第1話(BS53)「天魁之壱〜山の麓、水の滸〜」 1 / 2 / 3 / 4

+ 目次

1.1. 猫の導き


 ヴァレフール南西部の街、テイタニア。かつて始祖君主(ファーストロード)レオンを支えたと言われる妖精女王の名を冠するこの街は、混沌濃度の高いボルフヴァルド大森林地帯の入口に位置しており、そこから時折出現する「魔物」と呼ばれる投影体達と戦う冒険者達で常に賑わっている。
 この世界において魔物に対抗出来る存在と言えば、聖印(クレスト)を持つ「君主(ロード)」、混沌(カオス)を操る「魔法師(メイジ)」、邪紋(アート)をその身に刻む「邪紋使い(アーティスト)」といった超人的存在が代表格であるが、そのような特殊な力を持たない「一般冒険者」も、この世界には大勢存在している。彼等は龍や巨人といった大型投影体の前ではほぼ無力だが、小鬼(ゴブリン)程度の人間よりも小型の怪物が相手であれば、ある程度までは戦える。テイタニアのように混沌濃度が比較的高い地域においては、超人的存在だけでは人手が足りない以上、一般冒険者も十分な戦力となり得るのである。
 そんなテイタニアの一般冒険者達の中に、ノエルという名の若者がいた(下図)。彼は混沌災害で親を失った後、自ら生きていくために剣を取り、今はこの地で冒険者の一人として、この地の住民や同業者達から一定の信頼を得ている。まだ18歳だが、生身の人間の剣士としては、既に一線級の実力の持ち主として知られていた。


 ある日の夕方、そんな彼が森から街へと帰還しようとしていたところで、彼の前に一匹の「二足歩行で歩く三毛柄の猫のような生き物(下図)」が現れた。


「あー、もしもし、そこのあニャた」

 唐突に語りかけたその猫(仮)に対し、ノエルはビクッと反応する。

「猫が喋った!?」
「おや、私のような存在に会うのは初めてですかニャ? ふーむ、ニャがねん冒険者として活躍しておられた方だと聞いておりましたから、てっきりケット・シーくらいは知っておられるのかと……」
「いや、初めてだ」

 ノエルはそう答えつつ、初めて見る異形の存在に対して、好奇心で目を輝かせる。ケット・シーとは妖精界(ティル・ナ・ノーグ界)に住む猫のような姿の住人である。人間に対しては比較的友好的な者達が多く、冒険者達と混ざって魔物討伐に協力する者もいるが、ノエルのこの反応から察するに、どうやらテイタニア近辺では珍しい存在のようである。

「まぁ、私のことはいいですニャ」

 猫(仮)はそう言いながら、一枚の地図を彼の前に提示する。それは、このテイタニアからは少し離れた、ブレトランド中部の新興国家グリースと、ブレトランドの北半分を支配するアントリアとの国境線の近辺の地図であった。

「あニャたに、くれニャいの山に来て欲しいですニャ」
「くれにゃいのやま?」
「そうですニャ」

 独特のケット・シー訛り故にノエルは一瞬戸惑ったが、その猫(仮)の手(前足?)が指し示した先の地図を見ると、どうやらこの国境付近に存在する「紅の山」のことを言っているらしい、ということが分かる。

「この山の周囲には火山灰が霧のように立ち込めていて、道が分かりにくいですが、この山の麓のこの辺りに来て欲しいですニャ」

 そういって山の近辺の一角を指差す猫(仮)に対して、ノエルは少々不思議そうな顔を浮かべつつ問いかける。

「それは、依頼の類いか?」
「んー、まぁ、依頼と言えば依頼かもしれニャいですニャ。ただ、その依頼主は、ニャんというんですかニャ……、あニャた自身があニャたに依頼しているようなものというか……、まぁ、来れば分かりますニャ」

 何を言っているのか分からないが、だからこそ、この未知なる存在の言葉に対して、ノエルの中での冒険者としての血が騒ぎ始める。

「よし、じゃあ、行ってみよう。まぁ、報酬は……、実際に行ってみてから決めるか」
「報酬は、多分、あニャたが一番欲しがっているものが手に入りますニャ。より正確に言うニャら、あニャたに一番必要ニャもの、ですかニャ」
「必要なもの?」
「これから先のあニャたと、そして『この世界にとって必要ニャもの』が手に入りますニャ」

 その思わせぶりな言い方から、この猫(仮)が何か自分自身に関する重要なことを知っているような、そんな予感がノエルの中で湧き上がり、彼の中での冒険者としての血が更に騒ぎ始める。彼のその様子を確認した上で、猫(仮)は彼の前からひとまず立ち去って行った。

1.2. 英雄王と投影星

 数日後、ノエルは言われた通りに紅の山へと辿り着いていた。事前の忠告にあった通り、確かに山の近辺には霧が立ち込めていて、猫(仮)が指し示していた山の麓の辺りに来ても、自分の現在地すら把握するのは難しい。昼頃にこの地に到着してから、あてもない散策を続けていく中、いつしか陽が落ち、夜空に星が瞬き始めた頃、ようやく彼の前に再び猫(仮)が現れる。

「よく来て下さいましたニャ」

 そう告げた上で、改めて猫(仮)はノエルに軽く会釈をしつつ、頭を下げる。

「申し遅れました。わたくし、トーマス・カリン・ガーフィールドと申しますニャ。略してTKGとお呼び下さいですニャ」
「T・K・G?」

 あまりそのような形で人名を略す習慣はノエルにはない。ましてや、猫名の略称としては余計に違和感がある。ただ、「トーマス」という名前から察するに、どうやらこの猫(仮)は(三毛柄であるにもかかわらず)男性であるらしい。

「トムでもいいですニャ。ところで、聞こえますかニャ? あの方の声が」

 TKG(もしくはトム)がそう告げると、ノエルの心の中に、聞いたことのない声が響き渡る。

《我が名はエルムンド。よくぞ来られた、我等が恩人、アマノサキガケノホシよ》

 この時代のブレトランドにおいて「エルムンド」の名を知らぬ者はいない。それは400年前、この小大陸を支配していた混沌を祓い、ヴァレフール、トランガーヌ、アントリアの三国の基礎を築いた英雄王の名である。この小大陸の各地で発生していた数多の混沌災害を鎮めた後、最終的には大毒龍ヴァレフスとの戦いによって受けた毒が原因で命を落としたとされているが、その最期については諸説あり、明確な墓所も存在しない。とはいえ、400年前の英雄王が今の時代に生きている筈がない、と考えるのが常人の思考であろう。
 だが、ノエルは冒険者である。常に混沌という名の非常識と向き合い続けて生きてきた彼は、未知なる存在に対して、あらゆる可能性を排除しない。そして今、この「心に直接語りかけてくる声」が尋常ならざる存在であることを本能的に感じ取った彼は、この声の主が「英雄王エルムンド」であるという事実を、驚くほどあっさりと受け入れた。おそらくそれは、この「心の声」から発せられる圧倒的な存在感を本能的に感じ取ったからであろう。
 しかし、そこまでは事実として受け入れられたノエルであっても、その後の言葉に対しては、さすがに困惑せざるを得なかった。

(エルムンド様……、人違いでは?)

 ノエルは心の中でそう答える。これまでの彼の18年間の人生の中で「アマノサキガケノホシ」などと呼ばれたことは一度もない。それが何を意味しているのかも分からないし、それが仮に「夜空に浮かぶ星の一つの名前」だとしても、そのような名前の星を聞いたこともない(もっとも、星の呼び方は地方によっても様々であり、時代によっても多様なため、おそらく400年前と今とではそもそも認識が一致しないだろう)。

《理解出来なくても仕方がないが、貴殿がいなければ、400年前に我等は大毒龍を倒すことが出来なかった。故に、貴殿は恩人である》
(恩人?)
《知らないのも無理はない。何故ならば、貴殿はまだ『あの時の貴殿』にはなっていないのだから》

 その言葉の意味もよく分からずにノエルの中での困惑は更に深まっていたが、その「エルムンド」を名乗る声はそのまま語り続ける。

《この世界では、混沌の作用によって、様々な異世界の存在が『投影体』として出現することがある。そのことは知っておろう》
(もちろんです)
《貴殿は知らなかったようだが、この猫もその投影体の一人だ》
(はい、そうらしいですね)

 あの後、ケット・シーという存在については、冒険者仲間に聞いて確認したらしい。

《その異世界の一つに星界(Starry界)と呼ばれる世界がある。それは、様々な世界における英雄達の魂が、死後に流れ着く世界であると言われている。たとえるならば……、オルガノンという存在を知っているか?》
(はい、聞いたことはあります)
《オルガノンは、何処かの異界から『ヴェリア界』なる世界を経由して、この世界に『人』の姿で出現する。それと同じように、星界に辿り着いた英雄達の魂は『星』となって様々な世界の夜を照らすことになる。そこがどのような世界なのか、誰が英雄として選ばれるのか、詳しいことは私にも分からない》
(……なかなか、想像するのが難しい世界ですね)
《あぁ。とはいえ、それぞれの世界には、それぞれの理(ことわり)が存在する。星界とこの世界では『時』の概念も異なる。故に、この世界の住人を『前世』とする星が、その前世がこの世界に生を受けるよりも前の時代にこの世界に投影されていたとしても、不思議な話ではない》

 不思議な話ではない、と言われても、そもそもこの話の前提自体が、普通の人々には全く理解出来ない程度には「不思議な話」であろう。だが、これまで冒険者として様々な「不思議な現象」と関わり続けてきたノエルには「そのようなこともあり得るのかもしれない」と思えた。そもそも「400年前の英雄王エルムンドが語りかけている」という突拍子もない現状を受け入れた時点で、大抵の「不思議な話」を受け入れる覚悟は彼の中で備わっていたのだろう。

《そして、貴殿はこの世界の夜を照らす星の一つである『天の魁の星』の前世なのだ》

 つまり、ノエルが死んだ後、彼が「英雄」として「星界」に転生し、それが混沌の作用によってこの世界に「星」として投影された、ということらしい。ノエルはその星の名を聞いたことがないが、どうやらこのエルムンドの言い方から察するに、その星はノエル自身がこの世界に生まれるよりも前の時代、おそらくはエルムンド達が生きていた時代には、もう既にこの世界に投影されていた星のようである。


 唐突すぎる話にノエルが更に困惑しつつ、思わず夜空の星々を見上げると、それまで見たことがない不思議な輝きを纏った一つの星が目に留まる。そして次の瞬間、ノエルの脳内に、今度は「別の声」が語りかけてきた。

《聞こえますか? 我が前世たる若人よ》

 その声にもノエルは聞き覚えがない。しかし、なぜか不思議な心の振動が彼の脳裏に響き渡ってくるのを感じ取ったノエルは、その声の主が「その星」であることを察した。

(聞こえますが……、あなたは?)
《私には前世の記憶はありません。しかし、確かにあなたが私の前世であることは分かります。なぜならば、あなたは私なのですから》

 つまり、その星こそが、エルムンドが言うところの「天魁星(アマノサキガケノホシ)」であるらしい。

(俺の側から分からない、というのが歯痒いところではありますが……)

 ノエルは心の中でそう答えつつも、確かにその「声」からは、先刻までのエルムンドの声からは感じられなかった「不思議な共鳴感」が伝わってきた。それが何なのかがノエルには明確に認識出来ない状態のまま、その「星の声」は語り続ける。

《このブレトランドにおいて400年前にエルムンド達が戦った大毒龍の存在は知っていますね》
(はい)
《あの大毒龍も、元々は『何処かの世界に存在していた禍々しい存在』が、何らかの力で『我々と同じ星界』に死後転生した存在だったのです》


 「大毒龍ヴァレフス」という「巨大で邪悪な投影体」の存在自体は、エルムンドと同様、このブレトランドに住む者達であれば誰でも知っている。そして当然、それが「投影体」であるならば、必ずどこかの異世界にその「本体」は存在している筈である。だが、これまでノエルはその本体がどこの異世界に存在するのか、などと考えたことはなかった。そもそも、殆どの人々にとって、それは「考えたところで分かる筈のないこと」である以上、普通はそこまで考えようという気にはならないものである。

《あの大毒龍は、星界における様々な星々を消し去り、星界を危機に陥れました。しかし、最終的には私と、私の仲間の百七の星々の力によって倒されることになりました。ですが、その大毒龍がこの世界にも「投影体」として出現することになったのです。我々百八の星々の前世はいずれもこの世界の住人だったので、もしかしたらそれは、我等への怨恨を晴らすためだったのかもしれません》

 投影体がアトラタン世界に出現する原因については、未だに解明されていない。何処かの異世界に存在する「本体」の意思が作用しているかどうかも不明だが、そのような仮説も可能性としてあり得ない話ではないだろう。

《大毒龍が最初に出現したのは、極大混沌期のアトラタン大陸東部のシャーン地方です。破壊と殺戮の衝動のみに基づいて暴走する大毒龍の存在は、この世界の人々にとっても脅威でした。そんな大毒龍と同時に、我等百八星もまた、前世の故郷であるこの世界に『星』として投影されたのですが、我等はあくまで『夜空を照らす星』としての投影体であったため、私達自身では大毒龍を止めることは出来ませんでした》


 「星」として投影された存在が、この世界においてどのような力を持ちうるのか、ということは、星ならざる存在であるノエルには分からない。そもそも「星界に存在する本体」と「アトラタン世界に存在する投影体」の何が違うのかも、おそらくは星達自身以外には分からないだろう(「ヴェリア界におけるオルガノン本体」と「アトラタン世界におけるオルガノンの投影体」の
違いが誰にも理解出来ないのと同様に)。

《その状況に我々が歯痒い思いをしていた中、その我々の想いに応えるかのように、『この世界とも星界とも異なる世界』に転生した『我々百八星の分身体』とでも呼ぶべき者達が「人」の姿でこの世界に投影されました。それはおそらく、我々が無意識のうちに引き起こした『召喚術』の一種だったのでしょう》

 星界ともアトラタン世界とも異なる世界における「転生」の仕組みがどうなっているのかは天魁星自身にもよく分かっていない。ただ、その時に現れた「百八人の投影体」の証言によると、
どうやら彼等は、彼等自身の出身世界(地球)とは異なる「天界」と呼ばれる世界を追放された
星々の転生体であり、その「天界を追放された星々」の名は、天魁星を初めとする「星界から投影された百八星」と一致していたという(なお、この百八人の一人であった「天魁星の転生体」は「宋江」という名であったらしい)。
 この証言から推察するに、おそらく「アトラタン世界のノエル」が死後に「星界の天魁星」として転生した後、そこから(何らかの経緯を経て)「天界」へと(「天魁星」の名のまま)再転生した後に、そこからまた異なる世界(地球)へと追放され、その世界内で「人」として(累計三度目の)転生を果たすことになった、ということらしい(「星界の天魁星」と「天界および地球の天魁星」の関係が同一存在なのか転生体なのかは不明だが、宋江達の証言によると、彼等の前世は「天界を荒らす魔星」であったと言われていたことから、「おそらく我々自身とは異なる人格へと再転生したのだろう」というのが、百八星の共通見解であった)。


《つまり、彼等は私達から見れば『来々世』、あなたから見れば『来々々世』に相当する存在、ということになります。そして、この世界に出現した彼等は我々と心を通わせ、我々の力を彼等に付与することによって、「この世界に最初に出現した大毒龍」を倒すことに成功しました》

 この「シャーン地方に出現した大毒龍」および「それを倒した百八人の投影体」については、現地の記録にも殆ど残っていない。極大混沌期には世界各地で様々な巨大投影体達が跳梁跋扈していたと言われており、それを倒した英雄達の物語も各地に存在しているが、当然、語り継がれずに消えていった英雄譚も数多く存在する。「世界の危機」が日常茶飯事のように発生していた時代の出来事である以上、それもやむなき話であろう。

《それから千数百年の年月が流れた後、今度はこのブレトランドの地に、再び大毒龍が出現しようとする気配を感じました。ですが、1000年以上も「投影星」としてこの世界に存在し続けた我々には、以前のように自らの力で異界の分身体を呼び出す力は残されておらず、百八星のうちの百星は、既にこの世界から消え去ろうとするほどに力を失い、残りの八星にも僅かな力しか残されていませんでした》

 長年この世界に存在し続けた投影体には、確かに「老い」や「衰え」が発生することもある(発生しない個体もいる)。一般的には数千年程度で「星」の寿命が尽きるということは考えにくいが、「投影星」としての彼等は通常の星とは根本的に構造が異なる可能性もあるだろう。あるいは、極大混沌期の時点での大毒龍との戦いで力を消耗していたことが影響したのかもしれないし、単純に極大混沌期に比べて世界全体の混沌濃度が弱まったことが主因なのかもしれない。
 また、百八星の中での「ほぼ全ての力を失いかけていた百星」と「僅かながらも力を残していた八星」の差がどこで発生したのかも不明である。最初の出現時からの個体差だったのか、極大混沌期に消耗した力の差なのか、もしくは千数百年の間に起きた何らかの要因が理由なのかは分からない。いずれにせよ、後者の八星ですら、この時点では極大混沌期のような特殊な召喚術は使えなくなっていたらしい。

《まだかろうじて力を残していた残りの我々八星は、当時のブレトランドを浄化しようとしていた、後に『英雄王』と呼ばれることになるエルムンドを始めとする八人の君主達に、我等の残された力を『星核(スターコア)』として与えました。これは、星として投影された我等の力の結晶体のようなものであり、大毒龍にとっては天敵となる『特殊な輝き』が込められています。極大混沌期に出現した大毒龍を倒すことが出来たのも、この世界に現れた『もう一人の我等』が、この星核を自力で作り出すことが出来たからこそ、でした》


 この「八星の星核を与えられた八人」が伝説の「英雄王エルムンドと七人の騎士」であろうことはノエルにも容易に想像がつく。ただ、このブレトランド各地に伝わるエルムンド達のどの逸話集にも「星核」などという言葉は登場しないし、他の地域にもそのような力を用いる者達の伝承は残されていない。おそらく、それはこの星々にしか作り出すことの出来ない「聖印とも混沌核とも異なる特殊な力」だからこそ、一般名詞として定着しなかったのだろう。

《その後、我々の想定せぬところから大毒龍は出現することになり、エルムンド以外の七人はその聖印を混沌核に書き換えられてしまったのですが、星核による加護の力と、主君であるエルムンドとの心の繋がりによって、彼等はかろうじて『人』としての意識を保ったまま、大毒龍と戦い続けました。そして最終的には、彼等の仲間であった一人の魔法師の隕石魔法によって、我等八星以外の百の星々そのものを圧縮直撃させつつ、八人の星核を同時に叩き込むことで、どうにか大毒龍を再び消し去ることに成功したのです》

 おそらくはそれが「英雄王エルムンドの叙事詩」の最後の一節である「エルムンドと大毒龍ヴァレフスの戦い」なのだろう。だが、少なくともノエルが知っている叙事詩には「七騎士の聖印が混沌核に書き換わった」などというくだりは存在しないし(この点に関する真相はブレトランドの英霊7を参照)、隕石魔法によって決着したという話も伝わってはいない。あまりに唐突かつ荒唐無稽なその説明にノエルは困惑するが、本当の意味での衝撃は、それに続いて「天魁星」から告げられた言葉であった。

1.3. 聖印と星核

《そして今、「第三の大毒龍」がこの世界に出現しようとしています》


 何を根拠にそう言っているのかは分からない。だが、ノエルにはその言葉が疑うべくもない真実に思えた。大毒龍が投影体である以上、確かに何度でもこの世界に再投影される可能性はあり得るし、実際に二度に渡ってこの世界に出現したという話が真実であるならば、「三度目」の出現を否定出来る根拠もない。ましてや、二度目の出現時の直前に星々がそのことを予見していたのであれば、今回のこの憶測にも十分に説得力はあるだろう。

《しかし、百八星のうちの百星は400年前の戦いでの隕石魔法によって既にこの世界から完全に消滅し、残った我々八星も400年前に自分達の星核を消失したことによって、かつてのような力はもう残っていません。もはや普通の人々には存在すら視認出来ないほどに力は衰えています》

 実際、ノエルもこの地に来るまで、「その星」の存在を視認出来ていなかった。それが今見えているのは、この領域に漂う何らかの特殊な力の賜物であろう。

《しかし、今のこの時代には、私の前世である『あなた』がいる。そして、他の百七星の前世も、この世界のどこかに存在している。あなたが18年前に生を受けた時点で、私はそのことをおぼろげながらに思い出したのです。私には前世の記憶はほぼ残っていませんが、そのことだけは確信を持って言えます。あなた方に内在する力を用いれば、再び『星核』を作り出すことは可能な筈。それぞれの聖印、魔法、邪紋、そして混沌核の力を用いれば、それぞれの『来世の姿』としての『星核』をこの世界の中で作り出すことで、大毒龍を倒すことが出来る筈……》

 ここまでの話を聞いたところで、ノエルはようやく、自分に何が求められているのかを理解し始める。だが、その大前提となる「条件」をノエルは満たしていない。そのことについてノエルが言及しようとしたところで、先に「星」の方から彼にこう告げた。

《……ですが、今のあなたには、星核を作り出すための聖印がない。そこで、その力を得てもらうために、この地に来て頂いたのです。かつて400年前に私と共に戦ったエルムンドから、力を受け取ってもらうために》

 「天魁星」がそう言い終えると同時に、ノエルの目の前に、霧の中からうっすらと一人の男性の姿が現れた。その顔までは確認出来ないが、その身に纏われた圧倒的なオーラから、それが「英雄王エルムンド」であることは直感的に理解出来る。彼はゆっくりとその口を開き、そして今度は明確に耳に聞こえてくる「音の波動としての声」でノエルに語りかけてくる。

「私には既に聖印は無い。そして、この身も既に満身創痍だが、最後の力を用いて再び聖印を作り出し、そして貴殿に授けよう」

 英雄王のその言葉に対して、ノエルは思わずたじろぐ。

「それって……」

 自分がその聖印を受け取れば、英雄王エルムンドの命が失われる、ということを意味しているようにノエルには思えた。そんな彼の心境を慮ってか、エルムンドは静かな口調で話を続ける。

「私はもう、本来ならば生きているべきではない存在だ。400年前に命を落とそうとした時、仲間の『魔法師』が私を無理矢理生き永らえさせようとして、私の中の『時』を強引に止め、この地に私の存在を封印した。だが、今のこの状況を思えば、彼女の判断は正しかったのかもしれないな。貴殿にこの聖印を渡すために、今まで生き続けていたのだとしたら……」

 そう言いながら、エルムンドはノエルの目の前で「聖印」を作り出し始める。彼はもともと400年前に自力で聖印を作り出した君主であった。その聖印は三人の子供達へと分け与えられたが、聖印を作り出す能力自体は失われていなかったのである。

「彼女はそれでも『このやり方』に最後まで反対した。だが、おそらくこれが最も確実な方法だ。私の中に残っている『星核を具現化させた時の記憶』も込めて、この聖印を授けよう」

 エルムンドは聖印を掲げ、ノエルの前に差し出す。

「さぁ、受け取るがいい」
「しかし、これを受け取ってしまったら、エルムンド様は……」
「どちらにしても、私の身体は既に限界に達している。これを受け渡すには、私の体が朽ちる前に、貴殿が受け取るしかない」

 聖印を受け渡す前に持ち主が死ねば、聖印は混沌核へと変わる。聖印を持つ者であれば、その混沌核を自身の聖印で浄化吸収することは出来るが、もともと聖印を持っていないノエルがこの力を受け取るには、今この瞬間しかないのである。
 そう言われたノエルは一旦俯きつつも、顔を上げて答える。

「……分かりました」

 ノエルがそう言って自らの左手を差し出すと、彼の心身の内側に特殊な力が注ぎ込まれ、そしてその左手に光り輝く聖印が浮かび上がる。それと同時に、聖印を失ったエルムンドの身体が急速に朽ち始めた。魔法によって止められていた時間が、一気に解き放たれたのである。

「頼んだぞ、アマノサキガケノホシよ……」

 その言葉を最後に、エルムンドの身体は崩れ落ち、その場には白骨だけが残った。自分に力を託したことで「伝説の英雄王」が消失するという、にわかには信じがたい現実を目の当たりにしてノエルが茫然自失となっているところへ、再び「星の声」が聞こえてくる。

《あなたの聖印に語りかけて下さい。あなたの望む未来を。そのために必要な力が、『星核』として、あなたの前に出現する筈です》

 聖印や戦旗(フラッグ)は持ち主である君主の「志」を反映すると言われている。今まで聖印すら手にしたことのなかったノエルには想像も出来ないが、おそらくは星核もまたそれらと同じような存在なのだろう。
 唐突に与えられた強大な力を左手に感じ取りながら、ノエルは心の奥底で「自分の望む未来の世界」を思い描く。今のこの時点において彼の中での最も望むべき世界、それは「もう二度と大毒龍が現れない世界」であった。
 それを最も確実に実現する方法は皇帝聖印(グランクレスト)の形成であろうが、それは今までに幾多の君主達が目指しながらも辿り着けなかった未踏の境地であり、他にも方法があるのかもしれないが、いずれにしても具体的な道筋はノエルには見えない。だが、たとえ明確な解決策が今は分からなくても、最終的には必ず自分自身の手で大毒龍との戦いを終わらせるという彼のその決意は、英雄王から引き継いだばかりの左手の聖印に強く共鳴し、そして彼の目の前に「光り輝く何か」が現れる。それは、先刻から語りかけてきた「夜空の星」と同じような不思議な光を放つ、小さな光源体であった。どうやら、これが「星核」らしい。

《この『星核』は、大毒龍を倒す際に必ず必要となります。それ以外の時でも、いざという時にあなたのお役に立つことは出来るでしょう。聖印と同じように、あなたが望む時、いつでもこの星核はあなたの前に具現化されます》

 その説明を受けたノエルが、改めてその「目の前の星核」と「空に浮かぶ天魁星」の輝きを見比べようとして夜空を見上げた時、それまで見たことのない「天魁星とよく似た特殊な輝きを放つ七つの星」が視界に入る。

《今、あなたの瞳に映っている『それまで見えなかった星々』は『私以外の現存する七つの投影星』です。彼等もまた、世界のどこかに存在する自身の『前世』を探しています。『彼等』にその声が届けば、あなたと同じように星核を自力で作り出すことが出来るようになるでしょう》

 その「七つの星の前世」がどこにいるのかは、天魁星も確認は出来ていない。ただ、投影星同士の間では意思疎通が可能であるため、「彼等」がその力に目覚めれば、星々の繋がりを通じて簡単な情報伝達は可能になるらしい。

《残りの百星に関しては、今の時点ではこの世界から消失しています。しかし、あなたや他の
七人が、自身の『星核』の力を『百星の前世の者達』に注ぎ込めば、星核を作り出す力も彼等に伝授され、それと同時に『星』としても再びこの世界に投影される筈です》

 どういう原理でそうなるのかは、天魁星自身も分かっていない。だが、彼にそうだと言われたからには、ノエルとしてもその言葉を信じてみるしかないだろう。問題は、その「百星の前世の者達」をいかにして探し出すかである。

《私の星核を宿している今のあなたであれば、『星の前世の者達』があなたの目の前で何らかの『力』を使ってくれれば、感じ取れる筈です》

 彼が言うところの「力」とは、おそらく「聖印」や「魔法」や「邪紋」の力のことであろう。それに加えて、百八人の中には「投影体」が加わっていた可能性もあるという。その辺りの詳しい記憶は、残念ながら転生した過程で失われてしまったため、確かなことは分からないらしい。ただ、「英雄」として転生していることを考えると、「ただの一般人」である可能性は薄そうではある(先刻までのノエルのように、まだ現時点でその力を手に入れていない者はいるのかもしれないが)。
 そしてもう一つの問題は「いつ、どこに大毒龍が再投影されるのか」ということであるが、その点についても天魁星の中ではまだ明確な答えは出せていないらしい。ただ、時期についてはまだ不明確ではあるものの、場所については、おおよその目測は立っているという。

《次に大毒龍が出現するのは、おそらく400年前に出現した際の残滓が残っているパルトーク湖だと思われます。あくまでも私の本能的な感覚に基づく予見なので、確実ではありませんが》

 パルトーク湖とは、ボルフヴァルド大森林の入口付近に位置する湖であり、テイタニアからも程近い距離にある(「クリサリス湖」という別名で呼ばれることもある)。確かに以前から混沌濃度が高い地域として有名であり、一年ほど前には「大毒龍ヴァレフスが復活する」という噂が広がった土地でもあった(その顛末についてはブレトランドの英霊6を参照)。

《あの湖の北部に、かつての城塞都市オーハイネの跡地があります。あの地には我々が与えた加護がまだ断片的に残存しているため、大毒龍を迎え撃つための拠点としては最適でしょう》

 「オーハイネ」という都市の名は、少なくともノエルは聞いたことがない。ただ、ちょうどノエルが紅の山に向けて出立しようとしていた頃、「湖の北岸に遺跡のようなものが発見された」という噂が冒険者達の間では広がっていた。もしかしたら、それこそが400年前のオーハイネの残骸なのかもしれない。

《あなたはもともとパルトーク湖の近くにいたのですよね? 現地の領主と面識はありますか?》
「はい、あります」

 現在のテイタニアの領主であるユーフィーは、もともと先代領主の次女(第四子)であったが故に領主候補とは見なされず、自由奔放に育てられたため、若い頃から下町に頻繁に顔を出し、領主となった今でも冒険者達の店で手品を披露しているような人物である(詳細はブレトランドの英霊6を参照)。当然、ノエルを初めとする町の冒険者の面々とは一通り顔見知りであった。

《ならば、彼女が『我々の前世の一人』であろうが無かろうが、彼女には話を通しておいた方が良いでしょう》
「分かりました。どちらにしても、湖の近辺に砦を作るということであれば、彼女の許可を頂かなければならないですからね」
《はい。ただし、この情報はあまり多くの人々には知らせないで下さい。過去二回の出現から分かったことですが、あの大毒龍は『この世界の人々の恐怖心』を力の源としています。大毒龍復活の噂が広がれば、多くの一般の人々は間違いなく恐怖に怯えることでしょう。特にこのブレトランドの人々は『大毒龍ヴァレフス』という存在に対して、本能的な恐怖を覚えている筈。ですから、このことについては、信頼出来る人達、より正確に言うなら『あなたならば絶対にこの世界を救える』と心から信じてくれる人達以外には、伝えないようにして下さい》

 天魁星にそう言われたノエルは、その忠告の意図は理解しつつも、現実問題としてそれがかなりの難題であることを実感する。少なくとも、つい先刻までただの「一般冒険者」に過ぎなかった自分をそこまで信頼しれくれる人が果たしてどれほどいるのか、と考えると、あまり見通しが明るいとは思えない。とはいえ、どちらにしても自分一人で解決出来る問題ではない以上、これから少しずつ信頼を勝ち取り、仲間や協力者を増やしていくしかないだろう。
 彼がそんな決意を固めたところで、天魁星は最後にこう告げた。

《あなたには、この先に無限の未来が広がっています。私はその中の『一つの未来』の末に転生した姿に過ぎません。『あなた』は確かに『私の前世』ですが、『あなたの来世』が『私』であるとは限りません。あなたがこれから選び得る無数の選択肢の中の一つの姿でしかないのです。ですから、これから先のあなたの築く未来に私がいるかどうかは分かりません》

 つまり、ノエルが「英雄」として星界へと転生するほどの存在となる未来が保証されている訳ではない、ということである。ノエルはその言葉の意味を受け止めつつ、ひとまず星核と聖印の具現化を解いたところで、それまでずっと黙っていたTKGが口を開いた。

「では、私はこれから、エルムンド様の御遺骨を霊廟へとお届けしますニャ。少ニャくとも『ご主人様』が帰ってくるまでは、私には霊廟をお守りする義務がありますニャ」

 TKGはそう言うと、ノエルの前に広がっていた英雄王の遺骨と共に、ノエルの前から姿を消した。彼が言うところの「ご主人様」とは誰のことなのか、ノエルには分からない。だが、今は分からないことをあれこれと考えている場合ではない、ということだけは分かっていた。
 ノエルは聖印が宿った左手を右手の甲で包みながら、英雄王の遺志を受け継いだことの重さを改めて強く実感しつつ、まずはテイタニアへと帰還するために、夜空に浮かぶ八つの星の輝きを確認しながら、一歩ずつ静かに歩み始めるのであった。


1.4. 湖北の遺跡

 その頃、テイタニアの領主ユーフィー・リルクロート(下図)は、まさにその天魁星が語っていた「パルトーク湖の北岸」を訪れていた。数日前にノエルが紅の山へと向かった直後、この地に発見された「古代の城塞都市」の遺跡の調査のために、考古学者達を中心とする調査隊の指揮官として、自ら赴くことになったのである。


 この湖の近辺の森林地帯は極めて混沌濃度が高い地域として有名なのだが、なぜかこの遺跡の近辺は他に比べて混沌濃度が微妙に低く、魔物の出現率も低い。その原因の解明が今回の調査隊の主要な任務の一つなのだが、随行した考古学者達の中でも最も若い一人であるアルバート・ラッセルという青年は、その調査の過程で、とある「違和感」に気付いていた。

「どうもこの遺跡……、遺跡自体はかなり古い筈なんだけど……、最近になって誰かが足を踏み入れたような形跡がある……」

 独り言のようにそう呟いた彼に対して、近くにいたユーフィーが問いかけた。

「確かに、この辺りまで熟練の冒険者なら来ないこともないと思うけど、そういう冒険者の人達とは違うのかい?」
「いや、なんだろうな……、足を踏み入れた痕跡を魔法か何かで隠蔽しているような、そんな違和感があるんだ」

 彼は魔法師ではないが、魔法や混沌(あるいは聖印)によって自然律が崩されているかどうかについては、(その正体までは特定できないものの)直観的にある程度まで読み取ることが出来るらしい。
 数百年前に作られたと思しきこの城塞都市の跡地には、明らかにその当時に施された何らかの特殊な力が働いており、それがこの地の「混沌濃度の低さ」に影響している、というのが調査隊の見解である。その点については彼も異論はないのだが、それとはまた別の力が、その上から覆いかぶさるように掛けられているように彼には思えた。しかも、それは一介の冒険者程度ではなく、もっと強大な力を持った何者かが、ここで何かを為した上で、それをあえて何事も無かったことかのように元に戻したような、そんな違和感が感じられていたのである。
 だが、その「何か」の具体像がアルバートの中でも今ひとつ明確に描けなかったため、その違和感の根拠が上手く伝えられない、そんな状態であった。

 ******

 今回の調査隊では考古学者達の護衛のために多くのテイタニアの守備兵や冒険者の面々が動員されたが、そんな中で例外的に、首都ドラグボロゥから派遣された一人の女性がいた。彼女の名はカーラ。護国卿トオヤの側近を務める、大剣のオルガノンである(下図)。


 彼女は多忙なトオヤの名代として、ヴァレフール各地に派遣されることが多い身なのだが、今回彼女が抜擢されたのは、このパルトーク湖に眠る「湖の魔物」の血縁者として、何か分かることがあるかもしれない、という判断によるものである(詳細はブレトランド風雲録3を参照)。
 そして実際、その予感は的中することになった。調査団の護衛として、ユーフィーと共に遺跡の近辺を巡回していた彼女の心の中に、現在は東宝界(エステルシャッツ界)の巨大黒蜥蜴の姿となっている祖母(元来はエルムンドの七騎士の一人にして妻)マルカートの声が聞こえてきたのである。

《不吉な気配がします……。例えようのないほど不安な『何か』を感じます……。今、この地下で私が戦っている、私の周囲の混沌自体にはそれほど大きな違いはない。しかし、私は確かに『二つの不吉な気配』を感じるのです。『とてつもなく大きな不吉な気配』と『それほどまでには至らない程度の不吉な気配』が……》

 なんとも中途半端な言い回しの表現であるが、カーラは直感的に、これがどちらも「ただ事ではない気配」であろうことを察した。

(……それって、比較対象がおかしいだけですよね?)
《そうですね……。一つが『世界が滅びかねない気配』だとすれば、もう一つは『国が滅びる程度の気配』です。今、その『二つ目の気配』の方が、湖の表層で広がりつつあるような……》

 400年間地下で混沌と戦い続けた祖母からしてみれば、「国が滅びる程度の気配」は日常茶飯事なのかもしれないが、カーラにしてみれば、それだけでも一大事である。しかも、それすらも軽く凌駕するほどの気配と言われると、もはや完全に想像の域を超えている。
 苦悶の表情を抑えながら、こめかみを抑えるカーラに対して、その様子に気付いたユーフィーが心配そうに声をかける。

「どうしました? カーラさん」
「いえ、あの、えーっと……」

 カーラは、今の時点でユーフィーの近くに誰もいない(さっきまで近くにいたアルバートが、いつの間にか離れていた)のを確認した上で、小声で説明する。

「マルカート様から、また知らせがありまして。『世界が滅びかねないほどの悪しき気配』と『国が滅びそうなほどの悪しき気配』が近付いているそうです。その『規模の小さい方』が、湖の表層に近づいているとのことなのですが……」

 唐突すぎる報告にユーフィーも一瞬困惑するが、落ち着いて状況を整理する。

「それは、マルカートさんが戦っている『ヴァレフスの欠片』がこちらに迫って来ている、という訳ではないですよね?」
「はい、地下の混沌とは異なるようですが……、少し気をつけた方が良いかとボクは思います」
「そうですね。ここはブレトランドでも有数の大魔境、何が投影されたとしても不思議はありませんから」

 湖の底に眠る魔獣が心に呼びかけて来たという報告自体、常人には信じがたい話である。だが、ユーフィーもまた、かつてマルカートと夢の中で交信した経験を持つ身であるため、その話は極めて信憑性の高い情報に思えた。とはいえ、この時点では彼女も、その「危機」の具体的な実像についてまでは推し測る術を持たなかった。

 ******

 ユーフィーによる公募に応じて今回の調査隊に参加した冒険者達の中に、アンジェという邪紋使いがいる。彼は数年前に「不死」の邪紋の力に目覚めた青年だが、どういう経緯でその力を得たのかは覚えていない。ただ、その力に目覚めた時、彼は土の中にいた。どうやら、死んだと思われて埋葬(あるいは投棄)されていた状態から邪紋の力に目覚めたらしいのだが、その前後の記憶がすっぽり抜けている。
 その後、諸々の経緯を経てテイタニアへと流れ着き、そこで出会ったユーフィーに対して、一人の青年として「個人的に特別な感情」を抱き、少しでも彼女の近くにいたい、彼女の役に立ちたいと考え、そのままテイタニアの冒険者として居着くに至った。そんな彼が、今回の調査隊護衛の依頼に応じるのは当然の話であろう。
 不死の邪紋使い達の中には(伝説の女傭兵ストレーガのように)数百年以上の時を生きてきた者達もいるが、彼は年齢的には(記憶が抜けていた時期があるため、どこまで正確かは不明だが)まだ21歳であり、また力に目覚めた経緯を覚えていないということもあって、性格的には一般人に近い、どちらかと言えば引っ込み思案な気性である(故にストレーガと縁深いカーラにしてみれば、彼のような存在はやや珍しく思えた)。
 そんなアンジェが湖の滸に立ち、水面の状況を確認していたところ、彼は湖の水質に微妙な違和感を感じ取る。それは、かつてアンジェ自身がどこかで感じたことがあるかのような「正体不明の嫌な気配」を漂わせていた。

「なんだろう、この気配は……?」

 アンジェが思わずそう呟くと、いつの間にか彼の近くに来ていた考古学者のアルバートが問いかける。

「何かあったのかい?」
「あ、いえ、なんでもないんですが……、とりあえず、アルバートさんはどこかに行かないで下さいね」

 アルバートは、その場の思いつきでフラフラと歩き回る癖がある上に、方向感覚が極めて怪しいということでこれまでも何度も行方不明となった前科のある人物らしい。

「いやいや、こんな面白い調査対象を放っぽり出して、どこかに行ったりなんてしないよ」
「……一応、隣村の魔法師さんから、あなたの動向には気をつけて下さい、と言われたので」

 アンジェが言うところの「隣村」とは、最近になって復興を果たしたヴィルマ村である。テイタニアとは繋がりが深く、互いに領主や契約魔法師が相手の村に足を運ぶことも多い。アルバートはつい先日までヴィルマ村方面での調査に従事していたため、ヴィルマ村の面々からは今回の調査隊に対して、様々な形での「忠告」が届けられていたようである。

(とりあえず、ユーフィーさんには話した方がいいよな……)

 アンジェはそう呟きつつ、懐から「注射器」を取り出す。彼は他人の血を得ることによって邪紋の力を活性化させる能力の持ち主であるが、見ず知らずの相手を襲って無理矢理吸血することが
出来るような性分ではなかったため、冒険者仲間から(本人の合意を得た上で)定期的に血を分けてもらっている。本来はそのための道具である注射器を用いて、ひとまず湖の中で「特に嫌な気配がする水域の水」を吸引しておくことにした。

 ******

 こうして湖北地域の調査活動が進展する中、この調査隊の実質的な副官を務めていたテイタニアの武官アレス(下図)は、ひとまずユーフィーにこう進言する。


「この辺り一帯の状況に関しては概ね把握しましたが、本格的な調査には、もう少し日数がかかるでしょう。ですので、領主様は一旦街に戻られた方がよろしいかと」
「そうですね。あまり長く街を空けるわけにもいきませんし」

 ユーフィーはそう答えたところで、近くにいたアンジェが、何か言いたそうな顔をしていることに気付く。

「そちらは何か見つけました?」

 「憧れの人」に話しかけられたアンジェは、緊張してシドロモドロな様相のまま答える。

「えっと、そ、それなんですけど、先程、湖の水を眺めていたんですけど、なんとなく嫌な気配がするというか、心なしか水質も変わっているような、気が、しな、くも、ないです!」
「水ですか?」

 そう言われたユーフィーが水を眺めると、確かに、微妙に混沌濃度が低いこの遺跡の内部に比べて、湖の中の方が混沌濃度が明らかに高い気がする。水の底に確かに巨大な混沌核が存在することは知ってはいるが、それが原因なのかどうかは分からない。アルバートが言っていたように、何か別の誰かがこの地で何かを為したことが原因という可能性もあるだろう。
 少し不安そうな表情を浮かべるユーフィーに対して、アレスが改めて提案する。

「そういうことならば、学者先生達だけを残しておくのは危険なので、私の隊はここで彼等の護衛として残ることにしましょうか?」
「では、それでお願いします。ただ、あまり無茶はしないように。あとは一応、この辺りの水を少し持って行きましょうか。インディゴなら何か分かるかもしれませんし」

 ユーフィーがそう言ったところで、アンジェは注射器を取り出す。

「それなら、ここにあります」

 アンジェが湖水を封入した注射器をユーフィーに手渡すと、その手際の良さにユーフィーは素直に感心する。

「ありがとうございます、アンジェさん」

 微笑みを浮かべながらユーフィーがそう言うと、アンジェは彼女のその笑顔が眩しくて、思わず目をそらす。

「どうしました?」
「あ、いえ、なんでもないです」

 そんなやりとりを交わしている傍らで、カーラは直に湖の中に手を入れてみる。すると、確かに混沌濃度の高さは感じるが、あくまでもそれは最近になって高まりつつある混沌のように思えた。

「定着して長い混沌、ということは無さそうですね」

 カーラはユーフィーにそう告げる。少なくとも、400年近く熟成された混沌であるカーラとは、明らかに混沌としての年季が異なる。

「ということは、魔境にありがちな、新たな投影体でしょうか?」
「今のところはそう想定しておけばいいと思います。とりあえず、街に戻ったら、インディゴさんに頼んで、チシャお嬢にも話を伝えておいてもらいたいのですが、よろしいですか?」
「構いませんよ。どちらにしてもドラグボロゥへの連絡は必要ですし」

 そんな会話を交わしつつ、ユーフィーの中では色々と「嫌な予感」がよぎる。つい半月ほど前に遭遇した「特殊な事件」の名残という可能性も、この時点での彼女の中では想定されていた(詳細は「ブレトランド開拓期」 5話 6話 を参照)。

1.5. 連続殺人事件

 一方、テイタニアでユーフィーの留守居役を担当していた彼女の契約魔法師のインディゴ・クレセント(下図)は、現在、想定外の事件の対応に追われていた。


 それは、テイタニアの街中にて、毎晩のように冒険者の者達が次々と殺害される、という事件である。殺された者達の大半は邪紋使いで、彼等の死体からはその邪紋が浄化されたような痕があり、聖印の力による傷を受けた思われる痕跡も見えることから、おそらくは「君主」によって殺された可能性が高い。
 ただ、死体の形状から類推する限り、それぞれの死因は明らかに異なる。斬り傷、火傷、打撲痕など、それぞれに多様な武器や能力で襲われた痕跡があることから、当初は複数人による犯行である可能性が高いとされてきたが、インディゴがより詳細に調べてみた結果、どうやら彼等にとって最終的に致命傷となったと推測される「それぞれの最大の傷跡」は、いずれも「被害者自身の武器(もしくは戦闘法)」による傷跡のように見える。しかし、実際には遺された彼等の武器には、一切血糊はついてない。

(もしかして、相手の戦法を真似る能力者か? しかし、聖印の力を持つ者の中に、そのような者がいつのだろうか?)

 邪紋使いや投影体ならば、確かにそのような類いの者もいるだろう。だが、君主の戦闘法としては聞いたことがない。可能性があるとすれば、自力で武器を作り出すことが出来る聖印の持ち主くらいであろうか(なお、彼の契約相手であるユーフィーも最近その技術を習得したが、彼女が作り出せるのは基本的には片手棍のみであり、複数種類の武器を作り出せる君主は少ない)。
 そしてもう一つ、インディゴにとっては気になる情報があった。どの死体の近くにも「見覚えのある薬瓶」の破片が転がっていたのである。それはかつて、魔獣騒動の時に「謎の薬売り」によってインディゴ達に提供された「エーラム製ではない薬瓶」と明らかに同じ代物であった。
 あの時の薬売りは、インディゴの同僚である地球人の文官ハーミアの(地球時代の)知人らしい。彼女は現在、とある用件でテイタニアを離れているため、彼女を通じて確認することは難しいが、おそらく彼が闇魔法師組織パンドラの一員であるということはインディゴも察しがついている。果たして、パンドラがこの件にどのような形で関わっているのか、今の時点では様々な可能性が考えられるが、全て憶測の域を出ない、そんな状態であった。
 インディゴが街角の調査を続けながらそんな思案を巡らせているところで、唐突に一人の青年が声をかけてきた。

「あれ? あなた、もしかして、静動魔法師のインディゴさんですか?」

 その声の聞こえてきた方向に目を向けると、そこには二人の若い男性の姿があった。一人は、やや身なりの良い服を着た、おそらくユーフィーと同世代くらいと思しき金髪の青年。もう一人は、彼よりも少し若そうな、髪の毛の部分をすっぽりと覆うようなニット帽をかぶった少年であり、その腰元には「小さな筒」が差されていた。
 声の主は金髪の青年の方である。そしてインディゴは、彼の顔にかすかに見覚えがあった。インディゴの記憶が間違っていなければ、おそらく彼の名はシャルル・コンドルセ。エーラムの魔法大学時代に出会った、アロンヌの貴族家の三男坊である。当時のシャルルはまだ子供だったため、一目で確証出来るほどではないが、確かに面影が感じられた。

「お久しぶりです。覚えていて下さるかは分かりませんが、昔、ちょっとお世話になったというか、色々とご迷惑をかけした者でして……」

 申し訳なさそうに頭を下げるその青年の語り口から、インディゴは確かに彼がシャルルであると確信した。彼はあくまでも一貴族としてエーラムで一般教養を学ぶために留学していた身でありながら、全く才能がないにも関わらず、なぜか静動魔法師になりたいと言って譲らず、何度も大学に押しかけて来た風変わりな少年であった。当時、そんな彼を追い返す役目を毎回押し付けられていたのが、インディゴだったのである。

「あぁ、覚えているよ。それに、君があの時の君だとすれば、このテイタニアに来ている理由も分かる気はする」

 当時のシャルルは、何度も門前払いされ続けた結果、最終的にはエーラムで活動していた大道芸人達から手品を学んだ上で、インディゴ達の目の前で「物体浮遊」の技を見せることで「自分には静動魔法師の資質がある」と言い張って入門を認めさせようとするほど、異様なまでの執念を見せていた(当然、それで教員達が騙される筈もなかったのだが)。何が彼をそこまでさせたのかはインディゴには分からなかったが、やがて彼は静動魔法師への道を諦めた後、今度は手品や大道芸の世界へと没頭していったという噂をインディゴは聞いたことがある。

「えぇ。ここの領主のユーフィー様の評判を聞き及んで、ぜひともお会いしたいと思い、足を運ばせて頂きました」

 ユーフィーが「住民達の前で手品を披露する趣味を持つ、変わり者の領主」であることは、今ではそれなりに有名な話となりつつある。おそらくは彼も、その噂を聞いて駆けつけたのだろう。インディゴがそんな予想を思い描いている中、シャルルは小声で話を続けた。

「実は、あまり大きな声では言えないのですが……、私は今、聖印を持っています。実家とはもう縁を切っていて、ただの流浪の身なのですが、私はこの聖印を使って、幻影師(イリュージョニスト)になりたいと考えているのです」

 「幻影師」などという言葉は、この世界ではあまり一般的ではない。インディゴは彼が何を言いたいのかよく分からないまま、首を捻る。

「聖印を使って?」
「はい。私の聖印は『聖弾』と呼ばれる光の弾丸を打ち出すことが出来るのですが……、インディゴ様は、大陸の極東地方に伝わる『花火』という文化をご存知でしょうか?」
「聞いたことはあるが……」

 それは、今はもうほぼ失われた「夜空に火薬で花のような絵を描く芸術」である。混沌爆発(カオティック・バン)以前の時代の極東地方では盛んであったとも言われているが、今のこの世界では火薬の扱いは非常に難しいため、現在ではもう継承者も殆どいない幻の技術である。

「その技術を応用して、『聖弾で夜空に絵を描く』という技法を私は研究しているのですが……、聖印をそのようなことに使うことに、実家を初めとする多くの方々に怒られまして……」

 それはそれで当然の話であろう。この世界において聖印は「人々を守るための力」であると同時に「権威の象徴」でもある、という認識が一般的であるが故に神聖視されやすく、その使い方に関しては人それぞれに様々な美学がある。おそらくは「見世物の道具」として聖印を用いることに違和感を感じる人も多いだろうし、それが聖印そのものへの冒涜だと考える人も決して少なくはないだろう。

「しかし、この地のユーフィー様であればご理解頂けるかと思って、この村にお邪魔させて頂いているのですが、どうやら私が到着する直前に、湖の調査へと向かわれてしまわれたそうで……」

 ユーフィーが湖へと向かったのは7日ほど前である。つまり、それくらい前から彼はこの地に来ていたらしい。ひとまずはユーフィーの代役として、インディゴは個人的見解を語る。

「この世界の聖印は、人々に希望を与えるためのものである以上、そのような形で人々を楽しませることに使うということも、悪くはないのかもしれないな」

 少なくともユーフィーは、シャルルのような手法を批判することはないだろうと思いつつ、インディゴはそう呟く。だが、今のシャルルが「聖印の持ち主」であることを知った時点で、インディゴの中には一つの「嫌な可能性」が頭をよぎっていた。テイタニアには冒険者は多いが、聖印を持つ者は少ない。そして、彼等がこの地に到着した時期は、連続殺人事件が起き始めた時期とも一致する。インディゴは「その可能性」について考慮しながら、シャルルの反応を伺いつつ、語りかける。

「それはそれとして、君の言いたいことは分かったが、この辺りでは物騒なことも起きているから、気をつけるように」
「確かに、そうらしいですね。正直、私は聖印を戦いに使う方法がよく分かっていないので、そんな危険な人と遭遇したらまずいなと思ってて、だから、なるべく夜道は出歩かないように、夜は早く寝ることにしてます」

 そう答えたシャルルには、特に動揺した様子もない。何かを隠しているようにも見えない。しかし、彼の隣にいたニット帽の少年が、微妙にピクッと反応したような気がする。インディゴがそんな彼を改めて注視するような視線を向けたのに対し、シャルルが割って入るように語り始めた。

「あ、彼はミロワールと言いまして、私の助手のようなものです。詳しくはまたユーフィー様がいらっしゃった時にお話ししますが、彼の力が私の幻影(イリュージョン)には必要なんです」

 シャルルがそう言うと、そのニット帽の少年はやや怯えたような上目遣いでインディゴを見つめながら、黙って頷く。インディゴは、今の時点で彼等を問い詰めるのは早計だと判断したのか、ひとまず話を打ち切ることにした。

「領主様がどういう反応を示すかは分かりませんが、とりあえず、領主様が戻って来れば、いつでもお会いする機会は作れるでしょう」

 そう告げて、インディゴはひとまずその場を立ち去ることにした。

 ******

 その後、インディゴは一旦執務室へと戻った上で、改めて今回の事件の犯人の目的を探ろうと考え、(本業ではないが最近習得した)時空魔法を用いて、それに関する手掛かりとなりうるような言葉を探し求める。すると、以下の言葉が浮かび上がった。

「衝動」「復讐」「パンドラ」「痕跡」「錬成魔法」

 これだけでは犯人を特定するには至らないし、あの二人がそれに関係しているかどうかも分からない。ただ、「パンドラ」が絡んでいるという時点で、それなりに根深い問題であろうことは予想出来る。なお、隣村には「パンドラへの復讐に燃える領主」が存在するのだが(しかも、彼は過去にも度々このテイタニアに、領地経営の参考のために来訪したことがあるのだが)、今のこの時点で、インディゴの中では「その可能性」が考慮されていたかどうかは定かではない。

1.6. 開拓者達

※本節の登場人物達の詳細についてはブレトランド another内の「ブレトランド開拓期」シリーズを参照。

 その「パンドラへの復讐に燃える領主」の名は、グラン・マイアー(下図)。テイタニアの南に位置するヴィルマ村の領主である。彼は元来は大陸中北部地方の出身であったが、幼い頃に二度に渡って故郷をパンドラによって破壊された後、自力で聖印を作り出し、傭兵稼業などを経て、半年程前からこの村の領主に就任した(ブレトランドと魔法都市2)。先日、仇敵であったパンドラの闇魔法師は彼自身の手で討ち果たしたが、その過程で彼はパンドラ以外にも今のこの世界の秩序を壊そうとする者達がいることを知り、改めて君主としてこの世界における「パンドラを初めとする悪しき存在」と戦い続けることを決意していた。


 そんな彼が治めるヴィルマ村の冒険者達の間で、ここ最近「エーラムの認可を得ていない違法な魔法薬」が出回っているらしい、という情報が彼の耳に届いた。今のところ、その効能はエーラムの正規品と比べても特に遜色はなく、人体に悪影響を及ぼす薬ではないようだが、その薬を作っているのはパンドラではないか、という噂もある。
 グランはまず、村内で活動する冒険者達の溜まり場となっている酒場の店主レグザから、その魔法薬の「空き瓶」を二つ入手する。レグザ曰く、この薬瓶を扱っていたのは地球人の投影体の男性で、日頃は主にテイタニアで活動しているらしい。
 その上で、次にグランは自身の契約魔法師であるアスリィ・エテーネ(下図)の執務室へと向かう。彼女は常盤の生命魔法師であり、元来はハルーシアの貴族家出身で、無自覚のまま魔法の力に目覚めた自然魔法師だったが、諸々の経緯を経てヴィルマ村へと辿り着き、そしてグランの契約魔法師となった人物である。


「アスリィ、仕事しているところ悪いが」
「あ、はい。何ですか? グランさん。ちょうど今、ヴィルマ村の首都との街道の建設計画を考えていたんですが……」

 このヴィルマ村は、過去に一度、混沌由来の伝染病で滅びた後、グランを中心に復興された村である。その過程で、途絶えていた周辺地域との間での街道も整備されつつあるが、村の発展に向けての円滑な交通手段の確保のためにも、首都と直通の街道を築き上げることは、短期的にも長期的にも望ましい構想として考えられていた。

「それに関しては、後々の話だから、そこまで急がなくてもいいかな。とりあえずアスリィ、いきなりで悪いんだが、ヴェルナさんに魔法杖で連絡を取ってくれないかな?」
「はい、いいですよ」

 彼女は即答して魔法杖に念を込める。ヴェルナは現在のヴァレフール伯爵レア・インサルンドの契約魔法師であり、グランとは、彼女が現職に就く契機となったエーラムでのお披露目会の頃からの知人である。

「はい、お疲れ様です。こちらドラグボロゥのヴェルナ・クァドラントです」
「ヴィルマ村のアスリィ・エテーネです。なんか、グランさんがヴェルナさんにお話ししたいことがあるそうなので」

 アスリィはそう言って、グランに魔法杖を渡す。

「お久しぶりです。一つ確認したいんですけど、ドラグボロゥで回復薬の偽物が出回っているという話を聞いたことはありますか?」
「報告件数は多くないですが、無くは無いですね。ただ、ドラグボロゥに限った話ではないと思いますよ」

 ヴェルナは現職に就く前にブレトランド各地に実地研修で赴任していた経験があるため、人脈も広く、様々な地域の事情に詳しい。それ故に、これまでも「出所不明の怪しげな物品」に関する情報は何度か耳にしていた。

「実は最近、ヴィルマ村でそれが出回る数が増えているようで……」
「それを流通させている者がいる、ということでしょうか?」
「はい。一応、空き瓶を受け取っておきましたので、それを調べてもらいたいと思いまして。これを届けた上で、解析して頂けないでしょうか?」

 中身が無くても、空き瓶の形状や、そこに残っているかもしれない混沌の残り香などから、何かが分かる可能性はあるとグランは考えていた。

「分かりました。そういうことでしたら、持ってきて頂ければ確認します」
「では、よろしくお願いします」

 そういって通話が切れたところで、今度はこの部屋の扉を激しく叩く音が聞こえる。グランはそのけたたましさから、扉の向こうにいる人物が誰なのか、すぐに察しがついた。

「これは、アレックスか? 入れ」

 グランがそう言うと、彼の予想通り、そこにいたのはこの村の武官の一人である邪紋使いのアレックスであった(下図の右側の青年。左側は彼の幼馴染の少女と相方の獅子)。彼は元々この村の出身だが、伝染病が蔓延した時点では村を離れていたために難を逃れ、その後、グラン達と共に村の復興に尽力し、現在もグランの側近として村を支えている重臣の一人である。


 この日の彼の右手には、皿に盛られた輪状の菓子が乗せられていた。グランは露骨に不快そうな顔で問いかける。

「なんだ、それは?」
「いや、あの、ドーナツです」

 そう言ってアレックスは皿を差し出そうとするが、二人はすぐに目線をそらす。

「食わんぞ」
「お帰り下さい」

 アレックスは(炎の元素を操る邪紋使いであるためか)極度の辛党である。何を食べる際にも大量の香辛料を振り掛けるため、彼の味付けは通常の人間には耐えられない。故にこのドーナツも、決して普通のドーナツでは無いと彼等は判断したのだろう。

「いや、これは皆で作ったものなんだけど……」

 実際、アレックスは自分の味覚が他人と異なることは(ある程度は)自覚しているため、今回のこの「差し入れのドーナツ」に「自分用の味付け」を施すことは自粛していたのだが、それでも過去に様々な前科があるため、この村で彼が提供する食物に対しては、誰もが無条件に警戒してしまう。
 アレックスは不本意な表情を浮かべつつ、唐突に今の自分の心境を語り始める。

「それはそれとして、ちょっと最近不調というか、何かこう、刺激がないというか……」

 今ひとつ要領を得ない言い回しのアレックスに対して、アスリィはやや苛立ったような口調で問い質す。

「何が言いたいんですか? 端的に言って下さい」
「あの……、何か食べに出かけてもいい?」

 どうやら彼は「食べ歩きの旅」に出たいらしい。 

「それに関しては、別に申請してくれれば何の問題もないが」

 グランがそう答えると、アスリィがそこに補足説明を加える。

「休暇届とか出してくれれば、有給とかもありますよ」
「あるの? この村に、有給?」
「ナメないで下さい! 契約魔法師はこのアスリィさんですよ! 福利はしっかりしてます!」

 それがハルーシア流なのか、あるいは彼女が旅先で学んだ異世界流の経営方針なのかは定かではないが、グランはそのアスリィの方針を受け入れていた。彼は上司として、アレックスに方針を確認する。

「ちゃんと休みとか欲しいんだったら、言ってくれればいい。とりあえず、何日くらいだ?」
「お許し頂けるなら、一週間か、それくらい」
「それくらいなら、いいだろう。大規模な開拓はひと段落して、今は特に人手が必要な訳でもないしな」
「ちなみに、もし何か用事があれば、お使いくらいは頼まれますけど」

 どうやら、アレックスとしては、特にどこに行くかも決めていなかったらしい。それを聞いたグランは、二つの空瓶のうちの片方をアレックスに差し出す。

「じゃあ、こいつをちょっとドラグボロゥのヴェルナさんに届けておいてくれ」
「なんですか、これ?」
「大事なものだ」
「え? でも、これ、空瓶ですよね?」
「中身は入っていないが、大事な証拠の品なんだ。ヴェルナさんに渡せば分かる」

 そう言いながら、グランはその場でヴェルナへの書状を即席で書き記し、薬と同時にアレックスに手渡す。

「ちなみに、何かお土産で欲しいものはあります? たとえば食べ物とか……」
「いらない」
「あ、そういうのいいです」

 グランとアスリィはそう言って一蹴する。よほど彼の味覚は信用出来ないらしい。

「そうなんですか? ヴェルナさんは、よく来客の人達にお土産としてお菓子をくれるらしいですけど……」
「お前が食べてくれればいいよ」

 グランはこの提案に対しても、あっさりと即答する。グランは甘党だが(既にこの時点でアレックスとは不倶戴天の関係なのだが)、ヴェルナの作るお菓子に関しては(過去の様々な前科から)甘い辛い以前に「口に含んで良いものではない」というのが彼の認識であった。

「え? そういうのって、皆で食べるものでは?」

 キョトンとした顔でそう呟くアレックスに対して、アスリィは答えながら彼を強引に部屋の外へと押し出していく。

「大丈夫です。お気遣いなく。Have a nice holiday!」

 ハルーシア出身のアスリィに(あえて?)ブレトランド訛りでそう告げられた上で、アレックスはよく分からないまま執務室から追い出されたのであった。
 その上で、グランは改めてアスリィに事情を説明する。

「で、この空き瓶はエーラムが作っている回復薬の偽物なんだが……」
「それは初耳ですね」
「あぁ、今初めて言ったからな。で、これを流通させてる奴がテイタニアにいるらしい。ということで、明日、調査に行くぞ」
「OKでーす!」

 こうして、グランとアスリィはテイタニアに、アレックスはドラグボロゥに、それぞれ向かうことになるのであった。

1.7. 黄金槍と魔女

 ヴァレフール南西部の両村でそんなやりとりが交わされていた頃、同国内で対角線上に位置する北東部の長城線(ロング・ウォール)の中核に位置する城塞都市オディールの領主ロートスの契約魔法師であるオルガ・ダンチヒ(下図)は、時空魔法師としての本能から、この街に迫り来る「嫌な気配」を感じ取っていた。


 すぐさま「予見」の魔法を用いてその気配の正体について解析した結果、どうやらそれは、ロートスと弟達が保持している「巨大な魔物を封印する三本の黄金槍」に関する凶兆であろうという推測に達し、彼女はすぐさまロートスから保管庫の鍵を受け取り、その安否を確認しようとする。だが、彼女が保管庫に辿り着いた時、そこには見覚えのない奇妙な装束の少女(下図)がいた。


「さすがは長城線を預かる魔法師だけのことはある。いい勘をしているな」

 少女はそう呟きながら黄金槍に手を掛けつつ、オルガに向かって言い放つ。

「申し訳ないが、これ以上、ここにこの槍を眠らせておく訳にはいかなくなった」
「それは我が君主のものだ。勝手に持ち出すようなら……」

 オルガが険しい表情でそう言いかけたところで、遮るように少女は再び口を開く。

「魔法師として模範的な回答だ。だが、すまないが、今はこうするしか無いのだ」

 少女がそう言い終えると同時に、彼女が手にしていた黄金槍もろとも彼女の姿がオルガの視界から消える。突然のことに困惑したオルガが周囲の気配を探ろうとしたところで、どこからともなくその少女の声が聞こえる。

「私の名はマリア……、いや、そうだな、今回はあえて『マリア・クレセント』と名乗っておこう。テイタニアに私の後輩がいる。奴にお主と同じくらいの直観力と洞察力があれば、いずれ事態に気付くかもしれない。というより、私の勘が間違っていなければ、おそらく、貴殿も奴も……」

 そこまで言いかけたところで、一瞬間を開けて、再び語り始める。

「……まぁ、いい。ひとまず、この槍は借りておく。何か聞きたいことがあれば、テイタニアの我が後輩にでも話を聞くことだ」

 少女は一方的にそう告げた上で、そのまま気配が完全に消える。オルガはすぐさま入口の衛兵達に周囲の捜索を命じ、オーロラとジゼルにも急使を飛ばして状況を確認させつつ、ロートスにこの状況を報告した上で、言われた通りに「テイタニア在住の『クレセント家の魔法師』」であるインディゴへの魔法杖通信を試みることにした。

「オルガさん? どう言った御用件で?」

 殺人事件の調査を続けていたインディゴが、通信に気付いて魔法杖経由でそう問いかけると、オルガがそれに対して厳しい口調で問いかけた。

「まず、マリアという女に心当たりは?」

 その名前自体はブレトランドではありふれた女性名である。しかし、インディゴに対して、わざわざ遠方からあえて「その名の女性」の話をするために魔法杖通信まで使ってきた、という時点で、彼の中では即座に「最悪の可能性」が思い浮かぶ。

「あぁ、えーっと……」
「……あるんだな?」
「最近、こちらでは出没していないのですが、その名前が出てくるということは……、こちらとしては『御愁傷様です』としか言いようがないのですが……」

 インディゴとしては、今の時点ではそう答えるしかない。当然、その返答で相手が納得するとは思えなかったが、オルガはその返答を聞いた上で、やや口調を和らげる。

「では、今回の件にテイタニアは絡んでいないということでよろしいですか?」
「今回の件と言われても、こちらとしては心当たりはないのですが……、関係ないとは言い切れません」

 マリアが何を考えた上で、何をやってのけたのか、今のインディゴにはさっぱり分からないが、彼女の行動原理の背後にテイタニアの何らかの事情が絡んでいる可能性は否定出来ない。ましてや今、ユーフィーが不在の状況である以上、ここ数日の間に彼女がユーフィーと接触している可能性もあり得るだろう。

(どうやら彼は本当に知らないらしいな)

 インディゴの発言からそう判断したオルガは、かいつまんで状況を説明する。さすがに黄金槍の正体を教える訳にもいかなかったので、その点に関しては「ロートス様が大切に保管していた魔法具」という説明でごまかしたが、このような形で緊急連絡をかけてきたことからも、それがオディールにおいて相当重要な物品であろうことはインディゴにも推測がつく。

「その上で、聞きたいことがあればテイタニアの後輩に聞けと言われたので、貴殿のことだろうと判断して連絡したのですが」
「おそらく『それ』が言っていることの真意はそれで間違いはないのでしょうが、『分かりません』としか言いようがないです。ただ、いずれこちらに対しても、何らかの行動があるのだろうと覚悟はしておきます」

 インディゴのその発言を確認した上で、ひとまずオルガは通信を終わらせた。インディゴはマリアの正体は知らない。ただ、相当に厄介な存在であるということは、これまでの経緯で概ね察している。それが現在の彼の捜査中の連続殺人事件と関係しているのかは不明だが、いずれにせよ、何かとてつもなく大きな波乱が巻き起ころうとしていることは、彼の中でもうっすらと実感し始めていた。

2.1. 街への帰還

 紅の山での一件から数日後、ノエルが無事にテイタニアへと帰還した。これからどうやって百七人もの仲間を探せば良いのか、ノエルには皆目見当もつかないが、まずは湖の北岸に砦を建設するための許可と協力を、この地の領主であるユーフィーに相談しなければならない。ユーフィーは気さくに冒険者の酒場に顔を出すような性格なので、直接会って相談することはそれほど難しくはないが、どうすれば話を信用してもらえるか、その手順を考えるのも容易ではない。
 とはいえ、ひとまずは冒険者仲間の面々に挨拶をしようと、行きつけの酒場に足を踏み入れると、彼の姿を発見した冒険者達の方から、早速声をかけてきた。

「おぅ、ノエル! お前、最近見なかったけど、どこ行ってたんだよ?」
「あ、あぁ、えーっと、その……」

 ノエルとしては、何から説明すれば良いのか戸惑う。少なくとも大毒龍復活の件については「なるべく内密に」と言われている以上、少なくとも不特定多数の人々が集うこの場で口にして良い話ではない。

「ユーフィー様の調査隊にも、入ってなかったよな?」

 別の冒険者はそう問いかけたが、そもそも湖北の調査隊はノエルが旅立った後に公募がかけられていたため、ノエルはその調査計画自体を知らない。ノエルは微妙に逡巡しつつも、とりあえずは「話せるところ」までは正直に伝えることにした。

「ちょっとした依頼で、紅の山に行って来てな」

 唐突に意外な地名が出されたことで、冒険者仲間達は一様に困惑しつつ、次々とノエルに対して質問攻めを始める。

「紅の山って、あのグリースの方の? あんなところに一体何が? 」
「しかも、一度入ったら出られなくなるとかいう噂のある所だよな?」
「そういえば、前に美人のエルフに魅了されて行方不明になる連中もいたとか言ってたっけ」
「もしかして、お前も、美人のエルフを探しに行ったのか?」

 そんな仲間達に対して、ノエルは苦笑しながら答える。

「そこまで好色家じゃねーよ。いや、ちょっと困ったことがあってな。もちろん、美人のエルフに籠絡された訳じゃないんだが、その代わりに、妙なものを貰っちまってな」

 彼はそう言いつつ、左手から聖印を出現させる。その輝きを目の当たりにした冒険者達は驚愕の顔を浮かべながら、再び矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。

「お、お前、それって……」
「どういうことだ? 誰に貰ったんだ? それ?」
「もしかして、グリースに仕官したのか?」

 仲間達からのそんな当然の反応に対して、ノエルはどう答えるべきか迷いつつも、あえて率直にこう言い切った。

「いや、そういう訳じゃない。こいつはな、エルムンド様に貰ったんだ」

 おそらく、この言葉を額面通りに受け取る者はいない、と考えたのだろう。案の定、冒険者仲間達は首をかしげる。おそらく、何かの隠喩としてそう言っているのだろうと、この場にいる者達の大半は考えていた。

「それって、どういうことだよ?」
「つまり、あれか? どこかの王家の血筋の人からってことか?」

 エルムンドの聖印は三王家に分かれ、そこから更に多くの従属聖印を生み出している。その意味で、ブレトランドの君主達の中には、元を辿ればエルムンドの聖印に辿り着く者は多い(なお、グリース子爵ゲオルグはエルムンドの血筋ではなく、その聖印も別系統である)。

「まぁ、そう思っておいてくれよ」

 ひとまずそう言ってごまかしたノエルであったが、その上でもう一つ、仲間達からの疑問が投げかけられる。

「で、それは誰かの従属聖印って訳ではないのか?」
「そういうことになるな」

 これまで聖印を持ったことがないノエルには確信はないが、聖印を渡したエルムンドが消滅している以上、そうとしか解釈の仕様がない。

「しかも、お前のそれ、結構な大きさじゃないか?」

 別の冒険者がそう言うと、他の者達も一様に頷く。実際、ノエルの聖印は、この地の領主であるユーフィーが有しているような男爵級聖印とまではいかないまでも、駆け出しの騎士や騎士見習いが与えられる程度の聖印ではない。そのような聖印を、貴族でも武官でもないノエルが突然手に入れて帰ってきたとなれば、当然のごとく彼の周囲の人だかりは次々と増え続けていくことになる。
 そこへ、ちょうど帰って来たユーフィー率いる調査隊がテイタニアへと帰還した。彼等は冒険者の酒場の前に集まっている人だかりに驚く。

「何かあったのかな?」

 ユーフィーがそう呟きながら酒場の中に入ると、その人だかりの中心にノエルがいることに気付く。

「あれ? ノエルくん? 久しぶり。どうしたの?」

 ユーフィーの中でノエルは「テイタニアでも有数の、評判の良い冒険者青年」である。彼女の家臣達の中では、ノエルに聖印を与えて従属騎士として取り立てても良いのではないか、という声が上がる程度には、親密かつ友好な関係であった。

「あ、ユーフィー様、あなたに相談したいことがありまして……」
「どうしたの? この人だかり」
「少し、こいつらと相談しようと思っていたのですが、思ったより騒ぎが大きくなってしまって……。その、これなんですが……」

 そう言って、彼は改めて聖印をユーフィー達の前に掲げる。

「あ、聖印だ!」

 ユーフィーよりも前にそう反応したのは、アンジェであった。彼もまたテイタニアの冒険者仲間として、ノエルとは昔から顔馴染みであり、彼と同様に調査隊に参加していた冒険者の面々も、その聖印の輝きに思わず見とれる。
 一方、そんな彼等の後方からその光を目の当たりにしたカーラは、他の者達には感じられない
特殊なオーラを感じ取っていた。

(この輝きは……、父様に連なる聖印? いや、もしかして、もっと……)

 彼女の中で様々な可能性が湧き上がってくる中、ユーフィーが率直に問いかける。

「誰に会ってきて、どこでもらったんだい? そんなものを」
「……紅の山で、エルムンド様にもらいました」
「紅の山?」
「いや、信じてもらえないのは無理もないと思います。こんな突拍子もない話。だからこそ、どう話すべきか迷っていたのですが……」

 ノエルが説明に窮しながらそう語る様子を目の当たりにしたユーフィーは、何らかの「特殊ないわくつきの聖印」なのであろうことは察する。

「そうだね、どちらにせよ、それだけの聖印を手に入れたのなら、君はいくつも取りうる選択肢はあると思う。そのためにも、まずは話をさせてほしい」
「はい、ここで話すのは何ですので……」
「うん。場所は用意する。後で領主館に来てよ」
「分かりました」

 そんな二人のやりとりを、アンジェは羨ましそうに眺めていた。

(いいなぁ、ユーフィー様の館へお呼ばれかぁ……)

 一方、カーラはこの状況に頭を悩ませていた。カーラには、ノエルの発言が「突拍子もないこと」には思えなかったからこそ、堂々とそのことを語ったノエルに対して、なおさら困惑させられていたのである。

「そうかぁ、エルムンド様かぁ……」

 カーラはボソッとそう呟くが、その言葉の重みは周囲の殆どの者達には理解出来ない。皆がそれぞれにノエルのその聖印に対して、自分の中での様々な仮説を立てつつ、様々に盛り上がっていた訳だが、当然、彼等の中には唐突に巨大な力を手にしたノエルに対する疑惑や嫉妬の念が表情や態度に漏れ出ている者達もいた。

(ここは、ちょっと空気を変えた方がいいかな)

 ユーフィーはそう判断すると、おもむろに酒場の中央に設置された演芸用の舞台に立つ。すると、アンジェを始めとする冒険者達の視線は、一斉に彼女に向けられた。

「おい、ユーフィー様があそこに立ったってことは……」
「ユーフィー様のマジック(手品)ショーか!?」

 彼女のマジックショーは、もはやこの店の一つの名物の一つとして定着している。彼女は小道具を取り出しつつ、周囲に対して笑顔を振りまく。

「久しぶりだし、腕がなまってないといいんだけどね」

 そう呟きつつも、彼女は見事な手際で様々な手品を披露し、周囲を取り囲む常連客達は大歓声で盛り上がる。そんな中、ユーフィーは彼等に混ざって「見慣れない金髪の青年とニット帽の少年」がいることに気付いた。
 彼女は一通りの演目を終えた後に、舞台から降りて、金髪の青年に声をかける。

「新しい冒険者さんかな?」
「初めまして。私はシャルル。こちらはミロと言います。実はここの領主様にぜひお話ししたい議がございまして」
「おや? なんだろう?」
「この地の領主様が大衆演芸に御理解のある方だとお聞きしまして……」
「まぁ、自分で嗜む程度にはね」
「出来れば、そんなユーフィー様に一つ披露させて頂きたい芸があるのですが……、本日は長旅からのご帰還でお疲れでしょうし、どうやら先約もあるようなので、また明日にでもお話しさせて頂ければ、と思います」
「うん、分かった。楽しみにしてるよ」

 そんな会話を交わしつつ、ひとまずシャルルはミロワールと共にその場を去ることにした。

(思った以上に、素晴らしい方だな。しかも、聖印の力に頼らずに、あれほどまでの手品を披露されるとは……。その上、領主としての任務もきっちりこなしているようだし、街の人々からも深く敬愛されているのも頷ける。まさに私が目指すべき理想の姿。そして……)

 シャルルは、自分の中で、ユーフィーに対して敬愛以上の感情が芽生え始めているのを実感していた。実は、彼が実家を出奔した背景には、(自分の求める「光の芸術」への周囲の無理解に加えて)自分の婚約者を勝手に決めようとする両親への反発もあったのだが(この件については、いずれ別の星の物語において語られる予定)、自分の理解者を求めて訪れたこの地で、彼は「理解者」以上に大切な存在となり得る女性に出会ってしまったような、そんな気分に浸っていた。
 一方、思った以上にあっさりとユーフィーとの対談の機会を得られたノエルもまた、改めてユーフィーの見事な手品捌きと人心掌握術に感服しつつ、もしかしたら今この酒場で遭遇した者達の中にも「星の仲間」がいるのかもしれない、といった思いを抱きながら、ここから先、どうやって仲間探しと砦建設を進めていくべきか、思案を巡らせていた。

2.2. 最初の協力者

 ノエルの噂は瞬く間に町中に広がり、当然のごとく殺人事件を調査中のインディゴの耳にも届いていた。「最近になって聖印を手に入れた冒険者」となれば、必然的に、今回の事件における犯人候補として浮上してくる。しかも、その聖印の出所が不明で、彼がいなくなってから事件は起きている以上、アリバイもない。その聖印の規模が騎士級以上であることも、幾人もの邪紋使いを倒してきたと考えれば辻褄は合うだろう。
 もっとも、逆にあからさまに怪しすぎるからこそ、犯人とは考えにくいようにも思える。今までその姿を潜伏させていたとしたら、あえてこのタイミングで自ら街中に現れた上で、わざわざ聖印を見せびらかすのは不自然であろう。
 とはいえ、一応、確認する必要はあるだろうと考えたインディゴが冒険者の酒場へと向かおうとしていたところで、ユーフィーがノエルとカーラを連れて館へと帰還した。こうして、領主の館の一角にて、インディゴを加えた四人の間での密談がおこなわれることになった。
 まずはユーフィーが、ノエルに対して単刀直入に問いかける。

「君はその聖印を『エルムンド様から貰った』と言ってたけど……」
「はい」

 その話を初めて聞かされたインディゴは、当然の如くこの時点で内心驚いていたが、ユーフィーはそのまま話を続ける。

「それは、君一流のジョークということなのかな?」
「酒場の仲間にはそう思ってもらうことにしましたが、あいにくユーフィー様には、そう思ってもらうと困ります」
「確かに、信じがたいというのは事実だけど……、それはそれとして、一介の冒険者だった君がそれだけの大きさの聖印を持ってきたということも、同じく信じがたい」

 つまり、どちらにしても何らかの「信じがたい事情」があるのだろう、ということはユーフィーも理解していた。

「そうでしょうね。ですから、もし時間に余裕があれば、一から順を追って説明させて頂けると助かります」
「仮に時間がなかったとしても、この話は聞かなきゃいけないことだと私は思うな」
「分かりました」

 そこからノエルは一通りの事情を全て話した。TKGと名乗る猫との出会いから、紅の山でエルムンドから聖印を受け取るまで、「天魁星」に言われた内容も、事細かく伝えた。

「なるほどねぇ」

 ユーフィーが半信半疑な声色で話を聴き終えると、カーラが口添えする。

「ボクが知ってる『あの人』だったら、確かに400年くらい時を止めることは出来るだろうし、この光は確かに、エルムンド様の系譜に連なるものとしての気配はある。しかも、なかなか強い気配だと思うよ。なので、彼の言っていることは、ボクとしては真実だと思う」

 何を根拠にカーラがそう言っているのか、ノエルにはさっぱり分からなかったが、ユーフィーはその言葉を深く受け止める。

「そうだね……。その話、勿論にわかには信じがたい。でも、少なくともカーラさんがああ言ってる以上、君に普通ならざることが起きているのは事実だと思う」

 そもそもカーラという存在自体が、「英雄王エルムンドがまだ生きていたという事実」と同等以上に不可思議な事象である。そのカーラの存在を受け入れているユーフィーとしては、ノエルの言っていることを頭ごなしに否定する気にもなれなかった。

「よし、ひとまずは君の言っていることを信じてみることにしよう」
「ありがとうございます」
「もしそれが君一流のジョークだった時は、その時はその時で考えればいい」
「その時はどうぞ俺の首を飛ばして下さい」
「いや、そんなことはしないよ。私を誰だと思っているんだい?」

 ユーフィーは「不殺」の信念を掲げる君主である。いかに凶悪な存在であろうとも、それが意思疎通が可能な存在である限り、命を奪うことはしない。

「その場合は、ボクがやるのかな?」

 カーラが呟くように口を挟む。立場的には彼女は護国卿トオヤの名代としてこの場にいる以上、もしカーラがノエルのことを「ヴァレフールのために成敗しなければならない存在」だと判断した場合、ユーフィーに彼女を止める権利があるかと言われると、微妙なところである(とはいえ、この時点でカーラには彼を殺すつもりは全く無かったのだが)。

「あー……、目の前でそういうのを見るのも苦手だしな……。彼には作家にでもなってもらった方がいいんじゃないかな」

 ユーフィーがそう答えると、インディゴがここで初めて口を開く。

「さすがに、何らかの別の目的のために嘘をついているとは思えませんしね」

 殺人事件を調査しているインディゴから見れば、まだノエルへの嫌疑を完全に否定することは出来ない。だが、偽装のための言い訳としてはあまりにも非現実的すぎるし、ここまでの彼の言動からも、犯人像と結びつきそうな要素が微塵も感じられなかった。
 ひとまず物騒な刃傷沙汰は起こさずに済みそうだと判断した上で、ユーフィーは話を続ける。

「で、その話に従うのなら、君は今から残り百七人の仲間を集めなきゃいけない訳か」
「そうですね。自然に集まって来るとは言っておられませんでしたし……。とはいえ、この件に関してはユーフィー様の力をお借りするのは申し訳ないと思っています。ただ、湖の北部に拠点を作るという件に関しては、許可を頂きたいと思いまして」
「君の話を信じるんだったら、確かにその拠点は必要だ。ただ、あの大森林に拠点を作るとなると、結構動かすものが必要になるからね。何の理由もなしに作るというのは難しい」
「そうですよね……」
「でも、あまり無差別に人に知らせるのは良くないんでしょ?」
「はい。人に恐怖を伝染させる訳にはいかないので」
「となると、何らかの他の名目が必要、か……。どちらにしても、ちょうどパルトーク湖の気配の件もあるしね」

 それを聞いた時点でカーラは思い出す。

「『大蛇の復活』というのは、ボクが聞いた『世界を滅ぼしかねない危機』のことなのでは?」
「可能性はあるよね。それを言っているのが他ならぬマルカート様だし……。それはそれとして、もう一つ『小さな危機』はあるんでしょ?」
「そう聞いてはいますけど……、それに関しては、彼にも対処に当たってもらいましょうか?」

 カーラはノエルに視線を移しつつ、そう言った。この時点ではユーフィーもカーラもまだマルカートの話をはっきりとは伝えてはいないため、彼女等が何を根拠にそう言っているのかはノエルには分からなかったが、彼女達が自分の「とりとめもない、信じがたい話」に応じてくれている以上、ノエルもひとまずは「なんとなく雰囲気だけを理解した状態」で答える。

「そうですね。そこで俺の力を示させてもらいます。その上で、更なる混沌災害に備えて、この地に砦を作る必要性があるということも周囲の方々に示唆して頂ければ」

 ノエルがそう答えると、ユーフィーも笑顔で頷く。

「じゃあ、ひとまず、次にパルトーク湖の調査に赴くことがあれば、君にも同行してもらう、ということでどうだろう?」
「やってみます。ですが、未だ聖印を手にしたばかりの浅学非才の身、足を引っ張るようなあれば、申し訳ございません」
「冒険者時代の君はそれなりに名の通っている実力者だったし、聖印の大きさも申し分ないとは思う。ただ、扱い方というのは確かにあるからね」
「すみません、使ったことがないので、どう使うものか分からなくて」
「もし良かったら、私が使い方を教えよう」
「いえいえ! それは申し訳なさすぎます!」
「いいんだ。これは『前に頼られた時に自分に出来なかったことを、せっかくだからやってみたい』という、こっちの考えでもあるから」

 その言葉が何を意味しているのかはノエルにはよく分からない。ただ、彼女の側にどんな事情があるにせよ、自分のような「出所不明の聖印を手にした冒険者」が、男爵級聖印の持ち主から聖印の使い方を学べる機会など、そうそうあるものではない。

「そういうことでしたら、よろしくお願いします」

 ノエルがそう言って頭を下げたところで、カーラがおもむろにノエルに対して、個人的に気になっていたことを問いかける。

「じゃあ、エルムンド様は、お亡くなりになった、ということでいいのかな?」
「……申し訳ございません」
「えーっと、いや、別に僕には敬語はいいんだけど……、そっか……、一度、お会いしたかったんだけどな……」

 独り言のようにそう呟きつつ、カーラはノエルに対して「個人的なお願い」を伝える。

「……出来ればこれから、湖の方に行くことになるんだけど、出来れば『その湖の底にいる方』にも、エルムンド様が最期を迎えられたということは伝えて欲しいから、お願いしていいかな? 実際に会えなくても、心で伝えられると思うから」

 何を言っているのかよく分からない言い方だが、既に十分すぎるほどの不思議体験を済ませてきたノエルは、なんとなく分かったような気分になった上で(敬語はいいと言われたので「対等な立場の者」として)答えた。

「分かった。エルムンド様の聖印を受け取った身として、責任を持ってお伝えしよう」
「よろしくお願い致します。そして、ありがとうございます」
「そちらも、敬語はいい」
「いや、これは『孫』としての感謝の気持ちだから」

 カーラが言うところの「孫」という言葉の意味は、当然ノエルには理解出来ないが、今はそのことについては言及しないまま、ひとまず彼は領主の館を後にして、馴染みの宿屋へと向かって行った。

2.3. 闇の薬屋

 その頃、ヴィルマ村のグランとアスリィもまたテイタニアに到着し、「非公認薬物の売人」についての情報を集めていた。二人とも過去に何度もこの街には来ていたため、知人の冒険者達から話を聞いてみたところ、どうやらその売人は1〜2年ほど前からこの地で様々な冒険者相手に魔法薬を販売していたものの、ここ最近は姿をくらませていたらしい、ということが分かる。おそらくはその間にヴィルマ村で活動していたのだろう。
 だが、そんな中で「先刻久しぶりに彼に遭遇した」と語る人物を発見し、その者の証言を元に捜索してみたところ、路地裏で冒険者風の男を相手に薬を売買している「黒く四角い特殊な形状の鞄」を手にした男を見つける。

「やあ、こんにちは」

 グランが穏便な口調でそう声をかけると、その鞄を持った薬売りの男は静かな物腰で答える。

「おや、あんたは確か、お隣さんの領主様」

 彼がその「肩書き」を口にした直後、取引相手と思しき冒険者風の男は、すぐさまその場から逃げ出す。グランはあえてその男は見逃した上で、話を続けた。

「あぁ。隣村の領主のグラン・マイアーだ。あんたにちょっと聞きたい話があってね」

 グランがそう答えると同時に、アスリィが薬売りの男の背後に回り、彼が逃げ出さないように警戒するが、薬売りの男は平然とした様子で答える。

「話ってのは?」
「あんたが売ってる薬の話だよ」
「なるほどな、そういうことか……。この薬で、何か問題でも起きたかい?」
「あぁ。とりあえず、安全かどうか確認されてないものを出回らせられても困るからな」
「だが、別に苦情も来てないだろ?」

 そう言いつつ、売人は背後のアスリィに視線を目を向ける。

「そこのあんた、生命魔法師だよな?」
「え? はい、そうです」
「なら、あんたが見れば分かるんじゃないか? これが安全なものかどうか」

 男は鞄の中から薬瓶を一つ取り出し、アスリィに手渡す。アスリィは蓋を開けた上で、その場で中身を綿密に確認する。

「普通の回復薬と変わらないみたいですけど……」

 アスリィはそう答えるが、その判定結果を受けても、なお険しい表情を浮かべているグランに対して、薬売りの男は微笑を浮かべながら語りかける。

「いや、あんたが言いたいことも分からん訳じゃないんだ。あんたもまぁ、そりゃ、君主だからな。あんたの立場は分かるが、あんたがその立場にいるからこそ、俺もこの薬のことについて、公に話す訳にはいかない。それは、お互いを不幸にするだけだ」
「それがどうした?」

 一切表情を緩めぬままそう切り返すグランに対し、薬売りの男もまた自分のペースを崩さずに語り続ける。

「俺がこの薬を売るのをやめれば、この薬で助かっている多くの人達が、この薬が手に入らなくなって苦しむ。あんたは、エーラムの独占経済を守ることと、街の人々や冒険者の人々の薬が流通するようになることと、どちらを望む?」
「そういう問題じゃないだろう。エーラムの独占状態であることと、安全性の問題はまた別問題だ」
「安全性は、そこの魔法師さんが大丈夫だと言ってるだろう? あんた、自分の契約魔法師を信用しないのかい?」
「……その手のことについては、まだそこまで信じきる訳にはいかない」

 グランがそう答えると、アスリィは思わず声をあげる。

「えぇ〜!? そりゃ、確かに私は殴る専門ですけど……」

 実際のところ、アスリィは生命魔法師ではあっても、薬品調合の専門家ではない。エーラムで学んだ生命魔法師であれば、最低限の薬物知識を学ぶ機会もあっただろうが、彼女は我流で生命魔法を習得した自然魔法師であり、しかも、他人を癒すことよりも、自身の身体能力を強化する(そして殴る)ことに特化した特殊な生命魔法の使い手であるため、回復薬の安全性を保証出来る鑑識眼の持ち主と言えるかどうかは、やや怪しい。
 グランとしても、人間的にはアスリィのことは誰よりも信頼しているが、領主として、客観的な立場で「絶対に安全」という確信を得るには、彼女のお墨付きだけでは足りない、と言わざるを得なかったのである。

「ならば聞くが、あんた、そこまでエーラムのことを信用してるのかい? エーラムの薬なら大丈夫で、俺の売りあるく薬が危険だと言える根拠はどこにある?」
「だから今、調べてるんだろう」
「だったら、それが分からない状態でイチャモン付けられても困るな。あんた自身が高名な魔法師だってんなら話は別だが」

 のらりくらりと話をそらす薬売りに対して業を煮やしたグランは、更に一歩踏み込んで問い詰めることにした。

「仕方ないから、こちらも一つ、情報を明かすとしようか……。その薬、パンドラが関わっているという噂があってな。そうなれば話は別だ」

 それに対して、薬売りの男はせせら笑うような表情を浮かべながら問いかける。

「じゃあ一つ聞くが、あんた、パンドラがどういう組織なのか分かっているのか?」
「そりゃ、混沌を広げてる連中だろ? 邪魔だと判断すれば集落の一つも破壊するような……」

 実際にグランはパンドラによって故郷を滅ぼされている。しかも、二度も。その怒りを噛み締めた表情で睨みつけるグランに対して、薬売りの男は相変わらず人を食ったような表情で語り始める。

「そういうパンドラもいるだろう。だが、そうでないパンドラもいる。『民を苦しめる君主』と『苦しめない君主』がいるのと同じようにな。そもそも、パンドラがどんな組織なのかってことは、この世界の誰も分からないんだよ。なぜなら、この世界の各地に存在しているパンドラという名の組織は、そもそも全て別の組織だ。俺が聞いた話では、最初にパンドラと呼ばれていた組織は一つだったらしいが、その後、エーラムにとって都合の悪い組織は全てパンドラと呼ばれるようになった。というよりも、パンドラという組織のせいにしたんだ。その結果として、本来のパンドラが何なのかもよく分からないまま、パンドラという言葉が一人歩きしている」

 実際のところ、この認識はほぼ正解である。現在のブレトランドには「パンドラ」と呼ばれる組織が少なくとも四つ存在しているが、それぞれ全く起源は異なっており、実質的には大陸各地のパンドラとの繋がりも薄い。

「つまり、パンドラってのは、もはや一つの概念なのさ。そこに統一的な実体なんて存在しない。君主とか邪紋使いとか投影体とかと同じように、魔法師の中で、エーラムに反発する者達は全てパンドラと呼ばれる。そういう意味では、そこのお嬢さんだって、一つボタンが掛け違えられていれば、パンドラ扱いになっていたかもしれない。結局、パンドラかエーラムか、なんてのは、その程度の違いでしかないのさ。それでもあんたは、そこまでエーラムのことを信用出来るのか?」
「エーラムの信用に関しては、別問題だ。ただ、パンドラを止める。それだけの話だ」

 実際、グランはエーラムに対しても心の奥底では懐疑的である。彼だけでなく、君主達の中には「この世界を実質的に統御している組織」としてのエーラム魔法師協会に不信感を抱いている者も少なくはない。とはいえ、だからと言ってパンドラが信用出来るかと言えば、そう確信出来る根拠もないだろう。

「実態も分からないまま、ただの評判だけで倒すべきかどうかを決めるということか?」
「そのために今から調べるんだ」

 そう言いつつ、彼の身柄を拘束しようとする気配を漂わせたところで、薬売りの男は開き直った声色で語りかける。

「じゃあ、それはそれで調べた上で考えればいい。だがな……、あんた、確か伯爵様の従属君主だよな?」
「よく知ってるな」
「それくらいのことはな。あの伯爵様と仲良くしたいんだったら、あんまりそこは踏み込まない方がいいぞ。それこそ、あんたと伯爵様の関係を悪くするだけのことだ。まぁ、俺の戯言だと思うなら、そう思ってくれればいい。だが、一つ言っておこう。仮に俺を伯爵様に突き出したとしても、伯爵様は絶対に俺を殺せない。そして、その事実を目の当たりにした途端に、あんたと伯爵様の関係は悪くなる」

 何を根拠にそう言っているのか、グランには分かる術はない。だが、その薬売りの言葉からは確固たる自信が滲み出ていた。

「つまり、あんたが取るべき行動は二つだ。俺と出会ったことを無かったことにして、このままやり過ごすか、この場で俺を殺して、好き勝手なことを言ってるこの俺の口を黙らせるか。そうすれば、少なくともあんたと伯爵様の関係が悪くなることはない」

 薬売りはそう言いつつ、両手を広げて自分が丸腰であることを強調する。

「安心しろ、俺はただの薬売りだ。あんたがその気になれば、一瞬で殺せるよ。どうせ俺は投影体だ。ここで死んだところで、この世界にまた必要だと思われれば、いずれ呼び出される。それだけのことさ。それぐらい割り切らなきゃな、生きていけないんだよ。投影体っていう存在は」

 そこまで言い切ったところで、しばしの沈黙が二人の間に広がる。

「グ、グランさん……」

 戸惑った様子のアスリィが思わずそう声を掛けるが、グランは黙ったまま何も答えない。この薬売りは明確に自分がパンドラだとは言っていないが、ここまでの様子から察するに、少なくともパンドラの関係者である可能性は極めて高いだろう。そして、仮にこの薬自体が無害なものであったとしても、その薬を売り歩くことがパンドラの資金源となっているかもしれない。仮にパンドラの中に「有害なパンドラ」と「無害なパンドラ」があったとしても、その資金が前者に流れ込んでいる可能性は否定出来ない。

「そうか、そこまで覚悟が出来ているんだったら……」

 グランはそう言いながら、弓に手をかける。

「……ならば、死ね!」
「グランさん、待って下さい!」

 先刻まで薬売りの背後に回っていたアスリィが、一瞬にして契約相手の前に立ちはだかる。

「グランさんは、グランさんの故郷を滅ぼしたパンドラが憎いんですか? それとも、全く関係のないパンドラでも憎いんですか?」
「故郷を壊された恨みは、『奴』を殺したことである程度は晴れたが……、一人の人間としてパンドラは許せない。それだけのことだ」
「でも、確かに、この方の話を聞いていて、この方の薬で多くの方々が助かっているのは事実ですし、私だって魔法師ですし、私の混沌の知識に基づいて、この人の作る薬が安全だと実証されました。グランさんが私を信じないなら、それまでですけど……、もちろん、この人のことを完全に信用した訳ではないですけど……、うーんと、なんというか、その……」

 少なくとも、今のこの時点で彼が「有害なパンドラ」と繋がっているという確証はないし、彼の挑発に乗って射殺したところで、何の情報も手に入らないだろう。更に言えば、この村はグランの管轄下ではない以上、たとえ「違法薬物売買の現行犯」であったとしても、正当防衛とも言えない状態で、領主の許可なく容疑者を殺す権利はグランにはない。ましてやこの地の領主は「不殺」を信念とするユーフィーである。たとえ相手が投影体であったとしても「言葉の通じる丸腰の相手」を独断で殺したということが明らかになれば、間違いなくテイタニアとの関係は悪化するだろう。
 アスリィにそこまでの意図があったのかは分からない(ただ単に衝動的に「止めなければならない」と感じただけかもしれない)。その上で、グランが彼女の言葉から何を感じ取ったのかも分からないが、彼はアスリィの真摯な瞳を目の当たりにすると、苦虫を噛み殺したような表情で視線をそらす。

「チッ!」

 舌打ちしながらグランは弓から手を離しつつ、鋭い視線で薬売りを睨みながら言い放つ。

「今日のところはアスリィに免じて見逃してやる。行くぞ、アスリィ!」
「はい……」

 明らかに不機嫌なまま立ち去るグランの後を、アスリィは申し訳なさそうについて行く。そんな二人の背中に対して、薬売りは声をかける。

「さっき渡した薬、そのまま預けておくよ。そのお嬢さんじゃ信用出来ないってんなら、もっと高位の魔法師さんにでも調べてもらえばいい」

 それに対して何も答えずに二人が去っていくのを確認した上で、薬売りは挑発気味の表情から一転して、冷や汗をかきながらため息をつく。

(ふぅ、危なかった……。嫌だねぇ、若くて血の気の多い領主様ってのは……。こっちは親切心で忠告してやってるだけだってのに……)

 彼としては、いつ自分が消えても後悔しないように、という覚悟で生きているのは事実である。しかし、それと同時に、まだもうしばらくこの世界に残っていたい、という気持ちもある。少なくとも、彼が手塩にかけて育てた「彼女」の歌声を聞くまでは。

(とはいえ、俺がいることで彼女にまで嫌疑がかかるようなら、俺もそろそろこの地からは身を引いた方がいいのかもしれんな……)

 そんな想いを抱きながら、男は再び路地裏の闇の中へと消えていった(なお、「彼女」はこの時点において、とある用件でこの地を離れていた)。

2.4. 味の上塗り

 一方、ヴィルマ村のもう一人の重臣であるアレックスは、ヴァレフールの首都ドラグボロゥの王城にて、国主レアの契約魔法師であるヴェルナ・クァドラント(下図)の元を訪ねていた。


「お疲れ様です、アレックスさん。グランさんからのお使いですね」
「えぇ。これを渡してくれ、と」

 アレックスはそう言いながら、グランからの書状と空瓶を渡す。

「はい、確かに受け取りました」

 それは確かに過去に見たことがある、パンドラと思しき組織が流通させている薬であった。

「やはり、これでしたか」

 ヴェルナがそう呟くと、何も聞かされずにここまで届けに来たアレックスは、首を傾げながら問いかける。

「これ、何なんですか?」
「巷で流通している密造回復薬と言いますか……、エーラムで作っているのとは異なる魔法薬の空瓶です」
「へー」
「これを作ってバラまいてる、というか、売ってる人がいるようです。もちろん、エーラムで売っている回復薬と同等の効果があるので、それなりにお高いですが、それでもエーラムの正規品よりは、ずっと手に入れやすいでしょうね。こういうのに頼りたくなる人がいるのも分かります。ともあれ、お使い、ありがとうございました」
「いやー、まぁ、頼まれただけですし」
「こちらの見解は、私の方から魔法杖通信で直接アスリィさんに伝えておきます」
「じゃあ、それはお願いします。まぁ、僕が聞いても分からないしね。あ、ところで……」
「どうしました?」
「実は、昨日作ったドーナツが余ってまして。食べます?」

 そう言いながら彼は、グランとアスリィの部屋に持ち込んだ、あのドーナツを取り出した。あの後、「辛くないドーナツ」だと判明したことでグランとアスリィは普通に食べていたが、それでも余った分を持参したらしい。

「いいですね。じゃあ、一緒にお茶にしましょうか」

 そう言って、ヴェルナは「お茶」と「手作りお菓子」を持ってくる。後者は、彼女が丹精込めて作ったにも関わらず、城内の誰も口にしようとしないが故に余ってしまっている代物であった。

「良かったら、ご一緒にこちらもどうぞ」

 ヴェルナが笑顔で差し出したその「甘そうな菓子類」を目の当たりにしたアレックスは、申し訳なさそうな顔を浮かべなが、問いかけた。

「あの、香辛料をかけてもいいですか? 僕、辛くないと食べられないので」

 実際、彼は自分が作ったドーナツを食べる時にも香辛料をかけて食べる。ただ、他人の作ったものに調味料を足すことが失礼だという認識はあるらしい。

「えぇ。構いませんよ。好みはそれぞれですし。いいんじゃないでしょうか」
「すみません、せっかく作ってもらった味付けを変えてしまって申し訳ないのですが、これがないと食事が出来ないので……」

 そう言いながら、おもむろに香辛料をふりかける。その一方で、ヴェルナはアレックスが持ち込んだドーナツを凝視する。

「このドーナツは『そういうの』ではないんですよね?」
「はい、それは普通にみんなが食べていたものなので」

 グランやアスリィからは公害扱いされているアレックスの料理だが、一応、「自分用」と「みんな用」を分けて作る程度の良識はあるらしい。

「あら、美味しい」

 一口食べたヴェルナは、素直にそう呟く。一方、そんな良識を持ち合わせていないヴェルナの作ったお菓子に香辛料をふりかけたアレックスもまた、美味しそうにモグモグと食べ進める。

「ヴェルナさんて、お菓子作るのお上手ですね」

 どうやら、彼の香辛料が、ヴェルナの作り出した「独特すぎる味」のインパクトをも搔き消すほどの強烈な刺激を舌に与えることで、その威力を無効化(上書き)したようである。

「ありがとうございます。この後は、ヴィルマ村に戻られるのですか?」
「いやー、もうちょっと、どこかフラフラしてから帰ろうかな、と」
「私もこのお菓子を沢山作りすぎてしまいましたし、よかったらお土産にお持ち帰り下さい」
「あぁ、じゃあ、ぜひ」

 こうして、誰も望んでいない「ヴェルナからのお土産」を手渡されたアレックスは、次の目的地として、まだ行ったことのないテイタニアへと向かうことにしたのであった。

2.5. 領主対談

 そんな(お土産という名の)脅威が迫りつつあることを知らないまま、グランとアスリィは薬売りの件について諸々の確認を取るべく、(ノエルとちょうど入れ替わりになるタイミングで)テイタニアの領主の館を訪問していた。

「失礼します。数日ぶりですね」

 グランがそう挨拶すると、ユーフィーも笑顔で彼等を執務室へと迎え入れる。

「そうだね。久しぶりという程ではないかな」

 二人は数日前に起きていた諸々の現象(詳細は「ブレトランド開拓期」 5話 6話 を参照)の後始末について軽く確認した上で、ドラグボロゥへの公道整備計画などについて、軽く世間話程度に語り合う。なお、この時点でインディゴと、そして(退室するタイミングを逃していた)カーラもその部屋の中に残っていた。

「最近、ヴィルマ村の方で、こういった偽物が出回っているようでね」

 グランがそう言いながら空瓶を取り出すと、インディゴが真っ先に反応した。

「それはもしかして……」

 インディゴは、調査の最中に発見した「割れた空瓶」の破片を取り出す。重ね合わせてみたところ、どうやら同じものらしい、ということが分かる。

「実はこちらでは、連続殺人事件が起きていまして……」

 インディゴは事情を一通り説明する。少なくとも、その件については隣村の領主であるグランに説明しても良いと判断したのだろう(ただ、さすがにインディゴ達自身がこの薬瓶をかつて「謎の薬売り」から貰ったことがある、ということまでは、伝える訳にはいかなかった)。その話を聞いたグランは、深刻な表情を浮かべる。

「もしかしたら、ヴィルマ村でもその事件が起き得るかもしれないのか……」
「殺されている人々の大半は邪紋使いの方々で、最終的には聖印で浄化されてることを考えると、
おそらくは誰かが自身の聖印を育てるために殺した、という可能性が高そうです。だとしたら、友好的な投影体の方々も襲われている可能性はあるでしょう」

 インディゴはそう語る。投影体が倒された場合は、そもそも死体が残らない以上、確認の仕様がないのである。

「その調査、我々にも手伝わせて頂けませんか? どうやら、あまり他人事ではないようだ」

 グランはそう申し出た。例の薬瓶の破片が落ちていたということが、やはりグランとしては気になるらしい。

「こちらとしても、一人で調べるのには限界があるので、協力して頂けるのでしたら助かります」
「アスリィも、それでいいな?」
「あ、はい」

 先程のことでアスリィはまだ少しどこか気落ちした様子で、あまり話を聞いていなかったようだが、ひとまずそう答えた(そして、そんな彼女の様子にこの時点でグランも気付いた)。

「この薬瓶について、何か心当たりはありますか?」

 インディゴにそう問われたグランは、不本意そうな口調で答える。

「先程、この薬瓶を売っている者には会ったが、ろくな情報も得られなかった」
「そうですか」

 インディゴは淡々とそう答えつつも、内心では冷や汗をかいていた。仮にその薬の売人が「あの男」であった場合、もし彼が何か余計なことを口走れば、自分達とパンドラとの関係も疑われかねない。グランがパンドラに対して強い敵愾心を抱いていることはインディゴも知っている以上、(彼の捜査協力自体はありがたいが)出来ればそこまでは踏み込まれない方が、お互いのためである。

「ところで、そちらにいるのは護国卿殿のところのカーラさんでしたよね? 彼女がこちらに来ているというのは、何かあったのですか?」

 グランがそう問いかけたところで、今度はユーフィーが答えた。

「それについては、私から説明させてもらおうか。パルトーク湖の北岸に、昔の城塞都市の遺跡があってね。そこの調査を進めているんだけど、そのための助っ人として来てもらった」
「まぁ、ぶっちゃけ、火力役ですかね」

 カーラがそう付言する。実際にはそれ以上に重要な「彼女にしか出来ない役割」を期待された上での抜擢だったのだが、あまりこの場で詳しいことまで話す必要はないと判断したのだろう。

「やっぱり、殴ってなんぼですよね」

 便乗してアスリィはそう語りつつ、少しだけ元気を取り戻したような様子を見せる。生命魔法師としては信用されていないという事実は受け入れつつも、「相手を殴り倒すこと」で自分の存在価値を見出せるということを、改めて思い出したらしい。

「そちらの事件の方にも手を貸した方がいいかもしれないけど、本来の任務を放り出す訳にもいかないので……」

 カーラはそう言いつつ頭を下げる。表面上は彼女の「湖の調査」に関する任務は終わっているのだが、そこから発生した「二つの危機」に関する実態が何一つ判明していない以上、ここで更に別の案件まで同時に背負い込めるほど自分は器用な性分ではない、とカーラは判断したのであろう。
 とりあえず、この時点で既に陽が落ちつつある時間帯だったので、ひとまず話を切り上げた上で、グランとアスリィに対しては、ユーフィーが領主の館の客室を用意することにした。ユーフィーがその旨を館の侍女に伝えると、その侍女は二人に対してこう問いかける。

「お部屋はお一つでよろしいのでしょうか?」

 微妙に爆弾発言なのだが、当人達はあっけらかんと答える。

「え? ダメなんですか?」
「ん? まぁ、いいんじゃないか?」

 二人共、「そういったこと」に対して無頓着なだけなのだが、結果的に、こうした二人の言動が様々な「誤解」を広げていくことになるということを、二人は全く気付いていなかった。

3.1. 闇を狩る青年

 この日の夜、邪紋使いのアンジェが友人宅での所用を終えて、僅かな月明かりだけに照らされた夜道を歩いていると、物陰から激しい物音が聞こえてきた。
 彼がその方向に視線を向けると、そこには二人の人影が見える。体格的にはどちらも男性のようだが、二人のうちの片方は「黒く四角い特殊な形状の鞄」を持っていた。その男に対して、もう片方の男から謎の「光」が放たれると、その光は「鞄を持っていた男」に直撃し、「鞄を持っていた男」はその場に一旦倒れ込むが、すぐに立ち上がる。

「何者かは知らんが、もうここは潮時のようだな……」

 「鞄を持っていた男」はそう呟きつつ、手にしていた「黒く四角い特殊な形状の鞄」をその場に残したまま、アンジェがいる場所とは反対側の方向へと走り去る。「光を放った男」は、男が走り去った後のカバンに向かって再び光を放つと、鞄は破壊され、そこから「瓶の破片」と「謎の液体」がこぼれ出す。この時、その「光」が発生した一瞬の時点でアンジェの目に映ったその男の顔は、「目を閉じた金髪の青年」のように見えた。
 その上で、その金髪の青年はアンジェの存在を確認すると、今度はアンジェに向けてその「光」を放つ。この時点でアンジェは確信した。この彼の放っている光が「聖印」の光であると。しかも、それはアンジェのような邪紋使い(および「混沌」を身に纏う者)に対して特に強力な威力を発揮する特性を持つ聖印であった。
 だが、アンジェは「不死」の肉体の持ち主である。いかに強力な聖光の弾丸であろうとも、一撃程度では全く怯まない。

「君! 何のつもりだい!?」

 アンジェはそう叫ぶが、金髪の青年はそれに対して何も答えない。目を瞑ったまま、意識があるのかどうかも分からない様子であった。

(眠ってる……? 操られてる……?)

 状況がよく分からないまま、金髪の青年が再び光の弾丸を放とうとしているのを確認したアンジェは、ひとまずその動きを止めるために、素手のまま殴りかかろうとする。だが、その拳が青年に届こうとした瞬間、アンジェの目の前に巨大な「鏡」が現れ、アンジェの拳が鏡に触れた瞬間、その鏡の中から全く同じ拳が出現し、アンジェ自身に向かって殴りかかってきた。アンジェは「自分の拳」をまともに直撃するが、(もともと攻撃よりも防御に特化した能力者であったため)全く効いてはいない。
 そんな不可思議な力を用いる金髪の青年とアンジェの戦いは、それからしばらくの間続いた。金髪の青年が放つ光弾はアンジェの体力を少しずつ着実に削っていくのに対し、アンジェの拳は毎回謎の「鏡」によって跳ね返されるものの、アンジェ自身はその拳では全く傷を受けていない。また、アンジェが鏡を殴り続けていく過程で、僅かではあるが鏡にヒビが入っているような実感も感じられた。

(少しは効いてる? でも、このままじゃ……)

 アンジェは徐々に自分の身体が限界に達しつつあることを実感する。そこへ、耳馴染みのある声が響き渡った。

「何者だ!? そこで何をしている!?」

 ユーフィーである。彼等の遭遇地点が領主の館から程近い場所だったこともあり、静寂の夜道に響き渡る喧騒に気付いた彼女が駆けつけてきたのであった。彼女の背後にはインディゴと、そして同じ館に宿泊していたカーラ、グラン、アスリィの姿もある。
 彼女のその声に対して、金髪の青年は全く何も反応しない。ただ、間近でその青年の顔を見たユーフィーには、すぐにその正体が分かった。それは紛れもなく、昼間に酒場で会話を交わしたシャルルであった。当然、インディゴもまたそのことに気付くと同時に、そのシャルルの腰に見覚えのある「筒」が刺さっていることにも気が付いた。それは、シャルルの隣にいた、ミロワールという少年が持っていた筒であるように見える。
 そして、この時点で(オルガノンとの混血児である)カーラは直感的に理解した。その「筒」がオルガノンの本体であることを。そして、おそらく今の彼が「眠った状態のまま、オルガノンに身体を乗っ取られている状態」であるということも。

「アンジェさん、大丈夫ですか!?」

 ユーフィーは満身創痍のアンジェの存在に気付くと、すぐに声をかける。アンジェとしては、憧れのユーフィーの前で醜態を晒したくはなかったため、彼女に助けられているというこの状況に、思わずうなだれる(とはいえ、ユーフィー達が来るまで孤軍奮闘出来たのは「不死」の肉体を持つアンジェだからこそであり、彼でなければ瞬殺されていたであろう)。それでもアンジェは残った気力を振り絞り、必死で状況をユーフィーに伝えた。

「それが、あの子が、急に襲ってきて、止めようとしたんですが、殴ろうとしたら、鏡のようなものが現れて、僕の拳が僕に向かって飛んできて……」
「鏡?」

 困惑した様子の二人のところに、カーラが割って入る。

「『ボクの同族』に支配されているように見えるんだけれども……」

 カーラがそう口にした時点で、「あの筒」に見覚えのあるインディゴは、すぐに彼女の言いたいことを理解した。

「状況的に考えて、その可能性は十分にありえます」

 おそらく、「あの筒」の正体はオルガノンであり、以前に見た「ニット帽の少年」は、そのオルガノンの人間体なのであろう。それが「鏡」とどのように繋がるのかは分からないが、ひとまず現状においては、あのシャルルという少年が「筒のオルガノン」に支配されているという可能性が高い。

「ありがとう、アンジェさん。とりあえず、よく分からないことが多いので、一旦捕縛したいのですが……」

 ユーフィーがそう言うと、インディゴはシャルルの動きを止めるための魔法を唱え始める。だが、それよりも早くアスリィがシャルルに対して殴りかかった。グランの聖印の力で強化された彼女の拳がシャルルに届こうとした瞬間、再び「鏡」が出現して「アスリィの拳」が「アスリィ自身」に対して殴りかかってくるが、アスリィはあっさりとそれを避ける。そして、鏡に対して若干のヒビが入っていることが確認出来た。
 その直後、インディゴの魔法でシャルルの身体は動きを封じられるが、従順化する気配は見せず、聖印から新たな光弾を生み出そうとしていることは確認出来たため、ユーフィーは自らの聖印から二本の円柱状の片手棍を作り出した上で殴りかかるが、やはり同じように「鏡」によって跳ね返される。しかし、すぐさま彼女は自分の片手棍を手元に引き戻した上で、その「鏡によって作られた反射攻撃」を弾き返す。
 そして次の瞬間、この戦場に新たな乱入者が現れた。ノエルである。彼もまた、この喧騒を聞きつけて、(聖印の力によって強化された)幻想馬に乗って駆けつけたのであるが、彼は目の前でインディゴが用いた魔法とユーフィーが用いた聖印の力に対して、奇妙な「懐かしさ」を感じ取る。それは、彼の精神の中に同化した天魁星から流れ混んだ「星界で共に戦った時の記憶」の断片であった。

(あの人達が、星の仲間!?)

 ノエルは驚愕しつつ、ひとまずユーフィー達が誰と戦っているのかもよく分からないまま、彼女達に加勢しようと、自身の聖印から二本の光の剣を作り出した上で、シャルルに向かって斬り掛かる。その瞬間、(直観的にノエルのことを「援軍」だと認識した)グランが自身の聖印の力を彼の剣撃に注ぎ込むことで、その威力は更に強化される。そしてこの時点で、グランの聖印からも同じような「懐かしさ」を感じ取った。

(この人は……、ヴィルマ村のグランさん? え? この人も!?)

 ノエルは冒険者として、ヴィルマ村にも足を運んだことはあり、その時にグランの顔は見たことがある。なぜその彼が今ここにいるのかは、何の事情も聞かされていないノエルには分からない。そして、グランまでもが「百八人の一人」であるということが、果たして偶然なのか、それとも何らかの必然的な導きによるものなのかも分からない。
 とはいえ、いずれにせよ今は目の前の敵(と思しき青年)を倒すことに集中すべきと判断して振り下ろされたその二本の剣は、やはり鏡による反射攻撃を生み出すことになる。しかし、困惑したノエルの精神状態が剣先に影響したのか、その剣筋がやや乱れていたこともあり、結果的にノエルはどうにかその(自らの繰り出した)剣撃を避けることに成功する。
 だが、その直後、今度はシャルルの聖印から四つの聖弾が同時に放たれた。標的となったのは、アンジェ、アスリィ、ユーフィー、インディゴの四人である。しかし、インディゴの魔法によってシャルルの身体が強く拘束されていた上に、咄嗟にユーフィーが発動した聖印の力で勢いを削がれたこともあり、四人ともあっさりとその聖弾を避ける。
 そして間髪入れずに、今度はカーラが巨大化させた自らの「本体」を用いて斬りかかる。当然のごとく再び鏡による反射攻撃をカーラが襲うが、その巨大な刃がカーラに届く直前にユーフィーが間に入って、二本の光の片手棍で受け止める。そしてこの時、今度はカーラに対しても、ノエルの中で「同じ感覚」が沸き起こった。

(この人も!? こんな近くに、何人もいるものなのか!?)

 一体、この戦場に何人の「仲間」がいるのか、とノエルが困惑する中、やや後方で弓を構えていたグランは、ここで自分が矢を射て良いものか判断に迷っていた。

(どうやら、自分の攻撃がそのまま跳ね返ってくるらしい。俺は果たして、俺自身の放った矢を避けることが出来るのか……?)

 グランの戦術は基本的に「先手必勝」であり、相手が反撃する前に殲滅することを旨としてきたため、相手の攻撃を避けることにはあまり自信がない。ましてや、自身の繰り出す必中の矢を避けるのは至難の技のように思えた。そこで、彼は少し迷いつつも弓を構えると同時に、アスリィに対して目で「何か」を訴える。すると、アスリィは彼の意図をすぐに理解し、グランが弓を放つタイミングで、彼の弓矢の勢いを削ぐ魔法をかける。結果、いつもよりもやや精度の低い一矢がシャルルに向かって放たれ、それが「鏡」によって反射されてグランに向かって返ってくるが、ここで再びアスリィが、今度はグランの動作を補助する魔法をかけた結果、間一髪のところでグランはその反射攻撃を避けることに成功する。
 そしてこのグランの矢を跳ね返した時点で、それまでの攻撃で少しずつ広がりつつあった鏡の損傷が限界に達した結果、激しい破裂音と共に鏡が割れて四散し、それと同時にシャルルの腰についていた「筒」から、湧き出るように「人」の形をした何者かが具現化する。それはオルガノンを見たことがある人ならば見覚えのある「人間体の具現化」の光景であり、その「人間体」の姿は紛れもなく、シャルルの隣にいた(身体がボロボロに傷ついた状態の)「ニット帽の少年」ことミロワールであった。

3.2. 「鏡」の正体

 ミロワールが出現した直後、割れた鏡の破片がシャルルの体に刺さり、初めてシャルル自身の体に傷がついたことで、シャルルは目を覚ました。

「あ、あれ? ここは……、え? ミ、ミロ!? どうした、お前!? 何があったんだ!?」

 シャルルのその声に、ミロワールは答えない。息はあるようだが、完全に昏睡状態に陥っている。困惑したシャルルが周囲を見渡すと、そこには見覚えのある人物の顔があった。

「え? りょ、領主様? これは一体……?」
「私にもまだ状況が理解しきれていないのだが……」

 ユーフィーがそう答えると、シャルルは周囲の他の面々に対して大声で訴える。

「誰か! 医者はいませんか!?」
「では、私が」

 そう言って、アスリィはミロワールに軽い回復魔法をかける。彼が何者なのかは分からないが、ひとまず喋れない状態では正体の確認の仕様もない。
 一方、その間にグランは戦場の端に転がっていた「黒く四角い特殊な形状の鞄」の残骸の存在に気付き、近くに駆け寄ると、その周囲に広がっている瓶の残骸から、間違いなくこの鞄が「あの薬売りの持っていた鞄」であると確信した。

「とりあえず、何が起きたのかを説明してもらえませんか?」

 シャルルがそう問いかけると、ユーフィー自身も困惑した様相のまま、素直に答える。

「私が見た限りでは、『そこの彼』に操られた状態の君が、アンジェさんに襲いかかってきから、私達が止めに入った、ということになるんだが……」
「え? ちょ、ちょっと待って下さい!ミロ、どういうことなんだ?」

 シャルルがそう叫ぶと、アスリィの回復魔法によって目を覚ましたミロワールは、今のこの状況を把握した上で、観念したような表情で答える。

「申し訳ございません。全て真実です」
「どういうことなんだ!?」

 シャルルのその問いかけを受けて、ミロワールはこの場にいる者達全員に、落ち着いた口調で語り始める。

「私は本来は万華鏡(カレイドスコープ)のオルガノンとして、この世界に顕現した存在でした」

 万華鏡とは、内側に鏡を貼り付けた筒の中に、着色した硝子片などを入れることで、その筒の中を覗き込んだ者に不思議な光景を見せることを目的とした玩具であり、この世界ではあまり一般的な物品ではないが、一部の好事家達の間で流通している代物である。

「しかし、そんな私に対して、旅先で出会った『とある錬成魔法師』が、『その力をもっと強めようか? その力が強まれば、もっと多くの人達を楽しませることが出来る』と言ってきたのです。私は彼のその言葉を信じて、彼の正体が何者かもよく分からないまま、彼の手による『改造手術』を受けることになりました」

 その改造手術は何段階にも分けておこなわれた。最初は、筒の中の「鏡」を解体して筒の外に出せるようにするところから始まり、やがてその鏡を更に細かく分解した上で、空中に自在に浮遊させられるような技術を植え付けられた。だが、この手術の過程で、この錬成魔法師が、ミロワールの本体を「玩具」ではなく「兵器」として利用しようとしているらしい、ということを彼は知ってしまったのである。

「これ以上、自分が自分で無くなるのが嫌で、私はその錬成魔法師の元を逃げ出したのです。しかし、中途半端に改造された状態の私では、もはや本来の万華鏡としての自分の姿に戻れず、人々を楽しませるということが出来なくなって、自暴自棄になっていたところに、シャルル様と出会ったのです」

 シャルルは、ミロワールの「鏡を空中浮遊させる能力」を知った時点で、それを自らの目指す「光の芸術」としての「花火」の再現に活用出来ると考えたのである。ミロワールとしては、本来の自分の用途とは異なる形とはいえ、結果的に人々を楽しませる形で自分の能力を活用してもらえることに感激し、彼に協力することで、オルガノンとしての第二の人生を歩もうと考えていた。

「しかし、そんな私の中でも、私を騙して私をこのような姿に変えてしまった錬成魔法師への恨みが消えることはありませんでした。そして、この街に来て以来、なぜか何度もあの錬成魔法師の気配を、様々な人々の中から感じ取ってしまい、その度に言いようのない程の破壊衝動が私の中に沸き起こってしまったのです。おそらく彼等は、その錬成魔法師と縁のある人物か、もしくは『彼の作り出した何か』を身につけている人々だったのでしょう。そういった人々とすれ違う度に、彼への怒りが湧き上がってきてしまって、その衝動がどうしても抑えきれずに、申し訳ないと思いつつもシャルル様の身体を借りて、復讐のために、その気配を持つ者を襲い始めました。それが、私の個人的な怨恨に基づく暴挙だと分かっていても、止められなかったのです」

 本来、玩具としての万華鏡のオルガノンには、いかに深い恨みを抱こうとも、そのような破壊衝動が宿るとは考えにくい。もしかしたらそれも、兵器としての性能を上げるために、手術の際に人為的に植え付けられた闘争本能だったのかもしれない。
 カーラはそんな彼の境遇に同情しつつ、ひとまずここに至るまでの状況を整理した上で問いかける。

「つまり、『その錬成魔法師の作った薬』を持っている人を襲っていた、ということ?」

 状況的に考えれば、それが最も合理的な説明だろう。あの薬を作ったのが「パンドラの錬成魔法師」であるとすれば、彼を改造した錬成魔法師と同一人物である可能性は十分にあり得る。殺された者達の近くにその薬瓶が落ちていたという状況も説明がつく。

「はい。そして、おそらく『そこの彼』も私と同類だと思うのですが」

 そう言いながら、ミロワールはアンジェを指差し、そして問いかけた。

「あなたに『その邪紋の力』を与えたのは、『左右の目の色の異なる錬成魔法師』ではありませんでしたか?」

 唐突にそう問われたアンジェは困惑する。

「いや、僕はその人のことは知らないけど……」

 正確に言えば、彼は自分の力を手に入れた時のことを何も覚えていない。だからこそ、その人物が関わっていた可能性も否定は出来ないが、そうだと言い切れる根拠もない。
 一方、その話を横で聞いていたアスリィは、内心でその言葉が気になっていた。

(左右の目の色が違う魔法師……? なんだろう……? 昔、どこかで会ったような……?)

 果たしてそれがいつの出来事だったのか、彼女が思い出せずにいる中、ミロワールはそのまま話を続ける。

「そうですか。しかし、あなたからは彼と同じ、いや、より正確に言えば、私と同じ気配を感じました」

 だからこそ、ミロワールは(おそらくパンドラの一員であろう)薬の売人を見逃してでも、アンジェを倒すことを優先した。今まで出会ってきた誰よりも強く「あの錬成魔法師の気配」をアンジェから感じていたのである。

「私が言えることは以上です。処分はお任せします。しかし、シャルル様は本当に私に操られていただけです。どうかシャルル様には、寛大なご処置を」

 そう言って深々と頭を下げるミロワールの横で、あまりにも衝撃的すぎる事実を聞かされたシャルルは茫然自失とした表情を浮かべつつ、自分の相方が引き起こした事件の重さを痛感しながら、ユーフィー達に対して訥々と語り始める。

「大変申し訳ございません……。これは、今まで全く気付けなかった私の責任です……。そして、人々を導くための聖印を持つ身でありながら、その身を操られ、その聖印で人殺しをしてしまっていた私の責任の重さは痛感しています……」

 とはいえ、持ち主が眠っている状態であれば、オルガノンが持ち手を操ることはそれほど難しくはない。ましてやそれが「持ち主から信頼されていたオルガノン」であれば、持ち主の側の警戒心が弱まるのも当然であろう(あるいは「兵器としての活用」のために強化されたオルガノンであるということは、人々を操るための何らかの「特別な力」が備わっている可能性もある)。

「ですから、当然のことながら、今回の件に関しては私も処分を受けます。そして、彼の処分は私にやらせて下さい」

 そう言いながら、シャルルは満身創痍のミロワールに対して、今度は自らの意志で聖印を作り出し、「聖弾」を彼に向かって打ち込もうとするが、そこにユーフィーが割って入る。

「ユーフィー様が、人を殺さない君主だということは知っています。だから、ここは私がやらなければ……」

 シャルルが沈痛の表情を浮かべながらそう訴えるのに対し、ユーフィーはため息をつきつつも、素直に自分の思うところを述懐する。

「うーん、それは分かるんだけど、どうしてもこうやって、身体が動いちゃってね」

 目の前で誰かが誰かを殺そうとする光景を見ると、(それがどうしても避けられない状態でもない限り)黙ってはいられない。それが彼女の性分なのである。
 そんな彼女に対して、グランが問いかけた。

「しかし、どうするのですか? 解決法が見つからずに生かすというならば、拘束する必要があると思うのですが」
「そうだね。さすがに何もしないという訳にはいかないから、一度身柄は預かるけど、それはそれとして、『ミロワール君がその錬成魔法師の気配がする人を襲いたくなる』というのは分かったから、そこをなんとかする手段を考えてみてもいいんじゃないかな?」

 ユーフィーのその提案に対して、ミロワールは淡々と答える。

「仮にそれが何とかなったとしても、私がこれまで幾多の冒険者の方々を殺めてきたという罪が消える訳ではありません」

 その言葉で、再び周囲の空気は重く淀み始める。この時、グランは何か言いたいことがあったようだが、さすがにこの地の領主の前で持論を語ることは自重していた。
 しばしの沈黙の後、ユーフィーが改めて口を開く。

「うん。罪は消えないよ。けど、罪を償う方法が『自らが消えること』だけなのかは、もう少し考えてほしいな。その上で、そうだというのだったら、さすがにもう止めないけど。しばらく頭を冷やして」
「しかし、もはや本来の形にも戻れない今の私に、仮にこの怨恨が消えたとしても、どう償えば良いのか、全く見当が……」

 ミロワールがそう答えたところで、シャルルが再び口を開く。

「どちらにしても、この地で起きたことである以上、私達を裁く権利はユーフィー様にあります。ですので、私も、もし彼と一緒に償う道があるのであれば、示して頂ければ助かります」

 シャルルとしても、ミロワールを殺して終わらせるよりは、共に償っていく方法を模索したいという気持ちはある。だが、そのための方法が果たして本当にあるのかどうか、そもそも、ミロワールの暴走の再発を防ぐ方法があるのかどうもかも分からなかった。
 そんな中、同じオルガノンであるカーラがミロワールに問いかける。

「君、鏡としての機能は残ってるんだよね?」
「えぇ」
「彼と一緒に芸術的な光景を作ろうとしていた、と言ってたけど……」
「その通りです」
「じゃあ、万華鏡としての君と、今の君と、どちらがより美しい光景を作れると思うんだい?」
「正直なところ、万華鏡だった頃の自分では、自分自身を見ることが出来ませんでした。だから、どちらが美しいのかは分かりません。ただ、私がシャルル様の聖印と共に各地で作り出してきた幻影は、批判される人達からは批判されましたが、多くの人々からは好評でした。そして、同時に多くの人々に見せられるという意味では、結果的に今の状態の方が、より多くの人々を楽しませられるのかもしれません」

 実際、今の「新たな身体」となったことで、シャルルと共に「新たな芸術」を作り出せることの高揚感に酔いしれていた感覚も、彼の中には確かにあったのである。

「そこまで自分で言えるのなら、それで満足は出来なかったのかい?」
「満足したつもりだったんです。それでも、私の中での復讐心が止められなかった……」

 ミロワール自身、それがなぜなのかは分からない。手術の過程で生じた偶発的な副作用なのか、意図的な人格操作の結果なのかは分からないが、いずれにせよ、今の彼は自分で自分の精神が制御出来ない状態となってしまっていたのである。

「そっか……、壊れてからも使ってもらえるなんて幸せだな、と思ってたんだけど、武器と道具では、感覚が違うのかな……」
「実際、幸せではあると思います。だからこそ、今までずっと罪悪感もあった……」

 このように言われてしまっては、カーラとしてもこれ以上は何も言えない。そして、グランが悲痛な表情を浮かべながら呟く。

「そう言った衝動は、止められるものではないからな。それこそ、本人にしか分からない。理性とかそういう問題じゃないから」

 パンドラへの復讐心を胸に生きてきた者として、グランにはミロワールの気持ちがよく分かる。だからこそ、その怨恨を背負って生き続けることを本人が拒否しているのなら、早く楽にしてやるべきだと考えていた。
 そんな周囲の空気を察しつつ、ユーフィーは改めてミロワールに問いかける。

「確かに、私がさっき止めてしまったのは、早計だったのかもしれない……。君は今、自分の新しい姿に対する満足心よりも、復讐心の方が上回っているんだろう?」
「そう、ですね……。結果的に、そうだったと言わざるを得ません……」
「このままだと、確かに君を異なる世界の来訪者として、この世界に留めておくことは出来ない。けど、君はまだ今の姿で作り出せる芸術を、完成させてはいないんだろう?」
「確かに、私はシャルル様と一緒に、もっと完成度の高い『花火』を作り出したいという気持ちはあります。そして、止められるものならば、自分の中のこの復讐心を止めた上で、人々を楽しませ続けたいという気持ちも。でも、どうすればそれが出来るかどうかが分からないのです……」

 更に重くなり始めた空気の中で、ノエルが率直な問いを投げかける。

「どうにかして、彼を元に戻す方法はないのでしょうか?」

 この場に錬成魔法師は誰もいない。実質的な一番の有識者とも言えるインディゴは、悲痛な表情を浮かべながら答えた。

「今の君を元に戻す方法は、確かに難しいだろう……。だから、君主の手で消されるというのであれば、それが良いのかもしれない。苦しみを抱えて生きていくのも辛いことだろうから……」

 投影体は、一度この世界から消滅した後に、また何らかの形で再び出現することがある(たとえば召喚魔法師が呼び出す「従属体」などは、基本的に「前に呼び出した投影体と同じ個体」である)。その場合「以前に投影された時の記憶」はそのまま残っているのが一般的である。ただし、ミロワールの場合、もし一度消えた後に再投影されれば、身体は間違いなく「改造前」の状態で出現することになるため、「改造された」という記憶は残っていたとしても、身体に染み付いている復讐心は薄まっている可能性は高いだろう、というのがインディゴの見解であった。
 一方、エーラムの魔法師協会には「記憶を消す」という技術もある。魔法学校の落伍者が記憶を消されて放任されたという事例はインディゴも数多く目の当たりにしてきた。ただ、身体が改造されたという状況そのものを直さないまま記憶だけを消しても、今の「歪な精神状態」が解消されるという確証は持てない。
 その上で、身体を元に戻す方法があるのかと言えば、その「左右の目の色が異なる魔法師」以上の技術を持つ錬成魔法師ならば可能かもしれないが、ここまでの高度な「改造技術」を持った魔法師が、果たしてエーラムに何人いるかは不明である(そもそも「オルガノンの改造」という行為自体が明らかにエーラムの倫理的には禁忌である以上、それを元に戻す技術がエーラムにあるかどうかも分からない)。少なくともインディゴの人脈ではこれといったアテがない(「マリア」ならば可能かもしれないが、彼女が今どこで何をしているのかも分からない)。
 更に言えば、記憶を消すという行為は、シャルルとこれまで培ってきた絆を消すことにも繋がる。果たしてそれが、本当に彼の望みなのかどうかも分からないだろう。それよりは、一度消滅した上での再投影という僅かな可能性に賭けたいと考えるかもしれない。
 無論、開き直って兵器として生きていく道もあるだろう。自らの復讐心に従って「対パンドラ兵器」として新たな存在意義を見出そうとするなら、おそらく彼を必要とする人々はいくらでもいる。だが、それを強要されるくらいならば、おそらく彼は自ら死を選ぶだろう。人々を楽しませることを本能とする「玩具」のオルガノンにとって、その真逆の道を歩ませることは、精神崩壊に繋がりかねない。

「残酷だけれども、本人が望む通りに消してしまった方がいいのかもしれない……」

 インディゴが改めてそう口にすると、カーラも俯きながら同意する。

「引導を渡すなら、あるじの手がいいだろうね……」

 それが、同じオルガノンとしての彼女の見解であった。そんな周囲の人々の意見を聞かされたことで、ユーフィーの中でも様々な感情が去来する。

「そっか……、やっぱり、私はそういうところ、考えが甘いな……」

 ユーフィーはそう呟きつつ、シャルルとミロワールに対して向き直る。

「止めてすまなかったね。最後は君達が選ぶべきだ。だからこれは、領主としての裁定じゃなくて、ユーフィー・リルクロートとしての個人的なお願いだ。最後に一度、『君達が作り出す芸術』を見てみたい」
「……分かりました」

 シャルルがそう答えると、ミロワールも頷く。そしてミロワールは最後の力を振り絞って、既にボロボロになっていた自身の「本体」である「割れた鏡の破片」を夜空に浮かせ、シャルルがそこに光弾を放ち、その軌道が美しい紋様を作り上げていく。
 皆がその美しさに見とれていると、やがてミロワールの姿が、徐々に薄くなり、彼を構成している混沌が、少しずつ自然発散されていく。
 この最後の「花火」で力を使い果たしたが故なのか? それとも、改造による悪影響でそもそも体が弱っていたのか? もしくは、彼自身の中で「もうこの世界でやり残したことはない」という気持ちが高まったからなのか? あるいは、「これ以上シャルルを苦しめたくない」という彼の気持ちを世界の理(ことわり)が受け入れたからなのか?
 原因は分からない。だが、彼は自分がこの世界から消えようとしていることを実感した上で、最後にシャルルにこう言い残した。

「申し訳ございませんでした。でも、もし再びこの世界に投影された時は、あの魔法師よりも先に、あなたに見つけて欲しいです。もう、こんなことは二度と出来ないですけど……」

 そしてミロワールは消滅していく。その後には、シャルルが彼のために購入したニット帽だけが残されていた(ミロワールは光の当たり方によって髪色が変わる特殊な体質だったため、その異形の姿故に迫害されることを避けようと考えたシャルルの配慮であった)。ニット帽を握りしめながら涙を流すシャルルに対し、ユーフィーが声をかける。

「ありがとう、素晴らしい演目だった」

 その言葉に対し、シャルルは黙って頭を下げた上で、涙を拭いながら答える。

「この光の芸術は、彼の苦しみと共に生み出されたものでした。もし、私がこれから先も君主であることが許されるのであれば、これから先は自力で、鏡を使わなくても『あの軌道』を再現出来るように、聖弾の訓練に励みたいと思います」

 シャルルはそう宣言した上で、「咎人」として自らの身柄をユーフィーに預ける旨を告げ、ユーフィーもその申し出を受け入れる。とはいえ、ユーフィーとしては彼の罪を問うつもりはないし、それは彼女の補佐役であるインディゴも同様であった。
 その上でインディゴは、シャルルに改めてこう告げる。

「前にも言ったが、聖印の光は民の心を照らすものだから、それを極めてこういった形で披露するというのも、君主の一つのあり方なのではないかな」

 その言葉にシャルルは静かに頷く。皆が複雑な想いで彼等の様子を見つめる中、グランは一人、改めてパンドラへの怒りを燃え上がらせていた。

(彼の無念は、俺が晴らす! 次に会った時は、今度こそ容赦しない!)

3.3. 決意の相談

 その後、改めてシャルルはここに至るまでの事情を皆に詳しく説明する。その話の中で、ミロワールがここに来るまでに、湖の方角に対して険しい表情を浮かべていた、という旨を告げた時点で、ユーフィーはふと思い出したかのように呟く。

「そういえば、その問題はまだ解決していなかったね……」

 まだこの場にはシャルルもいる以上、あまり詳しい事情を説明する訳にもいかなかったため、ひとまず「湖の水質に不自然な変化が起きていること」を告げた上で、それが何か危険な兆候である可能性が高い、ということまでユーフィーが話すと、それに対してインディゴが口を開く。

「もしかしたら、その湖の異変も、その錬成魔法師が関係しているのかもしれません」

 彼がそう考える根拠は、先刻の戦いにおける聖弾の軌道である。ミロワールに操られた状態のシャルルが放った四発の聖弾は(直前に斬り掛かったノエルではなく)ユーフィー、インディゴ、アスリィ、アンジェの四人に向けて放たれた。アスリィは「薬瓶」そのものを、インディゴはその破片を持っていたので、どちらも狙われる理由は分かる。アンジェに関しては詳細は不明だが、彼の邪紋そのものに「例の錬成魔法師の気配」を感じたとミロワールは言っていた。では、ユーフィーは? と考えた時に、彼女が湖北区域で「その魔法師が作り出した何か」に触れたことが原因ではないか、と考えれば辻褄が合う。
 そして実際、ユーフィーには心当たりがあった。

「なるほど。これに反応した、ということか」

 そう言いながら、彼女はアンジェから渡された「湖の水が入った注射器」を取り出す。街に戻ったらインディゴに調べさせようと思っていたが、ノエルの話があまりにも衝撃的すぎたこともあって、渡し忘れたまま彼女の鎧に付随した小道具入れの中に入ったままだったのである。もし、その湖水の変化にその錬成魔法師が関わっていたとするならば、それで十分説明はつくだろう。
 この見解に対してはカーラも同意する。

「そうかと思われますね。あの湖から感じられた混沌は、そこまで定着した様子もなかったですし、最近になってあの湖の近くで誰かが何かをしていた可能性は高いです」

 その辺りの詳細も含めてユーフィーが再度皆に事情を説明すると、グランもまたその湖の調査への協力を申し出て、ユーフィーもそれを快諾する。
 一方、先刻からずっと黙り込んでいたアスリィは、ここで唐突に声を上げる。

「あ、思い出した! 前に、その『左右の目の色の違う魔法師』に話しかけられたことがあったんですよ! 」

 それに対して、当然のごとく隣のグランが反応する。

「本当か!?」
「確か、いきなり現れて、『力が欲しいか?』とかなんとか言われたんです。でも、その時点で私はもう魔法師だったから、『別にいいです』と言ったら、どっかに行っちゃったんですけど……、確かになんとなく狂気を感じる雰囲気でした」

 それは、彼女がグランと出会うよりも前の出来事である。どのような状況で出会ったのかもよく覚えてはいないため、あまり手掛かりにはならないし、同じ人物であるという保証はないが、もしその出会いがハルーシアにいた頃の話だとすれば、相当に神出鬼没な人物ということになるだろう。

 ******

 こうして皆の話題が「殺人事件の事後処理」から「湖北地方の異変調査」へと移行しつつある中、ノエルはどのタイミングで「戦闘中に気付いたこと」について切り出すべきか迷っていた。そんな彼のもどかしそうな様子に気付いたアンジェが、ふと声をかける。

「どうしたの? ノエル?」
「言いたいことがあるんだが、今この場で言うべきかどうか……」
「大事なことなら、言った方がいいと思うよ」
「そうだな……、言っておくか」

 彼は意を決して、ユーフィー達に対して申し出る。

「僭越ながら、今、この場でお耳に入れておくべきことが……」

 その真剣な表情と声色から、「かなり重要な案件」であることを察したカーラが、確認のために問いかける。

「……場所を移す必要は?」
「いえ、すぐに済むことですので」

 彼はそう言った上で、先刻の戦闘中に「自身の記憶の中の何か」に反応した「四人」に向かって、こう告げた。

「ユーフィーさん、グランさん、インディゴさん、そしてカーラ。あなた方は、先程申し上げた『百八の星』に該当する人です」

 その発言に対して、四人は当然のことながら衝撃を受ける。だが、その中でもグランだけは、他の三人とはやや異なる反応を示した。

「先程? 星? 何の話だ?」

 ノエルがユーフィー達に「百八の星の話」をした時点で、グランはその場にいなかった以上、彼にはそもそもノエルが何を言っているのかが理解出来ない。

「あ、えーっと……」

 いきなり前情報も無しにグランにこの話を繰り出してしまったことに気付いたノエルは少々焦る。そして、その四人以外の者達(アスリィ、アンジェ、シャルル)もまた、当然のことながら、ノエルが何の話をしているのか分からない。
 一方で、ユーフィーは驚きながらも落ち着いた口調で答える。

「それは本当かい? だとすると、なおさら場所を変えた方が良さそうだね」
「はい、そうですね……」

 ひとまず、この時点では夜も更けていたので、ノエルも含めて(彼のための部屋も用意するという前提で)一旦領主の館に戻ることにして、翌朝になってから改めて話をする、という方針で同意した。

 ******

 その後、アンジェ以外の面々は領主の館へと向かい、シャルルは一旦地下の拘置所に拘留させた上で、ノエルは急遽用意された客室へと案内され、そしてインディゴは念の為に村の周囲の混沌の状況を確認してみるが、特にいつもとは変わらない状態であることを確認した上で、改めて就寝の床につく。
 そして、アスリィと共に客室に戻ったグランは、改めて彼女に声をかける。

「今日は色々、済まなかったな、アスリィ」
「え? 何がですか?」
「ちょっと、暴走しすぎた」
「いえ、そんな。暴走するのは私もですから」
「これからもよろしく頼む」
「はい、よろしくお願します」
「あと、お前のことを信用していない訳ではないからな。俺としては信用しているんだ。だが、領主としての判断としては……」
「あ、はい、大丈夫です。そこは、気にしてませんから」
「じゃあ、明日も早いから、もう寝るか」
「はい、おやすみなさい」

 アスリィはそう告げると同時に、すぐに眠りに着く。こうして、激動の一日は静かに幕を下ろしたのであった。

3.4. 再説明と再調査

 翌朝、ユーフィーの執務室に、ノエル、インディゴ、カーラ、グラン、そしてアスリィの五人が集められた。昨夜の戦いの際、アスリィからは「星の記憶」が感じ取れなかったため、本来ならば(関係者以外には極力情報を広げるべきではない、という事情に鑑みれば)彼女はこの場に招くべき人物ではないのだが、グランの性格上、いくら口止めを要求されてもアスリィには伝えるだろうと判断し、それならば最初から彼女にも直接伝えた方が良いという判断から、同席させることにしたのであった。
 皆が揃ったところで、まずユーフィーが口を開く。

「私達は一通り話を聞いている訳だけど、ここはノエル君に改めて説明してもらった方がいいだろう」
「はい。では、私が君主になった経緯から説明させていただきます」

 ノエルはそこから、昨日以上に詳細に一通りの事情を全て話し尽くした。二度目となるユーフィー達が改めてその内容を黙々と確認している一方で、グランとアスリィは、今ひとつ実感が湧かない様子ながらも、真剣にその話に聞き入る。
 そして全て話し終えたところで、改めてユーフィーが(主にグラン達に対して)付言する。

「確かに、突拍子もない話なんだけど、私がこれを裏付ける証拠として判断した理由は『彼の聖印の大きさの明らかな不自然さ』と『カーラさんの感知能力』と言うことかな」

 ここで唐突に話を振られたカーラであったが、本人の中でもある程度覚悟はしていたようで、落ち着いた口調で語り始める。

「その『感知能力』を信じてもらうためには、ボクのことも説明しないといけないよね……。まぁ、ボクの情報については、レア様に話を聞けば裏付けは出来ることなんだけど……」

 そう前置きした上で、改めて彼女は名乗りを上げる。

「ヴァレフール初代伯シャルプが娘、母はヴィルスラグ、それがボクの正体なんだけど、ここまでは大丈夫かい?」

 普通に考えれば、簡単に「大丈夫」と言えるような話ではない。ユーフィーとインディゴは過去にそのことを聞かされていたが、ノエルはあまりの衝撃に言葉を失う。一方、ブレトランド出身ではないアスリィとグランには、それがどれほど突拍子もない話なのか、いまひとつピンと来ていない様子であった。

「かっこいいですね!」
「……まぁ、とりあえず続けてくれ」

 アスリィとグランのそんな反応を目の当たりにしつつ、そのままカーラは語り続ける。

「今回度々話題になっている、湖に住んでいる、トイバル卿を殺害したと言われる湖の魔物が、暴走していたと言われるマルカート様という方で、シャルプ様の母親でもあるんだけど、かの方が正気を取り戻したことで、ボクの心に度々語りかけてくるんだ」

 実際のところ、グランやアスリィにとっては、出てくる人名自体にあまり馴染みがないため、カーラが何を言っているのかがよく分からないが、よく分からないまま話を聞き続けた。

「で、ボクはシャルプ様や、そのお父上であるエルムンド様の気配を感知する能力があるんだ。そのボクには、彼の聖印からそのエルムンド様の気配を感じ取っているから、ボクは彼の言うことを信じている」

 カーラは、自分の説明で相手が理解出来るかどうかに自信が持てなかったが、ひとまずグランは微妙な表情を浮かべつつ答える。

「それが本当かどうかは後でレア様に確認するとして、ひとまずこの場では信じることにしよう。で、その聖印の大きさに関しては、確かに普通ではないな。俺が作った時でも、そこまで大きくはなかった」

 グランはノエルの聖印を見ながらそう語る。実際のところ、今のノエルとグランの聖印の大きさはほぼ同程度だが、これはグランが様々な混沌を自らの手で浄化し続けて到達した境地であり、いきなり最初からそこまでの規模の聖印を手にするなど、通常の方法では、まずあり得ない。

「これはエルムンド様が、自ら最後の力を振り絞ってお造りになられた聖印です」

 ノエルがそう語ると、グランはやや怪訝そうな様子を見せながらも、今の自分はその真偽を確認出来るだけの判断材料をそもそも持ち合わせていないことは分かっていたため、この場でそれ以上追求しようとはしなかった。

「完全に信じきることは出来ないが、今はそれが事実であるという仮定の上で行動することにしよう」
「ありがとうございます」

 ノエルはそう言った上で、改めて大毒龍の話を伝える。特に、大毒龍が「人々の恐怖心」をその力の源泉としているが故に、この件については極力内密に進めなければならない、ということについては念入りに説明した。
 上述の通り、グランは大陸出身者なので、「大毒龍ヴァレフス」への本能的な恐怖心はあまり強くはない。ただ、彼は全く別の事件を通じてその脅威を目の当たりにしていたため、ノエルの話を聞き終えた時点で、淡々とした表情のまま呟いた。

「そうなると、アレの生産も増やす必要があるな……」
「アレというのは?」
「それが決まったら、また伝えることにしよう」

 実はヴィルマ村では、先日の事件を通じて「ヴァレフスの毒」に対する血清を作り出していたのである(詳細は前述のリンク先を参照)。もっとも、それは「ヴァレフスの毒がある程度まで薄まった状態で発生した伝染病」に対する薬なので、大毒龍本体の毒に効くかどうかは不明であるが、それでも無いよりはマシだろう。

「で、ここまでがノエルくんの話。その上で、カーラさんが感知したのが、湖からの気配」

 ユーフィーはそう言いながら、再びカーラに話を振る。

「ボクというよりも、お婆様が感知したところによると、『世界を滅ぼしかねない悪しき気配』と、それよりも先に発生しそうな『国を滅ぼしかねない悪しき気配』が、あの湖に発生しているらしい。その二つ目に関しては、この地に元々ある混沌ではない、ということでした」

 この説明に関しては、カーラ自身もよく分かっていないことを話している以上、伝わるかどうかは不安だったであろうが、グランがこの話を聞いた上で辿り着いた仮説は、昨日のユーフィー達と同様であった。

「一つ目は『ヴァレフスの復活』がそれに当たりそうだな……。で、問題はその二つ目の『直近の気配』の方か……。だとすれば、まずはその湖の北部に向かうべきかな」

 その意見にユーフィーも同意する。状況証拠的に、パンドラ関連の危険な魔法師が何かを企んでいる可能性が高い以上、より詳細な調査が必要と考えるのは当然の発想である。

「そうですね。いつまでも少数部隊だけ残す訳にも行きませんし」

 今こうしている間にも、湖の北岸で何が起きているのかは分からない。ノエル、グラン、アスリィにも同行してもらった上で、混沌の実態を調査するためにはインディゴも随行させる必要があるだろう。
 そうなると、領主と契約魔法師の双方が不在となった状態のテイタニアの警護にやや不安は生じるが、幸い、このテイタニアにはもう一人の君主がいる。それは、ユーフィーの妹のサーシャ・リルクロートである。彼女は生来病弱な体質だが、君主として聖印を操ることが出来る人物ではあるため、彼女を中心に街の冒険者達を動員すれば、それなりの防衛体制を敷くことは可能である。それに加えて、いざとなったら、勾留中のシャルルを釈放して戦線に加えるという選択肢もユーフィーは考えていた。

3.5. 四星覚醒

 こうして、湖の北岸の再調査という方針がまとまったところで、この後で大きな戦いが控えている可能性を想定したノエルは、改めて自らの聖印から「星核」を作り出し、「星々の前世」と思しき四人に提示する。

「では、湖に向かう前に、この『星の力』を皆さんに受け取ってもらいたいのです。きっと皆さんの力となることでしょう」

 「星の力の伝授方法」については、天魁星からは「相手の身体の中に星核を押し入れるように」と言われている。要は、自身の星核を相手の身体の中へと「通過」させることが必要ということらしいのだが、ノエルとしても今ひとつ具体的な方法はよく分かっていない。感覚的には「聖印の譲渡」に近い感覚なのかもしれないが、それすらもノエルはまだ(「授ける側」としては)未体験である。

「おそらく危険はないと思いますが、やったことが無いので……」

 自信が無さそうにノエルがそう言ったのに対し、ユーフィーが彼の前へと一歩歩み出る。

「なるほど。いずれは必要となることだしね。やってみようか。と言われても、感覚はわからないから、やり方は君に任せるよ」

 ユーフィーはそう言いながら、ひとまず手を差し出す。ノエルが申し訳なさそうにその手を握ろうとすると、ユーフィーは少し笑いつつ、彼のその手を掴んだ。

「遠慮する必要はない。君にはまだまだ集めなければならない仲間がいるんだろう? こんなところで遠慮していては、この先、出来ることも出来ないぞ」
「……あなたが一人目であったことを、嬉しく思います」

 そう言いながらノエルはユーフィーの手を強く握り、彼女に力を渡そうと念じると、彼の星核がその手を通じて彼女の身体の中を通り過ぎていく。父から聖印を受け取った時に近いような感覚を感じ取ったユーフィーの心の中に、何者かの声が聞こえてきた

《あなたの目指すべき希望を思い浮かべて下さい》

 その声の主は「天魁星」である。ユーフィーはやや戸惑いつつも、心の中で語り始める。

(希望か……、領主としての至らなさを自覚させられたばかりだというのに、手厳しい……。とはいえ、そう簡単に変われるものではないな……)

 内心で自嘲気味にそう呟きつつ、ユーフィーは自分自身に訴えかけるように述懐を続けた。

(私が私としてやりたいことは、一つしかない。テイタニアのために、そして私が出会う全ての人に、笑顔を届けたい。それが君主としての、ユーフィー・リルクロートとしての希望だと思う)

 彼女が自分の中でそう宣言した直後、彼女の目の前にノエルと同じような星核が出現した。彼女の来世の姿であるこの星の名は「天退星」。まだこの世界に出現したばかりであるが故に、天魁星のように「前世」に対して語りかける力は持たず、それ故にユーフィーはその名を知ることすらも出来なかったが、それでも、自分の目の前に確かにノエルと同じ「星核」が作られたことは実感出来た。

「これは『上手くいった』ということでいいのかな?」
「はい」

 ユーフィーとノエルがそう言葉を交わしつつ、互いに安堵した表情を浮かべたところで、今度はグランが立ち上がった。

「では、次は俺がやってみようか」

 彼もまたユーフィーと同じように、自身の聖印が宿った手を差し出すと、ノエルもまた同様にその手を握り、そして心の中で星核に念じると、グランの心の中にも天魁星の声が響き渡った。グランはその声に対して、率直に答えた。

(俺には作りたい国がある。ただ、そのためには「あいつら」が邪魔だ。ただ復讐のためだけじゃない。君主として、平和を脅かす「あいつら」を、俺は許す訳にはいかない。たとえどんなに手が汚れようとも……)

 ここでグランの心の中に思い浮かんでいた「あいつら」とは、パンドラをはじめとする「今のこの世界の秩序を乱そうとする者達」である。その上で、民が平和に暮らせる国を作ろうとする彼の心に応えるように、彼の目の前にも星核が現れた。それはグランの来世である「天異星」の星核であるが、当然、グランにもこの時点ではその星の名は伝わらない。ただ、これまでに感じたことのない不思議な力と高揚感を、グランはうっすらと感じ取っていた。
 その様子を確認した上で、今度はカーラがノエルの前へと歩み寄る。

「そちらのお二方は身体に聖印があるけど、ボクは本体に触れてもらった方がいいと思うんだよね」

 彼女はそう言いながら、自身の「本体」を水平状態に掲げて彼の前に差し出した。

「掌を上に乗せてもらうといいかな」

 実際のところ、オルガノンに対して譲渡する場合、星核を通過させるのが「本体」である必要があるのかどうかは分からないのだが、ノエルは恐る恐る大剣の上に手を置き、同じように念じると、カーラの心の中にも天魁星の声が響き渡る。それに対する彼女の答えは単純明快であった。

(あるじ様が望むように、民草が泣かない未来がいいな)

 彼女が改めてそう念じると、彼女の前にも星核が生まれる。ただ、その星核の輝きは、他の三人とは若干「色味」が異なっていた。他の三人の星核が「青白い輝き」を放っていたのに対し、カーラの作り出したのは「赤みを帯びた輝き」を放つ星核だったのである。おそらくそれは「聖印由来の星核」と「混沌核由来の星核」の違いなのであろう(厳密に言えば、聖印も元は混沌核なのだが、混沌を消し去る力を持つ聖印は、やはり他の混沌の力とは異質なのかもしれない)。ちなみに、彼女の来世の名は「地満星」。同じ百八星の中でも、天魁星、天退星、天異星などとは異なる「地の星」として位置づけられていた。

「では、インディゴ様も、お願いします」

 ノエルがそう言うと、インディゴも黙って手を差し出す。魔法師の場合、聖印や混沌核のような明確な「力の根源」を具現化させることは出来ないため、このやり方で正しいのかどうか不安はあったが、ノエルがその手を握ると、インディゴの心の中にも他の者達と同様に「天魁星」の声は響き渡った。彼は、自分自身が何を望むのか、改めて自問自答するように考え込みながら、答えを導き出そうとする。

(何か物事を始める時に、その一歩をなかなか踏み出せないということは、きっと誰しもあることだと思う……。そんな時に、誰かが一歩を踏み出せれば、それについていくことが出来る……。誰もその一歩が踏み出せないなら、自分がその一歩を踏み出せばいい。そうすることで、新たな世界を作り出すことが出来ればいい)

 そんな彼の想いに応えるように、彼の前にも「赤みを帯びた星核」が出現する。どうやら、魔法師が生み出す場合においても、混沌核から生み出された星核と同じ性質を示すらしい。そして、この星の名は「地魔星」。地満星と同じ「地の星」の一人であった。
 この「天」と「地」の違いが何を意味しているのかは分からない。だが、いずれにせよ、大毒龍を倒すためにはこの星核を作り出せる人物を、あと百三人探し出さなければならない。そして、それ以前の段階においても、この星核の加護は様々な形で彼等を助けることに繋がるであろうことを、五人はそれぞれに予感していた。

3.6. 援軍と留守居役

 星核の受け渡しが終わったところで、ユーフィー達は早速、湖北地域の再調査に向けての準備を始める。
 グランとアスリィは、必要な物品を調達するためにテイタニアの商店街へと買い出しに行こうとしたところで、思わぬ同胞に遭遇することになった。

「あれ? アレックスじゃないか」
「グランさん、なんでいるんですか?」

 そんな二人の会話に、アスリィも割って入る。

「アスリィさんもいますよ。むしろ、なんであなたがここにいるんですか?」
「いや、お使いも終わったし、今度はこのテイタニアで何か食べようかと……」

 何の事情も知らずに呑気にそう語るアレックスの肩を、グランはポンと叩いた。

「そうか。ちょうどいい。アレックス、仕事だ」
「え? 仕事?」
「今は一人でも戦力が欲しいからな」

 唐突にそう言われたアレックスだが、グランの真剣な表情から、何か重大な事態が発生していることはすぐに察する。

「そうですか。じゃあ、有給はまた別の時に書類を書くとして……、あ、そうだ。ヴェルナさんからお土産を貰ったんですけど」

 アレックスはそう言いながら背負い袋から「お土産」を取り出そうとするが、即座にアスリィが止めに入る。

「どうぞ、一人で食べて下さい。それか、リリスさんとご一緒にどうぞ」

 リリスとは、アレックスと仲が良い(と周囲からは認識されている)邪紋使いの少女であり、現在は彼等と共に新生ヴィルマ村で暮らしている。

「いや、意外と美味しかったんだけど……」
「あなたの味覚は信用出来ませんから」

 アスリィにあっさりとそう断言されると、グランも勧められる前に断りを入れる。

「俺はもう腹一杯だから」
「じゃあ、夜ご飯にでも……」
「いや、いらない。これから戦いに行くのに、そんなもので体調を崩す訳にはいかない」

 そんなやりとりを交わしつつ、アレックスもまた再調査隊に(相方である「異界の神の魂を宿した獅子」と共に)なし崩し的に従軍することになるのであった。

 ******

 一方、ユーフィーは妹のサーシャ(下図)に、自分の不在時の対応に関する方針を一通り伝えつつ、彼女にノエルを引き合わせることにした。ノエルとしては、この街で思いのほか多くの「星々の前世の人々」と遭遇したため、もしかしたらサーシャもその一人なのではないかと考え、確認する必要があると判断したのである。


 前夜の戦いの経緯から、君主の場合、何らかの形で聖印の力を発動させた時に、ノエルの中の「星の記憶」が反応するということが分かったため、確認のためにはサーシャにも同じように力を発動してもらう必要がある。
 サーシャは病弱な体質である上に、半年ほど前まで(魔獣を一時的に封じるために)昏睡状態にあった、という事情もあり、実際の戦場に立ったことは殆どない。だが、それでも、いざという時に街を守るために、最低限の聖印の使い方の訓練は受けていた。彼女の聖印はグランと同じ「射手」の聖印であるため、ひとまず愛用の弓を手にしてもらった上で、天に向かって聖印の力を込めた矢を放ってもらうことにした。
 事情もよく分からないまま、サーシャは言われた通りに聖印を掲げつつ矢を放つと、微妙に困惑した表情でノエルに問いかける。

「これで、よろしいのでしょうか?」
「はい、ありがとうございます」

 ノエルは彼女の動作を凝視していたが、彼の中での「天魁星の記憶」は反応しない。どうやら、残念ながらサーシャは該当者ではないようである。

「今のは一体……?」
「簡単な『確認』のようなものです」

 ノエルはそれ以上は語らず、そしてユーフィーも何も言わなかった。それは、彼女をこの戦いに巻き込まないように、という配慮なのであろう。そしてまたサーシャの方も、何か深い事情があろうことは察しつつも、あえてそれ以上聞き出そうとはしなかった。詳しい事情を説明されなくても、彼女はユーフィーに対しては絶対の信頼感を抱いている。ユーフィーもまた、伝えないことにより妹が不信感を抱くことはないと分かった上で、この判断に至ったのであろう。これはこれで、全てを包み隠さず話すグランとアスリィとはまた異なる形での絆であった。

 ******

 なお、この後、グランから紹介を受けたアレックス(とその相方の獅子)もまた「ノエル(天魁星)による星診断」を受けることになるが、彼(と獅子)もまた「該当者」ではなかった。この件について、アレックスもまた、特に深く言及しようとはしなかった。彼の場合は単純に、食べ物(香辛料)以外に興味を示さないだけなのかもしれない。

3.7. 廃棄物の融合

 こうして、ユーフィー、インディゴ、カーラ、グラン、アスリィ、アレックス、アンジェ、ノエルの8名を中心とする再調査隊は、湖の北岸へと出発することになった。その途上は特に通常時と変わらぬ平穏な旅路であったが、遺跡が近付いて来るにつれて、湖の方面の混沌濃度が明らかに高まり、そして激しい水音が響き渡る。その異変に気付いた彼等が現地へと急行すると、そこには、見たこともない不気味な様相の 巨大な怪物 が湖畔に出現し、遺跡に残してきたアレス率いる残留部隊と激しい戦闘状態に陥っていた。
 その怪物は、かつての魔獣騒動の折に出現した巨大黒蜥蜴(マルカート)と同等の体躯で、強烈な腐臭を放ちつつ、その表面は不気味な「ぬめり」で覆われていた。必死に応戦するアレスと兵士達であったが、彼等の武器や鎧は本来の機能を発揮出来ぬ程に原型を留めない形状となってしまっている。

「こいつはかなり厄介です。武器も防具も、触れた途端に溶けてしまいます。そして、斬っても、突いても、すぐに再生してきます」

 半壊した槍で孤軍奮闘しつつ、アレスはそう語る。この時、ノエルの中の天魁星は、アレスから微かに「星の気配」を感じ取ってはいたのだが、アレスはここまでの戦いで既に力をほぼ使い果たした状態であったため、この時点ではっきりとした確証は得られなかった。それ故に、ノエルはそのことには気付かないまま、この巨大な敵を目の前にして、周囲に対して言い放つ。

「大毒龍を打ち倒すためには、皆さんに信じてもらう必要があります。俺にそいつを倒すための力があると。その力は、必ずしも『戦うための力』とは限らないかもしれません。だけど、敵を屠る力も必要なのは事実です。この戦いで、俺の『武』を示します。だから、もしあいつが倒れたら、俺に大毒龍を倒す力があると信じて下さい」

 彼はそう言い終えると同時に、聖印から光の双剣を創り出し、幻想馬にまたがって突撃の構えを取る。

「なるほど。確かにいい機会だ。存分にやってくるといい」

 ユーフィーはそう言いながら、彼と同じように聖印から二本の光の片手棍を生み出し、皆を守る構えを取る。彼女やノエルのように聖印から武器を作り出すことが可能な者であれば、この怪物によって武器が溶かされてしまったとしても、すぐに新しい武器を創り出して応戦することは可能となる。その意味では、手持ちの武器で戦うアレスや一般兵達よりも相性は良いだろう。

「せっかくだから、見せてもらおうか、君の力を」

 グランもまたそう言いつつ、弓を構える。彼も彼で、弓そのものが怪物に触れることはない以上、よほど無茶な接敵を試みない限りは溶かされる心配はない。
 一方、カーラ、アスリィ、アレックス、アンジェに関しては、いずれも身体の一部を武器として戦う能力者であり、この怪物との戦いは、文字通り身体を削って戦うことを余儀無くされるだろう。ひとまず、「不死」の邪紋使いであるアンジェは後方に退避するアレスや負傷兵達の護衛に専念した上で、カーラは自らの本体である大剣を、アスリィは自身の生命魔法で強化された拳を、そしてアレックスは異界の天使を模した炎の触手を、それぞれに構えた上で怪物の前に立つ。
 そんな彼等の後方から、インディゴは持てる知識を総動員して怪物の様子を観察すると、どうやらこの怪物の表皮には装甲と呼べるほどのものはない。つまり、どんな攻撃法を用いてもその威力が削がれることは無さそうに思えたが、一方で、水の中にいることから察するに、乾燥に弱そうな気配を感じ取る。
 インディゴがその旨を皆に伝えて、それぞれに炎の力などを纏わせて戦う戦術を模索しようとしたところで、その動きに気付いた怪物が突然、彼等全員に対して謎の不気味な体液を吹きかけてきた。その動きが緩慢であったために大半の者達は避けられたが、カーラだけは直撃してしまい、彼女の身体は斬りかかる前から激しい腐蝕に襲われる。
 その直後、アスリィは水上に現れていたその巨大な怪物の上半身に飛び乗りつつ、雷撃を込めた拳で殴りかかると、確かな手応えと同時に、彼女自身の拳が蝕まれていくのを感じる。おそらく何度も殴り続けていけば、着実に彼女の拳は使い物にならなくなるだろう。出来る限り短期決戦で終わらせる必要があることを彼女は実感する。
 その直後、グランは光の矢を放ち、インディゴは雷球を炸裂させる一方で、ユーフィーとノエルもまたその怪物の上半身へと飛び乗り、ユーフィーは双棍を叩きつけ、ノエルは双剣で斬りかかる。二人の武器はすぐさま破損するが、その直後に二人は再び聖印から同じ武器を作り出し、その間に今度は地上からアレックスとカーラが(どちらも自分の身体を犠牲にすることを覚悟の上で)「炎の触手」と「巨大化させた本体」で怪物を攻め立てる。
 これに対して、怪物は自身の身体の上にいるノエル、アスリィ、ユーフィーに対して反撃を試みるが、ユーフィーの聖印とインディゴの魔法による妨害もあり、三人共見事に避ける。だが、一方で彼等が怪物に与えた傷も、見る見るうちに元通りに戻りつつあった。この時点で、短期決戦で終わらせることが極めて難しい状況だということを、彼等は思い知らされる。
 その後は一進一退の状況が続いた。インディゴが魔法で怪物を陸上へと引き上げつつ、他の者達が次々と繰り出す攻撃によって着実に怪物はその体を弱らせつつも、アスリィやアレックスは自らの身が更に蝕まれていくことを実感する。そしてカーラもまた、自らの身体が長期戦には耐えられないことを予見した上で、ならばせめて動ける間に出せる力を出し切ろうとして大剣を振りかぶった瞬間、彼女の前に星核が現れて、奇妙な輝きを放つ。その輝きを受けたカーラが大剣を振り下ろすと同時に、いつも以上に鋭い衝撃波が怪物へと叩き込まれた。

(今のは……、星核の加護?)

 一方で、怪物は陸に上げられた後もそのまま自分の身体に乗っている者達を攻撃するが、アスリィはあっさりとかわし、ユーフィーは双棍を用いてノエルを庇い、そこに更にインディゴが魔法の防壁を作ったことで(防具を破損させながらも)、完全にその攻撃を弾き飛ばす。

「ありがとうございます!」

 ノエルはそう叫ぶが、そんな彼等の足元では再び怪物は自己回復を始める。ただ、インディゴが見たところ、その回復の勢いは最初の時よりも明らかに落ちている。どうやら、炎系の攻撃を与え続けることが、乾燥が苦手なこの怪物に対しては有効であるらしい。
 だが、そんな怪物を殴り続けているアスリィの拳も遂に限界に達し、彼女もまた満身創痍の状態へと陥っていたことに、遠方から弓を構えていたグランは気付く。

「アスリィ、大丈夫か!?」
「大丈夫です。頑張って、皆で殺して下さい!」

 その声を受けてグランが全力の光矢を放ち、防具を壊されたユーフィーもまた我が身を省みずに攻撃を続け、そしてインディゴも残された力を全て注ぎ込んで、雷球の力を一点に絞り込みながら怪物に叩き込む(この時、インディゴの前にも星核が現れて、赤みを帯びた光を放っていた)。更に続けてノエルの光の双剣が怪物に大打撃を与えると、アレックスとカーラもまた自らの身体を犠牲にして最後の一撃を繰り出し、その攻撃を受けた怪物がよろめきながら繰り出す攻撃をアスリィがあっさりとかわすと、その直後に怪物は倒れ込み、自分の身体を覆い尽くす程に(アレックス達によって)繰り出されていた炎に飲まれるように、そのまま消滅していくのであった。

4.1. 六番目の星

 戦いが終わった後、ノエルの中の天魁星の感覚がようやくノエル自身にも伝わり、アレスから感じ取った「懐かしさ」の感覚に気付くと、彼はアスリィによる治療を受けていたアレスにも(周囲に伝わらない程度の小声で)「星」の事情を伝える。アレスは今ひとつ実感が湧かないような顔を浮かべつつも、ユーフィー達が同じようにその力を覚醒させたということもあり、ノエルの言葉を信じて彼の前に手を差し出すと、ノエルはその手を握りしめ、そしてアレスの中にも天魁星の声が聞こえる。

(望む未来、か……)

 アレスは、これまでの自分の人生を振り返る。かつて故郷のヴィルマ村が伝染病に襲われ、その拡大阻止のために焼き討ちにされ、そこから奇跡的に邪紋の力に覚醒し、テイタニアという新天地に辿り着き、仕えるべき君主に出会った。その後、同じように生き延びていた幼馴染は、二人の仇敵の片方を討ち果たした上で命を落とした。もう片方の仇敵は、退位した上で国を去った。ヴィルマ村は、仇敵の娘の命を受けた外様の領主の手で再建された。そして自分は、そんな外様の領主に対して、まだ気持ちの整理がついていないこともあって、(今、目の前にいるというのに)まだろくに挨拶も出来ていない。
 そんな複雑な心境を抱えつつ、アレスは純粋に自身の中での願望のみを抽出した上で、それを心の中で端的な言葉へと集約させる。

(もう二度と、人が怨恨に苛まれぬ世の中を……)

 アレスが心の中でそう念じると、彼の目の前にも赤みを帯びた星核が発生する。こうして、ノエル、ユーフィー、グラン、カーラ、インディゴに続き、六人目の「星の前世」に相当する人物が、六番目の星核を覚醒させるに至った(なお、彼の来世の名は「地耗星」であり、彼もまた「地の星」の一人であった)。
 そしてアレスは、先刻の戦いの中にいた「炎の触手を操る邪紋使い」の姿を改めて凝視する。

(アレックス……、なのか?)

 やや歳の離れた、名前がよく似た同郷の少年のことを、アレスはこの時ようやく思い出す。

(そうか……、お前はあの時、村にいなかったから……)

 どのような経緯で彼が邪紋の力を手に入れたのかは分からない。彼が自分のことを認識出来ているのかも分からない。ただ、どちらにしても、まだ自分の中で気持ちの総括が出来ていない状態で声をかけるべきではないだろう、と考えていた。

(村のことは頼んだぞ、アレックス……)

 心の中で密かにそう呟きつつ、自分の傷が完治したのを確認したアレスは、部下の兵士達と共に周辺地域の安全確認へと向かうのであった。

4.2. 錬成魔法師の独り言

 ようやく湖の北岸の遺跡の近辺が静寂を取り戻した頃、そこから更に北の森の中に、一人の男が(誰にも気付かれずに)到着していた。左右の瞳の色が異なるその男は、遠目に遺跡の状況を確認しつつ、大方の状況を理解した上で、悔恨の念を露わにする。

「一歩遅かったか……。もう少し早く『この可能性』に気付けていれば、この目でその現場を目撃することが出来たものを……。惜しいことをした……」

 ユーフィー達の憶測通り、彼は以前、この遺跡を自身の魔法実験の拠点として活用していた。混沌濃度の高い大森林の中で例外的に混沌濃度が低い領域というのは、彼にとって様々な意味で都合の良い空間だったのである。彼はこの地で、大森林の混沌の中から生まれた魔物達を捕獲した上で、その魔物の一部を材料とした新たな魔法薬の開発や、複数の魔物を融合した強大な魔法生物の生成の実験を繰り返し、その過程で発生した「失敗作」は、惜しげも無く湖の中へと投棄していった。
 だが、彼のその実験の結果として、大森林の中の危険な魔物の数が減り、結果的に冒険者達がこの地まで足を運ぶことが容易になってしまった。せっかく見つけた好条件の実験場ではあったが、ここで騒ぎを起こすのも起こされるのも面倒だとだと思った彼は(思った程の成果が得られなかったこともあり)、あっさりとこの場を放棄することにした。
 ところが、つい先日、彼の「金色の右眼」の中に眠る何かが、この小大陸、あるいはこの世界全体を揺るがすほどの異変が起きようとしている気配を察知した。その気配の出所を探った結果、彼は再びこの地に辿り着き、そして湖で起きていた者達の会話を特殊な技法で遠方から盗み聞きした結果、この湖に出現していたという怪物が、「自分が投棄した失敗作が特殊融合して発生した合成獣」であろうという推論に至る。

「これは完全に想定外だったな。当初の私の予定とは全く異なる形で、私が求めていた怪物が生まれてしまうとは……。ある意味、無欲の勝利ということか。いや、実際に私がその怪物をこの目で鑑賞することは出来なかったのだから、勝利とは言えないな」

 そして、その怪物が倒された後も、まだ彼の「右眼」が感じ取った予感は消えてはいない。おそらく、この湖の奥底で、何かが起きようとしているのだろう。彼の投棄物がこのような魔物へと発展したのも、おそらくはこの湖底に眠る特殊な力が影響している可能性が高いことは、彼の中でも推測はついていた。

「とはいえ、『本番』が始まるのはまだしばらく先のようだし、私はその間に、もう少し他の地域を散策させてもらうことにしよう。我が師も何やら色々と飛び回っているようだし、まだまだ他にも楽しみは増えそうだ」

 彼はそう呟きつつ、去り際に調査隊の面々に眼を向けた時、何人か「見覚えのある若者」が混ざっていることに気付く。

「あれは確か……、昔、人工邪紋を移植しようとして失敗した四人の中に、あのような顔立ちの青年がいたような……」

 アンジェを見ながら、そんな記憶を掘り返す。もし、この憶測が正しければ、彼の廃棄物が彼の知らないところで実を結んだのは、今回が初めてではない、ということになる。だが、あえてそれを確かめようという気にはならなかった。
 それに加えて、アスリィと、そして実はアレックスも、かつて彼と遭遇したことはあったのだが、彼はそのことに気付きつつも、彼の中ではそれほど大きな出来事でもなかったため、あまり気に留める様子もなかった。そしてそれは、この物語全体の中でも、あまり大きな位置を占める問題ではなかった。

4.3. 湖畔の砦

 人知れず舞い戻っていた元凶の存在に気付かぬまま、やがて遺跡の近辺に(現時点では)これ以上の混沌災害が起きていないことが確認出来た時点で、ユーフィーはこの地に「砦」を築くことを調査隊の面々に提言する。先刻のような混沌災害がいつまた起きるかも不明であるし、この辺りまで冒険者の面々が足を踏み入れることが増えているという事情にも鑑みた上で、この辺りに「前線拠点」があった方が良い、というのがその名目であるが、真の目的は、ノエルが言っていた「世界が滅びるほどの危機」に対応するためである。
 調査隊の学者達の中には、貴重な遺跡の上に新たな砦を建ててしまうことによって、史料的価値が失われてしまうことを惜しむ者もいたが、もしまた再び先刻のような巨大な怪物が出現すれば、どちらにしてもこの遺跡自体が破壊されてしまう、と言われてしまうと、それ以上の反論も出来なかった。
 やがて陽が落ち、月が夜空に登る頃、ノエル、ユーフィー、インディゴ、アレス、グラン、カーラの六人は、星空の中に「今まで見えなかった星」が見えるようになる。その数は十三。紅の山の麓でノエルが見た時に比べて、更に五つの星が増えている。おそらくは(天魁星が語っていた通り)ノエル以外の五人が星核を作り出した時点で、それに呼応するようにそれぞれの「来世」である星々が再び出現したのであろう。

「あれが百八個集まった時、大毒龍との戦いが始まります」

 ノエルは五人にそう告げる。つまり、必要な「星」の数は残り九十五。もっとも、「今この場に前世のいない七つの星」に関しては、この時点でまだ星々の声が届いていないらしいので、実質的にはあと百二の「星核」の覚醒が必要ということになる。その彼等がどこにいるのか、今のところまだ何の手掛かりもない状態であるが、ひとまずノエルは、天魁星を通じて、他の星々に一言だけ伝える。

「オーハイネの地に、砦あり」

 その言葉が他の七星の前世に届くのが、いつになるかは分からない。ノエルはそれまでに自分が為すべきことを考えつつ、ひとまずこの日は調査隊によって設立された野営地の中で、静かに眠りに就いた。

4.4. 再会の誓い

 翌日。ユーフィーの指揮の下で、調査値はひとまずテイタニアへと全軍帰還することになった。後日、アレスを中心とした「砦建設のための特務隊」を派遣する方針ではあったが、今回の戦いで既に彼等も極度の疲労困憊状態にあったため、まずは一旦帰還した上で休養を取らせる必要があるとの判断である。
 その出立の直前に、ノエルはカーラからの要望を受けて、湖の奥に眠ると言われている巨大魔獣に向けて、自分が覚えている限りの「エルムンドの最期」の様子を、心の中で克明に思い描きながら伝えていた。その声が届いたか否かは分からないが、カーラは(「孫」として)ノエルに改めて頭を下げる。

「ありがとう。じゃあ、ボクはこれから、あるじのところに向かうよ」

 カーラの「あるじ」であるトオヤは、契約魔法師のチシャと共に、現在、祖母リンナの病気療養のためにアキレスに滞在している。そこへと向かうためには必然的に首都ドラグボロゥを経由することになるため、ユーフィーとグランが連名で、ヴァレフール伯爵レア・インサルンド宛に「この地に砦を作る真意」を記した手紙を書く。
 大毒龍のことは極力内密に進めるべき話であることは二人共分かっていたが、早急に残り百二人の仲間を集めるためにも、国主であるレアの協力を得るべきという判断で一致していた。また、この場に集まった六人の顔ぶれを見る限り、残りの百二人も何らかの聖印や邪紋などの力の持ち主である可能性が高そうに思える以上、レアもまた有力な「候補者」であるし、仮に彼女自身がそうではなかったとしても、筆頭魔法師ヴェルナや護国卿トオヤを初めとする彼女の側近達の中に該当者が潜んでいる可能性もある。そういった者達への調査を実行するためにも、やはりレアの協力は不可欠であるというのが、彼等の考えであった。
 一方、ノエルはひとまずこのテイタニアおよびその近辺の地域を順番に回って、星の共鳴が起きる人物がいないかどうかを確認することにした。今のところ、星核の力を覚醒させることが出来る者はノエルしかいないため、小大陸全体を虱潰しに行脚して調べていく覚悟は出来ている。そのための第一歩として、まずはグランと共にヴィルマ村へと赴き、村に住む冒険者達の中に該当者がいないかどうかを確認する予定であった。

「それでは、しばしの別れとなりますが、また会うことになるでしょう」

 ユーフィー、インディゴ、アレス、カーラの四人に対して、ノエルが決意を込めた瞳でそう告げると、ユーフィーは彼の決意を深く受け止めつつ、にこやかな笑顔で答える。

「いずれ大毒龍ヴァレフスと戦う時、君と共に戦えることを、このテイタニアの地で待っている」

 彼女の笑顔を目の当たりにしたノエルの中では、一瞬、それまでに自覚したことのない感情が芽生えかけたが(この感情の正体と結末については 別の物語 を参照)、ひとまず彼はその想いを脇に置いた上で、「百八の星々を集める使命を背負う者」として、改めて彼女にこう言った。

「覚えていて下さい。たとえ見えずとも、星はここにある」

 こうして「百八の星の物語」は、エルムンドの聖印を受け継いだ一人の若者の決意と共に、因縁の湖の滸から、静かに幕を開けることになった。
 八つの光が揃うまで、未醒の星はあと七つ。夜空に希望が満ちるまで、未還の星は九十五。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2019年09月23日 23:50