第7話(BS47)「新世界の創造主」(
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「パンドラ新世界派」とは、ブレトランド・パンドラにおける四派閥の一つであり、この世界を混沌で満たし、その環境下で生きていける人々による新世界を築くことを目標として掲げた、「最も純粋なパンドラ」と言われる一派である。
彼等の至上命題は「『聖印を持つ者』が『聖印を持たざる者』を支配する不平等な世界」の打倒であり、そのために必要なのは「皇帝聖印による混沌消滅」ではなく、「聖印が無くても、混沌に満ちた世界で人々が生きていく技術」であると彼等は考えている。「皇帝聖印が出来ても混沌が無くなる保証はないし、仮にそれが可能であるとするならば、むしろ現在の支配階級である君主達やエーラムは、皇帝聖印の出現を許しはしないだろう」というのがその根拠であり、「混沌を忌避するのではなく、混沌と共存出来る存在へと人類全体を進化させることこそが必要」と考えた上で、極大混沌時代の遺跡などを採掘しつつ、ブレトランド各地の「聖印の力も魔法の力も使えない者達」に対して、様々な形で「混沌の力」を与えることで、少しずつ人類社会の中に「混沌」を馴染ませる、それが彼等の行動理念であった。
リーダーのジャック・ボンキップは、数百年前(パンドラ結成以前)からブレトランド各地で暗躍していると言われる召喚魔法師であるが、彼は既に「本来の身体」を捨てている。それは、「通常の人間」の身体では自身の魔力を制御しきれなかったため、より魔力に対して強い適性を持つ人物の身体を乗っ取る必要があったからである。
そうして彼は「魔力に対して強い適性を持つ依代」を探して、幾人もの人物の身体を乗っ取っては使い潰し続けた結果、最終的に「英雄王エルムンドの血族」が最もそれに適しているということに気付き、ここ数代はブレトランド三国の王族達の身体を渡り歩いている。現在の彼の依代となっているのは、現ヴァレフール伯爵ワトホートの甥にあたる、僅か9歳の少年ドギ・インサルンドであり(下図)、まだ未成熟ながらもジャックはその身体から強烈な潜在能力を感じ取っていた。
ジャックは目的のためなら手段を選ばぬ性分であり、今のこの「ドギの身体」も本人や周囲の者達の意思を踏みにじって手に入れた代物である(そこに至るまでの過程は
ブレトランド風雲録6参照)。その他にも彼等はこれまで様々な事件や混沌災害を引き起こし、その度に多くの人々の不興を買ってきたが、その一方で「弱き者達に無償で力を与える存在」でもあるため、一部の民衆の間では、密かに彼等を頼りたいと考えている人も少なくはないという。
これは、そんなパンドラ新世界派の者達によって繰り広げられた、ほんの些細な日常の物語である。
1.1. 忍ぶ魔法師
その日の夜、彼女は「一人の女性が燃え盛る炎の中で苦しみながら焼け死んでいく夢」を見ていた。それは彼女にとっては見慣れた「忌まわしい夢」である。それが実際にかつての彼女がその目で見た光景なのか、ただの妄想なのか、あるいは未来予知なのかは不明であるが、いずれにせよ、その夢を見た直後の彼女は、いつもすこぶる気分が悪かった。
彼女の名はリーフ・ノーランド(下図)。パンドラ新世界派に所属する魔法師である。歳は14歳程度とされているが、実際のところ彼女には記憶がないため、本当の年齢は分からないし、リーフという名前に関しても、それが彼女の本当の名前かどうかも分からない。
彼女は数年前、パンドラ均衡派の首領マーシー・リンフィールドに拾われ、彼女の下で魔法を学んだ。彼女は瞬く間にマーシーの教える基礎魔法と時空魔法を習得し、同派に所属する他の魔法師達からも様々な系統の魔法を会得した。均衡派の魔法師達は彼女のその類い稀なる才能に驚愕したが、マーシーだけは「彼女ならばそれくらい出来て当然」と言わんばかりの表情で、淡々とリーフを一流の魔法師へと育て上げた。
その後、リーフはマーシーの判断で新世界派へと移籍させられ(その裏では、マーシーとジャックとの間で何らかの取引があったとも言われているが、真相は謎である)、現在はジャック直属の精鋭部隊の一人として、ブレトランド各地において「力を欲している人々」に、邪紋や特殊な魔法具などを与える任務に従事している。日頃は黒覆面で顔の半分を隠しているが、これは彼女が召喚する地球の投影体「ニンジャ」の姿を真似ているからである(別に任務上隠す必要があるという訳でもなく、純粋に趣味らしい)。
「ニンジャ」とは、地球の一部の地域に生息する、人知れず諜報活動に従事する者達の総称であるが、彼女が呼び出すニンジャ(個体識別名「フジワラ」)は、戦闘能力にも長けており(ただし、彼がその力をブレトランドで振るうことはない)、リーフは自分の身体の動きを魔法で加速させた上で、地球におけるニンジャの戦闘力を自らの肉体で再現する技術に長けている。無論、ニンジャの本来の能力である諜報活動という点においても、彼女は自身が呼び出すニンジャの能力を最大限活用することで、ブレトランド各地における「横暴な君主による理不尽な支配に苦しんでいる人々」を探す際に役立てている。その意味では、まさに彼女そのものがニンジャであると言っても過言ではない。
彼女が日頃暮らしているのは、ブレトランドとは特殊な形で繋がった「異空間」に存在する新世界派の本拠内にあてがわれた、小さな私室である。まだ悪夢の余韻を残したまま、黒を基調とした独特の装束に着替えたところで、彼女の目の前に、悪魔のような羽を生やした見知らぬ少女(下図)が突然現れた。扉も開けずに突如として出現した侵入者であったが、この異空間では、物理法則を無視して姿を消したり現したりすることが出来る者も、さほど珍しくはない。
「はじめまして。私、ココっていうの。最近、ジャック様に呼び出された使い魔なんだ。よろしく♪」
幼く陽気な声色でそう自己紹介する少女に対し、リーフは淡々と答える。
「あぁ、ジャック様の……」
「さっそくだけど、ジャック様がお呼びだよ。あんたの力が必要なんだ」
「分かったです。具体的な仕事内容はジャック様から聞けばいいですかね?」
「そうね。実は私、知ってるんだけど、まとめてジャック様から聞いた方が早いと思うし」
「分かったです。じゃあ、早めに行っとくです」
リーフはそう言って、この異空間全体の「主」でもある新世界派の首領ジャック・ボンキップの鎮座する中央棟へと向かった。なお、彼女のこの微妙に不自然な口調が、誰の影響なのかは分からない。ただ、気付いた時には彼女はこのような喋り方になっていたようである。
1.2. 邪神の眷族
同じ頃、同じ建物の中に存在する別の個室には、部屋全体に施された不気味な装飾に囲まれつつ、謎の祭壇の前で禍々しい儀式を展開する、一人の青年(下図)の姿があった。
彼の名はオブシド。日頃は「シド」と呼ばれている。かつては姓もあったが、諸々の経緯の末に失われたらしい。
彼の故郷では、数年前に国主がパンドラと手を組んで「異界の邪神」を召喚し、最終的にその邪神が原因で、その国は崩壊することになった。だが、もともと享楽主義的で「力」に対して強い憧れを持っていたシドは、その祖国崩壊をもたらした邪神に魅入られて下僕となり、邪神の力を「邪紋」として分け与えられることになったのである(その力を発動させる時は彼の額にある「第三の目」が開く)。なお、その邪神の正確な名は通常の人間の発声器官では発音出来ないため、元の世界では「這いよる混沌」などと呼ばれていたが、その「混沌」という呼称が、このアトラタン世界における「混沌」と同じ意味なのかどうかは不明である。
彼はその邪神のことを「主(あるじ)」と呼び、「主を楽しませるために、強くならなければならない」「いつか再び主と出会った時には、笑顔で殺し合いたい」という破滅的な信念を胸に各地を転々としてその力を高めていく過程で、いつの間にかパンドラ新世界派の実行部隊の一人として雇われることになった。彼はジャックの掲げる新世界構想自体には特に興味を示さなかったが、「混沌の解放」を掲げる彼等とは感性的な次元での親和性は高く、世界を混沌で満たすことは、結果的に「主が楽しめそうな素敵な世界」に繋がると考えているようである。
そんなシドがこの日も一人で不可思議な呪文を唱えながら奇妙な舞踊(のような何か)を繰り返しているところに、先刻までリーフの部屋にいたココが現れる。
「ねぇ、あなた、何してるの?」
シドもまた、このような「何の脈絡もなく現れる来訪者」には慣れており、特に動じることもなく素直に答える。
「そりゃあ、主を讃える儀式だよ。今忙しいんだけど、 何か用?」
「あなたの主って、どんな人?」
「顔がない人だよ」
実際のところ、彼の主は見る度に顔も身体も異なっており、何が本当の姿なのかは分からない。そもそも「本当の姿」なるものがあるのかどうかも分からない。その意味でも、まさに「混沌」そのものなのである。
「ふーん、そっかぁ」
ココはそう答えつつ、部屋の装飾に視線を向けると、彼女が興味を持っているように思えたシドは嬉しそうな声で語りかける。
「あぁ、もしかして、君も我が主の威光と権威について知りたいのかな?」
「うーん、まぁ、ちょっと興味はあるかな」
「いいだろう。ぜひ教えてやろう」
シドはそこから三時間ほど、彼の中での「主」について、ひたすら語り続けた。それがどこまで正しい説明であったのかは分からない(そもそも、それを判別出来る人間はこの世界にはいない)が、ココは楽しそうな顔でその話に聞き入る。そして、ようやく話が一段落したところで、彼女はふと思い出したかのように口を開く。
「あ、そうそう、忘れてたけど、実はジャック様から言伝があってね」
彼女はそう言うと、自分がジャックの使い魔であることと、そのジャックから「仕事があるからシドを連れて来い」と言われていたことを伝える。
「その話は、もう少し早めにしなくて良かったのか?」
「大丈夫じゃない? 特にそんなに急ぎの話でもなかったみたいだし。あぁ、でも、依頼人の都合もあるか。といっても、まぁ、あの人、そんなに気が短そうな人でもなかったみたいだし、大丈夫だと思うけど」
「うーん、この話はまだあと六時間くらいかかるんだけど、さすがに一応、その話を先に済ませておいた方が良さそうだな。じゃあ、行って来るよ」
「はいはーい。またねー」
こうして、当初の予定から三時間ほど遅れつつも、シドはジャックの待つ中央棟へと向かった。
1.3. へべれけ空母
パンドラ新世界派の首領であるジャックは召喚魔法師であるため、その傘下には多くの投影体も存在する。その中でも特に多いのが、ヴェリア界出身のオルガノン達であった。もともと「持ち主のために尽くす」という気性が強い彼等は「従属体」という形での召喚でなくてもジャックに対して従順な姿勢となりやすいため、組織を運営する上での「手駒」として、この上なく都合が良いのであろう(なお、かつてアントリア北部のラピス村に災厄をもたらした「肥前忠広」のオルガノンも、元来は彼が召喚した存在である。詳細は
ブレトランド八犬伝を参照)。
そんなオルガノン部隊の中でも特にジャックから目をかけられていたのが、「イサミ」という名で呼ばれる「地球の軍艦」のオルガノンであった(下図)。元々は「隼鷹」という名の航空母艦であったが、この世界ではパンドラの特殊な魔法技術によって、艦載機共々「潜水能力」を付与された特殊仕様となっている(なお、現在の呼称である「イサミ」の由来については、何らかの意図があってジャックが名付けたとも言われているが、詳細は不明である)。
彼女は「道具」としての自意識が強く、ジャックの掲げる思想の意義についてはよく分かっていないが、なんとなく漠然と「最終的に世界が平和になればいいや」という程度に思っている。その上で、「人間同士の争いがなくなれば尚良し」という認識らしい(なお、どこまでを「人間」に含むのかは不明だが、少なくとも彼女自身がそこに含まれるとは思っていない)。
彼女は(なぜか)無類の酒好きで、この日もブレトランドの一角の村酒場で、呑み潰れるまで呑み明かして、机に突っ伏して寝ていた。そんな彼女の耳元で、唐突にその場に現れたココが声をかける。
「もしもーし、大丈夫ー? 起きてるー?」
「うーん、まだ飲めるよー」
完全にへべれけ状態のまま、彼女はそう応える。
「ソルマックか液キャベでも飲むー?」
「ありがとー、いただくわー」
そう言いながら、彼女はグビグビと「謎の小瓶に入った異界の飲み物」を飲み干し、どうにか意識がはっきりしかけたところで、ココがジャックからの伝言を伝える。
「なんか次の依頼人の仕事で、あんたにお声がかかってるよ。水に潜れる人が必要なんだって」
「あー、うん、まぁ、確かに今の私は、潜れるのよねー。変な改造付けられちゃったからー」
今のイサミの身体には、水中に入った時点で、自分とその艦載機の周囲に巨大な「気泡」を生み出すことで水中の航行(=潜水)が可能となる特殊な機能が備わっている。イサミ自身、どのような原理で自分にそのような魔改造が施されたのかは理解していない。ただ、それらも全て「混沌の力」によるものだと言われて「そういうものなんだ」と納得した気分になっていた。この世界ではそれ以上考えても無意味だということを、直感的に理解しているらしい。
「じゃあ、とりあえず、行くのは明日でいいかな」
イサミはそう言いながら、酒場の店員に向かって、また酒を頼み始める。
「まぁ、あの依頼人は結構切羽詰まってる様子ではあったけど、もう随分前から申請出してたのがやっと通った、ってとこだし、あと1日くらい遅れても、今更大差ないかな」
ココは無責任にそう言いながら、酒場を後にする。なお、この酒場のある村の中は「エルマ」。旧トランガーヌ子爵領モラード地方の一角に位置するウィスキーの名産地であり、現在はアントリア領となっている。
新世界派の本拠地は異空間にあり、理論上は世界中のどこからでもその「異空間への扉」を開くことは可能なのだが、それが可能なのはジャック以下極数名の幹部達のみであり、大抵の者達はブレトランドのいくつかの場所に密かに常設されている「入口」から出入りしている。そして、このエルマの近くにはその「常設口」は存在せず、最寄りの常設口までは歩いても数日を要する。ココは自力で「扉」を開いてこの村を訪れていたのだが、彼女はイサミを酒場に残した状態のまま、一人で帰ってしまった。
つまり、この時点で、イサミが自力で本拠地へと帰還するには(再びココか他の誰かが迎えに来てくれない限り)どう計算しても数日を要することになるのだが、そんなことは気にせず、イサミはそのまま一人で楽しく呑み続けるのであった。
1.4. 湖底の邪神
こうして各自が好き勝手に行動した結果、ジャックの指定通りの時刻に彼の前に現れたのは、リーフ一人であった。
「他にも人が来ると聞いていたのですが」
リーフが首を傾げながらそう言ったのに対し、幼き少年の身体に心を宿したジャックはため息をつきながらも、「いつものことか」と言わんばかりの達観した表情を浮かべる。もともとパンドラは多種多様な闇魔法師達の寄り合い所帯であり、その中でも新世界派は最も内部規律が緩く、各自が自由気ままに行動する者達の集団であったため、ジャックにしてみればこのような事態は十分に想定内の話であった。この辺り、ジャックは秘密結社の指導者としては極めて寛容であるが、その背後には「日頃の規律は緩くても、いざ必要な時は強制的に従わせればいい」という割り切りがあり、当然その根底には「自分が本気になれば、いつでも誰でも強制的に従わせることは出来る」という圧倒的な自信がある。
「まぁ、最悪お主一人でもなんとかなるだろう」
「えー、それはさすがに面倒なんですけどー」
リーフがこのような「ナメた口調」で答えることが可能なのも、ジャックの中での「強者の余裕」の現れでもある。ジャックは淡々とした口調でそのまま語り続けた。
「とりあえず、話だけでも先に話しておこうか」
「はい。どういう仕事です?」
「今回の依頼人は、イェッタの街にいるらしい」
イェッタとは、ブレトランドの南方を支配するヴァレフール伯爵領内の北部国境の街であり、聖印教会の影響力が強い街としても知られている。つまり、パンドラとは最も相性の悪い街の一つである(下図参照)。
「今回の依頼人曰く、そのイェッタから少し先に行った場所に位置するこの『ハインド湖』の奥に『異界の邪神』が眠っているらしい」
地図を見せながらジャックが説明する。「ハインド湖」とはタレイアの北に位置する湖であり、ブラフォード湖、パルトーク湖と並ぶ、ブレトランドでも有数の規模の湖である。
「ほう、邪神ですか」
「正確には『異界の邪神』なのか、『異界の邪神の力を得た者』なのかは分からんが、随分昔に一度倒された者が、この湖底に眠っているとのことだ。その邪神の力の解放を手伝ってほしい、というのが今回の依頼だ」
ジャックがそう言ったとこで、唐突にその場にシドが現れた。
「邪神!? 邪神って言いましたか!?」
目を輝かせて飛び込んできたシドに対し、ジャックは淡々と答える。
「まぁ、それが今回お主を呼んだ理由なのだがな」
特に遅刻を咎める様子も見せないそんなジャックとは対照的に、リーフは露骨に不快な視線を向ける。
「遅すぎですよ」
「あぁ、すいません、どうしても外せない用事があって、三時間遅れました」
シドがそう言いつつ、今更ながらにジャックに向けて頭を下げるが、リーフはまだ不機嫌そうな様子である。
「そんな忙しいなら、お帰り下さい」
つい先刻、「一人でやるのは面倒」と愚痴をこぼしたリーフであったが、実際のところは、こんな不真面目な男に中途半端に協力されるくらいなら、自分一人の方がやりやすいと考えているのかもしれない。実際、そんな不遜な態度が許される程に、彼女は新世界派内でも指折りの腕利きエージェントであった。
だが、そんなリーフの冷たい態度を気にせず、シドは悪びれない笑顔で答える。
「嫌だなぁ。冷たいこと言うなよー」
「えぇ〜……」
リーフはシドのこの自由気ままな態度に辟易しつつ、これ以上彼に何を言っても無駄だと思い、ひとまず今はジャックの話の続きを聞くことにした。話の腰を折られたジャックであったが、気を取り直してそのまま説明を続ける。
「依頼人は邪神を解放した上で、その力を手に入れたいと考えているようなのだが、問題は、ここは聖印教会の連中の本拠地なので、忍び込むには少々厄介、ということだ」
「なるほど」
ハインド湖の周辺は神聖トランガーヌ枢機卿領である。彼等は聖印教会の中でも最も過激な日輪宣教団の教義を国是として掲げており、魔法師も邪紋使いも投影体も、発見次第即抹殺されても文句は言えない、そんな国柄であった(詳細は
ブレトランドの光と闇2を参照)。
「もっとも、奴等は魔法が使えない以上、水中には入って来られない筈だから、湖にまで辿り着いてしまえば、あとは心配ないだろう。こちらの潜水要員としては、お前達の他にあと一人、『お前達を連れて水に潜れる奴』が来る予定なんだが……、まぁ、来なかったら来なかったで、お前の元素魔法でどうにかなるだろう」
「うーん、呼吸自体は大丈夫ですが、水圧とか色々面倒ですからね」
さすがに七色の魔法を使いこなすだけあって、リーフは一般教養に関しても相当博識なようである。もっとも、彼女自身、いつの時点でそれを学んだのかについては覚えていない。うっすらと、記憶を失う前にどこかで聞いたような気はするのだが、それがどこで誰の手によって施された知識なのかが、思い出せないらしい。
「いやー、よりによって聖印教会のど真ん中で昼寝するとは、さすが俺の主だなぁ」
シドは感服したような表情でそう呟く。どうやら彼は、この湖の奥に眠っている「邪神」が、かつて彼に力を授けた「あの邪神」であると勝手に決めつけているらしい(なお、実際の時系列としては「邪神が眠っているところに、そうとは知らずに勝手に聖印教会の者達が集まって街を作った」と言った方が正確なのだが)。
「先程言った通り、依頼人は今、イェッタの街にいる。妙齢の女性で、目印として『アネモネの花』を持っているそうだ」
「アネモネって、お姉さんのことですよね。私知ってますよ」
リーフがそんな意味不明なリアクションをしている傍ら、シドはその話をしているジャックから、奇妙な違和感を感じ取っていた。
ジャックはこれまで様々な人間の身体に憑依し続けてきたが、常に「右目」は完全に闇色に染まった状態であるのに対し、「左目」には怪しげな光が宿っている。その両目が何を意味しているのかは分からないが、右目の方はいつもは眼球が動くことすらなく、不気味な雰囲気を漂わせているだけなのだが、その右目が、一瞬キラッと光ったように思えたのである。それは妖光を漂わせた左目とは対照的な、むしろ「人間らしい瞳の輝き」のように思えた。
(ん? まぁ、目が光るなんてよくあることか)
シドはすぐに自分の中でそう結論付けたが、彼が一瞬怪訝そうな表情を見たことに、ジャックの方も気付いていた。
「あぁ、どうやらまだこの身体が安定していないようだな。時々、儂の意に反して感覚の一部が反応することがある」
ジャックはそう言いながら一旦右目を閉じて、まぶたの上から軽く撫でつつ、特に異常は感じられないと実感した上で話を続ける。
「しかし、なかなか良い素材だぞ、これは。まだ馴染みきってはいないが、ここまで混沌への適性の強い身体なら、本来の私の魔力の八割以上を解放しても壊れないだろう。前の老人の身体では、四割程度で既に限界になってたからな」
「あー、あれですよね。80%の俺を出してやろうってことですよね。私知ってますよ」
またしてもリーフが意味不明なリアクションを挟んだところで、シドはシドでマイペースな調子で呟く。
「優良物件かぁ。いいなぁ、俺もそのうち見つかるといいなぁ。あ、俺自身が優良物件だったわぁ」
「ちょっとさっきから何言ってるか分からないですね」
そんな全く噛み合わない会話を交わす二人の様子を眺めつつ、ジャックは改めて二人に「指令」を下す。
「さて、あと一人、潜水要員として航空母艦のイサミを呼んでいるんだが、このまま待っていても来ないようだし、お前達から行って話をつけてくれ」
一応、この二人は過去にイサミとは同じ任務に就いた経験を持つ「顔見知り」である。リーフはその時のことを思い返しながら答えた。
「分かりました。イサミさんは酒飲みですから、どこかで酒飲んでぶっ倒れてるんでしょう」
実際にその予想は正解だったのだが、さすがに今の時点でイサミがどこにいるかまでは分からない。だが、ジャックはイサミとは強い精神感応関係にあるため、ジャックが集中してその場所を居場所を探索すれば、すぐに位置を特定することは出来る。
(エルマか……。ならば、直接現地で合流させた方が早いな……)
ひとまずジャックはそう判断した上で、イサミに簡易念波で「イェッタへ行け」とだけ伝え、リーフとシドには「パンドラの別派閥からの客人」が待つ応接室へと向かうように命令した。
1.5. 薬売りの懸念
応接室で二人を待っていたのは、パンドラ楽園派に所属する地球人の投影体「薬売りのジェームス」であった。
「新世界派のアジトに呼ばれたのは初めてだが、ここはなかなか不思議な空間だな。そういえば、最近そっちのボスが最近代替わりというか『体替わり』したと聞いたが……」
そう語りかけたジェームスに対して、リーフとシドは淡々と答える。
「『80%の俺』を見せられるようになったらしいですね」
「パーツ交換? いや、ハードウェア交換というのか?」
パンドラ内には様々な世界からの投影体が多数存在するため、様々な「よく分からない言葉」が中途半端に彼等の中で浸透しているらしい(なお、地球人のジェームスにとっては、それらはむしろ聞き馴染みの深い言葉であった)。
「そういえば、今回俺に話を持ちかけてきたのは、その新しいボスに仕えているという『新しい使い魔』の女の子だったんだが……」
「あぁ、ココさんですね」
リーフがそう答えると、ジェームスは怪訝そうな顔で問いかける。
「あの子、何者だ?」
「え? 知らないです」
「そうか……、どうも色々なところで話を聞いてみたところ、彼女、ただの使い魔じゃないみたいでな」
「どういうことです?」
そう言いながらリーフが首を捻ったところで、シドも口を挟む。
「インプか何かかと思ったんだけどな」
実際、彼女の外見はアビス界かディアボロス界の悪魔か何かの類いのように見えるが、二人とも(そして勿論イサミも)彼女の正体については何も確認していない。
「一人であちこち飛び回って、メッセンジャーのように色々な依頼を各方面に届けてくれているようなんだが、あの子一人でやってるにしては、妙に早すぎる。何か独自の情報網を持っているのか、もしくはあの子にやらせているフリをして、別の誰かがやっているのか……」
「ふむ……」
「まぁ、いいや。あんたらとしても『知ってても言えないこと』は色々あるだろうしな。さて、薬なんだが」
「はい、ヤク下さい」
異界のシンジケートとの会話で用いられるような口調のリーフにそう言われたジェームスは、いかにも異界のシンジケートのエージェントが持っていそうなアタッシュケースを開き、その中に入っている各種の「パンドラ製の薬品」の数々を二人に見せる。
「今ちょっと楽園派の方で色々あってな。ノルドと戦争になるかもしれないということで、色々と入り用ではあるから、今出せるのはこんなところだ。この中から5〜6本くらい、好きなものを持って行ってくれ」
彼がそう言ったところで、リーフがやや不満そうな顔で首をひねる。
「あれ? 『筆記用具』がないじゃないですか」
パンドラの一部(?)では、なぜか一般的な「解毒薬」のことを「筆記用具」という隠語で呼ぶ謎の習慣がある。なお、それは「どこにでも売っている代物」のため、今回はジェームスは特に必要ないだろうと思って、持って来なかったらしい。
だが、そこでシドが得意気に口を挟む。
「大丈夫。俺が持ってるよ。いつでもどこでも魔法陣を書けるようにね」
「あぁ、それは素晴らしいです」
なお、この時点でシドは「解毒薬」と「本物の筆記用具」を両方共持っていたのだが、その意図がリーフに伝わっていたか否かは不明である。結局、彼等は「体力回復薬」を2本、「精神回復薬」を3本、「万能薬」を1本、それぞれ受け取って、イェッタへと続く最寄りの「常設口」へと向かうのであった。
1.6. 酒の村の人々
一方、エルマ村で引き続き呑んだくれているイサミの前に、奇妙な装束の中年男性(下図)が現れる。彼はこの近辺の酒場街の自警団を率いている人物であった。
「あんた、見ない顔だけど、いい飲みっぷりだねぇ」
そう言われたイサミは、トロンとした目で答える。
「んー? なにぃ? 飲み比べするのぉ? いいよぉ?」
そう言って、既にフラフラになるほど泥酔していたイサミは、その中年男性と差し向かいに座り直して改めて飲み直すが、さすがに元々酔いが蓄積していたこともあって、段々と意識が遠くなっていく。そんな状況を遠くで眺めていた、酒場主の男(下図)は、中年男性に対して呆れたような顔で声をかける。
「おい神様、ちょっとやりすぎだって」
「神様」と言われたその男も、さすがに新顔の女性をこのまま放っておく訳にもいかなかったため、ひとまず近くにいた「この村の領主の契約魔法師」に薬を貰いに行く。
やがて、彼に連れられて一人の女魔法師(下図)が現れると、彼女はイサミに対して特製の酔い覚まし薬を処方しつつ、イサミが目を覚ましたところで、ふと問いかける。
「あなた、オルガノンですよね?」
「よく分かったねぇ〜。あんた誰〜?」
「私はこの村の領主の契約魔法師で、エステルと申します。私、今まで色々なオルガノンの人と会ったことがあるんですけど、乗り物のオルガノンの方と会うのは初めてなんですよ」
「へぇ〜、で、何か用事ですかぁ〜?」
「とりあえず、あなたが変身するところを動画に撮らせて欲しいんですが」
彼女が言うところの「動画に撮る」とは「脳裏に焼き付ける」という意味である。
「ん〜? いいよぉ〜」
そう言いながらイサミは千鳥足で外に出て、村の中央の広場まで向かった上で、日頃は自らの身体の一部(内側?)に圧縮収納されている「本体」としての「空母」を(この広場に入りきる程度の大きさで)召喚し、体内に搭載されている艦載機を飛ばせてみせるが、酔いの影響か、どこか飛び方が不安定である。エステルは興味深そうな顔を浮かべながらその様子を観察し終えると、ひと段落して「人型」のみの状態に戻ったイサミに質問する。
「ところで今、あなた、どこかに所属していたり、誰かに仕えていたりするのでしょうか?」
「えっとねぇ〜……、私はジャ……」
そこまで言ったところで、ハッと我に帰る。それが彼女自身の理性や忠誠心によるものなのか、それともジャックが彼女に施した制御装置によるものなのかは分からないが、彼女は慌ててその名を飲み込んだ。とはいえ、基本的にごまかすのは苦手なので、シドロモドロの口調のまま、適当な方角を指差して答える。
「……名前はあんまり覚えてないんだけど、あっちの方の君主様に仕えてて〜」
明らかにそれはどこか要領を得ない口振りであったが、逆にその様子から、まだイサミが泥酔状態にあると判断したエステルは、これ以上深く聞いてもまともな返事は出て来ないだろうと判断する。
(まぁ、よく分からないところは、適当に脚色すればいいか)
エステルは自分の中で勝手にそう結論付けた上で、そそくさとその場を立ち去るイサミを見送った。その後、イサミは「川を下れる程度の大きさの船」の状態となった上で川を降って海に出て、そこから海を経由して、今度はイェッタ近辺へと続く川を上って、集合予定の現地へと向かうことになる。
一方、数日後にエステルによって生み出された「航空ショーのような映像」が村の広場で披露されて、村の子供達は大喜びすることになるのだが、それは特に語る必要もない物語である(なお、このくだりの登場人物達については
ブレトランドの遊興産業5を参照)。
それから数日後、イェッタに到着したリーフとシドは、まずはイサミと合流すべく、彼女の気配を探る。すると、イェッタの北を流れる川沿いに「異界の飛行機」が飛んでいるのを発見し、思わずシドが口を開いた。
「おぉ、あれだ。確かイサミに乗ってた……、瑞雲!」
正しくは、彩雲である。とはいえ、地球人でもないシドがそんなことを知っていることの方が、むしろおかしな話である。
「ちょっと前にお祭りやってましたね」
リーフはそう呟くが、彼女が言う「お祭り」とは何を指した言葉なのかは不明であり、「ちょっと前」がいつのことを指すのかも分からない。
二人が彩雲を追いかけるように町外れの川へと向かうと、その彩雲の方もリーフ達を発見し、無事にイサミは二人と合流を果たす。なお、イサミはここに到着する前に、聖地フォーカスライトの近辺で一度警備兵に発見されており、そこから慌てて逃げながら川を上っていたところであった(彩雲を発進させていたのも、周囲の警戒偵察のためである)。
「私、ここに行けとしか言われてないんだけど、事情を教えてくれない〜?」
イサミにそう問われたリーフは、ジャックに言われた通りの内容をそのまま伝えた上で、おもむろに拳を握りしめた。
「とりあえず、一発ぶん殴らせて下さい」
「装甲薄いから、それはやめて〜」
「今まで何してたんですか?」
「それはねぇ〜、えーっと、えーっと……」
イサミが言い訳を思いつく前に、シドが割って入る。
「どうせ、酒でしょー?」
滝のような汗を流しながらイサミが頷くと、リーフは自身の拳を生命魔法で強化した上で殴りかかるが、イサミはかろうじてギリギリのところで避ける。
「あっぶないなぁ。やめてよ、もう〜」
「分かったら、次からは呑んだくれるようなことはしないようにすることですね」
「それは保証出来ないかなぁ〜」
イサミはあまり悪びれる様子もなく、リーフが呆れ顔を浮かべる一方で、シドは特に咎める気もなくその光景を眺めている。そんな中、イサミとシドは、少し離れたところ(町の方角)から、リーフのことを遠目で凝視している一人の男性を発見した。その男性は、まるで「信じられないもの」を見たかのような驚愕の表情を浮かべていたが、そんな自分の存在が「リーフの連れの二人」に気付かれたことを察して、逃げるようにその場から去って行く。
「今、誰かこっち見てたよ」
イサミがそう告げる。
「あぁ、見てたね」
シドも頷く。
「そうなんですか?」
リーフは全く気付いていない。日頃は(少なくともこの三人の中では)しっかり者の彼女だが、意外に自分自身に対する周囲の動向に対しては無頓着らしい。一応、シドが説明する。
「リーフの顔を見て、逃げてったよ」
「何なんでしょう?」
リーフにしてみれば、この地に知り合いがいる訳でもないので、全く心当たりはない。もっとも、過去の記憶がないリーフにしてみれば、「過去の知り合い」の可能性は無限にある訳だが。
「追った方がいい?」
イサミはそう問いかける。その気になれば、彼女は艦載機を飛ばして空から先刻の男性を探すことも出来る。ただし、聖印教会の影響力の強いこの地で「異界の飛行機」を堂々と飛ばせば、余計な揉め事を引き起こす可能性もある。
「いや、どうでも良くないですか? 私達には仕事がありますし。誰かさんのせいで遅れ気味ですし」
リーフが冷たい視線でイサミにそう告げると、シドも頷く。
「まったく、誰のせいだろうなぁ」
三時間くらいはシドのせいでもあるのだが、そんな昔のことはもう覚えていないらしい。
「で、何でしたっけ? お姉ちゃんのある家、でしたっけ?」
「あぁ、アネモネを持ってる女性、だな」
訳の分からないことを言い出すリーフの発言を、シドが冷静に訂正する。もしかしたらリーフは、記憶を失った時に脳の中の別の何かも喪失してしまっているのかもしれない。
さて、ここで問題なのが、その「アネモネを持った女性」を探す方法である。イェッタはそれなりに広い町であり、この三人はいずれも「目立つ風貌」なので、あまりウロチョロと長時間にわたって街中で人探しを続けると、聖印教会の信徒達に「怪し気な人物」として目をつけられる可能性がある。
そこで、リーフは一計を案じた。彼女にとって最も得意な召喚魔法を、ここで発動させることにしたのである。彼女の呪文詠唱と共に、どこからともなくシュシュッと「黒服の男」が参上する。この男こそがリーフにエージェントとしての生き様を伝授したニンジャ「フジワラ」であった。
「……ということで、フジワラ、アネモネ持ってる女性を探してきて」
「承知!」
フジワラはそう答えると、一瞬にして姿を消す。彼の諜報能力を以ってすれば、初めて訪れる筈のこの街でも、人一人探す程度は容易い。彼は、川上りの過程で濡れたイサミの髪が自然乾燥するよりも前に、即興で書き上げた「町の地図」を持って帰ってきた。その地図に描かれた宿屋と思しき建物の前に「印」がついている。どうやらそこに、件の女性がいるらしい。
「ご苦労です。ありがとうです」
リーフにそう言われたフジワラは、黙って頷き、姿を消す。元いた世界(?)に一旦帰ったのか、それとも、目に見えない場所に隠れているだけで、常に彼女の近くにいるのか、それは誰にも分からない。
2.2. 理由亡き怨恨
三人がその地図通りに「印」で指定された場所へと向かうと、そこにいたのは眼鏡をかけた長い三つ編み髪の、おとなしそうな風貌の女性(下図)であった。
「皆さんが、ココさんが紹介して下さった方々ですね。私はフローラと申します。とりあえず、ここだと微妙に目立つので、中に入りましょう」
そう言って、彼女は近くの宿屋の中に用意した部屋に、三人を案内する。部屋に入って扉を閉めると、彼女はさっそく話の本題を切り出した。
「この北に位置するハインド湖の中心に『かつて偉大な君主に倒された邪神の欠片』が眠っていると言われています。その『欠片』というのが何を意味しているのかは分かりませんが、少なくとも『何か』が眠っていることは私には分かります」
その穏やかそうな風貌とは裏腹に、フローラがどこか不思議な自信に満ち溢れた雰囲気を漂わせながらそう言うと、イサミは気の抜けた声で問いかける。
「へー。なんで?」
「実は私には、混沌の存在を見抜く力があるのです」
「へー」
「ほう?」
「具体的には?」
三人にそう言われたフローラは、集中して彼等を凝視する。
「そこのあなたは投影体の方、そちらの方は邪紋使いの方、そしてあなたは、身体は人間ですが、おそらく魔法師の方で、現在その身体を魔法の力で強化されていますね?」
「その通りです」
三人を代表するかのようにリーフがそう答えると、フローラは神妙な顔付きのまま話を続ける。
「私はこの能力を『夢の中に現れた謎の存在』から与えられました。その代償として、過去の記憶が一部抜けています。正確に言えば、この力を使うごとに、少しずつ減っていくのです」
彼女自身、その「謎の存在」が何者なのか、なぜそのような存在が自分の夢の中に現れたのか、全く分かってはいない。ただ、この世界には「他人の夢の中に干渉する者」や「他人に特殊な力を与えることが出来る者」(および「その代償として何かを要求する者」)など、いくらでも存在する。混沌の世界に身を置く彼等にとっては、その話自体はそれほど驚くべきことでもなかった。むしろ問題は、その力の行使の代償として「記憶」を失うという点である。
「じゃあ、今使うべきじゃなかったんじゃ……」
イサミのその指摘に対して、フローラは軽く首を振る。
「いえ、まずはあなた方が『本物』かどうかを確認する必要がありましたから。それに、どちらにしても、一番大事な記憶はもう私の中から抜け落ちているので、これ以上消えたところで、大した問題ではありません」
深刻そうな表情でそう話すフローラに対して、再びリーフが問いかける。
「一番大事な記憶?」
「えぇ。私が殺したい相手、およびその理由です」
どうやら彼女は、邪神の力を以って、誰かを殺したいと考えているらしい。
「私はかつて『とある君主』に強い恨みを持っていました。その恨みを晴らす方法を探していたのですが、もう既にその『恨み』の記憶が私の中にはありません。一応、名前だけは忘れないように紙に書き記して、時折その紙を開いて思い出してはいるのですが、すぐにまたその名前すらも忘れてしまうのです。ただ、それでも『その君主を殺したい』という想いだけは本物です。だからこそ、そのために必要な力を得るために、パンドラの皆様にご協力をお願いさせて頂きました」
既に怨恨の理由も、相手の名前すらも覚えていないのに、殺意だけが残っているというのは、さすがに奇妙な状況ではあるが、その殺すべき対象が「君主」なのであれば、それは確かにパンドラの出番であろう。どんな動機であろうとも、「弱者」に対して「強者と戦うための力」を与えることこそが、パンドラ新世界派の本懐である。
ここでイサミが再び問いかけた。
「その紙って、私達が見てもいいですか?」
「構いませんよ」
フローラはそう言って、懐から小さな紙片を取り出すが、リーフは微妙な表情を浮かべながら、ひとまず制止する。
「こういうのは、あまり立ち入って聞くべきではないのでは?」
実際、それが本来のパンドラの流儀である。一方、シドは面白そうな表情で呟いた。
「もしかしたら、誰かの知り合いかもしれないけどね」
実際、それも十分にあり得る話である。下手したら、「とある君主」というのも彼女の記憶違いで、この場にいる三人の誰か、という可能性もある。
だが、その話を聞いた上で、イサミは余計に好奇心をくすぐられる。
「気になるなぁ。見てみたいなぁ」
「では、どうぞ」
そう言って、フローラは懐から取り出した紙片をイサミに見せる。そこに書かれていたのは「ヴァレフール伯爵位第一継承者ワトホート・インサルンド」という名であった。
ワトホート・インサルンドとは、ブレトランド南部を支配するヴァレフール伯爵領の現国主である。それはすなわち、現時点において、このブレトランドの中で最大級の聖印の持ち主であることを意味している。ただ、彼女がこの紙片に名前を書いた時点では、まだ彼はその聖印を父から継承する前だったらしい。つまり、彼の即位前の時点での何らかの行動が、彼女の殺意の原動力となっているようである。
その名を目の当たりにしたイサミは、「へー」とでも言いたそうな顔を浮かべた。それに対して、リーフは小首を傾げながら問いかける。
「知ってる人だったんですか?」
「あー、うん。まぁね。ちょっと知り合いに似たような事情の人がいて」
イサミの知人の一人に、アレスという名の邪紋使いがいる。ヴァレフール七男爵の一人であるテイタニアの領主ユーフィーの部下であり、イサミがボルフヴァルド大森林の調査に向かった際に知り合った(なお、彼はイサミがパンドラの一員であることは、おそらく知らない)。彼はかつて、故郷のヴィルマ村を(伝染病の拡大を防ぐという理由で)ワトホートの命令で焼き討ちにされた過去があり、それ故にワトホートに対して極めて強い敵愾心を抱いている(詳細は
ブレトランドの英霊6を参照)。
「あんたも、村を焼かれたクチ?」
イサミはフローラにそう問いつつ、自分が知っている限りの「ヴィルマ村の焼き討ち事件」の話を伝える。だが、その話を聞いたフローラは、半信半疑ながらも、少し納得したような表情を浮かべる。
「なるほど……、もしそれが私の故郷の話なのだとしたら、今の私の怒りも納得出来ます。しかし、仮にそうだったとしたら、なぜ私は生きているのでしょう?」
「意外と、生焼けだったんじゃない? 他にも生きてる人はいるみたいだし」
イサミはここでアレスの名前までは出さなかったが、おそらく、出したとしてもフローラにはその人物の記憶もないだろう。一方、彼女の傍らでは、日頃はどんな残虐行為にも眉ひとつ動かさないシドが、珍しく少し不機嫌そうな顔を浮かべていた。
「村を焼くなんて、ひどい奴だな。ウチの主が聞いたら激オコだわ」
どうやら彼の主は、過去に自分の森を焼かれたことがあるらしい(無論、主の方にもそれ以上に「ひどいこと」をやってのけた実績がいくらでもあるのだが)。
一方、イサミの話を聞いたリーフは、なぜか頭が痛くなる。それと同時に、ここ最近の「炎に焼かれる女性」の夢を見た時と同じような不快感が彼女の脳裏に広がっていくのだが、彼女自身がその原因を理解出来ぬまま黙っていると、フローラは話を続ける。
「実は私は今、このイェッタの北にある聖印教会の最前線の村であるアレクトーで、この能力を用いて『混沌監査官』のような仕事をしているのです。ですので、私が許可を出せば、アレクトーの国境の検問は通れます」
聖印教会の人々は混沌を嫌うが、混沌の力を用いる者を識別することは現実問題として難しい。邪紋使いでも(その規模と位置によっては)邪紋を隠すことは可能であるし、投影体でもイサミのような人型投影体の場合、その正体は一眼では分からない。魔法師に至っては、身体そのものは普通の人間と変わらない以上、魔法杖などを隠してさえおけば、分かる筈もない。魔法師達の中には「混沌の気配」そのものを察知できる者も稀にいるが、君主の聖印にはそのような探査能力は備わっていないのである。
そのため、神聖トランガーヌでは旅人に対する監査は厳しく、少しでも怪しそうな雰囲気を見せれば、すぐさま綿密な身体検査や荷物確認を要求される。その検問をどう突破するかが一つの難点であったのだが、彼女が「監査側」の方にいるのであれば、それは確かに好都合である。
実際、聖印教会側としても、彼女のような能力の持ち主がいれば、そのような仕事を任せたくなるのも道理であろう。無論、そこで彼女のその判別力自体が混沌由来の能力なのではないかと疑われて然るべきではあるのだが、彼女の能力は魔法でも邪紋でもない以上、混沌に関してさしたる知識を持たない者達には、その力の根源を見極めることは出来ない(そもそも彼女自身、その点については正確には分かっていない)。
その話を聞いたリーフとシドは安堵するが、一方でイサミはバツが悪そうな顔で問いかける。
「私、フォーカスライトで警備兵みたいな人に見られてるんですけど、大丈夫ですかね?」
「それは……、その情報が伝わっていると、まずいですね」
聖地フォーカスライトもまた神聖トランガーヌ領の一部である以上、警戒令がアレクトーに伝わっている可能性は十分にある。もっとも、その時点でのイサミは「船」だったので、今の彼女を見てそれが同一人物だと見分けるのは困難だろうが、それでも検問そのものが強化されている可能性は警戒すべきだろう。
「うーん、それなら変装しなきゃ……」
イサミがそう呟いたところで、シドが何かを思いつく。
「仮面あるけど、被る?」
「……その仮面、大丈夫な仮面ですか?」
「一回つけたら外れなくなるかもしれないけど」
「ダメでーす!」
イサミが即答すると、今度はリーフが別の案を提示する。
「とりあえず、布でも巻きますか? さっき、布屋さんがあったみたいですけど」
それはすなわち、リーフと同じニンジャスタイルの勧めであったが、それはそれで逆に目立つ可能性もあるだろう。イサミはその提案に対しても首を縦には触れなかったが、少なくとも今の自分の「明らかにブレトランドとは異なる文化圏の装束(彼女の故郷における『巫女』のような服)」のままではマズい、という自覚はある。
「まぁ、服は変えた方がいいだろうな」
そんな会話を交わしつつ、ひとまず基本方針として、まず彼等はこの日はこの宿で一泊した上で、明日になったらフローラと共にアレクトーへと向かい、そこから北上してハインド湖へと彼女を連れて行く、という形で協力することを約束したのであった。
2.3. 二度目の遭遇
その日の夕刻、シドは一人で宿屋を出て、イェッタの飲み屋街を散策していた。この地は聖印教会の影響力の強い街なので、本来ならばあまり人目につくような行為は控えるべきなのだが、この男にはそのような常識は通用しないらしい。この街の領主の高潔な性格を反映してか、歓楽街と呼ぶにはやや質素な雰囲気で、あまり面白みある街並みではなかったが、そんな中で一人の男がシドに話しかけた。
「そこのあなた、少々お伺いしたいのですが」
それは、昼に川の近くでリーフを眺めていた「あの男性」である。
「あぁ、さっきも会ったね」
「先程あなたと一緒にいた覆面の女性は、あなたのご友人ですか?」
「そうだね。友人というか、まぁ、同僚?」
「ほう。今はどんなお仕事を?」
ここで「今は」という言葉を用いたのはやや不自然な言い回しだったが、それに対するシドの返答もまた不自然な答えであった。
「自営業だよ」
普通、自営業には同僚はいない。この時点で、互いに相手が何か隠しているのは察していたのかもしれないが、しばしの沈黙の後に、その男は再びシドに問いかける。
「この街で暮らしているんですか?」
「いや、まぁ、あくまで立ち寄っただけさ」
「これからどちらへ?」
「そうだね。この辺をあてもなく見物しようかな、とは思っているよ。ところで、あなたはあの子の昔馴染みか何か?」
「いや、多分、他人の空似だと思うので……」
互いに、これ以上は聞いても話してくれないだろうという雰囲気を感じ取りつつ、ひとまずその場は別れる。その直後にシドは、出立前の買い出しに来ていたフローラと遭遇した。彼女に対してシドが何か言おうとするよりも前に、フローラが小声で問いかける。
「今の人も、パンドラの方ですか?」
どうやら、先刻の男との会話を目撃していたらしい。
「いや、話しかけられただけの人だよ」
「そうですか……。あの人、魔法師ですよ」
そう聞いたシドは、興味深そうな笑みを浮かべる。
「どうも、リーフのことが気になってるみたいだけど、彼は『この辺りの人』かい?」
「分かりません。私は見たことがないですが、私もこの辺りに住んでる訳ではないので……。パンドラではないとするならば、エーラムの手の者かもしれませんね」
「とはいえ、俺もパンドラの奴の顔を全員知ってる訳でもないしなぁ……」
実際のところ、新世界派は個人事業主の集団のような組織なので(故に彼等の関係は「自営業の同僚」とも言えなくもない)、同じ派閥の中でも顔を合わせない者は多いし、どこか別の派閥のパンドラの一員である可能性も十分にある。もっとも、仮にパンドラの一員だったとしても、今の彼やフローラにとっての味方とは限らない。
「彼等がリーフさんのことを知った上で、あえて正体を隠しているのであれば、少なくともパンドラの人ではないのではないでしょうか?」
「まぁ、聖印教会のお膝元だしなぁ。どちらにしても敵の可能性が高いだろうし、警戒はしておくか」
もっとも、聖印教会にしてみれば、エーラムもパンドラもどちらも敵である。彼がどのような立場であろうとも、状況によっては一時的に共闘出来る可能性もあるかもしれない。無論、互いにその気があれば、の話ではあるが。
2.4. 見えない追跡者
その後、一旦宿屋に帰ったシドは、イサミを伴って、彼女の変装用の服を買うため、再び街に出る。閉店間際の服屋に入ったシドは、周囲を見渡しながらイサミに問いかけた。
「さて、どんなカンジの服にしようか?」
「普通なカンジにして下さい」
「これなんかいいんじゃない?」
そう言ってシドが提示したのは、漆黒のドレスのようなローブであった。
「これは普通じゃないんじゃないかな?」
「魔の神官っぽくていいじゃん」
「それだと、今のとあんまり変わんなくない?」
「白地に赤ってのは目立つんだよ。時代は黒でしょ」
「真っ黒なのも目立つんじゃない?」
そんな会話を交わしつつ、最終的には「そこそこ無難な目立たない服」を購入した上で、ひとまず宿屋へと帰ろうとするが、その途上、後方から何者かにつけられているような気配をイサミは感じ取っていた。
「誰かに見られてるっぽいんだけど」
しかし、それらしき姿は見えない。
「姿を消す魔法、かな?」
シドはそう呟く。一応、彼は若干ながらも魔法が使えることもあって、そのような魔法がこの世界に存在するということは知っていたらしい。
もし、このまま宿屋に帰ると、居場所を知られて闇討ちされる可能性もある。
「リーフがいてくれれば、どうにかなるんだが……、人気のない場所にでも誘い込んでみるか?」
「とりあえず、撒いてみましょう」
イサミがそう言うとシドも頷き、二人は一旦別れた上で、とても常人には不可能なほどの速さで裏路地を駆け抜け、それぞれ別のルートで宿屋へと辿り着く。日頃の言動に難はあれど、いざ本気を出した時の能力は、さすがにジャック直属の精鋭部隊だけのことはある。
そして二人は、念のため宿屋の裏側に回った上で、リーフが待つ宿泊部屋(二階)の窓から帰還した。
「なんでそんなところから?」
リーフが当然の如くそう反応したのに対し、シドとイサミは素直に答える。
「付けられてた」
「なんか見られてた」
「あぁ、それはお疲れ様です」
リーフは淡々と答える。この二人ならばその追跡者も無事に撒けたのだろう、という信頼からなのか、仮に襲撃があっても自分でどうにか出来る、という自信からなのかは分からないが、特に焦った様子はない。
そんなリーフに対して、シドは忠告する。
「どうも、君のことを探ってる奴がいるみたいだよ」
「それは妙ですね。私なんかを探って、どうしようっていうんでしょう?」
「他人の空似かもしれないとか言ってたけど」
「じゃあ、多分、他人の空似なんでしょう」
「一応、心には留めておいてね」
「えぇ、心には留めておきましょう」
そうは言いつつもあまり関心の無さそうなリーフに対して、シドはそのまま話を続ける。
「次に出歩く時はついて来てくれよ」
「え? なんでです?」
「俺等だと、撒くしか出来ないじゃん」
「なるほど。要するに、どうにか出来るのは私だけだと」
推定十四の小娘が偉そうにそう言っているが、二人共反論する気はない。実際、そのような状況において臨機応変に対応する能力に関しては、どう考えても魔法師の方が上なのである。
「町の中で本気出す訳にはいかないじゃん。『第三の目』開いてもいいけど、目立つじゃん」
「まずいですね」
「町の中で『飛行機』を飛ばす訳にはいかないじゃん」
「まずいですね」
むしろ、本気を出さなくても撒けたところが、この二人の実力の証明でもある。とはいえ、出来ればただ撒くだけでなく、その正体を突き止めたいところではあった。
「じゃあ、探してみます?」
リーフはサラッとそう提案するが、シドは微妙な表情を浮かべながら首を捻る。
「うーん、今から探しても、無駄骨に終わるかもしれないけど……」
それでも何もしないよりはマシか、と考えたシドが立ち上がろうとしたところで、リーフが止める。
「いやいや、私達が探しに行くんじゃないです。探させるんです」
「……あぁ、なるほど」
シドが彼女の意図を察すると、イサミも頷き、そしてリーフは再び「フジワラ」を召喚する。シドは自分が目撃した「(フローラ曰く)魔法師と思しき人物」の特徴を彼に伝えると、彼は(つい先刻、二人が入ってきた)窓から外へと飛び出して行くのであった。
******
しばらくそのまま三人が待っていると、やがてフジワラは窓から帰還し、そして調査結果をリーフに報告する。
どうやら、その「魔法師と思しき人物」は「行商人の集団」の一員としてこの街に来ているらしいが、フジワラの推測によれば、それはおそらく「商人に偽装した魔法師達の集団」であり、これから「北」に向かう準備をしているらしい。つまり、ここから先の目的地はリーフ達と同じである可能性が高そうである。
そしてフジワラがその報告を終えたところで、フローラも買い出しから帰ってきた。リーフは彼女にそのことを伝えると、フローラは神妙な顔付きで今のこの状況を整理する。
「もしかしたら『同じもの』に気付いている可能性もあるかと思います。彼等がエーラムの人にせよ、パンドラの別の部署の人にせよ、多少警戒はしておいた方がいいでしょう。もし、パンドラの人なのであれば、いっそ話を通すという手もあるでしょうが……」
「パンドラも一枚岩ではないからなぁ」
シドはそう呟く。特に新世界派は他の派閥との関係があまり良好とは言えず、別の派閥が別の目的で動いていた場合、利害が衝突する可能性が高い。
「聞くだけ聞いてみますか?」
リーフはそう言って、ジャックから渡されている連絡用の魔法杖を手に取る。これはエーラムの魔法師達が持っている魔法杖のパンドラ版のような代物であり、これを用いればジャックと直接通話することが出来る。一応、パンドラ同士で方針が衝突した場合の対応についても、首領であるジャックの方針を確認しておいた方が無難であろう。
シドとイサミが黙って頷くのを確認した上で、リーフが魔法杖を用いてジャックへの通信を試みると、魔法杖の向こう側から「想定外の声」が聞こえてきた。
「あ、もしもしー?」
それは、ジャックの使い魔・ココの声であった。
「え?」
「あぁ、ごめんごめん。ジャック様ね、今ちょっと疲れて寝込んでるんだ」
「あぁ、そうなんですか」
「だから、私が代わりに用件聞くけど、何?」
これまで、ジャックに通話を求めた時に「代役」が出てきたことはない。また、これまでにジャックが疲れて寝込んだという話自体、少なくともリーフは聞いたことがない。以前の老体を依代としていた時は、稀に身体の調子が悪い時もあったが、それでも発動する魔力を「二割程度」に抑えることで、どうにか機能はしていた。つい先日、「新しい体は調子が良い」と言っていたことを考えると、少し不審に思える。ここで「現状」をそのまま「彼女」に伝えて良いものかどうか、判断が難しい。
「とりあえず、中間報告です。イェッタに着きました。依頼人の人ともお会いしました。以上です。ボスにお伝え下さい」
「うん、分かったー」
ココがそう答えると、リーフはそれ以上何も言わないまま通信を切る。そしてシドとイサミにこの状況を伝えた。
「ボスが寝込むなんて、珍しいですよね?」
それに対してイサミも怪訝そうな顔を浮かべながら首を捻る。
「今までそんなことあったかな……?」
少なくとも、イサミがこの世界に召喚されて以来、そのような事態に陥った記憶はない。イサミから見れば、主人としてのジャックはあまりにも絶対的な存在であり、およそ「寝込む」などという状況は想像すら出来なかった。
「使い魔に通信を任せるようなタイプでもないし……。そういえば、あの使い魔も、なんかちょっと胡散臭いらしいな」
シドはそう呟くが、そもそもパンドラ(特に新世界派)には「胡散臭い奴」しかいない。
「ヤク売りのおっさんが言ってましたね」
「え? 何の話?」
ジェームスの話を聞いていなかったイサミは話についていけないが、仮にその話を聞いていたとしても、この状況で何かが分かる訳でもない。
ともあれ、連絡がつかない以上は仕方がないので、ここから先はリーフ達自身の判断で臨機応変に対応するしかない、と覚悟を決めた上で、彼等はひとまず休眠を取ることにした。
2.5. 「主」の声
その日の夜、シドの夢の中に「何か」が現れた。
「お前は私の力を欲している。違うか?」
シドにはその「何か」の姿は見えなかったが、それが何者かをすぐに確信した。
「ご機嫌麗しゅう、我が主。その通りでございます」
「私の力はお前がこれから向かう先にある。しかし、その力を得られる者が一人だけだとするならば、お前はどうする?」
それに対して、シドは何の迷いもなく答えた。
「もちろん、俺が貰います。それでこそ『あなたの望む俺』に近付けるというものでしょう」
「そうか。ならばそれでいい。お前が、いや、お前達が来るのを楽しみにしているぞ」
「必ずや、ご期待に沿ってみせますよ」
シドにとっては、パンドラの一員であることは、あくまでも食い扶持を稼ぐための手段でしかない。任務よりも主への忠義を優先するのは当然であった。もっとも、主自身は「お前に私の力を受け取ってほしい」とは一言も言ってないので、(仮にそれが正しい忖度であったとしても)それは忠義というよりは、ただの自己満足なのかもしれないが。
2.6. 国境の検問
翌日の早朝、満面の笑みを浮かべているシドに対して、リーフが不思議そうな顔で語りかける。
「あれ、シドさん、なんか嬉しそうですね」
「おはよう! 清々しい朝だな!」
「ア、ハイ」
一方、イサミは(昨夜あれから一人晩酌していたせいか)ギリギリまで寝ていたが、それでもなんとか起き上がり、服を着替えて髪型も変えて、ここから先の「潜入」に備える。
そうして三人の出立準備が整ったところで、フローラが三人に今後の方針について提案する。
「色々考えたのですが、ここは『例の商隊』に先に行かせた方がいいのかもしれません」
リーフはすぐにその意図を察した。
「つまり、我々がその後をつける、と?」
「はい。彼等に後ろからつけられるよりは、その方が良いのではないかと」
相手の正体が分からない以上、こちらが主導権を握って行動するには、あえて「後手」に回った方が良い、という判断である。
「一理あるな」
シドはそう呟く。実際、いつ背後から撃たれるか分からない状態よりは、自分達が「追う側」になった方が選択肢は広い。
「最悪、彼等が我々に気付いて撒こうとしても、目的地が同じなら追いつけるでしょう。噂に名高いパンドラの最精鋭部隊の皆様であれば」
本当に最精鋭部隊なのかどうかは不明だが、少なくともフローラはそう思っているらしい。
「そうですそうです。我々はそりゃあもう、すごいですよ」
あまりすごくなさそうな口調で、リーフはそう語る。
「我々は完璧で幸福なエージェントですから」
何がどう幸福なのか分からないまま、シドはそう語る。
「私達に任せれば、ちょちょいのちょいですよ」
特に何の根拠もなく、イサミはそう語る。
「では皆様、よろしくお願いします」
三人の言葉を信じて、フローラは深々と頭を下げた。
******
それから数刻後、フジワラを通じて「商人達」が出立した旨を聞いた四人は、彼等の姿がギリギリ視界に入る程度の距離で、彼等の後を追う形で北のアレクトーへと向かう。この街道は一本道なので、同じ道を一定の距離を保ったまま尾行していても、特に怪しいと思われることはないだろう(相手が既にこちらの正体に気付いていない限り)。
すると、しばらく進んだ先で、先行する「商人達」が立ち止まった。どうやら、国境警備の神聖トランガーヌの兵士達の検問を受けているらしい。
(あれって、やっぱり私を追ってきた人達かな?)
イサミは少し焦るが、ひとまずその場で立ち止まって遠くから様子を見ていると、彼等はそのまま入国を許されたようで、北へと進んで行く。それを確認した上で四人も北上し、検問の兵士達と遭遇するが、彼等はフローラの顔を見ると同時に警戒を解き、あっさりと彼等の通行を許す。どうやら、フローラとは顔馴染みのアレクトーの兵士達だったようである。
やがて彼等の視界にアレクトーの街並みが入ると、「商人達」は改めて門の入口の兵士達の検問を受けた上で、その中へと入って行く。その様子を遠目に眺めながら、フローラは三人に問いかけた。
「彼等がアレクトーの中にいる間なら、私の権限で彼等を摘発することも出来ますが、どうします?」
先刻の兵士達の態度を見る限り、確かにフローラには一定の権限が与えられているように見える。ただ、その提案に対して、シドが難色を示した。
「邪魔者を早めに排除するのは構わんのだが、あまり目立つのはなぁ……」
日頃は自由奔放に生きているシドだが、その生き様を貫きつつもここまで生き延びて来たのは、自身の危険を察知する能力にも優れているからである。自分自身が「目立つ存在」であるが故に、これまで幾多の騒動を引き起こしてきたことを自覚しているシドとしては、ここで下手に動いて藪蛇になる可能性が脳裏を過ぎったらしい。
リーフとイサミも、あえてこちら側から動く必要はないと考えていたので、フローラは彼等の意見を尊重して、この場では何もせず、ただ黙って入口の検問を通過した上で、そのまま彼等を自身の家へと案内するのであった。
******
アレクトーは現在の神聖トランガーヌにとって、ヴァレフール・グリース両国との国境に位置する最前線の村であり、現在は戦線が膠着しているとはいえ、やや緊迫した様子ではある。約3年前のアントリアによる侵攻以降、アントリア、ヴァレフール、グリース、神聖トランガーヌの四国による攻防が繰り返され、幾度も領主が入れ替わってきた。街のそこかしこには、これまでの激しい戦いの跡が今でも残っている。
現在のこの村の領主は、数ヶ月前に赴任したばかりのフランク・シュペルターという若い騎士である。彼は、神聖トランガーヌの旗揚げと同時に祖国を捨てて馳せ参じた敬虔な信徒であるが、元々はヴァレフール領クーンの領主家の次男坊であり、隣町イェッタの領主ファルク・カーリンや、もう一つの隣町メガエラの警備隊長ターリャ・カーリン(ファルクの実妹)とは幼馴染であったため、現枢機卿ネロ・カーディガンの掲げる周辺諸国への宥和政策の一環として、その人脈を生かして隣国との再戦を防止することを期待されて、この地の領主に抜擢された。
とはいえ、彼はこれまで為政者としての経験も実績もなく、トランガーヌの民にとっても日輪宣教団にとっても「外様」であり、直属の側近や腹心と呼べるような部下もいない。そんな彼が就任直後に大々的におこなった人材登用策の過程で、フローラがその能力を生かして、要職に潜り込むことに成功したのである。
「私、ここの領主様には信頼されていますから、少なくともこの街の中にいる間は、よほどのことがない限り、皆様の身の安全は保証出来ると思います。でも、何があるかは分かりませんから、特別な事情がない限り、外には出歩かないで下さいね」
自宅に案内したフローラは三人に対してそう告げる。一人暮らしの彼女のために領主からあてがわれた小さな家だが、客間に布団を敷けば、なんとか三人を泊めることも可能な程度の広さはあった。
三人がその客間でくつろいでいる間にフローラは台所で簡単な手料理をこしらえ、彼等に馳走する。それは典型的な「田舎の素朴な家庭料理」であり、新世界派の本拠地で「得体の知れない異界の珍味」に触れることも多い三人にとっては、ある意味でどこか新鮮な味でもあった。
そうして食事を終え、少しリラックスした様子のフローラが眼鏡を外すと、リーフはその姿(下図)に不思議な既視感を感じる。
どこかで彼女を見たことがあるような気がするのだが、それがいつのことだったのかが思い出せない。そして、そのことを思い出そうとすると、なぜか微妙に頭が痛くなる。それは、いつもの「あの夢」を見た時の症状に、どこか似ていた。
そんなリーフの様子に気付かぬままフローラが食器を片付けるために一旦三人の前から立ち去ろうとしたところで、シドがリーフに対して怪訝そうな表情で問いかける。
「おい、どうしたんだ? フローラさんの方をジロジロ見てさ」
「いや、なんでもないです」
現状、リーフとしてはそう答えるしかない。それに対してシドは深く追求しようとはせず、フローラの後ろ姿を見ながらボソッと呟く。
「彼女、いい身体してるよなぁ。生贄にはぴったりじゃないか?」
それが何の生贄のことを意味しているのかは分からないが、古今東西、悪魔や邪神の生贄として捧げられるのは若い女性であることが多いのは確かである。
「そういうコト言っちゃダメですよ」
苦しそうな表情のままリーフがそう告げると、今度はイサミが心配そうな顔でリーフを気遣う。
「大丈夫? 酒飲む? 『二日酔いには迎え酒』っていう言葉もあるよ」
「いや、私、酔ってる訳でもないですから……。まぁ、私も今日はおとなしくしてるです。皆さんも、変な奴に絡まれないように、外には出ない方がいいです」
「え? 飲み歩いちゃダメ?」
イサミは先刻のフローラの話を聞いていなかったらしい。
「好きにすればいいですけど、その後の責任は知りませんよ」
「ダメなら仕方ないかぁ」
「ダメとは言いませんよ。その後で文字通りに『生贄』になるだけです」
冷たい視線でリーフがそう言うと、イサミとシドは思わず顔を見合わせる。
「まぁ、リーフが一緒に行くならともかく、俺達だけじゃなぁ」
シドもさすがに昨日の一件で少しは懲りたらしい。結局、この日は素直に三人とも、何もせずにこのままフローラの家で一晩を明かすことになった。
なお、念のためリーフは寝る前に、この村全体に対して「混沌の気配」を察知する魔法をかけてみたが、目の前にいる二人以外からは、微弱な混沌の気配が(なぜか)領主の館の近辺から感じられた程度で、他にそれらしき反応は見つからなかった。つまり、あの「商人達」の中には(魔法師が何人いるかは分からないが)邪紋使いや投影体は含まれていないようである。
2.7. 深化する悪夢
その日の夜、リーフはまたしても「炎の夢」にうなされていた。だが、この日の夢はいつもとは異なり、「炎の中で焼け落ちていく女性の顔」がはっきり見えた。それは紛れもなく、眼鏡を外した時のフローラの顔であった。
そのことに気付いた瞬間、リーフはすぐに目が醒める。そして、寝直そうとしても、炎に苦しむフローラの顔が何度も思い起こされて、全く寝付けない。ここまで自分の脳裏に深く彼女の存在が焼き付いていることから察するに、やはりフローラは「記憶を失う前の自分」とは何らかの(おそらくはかなり深い)関わりがあったような気がしてならない。
そんな想いを抱えたまま、結局リーフはそれから一睡も出来ずに翌朝を迎える。寝不足と悪夢の後遺症で相当に機嫌が悪く、そして明らかに体調も悪かった。そんな彼女の神経を逆撫でするようなシドの歌声が聞こえてくる。
「ニャルシュタン! ニャルガシャンナ!」
彼はそんな禍々しい歌を爽やかに口ずさみながら、かつて地球人の投影体から習った早朝の心身活性のための儀式「ラジオ体操」に勤しんでいる。その楽しそうな様子を目の当たりにしたリーフは、不機嫌さを加速させる。
「あー、そこの変態」
「変態って何だよ? ちゃんと服着てるだろ」
「今すぐやめないと、あなた、切り裂きますよ」
目が座った状態で淡々とそう語るリーフを目の当たりにして、さすがにシドも一旦、手と口を止める。そして横から一升瓶を持ったイサミが割って入った。
「大丈夫? やっぱり、迎え酒飲む?」
「そこの呑んだくれ」
「はい?」
「また殴られたいんですか?」
「いやです」
明らかにいつもとは様子が違うリーフの様子に、思わずイサミも黙って後ずさると、シドが小首を傾げながら問いかける。
「なんか、えらい機嫌悪くない?」
「気のせいですよ」
リーフは淡々とそう答えるが、少なくともイサミには、それがどう見ても「気のせい」には思えなかった。
「もしかして、何かいい夢見た? 俺の主見た?」
「それ以上くだらないこと言うと、その口縫い合わせます」
「うわっ、こわっ」
「こわいねー」
シドとイサミはそう言いながら再び一歩後ずさる。だが、シドはすぐにまた一歩前に踏み出して話を続ける。
「主見たならいい夢じゃん。なぁ」
「見てないですってば! だいたい、あんたの主なんて知らないですから!」
「普通の人が見て悪い夢だったら、それは大抵、主の夢だよ」
「まぁ、99%違うんですけど……」
そんな不毛なやり取りを繰り返しつつも、リーフは今の自分が心身共に正常ではないことは自覚していた。この状態のまま「現地」に向かうのはまずいと判断した彼女は、おそらく今の自分の精神状態を見出している原因を取り除くべく、「その鍵を握るかもしれない人物」に話をしてみることにした。
******
リーフは出立の準備を整えていたフローラの元へと赴き、おもむろに話しかける。
「フローラさん、あなた、ご兄弟とかいます?」
唐突なその問いかけに対して、フローラはやや戸惑いながら答える。
「……いた気はするのですが、それも記憶が曖昧です。確か、妹がいたような……」
なお、フローラは自分の年齢もよく覚えてはいないが、少なくとも外見的には、リーフよりも明らかに年上に見える。
「もう一つ聞きたいんですけど、私とあなたって、前にお会いしたことありましたっけ?」
その問いかけに対しても、フローラは反応に困ったような顔を浮かべながら答える。
「どうでしょう? あるのかもしれません。ただ、私にこの力をくれた者が言うには、私の記憶喪失は『思い出せない人の記憶喪失』とは違うらしいんです」
「どういうことです?」
「普通の人の記憶喪失は、あくまで脳の中のどこにあるのか分からなくなっているだけで、魔法によって記憶を消す場合でも、それは脳の一部に『蓋』をするだけらしいのですが、私の記憶はもう既に完全に私の脳から消されているらしいんです」
「そして、新たに情報が入ることも受け付けない、と?」
「はい。ある程度までは残るのですが、すぐに消えてしまいます。おそらく、私の脳は既に通常の人間としての記憶力すらも失われつつあるのでしょう。だからこそ、私は私の脳の限界が来る前に、今のこの想いを果たしたいのです」
「なるほど……。変なことを聞いてすみませんでした」
そう言って、リーフは話を打ち切る。フローラの中に記憶が完全に残っていないのであれば、これ以上彼女から何かを聞き出せる見込みはない。ただ彼女と話している間にも、リーフの中ではずっと脳内で「言い表せられないほどの不快感」が込み上げてきており、おそらくは彼女が自分にとって「特別な存在」だったであろうことは、リーフの中で徐々に確信へと変わりつつあった。
2.8. 三度目の遭遇
結局、リーフの体調は回復しないままであったが、リーフとしては自分の都合で予定を遅らせたくはなかったので、そのまま北上を強行することを主張し、彼等はどうにか陽が沈む前に目的地であるハインド湖の沿岸に位置するタレイアの街に到着した。
「この地の領主であるジニュアール卿は、混沌に対しては比較的甘いとも言われてはいますが、それでも一応、気をつけて下さい。特にあなたは」
明らかに体調不良な様子のリーフに対してフローラはそう告げると、リーフを宿屋のベッドに寝かしつけた上で、しばらく自分が彼女の看病をすることにした。
一方、そんなリーフとは対照的に、(もうすぐ主に会えるという期待からか)元気が有り余っている様子のシドは、もう一人の「同僚」に声をかける。
「イサミ、飲みに行こうぜ!」
「やったー!」
二人共、つい先刻のフローラの話すらも聞いていなかったらしい。
「あんまり変なことしてると、ぶち転がしますよ」
病床からリーフがそう告げるが、イサミは聞こえないふりする。
「大丈夫。今のアイツにそこまでの力はないから」
シドはイサミの耳元でそう囁きつつ、彼女を連れてそのまま意気揚々と夜の街へと繰り出して行くのであった。
******
街並みを散策しつつ、ひとまず一番賑わっていそうな酒場に二人が足を踏み入れたところで、シドは店の隅に「例の魔法師」を含めた一団がいることに気付く。今のところ、彼等の方はシドの存在には気付いていない様子である。
「イサミ、あの連中いるぜ」
「えー……、場所変える?」
「こっちには気付いてねえみたいだし、このまま観察してやろうじゃねーの」
「んー、まぁ、いいけど……」
本音としては、余計なことを考えずに飲みたかったイサミであるが、確かにこの後のことを考えれば、ここで彼等の動向を調査しておくのは悪くない。というよりも、これまで情報収拾をリーフ(が使役するフジワラ)に任せっきりだったので、今の彼女が使い物にならない状態であることを考えると、ここは自分達が動くべき時であることは明白であった。
彼等の声がギリギリ聞こえる程度の距離で、彼等から顔が見られない角度のカウンターに座った二人は、黙々と飲み続けるフリをしながら、彼等の話に聞き耳を立ててみる。すると、彼等がこの酒場の中で、街の住人と思しき人々に次々と声をかけ、「湖に関する情報」を聴き集めていると思しき声が聞こえてくる。どうやら彼等もまた「湖」に何かを見出してこの地に潜入しているらしい。
その会話の内容を盗み聞きしてみたところ、ここ最近は湖の近辺で特にこれといった混沌災害が起きていないらしい。そして彼等は「自分達以外に、湖のことを嗅ぎ回っている者達はいるか?」ということも確認していたが、誰もそれらしき者達を見たという者はいなかった。結果的に、シド達がこれまで何も調べようとしなかったことで、彼等に足取りを勘ぐられずに済んだようである。
「やっぱり、連中の目的も俺達と同じみたいだな」
「ですねー」
「問題は、奴らが主を鎮めようとしてるのか、利用しようとしているのか。もし、俺を差し置いて利用しようとしてるなら、ぶっ殺案件だわ」
「過激だなー」
二人は小声でそんな会話を交わしつつ、彼等が出て行くまでカウンターで淡々と飲み続ける。なお、この時シドが「俺達を」ではなく「俺を差し置いて」と言っていたことに関して、イサミは特に気にしている様子もなかった。そして二人は、彼等が調査を終えて出て行くのを確認した上で、(そのまま彼等を尾行することもなく)改めて心置き無く飲み始めるのであった。
2.9. 忍者少女の正体
一方、寝不足が限界に達していたリーフは、宿屋でフローラに看病されたことでなぜか不思議な安心感を得たのか、ようやく静かに眠り始める。
だが、その夢の中で、彼女の脳裏に「謎の声」が語りかけてきた。
「苦しそうだな。楽になりたいか?」
リーフには、その声に全く心当たりがない。先刻シドから「よく分からないものは『主』と信じておけ」と言われていたリーフは、半信半疑ながらも、その語り手が只者ではないことを直感的に察しつつ、あえて何も答えず黙っていた。すると、その声は更に問いかけてくる。
「お前が楽になる方法は二つある。思い出すか、消し去るか。どちらがいい?」
その声の主が何を言わんとしているのかは、リーフにも何となく理解は出来る。だが、それに対してどう答えれば良いのかが分からない。そんな彼女に対して、その「何者か」がより根源的な質問が投げかけてきた。
「お前はそもそも何がしたい?」
これに対して、リーフはようやく口を開く。
「分からないです。そもそも何を思い出すのか、消すのか、それが思い出せないので、何とも言えません。何がしたいのかも、私には分かりません」
それが彼女の偽らざる本音である。自分が何者なのかも分からないからこそ、何をするにしても、自分の中で主体的な判断が下せない。それは彼女が、記憶と共に「自我」そのもの(の一部?)を喪失しているからなのかもしれない(もしかしたら、彼女が時折口にする意味不明な言動も、それが原因なのかもしれない)。
「そうか……。ならば、このまま消し去ってしまうのも面白くないな。では、ここは思い出してもらおうか。その方がおそらく、面白い結果になる」
その謎の声がそう言い終えると同時に、 リーフの心の奥底で記憶の一部を塞いでいた「蓋」が開かれ、そして彼女の中に眠っていた「過去」が唐突に蘇る。彼女の中で失われていた「時」が、唐突に彼女の脳裏にフラッシュバックしたのである。
******
彼女がこの世界に生を受けた時に付けられた名は「ルーシー」。彼女の生家は、ヴァレフールの南西部に位置するヴィルマという村の、ごく平凡な農家であった。両親と、そして姉の「フローラ」に囲まれ、平凡ながらも幸せな幼少期を送っていた。
だが、やがて彼女は魔法の才能を見出され、エーラムの名門ストラトス家の養女となった。彼女の才能は同世代の子供達の間でも抜きん出ており、いずれは七色魔法師となりうる逸材として期待された。
しかし、やがて彼女の故郷のヴィルマ村が、ヴァレフール伯爵の長男ワトホートによって焼き討ちに遭ったという噂が届くと、まだ幼かった彼女は、訳も分からずに逆上する。彼女はエリートであったが故に、エーラムの中心部にある禁忌の書物が収められた書庫にも何度か足を踏み入れていたのであるが、幼い彼女はそこへ単身で潜入し、ワトホートを倒すために必要な魔書を取り出そうとしたが、寸でのところで警備兵に見つかり、賢人委員会に突き出されることになったのである。
「この子は危険だ。将来の魔法師協会を背負えるだけの才能の持ち主ではあるが、だからこそ、このトラウマを抱えた状態で育てるのは危険すぎる。全てを忘れさせて、『エーラム入門前の時点』から、一人の村娘として人生をやり直させた方がいいだろう」
それが賢人委員会の結論であった。彼女はそれまでの人生の全ての記憶を抹消され、エーラム入学前の時点まで肉体を若返らせた上で、既に帰るべき故郷を無くしていたこともあり、ブレトランドの辺境の小さな村の孤児院に預けられることになった。
しかし、その地への護送の途上、彼女は(おそらくは均衡派の情報網を通じて彼女の存在を知った)マーシーに発見され、パンドラ魔法師として「第二の(第三の?)人生」を歩むことになったのである。
リーフは目を覚ました。彼女にかけられた布団の上では、彼女を看病していたフローラが、突っ伏した状態で眠っている。どうやらフローラも相当に疲れていたらしい。そのフローラの寝顔が、明らかに「蘇った記憶の中にいた彼女」と重なって見えたリーフは、自分の中の心を整理しようと、必死で気持ちを整える。
そんな中、シドとイサミが帰ってきた。泥酔状態となったイサミはシドに片肩を貸してもらっている状態である。
「たらいま〜」
「もう、なんでこいつ酒好きのくせに、すぐ酔いつぶれるんだよ〜」
シドはそんな愚痴をこぼしつつ、目覚めたばかりのリーフに視線を向ける。顔色はかなり良くなったように思えるが、表情はまだどこか微妙な様子に見えた。
「お前、ちゃんと寝たのか?」
「ちゃんと休んだー?」
笑いながらイサミがリーフの背中をバシバシと叩くが、リーフは全く反応しない。やがて彼女は、ベッドを降りて、フローラを抱き抱える。
「とりあえず、フローラさんを彼女のベッドに運びます。このままでは風邪をひくでしょうし」
淡々とした口調のリーフであるが、明らかに先刻までとは雰囲気が異なる。フローラをベッドに寝かせて、布団をかぶせると、リーフは改めてまじまじとフローラの表情を凝視した。リーフの記憶の中にあるフローラは、髪が短く、もっと活発な少女だったが、それでも確かに面影がある。そして、彼女がリーフの姉であるならば、ワトホートに対する殺意も確かに理解出来る。
また、彼女の姿は、リーフがこれまで見てきた夢の中で見てきた「炎に焼かれる女性」の姿とも確かに重なる。おそらくあれは「故郷の村が焼かれた」という情報を聞いた幼いリーフが思い描いた妄想だったのであろう(少なくとも、リーフは焼き討ちの現場を直接見てはいない)。実際、あの時のリーフは「自分の家族は全員炎で焼け死んだ」と思い込んでいた。しかし、その時点で生死を確認したわけではない。
なぜ彼女が生きているのか、本当にここにいる彼女は「彼女そのもの」なのか、リーフには分からないことが多すぎる。いずれにせよ、この瞬間から、リーフにとってフローラが「ただの依頼人」ではなくなったことは間違いない。
3.2. 「ボス」の遺言
一方、帰宅後も土産に買った酒で改めて飲み直していたイサミとシドであったが、やがてイサミはそのまま机に倒れこむように爆睡し、シドは彼女を放ったまま自分一人だけ布団で就寝する(なお、シドは途中で酔いがキツくなってきた辺りから、自分だけは酒と水をすり替えて、実質イサミ一人にだけ飲ませ続けていた)。
とはいえ、イサミにとってはこのような形で寝落ちることは珍しい話でもなく、この程度の状況で風邪をひいたり寝違えたりするようなヤワな身体でもない。だが、この時の彼女は、まったくもって想定外の悪夢にうなされることになる。
******
「すまんな、イサミ……」
その声の主は、イサミの召喚主にして新世界派の首領のジャック・ボンキップである。もっとも、その声は「現在のジャック」ではなく、イサミにとって聞き慣れた「先代の依代」の時の声であった(おそらくそれは、イサミの脳内でそう変換されたのであろう)。
「どうしたんですか、ボス?」
「儂はしばし、『眠り』に入る」
「はい?」
「してやられたわ、あのガキ……。まぁ、いずれまた目が醒めることもあるだろう。それが何年後か、何十年後か、何百年後かは分からんがな」
唐突に訳の分からないことを言われたイサミは、当然のごとく混乱する。だが、どうやらジャックに何かが起きたことだけは察知した。そして「あのガキ」と言われて、イサミの中で思い浮かぶ子供は二人。「現在の依代となっている少年」と、そして「使い魔の少女」である。
「どっちですか?」
「両方だな……」
そう言い残すと、そのままジャックの声は消えていく。そして、イサミが更に何かを問いかけようとした瞬間、彼女は目を覚ます。
これまでにも、ジャックはイサミに対して念波で何かを伝えてきたことはあったが、夢の中に現れたことはない。これが果たしてただの自分の妄想なのか、それとも「その身に何かが起きたジャック」からの緊急連絡だったのか、イサミには判断がつかない。結局、そのままイサミは寝直す気分にもなれず、モヤモヤとした心境のまま、夜明けを迎えることになるのであった。
3.3. 「妹」の想い
翌朝。宿屋の一角から、爽やかで不気味な声が鳴り響く。
「ニャルシュタン! ニャルガシャンナ!」
シドは今日も朝から元気にラジオ体操に勤しんでいた。その一方で、リーフとイサミはどちらも複雑な表情を浮かべている。
「二人とも顔色悪いな。夢見が良かった?」
「最悪だったね」
イサミはそう答えつつ、今の気持ちを抑えるために迎え酒を注ぎ込むが、一向に気持ちは収まらない。そんな彼等に対して、フローラは心配そうな顔で問いかける。
「あの、皆様、今日これから湖に突入したいのですが、大丈夫ですか?」
「だいじょーぶでーす」
イサミは酒飲みながら、ひとまずそう答えるが、明らかに大丈夫な様子ではない。一方、リーフは真剣な表情でフローラに問い返した。
「あの、フローラさん、その前にちょっと二人で話をしたいのですが、よろしいですか?」
この時点でのリーフは、明らかに昨日までとは異なる雰囲気を漂わせていた。そのことにフローラはやや戸惑いつつも、宿内の別室で彼女と二人で対話の場を設けることにした。
******
「まず、今回の依頼の内容について、改めて確認させて頂きたいのですが」
リーフにそう問われたフローラは、自分の知る限りの情報をリーフに伝えることにした。
「この町の北にある湖に『邪神』の気配を感じ取っています。ただ、私はそれが投影体であることは確信していますが、本当に神格の投影体なのかどうかは分かりません。私もまだ『神』という存在を実際に見たことはないので」
もっとも、実際には見ていたとしても、名乗っていなければそれが神だとは認識出来ないだろう。神の中には、人間界の中に紛れ込む者もいる。逆に、神の名を騙っているだけの人間もいる(エルマ村の自称酒神のように)。
「その邪神の名は、書物によって表記は色々違うのですが、私が最初に読んだ本では『ナイアーラトテップ』と書かれていました。様々な時代、様々な地域に現れて、力なき人々に力を与える存在である、と。私は、その神の力を解放したい。解放した上で、その力を私に与えてほしい」
この辺りの詳細については、本来ならばもっと早い段階で伝える予定だったのだが、会話の流れ上、きちんと説明出来ないままになっていた。それ故に、フローラとしてはこのタイミングで彼女にだけ伝えて良いのかという疑問もあったが、少なくとも聞かれれば答えない理由はない。
そしてここまで聞いた上で、改めてリーフは確認する。
「その力を受け取った上で、あなたはどうしたいのですか?」
「私の中で『殺したい』と思っている君主を、私の手で倒したい。そのために過去を捨て、あらゆるものを捨て、私はここまで来ました」
「なるほど……。あなたの依頼については、よく分かりました。ここから先は別のお話になります。よろしいですか?」
そう言って、リーフは口元を隠している覆面を外す。
「ここから先は、私の勝手なお願い……。本当に、その力を手に入れたいの?」
再びリーフの口調が(先刻までとも、昨日までとも)変わったことにフローラは戸惑いつつも、真剣な表情で答える。
「今の私には、それしか行動原理がないんです。正直なところを言えば、なぜそこまで憎んでいるのかも思い出せないのです。その記憶がないのですから。もしかしたら、今の私は正常な判断が出来ないのかもしれない。いや、多分、出来ていないのでしょう。今の私には、それが本当の私の願いなのかどうかを判別することすら出来ない。ただ、それをやめてしまったら、今の私は完全に存在意義を失ってしまう」
「そこまで言うのは分かったけど、本当に大きな力ってのは、手に入れちゃいけないと思う。そうやって手に入れた力で何かをしようとしても、それは必ず失敗に終わってしまう筈だから。そしてきっと、もっと悪いことが起きる筈」
それがエーラム時代の教えなのか、彼女の純粋な直感によるものなのかは分からない。いずれにせよ、極めて強い思いを込められてることは、フローラにも分かった。だが、それでもフローラとしては、ここまで来て取りやめる訳にはいかない。
「そう仰る人はいます。既に記憶も曖昧ですが、何人もの人々にそう言われていたような気がします。しかし、そういうことを仰る人は決まって『力を持っている人』です。私には聖印もなければ、魔法も使えない。邪紋を刻もうかとも考えましたが、邪紋移植の技術を持つ人に頼んでも、私の体ではおそらく無理だろうと言われました。私が唯一手に入れたのが、混沌の力を察知する能力。でも、それだけでは、私の願いは叶えられない。だから、力を持っている人には、力を持たない人の気持ちは分からないのだと思います。それでも、パンドラの新世界派の方々であれば、なんとかしてくれると信じて私は……」
必死にそう訴えるフローラに対して、リーフは黙って話を聞き続ける。実際、新世界派の一員としては、ここで彼女の訴えを退ける理由はない。これまでもリーフは幾度も同じような者達に、様々な「力」を与える手助けをしてきた。だが、今の彼女の中では「新世界派の一員としてのリーフ」の他に、もう一人の「別の人格」が目を覚ましていたのである。
「私も力は貸す。でも、そこから先で得た邪神の力に関しては、私はあなたには手に入れてほしくない。手に入れたところで、私にはどうしても『悪いこと』しか起きないような気がするから」
そこまで言った上で、彼女は改めて覆面を装着する。
「色々言いましたが、湖の奥底までは私達はあなたをお連れします。ただ、そこで実際に邪神の力を見た上で、あなたが本当にどうしたいか、そこであなたにはもう一度考えてもらいたい。それをあなたに約束してもらいたいです。どうでしょう?」
「分かりました。ただ、おそらく見ても私の考えは変わらないと思います。今の私の思考は、もう普通の人では理解出来ない状態になっていると思いますから。もちろん、実際に邪神を見たこともないのですから、それがどれほど恐ろしいものかも分からないですし、もしかしたらそこで、足がすくんで動けなくなるかもしれないですが……」
「いずれにせよ『お仕事』はちゃんとやります。私が言いたかったのは、先程言ったことだけです」
リーフはそう言って、シドとイサミのところに戻ろうとするが、その直前に一つ、聞いておかねばならなかったことを思い出す。
「そうそう、もう一つ聞きたいことがありました。『ルーシー』という名前はご存知ですか?」
彼女の口からその名を聞いたフローラは、少し驚いた表情を見せる。
「実は……」
フローラはそう言いながら、懐からボロボロのハンカチを取り出した。
「よく分からないのですが、『ルーシー』という名前が刺繍で縫われたこのハンカチを、私はずっと前から持っていました」
それが、リーフがエーラムに渡る直前に姉に「形見」として渡した代物であるということに、リーフはすぐに気がついた。
「でも、この名前が誰の名前なのかすら、私にはもう思い出せない……」
「……それをずっと持ってるということは、あなたにとってそれは大切なものですか?」
そう問われたフローラは、少し判断に迷いつつも、はっきりとした口調で答える。
「こんなボロボロになるまで持っていたということは、きっとそうなのだと思います」
「それなら良かったです。じゃあ、そろそろ出発しましょうか」
そう言って、リーフはフローラと共に、シドとイサミの待つ部屋へと戻るのであった。
3.4. 「ボス」の現状
だが、二人が別室で話をしている間も、イサミはまだ困惑状態にあった。
(あの夢は一体……)
それがずっと頭の中にこびりついて離れない状態であったが、今の時点では確認する術がイサミにはない。そんな中、リーフが戻って来たところで、イサミは彼女にこう提案する。
「そろそろボスに定時連絡した方がいいんじゃない? 湖の前まで来たし」
「あぁ、そうですね」
そう言ってリーフが魔法杖を用いた通話を始めようとすると、フローラは組織内の話に立ち入るのは気まずいと思ったのか、周囲の様子を確認するために、宿の外に出て行った。
そして魔法杖の向こう側からは、今度は間違いなく(今の依代である「少年」の声帯を用いた)「ボス」の声が聞こえてくる。
「私だ。今、どういう状況だ?」
「もう湖のすぐ近くです。今日中には湖に着けるでしょう」
「そうか。特に妨害などは入っていないか?」
「妨害? あぁ、えーっとですね、ありましたありました。呑んだくれたイサミさんに色々妨害されました」
「妨害してないもーん」
イサミは後方からそう言って割り込むが、その声はボスにまでは届いていない。
「そうか。では、その処罰は帰って来てから考えよう。多少ハメを外すのは構わないが、少なくとも、最後はきちんと仕事を果たせるように統制を取れよ。お前達三人の中で全体の統制を取れるのは、お前しかいないからな」
この「ボス」の口振りに対して、リーフは微妙な違和感に気付く。ジャックは本来、部下達の行動に関しては自由放任主義であり、「統制」という言葉を今までジャックの口から聞いた記憶がリーフにはない。
「はい、分かりました……。そういえばボス、お腹痛いのは治りました?」
「ん? あぁ、もう大丈夫だ」
「そりゃ良かったです。無理しない程度に頑張って下さいね。こっちも頑張ります」
そう言って通話を終えたところで、リーフは二人に視線を向ける。
「なんか怪しくないですか?」
シドはイサミとも顔を見合わせつつ、首をひねる。
「お腹痛いなんて話だったっけ?」
調子が悪いとは言っていたが、少なくとも腹が痛いとは言ってなかった。どうも、こちらの言うことに対して「話を合わせているような言い方」に聞こえる。この状況を踏まえた上で、イサミは逡巡しながらも、重々しい表情で口を開いた。
「実は……」
彼女は意を決して、先刻の夢の内容をそのまま二人に打ち明ける。
「ただの酔った上での妄想ならいいんだけど……」
それに対して、リーフもシドも、比較的落ち着いた様子であった。
「まぁ、あの使い魔が怪しいとか、ヤク売りのおっさんも言ってましたしね」
「そういえばあの『ボスの依代』も、あながちまだ死んでないっぽい様子だったんだよなぁ……。たまに『支配されたフリをして支配し返す機会を伺っている健気な依代』もいるんだって、主が言ってたし」
「パンドラ加入前の記憶を取り戻したリーフ」と「もともとパンドラに大して思い入れもないシド」にとっては、今のボスの現状にはあまり関心はないようで、まるで他人事のようにそう語る。二人とも、今はそれ以上に「今回の任務」に対しての個人的な感慨の方が圧倒的に強い。その意味では、オルガノンとして「主人」の安否が心配で気が気では無いイサミとは明らかに温度差がある状態のまま、二人は淡々と話し続ける。
「とはいえ、命令された時点では確かにボスはボスでしたね」
「何にしても、ここまで来て帰るってのはありえないだろう。とっとと仕事を済ませて帰らないとな」
「あれ? なんか楽しそうじゃないですか?」
「そりゃあ、楽しいよ。他人の不幸は……、おっとなんでもない。しかし、あのボスを手こずらせるとなると、なおさら生贄としてほしいところだなぁ、あのガキ」
「じゃあ、仕事を終わらせて、帰ってから考えることにしましょう」
そんな呑気な二人の会話の横で、イサミは明らかに憔悴した様子であった。
「うー、ボスが心配だし、私としては、今すぐ帰りたい……」
だが、念願の「主との対面」を目の前にしたシドとしては、ここまで来て引き返すという選択肢はありえない。ニヤリと笑いながら脅すような口調で問い詰める。
「おっと、乗りかかった船だろう? ボスの命令に背く気か?」
むしろ、シドにしてみればイサミ自身が「これから乗る予定の船」である。ここでその「船」に勝手に帰られる訳にはいかない。そしてイサミとしても、今のところボスに最後に命じられたのは「今回の依頼の達成」である。
「どちらにしても、今の私に出来ることはないか……」
イサミはがっくりと肩を落としながら、そう呟く。そこにフローラが帰って来た。
「彼等が動き出しました。商談の中に紛れ込んでいた魔法師三人が、湖に向かったようです」
フローラは、はっきりと「魔法師三人」と言った。彼女の能力が魔法師までをも見分けることが出来るのであれば、その認識で間違いはないのだろう。
それに対して、真っ先に反応したのはシドである。
「先越されても癪だし、こっそりつけていくか」
フローラとリーフは頷き、イサミもしぶしぶ同意しつつ、彼等はフローラの案内で「三人」の後をつけて行くことになった。
3.5. 潜水開始
やがて四人が湖の岸辺に到着すると「三人の魔法師」が、湖の近くで警備兵達から声をかけられていた。
「お前達、ここで何をしてるんだ?」
「いえ、特に何も。私達はただの旅人です。たまたまこの地に立ち寄ったので、湖の景観を拝見したいと思っただけですよ」
警備兵を相手にそんなやりとりをしているのは、イェッタの川の近くでシドとイサミに目撃され、そしてシドに話しかけた「あの男性」であった。リーフはこの時、初めて彼の顔を目の当たりにすることになったのだが、一目見た瞬間、それが誰なのかを理解する。
彼の名は、シュローダー・ストラトス。リーフの(より正確に言えば「ルーシー」の)兄弟子の召喚魔法師である。リーフ(ルーシー)が入門したばかりの頃からずっと彼女に対して懇意に世話をしてくれた恩人であり、彼女が「事件」を起こした後も、彼女の減刑を必死で訴えていた。
遠目から見ている限りにおいては、今のところ彼が交渉役として、兵士達の追求をうまくごまかしているような雰囲気に見える。彼等としてはおそらく、ひとまずこの場をやりすごした上で、兵士達のいない方角の岸辺へと移動した上で、そこから湖に対して何か(調査? 潜水?)を始めるつもりなのだろう。
いずれにせよ、彼等が「エーラムの魔法師」であると分かった以上、おそらく彼等との共闘は不可能であろうとリーフは察する。昔のシュローダーは自分に対しては実の妹に接するように好意的な態度であったが、今の「パンドラの一員」となった自分は、もはや彼とは相容れられぬ存在なのである。それが、記憶を取り戻した「今の彼女」の中での認識であった。
その上で、リーフは彼が「エーラムの召喚魔法師」であると皆に告げる。すると、イサミは他の三人に対してこう提案した。
「どうする? まとめて焼いちゃう? 召喚魔法師とか、厄介だし」
イサミは自分自身が(おそらくはブレトランド内でも屈指の実力の)「召喚魔法師」によって呼び出された存在だからこそ、召喚魔法師の恐ろしさはよく知っている。ここで警備兵達もろとも彼女の全力斉射で焼き尽くしてしまえば、確かに後顧の憂いは無くなる。だが、ここであまりに大きな物音を立てると、更なる警備兵達(場合によっては高位の騎士)の増援を招きかねない。そして、この後で湖の奥に何が待ち構えているか分からない以上、出来ればここで余計な労力を費やしたくもない。
四人は小声で話し合った上で、ひとまずここでシュローダー達が兵士達を引きつけている間に、彼等は少し離れたところまで移動することにした。そして、実際に彼等双方の視界から完全に離れたところまで来た時点で、イサミが自らの身体から分離させるような形で「本体」としての空母を召喚し、イサミの「人間体」ともども、四人でその船内に乗り込む。彼女の船内にいる限りは呼吸などの心配はないが、リーフは念のため水中でも呼吸が可能となる元素魔法を全員にかけておき、そしてシドはいつ「戦場」の突入しても良いように「第三の目」を発動させた上で、自らの身体を魔法で強化する。
こうして四人はようやく「邪神」の眠る湖底へと潜水していくのであった。
3.6. 湖底の魔物
ハインド湖の水底は、四人の想定以上に深かった。少なくとも、通常の人間が自力で潜水出来る程度の深さではなく、奥底に近づくにつれて、着実に混沌濃度が上がっていることが分かる。魔法師の力を借りることを拒否している聖印教会の者達では、このような湖の調査など出来る筈もなかろう。
そしてようやく「底」が見えてきた瞬間、そこで「何か」がうごめいているのを発見する。イサミ達が凝視すると、そこにいたのは四体ほどの「人よりも遥かに巨大な蟹」であった。明らかに異界からの投影体であり、そして近付いてくるイサミ(本体)に対して、あからさまな敵意を向けている。
この蟹が自然発生した投影体なのか、それとも誰かによって人為的に召喚された存在なのかは不明であるが(なお、少なくともシドは「主」の眷属に蟹がいるという話は聞いたことがない)、湖底を調査するためには、まず彼等を排除する必要があると判断した四人は、リーフとシドが水中に打って出た上で、後方からイサミも艦載機を飛ばす形で、この蟹達の駆除へと乗り出した。
リーフは異界から「ニンジャソード」(と彼女は呼んでいるが、本来の名前は「炎薙の神剣」)を召喚し、虹色の光を放ちながら蟹に向かって斬りかかり、そこに異界の魔獣ラミアの力を込めることによって、蟹の強靭な甲羅を擦り抜けるように内側の「身」の部分を魔法の力で斬り刻む。それに対して蟹が巨大な鋏を用いて反撃を試みるが、リーフはそれをかわしつつ、返す刀で更に蟹にもう一太刀浴びせる。その二撃目で蟹は深傷を負うが、それでももう一つの鋏で彼女のニンジャソードを絡め取った上で、彼女の体を地面に叩きつけようとする。だが、リーフは静動魔法でその衝撃を和らげつつ、そして即座に自らが生成した魔法薬を用いてその傷を癒す。その変幻自在の戦い方は、七色の魔法を使いこなす彼女が独自に編み出した「忍者殺法」とでも呼ぶべき唯一無二の戦闘術であった。
一方、巨大蟹を目の前にしたシドは、その身体を完全なる「異形」の姿へと変化させる。それは、通常の人間であれば見た瞬間に正気を失うほどの不気味な形状であり、人間とは異なる感性の持ち主である筈の蟹達をも、直感的に「まず此奴を排除しなければ」という感覚にさせるほどの不気味なオーラが漂っていた。その結果、リーフと対峙している蟹以外の三体はシドに向かって襲い来るが、シドは禍々しい刃を水中に浮かせながら、魔力を用いて蟹達の攻撃をかわしつつ応戦する。ただ、シドは自らの生命力を削って魔力を発動しているため、三体の蟹達が繰り出す六つの鋏を避け続けることは容易では無い。そんな中、ギリギリ当たりそうになる蟹の攻撃に対しては、少し離れた場所からリーフが召喚魔法や静動魔法で支援することで、どうにか彼は「囮」としての役割を果たし続ける。
そして、その間に後方からイサミが艦載機達の一斉射撃で蟹達を狙うが、久しぶりの水中戦のせいか、なかなか銃弾が命中しない。リーフの魔法支援を受けてどうにか何発かは命中させるものの、それが致命傷には至らず、当初の想定以上に戦いが長引いてしまう。
このままではジリ貧になると判断したシドは、水中においても自分の足ならば蟹よりも早く動けると判断し、蟹に対して自分から斬りかかるのを諦め、ひたすら蟹を挑発しながら逃げ続けるという戦略に転じる。そして蟹がシドに目を奪われている間に、後方からリーフとイサミが着実に一体ずつ蟹を屠り続けることによって、どうにか彼等は四体の蟹の撃破に成功するのであった。
3.7. 這い寄る混沌
戦いを終えた三人が、ジェームスから貰った薬を用いて気力・体力を回復させている中、フローラも「イサミ」の外に出た上で、自らの神経を集中させて、周囲の混沌の状況を感じ取る。すると、彼女は湖底の一角を指差しつつ、上方にも目を向けた。
「あの辺りから、かなり強力な混沌の気配を感じます。そして、上の方から『魔法師の人達』が近付いて来ているようです」
どうやら、あの魔法師達もやはり湖底の調査のためにここまで来たらしい。おそらくは先刻リーフが用いたのと同じ元素魔法を用いて水中に潜っているのだろうが、イサミのような潜水型の投影乗騎でも用いていない限り、ここまで辿り着くのにはそれなりに時間がかかるだろう(そしてフローラはイサミのような特殊な投影体の気配を上方から感じ取ってはいない)。
とはいえ、あまり悠長にしている余裕もないと考えた三人は、フローラの指差した箇所を徹底的に調査すると、そこに「混沌の力で何かを塞いでいる蓋」を発見する。リーフがその蓋に触れると、そこには特に鍵も封印もかけられた様子はなく、彼女がそれを開けると、その下には「更に奥底へと続く、なだらかな斜面状の洞窟」が広がっていた。そして、蓋を開けた後も、その中には湖水が一切流れこもうとしない。異空間の一種なのか、あるいは何らかの力で水を弾いているのかは分からないが、ひとまずイサミは「本体」を一旦自らの「人間体」の中へと収納した上で、四人はその「洞窟」の中へと入って行く。
斜面を下り、奥底へと進むにつれて、混沌濃度が異様なまでに高まっていくのを感じ取るごとに、シドは目を輝かせ、一方でイサミは足がすくみ始める。
「よし、帰ろう!」
イサミがそう言って方向転換しようとしたで、その後ろを歩いていたシドが不気味な笑みを浮かべる。
「なに後ろ向いてるのかなぁ〜?」
「いや、この先はヤバいって! そういうところには足を踏み入れないのが、生き残るためには一番だから!」
「俺の主が待ってるんだって。行こうぜ〜」
「私はそうやって生き残ってきたから! 多分!」
そう言って嫌がるイサミを無理矢理シドが連れて行こうとするのに対し、おそらくこの場で最も敏感にその「ヤバい雰囲気」を感じ取っているであろうフローラは、いたって平然とした様子であった。
「ここまで私を連れて来て頂いただけでも、十分に感謝しています。もし、どうしても御同行頂けないのであれば、ここから先は私一人でも構いません」
フローラは頭を下げながらそう言ったが、リーフはここで彼女を一人にする気は毛頭なく、シドもここまで来て帰るつもりはサラサラない。そしてイサミもまた、冷静に考えてみれば、ここで帰還すれば途中でエーラムの魔法師達と遭遇するし、彼等を突破したとしても、その先に聖印教会の者達が待ち構えている可能性もある以上、ここで一人で帰るのはむしろ危険性が高いということに気付き、やむなくそのまま奥へと前に進むことになる。
そして、その混沌の気配が最高潮に達したところで、まだ先に続く暗闇の奥から何者かの声が聞こえてきた。
「ようやく辿り着いたか」
その声は、シドにとっては聞き馴染みのある声であり、リーフとフローラにとっては「夢の中で一度だけ聞いたことがある声」だった。シドは目を凝らして、その先にいるものを見ようとするが、はっきりとは見えない。
「ここまで危険を冒して来たということは、私のことも分かっているのだろう?」
「分かりません。もう少し詳しく教えてほしいです」
リーフが真顔でそう答える。その後方ではイサミはプルプルと首を振り、シドはワクワクした顔で答えを待っている。
「ならば教えてやろう。と言っても、お前達に理解出来るかどうかは分からんがな」
そう前置きした上で、その「謎の声」は語り続ける。
「私は、お前達の言葉で言うところの『異界の神』だ。元いた世界では『混沌(カオス)』などと呼ばれていた。もっとも、私が元いた世界の混沌と、お前達が言うところの混沌が、同じかどうかは分からんがな」
その言葉の意味を理解出来たのは実質シドだけだったが、他の三人も、この存在こそが今回の計画の終着点であることは察する。その上で、「異界の神」はそのまま語り続けた。
「この世界には『混沌を消し去る者達』がいる。私がこの世界に出現した意味は分からんが、おそらくはその者達と戦うことによって何かが得られるのではないかと思い、私はこれまで様々な『聖印を持つ者達』と戦ってきた。それはそれで楽しき愉悦の日々であった」
どうやら、フローラが事前に調べていた「邪神」の情報とも概ね一致しているようである。四者四様の表情でその話に聞き入る中、「異界の神」は尚も話を続ける。
「実際、この世界の者達はなかなかに面白い。聖印を持つ者同士でも争い、持たない者同士でも争い、持つ者と持たない者が争うこともある。そして人々の中には、戦いに戦いそのもの以上の意義を見出す者もいれば、戦いそのものに意義を感じる者もいる。さて、お前達はどちらだ?」
真っ先に答えたのは、既に意気消沈している様子のイサミであった。
「私は、出来るならばもう戦いたくないです。人間との戦いはもう嫌です……」
そんな彼女とは対照的に、シドは楽しそうな顔で答える。
「俺の存在意義は、あなたが一番良く分かっているでしょう? 俺はあなたで、あなたが俺なんですから」
その意味不明な発言に対し、「洞窟の奥」にいる何者かは冷静な声色で返答する。
「お前がそうなりたがっていることは知っている。だが、まだお前はそこまでの域には達してはいない」
「えぇ、そうですね、残念ながら。だから、この世界の戦いなんて、所詮は『道』なんですよ。面白いと言えば面白いのですが、もっと面白いものに行きつくための前座です」
「なるほど」
シドが言いたいことをこの「神」がどこまで理解しているのかは不明だが、シドは言いたいことを言えて満足しているような様子である。
一方、フローラはやや険しい表情を浮かべながら答えた。
「私にも『戦う意味』はあった筈。あった筈ですが、既にその意味は今の私には分からない。だから今の私には戦うことそのものが目的。私をそうさせたのは、あなたでしょう?」
どうやらフローラは、自分の夢の中に出てきて混沌探査能力を与えた「謎の存在」がこの邪神であると考えているらしい。
「正確に言えば、私であり私ではない。この世界には、いや、別にこの世界に限らんのだが、どの世界にも、幾人かの私がいる」
うんうんと頷くシドに対して、「謎の声」は釘を刺す。
「お前がその一人だとは言ってないがな」
「嫌だなぁ、水臭いなぁ」
そんな噛み合っているのかいないのか分からない「自称:主の一部」との会話を一旦傍において、「主」はフローラとの話に戻る。
「おそらく、『私ではない私』がそうさせたのだろう。もっとも、『私の存在』を知らせるためにやったのであれば、『私』がやったのと同じことではあるがな」
分かったような分からないようなことを語りつつ、邪神はそのまま話を続ける。
「おそらく、その『私でない私』は、こう思ったのだろう。意味を持って力を欲していた者が、意味を無くしてでも力を欲するものなのかを見ていたい、その上で、その先にあるものを眺めてみたい、とな。その意味では、『もう一人の私』の思惑に基づいて言うならば、お前はまさに今、私に力を与えられるべき存在だ」
フローラに対してそこまで言い切った上で、邪神は今度はシドに対して語りかける。
「お前はどうせ、今、私に力を与えられなくても『いずれそうなる』と思っているんだろう?」
「とはいえ、これも道の一端なんですよね」
「なるほど。ならばここで私の力を巡って争うのを見るのもそれはそれで面白いが、しかし残念ながら、『そこの者』はまだ戦うための力を持ってはいないようだな」
それがフローラを指していることは、なんとなくその場にいる者達も理解する。
「口喧嘩なら応じてやるよ。ここであんたに腕尽くで喧嘩を挑んでも、主は面白がってくれないだろうしね」
シドはそう言ったが、フローラは応じず「邪神」に対して直接訴えかける。
「私には、何が面白いのかは分からない。何が正しいのか、どうすることが正解なのかも分からない。でも、私の中で沸き上がる衝動を晴らすためには、私が力を得るしかないのです」
彼女のその切実な衝動的願望に対して「邪神」が内心で悦に入ってるところで、その空気を壊すかのように、リーフがあえて「気の抜けた口調」で割って入った。
「あのー、私には聞いてくれないのですか?」
「ほう? お前も我を欲するか?」
「いや、さっきから言ってたじゃないですか。戦いの意義とかどうとか」
「あぁ、私はお前も含めた全員に対して聞いたつもりだったんだが」
「私は他の人の話が終わるまで、空気を読んで待ってたんですよ」
「そうか。ならばここからはお前の手番だ。好きなだけ話すがいい。お前はどうなんだ?」
改めてそう問い直されると、リーフは少しずつ真剣な表情へと切り替えながら答え始める。
「無意味な戦いは嫌いです。意味のない戦いをしても、その先に得られるものは何もないんですから。でも、私は私の世界を変えるためなら、喜んで戦います。それが意味のある戦いなら」
「なるほど……。お前はお前で、もう少し寝かせておいた方が面白いことになりそうだな。だが、まだお前にはカオスが足りない。いずれ『こちら側』に来る可能性はあるがな」
邪神がそう言い終えた直後、ここまで四人が歩いて来た後方から、何か物音が聞こえる。フローラが咄嗟に後ろを振り返ると、彼女はそこに「何か」を感じ取った。
「どうやら、あの魔法師の人達が『この中』に入って来たようです」
この空間と湖を隔てる「蓋」には特に鍵も封印もかけられていなかった以上、彼等がここを見つけるのは時間の問題であろうことは、四人も分かっていた。そして当然の如く、邪神もまた彼等の存在には気付いていたらしい。
「今ここに近付きつつある者達は、私の存在そのものを歓迎していないようだ。とはいえ、奴等に私を倒すことは出来ない。奴等に出来ることがあるとすれば、この空間により強固な『蓋』をすることだろうな」
もし彼等が、ここにいるのが「人間の手に負えない邪神」だと知れば、確かにそうすることがエーラム魔法師協会としての当然の使命であろう。
「生き埋めは困るなぁ」
シドは呑気な口調でそう言った。
「ここから出られなくなるのは私達も嫌ですよ」
リーフは冷静な口調でそう言った。
「それは困る。すごく困る。どうやってボスのところに帰ればいいんですか」
イサミは切実な口調でそう言った。
「それが嫌なら、お前達でどうにかすることだな」
邪神にそう告げられた三人は、すぐさま今来た道を戻ろうとする。だが、リーフはここで一瞬立ち止まり、フローラに声をかけた。
「あなたも一緒に来てくれません?」
「私が行っても、役には立ちませんよ」
「んー、でもまぁ、一応」
リーフとしては、彼女をこの場に一人で残しておくことは危険な気がする。そして、彼女に「力」を得るのを諦めてもらうためにも、おそらくこの先で起きるであろう、エーラムの魔法師達との「凄惨な戦い」を見せつけた方が良いかもしれない、という判断もあった。
「ただ、相手が俺達全員相手に攻撃魔法を仕掛けてきたら、守りきれるかは分からないがね」
そう釘を刺したのはシドである。とはいえ、シドとしても、彼女をこの場に残しておくことは、彼女が自分を差し置いて「主の力」を得てしまいそうなので、あまり好ましくはない。
「彼等がエーラムの魔法師なら、『一般人』を戦いに巻き込もうとはしないでしょうが……」
リーフはそう語る。少なくともリーフの知る限り、シュローダーはそういう男である。ただ、問題はフローラが「戦う力のない一般人」であることが彼等に分かるかどうかである。
「こんなところまで来ている時点で、一般人とは認識してくれないよね……」
イサミがそう呟いたところで、シドは自分が昨日の時点で言っていたことを思い出す。
「彼女って、『生贄』にするには最高の素材だよな?」
この洞窟の先には「邪神」がいる。そして、彼女を連れている三人は、少なくともエーラムから見れば「悪の組織」である。そのことに気付いた瞬間、三人の中で一つの「筋書き」が完成した。本当にこの奥にいる「邪神」が「若い女性の生贄」を必要とするかどうかは問題ではない。「正義の味方」が勝手にそう勘違いしてくれれば良いだけの話なのである。
3.8. 分かたれた兄妹
やがて、湖底の洞窟の奥底へと向かう三人の魔法師達の前に、リーフ、シド、イサミの三人が現れる(この時点では、シドの「第三の目」は一旦閉じられていた)。リーフの姿を目の当たりにしたシュローダーは、平静を装いながら問いかける。
「まず最初に確認する。お前達は何者だ?」
「何者だと思います?」
あえて淡々とそう問い返すリーフに対して、シュローダーは若干の苛立ちを感じつつ答える。
「少なくとも、ここまで来ている時点で、普通の人間ではなかろう」
「いやー、私は普通の人間ですよー」
そう答えたのは、この場にいる中で最も「人間」から遠い存在のイサミであった。シュローダーは訝しげな表情を浮かべつつ、話を続ける。
「先に名乗っておこう。我々はエーラム魔法師協会の一員だ。この地に危険な邪神が眠っていると聞き、封印するために来た」
概ね予想通りの展開である。
「なるほどなるほど」
「わざわざ聖印教会の奥地まで、ご丁寧なこった」
リーフとシドがそう答えると、シュローダーは彼等の態度から、普通に聞いても答えないだろうと判断し、あえてこのまま「自分のペース」でリーフを問い詰めようと考える。
「私が知る限り、魔法師でもなければここに入り込むことは出来ない筈。だとすれば、可能性は三つだ」
「ほう?」
「『エーラムの手違いで、我々と同じ依頼を受けてしまった者達』なのか、『我々と同じように邪神を封印するために来た、善意の自然魔法師』なのか、あるいは『この奥にいる邪神を復活させようとする者達』なのか」
「で、あなたはどれだと思います?」
どこまでも飄々とした態度でそう問い返すリーフに対して、シュローダーは苦悶の表情を浮かべながら答える。
「二番目であって欲しいと思いたい。一番目の可能性はまず無いだろう。なぜなら、私の見立てが間違いでなければ、お前はもうエーラムにはいない筈だ。違うか、ルーシー?」
シュローダーは、もう何年も前に別れた「幼い頃のルーシー」の面影を、確かにリーフの中に見出していた。何年経っても忘れられないほど、彼の中ではルーシーという「妹」を失ってしまったことは、深いトラウマとなっていたのである。
だが、そんな「兄」の想いとは裏腹に、「妹」の方は、あくまでも他人事のような態度を崩さない。
「ふむ、なるほど」
否定も肯定もせぬままそう呟く彼女に対して、シュローダーはそのまま「自説」を強硬に主張し続ける。
「お前は『善意の自然魔法師』にその才能を見出され、この地の邪神を封印しに来てくれた。私はそう信じている」
実際、前半部分に関しては、そう言えなくもない。リーフの「第二の師匠」であるマーシーは、表向きは「エーラムから認可を受けた自然魔法師」である。そして、リーフの本音としては姉に邪神の力を受け取ってほしい訳ではない以上、最終的に邪神を封印することになるならば、それでも構わない。だが、「新世界派」の一員として、まだ「依頼人」と「邪神」の交渉が終わってもいない状態で、エーラムの介入を許すわけにはいかなかった。
「そうですね。あなたの言う通りです。私はもうエーラムの人間ではありません。ついでに言えば、私はもうルーシーでもありません。今の私は『リーフ』と名乗っています」
「……その言い方からして、自分が『ルーシー』であった時のことはもう思い出したんだな?」
「えぇ。思い出してしまいました」
その微妙な言い回しから、彼女の本音を読み取れずにいたシュローダーは、しびれを切らして「本題」を彼女に投げかける。
「お前達が今、どこの誰の命令でこの地に来たのかは聞かない。俺達が聞きたいことは一つ。お前達はこの奥にいる邪神を、封印するために来たのか、それとも、蘇らせるために来たのか?」
「それは私の口からは言わないでおきましょう」
「どういうことだ?」
「どう思います?」
そんな不毛な問答を繰り返しているところで、リーフの隣にいるシドが、不気味な笑みを浮かべながら、額の「第三の目」を開く。だが、その禍々しい姿を目の当たりにしたシュローダーは、一瞬絶句するものの、必死に動揺を隠しながら、自分に言い聞かせるような口調で呟き始める。
「悪魔の模倣者か……。しかし、我々は聖印教会とは違う。博識にして冷静なエーラムの魔法師だ。悪魔の力を得ているからと言って、即座に悪だと決めつける気はない。どのような力を持つ者であろうと、その力そのものは悪ではない。どう使うかが問題なのだ」
平静を装いつつも、その声色からは明らかに困惑の様相が垣間見れる。それでもシュローダーの目は、リーフに対して「『封印しに来た』と言ってくれ」と必死で訴えているが、彼の後ろに控える残り二人の魔法師達は、既に臨戦体制に入ろうとしていた。
(バカじゃねーの? コイツ)
シドは内心そう思っていたが、実際のところ、エーラム傘下の邪紋使い部隊の中にも悪魔の模倣者はいる。ただ、あえてこのタイミングで「この力」を露わにした時点で、こちら側の「悪意」は十分通じるだろうと思っていただけに、ここまで必死に「自分にとって都合の良い結論」を押し付けようとするこの男の様相が、シドには滑稽に思えたようである。
そんな悪魔の心の嘲笑など気付かないまま、シュローダーは尚も訴え続ける。
「封印に関しては、自然魔法師よりも我々の方が長けている。だから、ここは退いてくれ。今のお前がどこで何をしていようとも、お前を咎める権利は俺にはないし、エーラムにもないと思っている。しかし、同時に俺はエーラムの一員として、この地を封印しなければならない」
さすがにこれ以上続けるのは無意味と思ったのか、ここでリーフはイサミに目配せした上で、静かな口調で「結論」を伝える。
「なるほど。あなたの言いたいことは分かりました。まぁ、私達も無意味な戦いは避けたいのですよ。でも、私の身内を人質に取られてしまっていまして、私はあなた達と戦わざるを得ないのですよ。ごめんなさいね」
笑顔でリーフがそう言うと、イサミは(当初の段取りとは若干違う筋書きになっていることに一瞬動揺しつつも)後方に控えていた(小型に具現化させた)艦載機達に拘束された状態の「フローラ」を連れて来る。
「ヒャッハー! おとなしく投降しろぉ!」
イサミは悪人面を浮かべながら、楽しそうにそう叫んだ。フローラは戸惑いながらも、半ば本気で怯えた表情を見せる。すると、ここまで必死に自説を展開してきたシュローダーの中で、何かが切れた。
「そういうことなのか……」
「残念ながら、他にも色々とあなた達と戦わなければならない理由はあるのですが、それを話したところで、あなた達には理解してもらえない思います」
「妹」のその言葉を聞いた「兄」は、深いため息をつき、そして決意の表情を浮かべる。
「致し方ない。ならばここで全てを終わらせよう、ルーシー」
彼がそう言って魔法杖を構えると同時に、イサミは「本体」を出現させ、シドは完全に「異形の姿」となり、そしてリーフは「ニンジャソード」を召喚する。
「来いよ、賢いエーラムの魔法師様!」
そう言ってシドが挑発すると同時に、その後方からイサミが本気の全力斉射を三人の魔法師に対して解き放った。先刻までとは違って(擬似)陸上空間ということもあり、今度は見事に三人に命中するが、それに対してシュローダーが咄嗟に異界の巨人を「壁」として瞬間召喚することで、かろうじて彼等は一命を取り留める。その直後にシドとリーフがシュローダーに襲いかかるが、後ろの二人からの元素魔法での補助もあって、ギリギリのところでシュローダーは倒れずにその場に踏み止まった。どうやら後ろの二人は、水中呼吸魔法要員として連れて来られた元素魔法師だったようである。
そして、その二人の元素魔法師は立て続けに火炎魔法を放とうとするが、片方は(この戦況に動揺したせいか)発動に失敗し、もう一人の火炎魔法も、リーフにあっさりと避けられる(「人質の女性」に配慮してか、彼等は大規模な範囲攻撃魔法は打てなかった)。一方、シュローダーは(リーフを攻撃したくないのか)イサミに向かって魔物を瞬間召喚して叩きつけようとするが、リーフの生み出した静動魔法の壁によって阻まれ、その直後に放たれたイサミの第二波によって、シュローダーはその場に崩れ落ちる。
「隊長」が倒されたのを目の当たりにした後方の二人は慌ててその場から逃げ去ろうとするが、彼等にこの地の情報を持ち帰らせる訳にはいかないと考えた三人による激しい追撃を受け、あと一歩で「外」に出られる直前まで来たところで、二人共無残にその命を散らすことになる。そして追撃を終えてリーフ達が戻って来た時点で、(倒れた時点ではまだかろうじて息があった)シュローダーも完全に事切れていた。もしかしたら、彼は最後にリーフに何か言いたいことがあったのかもしれない。だが、リーフの中では、もはや彼にかけるべき言葉は何も残っていなかった。
3.9. 失われた愉悦
「皆さん、ここまで必死に戦って下さり、本当にありがとうございます」
フローラはそう言って、深々と頭を下げる。
「いや、まだまだ大丈夫だよ」
シドはそう言っていたが、他の二人は(体力面はともかく)気力面においては確かに限界に達しつつあった。そして、戦いの一部始終を見ていたフローラの中では、リーフの思惑とは真反対の感情が芽生えようとしていた。
「私は、あなた方を守る力が欲しい。今のように私だけ戦えないままというのは、やっぱり嫌です。だからどうしても、私は力が欲しい。恨みを晴らすだけでなく、ここまでやってくれた皆さんに恩返しするための、皆さんを守れる力が!」
彼女がそう言い放つと、洞窟の奥の方から、再び「あの声」が聞こえてきた。
「ふむ。どうやら『一番つまらん感情』が芽生えてしまったようだな。せっかくいい具合に育ってきたと思っていたのに……」
「理由なき怒りに暴走する人間」の生き様を楽しもうと思っていた邪神にとって、「誰かを守るために戦う力がほしい」と彼女が言い出したことは、あまりにも期待外れな展開であった。
「まったくだぜ、お嬢さん。このまま尻尾巻いて逃げ帰ってくれた方がいくらか面白いぜ」
シドが勝手にそう同調しているところで、唐突にイサミが割って入る。
「あの……、あなたの力を以ってすれば、私のボスを蘇らせることは出来ますか?」
今のこの混乱のどさくさ紛れであれば、自分がその力を要求しても良いのかもしれない、と彼女は思ったようだが、それに対して邪神からは「完全に想定外の答え」が返ってきた。
「それは、『もう一人の私』に聞くことだな」
「えぇ〜……」
いきなりそんな訳の分からないことを言われても、イサミにはどうすれば良いのか分からない。しかし、邪神は全て見通したかのような言い草で、こう語る。
「お主のボスを今の状況にしたのは『もう一人の私』であろう? だからこそ『今のこの状況』は、実に楽しい」
「で、『もう一人のあなた』にはどうすれば会えるんですか?」
「帰れば良かろう。 おそらく、そこにいるのではないか?」
この邪神が何を言っているのか。イサミにはよく分からない。リーフにはそもそも興味がない。だが、シドだけは、この時点でその「主」の言葉の意味を概ね理解していた。
そして「主」が改めてフローラにはっきりと結論を告げる。
「もうお前には興味はない」
フローラはその言葉に絶望する。一方、その隣で期待を込めた目で洞窟の奥を見つめるシドに対しても、非常な結論が告げられる。
「お前も、私の楽しみを邪魔した罰だ。当分、力はやらん」
邪神にしてみれば、シドの意図がどこにあったにせよ、シド達の行動がフローラの中の「人間らしい感情」を呼び起こしてしまったことは紛れもない事実である。
「約束しますよ〜、あなたの至高の愉悦のために最善を尽くすと誓います」
「残念だが、私の想像を超える者でなければ、与えても意味はない。所詮、私の真似事をしている程度では、私は越えられん」
「そうかぁ、まだまだ精進が足りないかぁ……」
シドはそう呟き、先程までの興奮状態から一転して、ガックリとうなだれる。
「で、ここ、どうするの?」
イサミがそう問いかける。彼女としては、邪神の言っていることの意味が何であるにせよ、早く本拠地に帰りたいという気持ちは変わらない。
「もうここには用はないですので」
リーフがそう答える。少なくとも、依頼人が目的を達成出来ないことが明らかになった時点で、この場に居続ける理由はない。
それに対して、再び洞窟の奥から声が聞こえる。
「せっかく面白そうなものが来たから扉を開けてやったのだがな、仕方がないのでもう一度扉を閉めることにしよう」
どうやら、この邪神には、この湖底の「封印」を自力で解いたり開いたりすることが出来るらしい。だとすると「かつて偉大な君主によって封印された」という伝承自体も怪しく思えてくるが、今の時点ではそのことは、四人にとってはどうでもいい話であった。
「ご期待に添えず、すみませんでしたね」
「また精進して会いに来るので、待ってて下さいね。その時が来たら、俺と殺し合って下さい」
「もういいから、早く帰りましょう!」
三人がそう言って外に向かって歩き出そうとしたところで、フローラが叫ぶ。
「待って下さい! それでは、私はこれからどうすればいいんですか!?」
「はいはい、帰りますよ」
リーフがそう言って強引に彼女の手を引いて歩き始める。
「私は、過去も何もかも捨ててここまで来たのに、これでは私が生きている意味が……」
「未来を見れないようでは、力を手に入れても意味はないんじゃないですか?」
リーフのその言葉に対して、フローラは一瞬言葉を失う。そして、下を向いて消え入りそうな声で呟く。
「どのみち、私にはもうこの先に何も……」
だが、その彼女の声色からは、以前に比べて若干の心境の変化が感じ取れた。少なくとも、以前ほどの悲壮な決意は感じられない。それが、抱き続けてきた希望が打ち砕かれたからなのか、それとも、彼女の中で「別の感情」が芽生えてきたからなのかは、彼女自身にも分からない。
結局、フローラは戸惑いながらもリーフ達と共に「イサミ」に乗り込み、そのまま地上へと向かうことになる。
なお、三人の魔法師達の死骸は「封印空間」から取り出し、水中に放置されることになった。いずれまた新たに出現した巨大投影体の血肉となって消え去ることになるだろう。
そして湖底に存在していた「蓋」は、完全に湖底と一体化したかのように姿を変え、そして強固な「鍵」が内側から掛けられたのであった。
その後、地上に出た彼等は、運良く聖印教会の兵士達に見つかることもなく、そのまま無事に神聖トランガーヌ領から脱出し、ひとまずフローラを連れた状態で、結果報告(と本部の状況確認)のために本拠地の存在する異空間へと帰還した。
彼等四人を「ボス」が出迎えるが、明らかに前とはどこか雰囲気が変わっていることがリーフ達三人には分かる。もっとも、それはイサミ経由の「事前情報」があったからこそ気付く程度の微々たる変化であったのだが。
「その様子からして、作戦は失敗か?」
果たして何を根拠に「ボス」がそう思ったのかは分からないが、それに対して答えたのはフローラだった。
「これは私の責任です! 彼等は十分にやってくれました!」
その彼女の必死の訴えに対して、「ボス」はあまり興味もなさそうな口調で答える。
「ならば仕方がない。で、お前はこれからどうするつもりだ?」
「私には何も無くなってしまいました。今の私に出来ることは……」
フローラはそこまで言いかけたところで、三人に視線を移しつつ、強い決意の表情で答える。
「『この人達のために出来ること』を探したいと思います」
「ほう」
「私には魔法の素養はないかもしれない。でも、どんな形でもいいから私を役立たせてはもらえませんか?」
全てを失った今の彼女にとって、新たに切り開くことが出来る「未来」の可能性は、それしか残っていないらしい。
「まぁ、混沌の力が見抜けるというだけでも、それはそれで役には立つ。もしかしたら、今後また何かの力に目覚めるかもしれないしな」
ボスはそこまで言った上で、ふと何かを思い出したかのように付言する。
「で、お主は記憶がないとココから聞いているが……、その記憶、取り戻したい気持ちはあるか?」
唐突なその質問に対して、フローラは驚愕する。
「私の記憶は、もう戻らないのでは?」
「本来はな。だが、お主の力を奪った張本人であれば、戻す方法も無くは無いのかもしれない。もっとも、それはそれで『更なる代償』が必要になるかもしれんがな」
ボスが何をどこまで把握した上でこう言っているのかは分からない。だが、フローラは「もしそれが実際に可能だった場合」を想定した上で、それが本当に自分の望みなのかどうかを自答してみた。その上で、意外にもあっさりと彼女は答えを出す。
「いえ……、私はもうそこまでは望みません。先ほども言った通り、今は、この人達のために出来ることを探したい。今の私には、その感情さえあればいいです」
彼女はパンドラが「世界を敵に回している組織」であることを知っている。だからこそ、もし自分が記憶を取り戻した場合、今まで自分を助けてくれた彼等と敵対しなければならない理由が自分の中に出来てしまうかもしれない。それは今の彼女にとっては耐えられないことだった。逆に言えば、本来の自分を取り戻したいという願望よりも、今の自分の感情を失いたくないという願望をより強く抱けるほどに、リーフ達に対して特別な感情を抱くようになっていたのである。
ボスはその答えを聞いて、満足そうな笑みを浮かべた。
「そういうことならば歓迎しよう。パンドラは、我等が理想のために力を貸す気がある者であれば、誰であろうと歓迎する。貸す力がない者は、いずれ身につけていけばいい。新たな混沌の力をな」
そう語るボスの主張自体は以前と変わっていない。しかし、やはりどこか雰囲気が違うようにリーフ達には思えた。そんなボスに対して、リーフはふと問いかける。
「ところでボス、風邪は治りました?」
「どういう報告を受けていたかは知らんが、風邪でも腹痛でも頭痛でも何でもいいんだが、とにかく今の私は元気だ」
ボスのそんな言い分に対して、リーフは納得した訳ではなかったが、それ以上追求しようという気にはなれなかった。
(まぁ、いいか。ボスが誰だろうと、別に困ることでもないし)
あっさりとそう割り切ったリーフに対して、どうしても割り切れない様子のイサミは、意を決して問いかける。
「ボスは、本当にボスですか?」
「私は私だ。それ以上の答えが必要か?」
「私が知っているボスと同じですか?」
「お前がそう思いたいならそうだし、そう思いたくないのであれば、そうではないのかもしれない」
明らかにはぐらかそうとしているボスの態度を目の当たりにして、イサミは言葉に詰まる。
(これ以上追求したら、消されそうな気がする……)
言いようのないほどの恐怖心に駆られたイサミは、納得出来ない表情ながらも、自分がこれからどうすれば良いのかが分からずに苦悶する。
そんな微妙な空気が広がる中、唐突に「場違いな声」がその場に響き渡る。
「みんな、おつかれ〜」
またしてもどこからともなく現れたココの声であった。彼女は翼を広げて、おもむろにフローラへと近付いていく。
「あ、仲間になるんだってね。よろしく」
ココはそう言いながら、フローラの肩をポンポンと叩く。そして、そんな彼女を改めて目の当たりにしたリーフ、シド、イサミの三人は、「少し前」に「別の場所」で彼女と会ったような、そんな錯覚(?)を感じ取る。
この瞬間、シドの中で何かが「確信」へと変わった。
「まぁ、仕事は終わったし、また新しい仕事が来るまで、好きなように過ごさせてもらいますかね。用事が出来たら呼んで下さいよ、主」
シドはそう言って、この場から去って行く。その後、彼は扉の外に出た途端、自分が「本人」に対して披露した「三時間講釈」のことを思い返し、ただひたすら一人で赤面し続けることになるのであった。
同じ頃、ブレトランドの対岸に位置するローズモンド伯爵領にて、この国の重臣に仕える一人の「執事」の元に、もう一人の「ココ」が現れていた。厳密に言えば、それはまた別の名で呼ばれるべき存在なのかもしれないが、少なくとも、今この時点で新世界派本拠地にいるココと、明らかに同一の存在であった。
「計画中止? どういうことだ?」
「色々と予定が変わっちゃったのよ。ごめんね〜」
「まて! 今更そんなことを言われても……」
執事がそう叫んだ瞬間、ココはその場からいなくなっていた。
(観客として同席させれば、面白いかと思ったんだけどな〜。あわよくば、理性を失った彼女となりゆきで殺し合いにでもなってくれれば、より一層楽しいそうだったんだけど、こうなっちゃった以上は、仕方ないよね〜)
ココがそんな想いを抱いていたことなど露知らず、彼女の気まぐれに振り回されていた執事は、ただひたすらに困惑する。
この執事もまた、ワトホートによって焼き討ちにされたヴィルマ村の生き残りの一人であった。数日前、ココはこの執事に対して「ワトホートを殺せる計画があるから、一緒にブレトランドに来ない?」という話を持ちかけ、執事は半信半疑ながらも、直感的に彼女のことを「ただの使い魔ではない」と判断し、ひとまずその真偽を確かめるために、上司に休暇届まで出していたのである。
(やはり、あのような得体の知れないものの甘言に乗ろうとした私が間違っていたのか?)
執事が思い悩んでいるところに、長い前髪と三つ編みの後ろ髪が特徴的な「新聞記者」の女性が現れる。
「お嬢様とはまた別の幼女の声が聞こえたけど、あなた、本格的にそっちの趣味になったの?」
「黙れ。今は、お前の軽口に付き合う気分ではない」
「あら? そんなこと言っていいのかしら? 例の『フローラ』さんに関する情報が手に入ったんだけど……」
「なに!?」
「幼女じゃないから、興味ない?」
「どこだ? 今、彼女はどこにいる?」
「聖印教会傘下のアレクトーという村で、混沌検査官をやってるらしいわよ」
「聖印教会……? そうか、彼女は、妹とは異なる世界に生きることにしたのだな……」
「どういうこと?」
「彼女には妹がいたのだ。エーラムに入門し、将来を嘱望されながらも、あの焼き討ち事件を知り、ワトホートを殺すための秘術に手を出そうとして、エーラムから追放された妹が」
「あらら。それはまた……」
「だが、どうやら彼女はまだ生きていて、今は闇魔法師となっているらしい。以前、とある時空魔法師に占わせた結果、そのような結論が導き出されたのだ」
「なるほど。で、その妹さんを見つけて『仲間』に加えるために、行方を知っていそうなお姉さんを探そうと思った、ってこと?」
「そうだ。フローラはあの事件の当日、実家の仕事の都合でオーキッドにいたことまでは分かっていたからな。そこから先の足取りを探るのであれば、全く手がかりのない妹を探すよりは、可能性が高いだろうと考えて、お前に依頼したんだ」
「でも、実際のところは結構大変だったのよ。あれから彼女、ブレトランドの各地を転々としてたみたいで。時々、大陸の方にも来てたらしいし。結局、何がしたかったのかはよく分からないというか、今もなんでアレクトーにいるのかはよく分からないんだけど」
「いずれにせよ、聖印教会の、しかも日輪宣教団の一派に加わったということは、もはや私と共闘することは出来まい。そしておそらく、闇魔法師となった妹の行方も知らないだろう……。結果的に無駄骨になってしまったようだが、金は払う。それでいいな?」
「えぇ。構わないわよ」
「それと、明日出航のオーキッド行きの船の券が一枚あるんだが、いらないか?」
「あら? それって、どういうこと? まだ何か調べて来てくれっていうの?」
「いや、私が行く筈だったのだが、その予定が無くなってしまったのだ。今更払い戻しのために港まで行く気にもなれん」
「ふーん……。まぁ、そういうことなら、ちょうどヴァレフールでそろそろ爵位継承式典が開催されるみたいだし、その取材用に使わせてもらうわ。ありがとね♪ お土産は何がいい?」
「コーギー用の、高級ドッグフードでも買ってきてくれ」
執事は渋い表情でため息をつきながら「報酬」と「乗船券」を新聞記者に手渡すと、彼女は満足気な表情でそれを受け取り、嬉しそうな足取りでその場から去って行くのであった(この二人の詳細については
ブレトランド八犬伝1を参照)。
「君はどうして、僕を目覚めさせた?」
「どうしてだと思う?」
「僕のような子供に力を与えて、力に溺れていくのを眺めたいと思ったから?」
「そうだね。すごく楽しそう」
「僕と兄さんを仲違いさせたかったから?」
「そうだね。それもすごく楽しそう」
「僕が愛する祖国を、僕自身の手で滅亡させたかったから?」
「うんうん。それもすごく楽しそう」
「じゃあ、君の望む方向に僕が進まなかったら、君はどうする?」
「それが私の想定以上に楽しそうな展開なら、そのまま見物するよ」
「楽しくなかったら?」
「そこからどう修正すれば楽しくなるかを考える」
「たとえば?」
「その時になってみないと分からないな」
「そうやってはぐらかすのか」
「先の見える未来なんて、楽しくないでしょ?」
「楽しさだけが全てなのか」
「他に何があるの?」
「人の心は、邪神には分からないんだな」
「あれ? もしかして怒ってる?」
「別に」
「恨んでる?」
「まさか。むしろ感謝してる。君にも、僕の中で眠っている彼にも」
「彼は、君から全てを奪った張本人なのに?」
「彼がいなければ、僕は無力な子供のままだった」
「やっぱり、力は欲しい?」
「うん。ずっと力は欲しかった。この世界の人々を救うための力が」
「そうなんだ」
「僕にはそんなことは出来ない、と思ってるんだろう?」
「そうかもね」
「力を使いこなせないまま、いずれ誰かに斃される、と思ってるんだろう?」
「そうなる前に、世界を壊してしまってもいいんだよ?」
「僕はそんなことはしないし、誰にもそんなことはさせない」
「そっか」
「そのために、僕はこれから彼女を迎えに行く」
「あの従姉妹のお姉さん?」
「彼女さえ隣にいてくれれば、僕の心は壊れない」
「ふーん」
「僕がもし道を間違えたら、彼女はきっと僕を止めてくれる」
「最悪、君を殺してでも?」
「優しい彼女に、そんなことはさせたくないけどね」
「来てくれるといいね」
「来てくれるさ。彼女はずっと僕の味方だった」
「来てくれなかったら?」
「どうすれば来てくれるかを考える」
「たとえば?」
「その時になってみないと分からないな」
「……やっぱり、君は面白いね」
「楽しんでくれてる?」
「うん、楽しい」
「それなら、もうしばらく君にも力を貸してもらうことにするよ」
『はーい、了解です、ボス』
『これからもよろしく頼むぞ、我が使い魔よ』
その後、シドは数日間に渡って自室に引き篭って「儀式」に専念し(その間に彼が何を思っていたのかは不明である)、イサミもまた一人で様々な感情を抱え込みながら、自室でひたすら現実逃避にヤケ酒を続ける日々を送ることになる。
一方、フローラは改めてリーフに対して決意を語る。
「あなたは『未来が見えなければ、力を手に入れても意味がない』と言ってくれた。それはそうなのかもしれない。だから、まずは未来を見ることが出来るようになりたい。その上で、力を手に入れたいと思う」
「それならばきっと、その力も役に立ってくれるでしょう」
「じゃあ、これからもよろしくね、ルーシー」
フローラには、洞窟の戦いにおけるリーフとシュローダーの会話は聞こえていた。つまり、彼女の本当の名が「ルーシー」であることには、フローラも気付いていたのである。それが何者かは分からないが、それが「自分の大切に持っていたハンカチに刺繍で記された名前」であることもフローラは分かっていた。
「え? 私、リーフですよ」
リーフはそう答えた。それに対して、フローラは笑顔で答える。
「そうね。『今のあなた』はリーフだもんね」
「まぁ、そうですね」
淡々とそう答えるリーフに対して、フローラは黙って微笑み続ける。今のリーフがそう主張し続けるなら、それ以上追求するつもりはフローラにはない。彼女の正体が何者であろうと、「過去の彼女」と「過去の自分」の間の関係が何であろうと、「今の自分」と「今の彼女」、そして「未来の自分」と「未来の彼女」の関係が、そのことに縛られる必要もない、そう割り切ることにしたようである。
そんなところで、再びココが何の脈絡もなく現れた。
「あ、そうそう、これから先は、その『混沌を見極める力』を使っても記憶は消えないと思うよ。根拠はないけど、なんとなくそんな気がする」
唐突に現れた少女に唐突な話を聞かされたフローラは困惑するが(そもそもフローラは、彼女が誰なのかすらもまだよく分かっていない)、リーフは「同僚」の言葉を借りて淡々と答える。
「まぁ、『アルジ』がそう言うなら、そうなんでしょう」
当然、その言葉の意味もフローラには分からない。だが、そんな彼女に対して、リーフも改めて手を差し伸べる。
「では、そういうことなら、よろしくお願いしますね」
フローラは笑顔でその手を握り返す。そして、気付いた時にはココの姿はその場から消え去っていたのであった。フローラだけが感じ取れる程度の、ほのかな混沌の香りだけを残して。
(ブレトランドの光と闇・完)
最終更新:2018年06月10日 05:37