第3話(BS55)「天威之壱〜夢を描く者〜」 1 / 2 / 3 / 4

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1.1. 龍と龍騎士

 アトラタン大陸極北部に位置するノルド侯国は、大工房同盟において中核的役割を担う海洋軍事大国である。現在のノルド侯爵エーリクは「海洋王」の異名を持つ豪傑であり、大工房同盟内において、ヴァルドリンド辺境伯マリーネ、ダルタニア太守ミルザーと並び称される「三巨頭」の一人として知られている。
 そんなノルドの首都スロームの一角に位置する有力貴族リンドマン家の屋敷において、この屋敷の主である一人の高名な騎士(下図)が、この国の(海を挟んだ)西方に位置するブレトランド小大陸への渡航の準備を進めていた。


 彼の名はフレドリク・リンドマン。海洋王エーリクの義兄であり、ノルドでも数少ない「龍騎士」の一人である。彼には妻クリスティーナ(エーリクの姉)との間に四人の娘がおり、その中の一人である「梟姫」こと次女マルグレーテは、現在ブレトランドにおける同盟国であるアントリアに出征中である(ブレトランド風雲録5ブレトランドの魔法都市3参照)。
 今回のフレドリクのブレトランドへの渡航は(極秘事項という程ではないが)あくまでも非公式の訪問であり、同行者は僅か二人しかいない。その中の一人が、現在フレドリクの傍らに立っている、彼にとっての「相棒」と呼ぶべき一人の精悍な青年であった(下図)。


 彼の名はラスク。龍の力を模倣する邪紋使いである。彼は自らを「誇り高き龍」と称し、自身の身体をほぼ「龍」そのものにまで変化させられるほどに邪紋の力を高めた存在であり、「龍騎士フレドリク」は「龍化したラスク」に騎乗することでその真価を発揮する。つまり、戦場における彼は、フレドリクと一心同体の存在である。
 彼等がアントリアへと向かう理由は、その地に存在すると思しき一冊の本を手に入れるためである。その本の名は『紅蓮の姫と紺碧の翼』。今から約500年前に書かれたと言われている書物であり、そこには「とある実在の人物達」の記録が残されているらしいのだが、発行部数は極めて少なく、エーラムの図書館にすら現物は所蔵されていないため、詳細は不明である。ただ、今の彼等にとって、それはどうしても必要な書物であった。
 そんな彼等の渡航準備を手伝っているのは、ラスクの妻にして、フレドリクの契約魔法師のマール・オクセンシェルナである。彼女が用いた探知魔法によれば、アントリア北部の港町パルテノの近辺から、その本の存在を感知出来たらしい。

「パルテノの領主エルネスト卿は芸術文化に精通している方らしいので、おそらく、この本を『優れた文学作品の一つ』として所蔵しているのでしょう」

 マールは二人にそう告げた。彼女としては、出来れば自分もついて行きたいところだが、彼女には、ノルドの重鎮であるフレドリクとその相棒が不在の間、彼等の代役として家臣達をまとめる責務がある。むしろ、彼女が日頃から二人の後方支援を一手に引き受けているからこそ、彼等は今回、「個人的な事情」に基づいて国許を離れることが可能となったのである(なお、この「事情」のことを把握しているのは、この二人とマール、そしてフレドリクの妻であるクリスティーナだけである)。
 そして今回、マールの代わりにこの二人に同行する予定なのは、フレドリクの長女である「鯨姫」ことカタリーナの契約魔法師を務めるカイナ・メレテスである。彼女は昨年までアントリアに仕えていた身であり、現地の事情に詳しいため、今回の水先案内人として適任に思えた。

「カイナさんは時空魔法師ですので、もし手詰まりになったら、彼女の力で色々探ってもらうのも一つの手でしょう。ただ、カタリーナ様の選んだ方を悪く言いたくはありませんが……」

 マールはそう言いながら、眉をひそめつつ小声で話しを続ける。

「正直なところ、私は彼女のことは、まだ同胞として認めきれていません。何か私達に隠していることがあるような、そんな気がします。あくまで『女の勘』ですが」

 そんな彼女の忠告を聞き入れつつ、フレドリクはラスクに対して語りかける。

「では、参ろうか。相棒よ」
「あぁ」

 ラスクは短くそう答えると、二人はカイナと合流すべく、乗船予定の船舶が停泊する港へと向けて歩き始める。そんな二人の後ろ姿を、マールは心配そうな表情で見つめていた。

(あの二人は多分、相手のことは互いに一番よく分かっている。だから、よほどのことがない限り、大丈夫だとは思うけど……)

 そんな彼女の不安は、この後、少しずつ現実化していくことになるのだが、まだこの時点ではそのことを知る者は誰もいなかった。

1.2. 長女の懸念

 フレドリクの長女である「鯨姫」ことカタリーナ・リンドマン(下図)は、若くしてノルド海軍の第四艦隊の司令官を務める俊英であり、男子のいないリンドマン家の家督相続者として目されている存在でもある。


 そんな彼女の契約相手である時空魔法師のカイナ・メレテス(下図)は、約一年前までダン・ディオード付きの無任所魔法師としてアントリアに在籍していた(そこからの彼女の契約魔法師となるに至る経緯はブレトランドの光と闇1参照)。その人脈を買われて、今回のフレドリクの渡航の案内役を担当することになったのであるが、そんな彼女に対して、カタリーナはやや訝しげな表情を浮かべながら、ふと語りかけた。


「どうもここ最近、お父様の様子がよそよそしいのよね。お母様にも相談してみたら『気のせいだろう』って言われたんだけど……。どっちにしてもちょっと心配だから、この機会に確認してみて」
「はぁ……、分かりました」

 カイナとしては、急にそう言われたところで、何をどうすれば良いのかが分からない。少なくとも、これまであまりフレドリクと接する機会が少なかったカイナには、カタリーナが今のフレドリクのどこに違和感を感じているのか、見当もつかなかった。ただ、時空魔法師であるが故に「理詰め」の世界で生きているカイナとは対照的に、「感性」主体で生きているカタリーナには「カイナには見えない何か」が見えているのかもしれない。

「その件に関して、私はどの程度まで本気で取り組めばよろしいのでしょう?」
「まぁ、逆にお父様から不審に思われないくらい、かな」

 確かに、あまりにも直接的にカイナがフレドリクの現状を調査しようとした場合、それはそれで不興を買う可能性もあるだろう。

「そうですね……、このノルドでの付き合い方は大体分かってきましたが、必要以上に私が干渉しようものなら、姫のところにどういう影響があるかも分かりませんし。その辺りはきちんと線引きはします」
「そうなのよね。この国にはエーラムのことをあまり快く思わない人達もいるし……」

 辺境の地で懸命に生きるノルド人の気質は、文明の最先端であるエーラムの魔法師とは衝突しやすい。特に感情や衝動を重んじる無骨な君主達の中には、理性や知性を重んじる魔法師達に対して本能的に「胡散臭さ」を感じる者も少なくない。この点に関して言えばカタリーナも間違いなく典型的な「理性や知性よりも感情や衝動を重んじるノルド騎士」なのだが、彼女は基本的に「ちゃんと話せば誰とでも仲良く出来る」という楽観的信念の持ち主でもあるが故に、カイナに対しても特に訝しむことなく、彼女のことは全面的に信頼している。

「それじゃ、よろしく頼むわね」

 最後はいつも通りの笑顔でそう言って立ち去って行くカタリーナに対して、カイナが内心で複雑な感情を抱きつつ、自室に戻って旅支度を始めようとしたところで、今度は彼女にとっての「もう一つの本拠地」からの連絡が、彼女の魔法杖に届いた。
 カイナはエーラム魔法師協会に所属する契約魔法師であると同時に、ブレトランドに存在する闇魔法師組織「パンドラ均衡派」の一員でもある。皇帝聖印の成立阻止を目指して暗躍する均衡派の首領マーシー・リンフィールドから、カイナに対して魔法杖経由で以下のような通告が伝えられた。

「ノルドの重鎮であるフレドリク・リンドマンの運命が、大きく転換しようとしている」

 マーシーは開口一番にそう告げた。彼女には、カイナがフレドリクと共にブレトランドへ向かうという話は既に連絡済みである。マーシーはその情報に基づいてフレドリクに関する未来を時空魔法を用いて調べた結果、このような仮説が導き出されたらしい。マーシーは淡々とした口調ながらも、強い危機感を感じさせる気配を漂わせながら話を続けた。

「それはおそらく、世界の覇権争いだけでなく、この世界の存在そのものを揺るがす問題とも関係している。具体的なことは分からないが、彼の近くにいるのであれば、可能な限り真相を探って報告するように」

 ある意味、先刻のカタリーナの「直感」以上に抽象的な物言いであるが、それがブレトランド・パンドラでも随一の実力の時空魔法師であるマーシーの綿密な計算に基づいて弾き出された危険性なのであれば、看過出来る話ではない。

「えぇ、分かりました。いつだって我々は世界の均衡を保たなければなりません。ともあれ、相変わらず視野が広いようですね」
「そうでなければ、この立場は務まらない。ただ、私は今でもエーリクとダン・ディオードは非常に危険な存在だと考えているが、フレドリク・リンドマンに関しては、こちらから追加の指令が入らない限り、彼の身に危険が及んだ場合は、彼の身は全力で守れ。明確な因果関係は不明だが、おそらく彼の死は、この世界に大きな危険を招く可能性が高い」

 カイナにしてみれば、理由はどうあれ、それならば今の自分の立場を維持する上でも望ましい命令である。その上で、マーシーはカイナに対して「パルテノに到着後に現地の領主エルネスト・キャプリコーンの屋敷で働く均衡派の間者のアニー(杏仁豆腐のオルガノン)と連絡を取り、状況によっては、彼女と連携した上で行動せよ」と命じるのであった。

1.3. 護衛担当

 アントリア北部の港町であるパルテノの領主エルネスト・キャプリコーン(下図)は、音楽や会がなど、幅広く芸術文化を愛する君主として知られている。質素倹約を重んじるダン・ディオード政権下では、あまり表立った芸術奨励活動は出来ずにいたが、ダン・ディオードによるコートウェルズ出征以降(その経緯はブレトランドの英霊4参照)、徐々にパルテノは本来の華やかな雰囲気を取り戻しつつある。


 そんな中、彼は街の警備隊長のシドウ・イースラー(下図)を領主の館の自室へと呼び出した。彼は本来はコートウェルズの貴族家出身であり、実はダン・ディオードの長男でもあるのだが、そのことを知る者は殆どいない。


「ノルドから、フレドリク・リンドマン殿が御来場されることになった。ノルド王の義理の兄にあたる方だ。理由はよく分からないが、お忍びでいらっしゃるということなので、あまり仰々しい警備は目立つので良くないから、一人で護衛するように」

 要人警護を一人で任されるというのは極めて責任の重い任務であるが、それは「シドウがいれば大抵のことがあっても大丈夫」という信頼の現れでもある。実際、シドウは「不死」の邪紋使いであり、「人を守る力」に関しては、間違いなく一線級であった。

「分かりました。お任せ下さい」

 そう言って彼がエルネストの部屋から外へ出ると、そこには極東風の奇妙な装束の女性の姿があった。シドウの副官を務めるクレハ・カーバイトである。彼女は『ナイトウィザード』という名の「書物」から出現する投影体のような存在であり、この街の人々からは「オルガノン」だと思われているが、厳密に言えばオルガノンとは似て非なる「禁書の象徴体(レトロスペクター)」と呼ばれる存在である(その厳密な正体はブレトランドと魔法都市4を参照)。
 その外見は、 本体である書物の中で描かれている世界に登場する人物の一人 に酷似しており、その人物と同じ特殊な魔法の弓を用いることから、分類上は「山吹の静動魔法師」とされているが、本人は「陰陽師」と自称している。

「あ、隊長さん、謁見は終わりました?」
「あぁ」
「どんな御用だったんですか?」
「どうやら、ノルドの方からお偉いさんがいらっしゃるようだ」
「なるほど」
「で、私一人で護衛するように、という指示が領主様からあった」
「つまり、目立たないように、ということですね。そういうことだったら、何かあった時のために『私』を持って行きませんか? 小脇に抱えるでも、鞄に入れるでも構わないんですけど」

 彼女の「本体」となる『ナイトウィザード』は、彼女の「契約者」であるマリベル(この街の領主エルネストの長女)が所有しているが、現時点でのクレハの実質的な上官がシドウであることもあって、過去にも何度かシドウに貸し出されたことはある(ちなみに、彼女は最初の召喚主によって様々な「改造」を施されており、「本」の中に収納された状態から、いつでも具現化することが可能である)。

「そうなると、一度マリベル様に許可を……」
「まぁ、それについては私が今からマリベル様の元に向かう予定なので、その時にお願いしておきます。それはそれとして隊長さん、実は一つ、お伝えすることがあったんですけど……」

 そう言いながら、彼女はボロボロの封筒を取り出す。

「随分前に、隊長さん宛てに発送されてた手紙らしいんですけど、一度、大陸の方に誤配送されてしまって、それが今頃になってようやくウチに届いたみたいです」

 それが混沌のせいなのか、ただの人為的な手違いなのかは分からない。とはいえ、この世界ではその程度の郵便事故はそれほど珍しい話ではない。むしろ、最終的に消失せずに届いただけマシと言える話でもある。

「私宛て?」

 これまで、あまり他人と手紙のやりとりをしていないシドウは、首を傾げつつ封筒の表書きを確認する。発送された日付を見ると、どうやら1ヶ月以上前に届く筈の手紙だったらしい。そして差出人として書かれていた名は、彼の妹のソニア・イースラーであった。
 ソニアはコートウェルズ最大の都市クリフォードの領主の娘で、兄であるシドウを差し置いて、父マーセルから後継者に指名された人物である。それ故に、かつてのシドウは彼女に対して様々に屈折した感情を抱いていたが、一年前のコートウェルズ遠征の際に自身の出生の秘密を知ったこともあり、今のシドウの中では彼女へのわだかまりはすっかり払拭されていた。彼は純粋に一人の兄として、嬉しそうな笑顔を浮かべながら久しぶりに妹から届いた封筒を開くと、そこに書かれていたのは「結婚式への招待状」であった。

「私はこの度、フェードラの領主スタンレー様の弟君であるフィル様と結婚することになりました。お兄様はもう実家のことには興味はないかもしれませんが、もしよろしければ、私達の結婚式に御参列頂けないでしょうか?」

 シドウは嫌な予感を抱きつつ、日付を確認すると、どうやらその挙式は既に一週間以上前に終わっていた、ということが判明する。

(ソニア……、すまない……)

 自分自身には何の非もないとはいえ、妹の晴れ舞台に出席出来なかったことを知ったシドウは、静かにその場に崩れ落ちた。

「私はいよいよ、ソニアに会う資格がなくなってしまったな……」

 思わずそう呟いたシドウに対して、横からその手紙を覗き込んでいたクレハが口を挟む。

「いや、まぁ、今からでもお手紙を書けば良いのではないですか? 郵便物の配送ミスなんて、よくあることですし」
「……そう言ってもらえると、少し、気持ちは楽になる」

 そう言って起き上がったシドウに対して、クレハは(特に何の悪気もなく)デリカシーのない一言を突きつけた。

「ところで、隊長さんは結婚しないんですか?」
「私は、愛情というものがよく分からないところがあってな……、好きな女性というのも出来たことがないしな……」
「なるほど。まぁ、そういうことなのであれば、別に焦らなくても良いかと。隊長さんって、意外とまだ若いんですよね?」

 シドウは邪紋の影響もあって、その見た目からはあまり若々しさは感じられないが、まだ二十歳前である。更に言えば、不死の邪紋の持ち主は通常の人間よりも長命であることが多く、数百年以上生きている者も稀に存在する。その意味でも、彼の人生はまだまだ果てしなく長い。

「私より若い者が活躍しているということもあって、自分が若いという感覚もあまり無いのだが……」
「なるほど。まぁ、ともかく、妹さんには遅れてでも手紙は出した方がいいと思いますよ」
「そうだな……。まず、祝いの言葉から書いた方がいいのか、謝罪の言葉から書いた方がいいのか……」

 シドウはそう呟きながら、そこはかとなく重い足取りで、ひとまず領主の館を後にするのであった。

1.4. 接待担当

 そんなシドウと入れ替わりで、領主の館に一人の魔法師が出仕して来た。彼の名はラーテン・ストラトス(下図)。彼はこの街の領主エルネストの長女であるマリベル・キャプリコーンの契約魔法師である。


 彼がマリベル(下図)の部屋の扉を叩くと、マリベルは笑顔で迎える。今回、彼女は父から、上述のフレドリクとはまた別件で来訪予定の一人の客人への対応を命じられ、その補佐役としてラーテンを呼び寄せたのである。


「お父様から『聖印教会からの来訪者が来るから、おもてなしするように』と言われたわ」
「もてなし、かぁ……」

 ラーテンはやや困った表情を浮かべる。正直なところ、彼としては「客人の接待」は苦手分野である。それに加えて、魔法師を毛嫌いする傾向の強い聖印教会からの客人ということになると、余計に気が重い。

「正直、私もそういうのは苦手なんだけど、いい加減にそろそろ、そういうのも勉強しろ、って言われてるし。まぁ、聖印教会の人ではあるけど、そんなに過激派でもないらしいから、あなたが一緒にいても、いきなり殴りかかられることはないと思うけど」

 少なくとも、そこまで極端な思想の人物であれば、エルネストも社交慣れしていない彼女に接待を任せたりはしないだろう。

「そう信じたいよなぁ……」
「不安だったら、魔法で姿を消して遠くから見守る、とかでもいいんだけど」

 とはいえ、それはそれで、魔法に対して一定の偏見を持つ人物であった場合、それが発覚した時には余計に不信感を募らせる可能性もあるだろう。

「いや、お前の隣には俺がいるよ。ただ、心配だなぁ。一応、姉さんのところで礼儀作法とかは習ってはきたんだが、俺も得意ではないからな」
「あんまり堅苦しい人じゃなければいいけどね」
「本当になぁ」

 そんな不安な空気を漂わせつつ、ひとまずマリベルは話の本題に入る。

「でね、その人が来る目的ってのが、今、ウチの工房にいる画家のレディオスを引き取りに来ることらしいわ。なんでも、イスメイアの教皇庁の大聖堂に絵を描かせるためなんだって」

 アトラタン大陸中南部のイスメイア地方の一角に位置する聖地マトレは、聖印教会の二代目教皇ハウルの本拠地であり、彼の居城とその地を統治している組織の総称として「教皇庁」と呼ばれている。現在、パルテノの工房に所属している画家のレディオス・ミューゼルは、その教皇庁出身の人物で、そこからバランシェ神聖学術院(詳細はブレトランドの光と闇4参照)の芸術学部に入学したものの、ダン・ディオード政権下で芸術学部が廃止され、行き場を失っていたところをエルネストに拾われた身である。

「まぁ、レディオスは結構面白い人だったから、いなくなるのはちょっと寂しけけど、昔から『教皇庁に自分の絵を飾るのが夢』って言ってたから、ここは素直に送り出してあげないとね」

 マリベルはそう評しているが、レディオスに対する工房内での評価は「面白い人」というよりも「変わり者」である(もっとも、それは大半の工房の住人達に該当する話でもあるのだが)。彼女はふと、数ヶ月前にあった彼に関する(彼女にとっての)「面白話」を思い出した。

「そういえば、ちょっと前に、唐突にそのレディオスに『混沌討伐に連れていってほしい』って言われたのよ。『戦いの絵』を描く参考にしたいからって。で、その時に討伐したのが、南の山岳地帯の辺りに投影された『鶏の怪物』だったんだけど、その時に最後に残った鶏の化け物にとどめを刺そうとしたら、『資料にしたいから、持ち帰りたい』って言い出してね。結局、瀕死の状態のまま持ち帰ったのよ」

 彼女達が討伐した「鶏の化け物」とは、いわゆるコカトリス(オリンポス界の怪物)とはまた異なる特殊な投影体であり、古参の兵士達が言うには、昔からよくこの地方に周期的に出没する怪物らしい。見た目は「鶏」の形状であるものの、その雰囲気はかなり不気味で、一般的な感性であれば絵画のモチーフにしようとは考えそうにない風貌であるという。

「ずいぶん変わった奴だな」
「えぇ。しかも、資料にしたいと言ってた割に、その後で鶏の絵とか見たことはないんだけどね。とにかく色々な意味で、ちょっと変わった人だわ」
「確かに、芸術家はちょっと変わった奴が多いと聞くからな」

 実際、その見解に関してはこの街に住んでいる人々の大半は同意する。そして、同意している面々の一部もまた、他の人々から見れば「ちょっと(?)変わった奴」であることが多い。

「そうね。だからまぁ、あんまり友達とかいないタイプだったんだけど……、あ、でもね、聞いた話によると、最近、彼の自宅に『すっごい綺麗な女の人』が出入りするようになったみたいで。正式に結婚してるかどうかは分からないけど、どうも奥さんっぽくてね。みんな驚いてたわ」
「ほう、それは、一度見てみたいものだな」

 ラーテンがそう答えたところで、マリベルは何かを思い出したかのように問いかける。

「そういえば、あなたはどんな女性が好みなの?」

 文脈上、特に答える必然性もない質問だが、ラーテンはそれに対して真剣に考え始める。

「そうだな……」

 そして彼が答えを出す前に、マリベルが言葉を補足する。

「というのもね、私があなたと契約したじゃない? それで『色々と』勘ぐる人達もいるのよ。で、誤解されるのも嫌だし、だから、あなたに早く結婚してもらった方がいいと思うから、私の知り合いの娘とかで、あなたと気が合いそうな娘がいたら紹介しようかな、と思って」
「なかなか難しい質問だが……、そうだな、やっぱり、姉さんみたいなデキるタイプの方がいいかな。可愛い系よりは、綺麗系で……」

 彼の実姉であるクリスティーナ・メレテスは、アントリア子爵ダン・ディオードの次席魔法師であり、才色兼備の元素魔法師として、学生時代から今に至るまで多くの(実弟ラーテンを含む)男性達にとって憧れの対象であった(なお、彼女の婚約者は現在グリース子爵領のメガエラで魔法師を務めている)。

「あー、クリスさんかぁ……。なかなか条件厳しいなぁ……。まぁ、探してみるわ」

 二人がそんな会話を交わしているところに、別の人物が扉を叩く音が聞こえた。マリベルが扉を開くと、そこに現れたのは、エルネストの側近の政務官であるゴーウィンであった(下図)。


 彼は見た目は「少し変わった風貌の人間」に見えるが、その正体は、異界の建物(大英博物館)のオルガノンであり、エルネストの美術品の管理を一手に任されている人物である。

「マリベル様、ラーテン様、一つお伺いしたいのですが……」
「どうしたんだ?」

 ラーテンがそう問い返すと、ゴーウィンは懐から一本の「巻物」を取り出し、彼等に提示した。その表面には、極東地方風の装飾が施されている。

「このような形状の『巻物』をご覧になったことはありませんか?」

 ラーテンとマリベルは互いに顔を見合わせるが、どちらも心当たりが無さそうな表情を浮かべている。その様子を確認した上で、ゴーウィンは事情を説明し始める。

「この間、久しぶりに所蔵庫の整理をしていたら、この『魔法の巻物』が一つ無くなっておりまして。誰かが一時的に借りているだけなら良いのですが……」
「いや、俺は知らないな」
「私も見た覚えはないわね」

 二人がそう答えると、ゴーウィンはおもむろにその巻物を懐に戻す。

「そうですか。もしかしたら、大掃除の時にどこかに紛れ込んでしまっている可能性もあるので、見つけたら教えて下さい」

 ゴーウィンはそう告げて、その場から去って行く。そしてマリベルとラーテンは、改めて「聖印教会からの使者」の接待に向けての話し合いを再開するのであった。

1.5. 護送任務

 ここで、時は少し遡る。アトラタン大陸中南部に突き出た半島国家イスメイアの教皇庁には、教皇ハウルの親衛隊とも言うべき、世界中から集められた屈強な聖戦士団が存在する。その中の一人であるヒューゴ・リンドマン(下図)は、リンドマン家の現当主フレドリクの実弟であり、教皇庁の中でも屈指の武闘派として知られた人物であった。身長2メートル近いその巨漢は、ただその場にいるだけで見る者を威圧する迫力に溢れている。


 そんな彼に、教皇の側近の司祭から新たな任務が与えられた。

「アントリア領の港町パルテノへと赴き、レディオス・ミューゼルを教皇庁まで護送せよ」

 現在、教皇庁は大聖堂の改築中であり、新たに作られた大広間に飾る「始祖君主レオンの肖像画」の担当絵師として、現在パルテノで活動中のレディオスが選ばれたらしい。
 レディオスは両親が敬虔な信徒だったため、幼少期は教皇庁直属の教育機関で育っており、ヒューゴとも面識はある。年齢的にはヒューゴよりも十歳ほど若かったので、現在は二十歳そこそこだろう。当時の彼は「いつか教皇庁に自分の絵を飾るのが夢」と語っていた。 

「まぁた、そんな『人を迎えに行くだけのおつかい』かよ」

 ヒューゴは心底つまらなさそうな顔で答える。少なくとも、武人として勲を立てられるような任務でもないし、特に何か面白味がありそうな話にも聞こえなかった。

「そう言うな。ブレトランドまでは長旅になるし、その間には何が起きるか分からない。聞いたところ、現地でもそれなりに評判が良いらしいから、それを急に連れ帰るとなると、こちらからもそれなりの人員を派遣しないと、向こうにも舐められるかもしれないだろう」

 あえてヒューゴに伝わりやすい言い方で司祭はそう言うと、ヒューゴは少し納得した表情を浮かべる。

「なるほど。舐められないようにブチかましてくればいい、ということか」
「評判を落とさぬ程度にな」

 そんな会話を交わした後、ヒューゴは自宅へ戻り、妹のエリンに事情を伝える。

「じゃあ、今回はブレトランドに行くの?」
「あぁ」
「レディオスくん、だっけ? 私も覚えてるわ。大人しくて、あんまり友達もいない性格だったけど、絵に対する情熱だけは人一倍高かったし、今回の話も名誉と思って、喜んで来てくれるんじゃないかしら」
「まぁ、確かにな。あいつの絵は、よう分からんが、いい感じはした」

 実際、ヒューゴは芸術には格別興味はない。とはいえ、多くの美術品が立ち並ぶ教皇庁で長年勤めていれば、ある程度の審美眼は無意識のうちに刷り込まれているのかもしれない。その彼から見ても、確かにレディオスの絵からは「よう分からん魅力」が感じられたらしい。

「ただ、今回はさすがにロヴィーサは置いてって。あの子を連れてくと、絶対に画廊のキャンバスにいたずら書きとかするし。今回は、私がちゃんと彼女のことは見張っておくから」

 ロヴィーサとは、この二人の兄であるノルドの大貴族フレドリク・リンドマンの四女である。「蛙姫」と呼ばれ、既に聖印を持つ君主となっているが、まだ12歳のやんちゃな子供であった。

「こないだのこと(ブレトランドの光と闇6)、まだ怒ってるのか?」
「そりゃね。私だって行きたかったんだから、本当は」
「じゃあ、行くか?」
「いや、今回の任務は、別にいいってば」
「分かった分かった。じゃあ、来年は行こうな」
「そうね。どこでやるのかは知らないけど」

 そんな会話を交わしつつ、ヒューゴは手短に旅支度を整え、ブレトランドへと向けて出航する。この時、同じ目的地に兄が向かおうとしていることなど、まだ知る由もなかった。

2.1. 困惑の星

 ノルドの首都スロームの港にて、ブレトランド行きの船の発着場でカイナとフレドリクとラスクが合流を果たした。最初に口を開いたのはフレドリクである。

「久しぶりだな」
「はい。カタリーナ様が外に出ることが多いので、あまりお会いする機会がありませんでしたが、改めてご挨拶を。私はカイナ・メレテス。今はカタリーナ様の契約魔法師を勤めさせて頂いております」
「フレドリク・リンドマンだ。そしてこちらが……」

 そう言って、フレドリクは隣に立つ青年を指す。

「ラスクだ。よろしく頼む」
「はい、よろしくお願い致します。ところで、フレドリク様は此度なぜパルテノ行きを突然ご所望されたのです?」
「うむ、それに関してだが……、簡単に言ってしまえば、『我が軍の者』が先日とある魔境を探索した際に『呪い』にかかってしまった。その呪いを解くための本がパルテノにあるという話を受けたのだ」

 フレドリクがそう答えたのに対して、カイナはじっくりとその表情や一挙一動を確認することで、時空魔法師特有の観察眼を駆使して彼の「真意」を読み取りながら、話を続ける。

「そうなのですか。その方は今、どうされているのです?」
「うむ、別段命に関わるようなことではないからな。多分、よろしくやっているよ」
「はぁ、なるほど」

 カイナの観察眼に狂いがなければ、ここまでのフレドリクの様子から察するに、少なくとも彼は「嘘」は言っていない。ただし、「どこまで正確な真実なのか」は、判断が難しい。

「そうなのですか。日常生活に困らないとはいえ、呪いは呪い。いつ追加の症状が発生するかも分かりませんし、早めに解除するのは大事なことでしょう。とはいえ、わざわざフレドリク様が向かわれるほどのことなのですか?」
「うむ、ウチの妻子もブレトランドにはちょくちょく行っているからな。ちょうど良いタイミングではあると思っていた」
「確かに、ノルドとしてはアントリアの情勢が気になるところである以上、ここで一度見に行くことは悪い話ではない……。ということは、しばらくは向こうに滞在されるのですか?」
「用件が済めば、その呪いを解くために戻ることになるだろうが、見つかるまでは、しばらく向こうにいることになるだろう。本国の方で何もなければな」
「なるほど。ちなみに、探されているのは、どのようなものなのでしょうか?」
「一冊の本だ」
「本ですか」
「あぁ。一冊の本だが、『その呪いと似たような症状にかかってしまった人々』の物語だ」
「なるほど。その物語を参考に、どのようにして呪いが解けるかを調べる、ということですね」

 カイナはこの一連の会話の間のフレドリクの様子も凝視しているが、少なくともこの説明に関しては、明らかに真実である。何も隠している様子は伺えない。

「本の題名をお聞きしてもよろしいですか? 私も一緒にご同行する訳です。探す人手は多い方がよろしいでしょう」

 これに対して、一瞬間が開いたところで、横からラスクが口を挟んだ

「教えても問題ないのではないか?」

 ラスクは形式的にはフレドリクの従者だが、二人の間での個人的な繋がりという意味では、ほぼ対等関係である(そのことはカイナも聞かされていた)。
 そして、彼のその言葉を受けた上で、フレドリクは答えた。

「他でもない、我が娘の専属魔法師の君には言っておこう。『紅蓮の姫と紺碧の翼』という本だ」
「『紅蓮の姫と紺碧の翼』ですか……、聞いたことがありませんね。どのような物語なのでしょう?」
「実を言うと、私もよく知らないのだ。ウチの専属魔法師がその本にそのための策があると言っていたから、行くことにしたのだが」
「なるほど。予言に近いものですか。それならば、詳細が分からないのは自然ですね」

 『予言』ということになれば、それはまさにカイナの本業である(なお、フレドリクの契約魔法師であるマールの専門は生命魔法であり、副業的に錬成魔法も嗜んではいるが、時空魔法に通じているという話は聞いたことがない)。
 その上で、少なくとも、ここまでの会話の中で、フレドリクが言ってることは全て本当であることがカイナには確認出来た。

「分かりました。出来る限り私もお力添え出来るように努力します」
「よろしく頼む」

 そんな会話を交わしつつ、彼等はブレトランド行きの船に乗り込み、そしてアントリアの港町パルテノへと向けて出航して行くのであった。

 *******

 こうして彼等を乗せた船がブレトランドに船が近づきつつある中、船室で休眠中のフレドリクの夢の中に「謎の声」が聞こえてきた。

《聞こえますか、我が前世たる者よ》
「何者だ?」
《我が名は天威星》
「天威星?」
《あなたの死後、星界(Starry界)へと転生し、その後、再びこの世界に『星』として投影された者です。今は空からこの世界を照らしています。あなたと、そしてあなたと同じように後に転生して星となる者達にしか見えない、天空に浮かぶ八つの星があります。その中の一つが私です》

 常識的な感覚で聞けば突拍子もない話だが、彼の中では確かに「心当たり」があった。

「なるほど、あの星か……」

 彼には、夜空を見上げた時に、なぜか『他の人の瞳には映らない八つの星』が見える。彼がそのことに気付いたのは「彼自身が聖印を手に入れてから間もない頃」であった。彼は自分以外にその星が見える人物と出会ったことはない。その理由も分からない。そして、最近になってその「他人には見えない星」の数が増えていることも実感している。今までずっと謎だったこの星々と、この「謎の声」の話は、確かに合致しているように思えた。

《私の声が聞こえるのであれば、あなたが私の前世であることは間違いない。ただ……》

 「天威星」と名乗るその謎の声は、ここからやや疑念を帯びた声色へと変わっていく。

《なぜでしょう? どこか不思議な違和感があります。私には前世の記憶がないので、はっきりとは分からない。しかし、それでも『本来の自分』とは異なるような……》

 唐突に話しかけられた「謎の声」にそのように言われたところで、フレドリクとしても当然反応に困る。ただ、彼の中でも一つ「うっすらとした心当たり」があった。この星が言うところの「本来の自分」が何を意味しているのかは不明だが、現実問題として今のフレドリク自身が「本来の自分とは異なる状態」になっていたのである。
 だが、この時点でフレドリクは、この「得体の知れない声」に対して、そのことを告げる気はなかった。そして、しばしの沈黙を置いて、その「天威星」は話を続ける。

《……まぁ、いいでしょう。どちらにしても、聞こえているのなら間違いはない筈。これから話すことを、よく聞いて下さい》

 一呼吸置いた上で、「天威星」は話を続けた。

《このまま放っておけば、この世界は数ヶ月後には崩壊します》

 唐突に話が大きくなってきたところで、フレドリクは本能的に「ただの世迷言ではない」と判断したのか、改めて一つ問いかける。

「まず、確認しておこう。『星が見える者』が、その『星の前世』なのか?」
《そういうことです》
「なるほど、よく分かった」

 ひとまず、「そういうこと」にした上で、フレドリクは話を聞き続けることにした。

《まもなく、大毒龍と呼ばれる投影体が、この世界に三度目の投影を果たそうとしています》

 そう言って、「天威星」はこの世界に迫りつつある危機の概要を告げる。ブレトランド人ではないフレドリクには「大毒龍ヴァレフス」と聞いても今ひとつ強い実感はないが、かつて世界を危機に陥れた存在であると聞かされた瞬間、なぜかそれが極めて強い現実感を持って感じられた。それこそが「天威星」との「記憶の同調」の効果であり、それが可能であることこそが、彼が天威星の前世であることの証でもあった。
 そして、過去二回の出現時と同様に、今回も大毒龍を倒すには「百八の星核(スターコア)」が必要であり、それを作り出せる人物の識別方法は、何らかの「力」を使うことであると告げられた時点で、フレドリクはふと思いついたことをそのまま投げかける。

「その百八人の中に『一般人』はいない、と断言してもいいのか?」
《……おそらく》

 実際のところ、天威星には、自分が前世だった時の記憶はうっすらとしか残っていない。故に、自分を含めた「百八人の仲間」の中に「君主でも魔法師でも邪紋使いでも投影体でもない者」がいたかどうかの記憶は定かではない。ただ、星核を作り出せる者は、聖印か混沌のどちらかの力を作り出せる者である筈、というのが天威星の見解であった。
 その上で、あえてフレドリクは更に問いかける。

「『今はまだ力に目覚めていないだけの一般人』の可能性は?」
《それは確かに、あるかもしれません。その場合は、確かに探しようがないですが……》

 天威星としては、このような問いかけを出されること自体が想定外だったのだが、フレドリクがこのことをあえて問いかけるのには、明確な理由がある。仮に天威星の話が本当だったとしても、彼は未だに(現在の彼自身の境遇故に)本当に「自分」が「(天威星が言うところの)星の前世」なのか、ということに関して、まだ疑念があったのである。
 一方、天威星の方は自分の前世が彼であるという前提の上で話を続けていく。大毒龍を相手にまともに戦えるのは百八の星核を持つ者達だけであり、そして大毒龍は「人々の恐怖心」を力に変えるため、その復活の噂が(特にブレトランド人の間で)広がることは避けなければならない(故にこの話自体をあまり広める訳にはいかない)、という旨も告げる。

「うむ、恐慌は何よりもまずいな」

 フレドリクがそう答えたところで、天威星は改めて彼に「最初の一歩」を踏み出してもらうことにした。

《まず、あなたがあなた自身の星核を作るには、あなたの望む未来を思い描いて欲しい》
「望む未来、か……」
《これは、聖印による戦旗の創出に近いものだと思ってもらえれば良いです》

 天威星としては分かりやすく説明したつもりだが、フレドリクは戸惑っている様子であった。

「望む未来など、考えたこともなかったな……」
《今すぐ思いつかないのであれば、思いついた時でも構いません。あなたの中で望む未来が見えた時に、あなたの聖印から星核が作られる筈です》
「なるほど。来るべき時までに、望む未来を考えておかねば、大毒龍とやらの厄災がこの世界を滅ぼす。そういうことだな?」
《そういうことです。あなたが星核を作り出さない限り、他の人々の識別も出来ないので、なるべく早い段階で作り出してもらえることを期待しています》
「う、うむ……。頑張っておこう……」

 未だフレドリクの中で「本当に『自分』がその『星の前世』なのか」という点に関する疑念は残っていたのだが、ひとまずここまでの話を終えたところで、彼の意識の中から天威星の気配は消えていった。

 ******

「どうした、寝つきが悪かったのか?」

 翌朝、目が覚めたフレドリクに対して、同じ船室にいたラスクはそう問いかけた。どうやら、フレドリクはどこか奇妙な形相で起き上がっていたらしい。

「いや、少し変な夢を見ていただけだ。ところで、相棒」
「どうした?」
「相棒がもし、好きな未来を思い描くとしたら、どんな未来が見てみたい?」

 唐突にそう問われたラスクは、少し考えた上で答える。

「そうだな……、まず『我々の間での直近の望み』は一つあるが、ひとまずそれは置いておくとすると……、『混沌災害の起きない未来』だろうか」
「やはり、そうだよな、相棒は。あるいは『ノルドの繁栄』か、とも思ったが」
「もちろん、それもある。結果的に、混沌災害の起きない世界が実現すれば、それがノルドに暮らす全ての人々の平和、安寧、繁栄に繋がる。それらを望むのもまた当然のことだ」

 ラスクがそう答えたのに対して、フレドリクも納得した表情を浮かべる。だが、彼の中にはまだ困惑が残っていた。

(本当にあの星が声を届けるべきは、相棒だったのでは?)

 彼がそう考える理由は、まだ誰にも明かしていない。そして、そのことはまだ「天威星」にも伝わっていなかった。

2.2. 北からの来訪者

 フレドリク達を乗せた船の到着予定の日の朝、シドウとクレハは港の近辺で待機して到着を待っていた。この時点で、クレハは(初対面の人間を驚かせないように)ひとまず「人型」状態で挨拶するつもりで待っていたのだが、そんな彼女が、ふとシドウに語りかける。

「あの、隊長さん、あそこの路地裏にいる女の人から……」

 彼女はそう言いながら、少し離れた建物の陰から自分達に視線を向けている一人の女性を指差す。それは、短髪でやや背が高めの、かなり人目を引く程の美貌の持ち主であった。だが、シドウには彼女に見覚えがない。シドウは何年も前から村の警備を担当している身であり、彼女ほど目立ちそうな外見であれば、一度見れば記憶に残りそうなものだが、それでも記憶にないということは、少なくとも昔からの住人ではない可能性が高そうである。

「あの人から、私と同じ匂いがするのです」
「同じ匂い、というと?」
「なんというか……、強いて言うなら、紙の匂い? みたいな?」

 つまり、彼女が自分と同じ「本(もしくは、それに類する何か)の具現化体」なのではないか、とクレハは考えているらしい。

「でも、私の一門にはあんな人はいなかった筈だし……、もしかしたら、他の人が呼び出した『似たような存在』なのかもしれないですけど……」

 クレハが彼女を見ながら小声でそんな話をしていると、その女性も自分のことをクレハ達が見ていることに気付いたのか、徐々に距離を取り始める。

「怪しいですね……、どうしましょう? 私が尾行してきましょうか? ちょっと予定と変わりますけど」

 彼女の正体がクレハと同じ「禁書の象徴体」だとしても、「本のオルガノン」だとしても、それだけで怪しい、と決めつけるのは少々早計な気もするが(しかも、それを当のクレハ自身が言うのも妙な話だが)、確かに彼女の行動はやや不審にも見える。もともと、フレドリクの護衛を命じられていたのはシドウ一人である以上、クレハが必ずしもシドウと同行しなければならない理由はない。

「そうだな。私が出迎えをしない訳にもいかないし。出来ればお願いしたいところだが」
「分かりました。では……」

 クレハはそう言って、シドウの元を離れ、おもむろにその「長身で髪の短い女性」の後をつけていく。そんな彼女を静かに見送った上で、シドウは改めて港に近付きつつある船舶へと視線を戻した。

 ******

 やがて、そのシドウが目で追っていた船は無事に港に到着し、そして三人組の男女がシドウの前に現れる。その中の一人はシドウにとって見覚えのある魔法師だったこともあり、すぐにシドウは彼等が「護衛対象」であることに気付いた。

「お待ちしておりました、フレドリク様。パルテノへようこそ」

 シドウが略式の敬礼姿勢からそう言うと、三人の真ん中に立っていた君主風の男が答える。

「うむ、フレドリクだ。君がこの街の警備隊長か?」
「はい、警備隊長のシドウ・イースラーと申します。フレドリク様の警護を担当させて頂きますので、よろしくお願いします」
「あぁ、よろしく頼む。そしてこちらが、我が従者のラスクだ」
「よろしく頼む」
「よろしくお願いします」

 シドウはそう言ってラスクにも敬礼しつつ、その傍らにいたカイナにも声を掛ける。

「そしてカイナ様、お久しぶりでございます」
「お久しぶりです、シドウさん。私に『様』はいりません」

 カイナはアントリアに仕えていた頃、無任所魔法師としてこのパルテノを訪れたこともあるため、警備隊長であるシドウとも面識はある。

「なんだ、二人は知り合いだったのか」
「はい。アントリアにお世話になっていた頃には、各地を転々としておりましたから」

 フレドリクとカイナがそんな会話をかわしたところで、改めてシドウがフレドリクに声をかける。

「今回は、まずどちらに向かわれるか、ご予定はお決まりですか?」
「うむ、不躾で悪いのだが、まずはエルネスト殿に会いたい」
「分かりました。では、領主様のところにご案内致します」

 こうして、三人はシドウの案内に従って、領主の館へと向かうことになった。

2.3. 南からの来訪者

 そんなフレドリク達と入れ違いになるように、彼等を乗せてきた船とは少し離れた停泊所のあたりに、マリベルとラーテンが到着していた。彼等が水平線を眺めていると、やがて教皇庁の旗を掲げて近付きつつある船が視界に入ってくる。

「あれみたいね」
「緊張するな……」

 二人がそんな会話を交わしつつ、船を凝視していると、舳先で長斧をブンブン振るって威嚇している大男の姿に気付く。

「本当にあれかな?」

 ラーテンは首を傾げる。彼の想像していた「厳かな聖印教会の使者」のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。

「見るからに君主ではあるみたいだけど……、護衛の人じゃないかな?」
「あぁ、なるほど」
「でも、たかがレディオス一人のために、わざわざあそこまでの護衛をつけるかな?」
「まぁ、船旅は大変だからな」

 二人がそんな会話を交わしていると、やがて船からその「長斧を持った大男」ことヒューゴが降りてくる。彼は周囲を見渡しつつ、ラーテンの姿を発見した。ラーテンはエーラムの制服を赤く染めた改造制服を着ているが、基本的なデザイン自体は大きく変えてはいないため、見ればすぐにそれが魔法師制服だということは分かる。

(魔法師か。ということは、あいつに聞けばいいな)

 ヒューゴはそう判断し、ズカズカとラーテンの前へと向かった上で、威圧的な態度で見下ろしながら問いかけた。

「おい、領主の館はどっちだ?」

 だが、それに対してラーテンよりも先にマリベルが割って入る。

「私は、この街の領主の娘マリベル・キャプリコーン。あなたは?」

 突然目の前に現れた姫騎士を前にして、ヒューゴは持っていた長斧を背中に隠し、目を泳がせながらギクシャクとした様子で答える。

「ゴホン……、きょ、教皇庁の方から、画家の、レディオス・ミューゼル殿を、その、あの、お連れに参りました、ヒューゴ・リンドマン、と申します!」

 ヒューゴは「どんな相手だろうが、舐められないようにブチかます」という覚悟で臨んでいたが、未だに女性は苦手である。特に初対面の美しい女性を前にすると、極度の緊張で対応がシドロモドロになってしまう癖は、まだ克服出来ていなかった。

「あぁ、あなたが教皇庁からの使者殿でしたか」

 マリベルは心底意外そうな顔でそう答え、隣のラーテンもまた面食らった表情を浮かべる。

(おいおい、マジかよ……)

「じゃあ、とりあえず、私達がレディオスの家まで案内するということで」
「あ、は、はい。よろしくお願い申します」

 こうして、どこか奇妙な雰囲気のまま、彼等はレディオスの自宅へと向かうことになった。

 ******

「あそこが、彼の家です」

 マリベルがそう言って住宅街の一角を指差す。すると、その家の近くで「奇妙な極東風の装束の女性」が張り込むようにレディオスの家の様子を伺っていることにラーテンは気付いた。

(あれは……、クレハ? 何やってんだ、あんなところで……?)

 当然、ラーテンはマリベルの副契約魔法師(?)であるクレハのことも知っている(そもそも、本来の彼女の立場は「シドウの副官」というよりは「ラーテンの副官」に近い)。そして、今の彼女が実質的にシドウに貸し出された状態であることもラーテンは知っているため、「おそらく彼女は彼女で何か特殊な事情があって行動しているのだろう」と判断し、あえて声はかけなかった。
 なお、この時点でヒューゴもその「奇妙な装束の謎の女性」の存在には気付いていたが、彼としては特に気にとめる理由もないため(そもそも、見知らぬ美少女にあえて自分から声をかけられるような性格でもないため)、そのまま誰もクレハのことは触れないまま、レディオス宅の玄関前まで移動した上で、マリベルが扉を叩く。すると、中から「短い髪の長身美女」が現れた。

「どちら様でしょうか?」

 そう問いかけた彼女に対し、まず最初にラーテンが反応した。

「お初にお目にかかります。エルネスト様が長女マリベル様の契約魔法師ラーテンと申します」
「これはこれは。わざわざそのような方が」
「そして、こちらの女性が、マリベル様。こちらの男性が、教皇庁からお出でになられましたヒューゴ・リンドマン様です」

 この時、ラーテンが「教皇庁から」と言ったところで、彼女の表情が微妙に強張ったことにヒューゴは気付く。おそらく、この女性は聖印教会にはあまり良い印象を持っていないのだろう、とヒューゴは推察した(そして、それは彼にとって見慣れた反応でもあった)。

「そうですか。主人に用事でしたら、現在、主人は出払っておりまして……」

 彼女が言うところの「主人」とは、おそらくレディオスのことを指しているであろう、という前提の上で、ラーテンは話を続ける。

「あぁ、そうでしたか。いつ頃戻られるかはご存知ですか?」
「いえ、特には聞いていません」

 そう答えた彼女の視線は、どこかラーテンやヒューゴを直視するのを避けているように見えた。そんな微妙な空気の中で、マリベルが空気を読まずに割って入ってくる。

「主人ってことは、あなた、レディオスの奥さんなの?」
「えぇ、少なくとも、私はそのつもりでいますが……」
「そっかそっか、レディオスも言ってくれればいいのに。で、あなた、どこで知り合ったの?」
「あ……、それは、まぁ、その、色々ありまして……」

 余計に微妙な空気が広がっていく中、その短髪長身の美女は流れを断ち切るように、三人に対して頭を深々と下げる。

「そういう訳ですので、申し訳ありませんが、今日のところはお引き取り下さい」

 「レディオスの妻(自称)」にそう言われてしまったことで、この状態で話を続けても仕方がないと判断したラーテンは、ひとまず引き下がることにした(この時点で、ヒューゴは色々と言いたいことはあったが、マリベルの前なので大人しくしていた)。

「それでは、戻られた際に、こちらから伺ったとお伝え下さい」

 ラーテンがそう告げた上で、ひとまず三人はレディオス宅から立ち去って行く。三人の間で再び微妙な空気が流れる中、マリベルがヒューゴに問いかけた。

「さて、どうしましょう。どちらにしても、宿に関しては、来客用の一番良い宿を用意しますが」
「どうも、ご厚意に感謝致します」

 彼はそう答えつつ、ラーテンに対して小声で苦言を呈す。

「教皇庁から人が来るって、言ってなかったのかよ」
「いや、言ってた筈だったんですけどね……、その、申し訳ございません」

 実際のところ、ラーテンはその辺りの言伝の事情は聞いていない。だが、ラーテンが今回の話を聞いてから、ヒューゴが到着するまでに時間は十分にあった筈なので、エルネストからレディオスに一言も話が伝わっていないとは考えにくい。ただ、あの「自称:妻」の女性は、あまり「聖印教会からの使者」を歓迎している様子には見えなかったことを考えると、これは少々面倒な事態になるのかもしれない、という予感が、うっすらとラーテンの中で広がりつつあった。

2.4. 望まざる再会

「遠路はるばる、ようこそお越し下さいました。かのご高名なフレドリク卿がこの地までご来訪されるとは、一体、どのようなご用件でしょうか?」

 領主の館に到達したフレドリク、ラスク、カイナを前にして、領主であるエルネストがそう問いかけると、フレドリクは淡々と答える。

「うむ、わが国で少々問題が発生しており、その解決策がこの町に所蔵されている『とある一冊の本』にあると、ウチの魔法師が言ったのでな」
「ほう、本ですか。それはどのような?」
「題名は『紅蓮の姫と紺碧の翼』だ」
「ふむ、なるほど、その名には聞き覚えがあるような気がしますな。私は文学にも関心がありまして、古今東西の文学作品に関しても、それなりの蔵書を揃えております。その中に、そのような題名の本があったかもしれません。では、しばらくお待ち下さい。確認させましょう」

 エルネストはそう告げた上で、部下に書庫の蔵書点検を命じる。実際のところ、芸術家としてのエルネストの本分はあくまでも音楽であり、絵画や文学に関しては軽く嗜み程度に触れているにすぎない。文学書に関しても、集めて所蔵してそれを後世に伝えること自体が目的となっており、実際に目を通した書物はその中のごく一部でしかない(さすがに、そこまで趣味だけに時間を費やせるほど、パルテノの領主という立場は暇ではない)。
 やがて、しばらく待っていると、司書らしき人物が現れて、エルネストに報告する。

「申し訳ございません。ご指定頂いた本なのですが、随分前に貸し出されておりまして……」

 エルネストは「芸術文化は人の目に触れなければ意味がない」という信念の持ち主なので、それなりに貴重な書物であっても、館の関係者であれば自由に持ち出して良い、ということになっているらしい。

「レディオス様が数ヶ月前にお借りになって以来、ずっと返してもらえていないのです」

 その報告を横から聞いていたフレドリクが口を挟む(当然、彼は「レディオス」なる人物については何も知らない)。

「それは、その蔵書室の規則としては問題はないのか?」
「あまり良くはないのですが、ただ、一つの本を複数の人が同時に読みたがるということは滅多にないので、特に貸出期限を決めている訳ではないのです。とはいえ、どちらにしてもレディオス様はもうすぐ教皇庁に行かれる予定ですので、その前には返して頂かないと困るのですが」

 なお、この司書は自分が話している相手が「ノルドの重鎮」だということは知らない。それを知っていたら、もっと恐縮した物腰となっていただろう。

「それは、そちらに任せてよろしいのか?」
「まぁ、そうですね。こちらの方で直接督促しておきます」
「では、よろしく頼む」

 フレドリクが司書に対してそう告げると、司書はすぐさまその場から立ち去る。そして改めてエルネストがフレドリク達に語りかけた。

「それでは、ひとまずこの村で一番の宿を準備しておきましたので、本が戻って来るまで、そちらでお休み下さい。シドウ、ご案内を頼む」
「分かりました。では、フレドリク様、ラスク様、カイナ様、こちらへ」

 シドウにそう言われると、彼等は館を出て、そのままシドウの案内に従って宿へ向けて歩いていく。本がいつ返却されるかは分からないが、先刻の話によれば、本を借りている人物はまもなくこの地を去るとのことなので、おそらくそう遠くないうちに(最悪の場合は強制執行する形で)蔵書室に戻されることになるだろう、と彼等は考えていた。
 そんな中、宿屋へと向かう道の途上で、フレドリクの従者であるラスクの顔色が微妙に悪くなっていることにシドウは気付く。

「ラスク様、顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」

 なお、そう尋ねているシドウも十分に顔色が悪いのだが、これは彼の邪紋の影響であり、彼にとっては平常運行である。

「あぁ、心配ない。多分、少し休めば良くなるだろう。時々、こうなることはあるんだ」
「やはり、船旅は大変でしたか」

 船酔い経験者であるシドウは船旅の影響を心配するが、それに対してはフレドリクが答える。

「ノルドの民が船酔いする筈がなかろう。最近の相棒は『こうなること』が多くてな」

 更にその会話に、今までずっと黙っていたカイナも割って入ってくる。

「どうかされましたか?」
「うむ、私の相棒が少し体調を崩したようだ。その宿まではどれくらいの距離だ?」
「ここからでしたら、もうあと歩いてすぐのところです」
「では、そこで休ませてもらおう」

 彼等がそんな会話を交わしつつ、宿に向けて少し歩を早めていく。そして、ようやくそれらしき高級宿が見えてきたところで、フレドリクとラスクは、道の反対側から歩いてくる「馴染みのある人物」の姿を発見した。それは、彼等の横を歩いているカイナにとっても見覚えのある、巨大な長斧を背中に背負った大男であった。

(なぜ、ここに!?)

 三人は、心の中で同時にそう叫んだ。そして、三人ともそれは(少なくとも、この場で会うことに関しては)あまり好ましい感情ではなかった。
 一方、その「大男」を先導するラーテンとマリベルも「彼等」の存在に気付く。

「マリベル、あそこにいるのって、ウチの警備隊長だよな?」
「あら、ホントね。じゃあ、あの一緒にいる人達は……?」

 そして当然、シドウの側もそれに気付き、彼の方から声をかける。

「マリベル様とラーテン殿、これはこれは」
「これはシドウ殿、そちらは……」

 ラーテンがそう返したところで、そんな彼の声をかき消すように、ラーテンの背後を歩いていた大男は、笑顔を浮かべながら大声で駆け寄る。

「兄貴じゃねぇかぁぁぁぁ!」

 そんな実弟ヒューゴに対し、フレドリクは「会いたくない人に会いたくない時に出会ってしまった表情」を浮かべながら、微妙な声色で答える。

「……色々と積もる話もあるだろうが、今は私の相棒がちょっと体調を崩してな。彼を部屋まで送り届けるのを優先していいか?」
「あぁ、じゃあ、俺が担いで行ってやるよ」

 そう言って、ヒューゴはラスクを抱え上げて、高級宿の中へと入って行く。その様子を半ば呆然と眺めながら、シドウはフレドリクに声をかけた。

「ラスク様、大丈夫でしょうか?」
「相棒のことだ。多分、一晩寝れば治るだろう」

 正直なところ、そう思いたい、というのがフレドリクの本音であった。彼はヒューゴの後に続いてそのまま宿の中へと入り、ラーテンとシドウがそれぞれに宿主に事情を説明すると、フレドリクを抱えたヒューゴは、宿主の指示に従って「フレドリクとラスクの客室」へと連れて行き、ベッドの上に彼を下ろす。

「すまない、世話になったな」
「いやいや、気にするほどのことじゃねえよ」

 ヒューゴはラスクに対してそう答えつつ、改めて一緒に同じ部屋に入って来たフレドリクに視線を向ける。

「いやー、久しぶりだなぁ、兄貴。なんでこんな田舎町に来たんだ?」

 実際のところ、パルテノはそれほど田舎町でもない。ただ、教皇庁での暮らしが長いヒューゴの目には「辺境の田舎町」として映っていたようである。

「私も私でこの町に用事があって来たんだがな」
「ん? 用事? 用事って何だ?」
「さすがに、それはな……。今のお前がノルドに仕えている身ならともかく、そうではないだろう?」
「あぁ、なんだ、隠しておきたい話か。分かった、分かった。じゃあ、これ以上詮索はしねぇ」

 この会話の間、フレドリクはあまりに周囲に自分の存在を気取られないよう、やや声を潜めて話をしていたのに対し、ヒューゴは気にせず終始大声で答えている。当然、その声は部屋の外にいるカイナにも聞こえてきた。

(だから私、この人のこと嫌いなんだよな……)

 カイナにしてみれば、ヒューゴは「契約相手であるカタリーナの叔父」である。カタリーナ自身はヒューゴのことを「頼りになる叔父さん」として慕っており、前に一度ヒューゴがノルドに帰って来た時には仲良さそうに談笑していたが(一方、フレドリクの次女と三女からは敬遠されていた)、カイナとしては、どうにも肌が合いそうにない。カイナの目には、ヒューゴは(彼女が最も嫌いな)典型的な「傲慢で力に溺れた君主」に見えた。

「じゃあ、まぁいいや。兄貴が仕事中なら、また夜ぐらいにでも来るよ」

 そう言ってヒューゴは部屋の外へ出て、ラーテンの案内で自分に用意された客室へと誘導される。そしてカイナもまたシドウによって自分用の客室へと案内されるのであった。

2.5. 宿屋の群像

「さすがに、これは想定外だったな……」

 ヒューゴが去り、部屋の中が主従二人だけになったところで、ラスクはベッドの上から上半身だけを起こした状態で、傍らの椅子に座っているフレドリクに語りかけた。

「あぁ。本当に最悪のタイミングだ……」

 フレドリクは頭を抱えた様子でそう答える。平時ならばともかく、今の彼等が陥っている「特殊な状況」において、ヒューゴは「最も会いたくない人物」だったのである。複雑な心境を抱えながら、ただでさえ体調を崩した様子のラスクもまた、悩ましい表情を浮かべつつ呟く。

「ヒューゴは、今は聖印教会の騎士……」
「もはやノルドとは関係ないが、奴はそんなことは気にしまい。そんなことを気にするような奴だったら、相棒にもそこまで心労はかけていないだろう」
「どうする? 彼にはいっそ話しておくか?」
「いや、あの口の軽さで言いふらされたら、それはそれで困る」

 フレドリクはそこまで言ったところで、少し言いすぎたと思ったのか、表現を改める。

「彼は口は堅い。だが、声が大きい」
「確かにな。とはいえ、もしこちらが話す前に自力で気付いた場合……」
「大惨事だな」
「ああいう性格だからな」

 ヒューゴは真正直な気性である。故に、嘘をつかれることは当然嫌う。ましてや、彼にとって最も大切な存在である家族に「騙されていた」と彼が感じてしまった場合、彼がどんな心境に陥り、それがどんな災厄をもたらすことになるか、考えるだけでも恐ろしい。

「だから、彼には話しておいた方が良いのではないかと思うのだが……」
「そうだな。今晩来ると言っていたし、彼には話しておくか。とはいえ、他の者も一緒にいる状態で来られたら、その時は……」
「確かに、その時は、またその時点で考えるしかないだろう」

 想定外すぎる事態に頭を悩ませながら、二人は改めてそれぞれに頭を悩ませる。そして、この後で歓迎の宴が用意されているという旨はエルネストから聞かされてはいたが、ひとまずラスクはそれまで、この部屋で仮眠を取って心身を休めることにしたのであった。

 ******

 一方、そんな二人の客室と同じ階に、彼等の護衛役であるシドウの客室も用意されていた。その彼の部屋へ、「怪しげな長身短髪美女」を尾行していたクレハが報告に現れる。

「あの女の人、調べてみたんですけど、どうやら画家のレディオスさんの奥さんだったみたいで。それで、さっき、そのレディオスさんの家に、すっごく怖そうな、大柄な、鎧武者みたいな人と、マリベル様と、ラーテン様が尋ねてきて……」

 クレハは目の前で起きていた「自称:レディオスの妻(長身短髪の美女)」と「ラーテン達」のやりとりを、そのまま全てシドウに伝える。クレハにしてみれば、ラーテン達がレディオスに何の用事があったのかはさっぱり分からなかったが、シドウもまた、ここで「レディオス」の名前が出てきたことに、驚きと違和感を感じていた。

「実は、フレドリク様は『エルネスト様が所蔵している本』を探してこの地まで来られたようなのだが、その本をレディオスが借りているそうで、どうもそれが引っかかる……」
「本、ですか……。その本のタイトルは?」
「『紅蓮の姫と紺碧の翼』だそうだ」

 クレハの直感が正しければ、レディオスの妻と名乗るその女性の正体は、自分と同じ「本の具現化体」である可能性が高い。だとすれば、当然のごとく、その「長期貸出中の本」こそが「レディオスの妻」の正体なのではないか、という仮説が思い浮かぶ。ただ、少なくともクレハには、その本の題名に聞き覚えはなかった。

(そういう名前のルールブックは無かった筈だし……、もしかしたら、どこかの同人サークルが作っていたか、あるいはリプレイ本あたりにありそうなタイトルかも……)

 彼女は頭の中でそんな思考を巡らせつつ、ひとまず自分の中で思い至った仮説をそのままシドウに伝える。

「もし、あの人が『私の同類』なのだとしたら、その『借りられていた本』から生まれた何者かなのかもしれないですけど……、はっきりとは分からないですね」

 実際、それに関してはシドウも同意見であった。その上で、現時点で確証が持てないという点についても、彼は同意している。

「では、一度私が直接レディオスと話をしてみた方がいいかもしれいないな」
「確かに。こうしている間にも帰っているかもしれないですし、一度彼の家に行ってみますか」
「そうだな、だが……」

 シドウとしては「レディオスが借りている本」のことは気になるが、彼に任されているのはあくまでもフレドリクの護衛の任務である。一応、この高級宿の中にいる限りは、それほど護衛が必要な状況ではないだろうが、勝手に持ち場を離れる訳にもいかない。
 そこで、彼はひとまず、顔見知りでもあるカイナに確認を取ることにした。

 ******

「いやー、肩が凝ったなぁ……」

 ヒューゴを彼の客室へと案内し終えた後、接待役のマリベルが彼の隣の客室に入って、ようやく一人になったことで少し気が抜けたラーテンは、宿屋の廊下でボソッとそう呟いた。その上で、彼もまた自室の客室へと入ろうとしたところで、おもむろにカイナが彼の前に現れる。

「お久しぶりです、ラーテン殿」
「ん? えーっと、あぁ、カイナ、だったか?」
「えぇ、合っていますよ」
「久しぶりだな。最後に会ったのは、俺が契約する前だったな」
「えぇ。私がノルドに行く前ですね」

 当時の二人は同じ「ダン・ディオード預かりの無任所魔法師」の立場だったが、カイナはとある護衛任務の途中でいきなりノルドに行くと言い出し、そのまま同僚達に何も告げることなく、唐突にアントリアから去ることになってしまった。

「あの時はドタバタとした状態のまま、いきなりノルドに行くことになったので、ご挨拶も出来ませんでしたが、ラーテン様も無事に就職先も決まったようで、何よりです」
「その言葉、そのままお返しするよ」
「いえ、私は就職先は決まっていましたが、仕えるべき主人がいなかっただけなので」

 カイナのその言葉には「あなたとは違うんです」というニュアンスがうっすらと込められており、その意図はラーテンにも何となくと伝わっていた。

(こいつ、嫌な奴だな……)

 ラーテンは内心でそう思いつつ、ひとまず純粋な疑問を彼女に投げかける。

「で、今回はどうしてまた、あんな大物と? 護衛か何かか?」
「護衛というか、アントリア行きの案内役を任されたのです。少し、探し物がありまして」
「へぇ。そっちも色々大変だな」

 軽く世間話のようにそんな会話を交わしつつ、今度はカイナの方から、おもむろにラーテンに問いかけた。

「不躾ですが、レディオスという方はご存知ですか?」
「レディオス? あぁ、知ってるよ」
「その方が借りられているという本を探しておりまして」
「俺達もレディオスには用事があって、さっきちょっと家に行ってみたんだが、留守だったみたいだから、多分、明日かそれ以降には戻って来るんじゃないかな。いつ戻って来るとは言ってなかったみたいだけど」
「そうですか。どこに行かれたとかは?」
「全然聞いてない」
「分かりました。ありがとうございます」

 妙に淡々とした様子のカイナに対して、ラーテンは微妙に違和感を感じつつも、「彼女はこれが素なのだろう」と割り切ることにした。
 すると、そこへカイナを探していたシドウとクレハが現れる。

「カイナさん、少し、こちらで確認すべきことがありまして、フレドリク様の身辺警護から一時的に離れてしまうことになりますが、よろしいでしょうか?」

 シドウはカイナにそう告げつつ、クレハから聞いた話をそのまま伝える。すると、当然のごとくカイナもまたその話には強い関心を示した。エルネストの館の司書には「本の手配は任せる」と告げたものの、該当する本が「ただの本」ではない可能性があると聞くと、さすがに不穏な気配を察するのは当然の話である。

「私もそのレディオスという方からお話を聞ければ幸いですから、それなら私も同行したいのですが、よろしいでしょうか?」
「こちらとしても、そうしてもらえると助かります」
「フレドリク様には、私の方からお伝えしておきますから。護衛の件については大丈夫だと思いますよ。今は宿屋に滞在中ですし。フレドリク様が出かけるようでしたら、一緒について行って頂きたいのですが、今はそのようなご様子でもないようですし」

 二人がそんな会話を交わす中、横からクレハが割って入る。

「じゃあ、私が残っておきましょうか? もし何かあったら、すぐに私が連絡しますので」

 実際のところ、この街の住人との交渉役となると、クレハよりもシドウの方が立場的には適任である。そして、クレハは一応(建前上は)エーラム所属の魔法師でもあるので、いざという時に他の魔法師と連絡を取るための魔法杖もあるため、カイナがこの場を離れるのであれば、なおさらクレハがこの場に残っておく必要があると考えていた。
 一方、その話を横で聞いていたラーテンは、ここは自分も一緒に行った方が良いのでは? と思いつつも、(フレドリクの護衛とヒューゴの接待はあくまで別件である以上)接待対象のヒューゴを残して勝手に行動するのは抵抗がある(マリベル一人に任せるのも気が引ける)。そして、自分は交渉役としても不向きである(というよりも、かしこまった交渉は肩が凝る)という判断から、この場はひとまず宿屋に残ることにした。
 その上で、ラーテンはシドウに言伝を依頼する。

「もし、レディオスに会ったら、教皇庁から人が来ているから、早く準備するように、と伝えておいてもらえるか?」
「いいですよ。そういうことでしたら、私の方からお伝えしておきましょう」

 シドウがそう答える一方で、カイナはフレドリク達に意向を確認するため、彼等の部屋を尋ねることにした。

 ******

 カイナが二人の部屋に入った時には、ラスクは既に就寝中であった。カイナはフレドリクに対して、シドウからの話を一通り伝えた上で、自分も彼に同行したいという旨を伝えると、フレドリクはあっさりと了承した。

「とりあえず、私は今日はここにいるつもりだ。相棒がこの状態では、戦力にはならないしな」

 フレドリクが自嘲気味にそう答えたのに対し、カイナはその点に関しては軽く聞き流しつつ、そのまま淡々と話を続ける。

「レディオスさんの家から本を持って来ることが出来れば、そのままお渡しします。もし、ラスク殿の体調が御回復されないようでしたら、私に言って下さい。カタリーナ様をお助けするために、治癒の魔法も習得しておりますから」
「あぁ……、万が一のことが起きたら、頼ることになるだろう」

 この時、フレドリクとカイナの間には明らかに一定の「壁」があることを互いに認識していたが、カイナとしては、自分がノルドの人々からあまり自分が快く思われていないことは自覚している。だからこそ、深く踏み込まない程度に自分の存在価値を売り込んでいるのだが、フレドリクがこの時点で微妙な返答しか返せないのは、彼女個人への信頼感とは全く別次元の問題を「彼等」が抱えているからであった。

2.6. 奔走する静動魔法師

 こうしてシドウとカイナがレディオスの家へと向かった直後、彼等の思惑など一切知らされていないヒューゴは、何も考えずに気ままに宿の外へと散歩に出かけようとする。接待役のラーテンに対しては「気にせず、好きなことをしてろ」と伝えるが、それに対してもう一人の接待役であるマリベルが横から口を挟んだ。

「そういうことなら、私が街をご案内しましょうか?」

 街の領主の娘として、来客をもてなす上で当然の提案なのだが、それに対してヒューゴは再び顔を紅潮させながら焦った様子で答える。

「い、いえ、結構です。一人で、ちょっと、その、のんびりしてきま……、あ、いや、その、のんびりというか、そのような、お手を煩わせるようなことはしませんので、失礼します」

 そう言いながら、彼は逃げるように宿屋の外に出て行った。

「マイペースな人なのかな……」

 マリベルとしては、あまり自分が役に立てていないようで、やや気落ちした様子である。このまま本当に彼を一人にして良いのか、となると難しい問題ではあるが、無理に同行を強行したり、下手に尾行して不信感を招くのも好ましくはない。

「そうだな……、一人になりたいと言ってるなら、放っておいた方がいいのかもしれないな」

 ラーテンは迷いながらもそう判断しつつ、ひとまず自分は現状の報告と確認のために、エルネストの元へと向かうことにした。

 ******

「教皇庁からの話があったことは、確かにレディオスには伝えた。それに対して彼は、どこか微妙な表情をしていた」

 館に到着したラーテンが、エルネストに対して「レディオスへの情報伝達」について確認すると、エルネストはそう答えた。

「微妙な表情?」
「レディオスはもともと聖印教会の信徒であったし、いずれは教皇庁に絵画を飾りたいと言っていたので、この話を聞けば喜ぶだろうと思っていたんだが、存外そうでもなかった」

 その件に関しては、エルネストも本気で困惑している様子である。その話を踏まえた上で、ラーテンはエルネストにここまでの事態を報告することにした。

「先程、彼の家に聖印教会からの使者の方をお連れしたのですが、奥さんが出られて……」
「ほう? レディオスに妻がいたのか」
「そうみたいです。一応、噂は聞いていたのですが」
「アイツがなぁ」

 エルネストは、その点に関しても意外そうな顔を浮かべる。レディオスは芸術に対して極めて真摯ではあるが、対人関係を構築するのは苦手で、およそ「女性を口説けるような性格」とは思われていなかったらしい。

「で、奥さん曰く、彼は外出中だそうで。また来ますとお伝えはしたのですが……」
「ふむ……、色々と、迷っているのかもしれんな。所帯を持つと色々と思うところもあるのだろう。お主にはまだ分からんかもしれんが」
「そうですねぇ、なかなか……」

 流れ弾のような形で嫌な一言を突きつけられつつも、ラーテンはここに至るまでの一通りの事情を伝えつつ、再び宿屋へと帰還する。

 ******

 それからしばらくして、ラーテンは自分の客室の窓から、ヒューゴが宿屋へ帰還しようとしていることに気付き、すぐさま玄関口まで出迎えに向かう。

「おかえりなさいませ」
「おう」

 そう答えたヒューゴは、買い物袋を二つほど抱えて帰ってきた。おそらく、妹と姪への土産物を、何を買えばいいかよく分からないまま、手当たり次第に買ったのであろう。

「そちらをお持ち致します」
「いや、別にいい」
「浮かせられるんですよ、私は」

 そう言ってラーテンは、ヒューゴの目の前で静動魔法を用いて、彼の持っていた荷物を空中に浮かせる。

「ほう、なるほどな」

 ヒューゴは物珍しそうにその様子を眺める。彼の膂力を以ってすれば買い物袋二つなど大した重さでもないが、ここは素直にラーテンの「接待」を受け入れることにする。その反応を見た上で、ラーテンは内心で少し安堵した。

(あ、この人、魔法を使っても大丈夫な人なんだな)

 どうやら、ヒューゴは聖印教会の一員ではあるものの、魔法そのものをそこまで毛嫌いする人物ではないらしい、ということを理解する。その上で、ラーテンは先刻のヒューゴのマリベルへの態度を思い出し、「きっとこの人は『姉さんと一緒にいた時の自分』と同じ類いの人だ」ということをうっすらと感じ取ったことで、なんとなく親近感を感じていた。

 ******

 一方、そのヒューゴの宿屋への帰還時の豪快な足音によって、休眠していたラスクも目を覚ましていた。どうやら、しばらく横になっていたこともあって、心身共に多少なりとも回復した様子である。そして、廊下からヒューゴの話し声が聞こえてきたことで、改めてラスクは隣に座っているフレドリクに問いかけた。

「どうする? 話をしておくか?」
「一人で話をしたいと言われたら話すが……、それ以外では無理だ」

 少なくとも現状、彼等の耳に聞こえてきたのはヒューゴの声だけだが、それはヒューゴの声が極端大きいからラーテンの声が聞こえなかっただけであり、ヒューゴには特に独り言を口にする癖がある訳でもない。つまり、現時点においてヒューゴの近くに「他の誰か」がいることは間違いなかった。

「そうだな。では、ひとまずは向こうの出方を伺うことにしようか」

 ラスクはそう呟きつつ、ひとまず起き上がって、「今の自分の身体」の状況を確かめる。

(普通に動く程度のことは出来る。もし仮に今ここで混沌災害が発生したとしても、ある程度までは対応出来るだろう。だが、果たして『今の私』が『この身体』で長期戦に耐えられるのだろうか……)

 そんな不安な様子の「相棒」を、フレドリクも心配そうに見つめていた。

2.7. 暗躍する時空魔法師

 その間に、シドウとカイナはレディオスの家へ到着する。本来、交渉役としての手腕はカイナの方が上ではあるのだが、ひとまず今回はこの街の警備隊長であるシドウが表立って対応することにした。

「何かご用件でしょうか?」

 例の「美女」が家の中から現れると、シドウは端的に問いかける。

「レディオス殿はいるだろうか?」

 それに対して彼女は少し間を開けた上で答える。

「……主人が、どうかされましたか?」
「どうやら、随分前に本を借りていたようなのだが、なかなか返してもらえていないと聞く。そのことで……」

 シドウがそこまで言ったところで、彼女は明らかに心当たりがありそうな顔を浮かべる。

「あぁ、あの本ですか。あの本は、その、失くしてしまったみたいで……。今、それを探してはいるんですけれども……」

 彼女はそう答えるが、カイナはその表情から、明らかに彼女が嘘をついていることを読み取る。

「借りてたものを失くしてしまったことに関しては、主人も申し訳なく思っておりまして、なんとか見つけてお返ししたいと考えてはいますので……」

 その対応に対して、シドウも不信感を感じる。その上で、自分の中での「彼女に関する仮説」に基づいて、ある一つの質問を投げかけてみる。

「ちなみに、奥様のお名前をお伺いしても良いですか?」
「私は、ココナと申します」

 シドウとしては、自分の仮説が正しかった場合、もしその名前に聞き覚えがあれば、そこから何かが連想出来るかもしれない、と考えたのだが、残念ながら、全く聞いたことがない名前であった。
 一方、彼女の目がシドウに集中している間に、カイナは密かに魔法で「生命探知」を試みる。すると、彼女はこの家の中にもう一人「誰か」がいることを確信した。おそらくはレディオスの可能性が高いだろうが、別の誰かが潜んでいる可能性も否定は出来ない。
 カイナはそのことをシドウに目で訴えると、シドウは自分の中の仮説を、あえてそのまま彼女に投げかけてみることにした。

「私の『同僚』にも似たような者がいるのだが、あなたはまるで『本から出てきたような存在』か何かのように思えるような……」

 確信がない分、いまひとつ歯切れの悪い言い回しになっているのだが、そんな二人の会話に、横からカイナが初めて口を挟む。

「シドウさん、それは一体、どういうことですか?」
「実は私の副官であるクレハは、異世界の本の中から現れる存在なのですが……」

 カイナがアントリアにいた頃には、まだクレハは士官していなかったので、カイナはクレハのことは何も知らない。だが、実はカイナの契約相手であるカタリーナの母にしてフレドリクの妻であるクリスティーナ・リンドマンの元に、クレハと同じ「本から出現する魔法師」であるドーマン・カーバイト(本体である書物の名は『鵺鏡』)が迎えられているため、カイナも「本の中から現れる、特殊な魔法師」がこの世界に存在することは知ってる。

(あぁ、『あの胡散臭い人』の同類だったのか……)

 カイナがドーマンのことを思い出しながら、ひとまず納得している一方で、シドウはそのままココナに対して話を続ける。

「……そのクレハが、ココナさんから『自分と同じ匂い』がすると言っていたのです」

 それを聞いたカイナは、今度は魔法で「混沌探知」を試みる。すると、ココナからは強い混沌の気配を感じると同時に、家の中からも何か「別の魔法具」が潜んでいることに気付いた。
 目の前でそんなやり取りを見せられたココナは、当然のごとく困惑した表情を浮かべる。

「えーっと、その、どういうことでしょうか?」

 シドウは開き直って、改めて問いかける。

「私の部下に『本から出現する者』がいる。そして、彼女は『あなたからも自分と同じ匂いがする』と言っていたのです」

 そこまで言われたところで、部屋の奥から一人の人物が現れる。それは、シドウにも見覚えのある人物、レディオス・ミューゼルであった。

「もういい、ココナ。これ以上、ごまかしきることは出来ないようだ」

 彼は諦めたような表情で「妻」にそう告げつつ、カイナとシドウに対して問いかける。

「確認したいのですが、あなた方は、教皇庁の方々とは『別件』ですよね?」
「えぇ」
「まぁ、別ですね」

 二人がそう答えると、レディオスはやや警戒しながらも、二人を家の中へと迎え入れることにした。

2.8. 夢巻物(ドリームスクロール)

「どこまで勘付いているのかは分かりませんが、ココナは、端的に言えば『混沌の産物』です」

 二人を客間に招き入れた上で、一つのテーブルにレディオスとココナ、そしてシドウとカイナが向かい合うような形で座った状態から、レディオスは最初にそう告げた。

「彼女は今、私の妻となっています。聖印教会の中で、混沌の産物をどこまで許容出来るかは人それぞれなのですが、最近の教皇様は『日輪宣教団』と呼ばれる危険な者達に対してお墨付きを与えるなど、教皇庁全体が過激化している傾向がありまして……」

 日輪宣教団とは、一切の混沌の人為的利用を禁じる教派であり、投影体に関しては、それが人間にとっていかに有益な存在であっても、すぐさま浄化しなければならない、と考えている人々である。かつては聖印教会の中でも異端扱いであったが、現在では彼等を中心とする新興国家である「神聖トランガーヌ枢機卿領」がこのブレトランドでも設立されるなど、聖印教会内でも無視出来ない勢力となりつつある(詳細はブレトランドの光と闇2参照)。

「端的に言って、私の今のこの状況は『教皇庁に対する裏切り行為』と解釈されてもおかしくない状態なのです。今、私には教皇庁から召集令がかかっていて、私としては、今でも教皇庁で絵を描きたいという気持ちはあるのですが……、少なくとも、今の聖印教会にココナを『妻』として連れて行くことは出来ない。しかし、だからと言って、ココナが浄化されるということは、仮にそれが聖印教会の教えとして正しいものであったとしても、到底耐えられない。ならば、もういっそのこと、お世話になったエルネスト様には申し訳ないですが、この街を出ようかと考えている、そういう状態です……」

 憔悴した様子でレディオスは彼等にそう告げた。この間、カイナは彼の表情や動作をつぶさに観察した結果、彼の言葉に嘘がないことは確認する。とはいえ、これはレディオスが「居留守」を使っていたことの理由としては納得出来たが、カイナ達にとっての「本題」とは、あまり関係のない話である。

「あなた方の事情については、概ね理解させて頂きましたが、私と私の主は、あなたが以前にお借りした本について、調べなければならないのです」

 そう言われたレディオスは、やむなく一冊の本を二人の前に提示する。その表紙には確かに『紅蓮の姫と紺碧の翼』と書かれていた。

「端的に言いますと、その本が、彼女がここにいる理由と大きく関わっているのです。私としては、その本を返さなかったのは、その本を誰かが読むことで、ココナの正体が知られてしまう可能性があるので、出来れば返したくはなかったのですが……」

 当然、それが身勝手な話だということはレディオスも分かっている。その上で、あえて彼はカイナに対してこう提案した。

「出来れば、その本をあなた方の手で『長期持ち出し』していただけないでしょうか? あなた方が借りたまま、少なくとも聖印教会の方に知られないようにして頂けるのであれば……」
「まぁ、その辺りは色々とやりようはあります」

 カイナはひとまずそう答える。少なくともエルネストの先刻の対応から察するに、彼自身はこの本のことを「数ある文学作品の一つ」としか考えていないようだったので、一旦ノルドに持ち帰りたいと言えば、認められる可能性は高いだろう。

「その上で、私達が街を逃げて行くことに関して、何も言わずに見逃してくれるのであれば、本はお返し致します。その場合は、シドウ様に届けて頂くという形になりますが」
「なるほど……」

 シドウとしても、そういう話なのであれば、特に止める理由はない。今のレディオスの立場は、エルネストにとっての「お抱え絵師」のようなものだが、あくまでもそれは「他に行き場所のない芸術家達への救済措置」として抱え込んでいるだけであって、過去にも自分の傘下の画家や音楽家達が他の街へと移住するのを止めたことは一度もない。今のシドウから見れば、本さえ返してもらえるのであれば、主君に対しての不義理になるとは思えなかった。

「私としては、今夜にでも夜逃げしようと考えていたところなのです」
「夜逃げ、かぁ」

 シドウとしては、その言葉に少し引っかかるところがある。かつて自分自身も故郷から夜逃げするような形でブレトランドへと渡ってきた以上、その行為を咎めるつもりは毛頭ないが、そもそも、現状において誰かから何かを咎められている訳でもない状態で、わざわざ「夜逃げ」と言わなければならないほど切迫した逃亡を図らねばならないとレディオスが考えていることに、違和感があったのかもしれない。

「今回、教皇庁から来られているのはヒューゴ様のようで、私はあの方とは面識はありますし、あの方は話せば分かってもらえるかもしれないのですが、正直、その……」

 言葉を濁してはいるが、レディオスがヒューゴに対して強烈な恐怖感を抱いていることは、その様子から推察出来るし、カイナにはその気持ちもよく分かる。「力を持たない普通の人」から見れば、あれだけの強大な力を持った、しかも気性の荒そうな君主を相手に交渉するくらいなら、その前に逃げたくなるのも当然の話だろう。

「……ですので、私は『自分に自信がないから逃げた』ということにでもして、誰かを代わりに派遣するという形にして頂けないかな、と」

 レディオスがそこまで言い終えたところで、カイナはシドウに耳打ちする。

「この二人の言っていることに嘘はなさそうです。脅威になる存在でもないでしょう」

 そのことを告げられたシドウは、率直に自身の見解を伝える。

「現時点で君をどうかしようということではないが、私自身だけでは判断がつかないところだからな。君の気持ちが全く分からない訳ではないのだが……」

 実際のところ、教皇庁に連れ帰るのが「別の方」でいいのかどうかを判断する権限はシドウにもカイナにもない(更に言えば、ヒューゴにもない)。故に、シドウとしては、そもそも彼が夜逃げする必要があるかどうかも分からないのだが、どうしても逃げたいと考えるなら、あえてそれを止める理由もない。
 ただ、ここでカイナにはまだ一つ、気になる点があった。それは、玄関口で混沌探知を試みた時に感じられた「魔法具」の気配である。少なくとも、現状において目の前に置かれた『紅蓮の姫と紺碧の翼』からは、何の力も感じられない。それ故に、カイナとしては、まだこの時点で帰る訳にはいかなかった。

「ところで、この家の中には何か一つ魔法具のようなものがありますね?」

 エーラムの一員としても、パンドラ均衡派の一員としても、カイナとしては「危険な魔法具」の存在を放置する訳にはいかない。レディオスが魔法師ではないのだとすれば、なおさら、その扱い方を知らない一般人の手に余るような物品を放置することは出来ないのである。
 レディオスはそれに対して、当惑と恐怖が入り混ざったような表情で答えた。

「そこまで気付かれているのであれば……、確かに、それはあります。ありますが……、その件に関しても、話さなければならないでしょうか?」

 どうやら彼としては、その魔法具のことは『紅蓮の姫と紺碧の翼』以上に「語りたくない案件」らしい。カイナはシドウに対して、このまま自分が交渉を続けていいか目で訴えつつ、シドウが頷くと、そのまま話を続ける。

「私としてはあなた方の話は信じていますし、危険なことをするような方ではないと信じたいです。とはいえ、正体不明の魔法具を持たれている以上、この街を守るシドウ隊長の立場もお考え頂きたいのです」
「なるほど……。では、一つお伺いしたいのですが、あなたはどちらの方でしょうか? この街の方ではないですよね?」
「えぇ。シドウ様の知り合いの者です」

 カイナの側も、それ以上のことはまだ言えなかった。ただ、エーラムの制服を着ている以上、彼女が「何処かの公的機関に所属する正規の魔法師」であることは分かる。その意味では、聖印教会(過激派)の関係者ではないという意味で、今のレディオスにとっては、まだ交渉しやすい相手でもあった。
 レディオスは意を決した上で、ひとまずその場から立ち上がり、そして家屋の奥から、一本の「巻物」を手にして戻ってくる。それは、極東風の装飾が施された(明らかに、このブレトランドとは異なる文化圏で作られたと思しき)かなり古ぼけた巻物であった。

「『この巻物』が、ココナを生み出した源泉なのです」
「源泉?」
「『その本』を読んで頂ければ分かるのですが……、『その本』の冒頭に、『この巻物』が登場するのです」

 レディオスがそう言って『紅蓮の姫と紺碧の翼』を指すと、ひとまずカイナは言われた通り、本を開いて内容を確認することにした。
 この本は一人称小説であり、作者の名は「アガーテ」と記されている。彼女こそが表題となっている「紅蓮の姫」であり、元来はとある国の姫君主であったらしい。彼女は生来病弱で、絵を描くのが趣味だった。そんな彼女の前に、とある魔法使いが「夢巻物(ドリムスクロール)」という名の巻物を持ってきた。その巻物に「特殊なインク」を用いて何かを描くと、描いたものがそのままの姿で具現化する。彼女はそこに「自分の妄想する理想の騎士」を描いたところ、そこには「紺碧の翼」を背中に生やした一人の青年が現れ、それ以降、彼はアガーテを守る剣士となった。
 それが、この書物の冒頭部分で描かれていた物語の概要である。

「おそらく、その『夢巻物』が『これ』です」
「つまり、ココナさんは、あなたがその巻物に描いた女性だと」
「そうです。私の『理想の女性』です」
「なるほど、それはよく分かりました」

 カイナが確認する限り、レディオスは何一つ嘘を言っていない。そのことを表沙汰にしたくないという彼の気持ちも、なんとなく理解した。今まで色恋沙汰とは無縁の人生を送ってきたカイナには、そこまでして「理想の恋人」を具現化したいという気持ちにも、それを守り続けたいという気持ちにも共感は出来ないが、そこまでして自分の妄想を実現しようとするレディオスの執念には(それが自分には生み出せない衝動であるという意味で)一種の感動すら覚えていた。
 その上で、カイナは更に問いかける。

「ココナさんは、今はもう『この巻物からは独立した存在』なのですよね?」

 オルガノンや(クレハのような)レトロスペクターは「本体」から切り離して存在し続けることは出来ないため、「本体」である書物が消滅すれば「人間体」も消える。今の話を聞く限り、ココナはそれらとは明らかに別物のように思えたが、レディオスは俯きながら答える。

「正直なところ、もしこの巻物が消滅した場合、彼女がどうなるかは分かりません。なので、お借りしていた本はお返ししますが、巻物に関しては……、実はこれもエルネスト様の所蔵庫から無断で持ち出した代物なので、勝手なのは百も承知なのですが、手放したくはないのです」

 実際のところ、この夢巻物自体があまりにも得体の知れない存在である以上、素人のレディオスがその効果について正確に把握出来る筈もない。いつの時代に誰の手によって作られた代物かも不明である以上、巻物が消滅した時にココナがどうなるかについては、カイナでも判別は困難であるし、もしかしたらそのことを判別出来る者は、今のこの世界には存在しないのかもしれない。そうなると、レディオスとしては巻物を手放したくないと考えるのも当然であろう。

「お気持ちは分かりますが、その巻物はかなり危険な存在なのでは? 使い方によっては、かなり危険なものが生み出されてしまうのではありませんか?」
「それに関しては、もう少し読み進めて頂けると分かるのですが……、かいつまんで説明しますと、その話の中に登場する『特殊なインク』の原料は『特殊な鶏の投影体』の生き血なのです。現状、それを手に入れるのは私一人では非常に困難です。先月、偶然にもその本に書かれていた鶏とよく似た怪物が近くに出現していたようなので、マリベル様の討伐隊に同行する形で、その血を手に入れさせて頂けましたが、その時に作成したインクは、ココナを生み出す際に使い果たしました」

 もし、この場にマリベルかラーテンがいればこの話の裏付けも取れたのだが、カイナもシドウも、その件は聞かされていない。もっとも、いずれにせよそのインクが既に使い果たされているかどうかの確認は困難であるし、一ヶ月前に鶏の怪物が出現したのが「偶然」なのかどうかも、この時点では彼等には判断出来なかったのであるが。

「そして、この巻物自体が『持ち手を選ぶ巻物』のようなのです。この巻物は、元来はエルネスト様の所蔵庫にあった代物なのですが、私がこれを手にするまで、だれもこの巻物を開くことが出来なかったらしいのです。私が自分で言うのもおこがましい話ではありますが、おそらくこの巻物が、私の画力を認めてくれたのでしょう。そして実際、手にしてもらえれば分かりますが、普通の人では開けない筈です」

 レディオスはそう言って、巻物をカイナに手渡す。この時点でカイナにそのまま巻物を奪われる可能性も十分に考えられたが、どちらにしても魔法師が本気を出せばいつでも自分を捕まえることも殺すことも出来る、ということはレディオスにも分かっていた以上、ここは彼女に全てを曝け出した上で彼女の「善意」に期待するしか、彼には道が残されていなかった。
 そして実際、カイナがそれを開こうとしても、全く開けなかった。念のため、シドウにも試させてみたものの、邪紋使いである彼が、通常の紙ならば引きちぎれそうな力で開こうとしても、ビクともしない。明らかに、何らかの特殊な力が働いていることが二人にはすぐに分かった。

「とはいえ、『この巻物を開くことが出来る私』が危険な存在だと思われるのは当然のことです。ですので、エーラムの裁定として、私を保護観察処分にするなり、魔法師協会にとって都合の良いものを作り続けるために協会で監禁するというのであれば、私はそれでも構いません。ココナを私の傍に置いてくれさえするのであれば」

 レディオスとしては、今の自分が「交渉出来る立場」にいるのかどうか分からない。ただ、エーラムの魔法師を目の前にした現状において、これが提示出来るギリギリの条件であった。少なくとも、自分自身のこの能力を交換条件にすれば、「ココナと一緒に歩む人生」という、今の彼にとっての最大の望みを守ることが出来るのではないか、と考えたのである。
 だが、今の彼にとって「ココナ」は、「希望」であると同時に最大の「弱点」でもある。カイナは淡々とその「現実」を彼に突きつける。

「そこまで言うつもりはありません。ただ、仮にあなたが一人で彼女と共に逃亡生活を続けた場合、たとえば、ココナさんを人質に取るような形で、あなたに何かを強制的に描かせるような『悪い人達』がいるかもしれないですよね。たとえば『パンドラ』とか」

 「パンドラ」という組織の実態を知る者は少ないが、その名前だけは一人歩きするような形で、主に裏社会に生きる人々の間には「恐怖の象徴」として広がっている。レディオスもまた、地下工房という特殊な世界に生きる者であるが故に、その噂は聞き及んでいた(もっとも、その当事者が今の自分の目の前にいることには、気付ける筈もないのであるが)。

「確かに、パンドラという組織は恐ろしいらしいですね……」

 レディオスはそう呟きつつ、ココナが自分の目の前で「悪の組織」によって監禁・拷問されている光景を想像する。そのような状況下で彼女の身を危険に晒してでも強気に交渉を続けられるかと考えると、レディオスには到底その自信は無かった。そのことに気付いて青ざめた様子の彼に対して、その「悪の組織」の一員であるカイナは、冷静な口調で淡々と語り続ける。

「それを考えれば、確かにこの巻物は興味深いものではありますが、私はどちらかというと災厄の方が大きいのではないかと思います。なにせ、絵を描くだけでそのものを生み出してしまうのですから、何を生み出せてもおかしくはない」
「確かに……」
「シドウ様はどう思われますか?」

 レディオスが折れ始めたこのタイミングで話を振られたシドウは、悩ましい表情を浮かべながら答える。

「そうだな……、確かに巻物自体の存在は危険だと思うが、レディオス殿のことを信用したいという気持ちも無くは無い……。レディオス殿がそのような変な使い方をするとは思えないが、それが他の者の手に渡るのが怖い……。だから、判断に迷うところではあるな……」

 そんなシドウの反応を見て、彼等が自分の言い分をある程度聞き入れてくれそうな雰囲気を感じ取ったレディオスは、思い切って「もう一つの選択肢」を提示する。

「正直なところ、たとえば、エルネスト様に全て本当のことを話して、本も巻物もお返しした上で、このままエルネスト様の下で、また地下工房に戻らせて頂けるのであれば、それでも構いません。ただ、その場合、聖印教会の方にどう申し開きするのか、という問題がありまして……」

 話がまた元に戻ってしまったところで、カイナは先刻から内心で抱いていた素朴な疑問を投げかける。

「一旦、絵を描くために教皇庁に行って、描き終わったらまた帰って来る、ではダメなのですか? ここで教皇庁に対してあまりカドの立つようなことをすると、例の巻物の話もどこかで漏れるかもしれませんし、それが一番穏便に解決する方法だと思うのですが」
「その通りなのですが……」
「彼女と離れたくない、と?」
「端的に言えば、そういうことです……。正直、不安なんです。彼女と離れることが。私がいない間に、彼女の正体が何者かに知られて、消されてしまうのではないかと……。別に、私が近くにいたところで、私が彼女を守れる訳でもないのですが……」

 実際、それに関してはカイナも何とも言えない。現状においてココナの身の安全を確保するのは、どちらにしても難しいだろう。夢巻物という存在自体があまりにも強力な力を秘めている可能性がある以上、たとえばエーラムに保護を求めたところで、賢人委員会の裁定によって、ココナもろともその存在を消滅させられる可能性は十分にある(それはパンドラに預けた場合も同様であるし、預け先の魔法師によっては、もっと最悪の事態を招く可能性もある)。
 また、仮に今回の絵画制作を終えた後でこの地に帰還したとしても、「教皇庁の大聖堂の絵画の作者」となれば、必然的に注目を集めることになる。そうなるといずれ何らかの形で「得体の知れない(投影体かもしれない)女性を妻として娶っている」という話が伝わってしまう可能性もある。そう考えると、彼にとって一番の選択肢は、ここで一旦、聖印教会との繋がりを(完全に断ち切るとまではいかなくても)弱めておく、ということになるだろう。
 カイナはそんなレディオスの心情を理解した上で、改めて正論を彼に突きつける。

「とはいえ、少なくとも、この街で起きている問題である以上、エルネスト様に話を通すのが筋だとは思います」
「そうですね……。ヒューゴ様にはなんとかお引き取り頂く形で、その上で、エルネスト様が、巻物を勝手に持ち出した私を許して頂けるのであれば……」

 そのためにどうすればいいのかは、レディオスには分からない。とはいえ、既にシドウに事情を伝えてしまった以上、ここはまず、改めてエルネストに謝罪した上で庇護を求めるのが一番現実的な道に思えてきた。
 レディオスがその意思を示したことで、シドウとしても彼を庇護する方向で話を進めることを決意する。

「ひとまず、エルネスト様には、聖印教会の方を説得して頂けるように、相談するだけはしてみましょう」

 もっとも、今からシドウがレディオスを領主の館まで連れて行くとなると、その途中で誰かにその姿を見られた時に、厄介なことになる可能性もある。シドウは目立つ外見であるため、その彼が「顔を隠した状態の人物」を連れて領主の館まで向かおうとすれば、それは人の目を引くであろうし、最悪、ヒューゴに遭遇する可能性もある。
 その状況を理解した上で、カイナがおもむろに立ち上がった。

「では、ここは私が『時空魔法師』として、頑張ることにしましょう」

2.9. 芸術家領主の判断

 カイナはまず、レディオスの家に「時空の扉」を作る。これは彼女が専門とする時空魔法の一つで、離れた二箇所に「扉」を作ることで、その間の移動を可能とする魔法である。だが、これを成功させるには、大規模な精神力と時間が必要であった。
 その間にシドウがエルネストへ向けた「手紙」を書く。フレドリクが探していた本が見つかったことと、レディオスが聖印教会に行くのを嫌がっていることがその中には記されていた。
 そして時空の扉を作り終えたカイナは、その手紙を受け取った上で、一人で領主の館へと向かった。彼女は手紙をエルネストに渡し、エルネストの許可を得た上で、彼の私室にもう一つの「扉」を作り上げ、その二つの扉を通じてレディオス、ココナ、シドウの三人が、人知れずエルネストの館へと到着することに成功する。
 ただし、この過程でカイナの精神力は激しく消耗させられた。そして、そのフラフラの状態ながらも、改めてカイナはエルネストに、詳しい事情を事細かく説明する。この状況において、エルネスト相手に中途半端な隠し事をすることは誰のためにもならない、というのが彼女の判断であった。 

「なるほど……。にわかには信じられん話だが、時空魔法師殿がそう判断されるのであれば、間違いはないのだろう」
「少なくとも、彼は嘘は言っていません。そして私は、彼のその芸術家としての手腕に感銘を受けました。だからこそ、彼を聖印教会に引き渡すことで、危険に晒すべきではないと考えます」

 実際のところ、カイナにはそこまで彼を庇う義理はない。ただ、まだ情報の少ない現状においては「レディオス」と「巻物」をエルネストの元に置いておくことが、この世界の均衡を保つ上でも一番安全であるように思えた。彼の意向を無視して巻物を破壊するという道も無くは無いが、そもそもそれが可能かどうかも分からないし、もしレディオスの中にまだ何か「隠し球」が残されていた場合、それを防ごうとした彼が暴走して何を引き起こすかも分からない(カイナは相手の嘘を見破ることは出来るが、相手の考えの全てを見通せる訳ではない)。

「そうだな……。聖印教会の使者殿を納得させるための言い訳としては、『まだ未熟だから、もう少し修行したい』か、もしくは『自分よりもっとふさわしい人がいる』か、『体調の問題で今は難しい』ということにするか……」
「自信がない、あたりの方が妥当かと思います。下手に病状などを理由にすると、高位の治癒専門の魔法師の方々が、治療を申し出る可能性もあります」

 実際、聖印教会には治癒を専門とする君主も多い(もっとも、少なくとも今の時点でこの地に来ている「聖印教会の君主」は、およそ治癒魔法とは無縁な人物のように思えるが)。

「なるほど。しかし、この巻物がそれほどの力を持つ魔道具だとするならば、確かにそれはかなり危険な存在だな。私の領内でそのような事態に巻き込んでしまったとは、ノルドからのお客人に対して、大変申し訳ない」
「いえ、どんな状況であろうと、このような事態に至った場合に、混沌による悪影響が及ばないようにするのが『我等』の勤めです」

 実際、それはカイナにとって、エーラムの一員としても、パンドラ均衡派の一員としても、間違いなく「本音」である。「混沌の均衡」を守る存在として、夢巻物が「放置しておけない存在」であることは間違いない。
 そして彼女は、この巻物のことを知ったエルネストが、これを私欲のために用いようと考えているかどうかについてについても彼の表情から読み取ろうとするが、今のところ彼からはそのような兆候は感じられない。むしろ、そこまで強力な魔法具をどう扱ったものか、と困惑している様子であった。

(この巻物をどうすべきかは、私の管轄ではない。しかし、誰にこの案件を任せるにしても、情報は正しく引き継げるようにしておかなければ)

 カイナは内心でそう呟きつつ、彼女の本来の目的であった『紅蓮の姫と紺碧の翼』に関しては、ひとまず写本を依頼することにした。レディオスとしては既にエルネストに真相を話してしまった以上、あえて本を長期持ち出ししてもらう必要は無くなったし、カイナとしても、おそらく現物にこだわる必要はないだろうと考えていた(もっとも、カイナもまだフレドリクから「この本が必要な理由」を聞かされていないので、一度方針を確認する必要はあるが)。
 そして、勝手に巻物を持ち出したレディオスの処遇については、ひとまず保留ということにした上で、彼とココナの身柄はひとまずエルネストの屋敷の中で匿う、という方針で一致した。

3.1. 宴席での疑惑

 この日の夜、エルネストの館にて、フレドリクとヒューゴの歓迎会が開かれることになった。エルネストとしては、まさかこの二人が実の兄弟だとは知らなかった訳だが、そのような縁があるとマリベルから聞かされたことで、それならば揃ってもてなすのが筋であろうと考えたようである。
 ノルドからの来客であるフレドリク、ラスク、カイナと、イスメイアからの使者であるヒューゴが来賓席に座り、エルネスト、マリベル、ラーテンが彼等と向かい合うように着席する。なお、シドウは邪紋の力によって「食事を必要としない身体」となっていることもあって、あえて「護衛」として、同席せずに会場全体を監視していた。
 改めてエルネストは客人達と軽く挨拶を交わしつつ、ひとまずヒューゴに対して、聖印教会としての意向を確認すべく、探りを入れる。

「せっかく来て頂いたのに、レディオスが出払っていてしまって、申し訳ないのですが、そもそも、なぜレディオスをそこまで高く評価して下さったのでしょうか?」
「あいつの腕が認められた。それだけの話だろう」

 詳しい選定基準についてはヒューゴも知らないため、それ以上は何とも言いようがなかった。

「そうですか。ですが、彼自身は自分はまだまだ未熟だと言っていました。今回の話を彼に告げた時も、彼は少し戸惑った様子ではあったので、まだ自分はその任には足らないと考えているのかもしれません」

 エルネストのその言い方に、ややヒューゴはムッとした顔をする。

「それは本人が言ったのか?」
「はっきり言った訳ではありません。ですので、確認する必要はあるでしょう」

 このヒューゴの反応から、やはりこれはレディオス本人を連れてこないと納得しないだろう、ということをエルネストは実感する。そんな二人の微妙に不穏な空気を感じ取りながら、何も事情を聞かされていないラーテンは、本能的にハラハラしながら見ていた。
 その上で、今度はエルネストはフレドリクに語りかける。

「フレドリク殿が探していた本に関しては、どうにか見つかりました。現在、写本をしているので……」

 そこまで言いかけたところで、フレドリクが遮るように口を開く(なお、彼は本が見つかったこと自体は、既にカイナから聞いていた)。

「いや、内容を見せてもらえば、場合によってはお借りする必要も、写本する必要もないかもしれない。まずは一度、中身を読ませてもらいたいのだが」
「分かりました。それならば、この後にでも、そのお時間を設けましょう」

 この時、ラーテンは二人の会話を聞きながら微妙な違和感を感じていた。彼は先刻、宿屋にてカイナから「レディオスが借りている本を探している」という話を聞いていた(そしてラーテンがその話を聞いていることを、エルネストは知らない)。おそらく、ここでエルネストが言っている「フレドリク殿が探していた本」とは、その「レディオスが借りている本」のことだろう。

(あれ? レディオスが見つからないから、あいつが借りている本が返って来ない、っていう話じゃなかったっけ?)

 レディオスが行方不明のままだとすると、このタイミングで本が見つかったということが不自然に思えたラーテンは、怪訝そうな表情を浮かべる。だが、その表情にヒューゴが気付く前に、カイナがすぐさま口を開いた。

「レディオス殿の家をお伺いしたら、奥様がいらっしゃったので、彼の本棚にあったその本を返してもらったのです。シドウ様にも同行して頂いたこともあって、その辺りの手続きは円滑に進みましたよ」

 カイナの咄嗟の機転により、ラーテンは納得した顔を浮かべ、ヒューゴも特に違和感を感じることもなく、何も言わなかった。
 やがて、料理がひと段落したところで、この館の使用人である「杏仁豆腐のオルガノン」であるアニー(下図)が、デザートとして「自らの身体から生み出した(自分自身の『本体』である)杏仁豆腐の小皿」を皆に配り始める。


(あまり難しいことは俺は考えないようにしよう。やっぱり、俺の柄じゃない)

 ラーテンが自分にそう言い聞かせながら、黙々とその杏仁豆腐を食べている中、アニーはカイナに対して「アトでチョットいい?」と目線を送り、カイナはそれに静かに頷くのであった。

 ******

 宴を終えた後、フレドリクはヒューゴに対して(昼の時点で「また夜ぐらいにでも来る」と言ってたことに関して)断りを入れることにした。

「すまない、先程の話にもあったが、今日はこれから、とある『本』の内容を確認することになった。話は明日にしてくれないか? 急用があるなら聞くが」
「いや、別にねえけど」

 ヒューゴはぶっきらぼうにそう答えつつ、素直に宿屋へ帰る。どうやら、先刻のエルネストの発言から、レディオスが見つからないことに関して、やや不信感を感じ始めていたらしい。

 ******

 一方、ラーテンは契約相手であるマリベルに対して、先刻のカイナとの会話の裏にあった事情を説明する。

「……という訳で、あの時、ちょっと『あれ?』と思ったんだよ」
「ふーん、そんなことがあったんだ」

 マリベルはそう答えつつも、あまり強い関心は示していない様子である。そして話しているラーテン自身もまた、夢巻物の話を全く聞かされていない以上、それほど注意すべき問題とも思っていなかった。

 ******

「ボスからウチに話はキてるけど、ケキョク今、どゆう状況ナノ?」
「それがさっぱり。そちらの方で情報は何か?」
「ヨク分からない。ただ、カギになてるのが、『例の本』ラシイってことナノよね?」
「そうらしい。まだ冒頭部分しか読ませてもらってないけど、『呪い』のようなものが出てきたという話ではなかったので。もう少し探りを入れてみる必要があるわ」
「じゃあ、ソレでお願い」
「それはそれとして、杏仁豆腐がすごく美味しかったから、作り方教えて」
「アァ、うん。カンタンカンタン。まず、杏の木を探シテネ……」
「杏の木? そうか、今度は召喚魔法を覚えなきゃダメか……」

 そんな会話をアニーと交わしつつ、カイナはフレドリクの元へと戻る。そしてフレドリクとラスクは彼女を伴ってシドウの案内で領主の館の書庫へと趣き、『例の本』を読ませてもらうことにした(その間、シドウは書庫の外で警護に当たることになった)。

3.2. 「呪い」の真相

 フレドリク、ラスク、カイナの三人は、ランタンの火だけが灯る薄暗い夜の書庫において、『紅蓮の姫と紺碧の翼』に改めて目を通すことにした。

「私は書物を読むことには長けていない。そして、私にはあまり時間もない。この本を手早く読んで、何らかの『呪い』に関する記述があれば、その内容をまとめて教えてもらいたい」

 フレドリクがそう告げると、カイナは頷きながら答える。

「分かりました。出来ればその『呪い』の内容について教えて頂いた方が調べやすくはあるのですが、そこまで信頼は頂けていないでしょうから、それは構いません」

 それに対して、フレドリクは一瞬ラスクの表情を伺いつつも、その表情に微妙な「迷い」が読み取れたことから、カイナに対して申し訳なさそうに答える。

「いや、正確に言うと、それは私の一存で話して良いかどうかが分からないから、言えないだけだ。君を信用していない訳ではない。それだけは言っておこう」
「分かりました。可能な限り努力します」

 彼女はそう言って、まずは改めて「目次」を確認しつつ、エーラム時代に鍛えた多くの数多の資料を短時間で読み解く技術を駆使して、その書物に描かれた「物語」の内容を確認していった。

 ******

 この書物の主な内容は、「紅蓮の姫」ことアガーテと、彼女によって作り出された「紺碧の翼」を持つ剣士ハインツの二人が、世界各地を旅して回った冒険譚である。物語は、アガーテが「謎の魔法師」によって与えられた「夢巻物」に、「特殊な鶏の血」で作られたインクを用いてハインツを創出するところから始まり、貴族の箱入娘だったアガーテがハインツに連れられて「外の世界」を回って見聞を広げていく、というのが大筋の展開であった。
 どこまでが事実でどこからが創作なのかは不明だが、基本的には「アガーテの日記」という形式で描かれており、その物語の内容は多岐に渡っている。旅先の街に現れた怪物との戦い、山岳地帯に発見された洞窟の探検、夢巻物を狙う悪の魔法師との対決、食糧難に苦しむ人々を救うための肥沃な大地の創造など、純粋に物語として読んでも十分に楽しめそうな内容であった(あくまでも内容確認のための速読中なので、そこまでの余裕はカイナにはなかったが)。
 そしてこの書物の終盤で、とある魔境に入ったアガーテとハインツが、魔境内で発生した突発的な混沌災害と思しき何らかの力によって、二人の「心」と「体」が入れ替わってしまった、という物語が描かれる。そして、ハインツの身体はもともと混沌の力によって生み出された代物であったため、彼の身体の中に入ったアガーテの心は、時間が経過するごとに徐々に混沌に蝕まれていくことになる。元に戻る方法を探した二人は、古代の魔法で「二人の人間を融合させる魔法」と「融合後の二人を分離する魔法」が存在するらしい、という情報を手に入れる。
 その情報に基づいて、ひとまず「融合の魔法陣」の作り方を理解した二人は(本来ならばそれはよほど高位の魔法師でなければ再現不可能だったのだが)夢巻物の力を使うことで、その魔法陣をそのまま複製することに成功し、ひとまず二人の身体は融合した。それは、一つの身体に二人の魂が同時に入った状態のまま、その時々に応じて「姫の身体」と「剣士の身体」のどちらかの身体に変化させることが出来る、という状態であった。
 こうなると次の課題は「分離の魔法陣」の作成法である。だが、この書物はその分離の魔法陣を発見するに至る前に「最後のページ」を迎え、そして末尾には(続く)と記されたまま、その内容を終えるのであった。

 ******

 カイナが一通りにその内容をかいつまんで説明すると、フレドリクは微妙に悩ましい表情を浮かべる。

「なるほど、その中に、今の呪いを解決出来るかもしれない方法は確かに書いてある。書いてはあるが……」

 なお、カイナが読んだ限り、その物語終盤の「姫が『混沌の身体』に入ったことで、魂が蝕まれて苦しんでいる様子」の描写は、現在のラスクの症状と似ているようにも見えた。

(そういうことか……)

 彼女はこの時点で、フレドリクの表情を改めて正確に読み取り、まさに『これ』こそが、今の彼等を苦しめている呪いの正体であることを確信する。だが、ひとまずそのことは黙ったまま、フレドリク達の出方を伺っていた。

(続刊を読まなければ分からないが、今の我々には「時間」がない……)

 フレドリクは悩みつつ、ひとまずカイナの手助けを受けながら、書物の終盤に描かれていた「魔法陣」の図を確認する。そこには事細かにその内容が描かれているが、おそらく、ただそれをそのまま書き写したところで、効力は発揮しないだろう。古代の魔法に精通した何者か、もしくは「夢巻物」の力でもない限り、再現は難しい。

「……私の専属魔法師に、連絡を取ってもらえるか?」
「分かりました」

 カイナはそう答えた上で、マールに対して魔法杖通信を試み、フレドリクとラスクの目の前で、彼女に対して「本の内容」をそのまま伝える。
 そして、彼女は魔法杖の向こう側のマールの声をフレドリク達にも聞こえる程度にまで調整すると、マールは「夫」と「契約相手」に対して、こう言った。

「そういうことなら、もうカイナには話してしまいましょう。おそらく、彼女は既に勘付いていると思います」
「……あぁ、そうだな」

 フレドリクはそう答え、そして「相棒」が頷いているのも確認した上で、彼はカイナに対して、全てを打ち明けることにした。

 ******

 数ヶ月前、ノルドの北端の地に巡回に向かっていたフレドリクとラスクは、とある魔境に足を踏み入れた際に、突如発生した特殊な混沌の作用によって(まさに物語中のアガーテとハインツの時と全く同様に)二人の身体と魂が入れ替わってしまったのである。マールの見解によれば、この状態は現代の魔法で元に戻すことは出来ず、魔境内で同じような現象が発生するのを待つのも非常に難しいらしい(なお、その魔境自体は既に消滅している)。
 本来、聖印も邪紋も、その身体の持ち主の魂を反映して生み出されたものであり、魂が入れ替わった状態では、その身体に宿った力を発動させることは出来ない。だが、フレドリクとラスクは長年苦楽を共にしてきたこともあり、「(フレドリクの身体に入った)ラスクの魂」は「フレドリクの身体に宿った聖印」と融合し、「(ラスクの身体に入った)フレドリクの魂」は「ラスクの身体に刻まれた邪紋」によって受け入れられた。
 しかし、それでもやはり本来の魂との齟齬があるため、現状ではどちらも、本来の聖印・邪紋の力を完全に発揮することは出来ない(それでも、並の君主や邪紋使いでは太刀打ち出来ない程度には強いのだが)。それに加えて、(意志の力で完全に制御可能な聖印とは異なり)邪紋は常に刻んだ者の魂を貪り続けるため、本来の自身の魂を反映していない邪紋が刻まれた身体に宿ったフレドリクの魂は、徐々に衰弱し始めていくことになる。ラスクの邪紋は(本気を出した時には)全身に広がる程にまで深く刻まれていたため、おそらくは混沌そのものから構成されていたハインツと比べても大差ないほどの強大な混沌の力が、フレドリクの魂を蝕み続けていた。
 もし、この事実が表沙汰になった場合、ノルド全体に動揺を招きかねないため、今のところ、それぞれの妻以外には伝えてはいない。そして、この事態を憂慮したマールが独自の情報網を用いて解決策を模索したところ、どうやら過去に同じような状況に陥った上で、最終的に元に戻ることに成功した事例が存在するらしい、という情報に辿り着く。そして、その伝承の詳細は数百年前に書かれた『紅蓮の姫と紺碧の翼』という文学作品に記されていることを知った彼等は、その現物が所蔵されていると思しき、このパルテノの街へと(魂が入れ替わった状態のまま)足を運ぶことになったのである。

 ******

 つまり、これまで「フレドリク」としてカイナに接していた男性には「ラスク」の魂が宿り、そして「ラスク」と称してきた男性の身体を通じて話していたのが「フレドリク」の魂であった、ということである。

「相棒、あと、どれくらい持ちそうか?」

 「フレドリク(の身体に入ったラスク)」が「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」にそう問いかけると、彼は力無き声で答える。

「分からないが、段々と『発作』の頻度は上がっている……」

 どうやら、あまり時間の猶予はないらしい。

「マールはどう思う?」
「今はそれしかないなら、試してみるしかないと思うわ。私はてっきり、その本は『一冊で完結した本』だと思い込んでいたのだけど、もしかしたら、表題を微妙に変えた情報で探せば、続刊が見つかるかもしれない」

 出来れば「確実に融合解除出来る方法」を確認した後で実行するか、もしくは「別の方法での解決」を模索したいところではあったが、現状ではそれまで「ラスクの身体に入ったフレドリクの魂」が自我を維持出来る保証はない。

「今はそれに乗るしかないのか……」

 「フレドリク(の身体に入ったラスク)」はそう言ってため息をつきつつ、一呼吸置いた上で、自分に言い聞かせるように呟き始める。

「この書物にも『融合したことで発作が治まった』と書いてある以上、今はそれに賭けてみよう。いざとなったら、娘達がリンドマン家をどうにかしてくれるだろう。所詮、掛け金は命しかない。その掛け金すら失うかもしれない状態で、この機会をみすみす見逃す必要はないからな」

 とはいえ、この方法を実現する上で、必要な課題は三つある。「夢巻物」「特殊な鶏の怪物の血」「それを描ける画家」である。無論、別の方法でその「融合の魔方陣」を作り出す方法があるならばそれでも良いが、どちらにしても現状ではまだ、第一段階の「融合」すら可能な状態にはなっていない。

「ここまで話した以上、カイナには最後まで付き合ってもらうぞ」
「えぇ。それは勿論です」
「で、だ。この本が持ち出されて、しばらくの間返されなかった以上、この本のどこかの情報を必要として、そいつは借りていったんだろう。そういった話は何か聞いてなかったか?」

 「フレドリク(の身体に入ったラスク)」がそう問いかけると、カイナはパンドラ均衡派の一員として、この「危険な情報」を伝えて良いものかどうかの判断に悩みつつも、「既にパルテノの一部の人々に伝えている以上、ここで隠匿する方がより危険」という判断に至る(なお、その前に一瞬、彼女の脳裏には契約相手であるカタリーナの顔もよぎっていた)。

「それについて、少しお話がございます」

3.3. 「融合」への道筋

 カイナは、現時点で自身が把握している情報を全て話した。それはすなわち、現時点で必要な三条件のうち、「夢巻物」と「画家」については、既にその所在を突き止めている、ということを意味していた。もっとも、逆に言えばその「画家(レディオス)」の協力がなければ、その魔法陣を生み出すことは極めて難しい、ということでもある。

「……くれぐれも、このことは御内密にお願いします」

 カイナにそう言われた「フレドリク(の身体に入ったラスク)」は、神妙な表情で頷く。

「そうだな。このことを知る者は少ない方がいい。こんなものがあったら、世界がひっくり返る。極論を言えば、皇帝聖印(グランクレスト)を作れてしまうかもしれない代物だ」
「確かに。とはいえ、実際にどこまで作れるのかは分かりません。外観がはっきりしている魔法陣や、画家が想像した理想の恋人を具現化することは可能であっても、まだ誰も見たことのない皇帝聖印までを作るのは、さすがに難しいかと」
「そうだな。確かに皇帝聖印は少し言い過ぎかもしれない。だが、もし、たとえば実際に起きた災害などを描くことで同じ状況を再現出来るということが出来るのだとすれば、この世界の軍や戦争のあり方も大きく変わるだろう」

 実際、物語の中でもアガーテが夢巻物を用いて「肥沃な大地」を創り出したという一節もある以上(それがどこまで事実かは不明だが)、それくらいのことは十分に可能かもしれない。

「えぇ。それはきっと、この世界の均衡を崩してしまいます。その結果、どのような混乱が起き、人々が苦しむことになるかは分かりません。あの力を有効活用出来るのであれば良いのですが、強大で便利な力というものは存在しません。少なくとも私はあれを軽々に使うべきではないと思います」
「それについては私も同感だ。とはいえ、現状、その画家の力がなければ、魔法陣を作り出すことも出来ないだろう。今はその彼の力を頼りたい」

 この時、カイナは改めて「フレドリク」と「ラスク」の二人の表情を確認するが、どうやら二人とも、今の自分達が元に戻ること以外に、その巻物の力を使おうとは考えていないようだった。むしろ彼等としては「出来れば何らかの形で、そのような危険な巻物は破壊すべき」だと考えているが、今の自分達にとって必要な代物である可能性が高い以上、レディオスには協力してもらう必要がある。そして、協力してもらった後で破壊しろと言われても(その結果として「妻」が消滅する可能性が否定出来ない以上)、レディオスは納得しないだろう。

「レディオスに協力してもらう交換条件として、彼のことを匿う、といった形にするなら、フレドリク様達の交渉でどうにかなるとは思います。問題は……」
「『フレドリクの弟』だな」

 「フレドリク(の身体に入ったラスク)」はそう呟く。それに関しては、これまでずっと黙っていた「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」も頷いていた。
 一方、魔法杖通信の向こう側で話を聞いていたマールは(ヒューゴがここに来ている話を聞かされていないため)、なぜここでヒューゴの話が出て来るのかが理解出来なかったが、特に説明されていない以上、それは自分が立ち入るべき話ではないのだろうと判断した上で、これ以降のことは現地の彼等に任せることにして、ひとまず魔法杖通信を切った。もしかしたら、彼女の中でも(魔法師であるが故の)「ヒューゴや聖印教会への苦手意識」から、あまり「リンドマン家の内部事情」には関わらない方がいいと本能的に察知したのかもしれない。
 そしてマールとの通信が切れたところで、カイナはあえて自ら別の「リンドマン家の内部事情」に口を挟むことにした。

「事情は分かりましたので、私もこのことについてむやみやたりに口にしようとは思いません。しかし、カタリーナ様に関してなのですが……、どこまで話すかはお任せしますが、あの方を安心させてもらえないでしょうか?」

 それに対して、「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」が悩ましい表情を浮かべている中、「フレドリク(の身体に入ったラスク)」が先に答える。

「彼女達に無用な心配はかけたくなかった。そして、彼女達を信用していない訳ではないが、万が一、この情報がおおっぴらになった場合、ノルドの有力騎士の力が弱まったという情報が広がることになる。そうなった場合にどうなるかは想像に難くない。この二点が、伝えたくなかった理由だ」
「もちろん、それは分かってはおりますが……」

 カイナが何か言おうとしたのに対し、今度は「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」が口を挟む。

「ヒューゴに伝えてないのも、それが理由だ。あいつは真正直すぎる」

 それに関してはカイナも全面的に同意する。そして、「フレドリク(の身体に入ったラスク)」もまた深く頷いた。

「あの『フレドリクの弟』が、この秘密を隠したまま生きていけるとは、俺は全く思えない」

 その意味では、確かにカタリーナもヒューゴに似た気質ではある以上、不用意に彼女に秘密を背負わせるのは、彼女自身のためにもならないのかもしれない。

「その御事情は十分理解しています。とはいえ、いつまでも隠し通せるものではないでしょう。私も口は閉ざしますが……、カタリーナ様はいずれ気付かれます」

 あえてカイナがそう断言すると、「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」と「フレドリク(の身体に入ったラスク)」は顔を見合わせつつ、カイナの意図を察する。

「既に彼女は我々のことを不審に思っている、ということか……」
「鋭いな、相棒の娘も」
「完全に気付く前にこちらが解決出来ればいいのだがな。ヒューゴに関してもそれは同じこと。出来れば、解決する前に会いたくはなかった」
「本当にな。一番会いたくないタイミングだった、本気で」

 入れ替わった状態の二人がそんな言葉を交わしている中、ようやくその「奇妙な光景」を即座に脳内で正しく変換出来る程度に見慣れてきたカイナが、眉をひそめながら付言する。

「それは、まぁ、会ってしまったものはしょうがないというか……。とりあえず、この件については私も、これ以上は申し上げません。あとはお任せします」

 実際、カイナとしても「そちらの方の家庭の事情」には、これ以上踏み込みたくなかった。その上で、「フレドリク(の身体に入ったラスク)」は、ひとまずの方針を確定させる。

「仮に巻物が手に入って、俺とフレドリクが融合した場合は、隠し通すことは出来なくなるが……、よし、分かった。ヒューゴに言うタイミングは、巻物が手に入ったか、巻物が完全に失われた時だ。そのどちらかの時点で言うことにしよう。それでいいよな、フレドリク?」
「そうだな。完全に失われた場合は、どちらにしても、私はもう長くない可能性が高いだろう。融合状態となった場合は、同時に同じ場所に出られないということを除けば、ある意味で隠しやすくはなるが……」
「だが、それでは俺達は戦場に立てない」

 フレドリクとラスクは「龍に変身した状態のラスクの背にフレドリクが乗ること」によって、初めてその真価を発揮する。どちらか片方しか存在出来ない状態では(特にフレドリクの方は)まともに戦うことすら出来ない。そのことを踏まえた上で、「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」は改めてカイナに問いかけた。

「とりあえず、融合状態のくだりをもう少し確認してもらえないか?」
「分かりました」

 カイナはそう答えた上で、改めてじっくりと終盤のくだりを確認すると、どうやら融合状態においても、部分的に相手の身体の特性を発現させていると思しき表現がある。というのも、この書物の最後のくだりにおいて、「姫」の外観のまま「翼」を生やして飛んでいる場面が描かれていたのである(もっとも、それがどこまで「事実に即した情報」なのかは分からないが)。
 その話を聞いた「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」は、相棒に向かって語り始める。

「実は、お前と組むようになってからは一度も使ってなかったのだが、我が一族の聖印には、特殊乗騎を作り出す力がある。娘達はその力を用いて鯨や梟に特殊な力を与えることで乗騎としているが、かつて私は『聖印そのもの』から『龍』を作り出そうとしていた。実際、それである程度までは成功出来たのだが、戦闘に耐える形まではいかなかった。つまり……」
「融合状態から、その聖印の力で『龍としての俺』を作り出すことが出来るかもしれない、ということか?」
「確証はないがな。もし可能だったとしても、おそらく邪紋使いとしての力を発揮することは出来ないだろうが、少なくとも、単純な乗騎としての役割程度は果たせるかもしれない」

 とはいえ、いずれにしても、今の時点でこれ以上話をしたところで、何も進まない。まずは明日、レディオスと実際に話をしてみた上で、今後の具体的な方針を決める、ということで話を終わらせ、ひとまず三人は(書庫の外で待っていた)シドウの案内で宿屋へと戻ることになった。

3.4. 「一つの前世」と「無限の来世」

 こうして、ようやく一筋の希望が見えてきたところで、フレドリクとラスクはそれぞれの相方の身体を労わりつつ、静かに就寝の床につく。そしてこの日の夜、再び「フレドリクの身体に入ったラスク」の夢の中に「天威星」の声が聞こえてきた。

《「望む未来」は定まりましたか、我が前世よ》

 その声に対して、改めて「フレドリクの身体に入ったラスク」は問いかける。

「今日、私の周囲で起きていたことは分かっているか?」
《全て把握しています》

 それはすなわち、彼がカイナに話した「真相」も聞いていた、ということになる。

「ならば、それを踏まえた上で、改めて聞こう。君が問いかけるべきは、本当に俺なのか?」
《それは間違いないです。最初に感じた違和感に関しては、おそらく今の身体が本来の身体ではないからでしょう。ただ、私のかすかな記憶では、私は君主だった筈。しかし、私が共鳴している魂は、間違いなくあなたです》

 天威星曰く、大毒龍と戦った百八の星は「三十六の天の星」と「七十二の地の星」から成り立っており、それぞれが「聖印の力」と「混沌の力」を宿しているという。そして天威星は確かに「天の星」であり、その前世は「聖印を用いる者」であった筈だと語る。

《ただ、あなたがこれから先、どういう経緯で『私』になるのか、もしくは、ならないのかも分からない。あなたのこれから先の人生の選び方次第で、あなたの先に私がいるのかどうかも分からない。「この時代における私の前世」は間違いなくあなたですが、「あなたから見た来世」は無限にあります》
「なるほど」
《そして仮にあなたの来世が私に繋がらなかったとしても、今の私が消えることはありません》
「並行世界の誰かが君になる、と?」
《というよりも、その場合は『最終的に私にならなかった未来のあなた』から見れば、私は『並行世界あなたの未来の姿』ということになります》

 もっとも、「並行世界」などという概念が本当に存在するのかどうかは、「今のラスク」にも「天威星」にも分からない。ただ、いずれにせによ、ラスクが今後進む未来の道の一つは確実に「天威星」に繋がっており、それが過去のこの世界に投影されたのが、「今のラスクに語りかけている天威星」ということなのであろう。

《あなたは最終的に邪紋使いに戻るのかもしれないし、何らかの特殊な力によって君主になるのかもしれない。力を失うのかもしれないし、その前に命を落とすかもしれない。どの未来のあなたを選び取るのかは、あなたの自由です》
「なるほど。よく分かった。では、答えようか」

 ラスクはここまでの話を踏まえた上で、「今の自分」として導き出した答えを伝える。

「少なくとも俺はこれから先、フレドリクと一心同体になることは間違いない。それならば少なくともその間は、フレドリクの望みを叶えるのが正解だろう」

 厳密に言えば、まだ「一心同体」になれると決まった訳ではない。だが、少なくともそうなった先の未来にこの天威星が存在しているのであろうとラスクは確信していた。

「だからこそ、俺の望みは単純だ。『混沌災害のない世界』、なぜならば、それを彼が望んでいるからだ」
《そしてあなたもそれに共鳴している、ということですね》

 天威星がそう告げると同時に、ラスクの心の中でその「混沌災害のない世界」の光景が広がる。そして、彼の目の前には「青白い星核」が出現していた。

《これが私の力の源泉、星核です。これを百八個結集させれば、間違いなく大毒龍を倒すことが出来ます。今の時点で、私と同じように、もともとこの世界に残っていた八つの星のうち、三つの星が目覚めました。残りの五人もいずれ目覚めることになるでしょう。そして、私達の前世であれば、その者が力を使ったのを見れば「懐かしい感慨」を抱く筈です。より正確に言えば、私の中の「懐かしい感慨」にあなたも同調することになるでしょう》

 立て続けに多くの情報を叩き込まれたラスクだが、なぜか彼の脳は素直にその情報を驚くほどあっさりと受け入れる。おそらくそれは「彼自身の分身体」の心から流れ出てくる情報だから、なのであろう。

「なるほど。とはいえ、この広大な世界でたった百八人、いや、俺を除いて百七人か。そう簡単に遭遇することはないだろう」
《えぇ、確かに。ただ、私は他の「もともとこの世界に残っていた八つの星」とも、ある程度精神感応出来るのですが……、既に目覚めている二人に彼等自身の「星の声」が届いたのは、「星の同胞」が近くに何人か集まった時だったようです。つまり、この街に近付くことであなたが私の声に気付いたということは、この街の中に何人かはいるのかもしれません》
「であるならば、ノルドの方にはいない可能性が高い、ということか」
《そうかもしれません。一人、二人くらいならいるのかもしれませんが》
「いずれにせよ、あまり期待はしないでくれよ。この「身体」の立場上、ノルドからあまり外には出れないからな」
《とはいえ、今の身体の状態で即座に帰る訳にもいかないでしょう。なるべく早く集まることを祈っています》

 そんな会話を交わしつつ、ラスクの魂は徐々に夢の世界から現実世界(のフレドリクの身体)へと戻っていく。そして目覚めた時には、確かに彼の手元には「青白い星核」が輝いていたのであった。

3.5. 不器用な聖者達

 翌朝、領主の館から、高級宿屋のヒューゴの客室に、領主の館からの伝令兵が到着。

「件のレディオス殿が見つかりました。直接お会いした方がいいと思うので、ご同行頂けますでしょうか?」
「あぁ、了解了解」

 ヒューゴはそう言いながら、まだ寝起きで気だるそうな様子で、出掛ける準備を始める。その様子に、同じ階に泊まっていたラーテンとマリベルも気付いた。先に廊下に出たラーテンが、既に自室を出た後のヒューゴに声を掛ける。

「あれ? ヒューゴさん、どちらへ?」
「あぁ、レディオスが見つかったらしいから、ちょっと領主の館に行ってくる」
「では、私達も同行します」
「そうか、悪いな」

 こうして、ラーテンとマリベルを伴って、ヒューゴは領主の館へと向かうことになった。

 ******

 ヒューゴが館に到着すると、すぐにエルネストとの謁見の間へと案内される。そこにはヒューゴに対して明らかに怯えた様子のレディオスの姿があった。最後に彼に会ったのはまだ彼が子供の頃ではあるが、明らかにその顔立ちにはその面影がある。

「申し訳ございませんでした!」

 レディオスは全力の大声でそう叫び、全力の勢いで頭を下げる。そして、それに対してヒューゴが何かを口にする前に、「事情」を説明し始める。

「大聖堂への絵画の件、大変光栄ではあったのですが、色々考えて、『今の私』では、教皇庁に絵を描く資格はない、教皇庁に不名誉な汚れを残してしまうことになる、そう考えてしまい、怖くなって逃げてしまったのですが、さすがにそのまま逃げ続けるのも不義理ですので……、こうして、直接お断りさせて頂くべく、参上させて頂きました。申し訳ありませんが、このお話、辞退させて頂けないでしょうか?」

 昨夜の宴におけるヒューゴの反応を見た上で、エルネストはあえてレディオスに直接話をさせる方針へと転換し、昨夜のうちにレディオスを説得して、このような機会を設けるに至ったのである。エルネストとしては「まだ技量に自信がないから」という理由を提案していたのだが、レディオスはあえて(打ち明けられる限界のところまで)「本音」を語ることにした。ヒューゴを目の当たりにした瞬間、彼を相手に中途半端な嘘でごまかすことはやめた方がいい、と本能的に察知したらしい。

「ふむ……」

 訝しげな様子でヒューゴはレディオスを凝視する。昔は教皇庁に絵を描きたいと思っていた彼が、『今の私』では出来ない、と言っていることには違和感を感じるが、明らかにこれは『レディオス自身の意思』で言っているようにヒューゴには思えた。最初は誰かに脅されて、そう言わされているかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。

(何か妙だが、俺が詮索しても、どうせ言わないだろうな……)

 明らかにレディオスが自分に対して萎縮しているのは分かる。そしてヒューゴは、自分が他人を萎縮させやすい気性であることも分かっている。

「資格がねえってことの理由については、言えねえってことでいいのか?」

 そう問いかけたヒューゴに対して、レディオスはすぐにでも逃げ出したい心を必死で押さえながら、懸命に、可能な限り丁寧な言葉で答えようと模索する。

「私は今でも、唯一神様への信仰を捨てているつもりはありません。しかし、今の私は何が正しいのか分からなくなっているのです。唯一神様の教えに関しても、様々な解釈が存在している。そんな中で、今の私の生き方が、本当に唯一神様の教えに合致しているのか、それが見えなくなっているのです。今の私の生き方は、もしかしたら唯一神様の教えに反しているのかもしれない。そう考えると、この迷いを抱えた状態のまま、教皇庁の多くの方々の目に止まる大切な絵を担当することは、私には出来ないのです」

 少なくとも、嘘は言ってない。全て彼の心の底からの本音である。仮にこの場にカイナがいたとしても、そう判断しただろう。だが、具体的なことは何も言ってない。彼にとっては、これが打ち明けられるギリギリの限界線なのである。

「じゃあ、もう一つ聞く。それは『エリンにだったら、言っていいこと』なのか?」

 教皇庁に務めるヒューゴの妹のエリンとは、レディオスもある程度は面識がある。豪快な気性のヒューゴとは対照的に、エリンは繊細な人柄で知られており、彼女は混沌に対してもある程度寛容だが、そこまではレディオスは知らない。

(確かに、あのお優しそうなエリン様なら、許してくれるかもしれない。だが、それを堂々と口にして良いのか……)

 しばらく考えた上で、レディオスは訥々と語り始める。

「そうですね……、話す相手によって語る言葉が変わるというのは、それは不実なことですよね……」

 この時、レディオスの中では、何かがふっきれたような気分になっていた。彼としては、本音は言いたくないが、嘘をつくのもよくないという心境だったのが、ここはあえて「全ての本音」を曝け出すべきではないか、という思いへと切り替わっていったのである。

「分かりました、お話しします!」

 彼がそう叫んだ直後、今度はヒューゴがそれを静止する。

「相変わらず、正直者だな。お前がそれを隠していることで、俺の兄貴や妹や姪っ子に傷つくなら、黙ってはいられないんだが……、まぁ、あれだ、言えない理由があるのは分かったけど……、あー、うまく言えねえなぁ……、とにかく、お前が、もし、それを隠していることで、俺の身内に危害が及ぶことにあにったら、その時は、てめえの脳味噌を叩き潰す!」

 ヒューゴとしては、別にそこまでレディオスの事情が聞きたかった訳ではない。ただ、何らかの後ろ暗い陰謀がその背後に蠢いている可能性を疑っていただけである。そして、彼のこの疑念に対しては、レディオスは再び全力の大声で答えた。

「はい! それは、どう考えてもありえません!」
「じゃあ、お前のこと信用するから。ったく、帰ってまた怒られてくるわ」
「本当に、申し訳ございません!」

 レディオスは全身全霊の力を込めてそう叫び、改めて再度深々と頭を下げる。そんな彼等のやりとりを、エルネストも、マリベルも、ラーテンも、(内心では冷や汗を流しつつも)ただ黙って見守っていたのであった。

3.6. 画家との密約

 一方、前日の朝から夜までひたすら交渉と魔法詠唱に忙殺されていたカイナは、既に心身共に限界だったようで、この日の彼女の扉の取っ手には、ブレトランド式の表記法で「Don’t disturb(起こすな)」と書かれた札がかけられていた。

「さすがに無茶させすぎたか。ならば、今日の交渉は俺の仕事だな」

 その札を見た「フレドリク(の身体に入ったラスク)」は、ひとまずまずレディオスと話をするために、「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」とシドウを連れて領主の館へと向かうことにした。
 そして、ちょうど彼等が館の前まで来たところで、何やら複雑な表情を浮かべたヒューゴが館から出て来る。それに気付いた「フレドリク」と「ラスク」は一瞬焦るものの、今のヒューゴはレディオスの件で頭がいっぱいであったため、彼等の存在にも気付かぬまま、ラーテン、マリベルと共にそのまま通り過ぎて行く。

「世話をかけたな」
「いえいえ、こちらこそ、このような結果になってしまい、申し訳ございません」

 ヒューゴはラーテンとそんな会話を交わしつつ、そのまま(イスメイアへ帰ることを前提に)ひとまず宿屋へと向かう。
 そんな彼等を横目に、「フレドリク」と「ラスク」は館の中に入り、カイナから「事情」を聞いている旨をエルネストに伝えると、しばらくしてレディオスがその場に現れる。

(殺されなかったということは、何らかの妥協点は見出したんだろうな……)

 「フレドリク」はひとまず彼の身柄が無事だったことに安堵しつつ、彼がカイナからある程度の事情を聞いているであろうという前提で話をする。

「立て続けにすまない。フレドリク・リンドマンだ。そしてこちらが、私の従者のラスクだ」

 レディオスに対してそこまで言ったところで、今度はシドウとエルネストに視線を向ける。

「ちょっと彼と立て込んだ話がしたいので、場を外してほしいのだが、可能だろうか?」

 その発言に対して、エルネストは一瞬、警戒したような表情を浮かべるが、すぐに「フレドリク」は付言する。

「彼の身の安全に関しては、私が率先して守る所存なので、その点は安心してほしい」

 そう言われたことで、エルネストもひとまず同意する。もともと、この件に関しては「フレドリク」が連れてきたカイナのおかげでここまでの状況が確認出来たという事情もある以上、エルネストとしては彼からの要求に抗える立場でもなかった。
 こうしてエルネストとシドウが部屋から去ったのを確認した上で、「フレドリク」はレディオスに語りかける。

「君がここでこうして生きている以上、ヒューゴとの交渉も終わったのだろう」
「はい」
「そして、君がここにいることをヒューゴも認めてくれたのだろう」
「はい」
「そうでなければ、君は無理矢理連れ去られているか、この世にいないか、だ」
「はい、その通りです。ヒューゴ様は……」
「『兄』として言わせてもらうと、彼はそこまでの考えなしではないが、そこまで考えている訳でもない」

 おそらくその評価に関しては、ある程度ヒューゴのことを知っている者であれば、誰でも同意するところであろう。その上で、「フレドリク」は改めてレディオスに問いかけた。

「さて、一つ確認したいのだが、『あの本』の内容は全て読んでいるのだな?」
「はい、それはもちろん」
「であるならば、彼に協力を頼む以上、妙な憶測を立てられるよりは、素直に話した方がいいだろう」

 それに対して「ラスク」も頷いたのを確認した上で、「フレドリク」は全てをレディオスに説明する。

「……なるほど、そういうことでしたか。それならば、例の『特殊な鶏の怪物』の生き血をもう一度手にいれることが出来れば、私でもその『魔法陣』を作ることは出来るかもしれないです」
「こちらとしては、君にすがるしかないんだ。君が実際にその特殊な鶏の怪物の生き血を用いてその魔法陣を描いて、それで何も起きなかった場合は、また別の方法を考えよう。その場合でも、君が責務を果たしてくれるのならば、私達が君に危害を加えることは一切ない。それは保障しよう」
「はい、分かりました。ただ、出来れば、その私と、我が妻の……、あ、いや、そこまでは言えた立場ではありませんね……」

 彼の言いたいことは理解したが、それに関しては「フレドリク」も、現時点で確約までは出来なかった。

「協力の見返りとして、ある程度まで匿うことも可能ではあるが、その結果として聖印教会に目をつけられることは、こちらとしても望んでいる訳ではない、ということは理解しておいてもらいたい」
「分かりました……」

 レディオスは微妙な表情を浮かべるものの、現実問題としてノルドにも投影体全般を嫌う人物はいる以上、これ以上のことは「フレドリク」には言えない。とはいえ、カイナの話を聞く限り、「レディオスの妻」は傍目には「普通の人間」にしか見えない外見らしいので、あえて積極的に他人に紹介するようなことがなければ、よほどバレることはないだろう。
 その上で、レディオスは以前に「特殊な鶏の怪物」の生き血を入手した時の事情について語り始める。以前に彼がマリベルと共に討伐に赴いた先は、パルテノから見て南方に位置する山岳地域であり、その地域には昔から同じような怪物が周期的に出現する傾向があるらしい。彼が以前にこの街の蔵書室で調べた情報によれば、魔法師が混沌濃度を調整することによって、その周期を操作することも出来るという。レディオスはその情報が書かれた本の書物の名前も覚えていたので、カイナがその方法を的確に用いれば、召喚魔法師ではない彼女であっても、意図的に任意のタイミングでその怪物を出現させることも可能かもしれない。
 ただ、その書物の記録によると、その地域に出現する「特殊な鶏の怪物」は時期によって大きさもバラバラで、極稀に極めて巨大な鶏が出現することもあるらしい。彼がマリベルと同行した時は、人間よりもやや小柄な怪物が数体現れていた程度だったので、彼女が連れていた一部隊だけでどうにかなったが、仮に今回、カイナの力を借りて召喚に成功したとしても、その時と同程度の個体が出現するかどうかは分からない。
 そこまで告げた上で、レディオスは申し訳なさそうにこう言った。

「私は一介の画家ですので、戦力にはなりません」
「むしろ、君を連れていって死んでもらったら、こちらも困る」
「はい。それに、お二方がどれほどの方々なのかも分かりません……。あ、いや、もちろん、御高名は伺っておりますが、正直、その、政治にも軍事にも疎いもので……、仮にマリベル様のお力を『1』だとした場合、お二人のお力が『10』なのか『100』なのか『1000』なのかも分からないのです」
「だろうな。それに、現れる鶏の強さもはっきりしないのだろう? だとすると、可能な限り戦力を整えて臨むべきだろう」

 実際のところ、この二人が全力の状態で本気を出せば、マリベルやラーテンが束になってかかっても叶わない程度の実力はある。だが、今の二人の状態では、本来の聖印や邪紋の力の極一部しか引き出せない。
 そうなると、当然、応援を頼める者には頼みたい。とはいえ、緊急性を要する上にあまり表沙汰に出来る話でもない以上、今からノルドに援軍を求めるのは難しい。そうなると、今のこの場で頼める面々に協力を仰ぐしかないだろう。カイナの手を借りるのは大前提として、自分達と彼女だけで足りるかどうかと言われると、かなり不安ではある。とはいえ、今はどうにかして戦力を整えた上で、その方法を試してみるしかない。

「分かった。なんとかして、君の元へ鶏の血を持って来よう。その上で『魔法陣』を描いてくれる、ということでいいか?」
「はい」
「その見返りとして、少なくともその間の身辺の安全は保障しよう。そこから先に関しては、君の環境にも影響してくることだが、場合によってはノルドで保護することも検討しよう。もう一度、巻物の力が必要になることもあるかもしれないしな」
「分かりました」

 こうして、「融合の魔法陣」を生み出すための三条件のうち、「巻物」と「画家」については、どうにか確保出来た。これで、残る問題は「インク(を作るための材料)」だけである。

3.7. 「明かせる者」と「明かせない者」

 今の「フレドリク」と「ラスク」にとって、カイナ以外で戦力として最も頼りになるのは、間違いなくヒューゴだろう。ヒューゴに対して「魔物が現れたから、倒すのに協力してくれ」と言えば、おそらく彼は特に理由も聞かずに手伝ってくれる。ただ、何の説明も受けないまま、彼が戦場で「本来の力を発揮出来ない状態のフレドリクとラスク」を目の当たりにした場合、間違いなく不信感を覚えることになる。
 更に言えば、ただ単に「混沌災害が発生したから」という理由だけで彼を連れて行ったとして、最悪の場合、こちらが意図的に投影体を出現させようとしているということに彼が勘付いてしまう可能性もある。何の説明もなくその状況に気付かれてしまった場合、聖印教会の一員として、見過ごすことは出来ないだろう。その点も含めて、事情を説明せずにヒューゴを同行させることには危険性が伴う。
 しかし、それでも「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」はあえて「フレドリク(の身体に入ったラスク)に対して、こう言った。

「だが、敵の総戦力が分からない以上、やはりヒューゴの力は必要だろう」
「……あぁ。今は、あの『劇薬』がほしい」

 二人はそう覚悟した上で、ひとまず宿屋に戻り、ヒューゴの部屋へと赴く。既に帰り支度をほぼ済ませていたヒューゴは、深刻な表情を浮かべながら現れた二人からただならぬ気配を感じ取りつつ、部屋の中へと招き入れる。そして二人は、部屋の中に他に誰もいないことを確認した上で、ヒューゴに対して深々と頭を下げた。

「今まで黙っていて、すまなかった! 話して信じてもらえるかは分からないが……」

 「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」にそう言われたヒューゴは困惑するが、つい先刻似たような状況に遭遇していたこともあり、それなりに落ち着いた様子で答える。

「いや、いいよ。俺に話すと外に漏れると思ったから、黙ってたんだろ? いいよ。そのまま黙ってろ」

 ヒューゴも、自分が隠し事が苦手であるという自覚はある。その上で、自分が敬愛する兄とその側近がここまでしている以上、それが「絶対に表には出せない情報」であろうことはすぐに推察出来ていた。ならば、あえてその秘密を暴こうという気はない。「フレドリク(の身体に入ったラスク)」はその配慮に感謝しつつ、改めて頭を下げる。

「すまなかった、本当に申し訳ない」

 だが、「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」は、それでもあえて、ここはヒューゴに対して秘密を打ち明けるべきだと考えた。中途半端な情報から誤った憶測に辿り着かれる危険性を考えると、むしろこの時点で全て話しておいた方が安全だと判断したのである。更に言えば、そもそも彼の中では「カイナに話したことをヒューゴには話さない」という状況が、やはり兄として、どうしても不義理に思えてしまったらしい。
 それ故に「ラスク(の中に入ったフレドリク)」はあえて、ここに至るまでの「自分」と「相棒」の状況について、全てそのままヒューゴに説明した。

「……信じられないかもしれないが、そういう状態なんだ」

 ヒューゴは驚きつつも、横にいる「フレドリク(の中に入ったラスク)」が完全にその話に同意している様子を見て、素直に信じることにした。わざわざ二人して、ここでそんな意味不明な嘘をつく必要性も感じられなかったのであろう。

「あぁ、よく分かった。とりあえず、その鶏退治に付き合えばいいんだな?」

 ヒューゴにしてみれば、どんな事情があるにせよ、今はその怪物を倒せばいい、という話なのであれば、それ以上の詳しい説明はいらない。むしろ、自分がこれ以上余計なことを考えたところで、事態が好転するとも思えなかった。

「すまない、本当に助かる」

 「フレドリク(の中に入ったラスク)」が改めてそう言って頭を下げたところで、「ラスク(の中に入ったフレドリク)」は、端的にヒューゴに「任務内容」を伝える。

「とりあえず、お前の仕事は『目の前に現れた混沌を叩き潰すこと』だ」
「あぁ。周りの雑魚は適当に片付けるから、あとは頼む」
「いや、むしろ、最終的に持ち帰る都合上、『雑魚』を残してくれた方がいいんだ。だから、お前は、より厄介そうな敵から先に倒してくれ」
「なるほどな、了解した」

 こうして、「フレドリク」と「ラスク」は、現時点において手に入れられる最強の戦力を、無事に確保することに成功したのであった。

 ******

 その上で、今度は彼等は自分達の護衛を務めているシドウにも協力要請を伝える。あまり現地の人々の力を借りるのは望ましい話ではないが、一方で猫の手でも借りたいというのが今の本音ではあるし、そもそもこの状況で「客人が勝手に村の近くの投影体の討伐を始めようとしている」となれば、彼が何もせずに黙ってその状況を見過ごしてくれる筈もない。
 とはいえ、あまり詳しい事情を話したくない「フレドリク」としては、ひとまず「『特殊な鶏の怪物』を生け捕りにする作戦に協力してほしい」という話だけを伝える。だが、それに対して、シドウは怪訝そうな顔で問い返す。

「……鶏の血を手に入れた上で、巻物に何を描くつもりですか?」

 このシドウの返答から、どうやら彼も夢巻物のことを知っているらしい、ということを理解した「フレドリク」は(まだカイナが就寝中であったため、彼がどこまで知っているのかを確認出来なかったこともあり)、言葉を濁しながら説明しようとする。

「少なくとも、レディオスの許可は得た。あくまでも、彼が『描いてもいい』と判断したものを描いてもらうつもりだ」

 つまり、彼を脅して私利私欲のために使おうとしている訳ではない、という意図を伝えようとしたのだが、昨日の時点でカイナから散々「危険性」を強調されていたシドウとしては、それでも引っかかるところではある。

「それならば、彼がその血を用いて『何か』を描く現場に、立ち会わせてもらえますか?」

 街の安全を守る警備隊長としては、そこまで要求するのも当然の権利であり、義務でもある。そして、さすがにそこまで言われたのならば、「フレドリク」としてもこれ以上の隠し立ては不可能と判断し、目線で「ラスク」に対して「話した方がいいか?」という目線を送ると、「ラスク」は頷きながら答える。

「そもそも、あの巻物自体、彼等が見つけてくれたものだしな」

 相棒の許可を得たことで、「フレドリク」は改めてシドウにも一通りの事情を(極力、この話を広げないように、と釘を刺した上で)説明する。当然、シドウは困惑した。

「ということは、こちらの『身体がフレドリク様』の方が、『心はラスク殿』で、そして……」

 彼が「ラスクの身体」を指した時点で、「今のその身体に宿っている魂」が答える。

「あぁ、私の方がフレドリクだ。と言っても、初対面の君からしてみれば、どちらでも大差はない話であろうが」
「そうなると、その、私としては……」

 シドウは言いにくそうな表情を浮かべながら、言葉を選びつつ、話を続ける。

「……どちらもお守りしたい、という気持ちはあるのですが、その……」

 この時点で「ラスク」は、彼の言いたいことに気付く。

「あぁ、どちらを優先すべきか、という話か」

 シドウは「フレドリクの護衛」を命じられている。故に、この状況においては、確かにそれは悩ましい問題であろう。それに対しては「フレドリク」と「ラスク」が、それぞれに答える。

「それについては、基本的には『私』が危機になった時は『下の龍』が庇う。そのことを踏まえた上で、状況を見ながら判断してくれればいいし、他の面々を優先的に守ってくれてもいい。俺の『龍としての身体』は無駄なまでに丈夫だからな」
「今まで君は多くの人々を守ってきた立場である以上、戦場において、どちらがより危険な状態にあるかの判断力は、君の方が高いだろう。だから、君の判断を信用する。もちろん、我々だけでなく、ヒューゴやカイナを優先的に守ってくれて構わない」

 現実問題として、仮に鶏型怪物の大群との乱戦状態になった場合、「フレドリク」や「ラスク」よりも、まず優先的に守るべきは、自衛の手段を殆ど持たないカイナであろうし、状況によっては無闇に敵陣の中央に突入しかねないヒューゴを優先的に守った方が良いこともあるだろう。その辺りの状況判断に関しては、歴戦の警備隊長に委ねることにした。

 ******

 一方、イスメイアに帰ろうとしていたヒューゴが、突如として「鶏退治に行く」と言い出したことにマリベルとラーテンは当然驚くが、そう言われた時点で、この二人が採るべき道は明白であった。

「そういうことなら、行かなきゃいけないわね」
「なんかよく分からないけど、そうだな。脅威は退治しなきゃいけないし」

 二人はあっさりとその方針で一致した上で、ラーテンは同じ宿屋に泊まっていたシドウにもその旨を伝える。この時点でシドウは、ラーテンには「鶏退治の目的」が伝わっていないことを察しつつ、かと言って自分の一存でフレドリク達の事情を話す訳にもいかないため、ひとまずは一点だけ、釘を刺すべきところは刺しておくことにした。

「ラーテン殿、今回の戦いでは、全ての鶏にとどめを刺すのはまずいそうです」
「どういうことだ? その鶏の怪物は脅威なんだろ? だったら、とどめを刺さないと、また襲って来るかもしれないじゃないか」

 全くもって正論なのだが、この世界の投影体は、絶命した時点でこの世界から消滅してしまうため、「鶏の血」を手に入れるには、生かした状態で捕獲した上で生き血を抜き取る、という精密作業が必要となる。ひとまずシドウとしては、なんとか意図をごまかしつつ、その作戦の目的を理解してもらうしかない。

「今後の対策のために、生け捕りにする必要があるらしいので」
「あぁ、そういえば、前にマリベルもそんなことを言ってたな……。了解。そういうことなら、やりすぎないように気をつけよう」

 こうして、ラーテンとマリベルには「フレドリク達の事情」も「夢巻物の存在」も一切知らされないまま、二人ともなし崩し的に合流することになった。

 ******

 やがて、昼過ぎまで熟睡したことで気力と体力を全快させたカイナが目を覚ますと、「フレドリク」は彼女に午前中の諸々の出来事を説明した上で、レディオスが所蔵庫で見つけた「パルテノ南部地方の混沌濃度を調整する手法」が記された書物を手渡す。カイナがその内容を確認したところ、どうやらあの区域は特定の場所でタイミングを合わせて混沌濃度を上下させることによって、件の「特殊な鶏の怪物」を出現させることが出来るらしい。
 それが人為的に(数百年前の魔法師によって?)構築された仕掛けなのか、それとも偶然に発見された法則性なのかは不明であるが、もしここに書かれている内容が本当であれば、確かに最後の条件である「インクの原料となる鶏の生き血」を手に入れる道も開けそうではある。
 意図的に混沌災害を引き起こすということは、エーラムの理念としても、パンドラ均衡派の理念としても、あまり望ましい手法ではないのだが、今のカイナにしてみれば、前者の立場としても「契約相手の父を救うため」ということであればそれなりの免罪符となるし、後者の立場としても、首魁であるマーシーから「フレドリクの身を守れ」という厳命が下っている以上、この状況で協力を拒む理由はなかった。

3.8. 巨大鶏

 そしてこの日の夕方、「フレドリク」、「ラスク」、カイナ、シドウ、ヒューゴ、ラーテン、マリベルの七人は、「以前にマリベル隊が鶏の怪物と遭遇した場所」へと足を踏み入れた。カイナが「近辺の気配を探知する」という名目で他の人々から離れた上で、書物に記されていた複数の場所で指定通りの混沌濃度を上下させてみると、確かに「以前にマリベル達が遭遇した場所」で、複数の投影体が収束する気配を感じ取る。
 だが、遠方からその様子を確認していたマリベルは、驚愕の表情を浮かべる。

「な、なにあれ!? 私が前に来た時は、あんなのいなかったわよ!」

 彼等の視界に現れたのは、無数の「人間よりやや小さな『小型の鶏の怪物』」と、数体の「長身の人間(ヒューゴ)よりも大柄な『中型の鶏の怪物』」と、一体の「少なくとも二階建て以上の建物並の体高の『巨大な鶏の怪物』」という、なんとも不気味な集団であった。
 いずれも外見の形状そのものは(オリンポス界のコカトリスなどとは異なり)通常の鶏と大差ない(下図)。だが、彼等の目はどこか不気味で、目の前にいる武装した人間達を蔑んでいるようにも、挑発してるようにも見える(なお、以前にマリベルが討伐に来た時は「小型の個体」が数体程度現れていただけだったらしい)。


 最初に動いたのは、その中央に鎮座する巨大な鶏であった。彼(?)は具現化と同時に、その巨大な嘴の奥から不気味な鳴き声を叫ぶ。それが明らかに人体に対して悪影響を及ぼす音波であることを察した「ラスク」は、瞬時に自身の「龍」としての身体を防壁のように広げて皆を庇うことで、彼以外にはその音波が届く前に遮断することに成功するが、その直後に「ラスク」の身体は完全に石のように硬直してしまう(それは、一般的なコカトリスがもたらす「石化」と同等以上の効果であった)。
 しかし、「ラスク」は即座に自分自身の硬直した身体の外皮を内側の筋肉を用いて弾き飛ばすことで、身体の自由を取り戻す。これは、いわば自らの身体の一部を自ら破壊する程の荒技であり、通常の人間であれば、その痛みに耐えられず即死する程の激痛が「ラスク」の全身に走るが、「ラスク」はそれでも平然とした状態で仁王立ちしつつ、その身体を完全に「龍」へと変化させ、その背に「フレドリク」を乗せる。

(俺の身体は、その程度で壊れたりしない。そうだよな、相棒)

 「フレドリク(の身体に入ったラスク)」が内心でそう呟く中、今度はカイナが自陣営の面々に対して敵の先手を打って踏み込めるタイミングを的確に指示しつつ、彼等の突入の直前に鶏達が集まっている空間そのものを一瞬だけ切り取り、その内側に高周波共鳴を引き起こすことで、高熱と紫電を走らせる。これは時空魔法の中でもかなりの大技であり、その発動にはカイナも苦戦したが、どうにか無事に成功し、鶏達の身体は激しく損傷する。だが、それでも彼等はまだ倒れずに、人間達に対して闘志を向け続けていた。
 そしてこの時、「フレドリク」はカイナの身体から「懐かしい気配」を感じる。より正確に言えば、それは彼の魂に憑依した状態にある「天威星」の記憶への共鳴であった。

(そうか、彼女が……)

 「フレドリク」はそのことに気付きつつも、まずは目の前の脅威を排除することを優先し、カイナの指示したタイミングに合わせて、「ラスク」に乗った状態で、鶏達に向かって激しい足音を響かせながら走り込んでいく。

(えぇ!? 飛ばないのかよ!)

 その様子を見ていたラーテンは、思わず内心でそう叫ぶ。彼の中では龍とは「空を飛ぶ巨大な蜥蜴」であり、実際に「ラスク」の身体には翼も生えていただけに、その光景には強烈な違和感を感じてしまう。無論、「本来のラスク」であればその翼を生かして空を飛ぶことも可能なのであるが、「今のラスク」の中にいるフレドリクの魂では、ラスクの邪紋の力を完全な形で発現させることは出来ず、翼を動かす力までは使いこなせていなかったのである。

(飛ばない龍は、ただの蜥蜴だろ……)

 無論、そんなことを思っていても、口に出せる筈はない。そして実際のところ、本来の力の一部しか発揮出来ない状態でありながらも、「ラスクに騎乗したフレドリク」の実力は到底「ただの蜥蜴」などと呼べる程度の代物ではなかった。彼等は巨大鶏の眼前まで踏み込むと同時に(「フレドリクの聖印」によって強化された)「ラスク」の口から強大な火炎流を放ち、既に満身創痍になっていた小型の鶏達の大半を焼き払い、まだ余力を残していた巨大鶏や中型鶏達にも大打撃を与える。
 そんなフレドリクに合わせてマリベルもまた敵陣へと切り込んでいく中、重装備に身を固めたヒューゴは(事前に頼まれていた通りに)一番厄介そうな巨大鶏へと自ら斬り込もうと目論見ながらも、自分の足では一気にそこまで駆け抜けることは難しいということを実感し、表情を歪ませる。そんな彼の表情を瞬時に読み取った「接待係」のラーテンは、ヒューゴに小声で伝える。

「飛びますか?」

 この時、ヒューゴは昨日のラーテンが用いていた物体浮遊の魔法を思い出す。

「出来るのか?」
「えぇ。任せて下さい」

 ラーテンはそう言うと、静動魔法でヒューゴの身体を宙に浮かせる。自分の身体が急激に身軽になったことを実感した彼は、すぐさま巨大鶏(およびその周囲の中型鶏)へと向かって駆け込んだ上で長斧を振り回し、その刃の直撃を受けた鶏達は激しいうめき声を上げるが、それでもまだ彼等は倒れない(そしてこの時点で、「フレドリク」はラーテンとヒューゴからも「星の記憶」による共鳴を感じ取っていた)。
 その直後、今度は更に立て続けにカイナが時空魔法師固有の特殊な能力を用いて、「フレドリク」の周囲の時間の流れを操作する。

「今です! もう一撃、お願いします!」

 カイナによって本来の時空の流れを無視した動きが可能となった「フレドリク」は、即座に巨大鶏に向かって特攻して鋭く槍を突き刺すが、まだそれでも巨大鶏は倒れそうな気配すら感じさせない。
 そして、直後に巨大鶏は自身の「飛べない翼」を羽ばたかせて突風を起こすことで、後方にいたカイナ、ラーテン、シドウを吹き飛ばそうとするが、カイナが次元断層を作り出してその勢いを緩和させつつ、シドウがシドウが身を以てカイナを庇う。一方、ラーテンはその衝撃を静動魔法師固有の力で和らげつつその身に受け、その上でその風圧の一部を巨大鶏に対して跳ね返す。
 そして、この時点で生き残っていた中型の鶏三羽は「ラスクに乗ったフレドリク」とヒューゴに襲いかかろうとするが、「ラスクに乗ったフレドリク」は反射的にその場から離脱した結果、ヒューゴが一人でその三羽による鋭い嘴によって集中攻撃されてしまう。この時点で、シドウが走り込んで守るには距離が開きすぎており、カイナやラーテンの魔法の射程範囲からも外れていた結果、誰もヒューゴを守ることが出来ず、鶏の猛攻を一身に受けたヒューゴは、その場に倒れ込んでしまった。

(しまった! 俺が残って、鶏の攻撃を分散させるべきだったか……)

 「フレドリク」がそう悔やむ一方で、シドウもまた、(自分の直接的な護衛対象ではないとはいえ)ヒューゴを守れなかったことに激しく動揺するが、現実問題として、シドウがヒューゴを守れる位置にいた場合、先刻の巨大鶏の突風によってカイナは命を落としていた以上、状況的にこれはシドウの手では防ぎようのない事態であった。

(大丈夫、まだ息はある)

 ラーテンは遠目にそのことを確認した上で、すぐさま回復魔法をかけようと試みるが、その前に巨大鶏から二度目の突風攻撃が彼等に向かって放たれる。これに対して、カイナは神がかり的な動きでその風圧の死角へと逃げ込む一方で、シドウは今度はラーテンを庇うことでその身を激しく消耗させつつも、そこから自身の破損した身体の一部に混沌の力を込めて巨大鶏に対して弾き返し、その禍々しき呪いのような力によって、遂に巨大鶏は混沌核を破壊され、彼等の目の前から消滅していく(そして、このシドウから放たれた特殊な力に対しても、「フレドリク」の中の天威星は反応していた)。
 その直後、ラーテンは即座にヒューゴに回復魔法をかけて起き上がらせ、その間に生き残っていた小型・中型の鶏達はマリベルと「ラスク」によって次々と倒されていく。そして、最終的にはかろうじて生き残っていた中型鶏を全員で取り囲んで瀕死の状態まで追い込んだ上で、どうにか生きたまま捕獲することに成功したのであった。

3.9. 目覚めゆく星々

 こうして、無事に中型鶏の捕縛に成功した彼等は、主にマリベルとヒューゴの手でその場に残っていた鶏達の混沌核を浄化しつつ、事前に用意していた台車に中型鶏を縛り付けた上で、パルテノへと帰還の途に就こうとする。
 だが、「フレドリク」はこの時点で、「話すならば今しかない」と決意した上で、彼等に対して「大毒龍の復活」と「百八の星核」の話を告げることにした。

「すまない、今から少し、話をさせて欲しい」

 この話については、極力広めないようにという通告をされている。その意味において、星の力を感知出来なかったマリベルがいる前で話して良いものかどうかは判断が難しいところではあったが、彼女の契約魔法師であるラーテンから「星の力」を感知した以上、いずれ彼が戦いに赴くことになるのであれば、その契約相手であるマリベルにもそのことを理解してもらった方が良い、という思いもある。
 そして実はこの場にもう一人、「星の力が感知出来なかった人物」がいる。「ラスクの身体に入ったフレドリク」である。自分とはまた別に彼にもその力が宿っている可能性はありえたが、間近で見ていた彼の魂が邪紋を用いている時にも、その力は感じられなかった。とはいえ、いずれにせよ彼と今後も行動を共にすることになる以上、その「相棒」に話を通さない、という選択肢は最初からありえなかった。

 ******

「……ということで、この世界を救うために『君達四人』にも、この『星核』を作り出してほしい」

 「フレドリク」は一通りの話を伝えた上で、ヒューゴ、カイナ、シドウ、ラーテンの四人に対してそう告げつつ、彼等の目の前に自らの「青白い光を放つ星核」を出現させる。聞かされた彼等は当然の如く困惑するものの、ノルドの重鎮である「フレドリク」が、このような突拍子もない話を意味もなく話すとも思えない以上、半信半疑ながらも、真剣にその話に耳を傾け続けた。
 そして話を終えた時点で、最初に口を開いたのはシドウであった。

「その話が本当だとすれば、一刻も早く、他の人々を探すべきなのでは?」

 シドウがそう考えたのは、先刻の戦いの際に、あやうくヒューゴを死なせかけてしまった、という記憶が鮮明に残っていたからである。いかに屈強な聖印や混沌の力を持つ者であろうとも、一歩間違えばいつ命を落とすか分からない、ということを改めて痛感した彼は、残りの百人以上の人々が、力を覚醒させる前に命を落としてしまう可能性を危惧していたのである。

「あぁ、その通りだ」

 「フレドリク」は即答する。その上で、皆がその「星核」を覚醒させるにはどうすれば良いのか分からずに困惑する中、天威星が再び「フレドリク」に声を掛ける。

《あなたの身体と触れることで、他の人々の心の中の星核も目覚める筈です》

 改めてそう言われた「フレドリク」は、まずは「身内」であるヒューゴに近付き、そして彼の心臓部分に手を当ててみた。すると次の瞬間、ヒューゴの身体の中に「何か」が駆け巡り、そして彼の脳裏に(「フレドリク」の中の天威星と同じような)「声」が聞こえてくる。

《あなたの望む未来を想像して下さい》

 ヒューゴは困惑しつつも、先刻の「フレドリク」の話の中で、説明されていた「四百年前に現れた大毒龍ヴァレフスの再来」という言葉から、その時に戦った「英雄王エルムンド」のことを知る者が「自分の頭上」にいることを思い出し、おもむろに自分の被っている「聖兜アーウィン」を軽く叩いてみる(この兜の正体についてはブレトランドの光と闇6を参照)。

(四百年ぶりだな、この感覚……。これはまさに、英雄王エルムンド様と、そして彼と共に戦った七人の騎士達から感じられた力だ……)

 兜からそんな感慨が伝わってきたところで、ヒューゴは改めてこの「今の自分の中に流れ込んできた力」が「本物」であることを確信する。その上で、彼はその「本物」の声に対して、心の中で「答え」を模索する。

(俺が望む未来か、そうだな……、俺は家族が幸せなら、それでいい)

 ヒューゴの脳裏でその考えがまとまった瞬間、彼の目の前に青白い星核が現れる。そしてこの瞬間、彼の来世である「天慧星」が天空に蘇ったのであるが、まだ陽が完全に落ちきっていない今の時点では、その星の輝きに気付く者は誰もいない。
 だが、少なくとも目の前で同じように「星核」という未知の力が生み出されるのを目の当たりにしたことで、それまで半信半疑だった他の面々の意識は明らかに変わる。

(本当の話だったんだ……)

 ラーテンは内心でそう呟きつつ、ひとまず、無言で「フレドリク」の前に差し出し、握手をするように右手を差し出す。すると、「フレドリク」も素直にその手を握り返し、そしてラーテンの身体の中に、彼の来世である「地威星」の声が響き渡る。

《あなたの望む未来を想像して下さい》

 それに対して、ラーテンは素直に自分の中の想いを心の中でまとめようとする。

(俺はバカだから、難しいことは分からないけど……、皆が笑っていられる世界がいいんじゃないかな)

 彼が心の中でそう願った直後、(彼の改造制服と同じような色の)赤い星核が彼の前に現れる(なお、「フレドリク」や「ヒューゴ」との「色の違い」については、この時点で特に言及する者は誰もいなかった)。
 その様子を確認した上で、今度はシドウが、自らの掌を「フレドリク」の前に差し出すと、「フレドリク」も自らの掌を彼に合わせる。そして同様の声がシドウの心に響き渡る中、彼も彼で自分の中に眠る(日頃はあまり表に出さない)本能的な感情を呼び起こそうとする。
 彼の中で最初に思い浮かんだのは、一年以上前にコートウェルズで再開した時の、異父妹ソニアの笑顔であった。

(ソニア、結婚していたんだな……)

 そんな直近の出来事思い出しつつも、今の自分にとっての「最も優先すべき願い」は何か、ということを改めて問い直す。

(妹には幸せになってほしい。だが、もっとそれ以上に今は……、自分が仕えているアントリアの人々を守っていきたい)

 既に自分とは異なる道を歩んでいるソニアへの肉親としての感情とは別次元で、「今の自分」として目指すべき未来はそこにある、という決意をシドウは固めた。その直後、彼の目の前にはラーテンと同じ赤い輝きを放つ「地英星」の星核が現れる。
 こうして三人が自身の「星核」を覚醒させていく中、「フレドリク」から「星核の前世」として認定されなかったマリベルは、そのことに対して微妙に納得いかない様子で、やや俯き加減に独り言を呟いていた。

「どうして私じゃないんだろう……、私ならきっと、ラーテンと同じかそれ以上に、皆の役に立てるのに……」

 その答えは誰にも分からない。誰が「該当者」なのかについては、天威星達自身も含めて、誰一人としてその因果関係が推察出来ないのである。そして、口にこそ出さないものの、「ラスクの身体に入ったフレドリク」もまた同じ想いを抱えていた。
 一方、カイナは彼等に「星核の力」が伝授されている間に、密かに時空魔法師特有の能力を用いた上で、「世界の行く末を知りたい」という彼女自身の強固な信念の力に基づいて、「これらの『星』がもたらす世界の未来」を予見した結果、最終的にはそれが「世界の救済」に繋がるという結論に至っていた。その上で、カイナもまた一歩ずつ、静かな足取りで「フレドリク」へと近付いていく。

「色々と思うところはありますが……」

 そう言いながら、彼女は「フレドリク」の腕の部分に手を伸ばす。

「失礼致します」

 彼女がそう告げると同時にその指先が「フレドリク」の腕に触れると、彼女の中にも同じように「理想の未来」を問いかける声が聞こえてきた。それに対して、彼女は心の中でも淡々とした口調で答える。

(私は『あの方』の行く末を見たい。その行く末が『私の満足のいくもの』なら、それで構わないし、『あの方が言った通りのもの』なら、問題はない。もし、そうでないのなら、私の身をかけてあの人を滅ぼすだけだ。私はそれを成し遂げられればいい。それ以外はどうでもいい……)

 カイナのその静かな決意は、彼女の来世である「地軸星」の星核として、赤みを帯びた輝きと共に出現する。こうして、この場に集まっていた「四つの眠れる星々」は、揃って再びこの世界に現出することになったのである。
 そして、この間にようやくマリベルも自分の気持ちを整理出来たようで、ラーテンに対して笑顔で声を掛ける。

「まぁ、私が選ばれなかったんなら、それはそれで仕方がないわね。私の分まで、あんたが世界を救ってきてよ」
「あぁ、任せろ」

 二人のそんなやりとりを微笑ましい目で眺めつつ、「ラスク(の身体に入ったフレドリク)」もまた、相棒に語りかける。

「私も今ひとつ納得出来ていないところはあるが、その星核の魂がお前に共鳴したというのなら、私ではなく、お前がその百八人の一人ということなのだろう。それは今更言っても、致し方のないことなのだろうな」
「とはいえ、世界を救うための戦いということであれば、必ずしも百八人だけで問題にあたる必要はない。場合によっては、他の人々の力を借りることもあるかもしれないだろう」
「そうだな。私にも出来ることがあるのであれば、可能な限り、尽力させてもらおう」

 もっとも、今の「この二人」にとっては、まずは世界の前に「自分達自身の現状」を解決する道を探る必要がある。そのことを改めて実感しつつ、七人は「台車に縛り付けた瀕死の中型鶏」と共に、パルテノへと向けて下山していくのであった。

4.1. 融合の魔法陣

 パルテノへと帰還した彼等は、人目につかないように鶏の投影体を町の郊外に配置した上で、その地に屠殺業者を密かに招聘した上で、「採血作業」をおこなった。当然、日頃は「通常の動物」しか捌くことのない一般の屠殺業者にしてみれば、その作業は狂気を喚起させるほどの恐怖であっただろうが、幸いにも身体の構造自体は「通常の鶏」あまり変わらなかったようで、一般的な血抜き作業と同じ手際で、どうにか大量の「生き血」を確保するに至った(その後、鶏はマリベルの手で丁重に浄化された)。
 そして、その大量の「生き血」をエルネストの地下工房へと(誰にも知られないよう密かに)運んだ上で、レディオスは以前と同様の手法で「特殊なインク」を作成し、夢巻物を広げ、『紅蓮の姫と紺碧の翼』に描かれていた魔法陣を、そっくりそのまま描き写す。
 すると、完成と同時にその巻物から浮き出るように、工房の床に「魔法陣」が現れた。慎重にカイナが見守る中、「フレドリク」と「ラスク」はその魔法陣の上に立つと、二人の体は一つに融合していく。それは確かに、『紅蓮の姫と紺碧の翼』にて描写されていた、アガーテとハインツの融合の状況と瓜二つの様相であった。
 こうして、心と身体が入れ替わっていた「フレドリク」と「ラスク」は、今度は「一人の人間」として、「一つの身体の中に二つの魂が宿った状態」となる。そして、書物に書いてあった通り、その「一つの身体」の形状は、二人の魂が同意することによって、「聖印を持つフレドリクの姿」にも、「邪紋を持つラスクの姿」にも変化可能という、極めて複雑な状態の「融合人間」が発生することになったのである。
 その上で、それぞれの身体の使い勝手を試してみた結果、「ラスクの身体」の状態だと、その身に宿った邪紋が「フレドリクの魂」に一定の負担をかけることが判明したため(逆に言えば「フレドリクの身体」であれば、どちらの魂にも悪影響を及ぼさなかったため)、当面は「フレドリクの姿」を表に出した上で、まだ魂の疲労が残っている「フレドリクの魂」をその身体の中で休眠させることにした。つまり、今後しばらくは「ラスクの魂主導で、フレドリクの身体を動かす状態」で、次の課題である「分離の魔法陣」の情報を探すことにしたのである。
 その上で、フレドリク(の魂)が語っていた「聖印からの龍創成」に関しては、ひとまず地下工房を出て、再びパルテノ南方の人通りの少ない山岳地帯で試してみたところ、どうやら彼の目論見通り、「フレドリクの聖印」から「戦場での乗騎として耐えうるほどの龍」を生み出すことに成功する。とはいえ、さすがにそれは「邪紋から作り出した模倣龍」としての「本来のラスクの力」には到底及ばない。

「……今のところは、これくらいが限界だな。これ以上の力を持つ龍は、今の私の聖印では作り出せない」

 フレドリクの魂はそう呟く。だが、それでも当初の想定に比べれば遥かにマシな状態にはなりつつある。もし、「本格的な龍の力」が必要になった場合は、今度は「ラスクの身体」へと変身した上で、邪紋の力で龍の姿になれば良い。とはいえ、フレドリクの魂への負担を考えると、それはまだ現状ではあまり多用すべき手段ではないように思えた。
 いずれにせよ、最悪の事態からはひとまず免れたことで、フレドリク(の身体に入った二人の魂)はレディオスに改めて感謝の意を告げる。そして、まだここから「分離の魔法陣」を作り出す必要がある都合上、少なくとも当面は、レディオスの身柄はエルネストの下で丁重に保護してもらうことになった。

4.2. 港町の守護者達

「いやー、さっきは世界を救うことに関して、任せろとは言ったけど、何をどうすればいいか、さっぱり分からないんだよな……」

 一通りの仕事を終え、パルテノへと帰還したところで、ラーテンはマリベルに対してそう呟いた。実際、それに関しては、シドウも、カイナも、ヒューゴも、そして「フレドリク」もまた同じである。ここから先、具体的に何が起きて、それに対してどうすれば良いのか、誰一人として明確なことは分かっていない。

「まぁ、その時が来るまで、まだ俺とお前は二人で一人だ」

 改めてラーテンにそう言われたマリベルも、笑顔で答える。

「そうね。最終的に、どういう形の戦いになるかも分からないし。さっきも言ったけど、私にだってやれることがあるなら、出来る限りは手伝うから」

 ちなみに、この二人は最後まで「フレドリク」と「ラスク」の正体については聞かされていない(そして当然、上述の融合魔法陣の生成にも関わっていない)。もし、あの「二人」の現状を聞かされていた場合、ラーテンが言うところの「俺とお前は二人で一人」という言葉から想起されるイメージも若干変わっていた可能性はあるのだが、幸か不幸か、最後までこの二人は彼等の問題に対しては「蚊帳の外」のままであった。

 ******

 シドウは、ようやく一通りの仕事を終えたところで、ソニアに改めて謝罪の手紙を書く。結婚式に参列出来なかったのは、あくまで郵便事故のせいであって、決して彼女のことを軽んじている訳ではないという旨を、(あまり手紙自体が得意ではないシドウであったが)心を込めて文字にしたためる。
 その上で、彼は改めて「おめでとう」「幸せになってほしい」という気持ちを伝えた手紙を書き終えたところで、再びクレハが彼の前に現れた。

「隊長さん、手紙書けたんですか? じゃあ、私が一緒に出してきますね」
「あぁ、よろしく頼む」

 シドウはそう言って彼女に手紙を託し、そして改めて、今の自分が守っていくべきこの町の警護の任へと戻るのであった。

 ******

「お前には、これから先も私の地下工房での創作活動に従事してもらう。少なくとも当面の間は、私の許可なくこの町を離れることは許さない」

 それが、パルテノの領主エルネストからレディオスに下された「処罰」であった。書物の長期貸出の件はともかく、危険な魔法具を勝手に持ち出した件までもが実質的に不問に付されるというのは、常識的に考えれば寛大すぎる処遇だが、そもそも「危険な魔法具」の存在自体を公にすべきではないと考えた結果、レディオスには今まで通りにココナと共に「一人の画家としての生活」を送り続けてもらうことが、周囲に不信感を与えないという意味では妥当な措置であろうと考えたのである。
 その上で、ひとまず夢巻物に関しては「当面は『フレドリク』に預ける」という判断が下された。その力が極めて強大であるからこそ、「画家およびインク」と「巻物」は別々の人物が管理した方が良いだろう、というのが、エルネストと「フレドリク」の判断である。本来の夢巻物の管理人であるゴーウィンには(その巻物の正体を告げぬまま)「例の巻物は私が持ち出した上で、ノルドからの客人に貸し出した」とだけ告げた。
 なお、エルネストには「フレドリクが本を必要としていた理由」については最後まで知らされていないし、現時点でもまだフレドリクがまだ巻物を必要としているということも知らない。真相を聞かされているレディオスもシドウも、主君に対して重要な情報を秘匿するのは不義理と思いつつも、フレドリク達の事情を慮った上で、あえて黙っていた。
 そしてもう一人、カイナ経由で真相を知っているパンドラ均衡派の間者であるアニーもまた、当然、そのことを誰かに漏らすつもりは毛頭ない。こうして、奇妙な情報格差が主従間で発生していることには大半の人々は気付かぬまま、パルテノの町はこれ以降も当面は平和な日々を謳歌することになるのであった。

4.3. 不倶戴天の仲間

 一方、教皇庁への帰り支度を終え、イスメイア行きの船に乗り込もうとしていたヒューゴは、その直前に、宿屋の前で遭遇したカイナに声を掛ける。

「ちょっと、いいか?」
「なんでしょう?」

 カイナにしてみれば、既に今回の一件が解決した今、今更(苦手な)ヒューゴと話すこともないと思っていたので、わざわざ彼の方から声をかけてくるというのは、少々意外であった。

「これから、どうするんだ?」
「これからですか?」
「兄貴についていくのか?」
「えぇ。まだご案内しなければならないところがあるので」

 現状、「分離の魔法陣」に関する手がかりがブレトランドにあるかどうかは分からないが、それとは別次元で「ブレトランドに出現する大毒龍」と戦うための仲間を集めるためにも、おそらく、まだ当面は彼等にはブレトランドに逗留し続けてもらう必要があるだろう。そうなると、アントリア(およびグリース)に顔の利くカイナの存在は、確かに重要である。

「まぁ、正直、お前のことは『得体の知れない奴』だとは思ってたけどよ……」
「そうかもしれませんが、今は誠心誠意お仕えしておりますので、そのあたりは信用して頂くしかないかと」

 淡々とカイナがそう語るのに対し、ヒューゴは唐突に頭を下げる。

「その言葉を信じる。兄貴のことをよろしく頼む」

 彼が魔法師に対してこのような態度を取ることは、極めて珍しい。その異例な態度に一瞬間を開けつつも、カイナはあくまでいつも通りの調子で答える。

「えぇ、わかりました。私がお仕えしているのはカタリーナ様ですが、カタリーナ様の命令で、御父上様をお助けするように言われておりますので、私の全力を尽くさせて頂こうと思います」

 淡々とそう語ったカイナに対して、頭を上げたヒューゴの表情は露骨に歪んでいた。

「……やっぱり、お前、苦手だわ。もうちょっと、腹の底を見せろや!」
「そうでしょうか? 私としては、十分見せられるものは見せていると思いますが」
「あー、やっぱり、頭のいい奴は嫌いだわ。まぁ、とにかく、お前しか頼れねぇ。いや、お前だけじゃないかもしれないが、今はお前が一番頼れると思ってるから、よろしく頼む」
「えぇ。あなた様のお兄様を、私が支援出来る限りは支援させて頂きます」

 最後までカイナは自分のペースを崩さないまま、港に向かって去って行くヒューゴの後ろ姿を見つめつつ、誰にも聞こえない程に小さな声で、自分の腹の底に眠る「本音」を口にする。

「あなたのその『優しさ』は、きっと家族や身内に向かうものなのでしょう。それは理解出来ます……。でも、あなたはきっと、『その優しさを向けない人達』に対しては、遠慮なく刃を向ける。それはきっと暴君と同じ……。だから私は、あなたが嫌いだ。力があるからと言って、全てを通せる訳ではない……」

 そんな独り言を呟きながら、カイナは踵を返して「フレドリク」の元へと向かって行った。

4.4. 二つの手がかり

 その後、改めて時空魔法を駆使して「分離の魔法陣」に関する情報を探ろうとしたカイナであったが、なかなか手がかりを掴めない。そこで、今度は『紅蓮の姫と紺碧の翼』と『夢巻物』に関して、それぞれに関連する情報を集められそうな方法を探ってみたところ、二つの候補地が浮かび上がった。それは「マージャ」と「ラピス」という、それぞれアントリアの北東と北西に位置する村であった。

「え? マージャ村?」

 マージャ村とは、形式的にはアントリア領でありながらも、実質的にはノルドの軍楽隊長であったレイン・J・ウィンストンが治める「音楽の村」であり、彼女のことはカイナも知っている。そしてレインは、ヒューゴとはまた違った意味で、カイナにとって「苦手な人物」であった。
 その「予言」の結果を聞かされたフレドリク(の中にいるフレドリクの魂)は、カイナに対してこう告げる。

「それなら『私』がラピスに向かうことにしよう。マージャはお前に任せる」
「え? 私がマージャなんですか?」
「手分けして探した方がいいだろう?」
「えぇ、それは理解しますが、私がマージャなんですか?」

 どうやらカイナとしては、あのレインという風変わりな領主には関わりたくないらしい。

「まだマージャの方が、こちらの所領である分、お前としてもやり易いだろう」
「それはそうですが、私はしばらくアントリアにいた訳ですし、むしろ私の方がどこでも顔は通じる訳ですから、フレドリク様の方がマージャに向かうべきでは?」

 とはいえ、カイナも別に(もう一つの候補地である)ラピスに対して特に人脈がある訳ではない。ラピスの領主であるルーク・ゼレンは「ヴァレフールからの出戻り」という特殊な経歴の持ち主であり、アントリア内においても(ある意味ではレインと同等以上に)「浮いた存在」であった。その意味では、カイナが行っても、フレドリクが行っても、あまり大差ないだろう。
 それに加えて、フレドリクがカイナをマージャに派遣すべきと考えたのは、そちらの方が「分離の魔法陣」を探す上では「本命」のように思えたからである。カイナの予言によれば、『紅蓮の姫と紺碧の翼』に関わる何かがあると思われるのがマージャであり、『夢巻物』に繋がる情報が眠っていそうなのがラピス、ということだったので、直接的に魔法陣の情報に関わりそうなマージャの方に、より探索能力に長けたカイナを派遣した方が良い、と判断したのである(逆に言えば、夢巻物関連の方がより危険性が高そうに思えたからこそ、そちらには自分が向かうべき、という判断でもあった)。
 こうして、カイナの抵抗もむなしく、彼女は傾奇者君主として知られるレインの待つマージャ村へと向かわされることになり、フレドリク(の中のフレドリクとラスクの魂)はラピス村へと向かうことを決意するのであった。
 八つの光が揃うまで、未醒の星はあと五つ。夜空に希望が満ちるまで、未還の星は八十八。

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最終更新:2021年10月23日 10:55