第7話(BS10)「誰がための聖印」 1 / 2 / 3 / 4


7.1.1. マーシーの仮説

 国許に残してきた部下達が、まさかアントリアの音楽祭に参加しているとは露知らず、グリース男爵としての授与式に出席するためにエーラムを訪れていたゲオルグは、間もなく始まる式典を前に控え室でくつろぎながら、出発前にマーシーが語っていた「ルルシェ投影体説」の話を思い出していた。


「マイロード、この世界には『聖印の持ち主』が『投影体』となってしまった事例がある、ということをご存知ですか?」

 「ルルシェ投影体説」を語る前に、マーシーはまずゲオルグにそう問いかけた。

「あぁ、話に聞いたことはある」

 ゲオルグはそう答える。もっとも、彼自身がそのような事例を見た訳ではないので、本当にそんなことが起こりうる話なのかどうか、確証は持てなかった(実は、彼の祖先の中で、まさにこの事例に該当する人物がいるのだが、ゲオルグもルルシェもそのことは知らない)。

「実は、それよりも更に珍しい事例ですが、かつてこのブレトランドには、誰かの体内にある『混沌核』を、そのまま『聖印』に変えてしまう能力の持ち主がいたと言われています。そして、私の調査が間違っていなければ、マイロードの家系の歴代の当主様こそが、まさにその能力者なのです」

 ゲオルグとルルシェの実家であるルードヴィッヒ家は、アトラタン大陸中部のファーガルドの一角を治める小さな貴族家だったが、実は三代前まではブレトランド南部のヴァレフール侯爵に仕える騎士家でもあったのである。ゲオルグはそのことをマーシーに話した記憶はなかったが、彼女が自分の実家の系譜にまで精通していることについては、今更詳しく詮索するつもりもなかった。

「私の仮説が正しければ、ルルシェ様の投影元となる『本体』は、『地球界に住むナンジョウ・リナ殿』です。ルルシェ様はおそらく、幼少期の頃にこの世界に『リナ殿の投影体』として出現し、それをマイロードのお父様かお兄様が、その『受け継がれし力』を用いて『混沌核』を『聖印』へと変えることで、『君主』として生まれ変わらせたのでしょう。そして、『地球界で16歳まで成長なされたリナ殿』の投影体が、先日の魔境で出現したあの少女なのではないかと」

 なんとも突拍子もない仮説ではあるが、確かにそれが本当ならば一定の筋は通る。無論、ゲオルグ自身ですら知らない「ルードヴィッヒ家の当主の能力」のことをいくらマーシーが力説したところで、それが本当かどうかを確かめる術もない。他にも色々と不可解な点が多いが、もしルルシェの聖印が「本来は投影体だったものを、強引に聖印に作り替えた代物」だと考えれば、混沌を浄化出来ないのも頷ける。
 半信半疑のゲオルグが複雑な表情でその仮説に耳を傾けている中、マーシーはこの話を踏まえた上での「本題」に話題を移す。

「ルルシェ様は、この国には絶対に必要な御方です。あの方の圧倒的なカリスマに惹かれてこの国に集まった者達も多い以上、彼女がマイロードの血縁者であることは重要な意味を持ちます。しかし、リナという存在が現れてしまったことで、今私が話したような『仮説』や『疑惑』がいずれ広がる可能性もあります。そして、もしこの仮説の正しさが立証されてしまった場合、民衆や家臣の心の中に動揺が広がることは間違いないでしょう」

 確かに、以前にコーネリアスが「この村の真の領主」とまで称したほどに、「領主の妹」としてのルルシェの存在価値は大きい。仮に彼女が「血のつながらない妹(しかも投影体)」であると判明した場合、おそらくそれでも本人同士の関係(絆)は大きくは変わらないだろうが、周囲の人々からの印象という意味では、少なからぬ影響が出るだろう。

「そうなった場合に備えて、あの方を『マイロードの血縁者』にしておく方法が一つあります……。マイロード、もしルルシェ様が本当の妹ではないと分かった場合、あの方を娶るつもりはございませんか?」
「ある訳ないだろうが!」

 マーシーとしては「起死回生の一手」のつもりで提案したのだが、あっさりと一言で却下されてしまった。確かにこの方法なら、むしろ現在よりも彼女の人望とカリスマを有効活用出来るだろうが、さすがに、長年にわたって「妹」として苦楽を共にしてきたルルシェを、いきなり「妻」として扱うなど、出来る筈もない。この点については、ゲオルグはまったくもって「常識的な兄」であった。

「……分かりました。まぁ、確かに、私も元々、マイロードが伴侶として迎えるべきは、いずこかの国の姫君主だと思っておりましたので、それならそれで構いません。そういえば、この間の魔境でメガエラのティファニア殿と遭遇されたそうですが、どのような印象でした?」

 マーシーとしては、ルルシェの件についてこれ以上話すと主君の機嫌を損ねるかもしれないと考えたようで、彼女の中でのもう一つの懸念であった「ゲオルグの婚姻」についての話題へと論点をズラす。

「そうだな……、まぁ、悪くはないな」

 そう答える彼の脳裏に思い浮かんでいたのは、ティファニア自身よりもむしろ、彼女が治めるメガエラという豊かな土地である。彼女と結婚することによって、この南トランガーヌ地方の中でも特に裕福な経済状況にあると言われるメガエラをグリースに加えることが出来るのは、確かに悪くない話である。個人的な愛情や欲情よりも婚姻がもたらす政治的影響のことを真っ先に考える辺り、ゲオルグはまったくもって「常識的な君主」であった。

「他にも、この地方にはティスホーンのトーニャ殿達もおりますし、ヴァレフール領の北の要であるクーン城を現在治めているのは、ヴァレフール伯爵の長女のヴェラ殿です。さすがにヴェラ殿はマイロードとは少々歳が離れてはいますが、選択肢の一つとして考えてみても良いかもしれませんね」

 ティスホーンとは、メガエラの北西部に位置する、四人の女騎士(しかもそのうち3人は隣国の君主の従属騎士)が共同統治する特殊な政治体制の村である。その四人の中でも実質的な筆頭格であるトーニャは17歳であり、20歳のゲオルグとはちょうど釣り合いが取れるのだが、それ以上にゲオルグの心の琴線に触れたのは(自分よりもかなり歳上の)「ヴァレフール伯爵の娘」という選択肢であった。

「……俺に、ダン・ディオードと同じことをしろと言うのか?」

 不適な笑みを浮かべながら、ゲオルグはそう口にする。現アントリア子爵ダン・ディオードは、先代アントリア子爵であったロレインと結婚した上で、彼女を殺してその地位を奪い取っているのである。

「私はそこまでは申しておりません。ただ、いずれにせよ、マイロードの婚姻はこの国の未来に関わる重要な問題です。色々な選択肢を視野に入れつつ、そのカードを切るタイミングを見計らっておきましょう」

 マーシーがそう言うと、ゲオルグも同意する。こうして、ひとまず「ルルシェ投影体説」の真偽はうやむやのまま終わってしまった訳だが、おそらくゲオルグとしては、どのような真実であろうとも、ルルシェとは今まで通りに接していくことになるだろう。「覇道を歩む君主」として「回りにあるもの全てを利用する覚悟」を固めている彼にとって、「唯一の家族」であるルルシェこそが、「等身大の一人の人間」としての彼の数少ない心の拠り所だったのである。

7.1.2. 爵位授与式

 エーラムの式典会場の控え室でそんなことを思い返していたゲオルグであるが、その彼の傍らには、隣村メガエラの領主ティファニア・ルースが座っていた。実は彼女も今回、ゲオルグと同じタイミングで「男爵位」を授与されることになったのである。どうやら、先日の街道上で出現した魔境での浄化作業を通じて、二人同時に男爵位に達するまでに聖印が成長していたらしい。

「不思議なものですね。全く境遇の異なる私達が、こうして同時に同じ爵位を得るというのも。もっとも、私の場合、その半分は父から受け継いだものですが」
「別にそれは恥じることではなかろう。たとえ半分が父のものであったとしても、それをここまで成長させたのは、お主自身の功績なのだから」

 自重気味に語ったティファニアに対して、ゲオルグはそう告げる。マーシーに「妻候補」として挙げられたことで意識しているのか、それとも自然に発せられた言葉なのかは分からないが、その一言は「君主としての未熟性」に常に悩んでいたティファニアにとっては、好印象だったようである。

「ありがとうございます。あと、エスメラルダ先生にも、本当に感謝しています。あの方のご助言のお陰で、我がメガエラの食料事情もかなり改善しました。帰国後、よろしくお伝え下さい」

 そうして機嫌を良くしたティファニアに対して、ゲオルグは「将来、自分の土地になるかもしれないメガエラ」に関する情報を聞き出そうと、世間話がてらに彼女との会話を続ける。すると、彼女は一つ、おそらくゲオルグにとっても無縁とは言い難い懸念事項を口にする。

「前々から、大陸に逃れた先代トランガーヌ子爵が、聖印教会と手を組んでこの地に戻ってくるという噂が流れていましたが、どうやら最近、その実現に向けての動きがこれまで以上に活発化しているようです」

 ブレトランド平定に向けて、まず混乱状態にある旧トランガーヌ地方を統一することを目指しているゲオルグにとって、先代トランガーヌ子爵の帰還は、非常に厄介な事態である。しかも、ゲオルグはアトロポスでの旧ボルド工房の焼き討ち事件以来、聖印教会とは完全に敵対している上に(ちなみに、この点については実はメガエラもほぼ同じような立場である)、現在のグリースには、先代トランガーヌ子爵の側近であったDr.エベロと袂を分かった旧ドクロ団の面々もいる。聖印教会と先代トランガーヌ子爵が手を組んだ場合、トランガーヌ領を侵略したダン・ディオードと同等以上に、自分達もまた彼等から目の敵にされることは間違いないだろう。
 一方で、ゲオルグの傘下の中には「まだ聖印を捧げていない臣下」としてのクローソー領主ハウル・ヴァーゴがいる。彼はかつて先代トランガーヌ子爵に仕えていた身であり、しかも、どちらかと言えば聖印教会寄りの立場でもあるため、状況次第では、いつ寝返ってもおかしくない。無論、彼に限らず、先代トランガーヌ子爵に忠誠を捧げていた騎士達はトランガーヌ地方に数多く存在している以上、その力が結集すれば、十分な脅威になりうる。
 二人がそんな懸念に頭を悩ませている中、会場の係員が控え室にいる若き君主達に「準備が整いましたので、ご入場下さい」と告げる。大陸中から集まった、様々な立場の領主達が一同に会したその空間は、混沌と戦う人類の希望の光の集合体であると同時に、陰謀渦巻く国際社会の縮図でもあった。
 彼等が所定の席に座ると、魔法学院の学長であるセンブロス・ストラトスが祝辞を述べる。そして、やがて一人一人の名が読み上げられ、その功績を讃えると同時に、それぞれの君主の「盟友代表」から、様々な花束が贈られる。ゲオルグもティファニアも、特に事前に誰かにその役回りを依頼していた訳ではないのだが、この二人にも、意外な方面から「盟友代表」と称する者からの花束が届くことになった。
 ティファニアに送られた花束の主は、現在の世界を二分する幻想詩連盟(ファンタジア・ユニオン)の盟主でもあるハルーシア公爵アレクシス・ドゥーセである。おそらく、この場に集まっている若き君主達の殆どが聞いたことがないであろう「メガエラ」というブレトランドの田舎村の領主に対して、予想外の大物からの花束が届いたことに、会場内がどよめく。

「私のような者ことを、覚えていて下さったのですね、アレクシス様……」

 ハルーシアに留学していた頃、何度か言葉を交わした程度の関係でしかない自分に対してこのような花束を送ってくれたことに、思わずティファニアは涙ぐむ。当時の彼女にとって、アレクシスは憧れの「理想の君主」であり、ほのかに恋心に近い感情すらも抱いていた。実際のところ、アレクシス自身は彼女のことを「連盟側に勧誘すべき田舎君主の一人」としか考えていないかもしれないが、それでも、こうして彼から花束が贈られてきたという事実だけでも、彼女にとっては感涙に匹敵する出来事なのである。
 そんなティファニアを見ながら、ダン・ディオードと対抗するためにヴァレフールや幻想詩連盟との関係を強めようと考えていたゲオルグとしては、この機に彼女を通じて何らかの接点を作っておこうと考えていたのだが、そんな彼の思惑に水を差すように、全くもって想定外の人物からの花束が彼に届けられた。

「アントリア騎士団副団長アドルフ・エアリーズ」

 それが、ゲオルグに送られた花束の主の名であるという。エアリーズ家とは、ルードヴィッヒ家がまだブレトランドの貴族であった頃に分かれ出た分家の一つである。一応、ルードヴィッヒ家が大陸に移住した後もそれなりに交流は続けていたようで、冠婚葬祭などの際にはいつも祝辞を告げる手紙が届いていた。諸々の経緯の末に、現在の当主アドルフがアントリア家に仕えているという話は数年前に聞いたことがあったのだが、いつの間にやら騎士団の副団長にまで上り詰めていたらしい。

「意外ですわね、あなたにアントリア側の『盟友』がいたなんて」

 ティファニアにそう言われたゲオルグは、不機嫌そうに答える。

「いや、系図上の繋がりがあるという程度の関係だ。会ったこともないし、何ら深い間柄でもない」

 実際、なぜこのタイミングで彼が自分に花束を送ってきたのか、ゲオルグとしてはいささか不可解である。おそらく、自分をアントリア側に引き込もうと考えているのであろうが、予告もなくこのような「余計なこと」をされて、連盟との接点作りの出端を挫かれたゲオルグとしては、甚だ迷惑であった。
 とりあえず、このまま素直に花束を持って帰って、「グリース男爵はアントリアの盟友」と思われるのも好ましくないと思った彼は、あえてその花束を会場内に放置したまま、式典場を後にすることにした。こうして、ゲオルグにとっての実質的な「社交界デビュー」ともなった爵位授与式は、なんとも後味が悪い形で幕を閉じることになったのである。

7.1.3. 妖精と鍛冶屋

「コーネリアス、そろそろ、この小大陸の情勢について教えてほしいのだが」

 ゲオルグが式典を終えて本拠ラキシスへの帰還の船に乗っている頃、エルフ界からの投影体であるシャルロットは、実質的な彼女の「教育係」となったコーネリアスにそう要請した。先日の音楽祭を通じて、この世界には自分達の世界よりも複雑な対立軸が存在していると知ったシャルロットは、今後、自分自身もその戦いに加わることになるだろう、という覚悟を固めた上で、まず誰がどういう理由で対立しているのかということを確認する必要がある、と考えていたのである

「分かった。いいか、まず、このブレトランドは伝統的に三つの地域に分かれていて……」

 そう言って、コーネリアスが講義を始める。無論、彼の解説は、アントリアへの憎悪に満ち溢れた「歪んだ世界観」に基づいた説明となっていたのだが、もともと「善悪二元論」の世界観で生きてきた彼女にとっては、それは非常に「分かりやすい説明」でもあった。

「なるほど。とにかく、そのダン・ディオードという輩が、一番の悪人なのだな」
「そうだ、この男は卑劣にも海外からの傭兵を招き入れた上で、不意打ちで旧トランガーヌ騎士団に襲いかかり……」

 彼のそんな説明に熱が入りつつある頃、そこに割って入る少女が現れた。

「コーネリアスくん、ちょっといいかな?」

 鍛冶職人のアドラである。最近、ようやくボルドから「一人前」として認められて、その肩書きから「見習い」が取れたようで、今は堂々と一人で様々な仕事を請け負っている。ただ、それでも一応、ボルドとの約束で「武器の仕事」は請け負わないことにしているらしい。

「あぁ、例の短剣のことか?」

 シャルロットの前でコーネリアスはそう言うと、アドラは慌てて彼の手を引いて強引にその部屋から外に連れ出す。まだ彼の話を聞きたかったシャルロットは不満そうな表情を浮かべながらも、とりあえず、彼から聞いた話を自分の頭の中で復唱することで、少しずつ覚えていこうとする。
 そんな彼女を放置して部屋の外に出たアドラは、周囲に人がいないことを確認した上で、コーネリアスに改めてクギを刺す。

「その話は、まだ人前で言っちゃダメなんだってば」
「あぁ、そうだったな」
「で、使い心地はどう? そろそろ、名前付けてもらえないかな……?」

 そう、魔境探索の直前にアドラから貰ったミスリルの短剣の件について、お互いに色々と忙しかったこともあり、まだコーネリアスは彼女に何も伝えていなかったのである。

「使い勝手は申し分ない。魔境を生み出した混沌核を破壊する時も、音楽祭の時に現れた幽霊と戦う時も、抜群の切れ味だった。普通の武器では、こうはいかなかっただろうな。名前については……」

 実はまだ考えていなかったコーネリアスは、少し間を空けて考えた上で、自分の中で生まれた心情をそのまま言葉にする。

「『死想剣』はどうかな。この刃がもたらす『死』の意味を想いながら振るう剣、という意味で」

 武器は敵を殺すためのもの。いかに建前を飾ろうとも、それが現実である。なればこそ、そのことを自覚した上で、そのことの持つ意義を想いながら用いる剣というのは、「武器職人」としての道に進むべきか迷っているアドラにとっても、色々な意味で深い含蓄のある言葉であるように思えた。

「ありがとう、いい銘だね。私もその覚悟を持って、改めて、親父さんを説得してみるよ」

 そう言って、アドラはその場を去っていく。どうやら彼女の中でも、色々な意味での「覚悟」が固まったようである。
 そんな彼女を見送りつつ、改めて部屋に戻ってシャルロットに話の続きをしようとしたコーネリアスに対して、今度はまた別の人物が声をかけた。かつてはそのアドラ達親子を焼き殺そうとした元聖印騎士団の従騎士、アルファ・ロメオである。

「あ、コーネリアスさん、御客人ですよ」

 自分よりも見た目も実年齢も年下のコーネリアスに対して、一応、彼は(自分よりも古参で格上の立場ということで)「さん」付けで呼んでいる。と言っても、その口調はどこかフランクであり、あまり深い敬意は感じられない。

「なんか、コーネリアスさんの知り合いだと言ってる女の子が、品の良さそうなお爺さんを連れて、この村に来たみたいです。てか、いいよなぁ、コーネリアスさんの回りは可愛い女の子ばっかりで……」

 そんな恨めしそうな羨ましそうなアルファのボヤキを聞き流しつつ、コーネリアスはその二人が待っているという駐屯所の前へと向かう。そこで彼が目にしたのは、数年ぶりの再会となる、幼馴染みの小柄な少女であった。

7.1.4. 幼馴染みの騎士

「あ、コーちゃん、久しぶり♪ 意外に近くの村にいたんだね。気付かなかったよ」

 コーネリアスと目が合った瞬間にそう言って近付いてきたのは、メサイアの聖印を持つ少女、ナンシー・ユリガンである(下図)。


 彼女の父ナイトハルト・ユリガンは、コーネリアスの父アウグスト・バラットの副官だったため、二人は家族ぐるみの付き合いの幼馴染みであり、子供の頃は「大人になったら、一緒に騎士団に入ろう」と誓い合った仲であった。彼女は年齢的にはコーネリアスと同じ14歳であり、その歳にしてはやや小柄な方ではあったが、それでも120cmのまま身長が止まっているコーネリアスとは、頭一つ分くらいの身長差がある。
 彼女の現在の爵位は騎士。そして、メガエラの北西に位置するティスホーンの村を支配する「四人の君主」の一人であり、彼女はその聖印をヴァレフール伯爵ブラギス・インサルンドに捧げている従属騎士でもある。これは、ティスホーンが中立を保つために選んだ戦略的な措置であり、彼女以外の三人のうち、実質的な筆頭格であるトーニャ・アーディング以外の二人は、アントリア子爵ダン・ディオードと、聖印教会の本拠地である聖地フォーカスライトの大司教ロンギヌス・グレイに、それぞれ自分の聖印を捧げている。
 一方、彼女の傍らにいる老人に関しては、コーネリアスは見覚えがない。見たところ、いかにも執事風の出で立ちだが、コーネリアスやナンシーの実家で雇っていた人物でも、トランガーヌ子爵家に仕えていた人物でもなさそうである。

「この人はね、ここの領主様の実家で働いていた執事さんなんだって」

 ナンシーにそう紹介されると、その老人はうやうやしく礼をしながら自己紹介する。

「はじめまして。ルードヴィッヒ家の執事を務めておりました、グレイスンと申します。十数年前、不覚にも私が商品の買い付けのために出払っていた時に、混沌災害でお屋敷が全焼してしまい、御館様夫婦はお亡くなりになり、ゲオルグ様やルルシェ様とも生き別れの身となってしまいましたが、最近、ゲオルグ様がこの地の領主に就任したと聞き、遅ればせながら御挨拶に訪れた次第です」

 コーネリアスが見たところ、この老人からは聖印の力も邪紋の力も感じられない。タクトを持っている様子もないので、おそらく魔法師でもない、ごく普通の一般人のようである。これと言って怪しい雰囲気でも無かったので、領主に会わせても問題は無さそうだったが、残念ながらまだゲオルグはエーラムから帰ってきていない。ならば、ひとまずルルシェに会わせてみるべきかと考えた彼であったが、その前に一つ、気になる点がある。なぜこの人物を、ティスホーンの領主の一人であるナンシーがわざわざ連れてきたのか?
 この疑問に関しては、コーネリアスが聞く前に、ナンシーが自ら喜々として説明する。

「このお爺さんがウチの領内を通ろうとした時に、突然出現した魔境に飲み込まれそうになったところを、ウチのシャイナ姉様が助けてね。話を聞いたら、ラキシスに行こうとする途中だったっていうから、それなら、私も別件で用事があるから、一緒に行きましょう、ってことになったの」

 「シャイナ姉様」とは、彼女と同じ「ティスホーンの四騎士」の一人、シャイナ・ツイストのことである(下図参照)。彼女はブレトランドにおける聖印教会の本拠地フォーカスライトを治める“大司教”ロンギヌス・グレイに聖印を捧げている身であり、ナンシーとの間に血縁関係はないが、ナンシーは彼女への憧憬心が強いため「姉様」と呼んでいるらしい。


「はい、そうなのです。実は私、現在はルードヴィッヒ家の遠縁のエアリーズ家に仕えているのですが、現在のご主人様と共に公務でダーンンダルク城を訪れていた時に、ゲオルグ様の噂を聞いて、いてもたってもいられずに、ご主人様にお願いして、私一人だけ、アレクトー・ティスホーン経由でラキシスへと向かわせて頂くことになったのです。しかし、あまり土地勘がなかったもので、投影体の出現しやすい道を選んでしまったようで、気付いたら目の前に不思議な魔境が広がっておりまして、あやうくその魔境に取り込まれてしまいそうになったところで、その場を通りかかったシャイナ様に……」

 元執事のその老人は、事細かにその状況を説明しようとしていたが、それを遮るように、コーネリアスが彼の発言の中にあった一つの固有名詞に反応する。

「エアリーズ家、だと……?」

 ダン・ディオードを倒すため、アントリア方面の情報収集は欠かさないコーネリアスにとって、それは聞き捨てならない家名であった。彼の記憶が間違っていなければ、エアリーズ家の現当主は、アントリア騎士団の副団長アドルフ・エアリーズの筈である。
 今、自分の前にいるこの「無害そうな老人」が、「自分が仕える領主の元召使い」であると同時に、
現在は「宿敵アントリアの幹部に仕える者」であると知って、彼の身体が小刻みに震え始める。自分の中で突然生まれた強烈な「殺意」を、なけなしの理性で頑張って押さえ込もうとしているが、明らかに抑えきれていない。
 その状況から危険性を察知したアルファ・ロメオが、すかさずその老人をその場から遠ざけようとする。

「そ、それじゃあ、お爺さん、僕がルルシェ様達のお屋敷までご案内しますね」

 アルファは焦った口調でそう言いながら、老人をその場から連れ去っていく。どうやら、コーネリアスの前でアントリアの話題は禁句だということは、彼もガイアやルルシェから何度も聞かされているらしい。
 一方、よく事情が分からないまま、やや呆気にとられた表情を浮かべていたナンシーであったが、すぐに気を取り直し、彼女自身がラキシスに来ることになった「別件」の内容について語り始める。

「あのさ、コーちゃん、最近、この村に『大きな樽』を持った人とか、来なかった? コーちゃんくらいの大きさの子供が入れるくらいの大きさの樽を持った商人とか……」

 いきなり、訳の分からないことを聞かれたコーネリアスだが、さすがにそう言われても「知らない」としか答え様がない。どうやら、彼女の治めるティスホーンに所属する時空魔法師の「予言」によると、その「大きな樽」が、「彼女が探している何か」に関連した物品らしいのだが、そんな曖昧な情報だけでは、何とも特定の仕様がない。
 とりあえず、この村に来る旅人や商人に関しては、村の検問を担当しているメルセデスが詳しいのではないかと考えた彼は、ナンシーを彼の元へと案内する。すると、その話を聞いたメルセデスは、少し頭を傾げながら、頑張って記憶を紐解こうとしていた。

「そういえば最近、エスメラルダ先生と一緒に来た荷馬車に、でっかい樽が乗ってたような……」

 メルセデス曰く、数日前にエスメラルダが何人かの従者らしき者達と共に「荷馬車」を連れてクローソー方面から帰ってきたことがあったらしい。彼女がいつの時点で何のために出掛けていたのかも分からないが、方角的に、おそらくメガエラへの出張顧問の帰りだったのではないかと推測される。
 そうなると、次はエスメラルダにその件について確認に行くべきなのだが、ここでメルセデスは言いにくそうな顔で、こう呟く。

「ただ、エスメラルダ先生は今、ヒュース殿と一緒に暮らしてるからな……。気軽に俺達が押し掛けていいかというと、ちょっとためらうんだよなぁ……」

 その話を聞いたコーネリアスは、珍しく「イタズラ好きの子供」のような表情を浮かべる。ひとまず彼は、ナンシーには「小料理屋:クレア」を紹介して食事を奢った上で、彼女にはしばらくそこに留まるように指示しつつ、自らは一人、ヒュースの自宅へと向かうのであった。

7.1.5. 同居生活

 ここで、話は数日前に遡る。

 いつも通りに内政官としての仕事を終えて家に帰ろうとした彼の前に、エスメラルダが現れた。曰く、どうやらここ最近、再び彼女の中で「何か」が疼くような感覚を覚えているらしい。端的に言って、それは先日の「街道上で『魔境』を出現させた時」と似たような状態なのだという。

「でも、あなたと一緒にいる時だけは、その『疼き』が収まるんです。ですから、申し訳ないですけど、しばらくあなたと一緒に生活させて頂けないでしょうか?」

 つまり、彼女はヒュースとの同居を希望している、ということである。一応、国の重臣であるヒュースには、それなりの家があてがわれているため、女性の一人を泊める(連れ込む)程度の余裕はある。ヒュースとしても、学生時代に色々と恩義のある先輩にそう言われたら、断る訳にもいかない。
 こうして、二人の「同居生活」が唐突に始まった。20代の男女が一つの家で一緒に暮らすということになれば、周囲の人々は当然「そういう関係」を連想する(しかも、彼女の「特異体質」の事情については、村人に話すと様々な不安が広がる可能性があるため、あまり公にする訳にもいかない)。だが、肝心の当人達が「そういう方面」に関して基本的に無頓着な性格であり、自分達に対してそのような「噂」が広がっていることにすら気付いていない様子である。
 とりあえず、ヒュースとしては彼女の精神を落ち着かせるため、時に他愛無い雑談で気を紛らわせつつ、ケットシーを呼び出して「癒し」の空間を演出したりするなど、様々な形で彼女をもてなしていく。

「まぁ、可愛い♪ 不思議ですね、私、猫を飼っていたことがない筈なのに、なぜだか、猫のあやし方を知っているような、そんな気がします」

 おそらくそれは、彼女の中で消されてしまった「学院時代の(召還師としてケットシーを呼び出していた頃の)記憶」の断片が、彼女の中で本能的に残っているのだろう。喉を鳴らしながら彼女にすり寄るケットシーを撫でながらそう呟く彼女は、自分自身の中で少しずつ、「疼き」が収まっていくのを感じていた。


 そしてこの日も、そんな形で淡々と「平和で健全な同居生活」を送っていた二人であったが、そこに突然、割って入る男が現れる。

「つまらん! もっとイチャイチャしてろよ!」

 コーネリアスである。どうやら彼はこの機会に、密かに「二人だけの空間」に忍び込んで、二人の「新婚生活」を覗き見したいと考えていたらしい。

「お、お前、一体どこから!? 部屋の鍵はかけてあった筈なのに……」

 そう言って驚くヒュースであったが、シャドウのコーネリアスにとっては、通常の鍵など、何の障害にもならない。とりあえず、せっかく忍び込んだのに期待外れだったことに失望したコーネリアスであったが、気を取り直して、本来の目的である「エスメラルダが運んできた樽」について尋ねるが、それに対して彼女は首を傾げる。

「私、ここ最近はこの村の外には出ていませんよ」

 そのことは、一緒に暮らしているヒュースも知っている。二人ともそれぞれの仕事があるため、四六時中一緒にいる訳ではないが、少なくともここ数日、朝と夜は同じ家にいたことは確認しており、その合間にエスメラルダが一人で遠出をすることは物理的に不可能な筈である。

「まさか、同じ顔の別人……?」

 どこか薄気味悪さを感じつつ、そう考えた彼等は、ここでふと、ある「二人」のことを思い出す。全く同じ顔を持つ女性達と言えば、確かに彼等には一組、心当たりがあった。

7.1.6. 聖女の正体

「ねぇ、あなた、本当にこの世界の住人なの?」

 地球人の少女・リナは、同じ顔を持つ君主・ルルシェにそう問いかける。ルルシェはリナのことを「なんとなく、一緒にいて心地の悪い存在」と思って忌避しているようだが、リナの方はルルシェに対して強い親近感を抱き、この日も勝手に領主の館の中の彼女の部屋に押し掛けてきていた。「自分と同じ顔の少女」に対する認識がここまで異なる原因は、この二人の性格の違いなのか、それとも、現在置かれている環境の違いなのだろうか。

「当たり前です。何を言ってるんですか」

 不機嫌そうにルルシェは返す。これまで、兄との血縁関係を疑われたことはあったし、混沌を浄化出来ないことから、本当に君主なのかどうかも怪しいと言われたこともある。しかし、まさかこの世界の人間であること自体を否定されることになろうとは、思いも寄らなかった。
 ただ、リナは思いのほか素直な性格のようで、「本人がそう言うのであれば、そうなのだろう」と、ルルシェの主張を全面的に受け入れた上で、そこから新たな仮説を展開していく。

「そう、じゃあ、やっぱり、この世界と私の世界はリンクしてるのね。きっと、あなたは『この世界における私』で、きっと他にも『この世界における私の友達に相当する人』もいるんだろうし、逆に、私の世界にも『私の世界におけるゲオルグ様に相当する人』がいるのよね、きっと」

 彼女が何を言っているのかよく分からなかったが、とりあえず、ルルシェとしては「地球人の言うことは適当に聞き流しておけばいい」ということが分かってきたようで、基本的にはそのままスルーしている。

「でも、ゲオルグ様とあなたって、全然似てないわよね? 本当に兄妹なの?」

 さすがに、これは聞き流す訳にはいかない。今まで散々言われてきたことだが、兄以上に自分と似た顔の少女に言われることで、なおさら複雑な心境にさせられるようである。

「本当の兄妹です」

 短くそう答えたルルシェに対して、リナは少し嬉しそうな表情を浮かべる。

「じゃあ、あなたがゲオルグ様と血が繋がった妹なら、私の『ライバル』にはならないってことで、いいのよね?」

 基本的に男女の仲のことについては無頓着なルルシェだが、ここでリナが何を言わんとしているかは、さすがに察しがついたようである。
 正直、ルルシェとしては、兄が誰と付き合おうが、結婚しようが、素直に認めるつもりではいたのだが、さすがに、自分と同じ顔の少女が兄の伴侶になるという状況は、生理的に受け入れ難い。この辺り、ルルシェはまったくもって「常識的な妹」であった。

「とりあえず、今、ゲオルグ様と『いい仲』の人って、誰かいるの? 私が見たところ、オロンジョさんが怪しいっぽいのよね。あと、もちろんマーシーさんも。それから、こないだ森で会った、隣の村の領主の女の子とも、まんざらでもなかったっぽいし。もしかして、この世界の主人公、私じゃないのかな? もしかして、私って、ゲオルグ様主人公のギャルゲーの攻略対象キャラの一人でしかないのかな?」

 一人で妄想に耽りながら語り続けるリナに対して、さすがにそろそろ嫌気がさしてきた頃、彼女の部屋をノックする音が聞こえてくる。

「ルルシェ様、御客人です」

 屋敷の警備を任されているレクサスの声である。ルルシェが入室を許可すると、そこに現れたのは、アルファがこの屋敷まで連れてきた、あの元執事の老人である。

「おぉ、あなたこそまさにルルシェ……、様?」

 ルルシェとリナの二人を目の当たりにして、その老人は一瞬、戸惑った表情を見せるが、直後に二人を凝視しつつ、少し動揺しながらも自信を持って話を続ける。

「い、いや、私の目はごまかされませぬぞ。あなたの方が、本物のルルシェ様ですな!」

 そう言って彼は、確かに「ルルシェ」に向けて語りかける。さすがに、幼少期からの彼女を知る彼は、たとえ顔そのものが同じでも、二人の醸し出す雰囲気の違いから、見分けることが出来たようである。しかし、一方でルルシェの方は、そう言われてもこの老人が何者なのか、今ひとつよく分かっていない様子である。

「お忘れですか? グレイスンです。じいやです。あぁ、なんと見目麗しくなられて……」

 そう言われて、ようやく彼女も彼のことを思い出す。生き別れたのが幼少期の頃だったので、あまり鮮明には覚えていなかったが、確かに彼女が住んでいた館には、今、目の前にいるこの老人が「じいや」として仕えていた。
 彼女がそのことを思い出すと、「じいや」ことグレイスンも、嬉しそうに語り始める。コーネリアスにも話していた通り、彼は今、ルードヴィッヒ家の遠縁の親戚にあたる、アントリア騎士団の副団長アドルフ・エアリーズに仕えている。ゲオルグやルルシェのことは、あの混沌災害で死んだと思っていたようだが、つい最近、「グリース男爵ゲオルグ・ルードヴィッヒ」を名乗る人物が現れたということを聞き、そのことを現在の主人・アドルフに伝えたところ、彼も興味を示したようで、会いに行く許可を出してくれたのだという。

「とりあえず、エアリーズ家に仕えているということは、コーネリアスという人の前では言わない方がいいですよ……」

 ルルシェはそう忠告したが、もう遅かった。ただ、その表情と先程の雰囲気から、グレイスンも「ゲオルグの部下の中に、アントリアを敵視している者がいる」ということは理解したようである。
 そして、やはりグレイスンとしては、今、自分の目の前にいる「もう一人の少女」のことは気になる。そんな視線を彼女に向けると、当人は笑顔で話しかけてきた。

「私はリナよ。よろしくね、お爺さん」
「そのお顔の持ち主ということは……、もしやあなた、地球人ですか?」

 この一言に、ルルシェが敏感に反応する。服や態度ではなく、彼女の「(自分と同じ)顔」から、「地球人」を連想したというのは、一体どういう意味なのか。そして、グレイスン自身も言った直後に「しまった……」という表情を浮かべたが、もう遅い。

「じいや、それはどういう意味ですか?」
「え? いや、その、それはですね……、えーっと……」

 しどろもどろにごまかそうとするが、さすがにルルシェとしても、ここは引く訳にはいかない。彼女自身、「自分が何者なのか」ということについて、そろそろはっきりさせたいと考えていたのである。
 そんな微妙な空気が流れる中、ルルシェの部屋に、新たな来訪者が現れる。

「ルルシェ殿、リナ殿、一つ、御尋ねしたい儀がございます」

 コーネリアスとヒュースである。彼等はどうやら「エスメラルダと同じ顔を持つ人物」について、似たような境遇にあるこの二人の意見を聞きに来たらしい。とは言っても、実際のところ、この二人も自分達の境遇がよく分かっていない以上、正確な答えが出せる筈もないのだが。

「なるほど。そういうことなら、私の推理では、可能性は三つね。一つは、ドッペルゲンガーの仕業。こういうファンタジーの世界には『相手と同じ姿に化ける魔物』がよくいるのよ。二つ目は、クローンによる産物ね。まぁ、世界観的にはちょっとそぐわないけど、既に滅びた古代文明とかなら、それくらいの技術を開発していてもおかしくはないわ。そして三つ目は……」

 相変わらず、訳の分からない仮説を展開するリナの話を、よく分からないまま聞かされているコーネリアスとヒュースを横目に、「じいや」ことグレイスンは、ルルシェに密かに耳打ちする。

「先程の件ですが、後で他の方々のいない場所で、お話させて頂きます」

 グレイスンとしても、伝えて良いものかどうか迷ってはいたようだが、よく分からないまま憶測で誤解を広げるよりは、「真実」を知ってもらった方が良いと考えたようである。


 そして、コーネリアスとヒュースがリナと共に部屋を出ていった後、グレイスンはおもむろにルルシェに対して語り始める。

「まず、最初に申し上げておきますが、ルルシェ様は間違いなく、奥様のお腹から生まれた御子です」

 それを聞いて、ルルシェは安堵する。やはり自分は兄と血の繋がった兄妹なのだと確信出来たことに、心から喜んでいた。しかし、そこから続いて語られる「真実」を聞かされることで、彼女の心は再び混乱状態へと陥ることになる。

「しかし、旦那様の御子ではありません。そして、奥様と何者かの間の不義密通の子でもないのです。そのことは、旦那様の契約魔法師であったイシュザークの証言からも明らかです」

 グレイスンが契約魔法師のイシュザークから聞いた話によると、ゲオルグの母カーラは17年前、領内で発生した小さな混沌災害に遭遇した際に、自身の子宮の中に混沌核を発生させてしまったらしい。そしてイシュザーク曰く、それは地球界における「胎児」を投影する形で、カーラの胎内で具現化していったのだという。そして数ヶ月後に生まれたのがルルシェ、ということらしい。
 つまり、ルルシェを産んだのは間違いなくカーラであるという事実に鑑みれば、ゲオルグとルルシェは「兄妹」と位置付けるのが、この世界の倫理・常識に照らし合わせた上での一般的な解釈である。ただ、厳密に言えば、地球用語で言うところの「代理出産」の状態であり、彼女は血縁的には「兄」とも「両親」とも繋がってはいない。もっとも、この世界にはそのような技術など存在する筈もなく、遺伝子の存在自体も殆どの人々は知らない以上、この事実を知らされた上で、彼等二人を「兄妹ではない」と言えるかどうかは、非常に難しい問題である。
 ただ、ここまでの話を聞く限り、ルルシェは「投影体」として位置付けるべき存在の筈なのだが、現在のルルシェの身体から「混沌核」の存在を感知した者は誰もいない。それどころか、彼女は(不完全とはいえ)「聖印」の持ち主である。これは一体、どういうことなのか?

「私も詳しくは存じ上げないのですが、ルードヴィッヒ家には、代々長男に受け継がれる『特殊な力』があり、それを用いれば、『混沌核』を『聖印』に変えることが出来るらしいのです。現在は行方不明の『上のお兄様』が、そのお力を使って、ルルシェ様の中の『混沌核』を『聖印』に生まれ変わらせた、と伺っております」

 つまり、前述のマーシーの仮説は、ほぼ正しかったということである。唯一、違ったのは、ルルシェが胎児の状態で投影されていたということであるが、さすがにそこまで込み入った事情については、いかに時空魔法師の彼女であろうとも、推測するのは難しかったのであろう。

「そしておそらく、あのリナ殿は、地球において誕生されたルルシェ様に相当する人物が、誕生し、成長した後にこの世界に投影された方なのでしょう。そうでなければ、あそこまで瓜二つの顔をお持ちの方が現れるとは、考えにくいです」

 この点については、マーシー同様、グレイスンの中でもあくまで「仮説」レベルの話ではあるが、確かにそう考えれば、辻褄は合う。ルルシェが、見たこともない筈の「ミスリル」の存在を知っていたのも「リナの母親が、リナを身籠っていた頃にファンタジー小説を書いていた」という彼女の証言に照らし合わせてみれば、この世界に投影される段階で彼女の母親の魂が部分的にフィードバックされてしまったと考えることも出来る。そんなことが本当に可能なのか、と疑問に思うのも当然だが、「混沌」とは、常に不可解で、人々の想像を超えた「奇跡」を良くも悪くも引き出してしまう、そんな存在なのである。
 とはいえ、いきなりこんな突拍子もないことを言われても、ルルシェとしては、どこまで信用出来る話なのか皆目見当がつかない。とりあえず、このグレイスンの証言については「一つの可能性」として心に留めた上で、もうこの件については、これ以上深く考えるのはやめよう、と割り切ることにしたのであった。

7.1.7. 新たな恋敵

 こうして、ラキシスを訪れた様々な来訪者達が様々な混乱を引き起こしていた頃、本来はそのラキシスを守る自警団長のガイアは、隣村アトロポスを訪れていた。マーシーによって、アトロポスに駐在する監視員からの報告書の受け取りのために、この村に派遣されていたのである。
 ラキシスの「守りの要」である彼女に、あえてこんな「雑用」を押し付けたのは「そろそろ、また『彼』に会いたくなっている頃なのではないか」という、マーシーなりの配慮である。淡々と恋愛とは無縁の生活を送ってきた独身女性の彼女であるが、意外に、こういった類いの「気配り」は出来るらしい。

「今のところ、特に怪しい動きは無いと思います」

 アトロポスに駐在するラキシスからの監視員は、そう言ってガイアに報告書を渡す。ゲオルグもマーシーも、この村の領主エースのことは(ゲオルグに聖印を捧げている身とはいえ)信用出来ないと考えているため、他国との密通や資金隠しなどの兆候が無いか細かく確認させているのだが、幸いにして、今のところは特にそういった様子は見当たらないという。
 一応、ガイアはマーシーから「あなた自身の目でも、何か怪しい兆候がないか、確認しておいて下さい」とも言われていた。そのため、報告書を受け取るだけでなく、彼女自身もまた村の内部を巡回しつつ、あくまでも「その仕事の一環」として、「エースの側近の契約魔法師」の家にも「監査」に行く義務はある。

「マスター、心拍数が上がっているようですが、大丈夫ですか?」

 そんな「建前」とは裏腹に、なぜか心が舞い上がっている彼女に対して、KX-5は問いかける。

「あ、うん、大丈夫よ、心配しないで」

 口元に笑みを浮かべながら、そう言ってリンの家の近くまで来たところで、彼の家から、見覚えのある一人の女性が出てくるのが目に入った。

「ありがとうございました、リン様♪」

 今のガイアと同じ様なテンションの声で、彼の家から出てきたのは、一人の騎士風の鎧に身を纏った女性である(下図)。その直後に彼女はガイアと目が合うと、驚きつつも嬉しそうな表情で叫ぶ。


「あー! ガイアじゃない! 久しぶり♪ 私のこと覚えてる? ロザン一座のペルセポネよ」

 そう言って、彼女はガイアに駆け寄ってくる。彼女はかつて、ラキシス村にも定期的に公演に訪れていた旅芸人の一座で、剣舞を披露していた少女である。名は、ペルセポネ。歳の頃は、ガイアの二つ下だったと記憶しているので、現在18歳の筈である。

「久しぶりね、ペルセポネ。どうしたの、こんなところで?」
「私ね、笑っちゃうだろうけど、色々あって、ティスホーンで『領主様』やってるのよ。といっても『4分の1』だけだけど」

 そう、彼女もまた、前述のトーニャ、シャイナ、ナンシーと共にティスホーンを治めている四人の騎士の一人なのである。当初は旅芸人の一員にすぎなかった彼女は、トランガーヌ領内での公演の際に聖印の力に目覚め、偶然その時に観劇していた騎士団長アウグスト・バラッドの目に止まったことで、騎士団の一員としてスカウトされたらしい。血統が途絶えていたトランガーヌ騎士の名門「サーデス家」の名跡を継ぎ、現在は「ペルセポネ・サーデス」と名乗っている。
 そして、彼女が聖印を捧げている相手は、トランガーヌの遺臣達にとっての最大の仇敵、ダン・ディオードである。この役回りを彼女が担うことになったのは、彼女が「外様」であるが故に、このような屈辱的な行為に対しても、古参の騎士達よりは心理的抵抗も少ないだろう、というトーニャの判断である。無論、彼女の中でも自分を抜擢してくれたアウグストへの恩義はあるため、複雑な心境ではあっただろうが、ティスホーンが中立を守るために、誰かがやらねばならない仕事であるとトーニャに説得されて、その任を受けることを決意したらしい。

「私がここに来たのはね、ちょっと人探しというか、何と言うか、極秘任務なんだけど……、あなた、この辺りで、酒を取り扱ってる行商人っぽい人達とか、見なかった?」

 なんとも曖昧な質問であるが、そもそも「お使い」でアトロポスに来ただけのガイアが、そんなことを知る筈もない。当然、アトロポスにも酒場はあるし、酒を取り扱う行商人もいるだろうが、そこまで細かい情報までは、ラキシスから派遣された監査員の者でも把握しているかは怪しい。

「うーん、心当たりはないわね」
「そっかぁ。リン様も見たこと無いって言ってたしなぁ。この辺の筈だと思うんだけど……」

 ペルセポネの口から再び「リン様」という言葉が出てきたことに、ガイアはピクッと反応するが、彼女がそのことにツッコむ前に、ペルセポネがその話題を広げ始める。

「ところで、リン様って、昔からカッコ良かったけど、エーラムから帰ってきてから、前よりも一層、素敵になったわよねぇ」

 どうやら、ガイアの中での悪い予感が当たったようである。思い返してみれば、彼女がまだ旅芸人の一座にいた頃から、彼女はリンの目の前で剣舞を披露する時だけは、いつも以上に気合いが入っていたような気もする。

「昔の私じゃあ、子供すぎて相手にしてもらえなかったけど、今だったら、アタックしてもイイかな? イケるかな? ねぇ、どう思う?」

 そう言いながら、昔よりも遥かに「女性らしい体型」へと成長したペルセポネは、その身体を見せつけるようにガイアに迫りながら問いかけるが、それに対してガイアは、どう答えて良いか分からずに、イジイジした様子で下を向く。

「それは……、ダメ……」
「え? どうしてよ? 別に、オロンジョさんともくっついてないんでしょ?」
「そうなんだけど、それは、ちょっと……」

 赤面しながら、言葉が出てこないガイアを見かねたのか、突然、彼女が背負っていたKX-5が、ショルダーキーボードの状態から「人間体」へと姿を変え、二人の間に立ちはだかる。

「リン殿は、私のマスターのパートナーです。必要以上に親しくされるのは、おやめ下さい」

 そう言って現れた、金銀に輝く美少年(?)に対して、ペルセポネはおもわず仰け反る。どうやら、彼女は「オルガノン」という存在自体について知らないらしい。

「な、何なのよ、アンタ!?」
「私は、マスターの所有物です。マスターを困らせるような言動は、お控え下さい」

 事態をよく把握出来ていないペルセポネだが、少なくともこの青年が言うところの「マスター」がガイアを指しているということは、文脈上、なんとなく理解はしていた。

「ちょっと、どういうことなのよ? この子がアンタの所有物で、リン様がアンタのパートナーって、一体どういう了見!?」
「パートナーだなんて、そんな……」

 そう言いながら、更に赤面するガイアであるが、その様子から大方の事情を察したペルセポネは、自分の中でのガイアの位置付けを「昔馴染み」から「恋敵」へと切り替え、その鋭い眼光で睨みつける。

「とりあえず、どこまで発展してるのか知らないけど、まだ結婚してる訳じゃないのよね? じゃあ、私にもチャンスはあるわよね? リン様だって、心変わりする権利はあるわよね?」
「心変わりなんて……、させない!」

 ようやく意を決して、はっきりとそう言い切ったガイアに対して、ペルセポネは改めて激しい瞳で彼女を睨むが、すぐにその視線をそらす。

「まぁ、いいわ。とりあえず、今日のところは私は任務があるから、引き下がるけど、私、リン様のことは絶対に諦めないからね!」

 そう言って去っていく彼女を、なんとも言えない心境で見送りつつ、ガイアはリンの家の扉を叩く。

「おぉ、ガイア、来てくれたのか。今日はどうしたんだ? さぁ、上がってくれよ」

 リンは満面の笑顔でガイアを部屋に招き入れる。本来ならば、幸せな空間が広がる筈であったが、今のガイアとしては、その優しい笑顔も、素直に受け入れる気にはなれない。

「私は、公務でアトロポスの監査のために来たんだけど……、さっき、ペルセポネがこの家から出てきてたわよね?」

 力のない声でそう問いかけるガイアに対して、「誤解」が発生していることを察したリンは、露骨に狼狽した様子を見せる。

「あ、いや、その、それは、久しぶりに会ったから、その、なんというか、懐かしくて、ほら、せっかく来てくれた訳だから、お茶くらいは出さないとと思って、いや、その、だから、別に、何もしてないというか、いや、ホントに、ホントに何もしてないから!」

 実際、リンはペルセポネに対して何もしていない。それは、先刻の彼女の様子から見ても予想はつくし、リンの性格上、久しぶりに会った昔馴染みにいきなり手を出すとは考えにくい。そんなことは分かっているのだが、しかし、それでも、ガイアとしては納得いかない。

「リンちゃん、どうして私の目を見て言ってくれないの? いつもそうだよね?」

 彼は、動揺したり、気持ちが高ぶったりした時には、いつもガイアから目をそらす。それが彼女には前々から不満だった。

「そ、それは、その……、お前の目を見てると、冷静じゃいられなくなるから、それで……」

 分かっている。リンがそういう性格だということは、今も赤面しながら呟くように答えている彼の様子からも分かっている。だが、それでも、ガイアはそれが不満なのである。
 彼女は両手の掌でリンの顔をはさみ、強引に自分の方に向ける。

「…………バカ」

 そう言われたリンは、ただ黙って、そのままガイアの視線を受け続けることしか出来なかった。

7.2.1. 山奥に潜む影

「グライフ殿、一つ聞きたいのだが、この世界において、魔法師や邪紋使いや投影体が、何らかの力によって『聖印』を持つ君主に変わった、という事例は存在するのか?」

 エーラムからの帰還の途にあったゲオルグは、案内役のグライフにそう尋ねる。マーシーが語っていた仮説がどこまで現実性を持ちうることなのか、どうしても確認したかったようである。

「数は少ないですが、いずれも実例はあります。魔法師から君主に転身した者は過去に何人かいますし、身体から邪紋を取り払った上で聖印を生み出すことも、ごく限られた特殊な状況であれば、出来なくはないです。そして、投影体だった者が君主に変わったという事例も、私自身が実際にその場に立ち会った訳ではありませんが、話としては聞いたことがあります」

 エーラムの中でも屈指の実力者と言われるグライフがそう言うのであれば、確かに、マーシーの仮説もそれほど突拍子もない話でもないのかもしれない。しかし、それでもさすがに、ルルシェが投影体という話を、そう易々と信じ込む気にもなれない。そんな複雑な気持ちを抱きながら、彼はティファニアと共に中立港ユーパンドラを経由して、アントリア領を通って自領の本拠地へと帰還する。さすがに、エーラム最強クラスの魔法師が護衛についている状態で、彼等に手を出そうとする者は、誰もいなかった。
 こうして、無事にラキシスに帰り着いたゲオルグは、久しぶりに目の当たりにした「自分の村」の家並みが前よりも綺麗に整備されていたり、村の広場から聞いたことがない美しい女性の歌声が聞こえてきたり、色々な変化が村で起きていたことを実感させられる。だが、そんな彼に対して、マーシーはそれ以上に重要な「憂慮すべき情報」を切り出してきた。

「ここ最近、ミスリル鉱山の更に奥地に、我が国の人間ではない何者かが潜んでいるようです。オリバー組の方々の安全のためにも、ここは全力で討伐隊を出しましょう」

 帰国早々、いきなりの大仕事を提案された訳だが、ミスリル鉱山は村の経済の根本的な土台であり、どんな目的であれ、そこに侵入者がいるとなれば、それが人間であろうと、投影体であろうと、放置する訳にはいかない。とりあえず、オリバー組の者達から詳しい話を聞いてみたところ、確かに、怪しい「人影らしき何か」を見た者は何人かいるのだが、その中に一人、気になる証言をしている者がいた。

「そういえばこないだ、夜中に鉱山の近くでエスメラルダ先生を見たな。『危ないですよ』って声をかけたら、『大丈夫。ご心配なく』って言ってたけど」

 この件について、エスメラルダ本人に確認してみたところ、彼女はこの村に来て以来、鉱山に近寄ったことは一度もないという。彼女が目撃されたとされる時間帯についても、その日の夜は確かに彼女はヒュースの自宅にいたと、ヒュース自身も証言している。。そうなると、やはり、何らかの「もう一人のエスメラルダ」がいるとしか考えられない。ドッペルゲンガーなのか、クローンなのか、それともルルシェとリナのような関係なのか。様々な憶測が飛び交う中、実はこの時点で、エスメラルダの中では一つの「心当たり」があったのだが、そのことを言い出せずにいた。なんとなく、その心当たりが「はずれ」であってほしいと願っていたのである。
 とりあえず、ゲオルグとしては、エスメラルダの件はひとまず脇に置きつつも、鉱山の奥地は早急に調査する必要があると考えた結果、アトロポスから帰還したガイアも含めて、鉱山の侵入者への調査隊を動員しようと、ラキシス軍全体に対して指令を出す。
 そして、そんなゲオルグのことを昔からよく知る元執事のグレイスンは、その彼の様子を、遠くから静かに見守っていた。

(ゲオルグ様、御立派になられましたな……)

 本来ならば、彼に直接会って色々と話をしたいところだったが、先刻のコーネリアスおよびルルシェとのやり取りから、今のゲオルグが、今の自分が身を置くアントリアとは敵対する可能性が高いということを察した彼は、今の自分が彼の前に現れると、色々な意味で迷惑になるかもしれない、と考えていた。
 実は、エーラムでの授与式にゲオルグ宛の花を送るよう、主人であるアドルフ・エアリーズに直訴したのもグレイスンであり、その花が無事に届いたかどうかも確認したかったのだが、もしかしたら、それも「余計なお世話」だったのかもしれない(そして実際、その憶測は正しかった)。そう考えた彼は、あえてゲオルグには会わずに、このままアントリアに戻ることを決意したのである。

(ゲオルグ様、ルルシェ様、どうかお元気で……)

 先々代当主の頃からルードヴィッヒ家に仕えてきた忠臣グレイスンは、このブレトランドの地において、再び「ルードヴィッヒ家」が再興していくのを横目に見ながら、それがもはや「自分の知っているルードヴィッヒ家」ではないこと、そして、そこにはもはや自分の居場所はないことを実感しつつ、静かに「今の主人」の許へと帰っていったのである。

7.2.2. 姉と……

 こうして、ゲオルグ、ヒュース、ガイア、コーネリアス、ルルシェに率いられる形で、ラキシス軍の精鋭部隊が「山狩り」へと出陣していくことになった。本格的な出陣は対アトロポス戦以来となるが、この間、ミスリル貿易の進展に加えて、エスメラルダ、リナ、シャルロットを初めとする「様々な知識」を持つ者達が村に加わったことで、ラキシス村の経済は飛躍的に発展を遂げ、兵士達の装備も前よりも格段に向上していた。と言っても、今回は山岳での「得体の知れない相手」との戦いということもあり、不安要素も多い。
 こうして、周囲の状況を確認しながら、現時点で採掘が進められている区画よりも更に奥地へと彼等が足を踏み入れて行くことになる訳だが、彼等がその中の一つの山の中腹に差し掛かった頃、ヒュース隊の目の前に、一人の「よく見たことのある人物」が現れた。エスメラルダである。

「ヒュース、あっちの方の山の麓の洞窟に、怪しい人達が出入りしてたわ。でも、今なら大丈夫。彼等は出払ってるから、今のうちに、さぁ、行きましょう」

 そう言って「エスメラルダ」はヒュースに近付こうとするが、ヒュースは冷徹に言い放つ。

「誰だ、お前は?」
「誰って、私よ、エスメラルダよ、分からないの?」
「先生なら今、この部隊の中央で、兵達に守られている筈だ」

 そう、実はヒュースは今回の作戦にあたって、エスメラルダを一人で村に残しておくことに不安を感じ、あえて彼女を作戦に同行させていたのである。それに、ここ数日、彼女と寝食を共にしてきた彼には、今、目の前に現れた人物が、「いつも自分と一緒にいるエスメラルダ」とは明らかに異なる雰囲気を醸し出していることにも気付いていた。
 そして、彼のその態度から、もはや彼を騙すことは出来ないと察した、その「エスメラルダによく似た人物」は、それまでの穏やかな笑顔から一点して、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「チッ、せっかく親切に教えてやったのに。いいわ、信用しないなら、勝手にしなさい」

 「彼女」はそう言って、その場から去ろうとするが、さすがにこのまま逃がす訳にはいかない。すぐに兵達に命じて身柄を拘束しようとするが、その瞬間、彼等の足下の地盤が突然、崩れ始めた。

「『姉さん』が近くにいる時の私は、あんた達じゃ相手にならないわよ」

 そう言って「彼女」が不気味な笑みを浮かべると、「彼女」の周囲に突然、次々と巨大な混沌核が収束し始める。見たところ、彼女が魔法を唱えたような様子もない。いわば自然現象であるかのように、しかし、明らかに彼女を守るように、そこに巨大な投影体が次々と出現し始めたのである。
 この異変に、ゲオルグ隊を初めとする他の部隊もすぐに気付き、駆けつけようとするが、彼等もまた、突然の足場の地割れにより体制を崩す。中でも厳しい状況に追い込まれたのは、ルルシェ隊である。彼女達はその地割に飲み込まれるように、新たに生じた割れ目の底へと落下してしまう。

「ルルシェ!」
「大丈夫です、兄さん。それより早く敵を……」

 地割れの底から妹の声が聞こえるのを確認すると、残った四部隊が「彼女」に向かって襲いかかろうとするが、その瞬間、彼女の回りで収束していた混沌核が、その姿をはっきりと現す。それは、かつてオリンポス界において神々に反抗したと言われる「巨人」達であった。一人一人が、人間の一部隊に相当するほどの巨大な存在を目の当たりにして兵達は驚くが、それでも怯まず、彼等はゲオルグ達に導かれながら、巨人達に向かって斬り掛かっていく。
 こうして始まった、「彼女」を中心として次々と現れる巨人達との戦いは、永劫に続くかと思うほどの長期戦となった。ヒュース達がいくら「彼女」を攻撃しようとしても、それを「新たに産まれた巨人」が庇ってしまうため、状況が全く進展しない。しかし、やがてこの状況に辟易したのか、最終的には「彼女」は巨人達を残して、その場を立ち去っていく。それを追撃しようとするラキシス軍の猛攻を巨人達が受け止め続けたことで、結局、「彼女」は逃してしまったものの、どうにか巨人達の掃討には成功した。
 一体、「彼女」は何者なのか。状況的に考えて、「彼女」が「姉さん」と呼んでいたのがエスメラルダであることは、おそらく間違いないだろう。そう考えると「彼女」の正体はおのずと予想が出来る。というよりも、ドッペルゲンガーやクローンなどといった発想以前に、もっと単純な答えがあったことを、ようやく彼等は思い出したのである。

「エスメラルダ先生、もしかしてあなたには、双子の妹がいるのでは?」

 しかし、そう問われた彼女は、意外にもその仮説をあっさりと否定する。

「いえ、私に妹はいません」

 その上で、彼女はこう言った。

「私に顔がそっくりの、双子の弟はいますけど……」

 エスメラルダ曰く、その弟の名は、アンドロメダ。本来は女性名だが、これは女子双子と勘違いした祖母が勝手に付けてしまった名前らしい。そのせいか、アンドロメダは身体的には男性だが、姉と同じ「女性」であるかのように育ったという。昔から、姉弟で一緒にいる時には不思議な現象が起こることが多々あり、姉同様に魔法師としての素質があるのではないかと言われていたが、エーラムの入学試験では全くその力を発揮出来なかったため、不合格となったらしい。そして、エスメラルダが全ての記憶を奪われて実家に帰還した時、その学院の措置に憤りを感じた「彼」は家を飛び出し、それから行方不明になっていたという。
 今、「彼」が何を考えて彼等の前に現れたのかは分からない。ただ、少なくとも今の「彼」は、明らかに混沌を操る「力」を有している。しかし、それはヒュースがエーラムで学んだ召還魔法とは明らかに異なる術法であった。そしておそらく、エスメラルダのフリをしていたのも、今の彼女が村内で「顔パス」状態であることを利用して、このラキシス近辺で何かを為そうと考えていたのであろう。
 こうして、様々な形での「嫌な予感」が皆の心に広がる中、ひとまず彼等はそのまま、鉱山の奥地の探索を続けることになる。

7.2.3. 不可解な「樽」

 そして、現時点で他に手掛かりらしい手掛かりも全く見つかっていない状態だったため、ゲオルグ達は、罠である可能性を十分に考慮しつつも、アンドロメダ(と思しき人物)が言っていた「山の麓の洞窟」へと足を運ぶことになる。
 すると、その方角には確かに洞窟の入口のようなものが見えてきたが、その前に一人の魔法師らしき男がいるのが目に入る。それは、ゲオルグ達5人にとっては、確かに見覚えのある人物であった。

「おせーよ、馬鹿!」

 彼等の姿を確認すると同時に、その魔法師らしき男は突然、彼等に対してそう言い放つ。その顔と声は、明らかに、以前にクローソーの村はずれでゲオルグ達が遭遇した「クレアを攫ったと思しき魔法師達」の中の一人で唯一取り逃がした、あの男であった。

「とりあえず、この奥にあるモノを受け取ってけ。あと、アンドロメダからの伝言だ。姉さんに『魔法の力を取り戻したかったら、いつでもパンドラにいらっしゃい』と伝えておいてくれ、だとよ」

 一方的に彼はそう言い捨てると、突然、その姿がゲオルグ達の視界から消える。瞬間移動なのか、それとも、姿を消しただけなのかは分からない。いずれにせよ、その姿を完全に見失ってしまったゲオルグ達は、やむなくその捜索を諦め、洞窟の中へと足を踏み入れる。
 どうやら、あの「クレア誘拐事件の容疑者」も「アンドロメダ」も、パンドラの一員であることは間違いないらしい。しかし、パンドラという組織自体、「混沌崇拝者」と言われているが、具体的に何を目的にしているのか、未だによく分からない。ただ、この先に「何か」があるというのなら、たとえ罠であろうとも、それが何物なのかを確認する義務が、領主としてのゲオルグにはある。
 こうして、松明を掲げて洞窟の奥へと入った彼等が目にしたのは、巨大な一つの「酒樽」であった。まさにナンシーが言っていた「子供が一人入れそうな大きなの樽」である。おそらく、彼女やペルセポネが探していた「酒樽」とは、ほぼ間違いなくこの樽のことだろう。
 そして、近付いて耳を傾けてみると、その酒樽の中で、「何か」が動いているような音が聞こえてきた。

「コーネリアス、開けてみてくれ」

 嫌な予感を感じたゲオルグが、危険物の取り扱いに最も長けているであろうコーネリアスを指名する。彼が慎重にその酒樽に触れながら、ゆっくりとその「蓋」を取り外すと、その中にいたのは、両手両足を縛られ、猿ぐつわを噛まされた、7〜8歳くらいの少年の姿であった。
 見たところ、聖印の力も、邪紋の力も感じられず、投影体らしき気配もない。おそらくは魔法師でもないだろう。しかし、コーネリアスはこの少年が、ただの子供ではないことを知っていた。確かにこの少年の顔には、見覚えがあったのである。

「あなたは……、ジュリアン様!?」

 そう、彼の名は、ジュリアン・ペンブローク。このトランガーヌ地方を治めていた前トランガーヌ子爵ヘンリー・ペンブロークの長男である。アントリア軍によるダーンダルク城陥落以来、行方不明と言われていた少年が、こんな山奥の洞窟に放置された「樽」の中から姿を現すという事態に直面し、コーネリアスも、ゲオルグも、ただひたすらに度肝を抜かれる。パンドラに踊らされるかのように足を踏み入れたこの洞窟で、彼等は「とんでもない拾い物」と遭遇することになったのであった。

7.3.1. 護るための「力」

 ひとまず、縄と猿ぐつわを解かれたジュリアン(下図)は、自分を助けたシャドウが、かつて自分の父に仕えていたアウグストの息子であることにも気付いた上で、彼と、そしてゲオルグ達に礼を言う。


「助けて下さり、ありがとうございます。僕の名はジュリアン・ペンブローク。今はティスホーンで、旧トランガーヌ軍の人々に守られながら暮らしています」

 彼は自分が先代トランガーヌ子爵の息子であることは認めたが、あえてその肩書きを自分から名乗ろうとはしなかった。

「トランガーヌは、もう滅びた国です。そして今の僕は、まだロードですらない。ただの子供です」

 現在のティスホーンには、領主としてのトーニャ、シャイナ、ペルセポネ、ナンシーの四騎士だけでなく、魔法師や邪紋使いも含めて、多くの旧トランガーヌ残党の精鋭達が集っており、その軍事力は南トランガーヌの中立諸村の中でも最強と言われている。しかし、彼等が先代子爵の息子のジュリアンを擁しているという話は、この場にいる誰も聞いたことがない。
 ジュリアンが言うには、彼はティスホーンの領主の館の一角で、密かに匿われるような形で生活させられていたらしい。本来ならば、自分が先頭に立って皆を導いていかねばならない存在なのに、それが許されないのは、今の自分に「聖印」を生み出す力が無いからだと彼は考えているようである。

「僕のことを守ってくれる人達は沢山います。僕自身も、そんな彼女達のために戦いたい。でも、まだ聖印に目覚めていない僕を危険に晒す訳にはいかないと彼女達は考えているようで、それで、僕の存在を公にしてはくれないんです」

 君主が聖印に目覚める年齢は人それぞれであるが、成人してから目覚める事例も多いため、今の時点でのジュリアンが聖印に目覚めなかったところで、それは別に珍しい話ではない。むしろ、王侯貴族の場合、親から子へと聖印が受け継がれるのが一般的であり、その前に自力で聖印を生み出す事例の方がむしろ少ないとも言われている。ジュリアンの場合、その父の聖印がダン・ディオードによって奪われてしまったのだから、今の時点で彼が聖印を持っていないこと自体、本来ならば恥じるような事態ではない。
 しかし、ジュリアンとしては、今の「少女達に守られるだけの無力な自分」がどうしても耐えられないようである。今回も、夜中に突然、何者かがティスホーンの領主屋敷に侵入し、彼自身はそれにいち早く気付いたものの、何もすることが出来ないままその「何者か」によって誘拐されてしまったらしい。自分に力があれば、こんな事態にはなっていなかった筈であり、逆に言えば、こんな事態になっても自分では何も出来ないからこそ、自分の存在を必死で側近達が隠そうとしていたことの妥当性も認めざるを得ない。その状況に、激しい自己嫌悪と苛立を感じていた。

「トーニャには、聖印を分けてくれるように頼んでいるんです。でも、彼女は認めてくれない。たとえ一時的にでも僕が彼女の従属君主になるのは、君臣の道義に反する、と言って……」

 実際、このような状態においては、臣下から一時的に聖印を「従属聖印」を受け取り、それを独立聖印化した上で改めて「本来の主従関係」に戻す、という手法が取られることもある。それを潔しとするか否かはそれぞれの個人の信念次第なのだが、どうやら、ティスホーンの四騎士達は、その選択肢を認めてはくれないらしい。

「だから、あなたが名のある君主様なら、僕にその聖印を分けてもらえませんか? あなたの従属騎士という形でもいい。今の、彼女達に守られるだけの無力な自分は嫌なんです!」

 そう言って、彼はすがる様な瞳でゲオルグを見つめる。この瞬間、ゲオルグは、運命が自分に味方していると実感した。この少年はまさに、このトランガーヌ地方を再統一する上での「錦の御旗」となりうる。その彼を自らの「従属君主」にすることが出来れば、これから先の戦略を考える上で、これほど便利なコマはない。
 だが、内容が内容だけに、さすがに「二つ返事」で応じる訳にもいかない。ひとまず彼は、君主としての「道理」を解いて、この少年の反応を見ようとする。

「お前の気持ちは分かった。だが、この聖印は、私と我が国の領民達が力を合わせて混沌と戦い、そして勝ち取ってきたものだ。今のお前は、どういう理屈でこの聖印の一部をよこせと言っているんだ?」

 今、この場に旧トランガーヌの忠臣達がいたら、即刻斬り掛かられても文句が言えないような乱暴な言い方であるが、言っている内容自体は筋が通っている。ジュリアン自身、自分はあくまでも「亡国の王子」にすぎないことを自覚している以上、今の「何も出来ない無力な自分」が、何の見返りもなく聖印を分けてほしいと主張すること自体が図々しい話だと、素直に認めざるを得なかった。

「確かに、今の僕は、ただの無力な子供です……。でも、聖印を受け取った後は、その力であなたと、あなたの領民の人々のために用いることで、皆さんの力になりたい。それでは、ダメですか?」

 ゲオルグは、この少年が自分に素直に服従しようとしているこの現状に満足しつつ、ジュリアンに向かって「上から目線」のままこう告げる。

「分かった。では、お前に我が聖印の一部を授けよう。この聖印の力を更に成長させ、我が国の発展のために励むが良い」

 そう言って、彼は自らの聖印の一部をジュリアンに授ける。この瞬間、ゲオルグにとっては(エースに続く)二人目の「従属君主」が誕生する…………、はずであった。

「こ、これが、せ、聖印の、ち……か…………ら………………」

 そう呟きながら、ゲオルグの聖印を身体に受け入れようとしたジュリアンであったが、その途中、激しい苦痛に表情を歪める。

「くっ、くはぁぁぁぁぁぁ!」

 歯を食いしばって、その「痛み」に耐えようとしていた彼であったが、堪えきれずに大声で叫んでしまう。その様子を見て、ゲオルグもルルシェも、明らかに「おかしい」ということに気付く。聖印を受け取る時に、このような激しい苦痛を伴うことなど、普通はありえない。
 一方で、コーネリアスは、今目の前で苦しんでいるジュリアンの様子が、かつての混沌核に触れた時の自分とカブって見えた。だが、彼がそのことに気付いた時には、もう遅かった。苦痛に歪む表情のジュリアンの身体には、聖印の代わりに、禍々しい「邪紋」が浮かび上がってきたのである。

「これが、聖印の力、なんですね。これで僕も、立派な君主に……」

 そう言って、ジュリアンは自分の身体に何が起きているのかも気付かないまま、意識を失う。そして、この場にいる者達は誰もが、この異様な光景に目を疑っていた。ゲオルグは確かに聖印を彼に捧げた。しかし、その聖印は、なぜか「邪紋」という形で、ジュリアンの身体に取り込まれていったのである。
 こうして、誰一人として今のこの状況を理解出来ないまま、ひとまず、気絶しているジュリアンを再び「樽」に入れた状態で蓋をして洞窟を出たゲオルグ達は、このことを兵士達には告げないまま、静かに下山してラキシスへと帰還する。

7.3.2. 筆頭騎士の少女

 ラキシスに戻った彼等は、色々と逡巡しつつも、最終的には、ティスホーンからジュリアンを探しに来たと思われるナンシーに、一通りの事情を話す。ジュリアンが邪紋使いとなった経緯を聞かされた彼女は、顔面蒼白の状態で、その場に膝をついて崩れ落ちる。

「ジュリアン様、なんということに……」

 そう呟いた彼女だが、このあまりに奇妙な事態に対して、あまり驚いた様子は感じられない。どうやら、彼女の中で今のこの状態は「想定の範囲外」ではなく「想定内における最悪の結果の一つ」として位置付けられているようである。
 とりあえず、この状況に対して、自分一人では対応出来ないと判断したナンシーは、ひとまずティスホーンに戻り、実質的な筆頭騎士であるトーニャ・アーディングを連れてくると宣言する。ゲオルグとしても、今のこの状況のまま放置する訳にもいかないので、彼女の到着を待ち、それまではガイアとルルシェがジュリアンの身柄を守ることになった。


 そして数日後、早馬を飛ばして、ティスホーンからトーニャ・アーディングが駆けつける(下図)。さすがにその表情には動揺が隠せない様子だが、それでも極力冷静に、彼女はゲオルグ達に「ジュリアンの体質の秘密」を告げる。


「ジュリアン様は生まれつき、身体が聖印を受け付けない体質なのです。強引に聖印を引き継がせようとすると、それを邪紋として取り込んでしまう。そのことは、我が村の時空魔法師の『予言』を通じて、我々も知っていました」

 つまり、彼女達がジュリアンに聖印を渡さなかったのは、ただの「臣君の道義」だけの問題ではなかったのである。世の中には、確かに聖印を取り込めない体質の者がいる。コーネリアスやオロンジョも、本来は君主を目指していた筈が、混沌核を聖印として取り込むことに失敗し、邪紋使いとなった身である。ただ、普通はそういった体質の者は、従属聖印を受け入れようとしても、身体に入れることすら出来ない。ジュリアンのような形で取り込んでしまうのは、かなり異例の事態なのだという。
 だが、「いずれは父のような立派な君主になりたい」と夢見ている幼い彼にその事実を伝えるのは残酷だと考えていた彼女達は、あえてジュリアンには真実を伝えないまま、「いずれ自力で聖印を生み出せる様になるまでお待ち下さい」と言って、誰も彼に聖印を与えないよう、厳命していたらしい。いずれ彼が精神的に成長し、「現実」を受け入れられるようになった頃に全ての真実を伝えた上で、いずこかの姫君主との間で婚姻を結ぶことで、その血統を次世代へと受け継がせていく。それが彼女を含めたティスホーンの旧臣達の思惑であった。

「それが今回、このような事態になってしまったこと、極めて残念ではありますが、あなた方を責めるつもりはありません。そもそも、ジュリアン様を誘拐されてしまったのは当方の警備の甘さが原因ですし、あなた方に対しても、最初から事情を話して協力を要請しておけば、このような事態にはならなかったでしょう。あなた方を信用せず、自分達だけで奪還しようとした我々の責任です」

 そう言って、トーニャは神妙な表情を浮かべる。状況的に考えれば、「誘拐犯」の身柄を拘束出来ていない以上、その正体がゲオルグ達自身で、自作自演で助けたフリをしているだけなのではないか、と勘ぐることも可能ではあるが、トーニャは(少なくとも表面上は)その可能性については追求せず、淡々と現在の「状況」についてゲオルグに伝える。

「現在、お父上であるトランガーヌ子爵は、アトラタン大陸にて聖印教会と連携した上でのブレトランドへの帰還を計画中です。しかも、その計画に協力しているのは、聖印教会の中でも特に魔法師・邪紋使いへの敵愾心の強い者達であり、もし、ジュリアン様が邪紋使いとなったことを知られてしまうと、ジュリアン様を廃嫡しようとお考えになるかもしれません。最悪の場合、聖印教会との関係を維持するために、お命を奪おうとする可能性もあるかと」

 そう、これが、彼女達が「ジュリアンの特異体質」のことを表沙汰にしたくなかった最大の理由である。実際、旧トランガーヌ派の者達の中には、前トランガーヌ子爵が聖印教会と手を組んだと聞いて、自らの契約魔法師との関係を解約したり、邪紋使いを放逐したりした者もいた(ドクロ団を見捨てたDr.エベロもその一人である)。
 これに対して、ティスホーンは魔法師や邪紋使いを何人も抱え込んでいる状態であり、その意味では、大陸本土で活動する前トランガーヌ子爵とは明らかに距離を置いた独自路線を進みつつ、その一方で、シャイナにフォーカスライト大司教と従属契約を結ばせることで、聖印教会との対話の可能性も残している。彼女達としては、前子爵が帰還した後も、このギリギリのバランスの下でティスホーンの中立を保ちつつ、ジュリアンを聖印教会の手から守っていきたいと考えていたらしい。つまり、どうやら彼女達は既に、聖印教会と手を結んだ「先代トランガーヌ子爵」よりも、まだ何者にも染まっていない純粋な「ジュリアン」という一人の少年を守ることの方を優先しているようである。
 ただ、ここでジュリアンの存在がゲオルグという「他国の領主」に知られ、邪紋の力を受け入れてしまった以上、その戦略にも大幅な修正が必要となることを、トーニャは実感していた。とはいえ、まず今の時点でトーニャとしては、当然、ジュリアンの身柄を自分達に引き渡すことをゲオルグに要求するのだが、ゲオルグはその要求をはっきりと拒絶する。

「結果的に我が聖印を受け取ることは出来なかったが、私が聖印を与えたことで、ジュリアンは邪紋使いとなったのだ。こうなった以上、我が国が責任をもって、ジュリアンを立派な邪紋使いへと育て上げる」

 それがゲオルグの言い分である。とはいえ、ここまではトーニャも想定内であった。聖印を持てる可能性を無くしてしまったとはいえ、それでも「先代トランガーヌ子爵の息子」は、それだけで十分に利用価値がある。ゲオルグが彼を手元に残しておきたいと考えるのも彼女には理解出来た。

「では、ジュリアン様をお返し頂く代償として、私の聖印では足りませぬか? 現在、ティスホーンは形式的には四騎士の共同統治という形になっておりますが、他の三人はもともと私の部下です。私があなたの従属騎士になれば、実質的に、ティスホーンはあなたの傘下に収まったと言っても過言ではありません。それでも、ダメですか?」

 正直なところ、ゲオルグとしてはそれでも「足りない」。強力な武力を持ち、名馬の産地としても知られるティスホーンを傘下に治めることが出来るのは魅力的ではあるが、その提案を蹴ってでも手元に置いておくだけの価値がジュリアンにはあると彼は考えていた。それに、仮にこの少女が言う通り、四騎士の中では彼女の影響力が強かったとしても、周辺諸国の従属君主が混在している村に置いておいたままでは、いつその身柄を他国に奪われるか、分かったものではない。
 一方、トーニャの側としても、このゲオルグという人物がどこまで信用出来るか分からない以上、あっさりとジュリアンをそのまま委ねる訳にはいかない。最悪、どうしてもゲオルグが彼の返還に応じない場合に備えて、いくつかの「選択肢」を考えてはいたが、いずれも「不確定要素」の高い策のため、あまり使いたくはないというのが、彼女の本音だったのである。
 こうして、一人の少年の身柄を巡る両者の交渉は、しばらく平行線を辿ることになる。

7.3.3. 少年の決断

 その頃、渦中のジュリアンは、別室でルルシェやガイアに見守られながら、一人、思い悩んでいた。念願だった「皆を守る力」を手に入れることは出来た。しかし、それは彼が望んでいた力ではなかった。しかも、聖印や魔法とは異なり、邪紋は一度身体に刻まれたら、通常の方法ではそれを外すことは出来ない(というより、グライフが語っていたのは「例外中の例外」の話であり、基本的には「一度刻まれたら、二度と外れない」というのが常識的な見解である)。
 この世界において、村や町や国を治める権利を持つのは、聖印を持つ者だけである。現実には、聖印を持たない支配者も全くいない訳ではないが、エーラムを中心とした今の国際秩序の中では、それは「ならず者国家」扱いであり、現実問題として混沌を根本的に鎮めることが出来ない支配者では、民衆も安心して国を任せることは出来ないだろう。
 だが、それでも、「何も出来ない子供」だった今までよりはマシなのではないか、という気持ちも、彼の中にはあった。彼自身、昔は「父のような立派な君主になりたい」という大望があった。しかし、既にその父は行方不明となり(ジュリアンは、父の現状を聞かされていない)、治めるべき国も滅びた今、自分が為すべきことは、「自分が支配者となること」ではなく、「自分のために尽くしてくれる人々を守ること」だと彼は考えている。
 無論、君主となって混沌を恒常的に鎮められる力を得ることが出来るなら、その方が望ましいとは思う。しかし、今の彼にはそもそも、治めるべき土地はない。ティスホーンを守るだけなら、トーニャ達の聖印で十分である。彼女達の他にも、トランガーヌ地方には多くの君主達がいる。ならば、自分が「君主」となることにこだわる必要はないのではないか? むしろ、邪紋という「皆を守れる力」を手に入れたことを素直に喜ぶべきではないのか? そんな想いが、日に日に彼の中で強まってきたのである。
 ちなみに、彼の身体に刻まれていたのは、クローソーのカイ・ホルンと同じ「ライカンスロープ」の邪紋である。まだその力を全く使いこなせてはいないが、彼は自分の中で少しずつ「獣」としての能力が目覚めつつあることを感じていた。その能力(嗅覚?)の影響かどうかは分からないが、彼はふと、この屋敷の中に「自分の知っている人物」が来ていることに、直感的に気付いたようである。

「トーニャが来ているんですか?」

 ジュリアンにそう問われたルルシェは、少し迷いながらも、無難に答える。

「トーニャさんかどうかは分かりませんが、ティスホーンからどなたかが来ているようです」

 ルルシェとしても、何をどこまで彼に伝えて良いか、兄から何も聞かされていなかったので、そう答えるしかなかったのだろう。だが、ジュリアンはそれがトーニャだと確信していたようで、強い決意の表情を浮かべながら、ルルシェとガイアに訴えかける。

「僕を、その人の所に連れていってくれませんか? どうしても、直接話がしたいんです。お願いします」

 情に流されやすいガイアとしては、さすがに、こんな小さな子供に、真剣な瞳で必死に懇願されると、断りにくい。彼をその場に連れていくのが、グリースの戦略的に正しいことなのかどうかは分からなかったが、あえてここは彼女の独断で、彼を会談場へと連れていくことを決意する。そして、結果的に言えば、このガイアの判断は、グリースにとっても正解だったのである。


「ジュリアン様! よくぞご無事で……」

 ガイアによって連れて来られたジュリアンに対して、トーニャは感嘆の声を上げる。本当は、そのまま駆け寄って、全力で抱きしめたかったのだが、今のこの場でそのような行動に出た場合、彼を強引に連れ去ろうとする行為と解釈されかねないので、それを必死に理性で抑えていた。
 そして、そんな彼女の心境を知ってか知らずか、ジュリアンは彼女の目の前で、自らの邪紋を発動させる。と言っても、まだ今の彼に出来ることは、自分の身体の一部を獣化する程度のことしか出来ないのだが、それでも、自分がもう「昔の自分」ではないということを知らしめるには、それだけで十分だった。

「トーニャ、僕は、この邪紋の力を手に入れた。もう僕は、君達に守られるだけの存在ではないんだ。だから君達も、もうこれ以上、僕を守るために戦わなくていいんだよ。むしろ、これから先は、僕に君達を守らせてほしい」

 実際には、まだ今の彼にはそこまで言い切れるだけの力は全く備わっていない。そのことは、彼自身も分かっている。だからこそ、彼は今、自分が為すべきことが分かっていた。

「僕は、この国に残るよ。ティスホーンにいたら、君達は僕を必死に守ろうとするから、僕がこの力を鍛えることは出来なくなってしまう。僕は、君達を守れる力が欲しい。だから、この国で、ガイアさんやコーネリアスさんに、邪紋使いとしての戦い方を学ぼうと思う」

 その瞳に込められた少年の強い「信念」を感じ取ったトーニャは、自分の中でも一つの「決意」を固める。既にジュリアンが「邪紋使い」として生きていくことを決意したのであれば、もうこれ以上、彼を自分達の保護下に置き続けることは出来ない。彼が自分自身で自分の生きる道を決意した以上、トーニャとしては、彼のその選択を支持しつつ、「新たな道」を歩もうとする彼を改めて支え続けていくしかない、そう腹をくくることにしたのである。

「分かりました。では、ゲオルグ殿、ジュリアン様をお預け致します。ただし、その育成をあなた方だけに任せる訳にはいきません。我がティスホーンからも、ジュリアン様の健やかなる成長のために人員を派遣させて頂きますが、よろしいですね?」
「それは構わんが、誰を派遣するつもりだ? ヴァレフールやアントリアや聖印教会の従属聖印を持つ者など、我が領内に入れる訳にはいかんぞ」
「では、独立聖印を持つ私ならば問題ないですね? そして、我が村の邪紋使い達も」

 そう言われると、さすがにゲオルグとしても譲歩せざるを得ない。ひとまず、「兵を率いた上での領内への進軍」を禁止するという条件の上で、彼女の妥協案を了承する。
 その上で、トーニャは最後にもう一つ、意外な提案を提示してきた。

「私の従属聖印は、必要ありませんか?」

 この状況下において、トーニャは自ら、自分の聖印をゲオルグに捧げて、彼の従属騎士になると言い出したのである。

「それは……、そうしてもらえるのであれば、構わんが……」

 正直、ゲオルグとしてはその意図が分からない。確かに先刻、彼女は自分の聖印をゲオルグに捧げることを提案したが、それがジュリアンの身柄をティスホーンに返すことの交換条件としての提示であり、その要求を却下された上で、既に新たな妥協案に基づいて合意に至った今になって、なぜ何の見返りもなく、自分の聖印をゲオルグに捧げる必要があるのか?
 とはいえ、どう考えても、彼女の聖印を受け取ることが、ゲオルグにとってマイナスになるとは考えられない。純粋に自分の聖印が成長するだけでも大きなメリットであるし、彼女がゲオルグに対して叛旗を翻そうとした時に、彼女を無力化することも出来る。

「では、我が聖印を受け取り下さい、マイロード」

 そう言って、トーニャは自らの聖印をゲオルグに捧げ、ゲオルグはその分を彼女にそのまま「従属聖印」として返す。トーニャは満足した表情を浮かべつつ、改めてジュリアンの手の甲に「忠義の口付け」を残して、ラキシスを後にすることになったのである。

7.4. エピローグ

 こうして、「グリース国外における従属騎士」という、ゲオルグにとっては「イレギュラーな部下」が誕生し、ティスホーンは「四人の領主が、東西南北四方の領主に聖印を捧げる」という、より一層不可思議な政治体制へと移行することになったのである。
 だが、さすがにこの「奇妙な統治システム」は長続きしなかった。これから一ヶ月も経たないうちにティスホーンは正式に「新たな主」を迎え、それと前後して南トランガーヌ地方の命運を賭けた一大決戦の火蓋が切って落とされることになる。
 ゲオルグに仕える時空魔法師のマーシーには、そんな未来の青写真が見えていた。無論、未来の可能性は無限である。あくまでも、彼女に見えているのは「一つの未来」でしかなく、その先に広がる可能性もまた無限である。そして、仮にこの未来予想図の通りの決戦が実現したとして、誰がその勝者となるのかも、現時点で確かな結論が出せる訳ではない。
 彼女の仕事は、そんな様々な未来へと導かれる無数の選択肢の中から「『望ましい未来』へと繋がる道」を見つけ出すことである。無論、未来の可能性は無限とは言っても、現実には「どの道を選んでも繋がらない未来」もあるし、仮にそこに繋がる道があったとしても、あまりにも細すぎて見つけられないこともある。その一方で、様々な状況の変化によって、それまで確かに見えていた筈の「道」が見えなくなったり、逆に、それまでどうやっても見つけられなかった「道」が、突如としてはっきりと見えてくることもある。
 そして彼女はこの時、初めて、それまで存在すら感知出来なかった一つの「道」を発見した。もし、次の決戦にグリース軍が勝利すれば、まだ微かな道筋ではあるが、「彼女にとって想定外の未来」への道が開くかもしれない。その可能性が彼女の中で初めて、はっきりと見えてきたのである。

(まさか、本当にマイロードが、ダン・ディオードを……?)

 ブレトランドはまさに今、新時代を迎えようとしていた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2014年09月24日 03:46