第1話(BS01)「白き森の深淵」 1 / 2 / 3 / 4

1.1. 姫君主の朝

 ブレトランド島の中南部に位置する小さな村・メガエラ。この村の領主である15歳の少女の朝は、村の経理状況の確認から始まる。
 彼女の名は、ティファニア・ルース(下図)。つい先日まで、幻想詩連合の盟主国ハルーシアに留学していた彼女は、父である先代当主ボード・ルースの急病の知らせを受けて急遽帰国し、瀕死の父からこの街の統治権と聖印(クレスト)を委ねられ、今の地位に就いた。爵位も騎士(ナイト)になったばかりで、君主(ロード)としての実績もない。


「本日は、こちらの書類に眼をお通し下さい、お嬢さ……、いえ、マイロード」

 そう言って、彼女に行政書類を差し出したのは、農夫のような姿をした初老の男性である。彼の名はフェム・トゥレーン(下図)。先代のボードが領主に就任した頃からこの村を支え続けてきた古参の森林官である。


 この村の領内の、やや小高い丘にある森林では、(数十年周期で流行すると言われる)黒死病の特効薬となる「ヴィット」と呼ばれる特殊な薬草の生産地として有名であり、この村の公共施設の経費の大半は、そのヴィットが生み出す収益によって成り立っている。フェムは、その薬草の管理という、この村で最も重要な役割を長年務めてきた重臣であり、先代領主にとっての一番の側近でもあった。

「分かりました。見せて下さい」

 そう言って、彼女は書類に記されている薬草の販売状況に関する資料を確認する。まだこの村に戻ってきてから日が浅い彼女は、領主としての仕事を果たす前に、まず、この村の全容を把握しなければならなかった。そのためには、父の代からこの村を見守ってきたフェムの協力が不可欠なのである。一通り彼女が書類を読み終えたのを確認すると、フェムは彼女にこう告げる。

「ここ最近、どうやら森に侵入し、無断でヴィットを採取する者が出現しているようです。今のところ、まだその被害額は微々たるものなのですが、目撃者の話によると、ただの野盗ではなく、訓練された兵士だったようなので、どこかの国の密偵かもしれません。出来れば、護衛を強化して頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」

 そう言われると、ティファニアは真剣な表情を浮かべつつ、即答する。

「ヴィットはこの村の宝です。そういうことであれば、すぐにでも警戒態勢を強めましょう」

 無論、そうは言っても、村そのものの警備の必要もある以上、それほど急激に警備隊の人数を増やせる訳ではない。しかし、この村には、たった一人で数十人もの兵士に匹敵する力を持つ三人の重臣が父の代から使えている。彼等の一人を森の警備に回すだけで、実質的な防衛力は数倍に膨れ上がるだろう。
 ただ、問題は、彼等とティファニアとの間には、まだ明確な「絆」と呼べるほどの繋がりが存在していないということである。彼等三人はいずれも、彼女が数年前に留学に行った後にこの村を訪れた者達なので、帰国したばかりの彼女が治めるこの村のことを、命を投げ打ってでも守ろうとする気概があるのかどうか、彼女にはまだ測りかねていた。

1.2. 契約魔法師の日課

 その三人の重臣の一人、元素魔法師(エレメンタラー)のヴェルノーム・D・ウォルドルフ(下図)は、自宅で一人、魔法杖(タクト)を掲げていた。彼はエーラムの魔法学院(アカデミー)から派遣された契約魔法師(メイジ)である。しかし、魔法学院の斡旋で彼が契約した相手は先代のボード・ルースであり、現当主のティファニアではない。慣例としては、契約した相手の死後はその後継者に使えることが多いが、何らかの考慮すべき理由があれば、それを拒否して魔法学院に戻る権利も彼にはある。


 そんな彼が魔法杖を掲げていた理由は、このブレトランド小大陸の半分以上を傘下に治めるアントリア子爵(ダン・ディオード)に使える魔法師の一人、クリスティーナ・メレテス(下図)と通信を交わすためである。二人は共に23歳。エーラムの魔法学院で知り合い、恋仲となった関係である。その後、学院の規定により、それぞれ異なる君主に仕えることにはなったが、いずれは二人で一緒に暮らすことを夢見ている、そんな遠距離恋愛カップルであった。


「おはよう、クリス」
「おはよう、ヴェルノーム。実はね、昨日、学院にいる友達が教えてくれたんだけど、ヴィットに関して研究していた人達が、新しい見解を発表したらしいの」

 ヴィットに関しては、実はこれまで、その発生理由がよく分かっていなかった。通常の薬草とは異なる特殊な効果をもたらすことから、何か異様な混沌の力が関与しているのではないか、という噂はあったが、最近の研究で、どうやらそのヴィットが生み出された土地の奥底に、何らかの強力な混沌核(カオスコア)が埋まっているのではないか、という見解が発表されたらしい。
 ちなみに、この情報はまだあまり出回っていないようで、そのヴィットの生産地であるメガエラに住むヴェルノームですら、全くの初耳である。そのような極秘情報を彼女が得ることが出来たのは、彼女が魔法師の中でも名門として知られるメレテス一門であるが故に、学院の中央部にもコネが多いことに由来している(なお、彼女から見て、大工房同盟の盟主マリーネ・クラウシェの側近アウベスト・メレテスは養父、その宿敵である「虹色の魔女」シルーカ・メレテスは妹弟子にあたる)。つまり、彼女はヴェルノームよりも遥かに格上のエリート魔法師であり、だからこそ、現在のブレトランドを支配下に収めようとしているアントリア子爵の契約魔法師の一人として選ばれることになったのである。

「で、ウチの子爵様にそのことを話したら、その対応は非常に危険だろうから、子爵様がその調査を手伝うと言ってるんだけど、そちらの領主様に、許可取ってもらえるかな?」

 いつも通りに恋人同士の甘い会話を楽しもうとしていたヴェルノームにとっては、自分の目の前で、モーニングコーヒーにいきなり劇薬を混ぜられた気分である。確かに、学院が警戒するほどの混沌核が眠っているとすれば、その調査をメガエラ在住の専門家(実質的には自分一人)だけでおこなうのは危険かもしれない。しかし、この村の経済の根幹を支えるヴィットを生み出す森林地帯に他国の調査団を入れるというのは、いくら恋人の頼みといえども、そう簡単に受理出来る話ではない。

「ま、まぁ、一応、話はしてみるよ……」

 そう答えるのが精一杯だった。そんな彼の苦悩を知ってか知らずか、クリスはもう一つ、彼に質問を投げかける。

「ところで、そちらの新しい領主様って、どんな人なの? 15歳の女の子だって聞いたけど」

 そう問われたヴェルノームだが、これも返答に困る質問である。なにせ、彼もまだ会ってから日が浅い。今のところ、真面目に政務をこなしてはいるようだが、その人となりまでは、まだ彼も掴みきれていない。どう答えたものかと彼が言葉を選んでいるところに、予想外の言葉が突き付けられる。

「あと、他にも、若い女性の邪紋使いが二人もいるそうね」

 さすがに、ここまで言われれば、ヴェルノームも気付く。どうやらクリスは、外交交渉とは別次元で、自分の恋人を取り巻く環境に対して、少々不安を抱いているらしい。ヴェルノームとしては、別に何も後ろめたいことはしていない筈なのだが、なぜかクリスにそう言われたことで、奇妙な焦燥感に駆られてしまう。

「いや、クリス、別に、その、君が心配するようなことは、何も……」
「そう? なら、いいんだけど。とにかく、調査の件、お願いね」

 そう言って、通信は途絶える。色々な意味で予想外の事態に戸惑っているヴェルノームではあったが、それと同時に「今日もクリスの声、かわいかったな」という浮かれ気分も同居した奇妙な心境のまま、今の自分にとっての「一応の主」であるティファニアの館へと向かう。クリスの前ではなるべくクールに振る舞おうとするヴェルノームだが、内心は常に彼女にベタ惚れなのであった。

1.3. 無法者への手紙

 一方、その頃、クリスが言っていた「若い女性の邪紋使い」の一人にして、この村の三重臣の一人である不死者(アンデッド)のターリャ・カーリン(下図)もまた、ヴェルノームと同等以上の浮かれ気分に浸っていた。彼女の最愛の兄・ファルク・カーリンからの手紙が、彼女の許に届いていたのである。


 彼女は本来は、(現アントリア子爵の台頭以前まで)このブレトランドの実質的な盟主であったヴァレフール伯爵に仕える騎士隊長の娘に生まれた令嬢であった。だが、騎士としての修行の最中、偶然発生した混沌核に触れ、邪紋使いとなってしまったことが、彼女の人生を変えてしまった。彼女の父は熱心な聖印教会の信者であり、混沌の力を何よりも嫌っていたため、邪紋使い(その中でも特に「不浄の者」として嫌われやすい不死者)となってしまった自分の娘を、自らの手で殺そうとしたのである。幸い、温厚な兄・ファルクの説得により、なんとか命は助けてもらったものの、家からは追い出され、無法者としてブレトニアを彷徨うことになったのである。
 そんな彼女が最終的に行き着いたのがこのメガエラ村であり、先代当主ボード・ルースによって、実質的には「傭兵」に近い形で、この村で雇われることになった。だが、それでも彼女は自分自身のことを「無法者」として位置付けている。決して、村の掟に逆らうつもりはないが、堂々と表社会で生きていける立場でもない以上、この村の正規の構成員としての立場を貰うのは申し訳ないと思っているのかもしれない。
 しかし、村の人々は彼女のことを(やや不気味に思う者も少なくはないが)村の一員として認めており、村の警備隊の人々からは同志として認められ、戦士としても、指揮官としても、信望は厚い。だが、20歳という妙齢になった今でも、彼女に関しては浮いた噂は一つも聞かない。それは、上記のような形で彼女自身が「市井の人々」との間にやや距離を作っていることに加えて、彼女の中での「理想の男性」としての兄ファルクの存在が、あまりにも大きすぎることが原因である。
 昨年、他界した父に代わってカーリン家を継いだファルクとは、今も頻繁に手紙をやり取りしている。ファルクが治める(彼女の故郷の)「イェッタの街」はこのメガエラから歩いて半日で辿り着ける距離ということもあり、多い時は毎日のように手紙を交換している。なお、ファルクも未だに独身だが、その原因がターリャにあるのかどうかは分からない。ただ、ファルクは前々から、メガエラとは友好関係を締結したいと考えているようで、少なくとも「肉親(あるいはそれ以上)の情」だけではなく、「為政者」として、ターリャに「繋ぎ役」としての利用価値があるとも考えていることは、彼女自身も察していた。
 さて、そんな兄から今朝届けられた手紙であるが、その内容は、思いのほか深刻な話題であった。どうやら、カーリン家に仕えている聖印教会の司祭が、「メガエラ村の薬草を使うのを控えた方が良い」と言っているらしい。ファルクは父ほど熱心な信者ではなく、聖印教会の唱える混沌全否定論に対しては「そういう考えもある」と軽く受け止める程度の立場なのだが、どうやら今回の司祭の主張に対しては彼もそれなりに説得力を感じているようで、その詳細について、メガエラの現領主に直接会って説明したい、と、その手紙には書かれていた。
 自分を追放した聖印教会絡みの話ということであれば、それだけで拒絶してもおかしくない話ではあるが、ターリャの中では「聖印教会への嫌悪感」よりも「兄への忠義心」の方が遥かに強い。そして何より、

「お兄様にお会いすることが出来る」

という喜びに満ち溢れた表情を浮かべながら、彼女は早速、領主の館へと向かっていった。

1.4. 従者(メイド)のお仕事

 こうして、ヴェルノームとターリャがそれぞれに領主の館へと向かうのとほぼ同時に、この村を訪れた一人の中年男性の商人が、領主の館へと向かっていた。そして、ちょうど館の入口で鉢合わせた三人を出迎えたのは、見た目は15歳程度の一人の従者(メイド)姿の少女(下図)であった。


「おはようございます。ヴェルノームさん、ターリャさん。そして、そちらのお客様は……?」

 そう言って彼女が名を尋ねようとすると、その商人が遮るように口を挟む。

「あなた、確か、トランガーヌ子爵のところで働いていた従者さんですよね?」

 そう言われた従者の少女は、驚きの表情を浮かべた。彼女の名は、クローディア・シュトライテン。彼女こそが、もう一人の「若い女性の邪紋使い」であり、「メガエラ三重臣」の最後の一人である。しかし、この商人が言っていた通り、彼女は半年前まで、このブレトニアの中部を支配していたトランガーヌ子爵の従者であった。だが、アントリア子爵の電撃作戦によってトランガーヌ子爵が聖印を奪われ、行方不明となったことで、彼女は主を失い、各地を放浪した結果、旧トランガーヌ子爵領内でまだアントリア領となっていないこの村の先代領主に拾われることになったのである。
 ちなみに、表向きは彼女はただの従者であるが、その正体は「影(シャドウ)」の邪紋使いであり、トランガーヌ子爵に仕えていた頃は、様々な裏仕事・汚れ仕事を担当してきた歴戦の強者である。先代のボードもそのことは知っていたが、彼女にはこれまで、基本的に従者としての仕事以外を命じることは無かった。彼女自身は、領主に危機が迫った時は命懸けで守る覚悟は持っていたが、幸いにして、これまで一度もそのような事態には至らなかったのである。
 そして、残念ながら彼女は覚えていなかったが、この商人は、トランガーヌ子爵が存命だった頃に、その屋敷を訪れた際、まだ年端もいかぬ少女が妙にテキパキと仕事をこなしていたのが印象的で、鮮明に記憶に残っていたらしい。彼の名はグレイス・ソウル。大陸とブレトランドを行き来する旅商人で、過去にも何度かこの村には立ち寄ったことがあるらしい。この日もヴィットの仕入れのために村を訪れたのだが、新たな領主として先代の姫君が就任したと聞き、彼女への表敬訪問を希望しているようである。
 クローディアはひとまず、自分が彼のことを覚えてなかったことを詫びると、グレイスの方は別に気にしていない様子で、笑顔で受け答えつつ、彼女にこう告げる。

「トランガーヌ子爵、今は大陸にいるらしいですよ。有力な後援者を得ているという噂もあります」

 それを聞いたクローディアは、驚愕の声を上げる。

「子爵が!? 子爵は死んだ筈では……?」

 彼女の中ではそう認識されていたが、この商人が言うには、彼の仕事仲間が大陸でそれらしき人物を見たらしい。無論、あくまで伝聞情報なので、どこまで正確な話なのかは分からないが、既に子爵は亡き者と割り切った上でメガエラで働いていた彼女にとっては、衝撃的すぎる情報である。
 とはいえ、今はまず、目の前の仕事を処理しなければならない。ひとまず彼女は、ヴェルノームとターリャからも話を聞いた上で、執務室にいるティファニアに三人の要件を告げると、どの話も緊急性を要する内容ではないと判断した姫領主は、身内よりも来客を優先すべきと考え、ひとまずグレイスを連れてくるようにクローディアに告げる。
 彼女はその言に従い、彼を執務室へ案内した上で、同僚二人にはしばらく、控え室で待ってもらうことにした。

「ヴェルノームさん、ターリャさん、お茶をどうぞ」

 そう言って、クローディアは二人に、彼女がトランガーヌ時代から研究を重ねた自慢の紅茶を出す。一応、二人とも自分よりも年上で、この職場においても先輩ということもあり、基本的に彼女はいつも敬語で話している。

「前にも言ったけど、もっと気軽に『ヴェルノーム』と呼んでくれればいいよ」

 最年長の彼は気さくにそう言うと、クローディアが入れてくれた「こだわりの紅茶」に対して、これでもかというほどの大量の砂糖を注入する。甘党の彼にとっては何の悪気もない「極自然な行為」なのだが、この光景を見たクローディアが、彼に対してどのような感情を抱いたのかは定かではない。
 そして、その横でターリャは素直に紅茶を味わいながら、久しぶりに会える(と既に決めつけている)兄上とどんな会話を交わそうか、という妄想で頭が一杯になっていた。

1.5. 君主の器

 最初に執務室に入った商人のグレイスは、新領主であるティファニアに恭しく礼をした上で、これまで自分がこの地でヴィットの購入を続けさせてもらったことへの恩義を深々と語る。

「メガエラの薬草には、いつも助かっております。最近、また大陸南部で黒死病が出現したようですし、これから先も、きっとこのヴィットを必要とする人々は増えるでしょう」

 実際、ヴィットが生産される地域は世界的に見ても少ない。無論、黒死病に対して、万能薬や回復魔法で治すことも可能ではあるが、一般市民の間で大量に感染した場合、そのような物的・人的コストを必要とする手段では対応しきれないため、比較的安価で大量に特効薬を生産出来るヴィットの存在は、世界全体にとっても貴重な存在なのである。
 その後は、基本的に「あまり意味のない世間話」レベルの会話を続けつつ、最後にグレイスは領主に向かって、こう忠告する。

「あの従者さんは、トランガーヌ子爵の遺臣ですよね? ここ最近、トランガーヌ子爵の残党が各地で再起を図っているという噂があります。お気をつけて」

 彼が何を言わんとしていたのかは、ティファニアにも分かる。そして実際、彼女もまだクローディアのことを心から信頼出来るほどの絆もない。しかし、同時に、彼女がそういった陰謀に加担していると思える要素も何も見つからない以上、今のティファニアには、その言葉は受け流すしかなかった。

 次に呼ばれたターリャは、聖印教会云々の話は詳しくは語らず、ただ「自分の兄であるイェッタの領主ファルクが、友好関係締結のため、お会いしたいと言っている」ということのみを伝えた。彼女にしてみれば、「詳しい話は直接お会いして説明したい」と兄が言っている以上、ここで自分がそこまで説明する必要はないと考えていたようである。それよりもまず、確実に話をしてもらう(ために兄にメガエラまで来てもらう)ためには、「友好関係締結」という、以前からの兄の希望だけを伝えた方が良いと考えたのかもしれない。
 だが、実はこれも、実際には少々微妙な問題である。メガエラは、伝統的にはトランガーヌ子爵領の一部ではあったものの、先代は君主としては誰にも従属せず、政治経済的にも独自のシステムを維持してきた。トランガーヌ子爵領の大半がアントリア子爵の支配下に落ちた今、ひとまずメガエラは中立を保っており、ここでヴァレフールかアントリアのどちらかに加勢すれば、反対側の陣営に侵略の口実を与えかねない。
 ただ、今回のファルクの申し出が、あくまでも「ヴァレフール伯の部下」ではなく、「イェッタの領主」としての友好関係締結ということであれば、ティファニアとしても、少しでも味方が欲しい現状である以上、その申し出を断る理由はなかった。その点の真意を確かめるためにも、ひとまず彼女は、ファルクとの交渉を了承し、ターリャは喜んで帰宅して兄への手紙のために筆を取ることになる。

 そして、最後に呼ばれたヴェルノームは、申し訳なさそうに、恋人であるクリスからの提案をそのままティファニアに伝える。この村を支える重臣からの意見だけに、そう易々と無下にする訳にはいかなかったが、それ以上に、そう易々と承諾出来る提案でもないことは、彼女の眼にも明らかであった。

「残念ですけど、それを受けることは出来ないわ。丁重にお断りして下さい」

 彼女にはっきりそう言われて、ヴェルノームはホッと胸を撫で下ろす。恋人の頼みも重要ではあるが、それ以前に今の彼は、魔法師として、自分の主君を支えるという義務がある。少なくとも、この新しい主君は、村を護る者として、何が危険な行為かということを判別出来る能力と、簡単に部下の言いなりにもならないだけの意志も持ち合わせている、ということを知り、自分が仕える上での最低限の資質は持ち合わせていることが確認出来ただけでも、今の彼にとっては大きな収穫であった。

 こうして、ティファニアの「領主」として初めての本格的な「外交」の仕事はひとまず終わった。政治学や帝王学に関しては、留学先の学校でも習ってはいたが、いざ実践ということになると、想像以上に重いプレッシャーが自分に伸し掛ってくることを実感する。
 そんな彼女が、ふと窓の外を見て思い出すのは、留学先の学校で一度だけ謁見した幻想詩連合の盟主・アレクシス・ドゥーセである。若くして親を失い、ハルーシア公爵と連合盟主の座を引き受けることになった彼が背負っている苦悩は、今の自分など比べ物にならぬほどの重圧であろう。学生時代は、ただひたすらに感服し、そしてほのかな恋心すら抱いていた相手であるが、スケールが全く異なるとはいえ、今は同じ「君主」という土俵に立つ者として、これから先は、状況によっては彼とも争うことも覚悟しつつ、彼に負けない君主としての素養を身につけなければならない、ということを、ヒシヒシと実感しつつあるティファニアであった。

2.1. 白き森

 そして、この日の夜、ティファニアはフェムの忠告通りに、森の警備体制の強化を部下達に命じた。具体的には、この村に所属する四部隊のうち、ターリャとクローディアに一隊ずつを任せ、夜の前半をターリャ隊、後半をクローディア隊に巡回させる、という方針を提示したのである。出来れば、自分自身の眼で確かめたい気持ちもあったが、ここは素直に、村でも屈指の身体能力の持ち主であるこの二人に、警備の指揮を任せることを決意したのである。
 こうして、前半戦を任されたターリャが森の周辺および内部を巡回していると、月明かりに照らされて、森の中の一部の草が白く光っているのが、彼女の眼に入る。これこそが、この村の主収入源となっているヴィットである。「ヴィット」とは、この薬草が最初に発見された大陸中北部の地方において「白」を意味する言葉であり、月に照らされた時にのみ白く発色するため、この名が付けられたのだという。
 部下の兵士達が、改めてそんな白き森の美しさに見とれている中、無法者としてブレトランド各地を転戦して鍛られたターリャの研ぎすまされた感覚が、侵入者の存在に気付く。どうやら、明らかに村の住人ではない数人の軽武装集団が、森の中を闊歩しているようである。ここで、しばらく彼等を泳がせてその目的を確かめる、という選択肢もあった筈なのが、生粋の武人であるターリャには、そんなことを考える余裕は無かった。

「全員で取り囲んで、生け捕りにしろ」

 彼女はそう命じると、部下達はそれに従い、そして、そのための陣形が完成したところで、全員で不意打ち攻撃を仕掛けることに成功する。

「な……、き、貴様等、何者だ!?」
「こっちの台詞だ!」

 そう言って、ターリャ隊は侵入者に対して猛攻をかける。もともと、ターリャはどちらかと言えば「守りの武人」であり、電撃戦は得意ではないのだが、それでも最初の遭遇時に完全に主導権を握れたことが幸いして、あっという間に敵は混乱状態に陥る。こうなってしまえば、もはや勝敗は決したも同然である。結局、一人の犠牲も出さないまま、あっさりと敵を捕縛することに成功するのだが、ここでターリャは、驚くべき事実を発見する。

「聖印!?」

 敵のリーダー格の男が、頭上に聖印を輝かせているのである。つまり、彼等はただの野盗ではなく、少なくとも一人の「君主(ロード)」に率いられた存在だったのである。と言っても、その聖印の大きさから察するに、「騎士(ナイト)」であるティファニアより格下の「従騎士(エスクワイア)」と呼ばれる最下級の君主にすぎないようだが、それでも、「君主」である以上、いずれかの国家もしくは国際組織と繋がりがある可能性が高いということは、ターリャも実感していた。
 だが、それを確認するのは彼女の仕事ではない。君主自身の手で吟味してもらうために、ターリャ隊は捕虜となった彼等を縄で縛ったまま、ひとまず村へと連行することになる。

2.2. 侵入者の正体

 「そろそろ交代の時間かな?」と、ターリャ隊の帰還を待っていたクローディアは、彼女達が捕虜を連れてきて、しかもその一人が君主の聖印を持っていることを知り、さすがにこれは非常事態を考え、寝室のティファニアを起こしに行く。留学時代からずっと使っていたお気に入りのナイトキャップを被り、下着姿で寝ていたティファニアであったが、起こされると同時にその報告を聞くと、すぐに「君主」の顔に戻り、簡易正装を整える。
 その上で、まずは敵の「君主」だけを、捕縛した状態のまま執務室に連れて来るようにクローディアに頼んだ上で、現時点で「参謀」役として最も期待出来そうなヴェルノームにも執務室まで来るように命じる。その上で、クローディアには扉の外で待機してもらった上で、一仕事終えたばかりのターリャに休息を命じると、彼女は(館内の客室用ベッドは、彼女が嫌う「北枕」だったこともあり)素直に帰宅した。

「この村の領主、ティファニア・ルースです。あなた達は何者ですか? 誰の命令で、ヴィットを盗みに来たのですか?」

 そう言って「君主」に問いかけるティファニアに対して、彼はその問いには答えずに、嘲笑するような声でこう言い放つ。

「混沌の産物で儲けた金で得た飯は、さぞや旨いだろうな!」

 明確な敵意と蔑みの瞳で睨まれた彼女は、ひとまず質問を変えてみることにする。

「あなた達の目的は何なのですか?」

 そう問われた彼は、決意に満ちた表情でこう答えた。

「あの地に眠る『魔神』の復活の阻止だ。あの森ごと魔神を焼き払うためには、どのような手順で火を付ければ良いのか、どうすれば民家に被害が及ぶことなく森だけを焼き尽せるのかを確認する必要があったからな。俺達はそのための下調べのために来たんだ」

 いきなり突拍子もない計画を語られて、ティファニアもヴェルノームもやや困惑した様子である。どうやら彼等の目的は、ヴィットの採取ではないらしい。と言っても、「魔神」とは何のことなのか、彼女達にはさっぱり分からない。ただ、最近の学院の調査結果を信じるのであれば、確かにあの地の底に「何か」が埋まっている可能性はある。この男は果たして何者で、どこからどんな情報を得ているのだろうか? それを調べるために、もう少し話を聞き出す必要があると感じたティファニアは、しばらく、この「君主」に話を合わせてみよう、と試みる。

「まぁ、そうだったのですか。そのような大事に至っていたとは、全く存じませんでした。あなたは、どのようにしてそのことを知ったのですか?」

 そう問われた彼は、心の奥底に秘めた強い信念に眼を輝かせながら、語り始める。

「唯一神様の神託を受けた司祭様が、我等に打ち明けてくれたのだ。早急にあの地に眠る魔神を倒さねば、このブレトランドの文明は再び崩壊してしまう、とな」

 この発言で、おおよその見当はついた。どうやら、彼等は聖印教会の一員らしい。といっても、聖印教会が単独で行動しているのか、そこに手を貸している人々がいるのかは、まだこの時点では判別出来ない。

「なるほど。神様の思し召しということであれば、我々も対処法を考えなければなりませんね。ところで、その司祭様というのは、どちらの方なのでしょう?」
「……本当に真面目に話を聞く気があるなら、まず、この待遇を改めるべきではないのか?」

 ティファニアが下手に出たのに対し、彼は自分を縛っている縄をほどくことを要求する。確かに、本当に彼の言うことを信じて耳を傾ける気があるなら、この状況は不自然ではある。ティファニアは了承して、扉の外にいたクローディアに命じて、縄をほどかせた。
 その後、彼から様々な話を聞いてはみたものの、登場する人物名の大半が、聞いたこともない固有名詞ばかりで、正直、今ひとつ実態がよく分からない。ただ、話している内容には矛盾点は感じなかったので、ティファニア達を騙そうとしているようには思えなかった。少なくとも、「聖印教会の一員として、このブレトランドを救うために、メガエラの森に潜む魔神を倒す」という彼の信念を遂行しようとしていることは、嘘ではないようである。実際、彼等の装備からは、薬草採取のための道具や収納具なども見つからなかった。

「分かりました。我々としてもこれからの方針について熟考する必要があるので、皆様は翌朝まで、別室でお休み下さい」

 そう言って、彼女はクローディアに、彼等を客品待遇でもてなすよう伝える。部下達の縄も解き、酒を与えて、少しでもリラックスして眠らせるように促した。
 こうして、安心した彼等を「客室」にまとめて収容した後、ティファニアはクローディアとヴェルノームに対して、こう告げる。

「いいですか、我々は何も聞かなかった。彼等はただの山賊。ということで、よろしいですね?」

 そう断った上で、彼女は二人に、彼等「山賊」が寝静まった段階で「処分」することを命じる。この村の平和と安全を維持する上で、それが最善の策であるということは二人も納得出来たようだが、クローディアだけは、どこかここまでの経緯に違和感があるようだった。

「方針は了解しました。しかし、ティファニア様、少々、やり方がまどろっこしいのでは?」

 殺すつもりならば、縄を解かずに殺してしまえば良かった、というのが彼女の意見である。彼等が何か切り札を残していた場合、縄を解けば何をしでかすか分からないし、今も眠ったフリをして何か行動を起こされる可能性もある以上、リスクを避けるためには、中途半端に彼等の要求に従う必要は無かった、というのが彼女の主張である。

「いや、縄を解くことで聞けた話もある訳だから、あながち無駄という訳ではあるまい」

 そう言って、ヴェルノームは領主の判断の正しさを主張する。確かに、結果的に見れば、縄を解いた後にそれほど重要な情報を得られた訳ではないが、相手の味方のフリをして情報を聞き出そうとするのは、交渉戦術として間違ってはいない。しかも、武器が奪われている上に、ティファニアの「演技」によって彼等を油断させることが出来ていた以上、彼等がどうこうすることは出来ないとヴェルノームは確信していた。
 結局、これは「危機回避」と「情報入手」のどちらを優先するか(そして、丸腰の敵に対してどこまで警戒心を抱くか)という問題であり、それは「暗殺者」の顔を持つクローディアと、「政治家」の顔を持つティファニアやヴェルノームの立場であるとも言える。一応、クローディアもしぶしぶ納得はしたものの、まだどこか違和感を感じたままであったが、終わったことをこれ以上、考えても仕方がない。その後、彼女は黙々と「眠っている山賊の処分」を遂行したのであった。

2.3. アントリアの思惑

 翌日、ヴェルノームは恋人であるクリスに、魔法杖を使った通信を通じて、ティファニアの下した結論を伝える。

「すまない。やはり、調査の協力を了承してもらうことは無理だった」

 そう彼に告げられたクリスは、思いのほか冷静にその事実を受け入れる。さすがに、彼女の中でも「無茶は承知の要求」だったらしい。その上で、ヴェルノームが昨日のことを伝えると、事態の深刻さはクリスにも伝わったようである。

「聖印教会か……。厄介な相手ね。彼等は私達や邪紋使いの人達までをも敵視してるから、交渉が通じるとは考えにくいし。それに、もしかしたら背後でヴァレフールが動いている可能性もあるわ」

 実際、ヴァレフールの重臣の一人である(ターリャの実家の)カーリン家は、伝統的に聖印教会と繋がりが深く、彼等が聖印教会を煽動している(もしくは聖印教会に利用されている)可能性もある。だが、その一方で、「アントリア子爵の陣営に聖印教会が加担している」という噂もある以上、今回の黒幕がアントリアという可能性も否定は出来ない。無論、そのアントリア子爵に仕えるクリスに対してそこまで言うつもりは、ヴェルノームには毛頭ないが。

「とりあえず、相手が聖印教会だとしても、ヴァレフールだとしても、そちらの領主様ががウチの傘下に入ってくれた方が、色々な意味で安全だと思うわ。さすがに一つの村だけで相手をするには、どちらも厳しい相手だと思うし」

 この世界において「傘下に入る」とは、二つの意味がある。君主が自らの聖印を別の君主に捧げる(その上で、改めて聖印を分けてもらう)ことで完全な従属関係になるパターンと、独自の聖印を維持したまま政治的・社会的に他の君主の臣下となるパターンである(トランガーヌ子爵が健在だった頃、メガエラの先代領主は後者のパターンで彼に従っていた)。ここでクリスが言っている「傘下に入る」という言葉が、どちらを意味しているのかは定かではないが、昨日のティファニアの反応を見る限り、今のところ彼女には「中立・独立」の立場を崩すつもりは無さそうである。

「そうなってくれれば、私達も、一緒に暮らせるようになるしね」

 クリスにそう言われると、さすがにヴェルノームの心も揺れるが、今の彼は、まず、魔法師として君主を支えなければ、という使命感に駆られていた。

「そうなればいいとは思うが……、なかなか難しいな」

 今のティファニアが置かれている状況は、15歳の少女に課せられた使命としてはあまりにも重すぎるが、それでも彼女は懸命にそれを乗り越えようとしている。そして、彼女の周囲の人材を見渡してみても、ターリャやクローディアは腕は立つだろうが、参謀として彼女に適切な助言が出来るタイプではないように思えたため、自分が支えなければ危険だという認識が、彼の中で強まっていたのである。

2.4. ヴァレフールの思惑

 こうして、ヴェルノームが密かに隣国の恋人と(あまり甘くはない)会話を交わしていた頃、別の隣国からの来訪者が、メガエラを訪れていた。ヴァレフール伯爵陣営の騎士隊長にして、イェッタの街の領主のファルク・カーリン(下図)である。妹を通じて謁見の許可を得た彼は、さっそく宣言通りにメガエラへと早馬を飛ばして駆けつけたのである。この迅速すぎる行動には、兄との再会を待ち望んでいたターリャ本人ですらも驚愕したほどである。


 とりえあず、ティファニアの判断により、契約魔法師であるヴェルノームを呼び寄せ、そして妹のターリャも同席した上で(そして扉の外ではクローディアが待機した状態で)、ティファニアにとって初めての「領主対談」がおこなわれることになった。

「はじめまして。ファルク・カーリンと申します。この度は、聖印教会の者達による襲撃を受けられたそうですが、被害などは大丈夫ですか?」

 開口一番のこの宣言に、一瞬、空気が凍り付いた。どうやら、ファルクが着いてからこの会談が始まるまでの間に、昨夜のことは全てターリャが兄に話してしまっていたようである。せっかく、このことが周辺勢力にバレないように昨夜の侵入者を秘密裏に「処分」したのに、これではその配慮が水の泡である。ましてや、聖印教会との繋がりのあるファルクは、「最も教えてはならない相手」の一人であった。ヴェルノームは苦虫を噛み潰したような顔でターリャを睨むが、当の本人は事の重大さには全く気付いていないようである。もっとも、彼も(さほど話しても危険性のない相手とはいえ)他国の魔法師にその情報を漏洩しているので、あまり人のことを言えた立場ではない。
 とはいえ、もう既に情報が伝わってしまっているなら、今更取り繕っても仕方がない。諦めて、彼が全てを知っているということを踏まえた上でティファニアが事情を話すと、ファルクは自分の領内に住む聖印教会の人々が、メガエラの森の奥に「魔神」と呼ばれる巨大な混沌の投影体が眠っていると繰り返し主張している、ということをティファニアに伝える。この件に関して、当初はファルク自身は最初はあまり信用していなかったようだが、他の様々なこの地方にまつわる伝承などを調べてみると、確かに彼等の言っていることにも一定の理があるように思えてきたのだという。

「ただ、現在は聖印教会の中でも、ヴィットをどうするかについては、意見が割れています」

 どうやら、昨日森を襲撃したのは、その中でも一番極端な「森を燃やし尽くすことで混沌を排除すべし」と考えている人々であるが、その一方で、「薬に関しては人々の役に立っている訳だから、その使用は認めた上で、混沌核だけの排除を目指すべき」という考えの人々もいれば、「山に入るだけで混沌核を刺激する可能性が高いから、そもそも立ち入ることを禁止すべき」という人々もいる。ファルク自身は最後の考えに近いようで、ティファニアにもその案を提示するが、さすがに彼女としても、村の経済の根幹を支えるヴィットを、そう簡単に手放すことは出来ない。

「確かに、そちらの事情も分かります。ただ、このままでは、いつ暴発するか分かりませんし、聖印教会内の過激派や、周辺勢力がいつ介入してくるかも分かりません。そこで、それを封じるために森の警備を強化する必要があると思うのですが、もし万が一、聖印教会やアントリアが介入してきた時に対応するために、我が国からも増援部隊を派遣して駐屯させることも可能なのですが、いかがでしょうか?」

 どうやら、これが彼の本音のようである。それが純粋に混沌核(魔神)の危機管理だけが目的なのか、ヴァレフールの勢力拡大(あるいはアントリアの勢力拡大阻止)を主目的とした提案なのかは分からないが、いずれにせよ、昨日のアントリア側からの申し出と同様、テイファニアとしては受け入れ難い提案である。ただ、現在は聖印教会による焼き討ち未遂事件の直後である以上、「森の管理は我々だけで十分」とはっきり言い切れる状態でもなかった。

「さすがに、それは私の独断で即答出来る問題ではないので、しばらくお時間を頂けませんか?」

 ひとまず、彼女としてはこう答えるしかなかったし、ファルクの側も、ティファニアの立場は理解していたようで、今日のところはひとまずイェッタに帰還することを了承する。

2.5. 父の遺した記録

 その後、クローディアは、ヴィットの件について、もしや先代領主のボードが何かを書き残しているかもしれないと考え、彼の死後、誰も立ち入ることのなかった彼の私室に入り、本棚や机の中を確認してみる。すると、本棚の奥底から、あの森について何者かが「調査」した結果の報告書が発見された。そこには、森の混沌濃度の強さの推移などから、ヴィットが混沌の力の産物である可能性が高い、という結論が記されている。ただ、その報告者の名前は黒塗りで消されており、誰が調査したのかは分からない。
 クローディアがその資料の内容を更に詳しく確認しようとした時、扉の外に人の気配を感じた彼女は、慌てて本を元の場所に戻した上で、自ら扉を開ける。

「おや、クローディアさん、どうしたのですか、こんな所で?」

 そこにいたのは、先代から森林官を務めるこの村の重鎮フェム・トゥレーンである。

「旦那様が亡くなられてから、もう随分日が経ちますし、そろそろこの部屋のお掃除を、と思いまして」
「それは、お嬢様のご命令ですかな?」

 そう問いかけるフェムの口調に、どこか自分を疑っているように感じたクローディアは、一瞬、答えに窮するが、そこに当のティファニアが現れる。

「そうです、それは、私が命じました」

 実際には、ティファニアは何も命じていない。あくまでもクローディアの独断だったのだが、たまたま通りかかったティファニアは、直観的にここは自分が助け舟を出した方が良いと判断したようである。そう言われたフェムはひとまず納得した様子で、その場を立ち去った。
 その後、クローディアがティファニアにその報告書のことを告げた上で、二人でその報告書を確認してみたところ、どうやら、森の奥に混沌核があるという可能性についても、この「報告者」は言及しているようである。しかし、そのような話をティファニアは父から聞いたことが無いし、領主の座を継いだ今でも、村の誰からも聞かされていない。これは、フェムに確認してみる必要があると考えた彼女は、改めて彼を執務室へと呼び出し、クローディアと(混沌核についての知識を持っていると思われる)ヴェルノームを同席させた上で、彼から詳しい話を聞き出そうとする。

「フェム、あなたは、この報告書のことは知っていたのですか?」

 そう問われた森林官は、あっさりとそのことを認める。その上で、この報告書の制作者が誰なのか、混沌核の存在を知った上で、父はどうするつもりだったのか、ということを問い詰めようとするが、それに対して彼は、淡々とこう切り返す。

「お嬢様は、そのことを知った上で、どうなさるおつもりです?」

 これは、クローディアもヴェルノームも知りたかったことである。この村にとって、ヴィットの存在は生命線である。しかし、その根幹にあるものが強大な混沌核である以上、聖印教会が主張しているように、その混沌核を封印しなければ、世界が危険に晒される可能性もある。だが、混沌核の封印によって、ヴィットが生産出来なくなる可能性もあり、そうなるとこの村の経済だけでなく、大陸各地で黒死病に苦しむ人々の希望を絶つことにもなりかねない。

「混沌核の存在については、まず、それが現時点でどこまで危険なものなのか、そして封印可能なものなのかを確かめます。もし、封印が不可能なのであれば、封印を可能とする方法を探します」

 現実問題として、まだ騎士レベルの聖印しか持たない彼女では、世界レベルで危険な混沌核を一人で封印することは出来ない。逆に言えば、彼女でも即座に封印可能なレベルの混沌核であれば、それほどまでに危険な存在とは考えにくく、しばらくは(ヴィットの生産のために)放置しても問題ないであろう。では、混沌核が本当に危険な存在で、今すぐにでも封印しなければならない存在だとしたら、どのような方法で対応するのか。他国や学院、あるいは聖印教会の力を借りるのか、という問題に関しては、彼女はこう答える。

「私は、メガエラ村の独立を守るつもりです。どの国にも屈するつもりはありません」

 言うは易いが、難しい課題である。だが、少なくとも彼女がそう決断した以上は、臣下にはその方針の実現のために尽力する義務がある。クローディアもヴェルノームもその決意を理解し、その目的を共有することを心の中で誓う。少なくとも、そう誓うに足るだけの価値が彼女にはあると、この二人は判断したのである。もっとも、クローディアの方は、まだこの時点では、彼女個人への忠誠というよりは「自分を拾ってくれた先代の意志」を彼女が継ごうとしているからこその共感、と言った方が正確なのかもしれない。
 そして、フェムもまたその決意を受け取り、改めて彼女を「君主」と認めた上で、その調査報告書にまつわる真相を語り始める。

2.6. 森林官の正体

 フェム曰く、その報告書を作成したのは、学院には属さない闇魔法師であったという。先代のボードは混沌核が絡んでいる可能性については察知していたが、学院の調査隊を招き入れると、森の権益そのものを(混沌核の危険性の有無に関わらず)奪われる可能性があると考え、あえて闇魔法師に依頼したらしい。しかし、その調査報告の後、その闇魔法師は法外な「口止め料」を要求してきたため、フェムが命じて彼を殺させ、報告書からもその名前を消し去ったのだという。
 この報告を聞き、さすがにティファニアも絶句するが、クローディアはその説明に微妙な違和感を感じたようである。

「殺させた、とありましたが、誰にそれを命じたのですか?」

 闇魔法師を殺すのであれば、相応の実力者でなければならない。そう問われると、彼はニヤリと笑って、逆に問いかける。

「それ以前の問題として、そもそも、どのような経緯で闇魔法師を招き入れたのか、そちらの方が気になりませんか?」

 確かに、それもまた疑問である。どうにも面倒臭い言い回しをするフェムに対して、ヴェルノームがややイラついた様子を見せていると、彼は自らの正体を明かす。

「私は、かつては自由騎士でした。今はもう聖印を奪われ、その力を失ってしまいましたが、当時はより強い聖印を得ることを目指して、世界中を旅していたのです。その際に、諸々の経緯の末に『パンドラ』と接点を持つに至りました」

 パンドラとは、学院と対立する闇魔法師の集団の中でも、特に危険な「世界を混沌で満たすこと」を目的とする人々である。今はタダの森林官として雑務に従事しているフェムが元騎士であったというだけでも十分に驚愕すべき事実だが、それ以上に、パンドラと知り合いであるという事実は、この村で共に暮らしてきた彼等にとっては、相当な衝撃である。

「その後、私は聖印を失い、一人の職人としての道を歩み始め、やがて旦那様と出会って、この街で平穏な暮らしを手に入れるに至ったのです。しかし、ヴィットの危険性について旦那様が憂慮されていたので、あえて昔のツテを使って、パンドラから闇魔法師を呼び寄せました。そして、彼を殺したのは、私が別のルートで雇った暗殺者です」

 確かに、パンドラにツテを持つレベルで裏社会に通じている者なら、暗殺者を一人雇える程度の人脈があっても不思議はないだろう。クローディアが暗殺術にも長けていることを知りながら、あえて彼女にその命を下さなかったのは、その必要が無かったからではなく、彼個人のネットワークを使えば、そういった仕事を頼めるアテがあったから、なのかもしれない。
 今まで、ただの人畜無害な職人だと思っていた彼の正体を知らされたティファニアはまだ動揺しているようだが、彼がそんなティファニアを「自らの主君」と認めたように、ティファニアもまた、彼がどれほど危険な人々と繋がっていようとも、自分を支えようとしてくれていることは実感していたので、これ以上、彼の過去について掘り下げて聞こうとは考えなかった。
 ここまで聞かされた以上、あとは自分自身が、この問題に対してケリをつけなければならない。それが、父からこの所領と、聖印と、そしてヴィットがもたらす莫大な権益を引き継いだ者としての責務であることを、彼女は改めて実感していた。

2.7. 収束する混沌

 一方、その頃、兄を見送り、次に書く手紙の内容を何にしようかと考えていたターリャは、家の外が騒がしいことに気付く。慌てて外に出ると、薬草採取人達が重症を負いながら山から戻ってきた姿を目的する。

「ま、魔物だ……。魔物が現れて、いきなり……」
「あんなの、見たことない。今までずっと平穏な森だったのに、どうして急に……」
「とにかく、このことを領主様に知らせなければ……」

 そう言って彼等は領主の館へと向かおうとするが、既にまともに歩くこともままならない様子なので、ターリャが代わりにティファニアの許へと伝令に走る。
 すると、ちょうど上述の話を終えたばかりのティファニア、ヴェルノーム、クローディア、そして(薬草採取人達の上司でもある)フェムが揃っていたため、ターリャが彼等にそのことを伝えると、5人は慌てて怪我人達の所へ急行する。彼等の話を聞いたところ、どうやら彼等を襲ったのは、ゴブリンと呼ばれる最下級の投影体であるらしい。ただ、それでも、一般人で武器も持たない彼等にとっては、脅威以外の何者でもない。
 これは迅速に討伐する必要があると感じたティファニアは、村の四部隊を、自身、ヴェルノーム、クローディア、ターリャの四人が率いる形で、ゴブリンの討伐へと向かうことを決意する。時刻は夕刻に差し掛かろうとしていたが、だからこそ、まだかろうじて陽が出ている間に片付けてしまった方が良い。村の警備が手薄になるリスクもあったが、どちらにせよ、今のこの村にアントリアやヴァレフールが本気で攻めてきたら、中途半端に兵がいても何の役にも立たない筈がない。まず今は、目の前の脅威である「収束した混沌」としてのゴブリン退治を迅速に終わらせる必要がある、と判断したのである。

 こうして迅速に編成された討伐隊が森の中に入ると、そのゴブリン達はすぐに現れた。彼等は三集団に分かれて行動していたが、数としてはそれほど多くはない。ティファニアの指揮の下、まず先手を取ってクローディア隊が中央のゴブリン集団に襲いかかると、そのあまりの迅速な動きに彼等はついて行けず、次々と倒れていく。それでもかろうじて踏み止まっていた彼等であったが、そこに後方からヴェルノームがストーンブラストの魔法を打ち込んだことで、あっさりとその集団は瓦解する。
 それに対して、左右の両部隊がクローディアに反撃しようと襲いかかるが、彼女はひらりとその攻撃をかわし続け、彼等は傷一つ与えることが出来ない。そこにティファニアの聖印の力が加わったことにより、そのままクローディアの返す刀で左側の集団が、そしてヴェルノームからの第二撃によって右側の集団が撃破される。少し遅れて救援に入ろうとしたターリャ隊が何も手を下すこともなく、あっさりとゴブリン達は全滅した。これが、聖印の力で強化された魔法師と邪紋使いの実力なのである。

2.8. 主(あるじ)のために

 しかし、これで一件落着、とはいかなかった。戦いながらも周囲に気を配っていたターリャが、森の周囲に、自分達とは別の「たいまつを持った者達」が展開しつつあるのを察知したのである。彼女の類希なる洞察力によれば、それは明らかにこの村の住人ではなかった。
 慌ててその方向へ彼等が向かうと、そこにいたのは、明確に聖印教会の紋章を掲げて、たいまつを手に持った人々の集団であった。どうやら、昨日捕えた「山賊」達の仲間らしい。しかも、今度は既に山火事を起こす準備も整えているようである。

「あなた達、誰の許可を得て、ここに来ているのですか!?」

 ティファニアがそう叫ぶと、彼等ははっきりと答える。

「我等が神の御意志の下、魔神の復活を阻止するために、この森を聖なる炎で焼き払う」

 そう叫ぶ彼等の瞳には、一点の曇りもない。それはまさに、自らの信念に基づいて、聖戦へと赴く戦士達の姿である。

「ダメです、こいつら、話の通じる相手じゃない」

 ヴェルノームはティファニアにそう告げる。魔法師の彼から見れば、彼等の行動は狂気そのものである。しかし、混沌核を炎程度で消し去ることなど出来ないというのは、彼の中では常識でも、普通の人々にはそこまでの知識はない。
 やむなく、彼等を力付くで止めなければ、と決意した彼等であったが、そんな中、クローディアは集団の中に一人、見知った人物の顔を見つける。そして、どうやらその人物も、彼女の存在に気付いたようである。

「お前、クローディアだよな? どうして、そこにいるんだ?」

 それは、トランガーヌ子爵の側近の一人、ルパート・ボルテックである。彼女が子爵に仕えていた頃、同じ城の中で常に顔を合わせていた同僚であった。しかも、彼の周囲には他にも何人か、同じ城に務めていた者達の姿もある。

「どうして、あなたが…………?」
「トランガーヌ子爵はあの卑劣な不意打ちの後、大陸に渡られ、聖印教会の一員となられた。簒奪者ダン・ディオード(アントリア子爵の本名)からこの地を奪い返すために、唯一神の力をお借りすることを決意されたのだ!」

 彼女が知っているルパートは、誠実で忠義に厚い家臣である。彼が嘘を言っているのを聞いたことがないし、そもそも、ここまで手の込んだ嘘がつけるタイプではない。無論、彼が誰かに騙されている可能性も否定は出来ないが、昨日の商人の話と照らし合わせても辻褄が合うし、トランガーヌ子爵が勢力奪回を目指すための選択肢として、同盟でも連合でもない第三勢力としての聖印教会と手を組んだとしても、さほど不自然な話ではない(ただ、聖印教会はアントリアと手を組んでいるという噂もあるので、それが正しい選択と言えるかどうかは微妙ではある)。子爵は乱世には不向きの、あまり明確な野心を持たない、ごく平凡な貴族ではあったが、先祖代々の土地を守ることに対しては、並々ならぬ情熱を燃やしていたのである。

「お前も子爵様の復権をお望みだろう? こっちに来い、クローディア。大丈夫だ、聖印教会は邪紋使いに対しては厳しいと言われているが、その力を神の意志のために用いた上で、神に懺悔してその身を捧げれば、その罪は許して下さる」

 この辺りの教義・解釈は宗派によっても異なるのだが、どちらにせよ「死ぬまでその存在が許されない」ということは変わりない。と言っても、クローディア自身にとっては、そのことはさほど問題ではない。ターリャ同様、彼女もまた自らが不浄の存在であることは認識しており、人並み程度の幸せを得ようという欲すら持たない。ここで彼女が「元の主」の許へ戻れないのは、全く別の理由であった。

「わ、私は、どうしたら…………」

 予想外の事態に混乱し、自分を見失っているクローディアを横目に、ヴェルノームがルパートに向かって言い放つ。

「俺達の仲間に、余計なことを吹き込むな!」
「黙れ、貴様等が彼女を惑わしているのだろう。彼女は俺達の仲間だ。さぁ、クローディア、戻って来い!」

 なおも混乱を続けるクローディアに対して、今度はティファニアが声をかける。

「あなたは、私達の仲間です。誰にも渡しません」

 だが、クローディアが求めている言葉は、それではなかった。彼女が求めているのは「仲間」ではない。彼女が失ってしまった、従者としての彼女が本能的に求めている存在。それは「仲間」ではないのである。
 そんなクローディアの、何かを訴えかけるような瞳の意図に気付いたティファニアは、改めて彼女にこう告げる。

「クローディア、メガエラの領主として命じます。この村の人々を脅かす、この者達を成敗しなさい!」

 その一言で、全ての迷いを断ち切ったクローディアは、

「承知しました!」

と言って、目の前の放火集団に向かって、斬り掛かる。そう、彼女が求めていたのは「仲間」ではなく「主(あるじ)」だったのである。これまで仕えていた主としてのボードを失った彼女は、その空白を埋める存在として、ティファニアから自分を「臣下」として扱う命令を下してくれる「新たな主」を、ずっと待ち望んでいたのだ。その「勅命」を得たことによって、彼女の瞳は輝きを取り戻し、次々と敵を打ち破っていく。それはまさに「従者」としての彼女が、「本来の自分」を取り戻した姿であった。
 そんな彼女を見ながら、どこか親近感を感じていたのは、ターリャである。彼女もまた、同じ邪紋使いとして、各地を放浪した後に先代に拾われた立場であり、先代が亡くなったことによる喪失感という意味では、クローディアと似た感情を共有していた。だからこそ、ここでようやく吹っ切ることが出来た彼女の気持ちが、痛いほどよく分かった彼女は、同じ主に仕える仲間として、改めて、彼女達の「盾」となることを決意したのである。
 こうして、侵入者達の前に立ちはだかったターリャによって、彼等の繰り出す渾身の攻撃が完全に受け止められる一方で、迷いを完全に断ち切ったクローディアの勢いに後方からヴェルノームの援護が加わったことで、あっという間に侵入者達の陣形は崩れ、混乱状態に陥る。そして、かつての同胞であるルパートもまた、クローディアの繰り出すレイピアの一閃によって、あっけなくその場に倒れ込んだのである。

「これが……、本物の混沌の力か…………」

 邪紋使いと魔法師。聖印教会が忌み嫌う混沌の力を用いる彼等の前に、彼はその命を散らす。その最後の瞬間、自分や子爵の判断は間違ってはいなかった、やはり、この世界からこのような危険な力は排除すべきだ、そう改めて感じた彼であったが、もはやその誓いを叶える機会は、永遠に失われてしまったのである。

3.1. 謎の少年

 こうして、どうにか侵入者も撃退した彼等であったが、これで全てが解決した訳ではない。まだ一番肝心な問題、すなわち、この森の奥に眠ると言われる混沌核については、まだ全くその存在すら確認出来ていないのである。
 既に陽は落ち、夜となっていたが、村の安全を護るためにも、このまま調査を続けるべきと考えた彼女達は、そのまま森の奥地へと向かっていく。すると、少しずつ混沌濃度が高まっていることにヴェルノームが気付く。どうやら、何らかの強力な混沌核がある可能性は高そうである。
 その状況に緊迫感を感じつつ、周囲を警戒しながら彼等が歩を進めていくと、彼等の前に、一人の見知らぬ少年が現れる。その姿と声の雰囲気から、おそらくは霊的な存在であることは皆が実感していたが、ヴェルノームだけは、その霊力が尋常ならざるレベルであることを実感する。少なくとも、彼がこれまで見てきたどの投影体よりも強大な力が感じ取れた。

「覇を求めるか? 娘よ」

 その少年はティファニアを見つめながら、そう問いかける。問われたティファニアは、はっきりと肯定する。君主として、領主として、「覇道」を求めることこそが「選ばれた者」としての責務だと、彼女は認識していた。

「ならば進め。貴様には、我が意志を継ぐ権利がある」

 そう言って、その少年の姿は消えていく。ここから先、彼等を待ち受けているのが、人知を超えた存在であるということを実感した彼等は、覇道を歩むことを決意したティファニアを筆頭に、新たな決意を胸に、更に奥地へと踏み込んでいく。この村を救う、そして、皆で無事に村へ帰る。そう誓った彼等は、やがて、この森の奥底に潜む「深淵」に辿り着くことになる。

3.2. 森の深淵

 森の中心に辿り着いた彼等の前に広がっていたのは、巨大な「地表の裂け目」であった。どうやら、森の奥に眠る混沌核(もしくはそれに類する何か)が躍動し、大地を割ってしまっていたらしい。その正体を突き止めるためには、この地表の割れ目の奥に入り込む必要があるが、さすがにここから先は、集団で入れる状態ではない。
 ひとまず、兵達には周囲の警戒を任せた上で、ヴェルノームが持っていた登攀器具を用いて、クローディア、ターリャ、ティファリア、ヴェルノームの順で、下に降りて行く。身体能力の高いクローディアとターリャはあっさりと崖を降りきって、「深淵の底」に辿り着くことに成功したが、問題はティファリアである。さすがに、ロッククライミングの訓練などやったことがある筈もない彼女は、それでもなんとか恐る恐る降りようとするが、途中で足を踏み外してしまう。

「危ない!」

 そう言って真っ先に彼女の落下地点に飛び込んだのは、ターリャであった。当然、クローディアも駆け込もうとしたが、降りた順番の関係上、ターリャに先を越されることになったのである。だが、結果的に言えばこの順番で正解であった。ティファリアを空中で抱きかかえて、彼女の代わりに落下の衝撃を受けたターリャは身体は相当なダメージを受けたが、不死者の身体を持つ彼女にとっては、どうということはないレベルだったのである。クローディアは、従者として間に合わなかったことをティファニアに平謝りしていたが、むしろ、ここは素直にターリャに任せるのが筋であったと言えよう。
 その後、運動が苦手なヴェルノームもなんとか「底」にまで辿り着き、そこで改めてたいまつに火をつけると、その「崖」の途中で洞穴のような形で道が続いているのを発見する。彼等がその先へ進もうとすると、その奥に、不気味な人影が現れた。それは、首の無い騎士、より正確に言えば、自らの首を片手で抱えて持つ投影体・デュラハンであった。

「ここから先に進みたくば、その力を示してみよ」

 そう言って、デュラハンは彼等の前に立ちはだかると、ティファニアを指差してこう告げる。

「瞬き五回。それが、貴様が命を落とすまでに必要な時間だ」

 この「死の宣告」に戦慄するティファニアであったが、それでもなんとか正気を保ち、そして聖印を掲げることで三人を鼓舞する。そして、このデュラハンの宣告に対して最も強く闘志を燃やしたのが、ヴェルノームであった。短期決戦で終わらせなければ危険と判断した彼は、持てる力の全てを使って「バーストフレア」を叩き込む。これは、混沌濃度が強ければ強いほどその威力を増す魔法であり、既に「魔境」に近い状態と化しているこの地での効果は絶大であった。
 それに続けて、クローディアのレイピアとターリャの鉤爪がデュラハンを襲う。それでもなんとか踏み止まりつつ、反撃に転じようとしたデュラハンに対して、ティファニアは「再動の印」を掲げることで、ヴェルノームが二度目のバーストフレアを打ち込み、デュラハンの身体を焼き尽す。

「見事だ……」

 そう言って、デュラハンはその場に倒れ込む。もし、ヴェルノームの二撃目で倒しきれなければ、次の瞬間、ティファニアの首が飛んでいた可能性もある。しかし、彼等の絶妙な連携攻撃によって、ティル・ナ・ノーグ界でも有数の凶悪な投影体と言われるデュラハンは倒されたのである。

3.3. 深淵の主

 こうして、遮る者がいなくなった彼女達は、そのまま奥地へと進む。すると、そこで彼等を待っていたのは、巨大な「爬虫類のような動物の首」であった。その口は、人間一人を軽々と飲み込めるほどの大きさであり、 おそらくその首の奥には彼の身体があるのだろう。強力な封印結界のようなものがその「首」の周辺に施されていて、その全容はよく分からない。ただ、彼等の知っている動物の知識に照らし合わせて考えてみると、おそらくは「巨大な亀」の首ではないか、ということは予想が出来た。

「貴様は、何者だ?」

 その「巨大な亀の首」は、そう問いかける。

「この地の領主、ティファニア・ルースです。あなたは?」

 これまで見たこともない大きさの相手に圧倒されながらも、堂々と彼女はそう答える。すると、その「巨大な亀のような何か」はこう答えた。

「我が名はフェルマータ。かつて、エルムンド様と共にこのブレトランドの地を切り開いた七人の騎士の一人だ」

 ブレトランドに住む者で、エルムンドの名を知らない者はいない。四百年前、この地を支配していた混沌の闇を振り払い、現在のブレトランドの基礎を築いた英雄である。ヴェレフール、トランガーヌ、アントリアの三国は、彼の三人の子供によって作られた。まさにこの小大陸の文明の始祖とも言うべき存在であり、彼と共に戦ったと言われる「七人の騎士」と「名を伝えられていない一人の魔法使い」の伝承は、この地で生まれた者なら、誰でも知っている。
 だが、その七人の騎士は、エルムンドによって聖印を分け与えられた「君主」の筈である。その容貌に関しては諸説あるが、少なくとも、このような明らかに「投影体」と分かる姿であったという話は、聞いたことがない。

「我等七人は、この地を支配していた混沌との戦いの最中、強力な混沌核に触れ、このような姿になってしまった。それでもエルムンド様の導きのお陰で、どうにか人としての理性を保ちつつ、共にこの国の混沌を祓うことに成功した。だが、自らの死期を悟ったエルムンド様は、御自身の死後に我等が暴走することを防ぐため、この小大陸の各地に我等を封印されたのだ。無論、それは我等自身の望みでもあった」

 この巨大亀曰く、彼のこの姿は、異界の一つである「グランフィルム(大映)界」の住人の姿であるらしい。他に関係の深い異界として、「オステルシャッツ(東宝)界」や「オステルフィルム(東映)界」と呼ばれる世界もあるらしいが、ヴァルハラ界やオリンポス界に比べると、この世界にそれらの世界の住人の投影体が姿を現すことは珍しい。

「そして、エルムンド様はこうおっしゃられた。再びこの地に災厄が訪れた時、この地を訪れる新たな君主にその身を捧げよ、と。娘よ、貴様は我が分身の導きに従い、もう一人の我が分身を倒して、我の前に姿を現した。既に十分にその資質はある」

 どうやら、あの少年とデュラハンは、どちらも彼の分身のような存在らしい。あるいは、どちらも「本来の彼の姿」だったのかもしれない。

「さぁ、我が力を解き放て。貴様なら、この封印を解くことが出来る。我が力をもって、この小大陸に覇を唱えよ」

 そう言われたティファニアだが、さすがに話のスケールが大きすぎて、すぐに即答出来る話ではない。だが、ここは周囲の者達に助言を求めるべき状況でもない。あくまでも一人の君主として、この「巨大な亀のような何者か」の力を受け取るか否か、という問いかけなのである。
 この巨大亀の言うことがどこまで真実なのかは分からない。本当に伝説の七人の騎士の一人だという保証もないし、仮にそれが本当だったとしても、今の彼を封印から解いたとして、どこまで理性を保って行動出来るのか、そもそも自分が彼を制御出来るのかも疑問である。最悪の場合、自分がこの投影体に乗っ取られる可能性も否定は出来ない。
 そしてもう一つの問題は、ヴィットである。ここまでの状況から察するに、おそらく、この巨大亀を封印した結界から漏れ出た混沌の力が、奇跡的なバランスで配合して生まれた副産物であろうと推測される。だとすると、彼を解放すれば、間違いなくそのバランスは崩れ、もう二度とヴィットは生み出せなくなるだろう。それはこの村の経済にとって大打撃であるだけでなく、世界中でヴィットを必要とする人々を苦境に追い込むことにもなりかねない。
 無論、巨大亀を完全に制御することが出来るなら、その力を利用してヴィットを生み出す研究を学院に依頼する、という選択肢もあるだろう。だが、それが技術的に可能である保証はないし、その場合は学院側から、この巨大亀の管轄権自体を学院に引き渡すように要求される可能性もある。いずれにせよ、現在のような形での「安定したヴィット(およびそれがもたらす権益)の供給」は不可能になると覚悟しておくべきであろう。
 だが、この巨大亀の持つ力を解放すれば、大国の脅威に怯えながら暮らす必要はなくなるだろう。ヴィットの権益が無くなったとしても、この巨大亀の力で周辺諸国を支配下に治めれば、それ以上の莫大な富を得ることも不可能ではないし、この地に残る混沌を次々と祓っていくことで、より多くの人々の力にもなれるかもしれない。
 更に言えば、仮に彼女がこの巨大亀の力を得ることを拒否したとしても、その後で何者かがこの地に入り込み、その力を得てしまう可能性もある。それがもし、個人的野心や危険思想に取り憑かれた人物であった場合のことを考えると、その前にひとまずティファニアがこの巨大亀の「主人」となることで、最悪の事態を未然に防ぐという選択肢も、当然ありうる。
 これらの状況を熟考した上で、三人の臣下が見守る中、ティファニアは結論を下した。

「私は覇道を歩む者。だが、私の覇道にお前は必要ない。私の覇道は、我が臣下達と共に歩む」

 そう言われた巨大亀は、落胆した声で呟く。

「血は争えぬ、か…………。結局、貴様もあの腰抜けの娘ということだな」

 その言葉が意味するところを理解したティファニアは、あえてその言葉には反論せず、そのまま巨大亀の前から去っていく。三人の臣下達も、黙って彼女の決断に従い、その場を後にするのであった。

4.1. ターリャの決意

 こうして、深淵を後にした彼等は、外で待っていた兵士達には詳細を説明せぬまま、彼等に「地割れで生じた裂け目」を埋めるための作業を命じる。当然、その作業は森林官であるフェムと連携しつつ、稀に出現する下位の投影体と戦うための人員も確保しながらの、かなり大掛かりな作業となるが、どれだけの日数がかかっても、この村の平穏を取り戻すためには、それしか選択肢はなかった。そして、そのティファニアの下した命令に対して、誰一人として異論を唱える者はいなかった。
 無論、この状況下で周辺諸国が介入してきた場合、かなり厄介な事態となることが予想されたが、意外なことに、ヴァレフールも、アントリアも、聖印教会も、そしてトランガーヌ子爵の残党達も、この日以降、村に対して積極的に介入しようとはしなかった。
 そのことに対してやや不気味に感じていたティファニア達であったが、そんな中、ヴァレフールの騎士隊長の一人であるファルクから、妹のターニャに手紙が届いた。その内容によると、どうやらヴァレフールおよび聖印教会の内部において、「メガエラの森に手を出すと、危険な災害が起きる」という噂が拡散しているらしい。誰がその情報を流したのかは定かではないが、いずれにせよ、しばらくはメガエラに対して様子見の姿勢を取るという方針が、どちらの上層部においても決定事項とされたそうである。
 ファルク自身としても、その方針には異論はなかった。ただ、そのような危険な場所に妹を置いておくことが彼には堪え難いようで、ターリャに対して、イェッタに戻ってくることを、手紙の最後で促していた。兄にそう思ってもらえるのは、ターリャとしても嬉しい限りではあったが、彼女はその申し出を丁重に断る。

「あの森が危険な存在だからこそ、誰かがあの森を管理しなければならないからこそ、私は今、この地を離れる訳にはいきません」

 それが、彼女の答えだった。無論、それだけが理由ではない。最愛の兄と一緒に暮らせるという甘い誘惑を断ち切ってでも、主君と仲間達と共に、この村そのものを守っていかなければならない、という意識が、彼女の中にも芽生えていたのである。

4.2. ヴェルノームの決意

 一方、アントリア子爵の陣営においても同様に、「メガエラには手を出さない方がいい」という噂が広まっているらしい、ということを、ヴェルノームはクリスとの魔法杖通信を通じて聞かされる。

「まだ確証はないんだけど、どうもその噂の発生源は『パンドラ』みたいなのよね」

 それを聞いたヴェルノームは、その噂を広めようとした人物について明確な心当たりがあったが、さすがに、そのことまでをもクリスに話すつもりは毛頭ない。

「とにかく、これでしばらくは、あなたの君主も安泰ね。でも、そのお陰で、私達が一緒に暮らせるようになるのは、もっと先のことになりそうだわ」

 複雑な声のトーンでそう語る恋人に対して、ヴェルノームも複雑な心境のまま答える。

「すまない、クリス。だが、近いうちに休暇を貰って、必ず会いに行くよ」

 そう言いながらヴェルノームは、もう一つ、彼女に伝えるべきことを思い出した。それは、数日前に彼女から問われていた質問への回答である。

「そういえば、この間言ってた、ウチの領主様のことだけど、今ならば、はっきり言える。彼女は、主君として仕えるに値する人物だ。まだ未熟なところもあるが、だからこそ、今は彼女を支えることに全力を尽くしたい」

 そう胸を張って言い切った彼に対するクリスからの返信は、明らかに声のトーンが変わっていた。

「そう……、その若くて可愛らしい領主様を護ることが、今のあなたにとって一番大事なことなのね……」

 微妙に言葉選びを間違えたことに気付いたヴェルノームであったが、もう既に遅かった。

「いや、その、そういう意味ではなくて……」
「いいのよ、うん、そうよね。それが魔法師として一番必要なことだからね。うん、分かってるから、大丈夫。気にしなくていいから」

 明らかに毒の込められたその言葉に対して、彼がどう答えていいか分からずに困っている状態のまま、彼女との通信は途絶えた。
 こうなると、一刻も早く休暇を貰って会いに行かなければならない、ということを実感させられたヴェルノームは、今、目の前に残っている仕事を急ピッチで終わらせるべく、全力を尽くすのであった。

4.3. クローディアの決意

 その頃、クローディアは一人、森の片隅に、小さな石碑を立てていた。その下には、彼女自身の手で葬った、ルパートとその仲間達が埋葬されている。道を違えることになってしまったとはいえ、かつては同じ釜の飯を食った(より正確に言えば、クローディアが作った飯を食べてくれていた)人々である。彼女の中でも、思うところは色々とあったが、今はただ、こうして自身の手で葬ってやることしか出来なかった。
 そして彼女は決意する。これから先は、ティファニア・ルースただ一人を自分の主とすることを。もう二度と、自分の主を亡くさないことを。そして、自らの過去を断ち切るために、この村に危険をもたらす聖印教会の一員となった(かつての主の)トランガーヌ子爵を、自らの手で討ち果たすことを。
 彼女は、自らの髪を縛っていたリボンをほどき、そっとその石碑に添える。それは、彼女のことを気に入ったトランガーヌ子爵から貰ったリボンであった。森の中を吹き抜ける風にその髪をなびかせながら、彼女は領主の館へと戻っていく。そんな彼女が、新たなリボンをティファニアから貰い受けることになるのは、これから数日後の話である。

4.4. ティファニアの決意

「お父様も、あの魔物に会っていたのですか?」

 ティファニアにそう問いかけられたフェムは、あっさりとその事実を認める。しかも、その時に彼もその場にいたらしい。そして、ボードが巨大亀の誘いを断るのも見届けていたという。

「私と旦那様は、常に身も心も共にありました。これから先、お嬢さ……、失礼、マイロードにとっても、そのような形で全てを分かち合える臣下を作ることです」

 そのことは、ティファニアも実感している。そして、当初は「ボードの娘」という理由のみで自分に従ってくれていた「あの三人」との距離が、今回の一件を通じて、少しずつ縮まりつつあることも実感している。だが、おそらくそれでも、まだ父とフェムほどの信頼関係にまでは至っていないのであろう、ということもまた自覚していた。
 だからこそ、これから先、彼女は彼等の「道標」であると同時に、「支え合う仲間」でなければならない、と実感していた。クローディアが求めているのは「仲間」ではなく「主」であるということは自覚しているが、「仲間意識」と「主従関係」は、必ずしも両立出来ないことではないのではないか、と彼女は考えている。少なくとも、父とフェムがそうであったように。

「ところで、マイロード、実はここ最近、近隣の村々の領主達から、次々と縁談を求める手紙が届いております」

 いきなり脈絡のないことを言われた彼女は驚くが、よくよく考えてみれば、別にそれほど突拍子もない話でもない。この世界において、君主同士の婚姻関係は外交戦略の基本である。未婚の若い君主がいれば、契りを結ぶことでその領土を共有しようとする者が現れるのも当然であろう。

「無論、村の外交に関わる問題である以上、慎重に考えるべきことですし、もし、既に心に決めた方がいらっしゃるなら、その方を軸に考えて頂ければ結構です」

 今のところ「心に決めた方」と言えるような相手は誰もいない。あえて挙げるならば、連合盟主のアレクシス・ドゥーセであるが、さすがに身分が違いすぎるし、未だに彼の心の中には、かつての婚約者である同盟盟主マリーネ・クライシェへの想いが残っているのでは、とも言われている。また、それ以前の問題として、そもそも彼への想いが「恋心」なのか、「ただの憧れ」なのか、ティファニア自身もよく分かっていなかった。

「そういえば、先日いらっしゃったイェッタの領主様も、まだ独身でしたな。なかなかの好人物のように私には見えましたが」

 確かに、人の良さそうな人物ではあったが、彼との婚姻はヴァレフールとの関係を強めると同時に、アントリアとの関係を悪化させかねない。それに加えて、ターリャがどんな反応を示すのかを想像すると、やはり、そう簡単に縁談を持ちかけていい相手とは思えない。
 いずれにせよ、うら若き15歳の君主様には、まだまだ学ぶべきことは山のようにある。だが、どんな試練も、彼女を支えてくれる人々と共に乗り越えていけそうな気がする。そんな根拠のない自信を胸に秘めつつ、まずは自分自身が下した「森の修繕」を一刻も早く完遂するために、フェムの提出した中間報告書に眼を通す彼女であった。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2016年03月19日 00:42