとうするのは難しいと考えられていた。気さくに下町に出ることも多い活発なユーフィーとは対照的に、「謙虚で慎み深く奥ゆかしい性格」であったため、リルクロート家の中でも決して目立つ方ではなかったが、その儚げで可憐な雰囲気故に、ユーフィーとはまた違った意味で、住民達の間で「人気」の高い人物でもある。


 そんな彼女は、どうやら歳が近いハーミアに対して親近感を感じているようで、これまでも、領主の一族としての責務としてではなく、純粋に一友人として、彼女の許を訪ねることがあった。そしてこの日の彼女の片手には「詩集」が抱えられていたのである。

「ハーミアさん、こちらの詞に『曲』を付けて頂けませんか? この詩集、イェッタのファルク様からお借りした詩集なのですが、非常に美しい言葉が紡がれておりまして、出来ればあなたの美しい歌声で聞かせてほしいのです」

 どうやら彼女は、ハーミアの歌声と、彼女が時折口ずさむ「異世界の旋律」が気に入っているようである。ちなみに、「イェッタのファルク」とは、ユーフィーと同じこの国の「七男爵(騎士隊長)」の一人にして、文武両道・才色兼備の若き俊英として有名な人物である。彼は以前、この街を表敬訪問した時に、領主であるユーフィーの妹が詩や文学に興味があると聞き、自分が気に入っていた大陸伝来の詩集の一つを、サーシャに貸していたらしい。

「私でよければ、喜んでお付けしますわ」

 そう言って、ハーミアはその詩を頭に入れつつ、「地球」時代に培った作曲センスを駆使して旋律を頭の中で紡ぎ出し、そして自慢の美声に乗せてサーシャに聞かせる。
 この世界における「言葉」は、厳密に言えば、ハーミアの「祖国」とは異なる言葉の筈である。しかし、この世界に「投影体」として現れる知的生命体は、なぜかいずれも「この世界の言葉」を自然と話すことが出来るようになる。おそらくは、投影される段階において、脳内の言語中枢の一部に何かが書き加えられる(あるいは、書き換えられる)のであろう。だが、その状態においても、過去に培った作詞能力や、「詞(ことば)に合わせて曲を作る能力」はこちらの世界においても引き継がれている。なぜかは分からないが、それもまたこの世界における「混沌」が生み出す「非自然的現象」の一つなのだろう。
 もっとも、そんな「言語変換の謎」については、当事者であるハーミア自身にとっては(現実、自然と「この世界の言葉」を無意識のうちに話してしまっているので)それほど気になる問題でもないし、ましてやサーシャがそのような事実を知る筈もない。サーシャはただ、ハーミアの美しい音色と旋律にうっとりと聴き入っていた。そんな彼女の様子を伺いつつ、一つの詩を歌い終えたハーミアは、ふと気になったことを彼女に尋ねてみる。

「今日は、お身体の具合は大丈夫ですか?」
「はい、ここ数日は落ち着いてます」
「何かあったら、いつでも言って下さいね」

 サーシャが病弱だということは、この街に住む者達は誰でも知っている。しかし、投影体である彼女の目には、彼女の症状は「ただの病気」ではなく、おそらくは混沌に起因する何か特別な病気であることが、直感的に感じ取れていたのである。しかもそれは、彼女の持つ「地球の医療技術」を以ってしても治せないレベルの、相当に重い病気だということも。
 ハーミアがそんな懸念を心に抱いているとは露知らず、サーシャの方からも彼女に対して、前々から気になっていたことを質問してみる。

「ところで、あなたはよく『王子様とお姫様のお話』のお話を子供達に語っているそうですが、それはもしかして、『向こうの世界』での実体験に基づいているのですか?」

 そう言われると、ハーミアは頬を赤らめながら、嬉しそうに答える。

「いえ、あの物語は『こちらの世界』に飛んで来るところから始まります」
「では、この街に来る前に、どなたか良き方と……?」

 さすがに、(少なくとも、今は)イアンとの関係までは公言する訳にはいかないので、これ以上のことは言えない。だが、満面の笑みを浮かべることで実質的な「答え」を返した上で、その笑顔のまま、逆にサーシャに対してハーミアの方から切り返す。

「そう言うサーシャ様は、どなたか、素敵な殿方と出会ったりした話とかはないのですか?」

 すると、サーシャは「詩集」を強く抱きしめながら、軽く紅潮した顔で答える。

「いえ、私は、その、さすがに立場が違うというか……、あの方を想っている人は、いくらでもいますから……」

 その仕草から、彼女が誰を想っているかは、ハーミアにも察しがついた。その詩集の持ち主は、確かに、「当代随一の眉目秀麗な聖騎士」として、ヴァレフールの内外の多くの女性達から想いを寄せられている。独身だった頃のイアンも社交界においては指折りの美男子として評判ではあったが、おそらく「ファン」の数としては、「サーシャの想い人」はそれ以上であろう。

(大丈夫、立場なんて関係ないよ)

 ハーミアは心の中でそう呟く。実際のところ、「立場」という意味では、「男爵家の娘」である彼女の方が、ハーミアよりもよっぽど可能性はあるだろう。そして、ハーミアの中では、最終的にイアンと結ばれるのが「貴族家どころか、この世界の本来の住人ですらない自分」であることは「確定事項」である以上、「愛とは身分や立場を超えるもの」というのが、彼女にとっての絶対的な世界の真理であった。それ故に、歳の近い一人の女性として、彼女のことは応援してやりたい気持ちもあるし、病気と闘う彼女を、様々な困難から守ってあげたい、という心も、彼女の中で芽生えつつある。
 ハーミアにとって、当初はこのテイタニアという街は、いずれイアンと駆け落ちする日が訪れるまでの「仮の居場所」でしかない筈だったのだが、少なくとも今は、それなりに「居心地の良さ」や「生き甲斐」を感じることが出来る、そんな空間となりつつあった。

1.6. 調査開始

 こうして、サーシャが珍しく領主の館の外に出かけていた頃、インディゴはその領主の館の中心に位置するユーフィーの執務室に出仕していた。先刻の謎の魔法少女の言っていたことを報告しようと考えていた彼であるが、どういう形で伝えるべきか迷っている間に、ユーフィーの方からインディゴに話しかける。

「インディゴ、一つ頼みたいのですが、カーレル川の治水状態についての情報をまとめて下さる?」
「カーレル川に、何かあるのですか?」

 まさに今、自分が話そうと思っていたことを領主の方から告げられた彼は、反射的にそう聞き返す。

「いえ、ちょっと気になるというか、あまり根拠のある話ではないんですけど……」
「実は私の方でも、ちょっと気になることがありまして……」

 そう言って彼が魔法少女の件を伝えると、ユーフィーも自分が見た夢のくだりについて説明する。どちらも、今一つ信用するに価する情報とは言えないが、全く異なる方向から異なる人物に同じような「忠告」がなされたということは、少なくとも「何かある」と考えるのが自然であろう。

「その見知らぬ子供は、今どこに?」
「分かりません。まだこの街の近くにはいるのではないかと思いますが……」
「では、次に見つけた時は、領主の館に来るように言って下さい。あと、治水調査の件はお願いします」
「分かりました」

 そう言って、彼はさっそく、領主の館の書庫へと入り込み、川の堤防の現状と、過去の氾濫の事例に関する資料を調査し始める。そして数時間にわたって調査を続けた結果、少なくとも通常の自然界で発生する程度の氾濫であれば、今の堤防でも十分に耐えられるということが分かった。ただし、混沌災害レベルの何かが起きた場合は、その限りではない。そしてカーレル川の源泉であるパルトーク湖は、混沌の坩堝とも言われるボルフヴァルド大森林の中核に位置する。過去にはそこまで危機的な大氾濫が発生した事例はないが、これから先、何が起きてもおかしくはない。
 それを踏まえた上で、今度はアレスとハーミアを招き、川に関する何らかの異変があったかどうかを尋ねる。ハーミアは一応、ジェームスと遭遇したことは伝えたものの、それが川の異変と繋がるとは考えにくかったため、それ以上の話には広がらなかった。アレスについては、さすがに全く関係なさそうな友人の暗殺計画を話せる筈もない以上、何とも答えようがない。
 ひとまずユーフィーは、アレスに湖への探索を命じる。シャドウである彼は、暗殺や密偵といった仕事だけでなく、こういった混沌の調査にも長けている。混沌に関する知識という意味では、ハーミアを同行させるという選択肢もあるのだが、さすがに、不確かな情報に基づいて、この街における貴重な戦力である二人を同時に派遣する訳にもいかない、というのが彼女の判断であった。

「承知しました。その程度の任務であれば、私一人で十分です」
「頼りにしています」

 そう言って、彼は退室する。と言っても、さすがにこの日は既に日が落ちているため、調査は翌朝から開始することになった。本来、シャドウである彼は、暗闇での活動には長けている方だが、混沌の領域に住まう者達は、彼以上に深い意味での「闇の住人」である。今回の任務の場合、アレスの方が身を隠して調査する必要性が薄い以上、不確定要素の強い領域に踏み込むならば、日が出ている時間帯の方が安全である。彼は決して、危険を恐れる人物ではないが、無闇に危険を冒そうとする人物でもない。この点が、「本能のままに生きる冒険者」と「責任を背負って生きる武官」の違いと言えよう。現在のヴァレフール伯爵家には強い恨みを抱きながらも、その部下であるテイタニア男爵家に仕える道を選んだのは、アレスのこのような気質がどこかで影響していたのかもしれない。

2.1. 湖底火山

 翌朝、アレスが森の奥地へと足を踏み込んでいくと、パルトーク湖に近付いていくごとに、いつもよりも混沌の力が強まっているのを感じる。魔法師ではない以上、正確にその状況を把握することは出来ないが、何らかの異変が発生している可能性が高そうなことは、彼にも直感的に理解出来る。
 そして、彼の視界に湖が見えてきたその時、湖畔に一人の「奇妙な姿の少女」が佇んでいるのが目に入る。どうやら、彼女が(ユーフィー経由で聞いていた)「インディゴが見た魔法少女」であるらしいことは、すぐに察しがついた。すると、彼女の方も、アレスが近付いてきたことに気付いたようである。

「お主は、賞金稼ぎか?」

 おそらく、彼女が言うところの「賞金稼ぎ」とは「冒険者」と同義語であろう。実際、この二つの言葉は、この世界では同じようなニュアンスで用いられることが多い。

「いや、私は、領主様の命令でここに調査に来た者だ」
「おぉ、ようやくこの街の領主も重い腰を上げたか。だが、今から調査していても、もう遅いぞ」
「何の話だ?」
「もうまもなく、この湖の奥の湖底火山が噴火する。おそらく、相当な量の水が流れ出ることになるだろう。まったく、先代がきちんと伝えるべきことを伝えていれば、こんなことにはならなかったものを。いや、もっと前から途絶えていたのかもしれんが……」

 パルトーク湖の底に火山がある、などという話は聞いたことが無い。と言っても、この湖についてはまだ判明していないことが多い以上、その可能性を否定することも出来ない。だが、この得体の知れない少女の言うことが信用するに値するのかどうか、ということには疑問を感じるのが当然の話である。

「お前は一体、何者なんだ?」
「私か? 私はただの魔法師だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「では、なぜ、そんなことが分かる?」
「まぁ、魔法師という者は、普通には分からんことも分かるものなのだよ。もっとも、この街の魔法師はその程度のことも気付かなかったようだがな。まったく、師匠の顔が見てみたいわ」

 どうやらこの少女は、自分はこの街の魔法師(インディゴ)よりも格上だと言っているらしい。どう見てもただの子供の彼女に、そんな力があるとは思えないが、一方で、ただの子供とは思えない奇妙なオーラを発しているようにも見えた。

「どちらにしても、早めに手を打った方がいい。お前も、混沌に身を置く者であれば、この辺りの混沌濃度が高まっているのは分かるだろう。私自身の力で、ある程度までは止めることが出来るが、それでも限界がある。せめて堤防くらいは増設しておけと、領主に伝えておいてやれ」

 どこまでも上から目線で語る少女に対して、訝しげに思いながらも、アレスはひとまず「彼女の言い分」を一通り聞いた上でその真偽を判断すべきと考えた。

「他に方法はないのか?」
「そうだな……、私と同レベルの魔法師があと4、5人いれば、どうにかなるかもしれんが、世界中を探しても見つかるかどうかは分からんしな。いや、もう一つの『手立て』の方が見つかればどうにかなったのだが、領主が覚えていないのであれば仕方がない。私が伝えてやるにしても、肝心の場所が分からんからなぁ。まぁ、もう少し探してはみるが、現状で一番確実なのは、堤防を強化しておくことだ」

 サラッと爆弾発言を織り交ぜつつ、いま一つ要領を得ない回答を残して、彼女は去っていこうとする。だが、そこでアレスが呼び止めた。まだ重要なことを一つ、聞いていない。

「待て。お前の名は?」
「人に名を聞く時は、まず自分から名乗れ」
「私は、邪紋使いのアレスだ」

 堂々とそう名乗ったアレスに対して、彼女は少し間を空けてから答える。

「ふむ、アレス、か。覚えておこう。私は『マリア』。今、名乗れるのはこの名だけだ」

 そう名乗ると同時に、彼女の姿はアレスの視界から文字通り「消えて」いく。瞬間移動の魔法なのか、あるいは姿を透明化する魔法なのかは分からないし、そもそもそれらが高度な魔法なのかどうかも、魔法については全くの素人のアレスには判別がつかない。ただ、いずれにせよ、少なくとも彼女はただの「なりきり勘違い少女」ではなさそうである。
 ちなみに「マリア」という名自体は、この世界では決して珍しくはない。だが、通常、魔法師にはそれに加えて「苗字」がある。それはエーラムにおける自身の一門を意味する名なのだが、あえてその名を名乗らない(あるいは名乗れない)理由は何なのか? もしかしたら、「苗字を持たない(エーラム出身ではない)魔法師」なのかもしれないが、いずれにせよ、色々な意味で「普通の魔法師」では無さそうである。結局、アレスの中では彼女が「胡散臭い少女」であるという認識は変わらないままであったが、ひとまず、ここまでの話を領主であるユーフィーにそのまま報告する。今の彼には、それしか出来ることはなかった。

2.2. 堤防工事

 こうして、アレスが森の奥地へと足を踏み入れている間に、ユーフィーもまた、館の中で何か手がかりは無いかと思案を巡らせていた。まず、「インディゴと出会った少女」や、「夢に現れた女性」が言及している「テイタニアの領主家に伝わる何か」が気になった彼女としては、今の自分の周囲でそれを知る可能性のある唯一の人物である、妹のサーシャに聞いてみようと考え、彼女の部屋を訪ねる。
 だが、一通りの事情を彼女に伝えたものの、彼女も特に心当たりはないようである。もっとも、継承者候補という意味では、サーシャはユーフィーよりも「下」の立場なので、何も知らされていないのも当然と言えば当然であろう。ただ、彼女はこれまで、「父」と「上の兄」との間で、何か秘密を共有しているような素振りを感じたことは何度かあったらしい。

「いつだったか、お父様とお兄様が、『指輪』がどうこうと言ってたのを聞いたことはあります。何の話か聞こうとしたら、はぐらかされてしまいましたが」

 ユーフィーには、そんな話を聞いた記憶はない。それはもしかしたら、サーシャが末っ子で、当時はまだ 幼かったが故に、彼女の前では油断して、うっかり口を滑らせてしまっていたのかもしれない。ただ、いずれにせよ、ここまで厳密に「一子相伝」で長男にだけ何かを伝えていたのだとすれば、それは相当に重大な秘密であることは間違いない。実際のところ、父や長兄と同時に討ち死にした次兄や、今は大陸の貴族家に嫁いでいる姉も、「いざという時の保険」として何か聞かされていたのかもしれないが、現時点では確かめようがない。
 その上で、ユーフィーは今度は父の代からこの街の「文官の長」であったインディゴと共に、父の残した遺品や資料の中に何か手がかりがないかと調べてみる。しかし、この館の中の資料については誰よりも詳しい知識を持っている筈のインディゴの力を以てしても、結局、それらしき情報は見つからなかった。
 一方、ハーミアは、ジェームスが何か手掛かりを持っているかもしれないと思い立ち、彼が泊まっている冒険者の宿へと向かい、あっさりと再会を果たす。その上で、この街や森で何か異変が起きていないかと尋ねてみたところ、曰く、彼は二日前にこの街に来て、森の中を散策していたらしいが、以前に来た時と比べて、明らかに混沌濃度が高まっていたことは彼も感じていたらしい。ただ、それが具体的にどのような異変なのかまでは、彼も分からないとのことである。
 こうして、各自がそれぞれに調査を続けていく中、アレスが帰還し、彼から一通りの報告を受けたユーフィーは、現実に湖の近辺で混沌濃度が高まっているという事実に鑑みた上で、堤防の増設を決意する。事の真相は分からないものの、少なくとも、湖で何かが起こっている可能性が高いことは確実である以上、川の増水・氾濫の可能性は考慮して然るべきである。しかも、それがいつ発生するかも分からない現状においては、少しでも早めに手を打っておく必要がある。
 そして、こういう時に頼りになるのが、インディゴである。この街に長年仕えていた彼は、現在の堤防の構造についても熟知しており、彼の的確な指示の下、ユーフィー、ハーミア、アレスは街の人々と共に迅速に手を尽くした結果、この日の夜までに、川沿いの堤防への大量の土嚢の積み上げを完了する。その上で、街の人々に対しても水害の可能性を周知し、いざという時に避難するための準備を進めるように通達した。取り越し苦労であったとしても、何が起こるか分からない以上、万が一の事態に備えておく必要はある。
 そして、この調査および堤防増設の一連の流れの中で、アレスは、昨日のアルフリードとの「毒物受け渡しの約束」のことを完全に失念してしまっていた。決して、旧友のことを軽んじていた訳ではないが、そんな大事なことを忘れてしまうほど、今回の事態は急を要する案件だと、本能のレベルで感じ取っていたようである。アレスがその約束のことに思い出した時には、既にアルフリードはこの街を去っていた。結果的に言えば、これが彼女から話を聞く最後の機会であったことにアレスが気付くのは、もう少し先の話である。

2.3. 沸き起こる異変

 そして翌日の早朝、異変が起きた。テイタニアを大規模な地震が襲ったのである。建物が崩れるほどではなかったが、街中で看板や家具が倒れ、その激しい揺れで街の人々が次々と目を覚ます。ヴァレフールはその国土の大半が平地ということもあり、この地の人々は地震にはあまり慣れていない。多くの人々が困惑し、取り乱し、一瞬にして街は騒然とした空気に包まれる。
 そんな中、慌てて家の外へと飛び出したハーミアは、街の流れるカーレル川の勢いが、急速に強まっていることを感じる。やがてそれが、巨大な濁流となって、増設した堤防に襲いかかってきた。

「おぉ、神よ……」

 彼女は思わず手を握り、そう祈る。この世界では(聖印教会の人々以外は)「神」を信仰する習慣はそれほど強くない。彼女が祈っているのは、この世界の神ではなく、彼女の故国で信仰されていた「地球の神」である。しかし、そんな彼女の祈りもむなしく、やがてその堤防を越えて溢れ出た流水が、街の中へと流れ込んできた。堤防によってその勢いは殺されてはいるものの、その光景は街の人々を混乱に陥れるに十分なインパクトである。

「皆さん、落ち着いて避難して下さい!」

 いち早く飛び起きて街中に現れたユーフィーが先頭に立ち、住民達にそう訴えかける。事前に通告していたこともあり、人々は困惑しながらも、街の中の高台や、川の勢いに流されにくい強固な構造の建物へと避難していく。そんな中、堤防を越えて流れ込む水の中に、奇妙な生き物の姿が目に入る。それは、混沌によって生み出された巨大な「蛙」の投影体である。稀に湖の近辺で目撃証言のある魔物であり、聖印や邪紋の力を扱える者達にとってはそれほど厄介な敵ではないが、一般人にとっては十分に脅威である。
 そんな巨大蛙が街の各地に入り込んできたのである。こうなると、ユーフィー達としては、まずこの侵入者を除去することに専念せざるを得ない。住民達の避難指示は部下に任せた上で、彼女はすぐにハーミア、アレス、インディゴと合流し、混乱する街中を闊歩する蛙達に対峙する。
 まず、真っ先に動いたのはインディゴである。彼は視界に蛙が入ると同時に、己の右手に念を込め、目の前の蛙を激しく睨みつけながら、その手を強く握りしめる。すると、彼の視線の先にいた蛙が、一瞬にして内臓を四散させながら破裂した。静動魔法師の得意技、フォースグリップである。まだかなり離れた場所にいる蛙のヌメヌメした不気味な感触を右手の掌で感じながら、その急所を瞬時に見極め、それを一気に潰したのである。
 当然、周囲にいた蛙達には、何が起きたのか理解出来る筈がない。突然、仲間の体がバラバラに飛び散ったのを目の当たりにして、蛙達の思考は困惑しながらも、目の前で自分達に明らかな敵意を向けているユーフィー達に襲いかかろうとするが、逆にそれを迎え撃ったユーフィーのレイピアの一撃を真正面から受けてしまう。「人を殺さない」という信念の持ち主である彼女は、敵を屠る能力には長けていないと自認しているが、それでも、人々を襲う魔物が相手であれば、その浄化のために全力を尽くす。それは君主である以上、当然の責務であった。
 そして、その傍らで別の蛙からの突撃を受けていたアレスは、一瞬にしてそれをかわして側面に回り、蛙の視界から消えたかと思うと、次の瞬間、短槍を蛙の脇腹に突き刺す。蛙は激しい血を流して苦しむが、それでもまだ倒れずに、アレスに対して長い舌を絡ませて反撃に転じる。その縛撃は着実にアレスに苦痛を与えるが、その程度で崩れ落ちるほどアレスもヤワな体ではない。
 それと同時に、別の蛙達は、ユーフィーとインディゴにも舌を伸ばす。インディゴは逃れられずにその舌に絡み取られてしまうが、それにも動じず、彼は再び右手に力を込め、逆にフォースグリップで相手の蛙の身体を握り潰そうとする。蛙の舌と、彼の右手が、互いに相手の身体を締め上げる、奇妙な形での持久戦が展開されていた。
 一方、ユーフィーに向けて舌を伸ばした蛙に対しては、後方からハーミアが天に向かって祈りを捧げたことで、その蛙の周囲の混沌に異変が発生する。混沌の力でこの世界に投影された地球人である彼女は、この世界に一時的に「地球の自然律」をねじ込むことで、他の混沌によって生み出される異変の影響を弱めることが出来るのである。その結果、勢いを失った蛙の攻撃はあっさりとユーフィーにかわされ、返す刀でユーフィーがレイピアとマイン=ゴーシュを駆使した連撃を繰り出した結果、その蛙はその場に倒れこむ。
 それとほぼ同時に、アレスもまた自分に絡みついてきた蛙の脇腹にもう一度短槍を突き刺すことでとどめを刺し、インディゴと対峙していた蛙も、彼が放ったエネルギーボルトによって崩れ落ちた。こうして、ひとまず目の前の敵を一掃したことを確認すると、ハーミアは彼等の身体を地球伝来の技術で癒し、ユーフィーはその蛙を構成していた混沌核を浄化して自らの聖印へと吸収する。そして彼等は、街の衛兵達とも合流し、他の場所にも出現しているであろう投影体達を倒すために、流水にまみれた街の中を奔走するのであった。

2.4. 招集命令

 こうして、ユーフィー達が街中に出現した魔物を討伐している間に、徐々に濁流も収まり、やがてカーレル川は平静を取り戻す。前日の備えの甲斐あって、どうにか人的被害は最小限に食い止めることに成功したが、それでも流水による建物の損傷は各地で発生しており、また、森を中心とする混沌濃度が高まったことで、小規模な混沌災害や投影体の出現率も上がっていた。ユーフィー達はこの日から数日間、この街の復興と治安維持のために奔走させられることになる。
 だが、このような危機的状況において、逆に目を輝かせる人々もいる。冒険者達である。森の中で何らかの異変が起きたことを察知した彼等は、この機に新たな異界の投影装備などが手に入る機会なのではないかと考え、次々と混沌濃度の高まった森の中へと足を踏み入れて行く。当然、それは大きな危険を伴う行為なのだが、冒険者とはその名の通り、「危険を冒す者達」である。このような事態において怯むような者達は、そもそも「冒険者」とは名乗らない。
 そして、ここ数日間の間に森に足を踏み入れた者達の証言によると、どうやらこの地震の発生以降、パルトーク湖の中心に「火山島」が出現しているらしい。というよりも、おそらく状況から察するに、パルトーク湖に奥底に眠っていた湖底火山が噴火・隆起したことが、今回の地震と水害の原因だったようである。現在、その火山島および湖の周囲は魔物が多すぎて、彼等と言えども容易には近付けなかったらしいのだが、幾人かの証言によれば、その火山島の火口の辺りに「巨大な黒い龍の首のような影」が見え隠れしていたという。もしかしたら、その「黒い龍のような何か」が、この噴火・地震・水害を引き起こした原因なのかもしれない。
 これらの証言を踏まえた上で、ユーフィーとしては、街の人々が最低限の日常生活を送れるレベルまで街が復興してきたこともあり、そろそろ本格的な現状把握と原因究明のための調査隊を森に派遣しようと考えていたのであるが、まさにそのタイミングで、ヴァレフールの首都ドラグロボウから、彼女宛に「招集令状」が届けられた。どうやら、彼女を含めた「ヴァレフールの七男爵(騎士隊長)」全員を集めた上での「騎士団会議」を開催することになったらしい。その令状には明確には書かれていないが、どうやら、今回の災害に関係した議題のようである。
 騎士団会議は、この国においては極めて重要な地位にある。この会議での決定は、伯爵からの勅令に匹敵する重みがあると言っても良い。この場に出席する権利があるのは、団長・副団長を含めた7人の騎士隊長(男爵)のみであるが、国防その他の重要な任務故に出席が不可能な場合は、名代として副官の騎士や契約魔法師が出席することも認められている。
 そして今回の場合、テイタニアがまだ危機的状況から脱したばかりである以上、ユーフィーとしても、今、自分が現場を離れる訳にはいかないと考えていたため、契約魔法師であるインディゴを名代として指名した。もし、本格的な二次災害が発生した場合を想定すると、彼が現場を離れるのも危険ではあるのだが、混沌を浄化する力を持つユーフィーが離れるよりは、まだリスクが少ないと言えるだろう。
 彼女がその旨を皆に伝えると、皆は納得の表情を浮かべるが、そこに一人、口を挟んだ人物がいた。サーシャである。

「私も、姉様の名代という形で同行させて頂けませんか?」

 確かに、彼女はユーフィーの実妹であり、聖印を持つ君主でもある。姉の名代として参加する権利は十分にあると言えるだろう。ただ、これまで領主としての職務には殆ど関わっていなかった彼女は政治的知識は乏しいということもあり、彼女自身が騎士団会議の重大な政治的決定に対して口を挟む気はない。あくまでも「体裁」のために形だけ出席した上で、実際の決定はインディゴに任せるつもりであった。
 実際のところ、彼女がいなくてもインディゴさえ派遣しておけば名代としては事足りる。ただ、何らかの重大な決定が下される場合、その責任をインディゴ一人に背負わせるのもあまり望ましくはない。また、状況によっては「聖印の持ち主」が必要となる場合も想定されうるという意味では、「保険」として彼女を同席させておく意味はあるだろう。
 そういった事情も鑑みた上で、ユーフィーもインディゴも、サーシャの同行に同意する。父や兄達を失ったユーフィーにとって、サーシャは残された数少ない大切な「家族」である。故に、病弱な彼女を心配する気持ちは強かったが、ここは「少しでも役に立ちたい」という彼女の思いを尊重することを決意し、インディゴに彼女を託すことを決意したのであった。

2.5. 爵位継承問題

 翌朝、インディゴとサーシャはドラグロボウへと出立し、その日の夕刻頃に、その街の中心に位置する伯爵の居城へと辿り着く。客室に案内された彼等は、他の男爵達が到着するまでこの地に滞在することになった訳だが、そんな中、正規の会議が始まる前に、彼等の部屋を訪問する者達がいた。
 ヴァレフール最大の穀倉地帯を領有するイカロス男爵グレン・アトワイト(下図左)と、北西部国境に位置するイェッタ男爵ファルク・カーリン(下図右)である。グレンはヴァレフール騎士団の副団長であり、ファルクはその縁戚にあたる。二人とも、聖印教会との関係が深いと言われているが、その一方で、それぞれエーラムからの魔法師とも契約しており、その意味では、状況によっては混沌の力を頼ることも全否定はしない、いわゆる(聖印教会内における)「穏健派」に属する立場である。


 そして、ファルクの姿を見たサーシャはすぐさま鞄の中から「詩集」を取り出し、満面の笑みを浮かべながら彼の前に差し出す。

「ファルク様、この詩集をお貸し下さり、ありがとうございました。とても素敵な言葉ばかりが紡がれていて、読む度に心が洗われるようでした」

 どうやら、彼女がこの会議に参加したいと言い出した裏には、ファルクに会ってこの詩集のお礼を言いたい、という思惑もあったようである。いつもは大人しい彼女が、ファルクの姿を見た途端に、目を輝かせながら生き生きとした表情を浮かべているのが、その傍に立っていたインディゴにも感じ取れた。

「気に入って頂けたのなら、何よりです。お身体の調子はいかがですか?」
「はい、最近は特に大きな発作もなく、落ち着いています。お心遣い、ありがとうございます」

 こうして二人が和やかに会話を交わしているのを横目に、今度はグレンがインディゴに語りかけてきた。

「さすがに、ユーフィー殿は来れなかったか」
「色々と、大変な時期でありますので」

 インディゴがそう答えると、グレンも素直に理解を示す。その上で、彼はインディゴに対して、深刻な表情を浮かべながら話を続ける。

「いずれにせよ、今回の会議は間違いなく荒れることになる。だが、団長の暴走は止めなければならん。何としてもな」

 団長とは、ヴァレフールの七男爵の筆頭格である騎士団長ケネス・ドロップスのことである。ケネスとグレンは同世代(50代後半)のライバル関係であり、騎士団の方針を巡る会議においては、この二人の対立が議論の軸となることが多い。インディゴには、今の時点でグレンが言うところの「団長(ケネス)の暴走」とは何を意味しているかは分からなかったが、どうやら彼は、騎士団会議が始まる前に、こちらの動きを探りつつ何らかの「根回し」をしようと企んでいることは、薄々察しがついた。

「時にインディゴ殿、仮定の話なのだが、もし、ユーフィー殿の兄君がまだ存命だったとして、ユーフィー殿は兄君のことを差し置いてまで、自らが後継者となろうとしただろうか?」

 この唐突な質問に対して、インディゴは困惑しながらも、素直に持論を述べる。

「よほど特別な事情でもない限り、そのようなことにはならないでしょう」
「そうであろう。それが筋というものだ。継承の順序は守らねばならん。そこに各自の思惑を挟むようになってしまっては、国が傾く」

 この時点で、グレンがここにきた理由が、うっすらとインディゴにも見えてきた。どうやら今回の会議は、伯爵位の継承権争いが絡んだものであるらしい。
 現在のヴァレフール伯爵であるブラギスには、二人の息子がいる。長男のワトホートは、聡明ではあるが病弱、次男のトイバルは、勇猛ではあるが粗暴。故に、どちらを後継者とすべきかを巡って、何年も前から国論は揺れていた。そして、長男ワトホートの妻は副団長グレンの娘であるのに対し、次男トイバルは団長ケネスの娘を娶っており、この二人のどちらが後継者となるかによって、グレンとケネスの主導権争いにも大きな影響力が出ることが予想されていたのである(下図参照)。


「ワトホート様のお体を心配する声もあるが、それも杞憂だ。実はここだけの話だが、あの方の病状を治す手立てが整いつつある。何も心配することはない」

 どうやらグレンは、今後の会議において発生するであろう後継者問題に向けての「票固め」のために、テイタニア陣営に探りを入れに来たらしい。「ワトホートの病状を治す手立て」なるものが、どこまで信用出来る話なのかは分からなかったが、もともとトイバルに対して「兄弟子キースを殺された恨み」を抱いているインディゴとしては、少なくとも個人的感情のレベルでは、トイバルを後継者に推す理由はない。だが、そのような問題に対して、ユーフィーの許可なく自分だけで判断を下す訳にもいかないと考えていた以上、今の時点でこの問題にはあまり関わりたくない、というのが本音であった。
 そんなインディゴの困惑を知ってか知らずか、グレンは隣で笑顔で談笑するファルクとサーシャの様子を見ながら、彼女には聞こえないような小声で、インディゴに語りかける。

「ところで、ファルクとユーフィー殿の妹君は仲が良いようだが、ファルクは私の縁者でもある。私が斡旋してあの二人の縁談をまとめることも可能だが、いかがかな? それとも、ユーフィー殿としては、まだサーシャ殿を嫁に出す気はないのだろうか?」

 現状、騎士団内において、ファルクは縁戚関係にあるグレンと共に「長男派(ワトホート派)」と目されている。どうやらグレンとしては、そのファルクとユーフィーの妹を結びつけることで、テイタニア陣営もそのまま長男派に引き込もうという算段らしい。
 37歳にして独身のインディゴは、これまでの人生を仕事一筋に費やしてきたため、およそ男女の機微に通じているとは言い難いが、そんな彼でも、サーシャがファルクに対して憎からざる想いを抱いていることは、彼女の態度を見ればすぐに分かる。しかし、自家と他の男爵家との縁談ともなれば、ある意味、主家であるインサルンド家の伯爵位継承以上に重要な問題であり、彼に即答する権限など、ある筈もない。

「その辺りについては、私では判断しかねます」
「そうか。まぁ、覚えていたら、帰還後にユーフィー殿に話を伝えておいてくれ」

 そう言い残すと、グレンはファルクを伴って去っていく。サーシャはまだもう少し話を続けたそうな素振りではあったが、そこで自己主張出来るような性格でもない彼女は素直に彼等を見送り、そしてインディゴは、自分の手に余る議題がこの後の会議で展開されようとしていることを察して、徐々に陰鬱な気分になりつつあった。

2.6. 聖印と大毒龍

 そして翌日、七男爵家の代表が全員到着したという連絡が、インディゴとサーシャに届く。その上で、彼等は伯爵であるブラギスとの謁見の間へと案内されることになるのだが、その途上の廊下にて、別の七男爵の一人と遭遇する。

「この度は、不幸な災害にみまわれたこと、お悔やみ申し上げる」

 ヴァレフール北西部に位置する古城クーンを守るシュペルター家のイアンである。前述の通り、彼はハーミアの「元恋人」でもあるのだが、そのことはテイタニアの人々には伝えられていない。

「実は今、我が妻ヴェラが、テイタニアに支援物資を運んでいるのだが、現地の混沌濃度は今、どのような状態なのかな?」
「少し荒れてはいますが、まだそれほど深刻な事態ではありません」
「そうか。私もこの会議が終われば、すぐにヴェラの後を追って、復興に協力させてもらうつもりだ」

 イアンもヴェラも、基本的には実直な人物である。彼等は同じヴァレフールの同胞として、純粋な気持ちで支援を申し出ている。無論、その地に「イアンの元恋人」がいることなど、彼等が知る由もない。

「ご迷惑をかけてしまって、申し訳ない」
「いやいや、こういう時はお互い、助けあわねばな」

 深々と頭をさげるインディゴに対してイアンがそう言うと、その背後から別の人物の声が聞こえてきた。騎士団長のケネス・ドロップス(下図左)である。その傍には、彼の縁者であり、ヴァレフール北東部の湖岸都市ケイの領主ガスコイン・チェンバレン(下図右)の姿もあった。


「間も無く、謁見の時間となる。御三方とも、お急ぎ下され」

 そう急かされた彼らは、素直にその言に従う。前述の通り、ケネスは現在の騎士団の団長であると同時に、トイバルの舅でもあり、伯爵位継承権問題においては「次男派」の筆頭である。ガスコインはそんなケネスと縁戚関係を結んでおり、彼もまた次男派の一員と目されていた。これに対して、イアンは伯爵令嬢のヴェラを娶ってはいるものの、彼女自身が「爵位継承権は放棄する」と明言した上で、兄達の争いからも身を引こうと考えていることもあり、「中立派」としての立場を鮮明にしていた。
 そして現状においては、ユーフィーもまた、この問題に対しては特にどちらを支持するとも明言していない。というよりも、男爵位を継いだばかりで、どちらの派閥とも縁戚関係にはなかった彼女にとっては、どちらに肩入れする理由もなかったのである。
 こうして、彼等が伯爵の謁見の間にたどり着くと、そこには既に到着していたグレンとファルクに加えて、もう一人、見知らぬ女性の魔法師の姿があった(下図)。


「皆様、お初にお目にかかります。オディール男爵ロートス・ケリガン様の契約魔法師のオルガ・ダンチヒと申します。我が街は対アントリアの最前線に位置しております故に、主が現場を離れる訳にはいかず、不肖・若輩のこの私が主の代役を務めさせて頂くこと、どうか御容赦下さい」

 そう言って、彼女は深々と頭を下げる。オディールの領主であるロートスは、数ヶ月前に急死した父の後を継いで君主となったばかりの人物であり、彼女はその直前に、先代領主の契約魔法師となるためにエーラムから派遣され、諸々の経緯の末に、ロートスの契約魔法師として彼に仕えることになった(第3話「長城線の三本槍」参照)。

「若輩なのは、ロートス殿も変わるまい。むしろ、お主がいなくて大丈夫なのか?」

 比較的オディールに近いケイの領主であるガスコインが、彼女に対してそう問いかける。ロートスは現在22歳(オルガは23歳)、ほぼ同時期に男爵位を継承したユーフィーを除けば、最年少である。それに加えて、ユーフィーと同等かそれ以上に「覇気のない君主」と言われており、最前線を守る人材としては、少々頼りないというのが、近隣の領主達の間での定評である。特に、つい先日、アントリアによる山岳街道突破作戦の危機に晒されそうになったケイの領主であるガスコインとしては(第5話「禁じられた唄」参照)、ロートスのような頼りない若輩者に長城線を任せること自体に、強い不安感を抱いているようである。

「ご心配なく。我が街には、私よりも優秀な妹弟子がおりますので」

 オルガがそう答えると、それに対してガスコインが何か言おうとするよりも前に、伯爵の侍従兵の声が謁見の間に響き渡った。

「ブラギス陛下のおなりです!」

 即座に男爵およびその代理人達は「玉座」に向かって膝をつき、やがてその奥から、ヴァレフール伯爵ブラギス・インサルンドが、両腕を側近に抱えられた状態で現れるのを目の当たりにする(下図)。


 高齢のブラギスは、ここ最近、あまり体調が思わしくないと言われていたが、この様子を見る限り、既に一人で歩くこともままならない状態となっているらしい。そんな姿を見た男爵達が心配の眼差しを向ける中、ゆっくりと玉座に座ると、ブラギスは虚ろな目を浮かべた表情で、重々しく口を開いた。

「ヴァレフスじゃ……、ヴァレフスが、湖の奥から、甦ろうとしておる……。はようヴァレフスを討つのじゃ……。そう、ヴァレフスを討った者を、我が聖印の後継者とする……。我が聖印は、ヴァレフスを討った者に委ねる……」

 「ヴァレフス」とは、400年前にこの地を混沌から救った英雄王エルムンドによって倒されたと言われている、伝説の「大毒龍」である。ブレトランド人であれば知らぬ者はいないほどの「恐怖の象徴」であるが、それが蘇るなどという説は、民間の与太話の次元では頻繁に語られているものの、実際にそのような危険性があると考える者は少ない。
 そして、ブラギスは譫言のようにそう呟くと、やがて意識を失ったように瞳を閉じ、再び側近達に抱えられて玉座から立ち上がり、そのまま謁見の間から去っていく。そのあまりにも異様な光景と発言に、男爵達が呆気にとられていると、ケネスが冷静な口調で皆に通達する。

「……さて、各々方、今の話を踏まえた上で、会議室に来て頂きたい」

 どうやら、彼は既に「この事態」を事前に知っていたようである。皆がそれぞれに困惑した面持ちのまま会議室へと移動し、やがてこの国の命運を大きく左右することになる「騎士団会議」が、厳重に警備された「密室」の中で開催されることになるのであった。

2.7. 騎士団会議ー激論ー


 まず最初に発言を求められたのは、インディゴである。ケネス曰く、先日の大地震以来、ブラギスは何度も先刻の発言を繰り返しているらしい。ブラギスが何を根拠にこのようなことを言い出したのかは明確ではないが、少なくとも状況的に考えて、彼が言うところの「湖」とは、今回の地震の震源地であるパルトーク湖のことを指しているのは間違いない。故に、まずは今回の地震に関する詳しい情報を知る必要がある、というのがケネスの考えであった。
 それに対して、インディゴは、彼が出会った魔法少女や、ユーフィーの夢に現れた謎の女性の話などについては伏せた上で、純粋に今回の事件を通じて発生した被害状態や、湖で目撃されたと言われている「巨大な黒い龍のような何か」の存在についてのみ説明する。得体の知れない(闇魔法師かもしれない)者からの情報提供を受けているということを知られると、余計な勘繰りをされる可能性がある以上、現状で語れるのは、そこまでが限界であった。

「では、その火口に現れた『黒い龍』こそがヴァレフス、そしてそれを討った者が次のヴァレフール伯爵になる、ということでよろしいかな?」

 サラッとそう言ったケネスに対して、グレンは真っ先に異論を唱える。 

「いや、待て、皆も見たであろう? 今の陛下は明らかにご乱心の状態だ。今の陛下の発言を、そのまま受け取るべきではない。無論、このことは公表も控えるべきだ」

 確かに、先刻のブラギスを見る限り、明らかに「正常」とは言えないと判断するのが一般的な反応であろう。見様によっては、何者かの手で催眠状態となっているようにも見える。
 だが、それに対して今度は、ガスコインが反論する。

「それを判断する権利は我々には無い。そもそも、臣下の立場でありながら、陛下が正気ではないと決めつけるのは無礼千万ではありませぬか、副団長殿? ましてや、我々の独断で陛下のお言葉を公表せず握りつぶすなど、言語道断だ」

 確かに、これはこれで臣下としての一つの筋の通し方ではある。だが、実際のところ、この意見の対立の根源にあるのは「ブラギスが正気か否か?」に関する認識の差ではない。次期伯爵位を巡る戦略上の問題である。武勇に秀でたトイバルを推すケネスやガスコインの立場にとっては、「ヴァレフスを討った者が次の後継者」というブラギスの発言は、病弱な兄ワトホートから継承権を奪う上で、格好の根拠となる。逆に、長男派のグレンとしては、そんな発言の正統性を認める訳にはいかない。
 そして、今度は同じ長男派のファルクがグレンを擁護する。

「しかし、先程の陛下の発言は、明らかに言葉不足です。たとえば、伯爵家の者以外がヴァレフスを討った場合はどうするのか、極論を言ってしまえば、ダン・ディオードがヴァレフスを討った場合でも、我々は彼を次の主と認めなければならないのか、といった問題に関して、今の陛下ではその御意志の確認が出来そうにありません。よって、陛下のお気持ちが落ち着かれるまで、この情報は公表すべきではないと思います。中途半端な情報が広がると、事態が混乱しかねません」

 確かに、あの発言の中には「インサルンド家の者の中で」などとは一言も語られていない。現在はコートウェルズに渡っているアントリア子爵ダン・ディオードが、突如舞い戻ってきてヴァレフスを討つ、という可能性もゼロではないし、そうでなくても、得体の知れない流浪の君主が討ち倒してしまう事態も想定して然るべきであろう。

「だが、最終的には、陛下が納得しなければ聖印は与えられんのだ。さすがに、どこの馬の骨とも分からぬ者に聖印を与えるなどと、陛下が仰る筈がない。問題はなかろう」

 ガスコインはそう反論するが、そう言いながらも内心では「今の陛下なら、そうしないとも言い切れない」という恐怖感はあった。しかし、「次男派」である彼等が本懐を遂げるには、これは紛れもなく千載一遇の好機なのである。多少のリスクはあっても、ここは引く気はなかった。
 そして当然、長男派のファルクとしてもここは譲るわけにはいかない以上、真っ向からその主張に対して応戦する。

「しかし、この条件だけを聞いた者達が『ヴァレフスを倒せば伯爵になれる』と解釈した場合、その解釈を後になって陛下が否定することで、陛下に対する不信感が広がる可能性もあります。どちらの解釈に筋があるか以前の問題として、民の心を困惑させる事態は避けるべきかと」

 こうして、長男派と次男派がそれぞれの思惑に基づいて持論を展開する中、今度は「中立派」と目されていたオディールのロートスの代理人であるオルガが口を開いた。

「僭越ながら申し上げます。ファルク殿の仰ることは全くもってその通りではございますが、問題は、果たしてそれを隠し通せるかどうかです。最悪の場合、我々が隠そうとしていたことが世間に露見した場合、余計に事態が混乱します」

 これに対しては、グレンが皮肉めいた笑みを浮かべながら問いかける。

「まさか、そのようなことを勝手におこなう者が現れるとでも? オルガ殿は時空魔法師と聞いたが、そのような不届き者が現れる未来が見えましたか?」

 そう言いながら、グレンはケネスに鋭い視線を向ける。この状況において、騎士団の中から独自にその情報を流す者がいるとすれば、それは間違いなく次男派の仕業、と考えるのが自然であろう。ケネスが平静を装いながらその視線を受け流すと、オルガは率直にそれに答える。

「その可能性もゼロとは言い切れません。それに、我々でなくても、間者が忍び込んでいる可能性は十分にあります」

 実際のところ、オルガにはそこまで明確なヴィジョンが見えている訳ではないのだが、ケネスやガスコイン以外にも、王宮内に「次男派」の者達はいる以上、誰がいつ、その「伯爵様の言葉」を公表してしまうか分からない。ちなみに、彼女の主であるロートスの長弟ゲンドルフの妻はグレンの縁者であり、末弟リューベンの妻はケネスの縁者ということもあり、一族間での争いを防ぐために、この問題についてはロートスはあくまで中立を貫く方針である。オルガもその意思を尊重しているため、彼女としても次男派を利するつもりはなかったのであるが、国内の混乱を避けるためには「事実の隠蔽」はあまり得策ではない、というのが、彼女の判断であった。
 それに対して、同じ中立派のイアンからは、また別の角度からの異論が語られる。

「とはいえ、現状ではまだ情報が少なすぎます。陛下のお言葉を疑う訳ではありませぬが、そもそも陛下の仰る『ヴァレフス』が何物なのかも分からない状態である以上、まずは湖の調査を進めて、実態を把握してから、公表するかどうかを決めるべきでは?」

 確かに、討伐対象としてのヴァレフスという魔物自体が実在するかどうかも分からない状態でこの事実を公表すれば、間違いなく混乱は広がるだろう。倒した後になって「あれがヴァレフスだったのか否か」について議論しても、水掛け論になる可能性が高い。だから、ブラギスの発言を公表する前にまず真偽を確認する、というのは筋の通った考えではある。
 だが、問題は、誰がそれを判別するのかという点である。そもそも現実問題として「ヴァレフス」なるものの実態を知る者が誰もいない以上、客観的な判断を下せる人物が今のブレトランドにいるとは思えない。そうなると、中立的な立場で本格的な調査を実行するには、エーラムの魔法師協会に依頼するのが一番着実な手法ということになるが、今からエーラムに依頼したとしても、すぐに動いてくれるとは限らない。
 こうした状況を踏まえた上で、ここでようやく、再びインディゴが口を開く。

「いや、仮にも陛下のお言葉が本当ならば、我がテイタニアは一刻を争う事態です。そんなに悠長に事を構えている訳にはいきません」

 少なくとも、彼自身、火口に現れた魔物がヴァレフスなのかどうかは分からない。だが、ヴァレフスであろうと無かろうと、今のテイタニアとって重要なのは、その魔物を一刻も早く倒すことである。彼自身の本音としては、トイバルの爵位継承を後押しするようなことはしたくはないが、今は伯爵家の事情に引っ張られて、事態の解決を遅らせる訳にもいかない。公表するにせよ、しないにせよ、迅速に大軍を派遣してその魔物を倒すというのが、今の彼がこの場にいる人々に要求すべき最優先の主張であり、それについては、同席していたサーシャも同じ気持ちであった。
 そして、この意見に便乗する形で、次男派の筆頭であるケネスも、イアンに対して反論する。

「そうだな。それに、そのような悠長なことを言っている間に、こっそりとヴァレフスを討ち果たして、伯爵位の継承権を主張する者が現れぬとも限らん。おぉ、そういえば、先ほど失礼ながら偶然立ち聞きさせて頂いたのですが、ヴェラ様は今、テイタニアに向かっておられるのでしたな」

 つまり、状況的に言えば、現状においてヴェラが誰よりも先に「ヴァレフス」を倒せる場所にいる、ということになる。本格的な討伐隊の派遣を躊躇っている間に、ヴェラが「ヴァレフス」を討ち倒すということも、状況的には出来なくもない。

「我が妻は、伯爵位の継承権は放棄すると、はっきり申し上げた筈。純粋な善意でテイタニアを助けようと尽力している我が妻の下心を疑うとは、いかに騎士団長様と言えども、聞き捨てなりませんぞ!」

 日頃は温厚なイアンが、珍しく声を荒げる。彼はヴェラのその強い決意を受け入れた上で、(一時は結婚まで考えていたハーミアを捨ててまで)一生彼女を守り抜くと誓って彼女を妻に迎えた身である。そのことで自分自身が「逆玉」と揶揄されることについては甘んじて看過してきた彼であったが、ヴェラ本人を愚弄されることだけは、彼の中では絶対に許せなかった。

「誰もそのようなことは申しておらぬ。いささか過剰反応ではないか? あるいは、ヴェラ様には野心が無くても、あの方を利用しようとする者が、その『周囲』にいるのかな?」

 ケネスがやや挑発気味にそう問いかけることで、会議場全体に重い空気が広がる中、部屋の外を守る衛兵から、緊急事態を知らせる連絡が届いた。

「グレン殿に『火急の知らせ』があるという者が現れました!」

 その声を聞いたケネスは、一呼吸置いた上で、全員に対してこう告げる。

「では、一旦休憩としよう。我々年寄りには、長時間座り続けるのは堪えるからな」

2.8. 騎士団会議ー幕間ー

 こうして、騎士団会議はひとまず休会となる。それと同時に、厳重に封印されていた扉が開かれ、グレンへの使者と思しき者が駆け込み、そしてグレンに何かを耳打ちする。

「なん……、だと……!?」

 グレンは驚愕と焦燥が入り混じった表情を浮かべ、それを見たケネスがニヤリと笑う。何が起きたのかは分からないが、どうやらケネスには、グレンに届いた「火急の知らせ」が何なのか、察しがついている様子である。
 それが何を意味しているのか分からないまま、インディゴはひとまず、サーシャの体調を案じて、外の空気を吸わせるために会議室の外に出ると、その後を追うようにケネスが近付いてきた。

「此度は大変だったな。インディゴ殿としても、一刻も早く事態を解決したいところであろう。火山の火口にヴァレフスがいるのであれば、早々に会議を終わらせて、討伐軍を派遣せねばな」
「……そうですね」

 インディゴはそう言って静かに頷く。ケネスの言っていることはその通りなのだが、正直、トイバルの側近である彼に対しては、あまり良い感情を抱いてはいない。とはいえ、今はあくまで「ユーフィーの代理補佐」としてこの場にいる以上、自身の感情のままに発言(行動)する訳にもいかない。
 すると、今度はケネスがサーシャに向かって語りかけてくる。

「そういえば、サーシャ殿は生来病弱なお身体だそうですが、実は今、その病状も治せるかもしれないお薬が、もうすぐ手に入りそうなのです。大変高価な一品らしいのですが、この国を『正しい方向』に導く考えをお持ちであれば、ぜひ、あなたのためにお使い頂きたい」

 ケネスは不敵な笑みを浮かべながら、一瞬インディゴに目を向けた上で、そう告げた。インディゴには、その意図はよく分かる。その「薬」と引き換えに、この会議でケネスの意見に賛同しろということであろう。果たして本当にそんな薬があるのかどうかも分からないが、少なくともその条件を引き合いに出されると、妹思いのユーフィーの代弁者としてここにいる以上、その申し出を自分の独断で蹴る訳にもいかない。
 一方、そんなインディゴの苦渋に全く気付いていないサーシャは、ここで(インディゴにとっても、ケネスにとっても)全く予想外のことを口にする。

「そのような薬を私ごときに使うなど……。むしろ、私と同等かそれ以上にお身体が悪いと言われているワトホート様のためにこそ用いられるべきではないでしょうか?」

 サーシャは、伯爵家の継承権争いの問題など、何も知らない。今、彼女の目の前にいる人物が、そのワトホートの最大の政敵であることも知らされていないのである。しかし、だからこそ、この発言は重い。真正直にそう言われてしまっては、ケネスとしては何も言い返せなかった。
 実は、ここでケネスが言っていた「薬」とは、まさにそのワトホートを治療するために、グレンが裏ルートで入手しようとしていた薬であった(昨日の時点で、グレンがインディゴに告げていた「あの方の病状を治す手立て」とは、まさにこの薬のことである)。ケネスはそのグレンの動きを察知し、配下の特殊部隊に命じて、まさにこの日、別の場所でおこなわれようとしていたその取引現場に赴き、その薬を強奪するように命じていたのである。そして、先刻の「火急の知らせ」を聞いたグレンの表情から、その目論見が成功したことを確信し、その薬をこの場で「票固め」のための交渉材料にしようと考えたのである。しかし、当のサーシャ本人にそう言われてしまったケネスとしては、これ以上この話を続ける訳にもいかない。
 ひとまず、ケネスはこの「世間知らずのお嬢様」の意向は無視した上で、インディゴには「どうすべきか、分かっているな?」と目で訴えつつ、その場から立ち去る。インディゴとしては、内心でサーシャの無邪気さに感謝しつつも、再開後の会議で改めて難しい決断を迫られることを実感し、頭を抱えるのであった。

2.9. 騎士団会議ー決議ー

 そして、休憩を終えて皆が会議場に戻ってくると、再び扉が閉められ、騎士団会議が再開される。悩むインディゴに「視線」を送りながら、ケネスは男爵達に向かってこう告げる。

「では、休憩中にそれぞれの考えもまとまったことであろうし、まず陛下のお言葉を公表すべきか否かについて、決を取ろうか」

 騎士団会議において意見がまとまらなかった時は、最終的には七男爵の「多数決」によって決定される。今回の場合、オディール伯爵ロートスの持つ一票はオルガが代役として行使し、そしてテイタニア男爵ユーフィーの一票については、サーシャの同意の下でインディゴが行使する、という形になる。そしてサーシャは、今回の件についてはインディゴに任せると明言していた。

「現時点で、陛下のお言葉を公表するのを差し控えるべきと考える者は?」

 ケネスがそう問いかけたのに対し、グレン、ファルク、イアンの三人が手を挙げる。インディゴは迷いながらも、ここは黙って動かなかった。

「では、公表することに賛成の者は?」

 これに対して、ケネス、ガスコイン、オルガ、そしてインディゴが手を挙げる。彼としては、ここで公表に反対しても、オルガが懸念していたように、何者かによってその情報が漏洩される可能性が高いと考えていた。それならば、最初から公表してしまった方がむしろ混乱のリスクは少ない、というのが彼の判断である。おそらくこれは、より現実的な判断を要求される「君主の補佐官」としての契約魔法師としての直感であろう(もし、この場にいるのがオルガとインディゴではなく、ロートスとユーフィーだった場合、結果は変わっていたかもしれない)。
 この結果にケネスは満足した表情を浮かべつつ、そのまま「次の議題」へと話を進める。グレン達は不服そうな表情ではあったが、こうなってしまった以上は、気持ちを切り替えるしかなかった。

「では、陛下の御心に従い、我等はこれからヴァレフス討伐軍を編成する。手順としては、騎士団長である私の指揮の下で、ワトホート様とトイバル様を伴う形で、動員出来る限りの兵力を率いてパルトーク湖へと向かい、ヴァレフスと対峙する。その上で、我等が露払いとしてヴァレフスに打撃を与えた上で、最後はワトホート様とトイバル様にお任せして、ヴァレフスにとどめを刺した方に、その混沌核を浄化・吸収して頂く。これが最も現実的な案だと私は考えるが、いかがかな?」

 つまり、実質的には全軍で協力してヴァレフスに大打撃を与えた上で、最後の一撃だけを二人のどちらかに委ねる、ということである。確かに、まず敵を倒すことを最優先するのであれば、これが最も適切な戦略のように見えるだろう。
 だが、この場合、最終的には個人的な武技の勝負になる以上、明らかにトイバルに有利である。しかも、全体の指揮官が次男派のケネスであれば、様々な形で「トイバルにとって有利な状況」をお膳立てすることも出来る以上、このような条件を、長男派のグレンが承諾出来る筈もない。当然、彼はこの方針に対して真っ向から反発する。

「それでは、ワトホート様もトイバル様も、ご自身の手でヴァレフスを討ち取ったと誇れまい。伯爵位継承権が関わる問題である以上、指揮は殿下御自身の手で採って頂かねば」
「では、どちらの『殿下』に指揮権を委ねるべきだと言うのか?」

 単刀直入にそう切り返してきたケネスに対して、グレンもきっぱりと「本音」で答える。

「当然、第一継承権を持つワトホート様だ。だが、トイバル様がどうしても不服と仰るなら、トイバル様も『私兵』を率いて、我々『正規軍』とは別に、ご自身の手で参加すれば良い」

 彼の中では、長男であるワトホートが後継者となるのは「当然の道理」であり、そこに異論を挟む余地はない。先刻の決議の結果、すでに状況的に追い詰められているグレンとしては、ここは強気にそう言い放つしかなかった。

「その『私兵』の中には、我々騎士団の者達も含めて良いのですかな?」

 グレンに対して、ガスコインがそう問いかける。グレンは、ワトホートが指揮する部隊こそが「正規軍」であり、トイバルがそれとは別に軍を動かす場合は、それはただの「私兵」であると主張している。百歩譲ってその「呼称」を認めるとして、騎士団が後者に属することは認められるのか、という点についての見解を問おうというのである。

「正統なる爵位継承に異を唱えて、トイバル様の自己満足に付き合いたい者がいるのであれば、それを止める権利があるのは団長殿だけだ。私は、団長殿には理性ある判断をお願いしたいがな」
「大軍指揮の経験に乏しいワトホート様に全軍を委ねて、騎士団長がその責任を放棄することが『理性ある判断』なのか? なかなか斬新な見解だな」

 あえて挑発的な言葉で答えたグレンに対して、ケネスも露骨に敵意を剥き出しにした言葉で応戦する。無論、グレンとしても、ケネスやガスコインが「ワトホートの指揮下でのヴァレフス退治」に協力するとは考えていない。あくまでもこれは「落としどころ」を探るための牽制である。
 その意図を察したファルクが、ここで両者の間に入るような形で発言する。

「確かに、効率性を考えれば、ケネス殿が指揮をとるべきでしょう。しかし、陛下の発言を公表すると決めてしまった以上、この戦いの指揮官は、せめて形式だけでも、伯爵位後継者が採らなければ、道理が通りません。故に、ここはワトホート様とトイバル様がそれぞれに兵を募り、騎士団の方々もどちらに協力するかをそれぞれに判断して、お二人で競って頂くのが筋では? 兵を集める人望もまた、爵位を継ぐにふさわしい人物を決める上での重要な要素かと」

 つまり、実質的には「長男派」と「次男派」でそれぞれに軍を率いて競い合う、という形の「妥協案」である。無論、これは一見すると「妥協案」ではあるが、グレンとしては最終的にこの結論に持っていくつもりだったので、自分に代わってその方針を提示してくれたファルクに内心感謝する。
 だが、それに対して今度は、中立派のイアンから異論が提示される。

「しかし、現実問題として、指揮系統を分けるのはどう考えても効率が悪いです。もし、敵が本当に伝説の大毒龍ヴァレフスなら、全軍で結集して戦わなければ勝てる筈がないでしょう。爵位継承も重要な問題だが、それ以前にまず、着実に混沌を倒せる方法を優先すべきでは?」

 確かに、現実的に考えればそれが正論であるように見える。しかし、もう一人の中立派であるオルガからは、全く逆の方向からの「現実論」が提示された。

「イアン様のご忠告はおっしゃる通りではありますが、形だけ結集した体裁をとっても、その内部が分裂した状態では、かえって混乱する事態にもなりかねません。私は新参者故、騎士団の内情に関して詳しいことは存じ上げませぬが、討伐隊内で不和を招く可能性があるなら、最初から別行動にした方が良いかもしれません」

 先刻の決議の際と同様、ここでもオルガは「男爵間の対立」を視野に入れた上での戦略を提示してきた。しかも、今回は先刻よりも言葉遣いがストレートである。

「オルガ殿には、我等はそこまで不仲に見えるのか。悲しいことだな」

 騎士団長であるケネスは苦笑いを浮かべながらそう口にするが、誰がどう見ても、オルガの懸念が的を射ていることは明らかであった。

「御無礼をお許し下さい。ただ、私は『魔法師』であると同時に『軍師』でもあります。軍師とは、常に最悪の可能性を考慮に入れて発言する、無神経で無作法な生き物だとご理解頂ければ幸いです」

 開き直ってそう言ってのけたオルガに対して、ケネスは内心で舌打ちする。実際のところ、長男派と次男派で合同軍を編成したところで、足並みが乱れることはケネスにも分かっている。故に、彼としては騎士団長の権限で、次男派の者達を中心に討伐隊を編成し、グレンやファルクには「留守居役」を命じることで、実質的に長男派を(ワトホート本人とも切り離した上で)この計画から排除する思惑であった。しかし、ここで「分隊案」が採用されると、その思惑が崩れてしまう。
 現状において、グレン、ファルク、オルガが「分隊案」を推し、ケネスの「一隊案」に賛同しているのはガスコインとイアン、という状況である。ここでケネスは、ここまでずっと黙っている「もう一人の魔法師」に目を向けた。

「インディゴ殿は、どうお考えかな?」

 ケネスとしては、先刻の決議の際に自分の意見に賛同したインディゴが、ここでも(サーシャへの薬提供のために)自分の案に賛同することを期待していた。しかし、それに対してインディゴは、短く答える。

「形だけまとまっても、結果は同じでしょう」

 そう言って、彼は分隊案への賛同を表明する。「サーシャの病状への危惧」と「トイバルへの個人的嫌悪感」という、二つの相反する心情をあえてどちらも脇に置いた上で、テイタニアの領主の契約魔法師として、一番確実に「巨大な黒い龍のような何か」を浄化するための選択肢を考えた場合、最初から分隊として行動する方が適切、という結論に至ったのである。
 ケネスは一瞬、顔を歪めながらも、その意見を踏まえた上で改めて決議をおこなった結果、「分隊案」がグレン、ファルク、オルガ、インディゴの賛成で可決される。「最悪の可能性」を回避出来たグレンが安堵した表情を浮かべる一方で、今度はケネスが不服そうな気持ちを抑えつつ、改めて男爵達に問いかける。

「では、各自がどの立場で参戦されるのか、その御意志をこの場で表明して頂こうか?」

 そう、これが最大の問題なのである。当然、グレンとファルクはワトホート、ケネスとガスコインはトイバルの指揮下に入ることを宣言するが、それに対して、中立派の面々はどうするつもりなのか。

「申し訳ございませんが、我がオディールはパルトーク湖からは極めて遠い上に、対アントリアの最前線に位置しております故、今回の討伐隊に派兵出来るだけの余力はありません。どうかご理解下さい」

 オルガは早々とそう宣言する。これについては、さすがに他の面々も異論を挟む余地はない。爵位継承争いや、得体の知れない魔物の討伐以前の問題として、オディールを中心とする長城線の守りが崩壊すれば、ヴァレフールそのものが崩壊しかねないのである。
 一方、神聖トランガーヌやグリースの出現により、現在は実質的に休戦状態となっている北西部の国境近くに位置するクーンの領主であるイアンは、討伐隊への協力は申し出ながらも、どちらの立場にも組しないことを宣言した。

「私は、既にテイタニアに到着していてる我が妻ヴェラと共に、街の人々を守りつつ、後方からの支援に専念させて頂きたいと考えています」

 今の状況において、敵は火山島に現れた「ヴァレフスのような何か」だけとは限らない以上、火山島への突入隊とは別に、予備兵力も確かに必要である。「兄達の争いには関わらない」とヴェラが宣言していることもあり、イアンとしてはこれが最良の「妥協策」であった。

「では、テイタニアはどちらに協力されるのかな?」

 ケネスからそう問われたインディゴは、彼の中での「領主様(ユーフィー)ならばどう答えるか」と思案を廻らせつつ、こう答える。

「我々としても、テイタニアの民を守ることが最優先ですので、イアン殿と共に後方支援を中心に協力させて頂きたい。無論、その前段階で、可能な限りの調査は進めておきますし、湖までの案内、および火山島までの船の手配についても、任せて頂いて結構です」

 つまり、可能な限りの協力は尽くすものの、最終的な討伐隊には加わらない、という方針である。そもそも現実問題として、ここまでの二つの議題とは異なり、これは露骨に「継承権争いにおける立場」を明確化することを求める質問である以上、ユーフィー本人の意思が確認出来ない状態で、インディゴが自身の独断で「どちらに協力する」と明言出来ないということは、この場にいる者達も薄々察していた。

「分かった。だが、戦場は状況によって大きく変化する。その時々に合わせて、臨機応変に対応してくれて構わない。ユーフィー殿ともよく相談した上で、『最適の道』を選んでくれることを期待しよう」

 ケネスはそう言うと、最後までインディゴに対して「鋭い視線」を向けながら、騎士団会議の閉会を宣言する。こうして、当初の想定以上の「厄介事」を抱え込むことになったインディゴの孤独な戦いは、ひとまず無事に幕を閉じたのである。

3.1. 支援と調査

 一方、その頃、テイタニアには、イアンの言っていた通り、彼の妻であるヴェラ(下図)が、街の復興のための多くの支援物資と人足を伴って訪れていた。


「他にも何か必要なものがあれば、何なりと言ってくれ。もしこの地に危険な投影体が出現するなら、我等も全力で戦う」

 彼女達の来訪に街の人々は沸き立ち、街を代表して、ユーフィーも深々と礼を言う。

「お心遣い、感謝致します、ヴェラ・シュペルター様」

 そう言われたヴェラは、旧姓の「インサルンド」ではなく、現夫の姓である「シュペルター」で呼んでもらえたことが嬉しかったようで、ほのかに笑みを浮かべながら、全力での協力を約束する。
 一方、そんな彼女を、遠方から激しく睨みつける少女がいた。

(四方八方に色目を使うことに長けているようで……)

 そんな言葉を必死で飲み込みながら歯ぎしりするハーミアの脇には「地雷」が抱えられていた。これは、地球人である彼女の「想像力」が「ヴェラへの殺意」と結びつくことによって出現した投影兵器である。とはいえ、これは地中に設置して、相手がその上を通ることによって発動する武器である以上、一歩間違えば関係のない人々が命を落としてしまう可能性があるため、そう気軽に使えるような代物ではなかった。いかにヴェラへの嫉妬心に取り憑かれていようとも、そこで自制するだけの理性が残っていたのは、ハーミアの心がまだ「イアンの本命はあくまでも自分」という妄想に支配されていたからであろう。
 こうして、一人の少女が「妄想によって支えられた理性」によって、「溢れ出る殺意」を必死に抑えていることなど知る由もないユーフィーは、インディゴ不在の状態ではあったが、ひとまず街の警護はヴェラ達に任せた上で、ハーミアとアレスを連れて、森の現状の調査を始めることを決意する。本来なら、「街の警護」こそ自分達が担うべき責務なのであるが、現状において、より危険性が高い任務は「森の調査」の方であり、この点に関しては、街の近辺の森に関する「地の利」があるテイタニアの者が中心におこなうべきというのが、彼女の判断であった。
 そして、彼女達が実際に森の中に入って調査を開始すると、まず、ハーミアが「これまで見たことのない花」を発見する。ハーミアが立ち止まってその花を凝視していると、先に進もうとしていたユーフィーは、彼女に声をかける。

「どうしたのですか、ハーミア?」
「いえ、領主様、実はちょっと、気になる花がありまして……」

 それは、ハーミアも、ユーフィーも、そしてアレスも見たことがない奇妙な形状の花であった。しかもそれは、数日前にハーミアがジェームスの鞄の中から感じ取った「混沌の気配」と同じ雰囲気を醸し出していたのである。
 この花から発生する不気味なオーラが気になった彼女達は、ひとまず「サンプル」としてその花を一輪摘んだ上で、森の奥地へと足を踏み入れて行く。すると、そこに一人の「奇妙な姿をした少女」の姿を発見する。アレス以外にとっては初対面であったが、ユーフィーには、その風貌から、直感的にそれが誰なのかという目星はついていた。

3.2. 「魔物」の正体

「アレス、あなたが見た魔法師というのは、この方ですか?」
「はい、そうです、その人です」

 そんな二人のやりとりが聞こえたのか、二人に指をさされたその少女も、ユーフィー達の存在に気付いたようである。チラリと視線をユーフィー達に向けると、その少女よりも先に、ユーフィーの方から彼女に向かって話しかけた。

「そこのお方、旅の魔法師かとお見受けします」
「……まぁ、そうだな」
「私、テイタニアの領主のユーフィー・リルクロートともうします」

 ユーフィーが礼を尽くしてそう挨拶したのに対し、この少女は(この世界における支配者階級である)「君主」の彼女に対しても、相変わらず「上から目線」で答える。

「おぉ、ようやく領主殿のお出ましか。とりあえず、私の忠告を聞いてきちんと堤防を作ったようで、被害は最小限で済んだようだな」
「そのことについて、お話がございます」
「ほう?」
「あなたは、我が契約魔法師インディゴ、そして我が配下のアレスと事前に接触し、その情報を伝えて下さったようですが、なぜそうして頂けたのですか? 無論、その情報のおかげで、我が街は被害を最小限に留めることが出来たので、感謝しているのですが……」

 ユーフィーとしては、まずこの「得体の知れない少女」の正体と目的が気になる以上、遠回しにそれを探ろうと考えていた。しかし、それに対して彼女は「面倒くさい返答」で切り返す。

「なぜだと思う?」

 一瞬、言葉に詰まったユーフィーに対して、更に彼女は問い掛ける。

「お主の目には、私は何者に見える?」

 相手が、どんな答えを求めているのかは分からない。ならばここは、小細工を弄せず、素直に返答するのが正解であろうと考えたユーフィーは、率直に自分の思うところを伝える。

「私が期待している答えとしては、『戦う力を持たない民が洪水に巻き込まれるのを見ていられなかった、善意の魔法師』であると思っています」
「……『善意の魔法師』か。まぁ、間違いではないな。少なくとも今の私に関しては」

 そんな二人の「面倒臭いやりとり」を見ていたハーミアが、ここで横から口を出す。

「そうやって、まどろっこしい逆質問をするということは、あなたにとっても『欲しい答え』がある筈です。違いますか?」

 突然そう言われた魔法少女は、やや苦笑しながらも、そのストレートな物言いが気に入ったようで、ハーミアに対して本音で語り始める。

「まぁ、そうだな。だが、私が誰かということよりも、むしろお前達が知りたいのは……」
「どうすればこの事態を止めらるか、です」

 ハーミアがそう言うと、その反応を予想していた彼女はニヤリと笑ってそれに答える意思を示す。

「まず、最初に言うべきことを言っておこう。あの火山島の奥に眠っていた魔物の名は『マルカート』だ」

 「マルカート」の名は、ブレトランド人であれば大抵の者は知っている。それは、四百年前に「英雄王エルムンド」および「名を伝えられていない一人の魔法師」と共にこの地の混沌を封印した「七人の騎士」の一人として伝わっている女騎士(紅一点)の名である。大昔の伝承であるが故にその真偽は定かではないが、一説によれば、彼女は英雄王エルムンドの妻でもあったとも言われている。

「マルカートというと、あの英雄王の七騎士の……」
「そうだ。まぁ、説明するとややこしいことになるんだが、英雄王エルムンド様の七騎士は皆、今はあのような『化け物』の姿となってしまっている。そうなった原因は私にもあるというか、ほぼ全て私のせいなんだがな……」

 またしても、サラッと「とんでもない事実」を口にした彼女であったが、そのことに対して周囲が口を挟む前に、彼女は「本題」に話を戻す。

「そんなことよりも重要な問題として、まず、今のあの姿となっているマルカートは、まともに戦っても勝つのはまず無理だ。彼女を力尽くで止めることが出来るとしたら、他の七騎士の誰かだろうな」

 突如として神話・伝承レベルの話を「今も続いている現象」として語る彼女の話に呆気に取られながらも、ユーフィー達は彼女の話に耳を傾ける。この少女が言っていることが、真実なのか、ただの世迷言なのかは、ひとまず最後まで話を聞いてから判断すれば良い。おそらく、三人ともそんな心境だったのであろう。
 彼女の説明によると、英雄王の配下の七騎士達は、いずれも本来は「聖印を持つ騎士」であったが、混沌との戦いの過程で「巨大すぎる混沌核」に触れてしまったことで、その聖印を「混沌核」に書き換えられ、その身を「異界の化け物(投影体)」の姿に変えられてしまったらしい。だが、その状況においても、彼等は理性を失わなかった。それは、彼等が騎士出会った時にエルムンドとの間で築いていた強固な「絆」が、「投影体」の姿となった後も維持されていたからであるという(いわばそれは「従属聖印」が「従属混沌核」へと変わったような状態であったとも言える)。
 しかし、やがてエルムンドが大毒龍ヴァレフスとの戦いで受けた毒が原因で死期を覚った時、彼等は己の自我が崩壊するのを恐れて、このブレトランドの各地に自らの身を封印したという。いつの日か、エルムンドに匹敵する君主が現れた時に、新たな「主」としてその者のために戦う日がくることを信じて。

「ただ、その中でマルカートだけは、少々他の者達とは異なる事情があった。彼女は『ヴァレフスの欠片』と共に、この地の湖の底に、『眠らない状態』のまま封印されたのだ」

 この少女曰く、「ヴァレフス」とは、巨大な単体の魔物であると同時に、いくつもの混沌核によって形成された複合体でもあるという。そして、エルムンドによって「単体としてのヴァレフス」は倒されたものの、その「欠片」はこの小大陸の各地に四散してしまったらしい。その中でも最大の欠片が、パルトーク湖の湖底火山の中に埋まっていることを察したマルカートは、自らがその内部に入った上で、入口となる「火口」を封印した。そして、その封印された火山の奥地で、「ヴァレフスの欠片」との「終わりなき戦い」に身を投じ続けることを決意したのだという。
 彼女の身は投影体である以上、投影体を倒して、その混沌核を吸収することは出来る。だが、それを続けていけば、いずれ彼女の『人としての理性』は完全に崩壊する。だから、彼女はその封印された『ヴァレフスの欠片』が実体化した時に、それを力尽くで倒すことは出来ても、その根源である混沌核を吸収することは出来ず、いずれまた再び新たな投影体が出現してしまう。故に、そのように次々と現れる「欠片」達が封印を食い破るほどに成長する前に倒す、という行為を永遠に繰り返すことしか出来なかったのである。

「もう一つの方法として、エルムンド様以外の者と契約を結ぶことで、その『新たな主』と共に混沌と戦うという選択肢もあったんだがな。どうやら彼女は、エルムンド様以外の者とは、あまり主従契約を結びたいとは思っていなかったらしい」

 だが、それでもいずれ、「どうしても自分だけでは倒しきれない敵」が現れた時のために、彼女は当時のテイタニアの領主に、「いざという時には、自分の契約相手になってほしい」という旨を告げ、その約束を子々孫々と受け継いでいくことを約束していたのだという。

「その『契約の証』として彼女が差し出したのが、指輪だ」

 そう言って彼女は、懐から「見たことがない金属」で作られた指輪を取り出す。

「これと同じ形をした『エルムンド様から賜ったオリハルコンの指輪』こそが、マルカートの『主』となる証なのだ」

 「オリハルコン」とは、この世界のごく一部で伝わる伝説の金属の名であるが、その存在を知っているのはごく一部の魔法師達くらいであり、ユーフィー達にとっては全く初耳である。だが、現状において、そのオリハルコンなる金属がどのような物質なのかは、彼女達にとってはどうでも良い話であった。
 そして、歴代のこの地の領主がなんらかの理由で動かしていない限り、その指輪は今、この森の中にある筈だと彼女は言う。それは、この森の中のどこかにある「普通の木」の形をしたアーティファクト(人造物)の中に封印されているらしい。そして、アーティファクトが設置されている場所についても、歴代の領主を通じて伝えられている筈だったのだが、どうやらそれが途絶えてしまっているのが現状のようである。

「まぁ、そのアーティファクトを作ったのは私なんだが……、困ったことに、私もその場所を覚えてはいないのだ。さすがに、四百年も前の話だからな。記憶が曖昧になるのも仕方がないだろう」

 彼女は、申し訳なさそうな表情を浮かべながらも、どこか開き直った口調でそう告げる。この時点で、もし仮にここまでの話が全て本当だと仮定すると、この少女の正体についてもユーフィーはおおよそ見当はついていたのであるが、今の時点でそれを口にしても意味がないと思った彼女は、その点についてはひとまず触れないまま、状況を整理する。
 まず、ユーフィーの夢の中に現れた女性は、おそらくそのマルカート(火口に眠る魔物)の精神体であろう。その上で、彼女の封印を解くために必要な指輪の在り処は、父と兄の相次ぐ戦死によって、現当主のユーフィーに伝わらないまま、途絶えてしまった。だとすると、彼女と契約してその力を制御するためには、まずその指輪を探す必要がある、ということになる。だが、この広大な森林地帯の中から「普通の木を模して作られたアーティファクト」を見つけるというのは、考えただけでも気が遠くなるような難題である。

「それに、仮に指輪が見つかったとしても、もう一つ問題がある。おそらく今の彼女は、すでに暴走状態となっている。新たな主との契約が不可能と判断し、『ヴァレフスの欠片』を倒す力を得るために、周囲の混沌核を吸収してしまったのだろう。そして我を失った彼女の有り余るエネルギーが爆発した結果が、火口の封印は破られてしまった。その副作用が、あの大地震だ。そして、既に暴走状態になってしまった彼女を、指輪の力で制御出来るかどうかは、やってみないと分からない」

 だが、それでも今はその指輪以外に、彼女を止める方法は見つからない。今はまだ火山島の中にいる彼女であるが、おそらくそれは、暴走しながらも彼女の中に残った僅かな理性が、その身を押さえ込んでいる状態であろうというのが、この魔法少女の見解である。しかし、それもあまり長くは続かないだろうと彼女は考えているらしい。
 ひとまず今は、この少女の言うことを信じて、その「木の形をしたアーティファクト」を探すしかないと判断したユーフィーは、その旨をハーミアとアレスにも伝え、そしてその魔法少女の「たしか、この辺りだったと思う」という微かな記憶を頼りにこの地を探し続けることになる。
 しかし、結局、彼女達は丸二日かけてもその「木」を見つけられないまま、やがてインディゴとサーシャが「面倒な知らせ」と共にテイタニアへと帰還することになるのであった。

3.3. 合流と困惑

 テイタニアに帰還したインディゴから一通りの事情を聞いたユーフィー達は、同じ様に自分達の得た情報についてもインディゴに伝える。そしてお互いに、「非常に厄介な状態」になりつつあることを察した彼女達は、ひとまずインディゴと共に、討伐軍が到着するまで「指輪(が封印されている木型のアーティファクト)」の捜索を続行するが、それでもやはり、なかなか見つけることは出来ない。
 その捜索作業の過程で、ユーフィー達はふと、ハーミアが見つけた「謎の花」のことを思い出し、魔法師であるインディゴならば分かるかもしれないと思って彼に見せてみたものの、どうやら彼は植物方面の知識は疎いようで、さっぱり見当がつかなかった。そんな中、そのまま森の探索を続けていると、彼等と同じようにアーティファクトを探して散策していた「あの少女」と再び遭遇する。

「おぉ、ようやく、そこのヘッポコ魔法師も合流したか」

 彼女にそう言われると、(苦手分野とはいえ、「混沌の産物」に関する知識不足を露呈してしまった直後である以上)インディゴは何も言い返せない。

「あなたから見てヘッポコじゃない魔法師が、この世界に何人いるのですか……」

 そんな彼の内心を気遣ってか、既にこの魔法師の「正体」について目星のついているユーフィーが、半ば呆れたようにそう呟くと、彼女は微笑を浮かべながら答える。

「いやいや、グライフあたりの実力は、私もちゃんと認めているぞ」

 おそらく、彼女が言っている「グライフ」とは、エーラムでも屈指の実力を持つエージェントと言われる「グライフ・アルティナス」のことであろうが、逆に言えば、そのレベルの魔法師を引き合いに出さねばならないほど、彼女の中の評価基準は厳しいらしい。
 そんな彼女の言い分は適当に聞き流した上で、ユーフィーはこの機会に彼女の知恵を借りるべきと判断し、「例の花」のサンプルを彼女に見せる。

「あぁ、これは典型的な、混沌の力によって生み出された徒花というか、『毒花』だな」

 そう言って彼女がその使用法を説明すると、アレスには、それがアルフリードから聞いていた毒の原料となる花であるということが分かる(無論、分かったところで、そのことを話すつもりは毛頭ない)。本来ならば、この地では滅多に採れない筈なのだが、おそらく混沌濃度の高まりによって生み出されてしまったのであろう、というのが、その魔法少女の見解であった。

「しかも、この花から生み出される毒は遅効性で、身体に取り込まれてもすぐには効果を発揮しない。だから、毒見役がいるような相手に対しても有効だぞ」
「なるほど。ぜひ、その詳しい使用法について、もう少し教えて頂けませんか?」

 楽しそうに語る魔法少女に対して、ハーミアは目を輝かせながらそう言って食いついてきた。彼女が「誰」のためにその毒薬を用いようとしているのかまで知る人物はこの場にはいなかったが、魔法少女はそんな彼女の目を見ながら、「何か」を感じ取ったようである。

「お主、若い頃の私とよく似た目をしているな……」
「とりあえず、見かけたら摘んでおきますね♪」

 そんなやりとりを交わしつつ、彼等はそのまま森の捜索を続けるが、相変わらず、「それらしき木」は見つけられなかった。ちなみに、その捜査の過程で、この地を訪れた冒険者の者達からも話を聞いてみたものの、彼等の間でも特にそのような「奇妙な木」の噂は広がってはいないようである。
 ただ、その一方で、一つ気がかりな情報が彼等の耳に入る。どうやら、数日前の時点で、この森の近辺に「パンドラ」の者達が出入りしていたらしい、という噂が出回っているのである。パンドラとは、エーラムに敵対する闇魔法師およびその協力者達の集団であり、その目標はそれぞれであるが、混沌を拡大することを目的に活動する危険思想家達、というのが一般的な認識である。もしかしたら、今回の地震や洪水は彼等が引き起こしたのではないか、などと語る者達もいたが、あくまでも噂レベルの話で、今ひとつ信憑性に欠ける内容であったため、その方面に対しては、ユーフィー達はそれ以上調べようとはしなかった。


 この後、通日にわたって彼女達の手で捜索活動が続けられるものの、特に成果が得られないまま、やがてワトホート(下図左)とトイバル(下図右)に率いられた二つの討伐軍と、イアンに率いられたクーンからの後方支援部隊が、テイタニアに到着することになる。いずれも、大軍を率いての到着であり、その兵士達全員を収容出来るほどの宿がテイタニアにある筈もなく、大半の兵士達は街の外にテントを張って仮宿舎としていた。


 とはいえ、さすがにワトホートとトイバルにまで野宿させる訳にもいかないので(特にワトホートに関しては、その病弱な体質を考えれば、野営など論外である)、彼等に関しては、ユーフィーが街の中で最も豪華な宿を手配した上で、彼女達四人が、この二人のとその護衛の兵達を、直接その宿へと案内することになった。すると、その過程で、街の復興支援を続けていたヴェラと遭遇する。

「なぜ、お前がここにいる? 継承権は放棄したのではなかったのか?」

 トイバルが訝しげな視線をヴェラに向けながらそう言い放つと、ヴェラは毅然とした態度で反論する。

「私はただ、このヴァレフールの民を助けるためにここにいるだけです。兄上達の邪魔をするつもりはありません」

 そう答えた彼女に対して、トイバルは「まぁ、口ではどうとでも言えるわな」と冷ややかな反応を示しつつ、突然、ユーフィーと共に同行していたインディゴに対して、こう問いかける。

「ところで、混沌に関することであれば、一番詳しいのは魔法師だろう。そこのお前、この地に現れたヴァレフスらしき魔物ってのは、どれくらい強いんだ?」

 唐突にそう問われたインディゴであるが、実際のところ、まだ対峙した訳でもない以上、その強さについては明言出来ない。だが、あの魔法少女は「まともに軍を動かしても勝てる相手ではない」と言っていた以上、彼はそのことを(情報源と根拠については語らぬまま)そのまま伝えると、トイバルは静かにこう伝えた。

「お前、俺の契約魔法師でなくて良かったな。俺の部下でそんな弱気なことを言う奴がいたら、一瞬で首と胴が離れているぞ」

 彼が、インディゴのことを「かつて自分が殺した魔法師の同門の後輩」であることを知った上で言っているのかどうかは分からない。だが、この瞬間、インディゴは心の中で確信した。

(この馬鹿は、放っておいても勝手に死んでくれるだろう)

 ユーフィーやインディゴの立場としては、彼等が持っている全ての情報をトイバル達に提示することで、無謀な突撃をやめさせることも出来たのだが、現状においては未だに「不確かな情報」である以上、それをそのまま説明することには抵抗がある(そもそも、説明したとしても、信じてもらえる保証もない)。状況的に考えて、あの魔法少女が「パンドラ」の一員である可能性も否定は出来ない以上、ここで「得体のしれない者達からの情報提供」に基づいて行動していることを知られると、どちらの陣営からも、余計な勘繰りを引き起こしてしまうかもしれない。
 それ故に、明確な根拠を提示しないまま、その危険性を強調して説明するしか無かったのだが、それに対してトイバルがこう答えた時点で、インディゴの中では「これ以上、この馬鹿のために説明してやる義理はない」という結論に至っていた。
 そして、彼等が道端でそんな会話を交わしているところに、後方からイアンが現れた。

「おぉ、ユーフィー殿、実は軍議に関するお話が……」

 イアンがそう言って彼女に話しかけようとした次の瞬間、彼女の傍に「見知った少女」がいることに気付き、顔を硬直させる。

「イアンさん、どうなされました?」

 ユーフィーにそう問われた彼は、(「運命的な再会」に心をときめかせて頬を赤らめている)ハーミアから目をそらしつつ、しどろもどろに答える。

「えー、いや、その知人に似た者を見たような気がしなくもないというか……、あ、そうそう、騎士団長殿から、明日以降の作戦についての軍議を開きたいというお申し出がありまして……」
「分かりました。では今宵、私の館に集まって下さい」
「了解した。それでは、失礼する」

 イアンはそう告げると、その場にとどまっていたヴェラを連れて、すぐにユーフィー達の前から退散する。その様子が明らかにおかしいことはヴェラの目にも分かっていたが、それが何を意味しているのかについてまで、彼女が気付いているかどうかは分からない。
 一方、この一連の流れの中で、ワトホートは静かに周囲の者達を見守っていた。より正確に言えば、ここまでの長旅で既に彼は体調を崩しかけており、口出しする余力がなかったのである。そして、そのワトホートに対して並々ならぬ想いを抱いているアレスもまた、今はただ静かに目の前の「宿敵」の動向を凝視していたのであった。

3.4. 揺るがぬ想い

 そしてこの日の夜、指揮官達が集まって軍議が開かれたのであるが、結局、ユーフィー達は「指輪」の件については説明しなかった(出来なかった)こともあり、あまり具体的な方針についてはまとまらなかった。ひとまず当初の予定通り、ユーフィー率いるテイタニア軍は湖までは先導した上で、ワトホート軍とトイバル軍は、事前にユーフィー達が手配しておいた湖船に乗って、火山島へと突入する、という流れを確認する程度のことしか話せなかったのである。
 ちなみに、この会議の場には、その「二人の総大将」の一人であるワトホートの姿はなかった。グレン曰く「明日に備えて英気を養っている」とのことであるが、先刻までのワトホートが明らかに生気がない状態だったことはユーフィー達の目にも明らかであり、その意味でも「長男派」の方が、今一つ士気が上がらない状態にあることもまた、周囲の者達に伝わってしまっていた。
 こうして、この日の軍議があっさりと(あまり実りのないまま)終了し、客人達が一通り帰還すると、館に残ったユーフィーの側近達は、密かに明日以降の対策を立てる。そんな中、インディゴは一つ、重大なことをユーフィーに伝えていなかったことを思い出した。それは、サーシャに関して両陣営から提示されていた「薬」と「縁談」に関する提案の話である(ちなみに、サーシャはこの日の軍議には参加しておらず、この場にもいない)。
 妹の幸せを願うユーフィーとしては、この二つの提案を秤にかけるのは難しい。彼女が悩んでいると、横からハーミアが意見を申し出てきた。

「いいですか、領主様、第三者の横槍などなくとも、運命で繋がった男女は、必ず引き合う者です」

 何の根拠もなくハーミアはそう断言すると、それを踏まえた上で彼女はそのまま持論を語り始める。

「私の正直な感想を言わせて頂きますと、両陣営からの申し出は、サーシャ様にとって大変喜ばしい内容ではありますが、そのことを念頭に入れて方針を決めるのではなく、ここはまず、その提案はひとまず横に置いた上で、テイタニアのことを第一に考えるべきかと。その方が、サーシャ様もお喜びになるのではないかと思います」
「……そうですね。確かに、それが一番、筋が通った考えだと思います」

 そう言って、ユーフィーも納得する。実際、「サーシャの幸せ」を優先する形で街の方針を決めたと彼女が知ったら、間違いなく彼女は心を痛めるであろう。そのことは、姉であるユーフィーニハよく分かるし、ユーフィーが逆の立場だったとしても、同じような感慨を抱いていた筈である。
 そして、夜も更けてきたところで彼女達は「当初の予定通り、後方支援に徹しつつ、指輪の捜索を続ける」という方針を確認した上で解散する。今の彼女達としては、まず、自分達がやるべきことに専念するしかない、というのが共通見解であった。
 そんな中、ハーミアが自宅へと戻るために館の外に出ると、そこには彼女を待っていた一人の男がいた。イアンである。

「お前……、いつからこの街に?」
「つい最近です。たまたまこの地に辿り着いた時に、ユーフィー様に気に入られまして」

 久しぶりにイアンと言葉を交わせる喜びを噛み締めながら、彼女は笑顔でそう答える。

「ヴェラには……、何か話したのか?」
「何のことです? 私と彼女は、特に何の関係も無いですし、何も言う必要はありませんよ」
「そ、そうだな……。じゃあ、お前がここにいるのは、あくまでお前自身がここにいたいからいるだけであって、その、私やヴェラに対して、特に何かをしようという訳ではないんだな?」
「どういう意味ですか?」
「いや、あの、私の杞憂なら、それでいいんだ」
「私が本当にいたい場所は、ここではないんですが……」

 その一言が、イアンの胸に痛々しく突き刺さる。彼女からイアンに向けられる熱い視線から、彼女の言わんとしていることは、すぐに彼に伝わったようである。

「『それ』を手繰り寄せるための仮の住まいとして、今はここにいると思ってください」
「わ、分かった。そうなんだな……」
「大丈夫です。心配しなくても、私もあなたと同じように、あなたのことしか見てませんから」

 少なくとも、「イアンが心配していること」がハーミアには全く伝わっていないということは、この時点ではっきりとイアンには分かった。そのあまりに純粋な瞳に対しては、もう彼が何を言っても通じないであろうことを、彼自身もようやく理解していたようである。

「分かった。とにかく、明日からまた、色々と大変なことになるだろうから、お互いに頑張ろう、この街のために、な」
「はい、あなたのために頑張ります!」

 そう言われて、イアンは引きつった笑顔を浮かべながら、その場から去っていく。すると、ハーミアの傍らに突然、どこからともなく別の人物が姿を現した。例の「謎の魔法少女(仮)」である。

「甲斐性のない男だのう。堂々と『どっちも欲しい』と言えば良いのに。最近は、そこら辺についての面倒くさい倫理観が蔓延っておるのか?」

 何をどこまで知っているのか分からないまま、突然現れて口出ししてきた彼女に対して、ハーミアは熱弁を振るって反論する。

「違うんです、魔法師様は勘違いしていらっしゃいます。あの方は、あの女に囚われているだけであって、両方欲しい訳ではないんです。ここは重要なところなんです。分かりますか?」
「……お主、昔の私よりも重症だな」

 彼女はそうボソッと呟きつつ、再び姿を消す。何のためにこの場に現れたのか、何が言いたかったのかは、ハーミアには分からない。ただ、なんとなく、偶然目にしてしまった若人達の恋模様に一言言いたくなっただけなのかもしれない。しかし、誰に何を言われようとも、ハーミアの中での「想い」が揺らぐことはない。そのことだけは彼女にも伝わったようである。

3.5. 爵位を継ぐ資格

 一方、その頃、ハーミアとは異なる出口から館の外に出て、自宅へと戻ろうとしていたアレスの目に、信じられない光景が映った。先刻の会議を欠席していた(彼の宿敵である)ワトホートが、たった一人で夜道を歩いていたのである。彼が見る限り、その周囲に護衛の姿は見えない。無論、いかに病弱といえども、ワトホートは聖印を宿した君主である。並の人間では、彼に傷を負わせることなど出来はしないだろう。だが、暗闇での戦いに長けたシャドウの邪紋使いにとっては、またとない「暗殺」の絶好の機会である。
 しかし、ここまで「整いすぎた状況」に直面すると、逆に警戒心を抱くのもまた、シャドウの本能である。それに何より、今、この状況で彼を殺せば、間違いなく翌朝には街が大混乱に陥ることは間違いない。ただでさえ、火山島の魔物という危機的状況にある現状において、それは望ましい事態とは言えなかった。
 こうして、アレスがこの状況の中で様々な葛藤に悩んでいると、ワトホートの方も彼の存在に気付いたようである。

「おや? 確か、ユーフィー殿の側近の方だったかな?」
「はい、そうです」

 アレスが率直にそう答えると、ワトホートは夜の明かりが灯るテイタニアの街並みを見渡しながら、呟くように語り始める。

「この街は美しいな。とても、災害が起きた直後とは思えない。まさに妖精女王テイタニアの名にふさわしい」

 淡々とそう語るワトホートに対して、湧き上がる殺意を抑えながらアレスは黙って聞いていると、不意に彼はアレスの方を向いて、こう問いかけてきた

「お主の領主殿は、私とトイバルの争いをどう思っていると思う?」
「そうですね……、今のところは、どちらに傾いても、私達はあの方に忠誠を誓う所存です」

 今一つ「答えになっていない答え」ではあるが、ワトホートはその返答になぜか満足したようで、そのまま語り続ける。

「そうだな。それが、臣下としては正しい道だろう。私とて、トイバルにもう少し思慮があれば、奴に伯爵位の座を譲っても構わんと思っていたんだがな……。どう見ても私の身体は、今のこの戦乱の世を生き抜くには向いていない。それを治すためにグレンは色々と手を尽くしてくれてはいるようだが……」

 どこまでが本心かは分からないが、とても「爵位継承争いの真っ只中にる人物」とは思えない発言である。更に言えば、アレスの中で想像していた「仇敵」としてのワトホートのイメージとも、今一つ合致しない。果たして、彼が本当に「本物のワトホート」なのか、と疑いたくなる程である。

「とはいえ、それでもトイバルにこの国を任せる訳にはいかん。まだヴェラであれば、譲ってやっても良いかとも考えていたんだが、あいつ自身にその気がないからな……」

 そこまで言った上で、またしても唐突に、彼は話題を変える。

「ところで、気のせいか、お主の体から、何か私の記憶の奥底に響くような『気配』や『匂い』を感じるのだが、以前にどこかで会ったことがあったかな?」
「いえ、お会いしたことはございません」

 嘘ではない。アレス自身、「あの事件」の折にはワトホートと直接遭遇した訳ではない。無論、その後になって遠方から彼の姿を確認したことは何度もあったが、明確に「会った」と言えるような状況になったことは一度もないのである。

「そうか。なぜかお主と話していると、何か嫌なことを思い出すような、そんな気分になっていてな……。いや、すまない。失礼なことを言った」
「いえ、大丈夫です。一つ、伺っても良いですか?」
「あぁ、構わない。何だ?」
「昔、『伝染病に侵された村』を焼き討ちにされたことを覚えていらっしゃいますか?」

 そう問いかけると、ワトホートは重い表情を浮かべながら、静かに答える。

「忘れる筈がない……。そうだな、あの時のことを思い返してみると、やはり、ヴェラにこの国を任せる訳にはいかんな」
「どういうことですか?」

 ここで唐突に「継承権争い」の話に戻ったことにアレスが困惑している中、ワトホートはそのまま真剣な持論を語る。

「ヴェラでは、おそらくあの決断は下せない。より多くの民を救うために、より少ない犠牲で済ませるということを決断出来るという者でなければ、国の舵取りは任せられん」
「では、あの犠牲は正当だった、と?」
「正当だったとは言わん。だが、必要だった。正当だったと主張することも出来るが、その私を恨む者がいるのもまた、正当な話だ」

 それがワトホートの君主論である。君主として、領主として、王として、全体を救うために、自ら汚名を背負ってでも一部の者達を見殺しにする。その決断を下せない者には、君主たる資格はない。それが、彼の確固たる信念であった。

「なるほど、いい意見が聞けました。ありがとうございます」

 様々な想いが去来する中、静かにアレスがそう呟くと、次の瞬間、ワトホートの護衛の兵達が彼等の前に現れる。

「ワトホート様、お一人で出かけられては危険です!」
「あぁ、すまない。どうしても、一人で夜風に当たりたくなってな」

 そう言いながら、ワトホートは護衛の兵達に連れられて、その場から去っていく。複雑な心境の中、アレスはただ黙って、湧き上がる殺意を必死で抑えながら、仇敵を討つ機会を黙って見逃すことを余儀なくされたのであった。

3.6. 進軍開始

 翌日、ユーフィー達テイタニア軍の先導に従って、ワトホート軍とトイバル軍が、森の奥地へと進軍していく。心なしか、ワトホートの表情は昨日に比べると生気が戻っているようで、やや意気消沈気味であったグレンやファルクの部下達も、堂々と指揮を採る彼の姿を見て、士気を取り戻しつつあった。
 そして、そのあまりの大軍に圧倒されたせいか、湖に到着するまでの間に、森の投影体とは殆ど遭遇することもなく、着実に歩を進めていき、やがて彼等が湖付近まで到着したところで、ユーフィー達テイタニア軍はお役御免となる。ここから先は、討伐隊の指揮はそれぞれの「総大将」に任せた上で、彼女達は指輪捜索を再開する予定であった。
 だが、討伐隊と彼女達が分かれた直後、突如として彼女達の耳元に、聞きなれない不思議な音色が響く。その音の源は、ハーミアの着ていた服の内ポケットからであり、彼女自身、その音には確かに聞き覚えがあった。それは、彼女が地球にいた頃に使っていた「携帯電話」の着信音だったのである。この世界に来てからは、もっぱら写真撮影やメモの書き残し程度にしか使っていなかったこの端末が突如として鳴り響いたことに驚いた彼女は、思わず反射的に通話ボタンを押して、耳元に当てて「はい」と答える。すると、その奥から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「よかった! この世界でも通じるんだな!」

 ジェームスの声である。電波網がある訳でもないのに、なぜ通じたのかは分からない。だが、ハーミアと同様にこの世界に投影され、そして彼女と同じように、愛用した携帯電話をそのまま持っていたジェームスが、ダメ元で彼女にかけてみた電話が、現にこうして繋がったのである。これはもう「混沌の力」としか説明の仕様がないレベルの「奇跡」であった。
 そして、電話の先から聞こえてきたジェームスの声は、どこか焦燥した様子で、しかもその背後から、得体の知れない生き物の声が聞こえてきた。

「どうしたんですか? ジェームスさん?」
「今、森の中にいるんだが、巨大なトカゲに襲われているんだ! 頼む、助けに来てくれ! さすがに4対1は無理だ!」

 その声は、ハーミア(の携帯)の近くにいたユーフィー達にも聞こえていた。彼女達には、この「携帯電話」なるものの構造はよく分からなかったが、ハーミアの知人が襲われていると聞いて、ユーフィーは即座にその場へと急行することを決意する。ただ、電話の先から聞こえてきた情報から察するに、直線距離でその場所へと移動するには、部隊を率いて進軍するのは難しそうだと判断した彼女は、部隊をそれぞれの副官達に任せた上で、ユーフィー、ハーミア、アレス、インディゴの4人のみで現地へと向かうことになる。
 だが、彼等がその現場に到着した時には、既にジェームスは瀕死の重傷を負い、その場に倒れていた。しかし、彼を襲った巨大なトカゲ達は、彼にとどめを刺す前に、目の前に現れたユーフィー達に対して襲いかかろうとする。
 それに対して、まず先手を打ってインディゴがフォースグリップで手前の一匹を握り潰そうとするが、十分な手応えをその掌に感じたにもかかわらず、屠るには至らない。同じように、ユーフィーとアレスもまたそれぞれに手前の巨大トカゲに斬りかかるものの、致命傷には至らない(どうやら、先日の巨大蛙に比べると、かなり頑丈な体質のようである)。それに対して、今度は巨大トカゲの方からもその鋭い歯と巨大な尾を用いた反撃が繰り出されるが、彼等の真正面に立ちはだかったユーフィーが、巧みな剣技でその攻撃を受け流し続ける。
 こうして、互いに決め手がないまま持久戦へと突入するかと思われたその時、彼女達の耳に、聞き覚えのある声が響き渡る。

「その場を離れろ!」

 それは間違いなく、「あの少女」の声である。その声を聞いた瞬間、その意図を察したユーフィーが倒れているジェームスを背負って全力でその場を脱し、インディゴとアレスも巨大トカゲとの距離をとったその次の瞬間、密集していた巨大トカゲ達が、一瞬にして「消し炭」と化した。突然の出来事に、インディゴですらも、どんな魔法を使ったのか理解出来ない。もしかしたら、それは現代のエーラムには伝わっていない、失われた魔法の類いなのかもしれない。
 いずれにせよ、こうして彼等の目の前から魔物という脅威が消え去り、そして「あの少女」が現れた。

「助太刀、感謝致します。魔法師殿」
「うむ、まぁ、さすがにな。私もこれ以上、協力者を失いたくない」

 一方、瀕死状態だったジェームスは、ハーミアの持つ地球人としての治癒の力で、かろうじて息を吹き返す。あと一歩措置が遅ければ、おそらく帰らぬ人となっていたであろう。

「ふぅ、助かった……。恩にきるぞ、ハーミア」

 そう言って、彼は懐から「精神力を回復させる薬」を取り出す。

「そ、それは、ポーション? なぜ、流れの冒険者であるあなたが?」

 ユーフィーは驚いてそう口にする。ポーションとは元来、エーラムにおいてのみ生み出される魔法の薬であり、国家の庇護を受けている訳でもない限り、一介の冒険者が入手出来るような代物ではない。だが、そのポーションの容器の形状から、それがエーラム産の代物ではないことに気付いた者がいた。裏社会に通じていたアレスが、その正体を見破ったのである。

「そ、それは、パンドラ産の……、あ、いや、なんでもないです」

 アレスは思わずそう口にしてしまったが、状況的にそのことは黙っておいた方が良いかと思い、すぐに口をつぐむ。もっとも、その場にいた者達には既に聞こえてしまっていたが、ひとまずここは「聞かなかったこと」にした方が良い、と皆が感じていた。少なくとも、ジェームスが「パンドラの人間」であるという認識を共有してしまうと、彼を助けたこの行為自体の正当性が揺らいでしまう。特に、「人を殺さないこと」を信念に掲げるユーフィーとしては、その事実は「知らなかったことにしておいた方がいい事実」であった。この辺り、彼女は温厚ではあるものの、決して真正直な君主ではないようである。もしかしたらそれは「手品師」という「人を騙すこと」を副業(?)としていた時の感覚が残っているからなのかもしれない。
 ひとまず、インディゴとユーフィーは、そのジェームスによって手渡された「どこが作ったかよく分からないポーション」を用いて、精神的な疲労を回復させる。その上で、ユーフィーはジェームスから、一通りの話を聞こうとする。

「今、この森は危険だということは街の人々には通達を出した筈ですが、それでもあなたがここにいるのは、何の目的があってのことですか?」
「危険だからこそ、だよ。混沌濃度が上がっている今だからこそ、手に入る物もある。ただまぁ、さすがにそろそろ、俺一人で仕事をするには限界というか、潮時かもしれんな」

 どうやら、やはり彼は生粋の「冒険者」のようである。もっとも、パンドラ製のポーションを有していたという時点で、かなり危険な存在であることは間違いないようであるが。

「そういえば、この混沌濃度のせいかどうかは分からないが、さっき、妙な『木』を見つけたんだが、あれは何だったのかな……」

 つぶやくように彼がそう言うと、「例の少女」を含めたその場にいた全員が、その話に食いつく。

「ジェームスさん、その話、詳しく教えていただけませんか!?」

 いつになく真剣な表情で迫ってきたハーミアに驚きつつ、彼は見た通りの状況を説明する。曰く、その木は見た目は普通の樹木と変わらなかったのだが、ふと、もたれかかった瞬間、奇妙な感触があり、その表面を触りながら調べていると、突然、「合言葉を言え」という声が聞こえてきたという。「知能を持った木」としては、「トレント」と呼ばれる魔物が存在するという噂は聞いたことがあるが、話に聞くそれらとは明らかに異質の存在であったらしい。そして、不気味に思った彼は、天性の直感で「これは、触れてはならぬ代物だ」と感じたようで、すぐにその場を立ち去ったという。

「その場所まで、案内してもらえますか?」

 ハーミアにそう言われると、彼は言われるがままに、その地へと彼女達を連れていくのであった。

3.7. 護りの大樹

「おぉ、あれだ。確か、あの木だった筈」

 ジェームスがそう言って指差した先にあるのは、どう見ても「普通の木」である。しかし、それを見た魔法少女は、即座に反応する。

「うむ、間違いない。あれこそまさに、私が作ったアーティファクトだ」

 ようやく目標の場所にたどり着いた彼等であるが、ここでまた一つ、新たな問題が発生していた。

「ですが、先程の話にあった、合言葉というのは?」

 ユーフィーにそう問われると、少女は困った表情を浮かべながら答える。

「お主が知らんのであれば、私も分からん以上、どうしようもない。……力尽くで『壊す』しかないな」
「出来るのですか?」
「やれんことはない。まぁ、かなり手強いがな。私も手伝えば、なんとかなると思う」

 曰く、彼女がアーティファクトから繰り出される「攻撃」から全力でユーフィー達を守っている間に、彼等が破壊してくれれば良いらしい。ただし、かなり頑丈に作られているので、相当骨が折れるだろう、とのことである。それでも、他に方法はない以上、今はその方法に賭けてみるしかなかった。
 そして、その木を取り囲んで彼等が武器を構えると、アーティファクトはその「敵意」を察知し、彼等に対して何らかの攻撃を仕掛けようとするが、即座に後方から魔法少女によって放たれた謎の障壁によって、その一撃は防がれる。だが、魔法少女曰く、この攻撃を防ぐのは一度が限界であり、その次の攻撃は防げる保証はないという。
 そうなると、もはや一刻の猶予もないと感じたインディゴは、持てる全ての力を右手に込めて、一気に握り締める。すると、そのアーティファクトを覆っていた「何か」が壊れ、それとほぼ同時に、ユーフィーとアレスが全身全霊を込めた連撃を加えた結果、一瞬にして、そのアーティファクトはその場に崩れ落ちたのである。

「私の出番、無かったみたいですね。残念」

 少し離れた場所から彼等を支援しようとしていたハーミアが思わずそう呟く程の圧勝であった。実は彼女の力を以ってすれば、あと一撃、敵からの攻撃があったとしても、それを防ぐ手立てはあったのである。そして、どうやらそのことに気付いていたらしい魔法少女も、その傍らで呟く。

「ふむ、どうやら、お主達の力を見くびっていたようだ。これなら、私がいなくても大丈夫だったかな」

 特に、最初の一撃で敵の防衛機能の中核を破壊したインディゴに対しては、明らかに見る目が変わったようである。

「おい、そこの魔法師、ヘッポコは取り消してやろう。お主、名は何という?」
「インディゴ。インディゴ・クレセントだ」

 その名を聞くと、彼女は目を丸くして、今まで彼等に見せたことのない「喜びの表情」を浮かべる。

「ほーう、そうかそうかそうか、まだ残っておったのか、クレセントの家は。そうか、お主、そうだったんだな。うむ、なるほど」

 彼女が何を言いたいのかは分からないまま、一人悦に入っているのを横目に、ユーフィー達はその倒したアーティファクトの残骸の中から、「指輪」を発見する。それは確かに、あの魔法少女が持っていた指輪と同じ形状での代物であった。

3.8. 最後の手段

「さて、問題はこれで『彼女』を止められるか、だな」

 魔法少女は指輪を確認した上で、そう呟く。だが、その次の瞬間、この場にいる者達の耳に、おびただしい数の悲壮な断末魔の叫びが響き渡った。

「この声は、討伐隊の人達!?」

 ユーフィーがそう叫んでその声の出処を確認すると、それは明らかに湖の方角であった。これは一刻の猶予もないと判断した彼女達が全力で湖の方面に向かうと、そこでは「巨大な黒い魔物」が、湖から上半身を出す形で、一歩、また一歩とテイタニアの方角に向かって近付いているのが見える。その頭は、龍というよりもトカゲやイグアナに近く、背中には翼の代わりに謎の突起物が幾つも生えており、下半身は湖の中にあるために全貌は分からないが、二足歩行で歩いているように見えた。
 そして、ハーミアは、その怪物の姿に見覚えがあった。それは、彼女が地球にいた頃、大陸の反対側に位置する島国で作られた「映画」に登場する巨大な化け物にそっくりの形状だったのである。

「あ、あれは、ゴ……」

 そこまで言いかけたところで、彼女は口籠る。実は彼女は、この世界の真理に関わることについては口にしない、という信念の持ち主である。そして彼女には、この巨大な魔物の名を口にすることは、その信念に反する行為であるように思えたらしい。
 そして、その魔物が進む先に多くの兵達が倒れている中、たった一人、ハルバードを構えて仁王立ちしているトイバルの姿があった。その瞳は激しい闘志に満ちているが、既にその身体は相当に深い傷を負っているのが分かる。

「このような……、このような、トカゲの化け物ごときに、この俺がぁぁぁ!」

 そう言って、彼がそのハルバードを掲げて魔物に向かって突進していこうとしたその瞬間、魔物の口から謎の怪光線が放たれ、それを正面から直撃したトイバルは、その全身を激しい炎に焼かれながら、半ば灰塵と化してその場に崩れ落ちる。それはもはや人としての原型すら止めていないほどの、無残な姿であった。
 そんなトイバルの壮絶な最期を目の当たりにしたユーフィー達が絶句している中、その傍らに立つ少女は、静かな口調で「今の現実」を伝える。

「ダメだな。あの状態になってしまっては、指輪でマルカートの魂に訴えかけたとしても、最終的にはその指輪の持ち主も混沌に取り込まれてしまうだろう。あの状態の彼女を制御するには、最低でも侯爵以上の聖印が必要だ」

 この世界において「侯爵」級の聖印を持つ者など、そう何人もいる訳ではない。少なくともこのブレトランドにおける最大の聖印の持ち主は、このヴァレフールの主であるブラギスであるが、それでも「伯爵」止まりである。ブレトランドの全ての聖印を傘下に収めれば「侯爵」にも届くと言われているが、現状、それを達成出来る見込みのある人物は、少なくとも彼女達の周囲にはいない。

「だが、マルカートの動きを抑えるだけなら、他に手が無い訳でもない」

 そう言って、少女はユーフィーに視線を向ける。

「お主がこの指輪を使ってマルカートと魂を同調させた上で、その直後に私が魔法でお主を『休眠状態』にする。そうすれば、彼女もまた活動を停止する。まぁ、ただの時間稼ぎにしかならんがな」

 つまり、そうやってマルカートの動きを封じている間に、侯爵級の聖印の持ち主を捜して連れてくる、ということである。ただし、その場合、「休眠状態」となっているユーフィーは、何もすることが出来ない。

「無論、お主がテイタニアの領主の末裔だからと言って、この提案に乗る義務がある訳ではない」

 少女にそう言われたユーフィーは、様々に思案を巡らせながら、彼女に一つの問いかけをぶつけてみる。

「仮に私がそうせずに、彼女を放置した場合、テイタニアの街はどうなります?」
「一応、マルカートを止めるだけなら、他に選択肢がない訳ではない。たとえば、彼女と同じ力を持つ、他の『七騎士』の誰かを連れてきて、彼女を倒すということも出来なくはないが、一日や二日で実行できる話ではないし、その間におそらくテイタニアの周辺は壊滅的な被害を被ることになるだろうな」

 つまり、今、この場において瞬時にマルカートを止めるためには、この「休眠」策こそが最後の手段なのである。そうなると、もはやユーフィーとしては、この提案を断る理由はない。だが、彼女がここでその決意を表明しようとしたまさにその時、突然、後方から「別の女性」の声が聞こえてきた。

3.9. そして彼女はこの地に眠る

「その任務、私にやらせてもらいたい」

 そう言って現れたのは、ヴェラ・シュペルターである。どうやら彼女は、討伐隊の者達が血相を変えて撤退してきたのを受けて、(彼等に代わって魔物を食い止めるために)クーンの兵達を率いて代わりに前線に出てきたところで、偶然、今の話を聞いてしまったらしい。

「テイタニアの領主殿がいなくなっては、この街は困るだろう。私は今、どこの領主でもない。私がいなくても、イアンがいればクーンの平和と安全は維持出来る」
「お気持ちはありがたいのですが、テイタニアの領主の血を引く者でなければ、この指輪の力を使うことは出来ない、と聞いております」

 そう言ってユーフィーは拒絶しようとするが、それでもヴェラには引く気がなさそうである。

「それは、やってみないと分からんだろう。それに、これは私の直感なのだが、私とあの魔物は、どこかで魂が通じ合っているような感覚を覚えるんだ。それは、この街に来た時から、ずっと感じていた」

 何の根拠もないままヴェラがそう言うと、それに対して魔法少女は、意外にも一定の理解を示す。

「確かに、成功する可能性はあるかもしれない。お前は、昔のマルカートによく似ている。直系の子孫ということであれば、魂の同調には適しているとも言えるだろう。まぁ、失敗したら失敗したで、その後でそっちの領主殿で試す、という手もあるしな」

 ヴェラは、あの魔物の正体が「エルムンドの七騎士の一人であるマルカート」であるとは知らないため、彼女が言っていることの意味は今一つ理解出来ていない。一方で、ユーフィーにしてみれば、夢の中に出てきたマルカートの姿は、確かにどこかヴェラに似ているようにも思えた。そして、マルカートが伝説の通りに「エルムンドの妻」であったとすれば、ヴェラは確かにその子孫の一人ということになるだろう。それならば確かに、ヴェラがマルカートと魂を同調させられるという可能性もありうるように思えてくる。
 しかし、だからと言って、彼女の中では、それはこの任務をヴェラに押し付けていいという理由にはならなかった。

「もし、失敗した場合、マルカートとヴェラ殿はどうなるのですか?」
「おそらく、彼女(ヴェラ)は完全に暴走することになるだろう。その場合、彼女を殺した上で、再びやり直すということになるな」

 そう言われてしまうと、なおさら、ユーフィーとしてはヴェラの助力を受ける訳にはいかない。そして、ここに至って更にもう一人、割って入る人物が現れた。

「お姉さまも、ヴェラ様も、この国には必要な人です!」

 そう言って、ヴェラが率いてきたクーンの部隊の中から現れたのは、サーシャである。突然の意外な人物の登場にユーフィー達は驚くが、実は彼女は、前線の崩壊という報を聞いた上で姉の身を案じ、ヴェラに頼み込んで彼女達と共にこの地へと同行していたのである。

「今の私では、お姉さまがいなくなった後、テイタニアの領主を務めることは出来そうにありません。ならばここは、私こそがあの魔物を封じるための役目を担うべきです。私に出来ることは、それくらいしかないのですから」

 いつもおとなしい彼女は、そう熱弁してユーフィーとヴェラに訴えかける。確かに、戦略的なことを考えれば、彼女の言い分が最も現実的である。「侯爵級の聖印の持ち主を見つけるまで、魔物と共に眠り続けるだけの役割」に最も最適な人物は誰かと言われたら、客観的に見ればそれは確かに「最も無力な君主」であるサーシャだろう。少なくとも、ユーフィーが休眠状態に入った場合は、病弱なサーシャが代わりの領主とならざるを得ない以上、それは客観的に見て得策とは言えない。しかし、だからと言ってユーフィーとしても、ここで妹に「人柱」のような役割を任せると言えるような性格でもない以上、サーシャの申し出をそのまま受け入れる気にもなれなかった。
 こうして、三人の候補が並び立つことになったが、ここで当事者である「テイタニアの住人」の一人として、ハーミアが口を開く。

「私は、ユーフィー様でも、サーシャ様でも、どちらがテイタニアの領主として残ったとしても、お仕えする所存です。ただ、テイタニアが中立の立場を維持するためには、ここで他家に『借り』を作ることは望ましくないかと」

 そう言って、暗に「ヴェラ」を選択肢から外すことを提案した彼女に対し、ユーフィーも同意する。

「ヴェラ様のお申し出はありがたいですが、これはテイタニアの問題です。そもそも、ここまで事が大きくなってしまったのは、先代もしくはそれ以前の領主が、『伝えるべき伝承』を途絶えさせてしまったことが原因であり、これは明らかに我が一族の失態です。その解決のために、他家の君主の方の力を借りる訳にはいきません。ただ、それでも、私のワガママを聞いて頂けるのであれば、私がいなくなった後のこの街を守るために、少しでもご助力頂きたい。それが私の願いです」

 伝承云々の話については、ヴェラは全く何も知らない。だが、このような言い方をされてしまうと、ヴェラとしても、それ以上強く主張することは出来なかった。

「そしてサーシャ、あなたが言う通り、確かにあなたの病弱な体質は、君主として一つの弱点ではあります。そして、あなたなそんな自分が今、この街のために出来ることを考えた上で、自らの身を封じる道を選ぶと宣言しました。その判断は、客観的に見て間違っていません。そして、そんな『正しい判断』が出来るあなただからこそ、私は、私の代わりにあなたにこの街を治めてほしいと考えています」

 そう言ってサーシャを諭そうとするユーフィーであったが、サーシャはその説明では納得はしなかった。

「でも、今のテイタニアの人々が求めている領主は、お姉さまです。私ではありません。皆さんもそうでしょう?」

 彼女はそう言いながら、ハーミア、アレス、インディゴの三人に目を向ける。アレスとインディゴが、どう答えれば良いか悩んでいる中、ハーミアが再び口を開いた。

「確かに、私もそう思っていました。しかし、さきほどユーフィー様がおっしゃった通り、今のサーシャ様には、君主としての才覚が十分にあることは分かりました。私は、サーシャ様が治めることになったとしても、全力で支えます」
「だとしても、私ではなく、お姉さまが封印されなければならない理由が、私には見つかりません」

 そう言われてしまうと、ハーミアとしても論理的に反論することは出来ない。すると、今度はインディゴが言いにくそうな表情を浮かべながら、口を開く。

「いずれにしても、領主様がお決めになることです。私には、どうこう言うことは出来ません」
「あなたにも発言する権利はある筈ですよ。あなたの契約相手に関わる問題です。そもそも、契約魔法師とは、君主が決断する際に助言という形でその手助けをするものです。あなたはどう思われますか? 我が契約魔法師として問いたい」

 ユーフィーにそう言われたインディゴであるが、それでも彼としては、ここでどのような方向へと導くのが正解なのか、見当がつかなかった。

「この問題は、領主様御自身で決めるべきこと。それが、私から出来る唯一の助言です」

 そう言いながら、彼は「魔法師失格だな」と内心で呟く。だが、その一言を確認した上で、ユーフィーは改めてサーシャに向き合う決意を固めた。

「私自身の判断としては、サーシャ、あなたに領主になってほしいです。確かに、私の代わりにあなたが領主になっても、あなたが自力で『侯爵位』に到達するのは難しいでしょう。しかし、それは私にとっても同じです。私は『人を殺さない』という信念の持ち主であることは、あなたも知っているでしょう?」

 すなわち、他人から聖印を奪うことを良しとしない彼女にとっては、この世界において聖印を成長させることは難しい、というのが彼女の判断である。だが、この言い分に対しては、その前提条件の次元において、ハーミアから異論が出る。

「どちらが眠りについて、どちらが領主となるにしても、我々が必ず、侯爵位の聖印の持ち主を捜して来ます。別に、領主となった方が全てを背負いこむ必要はありません。あなた方二人だけでこの街を守っている訳ではないのですよ」

 更に、それに便乗するようにヴェラも口を挟む。

「どちらがその役を担うことになったとしても、私は必ず、その封印されたどちらかを助ける。私自身が侯爵位を手に入れることが出来ればそれで良し、それが無理なら、侯爵位の持ち主となる人物を探すことも可能であるし、他にも色々と方法はある筈だ」

 ヴァレフール伯爵位の継承を拒否しているヴェラではあるが、自らの力で聖印を成長させることまでは否定してはいない。無論、現実問題として、伯爵位よりも更に上の侯爵位を、父の聖印を譲り受けること無しに自力で獲得するのが至難の技であることは、彼女も分かっていることではある。ただ、いざとなったら、彼女の聖印をイアンや他の多くの君主達と合わせることで、一時的に「侯爵位」を作り出すという選択肢もある(もっとも、それはそれで、強引に聖印を奪い取ることと同等以上に難しいことではあるのだが)。
 そして、この二人の意見を踏まえた上で、これまでにない程に強い決意と使命感に満ちた瞳で訴えかけるサーシャを前にして、ユーフィーは遂に決断を下す。姉として、いつか必ず妹を助けるという決意の下で、彼女に「眠り続けるという使命」を課すということを。

「分かりました。サーシャ、手を出して下さい」

 そう言って、ユーフィーはサーシャに指輪をはめる。すると、その指輪を介してサーシャの周囲に膨大な混沌の力が流れ込んでいく様子が見えるが、その直後に魔法少女がサーシャに魔法をかけ、休眠状態へと陥らせる。ちなみに、この魔法もインディゴは見たことがない。失われた古代の魔法か、あるいは彼女自身が生み出した創作の魔法なのかもしれない。そして、サーシャはその意識が消える直前、一瞬ニコッと微笑み、そしてそのまま静かに目を閉じ、その場に仰向けに倒れこむ。
 それと同時に湖の中を歩いていた巨大な魔物もまた、激しい波音と共にその場に倒れこんだ。魔法少女曰く、この状態のマルカートとサーシャは、いずれも放置しておく限りにおいては、目覚めることは絶対にない。ただし、もしマルカートを不用意に攻撃すると、最悪の場合、サーシャが眠った状態のままマルカートだけが目を覚ますという可能性もありうるという。そして、いかに眠っている状態といえども、(他の七騎士か、あるいはそれに匹敵する超常的な力の持ち主でもない限り)この魔物を一撃で倒すのは不可能、というのが彼女の見解であった。
 そのことを踏まえた上で、ユーフィーはサーシャの身体を抱え上げながら、三人の部下達に向かって、こう告げる。

「それでは、テイタニアに戻りましょう。今回の事件は終息しましたが、私達の為すべきことは、これからです。見ましたね? さきほどのサーシャの微笑みを。あの笑顔を取り戻すために、私達はこれから歩むのです」

 その決意に三人が頷くのを確認する。この国の盟主である伯爵家の人々に対してはそれぞれに様々な個人的感情を抱えている彼等ではあったが、少なくともテイタニアの臣としては「ユーフィーを支え、サーシャを救う」という目的に対して、いささかも迷いはなかった。
 一方、そんな彼女達の決意を横目に見ながら、魔法少女はサーシャを現在の休眠状態から目覚めさせるための方法を伝えた上で、何処へともなく去っていこうとする。そんな彼女に対して、ユーフィーは最後にこう告げた。

「今回の件、本当にありがとうございました。『名を伝えられていない一人の魔法師』の方」
「……一応、そこの邪紋使いには名乗った筈なのだが……、まぁ、今はそちらの呼称の方が、『私の呼び名』としては定着しているのかもしれんな」

 彼女はそう言って、微かに笑みを浮かべながら、やがてその姿はその場に出現した魔法の霧の中に、うっすらと消えていく。

「お主の妹と、そしてマルカートを元に戻してくれることを、期待しているぞ。アイツの『元恋敵』としてな」

 ユーフィーに対してそう告げた上で、その姿が消えようとする最後の一瞬、彼女はインディゴに対しても言葉をかける。

「しっかりサポートしてやれよ、元ヘッポコ魔法師」

 それが、彼女にとっては400年ぶりに発見した「後輩」に対しての、最後の言葉であった。

4.1. 撤収

 こうして、ひとまず直近の「危機的状況」を解決させた彼女達は、テイタニアに戻って、各軍の状況を確認する。どうやら、ワトホート軍は序盤であっさりと撤退していたため、あまり深い打撃を負うことがないまま健在であり、トイバル軍についても、ケネスやガスコインの姿は確認出来た。どうやら、トイバルの本隊は周囲の制止を振り切って突撃したものの、他の者達はあの魔物を目の当たりにして、それぞれに「現実的判断」を下したらしい。
 そんな彼等に対して、ユーフィーは「自分の妹が身を呈してあの怪物の動きを封じている」という状況のみを伝える。「魔物の正体」や「名を知られていない一人の魔法師」については、話したところで信じてもらえるとは思えない上に、この情報を広めることはこの国を更なる混乱に陥れる可能性があるように彼女には思えたため、あえて黙っていた。
 その上で、今度はインディゴが口を開き、重々しい口調で通達する。

「トイバル様は、名誉の戦死をなされました」

 厳格な表情を浮かべながらも、インディゴは内心ではニヤリと笑っていた。彼の思惑通り、自分が何の手を下す必要もないまま、彼にとっての「兄弟子の仇」は、自ら勝手に死んでくれたのである。インディゴにとっては、これほど喜ばしいことはない。

「そうか、やはりあの方は……」

 ケネスは沈痛な面持ちでそう反応するが、その声からは、それほど深く落胆しているようには感じられなかった。おそらくケネスの中では、今回の作戦を考案した時点で、こうなる可能性についても考慮はしていたのであろう。娘婿であるトイバルの死によって、この国の舵取りに関する彼の計画は大きく狂うことにはなるが、それで深い絶望の淵に落ちてしまうほど、トイバルに心酔していた訳ではなさそうである。既にこの時点で、彼の中では「トイバル戦死後の状況」に即した戦略方針へと、その思考は移行していた。
 一方、図らずも政敵が自滅したことで内心ほくそ笑んでいるグレンは、誰もが気になっていたであろう、今回の討伐計画の本質に関わる点について、ユーフィー達に尋ねた。

「結局、あの魔物はヴァレフスだったのか?」

 その質問に対して、ユーフィーは明確に否定する。あの地に「ヴァレフスの欠片」が眠っていたことは確かだが、それはあの魔物によって倒されており、そしてその魔物も封印されているという現状においては、あの魔物を刺激しない限り、これ以上の災害がもたらされることはない、という見解を伝える。だが、マルカートの正体について伏せた形で説明している以上、聞いている側にとっては、今一つ要領を得ない回答のように聞こえてしまう。
 そんな中、今度はケネスから、この問題に関して更に念を押すような形での質問が投げかけられる

「アレがヴァレフスではないと断言出来る根拠はあるのか? まぁ、ヴァレフスだと断言出来る根拠を出すのも難しいとは思うがな」

 トイバルが死んだことで、ケネスの中ではこの問題自体への関心が薄れてきたのか、その質問の言い回し自体が、今一つ歯切れが悪い。実際のところ、ケネス自身も、火山島に現れた魔物がヴァレフスであると本気で信じていた訳ではない。ただ、トイバルの爵位継承権確保のために、それがヴァレフスであるという「建前」を維持したかったのが、トイバルを失った今となっては、その仮説にこだわる必要もない。
 そんな彼の思惑を知ってか知らずか、ユーフィーは「最も分かりやすい答え」で返す。

「確かに、明確な根拠は出せません。ただ、しいて言うならば、本当にあの伝説の大毒龍ヴァレフスだとしたら、この程度の被害で済むはずはないでしょう」

 それは、ケネスやグレンも含めた大半の人々が、内心密かに思っていたことでもある。あれが本当に本物のヴァレフスであると仮定した上で、それを本気で倒せると思っていたのは、おそらくトイバルくらいであろう。実質的には、「ヴァレフスほどではない何か」を「ヴァレフス」だと言い張って倒すことで継承権を主張するという一種の「虚構のゲーム」にすぎないということは、皆が薄々感付いていたようである。
 そして、そのことをユーフィーがはっきりと言ってのけて、皆がその見解に素直に同意したことで、ケネスは安心して今回の作戦の終結を宣言する。そして、ブラギスの「ヴァレフス」発言に関しては、その実体が発見されなかったということで、実質的に無効化されることが、この場で確認されたのであった。

4.2. 動乱の幕開け

 こうして、テイタニアに集まった討伐隊のうち、テイタニアの真北の都市から派遣されたイアン隊とファルク隊以外はドラグロボウ経由でそれぞれの本拠地へと帰還することになるのだが、この時点で彼等は、驚愕の事実を知ることになる。

 それは「ヴァレフール伯爵ブラギスの崩御」という知らせであった。

 もともと体調が思わしくないことは明らかであったが、この国の盟主がこのタイミングで他界してしまったことで、国中に動揺が走る。その聖印は侍従の騎士が「仮預かり」した状態で保存していたため、ブラギスの契約魔法師団の同意の下で、首都へと帰還したワトホートに即座に移譲された。ブラギスは後継者を明確に指名していなかったものの、トイバルが戦死した今、ワトホートへの継承に対してケネス達「旧次男派」も異論を唱えられる状態ではなかったのである。
 だが、動揺はこれだけでは終わらなかった。翌朝になって、更なる混乱を引き起こす知らせが国中に伝わることになる。

 それは「ブラギスの死は、自然死ではなく、毒殺」という事実であった。

 ブラギスの契約魔法師団の発表によれば、ブラギスの身体から、混沌によって生み出された「遅効性の毒」が発見されたのだという。つまり、何者かによって食物の中にその毒を混入されたことが、直接的な死因であったらしい。そして更に翌日、騎士団長ケネスの名において、ヴァレフール中に第三の衝撃となる通達が発布された。

 それは「ブラギスの毒殺は、ワトホート派による凶行」という調査結果であった。

 ブラギスの食事に毒が盛られたと想定される時刻、ワトホート自身はテイタニアにいたが、その間にワトホートに仕えていた侍従の者達がブラギスの医務室に忍び込んでいた、という証言があり、ケネス達がその者達を捕縛して問い詰めようとしたところ、彼等は揃って自室で自決していたという(ちなみに、その実行犯達と思き者達の中には、邪紋使いも加わっていたらしい)。
 この調査結果に対して、ワトホート側は「自決した者達はいずれも最近になって雇われた者達であり、仮に彼等が犯人であったとしても、それは彼等が当初からブラギス殺害を目的に忍び込んだ者達だったということであり、ワトホート様の指示によるものではない」と主張したが、現実問題として「命令していない」ということを証明することは実質的に不可能であり、しかも、その実行犯達の出自も分からなかったため(より正確に言えば、それぞれに出自を偽装して雇われていたことが判明したため)、他に「真の黒幕」がいるということを立証することも出来なかった。
 この調査結果を踏まえた上で、ケネスはワトホートを「大逆人」と非難し、彼の聖印継承の不当性を主張したのに対し、グレンは「長男であるワトホート様が、このタイミングで父君を暗殺する理由はない」と主張した上で、これはワトホートに濡れ衣を着せようとした旧次男派の陰謀であると断言し、ケネスを反逆の罪で処罰すべしと主張する。
 こうして両者の見解が真っ向から対立する中、既にワトホートと新たに契約関係を結んでいたブラギスの契約魔法師団は、ワトホートの命令でケネスを急襲・捕縛する計画を立てていたが、その中でケネスと密かに気脈を通じていた造反者がケネスに密告したことで、その作戦は破綻。身の危険を感じたケネスはトイバルの二人の息子であるゴーバンとドギをドラグロボウから連れ出す形で本拠地アキレスへと帰還し、ワトホートの「暴挙」に対して徹底抗戦すると同時に、トイバルの長男ゴーバンこそが真の後継者であるべきと主張し、国中の騎士団員達に対して、「大逆者ワトホートから伯爵の聖印を取り戻すべし」という大号令を通達したのである。
 この状況に対して、もともと次男派であったガスコインは真っ先にケネスを支持すると宣言したものの、グレン、ファルク、そしてイアンおよびヴェラは、ワトホートの即位の正当性を認めるという立場を鮮明にする。ただし、グレン以外の者達は、ケネスとの和解の道を主張しており、ケネスを討伐すべしというグレンの主張に全面的に賛同する者は、騎士団全体の中でも少なかった。
 一方、オディールのロートスは「これから先も『ヴァレフール伯爵』に忠誠を誓う」という曖昧な方針を表明するに留まっていた。現実問題として、オディールの近辺はケネス・ガスコイン派が多い(例外は、隣村オーロラの領主である長弟ゲンドルフ)という事情があるものの、ここで方針を明確にしなかったところで、最前線を守る彼等のことをケネス派の諸侯が攻撃することなど(彼等がアントリアとの共闘を模索しない限りは)ありえない以上、ここであえて旗色を明確にする必要はないと考えていたようである。
 このように、一見すると首都と伯爵聖印を現実に掌握しているワトホートが有利な状況に見えたが、ケネスには彼等にはない一つの強みがあった。それは、大陸の幻想詩連合諸国との深い繋がりである。これまで、幻想詩連合への支援要請は常に彼が執り行ってきた以上、ヴァレフールで内戦が勃発した場合、連合からの潤沢な支援をケネス陣営が独占する可能性も十分にありうる。その意味においても、正面切ってケネスを討伐することは、ワトホート支持派にとっても、あまり現実的な手段とは言えなかった。
 そんな中、当然のごとくテイタニアにも、両陣営から「ワトホートを討て!」「ケネスを討て!」という通告が届けられていたが、ユーフィーとしては「ワトホートの伯爵位継承には異を唱えない」という曖昧な立場だけを表明した上で、今は先日の水害と戦闘の事後処理に専念するという建前の下で、明確な方針提示を拒否する。実際のところ、ユーフィーにはワトホート派の犯行とは思えなかったが、かと言ってケネスが黒幕であると言えるような根拠も無かったため、この状況でどちらの正当性を支持する訳にもいかない、というのが彼女の本音であった。

4.3. 遺品と遺言

 一方、領主であるユーフィーがこのような形で困惑している中、その「犯人」に心当たりがある人物がいた。アレスである。当初、それはあくまでも彼の中でも「憶測」にすぎなかったが、事件勃発から数日後、彼のその「憶測」を「確信」へと変える人物が、彼の前に現れたのである。

「よう、お前さん、アルフリードの知り合いだったよな?」

 そう言って、彼の自宅を訪れたのは、ジェームスである。彼は、先日の森での戦いの過程で、いつの間にか彼等の周囲から姿を消していたのであるが、その彼が数日ぶりにテイタニアに現れたのである。

「届け物だ。事が済んだら、これを渡しておいてくれと言われていたんだ。まぁ、それをどう使うかはお前さんの自由だがな」

 ジェームスはそう告げると、小さな布袋を彼に手渡し、そしてすぐにその場から去って行く。その中に入っていたのは、「小さな薬瓶」と「手紙」であった。手紙の差出人の名はもちろん、アルフリードである。

「この手紙があなたに届けられているのであれば、私はもうこの世界にはいない筈です。あの時、あなたに渡せなかった毒薬を、ここに入れておきます。……」

 そんな書き出しから始まったその手紙の中に、この数日間の一連の事件の全容が記されていた。曰く、彼女達は数ヶ月前からワトホートの「侍従」として王城内に潜入し、密かに彼とブラギスを毒殺する機会を狙っていた。その上で、最も着実に決行できると考えられていた日の前日に、ワトホートがテイタニアへと出陣してしまったため、やむなくターゲットをブラギス一人に絞ることにしたらしい。その上で、事実が露見してしまった時は、自分達は「ワトホートの忠臣」を装って自害することで、彼の立場を窮地に追い込む、というのが彼女達の計画であり、そうなった時は、残りの毒薬をこの手紙と共にアレスに届けるように「この毒薬を提供してくれたパンドラのエージェント」に頼んだと記されている。

「……この毒薬を使って、あなた自身の手でワトホートを倒してもらえるなら、これほど嬉しいことはない。でも、今のあなたにとって、『過去の怨讐』のために生きることが本意ではないのなら、『今の人生』を後悔しないように生きてほしい。そして、この国を正しい方向に導いてほしい。それが、あなたの『真の幸せ』を願う者としての、私の最後の願いです」

 今、この手紙をアレスが公表すれば、ワトホートとケネスの「不毛な争い」を止められるであろう。そうなれば、領主であるユーフィーの苦悩も多少は緩和されることになる筈である。だが、アレスの中では「過去の怨讐」は決して消えてはいない。そして、先日の「あの夜」の会話を通じて、彼は確信していた。大事のために小事を切り捨てるワトホートに、この国を任せる訳にはいかない、ということを。
 しかし、それと同時に彼は、ユーフィーの「不殺」の信念にも強い敬意を抱いている。少なくとも、彼女が自らの主ある限りは、どのような形であれ、自らの手でワトホートを暗殺する訳にはいかない。だからこそ、アルフリード達が自らの命を犠牲にして引き起こした「ワトホートを殺さずに失脚させるための千載一遇の機会」である今の対立と混乱の状況を、この手紙を公表することで和解させてしまうことなど、彼の中では絶対にありえない選択肢であった。
 こうして、彼は旧友の形見となってしまった毒薬を胸に抱きつつ、「過去の怨讐」と「今の忠義」を両立させる道を、誰にも相談出来ない状態のまま、これから先も一人、模索し続けることになるのである。

4.4. それぞれの居場所

 一方、アレスへの「届け物」を済ませたジェームスには、もう一人、訪問すべき人物がいた。ハーミアである。と言っても、これは誰かに頼まれた依頼ではない。彼女に会いたいと思ったのは、純然たる彼の個人的感情であった。

「素敵な『居場所』を見つけたようですね、ジェームスさん」

 数日ぶりにあったジェームスに対して「笑顔」でそう告げる彼女を目の当たりにして、ジェームスは、今の自分の「居場所」がどこかということが、(おそらくは先日の「ポーション」を見た時点で)既に彼女にモ伝わっていることを実感する。

「本当は、お前にも、俺と同じ『居場所』を与えたかったんだが……、残念ながら、もうお前は『自分の居場所』を見つけてしまっているようだな」
「えぇ。でも、今の居場所はあくまでも、『仮の居場所』です。私が『真の居場所』に到達するのは、もう少し先になりそうですが、私はそれまで、待ち続けるつもりです」

 ハーミアの「この世界での二年間」を知らないジェームスには、彼女の発言の意図は分からない。だが、明らかに「女」の顔をした彼女を目の当たりにした彼は、既に彼女は、自分が見出した「女子高生アイドル」という枠では収まらない存在へと進化(羽化)していることを実感する。

(もう、こいつの中には『俺の居場所』は無いな)

 そう実感した彼は、彼女に代わる新たな人材を探すために、この街を去る決意を固める。いずれまたこの地を訪れることはあるだろうが、それがいつになるかは分からない。その時点で、彼女の「居場所」がここにあるかどうかも分からない。更に言えば、そもそも「投影体」である彼等は、いつまで「この世界」にいられるのかも分からないのである。投影体が、死や強制送還以外の方法でこの世界を去る原因については諸説あり、何がきっかけでこの世界から消えるのかは、誰にも分からない。まさに、この世界そのものが、いつまで自分の「居場所」たり得るのかも分からないのである。
 そんな不安定な自分の「居場所」に不安を感じたのか、ジェームスは最後にハーミアにこう告げる。

「次に会う時があったら、久しぶりに、お前の歌を聴かせてもらえないか? 本当は今、聞きたいんだが、次の機会まで先延ばしにすることで、それを楽しみに生きていける。そんな気がするんだ」

 今のハーミアに、この「中年男性のセンチメンタリズム」が通じたかどうかは分からない。だが、彼女は素直に微笑みながら、かつての恩人を見送る。

「えぇ。その時まで、どうかお元気で」

 こうして、ヴァレフールを大混乱に陥れる陰謀の片棒を担いでいた一人の地球人は、その真相を一切語らないまま、あっさりとこの国を去って行く。ハーミアは、そんな彼に複雑な感情を抱きながらも、これからサーシャを助けるために為すべきこと、そしてイアンとの輝かしい未来に向けて為すべきことを考えつつ、この日も子供達にまた自作のポエムを読み聞かせるため、一人、下町へと歩いて行くのであった。

4.5. 「力」を手にする資格

 その頃、街の復興状況を確認するためにテイタニアの北部地区を巡察していたインディゴは、北の入口から、思わぬ「大物」が姿を現したことに驚く。ヴェラである。

「おぉ、ユーフィー殿の魔法師殿か。確か、インディゴ殿と言ったな」
「その通りですが、なぜまたこの街に?」

 テイタニアの復興支援は既に一段落し、今はクーンには物資の支援も人足の派遣も要求していない。ただの表敬訪問なのか、それとも、何か密命を帯びてきたのか。

「いや、今回はテイタニアに用事がある訳ではない。これから、大陸に向かうことになったのだ。ハルーシア公爵アレクシス・ドゥーセ様に会うためにな」

 アレクシス・ドゥーセと言えば、この世界を二分する巨大勢力の一翼を担う幻想詩連合の盟主である。普通の人物であれば、そう易々と会える人物ではないが、ブレトランドの(元)伯爵令嬢である彼女であれば、正規の手続きを踏んで依頼すれば、確かに謁見することも可能であろう。

「サーシャ殿を助けるためには、侯爵級以上の聖印の持ち主が必要なのであろう? ならばまず、我々がここはアレクシス殿を頼るのが一番の最善手ではないかと考えたのだ。ただ、一つ不安はある。インディゴ殿、魔法師としての貴殿に聞きたいのだが……」
「なんでしょうか?」
「あの魔物の力は、果たして『人』が安易に手にして良いものなのだろうか?」

 今回の一件を通じて彼等は、武勇に関してはヴァレフールでも指折りの実力者と言われたトイバルに率いられた討伐隊が、あの魔物(マルカート)に一太刀も浴びせられないまま惨殺された光景を目の当たりにしている。あの力を制御する人物が現れた場合、必然的にそれは「絶対的な武力」を手にしたも同然である。あの魔法少女の言い分によれば、他にも同じような力を持った「元騎士」があと6人いるらしいが、いずれにせよ、この世界のバランスを崩しかねないあの力を誰かに委ねるということに対して、強い不安を抱くのは当然の話である。

「無論、私は絶対にサーシャ殿を助けると約束した以上、今は誰かにあの魔物の主となってもらう道を探るしかない。しかし、あのような強大な『力』を制御することが出来る人物など、果たして本当にこの世界にいるのだろうか。もしいるとすれば、どんな人物ならば、あれだけの『力』を手にする資格があると言えるのだろうか」

 確かにこれは、「強大な混沌の力」を操ることに長けた魔法師の者達の中でも、永遠に議論され続けているテーマでもある。人は、人ならざる者の力に、どこまで頼っていいのか? そして、どのような人物であれば、その力を行使する資格があるのか。ある意味、魔法師とは、存在そのものが一つの強大な「力」である。だからこそ、その力は私利私欲のためではなく、この世界を導く「君主」のために使う、というのがエーラムの哲学である。だが、現実問題として、私利私欲のために力を使う君主も存在し、そして魔法師は君主を選べるとは限らない。そんな今の契約魔法師制度の正当性への疑問は、多くの魔法師達が感じている。
 その意味では、このヴェラの問いかけは、インディゴにとっても他人事ではないのだが、だからこそ、安易に答えられる質問ではない。またしても「やはり私は、魔法師失格なのかな」と内心で自嘲しながら、彼はヴェラにこう告げる。

「自分の『目』を信じるしかないのでは? 自分自身で見て、その力を与えるに足る人物かどうかを確かめるしかないでしょう」

 実際のところ、これが魔法師としての彼が言える、唯一の助言である。多くの魔法師達にとって、契約相手となる君主が、「自分の力を預けるに足る人物」かどうかは、実際に会ってみないと分からない。最終的には、自分自身の直観力を信じるしかないというのが、彼の結論であった。

「なるほど……、そうだな。ここで考えていても何も始まらん。やはり、まずは実際に行って、会って、話して、その上で、アレクシス・ドゥーセがあの魔物の契約相手に相応しい人物かどうか確かめる。任せられる人物ではないと判断した時は、また次の候補に会いに行けばいい。それだけの話だな」

 どうやら、インディゴが苦し紛れに言った言葉は、ヴェラの心の中でくすぶっていた「迷い」の払拭に繋がったようである。

「ありがとう。そういえば、テイタニアには、『異世界の歌い手』がいるそうだな。確か、ハーミアと言ったか」
「……あの女が、何か?」

 正直、インディゴは、ハーミアのことが苦手である。何を考えているのか分からないライフスタイルの彼女は、仕事一筋の真面目人間である彼とは、どうにも波長が合わないらしい。

「今度会った時に歌を聴かせてくれ、と伝えておいてほしい。その時までに、なんとしても『侯爵以上の聖印』の持ち主を探し出してみせるからな」

 インディゴは、ハーミアとイアンの関係を知らない以上、ヴェラがハーミアにこのようなことを頼むことについて、「物好きな」とは思いながらも、それほど不自然とは感じていない。だが、なんとなく、女同士の関係を仲立ちするのは、面倒事に繋がりそうな、そんな予感がしていた。

「分かりました。では、またその折に」
「うむ、達者でな」

 そう言って、ヴェラはテイタニアの南部地区を経由して、そのまま南下してドラグロボウの南方に位置する港町オーキッドへと向かうことになる。そして彼女はここから大陸へと旅立つことになるのだが、それはまた別の物語である。
 一方、そんな彼女を見送りつつ、インディゴは今回の一件を通じて実感した、自分の「契約魔法師」としての不甲斐なさを悔恨する。様々な決断を他人に委ねてしまい、まともな助言が出来なかったことを悔やみながら、これから先、この街と、ユーフィーと、そしてサーシャを救うために、自分に出来ることは何なのか、ということを自問自答しながら、「あるべき魔法師」の姿を追い求めつつ、この日も一人、静かに職務に励むのであった。

4.6. 不殺の覇道

 こうして、街の各地で家臣達がそれぞれにそれぞれの想いを抱いていた頃、彼等の主君であるテイタニアの領主ユーフィー・リルクロートは、まだ微妙に混沌濃度が高まったボルフヴァルド大森林の入口付近に待機し、そして混沌核の出現を待っていた。

(人を殺さずに聖印を成長させるには、これしかない)

 ユーフィーは内心でそう考えながら、レイピアとマイン=ゴーシュを構える。この森は、混沌核の出現率が高いことで有名であり、それが様々な投影体や混沌災害をもたらす要因となっている。しかも、その規模は膨大で、このテイタニアの領主だけでなく、ヴァレフールの君主達が四百年以上かけて浄化しようとしても、全く浄化しきれぬほどの膨大な混沌核に溢れているのである。
 逆に言えば、それらの混沌核を全て浄化・吸収することが出来れば、聖印の規模は飛躍的に強大化する。無論、無数の君主達が四百年かけても浄化しきれなかったものを、ユーフィー一人で全て聖印に取り込むなど、普通に考えれば到底不可能な話である。しかし、今のユーフィーには、それしか出来ることがなかった。サーシャを救うため、そして街に再び混沌災害が起こるのを防ぐためには、少しでずつでも着実に、この森を浄化していく他に道はない。それが「不殺の覇道」を貫く彼女にとっての唯一の選択肢だったのである。
 無論、ヴェラのように大陸に渡って大物君主を連れて来るという方法もあるし、他の君主達を口説き落として合同で「侯爵位」級の聖印を作り出すというのも理論上は可能ではあるが、現実問題として、今のユーフィーは、このテイタニアを離れる訳にはいかない。いつまた再び大規模な大災害が起こるか分からない土地柄である上に、今後は逆に「湖に眠っているマルカート」を不用意に起こそうとする者が現れないよう、監視する必要もある。いずれにせよ、彼女はこの森と生きていくしかない以上、この森の中で、少しずつ聖印を強化していく。それが、たとえどれだけ途方のない道であっても、最も着実な選択肢なのである。

「待っていて下さい、サーシャ。必ず、あなたを目覚めさせてみせます」

 領主の館の奥にある一室で、今も一人眠り続ける妹のことを思いながら、ユーフィーは両手にかざした剣を振りかざし、少しずつ、森の奥へと足を踏み入れていく。不殺の君主としての彼女の戦いは、まだ、始まったばかりであった。

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最終更新:2014年12月06日 22:58