第2話(BS54)「天雄之壱〜魔境村の真実〜」 1 / 2 / 3 / 4

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1.0. 調査隊救出計画


 アントリア領アグライアは、旧トランガーヌの北部と南部を繋ぐ交易の街である。この地の領主の名は、クワトロ・スコルピオ。しかし、彼は人前に立つ時は常に仮面をつけており(下図)、その素顔も素性も知る者は誰もいない。おそらくその名も偽名であろうと言われている。


 彼はかつては流浪の騎士であったが、同じく流浪の身であったダン・ディオードと出会い、その旅の仲間に加わった後、彼のアントリア子爵家への婿入りと共にそのままアントリアへと士官した。軍閥的には(同じくダン・ディオードの流浪時代からの仲間である)バルバロッサ・ジェミナイを中心とする「騎士団長派」の一員である。
 現在、彼が治めるアグライアの西方には巨大な魔境が広がっている。その地には、一年半ほど前までは「クラカライン」という名の村が存在していたが、(かつてアントリアに滅ぼされた)旧トランガーヌ子爵を中心とする新興国家「神聖トランガーヌ」による対アントリア逆侵攻を防ぐために、この地の領主であった「Dr.ジェロ」ことジェロ・リーブラ(下図)が密かに研究していた特殊な技術を発動させた結果、魔力の暴発によって混沌災害が発生し、村全体を包み込むほどの巨大な魔境が発生してしまった(ブレトランド戦記8参照)。ジェロは魔法師から君主へと転向した稀有な経歴の持ち主であり、闇魔法師と裏取引して何らかの「禁忌」に手を染めていたという噂もあるが、その真相は不明であり、現時点でのジェロの消息も掴めていない。


 そして、この魔境に対しては、これまでアントリア側からも神聖トランガーヌ側からも幾度も調査隊が派遣されたが、未だに浄化には至っていない。もっとも、現在のアントリアを率いる子爵代行マーシャル・ジェミナイは、戦線の拡大よりも国力増強を優先する方針を掲げているため、あえてこの村を魔境のまま放置しておくことで衝突を避けようとしているのではないか、という噂もあるが、昨今は彼が表舞台に出てくる機会自体が減っているため、その真意はアントリアの諸将も測りかねている。
 それでも、定期的にアントリア側からクラカラインの魔境の状況を確認するための調査隊は派遣され続けている。そこで中心的役割を果たしているのが、クワトロの契約魔法師ハンナ・セコイア(下図)であった。彼女はアントリアの首席魔法師ローガンと同門であり、本来は本流(紫)の錬成魔法師であったが、自身の赴任村の隣に魔境が発生したことから、魔境探索に適した「菖蒲」の錬成魔法も習得し始めて、最近ではそちらの方が実質的な本業となりつつある。


 だが、現在、そんな彼女を中心として派遣された「第13次クラカライン魔境調査隊」が、帰還予定の期日(突入から一週間後)を過ぎても帰って来ない、という緊急事態が発生していた。この状況に対し、ローガンは引き続き彼女達の帰還を待つ方針を提示したが、武官達はこの方針に反発し、一刻も早く同胞達を救うべく、彼女の契約相手であるクワトロを中心とした「救出隊」を派遣することを決定する。クワトロには近日中に周辺の村からの援軍と合流した上で、救出作戦へと向かうよう、バルバロッサからの命令が下されたのであった。

1.1. 来世の記憶

 その連絡が届いた日の夜、クワトロはハンナの無事を祈りつつ、領主の館から一人夜空を眺めていると、彼はその夜空に発生した「小さな異変」に気付く。

「おかしい……、星の数が……?」

 彼には昔から(正確に言えば、初めて聖印を手に入れた日から)奇妙な能力が備わっていた。それは、夜空に浮かぶ「他の人の瞳には映らない、青白い光を放つ八つの星」の存在を視認する能力である。自分以外にその星々を見ることが出来る存在に出会ったことはない以上、それらが本当に存在する星なのかどうかも疑わしかったが、それでも確かに彼の目にはそれらが放つ輝きが常に映り続けていたのである。
 だが、今の彼の目には、その「八つの星々」の周囲に、更に五つの「未知なる星」が光り輝いている光景が映っていた。そのうちの二つは八つの星々と同じように青白く煌めいていたのに対し、残りの三つは赤みを帯びた輝きを放っている。だが、その三つの赤い星も含めて、それらが以前から見えていた八つの星と同種の「何か特別な存在」であることは、本能的に察知出来た。

「何かの予兆だろうか……」

 彼がそう呟いた直後、彼の脳裏に「謎の声」が響き渡る。

《私の声が聞こえますか、我が前世よ?》

 その声は、明らかに「耳」ではなく「脳」に直接語りかけてきていることがクワトロには分かる。それがどんな原理なのかは不明だが、クワトロは周囲に人影がないことを確認しつつ、ひとまず空に向かって問いかけた。

「誰だ、お前は?」

 自分の声が「謎の声の主」に届くかどうかは分からぬまま口にしたその言葉に対して、先刻と同様に彼の脳裏に「返答」が響き渡る。

《私は、あなたの来世です。と言っても、理解はしきれないでしょうが……》

 その声と同時に、クワトロの視界に「明らかに『今』ではない映像」が広がる。それは「一人の男性の君主」と「一人の女性の魔法師」と「幾体かの大型投影体」が共闘して、「超大型の龍のような何か」と戦っている状況を、上空から見下ろしているかのような、そんな光景であった。クワトロにとって、それは確かに「初めて見る光景」の筈だったが、彼はなぜか、瞬時にその状況を理解出来た。それは紛れもなく、四百年前にこのブレトランドで繰り広げられた、英雄王エルムンドと大毒龍ヴァレフスの戦いだったのである。
 ブレトランド出身ではないクワトロにとって、エルムンドの伝承はそれほど馴染みのある話ではない。ましてや英雄王と共に大毒龍と戦った「大型投影体」のことなど、知る由もない。だが、それでも彼にはすぐにその状況が理解出来た。エルムンドの周囲にいる六体の投影体の正体が、かつて「エルムンドの七騎士」と呼ばれた忠臣達であることを(その詳細はブレトランドの英霊7参照)。そして「この状況を上空から見ている存在(クワトロと視界を共有している存在)」こそが、残り一人の七騎士である「トレブル・クレフ」であることもまた、なぜか彼は即座に理解出来た。

「……私が見ているこの状況は、貴殿が見せているということか?」
《そうです。『私の中の記憶』を、あなたの脳裏にそのままお伝えしています》

 クワトロと「謎の声」との間でそんな会話が繰り広げられる中、やがて「女魔法師」が長時間の呪文詠唱を完成させると、空から数多の星々が大毒龍に向かって降り注ぎ、エルムンドと七騎士(大型投影体)達もまた同じように自らの身体から「星のように光り輝く何か」を発生させ、それらが大毒龍に向かって解き放たれたことで、大毒龍が消滅する。
 そしてクワトロの視界が元に戻ると、改めて「謎の声」が語り始める。

《あなたは私の前世です。あなたが死後に星界(Starry界)へと転生した後、今から約2000年前のこの世界に『天雄星』として投影された存在。それが私です。そしてあの大毒龍は、星界において、私を含めた百八の『この世界から投影された星々』によって倒された存在でした》

 それはあまりにも突拍子もない話であったが、クワトロは黙って聴き続ける。不思議とそれは彼の中で「かつて自分が経験したこと」であるかの如く、奇怪ながらも不思議な懐かしさを感じさせるような、そんな不思議な実感に包まれていた。

《それが過去に二度に渡ってこの世界に投影され、この世界を破壊しようとしましたが、一回目は私の『異世界における来々世』としての私を召喚するという形で、二回目はこのブレトランドの騎士であったトレブル・クレフに力を与えるという形で、いずれも防ぐことは出来ました。しかし、間も無く三体目の『大毒龍の投影体』がこの地に出現しようとしています。それを倒すために必要な『星核(スターコア)』を、もう一度作り出してもらいたい。私の前世であるあなたには『星核』を作り出す力がある筈です》

 「星核」という言葉は、この世界では決して一般的に知られたものではない。だが、先刻の映像が脳内に流れ込んだ時点で、彼の中ではそれが「エルムンドと七騎士(大型投影体)達が放っていた光のような何か」であるという認識までもが共有されていた。四百年前の戦いの時にも、二千年前の戦いの時にも、そしてこの世界とは異なる時空である星界の戦いにおいても、自分と共に戦った仲間達の力の源である星核が、大毒龍を倒す時の鍵となった時の記憶は、うっすらと彼の中にも共有されていたのである。

《あなたが望む『理想の未来』を想像して下さい。それを求めるあなたの想いが、聖印によって『星核』として現出するでしょう》

 なぜそうなるのかは、クワトロにも、彼の来世である天雄星にも分からないが、おそらくはそれが彼の英雄としての力の源泉なのだろう。彼が目指す未来の道標が、彼の心の力となる。その意味では、君主が聖印から作り出す「戦旗」に近い存在なのかもしれない。

「私が願う世界は……、人々が傷つけ合う必要のない、平和な世界」

 クワトロがそう願うと同時に、彼の目の前に一つの光源体が現れる。それはこれまで彼が夜空に見てきた八つの(現在は十の)「彼にしか見えない星」と同じ青白い光を放っており、これこそが「天雄星」としての「未来の彼」の姿でもあった。

《その星核を作り出せる仲間が、あなたの他に後107人いる筈です。全員の力を結集させれば、大毒龍を倒すことも出来るでしょう。その星核を、他の『星の前世』である人々に注ぎ込めば、星核を作り出す力は伝播出来る筈です。今現在、その力に目覚めている人は、あなたの他に六人。あなたで七人目です》

 つまり、それが「彼にしか見えない星」の数が増えた要因なのであろう、ということはクワトロにもうっすらと理解出来た。厳密に言えば、現在彼の目に見えている「十三の星」のうち、「新たに見えるようになった五つの星」と、「もともと見えていた八つの星の中の二つの星」が、「星核の力に目覚めた者達の来世」であり、「残りの六つの星の前世」に関しては、まだ星核を作り出せてはいない、ということになる。

「そうか、私がこれまで見た『他の人には見えない星々』には、何か特別な意味があるのかと思っていたが……」

 この状況において、この「謎の声」が語る内容が真実であると確信出来る要素はない。だが、クワトロ自身は、ひとまずこの声を信じることにした。それが何らかの魔術的な催眠による暗示効果の可能性もあるが、偽りであると確信出来る要素もない。

《そして、今、あなたの近くに「同じ力を持つ人々」が集まりつつあるように感じます。私の声があなたに届くようになったのも、それが原因なのかもしれません。その人々が、聖印なり混沌なりの力を使っている場面を見れば、同じ星核を作り出す力の持ち主であることが分かる筈です。問題は、この話を信じてもらえるかどうか、ですが》

 確かに、クワトロ自身が「この声」の言うことを信じたとしても、他の人々にも同様に信じてもらえる保証はない。とはいえ、ひとまずは実際に「力を持っていると思しき者」を発見した時点で、相手の立場や状況を見ながら判断するしかないだろう。
 そして、数日前に目覚めた「天魁星」からの「伝言」も、この時点で天雄星経由でクワトロに伝えられた。

「オーハイネの地に、砦あり」

 天魁星ことノエルのその伝言が、初めて「他の八星の前世」へと届いたのである。

「オーハイネ……?」

 クワトロには、その地名の記憶がない。だが、すぐに天雄星が補足する。

《かつて『私達』が大毒龍と戦った地です。ブレトランド南西部の森の中の湖の北岸、と言えば分かるでしょうか?》

 おそらくその湖は、ヴァレフール領テイタニアの西方に広がるパルトーク湖のことであろう、ということまでは推察出来る。「アントリアの騎士」である「今のクワトロ」がその地に向かうには様々な障害があるが、もし本当に世界そのものの危機ということであれば、超国家的な協力体制をブレトランド全体で構築すべきだろう。
 だが、ここで天雄星は、一つの「厄介な追加情報」を伝える。

《大毒龍は『人々の不安な心』をその力の源としています。ですので、大毒龍復活の話は『星の前世の人々』以外には、極力伝えないで下さい。特に、一般市民の間にその情報が広がると、極めて危険な状況に陥ります。最悪の場合、百八の星核の力を以ってしても倒せないほどに強力な存在となってしまうかもしれません》

 つまり、仮に国家間で協力関係を築くとしても、公的に「大毒龍の復活を止めるため」という理由を掲げる訳にはいかない、ということである。これは極めて厳しい条件と言わざるを得ない。裏交渉によって秘密裏に協力関係を結ぶにしても、少なくとも「ただのアントリア騎士」としてのクワトロの立場では、国家首脳間の交渉に関与することが出来ないだろう(ただし、それはあくまでもクワトロが、本当に「ただのアントリア騎士」だった場合の話なのであるが)。
 とはいえ、今のクワトロの中では、まだこの「世界の危機」に対しては今ひとつ本格的な実感が湧かない。少なくとも今の彼の中では「いつ復活するかも分からない大毒龍の脅威」よりも、「既に行方不明となっている自身の契約魔法師の安否」の方が重要な案件であることは間違いない。まずは今、目の前のこの問題を解決しないことには、その先の問題への本格的な方策を考える余裕もない。
 唐突な「来世からの警告」に対して困惑した心境に陥っていたクワトロであったが、ひとまず今は気持ちを切り替えて、ハンナの救出作戦に向けての準備を再開することにした。

1.2. 南方からの援軍

 アグライアの南方に位置するアントリア領カレ村は、グリース子爵領との国境線に位置する「最前線の村」である。現在、アントリアとグリースは特段対立関係にある訳ではないが、グリース側の最前線であるアトロポス村には反アントリア派の急先鋒であるコーネリアス・バラッドが駐在し、カレ側にもコーネリアスの宿敵である白狼騎士団の面々が常駐していたため、常に両国の国境線上には一定の緊張感が漂っていた。

「勘弁して下さいよ〜、私はただの商人ですから。連合とか同盟とか、どうでもいいんで……」

 怯えた表情を浮かべながら通行許可を願う行商人に対し、この村に駐在する白狼騎士団の部隊長であるディーオは検問官として下卑た笑みを浮かべつつ、威圧的な物腰で言い放った。

「それを証明したいんだったら、『金』か『女』だな」

 ディーオは白狼騎士団の団長ヴィクトールの息子であり、酒呑童子を模倣する邪紋使いである。彼は、この村に住む自然魔法師のサンドラ・リンフィールドから「幻想詩連合からの密偵がアントリア内部で暗躍している」という予言がもたらされたことを理由に、独断で検問の強化(と言う名の恐喝)を進めていた(なお、サンドラ、ディーオ、および「幻想詩連合からの密偵」など、本節で言及されている登場人物達の詳細に関してはグランクレスト異聞録4(イースTRPG編)を参照)。

「そ、そんな……、それがこの村の流儀なんですか?」
「まぁ、そうだな」

 あまりに理不尽なそのやりとりに対し、唐突に近くの畑から、一人の若者が割って入った。

「まぁまぁ、そこの旅人さん。それはこの人が勝手に言ってるだけのことですから。ここは暖かい村ですよ」

 いかにも人の良さそうな物腰でそう語るその農民風の若者に対して、ディーオは皮肉を込めた口調で吐き捨てる。

「あぁ。領主が自分で畑耕してるくらい、呑気な村だな」
「え? そ、そうなんですか?」

 旅人が困惑した顔を浮かべる中、「農夫」は笑顔で答える。

「はい、そうですよ。それくらい暖かい村です」
「暇なだけだろ」

 ディーオはそう言い捨てつつ、新たな恐喝対象を探すためにその場を去り、彼に代わってその農夫がその旅人の持っていた身分証明証を確認する。どうやら、この旅人はアストリッド商会の一員であり、この村に住むアストリッドの妹ラヴィーニャに届け物があったらしい。
 農夫はそのことを確認すると、笑顔で旅人に提案した。

「ここでお会いしたのも何かの縁ですし、この村までの旅路でお疲れでしょうから、今夜の宿をお貸ししましょう」
「そうですか、そうして頂けると助かります」

 商人が素直にそう答えると、農夫は笑顔を浮かべながら、その商人を「この村の領主の館」へと案内する。

「ようこそ、カレ村へ」
「え? ここって……」

 商人が状況が理解出来ずに呆然としているところで、領主の館から若い魔法師が姿を現した。この村の領主ジーク・サジタリアスの契約魔法師オラニエ・ハイデルベルグである(下図)。


「領主様、大変です!」
「どうしたんだい?」

 そう答えた「農夫」に対し、オラニエは「中央」から届いた指令を伝える。曰く、カレ村の領主ジーク・サジタリアスに、現在行方不明となっているクラカラインの調査隊の救出作戦への協力命令が届いたらしい。しかも、その「行方不明の調査隊」の中には、数ヶ月前にこの地で起きた混沌騒動で解決に尽力してくれた、一人の「老婆」が加わっていたという。
 その老婆の名は、メイプル・プラムス(下図)。月光修道会が運営するバランシェの神聖学術院の歴史学科の教員であり、元ヴァレフルール騎士団副団長グレンの異父姉でもある。かつては大陸で女君主として名を馳せた人物であったが、現在は聖印を返上して、一教員として神聖学術院にて後進の指導に専念している。今回の調査隊には、魔境や混沌災害の歴史等に精通した研究者として同行しているらしい。


「先生が行方不明? それは大変だ。今すぐ向かわなければ。お客人、すまない。私は急用が出来た。オラニエ、この人のことは任せたよ」
「あ、はい。それで、この人は?」
「怪しい者ではない」

 そう言って、呆気にとられたままの旅人をその場に放置したまま、「農夫」ことジーク・サジタリアスは領主の館の中の自室へと向かい、旅立ちの準備を始めることにしたのであった。

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 それから小一時間後、久しぶりに鎧を着込み、武装を整え、「君主」の様相になったジーク(下図)の元に、この村に住む「占い師」のサンドラ・リンフィールドが姿を現す。彼女もまた「数ヶ月前にこの村で起きた混沌騒動」の解決に尽力した人物の一人であった。


「ジーク様、ジーク様」
「どうしたんだい?」
「遠くに行くんでしょ?」
「あぁ、そうだね」
「それで、あの、なんというか、『お告げ』みたいなものが来たから、伝えるね」

 彼女は「リンフィールドの時読みの一族」として知られる、時空魔法を得意とする自然魔法師の一員である(そしてパンドラ均衡派の一員でもあるのだが、そのことをジークは知らない)。

「『星』『来世』『出会い』、この三つ。何なのかは分からないけど、とりあえず」

 彼女は日頃から訥々とした口調で話すため、何を言いたいのか今ひとつ要領を得ないことが多いのだが、今回に関しては、彼女自身もこの「予言」の意味を測りかねているようである。

「星と、来世と、出会い……? 一体、私が行く先に、何が待っているんだ?」
「分からないけど、なんか、伝えた方がいい気がした」

 実際のところ、サンドラにもそれ以上の意図はない。ただ、時空魔法師の直感として、これが極めて重要な情報であることを感じ取り、彼に伝えなければならないと本能的に察したらしい。

「ありがとう。それを聞いたところで、私がやることに特に変わりはないのだが、何かきっと役に立つと思う。褒美として、後であなたの家に大根を届けに行くよ」

 大根(より正確に言えば白長大根)はカレ村の主要産業であり、ジークも日頃から農民達に混ざって自作の大根を作り続けている。一時期は、この大根が貨幣の代替品として流通するほどに、この村の人々にとっては無くてはならない存在となっていた。
 無論、一人暮らしのサンドラにとっては、大根がそう何本もあっても、それほどありがたいものではない。とはいえ、そう早々と腐るものでもない以上、ひとまずは黙って受け取っておくことにしたのであった。

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 それから数日後、ジーク直属の森の民を中心とした兵士達が、何台かの荷馬車を引き連れてジークの元へと集合する。その荷馬車の上には、大量の大根が積まれていた。

「領主様、アグライアに届ける大根は、これでよろしいでしょうか?」
「ふむ、これくらいあれば大丈夫だろう。では、行くか」

 別にアグライアから食糧支援の要請があった訳ではないのだが、ジークとしては「よその村にお邪魔するのだから、手土産を持っていかねば」という考えらしい。

「大根、多くねえか?」

 彼の留守を守る白狼騎士団のディーオは呆れながらそう呟きつつ、ジークに語りかける。

「まぁ、それはそれとして、ジーク」
「なんだ? 一緒に行きたいのか?」
「いや、別に。まぁ、魔境討伐にも行きたいと言えば行きたいが、俺はそれよりも、トランガーヌだかグリースだかと早く戦争がしたいからな。とっとと魔境を祓って来いよ」
「あぁ、任された」
「俺はその間に、女でも漁るさ」

 そう言って笑うディーオの様子に一抹の不安を感じつつも、ジークはアグライアへと向けて出立するのであった。

1.3. 北方からの援軍

 アグライアの北方に広がるモラード地方の一角に、エルマという名の村がある。ウイスキーの名産地として知られている酒造の村だが、現在、この村では領主の契約魔法師であるエステル・カーバイト(下図)の指示の下、急速に物資調達と遠征軍の整備が進められていた。


 遠征先は、クラカラインの魔境である。エステルは菖蒲(亜流)の錬成魔法師であり、魔境攻略の専門家である。現在行方不明のハンナはエーラム時代の学友であり、今回の調査隊には彼女の他にも、これまで数多の魔境攻略に関わってきた(その過程で何度かエステルとも共闘したことがある)冒険者(邪紋使い)のアオハネ(下図)も参加していたとエステルは聞いている。彼女達ですら苦戦するほどの魔境ということであれば、いよいよ「本業」のエステルの出番となるのも必然的な流れであろう。


 そんな彼女の元に、師匠であるカルディナ・カーバイト(下図)から、魔法杖を介しての通信が入った。


「どうやら、クラカラインの魔境に調査に行くらしいな」
「はい! 遂に、遂に魔境ですよ!」

 エステルとしても、ここまで本格的な魔境に突入するのは初めてなので、意気揚々とした様子が語調からも伺える。

「あそこはかなり厄介な案件らしいが、それに関して『とある筋』から情報が入って来てな」

 カルディナはそう前置きした上で、神妙な声色で語り始める。

「あくまで『とある筋』からの情報なのだが、どうやら、あの魔境、パンドラが興味を示しているようで、海方面から調査に向かっているらしいぞ。あくまでも噂だがな」

 以前から、あの魔境の出現にはパンドラが関わっているのではないか、と憶測する者達はいたが、この噂が本当であれば、その可能性は否定されることになる。もっとも、パンドラも内側には様々な組織が混在しているし、(魔境を作った側、もしくは調査している側のどちらかが)「パンドラを追われた魔法師」という可能性も十分にあるだろう。

「……その話、ヴェルディに言いました?」
「いや、言ってない。ヴェルディは『私がせっかく苦労して手に入れてきたパンドラの話』を伝えると、なぜか『訝しげな目』で見るのでな」

 カルディナとしては、半年前のマージャでの一件の時の彼女の反応が、少し引っかかっていたらしい(詳細はブレトランドと魔法都市4参照)。

「なら、いいです。いや、あの子はいい子なんですけどね……」

 もしヴェルディがこの話を聞けば、おそらく積極的に参戦を申し出るだろうが、何の情報もない危険な魔境への潜入作戦に幼い末妹を連れて行くことは、魔境探索の専門家であるエステルとしては良心が咎めるらしい。彼女は師匠からの忠告を心に留めつつ、引き続き出立の準備を進めることにした。

 ******

 今回のエルマからの遠征軍の指揮官は、エステルの他にもう一人いる。それが、日頃は「酒蔵の番人」を務めている地球人の二刀流女剣士、リッカであった(下図)。


 彼女もまた魔境という強敵との戦いを前に勇んで準備を進める中、この村の最大の酒場である「北の川虎亭」の酒場主であるダンカン(下図)が、彼女の見送りに来ていた。


「しっかり頼むぞ。ユリシーズが戻って来てくれないと、色々と困るからな」

 ユリシーズとは、この村とエスト(モラード地方の中心地)の間での酒の輸送時に護送隊長を務めている邪紋使いであり、リッカにとっては剣の好敵手でもある(下図)。元々は南トランガーヌの貴族家出身であるが故に、その土地勘を期待されて(アオハネ同様)彼もまたハンナと共にクラカラインの調査隊に参加して、そのまま行方不明となっていた。


「そうですね。放ってはおけませんからね」

 リッカはそう答えつつも、その表情が不安や心配よりも高揚感に満ち溢れていることは、ダンカンにもすぐに分かった。ダンカンもまた、かつては将軍として様々な戦場を駆け巡った身であるからこそ、その「戦士としての本能」は理解出来る。ただ、彼はリッカとは異なり、一国の政治にもある程度まで関わる身であったことから、今回の作戦の背後で展開されているであろう為政者達の思惑が気になっていた。

「本来、魔境浄化ということであれば、ウチの領主様が指揮官となるべきなんだろうが、その領主様には『お留守番』が命じられたってことは、多分、あの魔境を浄化させたくないんだろうな、『上』の人達は」

 この村の領主であるベアトリスは、対混沌戦において本領を発揮する聖印の持ち主である。本気で魔境の浄化を目指すのであれば、彼女を連れて行かない理由はない。そして、クラカラインの魔境が浄化されれば、神聖トランガーヌの首都ダーンダルク攻略への直通路が開ける以上、それはブレトランド統一を掲げるアントリア子爵ダン・ディオードの悲願にも繋がる。
 しかし、今のアントリアには、ここで神聖トランガーヌ相手に本格的に攻勢をかけられるだけの国力があるとは言い難い。だが、クラカラインをアントリアが領有することになれば、神聖トランガーヌ側からは(アントリア側に先手を取られる前に)必然的にクラカラインに対して全力で攻勢を掛ける必要がある以上、全面衝突は避けられない。神聖トランガーヌとグリースが休戦協定を結んでいる現状においては、最悪の場合、神聖トランガーヌとグリースとヴァレフールの三国がアントリアに同時に攻め込む可能性もある。
 そのような状況だからこそ、これまでの調査隊にも「魔境を浄化出来そうな規模の聖印を持つ君主」は一人も参加しなかった。アントリア側にとって、あの魔境が「最も効果的な対神聖トランガーヌの防壁」である以上、首脳陣は(少なくとも今は)本気で魔境を浄化しようとは考えていないのだろう、というのがダンカンの憶測である。
 とはいえ、その「君主抜きの調査隊」による調査活動が失敗に終わった(と判断せざるを得ない状況になった)以上、今回ばかりは「上」としても、クワトロやジークといった君主達の参加を拒絶する訳にはいかない。だが、それでも、この村の領主であるベアトリスの参戦だけは避けなければならない理由があるのだろう、とダンカンは考えていた。

「領主様のあの性格だと、勢い余って浄化しかねないからな。『上』の人達にしてみれば、トランガーヌと喧嘩もしたくないし、『旧子爵家の令嬢』の聖印が成長するのもまずいんだろう」

 ベアトリスは実直な性格であり、今のところアントリアの現体制を受け入れてはいるが、旧子爵家の血を引く数少ない君主の一人でもある以上、彼女の名声が高まれば、反ダン・ディオード(もしくは反マーシャル)勢力が対抗馬として担ぎ出す可能性は十分にあり得る。
 ただ、確かに彼女は正義感が強い「武闘派の君主」と言われてはいるが、実はそこまで愚直一辺倒な気質でもない。状況次第では悪魔と協力関係を結ぶことも黙認する程度には柔軟な性格なのだが(そのくだりはブレトランドの遊興産業5参照)、そのことを知る者は少ない。

「ローガン殿に至っては、今回の救出計画そのものに反対らしいからな。行方不明になっている魔法師は妹弟子にあたる人なんだが、『心配ないから放っておけ』と言ってるとか」

 アントリアの筆頭魔法師であるローガンは、冷徹な策略家として知られている人物である以上、身内に対して余計な情をかけないこと自体は「いつものこと」である。ただ、ハンナがローガンにとっての「身内」だからこそ、何か特殊な密命に基づいて行動している可能性も十分にあり得るだろう。

「あと、調査隊の中には聖印教会の婆さんも入ってたらしいが、あの婆さんを今回の調査計画に無理矢理ねじ込んだのは、おそらく『副団長』の意向だ。多分、これも何か裏があるな」

 アントリア騎士団の副団長アドルフ・エアリーズは月光修道会系の聖印教会信徒であり、今回の調査隊に参加したメイプル・プラムスが所属するバランシェ神聖学術院の現学長ブランジェの実父でもある。聖印教会の中には、クラカラインの魔境をアントリアが本気で浄化しようとしないことに対して、様々な「疑念」を抱いている人々が少なからず存在しており、その疑惑の真相を確認するための監査官としての役割が彼女に期待されていたのではないか、とも推測出来る。
 もっとも、これらはあくまでもダンカンの憶測であるし、そもそもリッカ自身は、このような話自体にそれほど強い興味を示してもいない。

「いずれにせよ、何者かによる妨害がある可能性は考慮に入れておいた方がいいでしょうね」

 リッカは短くそう答えるに留めた。彼女はあくまでも「異界の剣士」であり、この世界の権力者達の抗争や陰謀に積極的に関与する理由はない。作戦全体の取舵はエステル達に任せた上で、自分は「倒すべき敵」を倒すことに専念する。それが剣士としての彼女の矜持であった。

2.1. 最前線の君主達

「領主様、カレ村からの援軍と、荷馬車が到着しました」

 アグライア領主のクワトロは、その知らせを聞いた時、微妙な違和感を感じた。

「荷馬車?」

 一定規模の軍が派遣されることになれば、そのための補給物資を運ぶための荷馬車が必要となることは理解出来る。だが、あえてそれを「援軍」とは別枠の存在として報告したということは、「軍事目的以外の荷物を運ぶための荷馬車」が随行して来た、と解釈するのが自然だろう。アグライア側からは、特に支援物資などを要求した記憶はない。だとすると、中央からの要請で、何か追加で運ぶように命じられたのだろうか。

「……屋敷へ通してくれ」

 困惑した表情を仮面の下に隠したまま、彼が部下にそう告げると、援軍の指揮官であるジークが彼の前に謁見することになった。

「お初にお目にかかります。カレ村から援軍としてやってきました、ジーク・サジタリアスです」
「こちらこそ、お初にお目にかかる。このアグライアの領主であるクワトロ・スコルピオだ。今回の救出作戦、共によろしく頼む」

 淡々とした口調でそう答える仮面の領主に対し、ジークはいつも通りの、どこか緊張感に欠けた物腰で話を続ける。

「えぇ。共に頑張って、作戦を成功させましょう。のちほど、私が持ってきた粗品を収めますので、そちらのご確認もよろしくお願いします」
「あ、あぁ、確認させて頂く」

 ジークが言うところの「粗品」なるものが気になったクワトロは、早速ジークと共に館の外に出て、入口付近で待機していた「カレからの荷馬車」を確認することにした。
 荷馬車の脇に書かれていた品名を見て、クワトロは首をかしげる。

「この、大根というのは……?」

 ブレトランドでは、いわゆる「白長大根」は珍しい。アトラタン全体を見渡しても、あまり広い地域で生産されている代物ではなかった。

「我がカレ村が誇る農作物でございます」

 ジークが笑顔でそう答えると、この時点でクワトロは何かを思い出す。

「ということは、貴殿があの、農民をしながら君主をしているという……」

 そのような領主がいるという噂だけは断片的に聞いたことがあったものの、それが隣村の話だとは知らなかったらしい。ジークが領主に就任してから既に半年が経過していたが、魔境の最前線に立つクワトロにとっては、後方の村の事情まではあまり気が回らなかったようである。

「えぇ、そうです。若輩者の君主でございます」
「ほう……、だが、それでは君主として、臣民に示しがつかないのでは? そう思ったことはないのか?」

 あえてそう問いかけたアグライアの領主に対し、カレの領主は相変わらず人の良さそうな笑顔を浮かべつつも、その瞳には強い信念を漂わせた様相で答える。

「私の心情としましては、民と共にあってこその国ですので」

 それが「答え」になっているのかどうかは微妙なところだが、クワトロはひとまず納得したような仕草を見せる。

「そうか。まぁ、そういう考え方の君主もいるのだろうな」
「えぇ。国も人もそれぞれですから。私は私のやり方でやらせてもらっていますよ」
「なるほど。分かったよ。これ以上は何も言うまい」
「では、私もこの地に滞在している間は、街並みを拝見させて、色々学ばせて頂きます」

 二人はそんな「噛み合っているのかいないのかよく分からない会話」をかわしつつ、ひとまずその大根は(長期間保存の効く野菜であるため)街の非常食用の倉庫にて保管させた上で、ジークはクワトロとの軍議の続きのために、ひとまず領主の館へと戻って行った。

2.2. 救出隊集結

(さて、顔合わせの場に、リッカさんを同席させて良いものかどうか……)

 アグライアへと向かう街道の途上、エステルは隣を歩く護衛隊長を横目に見ながら、そんなことを考えていた。リッカは地球人の投影体である。ブレトランドは、聖印教会の聖地フォーカスライトが存在することもあり、それなりに聖印教会の影響力が強い土地柄ではあるが、一目見て怪物と分かるような投影体でもなければ、それなりに受け入れられていることが多い。
 リッカは、服装がブレトランドには珍しい東方風の装束であり、その一方で髪は(東方系には少ない)白銀系という、奇妙な取り合わせの容貌ではあるが、見た目にはアトラタン人とそれほど大差ない。とはいえ、いざ戦いの場に立てば、見るものが見れば彼女の力が強力な混沌核に由来していることはすぐに分かる。
 アグライアの領主は、その素顔すら誰も知らないと言われているほど素性の分からない人物であり、投影体に対してどこまで敵対的な文化圏の出身者なのかも分からないが、特に際立った投影体嫌いだという噂を聞いたことがない。とはいえ、投影体という存在そのものがこの世界において忌避される存在であることは間違いない以上、なるべく第一印象を悪くしない程度の配慮は必要だろう。エステルはリッカの腰に差された二本の刀を見ながら忠告する。

「領主の館に入る時は、長物を袋にしまっておいて下さいね」
「分かりました」

 そんな会話を交わしつつ、二人はアグライアの街へと到達し、街の衛兵の指示に従って領主の館へと向かう。すると、その途上で大量の白長大根を乗せた荷馬車が倉庫へと運ばれていく様子が目に入り、エステルは首を捻る。

「アグライアって、農業が盛んなんでしたっけ?」

 エステルが聞く限り、アグライアはどちらかというと商業中心の街である。今はクラカラインの魔境化によって西方への街道が遮断されているが、本来は旧トランガーヌの地理的な意味での中心地であり、内陸交易の要となる街であった。

「大根は、どちらかというとカレ村なのでは?」

 リッカはそう答える。彼女の故郷は「アトラタンの極東に位置する島」と酷似した文化圏であり、白長大根は一般社会の間に広まっているごく普通の野菜である。それ故に、彼女は以前にエルマを訪れた旅人から「ブレトランドの内陸部に『大根の名産地』がある」という話を聞いた時のことが、印象に残っていたのだろう。

「あぁ、そう言えば、カレからも援軍が来てるんでしたね」

 カレの領主ジークの契約魔法師のオラニエは、以前にエルマで実地研修していた経験があり、エステルとは(流派は違うが)同じ錬成魔法師ということもあって、今でも交流はある。当然、二人共(現在行方不明の)ハンナの知人でもあった。
 エステルとリッカは兵士達を館の外に待機させた上で(リッカは二本の刀を布袋にしまった上で)、領主であるクワトロとの謁見の間へと案内された。その傍らにはまだジークの姿もあったが、ひとまずクワトロが自己紹介する。

「アグライアの君主、クワトロ・スコルピオだ」
「エルマ村より参りました、エステル・カーバイトと……」
「リッカです」

 実はリッカにも「姓」はあるのだが、彼女はこの地では「リッカ」としか名乗っていない。この世界の一般大衆は姓を持たない者達が大半であり、平民出身の武人が兵隊長にまで出世することも珍しくない以上、特にそのことに違和感を感じる者はいなかった。

「此度の魔境での活動に我々の手を貸せることは喜びであると考えます」

 魔境探索を生き甲斐とするエステルにとっては、これは建前や社交辞令ではなく、本心から出た言葉である。

「こちらこそ、遠方よりこちらの救援に来て頂き、非常に助かっている」

 当然、これもまたクワトロにとっての本心であろう。錬成魔法師の中でも、魔境探索技術に特化した「菖蒲」の魔法師は数が少ない(半年前のマージャでのお披露目の時にも一人紹介されていたが、彼は大陸北部のバルレアの領主の元へと預けられることになった)。故に、現状において彼女の参戦ほど頼もしいことはないだろう。
 こうして、今回の調査隊救出作戦に参加する全部隊の指揮官が、この場に集うことになったのであった。

2.3. 魔境の地図

 一通り人員が揃ったところで、クワトロの傍らに立っていた一人の侍女が「魔境の地図」(下図参照)を提示する。彼女の名はグレイ。ハンナの侍従であり、この地図は彼女がハンナの自宅の机の奥から発見した代物である。おそらく、過去に何度もクラカラインの魔境に潜入したことがあるハンナが書き記した魔境全体の見取り図であろうというのが、グレイの推測であった。


 地図はかなり記号化された形で描かれていたため、普通の人が見たらそれが何を意味しているのかは分かりにくいが、魔境探索の専門家であるエステルには、おおよその察しがつく。おそらくは「A」と書かれている場所が、アグライア方面から見た魔境の「入口」なのだろう。

「へぇぇぇ……」

 エステルは思わず、そんな声を漏らす。彼女の憶測が間違っていなければ、この魔境は極めて広大な構造である。しかも、地図の端に書かれていた走り書きを読む限り、魔境内では足取りが相当重くなる上に、魔境内に入った者達に対して身体の内側から凶悪な病毒を発症させ、同時に精神をも内側から貪り食うという、凶悪な変異率が広がっているらしい。更に、それらに加えてもう一つ、何らかの「特殊な変異率」が作動していることを示唆させる文言も付記されていた。

(ハンナって、『人間』だったわよね……)

 エステルの解釈が間違っていなければ、どう考えても、この魔境は「生身の人間」が入ってそう易々と帰って来れるような魔境ではない。その魔境を、ここまで奥地まで足を踏み入れて詳細に調べ上げることは、魔境探索の専門家であるエステルを以ってしても極めて困難である(魔境の影響を受けない特殊な体質の邪紋使いや投影体ならば話は別だが)。

「彼女は非常に優秀だったからな。何度も潜入を繰り返して、ここまでの地図を書き上げるところまで至っていたのだが……」

 クワトロはそう呟くが、エステルには「優秀」などという程度の言葉で表現出来る程度の問題とは思えない。様々な可能性について彼女が推測を巡らせている中、もう一人の指揮官であるジークもまた、その雰囲気は感じ取る。

「此度の魔境はなかなか難しそうですね」

 ジークがそう呟く一方で、その傍らに立っていたリッカは、彼の周囲に漂う雰囲気から、彼の「剣士としての実力」を見極めようとしていた。まだ君主としてはかなり年若ということもあって物腰は低く、まるで一般人(農民)のような立ち振る舞いではあるが、それでもリッカが長年磨き続けた観察眼には、少なくともベアトリス(エルマの領主)と同等程度の実力者であるように思えた。

(なかなかだな……。やはり、人は見た目によらないものだ)

 彼女のその食い入るような視線に気付いたジークは、今更ながらにリッカに名乗り出る。

「私の自己紹介が遅れてすまない。カレ村から増援に来たジークだ。よろしく頼むよ」
「こちらからも、よろしく頼む」

 リッカがそう答えたところで、ジークは今度はエステルに視線を向けつつ、オラニエから預かっていた一冊の「本」を彼女に差し出す。

「あなたがエステルさんですか? こちらは、エステルさんに渡してくれと頼まれた……、魔道書? ですかね?」

 それは、オラニエが先日偶然手に入れた 「地球から投影された、巨大な怪物達の戦いを描いた異界魔書」 であった。「エステル先輩が好きそうだから」という理由で、ジークに「おつかい」を頼んだのである。

「あの子の趣味は分からないわね……。まぁ、ありがたく受け取っておくわ」

 実際のところ、エステルは確かにこの手の「異形の存在」に興味はある(なお、つい先日、この怪物達と酷似した魔物がテイタニアに出現していたのだが、そのことはこの場にいる誰も知らない)。その上で、ジークはオラニエから託されたもう一つの「預かりもの」としての(猫好きのハンナへのプレゼントとして用意していた)「マタタビフレーバー付きのねこじゃらし」を、ハンナの侍女であるグレイに手渡しつつ(ハンナは自宅で七匹の猫を飼っており、彼女の不在時はアンナがその世話も担当していた)、改めて魔境の地図を見て心配そうな顔を浮かべる。

「ともあれ、先生救出のために、一刻も早く動かなければ」
「気持ちは分かるが、準備は大事です」

 ジークとリッカがそんな会話を交わす中、エステルは改めてハンナの残した地図と走り書きを確認した上で、現実的な戦略案を提示する。

「とりあえず、魔境の変異率が分かっているのなら、まずは入口で私がそれらのいくつかを壊した上で突入、ですね」

 菖蒲の錬成魔法師であるエステルであれば、並の魔法師では対応しきれぬ変異率でも、全力を尽くせば発散出来る可能性はある。だが、それでも万全を尽くすためには、極力慎重な手順を踏んだ上で攻略していく必要があると考えていた。

「分かりました。私は腕っ節だけは強いのですが、戦略や知略には疎いので、その辺りはあなた方に一任します」

 ジークは謙虚にそう語った。彼はつい一年ほど前まではエーラムの魔法学校に在籍していた身であり、通常の魔法学生であれば(契約魔法師になった時のことを考えて)軍略や政務を担当する上での基礎知識を得るための諸講義も履修するのが慣例なのだが、彼はなまじ魔法師としての才能に恵まれていたこともあり、七色魔法師を目指して全ての魔法学科の専門科目をすることに集中していたため、一般教養科目にまで手を出す余裕がなかったのである(そして、実家の事情で退学することになった時点で魔法に関する記憶は全て抹消されたため、彼にはエーラムで学んだ記憶はほぼ何も残っていない)。

「とはいえ、あまり時間をかけていると、ハンナ達が死ぬのよね……」

 エステルは苦悶の表情を浮かべつつ、どのような手順で魔境の変異率に対応していくべきか、改めて思案を巡らせるのであった。

2.4. 魔境村の内側

 翌日、アグライア・カレ・エルマ連合軍は、クラカラインの魔境の直前に常設されている駐屯地へと進軍していた。
 まず、エステルが魔境の入口に立った上で、魔境内に広がっていると思しき「身体の内側から凶悪な病毒を発症させる変異率」と「幻影を見せて感覚を惑わす変異率」と「戦う気力を削ぐ変異率」を一時的に停止させるための錬成魔法を放つ。ただし、これは完全な発散ではなく、あくまでも自分達の周囲の変異率のみを一時的に無効化するだけの魔法のため、探索が長期化することを前提とした今回の作戦においては、魔境内に入った後で改めて魔境内の変異率を完全に発散させる必要がある(その発散のための術式は、魔境の内側からでなければかけられない)。二度手間になるのは効率が悪いが、この魔境の変異率自体が相当に強大で厄介な効果であるため、その変異率が作動している状況下で発散することも難しく、確実にその影響から逃れるためには、これこそが万全の策であった。
 ひとまず魔法は無事に発動し、これでしばらくの間は彼等は魔境の変異率を無効化出来る状態になったものの、この魔法を発動させた時点でエステルの身体にも相当な負担がかかっていた。

(これを何度も使わなきゃいけないってのは、かなり辛いわね……)

 エステルは疲弊した顔を浮かべつつ、自作の魔法薬で心身を回復させていく。一方、そのエステルの一連の魔法発動の経緯を眺めていたクワトロは「奇妙な懐かしさ」を感じ取る。それは、彼の中に宿った「天雄星」の魂に刻まれた「共に戦った仲間の記憶」であった。

(……彼女が、その一人ということなのか?)

 このような奇妙な感覚に囚われたのはクワトロにとっても初体験であったため、この直感が正しいのかどうか確信はない。ただ、いずれにしても今のこのタイミングでその話をすべきではないと考えた彼は、ひとまず黙って彼女や他の同行者達と共に、そのまま魔境の中へと足を踏み入れて行った。

 ******


 この世界における「魔境」とは、一般的には「混沌の作用によって、この世界の一部が『異界の一部』と入れ替わってしまった状態」を指すことが多い。だが、この魔境の内側は、異世界が投影されたというよりは、この村そのものが混沌の力で変化したかのような様子であった。混沌の作用によって不気味な様相に変容し、上空には濃い霧がかかって視界を遮ってはいるものの、魔境内の地形や構築物そのものは、明らかに以前のクラカラインの村そのものである。
 入口に比べて、混沌濃度が上がっていることは実感出来るが、今のところ生命の気配も怪物の気配も感じられず、入口の時点でエステルが混沌による弊害を発散させたこともあって、特に身体に変調も見られない。ただ、この時点で、四人の指揮官達は、いずれも奇妙な「違和感」を感じ取っていた。

(時の流れが、おかしい……?)

 それは、通常の人間では到底実感することの出来ない微々たる違和感である。だが、魔境探索の専門家であるエステルはもちろんのこと、かつてダン・ディオードと共に世界各地の魔境に足を踏み入れた経験を持つクワトロも、自分自身が投影体であるリッカも、魔法大学で全ての魔法に適正を見出すほどの天賦の才の持ち主であったジークも、常人ならざる鋭敏な感覚の持ち主である。彼等は直感的に、自分達が「魔境の外の世界」とは異なる時空の中に飛び込んだことを実感していた。
 おそらく、ハンナの走り書きの中で示唆されていた「もう一つの変異率」の正体が、この時間経過の変化なのだろう。ハンナ達は本来、最長でも一週間を目処とした調査隊だった。それが、突入してから既に「外の世界」では十日以上経過しているのだが、もしかしたら、この「魔境の中」においては、彼女達の体感時間としてはまだそこまでの時が経過していないのかもしれない(ハンナ達自身が、そのことをどこまで自覚しているかは謎であるが)。
 四人の指揮官達はその感覚を互いに共有していることを確認しつつ、魔境の内部の探索を始めると、彼等は「人間の集団が通過したと思しき形跡」を発見する。それらはまだかなり新しい足跡であり、いずれも魔境の奥地へと向かっていた。その近辺には特に何かと争ったような気配もなく、まっすぐ奥地へと行軍しているように見える。

「ハンナさんも先生も、この様子なら生きている可能性は高そうですね」

 ジークはそう語るが、この奥に何が潜んでいるか分からない以上、今の時点ではその憶測を裏付ける根拠は何もない。とはいえ、仮にこの魔境内の時間の進み方が魔境外の半分程度の速度だったと仮定した場合(この魔境内での体感時間1日が、魔境外での2日に相当する程度の長さであった場合)、少なくとも食料不足で餓死するという心配は消えるだろう。

「では、改めて『この魔境の変異率』を発散しますね」

 エステルは周囲に対してそう告げた上で、今度は魔境の内側から、自分達の心身を蝕む変異率を発散するための術式を試みる。だが、その過程で、この変異率が相当に強力な力で支えられていることを実感した彼女は、自身の瞳の奥に眠る「祖先」の力を解放させた。

「『剣』の加護よ!」

 彼女の祖先は異界人であり、彼女の右の瞳には謎の魔法陣が刻み込まれている。その魔法陣から奇妙な力が放たれると同時に、彼女の全身に謎の魔力が満ち溢れ、魔境内に蔓延していた「身体の内側から凶悪な病毒を発症させる変異率」と「幻影を見せて感覚を惑わす変異率」と「戦う気力を削ぐ変異率」は、無事に魔境内から完全に消滅する。だが、ここで本来の自分の限界を超える魔力を一気に発動させた彼女の身体は内側から激しく損傷し、彼女は血反吐を吐きながらその場で膝をつく。

(まだ他にも残っている変異率はあるけど、これ以上は無理ね……)

 現状、少なくともこの魔境の中にはまだ「足取りを重くする変異率」と「時間の速度を遅める変異率」が作動していることを彼女は認識していたが、今の自身の体調的にも、それらはここで無理をしてまで発散させなければならない変異率ではないと判断した上で、再び自作の魔法薬を用いて体内の傷を癒す。
 その上で、ひとまず最も厄介な三つの変異率が消滅したことを皆に伝えつつ、「この魔境内では時間の進み方が遅い(故に、帰還は遅くなるかもしれないが、心配は無用)」という旨を魔法杖通信を用いて伝えようと試みるが、この魔境内では通信が途絶えてしまっているようで、全く応答がない。
 やむなく、クワトロが魔境の入口近辺に位置する駐屯地に対して伝令兵を出した上で、彼等はそのまま足跡を追って魔境の奥の領域へと進軍することにした。

 ******


 村の中を流れる小さな運河にかかった橋の近辺に辿り着いた辺りで、彼等は周囲の混沌濃度が更に上がったことに気付く。そして、この橋の近辺で足跡は乱れ、そして何かと戦ったかのような形跡が見られる。足跡の形状からして、人間(もしくは人型の何か)以外の魔物が現れたようには見えないが、彼等の軍靴とは異なる足跡が混ざっていることは分かった。
 その上で、彼等の足跡はここから更に北(上図の「K」の方面)へと続いてることが分かるが、この状況がエステルには奇妙に思えた。

「なぜ、ハンナ達はこの状況で奥へ? 撤退する道が分からなくなるような異変が起きていた?」

 ハンナ達が危機的な遭難状況にあるという前提に基づいて状況を推理していたエステルには、この足跡が不自然に思える。一方、どちらかと言えば楽観的な推測を巡らせていたジークは、率直にこの疑問に答える。

「ここでの戦いに勝って、追い打ちに行ったのでは?」

 確かに、この状況だけ見れば、そう考えるのが自然である。ただ、先刻までこの魔境内に漂っていた変異率の恐ろしさを知っているエステルには、そのような余裕が彼女達にあるとは思えない。とはいえ、ハンナも過去に何度もこの魔境に足を踏み入れている以上、この魔境に関しては「彼女しか知らない情報」もあるのだろうと考えれば、あながちジークの推測もただの楽観論とは言い切れない。

「ということは、まだまだ余裕があるということなのかしらね。犠牲者の遺体も見えないし」

 エステルが見渡した限り、橋の近辺に少なくとも人間の死体は存在しない。ここで彼等が戦った相手が投影体なのであれば、倒した時点で消滅するであろうし、仮に「魔境の混沌の力によって魔物化してしまった元村民」であったとしても、混沌の侵食度合いによっては、倒した時点で混沌核だけを残して完全に消滅することもありえるだろう(そして残った混沌核に関しては、浄化する君主がいなくても、アオハネやユリシーズが自身の身体に取り込むことは可能である)。そう考えると「何かと戦ったような形跡だけが残っていて、死体が発見されない」という状況は、普通に考えれば「調査隊が勝利した」と解釈するのが自然である。

「いずれにせよ、この足跡通りに先に進むしかなかろう」

 クワトロがそう告げると、彼等は頷き、そのまま進軍を続けるのであった。

2.5. 調査隊の証言


 ハンナの地図が間違っていなければ、これから救出隊が向かおうとしている先には、かつて異界の神によって神器精製のために建築されたと言われる鍛冶場が存在している筈である。彼等が足跡を辿ってその鍛冶屋の方面へと北上を続けて行くと、やや混沌濃度が下がりつつあることを実感しつつ、やがて彼等の前方から、何やら騒がしい声が聞こえてくる。
 それは、ここまで不気味な静寂が漂っていたこの魔境内においては明らかに不似合いな、人々による「陽気な宴会」の声であった。より正確に言えば、それは「陽気」というよりも、士気軒昂のために無理矢理(半ばやけっぱちに)騒いでいるかのような、そんな雰囲気が感じられたが、リッカとエステルには、それが(彼女達にとって馴染み深い)ユリシーズ隊の宴の声だということが分かる。

「無事だったのね」

 エステルがそう呟きつつ、救出隊が足取りを早めて音のする方向へと向かうと、そこには「本来は鍛冶場であったと思しき建物」の近辺で、焚き火をしながら簡易宴会を催している第13次調査隊の面々の姿があった。ユリシーズも、アオハネも、メイプルも、そして彼等の率いる兵士達も、特に疲弊した様子もなく、焚き火の周りで酒と食事を口にしている。
 だが、その中にハンナの姿だけが見えない(彼女の部下の兵士と思しき面々はいる)。救出隊の面々がそのことに疑念を感じる中、彼等の存在に気付いたユリシーズが真っ先に声をかけた。

「おぉ、領主様、来て下さったか!」

 酒が入っていると思しき盃を片手に陽気な面持ちでそう叫んだユリシーズに対し、仮面の領主は淡々と答える。

「ご健在でしたか、ユリシーズ殿」
「いや、まぁ、さすがにまだ入って一日程度ですし、そうそう簡単にやられるものではない」

 どうやら、エステル達の推測が当たっていたらしい。この領域内では、外と比べて時の流れに約十倍のズレが発生しているようである。だが、このユリシーズの反応に対して、エステルは一つの疑念が生まれた。

「あれ? ハンナから聞いてないの?」

 何度もこの魔境に足を踏み入れているハンナであれば、当然、この「ズレ」のことは知っている筈である。そのことを同行者達に伝えていないのは、明らかに不自然であろう。

「こちらの時間では、もう十日以上経っています」

 クワトロがそう付言すると、ユリシーズは一瞬驚いた表情を浮かべつつも、すぐに納得したような顔へと切り替わる。

「ほう、そうだったのか……、まぁ、確かに、魔境の中ではそういうこともありうるか……」

 実際、魔境内における変異率の一つとして考えれば、(「魔境」という存在にある程度慣れている身にとっては)それほど不合理な話ではない。

「まぁね。でも、ハンナはそれに気付いてないのかしら?」

 エステルがそう問いかけると、ユリシーズ達は表情を曇らせる。

「いや、実は今、ちょっと面倒なことになっていてな……」

 そう前置きした上で、ユリシーズはここに至るまでの状況を説明し始める。彼等は(彼等の体感時間としての)つい先刻、この鍛冶場から更に北に位置する溜池(上図の「J」)のあたりに足を踏み入れたのだが、そこで彼等の目の前に、突如として奇妙な「番人」が現れたらしい。それは「人」の姿をしていたが、明らかに常人ならざる力を備えており、彼等の進軍を妨げるように、謎の光弾を彼等に対して放って来たという。

「俺達は、その姿には見覚えがなかったんだが……」

 ユリシーズがそこまで言った時点で、後方から神聖学術院の老教員メイプルが割って入る。

「あれは、少なくとも私の目には、教皇ハウル猊下に見えた」

 ハウルとは、現在の聖印教会を率いる2代目教皇である。彼自身はイスメイアに存在する教皇庁に鎮座しており、常識的に考えて、このような魔境に出現する筈がない。そもそも、公式記録においてもブレトランドを来訪したことすらないため、メイプル以外の者にはその姿の判別の仕様もないのだが、それでも彼女の目には確かに、その番人は「教皇ハウルと瓜二つの姿」であったという。

「先生! ご無事だったのですか!」

 ジークがそう声をかけると、メイプルは「あぁ、あの時の小僧か」とでも言いたそうな視線を向けつつ、淡々と答える。

「そう簡単にくたばりはせんわ」
「さすが先生です。信じてはいましたよ」

 無邪気な笑顔を浮かべてジークが喜んでいるのを傍目に流し見しつつ、メイプルは持論を語り始める。

「ただし、あくまでも同じだったのは『姿』だけだ。明らかに『本人』ではない。あれは教皇猊下の力を模した何かだ。おそらく、神聖トランガーヌの連中がここまで入り込んだ上で、何か細工を施したのではないか?」

 確かに、神聖トランガーヌ側からも、この魔境に対して何度か調査隊は派遣されている筈である。そして彼等であれば、教皇ハウルの姿も知っているだろうし、ハウルから何らかの「特殊な力」を授けられていたとしてもおかしくはない。だが、仮にそうだったとしても、この状況は明らかに不自然である。

「聖印教会の軍隊が、魔境の奥まで来て、浄化もせずに『教皇の彫像』を造って去って行った、ということ? どういう状況?」

 エステルは困惑する。彼女が知る限り、聖印の力で「人間のような姿を模した何か」を作り出すことは出来ない(それは明らかに魔術の領域である)。もっとも、聖印にはまだ解明されていない秘めたる力があるとも言われているため、それが絶対に不可能と言い切れる根拠はないのだが、それにしても、混沌の完全廃絶を何よりも優先する日輪宣教団を中心とする現在の神聖トランガーヌ軍の行動としては、明らかに不可解すぎる。
 とはいえ、調査隊の前に現れたその「教皇ハウルに似た何か」は極めて強力な存在で、これ以上の進軍が不可能だと考えた彼等は、一時撤退を余儀なくされたらしい。

「それで、ハンナの姿が見えないのだが……」

 ハンナの契約相手であるクワトロが改めてそう問いかけると、ユリシーズは深刻な表情で話を続ける。

「あぁ、そのことなんだが……、俺達が溜池からの一旦退却を決めた時点で、突然、彼女の周囲に何やら混沌の力が発生し、彼女の姿が俺達の目の前から消えてしまったんだ」

 その話を聞いた時点で、エステルの中ではすぐに、それはおそらく「魔境が引き起こした突発的な転移現象」であろうという解釈に至った。魔境内においては、そのような形で空間が捻じ曲げられて、魔境内の別の場所へと転移させられることもある。それは、魔境探索の専門家であるエステルにとっては常識であった。
 そして、どうやらハンナもまたこのような状況が発生しうることは最初から想定していたようで、彼女はあらかじめユリシーズ達に「もし自分とはぐれた時は、更なる混乱を避けるために、ひとまずその場に留まり続けるように」と通告していたらしい。実際、ハンナの直属の兵士達の証言によると、過去にもこの魔境に入った時には、頻繁にそのような事態が発生していたが、彼等がハンナに言われた通りに「その場」に留まり続けていると、いつも彼女はすぐに彼等の元に戻って来ていたらしい。
 今回の場合、一時撤退を決めた直後に彼女の姿が消えた以上、居残り続けるべき「その場」が、溜池近辺なのか鍛冶場近辺なのかの判断が難しいところだが、現実問題として「教皇ハウルを模した番人」が存在する溜池の前で待ち続けることが困難であると判断した彼等は、ひとまずこの鍛冶場まで戻ることにした。その上で、しばらく待っても彼女が戻って来る気配がないため、ひとまず兵士達の不安を打ち消すために、ユリシーズが簡単な「宴」を催すことにしたのである。
 ここまでの話を聞いた上で、改めて状況がよく分からなくなったエステルが思案を巡らせていると、今度は(彼女の旧知の魔境探索仲間である)アオハネが声をかけた。

「あれ? エステルちゃん、なんかちょっと疲れてない?」
「そりゃあ、疲れるわよ、魔境に入ったら」

 ここまで、救出隊の面々は特に魔物や怪物と遭遇はしていないし、人体に直接危害を加えるような突発的事象にも遭遇していない。だが、そんな中でエステルだけは変異率の無効化と発散のために相当な魔力を消耗していたため、彼女一人だけが異様なまでに疲弊していた。
 しかし、そんな彼女の様子に対して、アオハネは首を傾げる。

「でも、この先にいる『教皇ハウル』とかいうのは確かに強敵だったけど、ここに来るまでの間は、そこまで厄介なこともなかったじゃない? ここに来る前に、橋のあたりで人型の怪物は出たけど、そこまで強敵ではなかったし」

 どうやら、橋の時点で調査隊が何らかの魔物と戦っていた、というエステル達の憶測は概ね正解だったらしい。そして、アオハネや他の隊員達の様子を見ても、確かにそれほど疲弊している様子はない。更に、その会話に割って入るようにメイプルが口を挟む。

「まったく、どれほどの魔境かと思って来てみれば……、ここに来てハンナ殿が飛ばされた時には確かに焦ったが、ここに来るまでの間には、特に何もおかしなことは起きていなかったぞ。なぜこの程度の魔境の浄化に、ここまで手間取っているのだ?」

 メイプルのこの言い草から察するに、少なくとも彼女達は「魔境の変異率」の存在に全く気付いていないらしい。そんな彼女に対して、ひとまずジークが(彼の説明出来る範囲で)ここまでの状況をメイプルに説明するが、その一方でエステルはアオハネに問いかけた。

「この魔境に侵入する前に、ハンナは『あたしがやったような魔法』をかけてた?」

 エステルとアオハネは、以前に他の魔境の探索で共闘したことがある。その際に、エステルはアオハネの目の前で変異率発散のための魔法や術式を何度も使って見せていた。

「魔法? いや、特には何も……」

 きょとんとした顔でアオハネがそう答えると、エステルは今度は「ハンナの部屋から発見された地図」を見せる。

「ハンナはこういう記録を残してたけど、あなた達はこれに対してハンナが何かしているのを見た?」
「いや? 特には何も……」

 アオハネのその反応に対して、エステルの中で新たな疑惑が湧き上がってきた。

(この子達は『本物の人間』なんだろうか……?)

 あの凶悪な変異率を発散することもなく、この奥地まで入り込むことが出来た、という時点で、(いくらその身に邪紋を刻んでいるとはいえ)生身の人間とは思えない。最悪の場合、彼女達もまた「既に魔境によって命落とした者達の亡霊」という可能性も否定は出来ないだろう。

「今から、とても失礼なことをするわ」

 エステルはそう呟くと、周囲に対して混沌探知の魔法を用いる。当然、この地は魔境である以上、混沌の気配はそこら中から感じられるし、アオハネやユリシーズはもともと邪紋使いである以上、彼等からも邪紋の力を感じるのは当然の話である(彼等の指揮下の兵士達に関しても、もしかしたら彼等から邪紋の力を分け与えれている可能性はあるだろう)。だが、彼等の中で唯一、聖印教会信徒のメイプルだけは、彼女が本物であるならば確実に「生身の身体」の筈である。もし、その彼女から混沌の気配が感じられた場合、エステルのこの「最悪の仮説」の正しさが証明されることになる。
 だが、そのメイプルからは特に何ら混沌の反応は感知されなかった。どうやら、少なくともここまで「生身の人間」が無傷で進軍出来たということは、紛れもない事実らしい。

「じゃあ、失礼なこと、終わり!」

 彼女が何をやったのか、周囲の者達には全く見当もつかなかったが、自分に視線が向けられていたことに気付いたメイプルは、やや怪訝そうな表情を浮かべつつ、エステルに問いかける。

「つまり、お主らが来た時と、我々が来た時では、魔境の様子が違う、と?」
「えぇ。もしかしたら、『あたし達』に合わせて魔境が変化しているのかもしれない」

 確かに、魔境によっては「入って来る者達」に応じて異なる変異率を発生させる事例もある、ということはエステルも知っている。だとすれば、エステル達の侵入を拒むように魔境が凶悪な変異率を発生させているという可能性は十分にある。だが、だとするとなぜ「同じ方角からの侵入者」である筈のハンナ達にその影響が発生しないのか、という謎は残る。そう考えると、むしろ「逆」の可能性(本来発生する筈の変異率が、なぜか調査隊に対してのみ発生していないという可能性)も有り得るだろうが、いずれにしても、ハンナが不在の現状では、その原因を突き止めるのは難しい。
 そして、ここでエステルは、また新たな一つの可能性に思い至った。

「ところで、メイプルさんが見た教皇ハウルの姿は、他の人が見ても同じだったのかしら?」

 つまり、調査隊の前に立ちはだかった「番人」の正体が、「見る人によって姿が変わる(潜在的に敬意や恐怖を抱いている人物の姿になる)魔物」という可能性もあるのではないか、ということである。ハウルの外見を知る者がメイプルしかいない以上、他の者達にとっては「別の顔」であったとしても、それが同じ姿なのかどうかは、確認してみなければ分からない。

「ふむ、なるほどな……。では、少し待て」

 メイプルはそう言いながら、紙とインクとペンを取り出し、その場で「自分が見た番人の姿」を描き始める。彼女の画力がどこまで正確かは分からないが、他の調査隊の面々にその絵を見せたところ、他の者達が見た姿とも概ね一致していた。つまり、少なくとも「外見」に関しては、明らかに教皇ハウルの姿を模していたということになる。

「いずれにせよ、臆することはない。偽物など、恐るるに足らず」

 クワトロはそう言い切った上で、ひとまず遠眼鏡を用いて溜池方面の状況を確認するが、その「番人」と思しき者の姿は見つからない。既に別の場所へと移動したのか、あるいは、侵入者に反応して出現する魔物の可能性もあるだろう。
 一方、エステルはハンナの所在を特定するために、彼女が日頃から羽織っていた「アカデミー制服の上着(ケープ)」を探知魔法で探そうと試みる。すると、この鍛冶場の位置から見て「西北西」の方面からその気配は感じられた。魔境内の空間が極度にねじ曲がっていない限り、おそらくそれはかつて村の領主の館があったと思しき方角と推測出来る。
 無論、それがハンナの上着であるという確証は無いし、仮にそうであったとしても、彼女が生きているという保証はないが、いずれにせよ救出隊としては、その方角へと向かって進軍する以外の選択肢はない。
 問題は、ハンナから「その場で待つように」と言われた調査隊の面々である。ハンナの直属の兵士達が言うには、今までにハンナとはぐれた時は、ここまで長期間に渡って戻らなかったことはない以上、彼等の中での動揺はかなり広がっている。また、魔境探索そのものを生業とするアオハネも、この先の未知の魔境に足を踏み入れることを許されずに待ち続けるのは不本意であったし、魔法師全体を胡散臭い存在だと考えているメイプルもまた、ここでエステル達に全てを任せて良いと思えるほど、彼女達のことを信用してはいなかった。
 その上で、エステルとしては、彼等に対してハンナの命令を覆してまで自分達に同行するように促す気はなかったのだが、そんな彼女に対して、ユリシーズが問いかける。

「あんたが言うことを信用するなら、ハンナ隊長は領主の館の辺りにいるんだろ? だったら、ここで待ってる必要もないんじゃないか?」
「そうなんだけど……、あたし達が無事に辿り着ける保証もないのよね……」

 つまり、エステル達が魔境の奥地へと足を踏み入れた結果、全滅する可能性は十分にある以上、あえてこの「まだ引き返せる位置」から彼等を一緒に連れて行くことには躊躇せざるを得ない。しかも、領主の館へと続く道は「北(溜池)ルート」と「西(商店街)ルート」が並存している以上、鍛冶場に戻ろうとしたハンナと入れ違いになる可能性もある。

「それはそうだが、魔境の中にいる以上、魔法師殿の近くにいるのが、魔境の変異率に巻き込まれる可能性は一番低いのではないのか?」
「普通はそうなんだけど……、あなた達がここまで『あたし達が受けてきた魔境の影響』を受けていない、というのが、どうにもひっかかるのよね……」

 エステルにしてみれば、自分達が原因で変異率が引き起こされていたのか、彼等の何らかの力によって変異率が引き起こされずにいたのかが分からない。当然、「彼等」の中にはハンナも含まれる以上、仮に後者が正解であったとしても、ハンナと別れた彼等にまだその「何らかの力」が宿っているのかは分からないし、どちらが原因だったとしても、自分達と合流したことで、彼等もまた「魔境の影響を受ける状態」となっている可能性もある。いずれにしても、どちらの仮説もまだ確信が持てる状態ではなかった。

「だから、一緒に来たいんだったら、一緒に来て。こちらとしても盾……、あ、いや、戦力が増えるのは嬉しいし」

 エステルは微妙に言い直すが、ジークは素直にそのまま付言する。

「僕の他にも皆の盾となってくれる人がいるなら、僕は嬉しいです」

 ジークの聖印は、本来ならば一人で多数の敵を殲滅する戦いに適した聖印であるのだが、彼は自身の聖印を成長させて行く過程で、徐々に「友軍を守る能力」を高める方向へと進化していった。故に、彼は自分自身のことを「仲間を守る盾」だと考えており、このような表現を用いることに特に他意はない。
 その話を聞いた上で、実質的な副隊長としてこの調査隊全体をまとめているユリシーズは結論を下す。

「やっぱり、じっとしてるのは性に合わん。俺達も同行させてもらう」

 その決断を他の調査隊の者達も支持した結果、彼等はエステル達と共に西北西へと向かうことになった。その上で、ひとまず番人が出現する可能性のある北の溜池を通るのを避けて、西方の商店街(の跡地?)を経由して領主の館の方面へと向かうことにした。

2.6. 老騎士と人造人間

 (ハンナ以外の)調査隊と合流した救出隊が、西方へ向けて進軍を続ける過程において、調査隊の面々が困惑した表情を浮かべ始めた。彼等はいずれも「前に比べて明らかに足取りが重くなった」と実感し始めているらしい。どうやら彼等もまた「これまで体感することがなかった変異率」の影響を受けるようになってしまったようである。
 エステルが彼等を同行させることにあまり積極的ではなかった理由の一つは「この可能性」を考慮したが故だったのだが、まだこの時点であれば取り返しがつくかもしれないと考えた彼女は、改めてユリシーズ達にこう告げる。

「じゃあ、あたし達はこれから先に向かうから、一旦ここで待っていなさい。その上で、あたし達が見えなくなった時点で歩き出して、まだ歩き辛いようだったら、そのまま進みなさい。普通に歩けるようになってたのなら、さっきの場所まで戻って、ハンナが来るまで待機していなさい」

 つまり、自分達と離れて行動することによって、再び彼等が変異率の影響から逃れられる可能性もある、と考えた上での提案だったのだが、この「実験」の結果、彼等は「救出隊から離れても、やはり歩きにくい」という状況だったようで、そのまますぐに後を追って再合流することになった。

(もう「感染」してしまった、ということね……。「安全地帯」が確保出来たかと思ったんだけどな……)

 エステルは内心でそんな考えを巡らせつつ、諦めてそのまま彼等と合流して西方の商店街へと歩を進めることにした。

 ******


 彼等が旧商店街と思しき区画に足を踏み入れると、混沌濃度は再び(運河の橋の近辺と同程度にまで)上昇し始め、そして領域全体に、凶悪な作用をもたらす病原菌が広がっていることに気付く。エステルはすぐさまその混沌を発散させることで、どうかその病魔から皆を守ることに成功したが、それと同時に彼等の目の前に、彼等にとって全く想定外の光景が広がっていた。
 それは、武装した騎士のような風貌の初老の男性が、「人間の形をした、しかしどこか人間離れした風貌の集団」と戦っている光景である。
 この状況に対し、ジークの部隊に所属していた旧トランガーヌ時代からの古参兵の何人かが声を上げる。

「あれは……、ガルブレイス将軍!?」
「そうだ! 間違いない。ガルブレイス殿だ!」

 この老騎士は、旧トランガーヌ子爵領が健在であった頃、猛将として名声を轟かせていたガルブレイスである。老齢のため、一度は半隠居状態となっていたものの、先代トランガーヌ枢機卿ヘンリーの要請に応じて君主に復帰し、エフロシューネの領主マーグ・ヴァーゴの臣下となっていたと聞いたが、ここ最近(二代目枢機卿体制の発足後)はあまりその名を聞くことがなかった。なお、エフロシューネはクラカラインの南隣に位置する村であり、彼がこれまでにも魔境の調査に赴いていた可能性は十分に考えられる。
 一方、彼と戦っている者達に関しては、魔法師であるエステルの目には、魔法か何かで作り出された人造人間(ホムンクルス)の類であるように見えたが、彼等に対しては、ユリシーズ達が反応する。

「あれは、さっき俺達が村の入口近くの橋で戦ってた連中だ!」

 どうやら、この人造人間達はこの魔境内の各地に出没する(「量産型」の?)存在らしい。彼等が何らかの意図や法則に基づいて生み出されたのかどうかは不明だが、少なくとも現状において、この南方から侵入したと思しき老騎士と戦っているということは、おそらく侵入者全般に対して敵対的な姿勢なのであろう。

「どうする? ここは共倒れを待っていた方が……」

 調査隊の兵士達の一部から、そのような声が聞こえてくる。ガルブレイスが神聖トランガーヌの一員としてこの地に入り込んでいるのだとしたら、今の彼はアントリア軍にとって明確に「敵」である。そして彼の周囲には、彼の部下であったと思しき兵士達の死体が転がっていた。現状の戦局を見る限り、ガルブレイスと人造人間達の戦いは一進一退のようだが、この戦いをしばらく静観していれば、いずれ決着はつくだろう。この時点で両者を「どちらも倒すべき敵」とみなすのであれば、両者が疲弊していくのを静観するのは戦略的に間違いではない。古参兵達にとってガルブレイスはかつての同胞だが、状況が変われば旧友とでも刃を交えるのが乱世の定めである。
 だが、その判断に異を唱える者がいた。

「それは卑怯であろう!」

 クワトロである。彼は旧トランガーヌ人ではない以上、ガルブレイスとの間には何の友誼も恩義もない。だが、人として、聖印を持つ君主として、目の前に「この世界に仇なす魔物(と思しき存在)」がいれば、まず何よりもその排除を優先して協力するのが筋だと彼は考えていた。
 彼は部下の兵士達と共に火矢を構え、そしてガルブレイスと対峙する人造人間達に向けて、自身の聖印の力で威力を増幅させた上で一斉に解き放つ。その突然の斉射に人造人間達が気付いた瞬間、彼等は一瞬にして灰燼と帰し、その場には混沌核だけが漂っていた。
 突然の出来事に驚いたガルブレイスが警戒して剣を構えたのに対し、仮面の騎士は混沌核を自身の聖印にて浄化吸収しつつ、老騎士に近付いて行く。その動きを注意深く凝視しながら、ガルブレイスは問いかけた。

「貴殿らは、アントリア軍のものか?」
「まさしくそうだが」
「この地に来られたということは、この魔境を浄化するためか?」
「私達の目的は『魔境の調査隊』の救出であるが……、概ね間違ってはいない」

 調査隊も救出隊も「魔境の浄化」そのものを命じられていた訳ではない。だが、(国の上層部の思惑はともかく)クワトロ自身は、魔境に隣接する村の領主として、この魔境を浄化出来る状況になればいつでも浄化する心算でいた。

「なるほど……。私は元トランガーヌ軍の将軍、ガルブレイス。この魔境が広がっているという話を聞いて、調査に来た者だ」

 あえて「元トランガーヌ軍」という曖昧な表現を用いた彼であるが、あくまで「元」と強調しているあたり、どうやら彼は現在の神聖トランガーヌに直属する立場ではない(と自称している)らしい。なお、「剣士」としてのリッカの鑑定眼によれば「おそらく昔は相当に強かったのであろう」ということは分かる。
 そんなガルブレイスに対して、エステルは淡々とした口調で語りかける。

「トランガーヌに戻って報告されると少々まずいものを見られたのだけど、どうする? 抵抗するなら容赦はしないし、降伏するなら悪いようにはしないけど、しばらくアグライアには来てもらうかな」

 実際のところ、この状況下において「報告されるとまずい」と思われるほどの軍事機密を晒していた訳ではないのだが、アントリアの一員として、この魔境に大規模な調査を仕掛けているということ自体、知られるのは望ましくないとエステルは考えていた。
 彼女のこの発言に対し、ガルブレイスが険しい表情を浮かべかけたところで、改めてクワトロが口を挟む。

「待て! そこまで威圧すべきではない。私達は敵対するつもりはないことを先に伝えるべきだ」

 現状、ガルブレイスの配下の兵士だったと思しき者達は全員地に伏し、事切れた状態にある。仮にガルブレイスが今でも全盛期と変わらぬ実力の持ち主であったとしても、さすがに四部隊を相手に一人で戦うのは無理があるだろう。その状況下であっても、クワトロとしては、まずこの魔境という環境下において、人間同士で争うことは避けるべきだと考えていた。たとえそれが、
敵国の要人であったとしても。
 そんな彼等に対し、ガルブレイスは落ち着いた口調で語り始める。

「今の私はどこの所属でもない。個人的にエフロシューネの治安維持に努めてはいるがな。貴殿等がこの魔境を浄化するなら、それを止めるつもりはない。むしろ、それに関してはこの魔境を今まで放置してきたトランガーヌ側の責任でもある」

 彼はそう告げた上で、ここに至るまでの経緯について説明する。彼等は、魔境の浄化に向けての本格的な調査のためにエフロシューネ方面の入口(上記地図上の「L」)から突入し、その途中で魔境の変異率によって仲間を失いつつ、この旧商店街の南方に位置する(かつて異界の神を祀っていたと言われる)旧社跡(上記地図上の「I」)の辺りで「人造人間」と思しき者達と遭遇し、どうにか彼を退けたものの、その先に位置するこの旧商店街に足を踏み入れたところで、再び同じような人造人間達の襲撃を受けたらしい。
 この情報を得た上で、エステルは改めて状況を整理する。

「『あたし達以外の部隊』も同じように魔境の影響を受けていたということは……、ハンナがいたことで魔境の影響が止められていたみたいね」

 彼女の中ではこの時点で「様々な憶測」が思い浮かんでいた(最悪の場合、ハンナと最終的に敵対する可能性も考えられる)が、さすがにそれをこの場で口に出しはしなかった。
 一方、そんな彼女の深慮など知る由もないジークは、敵国の老将に対して無邪気に提案する。

「敵対していないなら、この魔境を出るまでは、一緒に行動しましょう」

 ジークの父であるアルベルトとガルブレイスは共に旧トランガーヌを支えた宿将である。ジークの記憶には残っていなかったようだが、ガルブレイスは幼少期のジークのことをはっきりと覚えており、ジークの姿を見た時点ですぐに彼の素性には気がついた。

(一度は君主の道を捨てた筈の此奴が、こうしてこの地に戻って来るとはな……。本来ならば、この魔境は私やアルベルトが解決すべき事案であろうに……)

 老騎士がそんな感慨に浸っている中、仮面の騎士もまた彼の提案に同意する。

「そうだな。一緒に行動しよう」

 ガルブレイスとしては、部下達を失った時点で撤退するつもりであった。だが、この状況下において、彼等が本気でこの魔境を討伐する気があるのならば、それに手を貸すべきではないかと考え、ひとまず彼等と共にこの先へと進むことを決意し、ユリシーズを初めとする調査隊の面々も、その方針に同意したのであった。

3.1. 聖印の記憶


 敵国の老将と合流した上で、もう一度エステルが探査魔法を用いて状況を確認したところ、どうやらまだ「(ハンナが着ていたと思しき)エーラムの魔法師の上着」は、この地の北方に位置する領主の館(上図のG)に存在しているらしい。
 その上で、クワトロが遠眼鏡で今度はその方角の状況を確認してみると、そこには確かに「領主の館」であったと思しき建物は残っており、特に人影は見えない。
 この状況を確認した上で、領主の館に向けて彼等が歩を進めると、混沌濃度が今まで最高潮にまで達していることは実感したものの、思いのほかあっさりと館の目の前までは辿り着く。だが、その次の瞬間、彼等の目の前に四人の「人の姿をした、強力な混沌の力を漂わせた者達」が姿を現した(下図)。


「また出やがったな!」

 ユリシーズは、その中の一人に対してそう叫ぶ。その顔はメイプルの描いた似顔絵と酷似しており、おそらくはそれこそが溜池の近辺で調査隊の前に現れたという「教皇ハウルの姿をした番人」なのであろう。
 一方、ジークはそれとは別の「番人」の顔を見た瞬間、驚愕の声を上げる。

「お父さん!?」

 それは紛れもなく、今は亡きジークの父、アルベルト・サジタリアスの姿であった。そのことは、アルベルトの盟友であったガルブレイスにもすぐに分かったのだが、ガルブレイスはその「アルベルトの姿をした番人」の隣に立つ人物に対して、より強烈な衝撃を受ける。

「バカな! なぜ『陛下』がこのような場所に……」

 彼の瞳に映っていたその人物の名は、ヘンリー・ペンブローク。先代の神聖トランガーヌ枢機卿であり、今のところ最後の「トランガーヌ子爵」である(ガルブレイスにとっては「後者」の認識の方が強かったため、彼の口から咄嗟に出た敬称は「陛下」であった)。彼もまた、既にこの世には存在しない人物である。
 そして、この二人の反応を見た神聖学術院の老教師メイプルは、何やら合点がいったような表情を浮かべる。

「そうか……、『そちらの仮説』が正解だったか……」
「先生?」

 ジークがそう声をかけると、彼女は意を決した表情を浮かべつつ、その右手を掲げると、その手の甲から「聖印」が現れる。

「先生!?」

 ジークは再度驚愕の声を上げる。神聖学術院においては、学長と聖徒会役員以外は、聖印の所持を認められていない。無論、それはあくまでも学内だけの話であり、学外において誰かから聖印を借りる(もしくは「返してもらう」)ことまで制限している訳ではないが、彼女に関してはもう何度も「君主は引退した」と明言しており、今回の調査隊に対しても、あくまで「君主ではない一般人」としての随行だった筈である。しかし、彼女の手に掲げられたその光は、間違いなく「聖印」の輝きを放っていた。

「どうやら、これは我々の聖印に反応して出現しているようだな」

 彼女はジーク達に対してそう告げる。つまり、彼女の聖印は教皇ハウルから賜った代物であり、その聖印の中に刻まれていた「聖印を授けた人物」の記憶に呼応する形で形成された番人が出現している、というのが今の彼女の仮説である。
 実際、ジークの聖印は父アルベルトから(厳密に言えば彼の従属騎士が一時預かりした上ではあるが)継承された代物であり、ガルブレイスの聖印はかつての主君であったヘンリーの従属聖印であった。そう考えれば、確かに筋は通る。
 だが、そうなると問題は「残り一人の番人」の正体である。この老教員の仮説が正しければ、この人物はクワトロの聖印から出現した人物の筈だが、この場にいる者達の殆どは、この人物に見覚えがない(少なくともダン・ディオードではないし、現在のアントリア騎士団の誰でもない)。
 実際のところ、クワトロ自身はこの人物が誰かはすぐに分かったが、自身の素性を隠している彼は、そのことをこの場で口に出すことはない。だが、この場にいる者達の中でもう一人、この人物の顔に見覚えがある者がいた。ジークである。

(あれは確か、あの結婚式の時に殺された……)

 数年前、ジークがまだエーラムで魔法師を志していた頃、当時の幻想詩連合の盟主の令息と大工房同盟の盟主の令嬢の結婚式が執り行われた際、ジークもその場に参列していた。そして突如現れたデーモンロードによって、両陣営の盟主が殺された「大講堂の惨劇」が発生したことは、この世界の誰でも知っている。ジークの記憶が確かならば、今、彼等の目の前にいる「第四の番人」の姿は、この時に殺された当時の幻想詩連合の盟主(ハルーシア大公)シルベストル・ドゥーセである。おそらくは「歴史上、最も皇帝聖印に近づいた男」の一人であろう。
 だが、ジークはこの時点で、今のこの状況を正確に把握出来ていない。父に酷似した人物が現れたという動揺もあってか、メイプルが提唱した仮説の意味そのものが理解出来ていなかった。そして彼が状況を整理する前に、クワトロが叫ぶ。

「大丈夫だ! 力までは模倣出来ない筈!」

 仮面の騎士はそう言いながら弓を構え、戦闘態勢に入る。実際、この「第四の番人」が「模倣元と思しき人物の聖印の力」をそのまま使えるのだとしたら、それは敵としてあまりにも強力すぎる存在ということになるが、さすがに魔境の効果で発生した模倣物に、そこまでの力があるとは考えられない。なお、これらが明らかに「混沌の産物」であり、「聖印の力に由来する存在」ではないということは、エステルとリッカにはすぐに分かった。ただ、投影体というよりは、どちらかというと(先刻遭遇した人造人間と同じような)「魔法生物」に近い存在であるようにも思える。
 そしてこのクワトロの声に呼応するように、ガルブレイスが聖印を掲げ、調査隊と救出隊の全員の武器や防具に光の加護が宿る。この老騎士としては、自分が随行したが故に「余計な敵」を生み出してしまったことへの罪悪感もあったため、ここは全力で彼等を支援するつもりでいたが、それと同時に「新たな疑惑」も浮かびつつあった。

(なるほど、このような形で「聖印の持ち主」が増えれば増えるほど敵が強大化する構造になっていたのだとすれば、日輪宣教団の者達が本気で攻略しようとしても、そう易々と攻略出来ないのも頷ける。だが……、あまりにも都合が良すぎないか? 聖印の力のみに依拠する聖印教会への足止めとして、このような魔境が「偶然」この場に出現するなど、本当にありえるのか……?)

 そんな疑惑を抱きつつ、老騎士がアントリア軍の面々の様子を伺っていると、この老騎士よりも更に高齢の老教員が、部下から借りた剣を構えて「ハウル」の前に立ちはだかる。

「あの偽教皇は、私に任せてもらおう」

 メイプルはメイプルで、自分が原因でこの「ハウル」を出現させてしまったこと(および、その原因となる「自分の聖印」を隠していたこと)に責任感を感じた上での宣言だったが、この「ハウル」の強さを痛感しているユリシーズやアオハネも、彼女一人だけに任せる気はなく、調査隊の面々はまず率先して対「ハウル」戦に専念する。
 一方、この戦場においても先手を打ったのは、やはりクワトロ率いるアグライア軍であった。仮面の騎士は先刻と同様に全力の聖印の力を込めた矢を放とうとするが、目の前に現れた「第四の番人(シルベストル)」の姿に動揺したのか、手先が一瞬ぶれてしまう。しかし、即座にエステルが一瞬時間を巻き戻し、そのことに気付いたクワトロはすぐに落ち着きを取り戻して(今度は狙いを外さずに)改めて斉射し、「シルベストル」「ヘンリー」「アルベルト」の三人に大打撃を与えつつ、「シルベストル」の身体を守る謎の鎧の力も部分的に剥ぎ取ることに成功する。
 その直後、今度は「アルベルト」と「ヘンリー」が救出隊に向けて混沌の力が宿った魔矢を雨のように降らすが、盾を構えたジーク隊がエステル隊を庇うように立ちはだかり、彼等に守られたエステルが静動魔法でジーク隊の装甲を強化するという連携により、彼等は事なきを得る。だが、この連続斉射を避け損なった(もともと防御に長けているとは言い難い)クワトロ隊とリッカ隊は大打撃を受けてしまう。
 更に、その直後に今度は「シルベストル」の「聖印を模倣した力」により、「ヘンリー」の時が巻き戻され、実質的な第三射となる魔矢が放たれるが、エステル隊はジーク隊との連携によってここでも難を逃れ、そしてクワトロ隊とリッカ隊は間一髪のところでその斉射をかわすことに成功する。

(これは即座に倒さなければ、こちらが壊滅する!)

 そう意を決したリッカが決死の覚悟で部下達と共に「ヘンリー」へと突撃し、(既にクワトロ隊の斉射で重傷を負っていたこともあり)一瞬にして二刀の下に斬り捨てる。
 この時点で、クワトロは「エステル隊を庇ったジーク」と「敵の一角を殲滅したリッカ」から、先刻エステルが魔法を使った時に感じたのと同じような「懐かしい感覚」を覚える。

(そうか、この二人もまた……)

 どうやら「天雄星」が語っていた通り、クワトロが「星の声」に気付けたのは、この三人が近くに現れたことが原因のようである。一方、その周囲で戦っているユリシーズ、アオハネ、メイプル、そしてガルブレイスからは、そのような力は感じられない。そのことを確認した上で、ひとまずクワトロ隊は残った敵軍に対して第二射を放つことで「アルベルト」にとどめを刺すと、その直後にリッカが「シルベストル」を、そしてメイプルが「ハウル」を倒すことで、どうにかこの「番人」達との戦いは決着したのであった。

3.2. 星核の輝き

 こうして、彼等の目の前に現れた「四体の番人」は「四つの混沌核」へと形を変え、それぞれの「出現元」と思しき君主達がそれぞれの聖印で浄化し始めるのであるが、状況がひと段落したところで、ユリシーズとアオハネがメイプルを問い詰める。

「あんた、聖印持ってるなんて、聞いてねえぞ」
「てか、君主じゃないんじゃなかったの?」

 それに対して、メイプルは混沌核を浄化吸収しながら、平然とした口調で答える。

「君主というものは、土地と人を治めてこそ君主と言える。今の私は聖印を持っているだけの、ただのババアだよ」

 そんな彼女の言い分にどこまで正当性があるかはともかく、ユリシーズの中では聖印教会(月光修道会)の思惑は概ね理解出来た。今までの調査隊に君主を随行させなかったことから、聖印教会側としては「アントリア軍は魔境を浄化させる気がないのではないか」という疑惑を抱いていたが故に、聖印教会側も彼女を「君主ではない」という名目で同行させ、あわよくば彼女の手でこの魔境を浄化させようと考えていたのだろう。。
 一方、クワトロは先刻の「シルベストル」の姿を思い出しながら、誰にも聞こえぬ程度の小声でボソッと呟く。

「まさか、また私の人生に関わってくるとは……」

 彼等が複雑な思いを抱きながら、それぞれの番人の混沌核を浄化し終えたところで、エステルが皆に告げる。

「とりあえず、休憩しましょうか」

 今、彼等の目の前には「領主の館」がある。おそらく、この中に「ハンナの上着」が存在することは間違い無いのだが、今の戦いで相当に消耗してしまった彼等としては、逸る気持ちを抑えて態勢の立て直しを図るのが上策であった。
 クワトロもその方針には同意しつつ、彼はエステル、リッカ、ジークの三人に対して、こう告げた。

「すまないが、皆々、内密の話を聞いてほしい」

 ******

 兵士達を領主の館の手前で休ませた上で、救出隊の指揮官達は、ひとまず「四人だけで会話出来る場」へと移った上で、(エステルが他の三人の傷を魔法薬で回復させていく傍らで)クワトロが「天雄星から聞いた話」を、一通りそのまま彼等に説明する。それはあまりにも壮大で、あまりにも突拍子がなく、あまりにも非現実的な物語であったが、クワトロは自身の中に眠る「天雄星の記憶」通りに、そのまま彼等に「未来の自分が経験する過去の出来事」を事細かく伝えた。

「……その上で、君達から、その『星核』の力を感じたのだ。私がその力を目覚めさせることが出来るかどうかは分からないが、まずは試させてほしい」

 その唐突すぎる提案に対して、エステルが眉唾物の表情を浮かべている中、最初に動いたのはジークだった。彼の脳裏では、この時、出発前に村の占い師であるサンドラから告げられた「星」「前世」「出会い」という三つの言葉が思い出されていたのである。クワトロが語った話は、まさに彼女から聞いた言葉と見事なまでに一致していた。

「そんな力が僕の中に眠っているのならば、ぜひ目覚めさせてくれないか?」

 ジークがそう言うと、クワトロは彼の手を握り、そして自身の星核の力をジークへと注ぎ込む。すると、ジークの心の中に、彼の宿星である「天殺星」の声が響き渡る。

(あなたの理想の未来を、思い描いて下さい)

 その声に対して、ジークは一瞬戸惑いながらも、すぐに自分の信念をそのまま思い浮かべる。

(僕の望む未来は……、民と笑い合って生きていく世界)

 彼がその未来像を思い浮かべた直後、彼の目の前に「青白い光を放つ星」が出現する(この時、夜空にも同じ輝きを持つ星が出現していたのだが、魔境の中にいる彼等には、その存在は感知出来なかった)。

「これが、星の力……」

 まだその力の意味もよく分からないまま、半ば呆然とその輝きを見つめるジークの横で、今度はエステルがクワトロへと近付き、自ら彼の右手に自らの手を重ねる。すると、彼女の心の中にも、彼女の宿星である「地楽星」の声から、同様に「理想の未来」を求める声が響き渡る。

(あたしが望む世界か……、歯車の噛み合った世界、かな……)

 彼女が心の中でそう呟いた瞬間、彼女の目の前に「赤みを帯びた星核」が出現する。それは、クワトロやジーク達とは異なる「混沌の力に由来する星核」の輝きであった。
 そしてリッカもまた、黙って彼等と同様にクワトロに手を合わせ、彼女の宿星としての「地囚星」の声が聞こえてきた。他の星々と同様の「想像」を求めるその声に対して、彼女はしばし考えを巡らせながら、強い決意と共に心の中でその思いを言葉にする。

(人々に厄を為す妖(あやかし)の類(たぐい)に対して、人々自身の力で立ち向かっていける世界)

 その想いに応えるように、リッカの目の前にも「赤みを帯びた星核」が出現する。そしてこの時、リッカの心の中には、彼女自身の「この世界における在り方」に関わる「新たな覚悟」が芽生え始めていのであった。

3.3. 踏み込む者達

 こうして三人が密かに「星核」を作り出している間に、兵士達も仮休息を得て英気を養ったところで、調査隊と救出隊、そしてガルブレイスを交えた面々によって、ここから先の方針を確認するための軍議が開かれることになった。

「さて、なんとかここまでは来た訳だが……」

 ユリシーズはそう切り出しつつ、改めて領主の館へと視線を向ける。皆、この館の内側から非常に禍々しい気配が漂っていることは直感的に認識していた。建物の大きさからして、ここまで率いてきた兵士達全員を連れて中に入ることは出来ないだろうから、ある程度まで人員を絞って突入する必要がある。
 最初に私見を述べたのは、ガルブレイスであった。

「アントリアとして、この先に『見せたくないもの』があるのなら、儂は別に無理に入らせろとは言わん」

 この中に何があるのかは知らないのだが、ガルブレイスの中では、この魔境の出現そのものに対する「疑念」が強まっていた。それ故に、あえて先刻のエステルの言い回しを引用するかのような、棘のある言い方でそう告げる(実際には、エステルもこの先に何があるのかは何も知らないのであるが)。

「私も、あなたには外の警護をお願いしたいと思ってました」

 そう答えたのはジークである。この状況下において館の外にまた何者かが出現する可能性は十分にあるし、エフロシューネ経由で新たな神聖トランガーヌからの調査隊(救出隊)が派遣される可能性もあるだろう。そうなった時に、仲介役としてガルブレイスが「館の外」にいてくれた方が安全でもあるし、状況によってはガルブレイスを実質的な人質として交渉材料にすることも出来る(ジークがそこまで考えていたのかは不明だが)。
 一方、もう一人の老君主であるメイプルは、神聖学術院からの「監査役」として、この奥に「アントリアにとって見せたくないもの」があるとしても、退く気はなかった。

「私は同行させてもらう。その上で、一つ確認したいのだが、お前達は、状況によってはこの場で魔境を浄化する覚悟はあるのだろうな?」

 指揮官達に対して鋭い視線を向けつつそう言い放った彼女に対し、今度はエステルが淡々と応える。

「まぁ、するなとは言われてないから、浄化して帰っても良いんじゃない?」

 実際のところ、国の上層部が浄化を望んでいないことは明らかなのだが、彼女はあくまで「魔法師協会の一員」である。その論理に従えば、一国の裏事情などに忖度する必要はないだろう。もっとも、彼女も(この魔境が消滅することにより)神聖トランガーヌとの戦端が開かれることを望んでいる訳ではないが、それを判断するのは前線の君主達の役目である。
 そして、「前線の君主達」の返答は明快であった。

「僕としては、これで脅威が取り除かれるのであれば、浄化する覚悟の一つや二つ、いくらでも決めてやるよ」
「私も街のこんな近くに存在する魔境を、これ以上放置はしていられないからな」

 ジークとクワトロがそう応えると、メイプルは満足気な表情を浮かべつつ、真っ先に領主の館へと足を進める。

「では、中を覗かせてもらおう」
「ちょっと待って下さい、先生!」

 ジークが慌ててその後を追い、そしてクワトロとエステル、更にはリッカが後を追う。一方、ユリシーズとアオハネは何も言わずに彼等の後ろ姿を見守っていた。

(今のお前からは、以前には欠けていた「確固たる覚悟」が感じられた。お前にならば、安心してハンナ隊長のことも任せられる。頼んだぞ、リッカ)
(「その中」に何があるかも興味あるんだけど……、なんとなく、「こっち」も「こっち」で、何かまだ起きそうな気がするんだよね〜、長年の冒険者の勘として♪)

 そんな二人の思惑など知る由もないまま、5人は領主の館の中へと踏み込んで行くのであった。

3.4. 二つの真実

 館の玄関を潜った先の広間からは、人の気配も魔物の気配も感じられなかった。だが、(おそらくは魔法装置と思われる混沌の力によって)館の内側は照らされており、松明やランタンを付ける必要もなかった。
 五人がそのまま館の内部を探索していると、彼等は「地下」へと降りるための階段を発見する。この建物自体は二階建ての、それほど大規模でもない構造に見えたが、もしかしたらこの館の地下にこそ、この魔境の発生の原因があるのかもしれない。そう思える程に、その階段の奥からは「禍々しい混沌の気配」が漂っていた。
 地下へと続く階段の中も謎の光が灯されており、五人はそのまま慎重に下方へと歩を進めると、彼等が階段を降り切った時点で、「奇妙な装置」が全体に設置された不気味な部屋へと到達する。それは、あたかもエーラムの高等研究施設であるかのような不可思議な雰囲気が漂う大部屋であり、その中央には二人の人物の姿があった。
 一人は、中央に設置された椅子に座った老人。その頭部の大半は、おそらく特殊な魔法装置であろうと思われる被りもので覆われているため、はっきりと顔は確認出来ないが、風態からして、おそらくは一年以上前から行方不明となっていたこの地の領主、Dr.ジェロであろうと推測出来る。彼が座っている椅子もまた、頭部の被り物と同様、何らかの特殊な魔法装置の一部であるかのように見えた。
 そしてもう一人は、そのジェロに付きそうように、右手に「奇妙な形状の魔法杖」を持ちながら、そのジェロの椅子や頭部の魔法装置を操作している一人の女性である。彼女は来訪者の到着に気付くと、涼しげな顔でこう告げた。

「あら、マスター、もういらっしゃったんですか」

 それは紛れもなく、ハンナの姿であった。クワトロはその表情を仮面の奥に隠したまま、淡々と答える。

「あぁ。こちらでは、もう十日以上も経っていたからな」

 その言葉に対して、ハンナは苦笑を浮かべる。

「あー、やっぱり、これ、もう壊れてたのかぁ……」

 そう言いながら、彼女は自分が手にした「特殊な魔法杖」に一瞬視線を向けつつ、改めて来訪者達を確認する。

「えーっと、マスターと……、確か、お隣の領主様でしたよね」
「はい、ジークです」

 一応、彼女は(彼の契約相手が後輩のオラニエだから、ということもあるだろうが)クワトロとは異なり、隣村の領主のことも把握していたらしい。

「そしてエステル、お久しぶり」
「やっほー」

 錬成魔法科の同期である二人は、あえて互いに気の抜けた口調でそう答える。

「その隣の貴女は……?」
「用心棒みたいなものですよ」

 リッカにしてみれば、それ以上の自己紹介は不要なのだろう。

「で、奥の方は?」
「私はただのババアだ。気にするな」

 本当に気にする必要がない存在なのかどうかは分からないが、それ以上聞いても答えてくれなさそうな雰囲気を、ハンナは感じ取っていた。
 そして、少し間を開けた上で、今度はエステルがハンナに問いかける。

「その魔法杖は、あなたが作った物かしら?」
「これは……」

 ハンナはそう言って説明しかけたところで、仮面の上司に視線を向ける。

「……マスター、一つ確認したいんですが、この場にいるのはアントリアの方々、ということでよろしいのですね?」
「そうだな。ここにいるのは全員アントリア人だ」

 「アントリア人」の定義は厳密に考えると難しいのだが、少なくとも現時点でアントリア子爵(代行)の傘下にいる者達であることは間違いない。

「そういうことなら、お話ししても良いでしょう。というより、お話しせざるを得ないですよね」

 彼女はそう言いながら、諦めたような表情を浮かべつつ、一度深いため息をついた上で、ゆっくりと語り始めた。

「私は、Dr.ジェロとローガン様の繋ぎ役を任されていました」

 ハンナはそう言いながら、椅子に座ったままのジェロに視線を向けるが、彼は微動だにしない。だが、その身体からはまだ微かに生気は感じられる。

「大体皆さんお察しだと思いますが、この魔境を作ったのはDr.ジェロです。彼は自分の聖印を割った上で、そこから出現した混沌核を用いてこの地を魔境化することで、『敵』の侵攻を食い止めるという『最後の手段』に出たのです」

 ジェロは元々魔法師である。その記憶は魔法師協会を退会して君主となった時点で消された筈だが、何らかの形で取り戻したのか、消されたふりをしていただけなのか、もしくは退会後に自力で再習得したのかは分からないが、密かにこのような「研究室」を作って、独自の新たな魔法の開発を続けていたのである。

(偶発ではなかったのか……)

 リッカは内心でそう呟く。だが、それも一つの可能性として、多くの者達が薄々予想していた事態ではあった。そして、この魔境の中に「聖印に反応して出現する魔法生物」などという「都合の良い装置」が組み込まれているのも、(ヘンリーが大陸で聖印教会と手を結んだという噂を聞いた上での)対聖印教会戦を想定した細工と考えれば、納得も出来るだろう。

「その上で、彼はこの地下室からこの魔境全体を統御していたのですが、彼の『身体』が限界に来たのか、それとも『脳』に限界が来たのかは分からないのですが、制御が効かなくなったのです。それで、私が時々入って来て、彼の代わりにこの魔境を調整してきました」

 その密命を出していたのがローガンであることは、文脈上、誰でも推測はつく。実際のところ、魔境出現までもがローガンの命令だったのか、ジェロの独断だったのかは不明だが、いずれにせよこのような状況になれば、率先して魔境の維持のためにローガンが奔走するであろうことは、彼の人となりを知る者であれば、何の違和感もなく納得出来る。

「この魔法杖は、この魔境を制御するための鍵です。だから、この魔境の中の変異率も魔物も、この魔法杖で制御している限りは、私に害を与えることはありません。ですから、本当は魔境に入る時は私一人で十分だったのですが、さすがに私一人で何度も出入りするのは怪しまれるので、部隊と共に入り込んで、時の流れを操作しつつ、ここまで来て整備して、すぐに戻る、という作業を繰り返していました」

 さすがに、そこまでの魔法杖をハンナが独力で作り出せるとは考えにくい以上、おそらくそれはジェロの手によって作られた代物だろう。時空の流れが違うのも魔境の変異率によるものである以上、当然、その魔法杖を使えばその制御も出来る。故に、彼女は魔境に入る度に毎回「魔境内の偶発的な混沌作用」によって護衛の兵士達からはぐれてしまったようなフリをして、実際にはその間にこの地まで足を運んだ上で「魔境の制御装置の調整作業」に従事しつつ、その間の魔境内の時間の進行速度を極限まで抑えることで、即座に彼等の元へと戻ったかのように見せかけることが出来ていたのである。

「でも、この魔法杖での時間の制御も効かなくなってるのなら、そろそろ『この方』にはご退場を願った方がいいのかな……」

 彼女は冷ややかな目でジェロを見ながら、そう呟く。どうやら、彼女個人としては、ジェロに対して特に尊敬や共感の念はなく、ただ「兄弟子ローガンからの命令だから」という理由で行動していただけらしい。
 そんな彼女に対して、同期のエステルは「エーラム魔法師協会の一員」として提言する。

「では、今からこの魔境を浄化した上で、その分の功績に応じた魔法師協会からの支援を用意することに……」
「いえ、この魔境はやはり、壊しては駄目なのですよ」

 ハンナは、どこか達観したような表情で、そう断言した。

「このブレトランドの平和のために、今、『ここ』を壊す訳にはいかない。ですので、ローガン様からは『このような事態』への対処法も承っています。もし、Dr.ジェロが既に限界なのであれば、私が彼の代わりになれ、と」

 冷めた瞳で、しかし明確に「彼女自身の意思」に基づいてハンナはそう告げた上で、そのまま話を続ける。

「私が彼の代わりにこの魔境を統御する。そうすれば……」
「一年くらいは持つ、と?」

 エステルが相槌を打つようにそう問いかけると、ハンナは苦笑まじりに答える。

「まぁ、私の方が若くて、体力もありますからね。何年持つかは分からないですけど、よっぽど大丈夫だとは思いますよ」

 あっけらかんとそう語るハンナに対して、彼女の契約相手である仮面の騎士は、淡々と語り始める。

「なるほどな……。今までそんなことをしていて、平和を維持してくれていた訳だ」
「そういうことになりますね」

 「マスター」の口調から、彼がこの状況に対して何か思うところがあるということはハンナも察していたが、あえてサラッと流すような返答だけに留める。
 一方、エステルは彼女の言い分を理解した上で、それでも純粋に「一人の魔法師」として、率直な疑問を口にする。

「ブレトランドの平和の維持のためにここが必要だというのは、いまいち腑に落ちないですね。正直、今更神聖トランガーヌと戦端を開いたところで……」

 エステルから見れば、やはり「人間同士の戦争」よりも魔境の方がより喫緊の脅威なのだろう。彼女は魔境探索を生き甲斐としているが、決して魔境そのものの愛好家ではなく、誰よりも魔境の恐ろしさは熟知している。
 とはいえ、最終的な判断を下すのはやはり「現場の君主」の判断であろうと彼女は考えている以上、それ以上は何も言わない。もし、この場に彼女の契約相手であるベアトリスがいれば、自らの主君の聖印を成長させるためにも魔境の浄化を強く推進しただろうが、その彼女は今回の計画には加わっていない(無論、それもローガンの思惑のうちだろう)。
 そして、現場の君主達のうち、最初に意思を表明したのはジークであった。

「魔境は危険な存在だ。その一点に尽きます」

 彼はそもそも、国際政治の事情など何も分かってはいない。この魔境の先に待つ聖印教会の過激派の面々とも、話し合えば分かり合える可能性があると考えている。その楽観論を裏付ける根拠はどこにもないのだが、それでも「人の手で制御出来ない魔境」よりは、まだ日輪宣教団との方が和解の余地はあると考えるのも、あながち間違ってはいないだろう。
 そんなジークの主張をメイプルが満足そうに眺める中、今度はもう一人の(より対魔境最前線の)現場の君主であるクワトロが、改めてハンナに問いかける。

「私はローガン殿の思惑は分からないが……、この魔境によって道の一つを塞いだところで、神聖トランガーヌとの問題は解決するのか?」
「少なくとも、この魔境が無くなれば『国境線』が生まれてしまいますからね。戦争を防ぐには、こうするしかないのです」
「なるほど。そういう考えもあるか……。だが、私とローガン殿の考えは少し違う」

 彼はそう言いながら、ハンナに対して強い口調で言い放つ。

「ハンナ、君がこの魔境を引き継ぐ必要はない。ここは私が浄化する」

 日頃は自身の感情を表に出さない「仮面の騎士」である彼から発せられたその言葉から、これまで感じたことのない「本気の想い」を受け取ったハンナは、どこか満足気な様子で口元に微笑を浮かべつつ、「マスター」に対してそこはかとなく挑発的な視線を投げかけながら、悪戯っぽい口調で語りかける。

「んー、そう言われましてもねぇ……、私はもともと、ローガン様の斡旋で、マスターの元に派遣されたような立場ですし……。それにマスター、まだ私のこと、信用してないでしょ?」

 ハンナは以前から、自分の素顔すら明かさないクワトロに対して、常に「壁」を感じていた。あえてそのことを深く追求しようとはしなかった彼女だが、やはり、内心では色々と思うところはあったようである。

「まぁ、そりゃあねぇ、こっちも色々隠していた以上は、私のことを信用してもらえなくても、しょうがないんですけどぉ……」
「それは、私も同じことだから、どうこう言うつもりはない」

 クワトロが淡々とそう答えると、改めて彼女は「構って欲しい子猫」とも「獲物を狙う女豹」とも取れそうな、なんとも形容しがたい上目遣いの視線で語りかける。

「そうですね……、マスターが今から、『本当の意味での私のマスター』になってくれるのであれば、ここであなたの命令に従うのも、やぶさかではありません」

 彼女の言わんとすることを理解したクワトロは、ゆっくりとその顔を覆っている仮面に手を掛ける。

「……そうだな。確かに、君の方だけが秘密を明かしてくれた訳だからな」
「えぇ、こちらからは、もう全て晒しましたから」
「その前に、少し言いたいことがある」

 彼はそう前置きした上で、再び強い口調で言い放った。

「私はこのブレトランド……、いや、もっと言えば、この世界で同じ天を頂く者として、たとえ神聖トランガーヌの人々といえども、必ず分かり合えると思っている」
「ほう……」
「その上で、私の秘密も明かそう」

 そう言いながら、彼は仮面を外す。その下に現れたのは、ハンナがこれまでに見た誰よりも壮麗な、類稀なる端正な顔立ちの男性であった(下図)。そのあまりの美しさにハンナが圧倒されている中、彼は更なる衝撃的な一言を告げる。


「私の本当の名はルキウス・ドゥーセ。幻想詩連合の盟主アレクシスの兄だ」

 誰も想定していなかったその言葉に、その場にいる誰もが度肝を抜かれる。だが、ジークだけは他の者達よりも若干素直にその真実を受け入れることが出来た。先刻遭遇した「大講堂の惨劇で死んだシルベストル」の顔を知っていたジークにしてみれば、確かにその説明で全て納得出来る。更に言えば、ジークはあの結婚式の際に当然アレクシスの顔も見ているが、今のルキウスからは、確かにアレクシスと似た雰囲気を感じ取ることが出来る。たとえるならば、やや頼りなさそうな雰囲気の持ち主であるアレクシスに、幾度かの修羅場をくぐってきたことを感じさせる精悍さを加えたような、そんな風貌であった。
 とはいえ、幻想詩連合の盟主の兄が、大工房同盟の一員であるアントリアの騎士となっている状況は、どう考えてもにわかには信じ難い(なお、過去に幻影の邪紋使いに騙された記憶のあるリッカは、この時点で当然「偽物」の可能性も考慮していたが、少なくとも彼からは、邪紋の気配は感じられなかった)。仮にそれが本当であったとしても、そこには何か特別な陰謀や思惑が関与していると考えるのが自然であろう。だからこそ、彼はこれまで、自らの素性を明かさなかった。だが、ここに至って彼は、自分に全てを語ってくれたハンナの想いに応えるために、自らもまた全てを晒す覚悟を決めたのである。

「心の底から誓って言おう。私がこの国に仕えているのは、純粋に、ダン・ディオードを信頼した上でのことであり、私の過去に関わる個人的な思惑など、私の中には一切ない」

 その言葉を信じられる客観的な根拠はない。とはいえ、この場であえて彼がその素顔を晒してまでそう語る以上、そこに何か裏があると断言出来る根拠もないだろう。
 皆が呆気にとられている中、誰よりも目の前でその美しい素顔を目の当たりにしたハンナは、緩みそうなその表情を必死で取り繕おうとしつつも、取り繕えきれない、そんな心境に陥っていた。

(この人、絶対ハンサムだと思ってたけど……、イケメンオーラが仮面から溢れ出てるって、ずっと前から思ってたけど……)

 自分の中で湧き上がる感情を抑えきれずに、ハンナは思わず本音を口走り始める。

「……さすがに、そこまでとは思わなかったなぁ。そこまでとは思わなかったけど……、でも、私もエーラムに留学していた頃のアレクシス様にはお会いしたことがあるんですよ。そっかぁ、そうだったのかぁ……」

 アレクシスを生で見たことがある女性であれば、並の美男子が「アレクシス似」と自称したところで、鼻で笑い飛ばすだろう。だが、確かにこの目の前の「マスター」からは、アレクシスの兄と言われても納得せざるを得ないほどの、圧倒的な「美の圧力」を感じていた。むしろ、どこか影を帯びた「大人の雰囲気」を感じさせる今のルキウスの方が、彼女の中ではより「タイプ」かもしれない。

「いやー、ローガン様、いいところ斡旋してくれたなぁ。そんなローガン様には恩義があるけど……、でも、これはしょうがない! そういうことなら、分かりました。では、改めて……」

 彼女は独り言のようにそう呟きながら、「仮面を外した美貌の騎士」の前に跪く。

「……私、ハンナ・セコイアは、あなたに永遠の忠誠を誓います。私を、あなたの契約魔法師にして下さい」
「私も、あなたと共にある君主となることを誓おう。よろしく頼む」

 その言葉をハンナは万感の思いで受け止めつつ、先刻までの「あっけらかんとした表情」に戻った上で、淡々と語り始める。

「じゃあ、まぁ、しょうがないんで、どちらにしてもDr.ジェロには『ご退場』頂きましょう」

 彼女はそう言いながら、ジェロの身体に繋がれている魔法装置に手をかけ、何らかの措置を施しつつ、そのまま説明を続ける。

「ただ、ここでこの魔境発生装置を破壊しようとした場合、自動防衛装置が発動します。そして、その解除法は、残念ながら私にも分からないんです。ですから、おそらく今から、そこら中から何か防衛兵のような魔物が出現すると思いますが、それは皆さんでどうにか倒して下さい」

 あっさりと他人事のようにそう言ってのけるハンナであるが、現実問題として、彼女はあまり直接戦闘には向かない系譜の錬成魔法師である。特にこの部屋のような閉鎖空間においては、彼女の用いる攻撃魔法の大半は周囲を巻き込んでしまうため、あまり有効とは言い難い。

「あぁ、任せてほしい。こういう荒事だけは得意なんだ」

 そう答えたのはジークであった。彼もまた、あそこまではっきりと言い切った以上、責任を持ってこの魔境を破壊する覚悟は定まっていた。
 一方、そんな若い君主達の覚悟を満面の笑みで眺めていたメイプルは、階段を伝って「上」の方から聞こえてくる喧騒に気付く。

「どうやら、地上の方でも何かあったようだな。私はそちらを見て来る」
「あ、私も行きます」

 ハンナもそう言って、階段を駆け上がって行く。地上で何が起きているのかは分からないが、不測の事態に対応するという意味でも、ここはハンナかエステルのどちらかが出向いた方が良いだろう。そう考えれば、部下達を地上に残しているハンナの方が適任である(もっとも、彼女はそこまで状況を把握出来ていた訳ではないのだが)。
 そして、結果的に(若い分、瞬発力に優れた)ハンナの方がいち早く階段を駆け上がって行ったのに対しメイプルはこの場に残る四人に視線を向けて言い放つ。

「あんた達も、破壊した上でヤバイと思ったら、すぐに上がって来な!」
「ありがとうございます、先生!」

 ジークがそ答えると、メイプルはニヤリと笑いつつ、最後にルキウスにも声をかけた。

「まだ今の時代にも、お主のような君主がいることが分かって、安心した。まぁ、何かあったら私が『向こう側』との仲介役でも何でも買って出る。では、よろしく頼むぞ」

 彼女が言うところの「向こう側」とは、おそらく神聖トランガーヌのことであろう。彼女は聖印教会の人間である以上、確かに状況によっては、仲介役として機能することが出来る可能性はある(もっとも、日輪宣教団と月光修道会は宿敵関係でもあるため、かえって話がこじれる可能性もあるが)。

「あぁ。私に任されよ」

 ルキウスがそう答えると、メイプルもまた階段を駆け上がって行く。こうして、約一年間に渡って両国の国境線上に存在し続けた「魔境」との、最後の戦いの火蓋が切って落とされることになった。

3.5. 最後の番兵

 残された四人が、まずジェロの座っている椅子に近付いて様子を確認してみると、この時点で既にジェロは息絶えていた。どうやら、先刻彼女が「『ご退場』願いましょう」と言った時点で、既に彼の生命維持装置は破壊されていたらしい。
 その上で、この椅子に備え付けられた諸々の装置が魔境の発生源であろうと考えた彼等は、それぞれの得物を用いて、全力でその装置を叩き壊す。すると、その椅子を中心として急速に混沌核が収束し始め、彼等を取り囲むように「五体の魔法生物」が出現した。その姿はいずれも、複数種類の(おそらくは出身世界も異なる)魔物を強引に繋ぎ合わせたかのような不気味な姿で、その中の四体は「人よりもやや大きい程度の怪物」であったが、入口付近に出現した一体は、それらよりも遥かに強大で、その内側からも強烈な禍々しい混沌核の気配が感じられた。おそらくこの魔物が「魔境そのものの混沌核」でもあるのだろう、ということを彼等は直感的に推測する。
 おそらく、今のこの時点で、この魔境発生装置自体は既に半壊している。だが、魔境の混沌核さえ残っていれば、そのまま放置しておけば再び何らかの魔境が出現する可能性が高い。だからこそ、どちらにしてもこの魔物を倒さなければ、この村が安住の地に戻ることはないだろう。
 彼等がそのことを覚悟したところで、唐突にリッカが叫ぶ。

「我が名は白神陸華! 白神の名の下に、災厄を打ち砕く者なり!」

 その突然の名乗りに対して、一瞬、他の三人が面食らったような表情を見せる。

(シラガミ……?)

 それなりに長い時間を彼女と共にしてきたエステルですらも、その姓を聞くのは初めてであった(そもそも語順的に、この時点においてもそれが彼女の「姓」だと認識されているかどうかも怪しい)。
 リッカの出身世界において、「白神一族」とは「辻斬りの一族」としても知られる一線級の武芸者の家系であるが、彼女は今までこの世界において、あえてその名を名乗ろうとはしなかった。これまでのリッカ(陸華)の中で、今までの戦いは全て自分を磨くためのものであり、言わば力を磨くことそれ自体が彼女の中での目標であったため、それはあくまでも彼女自身の力だという認識から、あえて名乗る必要はないと考えていたのである。だが、先刻、星核を手にした時点で「大毒龍という災厄に打ち勝つために力を磨く」という明確な目標を得た彼女は、それが「他人のための戦い」でもあることに気付き、それ故に「力を求める一族」としての血筋に誇りを強く抱くようになったのである。
 無論、そんな彼女の中の心境の変化など、他の者達に伝わる筈もないのであるが、そんな彼女の強烈な心意気だけは伝わったのか、他の者達も改めて全力で目の前の魔物を倒すべく、それぞれの力を解き放つ。
 まず、ルキウスがこれまで抑えていた自身の聖印の力を一気に解き放つかのように全力の光矢を五体の魔物全員に対して放とうとすると、彼の目の前に青白く光る「星核」が現れたことでその威力は更に増幅され、その五矢のうちのの四矢によって比較的小型の四体の魔物が一瞬で消滅し、残り一体にも痛烈な大打撃を与えつつ、その矢から生み出された「光の鎖」がその身体に絡みつく。
 だが、その直後に今度はその魔物から謎の光の攻撃が四人に対して放たれる。それは、本来ならば「精密機器」の存在するこの地下室内で放って良いような代物ではない。おそらくは「この部屋もろとも侵入者を排除するための装置」なのであろう(前述の通り、この魔境の混沌核さえ無事であれば、いつでも魔境は再生出来る)。リッカはかろうじてその光線を避け、エステルはジークが庇ったことで事なきを得るが、ジーク自身は深手を負い、直撃したルキウスもまた苦悶の表情を浮かべる。
 その直後、明確な使命に目覚めて覚悟を決めたリッカと、追い詰められたことで聖印の真の力を発動させたジークの連続攻撃によって、今度はその魔法生物の方が大打撃を受けるが、それでも倒れない。そして、ルキウスの攻撃によって消滅した筈の四体の魔法生物が存在していた空間に、再び先刻と同様の「四体の魔法生物」が再出現しようとしていた。
 もし、彼等の推測が間違っていなければ、この中核たる巨大魔法生物さえ倒せば、この魔境そのものが消滅する筈である。だが、こうして無限に出現する魔物達に妨害される状況が続いてしまっては、それもままならない

(これは早めに終わらせなければ!)

 エステルはそう判断した上で、魔境の中核と思しき巨大魔法生物に対して万能溶解剤を投げつけ(その攻撃で巻き添えを喰らいそうになったジークを自身の静動魔法で庇い)、その直後に(先刻のルキウスの矢から生み出された)「光の鎖」が魔法生物を締め付けるが、それで息の根を止めるには至らない。
 そして、再び四体の小型の魔法生物達が収束しようとしたその瞬間、ルキウスの放った二撃目の矢が中核たる魔法生物を貫くと、出現しかけていた魔法生物達も消滅し、これまで(魔境に入って以来)ずっとルキウス達にかけられていた「足取りが重くなる変異率」が消えていくことを実感する。どうやら、やはりこの魔法生物と同時に、この村全体を覆っていた魔境そのものが消滅したようである。

「今、見たことは、他言無用で頼む」

 ルキウスはそう言いながら仮面をつけ直し、ジークと共に混沌核を浄化した上で、状況確認のためにエステルやリッカも伴って地上へと駆け上がって行く。すると、そこでは魔境が浄化されたことで、それまで村の上空を覆っていた霧が晴れた中、月明かりの下で調査隊の面々とガルブレイスが「闇魔法師と思しき者達」と戦っている場面に遭遇する。
 この時点で、エステルはカルディナから言われていた「パンドラと思しき面々が、魔境に潜入しようと企んでいるらしい」という情報を思い出すが、彼等は「下からの援軍」が現れたことで無勢を悟ったのか(結局、彼等の目的が何だったのかも分からないまま)、即座にその場から撤退して行った。

4.1. 平和のための捏造

 こうして、魔境の浄化に成功したことを確認した一同は湧き上がるが、ここでハンナは神妙な顔つきで(仮面をつけ直した状態の)ルキウスに語りかける。

「マスター、一つ言えることはですね、現状、私達は反逆者なんですよ」

 厳密に言えば、明確な「命令違反」を犯したのはハンナだけなのだが、ハンナがどう庇い立てしたところで、ルキウスがハンナの忠告を無視した上で魔境の浄化に至ったことは言い逃れ出来ないだろうし、ルキウスとしても言い逃れする気はなかった。

「ですから、もういっそのこと、私達で一緒に駆け落ちしません?」

 冗談とも本気とも取れそうな微妙な言い回しでハンナはそう提案するが、さすがにルキウスとしては、そこまで無責任な道を選ぶことは出来ない。少なくとも、今のこの時点で誰がこの地を治めるべきか、という問題を丸投げして、領主としての責務を放り出す訳にもいかないだろう。
 この状況に対し、意外な人物が意外な提案を持ちかけた。

「さて、そういうことなのであれば、いっそ私がここを治めようか?」

 そう宣言したのは、メイプルである。

「私であれば、アントリアの人間であると同時に、聖印教会の人間でもある。その上で、この魔境を浄化したのは、私とこのジジイだということにする。それでどうだ?」

 彼女はそう言いいながら、ガルブレイスを指差す。つまり、比較的穏健派の聖印教会信徒である自分達が(より正確に言えば、ガルブレイスは既に聖印教会信徒とも言い難い立場なのだが)、神聖トランガーヌとの間での緩衝地帯としてこの地を治める、ということである。唐突に指名されたガルブレイスは一瞬困惑したが、すぐにその意図を察しつつ、ひとまず黙って話を聞くことにした。

「無論、それは私がこの地を領有した上で、神聖トランガーヌと共謀してそちらに攻め込むようなことはしない、ということを信じてもらえれば、の話だがな」

 メイプルのその提案に対して、最初に反応したのはジークであった。

「そうして頂けるのであれば、助かります」

 彼はメイプルに対して全幅の信頼を置いているため、その方針で異論はないようだが、エステルは渋い顔をする。

「しかし、それでは私達が反逆者であるということには変わりないのでは?」
「あくまでも、私とこのジジイが独断で勝手に浄化した、ということにすれば良かろう。お前達はそれを止めようとしたが、あと一歩及ばなかった、と言うことにしておけば良いことだ」

 つまり、「救出隊が到着する前に、先行潜入していたメイプルと、神聖トランガーヌ方面から来ていたガルブレイスが勝手に共闘して、勝手に浄化していた」という筋書きをでっち上げれば良い、ということである。それならば、確かに「命令違反」にはならないだろう。実際、魔境の混沌核を倒した場面は誰にも見られていない。メイプルが地上に戻ってきた時点で既に魔境の混沌核が破壊されていたと言い張ることも出来よう(魔境の混沌核を破壊してから魔境が完全に消滅するまで、どれほどの時間差が発生するかは、普通の兵士達には分からない)。
 そしてルキウス(クワトロ)達にしても、「救出」という任務は果たしているし、公式に「魔境を守れ」という命令を受けていた訳でもない以上、責められる謂れはない。ただ、エステルとしては、むしろ「聖印教会に勝手に魔境を浄化されてしまった」という報告自体が、また別の形での波紋を生み出すのではないか、という疑念はある。メイプルもその点については分からなくもなかったので、彼女の中ではもう一つの選択肢も考慮されていた。

「もしくは、『お主』がここに独立国を立てるというのであれば、それでも構わんがな」

 ルキウスに対して、メイプルはそう提案する。そしてエステルもまた、聖印教会にこの地を占領させるよりは、ルキウスかジークがこの地の領主となった上で、中立地帯化する道の方が望ましいと考えていた。その場合、両国の間で行き場に困ったら、グリースと手を結んで生き残るという道もあるだろう(もっとも、その場合はジークとコーネリアスの間の確執をいかにして解消するか、という問題もあるのだが)。
 しかし、ルキウスもジークも、反逆者扱いされてまでこの地の領主という重職を自分が務められるとは思っていなかったため、彼等はいずれもこの提案を拒絶し、メイプルの最初の提案に彼等は賛成する。とはいえ、メイプルとしてもこの案で万事解決するという確証はない

「問題は、神聖トランガーヌがそれで納得するかどうかだな……」

 メイプルは聖印教会の一員とはいえ、彼女がアントリアの一員としてこの地を治めるとなると、当然、神聖トランガーヌとしては警戒心を強めるだろう。ましてや彼女を含めた月光修道会は、現在の神聖トランガーヌの主戦力となっている日輪宣教団から見れば「同じ神を信仰する同士」である以上に「異なる教義解釈を掲げる宿敵」でもある。現在の枢機卿であるネロ・カーディガンは無計画な戦線の拡大を忌避する立場ではあるが、メイプル達の交渉次第では、逆に彼等の神経を逆撫ですることになりかねない。
 そのことを踏まえた上で、ここでメイプルは更なる奇策を考案する。

「……ここは私が、この地と、この地の混沌核から得られた聖印をフォーカスライト大司教に寄進する、という形でどうだろうか?」

 フォーカスライトは神聖トランガーヌ建国以前からのブレトランドの聖印教会の聖地であり、現在はなし崩し的に神聖トランガーヌに編入されてはいるものの、一種の特別自治区のような扱いでもある。更に言えば、現在のフォーカスライト大司教ロンギヌス・グレイは、日輪宣教団主導でこの国全体の信徒達が過激化していくことを快く思っていない、とも言われている。
 そして、フォーカスライトとクラカラインの間に位置する(ガルブレイスの本来の所属である)エフロシューネの領主マーグ・ヴァーゴもまた、どちらかと言えば聖印教会内では穏健派と呼ばれる立場である。故に、メイプルが神聖トランガーヌ内における「フォーカスライト派」としてその内側に潜り込むことで、エフロシューネを含めた形での「非日輪宣教団ブロック」を東部に形成すれば、結果的に神聖トランガーヌ内の主戦派の暴走を抑え込めるかもしれない。
 とはいえ、どのような「建前上の報告」を提出しようとも、おそらくローガンには真実を見破られることになるだろう。そのことを踏まえた上で、どのような「建前」ならローガンが納得するか、ということを確かめるために、エステルは直接、魔法杖通信をローガン相手に試みることにした。
 彼女はひとまずここに至るまでの状況を正直に伝えた上で、私見も交えながらここまでメイプル達と相談してきた内容をそのままローガンにそのまま伝える。

「ジーク君達はメイプルさんが浄化したことにして、この地をメイプルさんごと聖印教会に渡そうと考えています。私は、ジーク君に聖印を渡して、クワトロさんとメイプルさんに従属してもらえば良いと思うのですが、いかがでしょう? その場合、神聖トランガーヌとの交渉はあなたにお任せすることになると思いますが、大丈夫ですか?」

 早口でまくしたてるようにエステルはそう報告したが、明らかに言葉足らずであるにもかかわらず、ローガンは概ねその意図を理解する(あるいは、彼の中では既にこれらの提案も想定の範囲内だったのかもしれない)。なお、エステルが「ジーク君」という呼称を用いているのは、おそらく彼女の中ではジークは君主である以前に(ジークの方は彼女のことを覚えていなかったようだが)「魔法大学の後輩」という位置付けなのだろう。
 これに対して、ローガンは即座に「それぞれの選択肢」がもたらす未来像を自身の脳内で組み立てていく。

「まず、神聖トランガーヌは私と交渉はしないだろうな。交渉出来るとしたら、それこそメイプル殿かアドルフ殿くらいだろう」

 いかにネロが神聖トランガーヌ内では「話の分かる人物」であると言われていても、さすがに「故郷を滅ぼした魔法師」を相手とした取引に応じるのは(少なくとも公的には)難しい。そのことを自覚した上で、ローガンは自身の見解を伝える。

「現状のアントリアにとっては、クラカラインを領有することは、百害あって一利なし。その意味では、メイプル殿に任せた上で、フォーカスライトを利用して日輪宣教団を牽制するのが、一番マシな選択肢だろう」

 ローガンとしては、魔境が壊されてしまったことは痛手ではあったが、だからと言って「魔境を浄化した英雄達」を公的に処罰する訳にもいかないことは分かっている。ならば、この新たに発生した状況下で次善の策を取るしかない。その上で、あえて神聖トランガーヌに村一つをくれてやるのが、一番損害の少ない道であるように思えた。アントリアにとっては「領地の喪失」ということになるが、どちらにしても一年以上も魔境として放置されていた地を(敵国からの再侵攻への備えと同時進行で)再建するための費用と人足を考えれば、少なくとも現時点において進んで領有すべき土地ではない。
 アントリアの筆頭魔法師の下したその判断に対して、エステルも渋々受け入れる意志を示したことで、ひとまずこの問題は決着する。おそらく、この後はローガンが自分の都合の良いように「物語」を組み立てるだろう。ルキウスも、ジークも、エステルも、そして勿論リッカも、これ以上の高度な次元の政治的駆け引きに口出しする気はなかった。

4.2. 時代の分岐点

 その後、ルキウスとジークは、浄化した魔境の混沌核(から生じた聖印の増幅分)をメイプルとガルブレイスへと密かに譲渡した上で、ひとまず「調査隊」と「救出隊」の面々は(メイプルを除いて)それぞれの本拠地へと帰還することになった。
 そしてメイプルは、ガルブレイスとマーグの仲介を経由して聖地フォーカスライトを治める大司教ロンギヌスに連絡を取り、「メイプルとガルブレイスの手で、アントリア軍を利用した上でクラカラインの魔境を浄化した」という報告を提出した上で、ガルブレイスと共にその聖印をロンギヌスに捧げて、「フォーカスライト大司教直属の君主」としてクラカラインを治め、その補佐役としてガルブレイスが就任する、という運びになった。
 この突然の急展開にアントリア側も神聖トランガーヌ側も困惑したが、ひとまずは仮領主となったメイプルが「今はまず、何を置いても村の復興を優先すべきである」と宣言したことで、現神聖トランガーヌ枢機卿のネロもその方針を受け入れる。幸か不幸か、この時点で(神聖トランガーヌ内最急進派の)日輪宣教団ブレトランド支部長リーベックが不在だったこともあり、(ネロからは「アントリアからの侵攻には注意するように」と釘を刺されつつ)クラカラインの領有権問題に関しては、公的な「保留」という立場のまま、なし崩し的にメイプルを中心とした復興体制が築かれていくことになる(その過程で、密かにアグライアやカレからも支援物資が届けられることになった)。
 一方、アントリア側もまた、建前上は聖印教会に領土を騙し取られた形になった訳だが、この点に対しては、筆頭魔法師ローガン、騎士団長バルバロッサ、副団長アドルフの三者間での非公式の会談を経て、ひとまずアントリア側からの再侵攻計画は「保留」とした上で、バランシェの神聖学術院に対しても「今回の浄化作戦はあくまでもメイプルの独断」であるという建前を優先し、明確に波風を立てるような行為には至らなかった。
 こうして、一年半にもわたったクラカラインの魔境問題は誰も予想出来ない形で収束し、アントリア、グリース、神聖トランガーヌの三勢力が入り乱れる旧トランガーヌ地方は、新たな政治的局面を迎えることになった。魔境によって保たれていた均衡が崩れた今、この先の未来に待ち受けるのが、新たな戦乱なのか、和平と共存への道なのか、ブレトランド小大陸はまさに新たな時代の分岐点へと突入しようとしていたのである。

4.3. 帰還と祝杯

 アントリアの上層部でそのような戦後処理が展開されている中、エステルとリッカは無事にエルマへと帰還した。途中まではユリシーズとアオハネも同行していたが、ユリシーズは本来の勤務地であるエスト(モラード地方の中心地)へと向かうためにコロナで別れ、そしてアオハネはまた新たな魔境を探して何処かへと旅立って行った。

(まぁ、言い訳はローガンさんに任せるとして……、正直、専門家が行って先を越されて浄化された、ということにされるのは、色々と思うところはあるのだけどね……)

 ついでに言えば、魔境探索者として、今回の一件を通じてその瞳に焼き付けた様々な興味深い諸々の事象を(魔境浄化に至るまでの真相を秘匿する必要がある以上)「動画」として発表する訳にはいかない、ということも、エステルにとっては残念な案件であった。
 一方、リッカは今回の任務の途中で知ることになった「大毒龍復活の阻止」という新たな使命に向けて、既に気持ちを新たにしていた。今の時点でそのために出来ることは(彼女自身が他の仲間を探すことは、能力的にも性格的にも不可能であるため)、結局のところ「自分の実力を磨く」ということしかない以上、彼女がやるべきことはこれまでと大差はないのだが、それでも、その達成に向けての心持ちが変わっただけでも、彼女の中では大きな変化であった。
 そんな想いを胸に帰ってきた二人に対して、留守を守っていた(自称)酒の神は、いつも通りに二人にウィスキーを振る舞う。

「何はともあれ、祝いの酒だ」

 事情を知らない彼にしてみれば、何はともあれ魔境が浄化されたこと自体は喜ばしい話である。少なくとも今の時点では、魔境村の真実も、大毒龍復活の予兆も、彼に知らせる訳にはいかない以上(後者に関しては、いずれ知らせることになる可能性もあり得たのだが)、今は黙って静かに村の自慢の銘酒を味わう二人であった。

4.4. 褒美と土産

「で、戦争は?」

 カレへと帰還したジークに対して、白狼騎士団の不良隊長ことディーオは、開口一番そう問いかけた。魔境が浄化されたという話は既に伝わっていたため、当然、彼としては次に待っている神聖トランガーヌとの戦争がいつ始まるのかが楽しみでならなかったようだが、ジークとしては現時点では答えようがない。

「国境の警備、ご苦労だった。褒美として、これを取らせよう」

 そう言って彼は、酒瓶をディーオに手渡す。

「エルマの酒か?」
「あぁ」

 今回の任務の直前に、エステルから「粗品」として渡されていたらしい。ひとまずディーオはその「褒美」で満足したようで、すぐさまその場で栓を開けて歩き飲みを始める。
 そんな彼を横目に放置しつつ、ジークは村の占い師であるサンドラの元へと向かう。

「予言、よく分からなかったけど、役に立ったよ。ありがとう」

 そう言いながら、彼はアグライアで購入した「よく分からないお土産」を渡す。

「これ、何?」
「なんだかよく分からないが、とりあえず、アグライアの名産品らしい」

 本当によく分からないものを渡されたサンドラは当然のごとく困惑していたが、ジークはそんなことは気にせず、続いて領主の館で待つ契約魔法師のオラニエの元へ赴き、彼に一通りの事情を説明する。

「……ということで、クラカラインなんだが、新しく国が出来ることになった」

 明らかに語弊のある言い方だが、既にエステルからの魔法杖通信経由でおおまかな事情を聞かされていたオラニエは、微妙な表情ながらも一応納得した表情を浮かべる。

「いや、まぁ、その、国というか何というか、だいたい話は聞いていますけど……、あの先生ならよっぽど大丈夫だとは思いますが……」
「僕自身も先生のことは信頼しているからね。あの人ならば、不用意にアントリアに攻めてくることはないだろう」
「だといいんですけどね。問題は、あの人が良くても、神聖トランガーヌ側がどう出るか……」

 状況によっては、神聖トランガーヌ内の最過激派が、メイプルを異端者と断じた上で、クラカラインを攻撃する可能性もあるだろう。フォーカスライト大司教の動き次第では、メイプルが窮地に陥る可能性もある。無論、それはそれでアントリアにしてみれば、分裂した神聖トランガーヌを攻撃する好機でもあるのだが、今のところ国内の再整備を優先する方針を続けてきたマーシャルが、その状況になった時にどのような決断を下すかは分からない。
 だが、ジークの中では既に腹積もりは定まっていた。

「今回のことでメイプルさんに恩が出来たことは確かだ。もしメイプルさんの身に危機が迫ったら、助けに行くことにしよう。そのためにどうすべきかは、またこれから考えようか」

 あくまでも決まっているのは腹積もりだけで、そのために必要な見積もりは何一つ定まってはいない。それを定めるべき立場にあるオラニエは、今から様々な可能性を考慮に入れつつ、頭を悩ませ続けていくのであった。

4.5. 名門貴族と女魔法師

 それから数日後、クワトロ・スコルピオことルキウス・ドゥーセは、ようやく落ち着きを取り戻したアグライアの領主の館の廊下の窓から、改めて夜空を見上げていた。そこには、以前に比べて更に三つの「星」が増えていることが分かる(その中の青白い星はジークの、そして赤みを帯びた星はエステルとリッカの星であろう、ということもすぐに認識出来た)。
 改めて、自分に課せられた使命の重さを実感したルキウスに対して、彼の中の「天雄星」が語りかけてきた。

(今のあなたの立場では、この地を空けるのは難しいでしょう。しかし、あなたでなければ「星の前世の者達」を探し出すことは出来ません。なんとか、外に出る口実を考えて下さい)

 そう言われても、魔境無き後の対クラカライン(および神聖トランガーヌ)問題という新たな課題が発生してしまった以上、なかなか現実問題として好き勝手に動くことも出来ない。いっそ本当にハンナと駆け落ちでもすれば、自由に動ける立場になっていたかもしれないが、さすがにそこまで無責任な道を選び取れる性格ではなかった。
 ルキウスが空を見上げながらそんな物思いに耽っているところで、どこからともなくハンナが現れる。彼女は、帰還以来ずっと気になっていたことを、ふと問いかけてみた。

「マスターは、これから先も、その仮面は付け続けるのですか?」
「そうだな……。今、外したら、それはそれで面倒だろう?」

 大工房同盟に所属するアントリアの騎士としては、あえて自らの出自を公開した上で、その立場を積極的に外交方面で利用することも出来なくはないが、それは彼の本意ではなかった(少なくとも、今の時点でそうすることがアレクシスや故郷の者達にとって好ましい未来をもたらすとは考えられなかった)。

「そうですね。それに『マスターの秘密を知っている数少ない人間』としては、今のままの方が、私としてもちょっと『優越感』がありますしね」

 ニヤニヤとほくそ笑みながらそう答えるハンナに対して、ルキウスはその笑顔の意味を知ってか知らずか、一般論で答える。

「秘密なんて、誰にでもあるものだろう」
「まぁ、確かに」

 そんな会話を交わしつつ、ルキウスもまた、いつ話すか迷っていた問題に関して、意を決して切り出してみることにした。

「これから、少しここを空けることになるかもしれないが、その時は、この街のことを頼んでもいいか?」
「え? えぇ、まぁ、そりゃあ、十日以上も帰らなかった私が文句を言えた立場ではないですけど……、それは、アントリアの騎士として、ですか? それとも、御実家の関係ですか?」
「どちらでも無いのだが……、すまんな、こちらもまた新たな秘密が出来てしまった」
「へぇ〜」

 ハンナは口元にうっすらと微笑を浮かべながら、興味深そうな上目遣いで見つめる。

「じゃあ、そのことはマスターがもう少し私のことを信用したら、教えてもらえるのでしょうか?」
「まぁ、そうだな……」

 実際のところ、大毒龍のことはどこまでの範囲で明かして良いのか、ルキウスとしても基準がよく分からない。天雄星が言うには「人々に不安を広げないため」というのが秘匿の理由である以上、「口が硬い人物」や「自分であれば大毒龍に勝てると信じてくれる人物」であれば教えても構わないように思えるのだが、それでも、自分一人で終わる問題でもない以上、(「自分の正体」と同等以上に)そう易々と明かして良い問題とは思えおなかった。
 ハンナもその決意の固さは感じ取っていたため、今の時点でその問題に踏み込むのはひとまず諦めた上で、それとは別次元で彼女が個人的に気になっていたことを問いかける。

「そういえばマスター、結局、なんで実家を捨てたんですか?」

 それに関しては、ルキウスとしても(既に正体を明かしてしまった以上)これ以上隠すとかえって余計な憶測を生み出しかねないと考えたのか、あっさりと答える。

「私とアレクシスは、母親が違うのだ。私の母は、私の祖父(先々代ハルーシア大公ヴィクトール・ドゥーセ)の契約魔法師だった。名門貴族家出身の正妻の子であるアレクシスと私との間で、継承を巡る問題が発生するのを避けたいと思ったのだ」

 妾腹の兄と、正腹の弟。貴族家においてはよくある話である。今回の魔境の戦いで共闘したユリシーズもまた、彼と同じように「弟に家督を譲るために貴族家を捨てた身」であった。ただ、邪紋使いとなったユリシーズとは異なり、ルキウスは父シルベストルから貰った従属聖印をそのまま引き継ぐ形で、世界を転々としていた。シルベストルはいつでもルキウスから聖印を剥奪することは出来たが、それでもあえてルキウスに自由に行動させることを認める程度には、実父との間での信頼関係は維持されていたのである(もっとも、既にその父も大講堂の惨劇で命を落とし、今の彼の聖印は独立聖印と化しているのであるが)。

「なるほど。じゃあ、マスターは、魔法師を妻に迎える気はないんですか?」

 この問い自体は、今の話の流れから「一般論」として導き出された問いとして解釈しても、何一つ不自然ではない。とはいえ、明らかにそこには一人の女魔法師としてのハンナの「個人的な想い」が込められていることは明白であった。
 実際のところ、ルキウスの母は「正妻派」からの圧力によって精神を病み、ルキウスが幼い頃に自害しているため、ルキウスの中では同じ悲劇を繰り返したくないという気持ちはあるだろう。とはいえ、それはあくまでも「非嫡出子」として魔法師に子供を産ませたが故の悲劇であり、魔法師を正妻として迎えるのであれば、そのような心配もない。立場的に、大公家の御曹司が魔法師を娶るとなると周囲からの反対もあるだろうが、騎士程度の爵位しか持たない今の彼であれば、それほど難しい話でもない(実際、今回の魔境作戦で同行したメイプルの大甥に至っては「男爵」の身でありながら契約魔法師との縁組に至っている)。

「私は…………、どうだろうな?」

 ルキウスが、あくまで「一般論」としてのボカした返答に留めると、ハンナは改めて口元をニヤつかせる。

「そうやって希望を持たせてくれるのであれば、期待しない程度に、希望だけは捨てずにおきます」

 表情とは裏腹に、あくまでも淡々とした口調でそう語ったハンナに対して、ルキウスは改めて真剣な表情で「本音」を伝えた。

「ただ一つ言えるのは、好きに生きさせてもらうと決めた以上、私も誰かを縛るつもりはない、ということだ」
「それは構いませんよ。私も、別にマスターが名家の出身だから言ってる訳じゃないですし」

 そんな「噛み合っているのかいないのかよく分からない会話」を交わしつつ、ハンナは改めて、自身の目の前に輝く「出自よりも重要な理由」をまじまじと上目遣いで眺めつつ、満面の笑みを浮かべる。

「じゃあ、とりあえず、あの子達にご飯をあげてきますね」

 そう言って、ハンナは愛猫達の待つ家へと帰宅する。そんな彼女の後ろ姿を眺めながら、まだ見ぬ星の前世達を探す旅に出るための算段を、改めて真剣に考え始めるルキウスであった。
 八つの光が揃うまで、未醒の星はあと六つ。夜空に希望が満ちるまで、未還の星は九十二。

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最終更新:2019年05月09日 12:57