第12話(BS48)「雲を払う風」 1 / 2 / 3 / 4

1.1. 四通の手紙

 ブラフォード動乱の終結から約半月が経過した。ケイの住民達がレヴィアン・アトワイト率いる駐留軍による暫定的な統治を受け入れている一方で、グリース軍の支援を受けてマーチを統治しているガスコインの長男セシルからは何の音沙汰もない日々が続いていた。
 そんな中、ヴァレフールの首都ドラグボロゥにて、ヴァレフール伯爵ワトホートとその娘レアの同席の上で、「七男爵会議」が(実質的にはガスコインの死によって「六男爵」状態となったまま)開催されることになった。もともと「一年以内にワトホートが退位すること」が国内和平の条件であったが、ガスコインの叛乱による国内政治の混乱を早期に解消するために、当初の構想よりも前倒しで爵位継承を含めた新体制構築を進めるべきという方針で、国内諸侯の考えが一致したようである。
 既に引退を仄めかしている騎士団長と副団長の座の後継者問題、そしてガスコインの死に伴う空席の補充要員などの問題を含めた「七男爵内での人事案件」と「ヴァレフール伯爵位の継承問題」をこの機に同時に解決するために、国内各地を治める男爵達が首都ドラグボロゥに集結していたのである。
 一方、聖印の規模としては既に子爵級にまで成長していながらも正式に爵位を認定されている訳でもないトオヤは、この時点では七男爵会議に召集されることはなく、ケネスの名代として彼の本拠であるアキレスに、チシャ、カーラ、ドルチェと共に駐在していた。そんなある日、その四人の元に、それぞれの「知人」からの手紙が届く。
 トオヤの元に届いたのは、彼にとっての「大切な友人」からの手紙であった。その手紙を読んだトオヤは、静かに熟考した。
 チシャの元に届いたのは、彼女にとっての「数少ない肉親」からの手紙だった。その手紙を読んだチシャは、激しく動揺した。
 カーラの元に届いたのは、彼女にとっての「苦手な人物」からの手紙であった。その手紙を読んだカーラは、頭を抱えた。
 ドルチェの元に届いたのは、彼女にとっての「雇い主」からの手紙であった。その手紙を読んだドルチェは、苦笑を浮かべた。
 四人はそれぞれの手紙の送り主のことを思い浮かべながら、ドラグボロゥの七男爵会議の結論が下されるのを待ちつつ、それぞれの仕事を粛々とこなしていた。そんな中、ヴァレフールの権力闘争とは全く無関係な「新たな事件」が引き起こされようとしていたことに、まだ彼等は気付いていなかった。

1.2. 巨大投影体の足音

 ドラグボロゥの北に位置するテイタニアの街では、領主であるユーフィー・リルクロートが七男爵会議に出席している間、形式的には彼女の妹のサーシャが領主代行を務めていたが、実質的にはユーフィーの契約魔法師であるインディゴ・クレセントが政務を取り仕切っていた。
 ある日、そんなテイタニアの領主の館に、二通の手紙が届けられた。いずれも「テイタニア領主ユーフィー・リルクロート殿」宛の書状であったが、何らかの緊急の用件の可能性もあると考えたインディゴは、独断でその手紙の封を開ける。
 一つ目は「リッカ」と名乗る地球人の投影体からの「果たし状」であった。曰く、そのリッカという投影体は二刀流の剣豪であり、自分とは似て非なる流儀の二刀流剣士であるユーフィーとの腕試しの一騎打ちを所望、とのことである。全くもって緊急の用件ではなく、しかも領主の性格上、受けるとも考えにくい(そして客観的に見ても受ける必然性が全く無い)その手紙の内容に、インディゴはやや肩透かしを食らった気分にさせられる(なお、リッカの詳細はブレトランドの遊興産業5にて語られているが、この物語の本編とは一切関係ないので、特に確認する必要もない)。
 これに対して二つ目の手紙は、緊急性こそないものの、この街にとってもそれなりに重要な案件であった。差出人は、長城線を守るオディール領主ロートス・ケリガンの契約魔法師オルガ・ダンチヒ。インディゴとは、魔獣騒動に関する七男爵会議の際に共に領主代行として同席した仲である(ブレトランドの英霊6参照)。その手紙の主旨は「領主殿の妹君であるサーシャ様を、我が君主ロートスの花嫁として迎え入れたい」という内容であった。

(アントリアとの最前線に送るというのは不安だが、話に聞いている限りでは、オディールの領主殿は温厚な人徳者らしい。とりあえずは、領主様に相談か……)

 インディゴが執務室でそんな思案を巡らせていたちょうどその時、政務報告を確認するためにサーシャが部屋を訪れた。インディゴが「手紙」を見ながら何か深く考え込んでいる様子に見えた彼女は、ふと問いかける。

「どうなさいました?」
「特に緊急の手紙ではありませんが……、ご覧になられますか?」
「いえ、それならば、お姉様が帰って来てからで結構です」

 彼女はそう答えると、インディゴと軽く街の現状について確認した上で、すぐに部屋を出て行く。その直後、唐突にインディゴの背後から、別の「少女」の声が聞こえてきた。

「契約魔法師として、少しは貫禄がついてきたか?」

 それはインディゴにとっては「大先輩」にあたる(そしてトオヤ達にとっても因縁浅からぬ)奇妙な装束の「魔法少女」であった。

「いきなり後ろから現れないで下さい。びっくりするでしょう」
「実は、お主に少し頼みたい話があってな」

 相変わらず、相手の事情など気にする様子もないまま、その魔法少女は語り始める。

「どうも私の馬鹿弟子が、東の方で『よからぬこと』を企んでいるらしい」
「誰のことです?」
「シアン・ウーレンという男がおってな。この世界の各地に出現する、マルカートのような『巨大投影体』を観察することに楽しみを見出して、色々なところでそんな厄介な魔獣達を蘇らせようと暗躍している馬鹿な奴なんだが……」

 彼女のその声色から、相当に深刻な事態が発生しつつあることをインディゴは察する。

「また厄介事ですか。まぁ、厄介事にも慣れてきましたけど」

 肩を竦ませながらそう呟くインディゴに対して、大先輩の少女は説明を続ける。

「そのシアンが今、ヴァレフールの東南部で何か企んでいるらしい、という情報が入ってきた。ただ、原理は分からんが、どうも奴は『私の存在』を何らかの方法で感知出来るようで、私が奴を止めに行こうとすると、いつも事前に察知されてすぐに逃げられてしまう。だから、お主が代わりに行って、奴を止めてくれ」

 あまりに唐突な申し出であったが、もしそれが(一年前にテイタニアを危機に陥れた)あのマルカートに匹敵するほどの魔獣の出現に繋がる陰謀だとすれば、確かにそれは大問題である。しかも今は七男爵会議の開催中のため、そのような混沌核を浄化出来そうな有力諸侯はドラグボロゥに集まっている。この状況で東方で魔獣騒動が起きれば大災害が引き起こされる可能性が高いということは、インディゴにも容易に想像できた。その上で、彼女のような「得体の知れない少女」が東方諸侯に注意を喚起したところで、話を聞いてくれる者は少ないだろう。その意味では、彼女が自分にその使命を押し付けにきたのも、納得は出来る。

「そういうことなら、一応、今この場を空けて良いかどうか、領主代行様に相談して来ます」
「いや、それには及ばん」

 彼女はそう言うと、自らの外見を「インディゴ」の姿へと変えた。つまりは、彼女がインディゴの「影武者」としてこの場に残る、ということらしい。

「お主の代わりくらいなら、私でも出来るからな。お主に私の代わりが出来るかどうかは知らんが」
「……一応、やるだけやってみましょうか?」

 インディゴはそう言いながら、映像を作り出す魔法を唱えようとするが、すぐに少女が制止する。

「いや、やらんでいい。むしろ、『私の姿』ではいかんのだ。この任務を遂行するにはな」

 先刻の話を聞いていた以上、そのことはインディゴも分かっている。もっとも、どちらにしても映像魔法程度で騙せるような相手でもないだろうが。

「分かりました。どこまで出来るかは分かりませんが、やってみます。この街のことはお任せしますが、くれぐれも『余計なこと』はしないようにお願いします」

 何度もこの少女に引っ掻き回されてきたインディゴはそう言って釘を刺すが、少女としては別に誰彼構わず「余計なこと」を仕掛けに行こうとする訳でもない。彼女がよくインディゴに絡もうとするのは、彼が「からかい甲斐のある後輩」だからそうしているだけであり、この街にそこまで面白味のある人物が他にいない限り、特に積極的に何かをやらかすつもりはなかった。
 なお、その魔法少女曰く、シアンという人物は「アトラタン大陸東端のシャーン地方の装束をまとい、女性のように長い黒髪で、左右の目の色が違う男」であり、その特徴と合致する人物が、ヴァレフール南東部のマキシハルトの村の近辺で発見されたらしい(ちなみに、その情報を提供したのは、彼女と協力関係にある「ヴァルスの蜘蛛」の女性である)。
 その話を聞いたインディゴは自身の直属の兵達を密かに集め、あくまでも「極秘任務」であることを彼等に告げた上で、その少女の用いた特殊な空間転移魔法によって、現地へと一瞬にして移送される。
 そして彼が去った後のテイタニアでは、「インディゴ」に扮した魔法少女と、彼女によって作り出された「インディゴ直属の兵士達の幻影」が、いつもと何も変わらぬ様子で巡回し続けてる様子が、街の人々の目に映っていたのであった。

1.3. 異次元魔境の出現

 戦後の混乱がようやく静まりつつあるケイの街では、暫定統治者のレヴィアン・アトワイトが北方(マーチ村)からの侵攻への警戒を続ける中、彼の契約魔法師であるロザンヌ・アルティナスが、とある案件を彼に持ちかける。

「実は先日、『お兄様』に色々と相談した際に、My Lordには別の家名を継いでもらった方が良いのではないか、というお話になりました」

 彼女には「お兄様」と呼ぶべき人物は何人か存在しているが、ここで彼女が指しているのは、実の長兄にあたるクーンの領主(七男爵の一人)イアン・シュペルターのことである。
 現状、レヴィアンは既に(ボルフヴァルド大森林での浄化活動などの成果もあり)自力で男爵級の聖印を手に入れてはいるが、レヴィアンの実家であるアトワイトの家名は姉のマルチナが継承することが既定路線となっている。一方で、ロザンヌの実家であるシュペルターの家名は既にイアンが継いでおり、愛妻ヴェラとの間に子供も生まれようとしている以上、レヴィアンがシュペルター家の後継者となるのも難しいだろう。

「『同じ家名の男爵』が二人並存するのも収まりが悪いですし、言いたくはないですが、そもそもMy Lordは既に実質勘当されているような状態ですし」
「そうだな」
「言いたくはないですが、それはわたくしのせいですし」
「いや、それは、まぁ……」

 確かに、レヴィアンとグレンの不仲化の要因はロザンヌとの魔法師契約にあるが、それはレヴィアン自身が選んだ道である以上、ロザンヌが気を病むべき問題ではないと彼は考えていた。

「そこで、一つ考えたのですが、現在断絶している『バーミンガム』の家名を引き継ぐのはいかがでしょう?」

 それは、約40年前にシュペルターが七男爵に加わる直前まで「七男爵」の一つとしてクーンを統治していた男爵家の名である(ブレトランド風雲録4参照)。約40年前にクーンで発生した混沌災害の際に、最後の当主ダグラス以下、一族郎党全員が命を落としており、現状においてその家名の継承権を主張する者は誰もいない。

「それが出来るのなら、確かに、かなりいい条件だな」
「えぇ。その上で、My Lordが七男爵に列せられることになるかは分かりませんが、そもそも現状の七男爵制度自体を見直そうとする動きもあるようですし、とりあえずはその方向で相談してみましょう」

 現状、ガスコインの死とセシルの亡命によって生じた七男爵の欠員の補充要員として最有力なのは、間違いなくレヴィアンである。ただ、マルチナと彼が姉弟で七男爵の地位を分け合うことに反発する声もあるだろうし、本来ならば後ろ盾となるべき祖父グレンもそれに反対する可能性は十分にありうる。一方で、既に男爵級を超えて子爵級の聖印を手に入れているトオヤを、これまで通りに「七男爵」の後継者として扱って良いのか、という問題もあるだろう。どちらにしても、ヴァレフールという国家の在り方そのものが大きな変革を迎えることになるかもしれない、そんな時期に差し掛かりつつあった。
 そして、レヴィアンとロザンヌがそんな相談を交わしていたところに、元に一人の騎士が駆け込んできた。レヴィアンの姉マルチナの側近のベルカイルである。

「レヴィアン様、緊急事態が発生しました!」
「何が起きた?」
「先日、ヘリオンクラウドが出現していたカナハの北部の草原地帯に、今度は『奇妙な建物』が出現したのです」

 ブラフォード動乱の直前に発生していたイヴィルゲイザー率いる凶悪な投影体集団ヘリオンクラウドによる混沌災害は、結局、いつの間にかそのヘリオンクラウドが姿を消したことで終結した。このような形での事態の収束は過去のヘリオンクラウド関連の事例と照らし合わせても特に不自然なことではなかったのだが、念のためマルチナやベルカイルは、その跡地から別の混沌災害が発生することのがないよう、警戒を続けていたらしい。
 そんな中、そのヘリオンクラウドの「跡地」に突然、何らかの「門」のような異界の建物が出現したらしい。一見すると、それはただの「門」であり、その前後には何も存在しないのだが、正面側(?)からその「門」をくぐると、その先には「魔境」と思しき異空間が広がっているのだという。

「マルチナ様がその門の奥の魔境の調査に向かわれたのですが、そこから数日、連絡が途絶えておりまして……」
「それは、まずいのでは?」
「まずいのです。そこで、レヴィアン様には第二次調査隊の派遣をお願いしたいのですが、可能でしょうか?」

 言われるまでもなく、レヴィアンとしては今すぐ自ら現地に赴きたい。とはいえ、現在の彼はヴァレフールにとって重要な対グリース国境を守る任に就いている身である。この状況で自分の留守を任せられる者は……、と彼が考えた瞬間、自分の隣にいる「最強の魔法師」と目が合った。

「ロザンヌ、私は姉上の捜索に行かなければいけない。ここの守りを頼んでも良いか?」
「問題ありませんわ。それに、わたくしの未来予知によれば、しばらくはグリース軍もアントリア軍も侵攻の気配はありません。ですので、レッドウィンドさん達も一緒に連れて行ってもらって構いませんわ」

 半月前の戦いの後、なりゆきでレッドウィンド達もまだこの地に滞在していた。動乱の際にはどちらにも協力しなかった彼等であったが、故郷の復興を助けたいというレッドウィンドの意思を受け入れて、彼等にはこの地の治安維持に協力してもらっている。今回は国内の権力闘争とは無関係な混沌災害への対応ということで、彼等としてもレヴィアン率いる調査隊に従軍することに異論は無いだろう。
 こうして、レヴィアンはベルカイルとレッドウィンドの手勢を傘下に加えた上で、カナハ北部の草原地帯の調査へと向かうことになったのである。

1.4. 敵国からの招待状


 ヴァレフールから遠く離れたアントリア北西部の地に、マージャという名の村がある(上図参照)。一度は混沌災害によって崩壊へと追い込まれた村であったが、白狼騎士団の軍楽隊長を務めるレイン・J・ウィンストン(下図)の手で復興され、現在は世界中から様々な楽師達が集まる「音楽の村」として知られている(ブレトランドの英霊2参照)。過去には二度に渡って「国際音楽祭」を開催したこともあり、その際には敵国である筈のグリースからも参加者が現れるほどの盛況振りであった(ブレトランド戦記6およびブレトランド八犬伝6参照)。


 そんな領主のレインの元に、第一回国際音楽祭の参加者でもあった、ヴァレフール領オディールの領主(七男爵の一人)であるロートス・ケリガンからの手紙が届く。第一回の音楽祭の時には、彼は契約魔法師のオデット・ダンチヒと共に参戦し、見事なオカリナ二重奏で観客の心を掴んでいた。

「あら、久しぶりね。何かしら」

 レインが封を開くと、そこに入っていたのは間も無く開催予定の「ヴァレフール伯爵位継承記念式典」への招待状と、「オディール男爵ロートス・ケリガンの友人」としての通行許可証であった。ロートスとしては、来るべきヴァレフールの新時代を祝う式典において、レインの軍楽隊の演奏を披露してほしいらしい。
 国主の継承式典に敵国の将を招き入れるというのは、最前線の指揮官としてはあまりにも非常識な発想であるが、彼以上に非常識なこの女領主は、すっかり乗り気であった。

「ヴァレフールまで行くのは初めてね。でも知り合いはいっぱいいるし、久しぶりに会える人もいるわね」

 そう呟きつつ、彼女は身支度を始める。だが、当然の如く彼女の部下の部下の兵士達は戸惑いを見せる。

「いや、さすがにヴァレフールはまずいんじゃないでしょうか。白狼騎士団の名は知られているでしょうし……」

 実際のところ、白狼騎士団とヴァレフール軍が直接交戦した回数は少なく、レインの軍楽隊に至ってはそもそも最初のトランガーヌ侵攻戦の際に不参加だったこともあって、ヴァレフール軍の中では彼女達に対してそこまで強烈な憎悪は無いかもしれないが、それでも敵対する軍事大国ノルドからの遠征軍という意味では、いくらロートスの招待状があると言っても、すんなりと現地の人々が受け入れてくれる保証は無いだろう。

「じゃあ、こういうのはどう?」

 彼女はそう言いながら、仮面舞踏会の際に用いるような「目元を隠す仮面」を取り出す。

「なるほど。『仮面楽団』ですか」
「そう。私はロートスさんの一介の友達の『ジェニー』。みんなはその私の友達。それならいいわよね?」

 それでごまかせる保証はないのだが、彼女の非常識な言動に日頃から振り回されている側近達は、既に危機意識に関する感覚が麻痺してしまっているようで、仮面を装着した状態の彼女のその笑顔を目の当たりにして「まぁ、それなら大丈夫か」という気分にさせられてしまっていた。
 無論、このことは彼女の上司である白狼騎士団の団長ヴィクトール・ボズレフにも、アントリア子爵代行マーシャル・ジェミナイにも、伝えられる筈がない。完全な彼女の独断による暴走であり、領主としての職務放棄でもある。
 とはいえ、もともと彼女は、この村の領主として何をしているかと言えば、街中でギターをかき鳴らして愛と平和を人々に説いている程度で(それはそれで、対魔境の最前線であるこの村の住人達にとっては大切な「心の支え」ではあるのだが)、彼女がいなくても政務は成立するし、仮に魔境から何かが出現したとしても、彼女の部下には頼りになる人材が揃っている。その意味で、特に心配すべき問題は何も無いと彼女は考えていた。
 そんな彼女が、善は急げとばかりに早々に準備を整えて、軍楽隊の中で村内での明確な職務に就いていない者達を率いて村を出ようとしていたところで、一人の少女と遭遇する。彼女の名はティリィ・アステッド。「(彼女自身が想像した)異界の死神」を模倣する邪紋使いである(下図)。彼女も軍楽隊の一員ではあるのだが、彼女はこの村の中で孤児院の管理を任されていたため、今回は連れて行く訳にはいかないとレインは判断していた。


「あれ? レインさん、その仮面は……」
「似合うでしょ? ちょっと留守にするけど、よろしくね」
「え? ちょ……、いいんですか? それで?」
「うん。ヴァレフールが平和になる、めでたい日らしいから」
「ちょっと待って下さい! ヴァレフールに行くんですか!?」
「そう。じゃあねー」
「い、いや、ちょっと待って下さい、レインさん!」

 困惑した状態のティリィの叫び声も虚しく、レインは足早に村を立ち去って行く。彼女はひとまず最寄りの港町であるクラトーマから、一度第三国としてのローズモンドを経由した上で、ヴァレフールへと入国する算段であった。

1.5. 覇王への贈呈品

 ヴァレフールとアントリアの間に位置する新興国家グリースの首都ラキシスでは、国主であるゲオルグ・ルードヴィッヒ(下図左)が控える「謁見の間」に、側近の自然魔法師マーシー・リンフィールド(下図右)を呼び寄せた上で、改めて「ブラフォード動乱に関する総括」が開かれていた。


「先日の作戦では、最低限の成果は残せましたが、最低限の成果しか残せなかったのは、私の責任です。私が、トオヤ・E・レクナとレヴィアン・アトワイトという、二人の無名の騎士の存在に気付けなかったことが敗因でしょう。おそらくこれから先、あの二人がヴァレフールにおいて重要な役割を果たしていくことになることは間違いないかと」
「そうだな。騎士団長と副団長の争いが、世代を超えても受け継がれていく、そんな形になると良いのだがな」
「ところが、あの二人、どちらも祖父とは仲が悪いらしいのです。トオヤの方は微妙ですが、少なくともレヴィアンの方は確実に悪いです」
「では、前の世代の諍いが引き継がれることには期待出来ず、か」
「無論、それとは別次元で新たな諍いが起きる可能性はありますが」
「なるほどなるほど」
「彼等の間で諍いが起きれば、彼等のどちらかが、我々にとっての『第二のガスコイン』になってくれる可能性も、無くは無いかもしれません」
「なるほど。そうなると、その二人の見極めがグリースにとっての急務、ということになるな」
「その通りです」

 そんな言葉が交わされている中、ゲオルグの妹ルルシェの側近の一人である元聖印教会の騎士メルセデス(下図)が現れる。


「陛下、『マーシー殿の御友人』と名乗る方が面会を求めております。シアン・ウーレンというお名前だそうですが……」

 その名を聞いたマーシーは、微妙な表情を浮かべる。

「シアンか……。信用は出来ませんが、役には立つ男です。基本的に嘘は言いませんが、本当のことも全ては話しません。そのような輩ですが……、お会いになられますか?」
「なるほど。君の『例の友人』の一人、ということかな?」
「えぇ。『例の筋の友人』です。ただ、奴はどの派閥にも属さず、一切のしがらみもない状態で、自分の好奇心だけで動いているような男ですので、おそらく何らかの形での利用価値はあるとは思いますが……」
「面白い。では、早速会おうか」

 ゲオルグはあっさりと即答した。胡散臭い人物らしい、ということはマーシーの様子から十分伝わっていたが、ゲオルグ自身もまた「胡散臭い立場」からこの身分にまで登り詰めた人物である。ある程度まで高いリスクがあったとしても、それに見合う成果が見込めるのであれば、彼は「胡散臭い手段」を選ぶことに躊躇はしない。無論、話を聞いた上で、その価値がないと判断すれば追い返すだけの話である。
 そんなゲオルグの前に現れたのは、東方風の装束をまとい、女性のように長い黒髪で、左右の目の色が違う男であった(下図)。


「はじめまして、ゲオルグ陛下。シアン・ウーレンと申します。本日は、少々面白い話をお伝えしたいと思い、参上しました」
「ほう」
「現在、ヴァレフール東南部で新たな混沌災害の気配が広がっております。しかし、今、ヴァレフールのお偉方は南西部の首都に集中している。残された東方の君主達の中にも対応出来る者達がいない訳ではありませんが、おそらく大混乱が発生することになるでしょう」

 そう言いながら、シアンは執務室に掲げられていた地図の南東部に魔法杖を向け、山村ムーンチャイルドを内包する山岳地帯を中心とした一つの「円」を描き示した。

「なるほど。それは『ヴァレフールの友邦』であるグリースにとっても大変なことだな」
「えぇ。そして相応の投影体が出現するということは、それを浄化・吸収すれば聖印も相応に成長するということです」
「しかも、それでヴァレフールに恩を売ることも出来る、と」
「その通りです」

 ここで、二人の会話を横で聞いていたマーシーが口を挟む。

「ちょうど先程の話に挙がっていた『二人』の所領の近くですね。もし実際にこの地で何か混沌災害が発生すれば、おそらく彼等がそれに対応することになるでしょう」

 実際、シアンが描いた「円」の周上には、トオヤの所領であるタイフォンも、レヴィアンの本来の本拠地であるオーバーハイムも含まれている。先刻の話を聞いていなかったシアンには、その「二人」が誰のことを指しているのかを知る術はなかったが、彼は特に気にすることなく、そのまま話を続ける。

「もし、陛下がそちらに赴かれるのでしたら、一つお貸ししたいものがあります」
「なるほど。お前の本題はそれか」

 ゲオルグが興味深そうな顔を浮かべると、シアンは懐から謎の「水晶のような形状の石」を取り出し、それを「それなりの広さのあるこの部屋」の中心部に置くと、部屋の壁際に立ち、ゲオルグとマーシーにも同様に壁際へと移動するように示唆した上で、その「謎の石」に向けて魔法を唱えた。すると、その石は割れ、その中に封印されていた「巨大な(部屋全体を覆う程度の)亀のような魔物」が出現したのである。

「これは私が探している『ブレトランドに存在する伝説の七体の魔獣』の中の一つの『因子』を元に、私が作り上げた模造品です」

 おそらくそれはグリース領メガエラの南部に広がる森の地下に眠っている巨大亀フェルマータの因子であろう。その存在はゲオルグにもマーシーにも知らされていないが、かの村には元パンドラの人物もいる以上、「彼」との間で何らかの取引でその因子となる何かが譲り渡されていたとしてもおかしくはない(当然、その事実を知る者は他に誰もいない)。

「所詮は模造品ですので、大した力はありません。ただ、飛行能力も備えておりますので、お一人で大軍を相手に戦う際などには、それなりに役に立つでしょう」
「どぉれ」

 ゲオルグはその説明を聞きながら、実際にその「亀」に騎乗してみる。彼は日頃は通常の「馬」を乗騎としているが、もともと騎乗能力に特化した聖印の持ち主である以上、このような特殊乗騎を操る能力にも通じている。部屋の中では実際にその機動性を確認することは出来なかったが、直感的にゲオルグは、この「亀」の乗り心地は悪くなさそうだと実感していた。その様子を確認した上で、シアンは更に説明を続ける。

「陛下の聖印であれば、通常の馬と同様に、この亀も「掌に乗せられる程度の大きさ」にまで小型化することは可能な筈です。これを懐に忍ばせた状態であれば、怪しまれることなく現地に乗り込むことも可能でしょうし、単身で巨大な敵と戦うことになったとしても、一軍を率いている時と同等程度の手助けにはなると思われます」
「なるほど。実に有益な代物ではあるな。しかし、君がこのような贈り物をくれる理由は何なのかな?」
「まぁ、マーシー殿にはいつもお世話になっておりますし」

 唐突に名を出されたマーシーは黙って目をそらす。そんな彼女の反応も気にせず、シアンは笑顔で説明を続ける。

「裏があるとお考えならば、それでも構いません。ただ、どちらにしても、あなたにとって損はない筈ですよ」
「そうだな」

 ゲオルグは元来「混沌の産物」をあまり好まない性分であり、この魔法師と思しき人物が作り出した「特殊な乗騎」が混沌の産物であることは容易に推察出来たが、それでも自分の立身出世に役立つならば嫌いなものでも利用するのもまた、ゲオルグのゲオルグたる所以である。
 とはいえ、危険な代物である可能性も否定は出来ないため、ひとまずマーシーが自身の知る限りの知識に基づいてその「亀」の鑑定を試みる。彼女の本業は時空魔法だが、均衡派の首領である彼女は、あらゆる魔術に関する幅広い知識を持ち合わせていた。その知識と照らし合わせつつ、この「亀」が暴走などを引き起こす可能性を危惧していた彼女であったが、綿密な検証の結果、その危険性は極めて低い、という結論に至る。

「あなたの作品にしては珍しく、きちんと乗り手の安全性についても万全の考慮がなされているようですね」
「それはもちろん。まだあくまで試作段階ではありますが、それでも他ならぬゲオルグ陛下が用いられることを配慮した上での『実用品』として設計させて頂いたつもりです」

 その話を聞いたゲオルグは、納得したような表情を浮かべる。

「なるほど、試作品の実験に付き合え、ということか」

 皮肉めいた口調での言い回しであったが、その口元には不敵な笑みを浮かべていた。強大な力を得るためであれば、あえて自ら実験台となるのも上等、という覚悟がそこからは伺える。無論、シアンもそんな彼の気性を理解した上での提案であった。

「魔術の発展も、試行錯誤の積み重ねですから」

 恭しい物腰から、いけしゃあしゃあとそんな言い分をのたまう怪し気な魔法師に対して、ゲオルグもまたニヤリと笑いながら好き放題に言いたいことを言ってのける。

「もし、今後また『もっと良いもの』が出来たら、それも見てみたいな」
「では、次は『巨神像型』も作ってみましょうか」
「あぁ、実に面白い。もしかしたら、これから先も君に協力出来ることがあるかもしれん。何か必要なものがあった時は、ぜひとも私に言ってくれたまえ」

 ゲオルグとしては、この男の後見人となって、その特殊な技術を自身の野望のために活用するのも悪くない、と考えているようである。もっとも、それに見合うだけの才覚があるということが(今回のこの試乗体験を通じて)実証出来れば、の話であるが。

「はい。では、どうかご武運を」

 そう言って深々と頭を下げるシアンに対して、満足気な笑みを浮かべつつ、ゲオルグは自身の聖印を掲げ、そしてその「亀型乗騎」を手乗り程度の大きさにまで縮小した上で、マントを翻してその場から立ち去って行った。シアンの指し示した地図を頭に思い浮かべながら、彼はラキシスの居城を後にする。

「さて、見極めさせてもらおうか。色々とな」

1.6. 悩める次男坊

 こうして、ブレトランド各地から多種多様な人々がこのヴァレフール東南地方へと近付きつつある中、アキレスで留守居役を務めているトオヤの元に、マキシハルトからの客人が訪れた。実弟のロジャーである。

「兄上、折り入ってお話があります」

 祖父の代役として執務室に鎮座していたトオヤに対して、ロジャーはいつになく真剣な表情でそう告げた。

「どうした?」

 何事かと思ったトオヤがそう問いかけると、ロジャーは思いつめた瞳でこう言い放った。

「兄上、結婚して下さい!」

 突然のその申し出に対して、トオヤは一瞬困惑しつつ、至極まっとうな質問を投げかける。

「…………誰と?」
「ドルチェ隊長とです。いや、別に、ドルチェ隊長でなくてもいいんですが、とにかく、今、兄上が結婚してくれないと困るのです」
「なぜ?」
「体面上、どうしても必要なのです」
「いや、すまない。色々と過程を飛ばしすぎだ。ちゃんと説明してくれ」
「説明出来ないんです。まだまとまっていないから。しかし、まとまりかけてはいるのです」
「何が!?」

 全くもって要領を得ない弟の言い分に対して、当然のごとくトオヤは困惑する。そんな兄の様子を目の当たりにしたロジャーは、思わずため息をついた。

「そこは察して下さいよ、兄上〜」
「いや、待て。悪い。今、俺はすごく混乱している」
「分かりました。では、質問を変えます。ドルチェ隊長と結婚する気はあるのですか?」

 その質問に対しては、トオヤは素直に即答する。

「あるよ」
「では、それはもう公的に発表して構わないのですね?」
「俺は構わないと思ってるけど」
「分かりました。では、その方針だということは確認しましたので、今日のところはそれで良しとします」
「いや、待て。何があったんだ?」
「色々あるんです! 私にも!」
「ちょっとお前、おかしいぞ!」

 そんな兄弟のやりとりが繰り広げられている中、一人の女性が執務室に現れる。その手元には手提げ型の小さな網籠の取っ手が握られていた。

「あ、すみません、ちょっとよろしいでしょうか?」

 彼女の名はヴェルナ・クァドラント。先日のブラフォード動乱の後、チシャの末弟ラファエルを警護するような形でマーチからヴァレフールに入国した、就職活動中の時空魔法師である。彼女は元来、セシルの契約魔法師候補としてマーチ村で実地研修の任についていたが、もともとチシャとは魔法大学時代の友人であったこともあり、なりゆきでトオヤ達に味方してブラフォード側の陰謀を潰すことになってしまった都合上、そのままケイに居座り続ける訳にもいかず、今もラファエルと共になし崩し的にアキレスに滞在することになっていたのである。

「領主代行様は甘いものがお好きだとお聞きしましたので、こちらでしばらくご厄介になってたお礼に、異界のクレープを作ってみました」

 そう言って彼女は網籠をトオヤとロジャーに見せる。そこには確かに、見るからにトオヤが好きそうな、生クリームがふんだんに盛り込まれたクレープがあった。

「ほう、これは嬉しいな」

 そう言いながらトオヤはそのクレープを手に取り、口元へと運ぶ。次の瞬間、彼の味覚はこれまで体験したことのない特殊な感覚に囚われた。それは言うならば、身体の内側から邪竜の吐息を口内や食道の全域に吹きかけられたかのような、全くもって未知の衝撃であった。トオヤは一瞬にして遠ざかりそうになった意識を、その強靭な精神力によって奮い立たせながら、どうにか正気を保つ続ける。

「あれ? 領主様、どうしたのですか? 顔色が悪いですよ?」

 心配そうに声をかけるヴェルナに対して、トオヤがどう答えるべきか迷っていると、彼の隣で同じクレープを口にしたロジャーが、顔面蒼白になりながら無言で倒れ込んだ。トオヤが、今の自分達の身体に何が起きているのかを理解出来ないまま、言葉を失って立ち尽くしていると、やがて誰かが廊下を走ってこの部屋に向かって来る足音が聞こえる。

「トオヤ兄さん! ロジャー兄さん!」

 それは、二人の従弟(チシャの末弟)のラファエルであった。彼は「ヴェルナが調理場で何かを作っていた」という目撃証言を聞いて、慌ててこの執務室へと駆け込んで来たのである。だが、現場に駆け込んだ彼は、無残に倒れたロジャーの姿を見て、がっくりと肩を落とす。

「遅かったか……」

 ラファエルはヴェルナに視線を向けつつ、強い口調で訴えかける。

「ヴェルナさん、あの、そういうことは、しなくていいですから!」

 彼はそう言って、そのままズルズルとヴェルナを連れて立ち去って行く。ヴェルナが(チシャに匹敵する才能を持ちながら)未だに契約魔法師として就職出来ていないのは、この「特殊な味覚に基づく料理を皆に振る舞いたがる悪癖」のせいなのだが、彼女自身はそのことを全く自覚していない。同じような光景をマーチで何度も見てきたロジャーとしては、この地で同じ悲劇を繰り返してはならないと彼女を監視していたのだが、つい先刻、その彼の監視の目を破って、彼女がこのような「善意の凶行」に至ってしまったのである。

「ロジャー! 気をしっかり保つんだ!」

 ようやく理性を取り戻したトオヤは、そう叫びつつ、聖印を掲げてロジャーの心身に治療を施すと、どうにか彼も目を覚ました。

「あれ……? 兄上……、今、私、何の話をしてるんでしたっけ……?」
「大丈夫か? 前後の記憶が飛んでいるのか?」
「何でしたっけ……? 兄上と結婚する話でしたっけ……?」
「ちょっと待って! 助詞が違う!」

 朦朧とした意識のまま、ロジャーはフラフラとした足取りで立ち上がりつつ、部屋から退室しようとする。

「少し……、外の空気を吸ってきます……」
「あぁ。お互い、落ち着いたら話をしよう」

 そう言ってロジャーを見送るトオヤは、必死で今の「味覚の衝撃」を記憶から消し去ろうと試みつつ、改めてロジャーの話を思い返しながら首を捻る。

(結局、どういうことなんだ?)

 この時、彼が言おうとしていたことの真意にトオヤが気付くのは、もう少し先の話である。

1.7. 苗木と薬

 同じ頃、チシャの元にはドギ・インサルンド(の姿に擬態している彼の元侍女のキャティ)が訪ねてきた。その手には、小さな薬瓶が握られている。

「チシャ、ちょっと聞きたいんだけど、この薬って、怪しい代物ではないかな?」

 あくまでも「ドギ」としての物腰でチシャに対して提示したその薬瓶の中には、明らかに魔法薬と思しき何かが入っていた。チシャが蓋を開けて、その中の匂いや形状を確認してみたところ、特にそれほど強力な混沌の気配は感じないため、格別危険な代物とは思えないが、チシャは生命魔法や錬成魔法に関しては専門ではないため、確証は持てない。

「見たことがない薬ですね……。どこでこれを?」
「差出人不明の小包として届いてたんだけど……、あ、でも、その前に『あれ』を見てもらった方がいかな」

 そう言って「ドギ」は、チシャをアキレスの城の裏庭へと連れて行く。そこで彼はチシャに対して、一本の小さな木を指差した。

「あ、それは……」

 チシャには分かる。そこにあったのは一本の林檎の木である。まだ苗木だが、それは確かにチシャがドギ(とその場に同席していたキャティ)に読み聞かせていた図鑑の中に描かれていた代物であった。

「実はあれから、貯めてたお金を使って、大陸の方から取り寄せたんだよ。せっかくチシャに教えてもらったし、この地でも育つかどうか、試してみたくて」

 ある意味、それはドギ(キャティ)にとっては「ドギ(本物)の志を受け継ぐための決意表明」でもあった。そんな「ドギ」の元に、謎の人物から「林檎の木を育てるのによく効く肥料」として、上述の「謎の薬瓶」が送られてきたらしい。

「その林檎の木を植えてることを知ってる人って……?」
「そう。それが分からないんだよ。別に秘密にしている訳じゃないんだけど、特に誰かに話してる訳でもないんだ。お爺様も、他の城の人達も、あまり興味なさそうだったし。だから、もしかしたらチシャの知り合いなのかと思ったんだけど……」
「いえ、私は特に誰にも……。ですので、誰から送られた物なのかは分かりかねます。 薬自体は、怪しいものではないと思うのですが……」

 とはいえ専門家ではないので、はっきりと断言することも出来ない。そんな中、チシャの魔法杖に通信が入った。義弟のサルファからである。

「先輩、ちょっと今、お時間よろしいですか? ちょっと長くなるので、忙しいならかけ直しますが」

 そう言われたチシャは(特に現状が急ぎの用件という訳でもないので)ひとまず「ドギ」との会話を打ち切り、彼とは別れた上で、サルファからの通信に応じる。すると、彼は唐突に「今更な質問」を投げかけてきた。

「今、トオヤ様の契約魔法師って、先輩だけですよね?」
「そうですね。今、ヴェルナ様がこの地に滞在してはいますが……」

 実際、ヴェルナにとってトオヤは契約相手の候補として十分に考慮すべき選択肢ではある。今のトオヤであれば、複数人の魔法師を雇う権利は十分にあるし、チシャとは専門の異なる時空魔法師の彼女が「第二の契約魔法師」としてその傘下に加われば、大きな力にはなるだろう(もっとも、今この時点で執務室で起きている惨劇を踏まえた上で、あえてトオヤの側から積極的に勧誘に動くことはないであろうが)。

「立場的に言えば、他に何人かいてもいいですよね?」
「そうですね。既に子爵級の聖印となっていますし」
「どうでしょう? 錬成魔法師の需要はありますでしょうか?」

 サルファのその口調は、明らかに「自分」を売り込もうとする言い回しであった。彼の専攻は錬成魔法であり、その中でも彼は特に薬剤調合の専門家として知られている。

「確かに、いてくれれば心強いですね」

 実際、先刻の状況はまさに「薬学専門の錬成魔法師」を必要としていたところであった。とはいえ、今のサルファはトオヤの実弟ロジャーの契約魔法師の筈である。

「まだ不確定な話なので、はっきりとは言えないのですが、『今契約している相手』から、解約されるかもしれない話が出ていまして。あ、いや、別に喧嘩別れではないんですよ。むしろ仲は改善される可能性が出てきたというか……」
「改善?」
「いや、その、ウチの君主様、ドルチェ隊長にフラれて以来、ちょっと拗ねてたんですが、最近ようやく立ち直れそうになってきたというか、それに関係して……」

 サルファもサルファで、何が言いたいのかよく分からない話を展開していたのであるが、彼がそこまで言いかけたところで、突然、魔法杖の向こう側から、誰かが彼に対して話しかけている声が聞こえてくる。

「あ、ごめんなさい、ちょっと待って下さい!」

 サルファがそう言って、しばらく会話が途切れた後、再び彼の声が聞こえてくる。どうやら、彼の元に緊急の連絡が入ったらしい。

「すみません、ウチの君主様に、すぐ帰って来るように言って頂けますか?」

 唐突なその申し出にチシャは困惑する。彼女は、そもそもロジャーがこの地に来ていること自体、聞かされていない。

「え? あぁ、はい」
「ちょっと怪しげな、魔境っぽいものが出現したらしいので」
「分かりました。では」

 そう言って魔法杖通信を切ったチシャは、ロジャーを探すためにひとまず城へと戻ろうとするが、そんな中、ロジャーが(まだ微妙に気分が悪そうな表情を浮かべながら)庭を散策しているのを見かける。

(私はさっき、兄上に何を話そうとしていたのだろうか……)

 まだ記憶が朦朧とした状態のまま、呆然とした瞳で虚空を見上げていたロジャーに対して、チシャは声をかける。

「あ、ロジャーさん。マキシハルトの方で『魔境みたいなもの』が出現したらしいですよ」

 さすがに「魔境」という言葉を聞いて、ロジャーは一瞬で我に帰る。

「そ、そうですか! 分かりました。では、今すぐ帰還します!」

 こうして、ロジャーは結局、トオヤに対して「伝えるべきこと」を何も伝えないまま、アキレスを後にすることになるのであった。

1.8. 二度目の来訪

 その数分後、同じ城の裏庭の反対側を散策していたドルチェの目の前に、「トオヤ」が現れた。しかし、その様子が明らかにトオヤではないことに、彼女はすぐに気付く。彼女の目の前にいるのは、明らかに彼女の「同業者」である。そのことを察した上で、あえて彼女は平然とその「トオヤ」に向かって声をかけた。

「やぁ、どうしたんだい、トオヤ?」
「ドルチェ、実は折り入って話があるんだ。俺達の将来について、そろそろ真剣に考えるべき時が来ているような気がする」

 そう言いながら、「トオヤ」は懐からチョコバナナクレープを取り出す。

「俺としては、そろそろ正式に俺達の関係を明らかにした上で、堂々と結婚式を挙げたいと思っているんだが」
「そうだね。そろそろ頃合いかもしれない。いいじゃないか。もともとそのつもりだったんだろう?」
「で、式はどうする? このアキレスの地で開くか、それとも、ドラグボロゥか、あるいは、身内だけを集めてタイフォンでテントウムシのサンバでも歌いながら……」
「君はたまに訳の分からないことを言うね。でもまぁ、そこら辺は、君の立場の問題もあるんじゃない?」
「そんなことは気にする必要はない。俺がこうだと決めたことには、誰にも文句を言わせる気はない」
「そうか。ところで、そこで放っておかれてるクレープは? せっかくだから貰っておくけど」
「あぁ。うん、そうだな」

 そう言いながら「トオヤ」がクレープを差し出そうとすると、ドルチェは首を横に振る。

「そうじゃないって。ほら、『いつも』みたいに食べさせてよ」

 これに対して、「トオヤ」の思考の中では何通りもの「いつも」の光景が一瞬にして想像された。その中で「彼」は、一番面白そうな「いつも」を選択する。

「あぁ、そうだったな」

 そう言いながら「彼」は「クレープの端」を自分で咥えた状態で、「反対側」をドルチェに向けて差し出そうとする。
 次の瞬間、なかなか戻ってこないロジャーを探しに裏庭に来ていたトオヤが、その光景を発見すると同時に、光の盾を掲げながら猛突進で「トオヤ」に向けて体当たりを仕掛け、その勢いで「トオヤ」は吹き飛ばされる。目の前で起きたその光景を、ドルチェは笑い転げながら眺めていた。

「ナイスタイミングだよ、トオヤ」

 笑いを堪えながらドルチェがそう言ったのに対し、弾き飛ばされた「トオヤ」は、薄着の女性の姿に変わる。それは紛れもなく、数ヶ月前にタイフォンでチシャを相手にほぼ同じことをしようとしていた「ヴァルスの蜘蛛」の諜報員クリステル・カンタレラの姿であった(なお、ドルチェとはこれが初対面である)。

「またアンタか」

 そう言ったトオヤに対してクリステルは苦笑を浮かべつつ、ドルチェに視線を向ける。

「そのリアクションからして、バレてました?」
「いやー、当然」
「さすがに、同業者の目は欺けないかぁ。自信あったんだけどなぁ」

 一切悪びれる様子もなくそう呟くクリステルを呆れ顔で眺めつつ、トオヤはドルチェに視線を移す。

「ドルチェもドルチェで、何やってたんだ?」
「えー? そうだねぇ……、僕がトオヤにやってほしいこと? ほら、なかなかそういうことしてくれないからさ。このままだと『偽物でもいいや』って思っちゃうかもよ?」
「……前向きに検討させて頂きます」
「うん、楽しみにしてる」

 そんな二人のやりとりを眺めて満足した様子のクリステルは、唐突に「本題」を語り始める。

「君主様には以前にもお伝えした通り、今の私は『五年前に皆さんを洞窟へと導いたあの方』の助手のような立場なのですが、そんな『あの方』からの言伝です。『パンドラで最も危険な男が何かしようとしているようだから、気をつけろ』だそうです」
「パンドラで最も危険な男?」
「私に『この力』を与えてくれた人でもあるんですけどね」

 思わせぶりなクリステルのその言い方に対して、トオヤは訝しげな表情を浮かべつつも、そのまま問い続ける。

「具体的に、何が起ころうとしているのかは分かっているのか?」
「あの人は『巨大な投影体を観察すること』が趣味なのです」

 クリステル曰く、その男は「東方の装束をまとい、女性のように長い黒髪で、左右の目の色が違う錬成魔法師」であるらしい。その男が、このタイフォンの近辺の地域に「巨大な投影体」を出現させようと画策しているらしい。

「『そちら』もパンドラと裏で色々と繋がりがあるという噂もありますが、あの男はそういうコトを気にせずに好き勝手にやる男です」

 つまりは、トオヤ達がパンドラの新世界派や楽園派との間でどのような協定を結んでいようとも、その男は気にせずこの地に災厄をまき散らすような凶行に及ぶ可能性は十分にある、ということである。どこまで信憑性のある話かは分からないが、その話を聞かされた以上、トオヤとしては警戒せざるを得ない。

「なるほど。また面倒なことを……。今は大事な時期なのだがな……」
「お二人の将来について?」
「色々と!」

 トオヤが強い口調でそう答えると、クリステルは楽しそうな笑みを浮かべつつ、二人から距離を取りながら頭を下げる。

「では、私はこれにて失礼します。これから西の方で、ちょっとした私用が発生しそうな予感がしましたので」

 そう言って、彼女はアキレスから立ち去って行った。それからしばらくの時を経て、アントリア領(旧トランガーヌ領)のエルマ村に、突如「ユーフィー・リルクロート」を名乗る二刀流剣士が現れることになるのだが、それはまた別の物語である(そしておそらく、それは語る必要のない物語である)。

1.9. 誘拐事件

 その日の夕刻、街の警備のために哨戒していたカーラの目の前に、「仮面舞踏会で用いるような仮面」をつけた一人の少年が現れた。だが、カーラにはそれが何者なのか、一目で理解出来た。人目につかない場所へと来るように手振りで誘導するその仮面の少年に、うんざりしたような顔を浮かべながらカーラはついて行く。そして周囲に誰もいないことを確認したその少年がその仮面を外すと、そこに現れたのは、紛れもなくゴーバン・インサルンドの素顔であった。

「手紙は読んだか?」

 そう問われたカーラは、ため息をつきながら答える。

「まぁ、うん。やっぱり、そうだよね。君しかいないよね、うん」
「あれ? 名前書いてなかったっけ?」
「差出人不明の手紙なんて、読まない人もいると思うよ……」

 カーラはそう呟きつつ、数日前に彼女宛に届いた「差出人不明の手紙」のことを思い起こす。それは「これまでの修行でどれだけ強くなったか確認したいから、一度、トオヤと真剣に手合わせするために協力してほしい」という内容であった(詳細は こちら に掲載)。文面的に、どう考えてもゴーバンが書いたとしか思えない手紙だったのだが、差出人名が書いてなかったことから、様々な可能性が憶測出来た。もっとも、その差出人がゴーバンであろうとも別の誰かであろうとも、カーラにしてみれば「厄介な手紙」であることに変わりはないのだが。

「わりいわりい、忘れてた」

 どうやら、本当に忘れていただけらしい。別に誰かに脅されて書いた訳でもなければ、洗脳されている訳でもなさそうである。屈託無く笑ったその笑顔は、旅立つ前の「実直な少年」のままであった。ただ、それでもこの数ヶ月の間に若干ながらも背は伸び、筋肉も付き始め、まだまだ幼いながらもどこか精悍な風貌を漂わせつつある。彼がこの数ヶ月の間にどのような修行を重ねてきたのかは分からないが、少なくとも身体的には、昔より幾分成長しているように見えた。

「俺、最初はお前にリベンジしようと思ったんだけど、前にトオヤにも言われた通り、色々な所で勉強したことで、俺の聖印はお前に対して相性がいいということが分かった。で、その状況で戦うのは、やっぱりフェアじゃない。やっぱり、俺の力を試すなら、トオヤ相手に試したい」
「……なるほど」

 実際のところ、カーラとしてもその方がありがたい。多少なりとも成長した今のゴーバンが相手となると、カーラの方も少しは本気を出さないと、自分の方が彼の聖印の力によって「浄化」されてしまう可能性もあるし(その場合、彼女の身体の何割が消滅するのかは不明である)、そこで手加減を間違えると、取り返しのつかないことになる。それよりは、トオヤに相手をしてもらった方が、少なくともゴーバンの身の安全を考えるなら、明らかに無難であろう(無論、トオヤもトオヤで、ゴーバン相手に「決め手」となる一撃を与えられるとは思えないのだが)。

「で、まず俺が考えたシナリオは、俺が『正義の味方ジャスティス仮面』としてお前を奪う。で、『返して欲しくば勝負しろ! お前がコイツの持ち主に相応しいかどうか確かめてやる!』と言って勝負を挑もうと思うんだが、これなら、乗ってくると思うか?」

 自信満々でそう語るゴーバンに対して、カーラはまず最初に指摘すべきところから語り始めることにした。

「うーん、とりあえず、名前が、その、ちょっと、どう考えても『子供のお遊び』みたいな名前だよね?」
「そうかぁ。じゃあ、どう付ければいい?」
「てか、誘拐犯って名乗るものかい?」
「うーん、『謎の剣士X』とかならどうかな?」
「……名乗りたいんだね」
「じゃあ、『名を伝えられていない一人の剣士』とか……」
「何をどうしても、何かしら名乗る気なんじゃないか!」
「いや、だってお前、さっき、手紙には『差出人名』を書けって……」
「誘拐犯は書かないから!」
「あ、そうなのか。じゃあ、名乗らずにいこう」

 この時点でカーラは既に疲れ果てていた。そして、思わず小言を呟き始める。

「いやー、内容からして君だとは思ってたけど……、万が一、他の変な相手からの手紙だったらどうしようかとか思ってたんだけどね……、うん、めっちゃ気が抜けたよ……」
「そ、そうなのか」
「色々真剣に考えてたこととか、みんな飛んでったよ! もう! で、どうすればいいんだい!?」

 半ばヤケ気味なカーラに対して、ゴーバンは自分の何が彼女を苛立たせているのか分からないまま、やや困惑しながらも、自分の考えを率直に伝える。

「とりあえず、このままお前が一晩『行方不明』になってくれればいい。決闘場所を指定した上で、俺がトオヤを呼び出して、俺の一撃がトオヤに届くか試したい。一撃だけでいいんだ」
「なるほど……」

 カーラにしてみれば、その頼み自体を叶えることはそれほど難しくはない。そして、いくら成長したとはいえ、ゴーバンの本気の一撃をトオヤが受け止めきれないということも無いだろう。ただ、それはあくまでもゴーバン一人だけが相手ならば、という前提の上での話である。ゴーバン自身には裏表はないにせよ、彼の実直な性格を利用して、ゴーバンごとトオヤを罠に嵌めようと誰かが企んでいる可能性も十分にあり得る。
 そう考えたカーラが、念のためこの場にゴーバン以外の誰かが隠れていないかと周囲を観察すると、少し離れたところ(ゴーバンの後方)から、誰かがここでのやり取りを観察しているような気配を感じる。その方向をカーラが凝視しようとしたところで、そこから一人の女性が姿を現した。ゴーバンの後見人として彼を大陸へと誘った流浪の女騎士クレア・シュネージュである。
 「話が通じそうな人」の存在を確認したカーラは、少し安堵した表情を浮かべる。それに対して、クレアは申し訳なさそうな顔で頭を下げた。

「これは、この子がこの子なりに色々考えた上での提案だ。一度、好きにやらせてみてはもらえないだろうか?」

 そう言われたカーラは、眉間に皺を寄せながら熟考する。そして、一つの妥協案に到達した。

「……『ボクが拘束されている』という『設定』の間、お説教を聞く気はある?」
「説教?」

 ゴーバンは首をかしげる。当然、彼の中では「説教されなければならないこと」の心当たりなど、まるでない。

「色々と懇々とお説教するつもりだから、覚悟しておいてね」
「まぁ、それくらいなら別にいいけど……」

 どちらにしても、幼少期から散々やんちゃ放題だったゴーバンは、説教を聞かされるのには慣れている。より正確に言えば、説教を聞き流すことに慣れている。そんな彼への説教にどれほどの意味があるのかは分からないが、今のカーラにとっては、これがギリギリの妥協点であった。

2.1. 港倉庫の決闘

 こうして「犯人と被害者の合議の上での誘拐事件」が勃発した結果、この日の夜になってもアキレスの城内にカーラが帰って来ることはなかった。その代わりに、一通の手紙がトオヤの元に届けられる。

「お前の剣は預かった。お前が本当にこの剣の持ち主に相応しいかを俺が見極めてやる。今夜、港の第三倉庫の前に来い。ただし、一人でだ。仲間を連れて来た場合、剣の命は無いと思え」

 「剣の命」という奇妙な表現が用いられている時点で、この手紙の差出人がカーラのことを「オルガノン」だと認識していることは分かる。だが、カーラを力ずくで誘拐出来るほどの人物には、トオヤは全く心当たりが無い。

(確かにカーラは帰って来ていないが……)

 奇妙に思ったトオヤが、改めてその手紙の筆跡を確認すると、どうも以前にどこかで見たことがあるような字に思える。「もしや」と思って確認してみたところ、それが明らかにゴーバンの文字であるということが分かった。

(これがただのイタズラならまだいい。許してやろう。だが、もしこれが誰かに脅されてやっているのだとしたら……)

 トオヤは万が一の事態に備え、「最悪の事態」を想定しながら取るべき道を考える。この手紙を自分の元に届けたのがこの城の関係者だとしたら、もしかしたら、今の時点でも誰かに監視されている可能性もある(実際のところは、ゴーバンが馴染みの使用人に頼んで届けさせただけなのだが)。そう考えたトオヤは、ひとまず政務のフリをしてチシャのところへと赴き、彼女を見つけて呼び止める。

「チシャ、今のアキレスのことについて、ちょっと相談があるんだが」
「あ、はい。なんでしょう?」

 トオヤはチシャと執務室に行き、机の上に「手紙」を乗せて、チシャが読める方向に向ける。

「……ということなんだが」

 チシャの目にも、それがゴーバンの文字だということはすぐに分かった。

「で、どう思う?」
「(ゴーバンなら)やりかねないですね……。ただ、カーラが何も言わずに帰って来てないことを考えると、用心はした方が良いかと」
「そうだな。とりあえず、この件は俺に預けてほしい。チシャがどうするかは、任せる」

 トオヤはそう告げた上で、城の兵士達にも下手に勘付かれないよう、薄手の皮鎧だけを着込んだ比較的軽装の状態で港へと向かうことにした。
 一方、チシャはドルチェにこのことを伝えた上で、彼女にトオヤの尾行を依頼することにした。先方が「一人で来い」と言っている以上、敵(?)に気取られずに依頼するには、どう考えてもチシャよりもドルチェの方が適任である。

「……ということで、トオヤ自身にも気付かれないように、尾行をお願いします」
「承った。それくらいなら、お安い御用さ」

 ドルチェがそう快諾すると、チシャはチシャで、二人の留守中に城内で異変が起きないよう、細心の注意を払いながら彼等の帰りを待つことにした。

 ******

 トオヤは城の裏口からこっそり出て、その彼の後をこっそりドルチェが尾行する形で、二人が港へと赴くと、そこに現れたのは(誰が見ても「彼」だと分かりそうな雰囲気の)「仮面をつけたゴーバン」であった。その背中には「カーラの本体」が背負われている。

(まぁ、乗ってやるか……)

 そう思いながら、トオヤはあえて問いかける。

「お前は誰なんだ?」
「俺が正義の……、あ、いや……、誘拐犯には名乗る名前などない!」
「そうか。で、俺がカーラの持ち主として相応しいか見極めると言っていたが、どう見極める気だ?」
「お前はこいつを自分で振るおうともしない。それでもこいつがおまえのことを剣だと認めているのは、こいつが戦い、お前が守る、『二人で一人の騎士』のようなものだから、と言っていた。ならば、こいつと共に戦うに相応しいだけの『守る力』がお前にあるのかどうかを、俺のこの剣で確かめてやる!」

 ゴーバンはそう言いながら、自らの聖印を掲げ、「光の大剣」を作り出す。そして彼はそれをトオヤに向けて振り上げた上で、全力で斬りかかった。それに対してトオヤもまた、瞬時に聖印の力で自身の薄手の装甲を強化する。
 その結果、ゴーバンの閃光のような一撃がトオヤに降りかかり、トオヤはそれを盾で受け止めるが、元の鎧が薄手だったこともあって、彼は若干の手傷を負う。致命傷には程遠いが、それでも以前のゴーバンに比べれば格段に成長していることは疑いなかった。
 だが、その直後に、トオヤは自らの聖印の力で「その身に生じた僅かな傷」を瞬時に完治させてしまう。

「どうした、今のが全力か?」
「ま、まだまだ!」

 ゴーバンはそう叫びながら(当初の「一撃だけ」という約束を忘れて)更に斬りかかるが、今の一撃で自身の聖印の力をほぼ全て使い果たしていたこともあり、この後の斬撃はトオヤには全く通じる気配がない。それでも何合か繰り返した上で、やがてゴーバンの気力は徐々に枯れ果てていく。

「だめかー!」

 最後はそう叫びながら、彼はその場で仰向けになって倒れ込んだ。その直後、カーラはその場に「擬人化体」を出現させる。

「で、これはどういうことなんだ?」

 トオヤがそう問いかけたのに対し、ゴーバンより先にカーラが答える。

「あー、うん……、この忙しい時に、ごめんね」
「いや、それはいいんだが……、ゴーバン、どういうつもりだ?」

 改めてそう言われたゴーバンは仮面を外し、神妙な上目遣いで問いかける。

「いつから……、気付いていた……?」
「手紙を貰った時から」
「なんだよー、バレてたのかよー」
「心配させやがって。お前なぁ……」

 どうやらゴーバンの背後に特に怪しい気配は感じられないと察したトオヤは、少し気の抜けた声でそう呟く。その傍らで、カーラは再びゴーバンに説教を始める。

「だから、手紙は別の人に書いてもらった方がいいとあれほど……」
「だって、『あの人』に書いてもらったら、女文字になっちゃうだろ?」

 そう言いながら、ゴーバンが少し離れたところでこの様子を見守っていたクレアに視線を向けると、彼女は(先刻のカーラに対する時同様に)姿を現し、トオヤに対して語りかける(なお、反対側の物陰からこの様子を確認していたドルチェは、既に彼女の存在に気付いていた。それ故に、ドルチェも安心してトオヤとゴーバンの対決を傍観していたのである)。

「すまない。だが、どうしても自分でやってみないと分からないこともある。『本気で戦ってもらうにはこれしかない』と彼は言っていたんだが……」

 クレアはそこまで言ったところで、トオヤの装備が明らかに(守護型聖印の持ち主としては明らかに)「軽装」であることに気付き、ゴーバンに対して視線を向ける。

「それでも、本気では来てもらえなかったようだな」

 そして、その「本気でもない状態のトオヤ」に、自分の本気の猛攻が完全に封殺されてしまったゴーバンは、さすがに落胆する。

「正直、俺もだいぶ強くなったと思ってたんだけどなぁ……」

 気落ちした様子のゴーバンに対して、トオヤは真剣な表情で語りかけた。

「いや、確かに、最初の一撃は俺でも防ぎきれなかった。確かにお前は成長している。だが、俺も常に進化し続けている」

 実際、半年前のトオヤであれば、先刻のゴーバンの一撃で相当な深手を負っていただろう。まだ11歳の少年が、ここまでの力をつけたということは、十分すぎるほどの成長である。だが、今のゴーバンにとっては、それでもまだ自分自身に納得は出来なかった。その悔しさを噛み締めつつも、どこかすっきりしたような瞳を浮かべる。

「まぁ、しょうがない。もうちょっと修行しないとダメだな……」

 夜空を見上げながらゴーバンはそう呟きいた上で、トオヤに対して「伝えたかったこと」を語り始める。

「今、俺さ、ヴァンベルグのハルペルって町で、ある人に世話になっててさ。そいつはもともとヴァレフール出身で、母ちゃんの知り合いらしいんだけど。そこでいろんな連中と会って、ヴァレフールじゃ見れなかったものが色々見えてきたんだよ」
「そうか。いい経験になったようだな」

 トオヤがそう答えると、クレアが申し訳なさそうな声色で口を挟む。

「本来なら、私が世話をするという話だったんだが、あの後、危険な任務に向かうことになって、連れて行く訳にはいかなくなったんだ」

 実際のところ、クレアの武勇を必要としている人々は世界中に沢山いる以上、それもやむなき話ではある。ゴーバンもそのことは納得した上で、ハルペルで武芸の鍛錬に励んだものの、やはり「親戚筋の異国の王子」に怪我をさせる訳にもいかない以上、本気の稽古にはならない。そこで、腕試しのためにこの地に来たらしい。

「ボクが相手をしても良かったんだけど、何合か打ち合ってる間に、お互いに重傷になると思うんだよね」
「まぁ、そうだな」

 カーラにしてみれば相性的にゴーバンは最悪の相手なので、本気で戦わざるを得ない。それはトオヤにも分かっていた。

「正直、クレア師匠の危険な旅について行けるかどうかの試金石にと思ったんだけど、やっぱり、まだ無理だな。だから、俺はもうしばらく、ヴァンベルグで修行しようと思う」
「そうか。だが、確かにお前の腕は上がっていた。それは間違いない」

 トオヤは改めてそう告げた上で、以前から気になっていた案件について、この機会にゴーバンに問いかけることにした。

「それとはちょっと関係のない話なんだが、ヴァンベルグにいた時に、パンドラの誰かと戦ったか?」
「え? あ、あぁ、まぁ……」

 ゴーバンはそう答えつつ、途中でトオヤの問いの「意味」を理解する。彼がパンドラの構成員の一人に言われた言葉のことが思い出された(このくだりについてはブレトランドの光と闇6参照)。

「もしかして…………、死ん……じまっ……た?」

 「誰が」とは聞かずにそう問いかけたゴーバンに対して、トオヤは淡々と答える。

「いや、まだ生きてる」
「そ、そうか……。よ、良かった……。いや、その、知らなかったんだよ! 俺が斬りかかってから、いきなり『俺はジャック様の側近だ』とかなんとか言い始めて……」
「そのことはあの人は承知の上だったし、そこまで織り込み済みでそういう契約にしたんだから、それはあの人の責任でもあるし、それを見過ごした俺の責任でもある」

 トオヤは淡々とそう語るが、それでもさすがにゴーバンも、少し後ろめたそうな表情であった。なんだかんだで、彼の中では(今では「裏切られた」という気持ちが強いとはいえ)長年にわたって密かに尊敬し続けた「偉大なる祖父」なのである。

「ま、まぁ、その辺はよく分かんないけど……、今、爺さん、ここにいるのか?」
「今はここにはいない。七男爵会議のために、ドラグボロゥに行ってる」

 トオヤのその発言に対して、ゴーバンは少し表情を引き締める。

「そうか。いよいよ、決まるんだな。色々と」
「あぁ」
「で、どうするんだ? お前、レア姉ちゃんと結婚するのか?」
「いや、どうなるんだろうな……。レアの結婚相手についても、多分、今回の七男爵会議で色々と議題に上がるのだろう」

 この点に関しては、少なくとも「今のゴーバンに伝えるべき話ではない」とトオヤは考えていたようである。そんな彼に対して、ゴーバンはゴーバンで「今、自分が伝えるべきこと」を伝えることにした。

「これだけは言っておく。俺は継がないからな。正直、今継いだとしても、誰と戦えばいいのか、分からない。お前は『自分で考えろ』と言ったけど、今の俺では分からない。だから、少なくとも今はまだ継げない」

 それが今のゴーバンの本音である。そんな彼の意思表明に対してトオヤが黙って頷く。実際のところ、今のゴーバンのこの自己評価に対しては、誰も異論を挟む気は無いだろう。なお、実はカーラの中には「皇帝聖印を持たせるなら、ゴーバン殿下みたいな人が良いのかもしれない」という考えもあったのだが、少なくとも今のゴーバンのこの様子を見る限り、混沌が消えた後の世界で社会の混乱を抑えるための力がゴーバンにあると確信出来る根拠は見出せなかった。

「さて、これでもう俺の用事は済んだんだが……、さすがに今はもうこんな時間だし、大陸への船は出てないよな」

 ゴーバンとしては、用事が済んだら早々にヴァンベルグに帰るつもりだったようである。

「泊まるなら、泊まっていけ」

 トオヤにそう言われたゴーバンは、少し迷ったような表情を浮かべる。

「今、俺がこの街の人間に見つかると、バツが悪くないか?」
「それくらいは、どうとでもなるさ」
「というか、実際のところ皆、俺のことはどう思ってるんだ? 無責任だとか、逃げ出したとか、バカだとかアホだとか言われてたりするのか?」
「お前、今更そんなことを気にするようなタマか?」
「……そうだよな。ここは俺が生まれた街なんだから、いつ戻って来てもいいんだよな」
「あぁ。お前が旅立つ時も、そう言ったろ?」

 そんな会話を交わしつつ、トオヤとカーラはゴーバンとクレアを連れて(その様子をドルチェが影から見守る形で)アキレスの城へと帰還するのであった。

2.2. 幼子との再会

 その頃、城に残っていたチシャは、私室で一人気を揉みながらトオヤ達の帰りを待っていた。

(ドルチェがついて行ったから、大丈夫だとは思うけど……)

 彼女が窓越しにそんな思いを馳せていると、スッと彼女の背中の方から、一人の「少年」の声が聞こえる。それは彼女にとっては「聞き馴染みのある声」であった。

「大丈夫だよ。あれは、兄さんの狂言だから」
「ドギさん!?」

 そう言ってチシャが振り返ると、そこにいたのは「かつてのドギ」と同じような姿の(だが片目の色が異なる)一人の少年であった(下図)。その外見そのものは、以前のドギとそれほど変わってはいない。警戒しながら、魔法杖を握って距離を取るチシャに対して、ドギは静かな口調で語りかける。


「ネネが手紙を出してたみたいだけど……」

 チシャは無言で頷いた。確かに先日、チシャの元には実母ネネからの手紙が届いていた。そして、そこには「驚くべき内容」が記されていたのである。
 それは「ドギが新世界派の首領ジャック・ボンキップの支配から心身の自由を取り戻し、今は逆にドギがジャックになりすまして、新世界派を支配している」という手紙であった。にわかには信じがたい話だが、ネネ曰く、現在のドギは、ドギ自身の意志に基づいて、新世界派を利用してこの世界を変えようとしているらしい(詳細は こちら に掲載)。

「君が信じるかどうかは分からないし、信じられないというなら信じなくてもいいんだけど、僕は今もドギだよ。ついこの間まで、僕の魂は僕を抑圧していたジャック・ボンキップという存在に乗っ取られていた。でも、この間、この身体を取り戻したんだ」

 彼のその口調は、確かに昔のドギそのものであった。無論、パンドラの一派を率いるほどの高位の魔法師なのであれば、それを真似ることも容易に出来るかもしれない。だが、チシャは直感的に、今の彼からは確かに「ドギ本人の魂」の気配を感じ取っていた。

「僕の部下と言って入ってきた『よく分からない存在』が、『よく分からない力』で、ジャックを眠らせた。その結果として今の僕がある。だから今、僕は完全にこの身体を取り戻してる……、と言っても、信じてはもらえないかな? まぁ、信じてもらえなくてもいいけど、僕の話を聞いてほしい」

 実際のところ、ドギ自身もその「よく分からない何か」の正体を掴みきれていないため、これ以上の説明は出来ない(その経緯の断片はブレトランドの光と闇7を参照)。正直なところ、自分でも今のこの状況がまだ心のどこかで信じられないという心境でもあった。

「一度僕の精神そのものを乗っ取られたことで、今でも僕の頭の中には、あのジャックという存在が何百年にもわたって蓄積してきた記憶と知識が溜まっている。で、それを見た上で、僕には新世界派がやろうとしていることが、間違っているとは思えない」

 エーラムの魔法師であるチシャを前にして、このようなことを口走るのはあまりにも非常識である。だが、ドギはそれでも「チシャならば分かってもらえる」と信じて、本音を語り続けた。

「この世界の中で多くの君主とその仲間達が、混沌を消し去ろうとして、何十年、何百年も戦いを続けてきた。それでも結局、混沌を消し去ることは出来なかった。だとしたら、混沌は『忌み嫌うべきもの』ではなく、『受け入れるべきもの』なんじゃないか? 僕はそう思うんだ。そのための道を、僕は探して行きたい。魔法師の君なら、分かってもらえるんじゃないかと思ったんだけど……」

 実際、魔法師とは「混沌を消し去る力」ではなく「混沌を制御する力」を極めた者達である。だからこそ、魔法師の中には「全ての混沌を消し去る必要はないのではないか」「混沌と共存しながら今の秩序を維持し続ければいいのではないか」と内心で思っている者も少なくない、とも言われている。だが、それはエーラムの(少なくとも表向きの)方針には反する思想である。あくまでも魔法師は「混沌を消し去る力」を持つ君主を支えて、皇帝聖印の実現を助けなければならない、というのが、エーラム魔法師協会が全世界に対して掲げている理念であった。

「今、新世界派の中で、『僕が僕を取り戻したこと』に気付いている者は殆どいない。もしかしたら、気付いた上で気付いていないフリをしている者もいるかもしれないけど……」

 そう前置きした上で、ドギは話を続ける。

「新世界派の中には色々な人達がいる。何も考えずに短慮で暴れている人達もいる。たとえるなら『兄さんが向こう側に行ったような人達』もいるんだよ……。でも、僕が『一番上』に立った今、そんな粗暴な行為はやめさせる。その上で、少しずつ人々に混沌を馴染ませていきたい。僕は僕のやり方で、この世界を変えていきたい」

 それはある意味、「聖印に拒絶されたドギ」だからこその発想でもある。彼がジャックから身体を取り返すことが出来たのは、確かに「よく分からない何者か」の介入があったからこそではあるが、それまで意識を完全に消失せずに自我を保てていたのは、ドギの中での潜在的な「混沌に支配されない力」の賜物でもある。それがエルムンドの血統であるが故の特殊体質なのかどうかは分からないが、おそらく(もともと混沌から生み出された存在である)聖印を受け取れなかったのも、その力の副作用なのだろう。
 とはいえ、それはあくまでドギ個人の特異体質故の結果であり、全ての人に彼と同じような力が備わっている訳ではない。自分と同じような「混沌に支配されない力」を持たない者達にその力を授けるための方法論の確立にはまだ到底至れていないということは、ドギも分かっていた。

「確かに、その実現に至るまでの間には、また多くの犠牲が生まれるとは思う。でも、それは皇帝聖印を目指す場合でも同じことでしょう? 現にこれまで皇帝聖印を求めて、何十年、何百年も殺し合いを続けてきた。その先に未来があるとは僕は思えない。ならば人々に混沌を馴染ませるために少しずつ、人々が混沌の世界の中で生きていける未来を、僕は作っていきたい」

 彼が言うところの「犠牲」には様々な意味が含まれている。被験者本人の意に沿わない形での危険な人体実験を許すつもりはないが、その技術の確立を良しとしない者達(主に君主達)との衝突は、おそらく避けられないだろう。その中に「実の兄」が含まれていることも、当然彼は自覚している。場合によっては、自分を育ててくれた祖国そのものを完全に敵に回すことになるかもしれない、ということも覚悟していた。

「でもね、正直、『この秘密』を共有出来る人が誰もいない状態というのは、辛いんだ。『僕にこの身体を取り戻させた存在』が何を考えているのか、僕には分からない。もしかしたら、今の僕をも利用して『何か』を企んでいるのかもしれない。だから、ある意味『彼女』には感謝はしているけど、信用は出来ない。だから今、僕としては『僕が今一番信用出来る存在』である君に、僕と一緒に来てほしい」

 それは「9歳の少年」としての彼の、今まで誰にも見せたことのない本音であった。今の彼が本気になれば、チシャを魔法の力で強引に誘拐することも可能だろう。洗脳して自分の言いなりにすることも出来るかもしれない。だが、それでは意味がない。あくまでも今の自分と同じように、自分自身の意志でついて来てくれなければ意味がない。今の彼にとって必要なのは、チシャの身体でも能力でもなく、あくまでも「心」なのである。

「君がトオヤのことを大事に思ってることは知ってる。そのことは分かった上で、それでも、君には僕の近くにいてほしい」

 チシャはその気持ちを真正面から受け止めた上で、ひとまず構えていた魔法杖を下ろす。その上で、自分の約半分の年齢の少年からの真剣な訴えに対して、彼女もまた真剣に考えた上で、結論を伝えた。

「『混沌と共存出来る道がある』という考えは私にも分かります。ただ、ごめんなさい。私はそれでも、トオヤ達と一緒に、トオヤの目指す道を共に歩んでいきたい」

 ドギにとっては、その答えも想定内であった。その上で、彼はあえて問いかけた。

「じゃあ、トオヤの目指す道って、なに? 皇帝聖印を作ること?」
「トオヤは、皇帝聖印のために争い、血が流れるくらいなら、皇帝聖印なんていらない、と考えています」

 先日のガスコインとの対談において、トオヤは確かにそう言った。そしてチシャも、その考えを理解した上で、彼を今後も支えて行くと心に決めていた。

「じゃあ、彼の考えとしては、今のままでいい、ということなの? この世界をどうにかしなければ、また混沌災害は起きる。また人は死ぬ。それをどうにかしたいと、彼は思っていないの?」

 実際のところ、トオヤが目指している道の具体像は、チシャにもまだ見えていない。そしておそらく、トオヤ自身にもまだはっきりとは描けていないのだろう。
 チシャが回答に窮していると、ドギもまた少しバツが悪そうな顔を浮かべる。

「いや、違うな。これは君に聞くべきことじゃない……。君自身は、どうすべきだと思っているの?」
「私自身……」

 それもそれで、チシャとしては回答に困る質問である。契約魔法師として、君主の道を支えることを使命として生きてきたチシャにとって、それはあまりにも重すぎる質問である。だが、確かにそれは、いずれチシャ自身がはっきりと定めなければならない「チシャ自身の道」でもあった。勇気を振り絞って心を晒した少年からの問いに答えるべく、チシャもまた必死で「今の自分の考え」を言葉にしようと試みる。

「今までは、それを食い止めるのが君主や魔法師だと思っていました。それを未然に防ぐことが出来るなら、確かにそれは……」

 なんとか自分の考えをまとめようとするチシャであったが、困惑した状態の今のチシャでは、やはり明確な答えは出せない。
 しばしの沈黙が続いた後、ドギが再び口を開く。

「まぁ、急にこんな話をされて、君が混乱しているのも分かる。だから、少し待つよ」

 ドギはそう言いながら、即座に自分の周囲に「魔法陣」を出現させる。それが瞬間転移の魔法であることはチシャにはすぐに分かった。

「あ、そうそう、トオヤにちょっとしたプレゼントを僕の方から用意しておいたから。そろそろ形になってる頃だと思うけど、取り扱いには注意してね」

 そう言い終えると同時に、彼の姿はチシャの前から消え去った。それから程なくして、ゴーバンとクレアを連れたトオヤ達が帰還するが、チシャはドギのことは誰にも告げないまま、心の奥底で一人葛藤を続けるのであった。

2.3. 仮面楽団

「Hello! アキレス! こんにちは!」

 翌朝、アキレスの港町にローズモンドからの客船に乗って「ジェニー」と名乗る女性に率いられた「仮面楽団」が上陸した。彼女達は早速、港の近くの広場で、道行く人々を相手に演奏を始める。当然、その噂はすぐにトオヤの元へと届けられた。

「領主代行様、港に『怪しげな仮面楽団』が現れたようです!」

 伝令兵にそう言われたトオヤは、二日続けて「仮面の人物」が出現したことに困惑していたが、それ以上に「楽団」という言葉が、彼の中で「嫌な予感」をよぎらせていた。

「『怪しい楽士』はいなかったか?」
「あー、えーっと、それを率いていたのは、怪しいといえば怪しい楽士でしたね。何やら珍しい弦楽器を持っていて……」

 「弦楽器」と聞いた瞬間、トオヤの中では「紅のヴァイオリン」を手にした地球人の姿が思い浮かぶ。

「アイツか!」

 激昂するトオヤの横で、カーラが声をかける。

「……ボクが見てこようか?」
「あぁ。俺も行く」

 カーラとしては、トオヤと直接会うことによる刃傷沙汰を避けようという考えだったようだが、トオヤとしては、もしその学士が「彼」だったとしたら、一発ぶん殴らなければならない、という使命感を抑えられずにいた。
 だが、二人が港の広場へと近付いていくと、そこから聞こえてくるのは、ヴァイオリンではなくギターの伴奏に乗せた「女性の歌声」であった。

「あれ? これ、違うんじゃない?」

 カーラはそう呟く。それはさほど上手くはないが、確かに聞く者の心を動かすような旋律であり、何かしらの「特別な力」を感じることは確かだが、少なくともあの地球人が奏でていたような「魔歌」などの類いではない。それでも念のため、二人はそのまま広場へと向かい、楽団の全容を確認する。その中には「あの楽士」の姿は見当たらなかった。

「なんだ、別人だったのか。まぁ、それなら良かった」

 トオヤはホッと胸を撫で下ろす。一方、カーラはまだ少し訝しげな様子である。

「でも、『仮面楽団』ってのはさすがに……」
「変な連中ではあるが、害は無さそうだから問題はないんじゃないか?」

 実際、住民達は彼女達の演奏に対して笑顔で聞き入っており、特に危険な雰囲気は感じられない。そして、演奏がひと段落して人々が拍手喝采を送っている中、群衆の中にトオヤがいることに気付いた観客達がザワつき始めた。そんな彼等の様子から「街の偉い人」が現れたらしい、ということが「ジェニー」にも伝わる。

「挨拶に行かなきゃ!」

 演奏がひと段落したところで、彼女はそう言いながらトオヤ達に向かって走り出す。

「こんにちはー!」
「あ、あぁ。なかなかいい演奏だった」

 突然走り寄られたトオヤが少し驚いているのも気にせず、彼女はそのまま問いかける。

「えーっと、どなた様が領主様ですか?」
「私だ」

 正確に言えば「領主代行」だが、そこまで細かく説明する必要もないだろう。

「いい国ですね、この国。 これから私、ドラグボロゥに行きたいんですけど、どういうルートで行けばいいですか? 一応、私、こういうものなんですけど」

 そう言いながら、彼女は「招待状」をトオヤに見せる。

「あぁ、ロートス殿のお知り合いだったのか。ドラグボロゥに行くのであれば、今なら陸路で……」

 そこまで言いかけたところで、カーラが割って入る。

「あるじ、ストップ! 今は陸路で行こうとすると、マキシハルトで混沌災害が……」

 昨日の時点でカーラはチシャからその話を聞かされていた。今のこの状況では、客人に危険な道を進める訳にはいかない。
 無論、マキシハルトを経由しない道筋でドラグボロゥに辿り着く道もあるのだが、トオヤとカーラがその選択肢を考え始めたところへ、今度は「(トオヤの本拠地である)タイフォン軍の兵士」が走り込んで来た。彼はトオヤの直属の兵士であるが、今回のアキレス駐留軍には含まれていない。タイフォンで留守の警護を任されていた筈である。

「領主様、こちらにいらっしゃいましたか!」

 見たところ、かなり慌ててトオヤのことを探し回っていたらしい。

「どうした? 何かあったのか?」
「領主様の館の裏の辺りに、奇妙な建物のようなものが出現しまして……」

 その話を聞いたカーラは、直感的に「一つの可能性」を思い浮かべる。

「『祠』が大きくなったのかな?」

 トオヤの館の裏にはには、確かにウチシュマの築いた祠がある。

「最初はそうかと思ったんですけど、あの神様は『知らない』って言ってるんですよ」
「やってないというなら、あいつじゃないんだろう」

 トオヤの中では、その程度には彼女のことは信用しているらしい。では、果たして何が原因なのか。ここでカーラが、あることを思い出す。

「あそこは確か『蛇の神様』が出てきたところだよね?」
「ということは、また同じ奴が出てくるかもしれない、ってことか?」

 可能性は無いとは言えないだろう。「同じ奴」では無いとしても、「同じくらいの混沌核を持つ何者か」が再出現する可能性は十分にある。「混沌」とは基本的に法則性などとは無関係に出現するものだが、それでも(ムーンチャイルドのように)「混沌災害が起こりやすい地域」が存在する以上、「タイフォンの領主の館の裏庭」が、蛇神の混沌核の残滓によって、そのような空間となってしまっていたとしてもおかしくはない。

「帰った方がいい?」

 カーラがそう聞くと、トオヤは即断する。

「そうだな。これは早急に対処した方がいい」

 彼はひとまずその兵士に先に帰還させ、館の周囲に住んでいる住民達を避難させるように指示を下す。そんな彼の横で、一通りの話を聞いていた「ジェニー」は、ひょっこりと首を出した。

「魔境ですか? 私もお手伝いします!」
「いや、しかし……」
「大丈夫。私、慣れてますから!」

 実際、日頃から彼女は「魔境の隣」で生活しているようなものである。さすがにそのことまでは説明出来ないが、ひとまず彼女は自分の手の甲から「聖印」をその場に出現させる。

「あぁ、君主の方でしたか」
「はい。ジェニーと言います」

 ここで正体を明かす訳にはいかないので、彼女はそう名乗ったが、その聖印が一介の騎士級ではない(少なくとも男爵級以上)の聖印であることは、トオヤにはすぐに分かった。そこから、おそらくは相当な実力者であろうことも推察出来る。

「確かに、あなた方がドラグボロゥに向かうには、どちらにしてもタイフォンを通らない訳にはいかないでしょう。下手をすると未知の混沌に遭遇することになるかもしれませんが、よろしいですか?」

 トオヤのその忠告に対して、「ジェニー」は無言でコクコクと激しく頷く。

「では、申し訳ないですが、お力をお借りします」
「こんないい国を守るためだったら、いくらでも!」

 彼女の中では、笑顔が溢れる国は(自国との関係にかかわらず)全て「いい国」らしい。ましてや自分の演奏に対して好意的な拍手を送ってくれていた人々がいる国なら、問答無用で彼女の中で「救わなければならない国」となるのも当然である。こうして、予期せぬ形でトオヤは(一時的とはいえ)「現在のブレトランドで最強の軍楽兵団」を味方に引き入れることになった。

 ******

 その上で、トオヤは自分の留守中のアキレス軍の指揮権は、ゴーバンに委ねようと考えた。ゴーバンの本音としては「魔境討伐」について行きたかったが、今の自分の為すべきことを考えた上で、短く答える。

「留守は任せろ!」
「分かった。頼もしくなったな」
「まぁ、俺もこの街には散々世話になったからな。次にいつ戻って来れるかは分からないから、少しでも恩を返せる時に返しておきたい」
「突然ですまないが、 任せるぞ。あと、一応、連絡役および相談役として、こちらのヴェルナさんを頼ってくれればいい」

 昨日のこともあり、トオヤとしては「ヴェルナには早々にエーラムに帰ってもらった方が良いかもしれない」という思いもあったが、この状況下において、チシャと直接連絡が可能で、しかもチシャと同等(あるいはそれ以上)の実力を持つ彼女がこの地に残っていてくれることは、色々な意味で頼もしい。

「ただ、『彼女の作ったもの』は絶対に食べるなよ。命が惜しかったら絶対に食べるなよ。俺は最近、治療に関する知識を得ていたから助かったが、いいな、絶対に食べるなよ!」
「あ、あぁ、分かった」

 トオヤのその忠告を聞き入れたゴーバンの横で、共にこの地に残ることになったラファエルは「今度こそ悲劇の再発を防がねば」と意気込む。
 そして、クレアもひとまずこの地に残って、ゴーバン達を補佐することになった。一人の騎士としての実力は、この場にいる者達の中では彼女が間違いなく最強だが、あくまでもそれは個人としての武勇であり、指揮官としての能力に関しては(本人曰く)素人である。それに加えて「この街の人々は、ゴーバン殿が総大将の方が士気が上がるだろう」という彼女の判断から、あくまでも「ゴーバン傘下の一騎士」として振る舞うことにした。

 ******

 一方、まだ「昨日の話」を少し引きずっていたチシャのところに、レヴィアンの契約魔法師であるロザンヌからの魔法杖通信が届く。それは(先日ベルカイルから伝えられていた)「半月前にヘリオンクラウドが出現した地点に『魔境の入口』が出現した」という報告であった。

「My Lordが既にその地に向かってはいますが、先遣隊としてのお義姉様達が行方不明となっていることからも、かなり厄介な魔境なのかもしれません。もし何かあったら、ご助力をお願いするかもしれませんが、よろしいでしょうか?」
「分かりました。ご連絡、ありがとうございます」

 チシャはそう答えつつ、マキシハルトでも魔境が出現したらしい、ということをロザンヌに伝える。それに加えて、トオヤから「タイフォンでも謎の建物が出現した」という話を聞かされたチシャの中では、(昨夜のドギの最後の発言もあって)更に「嫌な予感」が頭をよぎるのであるが、今は何もはっきりとしたことが分からないまま、ひとまずトオヤ達と共にタイフォンへと帰る準備を進めるのであった。

2.4. 現地軍との合流

 一方、マキシハルトに到達していたインディゴ達は、ひとまずは情報を集めるために町の人々から話を聞き込んでいた。まだこの時点では領主であるロジャーが不在だったためか、住民達の様子はどこか不安気に見える。

「どうかされましたか?」

 魔法師協会の制服を着たインディゴがそう問いかけると、村人は首を傾げながら問い返す。

「あなたは……、どこかの高名な魔法師様でしょうか?」
「高名というほどではありませんが、魔法師です」
「実は、よく分からない『混沌の建物』が出現しまして……」

 村人曰く、どうやらその「建物」が出現した場所は、マキシハルトとオーバーハイムの間の街道の近辺らしい。なお、それは数ヶ月前に、暴走状態となったオブリビヨンの面々がしばらく「仮の本拠地」としていた土地でもあったのだが、そのことまではインディゴが知る由もない。

「今のところ実害はないのですが、どことなく不気味な様相で……」

 その村人の目撃情報によると、それは明らかにこの世界の建物ではないのだが、その形状から、何かの「入口」のようにも見える造りとなっており、今のところ魔物などがそこから出現する気配はないものの、それが逆に不気味に思えているらしい。ただ、その「入口」は人間程度の大きさの生き物しか通れそうに無い構造らしいので、そこから(魔法少女が危惧していた)巨大投影体が出現するという可能性は低そうではある。なお、「左右の目の色が違う長髪の男」に関しては、この時点でこの場にいる者達の中で、目撃したという者はいなかった。
 インディゴ達がしばらくそんな実地調査を続けている中、やがてロジャーが帰還し、サルファと共に調査隊を派遣しようとするところで、彼と遭遇することになる。自分の不在の間に「見知らぬ魔法師」が聞き込み調査をしていることに驚いたロジャーは、率直に問いかけた。

「あなたは、どちらの所属の方でしょうか?」
「テイタニアの領主ユーフィー・リルクロートの契約魔法師です。この地で混沌災害の気配があると聞き、調査に来ました」

 情報源については、さすがに説明するのが難しい存在なので黙っていた。また、今の時点でテイタニアに「インディゴ本人」がいることになっているため、ここで立場を明かして良いかどうかは微妙な問題なのだが、下手に隠すと余計に不信感を招くであろうし、遠く離れたテイタニアの現状に関する情報がここまで届く可能性も低いだろう。

「はるばるテイタニアから……? ありがとうございます。我々としても助力が欲しかったところだったので、助かります。ちなみに、ご専門は?」
「静動魔法です」

 正確に言えば、今の彼は「夜藍の時空魔法」もある程度までは用いることが出来るのだが、「専門」と言えるのは、やはり静動魔法である。逆に言えば、静動魔法に関しては、今の彼は現在のブレトランド全体の中でも指折りの実力者であった。

「では、何かあった時はよろしくお願いします」

 ロジャーにそう言われたインディゴ達は、ひとまず彼等と合流した上で、オーバーハイム方面(北西)へと街道を進軍していくのであった。

2.5. 熱帯の魔境

 その数刻後、トオヤ、チシャ、カーラ、ドルチェの四人に率いられた「アキレス駐留軍」は(仮面楽団と共に)タイフォンへと帰還し、即座に「領主の館の裏庭」へと向かう。すると、そこには確かに「奇妙な建物」が出現していた。それは見ようによっては一つの「正面玄関」か何かのようにも見える。
 建物の上部には異界の文字が刻まれており、異界の知識に通じている召喚魔法師のチシャには、それが「地球」と呼ばれる世界における極東の島国の文字だということが分かる。だが、文字を読むことが出来るかどうかと、その内容を理解出来るかどうかは、また別の問題である。チシャの言語知識が間違っていない限り、そこに書かれていたのは以下のような文字列であった。


(熱い川……? 「バナナ」はトオヤが好きなあの果物……、「ワニ」は確か南国の蜥蜴のような生き物だった筈……)

 チシャの中では、この文字列が何を意味しているのか、さっぱり理解出来ない。彼女が困惑した表情を浮かべている横から、トオヤが問いかける。

「チシャ、なんて書いてあるんだ?」
「一つ一つの言葉の意味は分かるんですけど、繋げてどういう意味になるのかは、ちょっと……。異界の建物が丸々投影されてきたようですが……」

 チシャが困惑する中、よく見るとその建物の横に「地図」らしきものが設置されている。その地図によると、彼等の目の前にある建物は「本園・ワニ園」の入口らしい。そして、よく見るとその建物の中には甘味処(ソフトクリーム屋)のような区画も見られる。

「……とりあえず、中に入ってみましょうか」

 この地図だけを見ていても埒があかないと判断したチシャは、トオヤにそう提案する。

「危険性はないのか?」
「異界の動物などがいる可能性はありますが……」

 少なくとも、ここが「ワニ園」なのであれば、そこには「南国に住むと言われる巨大蜥蜴」がいる可能性もあるが、いずれにせよ、その正体は中に入ってみないと分からない。
 意を決して彼等(トオヤ、チシャ、カーラ、ドルチェ、「ジェニー」、および彼等の指揮する兵士達)は建物の中へと足を踏み入れる。すると、その建物の入口を潜ったと同時に、彼等は「特殊な異空間」へと入り込んだことを自覚した。ほぼ間違いなく、ここは「魔境」である。
 だが、魔境にしてはあまり禍々しい気配は感じられない。人の気配は全く感知出来ないが、この建物そのものは明らかに「人間のために作られた建物」であることは、その形状から理解出来るし、トオヤ達に対して害を成そうとする魔物の気配も感じられない。ただ、全体的にこの領域内の気温は明らかに高い。どうやら地下から何か特殊な熱源が発生しているようにチシャには思える。
 そんな中、彼等は更にその「魔境」の奥地へを歩を進めると、そこには巨大な柵で囲まれた「水槽」の中で数多くの「ワニ」が闊歩していた。彼等はトオヤ達の出現には気付いたものの、今のところ敵対的な姿勢は見せていない。
 そんな彼等に対して、最初に反応したのは「ジェニー」であった。

「可愛い動物達だねー」

 彼女は興味深そうな顔でワニ達に視線を送ると、ワニもまた笑顔(?)を見せる。一方、ドルチェは露骨に困惑した表情を浮かべる。

「な、なんだこれは……」

 これまで様々な修羅場をくぐり抜けてきた彼女であるが、このような形で珍獣(?)を大量に人工的な建物の中で飼育(?)している場面に遭遇したことはないらしい。

「どうも肉食っぽいから、刺激すると襲ってくるかもしれないぞ」

 トオヤはそう忠告する。実際、ワニ達の「巨大な口」とその中に生えた「鋭い歯」を目の当たりにすれば、そう判断するのが妥当であろう。

「そっとしておきましょう……」

 チシャはそう言いながら、ひとまず入口にあった「地図」を思い返しながら、その先の建物へと皆を誘導する。エーラムの魔法大学にもこのような形で「異界の珍獣」を飼育している施設は存在しており、召喚魔法師である彼女も何度か訪れたことはあるが、少なくとも建物の構造からして、ここは魔法大学内のそれとは明らかに別の施設である。

(さっきの地図だと、確かこの先は「オオバタン」と書いてあったような……)

 異界の生命体についての知識に詳しいチシャでも、そのような生き物の名は聞いたことがない。警戒しながらその先の区画へと足を踏み入れると、そこにいたのは「オウム」か「インコ」の一種と思しき白い鳥達であった。彼等はガラス張りの空間の中から、侵入者達に対して何かを語りかけるが、それは「元の世界における人間達の用いていた言葉(の模倣)」であったため、トオヤ達には何と言っているのか理解出来ない。

「ちょっとギョロッとしてる……?」

 カーラはそう言いながら、少したじろぐ。見る人によっては可愛くも見える外見だが、あまりカーラの好みではなかったらしい。
 その後もしばらく彼等はこの地の探索を続ける。反対側の区画では「熱帯魚」が飼育されており、その他にも「ワニ達が描かれた様々な商品」などを取り扱っていると思しき小売店のような施設や、何らかの食物を提供していると思しき施設もあったが、どこを探しても「人」の気配はなく、そしてこの魔境を生み出している筈の「混沌核」の気配も感じられない。

「どういうことだ……?」
「魔境ならば、『魔境全体の混沌核』がどこかにある筈じゃないのか?」
「そもそも、ここは本当に『魔境』なのか?」

 兵士達が困惑する中、チシャは改めて入口にあった地図を確認して見る。そこには、今の彼女達がいる「本園・ワニ園」とは別に「本園・植物園」と「分園」が存在することが示唆されている。そして、その別の地へと移動する手段として「マイクロバス」なるものが存在するという旨が記されている。

(確か、地球には「バス」という名の乗り物があると聞いたことがあるような……)

 チシャがそのことを思い出そうとしているところに、「謎の鉄の塊」が、この建物の入口付近へと近付いて来るのが見える。それは、「漆黒の素材で作られた大型の車輪」が回転することによって移動する、アーティファクトの一種のように見える。

「あれは、異界の乗り物ですね。今は中に人は乗っていないようですが、おそらくあれに乗れば、魔境内の別の場所に行けるのではないかと」

 チシャにそう言われたトオヤ達は、半信半疑ながらもその「乗り物」に乗り込んでみることにした。中には人は乗っていないが、次の行き先が「本園・植物園」であると表示されている。どうやら混沌の力によって、定期的に三つの「園」を自動運行する仕組みとなっているらしい。もしかしたら、別の「園」に「魔境の混沌核」があるのかもしれないと考えた彼等は、ひとまずそのままバス(?)に乗って移動する。
 なお、カーラ隊だけは騎兵隊だったので、さすがに馬ごと乗ることは不可能と考えた彼女達は、その横を並走することにしたのであった。その途上、彼女は自分達を含めた「その乗り物が走っている間のその周囲一帯」が何か特別な空間となっていることに、薄々感づいていた。

2.6. 捻じ曲がる空間

 その頃、インディゴ達を加えたマキシハルトの調査隊は、目撃証言に基づいて、マキシハルトとオーバーハイムを繋ぐ街道沿いに出現した「謎の建物」の調査にあたっていた。
 その建物の入口付近にも「熱川バナナワニ園」と書かれた看板が掲げられていたのだが、インディゴにはそれが「地球の文字」だということまでは分かったものの、さすがに意味までは分からない(もっとも、もし仮に読めたとしても、このフレーズ全体の意味は理解出来なかったであろう)。

「ひとまず、中に入って調べてみよう」

 ロジャーがそう提言すると、サルファもインディゴも彼に従って建物の中へと足を踏み入れる。すると、そこから先が明らかに「異空間」となっていることは彼等にもすぐに分かった。
 明らかにここは「魔境」であろう。そう考えた彼等は気を引き締めて周囲を観察するが、魔物が襲ってくるような気配もなければ、人体に悪影響を及ぼすような毒素などの存在も感じられない。微妙に生暖かい空気が広がっていること自体は、入口の外とあまり大差のない「人間が生活出来そうな空間」である。
 やや拍子抜けした様相の彼等が更に奥に足を進めて行くと、そこには様々な檻や水槽が混在し、それらの中に「小型のワニ」「巨大な水棲哺乳類」「魚なのか両生類なのかよく分からない何か」などが封じ込められている。その周囲には、おそらく南方産と思しき多種多様な植物が植え込まれていた。
 これらはいずれも奇妙な形状ではあるが、魔法生物などの類ではなく、おそらくは元の世界における「自然界に普通に生息している動植物」の一種であるようにインディゴには思えた。

「何なんでしょう、ここは? 地球の建物ではあるようですが……」

 インディゴはそう呟きつつ、この空間のどこかに「魔境全体の混沌核」があるのではないかと探っていたが、どこからもそれらしき気配は感じられない。もう一人の魔法師であるサルファもまた、その点に関しては同じ認識であった。
 彼等が困惑する中、やがて「巨大な何か」が近付いて来る音が響き渡る。

「何か来ますね」

 最初に反応したのはインディゴであった。彼等が建物の外に出ると、「鉄の塊」のようなものが近付いて来るのが分かる。サルファは目を凝らしてその正体を確認しようとする。

「なんでしょう? あれは? 材質からして異界の船のようにも思えますが、どうも形状からして船ではないようですし……」

 それ以前の問題として、そもそもここは地上である。そして、その「鉄の塊」に並走する形で騎馬兵達が走っているのを発見したインディゴは、思わず叫んだ。

「あの騎馬兵を率いているのは……、カーラさん!?」
「え? じゃあ、兄上達もここに!?」

 彼等が更に困惑の度合いを高める中、「マイクロバス」は彼等の目の前まで到着し、そして中からは「トオヤ率いるタイフォン軍」と「謎の仮面楽団」が現れる。

「あれ? ロジャー? それに、インディゴさんもいる?」

 トオヤもまた当然のごとく「この状況」に驚きを隠せなかったようで、思わずそう呟く。特にインディゴとは、テイタニアの魔獣騒動以来の再会である。まさかここで遭遇するとは、どちらも想定出来ている筈がない。そして彼に続いてドルチェが問いかけた。

「なぜ君達がここに? まさか、タイフォンの『入口』から入ってきた訳じゃないよな?」

 それに対してインディゴは地図を取り出し、自分達が「マキシハルトとオーバーハイムの間に出現した建物」の内部を調査していたという旨を伝える(冷静に考えれば、そこにテイタニアのインディゴが加わっていること自体が不自然なのだが、それ以上に不自然すぎるこの事態を目の当たりにした今の彼等には、その点にまで言及する余裕はなかった)。
 トオヤ達が「マイクロバス」に乗ってからここに到着するまで、彼等の体感としてはそれほど長い時間は経過していない筈だが、タイフォンから「マキシハルトとオーバーハイムの中間地点」までは、どれだけ急いでも半日以上はかかる筈である。ということは、おそらくその二箇所に現れた「魔境の入口」の内側は、特殊な混沌の力によって結び付けられているのだろう。あるいは(先刻見た地図から察するに)「三つの領域から成り立つ一つの魔境」の入口が、別々のところに空間を捻じ曲げる形で出現した、と考えるべきなのかもしれない。

「ともかく、まずはこの地に魔境の混沌核があるかどうかを調べなければ」

 トオヤがそう言って「入口」に向かおうとしたところで、インディゴが止める。

「あ、いや、ここにはそれらしき混沌核はなかったです」
「なんだと? だとすると、ありえるとしたら、もう一つの領域か……」

 トオヤがそう呟いた直後、「マイクロバス」から(おそらくは事前に何者かの手で録音されていたと思われる)声が聞こえてくる。

「マモナク、出発シマス」

 やむなく彼等は(ロジャー、サルファ、インディゴと共に)再び乗り込む。そして「もう一つの領域」としての「分園」へと向かうことになるのであった。

2.7. 三軍合流

 そして「第三の区画」こと「分園」の前には、レヴィアン率いる(ベルカイルやレッドウィンドを従えた)「第二次カナハ北方草原調査隊」がいた。彼等はベルカイルの先導の下、マルチナ率いる第一次調査隊が突入したと言われる「異界の門」と思しき建物へと到着していたのである。
 レヴィアンには魔法の知識はないが、彼はバランシェの神聖学術院にいた頃に「地球」に関する軍略書を読み漁っていたこともあり(それは「地球」こそが「混沌が無くなった後のこの世界」に最も近い世界であるように思えたからなのだが)、地球に関する知識はチシャ以上に持ち合わせている。だが、その彼を持ってしても、この「魔境」の地図の上に記された「看板」の文字列は理解出来なかった。

「『熱川(あたがわ)』は地名だ。これは分かる。『バナナ』は果物だ。それも分かる。『ワニ』はあの『手強い動物』だ、ということも分かる。だが、この三つの言葉がどう繋がるのかが分からない……」

 困惑するレヴィアンの横で、ベルカイルがふと何かを思いつく。 

「もしや、『バナナワニ』という特殊な動物なのでは?」

 バナナとワニを掛け合わせた動物など、想像も出来ない。あるいは「バナナのような形状のワニ」なのかもしれないが、どちらにしても意味が分からない。

「何が起こるか分からない。注意して進もう」

 レヴィアンがそう言って建物の中に足を踏み入れようとした直後、そこに轟音が響き渡る。それと同時に、レッドウィンド率いる弓兵隊が弓を構えた。

「もしや、あれが『バナナワニ』か!?」

 彼等が矢を向けたその先に現れたのは「マイクロバス」と、その横を並走するカーラ率いる騎馬兵達である。カーラはすぐにレヴィアン達に気付いて馬上で敬礼の姿勢を取ると、レヴィアンもレッドウィンド達を制して、同様に敬礼する。
 そして到着したマイクロバスから降りたトオヤとドルチェは、先刻と同様の反応を見せる。

「あれ? レヴィアン殿がいる?」
「どうやら他にもこの魔境の入口があったようだね」

 トオヤ達にしてみれば「二度目の予期せぬ合流」のため、先刻ほどの驚きはないが、当然のごとくレヴィアンにはこの状況が理解出来ない。

「トオヤ……、お前達は何をやってるんだ?」

 地球の文化や技術に詳しいレヴィアンには、トオヤ達が乗っているこのマイクロバスが「地球の乗り物」だということは分かる。しかも、そのデザインが明らかに「通常の乗り物」ではなく「テーマパークなどに併設されている特殊な目的のためのファンシーなデザイン」だということも推察出来てしまったため、レヴィアンには余計に「今のこの状況」が異様な光景に見えた。

「いや、俺達はこの魔境……、みたいな何かを探索しているんだが」
「魔境ですよ、一応」

 トオヤとチシャがそう答える中、ひとまず彼等はこの「魔境」が「離れた三箇所にそれぞれ入口を持つ、三つの『園』から成る特殊空間」であるという前提の上で、「タイフォン軍(+仮面兵団)」「マキシハルト軍(+テイタニアからの調査隊)」「オーバーハイム軍(+ダイオード残存兵&レッドウィンド隊)」の共同作戦として、ひとまずはこの「分園」の中へと足を踏み入れることにした。

2.8. 魔性の獣

 「分園」内に入った彼等は、まず入口に設置された「園内の地図」を確認することにした。当然、そこに書かれている文字を読めるのはチシャとレヴィアンだけだが、レヴィアンはその中の一角に記されている文字を見て驚愕する。

(香辛料……、だと!?)

 それは、この世界では極めて相当な調味料である。アトラタンでは主にシェンム南部のナユタ地方で生産されているが、それがブレトランドまで届けられる事例は極めて稀であり、高値で取引されていることが多い。もし、この魔境の中でそれが手に入るのだとしたら、この魔境の攻略には当初の想定以上に大きな価値があることになる。
 とはいえ、香辛料の区画はこの「分園」の入口からはかなり遠い。ひとまず慎重に三軍足並みを揃えて奥地へと足を踏み入れていくと、彼等はまず「大量のワニ達が飼育されている区画」を目の当たりにする。トオヤ達にとっては既に見慣れた光景であったが、彼等はそのワニ区画よりも更に奥地の方面から「人」の気配を感じ取っていた。

(もしや、行方不明となった先遣隊か?)

 そう思ったレヴィアン達が目を向けると、その先にいたのは確かにダイオードの兵士達であった。彼等はその場に座り込んで、足元にいる「何か」に対して熱視線を注いでいる。レヴィアンとチシャがその区画に記された看板を凝視すると、そこには「 レッサーパンダ 」と記されていた。
 レヴィアンやチシャの知る限り、それは犬や猫と同じくらいの、特に危険性のない小型の地球産の獣である(アトラタンにも同種の獣がいるのかどうかは不明)。彼等はそのつぶらな瞳でダイオードの兵士達を見つめながら、ある者は頭を兵士達の足にこすりつけ、また別のある者は床の上でゴロンゴロンと寝そべりながら兵士達に愛嬌を振りまく。兵士達は彼等のその姿に心を奪われ、だらけきった表情で彼等を見つめ続けていた。それはまさに(これまでドルチェが「幻影の邪紋の力」を用いて幾多の人々を悩殺してきた時のような)「魔性の空間」であった。
 そして、トオヤの傍らからも新たにこのレッサーパンダの魔力に囚われてしまった者達がいる。「ジェニー」とカーラである。

「かわいい〜」
「もふもふ〜」

 二人は理性を失った目を浮かべながら、レッサーパンダに向かって歩み寄ろうとする。更にインディゴまでもが、その奇妙な生態に学術的興味を惹かれたのか、既に魅了されてしまった兵士達の輪の中に加わろうとしていた。

「待て! 落ち着け!」

 トオヤは彼等の眼前に聖印を掲げることで、その輝きの力でカーラ達を正気に戻す。一方、その「レッサーパンダ区画」の最奥地では、誰よりもだらけきった表情で、レッサーパンダの魔力の虜となってしまった人物がいた。

「あ〜、もう、なんでお前達はこんなに可愛いんだ〜」

 マルチナである。日頃の凛とした彼女からは想像が出来ないほどのデレデレした表情を浮かべた彼女を目の当たりにしたレヴィアンは、哀しい目をしながら彼女の眼前に聖印を掲げる。

「姉上……、目を覚まして下さい……」

 その輝きと実弟の声で、マルチナは数日ぶりに正気を取り戻す。彼女はレヴィアンと目が合った瞬間、激しく頬を紅潮させた。

「レ、レヴィアン!? あ、いや、その…………、こ、ここは、魔境だな! そうだ、魔境だ! 早く、早く討伐しなければ! と、討伐……」

 彼女はそう言いながら、足元のレッサーパンダに改めてチラッと目線を向ける。レッサーパンダは寂しそうな目でマルチナを見つめている。必死でマルチナはそこから目をそらそうとする。

「じょ、浄化を……」

 彼女はそこまで言いかけるが、耐えられずに再び足元に視線を向けてしまう。レッサーパンダは「どこかに行っちゃうの?」「ずっとここにいてよ」と言いたそうな表情を浮かべている(ようにマルチナには思えた)。
 ここで、このままではまずいと考えたインディゴが、映像の魔法を用いて、レッサーパンダ達の周囲に白煙を発生させ、マルチナ達の視界からその存在を消し去る。その結果、どうにか冷静さを取り戻した(かのように見える)マルチナに対して、改めてレヴィアンが問いかけた。

「……とりあえず、ここまでの経緯を話していただいてもよろしいでしょうか?」
「あ、あぁ……。私達は、この地に魔境が出現したと聞いて、浄化しなければならないと思い、ひとまず中に入った。最初に、そこの不気味な『巨大蜥蜴』の集団を発見したのだが、ひとまず襲ってはこないようなので、一旦放置して、奥に入ったところまでは覚えている。だが、そこから先の記憶がないんだ……」

 どうやら、彼等の連絡が途絶えていたのは、この区画のレッサーパンダ達に心を奪われていたことが原因だったらしい。一応、数日分の食料は用意していたので、まだ餓死者は出ていなかったようだが、あと数日レヴィアン達の到着が遅ければ、おそらくこの魔境の中でレッサーパンダ達を愛でながら息絶えていたであろう。
 さすがに弟に対してこのような失態を見せてしまったことに、マルチナは深く恥じ入っていた。その上で、レヴィアンと共に救助に来てくれた各軍の指揮官達にも礼を言おうとしたところで、その中にいたロジャーと目があった瞬間、先刻のレヴィアンに助けられた時以上に、彼女は頬を真っ赤に染め上げる。そしてロジャーもまた、この上なくバツが悪そうな顔をして、思わず目をそらした。それはまるで「恋人に見せたくない場面を見られてしまった女性」と「それを目の当たりにしてしまった男性」のような仕草である。
 その二人の様子から、ドルチェとカーラはなんとなく「事情」を察する。いつの時点から「そういう話」が湧き上がっていたのかは分からないが、この二人の立場や家柄を考えれば、十分に「ありえる話」であろう。どちら側から提案された話なのかは分からないが、内乱集結の象徴として両家の和解を強調する上では、この上ない良縁である。そうだとすれば「次男坊」であるロジャーが、「兄を差し置いて自分が所帯を持つ訳にはいかない」と考えたとしてもおかしくはないし、マルチナの実家が聖印教会派の総本山である以上、彼女の親族に認められるためにはサルファとの契約を切らねばならないと考えるのも、一つの道理ではある。
 だが、肝心のトオヤは、この状況においてもそんな二人の様子には全く気付いていなかった。彼は真剣な表情を浮かべつつ、チシャからこの先の区画に書かれている看板に書かれた文字を聞かされた上で、意を決して次の区画へと足を踏み入れる覚悟を固めていたのである。

「この先はバナナ地区か。それは、向かわなければならないな」

2.9. 異界の特産物

 バナナ区画に入ったトオヤは、眼前に広がる大量のバナナを目の当たりにして、思わず感嘆の声を漏らす。

「おぉ、これは凄いな……」

 一方、ドルチェ達は「以前にトオヤが着ていた鎧の形状」を思い出し、妙な既視感に囚われていたのだが、そんな彼女達の心境など知る由もないまま、トオヤは皆に問いかける。

「これ、持ち帰ることは出来るのかな?」

 既に彼の目が「先刻までのマルチナ」と大差なくなっているような気がしなくもないが、そんな彼に対して、ドルチェが淡々と答える。

「出来なくはないと思うよ。実際、魔境から『混沌の産物』を持ち帰るという話はよくある」

 特にテイタニアなどではそれを目当てに魔境に足を踏み入れる者も多い。問題は、このバナナが「普通のバナナ」かどうかである。一見すると美味しそうに見える果物でも、それが人体に悪影響を及ぼす可能性は十分にありえるのだが、その点に関しては(以前にドギの相談に乗っていた時に一緒に勉強していた)チシャが現物をつぶさに観察した上での鑑定を下す。

「普通に食べられるバナナだとは思います」
「じゃあ、持ち帰って栽培する、という方法もあるな」

 トオヤはそう言いながら、タイフォンにバナナ農園を開く光景を想像するが、気候的にそう簡単にはいかないだろうということをチシャは分かっている。だが、そのことをチシャが指摘するよりも前に、カーラが口を開いた。

「それが出来るなら、あのレッサーパンダを一匹持ち帰りたいよ〜」
「あぁ、それ賛成!」

 「ジェニー」もそれに同意する中、マルチナは毅然とした態度でそれを制しようと試みる。

「いや、混沌の産物を安易に持ち帰るというのは危険ではなかろうか。やはりこの地は一刻も早く浄化を……」

 そう言いながらも、彼女は後方のレッサーパンダ園の方角に向けて、チラチラと未練がましく視線を向けていた。

「姉上……」

 レヴィアンが再び「哀しそうな目」でマルチナを見つめる。一方、ロジャーの中ではそんな「いつもとは明らかに異なる様子のマルチナ」に対して、なぜか好感度が急上昇していたのであるが、そのことを悟られないように、彼はあえて視線をそらす。
 ひとまず「何を持ち帰るか(あるいは、何も持ち帰らないか)」は保留とした上で、更にその奥へと探索に向かうと、そこにはフラミンゴやクロトキ、そしてゾウガメといった、多種多様な動物達が飼育されていた。と言っても、相変わらず飼育員の姿は見えない。かといって、動物達が痩せ衰えている様子もないので、おそらくはこの空間の中で、何らかの特殊な混沌の力によって「餌」が与えられ続けているのだろう。

「本当に色々な動物がいるんだね」

 ドルチェがそう呟いている一方で、その周囲にはパパイヤやマンゴーといった、バナナと同様の南国の植物も兵士達の目を引いている。ただ、そんな中でカーラだけはマンゴーを見た瞬間、なぜか「痒くなりそう」という本能的な恐怖を覚え、そこから遠ざかって行った。
 一方、最奥地まで辿り着いたレヴィアンは、念願の「香辛料」と書かれている植物を見つけるが、本当にそれが食用として適している植物なのかどうかまでは確証が持てなかった。当然、それをブレトランドに持ち帰って移植させることが可能かどうかも分からない。ただ、ここで採取出来る分を持ち帰るだけでも(それがもし食用として有効であれば)大きな財産となるだろう。
 だが、いずれにせよ今は、まず「魔境全体の混沌核」を探すことが先決である。そう考えた彼等は、ひとまずこの分園全体をくまなく探し回ってみたが、やはりどこにも「それらしき気配」は感じられない。チシャ、インディゴ、サルファの三人がどれほど注意深く魔法で探し出そうとしても、その手掛かりすら発見出来なかったのである。
 ドルチェとトオヤは首をひねった。

「どういうことだ? ここにも見つからないなんて……。他に行ける場所はなかったようだが」
「投影されてはいるが、これ以外の施設なり何なりが存在して、これ以外のどこかの施設に混沌核があるのかもしれない……」

 二人がそう呟く中、カーラはふと「マイクロバス」に目を向ける。

「あの乗り物は、混沌核じゃないよね?」

 一応、念のためチシャが調べてはみたが、少なくとも「魔境全体の混沌核」と言えるほどの力は感じられない。

「ひとまず、ちょっと地図を確認してみましょうか?」

 そう提案したのはサルファである。彼は懐からこの地区の地図(下図)を取り出すと、三部隊がそれぞれ「入口」を発見した場所を確認する。「タイフォンの領主の館の裏庭」と「マキシハルトとオーバーハイムの中間地点」と「カナハの北方の草原地帯」の三箇所に共通するのは、いずれもここ数ヶ月の間に「大規模な混沌核の持ち主」(クンダリーニ、ランディ&ビート、イヴィルゲイザー)が闊歩していた地域である。


 この三地域はヴァレフール南東部の山岳地帯を囲うような配置となっており、そして山岳地帯の中心部に位置するムーンチャイルドでも、大規模な「眠りの魔物による混沌災害」が起きていたことは記憶に新しい。更に言えば、ムーンチャイルドの存在する山岳地帯はもともと混沌災害が発生しやすい地域としても有名である。
 もしかしたら、ムーンチャイルドでも同じような現象が起きているのかもしれない。あるいは、かの地こそが『発生源』なのかもしれない。そう考えた彼等は、ひとまず「マイクロバス」で「本園・ワニ園」まで移動した上で、そこからタイフォンへと一旦帰還し、三人の魔法師達の魔法杖通信を通じて、各地の情報を集めることにした。
 それぞれの突入地点へとバラバラに戻る選択肢もあったが、ムーンチャイルドに向かうのであれば直線距離で最も近いのはタイフォンだったため(そしてチシャのペリュトンを用いれば、全員揃って「山越え」による最短距離移動が可能であるため)、今はそれが最良の選択肢と考えたのである。なお、香辛料やバナナやレッサーパンダの「持ち帰り」に関しては、そもそも誰にどこまでの「収獲権」があるのかも微妙な問題のため、ひとまず「後回し」とした上で、タイフォンへの移動が優先されたのであった。

3.1. 巨大ワニ

 その頃、一足先にムーンチャイルドへと近付きつつある一人の君主がいた。ゲオルグ・ルードヴィッヒである。密かにヴァレフールに入国していた彼は、シアンが提示した「円」の周囲において「魔境の入口」らしき建物が次々と出現しつつあるという話を聞いた上で、その「震源地」が(その「円」の中心に位置する)ムーンチャイルドなのではないか、と推測していたのである。
 ひとまずは「飛行亀」を用いて山岳地帯を悠々と飛び越えつつ、村の近くの街道にたどり着いた辺りで亀を降り、亀を小型化して懐に収納した上で、「一介の旅人」のフリをしてムーンチャイルドへと向かうことにした。
 だが、その途上、彼は地中深くで「何か」が蠢いている予感を感じ取った。慌ててそのままムーンチャイルドへと駆け込んだゲオルグは、村に着くと同時に大声で叫ぶ。

「皆、危ない! ここから離れろ!」

 彼のその声を聞いた村人達が何事かと顔を見合わせていると、やがて地中から激しい地割れの音が聞こえてくる。ゲオルグは即座に「飛行亀」を取り出し、本来の大きさに戻した上で騎乗して浮遊状態となると、住民達が混乱する中、やがてゲオルグが走ってきた後方から、地中から 「巨大なワニ」のような魔獣 が出現した。
 その魔獣の全長は、この村で最大規模の建物である領主の館よりも遥かに巨大で、頭部には一本の角が生えていた。ゲオルグは、その怪獣が目の前にいた自分に対して、口から青白い光と共に「何か」を吐き出そうとするのを察知すると、素早く飛行亀を操作してそれをかわすことに成功するが、その直後、避けたゲオルグの後方に存在していた建物が全て一瞬にして「氷結」した。どうやらこの魔獣は強力な「冷凍光線」を吐き出す能力を持ち合わせているらしい。
 おそらく、この冷凍光線を浴びれば、自分も一瞬にして凍り付いてしまうであろうことをゲオルグは実感する。だとすると、一般の村人達を背負った状態では戦い続けることは困難であると察した彼は、改めて大声で叫んだ。

「あの化け物はこの私、ゲオルグ・ルードヴィッヒが引き受ける! お前達はロンドの方面へと逃げろ! そしてタイフォンの領主トオヤ・E・レクナに、救援を求めるのだ!」

 そう叫んだ上で、ゲオルグは反対側のマキシハルト方面へと魔獣を誘導しようとする。そこへ、この地の領主であるバルザックが姿を現した。

「今、ゲオルグ殿とおっしゃったが、『あのゲオルグ殿』か?」
「いかにも。グリース子爵ゲオルグ・ルードヴィッヒだ」
「なぜ貴殿がこのような所に!?」
「『盟友』の危機に駆けつけるのに理由が必要か?」
「……かたじけない! では、我々は住民を連れて避難します」

 バルザックはそう言いながら、怪獣によって踏み潰された建物の残骸を、聖印の力で強化したその身体で次々と投げ飛ばしながら、逃げ遅れた人々を助け出していく。一方、この村を守るもう一人の君主であるクリフトが(「父」である)聖盾ラドクリフを構えて文字通り「盾」となって避難経路を確保しつつ、たまたまこの村を(定例通りに)訪問していた彼の母のストレーガが先頭に立って、村人達を北方へと誘導する。

「うろたえるな! 我がいる限り、何人たりともお前達に危害は与えさせない」

 伝説の傭兵であるストレーガのその叫びで、混乱していた村人達も落ち着きを取り戻し、着実にロンド方面への避難は遂行されていく。そして、バルザックの契約魔法師であるジャミルは、ゲオルグの指示通りに、トオヤの契約魔法師であるチシャへと魔法杖通信を試みていた。
 そんな村の様子を横目に見ながら、ゲオルグは巧みに飛行亀を操作することで巨大ワニ怪獣の吐き出す冷凍光線を避け続けつつ、不敵な笑みを浮かべながら呟く。

「さてさて、『面白い出来事』がまず一つ起こった。では、トオヤ・E・レクナ、レヴィアン・アトワイト、君達の手腕を見せてもらおうか」

 ******

 この時点で既に皆と共にタイフォンへと帰還していたチシャは、ムーンチャイルドのジャミルからの通信を受けて、すぐにトオヤにそのことを伝える。

「『角の生えた蜥蜴のような巨大な魔物』が出現し、ゲオルグ・ルードヴィッヒと名乗る君主が現在一人で応戦している、とのことですが……」
「さすがに、本人ではないだろう」
「そんな筈はないですよね」

 常識的に考えれば、先日のブラフォード動乱以来、ヴァレフールとは「微妙な関係」となっているグリースの国主が、単身でこんなヴァレフールの南部地域にまで現れる筈がない。

「おそらく、通りすがりの君主の方が適当な偽名を用いた上で助けてくれたのだろう。そのことは感謝すべきだが、ひとまずその怪物を討たねば被害は広がる。一刻も早く向かおう」

 トオヤがそう宣言すると、その場にいた者達は概ね同意する。ただ、レヴィアンはどうにも腑に落ちない様子であった。

「しかし、今のこの時勢で、あえてあの『グリースのゲオルグ子爵』の名を騙ることのメリットは何だ?」

 確かに、どう考えてもそれは誰にも思いつかない。

「とりあえずは『匿名希望』ということでは?」
「あえて『明らかに偽名だと分かる名前』を名乗った、という可能性はありえるね」

 カーラとドルチェがそう呟きつつ、今はそのことを考えても仕方がないとレヴィアンも割り切った上で、ひとまずこの状況下で自分達が採るべき道について考える。
 ここからムーンチャイルドへと向かう最短の道は、チシャの召喚する群体ペリュトンを用いた山越えだろう。ただ、怪物が同じ場所に留まっている保証はない以上、ムーンチャイルドの隣村であるロンドやマキシハルトの防備も固めておく必要がある。
 そこで、マキシハルトに関しては領主であるロジャーとサルファがそのまま向かった上で、マルチナ率いるダイオード軍はロンドの救援へと赴き、そしてトオヤ、チシャ、カーラ、ドルチェ、レヴィアン、インディゴ、「ジェニー」の率いる七部隊が直接ムーンチャイルドへと向かう、という方針で合意に至るのであった。

3.2. 大怪獣決闘

 チシャの呼び出した「群体ペリュトン」は、七部隊の兵士達を乗せてタイフォンから一直線にムーンチャイルドへと向かうが、村が見え始めた辺りで、村よりもやや南西の方面から激しい物音が聞こえてくるのを察知して、進行方向をそちらへと切り替える。すると、その先で報告通りの「巨大な蜥蜴(というよりも、ワニ)のような投影体」が「飛行する大型亀に乗った騎士らしき人物」を追いながら、冷凍光線を撒き散らしている様子が彼等の目に映る。
 最初に反応したのは、トオヤ軍に配属されてた夜梟隊のジーンであった。

「あの魔物の吐き出す光線には、あらゆるものを氷結させる力があるようです。しかも、かなり広範囲にそれが広がっている。あれをまともに食らえば、並の人間ならば即死です。若様ならおそらく耐えられるとは思いますが、身体の自由は完全に効かなくなるでしょう。その場合は、誰かに外側から『溶かして』もらわないことには、身動きも取れなくなるかと」
「そうか、ならば、その標的となるのは『俺』の役目だな」

 トオヤがそう答えた一方で、その隣を飛んでいたインディゴはつぶさに怪獣の様子を分析する。

「おそらく、あの魔獣は炎に弱い。一方で、通常の武器の攻撃では殆ど傷はつかないと思われます。また、叩きつけるような類いの衝撃による攻撃も、あの強靭そうな鱗にはどこまで通用するか……」

 つまり、静動魔法の専門家であるインディゴにとっては、やや相性が悪い。いつもなら、あの巨体を持ち上げた上で地面に叩きつける戦法などを選ぶところだが、この怪物相手にはそれもあまり通用しそうに思えなかった。
 また、その見解に関してはレヴィアンも同意する。レヴィアンの分析によれば、おそらくあれはグランフィルム界(大映界)の魔獣(巨大怪獣)であり、その形状からして、並大抵の攻撃では倒せない相手であることは推察出来たが、それでも彼は、少しでも有効な戦法を解析しようと試みる。
 一方、ドルチェはその身体に邪紋をまといながら「伝説に登場するような『巨大な怪物』に狙われやすそうなオーラ」を醸し出すことでその注意を引きつけつつ、チシャはオリンポス界に住む森の妖精ドライアドを召喚した上で、その神々をも惹きつけるほどの美しさを披露させることで、その場にいる者達全員の士気を向上させる。その上で、カーラは最初から本気の「真体」を顕現させ、トオヤもまた全力で防御陣形を張ることで指揮下の兵士達全体の防備を強化させる。
 こうして万全の体制を整えた彼等が地上に降り立って、魔獣へと立ち向かおうとしたその瞬間、その魔獣の口からトオヤ達全体に向けて氷結光線が放たれようとするが、トオヤはそれを聖印の力によって一身に受け止めて、その場にいる者達全員を庇う。レヴィアンが咄嗟に自身の聖印の力でトオヤの防備を強化するが、それでも氷結化を止めるには至らず、トオヤの身体はその場で完全に凍り付いてしまった。
 だが、先刻のジーンの「トオヤなら即死には至らない」という目算を信じていた彼等にとっては、これは想定内の事態であった。その直後にインディゴが、雷を引き起こす時空魔法を用いて、今の彼が放つことが出来る最大の攻撃魔法を叩き込む。

(このような巨大な魔獣が出現したということは、「例の人物」の仕業である可能性が高い)

 そう判断した上での渾身の一撃であったが、それでもその魔獣は全く動じた様子はない。その上で、インディゴは静動魔法の原理を用いて、その巨大な魔獣を「タイフォン軍の面々にとって狙いやすい位置」へと移動させることで、チシャやカーラの追撃を援護しようとする。だが、ここではこの配慮が裏目に出てしまった。

「待って下さい。そこでは我が軍からの支援が……」

 レヴィアンは思わずそう叫ぶが、その声がインディゴに届く前に、彼はその魔法を発動させてしまっていた。さすがにこれが「急増軍」の限界である。特にインディゴとレヴィアンは完全に初対面のため、互いの能力を把握出来ていないのも無理はなかった。
 一方、ドルチェは「怪物を惑わす美女」の姿となった上でその懐へと潜り込み、完全に油断させた状態からその急所を着実に貫くことで魔獣の身体を内側から抉ろうとするが、この時、いつもに比べて手応えが薄いことに気付く。

(しまった! チシャに「武器強化の魔法」をかけてもらうのを忘れてた!)

 通常時とは違って味方の総兵力が実質倍増しているが故に、「いつもは出来ている筈の連携」までもがおろそかになってしまっていたようである(それに加えて、ドギのこともあってチシャの中での集中力が乱れていたのかもしれない)。また、インディゴもこのドルチェの攻撃を魔法で支援しようとしていたが、彼自身もドルチェの動きを見誤っていたようで、先刻の魔法で魔獣の位置を動かした結果、そこに向かって斬り込んだドルチェが自分の魔法の射程外となってしまっていた。
 そんな彼等の様子を、ゲオルグは冷ややかな目で見つめる。

(おそらくは急遽集まった各地の部隊であるが故に、やむを得ぬ側面もあるだろうが、戦術面ではまだまだ詰めが甘いな)

 なお、この時点で「ドルチェ」に一瞬、視線を奪われていたかのように見える魔獣であったが、それでもその瞳の焦点は「ゲオルグ」を見据えているように見える。

「やれやれ、人気者は辛いな」

 ゲオルグはそう呟きつつ、しばらくその場に留まり続けて「様子見」を続ける。彼の中では、自分自身の手でこの「混沌の魔獣」を倒したい気持ちは十分にあったが、その前に、まずはヴァレフールの若き両雄の力量を見極めなければ、と考えていたのである。
 一方、自分の失態に気付いたチシャは、慌てて隣にいたカーラに武器強化の魔法をかけた上で、自身が呼び出したドライアドに攻撃を命じようとするが、この時、彼女は遠方にいるレヴィアンが、「ドライアドを魔獣に向けて突撃させてほしい」と身振りで示唆していることに気付く。ドライアドの攻撃手段は本来は射撃型のため、敵に近付かせるのは得策ではない筈なのだが、あえてレヴィアンがそれを示唆するということは何か思惑があるのだろうと考えたチシャは、彼を信じてその通りにドライアドを直進させる。
 すると、その直後、やや後方に控えていた「レヴィアン軍」と「ドライアド」の位置が、一瞬にして入れ替わった。レヴィアンが聖印の力を用いて、この地の「空間」を捻じ曲げたのである。

「ありがとう! この位置からなら、全力で皆を支援出来る!」

 レヴィアンがチシャに向かって大声でそう叫ぶと、チシャはその直後に大掛かりな召喚魔法を唱え始める。それは、空間に「真空」を作り出すことによって暴風を巻き起こす浅葱(亜流)の系譜の大技である。この魔法は相手が巨大であればあるほど効果は大きく、それに加えてドルチェが魔獣を魅了した状態のまま「自分を庇わせるような体勢」を魔獣に取らせたことで更にその威力は倍増し、そこへレヴィアンが聖印の力で威力を激増させた結果、壮絶なまでの大打撃を加えることに成功する。
 それは、並の大型怪物程度であれば一瞬で砕け散るほどの威力であったが、それでもこの巨大な魔獣はまだ一向に倒れる気配すら見せない。どうやら、今までに戦ってきた投影体達とは明らかに「格」が違う相手のようである。とはいえ、ようやくレヴィアン軍との連携が取れてきたことで、形勢は明らかに優位になりつつあった。
 そんな中、「ジェニー」は自分のギターを奏でつつ、そのギターに「炎」をまとわせた上で、氷結されたトオヤに向かって振り下ろした。

「ちょっと血が出るけど、ごめんね!」

 そう叫びながら繰り出された彼女の一撃は、トオヤを覆っていた氷を溶かし、更に勢い余って彼の身体そのものにまで打撃を与えそうになるが、トオヤの強靭な防御力によって弾かれた結果、出血どころか傷一つつけることはなかった。

「は!? お、俺は……」
「大丈夫? 動ける?」
「あぁ。大丈夫。これでやっと動ける!」

 トオヤはそう叫ぶと、聖印から光の盾を作り上げつつ、自身の鎧を「いつもの形状」へと強化していく。
 そんな中、自分の周囲でチョロチョロ動き回るトオヤ達に対して苛立った魔獣が、その巨体を揺らしてその場にいる者達全員を踏み潰そうと試みる。だが、ドルチェ隊はあっさりとそれを避け、仮面楽団は「ジェニー」がギターを振り回して弾き返し、トオヤ隊もまた彼の強靭な防御力によって傷一つ受けることはなかった。そんな中、カーラ隊だけは何人かの兵士達が犠牲となるかに思えたが、インディゴによって放たれた補助魔法によって動きを強化された「一人の女兵士」の手で、逃げ遅れそうになっていたカーラ隊の兵士は踏み潰される前に助け出される(その女兵士の正体は、密かにタイフォン軍の中に紛れ込んでいたドギの侍女アマンダだったのだが、そのことに気付いた者は誰もいない)。
 こうして難を逃れたカーラが、満を辞して巨大化させた「本体」を振りかぶって斬りかかる。その一撃は巨大怪獣の強固な甲羅に防がれつつも、そこにレヴィアンとトオヤによる聖印の威力支援が加わった結果、並みの建造物なら一撃で粉砕するほどの衝撃を与えることになるのだが、それでもまだまだ魔獣は怯む様子はなく、今度はその巨大な尻尾を振り回して、その周囲にいたトオヤ隊と仮面楽団を弾き飛ばそうとするが、インディゴが即座に時空魔法で作り出した次元断層によってその威力は激減された状態から、トオヤ軍が仮面楽団を庇うように立ちはだかり、そこにジェニーが聖印の力で更に防御力を高めたことで、完全にその攻撃を弾き飛ばす。その直後、トオヤは先刻の氷結時に自身が受けた凍傷を自分の聖印の力で癒しつつ、そのまま自らの聖印を高く掲げて、その場にいる者達の士気と気力を向上させた。

(どうにか戦術的な連携が取れるようになってきたようだな)

 ゲオルグが内心で彼等の様子をそう評価している中、その巨大な魔獣は頭から生えた角をゲオルグに向けて振りかざす。実は当初、この魔獣は頭部付近にいる者達全員をその角で串刺しにしようとしていたのだが、その直前、チシャの放った魔法により、視界を狭められて一体しか狙えない状態となっていた。その状態でこの魔物はあえて「ゲオルグ」に狙いを定めたのである。ゲオルグはその攻撃もあっさりとかわすが、この時点で、彼の中での「ある仮説」が、ほぼ「確信」に変わる。

(やはり「私」が狙いか……。あるいは、この「亀」か?)

 いずれにしても、この魔獣の狙いが自分(もしくは亀)にあるのだとしたら、この災厄を引き起こした原因そのものが自分という可能性もありうる。その状況を踏まえた上で、ゲオルグもそろそろ動き出さねばならないと判断したのか、慣れない飛行亀を駆使しつつ、先刻の魔獣のお株を奪うかのように素早く魔獣を踏み潰すような動きを見せながら、亀上から鋭い剣戟を繰り出す。だが、やはり強靭な鱗を持つこの怪獣には相性が悪いようで、致命傷には至りそうもない。
 その直後、今度はレヴィアンが動いた。より正確に言えば、彼自身は動かぬまま、聖印の力で時間の流れを巻き戻した上で、魔獣の目の前にいたドルチェを再び「動かした」のである。ドルチェは自分の身に何が起きたかを瞬時に理解した上で先刻と同じ攻撃を繰り出そうとする。

「さて、そろそろ派手にやらせてもらおうか!」

 彼女のその一言と同時に繰り出された一撃は、レヴィアンの聖印の力によって拡大され、魔獣の他の部位にも同様の深傷を発生させる。それを確認した上でドルチェは「(魔獣から見て)誰もいない方角」へと移動すると、魔獣は(この時点でゲオルグが怪獣自身の「背中」側に回ってしまっており、その首を向けられない状態になったため)彼女一人に向けて冷凍光線を放とうとするが、当然のごとくドルチェはあっさりとそれをかわす。
 そんな彼女の巧みな動きと前後して、インディゴとチシャは早期にこの戦いを決着させるために(自分達の魔法による破壊力を高めるために)あえて混沌濃度を上げ、そして「ジェニー」はギターを奏でながら、皆の心を奮い立たせようとする。

「Oh〜 LOVE&PEACE〜 優しい風になれ〜」

 彼女の紡ぐ歌詞には、敵への殺意を高めるような勇壮さはないが、味方に希望を与える輝きに満ちている。そんな彼女の歌声に皆が勇気付けられていく中、レヴィアンは戦局全体を見ながら、「切り札」を用いるべきかどうかで迷っていた。

「ここでこの力を使えば使えば、前線にいる友軍の攻撃の威力を高めることは出来るが、それと同時に魔獣の破壊力をも高めてしまう、そうなった場合、皆を庇ってそれを受け止めることになるのは、ほぼ間違いなくトオヤ軍……」

 レヴィアンが逡巡している様子に気付いたトオヤは、大声で叫ぶ。

「構わん! やれよ! 俺が全部止める!」

 その声を受けたレヴィアンも、意を決して叫び返しつつ、その「切り札」となる聖印の力を前線に降り注がせる。

「まずくなったら、光の壁を飛ばす! 信頼してるぞ!」
「大丈夫だ! 俺が全部防ぐから!」

 そんな二人のやりとりを聞いたインディゴは、一気にケリをつけるために、静動魔法で魔獣の胴体をその場に縛り付けることで、先刻のような形での「踏み潰し攻撃」を封殺する。その直後、ドルチェが改めてチシャから武器強化の魔法を受けた上で(レヴィアンの聖印の力を重ね合わせながら)魔物の尻尾へと切り掛かり、それに続けてチシャがタルタロス界の巨人ヘカトンケイルを瞬間召喚して(その上で、再びドルチェが魔獣に自身を庇わせたことで)相当な深手を負わせ、更にカーラが畳み掛けるように(改めてレヴィアンとトオヤの聖印の力で再強化された)痛烈な一撃を叩き込む。
 これらの猛攻に激昂した魔獣は再び尻尾を振り回すが、今度はインディゴの魔法によって、その対象をドルチェ一人に絞らせられ、そしてドルチェはあっさりとそれをかわす。そんな中、魔獣は一本角を振りかざして、トオヤの鉄壁の装甲をも貫くほどの痛烈な一撃を繰り出そうとするが、今度はドライアドが彼を庇ったことで、ドライアドは消滅するものの、トオヤ軍には一切の被害が発生しなかった。

(すまない、ドライアド……)

 トオヤは内心でそう呟きつつ、それと前後して聖印を掲げて皆の奮迅を促すと、レヴィアンもまた自身の聖印を掲げて友軍の士気を高め、更にそのレヴィアンの支援を受けた「ジェニー」が炎のギター(の内側に仕込んだ長剣)で魔獣へと斬りかかりながら、その直後にそのギターでそのままを皆の心を更に奮い立たせるような演奏を披露する。
 こうして三人の君主がそれぞれに友軍を鼓舞していく中、残る一人の君主であるゲオルグは、再び亀上から魔獣を長剣で斬り刻み、あえて自ら魔獣の目の前へと回り込む。それは、この時点で自分の背後が「誰もいない状態」になっていることを確認した上での囮策であった。案の定、魔獣は冷凍光線をゲオルグに向かって吐きかけるが、彼はあっさりとそれをかわす。
 ここで、インディゴもまた魔獣がこの「亀に乗った君主」を狙っているという状況に気付き、一計を案じる。インディゴとしては「この巨大な魔獣を呼び出した人物」の目的も確認する必要があると考えていたため(この時点ではその手掛かりは全く手に入らず、それらしき人物の気配も感じられなかったのだが)、ここで一つの「実験」を試みることにしたのである。

(彼を攻撃することが目的だとするならば、これでも効くか?)

 そう思いながら、インディゴは「亀に乗った状態のゲオルグ」の虚像を、少し離れた場所に作り上げる。この虚像に騙されるか否かで、この魔獣がどれほどの知性を持っているのか、あるいは誰かがこの魔獣を操っているのか、といったことに関する判断材料が得られるかもしれない、と思ったようだが、結局、彼のこの試みは意味を成さなかった。
 この次の瞬間、それまであえて本気を出さずに力を温存させていたゲオルグが、その残された聖印の力を一気に解放して、全力で飛行亀を駆って空中から魔獣に全力攻撃を仕掛けたのである。この時、最初の踏み込みの時点でゲオルグは一瞬しくじったかと思ったが、それに気付いたレヴィアンが即座にゲオルグの周囲の時空の流れを巻き戻したことで、彼は改めて万全の体勢からの閃光の斬撃を放って強靭な鱗を切り刻んだ結果、巨大なワニのような姿のその魔獣は、遂にその身を完全に消滅させたのである。

3.3. 常識外れの国賓達

「巨大な混沌の怪物は、ヴァレフール・グリース連合軍が討ち取ったぞ! 勝鬨を上げろ!」

 ゲオルグはそう叫ぶと、その場に自身の聖印を掲げる。それは紛れもなく、トオヤと同等以上の規模の聖印、つまりは「子爵級の聖印」であった。今のブレトランドにおいて、この規模の聖印を持つ者など、トオヤとワトホートの他には、ゲオルグとネロ・カーディガンくらいしか存在しない筈である。その場の勢いに押されて兵士達が歓声をあげる中、やがて魔獣の残骸の中から巨大な混沌核が出現した。
 その混沌核の再活性化を防ぐために、トオヤ、レヴィアン、「ジェニー」もまたそれぞれの聖印を掲げ、ゲオルグと並んで浄化・吸収を始めようとするが、ここでようやくトオヤはゲオルグに声をかける機会を得る。

「あなたは本当に、あのゲオルグ……」
「トオヤ、さっきの戦いを見れば分かるだろう。あんな戦い方が出来る人物などそうはいない」

 ドルチェが横からそう指摘すると、ゲオルグは胸を張って堂々と答える。

「いかにも。私がグリースの国主にしてヴァレフールの盟友、ゲオルグ・ルードヴィッヒだ」

 先日のブラフォード動乱の直後に、このような太々しい態度でグリース人達の前に現れた「山の覇王」を目の当たりにして、トオヤ達が一瞬絶句する中、レヴィアンが思わず声を上げる。

「あなた、バカではないのか!?」

 ヴァレフールの中では、先日のブラフォード動乱の黒幕はグリースではないかと疑う者はいる。少なくともレヴィアンやトオヤの中では、その疑念は拭えない。そのグリースの国主が、護衛も付けずにたった一人でノコノコとこんなところまでやってくるなど、狂気の沙汰としか思えない。
 だが、この場にはもう一人、ある意味で彼以上の狂人が紛れ込んでいた。

「え? あなたがゲオルグちゃん!?」

 そう叫んだのは「ジェニー」である。それと同時に、彼女の仮面が(激戦の最中に留め具が緩んでいたのか)こぼれ落ちた。

「あ、取れちゃった」

 彼女はすぐに拾い上げるが、その素顔に見覚えがある者はこの場に何人かいた。彼女は今やブレトランド中の音楽愛好家にとってカリスマ的な存在であり、彼女のファンによってその肖像画も各地に広まり、その名は遠くサンドルミアにまで広がっている。

「そうか、歌う君主と言えば、聞いたことがある。マージャ村の……」
「あれが噂の……」

 ドルチェやカーラがそう呟く中、アントリア生活が長かったが故により一層身近な存在であるレヴィアンは、再び困惑の声を上げる。

「あなたもあなたで、どうしてここにいるんですか!?」

 ゲオルグほどの身分ではないにせよ、ヴァレフールから見れば明確に「敵国」であるアントリアの君主がこの地に来ているのも、常識的には理解し難い話である。だが、彼女もまた「常識では測れない存在」であるということ自体が、今やブレトランドでは常識となりつつあった。
 困惑しながらも(男爵級以上の)四人の君主の協力で無事に混沌核を浄化・吸収した上で、カーラがひとまず「まっとうな意見」を述べる。

「あるじ、とりあえず、まずはこの国賓級の方々を、しかるべき場所にお送りしないと」
「そうだな。ただ、その前に、まずは避難したムーンチャイルドの住民に連絡を……」

 トオヤがそこまで言いかけたところで、ゲオルグが口を挟む。

「それは私が行こう」
「いや、待ってくれ。それに関しては私の契約魔法師がムーンチャイルドの魔法師と直接連絡が取れるので問題ない。それよりもまず、なぜあなたのような方がここにいるのですか?」

 唐突な横槍に対してトオヤはやや乱れた口調でそう切り返すと、ゲオルグは即答した。

「簡単なことだ。ヴァレフールの危機を聞きつけて、駆けつけた」

 それに対してトオヤとレヴィアンは微妙な表情を浮かべつつ、呟くように答える。

「なるほど。あなたの身は、かなり速いのですね」
「時系列がおかしいほどの速さだな」

 どう考えても、怪物が出現した後にグリースから出立して間に合う筈がない。また、周辺の三箇所とは異なり、ムーンチャイルドでは(もともと混沌災害の起きやすい地であったとはいえ)前兆となるような投影建造物が出現していた訳でもない。もっとも、グリースにはマーシー・リンフィールドという未来予知の専門家もいる以上、彼女が事前にその気配を察知していたと言われれば、信じる他はない。しかし、だからと言って国主たる君主がたった一人で乗り込むのは、明らかに不自然である。

「目的はそれだけですか?」
「あぁ、当然だ。ヴァレフールの危機を救う。それ以上の大きな目的があるだろうか? 無論、救った後で民の安寧を守ることも君主の務めだとは思うがな」

 どう考えても、それだけが理由の筈はない。とはいえ、実際に彼に助けられたのは事実である以上、今のトオヤ達としては彼に対して、これ以上問い詰められる立場でもない。
 ひとまずチシャを通じてムーンチャイルドの避難民達は概ね無事にロンドに逃げ込んでいるらしい、ということを確認したトオヤ達は、客人達を連れてロンド経由で一旦タイフォンへと向かい、然るのちにドラグボロゥへと向かうことにした。なりゆきでレヴィアン隊もそのまま彼等に同行する一方で、インディゴは、ここに自分が来ているという情報がこれ以上広がると(本拠地に「本人」がる以上)面倒なことになるため、粛々とテイタニアに帰還する。
 なお、その後の調査で判明したことだが、彼等が魔獣を倒して各地に連絡した時点で、既に三つの「魔境の入口」は消滅していたらしい。やはり、あの魔獣が魔境全体の混沌核でもあったようだが、どのような原理で「魔境の外側にいる魔獣」が「魔境の混沌核」となっていたのかは分からない。いずれにせよ、バナナも香辛料もレッサーパンダも手に入らなかったことに対して、各自はそれぞれに落胆したようである。

3.4. 復興への誓い

「君達の村は守られた。安心したまえ!」

 ロンドに着くと同時に、真っ先にそう言って聖印を掲げたのはゲオルグである。すぐさま隣でトオヤも同様に(概ね同規模の)聖印を掲げて人々に訴える。

「ムーンチャイルドの民よ、件の怪物は討った。皆の生活がいつも通りに戻るまでは、しばらく時間がかかるかもしれない。だが、少しでも早くそれが実現するように、我々も支援していこう」

 実際、あの怪物の出現によって多くの村の建物が破壊され、畑や牧場も荒らされた。全員の住居を建て直すには相当な時間がかかるだろうし、自活していけるだけの産業を建て直すまでは、周辺の村々からの援助も必要となるだろう。

「ヴァレフールの盟友であるグリースも、この復興には協力しよう!」

 トオヤの肩を抱きながら、ゲオルグはそう語る。実際のところ、グリースも神聖トランガーヌとの争いが休戦状態となったことで、少し経済的には余裕が持てるようになったところである。ヴァレフール全体としては、ここでグリースにこれ以上の「借り」を作ることが得策かどうかは微妙だが、今はその差しのべようとする手を払いのけるだけの余力がヴァレフールにはない。
 そんなゲオルグとは対照的に、もう一人の異邦人であるレインは、さすがに敵国という立場もあって、この場は何も言わずにその光景を眺めていた。資金援助も人的援助も差し伸べたいところではあるが、遠く離れた辺境村の領主にすぎないレインには、そもそもそこまで自由に人や金を動かせるだけの権限はない。
 一方、カーラはクリフトに対して「君主なんだから、こういう時こそしっかり働け」とハッパをかけつつ、彼とその父(盾)のラドクリフから事情を聞く。ラドクリフの認識としては、あれはおそらく、エルムンドの時代からムーンチャイルドの地下に眠っていたと言われる伝説級の巨大混沌核によって生み出された魔物であり、その混沌核こそがこれまでこの地域で混沌災害が発生しやすかったこの原因でもあった可能性が高いという。それがなぜ今のこの時点で(「三つの魔境の誘発」および「自身の投影体化」という形で)突然具現化したのかは分からないが、あれが消滅した時点で、この地の混沌災害の再発の危険性は大きく減ったと考えられる。

「400年、溜まりに溜まったものがその閾値を超えたのか、それとも「何者か」の介入があったのか……」

 横で話を聞いていたドルチェがそう呟くと、トオヤは比較的落ち着いた様子で、クリフトに対して語りかける。

「それについては、今後の調査を頼るしかないだろう。それはともかくとして、此度は良く領民達を助けてくれた。感謝する」
「いえ、こちらこそ、皆様がいて下さらなければ、村は完全に壊滅していました」

 彼等がそんな言葉を交わしている間にも、ゲオルグはムーンチャイルドの領主であるバルザックとその領民達に対して、ひたすら「ヴァレフールとグリースの友好関係」の重要性について語り続けている。
 一方、チシャは各地の魔法師達への連絡を立て続けに執り行いつつ、内心では改めて「あの少年」に対する諸々の疑念を募らせていくのであった。

3.5. 少年魔王の告白

 その日の夜、チシャの前に再びドギが現れた。

「ムーンチャイルドに現れた魔物は……、あれがプレゼント?」

 訝しげな表情でそう問いかけたチシャに対して、ドギは申し訳なさそうな顔で答える。

「いや、違う。僕がプレゼントしたのは、その周囲に出現した三つの魔境だ。トオヤが『バナナが好き』と聞いていたからね」

 ドギ曰く、あの魔境は地球のとある島国に存在する「温暖地域の動植物の鑑賞を主目的とした娯楽施設」であり、(一部の人々に対してレッサーパンダが魅力的すぎること以外は)人々に対して特に害を及ぼすことのない「平和な魔境」であるという(ワニも刺激すると危険ではあるが、比較的おとなしく飼いならされているらしい)。
 あの施設をこの世界に再現するには、三園まとめて召喚する必要があり、しかもそのためには相当強大な混沌核が必要であった。そこで彼は、ムーンチャイルドの地下に眠る巨大な混沌核を利用した上で、ここ数ヶ月の間に起きた混沌災害の残滓が残ってた周辺三箇所の地域に、それぞれの園を出現させることにしたらしい。彼にしてみれば、あくまでこれは平和的な形での混沌核の有効利用であり、その上で、ムーンチャイルドの地下の混沌核には気付かれぬまま、魔境から定期的にバナナを収穫してもらえば良いと考えていた。

「ところが、どうやら一人、余計なことをしてくれたのがいたみたいでね……」

 ドギの憶測によるとパンドラ内の何者かが、ドギの計画に勝手に便乗して、ムーンチャイルドの地下に眠っていた「バナナワニ園の混沌核」に細工を仕掛けて、「熱帯地方のワニの怪物」を投影させてしまったらしい。そしてあのワニの魔物は大映界において「空飛ぶ巨大亀」と戦った経験のある魔獣のため、ゲオルグの乗っていた「飛行亀」に反応して目覚めて地上に出現したのではないか、というのがドギの見解である。

「あの『飛行亀』を持ってきた彼が、それを分かった上でやったのか、分からないまま何者かに利用されたのかは分からない。まぁ、彼にあの『飛行亀』を渡した者の察しはついているんだけどね……。でも、まだこの『ジャックの力』を完全には使いこなせていない今の僕では、その『余計なことをした奴』とまともに戦っても、勝てる保証はない」

 しかも、その男はブレトランドのパンドラ内でどの派閥の一員でもないものの、どの派閥とも密接な関係にある(各派閥に様々な形で恩を売っている)人物なので、組織内政治的にも非常に「扱い辛い人物」であった。
 とはいえ、そんな事情など知らないチシャにしてみれば、結果的に言えばドギの計画が今回の事件を引き起こしたことには変わりはない。基本的にはドギに対して常に好意的なチシャも、さすがに今回ばかりはやや不機嫌そうな声色で呟く。

「結果的に浄化出来たから良かったものの……」

 彼女はそれ以上は何も言わず、ドギもまたこれ以上の弁解はしなかった。その上で、彼は改めてチシャに対して、本気で本音を訴える。

「結局のところ、僕はまだパンドラを掌握しきれていない。だからこそ、君には僕のそばにいてほしい。それでも、君の決意は変わらないのかい?」

 その問いかけに対してチシャが黙っていると、ドギは尚も問いかける。

「トオヤが何を目指しているのかは知らない。それを君に聞くのがお門違いだということも分かった。じゃあ、君はこの世界をどうしようと思っているの?」

 更にしばしの沈黙を挟んだ上で、ようやくチシャはゆっくりと口を開く。

「このままでいいとは思っていない。混沌と共存するというあなたの考え方を否定する訳でもない。でも、私はやっぱり、そちらには行けない」
「僕等の目指している先の未来には、希望は見えない、ということ?」
「それはどちらにしても、『混沌を良しとしない人達』との間での戦いは避けられない、ということなのでしょう?」

 チシャにそう問われたドギは、残念そうな顔を浮かべる。

「確かに……、そうだね……、結局それは『どちらか』しかないのかもしれない。だから、僕は皇帝聖印を目指す人達の考えも否定している訳ではない。それで上手く行くなら、それでもいいのかもしれない。でも、トオヤがそれすら目指さないというのなら……、彼と共に進むことに意味はあるのかな?」
「皇帝聖印にせよ、混沌を人々と共存させるにせよ、一定の犠牲は避けられない……」
「うん、そうだね。今の君の中でそれがまだ割り切れないのかもしれないけど」

 そう語るドギの表情からは、彼の中で一定の「割り切り」が完了していることを物語っている。おそらくそれは、ジャックがこれまで見てきた何百年もの歴史の記憶が頭に残っているからこそ、歴史の大局を見据えた上で、最終的により犠牲の少ない道を選ぼうとする発想が彼の中では染み付いているからであろう。それは、遠い先の未来よりも、まず今の時点で救える人を救おうと考えるトオヤとは、明らかに真逆の思考であった。
 だが、一方でドギの精神そのものは、未だ純粋な子供のままである。ドギはそんな今の自分の心境を、どこか俯瞰しながら淡々と語り始める。

「僕も正直、これが絶対に正しいと言える保証はない……。そうだね、何が正しいかは、はっきり分からないところもあるけど、もしかしたら僕は、そういうこととは別次元で、正しいか正しくないのかとは別次元で、ただ君に、僕の近くにいてほしいだけなのかもしれない……。『今の僕』が言っても、まだ君の心には響かないかもしれないけど……」

 あくまでも肉体年齢的には9歳の少年が、約二倍の年齢の従姉の少女に向かって、少し上目遣いでそう語る。今の彼がその気になれば、自分の外見をチシャと同年代の青年に書き換えることも出来るだろう。だが、それでは意味がない。あくまでもチシャには「本当の自分」の隣にいてほしかった。しかし、その想いが通じないと分かってしまったことで、彼の中での(元々精神的には早熟であった上にジャックの記憶の流入によって情勢された)「大人の自分」が、「子供の自分」の感情を押し殺す。

「まぁ、いいよ。僕の考え方を否定しないと言ってくれた。それだけでも今の僕には十分だ。その一言だけでも、これから先の心の支えにはなる。またどこかで道が交わることがあるかもしれないしね。チシャとも、トオヤとも」

 そう言った上で、立ち去ろうとするドギに対して、チシャは声をかける。

「そういえば、あなたの代わりに今、キャティさんが林檎の木を、アキレスの裏庭に植えています」
「あぁ、知ってる。それを育てるための薬も、僕が届けたんだけどね。それを作ってくれた男は、ちょっと信用出来ないところもあるんだけど……」

 その薬の調合師とはパンドラ楽園派の首領である。新世界派にとって、楽園派は比較的友好な関係を築ける相手ではある筈なのだが、互いに腹の底で何を考えているのか分からないという意味では、微妙な関係でもある。
 とはいえ、そんな話を今のチシャに語っても意味はないだろう。そう割り切りつつ、ドギは改めて今回の顛末を自分の中で総括した。

「……そうだね。やっぱり、まずは林檎の木から一つずつ、進めて行くべきなのかもしれない。いきなりバナナワニ園というのは、ちょっと性急すぎたかな」

 苦笑を浮かべながらそう呟いたドギに対して、それまでずっと表情が強張っていたチシャも、ようやく少し笑みを浮かべる。

「あれはあれで悪くはなかったとは思いますけどね。最終的には、すこしまずかったですけど……。あと、母によろしくお願いします」
「分かった。またどこかで、僕等が同じ道を歩めるようになることを期待している。ウチの連中にも、あまり『悪さ』をしないように釘を刺しておくよ」

 そう言い残してドギはチシャの前から去った。次に会う時までに、互いの立場がどうなっているかは分からない。だが、今より少しでも距離が縮まっていることをドギは切実に願っていた。
 この日の夜の出来事について、チシャは誰にも告げることはなかった。なお、この数日後、ジャックによって刻まれていた「ケネスの胸の刻印」が突如として消滅することになる。当然の如く、ケネスもトオヤもこの突然の出来事に困惑することになるのだが、チシャはそれが「彼」の手による措置であることは察しつつも、誰にも告げずに胸の奥にしまい続けるのであった。

3.6. 大先輩への報告

 数日後、インディゴ隊はテイタニアにひっそりと帰還した。当然、彼の到着に伴い、多少の「齟齬」がそこには発生する。

「あれ? 魔法師様、さきほど屋敷の方でお会いしたような……?」
「いや、ちょっと最近、あちこち行ったり来たりすることが多くて……」

 留守を守っていた兵士達に対してインディゴがそう言ってごまかしたところで、彼の真後ろに「つい先刻までインディゴだった者」が現れる。

「なってないのう。そういう時は『バッカモーン! そっちがルパンだ!』と言うのじゃ」

 彼女は異世界・地球の文化にもある程度通じているらしい。こういった辺りが、なんだかんだで「あの男」の師匠である。

「ルパンって誰ですか?」

 後輩からのそんなまっとうな質問を無視して、大先輩はいきなり本題を問いかける。

「とりあえず、首尾を聞かせてはくれないか? ひとまず混沌災害は解決したようだが」

 大先輩からのそんな率直な質問に対して、後輩は端的に結果を報告する。

「怪物が出てきたので、退治はしました。おそらくはその怪物を呼び出したのが『例の人物』だと思うのですが、結局、その姿を見つけることは出来なかったので、彼が関与していたかどうかについては、何とも言えませんね」

 実際のところ、姿を消す魔法などいくらでも存在する以上、どこかで隠れて見ていた可能性は高いだろうと彼は判断していたが、憶測だけで何を語っても意味はない。

「そうか。ならば、私が行っていても、大して状況は変わらなかったのかもしれないな。まぁ、ともかく無事に解決したならば何よりだ。ご苦労だった。では、私は私で、またやるべきことがあるからな」

 いつも通りに一方的に言いたいことだけ言って、彼女は去っていく。インディゴにしてみれば、ようやくこれで「今回の無茶振り」からは解放されたものの、またいつ新たな無理難題を押し付けられるか分からないという危惧は拭い去れない。むしろ、今回の件である程度の「信頼」を得てしまった以上、次はもっと厳しい依頼(命令)を押し付けられるかもしれない。そんな未来を想像しながら、彼は改めて深い溜息をつくのであった。

3.7. 奔放なる軍楽隊長

 その更に数日後、トオヤ、チシャ、カーラ、ドルチェの四人は、ゲオルグとレインを護送する形でドラグボロゥに到着した。ちょうどのその時点で、七男爵会議も一段落ついていたこともあり、レインは早速「招待状の送り主」に挨拶に行く。

「お久しぶり! ロートス!」
「レインさん、お久しぶりです。今回はお客さんとしてお招きさせてもらったんだけど、ここに到着する前に、どうやら混沌災害を解決してくれたそうで」
「だって、混沌で困っている人達がいるなら、助け合わないとね」

 とても「対アントリア最前線の砦の領主」と「アントリアを支援する軍事国家の指揮官」とは思えない雰囲気の中、和気藹々と二人は旧交を温める。

「急な話で申し訳なかったとは思うけれど、もうまもなく式典の正式の日程が決まると思うから、もうしばらくここに滞在してもらえばいいかな。楽団の人達のための宿も用意しておくから」
「いいわよ。私、新曲も作ってきたから。今回のためにね」

 こうしてレインは(一応、「ジェニー&仮面楽団」として)この地に滞在しつつ、毎日朝から街の人々に歌を聞かせる日々を送る。当然、この街に住む彼女の「隠れファン」達の間では、その正体はすぐに勘付かれることになるが、さすがに皆、彼女の立場に配慮して、あえてそのことを公言しようとはしなかった。
 その上で、彼女は歌い疲れたら宿舎に帰り、カーラと共に「レッサーパンダのぬいぐるみ」を作る、という日々を送ることになる。

「かわいいよね〜」
「これはモフモフで、こっちは愛嬌があって……」
「新しい枕候補になるかも」

 とても一騎当千の強者同士の会話とは思えぬ女子トークを繰り広げながら二人が次々とぬいぐるみを編み上げていく中、少し遅れてこの地に招聘されたマルチナは、そんな二人の様子を遠目で羨ましそうに眺めていた。そんなマルチナを気遣ったレヴィアンは、陰でこっそり一つ貰った上で、密かに姉の宿舎に届けることになるのだが、それを機にマルチナの中で投影体全体への忌避感が弱まったかどうかは定かではない。

3.8. 破天荒なる覇王

 もう一人の国賓であるゲオルグは、継承式典がまもなく始まると聞いて、その前にこの地に集まっている各地の有力者達への挨拶回りに勤しんでいた。当然、誰もが「なぜこの時期に我が国へ?」と驚いていたが、ゲオルグはその度に胸を張って「ヴァレフールで起きた混沌災害を止めるために来ました」と答える。この機に恩を売りに来ているのは明白であったが、現実問題として彼に助けられたのは(表面上の結果だけを見れば)否定出来ないし、今のヴァレフールとしても、グリースと改めて本気で戦争する余力はないため、ひとまずはその友好姿勢を受け入れる君主が大半であった。
 そうこうしている中、伯爵位の継承式典が翌日に迫った時点で、ゲオルグはようやく現時点におけるヴァレフールの実質No.2である騎士団長ケネス・ドロップスとの会談に漕ぎ着けることになる。その場には、孫のトオヤも同席することになった。

「噂以上の破天荒ぶりのようだな」

 嫌味と感心と好奇心が混ざり合ったような口調でケネスがそう語りかけると、ゲオルグは表面上はへりくだりながらも泰然自若とした態度で答える。

「いえいえ。破天荒などと。民を守るための行動をとっていたら、いつの間にかそう呼ばれるようになっただけですよ」

 そんな彼の言い分を、ケネスは話半分に聞き流す。ケネスは以前から「もしトオヤにその気がないなら、ゲオルグをレアの夫として迎え入れるのも選択肢の一つ」と考える程度には、ゲオルグに対して興味を示していた。だが、先日のブラフォード動乱を通じて、「ケネスにとって長年の盟友であったガスコインを誑かして利用して彼の子息とマーチ村を掠め取った」という疑惑が発生したことで、今のケネスの中では(かつてトオヤが忠告していた通り)「この男を利用しようとすれば、逆に利用して乗っ取られるかもしれない」という警戒心が強まりつつある。

「セシル卿は元気か?」
「えぇ。とても元気です。彼もこの会談の内容にはとても興味を示しているようです」
「そうだろうな。では、彼には貴殿から伝えてもらうことにするか。明日、正式に発表予定だからな」

 そこまで言ったところで、ふとケネスは何かを思い出したかのようにトオヤに語りかける。 

「トオヤ、レア殿下はお主の人事に関して想定外の人事を提案してきた。お主はそれを了承してくれる筈だと言っていたが、何のことだか分かるか?」
「『護国卿』の件ですよね?」
「お前はそれでいいのか?」
「私のような若輩者が、そのような名誉な立場を頂けることに、多少の迷いはありますが、レア姫殿下にお仕えすることに関しては、全く不服はございません」
「そうか。お主の中でそれで納得しているのであれば、儂から言うことは何もない」

 二人がそんな会話を交わす中、当然の如くゲオルグは強い興味を持って会話に割り込む。

「護国卿とは、何ですかな?」
「それについても、明日、正式に発表することになるだろう」

 ケネスが淡々とそう答えたところで、話を切り上げたいと考えている雰囲気を感じ取ったゲオルグは、懐からふと「手紙」を出す。

「こちらは、私からレア姫様への想いをしたためた恋文です。どうかお届け下さい」

 唐突なその申し出に、さすがにトオヤとケネスは顔を見合わせる。ケネスとしては、今でもレアの結婚相手の選択肢としてゲオルグという可能性を完全に否定した訳ではなかったが、まさかゲオルグの方からこのような形で堂々と申し出てくるとは思わなかったのである。

「戯れが好きだな、山の覇王殿は」

 ケネスは思わず苦笑を浮かべる。果たしてこれがどこまで戯れで、どこまで本気なのかは分からない。ただ、少なくとも「自分をレアの王配として迎え入れる気があるなら、いつでも応じる準備がある」というのは、疑いなくゲオルグの本音だろう。当然、会ったこともないレアに対してゲオルグが個人的な愛情など抱いている筈もない。あくまでも彼が求めているのは「伯爵聖印の持ち主としてのレア」であり、無論、そのような理由での縁組を求めることは、国を預かる一人の君主として、何一つ間違ったことではない。

「では、きちんとお渡し致します」

 トオヤがそう言って手紙を受け取り、ひとまずこの会談は終幕となった。当然のことながら、トオヤがその手紙を、読みもせぬまま握り潰したのは言うまでもない。

3.9. 重なり合う二人

 こうして奇妙な三者面談を終えたトオヤの元に、ドルチェが現れた。

「やぁ、お疲れ様。ずいぶん話が長引いていたようだね」
「まぁ、色々と……」
「ただでさえ立て込んでるところへ、更に『アレ』だからね」
「都合がいいと言えば都合がいいんだけどな。ただ、あそこまで厚顔な人だとは思わなかった。野心のある人だとは聞いていたけど……」

 「アレ」呼ばわりされているゲオルグのことを思い返しつつ、うんざりとした溜息をつくトオヤに対して、ドルチェは話題を切り替えた。

「さて、明日だっけ?」
「うん」
「ヴァレフールから、重大な発表があるんだろう?」
「そうだな。きちんと殿下から直接聞いた訳ではないが、ひとまず俺は殿下の後見役として『護国卿』という役を承ることになった」

 ヴァレフール伯爵家に長年仕えているドルチェは、その役職名に聞き覚えがある。護国卿(Lord Protector)という称号は、伯爵が幼い頃の「摂政役」に与えられる称号である(余談だが、地球の某国の歴史においても元来はそのような意味で用いられていた言葉である。後の時代においては一人の「叛逆者」の代名詞のように使われているが)。ただし、それは七男爵制度が確立されるよりも前の時代の話であり、もう二百年以上も使われていない。

「そっか。現実の称号名として聞くのは初めてだが、名誉なことじゃないか」
「俺のような者が受け取っていいのかどうか、迷いはあるが……、とはいえ務めは果たす。それはもう決めた。ただ、その護国卿という地位を得る前に俺は、俺の聖印を託して、俺は殿下の従属騎士になろうと思う」

 既に(ケネスの持っている聖印を継承する前の時点で)子爵級聖印を得てしまっているトオヤが「七男爵」の一人として加わると、国内の諸勢力間の均衡が乱れる可能性があるので、レア直属の「従属子爵」にするというのが、彼を「護国卿」に任じる上での条件である。それがレアからの手紙で提案されていた「ヴァレフールの新体制案」であった(詳細は こちら に掲載)。

「それで君が何か変わるという訳でもないんだろう?」
「まぁ、そうだな」
「皇帝聖印なんていらないとまでのたまった君が、今更、聖印が独立か従属かなんて、気にするとは思えないね」
「強いて言うなら、さっきも言った通り、俺のような若輩者で大丈夫か、という心配はあるけどな。やることは変わらないけれど、実際に扱うべきことはどんどん大きくなっていく。だから、ドルチェを初めとした皆にはこれまで以上に頼ることになる」
「大丈夫さ。君の周りには皆がいる。レア姫がいる。チシャがいる。カーラがいる。そして『私』がいる」

 ドルチェがトオヤに対して(「ドルチェ」として)「私」という一人称を用いたのは、おそらくこれが初めてだろう。その言い回しにどんな意味があるのかは、おそらく彼女以外には分からない。

「ありがとう。皆がいてくれるだけでも、俺は大概のことなら何とか果たせる気がする。まぁ、俺自身が出来ることは、守ることだけなんだけどな」
「それでいい。君が足りないところは、僕等がずっと支え続けるさ。誰よりも『私』がね。『護国卿夫人』として」

 ドルチェは、はっきりとそう言い切った。今までトオヤの方から結婚を促す発言は何度もあったし、ドルチェもそれに前向きな姿勢は示していたが、身分の違いという問題もあり、ドルチェの側からここまで積極的に意思表示をしたのは、これが初めてである。実はこの背景には、レアからドルチェに対して密かに「あなた達が早く結婚してくれないと、私が『次』に進めない」という旨の手紙が届いていたから、という事情もあるのだが(詳細は こちら に掲載)、いずれにせよ、ドルチェの中ではそれだけの覚悟は既に固まっていた。
 そんな彼女の覚悟を目の当たりにしたトオヤは、懐に手を入れつつ、これまで以上に真剣な表情で語りかける。

「これから色々と苦労をかけると思うけど、その先払いとして……」

 そう言いながら彼は、数日前の「偽物」と同じようにクレープを取り出した上で、ドルチェに顔を近づける。だが、ドルチェはあえて首を傾けてそれをすり抜けるようにトオヤの目の前に顔を突き出した。

「間にクレープなんて、いらないね」

 次の瞬間、二人の口元は重なり合い、そのまま二人の身体は一つに絡み合う。一瞬のような永遠のような、そんな時間を共有した二人は、言葉を交わすために唇を離しつつ、見つめ合う。

「ようやくだね。長いようで短いような日々の中で、初めての100点満点だ」
「御教育の賜物です」

 若干震え気味の声でトオヤはそう答えると、ドルチェは改めて満面の笑みを浮かべるのであった。

4.1. 新伯爵と新体制

 翌日、ヴァレフール伯爵位の継承式典が、ドラグボロゥの広場で開催されることになった。まず群衆達の前に現れたのは、これが最初で最後の「伯爵としての公的な場への登場」となったワトホートである。彼は自身の聖印を次女のレアへと継承させることを宣言した上で、まずは継承の証としての宝剣ヴィルスラグをレアへと手渡し、自身の聖印をそのまま全てレアへと授ける。
 レアはその聖印を人々に対して掲げながら、高らかに叫び上げた。

「皆には長きにわたって混乱と不安の日々を送らせてしまい、申し訳なかった。だが、我等はここに、これまでの諸々の不和と因縁を乗り越えて、新たな体制を構築することを宣言する!」

 彼女のその堂々とした態度に、民衆達は歓声を上げる。帰国後のレアは基本的にタイフォンに滞在していた時期が長く、ドラグボロゥの人々の前に姿を現わすことは殆どなかったため、この地の住民達の中ではその不可解な扱いに対する疑念もあったが、そんな人々の不安感を払拭するには十分なほどの、新伯爵としての威厳に満ち溢れた立ち振る舞いであった。
 そして、彼女の傍らに立つ(ブラギス以来の)ヴァレフール伯爵直属の魔法師団長が、手元の公文書を読み上げる形で、新体制の人事を次々と発表していくことになる。

「ヴァレフール騎士団長、アキレス領主イアン・シュペルター」

 その宣言に、群衆達はザワつき始める。前評判ではトオヤが最有力であろうと言われていたが、年齢と立場からイアンもまた有力候補であろうとは言われていた。だが、問題は彼の肩書きが「アキレス領主」ということである。騎士団長位だけでなく、アキレスの領主の座までトオヤではなくイアンが引き継ぐというのは、さすがに誰も予想出来なかったらしい。
 では、これまでの彼の所領であったクーンはどうなるのか、という疑念に関しては、すぐにその答えが提示された。

「副団長、クーン領主レヴィアン・バーミンガム」

 つまりは国替えである。レヴィアンが申請していた「バーミンガム家」の復興が受理された上で、バーミンガム家がもともと治めていたクーン城をレヴィアンが受け取り、これまでその地を治めてきたイアンを、これまでの騎士団長家が治めてきたアキレスへと移転させたのである(それを受諾したイアンの本音としては、この機に「クーンの魔物」から離れたい、という思惑があったのかもしれない)。
 そして、ここでもトオヤを差し置いてレヴィアンが抜擢されたことに人々は困惑するが、そのまま魔法師団長は読み上げを続ける。

「ロートス・ケリガン、ユーフィー・リルクロート、ファルク・カーリンに関してはこのまま留任。引退した前副団長グレンに代わってイカロス領主の座は新男爵マルチナ・アトワイトが引き継ぐ。そして最後の一人は……」

 皆が固唾を飲んで耳をひそめる中、彼は少し間を開けた上で、その名を読み上げた。

「セシル・チェンバレン。ただし、セシルは現在、諸事情によりグリースに『留学中』である。五年以内に帰参した上で正式に男爵に就任することを要請する。それまでの代役として、ラファエル・ドロップスをケイの領主代行とする。なお、ラファエルは前騎士団長ケネスの聖印を継承するものとする」

 あくまでもセシルに関しては「亡命」ではなく「留学」と認識している、という建前にしたらしい。実際、セシル本人の意思をまだ直接確認出来ていない状態においては、レア達としても彼の処遇は難しい。彼がまだ幼いということにも鑑みた上で、グリースとの今後の関係性を考える上でも、この「期限付きの帰国斡旋案」が、現状における最良の妥協策と考えたようである。
 また、ケネスの聖印に関しては、もともと血筋から考えればドロップス家の本来の正統後継者はトオヤではなくラファエルであることに鑑みれば、ラファエルがその聖印を継ぐのも妥当と言えば妥当な措置である。その上で、この一連の騒動を引き起こした責任を取るという意味でも、騎士団長とアキレス領主の座はイアンに譲った上で、セシルが帰還した際には彼の従属騎士となる旨が宣言されたのである。もともとラファエルはセシルの侍従としてマーチに赴任していたことを考えれば、無難な人事であろう。
 そして、名を呼ばれた者達は壇上へと上がることを要請される。まず真っ先に新騎士団長となったイアンが妻であるヴェラを連れて登壇すると(なお、幸いなことにこの場にハーミアは不在だった)、レヴィアンは(イアンの実妹の)ロザンヌを、そしてマルチナは(トオヤの実弟の)ロジャーを連れて群衆の前に現れる。この機会にこの二組の「男爵家同士の縁組」を発表することもまた、この式典の重要な意図であった。
 一方で、未だ独身のファルク、ユーフィー、ロートス、ラファエルの四人はそのまま一人で登壇する(この時、ファルクの隣に誰も立っていないのを見て、町中の女性陣が安堵していた)。ロートスの契約魔法師のオルガとしては、この機に同時にロートスとサーシャの婚約も発表したかったようだが、残念ながらこの時点では(ユーフィーがまだテイタニアに帰還していないため)サーシャにすら話が通っていない状態であり、ロートスの方もまだこの時点では全くそのような意識は固まってはいなかった。
 こうした「新たな七男爵(およびその代行)」が発表された後に、レアは彼等を従えた状態から、改めて自らの口でこう宣言した。

「私はここに、新たに一人の従属騎士を迎える」

 レアがそう言いながらトオヤとドルチェに視線を向けると、ドルチェはトオヤに対して小声で呟く。

「晴れ舞台だ。しっかりやりたまえ」
「あぁ」

 トオヤは頷きながら、ドルチェを伴って登壇した上で、レアの前で膝をついて臣下の礼を示しながら巨大な聖印を差し出し、レアはそれと一旦受け取った上で、同じだけの規模の聖印を彼に返す。それがこの場にいるどの男爵達よりも巨大な聖印であることは、誰の目にも明らかであった。
 だが、それ以上に民衆達が驚いたのは、トオヤの傍らに立つ「見知らぬ女性」である。ここまでの流れから、彼がトオヤの伴侶であることは分かったものの、どう見ても貴族令嬢とは思えぬ雰囲気のドルチェがその場にいることに、多くの人々は違和感を感じていた。そして何より、「トオヤがレアの王配となることは既定路線」だと思い込んでいた人々は、明らかに困惑する。
 そんな人々に対して「事実」をはっきりと告げるために、レアは二人に対してこう言った。

「これからも夫婦共々、よろしく頼む」

 二人はその一言に対して改めて臣下の礼を取ると、彼等を取り囲むように立っていた七男爵の面々が祝福しながら拍手を始めたことで、やがてその拍手が会場全体へと広がっていく。

「チシャお嬢〜、『ドルチェお嬢』の婚礼衣装、どうしよう……?」
「ま、まだちょっと早いのでは?」
「花嫁の実家に頼る訳にもいかないし……」

 観客席から様子を見ていたカーラとチシャがそんな会話を交わす中(そもそも「花嫁の実家」なるものがどこにあるのかを知る者は誰もいない)、レアが改めて大声で訴える。

「私と共にこの国を背負う新時代の騎士達に、我が民の祝福を!」

 民衆達は再び大歓声を上げ、そして壇上のロートスからの目配せを受けた「ジェーン」率いる仮面兵団が、勇壮なる祝福の楽曲を奏で始める。一方で、この会場のどこかから、即興でその旋律に合わせて奏でられる独特なヴァイオリンの音色が聞こえたようにも思えたが、その演奏者がどこに潜んでいるのか、トオヤもチシャも見つけることは出来なかった。
 一方、来賓席からその様子を見ていたゲオルグは、笑顔で手を叩きながら、内心では周囲の人々とは異なる意味での高揚感に満ち溢れていた。

(これでヴァレフールの新体制は確立された。だが、この体制に不満を持つ者はまだいるだろう。まだまだこのブレトランドに平穏は訪れない。さぁ、ブレトランドよ、皇帝聖印を目指す戦いを続けよう!)

4.2. それぞれの余生

 式典を終えたワトホートは、少し疲れたような様子ながらも満足した表情を浮かべながら、レアやトオヤ達に対してこう言った。

「私はこれから、ハルーシアへ行こうと思う」

 アトラタン南西部の半島を支配するハルーシアは、ヴァレフールが所属する幻想詩連合の本拠地であり、温暖な気候と高度な貴族文化が根付いた土地として知られている。もともと病弱であったワトホートにしてみれば、確かに隠居後の療養地としては最適だろう。
 無論、本当にただの療養だけが目的なのか、あるいは知略に富んだワトホートがこの地でまた何かを始めようとしているのかは分からない。いずれにせよ、レアを中心とする新体制を築く上で、旧体制下における混乱の一端を担っていたワトホートが自身の判断で国許を去ることに対して、異論を挟む者は誰もいなかった。

 ******

 一方で、騎士団長を引退したケネスは、誰も予想していなかった仰天の「隠居後の人生計画」を孫達に告げる。

「君主としての私の仕事はこれで終わりだ。その上で私は、エーラムに行こうと思う」

 実は五十年ほど前に、ケネスは魔法師としての才能を見出されて勧誘されたことがあったらしい。その当時は、名門貴族家の跡取り息子としての立場を優先して断ったが、聖印をラファエルに譲ったことで、ここで新たに「魔法師」となれる可能性が開けたのである。トオヤは呆気にとられながらも、その意思を確認する。

「これからまた魔法師協会で色々なことを学ぶ、と?」
「あぁ。まだどこの家に行くのかは決めていないのだが……、ロート家は、年寄りでも受け入れてくれるか?」

 唐突にそう問われたチシャが絶句していると、更にケネスはニヤリと笑いながら付言する。

「その場合、お主は私の『義理の姉』ということになるのだが」

 (血は繋がっていないとはいえ)家系図上の祖父から「お義姉様」と呼ばれるおぞましい光景を想像して、チシャは完全に硬直した。そんな彼女を目の当たりにしつつ、ケネスは真剣な表情に戻って話を続ける。

「まぁ、どこに拾ってもらうかは、あちこち見た上で決める。無論、ただ学びに行くというだけでなく、一般教養科目の講師としての依頼も前々来ているのだ。だから、教養部の講師を務めながら魔法学校で学ぶ、ということになる。まぁ、この身体で魔法師が務まるかも分からんがな」

 そう言いながらも、その目は新たな「第二の人生」に向けての意欲に溢れている。ある意味、ゲオルグよりもレインよりも破天荒かつ非常識なのは、実はこの老人だったのかもしれない。

 ******

 同じ頃、そのケネスと長年に渡って宿敵関係であり続けたグレンは、孫のレヴィアンに対して、ふと語りかけた。

「ようやく、これで私も引退だ。ところで、神聖学術院の新学長とは、お主は顔見知りだったな?」
「えぇ、学友です」
「では、私の紹介状を書いてくれ」
「はい?」
「新入生としての、な」

 どうやら、この老人もまた「宿敵」とほぼ同じことを考えていたらしい。さすがにレヴィアンも一瞬、絶句する。

「別に無いなら無いで、私が直接入学交渉に赴くだけだがな」
「まぁ、その、紹介状を書くのは構いませんが……、お爺様とは毛色の合わないような人々も多いですが、よろしいのでしょうか?」
「それはそれだ。お主がそこまで入れ込んだ異界の技術というものを、私も見てみたい。見てみた上で、それが気に入らなかったら、また帰ってくるだけの話だ」
「はっきり言って、学内では悪目立ちはすると思いますが、大丈夫ですか?」
「その程度のことを気にしていては、何十年も副団長を務めることなど出来ぬわ」

 意欲的すぎる祖父のそんな様子を目の当たりにしながら、レヴィアンは「寮で彼と同室に配属されることになる学生(未定)」に対して、心底同情する。なお、その話を聞かされたロザンヌは、自分(ソフィア・ゾール)のことを学内で絶対に公言しないようにと釘を刺すのであった。

4.3. 新世代の群像

 式典を終えた後、「ジェニー」ことレインは、仮面楽団と共に満足気な様子で帰国する。結局、どれほど多くの人々が彼女の正体に気付いていたのかは不明だが、数日後に発行された「週刊ローズモンド」では「謎の仮面楽団を率いていたあの女性の正体は?」「七男爵ロートスと内縁の女性という噂もあるが、果たして?」などという文言が、爵位継承式展の取材記事の隅の方に掲載されていたらしい。
 テイタニアのインディゴは、帰還したユーフィーに対して「二つの手紙」を見せる。謎の投影体からの手紙に関してはひとまず保留とした上で、ロートスとサーシャの縁談に関しては、ユーフィーは「サーシャの意志に任せる」とだけ告げた。その上で、改めて話を聞かされたサーシャは「まだどういう方かよく分からないので、いずれ会いに行きたい」と答えた上で、改めてその機会についてオルガとの間で相談することになった(この縁組の行方については、いずれまた 別の機会 に語られることになるだろう)。
 タイフォンでは、トオヤが実質的にドラグボロゥに勤務する機会が増えることもあり、留守居役として(ムーンチャイルドの混沌の脅威が無くなったため、その地に留まる必要が無くなった)クリフトを迎え入れることになった。カーラはこの地で、彼を一人前の君主となるように鍛え上げるつもりである。これに伴い、それまで実質的な留守居役を務めていた傭兵騎士のガフは新たな仕事場を求めて何処かへと去り、その一方でサルファは「トオヤの二人目の契約魔法師」として雇用され、念願の「憧れのチシャの副官」としての座を手に入れるのであった。
 一方、ヴェルナに対しては、どさくさ紛れにゲオルグから「グリースはいつでも優秀な魔法師を求めている」と勧誘されていたのだが、自分の行動がセシルの父の死を招いてしまったこともあり、さすがにセシルの契約魔法師となるにはバツが悪い状態であった。一方で、ヴァレフールにそのまま就職する道もあったのだが、もともとグリースへの実地研修という名目でブレトランドを訪れていたこともあり、ひとまずこの場は一旦エーラムへと帰国する。その途上、彼女は一人の「学友」と魔法杖で会話を交わしていたのだが、そのことを知る者は誰もいない。

「もしもし? そっちは、どうだった? ……そう、レアが、あ、違う。レア様が……。で、護国卿に、トオヤ? うーん、聞いたことはあるのだよ。何でこんなことを知りたかったのかって? うーん、なんとなく。秘密なのだよ。就職先は決まったのだよ? まぁ、私が言えたことでもないのだけど。またどこかで会えるといい。それじゃあ」

4.4. 怪獣映画

 ゲオルグは、式典後に「自分はレアに求婚中である」という旨をヴァレフールの各地で吹聴しつつ(その発言がヴァレフールでどのように受け取られたかは定かではないが)、意気揚々とグリースの首都ラキシスへと帰還する。
 そんな彼を出迎えたシアンは、実際に飛行亀に乗ってみた上での感想についてゲオルグに尋ねた上で、彼が今後もまだこの乗騎を使い続ける意思があることを確認すると、「ちょっと失礼」と言って、その乗騎の「眼」に埋め込まれていた「特殊な魔法具」を取り出す。それは、飛行亀の視点に写っていた光景を「映像」として記録する装置であった。

「では、またよしなに」

 そう言い残して、シアンはゲオルグの元を去っていく。そして、この世界のどこかに存在する彼の秘密の「鑑賞室」にて、ゲオルグ達と「巨大ワニ」との戦いの映像を鑑賞する。あくまでも飛行亀の視点からの映像でしかないため、戦いの全容を完全に把握することは出来ないが、「伝説の七騎士の一人であるフェルマータ(の原型)が、大映界において最初に戦った巨大生物」が暴れまわる姿を記録することが出来ただけでも、シアンとしては大満足の成果であった。
 そんな中、彼はゲオルグ達と戦っている面々の中に、見覚えのある女騎士の姿を発見する。仮面で顔を隠してはいたが、それは確かに、かつて「巨神像」の復活を妨害した人物であった。

「ほう、またあの楽士殿が参戦していたのか。まったく、毎度毎度妙なところから首を突っ込んでくる」

 そんな呟きを残しつつ、最終的に飛行亀に乗ったゲオルグが巨大ワニにとどめを刺す場面まで見終えた彼は、満足した様子でその映像装置を秘蔵の保管庫に収納する。そして、次はどんな魔物をこの世界に召喚しようとかと、地球の「異界魔書(怪獣図鑑)」を見ながら心を踊らせるのであった。

4.5. 新伯爵の決意

 爵位継承に伴う一通りの仕事を終えたレアは、ドラグボロゥの謁見の間にて、改めて自身の従属騎士となったトオヤと言葉を交わす。

「これから先、まだ色々なことが起こると思う。隣国の子爵殿も、結局、何を考えているのかよく分からない人だったし」
「えぇ。あの人も、一緒に戦える時は協力すればいい、という程度の関係だと思っておけばいいでしょう。いずれは対立することになるのでしょうが」

 トオヤの中では明確な根拠はない。しかし、いずれその時が来るのではないかという予感は、ひしひしと感じていた。そんな彼の張り詰めた雰囲気を感じ取りながら、レアは今の自分の心境を率直に語る。

「正直、ヴァレフールはまだまだ何層もの暗雲が立ち込めた状態にあるわ。だからこそ、あなたにはその雲を払う風になってほしい」

 そこまで言ったところで、レアは「トオヤなら、むしろこう言うだろう」ということに気付いて、言い直した。

「いや、『あなた達』に、と言うべきかしらね」

 その「あなた達」の中にどこまでが含まれているのかは分からない。だが、彼女の言わんとしていることは、トオヤには伝わっていた。その上で、改めてトオヤは宣言する。

「私に出来ることは、これまで通りに『皆を守り、支えること』程度ですが、これまで以上に精進していきます。それとは別に、私はあなたの『臣下』であると同時に『友人』でもあります。あなたが苦しむことも、一緒に背負っていきたい。あなたが許して下さるのであれば、私にあなたを支えさせてほしい」
「それは、私からもお願いするわ。少なくとも……」

 この時、レアの中で「ここから先は、言葉にすべきではないのではないか?」という葛藤が生まれるが、あえてそれでも彼女は続けた。

「……ごめん、最後にもう一度だけ言わせて。少なくとも、私をフったことは、一生かけて償ってもらうから」
「うん、それは、まぁ、もちろん。ただ、ドルチェに対する感情と君に対する感情は別物だから。俺は君のことも大切に……」
「それ以上は聞かないことにするわ。それ以上聞くと、私は『次』に進めなくなるから」

 レアはそう呟きつつ、このブレトランドでも指折りの「子爵級聖印」の持ち主であるトオヤを従属騎士とすることの責任の重さを実感した上で、彼が忠誠を尽くすに足る君主となることを、密かに心に誓う。

 ******

 それから数日後、レアの元に、もう一人の「彼女を大切に想う少年」からの伝書鳩が届いた。

「『ヴァレフールではない色の剣』が欲しくなったら、いつでも連絡するがいい」

 今も世界のどこかで自分のことを想いながら何かと戦っているであろう彼の姿を想像したレアは、自分の心の中に潜む「もう一つの人格」が湧き上がってくるのを抑えつつ、今は「新伯爵」として為すべきことに専念しよう、と自分に言い聞かせる。その上で、彼やトオヤのような「自分のために戦ってくれる人々」を自分自身の手で守れるような、偉大なる英雄王エルムンドの後継者にふさわしい君主を目指すことを、改めて決意するのであった。

4.6. 姑

 ワトホート、ケネス、グレンという旧世代の象徴とも言うべき三人がこの国を去ることを宣言したことで、ヴァレフールの各地で世代交代の流れが更に加速しつつあった。多くの君主や魔法師が引退を発表し、その後継者を指名する一方で、邪紋使い達の中からも、様々な理由からこの国を去る者が一人、また一人と現れる。
 そん中、ドルチェの目の前に「トオヤに似ているが少し違う、トオヤが少し歳をとったような姿の男性」が現れる(下図)。その男性の両腕には明らかに邪紋が刻まれており、そして左手には彼自身の象徴でもある一羽の「オウム」を乗せていた。


「私が誰だか分かるか、パペット?」
「……その名前で呼ぶ人は、多くない筈なんだけどなぁ」

 実際のところ、ドルチェは彼の「この姿」を見るのは初めてである。だが、そこから漂う雰囲気から、概ね予想は出来ていた。

「お前はこれから先も『その姿』を『お前の姿』として生きていくのか?」
「そうさ。僕は必要とあれば何者にでもなる。でも、『帰る場所』はこの『ドルチェ』だよ」

 はっきりとそう言い切った彼女に対して、彼はどこか安心したような表情を浮かべる。

「そうか。お前は『帰る場所』を見つけたんだな」

 「幻影の邪紋使い」として、それが望むべき道なのかどうかは分からない。だが、充実した表情を浮かべる弟子の姿を目の当たりにした師匠は、素直に弟子の幸せを祈りつつ、おそらくはこの弟子が「全ての事情」を既に聞かされているであろうという前提の上で、「姑」として伝えるべきことを伝えることにした。

「私がこの姿を人前に晒すのは、これが最後だろう。『あいつ』はあまり気にしないかもしれないが、ただでさえお主のような『得体のしれない者』を娶ったのだ。母親までもが『同類』だとは知られたく無いだろう。まぁ、私が『母親』というのも、そもそもおかしな話なのだがな」

 自嘲気味な口調でそこまで言い終えた上で、彼は南方に目線を映しながら、最後にこう言い残して去って行く。

「では、私は私で、また次の任務に向かうことにする。『あいつ』を頼んだぞ」
「あぁ、任されたよ。またどこかで会いましょう」

 もっとも、次にどこかで出会うことがあったとしても、その時に互いに相手のことを認識出来るかは分からない。それが「幻影の邪紋使い」の宿命だということは、二人共分かっていたのであった。

4.7. 指輪

 新体制下において異例の大出世を果たすことになった新副団長のレヴィアンは、カーラから「クーンのリャナンシーに気をつけるように」という忠告を受けた上で、仮駐屯地であったケイからクーンへの移住の準備を進めていた。
 もっとも、今後もケイは「対グリース最前線基地」ということもあり、(いくらゲオルグが友好関係を強調しようとも)重要な防衛拠点であることは間違いないので、若輩のラファエルだけに任せるには厳しい土地である以上、今後も交代制で誰かがこの街に精鋭軍を率いて駐屯することになる方針である。おそらく、クーンの統治体制が落ち着いた頃には、自分が再びこの地に戻って来るであろうことは予想出来ていた。
 そんな中、レヴィアンは引っ越し作業をロザンヌと共に進めながら、改めて彼女に対して頭を下げる。

「ロザンヌ、色々と調整を任せてしまって、すまないな」
「私は今回は何もしていませんよ。結局、あなたの留守中も『グリース軍』は攻めて来ませんでしたし」

 確かに、その点では彼女の未来予知は当たっていた。もっとも、さすがに「グリース子爵」自らが、ケイを通り越してヴァレフール南西部にまで入り込むことまでは予想出来なかった訳だが。

「ゲオルグ・ルードヴィッヒ……、相当な傾奇者だったな」

 単身で異国に乗り込んだ上で、その国の姫君に一方的に求婚して、そのことをわざわざ自分で各地に触れ回るなど、その行動は明らかに常軌を逸している。あのような「自分の心の赴くままに行動する姿」は、子供の頃から「行動の前に熟考すること」を旨として生きてきた模範的学徒のレヴィアンには、到底理解出来ない行動様式である。
 ただ、世の中には「そのような人間にしか出来ない役割」があることもレヴィアンは分かっているし、逆に熟考に時間を割きすぎて行動が後手に回ることが多いことが自分の欠点でもある、という自覚もあった。
 そしてレヴィアンはこの時も、自分の中で「ある一つの重大事項が、後手に回ったまま、完遂出来ていないこと」がずっと引っかかっていたのである。だからこそ、そのことに決着をつけるために、彼はここで懐から一つの「小箱」を取り出した上で、ロザンヌに対してこう言った。

「とりあえず、毎度毎度なんというか、なりゆきに流されてしまって、かっこ悪いやり方になってしまうが、これを受け取ってくれ。ちゃんと言葉で伝えたいんだ」

 そう言って小箱を開いた中から出てきたのは「指輪」である。

「ロザンヌ。俺と結婚してくれないか?」

 二人の間では、互いの想いに気付けた後は(ロザンヌ主導による親戚筋への裏工作によって)なし崩し的に縁談が進み、あの継承式典の場で勢いに流される形で発表してしまったものの、レヴィアンとしてはきちんと自分からこのような形で求婚する機会を作れていなかったことが、ずっと心残りだったのである。

「十年信じて待ち続けた甲斐がありましたわ」

 ロザンヌは笑顔でそう答えた上で、指輪を受け取る。そして、彼女はそんなレヴィアンの言葉を待ち構えていたかのように、唐突に(荷物として鞄の中にしまいかけていた)地図を広げた。

「で、新婚旅行、どこにします? エーラムで聞いた話によると、ハルーシアやエストレーラが観光地としては面白い土地柄のようですが、あえて東方の国々に行ってみるのも面白そうですわよね。もっとも、今はそんな時間はないかもしれませんが……」
「あぁ、そうだな。色々落ち着かせて、早く行けるようにしよう」

 そんな約束を交わしつつ、二人は一旦レヴィアンの本来の所領であるオーバーハイムへと帰還した上で、改めて諸々の荷物をまとめて、(ロザンヌにとっては生まれ故郷である)クーンへと旅立って行くのであった。

4.8. 英雄王の末裔達

 継承の儀式を終え、改めて「レアの剣」となったヴィルスラグは、「武器庫」にカーラを密かに招き入れて、彼女から「これまでの出来事」を一通り伝え聞いていた。トオヤ達と共に、様々な人々と出会い、様々な事件に直面し、彼等と共にそれらを乗り越えてきた娘の話に彼女は聞き入りつつ、感慨深そうな表情で呟く。

「なるほど、お前は思っていた以上に、『人』として生きているんだな」

 「剣と人の子供」は、「剣」として生きるべきなのか、「人」として生きるべきなのか。ヴィルスラグは数百年間にわたってこの問題の答えについて一人で考え込んでいたのだが、少なくとも今のカーラから「人」としての感情を強く感じ取れたことに、彼女はどこか満足していた。それは、自分の愛した「人(シャルプ)」の面影を、より強くカーラから感じられたからなのかもしれない。
 ただ、それはカーラがまだ実質的に「人間の少女」と同じ程度の年数の人生(剣生?)しか経験していないからなのかもしれない。そのことはカーラもまた自覚していた。

「ボクもいずれ母様みたいに長く生きていたら、そのうち心が擦り切れてしまうかもしれないし、クリフトみたいに病んでしまうのかもしれない……」

 カーラがそう呟いたところで、ヴィルスラグはふと「とある疑問」に到達する。

「ところで、あのチシャという魔法師にでもいずれ聞いてみたいところなのだが……、お前とクリフトの間に、どんな子供が生まれると思う?」

 それはすなわち「『武器オルガノンと人間の子供』と『一時的に人間の姿になった盾と人間の子供』の間に生まれた子供」ということになるのだが、正直なところ、このような問いに答えられる者など、(おそらくは「実例」が存在しない以上)世界中のどこにもいないだろう。それを調べるためには「実例」を作ってみるしかないが、それがどのような結果をもたらすか分からないまま「行為」に及んで良いものかどうかは、難しい問題である。

「まぁ、ゆっくり考えるがいい。あいつも四百年待ったんだ。今更百年や二百年待たせたところで、大した問題でもなかろう」
「そこまではさすがに……。でも、もうちょっと自虐が取れるまで、お嫁さんにはなってあげないかな」

 まんざらでもなさそうな表情でそう呟く娘を見ながら、ヴィルスラグはいずれ近いうちに孫の顔が見られるかもしれない、という期待を抱き始める。それがどのような異形の姿であろうとも、それが「孫」であるというだけで、きっと自分にとっては掛け替えのない存在となるに違いないと、一人で勝手に妄想を膨らませる宝剣であった。

 ******

 同じ頃、トオヤを補佐するために彼と共にドラグボロゥ勤務となったチシャの元に「アキレスのドギ」からの手紙が届いた。
 アキレスが祖父ケネスの土地ではなくなった以上、本来なら彼がアキレスに残る正当な理由はないのだが、それでも彼は伯母のヴェラに頼み込んで、そのままアキレスの城に住み続ける道を選んだのである。それは、この地に植えた「林檎の木」の栽培を続けるためであった。「ドギ(キャティ)」の中では、それこそが今の「ドギとしての自分」の生き甲斐であり、「本物のドギ」の志をこの地で実現するための研究を、この地で続けていこうと考えていた(そのため、アマンダを初めとする彼の侍女達も、そのままアキレスに残り続けることになった)。
 その上で、先日、サルファに「例の薬」を調べてみてもらった結果、「植物の成長を促進させる効果のある薬であり、特に副作用の心配もない」という判定を得た彼は、さっそくその薬を「苗木」に使ってみたところ、瞬く間に急成長し、綺麗に真っ赤な林檎が実ることになったらしい(なお、その薬が「本物のドギ」から贈られた代物であるとうことは、チシャは彼には告げていない)。その手紙を通じて彼はその林檎の木に関する情報を事細かく報告した上で、最後にこう書き添えていた。

「これから先も、僕は『ドギ・インサルンドとしての志』を忘れずに生きていきます」

 それが真実か虚構かと問われたら、間違いなく虚構である。だが、ある意味で「今のアキレスに住んでいるドギ」と「ジャックの知識と力を得た今のドギ」の、どちらが「ジャックに誘拐される前のドギ」に近い存在なのかと問われたら、もしかしたら前者なのかもしれない。それは確かに、長年に渡ってドギを支え続けてきた一人の侍女によって作られた「虚像」でしかない(そして当然、今の「パンドラの首領となったドギ」が偽物である訳でもない)。だが、それでも、その「虚像としてのドギ」の中に、「あの事件がなければ存在していたかもしれないドギ」の可能性を見出そうとすることが、無意味であるとは言い切れないだろう。
 そんな「二人のドギ」に対して、全ての真実を知る唯一の人物であるチシャがいかなる想いを抱いているのか、そのことを知る者は誰もいない。

 ******

 一方、トオヤの許にはゴーバンからの手紙が届いていた。彼はドラグボロゥで発表された新体制の概要を聞き、この地にイアンとヴェラが赴任してくることを確認した上で、彼等の到着を待たずにヴァンベルグのハルペルへと帰還していたらしい。ゴーバンの本音としては、自分の生まれ育った街が「別の誰かの土地」となることに対して、どこか複雑な心境だったのかもしれない。
 とはいえ、全てを放棄して異国に逃げた自覚のある身としては、特にそれに対して異論を挟むつもりもない(また、自分とは対照的にその地に残り続ける道を選んだ「偽物のドギ」についても、彼は手紙の中では一切触れられていなかった)。彼はイアン達の手によってアキレスがより活気のある街となること、そしてヴァレフールがレアやトオヤの手によって「世界一の国」となることに期待していると告げた上で、手紙の最後はこう綴られていた。

「俺はまだハルペルの領主に借りを返していないから、今はひとまず帰る。その上で、今度こそ師匠と一緒に旅に出て、いつか必ず、弟を取り返す」

 当然、「今のドギの真実」を知らないトオヤは、素直にその心意気に共感する。彼等がやがて「真実」に辿り着いた時、いかなる道を辿ることになるのか、それはいずれまた別の物語を通じて語られることになるであろう。

4.9. 変わらないもの

 こうしてドラグボロゥに活動拠点を移したトオヤ、チシャ、カーラ、ドルチェの四人は、しばらくは新しい環境に戸惑いながらも、どうにか時間を見つけては、定期的に全員揃った上での「お菓子をつまみながらのお茶会」を開催していた。

「この光景は変わらないね。集まる場所がタイフォンじゃなくなったくらい?」

 ドルチェがしみじみとそう呟くと、トオヤとチシャも口を開く。

「いいじゃん。今は休みなんだから」
「これから十分に忙しくなることですしね」

 そんな会話が交わされている中、離席してお茶の追加を準備しているカーラの席には、この城の図書館の中から借り出した「刺繍の教本」が置かれていた。どうやら本格的に「レッサーパンダのぬいぐるみ作り」に打ち込み始めたらしい。そんな彼女が紅茶の入ったティーポットを片手に戻ってきたところで、トオヤは改めて仲間達に向かって語り始めた。

「これから、これまで以上の難題や危機が、俺達やヴァレフールを傷つけることになるかもしれない。だけど、皆の力があれば、それも跳ね除けていくことは出来ると思う。この一連の継承問題の中で学んだことは、聖印の力も、魔法の力も、邪紋の力も、投影体の力も、それ以外の全ての力を合わせることによって、物事を成していくことが出来る、ということだ。大切なのは、皇帝聖印を目指したり、それ以外の力に頼ったりすることじゃない。大義のために誰かを傷つけているようじゃダメなんだ。人々が一致団結して、自分達に襲い掛かる難題を、もしくは自分達の間の不和を解決出来ればいい。まぁ、甘い考えかもしれないけど、そのために、改めて、これからもよろしく頼む」

 そう言って頭を下げた後に、トオヤは少し気が抜けたような表情で問いかける。

「そのためには、どうしたらいいと思う?」

 トオヤのそんな「今ひとつキマりきらない態度」に対して、紅茶を淹れ直しながらカーラはため息をついた。

「……せっかくカッコよかったのに、あるじ〜」

 彼女のその一言によって、四人は笑顔に包まれる。実際のところ、トオヤのこの最後の問いの答えは、誰にも分からない。おそらくそれは、トオヤ達がこれから先、一生悩み続けていく課題であろう。だが、今のトオヤ達には、そこでどれだけ思い悩んでも、共にその悩みを共有し、乗り越えていこうとする仲間達がいる。ここまで深く結ばれた「心の繋がり」がある限り、彼等はこれから先も、自分達の道を切り開いていくことが出来るだろう。たとえいかなる風雲が、彼等の未来に待ち構えていようとも。

(ブレトランド風雲録・完)

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最終更新:2018年07月27日 11:16