第11話(BS46)「覇道と騎士道」 1 / 2 / 3 / 4

1.1. 副団長の見解


 カナハ村での和平交渉は、ヘリオンクラウドの出現と、ケイの領主ガスコインの契約魔法師ロバートによる騎士団両首脳暗殺未遂事件の勃発により、中断を余儀なくされた。その直後、ガスコインは「騎士団長ケネスおよび伯爵令嬢レアとパンドラの癒着」を理由に、ブラフォード湖周辺諸侯と共に「ヴァレフール伯爵領からの独立」を宣言する。彼は「ブラフォード子爵」を名乗り、グリース子爵ゲオルグとの同盟を宣言した上で、ヴァレフール傘下の君主達に対しては「パンドラにも聖印教会にも屈しないこと」を条件に、友好関係を結ぶ意志がある旨を表明している。
 だが、その一方で、山岳街道を経由して「暁の牙に偽装したアントリア軍」がケイに向かったという情報がチシャの元に届いており、ガスコイン達の真意は不明である。ガスコイン討伐への機運が高まる中で、次期騎士団長候補としてカナハを訪問していたトオヤは「その前にガスコインの真意を確認する必要がある」と主張して、仲間達と共にケイへと赴くことを決意する。
 その上で、ヘリオンクラウドの再出現の可能性に備えてカナハ近辺の防備をグレン達に依頼したトオヤに対して、グレンはその依頼そのものは了承しつつも、トオヤの掲げる方針に対しては懐疑的な認識であった。

「既に北からアントリア軍が領内に潜入しているのであれば、今は一刻も早くまずガスコインを討伐すべきなのではなのか?」

 ガスコインは、ヴァレフールとアントリアの争いに対しては中立を宣言しているが、この状況を考えれば、アントリアに味方してヴァレフールを内側から壊そうとしているようにしか見えない、というのがグレンの見解である。

「それはその通りなのですが、ガスコインの背後を確認する必要があります。特にグリースの動きが不自然すぎます。彼等がみすみすアントリアの侵攻を見逃すでしょうか?」

 トオヤはそう返した。現在、「ブラフォード子爵領」との間で(人質交換を前提とした)同盟を締結しているグリース子爵領には、旧トランガーヌ子爵領の遺臣が多く、アントリアへの敵愾心が強い。そのグリースの保護領的位置付けであるトーキー村を、「暁の牙に偽装したアントリア軍」が通過することを看過したのは、明らかに不自然であろう(単にその偽装に気付いていないだけ、という可能性もあるが)。

「おそらく何らかの密約があったと見るべきなのですが、このままグリースが何も動かないということはないと思います。アントリアと同時進行で何かをしようとしているのか、アントリアの隙を突こうしているのか」
「確かに、グリース子爵にはどこか得体が知れないところがある。側近のマーシーという自然魔法師もな」

 グリース子爵ゲオルグの旗揚げ以来の軍師的存在であるマーシー・リンフィールドは、エーラムから公認を受けた、時空魔法を得意とする自然魔法師である。ブレトランドの歴史上幾度か登場する「リンフィールドの先読みの一族」の噂はグレンも聞いたことがあるが、今ひとつ実態が不明なため、グレンは前々から訝しい存在だと考えていた。
 とはいえ、現状、グリースは神聖トランガーヌとの戦いで手一杯で、ヴァレフールやアントリアとの抗争に手を出す余力はない筈である。ただ、神聖トランガーヌが二代目枢機卿ネロを中心とする新体制へと移行し、周辺諸国に対して友好姿勢に転じようとしているという説もあるため、それがグリースの方針を転換させた可能性もある。

「だからこそ、ガスコインとの会談を通じて、この辺りの手がかりも掴むべきでしょう」
「確かに一理ある。だが、奴は話し合いには応じると言ってはいるものの、 それは『アントリア軍を迎え入れるための時間稼ぎ』や『騙し討ちにするための罠』という可能性もありえるのではないか?」
「えぇ。その可能性は十分にあります。ですが、目の前のアントリアだけを見ては、その背後にいる者を見落とす可能性があります。ですので、連中の思惑に乗ってやるふりをして、連中の真意を探るというのも、採るべき策ではないかと」
「ふむ、確かにな」

 当初、グレンはトオヤがガスコインとの対話を望んでいると聞いた時は、トオヤのことを「ただの楽天的なお人好し」かと思っていたが、どうやらそういう訳でもないらしい、ということは察する。

「皆はどう思う? 俺の中でのグリース像とアントリア像に基づく違和感を語ってみたんだが」

 それに対して、戦略などを考えるのが苦手なカーラは、必死で頭を回転させて様々な可能性を考える。

「アントリアから来ている軍の規模次第かなぁ……。グリースとしては、今はヴァレフールの戦力を削るのが目的なのかも……」
「それも思惑の一つかもしれないな。ヴァレフールとアントリアを戦わせて、疲弊したところを叩く、ということなのかも」

 トオヤがそう答えると、ドルチェもそれに同意する。

「それを含めて、グリースが何も考えてないということはないだろう。あと重要なのは戦力の問題だが……、相手が送り込んで来ている兵を正面から叩き潰せる戦力がこちらにあるのかどうか」
「多分、アントリアが全力で軍を送り込んで来ている可能性はないと思う。今の子爵代行は、当面は内政に力を注ぐという方針らしいからな」

 とはいえ、今のアントリア子爵代行マーシャルがアントリア全体を掌握しきれているのかは不明である。アントリアの正規軍は実質四つの軍閥に分かれており、マーシャルの養父(叔父)である騎士団長バルバロッサ直属の外様(放浪時代のダン・ディオードの人脈で集めた)君主達はマーシャルに従順な姿勢を示しているが、他の三軍閥の恭順度合いは一様ではない。また、それらとは別に大工房同盟から派遣されている白狼騎士団と銀十字旅団、そしてダン・ディオード直属の対混沌専門遊撃兵団なども国内に駐屯しているため、その内情は極めて複雑である。
 更に言えば、子爵代行が休戦方針であったとしても、大工房同盟全体が強硬策を掲げるなら、その方針に抗うことは難しい。実際、数ヶ月前の長城線の戦いはノルドの梟姫主導の戦略に巻き込まれた形であったし、今後もまたノルドやヴァルドリンドが遠征軍を派遣して来る可能性は十分にありうるだろう(グレンが一番危惧しているのもそれである)。
 なお、チシャに届けられた(マーチ滞在中の)ヴェルナの報告によれば、今回の「暁の牙に偽装したアントリア軍」の中には、アントリア北岸の港町の警備隊長が含まれていたらしいので、おそらくはクワイエット軍との二正面作戦の可能性が高そうではある。

「いずれにせよ、どうしても話し合いをするというなら、早急に行くべきだろう。ただ……」

 グレンは、トオヤの傍にいたレアに視線を向ける。

「レア姫を連れて行くことには賛同出来ん」

 レアとしては、トオヤが本気でガスコインを説得する気なら、最大の当事者である自分も同行する必要があるだろうと考えていた。だが、この見解に対しては、チシャも同意する。

「確かに、罠があるかもしれないですしね……」

 爆死したロバートの最後の発言から察するに、少なくとも彼はレアに危害を加えるつもりはなかったらしい。だが、殺す気はなくても、身柄を拘束されて人質として利用される可能性は危惧すべきだろう。

「最悪、交渉時に『レア姫』が必要ならば、『手』はあるしな」

 グレンはそう言いながらドルチェに視線を向ける。彼女がそれに対して苦笑いを浮かべる一方で、トオヤもこの問題に関してはレアの意志よりもグレンの見解が正しいと考えていた。

「レア姫様の身の安全に関しては仰る通りですので、この地に残って頂いた上で、グレン殿に警護をお任せしたいと思います。ちなみにファルク様は今どちらに? あの方がグリースとの交渉担当だった筈ですが、何か不審な動きがあったという話は聞いていませんか?」
「少なくとも、今のところは聞いていない」

 そもそも聖印教会派のグレンやファルクは、密偵を他国に送り込むといった搦め手には向いていない。グリース最大の商業都市であるメガエラにはファルクに心酔する妹のターリャが武官として仕えているが、彼女が国家機密を兄に漏洩するような人物かどうかは不明である。
 一方、ようやく頭の中を整理出来てきたカーラは、改めて自身の考えを語り始める。

「やっぱり、これ以上の混乱を避けるためにも、話し合った方がいいと思う。このまま討伐したら、都合の悪い事実をもみ消したと思われる可能性が高いと思うんだよ。でも、交渉役としてのあるじには、まだ『地位』がないのが難点かな」

 確かに、現時点でのトオヤはあくまで「次期騎士団長候補」でしかない。だが、過去にケネスから「騎士団長代行」としての任務を任されたこともあるし、実質的には今回の和平会談にも(「本物のケネス」が不在であった以上)事実上の名代としての役割を任されていることは明白である。この状況において、ケネス相手に連絡を取れば、再び「騎士団長代行」をトオヤが名乗ることに、ケネスは反対しないだろう。
 もう一つの道として、ドルチェが再び「ケネス」の姿になった上でガスコインとの会談に臨むという選択肢も無くは無いが、グレンにはそれは良作とは思えなかった。

「向こうが聞く耳を持つかどうか、という点から考えれば、もう既に殺しにかかっている儂やケネスが行くよりは、トオヤ殿の方が適任だろう」

 実際、先刻の襲撃の際にロバートはトオヤのことは何も言っていなかった。彼の言葉が本心を覆い隠した偽装発言でない限り、少なくともトオヤに対してはケネスやグレンほどの敵意は抱いていない可能性が高そうではある。そして、ここで下手に小細工はしない方がいいと判断したドルチェは、今回は素直に「ドルチェ」の姿のまま随行することにした。

1.2. 騎士団長の見解

 こうして、ひとまずトオヤ、チシャ、カーラ、ドルチェ、ジーン、アグニなどに率いられたタイフォン・アキレス軍は、レアをカナハに残した上で、チシャが召喚した移動用ペリュトンに乗ってマドリガル経由で「ブラフォード子爵領」の南端に位置するレレイスホトの村へと向かうことになった。
 現在のこの村の領主は、ガスコイン直属の騎士ウィリアム・ディズレーリ。彼もまた、トオヤ、マルチナ、ベルカイルなどと同じ「防御」に定評のある「聖騎士の聖印」の持ち主である。歳はガスコインとほぼ同世代の四十歳。若い頃からガスコインの側近の一人として名を馳せた質実剛健な君主として知られている。約一年前に先代領主のハンス・オーロフが引退した後に領主に就任した身だが、長年にわたってハンスの副官を勤めていたこともあり、領民からの支持は高いと言われているらしい。
 カナハからケイへと向かう場合、空路次第ではレレイスホトを迂回することも出来なくはないが、まずはガスコイン派全体の状況を確認するためにも、本拠地に乗り込む前に、一度レレイスホトで情報を収集すべきという判断であった。
 その途上、北上中のペリュトンの鞍上にて、トオヤはチシャに密着し、彼女の魔法杖と、カナハに向かいつつあるケネスの魔法師団の一人の魔法杖を通じて、ケネスとの通話を試みることにした。
 ひとまず、トオヤがケネスに改めてここまでの事情と方針を説明すると、ケネスは、トオヤが「騎士団長代行」と名乗ってガスコインと交渉することを認める。その上で、ガスコインに関しての(長年の盟友としての)自身の見解を伝えた。

「あやつは、どちらかと言えばお前のことを高く評価していた。お前が謹慎中だった時も、儂の後継者になるべきは(テイタニアの戦いで戦死したチシャの弟の)アンディではなくお前だと言っていたしな」

 なお、ケネスがガスコインと最後に直接会ったのはテイタニアの魔獣騒動の時であり、その時点では反乱を起こしそうな兆候は全く感じられず、ケネスにとっても今回の事態は完全に予想外であるという。ただ、ガスコインは曲がったことが嫌いな性格なので、パンドラ嫌いの傾向は強い(その理由として、過去に息子を誘拐されたことも影響しているであろう。もっとも、パンドラ側にしてみれば「レベルアップして返してやっただけ」であり、結果的にヴァレフールの勢力拡大にも繋がっているので、むしろ感謝されるべき、という認識のようだが)。

「無論、奴は実直ではあるが愚鈍ではない。この国を動かす上で『本音』と『建前』が必要なことは分かっているから、今までも色々と『裏の手』を儂が使うことについては何も言わなかった。だが、奴の中でもさすがにパンドラと手を組むことまでは許せなかったらしい」

 とはいえ、誰が彼にその情報を伝えたのかは分からないし、そもそも彼がどこまで状況を正確に認識しているかも不明である。
 その話をしているところで、いつの間にかトオヤの「反対側の隣」に密着して話を聞いていたドルチェが口を挟んだ。

「ガスコインに伝わっている情報に齟齬がある可能性もある。もう一つの、もっと厄介な可能性として、ガスコインそのものに齟齬がある可能性も」
「誰かが魔法か何かで乱心させてる、とか?」
「そうかもしれない。あるいは『こういうやつ』もいるしね」

 ドルチェはそう言いながら、自分を指差す。

「それについては、憶測は憶測でしかないからな……」

 トオヤが困った顔でそう呟く中、魔法杖の向こう側からケネスは話を続けた。

「ロバートは、もともと研究者気質で、独自の魔法の開発を密かに進めていたということは、奴の召喚魔法科の先輩であるハンフリーからも聞いている。その上で、奴の主人が実直な気質だったからこそ、表には出せないような汚れ仕事も担当していた。ガスコインは、人との相性はあるが、慕われる者達からは慕われる性格だからな。ロバートのように、自分の命を賭してでも政敵を倒そうという覚悟を固めた側近は少なくはないだろう」

 一般的な人々から見たガスコインの印象は、端的に言えば「昔気質の頑固親父」であり、それ故に、他の者達にはない独特の人望がある。その彼が決起を決意したということは、それに従う部下達を個別に離反させるのは難しいだろう。

「いずれにせよ、こうなってしまった以上、もう奴等は儂の言うことは聞かぬだろうし、儂の首を取らないことには、振り上げた拳も下ろせぬだろう。だから、どうしても必要ということであれば、いつ儂の首を差し出しても構わん。そのためにカナハに行くのだからな」
「参考になりました。ただ……、パンドラとの密約の時にしても、今回の件にしても、お爺様は自分の命を気軽に投げ捨てすぎなのでは?」
「そうそう安売りしているつもりはないぞ。ドギ殿下の時は、そうしなければならないから契約を結んだだけだ。我が一族が奴に一矢報いて儂が死ぬのであれば、それもまた致し方ない」
「しかし、これまで築き上げてきた連合との関係などを考えると、あなたは無くてはならない存在です」

 まさかトオヤがこのようなことをケネスに言うことになろうとは、数ヶ月前までは、トオヤ自身もケネスも思ってもいなかった。自分が祖父の代役として振舞わねばならないこの局面に至って、トオヤは改めて、良くも悪くも祖父の存在の大きさを実感していたようである。そんなトオヤの思いを知ってか知らずか、魔法杖の向こう側でケネスは苦笑を浮かべる。

「だが、状況によっては、儂の首が必要になるかもしれんだろう。ガスコインを納得させるためにはな。正直なところ、奴等も相応の覚悟でコトを起こしたのだろうから、本気で奴等の言い分を受け入れる気なら、身内を斬る覚悟はしておいた方がいい。おそらくもう、ごまかしきることは出来んと思う。儂のことも、レア姫のこともな」
「そうですか……。まぁ、この続きについては、また後ほど」

 ひとまずそう言って、トオヤは話を打ち切った。果たしてこの局面、どうすれば全てを丸く収めることが出来るのか、まだ全く見通しは立ってはいなかった。

1.3. 赤い風

 一方、トオヤとチシャが空中で魔法杖通信に集中している中、トオヤの傍にいたドルチェは、マドリガル方面からレレイスホトへと向かう「武装集団」の存在に気付く。それを率いている「皮鎧を着て背中に弓を背負った人物」(下図)に、ドルチェは見覚えがあった。


 ドルチェの記憶が確かならば、その人物の名はレッドウィンド。サンドルミア留学期に出会った「義賊」を名乗る傭兵騎士である。かつてレア姫(本物)が外遊時に混沌災害に遭遇した際、偶然近くを通りかかり、姫を助けたのが彼であった。当時のドルチェは「レアの侍女」の姿で彼女を守りつつ、彼等の戦いぶりを見ていたのであるが、レッドウィンドの弓捌きは一線級であり、一国の将軍となってもおかしくないほどの実力者であるというのが彼女の認識であった。
 だが、本人は宮仕えを望まず、在野の君主として混沌から人々を守ることを生き甲斐としており、そんな彼の義侠心に惹かれて多くの仲間達が彼の下に集っている。なお、どうやら彼はブレトランド出身らしいが、以前に助けられた時に話を聞いた時には「今は事情があって、故郷に帰る訳にはいかない」と語っていた。

「トオヤ、下に『気になるの』がいる」

 ドルチェにそう促されたトオヤは、視線を地上へと向ける。

「あれは……、軍勢か?」
「なんというか、自由騎士というか義賊というか、そういう奴だったと思う。以前にサンドルミアで会ったんだが、まさかこんなところでまた見かけるとはな」

 その声に対して、近くを別のペリュトンで飛んでいたカーラが反応する。

「え? あれで騎士?」

 上流騎士達に囲まれて育ったカーラの目には、野伏のような装束の彼は、邪紋使いか、もしくは異界の投影体のように見えた。

「一応、れっきとした聖印を持つ君主だ」
「身なりは山賊のようにも見えるが……、どうする? レレイスホトに向かっているようだが」

 トオヤにそう問われたドルチェは、少し考えた上で答える。

「もともと、レレイスホトに向かうのも情報収集のためだろ? あれが無関係とは思えない」
「ならば、レレイスホトに着く前に、ここで接触するか」

 それに対してカーラも同意する。

「協力出来そうだったら、一緒に行くという手もあるしね」

 現状、敵か味方かは分からないが、いずれにせよ話を聞いてみる価値はあるだろう。

「OK。一応、ちょっとした顔見知りではあるから、声をかけてみよう」
「分かった、じゃあ頼む」

 トオヤにそう言われたドルチェは「サンドルミアで彼と出会った時の姿」に変身する。

「では、高度を下げますね」

 チシャはそう言いながら、彼女達を乗せたペリュトン部隊全体を、地上部隊に声が届く程度の高さにまで降下させる。それに気付いたレッドウィンド達が弓を構えると、ドルチェは先頭に立ち、両手を挙げて抗戦の意思がない旨を示す。

「そっちの隊長殿は、見覚えがあるだろう? それとも、こんなチョイ役なんて忘れちゃった?」

 そう言われた「隊長殿」は自分の中の記憶を紐解く。

「あ……、あぁあぁ、思い出した。あの小さい姫様の!」

 どうやら彼は、思いのほか記憶力が良かったらしい。おそらく、サンドルミアの地で「故郷の姫君」と出会ったことが、彼の中ではよほど印象的だったのだろう。

「そういうこと。お久しぶりだね。まぁ、あいにく今日は姫様はいないんだけど」
「そういえば、あの姫様は『こっち』に戻って来てるんだったな」
「君こそ、『こっち』には戻って来れないんじゃなかったのかい?」
「そのつもりだったんだが、『戻って来てもいい』という手紙を受け取ったんでな」
「ふーん」

 そんな会話を交わしつつ、ひとまずペリュトン部隊は完全に地上に降りる。そんな彼女達に対して、レッドウィンドは素直に身の上話を始める。

「俺はもともとヴァレフールの生まれでな。昔、レレイスホトの領主の爺さんに弓を習っていたんだが、その師匠の爺さんが少し前に亡くなってしまって、墓参りに行きたいと思っていたんだ。だが、俺は昔、ケイの領主殿の側近の一人と揉め事を起こして、勢い余って殺しちまって、『お尋ね者』になってたんだよ。俺もまだ若かったし、あんまりにもそいつが民衆に対して横暴だったもんだから、ついカッときてな」

 レレイスホトの前領主ハンス・オーロフは弓の名手として知られており、晩年には弓術指南役として多くの騎士や邪紋使いを育てたことでも有名である(ブレトランド八犬伝3参照)。どうやらこのレッドウィンドもその一人であったらしい。

「それが今頃になって、爺さんの上役だったガスコインの旦那から『全てを許すから帰参しろ』と言われて、何か妙だなと思いつつ、とりあえずは話を聞くために帰って来たんだ」
「そういうことか……。ずいぶん彼も切羽詰まってるねぇ」

 おそらくは戦力補充のための招集なのだろうとドルチェは推測する。

「そもそも今、この国はどういう状況になってるんだ? 継承問題で色々揉めてたのは知ってたが、さっき隣の村まで来たところで、ケイが独立宣言したとかいう話を聞いて、正直、何が何やらさっぱり分からないんだが」
「それで大体合ってるよ。詳しいことは僕らにも分からない。君を呼び戻したのは、ガスコインさんだね?」
「そうだな。正確に言うと、レレイスホトに俺と仲が良かった『半人半馬の投影体』の部隊長がいるんだが、どうやらそいつが取りなしてくれたらしい」

 その話をドルチェの後方で聞いていたカーラは「半人半馬の投影体」と言われて、旧知の人物の顔が思い浮かぶ。それは数百年前、彼女の父シャルプの側近として、ヴィルスラグやストレーザと共に様々な戦いで活躍した投影体である。名はサジタリアス。シャルプの死と共にこの世界から消滅したと言われていたが、十数年前にブラフォード湖の近辺に突如再出現し、現在はガスコイン傘下の弓騎兵隊を率いているという話を聞いたことがあった。
 もっとも、現世においてはカーラはまだ彼女と会ったことがないので、カーラが知っているサジタリアスと同じ人物(同じ記憶を持つ投影体)かどうかは確証が持てなかったため、ひとまずこの時点では黙ってドルチェ達の話をそのまま聞き続けていた。

「まぁ、反乱を起こしてはみたけど、戦力が足りないから呼び戻した、ってとこじゃないかな」

 正確に言えば、時系列的にはおそらく反乱を計画中の段階で彼等を呼び戻すことにしたのだろう。大陸からブレトランドの内地まで来るには、どんな行路を用いても数日はかかる筈である。

「俺は正直、権力争いやら何やらに興味はないんだが、ひとまず事情を説明してくれないか?」

 レッドウィンドにそう言われたドルチェは、まず「自分達の立場」を明らかにした上で、現状を彼等に解説する。その上で、今までのガスコインに比べて違和感があるので、偽情報に踊らされているのではないか、もしくは彼自身が偽物なのではないかという疑念についても伝えた。
 それに対してレッドウィンドは、まだ今ひとつ状況を理解しきれていない様子ながらも、率直に思ったことをそのまま問いかける。

「『あの姫様がパンドラと関与している』という噂もあるらしいが、それについてはどうなんだ?」
「僕は一従者だからね。そこまで込み入った政治の話は知らないけど……、一般論として、君主という立場にいれば『そういうこと』もあるんじゃないかい?」

 ひとまず、ぼかした言い方でごまかしたドルチェに対して、レッドウィンドは「これ以上聞いても答えは出てこない(もしくは出せない)」ということは察する。

「お偉いさん方は、色々大変なんだな」
「君も一応、君主だろ?」
「そういうことがよく分からないから、もう国を治めるのは諦めたんだけどな。正直、さっきは『若かったから』とか言ったけど、多分、俺は今でも、民衆に狼藉を働くような権力者がいたら、後先考えずに殺しちまうと思う」
「ま、それはそれで正しい正義の在り方なんだろうさ。とはいえ、パンドラとつるんでいるということと、民衆に狼藉を働くことは別の問題でさ。僕は一従者だけど、僕の持論としては、最終的に皆がHappyになってればいいんじゃないかい?」

 あえてブレトランド訛りの表現を用いつつドルチェがそう言ったのに対して、レッドウィンドもそれなりに納得したような顔を浮かべる。

「確かにな……。で、あんたらはどうするつもりだ?」
「言った通りさ。まずはレレイスホトの領主に会って、話を聞こうと思っている」
「なるほど。状況的には似たような立場ということなのかな」

 二人の会話がひと段落したところで、トオヤが後方から口を挟んだ。

「一つ、あなたの意見を聞かせてもらえないだろうか? 今回の件に関して、どう思う?」

 そう言われたレッドウィンドは、まだ少し戸惑った様子を残しつつ、ガスコインに関する自分の中の認識を訥々と語り始める。

「正直、俺は今のところ、どっちにも協力するつもりはない。ガスコインの旦那は義理堅い人だからな。俺が殺しちまった側近の奴も、殺されても仕方がないくらい問題がある奴だということは、多分あの人は分かってた。ただ、一人の君主の正義感だけで人を殺すことを認めてしまうと秩序が乱れると判断して、俺を追放したんだと思う。まぁ、その点に関しては俺の師匠も同意見だったんだがな。ただ、なんだかんだでガスコイン卿は、厳格なようで『情』を重んじるところがあった。奥さんを亡くしてから、より一層厳格になった感はあったがな。それで親子関係も冷え切っていたようにも思える。正直、俺もあの人にはあんまり会いたくないんだがな……」

 今ひとつ話の筋がはっきりしないまま、思ったことをそのままつらつらと言葉にするレッドウィンドに対して、このまま聞いていても要領を得ないと思ったのか、トオヤが話を切り上げる。

「まぁ、そこをどうするかはあんたが決めてくれればいい。とりあえず、俺達もそっちに向かう予定なんだが、一緒に行かないか? チシャ、今からペリュトンを追加召喚する余裕はあるよな?」
「えぇ、大丈夫ですよ」

 チシャがそう答えると、レッドウィンドは突然、少年のように目を輝かせる。

「本当か? いや、それはありがたい。実は一度ペリュトンってやつに乗ってみたかったんだよ」
「途中でレレイスホトに寄って行く予定なんだが」
「あぁ、それは構わない。多分、サジタリアスもそこにいるしな」

 その名を聞いたカーラは、改めて口を開く。

「多分、そのサジタリアスさんとは僕も知り合いだから、話せば通してもらえるかもしれないけど、その保証はないし、出来れば一緒に来てくれると嬉しい」

 こうして、そのままなし崩し的に彼等は一緒にレレイスホトへと向かうことになった。

2.1. 湖南の村

 やがて彼等はレレイスホトの街並みが見えて来たところで、相手側を刺激しないよう、ひとまずペリュトンを降りて、地上を行軍する。そして彼等が村の入口に差し掛かったところで、門兵達が彼等に対して大声で問いかけた。

「貴殿等の所属を聞かせてもらおうか?」

 それに対して、トオヤもある程度の距離を保ったまま、大声で答える。

「騎士団長代行トオヤ・E・レクナだ。この村の領主と話がしたい」
「ここから先は『ヴァレフールを捨てる覚悟のある者』以外は通す訳にはいかん。だが、ヴァレフールを捨てた上で、新たな秩序を築く覚悟を備えた者であれば、ブラフォード子爵は誰でも迎え入れる所存だ。貴殿等はいかなる思惑でこの地に来た?」
「無用な血を流さぬために話し合いに来ただけだ。ブラフォード子爵の主張を受け入れるかどうかはまだ分からない。今の時点ではまだ情報が足りない。このような状況では、誤った判断を下す可能性が高い。その情報を得るための話し合いだ」
「我が領主としては、どの君主との話し合いにも応じる用意はある。ただ、武装を外せとまでは言わんが、さすがに兵を連れて領内に入ることは認められん」
「相分かった。しばし待たれよ」

 トオヤはそう言った上で、一旦後ろに下がり、仲間達と方針を確認する。

「とりあえず、俺一人で行く。皆はここで待っていてくれ」

 相手を刺激させないためにはそれが良いということなのだろう。だが、それに対してカーラは異を唱える。

「話し合いに行くんだろう? それなら、せめて契約魔法師は連れて行くものじゃないのかい?」

 それは確かに正論だろう。何かあった時に、ケネスやレヴィアン等と連絡を取り合うためにも、チシャが隣にいた方が良いことは確かである。

「罠の可能性がある以上、何かあった時には俺一人の方が逃げやすいと思ったんだがな……」

 確かに、トオヤ一人であれば、仮に村内で彼等が単純な不意打ちを仕掛けてきても、そう簡単には討たれないだろう。ただ、彼等が何らかの「搦め手」を用いてきた場合は、むしろチシャの魔法があった方が柔軟に局面を切り抜けられる可能性が高い。更に言ってしまえば、より万全を期すためには、「相手に知られずに仲間を連れて行く方法」がトオヤ達にはあった。マキシハルトでのラザールとの会談の時のように、カーラを「剣」だけの状態にして背中に背負えば、いざという時の安心感はより強まる。
 それに加えてもう一つ、ドルチェにも秘策があった。

「ちなみにね、実は僕も最近、こういうことが出来るようになったんだ」

 彼女はそう言うと、その身体が一枚の「豪奢な外套」へ変わる。いつの間にか彼女は「物品」に変身する能力をも身につけていたらしい。これならば、彼女もまた会談の場に「同席」させても問題はなかろう。
 こうして、トオヤが「カーラ」と「ドルチェ」を身に纏った状態の上で、チシャを伴って村の領主との対談に臨むことになった。残る部隊の指揮はジーンとアグニに任せた上で、もし非常事態が起きた時はチシャが空に向かって火の玉を放ち、ジーンがそれを確認した時点で、アグニがその身にまとった火炎の力で村の門を焼き払うことでトオヤ達の退路を確保する、という戦略である。
 一方、その間にレッドウィンド達も(ガスコインからの連絡が兵士達にまで伝わっていなかったようで、少々確認に時間はかかったが)無事に入村が認められることになり、トオヤ達と共に村の内部へと迎え入れられる。そんな彼等を領主の館へと案内するための護送役として、村内の警備兵達を率いる半人半馬の男が現れた(下図)。


「よぉ、久しぶりだな、サジタリアス」

 レッドウィンドがそう声をかけると、その半人半馬の男も満面の笑顔で答えた。

「あぁ。よくぞ戻って来てくれた」

 その姿も、声も、確かにカーラの知っている「父の側近のサジタリアス」そのものであった。とはいえ、さすがに「本体」だけのこの状態では声をかけることも出来ず、そのまま彼女は黙ってトオヤに背負われたままの状態で領主の館へと向かう。一方、サジタリアスの方も、トオヤの背中の「奇妙な形をした大剣」が気になる様子ではあったが、ひとまずこの場は何も言わずに護送役としての任務に徹するのであった。

2.2. 叛徒の論拠

 領主の館でトオヤを出迎えたウィリアムは、厳格な表情でトオヤに対して語りかけた。

「貴殿は話し合いに来られたとのことだが、私はガスコイン様から、ヴァレフールに恭順する意思のある者は通すなと言われている。あくまでも貴殿の立場は『ヴァレフール騎士団長代行』ということでよろしいか?」
「えぇ」
「であるならば、我等としては黙って貴殿をここから先に通す訳にはいかない。もっとも、それも貴殿の話の内容次第ではある。場合によっては、兵をこの地に残した上で、お二人で我々の監視の上でケイまで向かうというのであれば、応じなくもないが」
「それについては後々考えるとして、まずお聞きしたいのが、今回の決起について、ガスコイン殿からどのような話があったのか、ということだ」
「ヴァレフールにもう未来はない。聖印教会とパンドラに二分された今のヴァレフールはこれ以上存続すべき国家ではない、というのが、我が主の考えだ」

 その主張自体はトオヤ達も既に聞かされている。問題はそう判断するに至った経緯なのだが、ひとまずトオヤとチシャは黙ってウィリアムの話を聞き続けた。

「これまで我が主は騎士道を重んじ、エルムンド様の直系の末裔の方々を支えてきた。しかし、その末裔であられるレア様がパンドラと手を組み、ドギ様もパンドラの手に落ち、その状況にゴーバン様が憤慨して出奔された今、もはや騎士道の理念に基づいて、盲目的にインサルンド家の血筋に従うべきではない。これから先は我々一人一人の君主が自らの判断でこの世界のために戦うべきだ。盲目的な騎士道など、もはや必要ない。これから先必要なのは、一人一人の覇道である。それが、我が主の見解だ」

 ここでドギの名が出てきたことに、カーラやチシャは内心で動揺する。彼等がブレトランド諸侯に対して発せられた声明文の中では、ドギに関しては一切言及されてなかったのだが、どうやら彼等はドギがパンドラに連れ去られたことをも知っているらしい。しかし、だとすれば、なぜそのことを堂々と表明しなかったのかが、むしろ逆に不自然でもある。
 また、そもそも彼の解釈の中では「レアと協力しているパンドラ」と「ドギに干渉したパンドラ」が同一の存在であるかのような言い方であるし、まるでレアを介してドギを誘拐したかのような言い方にも聞こえる。どうにも微妙に間違った情報が伝わっているかのような違和感をトオヤは感じていた。伝言の過程で様々な解釈が加わって、情報が錯綜しているようにも見える。

「なるほど。ちなみに、その話の根拠はどこから来たのか、聞いていないか?」

 つとめて冷静にトオヤはそう問いかけた。その点を確認することが、今回の交渉の第一目標である。それに対して、ウィリアムは淡々と答える。

「最初は匿名の手紙だったらしい。それを、あの方の次席魔法師であるヒルダ様が時空魔法を用いて確かめた。正確なところまでは分からぬが、騎士団長ケネス、そして伯爵令嬢レア様がパンドラとつながりを持っていることが真実であるということまでは間違いないと仰られた。ヒルダ様はまだお若いが、時空魔法師としての実力は確かだ」

 ガスコインの次席魔法師であるヒルダのことは、チシャも知っている。実は彼女はチシャとは同期で、当初はチシャと同じ召喚魔法科に在籍していた。だが、ヒルダは「攻撃魔法への適正不足」を理由に、召喚魔法師としての限界を感じ、時空魔法科の亜流の学派(夜藍の学派)へと転向することになったのである。勝気な性格で、チシャのことをライバル視していたが、同時にチシャのことを「いずれ高名な召喚魔法師になる」とも予言していた。
 なお、時空魔法師の裁定結果が国際政治の場において絶対的な証拠として効力を持つ訳ではない。なぜならばそれは、時空魔法師が嘘をついていないかどうかを確認出来ないからである(その成否判定のために別の時空魔法師を用意しても、やはりその判定が虚偽である可能性もある)。ただ、チシャの知る限り、ヒルダは実直な性格であり、契約相手を欺くようなことを伝えるとは考えにくい。そして実際、彼女のその予言自体は確かに「真実」であることは、チシャもトオヤも分かっていた。
 だが、トオヤとしては、レアがパンドラに助けられたのが事実だとしても、それだけでレアがパンドラの思想に染まっていると決めつけられるのは納得出来ない。ケネスが疑われるのは、これまでに彼が積み重ねてきた権謀術数の数々を考えれば仕方のないであろう。だが、レアのことをよく知りもしない人物に、彼女のことまで勝手に決め付けられることには納得出来なかった。

「では問いたいのだが、姫様がサンドルミアから帰還されて以降、あなたは姫様と直接会ったことはあるのか?」
「まだない。いずれ挨拶に伺おうとは思っていたが、本来は我々と姫様は敵対する立場だからな。むしろ、なぜ貴殿があのレア姫様を推す立場になったのかが知りたい。それを鞍替えと呼ぶべきかどうかは知らんが、正直なところ、その匿名の手紙がある前から、少々おかしいと思っていたのだ。本来ならばゴーバン様を後継者とすべき立場のケネス殿が、貴殿がレア姫様を後継者として推すのをなぜ認めていたのか。最初は、貴殿とレア姫様を結婚させるつもりなのかと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。だが、裏でパンドラとの何等かの密約があったと考えれば、それも全てが繋がる」

 確かに、ケネス派の諸侯から見れば、ここに至ってのケネスの「変心」は明らかに不可解である。トオヤやゴーバンと結婚させる訳でもない状態でレアを即位させることにここまで積極的になったのは、何らかの裏取引があったと考えるのが自然であろう。そして実際、この背後には様々な裏事情が存在し、そこには確かにパンドラは関わっているのだが、中途半端な情報に基づいて導き出された叛徒達のこの解釈は明らかに間違っている。とはいえ、真実を話す訳にもいかないトオヤとしては、どうにか論点をそらす方向で反論するしかなかった。

「それは論理の飛躍なのでは? 俺が姫様を推しているのは、姫様が後継者としてふさわしいと思ったからだ。ゴーバンにも確かにまだ成長の余地はあるし、いずれは王となれる素質もあるとは思うが、今のこの難局で幼いゴーバンを即位させても、その後ろに立つ人間の思惑に踊らされるだけだ」
「しかし、それはレア姫も変わらんのでは?」
「いえ、レア姫様はもう既に自分で考えることが出来る。ヴァレフールの国と民を守るために考えて行動出来る王になれる」
「百歩譲ってそれはそうだったとしよう。だが、その背後にパンドラがいるとなれば話は別だ。私も状況次第によってはレア姫様が継ぐのも致し方なしかと思っていた。しかし、このパンドラとの癒着の話がヒルダ様の魔法によって裏付けされた状況において、もはやあの方に同調することは出来ん」

 どうやらその点が、彼等の態度を硬化させている要因であるらしい。トオヤはそのことを悟った上で、核心に触れられないギリギリの話まで踏み込むことにした。

「その裏付けに関してなのだが、解釈が違うのではないか?」
「どういうことだ?」
「姫様はこのヴァレフールに帰還する途中で、投影体の子供達に助けられたことがある」
「ほう?」
「その子供がパンドラであった場合、確かにそれは時空魔法師殿の言う通り、『パンドラに関わりがある』ということになるのかもしれない。しかし、私が見る限り、姫様はパンドラの思想に染まっている訳ではない」
「今はそうかもしれん。しかし、その子供達がパンドラの一味である場合、いずれここから先、静かに水面下から姫様の周囲にパンドラの者達が忍び込んでくる可能性はある。実際、今、貴殿の村には『異教の神』が居候しているという話も聞いたことがあるが」
「あぁ、あの『寝てるだけの奴』か」

 トオヤの声色が、途端に真剣さが抜けた低い声になる。その様子をウィリアムは不可解に思いつつも、話を続ける。

「我々は聖印教会のような偏屈な人間ではない。投影体であっても、友好的な投影体や、有効的に活用出来る投影体まで討伐しろとは言わん。そやつがどうかは知らんがな」

 トオヤが見る限り、有効的かどうかは微妙だが、少なくとも友好的ではある(今のところは)。とはいえ、あの駄女神のことをあまり積極的に弁護する気になれなかったトオヤは、ひとまずその点に関しては何も言わず、そのまま黙って話を聞き続けた。

「確かに、ヒルダ様の予言にも色々な解釈は可能であろう。だが、私にはむしろ貴殿の主張の方があまりにも都合が良すぎる解釈に思える。百歩譲って、姫様を救ったのが善意の子供達であったとしよう。だが、その『善意の子供達』の背後にパンドラがいないとなぜ言える? そして、ケネス殿が唐突にレア姫を後継者とするに至った不可解な行動についても、貴殿の解釈では説明がつかない」
「それに関して説明するのであれば……」

 トオヤはそう言いかけて、しばし考えた上で、ここはあえて孫としての率直な認識をそのまま伝えることにした。

「まず、ウチのお爺様に関しては、確かに印象が悪すぎるが、君主として国を守らなければならない想いは確かにある」
「我々も、あの方は必要悪だとは思っていた。だから今までついてきた。ある程度までは後ろ暗いことに手を染めるのも仕方がないだろう。だが、さすがにパンドラはダメだ」

 あくまでもその点については譲ろうとしないウィリアムに対して、トオヤはあえて再反論せぬまま、当初の彼の問いかけに答えようとする。

「あの人が、姫様を推すことに納得してもらえた理由は、姫様がこの難局を乗り切るに十分な人物であるとあの人自身も判断したからだろうし……」

 トオヤはそこまで言いかけつつも、それ以上どう説明すればウィリアムが納得するのか、その道筋が見えずに言葉に詰まる。実際のところ、それについては「本人に聞かなければ分からない」と言われれば終わってしまう話なので、ウィリアムとしてもこれ以上トオヤとこの件について論争しても無意味に思えたため、ひとまず彼は話を切り上げようとする。

「いずれにせよ、これ以上のことは私では判断出来ない。我がブラフォード子爵領全体に関わる問題であれば、ブラフォード子爵御自身に判断してもらうしかない。ケイまで話をしに行くなら、このままお二人を我々がお連れしよう」

 それはつまり、軍隊をこの地に残したまま、実質的に彼等の本拠地に二人が「連行」されることになる。実際にはカーラとドルチェも一緒にいるとはいえ、さすがにそれは危険すぎる話であり、トオヤとしては承諾は出来ない。

「そういうことならば、あなたの契約魔法師と、ケイにいるヒルダさんとの魔法杖通信を通じて、話をするという訳にはいかないのか?」
「なるほど。しばし待たれよ」

 そう言って、ウィリアムはひとまずその場にトオヤを残して、一旦退席した。

 ******

 それからしばらくして、ウィリアムが戻ってくると、彼はトオヤとチシャにこう言った。

「我が主に伝えたところ、今から貴殿との会談のためにこの地へ向かう、とのことだ」

 どうやら、魔法杖(魔法師)を介した会話ではまた色々と混乱すると考えたらしい。実際のところと、それはトオヤも同感であったので、彼等の方から出向いてくれるのであれば、渡りに船ではある。だが、おそらくガスコイン側も決して身一つで来る訳ではないだろう。ケイの主力を引き連れて、交渉が決裂した時は武力でトオヤ達を迎え撃つつもりであろうことは推測出来る。
 実際、もし彼等がアントリアやグリースと手を結んでいるのであれば、主力部隊をレレイスホトまで進軍させたとしても、ここで後背を突かれる恐れはない。無論、彼等に捨て駒として利用されているだけという可能性もあるが、少なくとも対グリースに関しては人質もいる以上、寝首をかかれる可能性は無いと考えるのが自然であろう(その「人質」が本物ならば)。

2.3. 母の戦友

 ひとまず会談を終えたトオヤ達は、ガスコインの到着まで、一旦村の外の本陣に戻ることにした。その途上、再び領主の館から彼等を南門まで案内することになったサジタリアスが、ふとトオヤに問いかける。

「騎士団長代行殿、その背中に背負っている剣……」
「何か?」
「どこでその剣を手に入れられた? 私の古い知り合いに良く似ているようなのだが」

 それに対して、トオヤの背中で「カーラ」が揺れる。その動作で、トオヤはおおよその事情の察しがついた。

「この剣は、幼い頃に『とある洞窟』で発見したものです」
「その剣の『正体』を知っているのですか?」
「えぇ、まぁ」

 その言い方から、トオヤがどこまで知っているかを概ね察したサジタリアスは、安堵したような表情を浮かべる。

「そうか。では『彼女』はこの時代でようやく主人を見つけたのだな」

 彼がそう言い終えたところで、トオヤの背中から「カーラの擬人化体」が現れる。カーラとしては、潜入中に正体を明かすのは好ましくないと思っていたのだが、既に正体が相手に看過されているのであれば、むしろ隠し続ける方が不信感を与えると考えたようである。

「お久しぶりです、サジタリアスさん」
「立派になったな、お嬢。正直、そちらの立場もよく分かってはいないんだが……、今の我々は、『腹を割って話し合って良い関係』なのだろうか?」

 そう言われると、カーラも困った顔を浮かべるが、それに対してはトオヤが助言する。

「お互いに隠すべきことは隠した上で、旧交を温めるくらいはいいんじゃないか?」

 カーラとしては、そうは言われても、やはり周囲の目は気になる。少なくとも、誰が聞いているかも分からない往来では話せないことも多い。

「では、とりあえず、そこの店にでも入って話でもしようか」

 サジタリアスはそう言って、近くにあった食堂を指差す。看板に描かれている図柄から察するに、どうやらその店は「パイ」の専門店らしい。

「あぁ、うん。そこでいいんじゃないかな」

 カーラよりも先にトオヤがそう答えると、トオヤは軽快な足取りでそのまま率先して店内へと入っていくのであった。

 ******

 ひとまず店内では、トオヤ(およびドルチェ)とチシャ、カーラとサジタリアスが、それぞれ別のテーブルに座ることにした。その方がカーラ達も話しやすいだろうと考えたらしい。

「俺のことは気にしなくていいから」

 トオヤはそう言いつつ、楽しそうな顔でメニューに目を通す。いつも通りの光景に半ば呆れ顔のチシャの視線をよそに、トオヤの背中の「外套」から(どこから発しているのかも分からないような)声が聞こえてきた。

「トオヤ、そこのメニューの端っこにある『店長のおすすめメニュー』とかいいんじゃないかな」

 そんな会話(?)が交わされている隣のテーブルはさておき、サジタリアスは(椅子には座れないので、足を畳んで上半身だけを起こした状態で)カーラに対して、ここまでのいきさつを語り始める。

「私は、数百年前にシャルプ様が身罷られると同時に、一度この世界から姿を消した。おそらくそれは、私の中での『この世界での役割』が終わったことを意味していたのだろう。だが、そんな私が数年前、再びこの湖の近くの草原に投影されることになったのだ」

 この世界に出現した投影体は、生命体としては五体満足な状態のままでも、唐突に世界から消滅することがある。もともと「混沌」という不確定要素によって出現した存在である以上、何が原因でそうなるのかは分からない。ただ、一度消えた存在でも、何かの拍子に再び出現することもある。そしてその場合、過去にこの世界に出現した時の記憶は、そのまま残しているらしい。

「最初は不気味がられて、怖がられて、聖印教会と名乗る連中に殺されそうにもなったんだが、ガスコイン様に助けられた。それ以来、あの方の元で働いている。色々誤解されやすい方ではあるが、あの方は立派な騎士だ。騎士としての本分を忘れず、無用な野心も持たず、民のため、国のために働いてきた。だからこそ、今回の騎士団長様の件については、許せなかったのだろう」

 神妙な表情でそう語るサジタリアスに対して、カーラもまた、目覚めてからの数年間の諸々を(話せる範囲で)説明しつつ、ガスコインについての探りを入れる。

「最近のガスコインさんは、以前と何か様子が変わったりはしていませんか? 普段通りの様子でしたか?」

 カーラとしては、ガスコインがどこからか歪んだ情報を与えられたことで、極端に視野が狭まったりしていないか、という可能性を危惧しているようである。

「いや、普段通りではないな。明らかに無理をしている」
「無理を?」
「あの人はもともと、自分は国主たる器ではないと言っていた。だから騎士として誰かを支えるという道を選んできたのだが、それが『もう他人任せにするのはやめた、自分自身で何とかしなければならない』と語るようになった。だが、私にはそれが無理をしているように見える。色々あって、もはや誰も信じられないからこそ、自分が決起せざるを得ないと考えているようだがな」
「そういうコトを言い始めた時点で、何か変な出来事とかは無かった?」
「『騎士団長と伯爵令嬢のことを告発する手紙』が来たことが、契機と言えば契機だな」
「その手紙がどこから来たかは?」
「分からない。いずれにせよ、その手紙とヒルダ様による裏付けによって、裏切られた感にうちひしがれていた。もともとあの人は聖印教会への反発が強かったからこそ、ケネス卿のことは信頼していた。あの人が裏で色々やっているにしても、最終的にそれが国のためになると思っていたんだろう。ただ、さすがにパンドラに関しては、以前に一人息子を拐かされたこともあったからこそ、許せなかったのかもしれない」

 そう言われたカーラは、同じように(?)パンドラに拐かされた子供のことを思い出し、思わず本音を漏らす。

「確かにそれは……、うん。ボクも、ドギ様を守れなかった……」

 その声は、サジタリアスだけに微かに伝わる程度の声だったが、その言葉の真意については、サジタリアスはあえて聞こうとはしなかった。

「私は今の主に恩義がある以上、今の主が修羅の道を歩むというなら、最後までそれに付き合うつもりだ」

 サジタリアスのその決意は、主人に忠誠を尽くす本能を持つオルガノンであるカーラは、痛いほどよく分かる。だからこそ、カーラとしては彼のその気概には心のどこかで共感しつつも、出来ることならば彼とは戦いたくないという気持ちもあった。

「こちらとしては、お互いに修羅の道を歩まぬように済むように交渉に来たので、それが上手くいくといいなと思っています」
「そうだな。だが、どちらにしても、おそらくこの件については『誰か』が責任を取らなきゃいけない。もう話は大きく進みすぎてしまった」

 ガスコインの契約魔法師がケネスとグレンを抹殺しようとした事実は、もはや無かったことには出来ない。そして、契約魔法師を失ったガスコインとしても、今更後に退く訳にもいかないのは当然の話である。

「タイミングが悪かったというか何というか……。なんでそれがあの会談のタイミングになってしまったのか……」

 カーラはそう言いながら頭をかかえる。果たして、この「最悪のタイミング」で手紙を送って来た者が誰なのか。そしてこれは「意図したタイミング」だったのか。今の時点ではどうにも判別がつかない。
 一方、その間に隣のテーブルのトオヤは、給仕が運んで来た 「店長のおすすめパイ」 を、呆然と眺めていた。

「……ニシン?」

 そのパイに「刺さって」いたのは、紛れもなく大量のニシンであった。

「やー、これはなかなか独創的な料理だね。僕はこの姿じゃ食べられないから、トオヤ、一人で食べるといいよ」

 「外套」にそう言われたトオヤが「コレジャナイ」という顔を浮かべていると、向かいのチシャが声をかける。

「キツいようなら、私が食べますが」
「いや、頼んだものくらいは自分で食べるけどさ…………、ニシン?」

 納得いかない表情で、トオヤは淡々と食べ進める。そんな彼の様子に気付くこともなく、カーラはサジタリアスとの話を続ける。

「ケネス卿とグレン卿は同時に引退しようとしていたけど、それじゃ収まらないのかな」
「どうだろうな。それは後継者殿が後継者に足る人物かどうかにもよるのではないかと。表面上は退きつつも、裏から支配し続けるというのもよくある話だしな」

 今のケネスに関してはそれは無さそうだとカーラは思っているのだが、おそらく、そう言っても信じてはもらえないだろうから、あえて黙っていた。

「どちらにしても、最近の我が主はケネス殿に対して、もともと少し不信感を抱いていた。唐突にレア様擁立に傾いたことや、ゴーバン殿の出奔の件で、色々と不自然な点があったしな。ドギ様が聖印を持てるようになったことについても、何か良からぬ力に頼ったのではないかとか、替え玉なのではないかという噂もあるし、色々と不可解なことが多すぎた」

 そう言われると、カーラは目が泳ぐ。ただ、彼のこの言い方から察するに、どうやらドギに関しては「パンドラに何かされた」という認識はあるものの(おそらくはその根拠も時空魔法師による予言なのだろう)、その実態までは把握出来ていないらしい。だからこそ、あまりはっきりと声明文に盛り込むことは避けたのだろうが、それがかえって中途半端な憶測を産み、事態を混乱させているのかもしれない。

「結局、真実は分からない。分からないからこそ、人は不安になる」

 それがサジタリアスの結論である。カーラとしても、そのことは分かっていた。

「その辺りを話し合ってくれる筈だから、お互い、敵対しないことを祈りましょう」
「あぁ、そうだな……。実際のところ、トオヤ殿に対しては、以前から我が主は、かなり期待をかけてはいた。だから、話がまとまる可能性も無くは無いとは思うのだが……」

 最後まで不可解な顔を浮かべたままニシンパイを食べ終えたトオヤを眺めながら、サジタリアスはそう告げる。カーラとしては、その僅かな可能性に賭けたいというのが、今の正直な心境であった。

2.4. 幻影の情報戦

 その後、トオヤ達は村の外の本陣へと帰還する。ドルチェもようやく「ドルチェ」の姿に戻った上で、ジーンとアグニを交えて再び軍議を始めることになった。

「団長代行さんよぉ、俺はいつになったら門を燃やせばいいんだ?」
「しばらくはいい。お前の活躍は後で取っておけ」

 アグニに対してトオヤがそう答えたところで、周辺状況を確認していたジーンが口を開く。

「今のところ、どの方角からも増援や敵襲の気配は見られず、そして魔物や魔境の出現の気配もありません」

 そう言われたところで、カーラとチシャは先日のカナハでのヘリオンクラウドとの戦いのことを、ふと思い出す。

「イヴィルゲイザーについても、もう少し警戒しておいた方がいいのかも」
「そもそも、なぜ出現したのかも分からないですしね。周期的に出現しやすいという話はありましたが、本当にそれだけなのか……」

 イヴィルゲイザーは、何者かに促されてあの場に出現したことをほのめかしていたが、それが誰なのかは未だに分からない。だが、チシャの予言で「陽動」という言葉が導き出されていたことから類推するに、おそらくはガスコイン側のロバートと連動していた可能性が高いだろう。だとすると、現状ではひとまず行方を眩ませた状態のイヴィルゲイザー率いるヘリオンクラウドが、いつまた自分達の前に立ちはだかることになるかは分からない。
 とはいえ、現状においてまず考えるべきは、対ガスコイン交渉である。サジタリアスとの会話からも分かった通り、彼等はレアやケネスとパンドラとの関係に関して「中途半端な情報」しか得ていないからこそ、不信感を抱いている。だからこそ、彼等に対してどこまで情報を明かすべきかが最大の問題であった。

「どこまで明かすにしても、まず彼等の背後にいる者が何者なのかを確認する必要がある。伝え方というものもあるしな」

 トオヤがそう語ると、それに対してドルチェも頷く。

「同感だ。特にアントリアとグリースの動きは気になるね。さっきの話を聞いて余計にそう思う。『覇道』と『騎士道』、それに『修羅の道』、ねぇ……。特に覇道なんて、いかにもグリースが好みそうじゃないか」
「それについては思うところが無い訳では無いんだが、すまん、今はまだ考えがまとまらない。何か引っかかるところがあるんだが……」

 トオヤがそう言いながら言葉に詰まったところで、ドルチェはいつもの飄々とした笑顔を浮かべながら、立ち上がる。

「今の君は悩むことが仕事さ。その間に僕は『そのあたりのこと』を調べておくよ。何か進展があれば、君の考えの一助にもなろう」
「ドルチェ、頼めるか?」
「お任せあれ」

 そう言って、ドルチェは陣幕を後にした。トオヤとしては、彼女に一人で危険な潜入任務を任せたくはなかったが、この状況を打開するためには、まず情報を得る必要がある。そして、この状況で情報を得るためには、ドルチェ一人に任せるのが一番確実だということも分かっていた。

 ******

 先刻、一度「外套」の姿で村の中に入ったことで、村内の状況を大まかに把握していた彼女は、巡回中の衛兵の姿に変身した上で、村人や他の兵士達から、彼等の中での「現状認識」について聞き出すことに成功する。
 どうやら、アントリア軍がケイに来ていることに関しては、一部の部隊長達は認識しているようである。その上で、彼等としては、自分達の役割は「この地を死守すること」であり、ここでヴァレフール軍を食い止めている間に、北の方でアントリア軍が「何か」を起こそうとする計画らしい、ということまでは察することが出来た。そして、アントリア軍には「湖を渡るための投影船」の準備があるらしい、という話も聞こえてきた。どうやら、彼等がここで時間稼ぎをしている間に、アントリア軍が後方から長城線を攻撃する手筈であるらしい(下図参照)。


 帰還したドルチェがそのことをトオヤとカーラに伝えると、カーラの表情が強張る。

「アントリアと繋がっていたという事実は、許容出来る?」

 カーラはトオヤにそう問いかけた。中立を装いつつもアントリア軍に味方して祖国を滅ぼそうとする行為は、一般的なヴァレフール貴族の立場から見れば、それだけで万死に値する裏切り行為であろう。それを聞いてもなおトオヤがガスコインと交渉する気があるかどうかを確認しようとしたようだが、存外トオヤは冷静に答えた。

「許容というか、想定内ではある」

 実際、状況的にはそう考えるのが自然であるし、トオヤとしてもその可能性を考慮した上で、それでも交渉に臨むためにこの地に来たのである。今更驚くべき話でもなかった。
 一方、ドルチェはやや異なる角度からこの情報を利用することを考えていた。

「少なくとも、このことは公表は出来ない筈だから、交渉材料にはなるかもしれない」

 彼等が今後もヴァレフール内の諸侯との間で個別に友好関係を結ぼうと考えているのなら、確かにこの情報が表に出るのは避けたいだろう。だが、ガスコインが完全にアントリアに寝返ろうとしているのなら、もはや「中立」の建前自体が不要となる以上、公表されたところでどうということはない。

「グリースがそれに対してどう考えているのかが問題だな」

 トオヤはそう呟く。彼の中での最大の違和感はここなのである。もし長城線が破壊され、ガスコイン達が完全にアントリアに協力するようになれば、そのままブレトランドの支配権はアントリアおよび大工房同盟の手に落ちる可能性が高い。だが、あの野心家と噂されるグリース子爵ゲオルグが、あえてその状況を見過ごすだろうか。このまま進めば、アントリア支配体制下で一定の地位を保証されるだろうが、それが果たして本当に彼の望みなのか。ゲオルグとは直接会ったことのないトオヤだが、伝え聞く話から判断する限り、どうしてもそこに疑念を感じる。
 もしかしたら、ゲオルグはこの戦いの最中で逆にアントリアの後背を突くつもりなのかもしれない。だとしたら、ガスコインもその計画に賛同した上で、両勢力が結託してアントリアを罠に陥れようとしているのかもしれない。少なくとも、両軍共に人質を交換している以上、両陣営の間でそう簡単に相手を出し抜くようなことは出来ない筈である(その「人質」が本物ならば)。
 とはいえ、ガスコインがどのような思惑であったにせよ、ケネスとグレンを殺そうとしたことは紛れもない事実であるし、彼がアントリアに対して友好的であろうが敵対的であろうが、ヴァレフールに対して敵意を抱いているのなら、このまま放置していて良い訳がない。仮に長城線の破壊が最終的にはアントリア打倒に繋がる策謀の第一歩であったとしても、その過程でオディールの人々を危険に晒すような状況を、トオヤとしては黙って見過ごすわけにはいかないのである。
 様々な可能性を考慮しつつも、現状ではまだ確信に至るまでの決め手がないことを悟ったトオヤは、一度天を仰いでため息をついた上で、改めて呟く、

「背後を考えておかないと、後々色々刺さることになりそうだけど、とりあえずは目の前か」

 カーラもそれに同意する。

「そうだね。背後を気にしすぎて、前が見えなくなるのも本末転倒だし」

 今のところは、それ以上の考えには至れない、というのが彼等の率直な心境であった。

2.5. 魔法師達の情報戦

 一方、その頃、チシャは別の天幕の中にて、各地の魔法師達との間で魔法杖通信を繰り返していた。最初の通信相手は、オディールのオルガ・ダンチヒである。

「そちらはどんな様子ですか?」
「いつも通りといえばいつも通りだが、いつ攻めて来てもおかしくない状態だ。おそらく、敵の戦力は増えても減ってもいない。『悪い気配』も相変わらずだ」
「そうですか……。ところで、レヴィアン殿達はもうそちらに着きましたか?」
「レヴィアン殿? いや、少なくともここには着いていないが……」

 距離的には、そろそろオーロラ村には到着していてもおかしくないのだが、オーロラ村には契約魔法師がいないので、その連絡が届いていないのかもしれない(ロザンヌとオルガが直接交信出来る関係なのかどうかは不明である)。
 チシャはひとまずここで一旦オルガとの交信を打ち切って、次はマーチのヴェルナ・クァドラントに連絡を試みる。

「暁の牙が通過して以降、グリースからもアントリアからも、特に誰かが来た様子はないです」
「そうですか。ところで、ラファエルの状態は……」
「あぁ、もうかなり元気になられましたよ。ただの一時的な体調不良だったようです。原因は分かりませんが、まだ食欲が戻らないようで、私が用意したお食事にはまだ手をつけていないようですけど」

 それに手をつけられるようになるには相当な鍛錬が必要であろうことを理解しているチシャとしては、それ以上何も言わずに通話を終え、次はレヴィアンの契約魔法師であるロザンヌ・アルティナスへの連絡を試みる。

「あぁ、チシャ様。こちらも今、連絡をしようとしていたところでした。そちらは今、どんな状況ですか?」
「レレイスホトの領主殿との交渉中なのですが、まもなくガスコイン卿がこの地に来られるようで、そこから本格的な会談となりそうです」
「なるほど……。こちらは今、ブラフォード湖の真ん中にいます」
「真ん中!?」
「えぇ。わたくしの魔法で湖の中央部を凍らせて、その上に陣を張っています。こうすることで敵の船を足止めして、彼等が船を捨てて氷の上を歩こうとした時点で氷を割る。それを繰り返すことで、敵を足止めするという計画です」

 どういう原理なのかは分からないが、おそらくは元素魔法と静動魔法の合わせ技なのだろう。あるいは、空間そのものを出現させる浅葱の投影魔法も併用しているのかもしれない。

「ちなみに、この戦術を考えたのはMy Lordなんですけどね」

 ロザンヌは誇らしげにそう語る。レヴィアンはバランシェへの留学中に異界の戦術について学んでいたと聞いているが、どうやら異界における「氷上戦」の記録を基に思いついた作戦らしい。

「とはいえ、向こうにわたくし以上の魔法師がいたら話は変わってくるので、これでどこまでごまかせるかは分かりませんけどね」
「今はそれで十分です。無理せず、出来る範囲で時間を稼いでおいて下さい」

 ひとまずチシャはそう答えた上で、ここまでの話をトオヤに伝える。ガスコイン側の思惑が「アントリア軍が長城線を攻撃するまでの時間稼ぎ」なのだとしたら、ここで彼等に逆にアントリア軍を足止めしておいてもらえることは、今のトオヤ達にとっては最も望ましい展開であった。
 その上で、チシャはトオヤに進言する。

「ヒルダの真似事ではないですけど、私も時空魔法で何か調べてみましょうか」
「そうだな……。では、『ガスコイン』について、分かることがあれば教えてくれ」

 そう言われたチシャは、邪魔が入らないように側近の兵士達に周囲を警護させながら、陣幕の中で集中して「ガスコイン」の現在および未来の状況についての鍵となる概念を導き出す。それは以下の三つの言葉に集約されていた。

「覚悟」「信念」「孤独」

 どうやら、現在反乱を起こしているガスコインは、傀儡や偽物の類いではなく、自分自身の確固たる信念に基づいた上での決起であるらしい。その結果を見る限り、説得による解決は極めて難しそうな状況ではあるが、それでも、実際に話してみるまでは諦める訳にはいかない。それがトオヤの信念でもあった。

2.6. 姫君の見解

 この状況を踏まえた上で、トオヤは(そろそろカナハに到着しているであろう)ケネスの「伝達役の契約魔法師」経由で、チシャの魔法杖を通じて、カナハに滞在中のレアに、ここまでの成り行きに関して報告する(なお、このケネスの「伝達役の契約魔法師」には、レアはある程度の「事情」を伝えてある。どちらにしても自分がパンドラと通じていることは、既にケネスには読み取られているであろうという認識の上での、一瞬の「開き直り」の判断であった)。

「なるほど。やはり私の軽はずみな行動が、今回の混乱を招いてしまったということね……」

 レアがそう呟いたのに対して、トオヤは若干語気を強めて反論する。

「いや、まぁ、そういう見方もあるのかもしれないけれど、彼等は聞いた話だけを信じ込もうとして、一方的に決起に踏み切ったようなものだ。君のことを確かめようともしないままに」

 トオヤとしては、どうしてもそこが納得出来ないらしい。よく知らない者に対して警戒心を抱くのは仕方のないことだろう(彼自身もまた、会ったこともないグリース子爵に対して、やや過敏に警戒している節はある)。だが、それでも十分な確認に至る前に蜂起を決断するという行為は、どうしても承服出来なかった。

「でもそれは実際、事実よ。私は『彼等』に助けられ、そして私はこれからも『彼等』とはなるべく敵対しない道を歩もうと思ってる。ガスコイン達がそれを認められないというのであれば、それはもう致し方ないこと。だから、もしあなたも、私があの島の人達と友好的な関係を結ぶことがヴァレフールの国益に反すると考えるなら、私とあなたも道を違えることになる。でも、あなたは私の判断を支持すると言ってくれたから、今回はあなたを信じて任せる。その上で、ガスコイン達があくまでも『彼等』を討伐対象と考えて対処するのであれば、私はヴァレフール伯爵位を継ぐ者として、反乱軍の追討をあなたに命じなければならない」

 レアの中では、自分の「パンドラ(の一部)との和解」を目指す路線が内乱を引き起こし、結果として多くの兵士や将校達が命を落とすことに対しての罪悪感はある。だが、国主となる道を選んだ以上、その責任を背負って決断を下すのが自分の役割であることも分かっていた。だからこそ、トオヤが和平を望むのであればその道を妨げる気はないが、それが不可能だと判断した時点で、いつでも強硬路線に踏み切っていいということを、トオヤに伝えたかったのである。彼が過剰に責任を背負わぬよう、次期伯爵として自分の責任の下でその命令を下すことが、「トオヤの主君」としての自分の役割だということも分かっていた。
 その意味では、本来はこの場で、レアはガスコインの主張の正統性を徹底的に否定した上で、トオヤが迷い苦しむことがないよう、最初から問答無用で討伐を命じるべきだったのかもしれない。だが、そこまで割り切って「絶対的な権威」を一方的に降りかざせるほどの(一種の)「暴君」になりきることは、さすがに今のレアには出来なかった。少なくともトオヤに対しては、やはり「本音」をこぼしてしまう。

「実際、彼等の考えも分からなくはないわ。私だって、あの島の皆に助けられることなく帰国した上で、ゴーバンや、ドギや、今は行方不明の姉さんが、今の私と同じことを言い出したら、私も彼等と同じように反対していた。だからこそ、『彼等』との協力を公にすべきではないことも分かっている」

 人は何事においても、自分の見聞きしてきたことを基準に判断することしか出来ない。今のレアは、およそ他の者では経験し得ない数奇な運命を辿ってきたからこそ、他の者達とは異なる価値観に基づいて、この国を動かそうとしている。そのことを理解した上で自分に協力してくれる者が、果たしてトオヤ達の他に幾人ほどいるのかは分からない。だからこそ、彼等の前ではその隠された本音を曝け出したくなってしまう。

「だから、ものすごく面倒なことを言うけど、私がパンドラと通じているということは、公には否定してほしい。ガスコイン達と裏で話をつけるために、彼等にだけそのことを伝えることが必要だとあなたが思うなら、そうしてくれてもいいけど、多分、彼等は裏交渉には応じないと思う。そして、どうしても彼等が従わないなら、私自身も前線に立って彼等と戦う覚悟はある」

 レアがそう言い切ったところで、トオヤは(魔法杖の向こう側のレアからは見えなかったが)遠い目をしながら呟く。

「話がそれるんだけどさ……、なんで人は戦いたがるんだろうな」
「それは、譲れないものがあるからでしょう」
「あぁ、その通りだとは思う。譲れないから戦う。だけれど、譲れないは譲れないでも、折り合いはつけられないのかな?」
「つけられる限りはつけるべきだと思う」
「彼等は本当に、折り合いがつけられないのだろうか?」
「あなたがつけられると思うなら、つけてくれた方が私も嬉しい。でも、私自身が見出せない道を、あなたに見出せとは言えない」
「そうか……。俺が、君があの島の人達と対立したくない、仲良くしたいと言っていたことに賛同したのは、彼等と戦うことに価値を見出せなかったからだ。ウチで寝ている半神の奴にしても、確かに何もしない奴ではあるけど、だからと言って、別に悪い奴ではないし、倒さなきゃいけないような奴じゃない。そういう風に考えたから」
「本当に、面倒ごと、厄介ごとを押し付けてしまって、申し訳ないとは思うわ」
「ガスコイン達が言うことも分からない訳じゃない。確かに、パンドラはそこまでのことをしてきた組織ではある。だからと言って、こちらも彼等と同じように、彼等と戦っていい訳ではない。だから、可能な限りこの会談で、なるべく血が流れないように努力はするよ」
「でも、私はどんな結論になったとしても、どれだけ血が流れることになったとしても、あなたを責めるつもりはない。全ての責任は、あなたに解決を命じた私にある。私はあなたを信じて任せた。だから、あなたも自分の信じる方法で臨んでほしい」
「分かった。吉報を持って帰れるように努力する」

 そう言って、通話を終えたところで、トオヤはチシャに声をかける。

「すまないな、チシャ。色々とこき使ってしまって」
「いえ、それが仕事ですし」

 そう言いながら、チシャは陣幕の外に出て、ひとまず「休息用の洞窟」を召喚する。確かに今回は様々な形でチシャの魔法に頼ってはいるが、トオヤのように「決断を下す重責」を背負っている訳ではない。その責任の重さは横で見ているだけでも十分に伝わるからこそ、せめて自分に出来る限りの範囲で彼を支えたいという想いが、チシャの原動力となっていた。

3.1. 弾劾と断罪

 翌日、ケイからガスコイン達が到着し、正式にトオヤとの会談の機会が設けられた。予想通り、彼はケイの主力部隊を引き連れて来ており、村の南門の前に仮設の陣幕を設置し、両軍の兵士を背後に控えさせた上での、まさに一触即発の状態での会談場を用意する。
 ヴァレフール側からは、トオヤの他にチシャ、カーラ、ドルチェが(今回はいずれも「人間」の姿のままで堂々と)出席し、ブラフォード側からはガスコイン、ウィリアム、サジタリアス、そして(ロバートの死により実質的に首席扱いに昇格した)契約魔法師のヒルダ・ピアロザ(下図)もまた、この場に同席することになった(一方、ガスコインに呼ばれてこの地に来たレッドウィンドは、ひとまず会談が終わるまでは陣幕の外で待機することになった)。


 最初に口火を切ったのは、ガスコインである。彼はトオヤに対して、率直に問いかけた。

「では、まずこちらから一つ聞かせてもらう。お主は、ケネスとレア姫のパンドラとの密通、どこまで気付いていた?」
「お爺様に関しては、何かしらの取引があったことは知っていた。姫様については、投影体の子供に助けられているという話を『昨日』聞きました」

 ひとまず、「そういうこと」にしておいた方が無難だと考えたらしい。

「では、奴等を断罪するつもりはあるか?」
「ありません」
「ほう? では、パンドラとの協力をお主は黙認するということか?」
「その言い方は少々おかしい。まず姫様に関してですが、そこの領主殿にも申し上げた通り、あくまで助けられただけ。それ以上には思っていません。話を聞く限り、もともと積極的に活動するパンドラの主流派の者達ではなかったようですし」
「しかし、その時に何らかの洗脳を施されているという可能性は考えないのか?」
「仮に魔術の類いをかけられていたとしても、姫様は先日、とある事情によって、ありとあらゆる心身の異常を解くための特殊な薬を服用されています。少なくとも今の時点で、姫様の心身に特殊な洗脳や呪いがかけられているということは、ありえません」

 ケネス派の一員であるガスコインは、ケネスがそのような「薬」を持っていることを知っていたため、その説明には一定の説得力を感じた。もっとも、レアが魔法ではなく本心からパンドラに傾倒していた場合は、その薬を使ったところで無罪の証明にはならないのだが。

「仮にそうだったとして、では、なぜパンドラは姫様を助けた? そこに何らかの裏の意図があるとは思わんのか?」
「正直、ウチでただダラダラと寝ているだけの『パンドラの子供』を見る限り、そんな思惑があったとは思えないです」

 これについては、ウチシュマ本人を連れて来て彼等の前に出した方が早いのではないか、という気もするのだが、実際のところ「裏の思惑が一切ない」ということを証明することは、そもそも不可能な話でもある。

「まぁ、いい。百歩譲って姫様はいいとしよう。どちらにしても姫様はまだ若い。仮に洗脳されていたとしても、これから先、まだどうにかなる可能性はある。問題はケネスだ。私は今まで彼のことをずっと信じて来た。遠戚だからという身内贔屓もあったとは思うが、騎士団長として、多少後ろ暗いことに手を染めることはありつつも、人としての道を外れることはないと私は信じていた。だが、奴は自らの契約魔法師を殺したパンドラと手を組んだ。お主はそこに疑問を感じぬのか? ハンフリー殿が殺された無念を忘れたのか?」
「いいえ、そういう訳ではありません」
「ならば、そのようなパンドラと、今更交渉の余地などある筈もない。むしろ今のこの状況においては、ハンフリー殿を殺した下手人をむざむざ逃したことすらも不自然に思えてくる」
「その時期に関しては僕は謹慎中の身だったので、詳しい警備の実態を把握していた訳ではないのですが……」

 トオヤがそこまで言いかけたところで、ガスコインは口を挟む。

「分かっている。だから、そのことに関してお主を責めるつもりはない。お主を責めているのは、此の期に及んでなぜ祖父のことを庇うのか、ということだ。私はお主のことは、いずれこの国を背負うに足る人物だと思っていた。それを確信したのは、いつぞやの、お主がトイバル様を諫めようとした時だ。お主には、自らの責任のもとで自分の信念を貫く覚悟がある。それは、少なくとも当時の私にはなかった。だからこそ、お主であればきっとこの国を正しい方向に導けるであろうと信じていた。だが、そのお主ですら、パンドラに協力するケネスをそのまま見逃すというのであれば、もはやお主と語るべきことは何もない」

 どうやらサジタリアスが語っていた「ガスコインがトオヤに期待をかけていた」という話は、あながちただの社交辞令ではなかったらしい。むしろ、その期待が本物だったからこそ、今のトオヤに対して失望しているようにも見える。
 そんな(戸籍上の)遠戚の男爵の言い分に対して、トオヤはやや低目の声色で答えた。

「一つ言わせてもらえるのであれば……、俺があの人を裁こうとしないのは、外聞的な事情もありますが、第一に、もうあの人は自分のことを自分で裁いているからです」
「ほう」
「どのような契約内容であったかは僕も正確に把握している訳ではないので割愛させてもらいますが、事情を聞く限りにおいては、あの人とパンドラの間にあった契約は『連中が我々から奪っていったもの』に対して、連中から『最低限引き出せるもの』を引き出そうとした契約だったらしいのです。僕はその時、タイフォンにいなかったので、立ち会うことは出来なかったのですが」
「どちらにしてもパンドラとの契約自体、騎士として見過ごせる話ではない。それはエーラムとしても同じではないのか? 聖印を持つ我々君主がパンドラと裏取引することに、エーラムは何も言わんのか? 私は、エーラムだけは信用出来る機関だと考えているのだが」

 そう言いながらチシャに視線を向けると、チシャは悩ましい表情を浮かべながらも、今の自分がこの場で答えるべき回答を、どうにか捻り出す。

「エーラムとしての見解を述べるのであれば……、確かにパンドラとは相容れられないという考えもありますが……、私個人としては、全てのパンドラを許容する訳にはいきませんが、共存の道もありえるとは思います」

 それが、今のトオヤとレアの立場を考えた上でのギリギリの回答であったが、ガスコインは露骨に険しい表情を浮かべる。

「信じたくはない話だが、一部では、パンドラを裏で操っているのはエーラムだと噂する者もいる。そこまで極論ではないにせよ、エーラムの内側には既にパンドラが内側にも入り込んでいるという俗説もある。私はそのような話を信じたくはなかったのだが、エーラムの魔法師殿からそのようなことを言われてしまうと、もはやエーラムすら信用出来ないと思わざるを得ないな」

 その話を聞いていたカーラは、ガスコインのその主張があまりに視野狭窄に思えて、もしや彼の方が精神を病んで判断力を失っているのではないか、とも思えたが、今の彼からは特に洗脳されている様子も、疲れ切って精神を病んでいる様子もない。

(この思い込みの強さは、もともとの性格なのか……)

 カーラはがっくりと肩を落としたが、実際のところ、ガスコインの言っていることは至極正論である。パンドラと一切繋がりがない者の目から見れば、パンドラと君主や魔法師が繋がっているということ自体、世界の秩序と平和に対する裏切り行為であり、トオヤのように「パンドラであること自体が罪ではない。罪を犯したパンドラだけを裁けばいい」と考える者の方が少数派であった。
 実際のところ、直接的に混沌災害を各地で発生させて一般市民に害をもたらしているパンドラの過激派の活動も、楽園派のような「一見無害な者達」との裏での微妙な協力関係があってこそ成立している以上、「直接的に害を及ぼしていない者達」をどこまで放置して良いかは難しい問題であり、これについては、単純にどちらの見解が正しいと言える問題でもない。だからこそ、その「線引き」の決断を迫られる君主には、為政者としての覚悟と信念が必要となるのである。

3.2. 目指すべき世界

 そんな二人の相違点に気付いていたのか否かは分からないが、それまで論争を涼しい顔で眺めていたドルチェが、ここでおもむろに語り始める。

「なんだろうね……、ちょっと、僕にも話をさせてもらって構わないかな? 本来なら僕なんかがこんなところで口を挟むべきじゃない、なんてことは分かってるんだけどね」

 そう言ってトオヤとガスコインに視線を向けると、二人は黙って頷く。それを確認した上で、あえて彼女は道化のような口調で話し始めた。

「んーとね、なんというか、僕は別に君主とかお偉いさんじゃないから、そういうことは分からないけど……、これってやっぱりさ、信念と信念のぶつかり合いだよね。で、お互い、自分の信念の中での『一番の大事なこと』って何なのさ? まだそこを言ってないんじゃないかな。君主にとって一番大事なことって、悪を挫くこと? それとも、エーラムでも聖印教会でもパンドラでも何でもいいけど、自分の従いたいところを見つけて従うこと? そこんとこ、どうなのさ? 最終的にこの話し合いの結果、戦うことになるのかもしれないし、何らかの落とし所を見つけられるのかもしれないけど、まず一番大事なことって、そこじゃない?」

 唐突にそんな漠然とした話を振られたガスコインは、彼女の質問の意図がよく分からないまま、自分の中での考えをまとめながら、訥々と語り始める。

「そうだな……。一言で説明出来ることかは分からんし、少し話はずれるかもしれないが……、私はこれまで、騎士制度、階級制度の下で、自らの主君に従うという信念の下で生きてきた。しかし、結局のところ、それは責任を他人に押し付けるだけだった。だからこそ、私はもうレア姫にもドギ様にもゴーバン様にも、責任を押し付ける気はない。血縁を理由に、あのような幼子達にこの国を背負わせるようなこと自体が間違いだったのだ。だから、私は自ら立つことにした。そして私はお主であれば、この国を任せられるかもしれないとも思っていた。だから、もしお主が今から逆賊ワトホートの首を取り、お主自身がヴァレフール伯爵になるというのであれば、対等な同胞として同盟関係を結ぶことも出来る。だが、お主にそこまでの志が無く、パンドラにそそのかされ、訳がわからないまま、ただ英雄王の子孫であるというだけで祭り上げられたレア姫様をこのまま奉じて、一騎士として生きてくというつもりなのであれば、私はその悪しき慣習を断ち切るために、ここでお主を討たねばならない」

 つまり、騎士道という名の「他人任せ」をやめて、君主一人一人が自分の判断で行動すべき、というのが彼の持論である。今まで「他人任せの騎士道」を重んじてきた彼だからこそ、そこからの転換の必要性をこの時点で「自分の新たな信念」として強調したかったのであろうが、それはドルチェの求めていた回答ではなかった。

「あー、いや、ちょっとちょっと、それは答えじゃないと思うんだよね。あなたが誰の下にも立たないにせよ、トオヤがヴァレフール伯爵になるにせよ、ここであなたがトオヤを討つにせよ、それは全て手段じゃないか。その上で実現したいことって、どんなことなのさ?」

 ドルチェのその言い回しに対して、さすがにガスコインは若干の苛立ちを感じながらも、強い口調で答える。

「それは、我々君主は全て同じではないのか? 言うまでもなく、皇帝聖印(グランクレスト)の創出だろう。皇帝聖印を生み出し、この世界から混沌を消し去る。その目的は誰しも変わらないと私は信じている。違うのは手段だ。手段が違うから、君主同士は対立する。それは今更確認すべきことでもないだろうが」

 だが、それに対するトオヤの返答は、この場にいる誰も予想出来ない答えであった。

「皇帝聖印なんていらない」

 トオヤのその言葉に対し、ガスコインは一瞬驚き、その直後に、これまでで最も険しい視線をトオヤに迎えるが、トオヤは気にせずそのまま語り続ける。

「そんなものを目指して皆が争うくらいなら、そんなものはいらない。俺が作りたい世界は、俺がレアとなら作れると思った世界は、そんなんじゃない。誰もこれ以上争わず、傷つかない世界。仮に混沌災害によって身の危険が迫ることがあったとしても、そこで笑える世界を作りたい。未来を思って、いろいろ苦労しながら、時に戦いもあるかもしれないけど、それでも最後は分かり合える、そういう世界を俺は作りたい。理解されないのは辛い。苦しい。寂しい。そういう風に思う人がいなくなる世界を作りたい。そのためなら、俺は皇帝聖印なんていらない。結局、そのために争って、作らないといけないものなんて必要ない。無くていい」

 そこまで言い切ったところで、トオヤは先刻の会話の中で流されてしまっていた「ケネスの政治責任」についても、改めて言及する。

「俺がお爺様のことを裁けなかった理由は、あの人なりに自分達の国や民をこれ以上傷つけられないように守ることを選択したからだ。その上で、あの人は自分の命を賭けて連中と契約した。その契約の不履行によって、あの人は今は死にかけてる。そこまでしてでも、あの人は守るべきものを守ろうとしているんだ。そんなあの人のことを、俺は裁くことは出来ない」

 だが、ガスコインにしてみれば、トオヤのこの見解は、今となってはもはやどうでもいい話であった。ケネスの断罪以前の問題として、最も根本的な価値観が、トオヤとは相容れられないことを確信してしまったからである。

「分かった。ならば、お主はもはや君主ではない。『ただ聖印を持っているだけの、ただの一人の腑抜け』だ。ならば、もはやお主に期待をかけることはやめる。私は私自身の力で、この世界の平和を取り戻す」

 そう言って、ガスコインは立ち上がる。

「今すぐ陣に戻り、兵を整えるがいい。後から来る者と合流した上で戦いたいのなら、それでも良い。万全の準備を整えた上で挑んで来い。それまでは我々は何もしない。それが私の最後の騎士道だ。ここから先、私は騎士道を捨て、覇道に生きる」

 ガスコインがそこまでトオヤに背を向けたところで、トオヤは静かな口調で語り始める。

「そうですか……。だが、一つ言わせてもらえるならば……、あなた一人だけでは、絶対にその夢は実現出来ない」

 その言葉にガスコインが反応して振り返ると、トオヤは徐々に声を荒げつつ話を続ける。

「人間一人で出来ることなんて、本当に少ない。俺はヴァレフール中を回って、そのことを実感した。でも、他の人が協力してくれるのであれば、可能になるのかもしれない。一つ一つの力が小さくても、重なれば出来るようになることもある。だから、あなたのその道の先には何があるかは分からないけど、一人で成し遂げられることなんて殆どない。そのことはあなたも分かるでしょう?」

 おそらくトオヤがここで言いたかったことは「だから、安易に対決の道を選ぶのではなく、我々とも手を携えていく道を探そう」ということだったのだろう。しかし、この言い方は逆にガスコインの態度を硬直化させてしまった。

「だからこそ、私の元にも兵はいる。そして此奴等もいる。此奴等には、いつでも離反して良いと告げた上で、それでも私のために命を賭けてくれると言ってくれた。だからこそ、私も退く訳にはいかない」

 トオヤが「一人」という言葉を強調したことで(もしかしたら、それはチシャの予言にあった「孤独」という言葉を意識しすぎたのかもしれないが)、ガスコインは逆にその言葉に対して反発し、「自分は一人ではない」「自分を信じてついてきてくれる者達がいる」ということを改めて強く認識するようになったのである。彼の中ではトオヤのこの言葉は、そんな自分の部下達の存在そのものを否定する、侮辱の言葉としか思えなかった。
 そんな二人の噛み合わない会話に対して、カーラは冷めた目を浮かべながら、あえて「年齢を感じさせないような口調」でガスコインに問いかけた。

「遥か昔、エルムンド王でも成し遂げなかったことを為すおつもりか?」

 唐突に尊大な口調で語り始めたその女剣士の問いかけに対して、ガスコインは微妙な違和感を感じつつも、率直に答える。

「エルムンド王であろうと、始祖君主レオンであろうと、かつて誰も成し遂げられなかったからといって出来ないと決めつけるのは、ただの思考の放棄だ。そんな志の低い君主には、私は負けない。今まで誰一人として皇帝聖印を作り上げた者はいない。しかし、それは皇帝聖印を諦める理由にはならない」

 確固たる決意を込めてそう語ったガスコインに対して、トオヤは改めて問いかける。

「その結果どれほどの血が流れようとも?」

 更に続けてカーラも再び問いかける。

「全ての者が泣く未来になっても?」

 だが、そんな二人の言葉は、ガスコインにしてみれば全くの的外れな指摘であった。

「既に多くの民は泣いている。それを止めるための皇帝聖印だ」

 それに対して、トオヤは改めて語気を強める。

「泣いているのが分かっているなら、なぜそれを止めようとしない!?」
「それはこちらの台詞だ! 皇帝聖印を放棄すると言っている時点で、泣いてる民を見捨てるも同じ!」
「本当に皇帝聖印だけがそれを止める手段ですか!?」
「ならば他に何がある!?」
「それを求めるために努力するのです。方法は色々ある。皇帝聖印だけではない!」
「口だけならどうとでも言えるであろう。だが、具体策が何も見えない状態でそれを口にしたところで、それはただの妄想にすぎない。勿論、皇帝聖印も妄想にすぎないというのであれば、そうなのかもしれないがな。皇帝聖印以上に信じられるものが、お前には見えているのか?」
「見えています」
「ほう?」
「俺一人では間違った考えに至ってしまうかもしれない。でも、色々な人の考えが集まれば、もっと人々を豊かにする方法、平和にする方法、泣かなくていい方法を見出していける。俺はそういうやり方の方が、皇帝聖印を目指すよりも、よっぽど正しいと思う」
「同じようなことを言っていた者はいくらでもいる。無論、皇帝聖印を求めてきた者もいくらでもいる。しかし、結果として世の中は変わっていない。結局のところ、必要なのは題目ではない。皇帝聖印を求めるにしても、求めないにしても、最終的に必要なのは、人々を導けるだけの力。それがお主にあるか、私にあるか。それを戦場で確かめる以外に道はないだろう」

 どうにも噛み合わない二人の会話であるが、結局のところ、今の二人の信念の根本的な相違は「自分の信念とは相容れぬ者達と、どこまで妥協すべきか」という点なのである。可能な限り対話による解決を模索するトオヤと、危険な存在を早期に排除することを目指すガスコイン。「皇帝聖印による全混沌消去」を求めるべきか否かという点も、結局のところはその信念の違いに帰結する。どちらも「平和な世界」を目指していることには変わらないのだが、「少しでも多くの人々をその世界に残そう」と考えるとトオヤと、「少しでも早く確実にその世界を実現しよう」と考えるガスコインとでは、どうしても相容れられなかったのである。
 その上で、「共存出来ぬ者は倒すしかない」という信念のガスコインにしてみれば、あくまでも「共存の道」を探ろうとするトオヤとの会話は、不毛なやりとりでしかなかった。だからこそ、彼はトオヤに対して、決別の言葉を投げかける。

「まだこれ以上、何か話すことがあるのか? 今のお主達に出来ることは、私を倒し、私の主張が妄言であったと発表することだけだろう。我々は、少なくとも私は、前言を撤回するつもりはない。お主も分かっているだろう? お主が何を言おうと、国を預かる者達がパンドラと協力していると知ったら、人々はついて来ない。だからどうあっても、ケネスを殺すか、私を殺すかの二択しかないのだ」

 戦略的に考えれば、この時点でガスコインが採るべき道は、あえてトオヤとのこの「噛み合わない会話」を続けて会談を長引かせることで「時間稼ぎ」をすることの筈だった。だが、彼はあえてここでその道を選ばなかった。それが彼の中での「最後の騎士道」としての潔さの体現であったのか、それとも、対話を続けることによって、自分の信念が揺らいでしまうことを恐れていたからなのか、それは誰にも分からない。
 ただ一つ、はっきりしていることは、ガスコインはそのような「戦略的な口頭での小細工」が出来ない人物だった、ということである。彼の背後に控えるウィリアムも、サジタリアスも、ヒルダも、内心ではそのことに気付いていた。そして、そんな「実直で誠実で不器用な君主」だからこそ、彼等の中での「自分達だけは最後まで彼を支えなければ」という義侠心は更に高まっていたのである。

3.3. 契約魔法師の矜持

 自分の投げ掛けた言葉を契機に交渉がほぼ完全に決裂したことを悟ったドルチェは、複雑な心境でその様子を眺めていたが、そんな中、ガスコインの背後に立つヒルダが「何か言いたそうな表情」を浮かべていることに気付く。どうやら彼女は、トオヤ側の顔色を伺いつつ、言い出すタイミングを見計らってるように見えた。そのことを確認した上で、ひとまずドルチェはこの会話を一旦終わらせるべきだと判断する。

「やっぱり、結局は信念のぶつかり合いなんだろうね。あ、余計な口を出してしまって、すまなかったね。それでも、僕みたいな端役にも、どうしても言いたいことがあったからさ」

 ドルチェはそう言いつつ、ヒルダに意味有り気な視線を向ける。その視線に気付いたヒルダは「自分が『何かを言いたい』と思っていること」をドルチェに悟られたことを察する。

(ここで口にしても良いものか……)

 ヒルダは内心で逡巡しつつ、思い切ってガスコインに進言した。

「マイロード、パンドラが絡んだ話なのであれば、私もそこのチシャと、少し話したいことがあります。交渉の決裂はもう確定でしょうが、最後に彼女と話をさせてもらえませんか?」

 今まで黙っていた契約魔法師が突然そう言い出したことに、ガスコインは微妙な違和感を感じつつ問い返す。

「これから殺し合う相手と、今更何の話だ?」
「彼女は魔法大学時代の私の同期です。君主同士の間で互いの矜持をぶつけ合わなければならない時があるのと同じように、魔法師にも魔法師同士で最後につけておきたい話がある。それでは納得してもらえませんか?」
「では、そちらの君主殿は? 私はもうお主と話し合うことはこれ以上ないと思っている。その上で、彼女とそちらの魔法師殿が最後に二人で話し合いたいことがあるというのであれば、私は構わないと思うが」
「僕も構いません」

 トオヤがそう答えると、彼等はそれぞれの契約魔法師だけをその場に残した上で、二人を残して陣幕の外へと去って行く。去り際に、トオヤはチシャに対して「何かあったらすぐに合図しろよ」と耳打ちし、カーラはサジタリアスに一瞬だけ視線を向けた上で一礼してその場から退席した。結局、トオヤが目指していた「敵の背後を探る」という思惑は果たせなかったが、会話の流れ上、どちらにしても探りを入れられるような雰囲気ではなかったし、そもそもトオヤにそのような器用な交渉術を期待することに無理があったのかもしれない。
 そうして二人きりになったところで、ヒルダはあえて「かつての同期生」に対してではなく、一人の「外交官」としての口調で、チシャに問いかける。

「あなたは、この争いを止めたいと思っていますか?」
「出来ることなら」

 それは当然の話であろう。その返答を確認した上で、ヒルダは神妙な面持ちでゆっくりと口を開く。

「一つだけ、道はあります」
「というと?」
「私が『予言』を撤回することです。全て私の狂言だったということにして、ガスコイン様も私に操られていたことにする。その上で、下手人として私の首を晒せば、最低限どちらのメンツも立ちます。問題はそれで、そちらの君主様が矛を収めてくれるか。それで収まる確信が持てるのであれば、私はこれから一芝居打ちます」

 唐突なその申し出に対して、チシャは困惑しつつも冷静に答える。

「そ、それは、確かに非常に魅力的な話だとは思いますが……、ただ、トオヤは多分その策は良しとしないのではないかと」
「もちろん、これを『策』として伝えるのはあなたにだけです。あなたの君主には、私こそがパンドラに通じていて、この戦乱を起こした張本人であると信じてもらいます。少なくとも策と分かった上でそれに乗れるほど器用な人ではないということは、先程から見ていれば分かります」

 自分の主人のことを棚に上げた上で、ヒルダはそう言った。

(確かに、犠牲者の数を考えれば、それが一番の策かもしれない……)

 チシャは内心でそう思いつつも、さすがに即答出来ずにその場で悩み込む。そんな彼女に対して、ヒルダは「昔の口調」に戻って語り始めた。

「正直、私は今回の件に関しては重く責任を感じている。私が『パンドラとの密通は真実』という裁定を下さず、『予言の力を使っても分かりませんでした』とでも言っておけば、こんな事態にはなっていなかったかもしれない」

 予言の結果を偽り、真実を隠そうとすることは、エーラム魔法師協会の一員としては、あるまじき行為であろう。だが、自分の伝える「真実」を知った主人が破滅へと通じる道を歩む可能性があると分かっていたのであれば、あえてその真実を隠して「無かったこと」にするのが、主人を守る契約魔法師として選ぶべき道だったのではないか、という想いが、今の彼女の中では広がっていたのである。

「だから、私がここで責任を取って首を差し出すのは、筋の通った話だと思っている」

 それは確かに「一つの筋」ではある。だが、さすがにそれが正道であるとはチシャには思えなかった。無論、そのことはヒルダも分かってはいる。分かった上で、それでも彼女は今、その選択肢が最善手であるように思えてならなかったのである。彼女は、自分の中で積もりに積もった想いを、そのまま述懐する。

「自らの契約相手の命が危機に晒されようとしている時、身を呈して庇うのが契約魔法師の仕事でしょう? 実際、ロバート様もそうだった。私の契約相手は、それに値するだけの君主だと私は信じている。あなたの主人が言う通り、今のあの人は全てを自分一人で背追い込もうとしている。そこまでの覚悟がある人だからこそ、あの人を支える価値があると信じてる。ただ、残念だけど、このまま戦えばきっと、あの人は死ぬ。詳しくは言えないけれど、こちらの思惑は今、色々と崩れ始めている。だから、ここで私の首一つでなかったことに出来るのであれば、それでいい」

 この時点で、ヒルダは心情的にかなり追い詰められていた。だからこそ、彼女は今、「言わなくてもいい情報」までチシャに伝えてしまっていたのであるが、そのことにすら気付けぬまま、彼女はチシャに対して畳み掛けるように問いかけた。

「あなたが私の立場だったら、どうする? 自分の命で契約相手が助かるのだとしたら」
「そう……、ですね……。どうしても他に道がないのであれば、契約相手が喜ばないことを分かった上で、私も同じことをするでしょうね」

 その回答を受けたヒルダは、微笑を浮かべながら更に問いかける。

「その上で、改めて聞くわ。君主達の中には、契約魔法師の個人的な不祥事に対しても、君主の監督不行き届きだという理由で、君主の責任を問う人もいる。だから私がここで狂言を打って死んだとしても、マイロードがそれで罪を免れないというのであれば、死ぬ意味がない。だから確認したかった。あなたの君主は、契約魔法師が責任を取ることで、全てを無かったことにしてくれる人だと思う?」

 だが、それに対してチシャは逆に問いかける。

「それで、ガスコイン卿が納得すると思いますか?」

 ヒルダはそれに対して、一瞬戸惑いつつも、平静を装いながら答える。

「言ってみないと分からないわ。でも、確かに、マイロードに私の思惑を見抜かれる可能性もあるわね……」

 どうやらヒルダは、そこまで考えていなかった様子である。やはり、今の彼女は相当に焦っているのであろう。

「とはいえ、正直、私には他に止める手段が思いつかない。そしてあなたも知っている通り、攻撃魔法が苦手な私は、戦場では殆ど役に立てない」

 実際には、戦場において補助魔法などを駆使されるのも、それはそれで敵に回せばそれなりに厄介な相手ではあるのだが、それでもチシャのような巨大投影体を召喚する魔法師達に比べると、どうしても見劣りしてしまう。ヒルダの中では、長年それがチシャへの劣等感を生み出しており、それ故に「戦争が起きる前に出来る限りの手を尽くして主人を助けること」に自分の存在価値を見出していた。だからこそ、その自分の予言の結果が主人を危機に陥れている(としか彼女には思えない)今のこの状況が耐えられず、このような捨て身の決断を下そうとしているのである。
 そんなヒルダの決死の提案に対して、チシャは迷いながらも結論を出した。

「確かにその提案は有効ではあるかもしれません。でも、私はYESとは言えません」
「それはつまり、あなたの君主がその方針では矛を収めてはくれないということ? それとも、それ以前の問題として、この提案自体をあなたが認められないということ?」

 チシャにしてみれば、どちらの答えも同じなのだが、彼女はあえてそれには答えず、そう思う根拠を端的に伝えた。

「こうやって、私とあなたが直接話した後でそのことを提案しても、間違いなく、『私からの入れ知恵』であることを疑われるでしょう」

 そう言われたヒルダは、明らかに自分がタイミングを見誤っていたことにようやく気付かされ、そのことを(かつてライバル視していた)チシャに指摘されたことへの羞恥と悔恨の念を滲ませた表情を浮かべつつも、かろうじて冷静さを保ちながら、訥々と呟く。

「なるほど……、そうね、確かに、ちょっと焦ったわね。このタイミングなら、状況的にそう思われても仕方がないわね。やるなら、あなたに相談せずにやるべきだったわ……」

 結局、自分は契約魔法師としても、チシャには敵わないのかもしれない。そんな絶望的な心境に陥りながらも、彼女は必死で自分を奮い立たせながら、奇跡の逆転劇を信じて、最後まで希望を捨てずに戦う決意を固める。

「それなら仕方がない。私には、マイロードの勝利を祈ることしか出来ないけど、そういうことなら、後は戦場で決着をつけましょう」

 ヒルダはそう言い放ち、陣幕を後にする。チシャはそんな悲壮な覚悟を背負った旧友の背中を複雑な心境で見送りつつ、自らもトオヤ達の元へと帰還するのであった。

3.4. 虹(アルコバレーノ)

 その頃、陣幕の外では、こっそり中での話を聞いていたと思しきレッドウィンドは、ドルチェに声をかけていた。

「やっぱり、これは俺の出る幕じゃないな。俺はどちらにも協力は出来ない」

 彼にしてみれば、おそらくどちらの言い分にも一定の理があるように思えたのだろう。そして、どちらかが明確に悪だと断言出来ぬのであれば、その争いに介入することは「義賊の矜持」に反するらしい。

「わざわざ遠くからお疲れ様だったね。まぁ、どうせさ、君は僕等の側についてくれと言ったところで、君が納得出来なければ動けないんだろう?」
「そうだな。ただ、一つ虫がいいことを言わせてもらえば、もしあんたらが勝って、あの土地を治めることになったとしても、爺さんの墓参りだけは行かせてくれ」
「別にそれは構わないよ。止める権利もない」

 そんなやりとりを交わしつつ、彼はトオヤ達の陣から離れて行く。彼の本音としては、故郷の領主が主君に叛旗を翻すのも、逆賊として討たれるのも、あまり心地の良いものではなかったが、その争いを止められるような立場でもないことは、彼自身が一番よく分かっていた。

 ******

 その後、陣幕から戻ったチシャの魔法杖に、ロザンヌからの戦況報告が届いた。どうやら敵の水軍の主力は異界の戦艦のオルガノン達であったらしいが、レヴィアンの氷結策に見事に嵌った結果、思うように進軍出来ずに戸惑っているらしい。指揮官のウィルバートも、副官の西郷も、アントリア軍の指揮官達も、氷上の戦いには慣れていないようで、ひとまず今のところは「時間稼ぎ作戦」は成功しているように見える。おそらくヒルダが「思惑が崩れ始めてきている」と言っていたのは、このことであろう。
 とはいえ、あくまでもこれは時間稼ぎにすぎない。その上で、この状況を打破するためには、トオヤ達が一刻も早くケイを占領して彼等を湖上で挟み撃ちにするのが最適策だろう。いっそガスコインがこのレレイスホトの地に来ている間に、ペリュトンを用いて空路でレレイスホトを迂回してケイを急襲する、という戦略もあったが、それはそれで開き直ったガスコイン軍が南進することで戦乱が泥沼化する可能性もある。
 やはり、ここは奇策を弄せず、正面からガスコイン軍を打破するのが最善の道であることは、誰の目にも明らかであった。ガスコインが言っているように南方からの援軍を待つという選択肢もあるが、ヘリオンクラウドの再出現の可能性も考慮すると、あまり大軍をこの地に派遣すべきではないようにも思えるし、何よりも今は時間が惜しい。

「もう迷っている場合じゃないな……」

 トオヤはそう呟きつつ、皆に決意を伝える。

「俺は、あの人のやり方を認めることは出来ない。何があっても。だって、その先には、多くの傷ついた人間の怨嗟の声しか聞こえて来ないだろう? あるかどうかも分からない皇帝聖印なんてものを頼って、今あるものを守れない人間に、未来がどうして守れる?」

 もっとも、トオヤ達にしても「今あるもの」を守れるかどうかは、この戦いの結果次第である。その意味でも、絶対に負けられない戦いであった。

「怨嗟の積み重ねの上に、良い未来が得られるとは思っていないしね」

 カーラはどこか達観した様子でそう答える。これまでにも、皇帝聖印を巡って多くの者達が争い続けてきた歴史は、彼女も母ヴィルスラグから何度も聞かされている。そもそも、皇帝聖印を目指すことは、投影体としてのヴィルスラグにとっては自分の存在を否定することにも繋がり得る話なので、彼女が皇帝聖印に対して否定的な認識になるのも仕方のない話であろう。もっとも、実際には皇帝聖印を実現した者など誰もいない以上、実現したところで本当に全ての混沌が消え去るのかどうかは分からないし、ましてや「混沌との混血児」であるカーラがどうなるかについても、誰にも分かる筈がない。
 とはいえ、結局のところ、皇帝聖印を目指すかどうかは、この争いの本題ではない。今の時点で重要なのは、トオヤ達が守ろうとしている「レアを頂点とするヴァレフールの新体制」をガスコインが破壊しようとしているという、その一点である。

「どちらにせよ、ここにいる彼等は倒さざるを得ない。一応、兵を分けて戦う策も考えなくはなかったが、前回はそれで失敗しているし……」

 そこまで言ったところで、ドルチェが付言する。

「あぁ。それはやめた方がいい。少なくともガスコイン氏は、万全の状態のこちらに勝つための戦力を整えて来ているんだ。兵を分けて勝てると思うほど甘く見ない方がいい」

 トオヤはそれに対して同意しつつ、改めて指揮官達に問いかける。

「俺が全ての責任を取る。ガスコインを討つ。異論は?」

 チシャは黙って頷き、そしてカーラは膝をつきながら頭を上げる。

「承知致しました。必ずや、勝利をあなたに」

 その傍らに立つドルチェもまた、笑顔で答える。

「あぁ、君の決意、君の信念。確かに見届け、そして受け取った」

 ******

 こうして、ひとまず軍議を終え、カーラとチシャ、それにアグニとジーンがそれぞれの持ち場につく中で、ドルチェがトオヤに問いかけた。

「どうだいトオヤ? 迷いはあるかい?」
「戦う時は、いつも迷ってばかりだよ」
「それが君だろう? だからこそ、いい結果を導けるとは言えない。だが、いい結果を導こうと、最後まで迷って、迷って、足掻いてきたんだろう?」

 その言葉に対して、トオヤは先刻までの決意を込めた表情の奥に隠された素顔を、少しずつさらけ出していく。

「俺はあの人のやり方を認められなかった。だけど、自分のやり方も、正しいかどうかは分からない。いや、正しいと信じたいんだけれど、結局誰かと戦うんじゃ、意味ないんじゃないか、って……」

 トオヤ自身、「自分の信念を貫くために、自分の信念を曲げなればならない」という今の自分が抱える原理的な矛盾については、誰よりも自覚していた。だが、それでも今は戦わなければならないと、自分に必死に言い聞かせているようにも見える。

「何だろうね、結局誰かと戦わなければならないとか、そういう虚しさを嘆く訳じゃないけどさ、まぁ、そこをさ、仕方ないと割り切れないところがトオヤだし」
「あぁ。俺は今でもガスコインと戦うべきではないと思ってる。それに多分……、いや、なんでもない」

 トオヤが何を言わんとしていたのかは分からないが、そんな彼の様子を見て、ドルチェはふと、そこに「何か」を見出す。

「なんというか、君の周りには色んな人がいて、それをまとめて、色んな色がまとまって、君の周りを形作っている。君の中でも、うーん、なんていうんだろ? 色んな色が、分かれているようで、分かれていないようで、グラデーションのように、君という一つの存在を形作っている。それはたとえば『虹』みたいだよね」

 そう言われた瞬間、トオヤの中で「何か」が目覚めようとしていたのを彼は実感したが、次の瞬間、彼は自分の中でその「何か」を否定する。

「虹か……。俺は、そんな綺麗なもんじゃないよ」
「そっか。でもね、一つ忘れないでほしいのは……」

 彼女は少し間を開けて、改まった口調でトオヤの瞳を凝視しながら訴える。

「僕はね、君のことが好きなんだ。君のその虹を綺麗だと思い、だからここにいる。君は君が思っているほど価値のない人間ではないし、醜い人間でもない。それを忘れないでくれたまえよ」
「……ありがとう」
「さて、悪いが無駄話はここまでだ。さっきも言ったが、ガスコイン氏は強敵だ。舐めてかかってる場合じゃないぞ。じゃあね、僕にも準備があるから」

 そう言って、ドルチェは去って行く。その後ろ姿を見つめながら、トオヤは改めて、自分の中の聖印が生み出そうとしていた「何か」を、そのまま心の中に封印した。

(力は所詮、力だ。そんなものに、俺は頼らない)

 トオヤは自分にそう言い聞かせて、自らの聖印から沸き起こる「何か」を鎮めた。いずれトオヤがこの「力」を求める時が訪れた時、その「何か」は彼の前に、虹色の輝きを放ちながら現れることになるのかもしれない。だが、少なくとも今のトオヤは、その「力」を求めてはいなかった。「皇帝聖印の力に頼らずに人々を救う」という決意を固めた彼にとって、たとえそれが自らの信念の具現化であろうとも、その力に頼ること自体が、今の彼の信念と矛盾することになると考えていたのである。

3.5. 湖南村の決戦

 戦闘態勢を整えたトオヤ達がレレイスホトの南門に向かって陣を構えると、南門の頂面にぎっしりと立ち並んだ弓兵達の矢が彼等に向けられる。トオヤ達が射程範囲内に入ると同時に、一斉に放たれることになるのであろう。
 そんな彼等の背後には「アーバレスト」の戦旗(フラッグ)が掲げられている。常に真摯に物事に取り組み、目標に向けて歩み続ける君主に現出すると言われている戦旗であり、その戦旗の下に集った者達の放つ弓矢や魔法の威力を増大させるという。それは紛れもなくガスコインの戦旗であり、(レッドウィンドの師匠でもある)先代レレイスホト領主ハンス・オーロフの薫陶を受けた精鋭弓兵達にこの力が備わることは、相当な脅威であることは疑いなかった。
 そして南門の前にはガスコイン、サジタリアス、ウィリアムが、それぞれの部隊を率いて臨戦態勢を整えている。ヒルダの姿は見えなかったが、どこかに潜んで補助魔法をかける準備を整えている可能性もある以上、油断は出来ない。
 立ち並ぶ敵軍を目の前にして、ジーンはトオヤ達に進言した。

「一番厄介なのは、おそらくウィリアム率いる盾兵隊です。彼等を倒さなければ、ガスコイン本隊への攻撃も通してはもらえないでしょう。ただ、あの装備であれば、おそらく火炎系の攻撃が有効な筈です」

 それについては、同じ「聖騎士」の聖印の持ち主であるトオヤにもおおよその見当はついていた。その報告を聞いた上で、ドルチェは不敵に呟く。

「むしろ、火炎よりも確実に葬るには、僕の方が適任だろうね」

 トオヤはその言葉に頷くと同時に、全軍に攻撃を命じる。最初に動いたのは、アグニ率いる悪鬼隊であった。

「ようやく、俺の出番だな!」

 彼はそう叫ぶと、門の頂面にいた弓兵隊に対して、遠方から火炎を飛ばして奇襲を仕掛ける。その一撃によって弓兵隊の一角は一瞬にして灰塵に帰したが、その直後に後方から別の弓兵隊がその穴を埋める。どうやら、まだ門の奥には相当な大軍が控えているらしい。それに続けてチシャもまたワイバーンの鞍上からジャック・オー・ランタンを召喚して遠方の弓兵隊の数を着実に減らしていくが、それでもまだまだ全滅には程遠い様相であった。
 一方、地上戦では先手を取ったガスコイン率いる騎兵隊がトオヤへと向かって突撃するが、その聖印の力を徹底して「鎧の強化」に注ぎ込んだトオヤは、更に光の盾を掲げることでその突撃を真正面から受け止めつつ、完全に防ぎきる。それに続けてサジタリアス率いる弓騎兵隊もトオヤに向かって一斉に射掛けるが、やはり全く歯が立たない。だが、それでも彼等はまず、トオヤを攻撃せざるを得なかった。トオヤ達にとってはウィリアムが鬼門であるのと同様に、ガスコイン達にとってはまずトオヤを倒さなければ、他の部隊への攻撃を全て彼の手で遮断されてしまうからである。
 一方、ドルチェは宣言通りにウィリアムを標的に定め、いつもの如く独特の動きで彼の視線を翻弄しつつ、その邪紋の力を最初から限界まで発揮した上で、彼に襲いかかる。ウィリアムは鉄壁の装甲で彼女の攻撃を弾こうとするが、次の瞬間、その装甲の下が謎の力によって蝕まれていくのを実感する。

「私の鎧の内側から壊しに来たか……」

 ウィリアムは百戦錬磨の宿将である。だが、ドルチェのような幻影の邪紋使いと相対することは、彼の長年の戦績の中でも初めての経験であった。その奇妙な戦術に困惑しているところに、今度はカーラ隊が全力で突進をかけてきた。彼女もまた「聖騎士の聖印」の力を今まで間近で実感し続けてきたからこそ、ここは早期に勝負をかけねばならないと判断したのである。カーラはチシャの魔法によって炎を纏った自らの本体を振り翳し、その刃を巨大化させて一気に振り下ろす。そこに込められた彼女の混沌の力によって、ドルチェの攻撃で既に弱っていたウィリアムの身体は、聖印ごと真っ二つに切り裂かれた。
 その直後に、弓兵隊が仇討ちとばかりにドルチェ隊とカーラ隊に猛雨のような矢が注がれるが、ドルチェはいとも簡単にあっさりとかわし、カーラ隊への攻撃は、瞬時にその場に駆けつけたトオヤ隊によって防がれると同時に、トオヤはその場で聖印を掲げて、兵士達の士気と気力を奮い立たせる。

(やはり、まずこの男を倒さなければ、この戦いは終わらない!)

 ガスコインはそう判断すると同時に、トオヤ隊に向かって己の内なる魂の力を馬上槍に込めて、再特攻をかける。だが、猛々しい閃光を放ちながら迫り来るその突撃を以ってしても、今のトオヤには若干の手傷を負わせる程度の威力しか持ち得なかった。
 一方、そんな主君の決意を感じ取ったサジタリアス隊もまた、トオヤ隊に向けてサジタリアス自身の内なる混沌の力を込めた全力斉射を放とうとするが、その矢はドルチェの邪紋の力に吸い寄せられるように彼女の元へと向かい、更にドルチェはそれをあっさりと避けてしまう。サジタリアス達がその光景に対して唖然とした表情を浮かべる中、ドルチェはそのまま今度はサジタリアスに襲いかかるが、現世に蘇ったヴァレフール建国時代の英雄は、彼女の繰り出す刃をその身に受けても、そう易々とは倒れない。
 だが、そこにチシャが二発目のジャック・オー・ランタンを放つと、既にドルチェの邪紋の力に囚われていたサジタリアスは、彼女の瞳から発せられる妖光に操られるように、無防備な姿勢で彼女の身を庇う形で南瓜の吐き出す火炎を直撃してしまう。自分が何をしているのか分からない状態のまま、サジタリアスは深手を負い、血反吐を吐く。
 一方、カーラはガスコイン隊に標的を変えて切り掛かり、その神懸かり的な一撃がガスコインを捉えて相応の傷を負わせるものの、ガスコインはその直後にニヤリと笑って、南門の弓兵達に向かって叫ぶ。

「構わず打て!」

 この瞬間、弓兵隊の射程範囲に、カーラ隊とチシャ隊が同時に含まれることになったのである。トオヤの力をもってしても、この状況ではどちらか片方しか庇いきれない。やむなく彼はチシャを庇うが、チシャを乗せていたワイバーンは矢の猛威に耐えきれずに倒れて消滅し、そしてカーラ隊は部隊崩壊寸前にまで追い込まれるが、寸でのところでトオヤが聖印の力でその中の一隊の矢を全て自分の方向に向けることで、かろうじて壊滅は免れる。一方、ガスコインはあっさりとその味方の弓兵隊の攻撃を一矢残らずかわしていた(俊敏な回避能力に長けた「騎乗」の聖印の持ち主にとっては、それは造作もないことである)。
 トオヤは再び聖印を掲げて、どうにか態勢を立て直そうとするが、ここで彼等の視界の先に広がる南門の頂面に、新たな兵団が現れたことに彼等は気付く。それは、ガスコインの契約魔法師ヒルダとその護衛兵達であった。実は彼女は今回の戦いにおいて、ガスコインから「お前は戦場にいても足手まといだから、出てくるな」と言われていたのだが、さすがにウィリアムが討たれたと聞かされた時点で、この窮地を放っておくことは出来ず、独断で戦場に打って出たのである。
 彼女にそこまで思い詰めさせるほどに状況が逼迫していることを改めて実感したガスコインは、自分の周囲に固まりつつあるトオヤ軍全体を巻き込むように、聖印の力で巨大化させた馬上槍を用いて彼等を一掃しようとするが、それも再びトオヤの聖印の力で阻まれてしまう。
 一方、サジタリアスはもはや自分の身体が限界に来ていることを察して、ガスコイン隊と対峙するカーラに照準を合わせつつ、自らの混沌核を破壊することを覚悟した上での最後の一撃を放とうとする。

(お嬢、あなたを道連れにするのは不本意だが……、私には最後まで、この人を守る騎士でいさせてくれ!)

 だが、そんな想いが込められた渾身の一撃もまた、トオヤによって阻まれ、サジタリアスは無念の表情を浮かべながら、再びこの世界から消滅していった。
 こうして自軍が次々と崩壊していく状況を南門の上から直面したヒルダは、決死の思いで苦手な攻撃魔法の詠唱を始める。

(私に出来ることは、これしかない!)

 そう念じながら、トオヤ隊、カーラ隊、チシャ隊を狙って放った巨大な雷撃球であったが、それは彼女の手を離れた瞬間、彼女の意に反してドルチェの方面へと吸い寄せられ、そしてドルチェはまたしてもそれをあっさりと避ける。ヒルダもまた、この幻影の邪紋使いという得体の知れない存在を目の当たりにして、思わずその場に膝をつく。
 とはいえ、この時点でドルチェは邪紋の力をほぼ使い切っており、次に彼等が大技を用いてきたら、それに耐えられるかどうかは分からない。だが、トオヤは相手にそれを悟られる前に、ガスコインに向かって言い放つ。

「そちらの魔法攻撃は効かない。次はウチの剣士があの弓兵隊を薙ぎ払うだろう。もう大勢は決した。十分じゃないのか?」

 だが、ここで降伏勧告を受け入れられるような人物ならば、そもそも不利を承知で叛乱を起こそうなどとは考えない。

「我々の役目はここで勝つことではない! お前達を足止めすることだ。一刻でもここに足止め出来るのであれば、それでも戦う価値はある!」

 本来ならば、このようなことを敵に言うべきではなかったのだが、トオヤの言葉に対して脊髄反射的にガスコインは本音を口走ってしまう。やはり彼は、そもそも今回のような「敵を欺く陰謀劇」には向かない性分なのであった。

「傷つき、倒れた者達も、今治療をおこなえば助かるかもしれないのに……」

 トオヤはそう訴えるが、ガスコインはあえてその言葉もはねのける。

「それが嫌だと言うのならば、聖印など捨ててしまえ! 相手を殺す覚悟もない者に、武器を取る資格はない!」
「俺は最後まで、誰かを殺すことは否定し続ける! それでも、俺の大切なものを守るために、どうしても他に道がないのなら、俺は武器を振り下ろす。それは本当に最後の最後の時だけだ。それが俺の君主としての道だ。それだけは違える訳にはいかん。『俺が守るべき相手』の中には『あんた達』も入ってるんだ!」

 改めて、互いの信念をぶつけ合う二人であるが、もはや互いの想いが相手には届かないことは分かっていた。その上で、ガスコインは先刻の会談におけるトオヤの言葉を思い出す。

「お前は言ったな。人は一人で戦っている訳ではない。だからこそ、やめる訳にはいかんのだ。ここにいる者達は皆、思いは同じ。ここまで倒れた者達のために戦っている。同胞の無念を晴らすまで、ここで退く訳にはいかん!」

 その言葉を聞いたトオヤ達は、改めて、ガスコインを倒すまでこの戦いが終わらないことを実感する。だが、ガスコインは俊敏性に優れた「騎乗」の聖印の持ち主であり、通常の攻撃では一太刀浴びせることすらも難しい。そして、カーラとドルチェがここまでの戦いで大きく疲弊している今、彼にまともに一撃を加えられるとしたら、チシャの魔法以外にはない。
 そのチシャの一撃を確実に命中させるために、ドルチェはこの場に残る「厄介な人物」に対して、残る力を振り絞って「幻影の切り札」とも言うべき大技を繰り出す。彼女は南門の頂面に立つヒルダ隊に対して、困惑した状態の彼女達の目を見ながら「命令」を下した。

「今すぐ、この場から去れ!」

 それは幻影の邪紋使いにとっての奥義とも言うべき、一種の瞬間的な洗脳能力である。

「こ、ここで私が退く訳には……」

 ヒルダは必死の形相でそう呟きつつその場に残ろうとするが、やがてその理性がドルチェの邪紋の力によって覆い潰され、そのまま護衛兵達の波に飲まれるように、ドルチェ達の視界から消えて行く。それは、ガスコインに対して補助魔法をかけられる範囲からも消え去ったことを意味していた。

「むごいことを……」

 思わずそう呟いたのは、カーラである。彼女はガスコインの掲げる信念には何一つ共感出来なかったが、オルガノンの血を引く者として、主人を守ろうとする彼の部下達の心情は十分すぎるほどに理解出来ていた。だからこそ、その戦場から有無を言わさず退場させられたことの無念さは痛いほどよく分かる。

「すまないね。僕はこういう邪悪な生き物なのさ」

 既にその声が届かないところまで立ち去ったであろうヒルダに対して、ドルチェが自嘲的にそう言い放つ。その直後、チシャが残された魔力の全てを込めて、ガスコインに向かってラミアを瞬間召喚すると、さすがのガスコインでもその一撃をかわすことは出来ず、馬上からゆっくりと転げ落ち、そのまま意識が遠ざかっていく。

(すまなかったな、セシル……。お前のために、道を切り開いてやることは出来なかった……)

 その想いは異国の息子に届くことなく、そのまま彼は静かに人生の幕を降ろす。享年三十八。名門貴族の一員として、最後まで自らの信念を貫き通した人生であった。
 大将首を討ち取ったことでトオヤ軍の兵士達が勝鬨を上げる中、門の上に再び現れたヒルダは白旗を掲げ、残された弓兵達も無念の表情を浮かべながら、その場に弓矢を投げ捨てる。どうやら彼等はもともと、ガスコインからは「自分が討たれたらすぐに降伏するように」と命じられていたようである。
 やがてガスコインの身体からは聖印が浮き出てくるが、その聖印は以前通りの「男爵級聖印」であり、彼が何を根拠に「子爵」と名乗っていたのかは不明である。何処からか爵位を貰い受ける密約があったのかもしれないが、少なくとも今の時点では確認のしようがない。ひとまずトオヤは、ガスコインとウィリアムの身体から浮かび上がる聖印と、そしてサジタリアスの混沌核の残骸を吸収する。この時点で、トオヤの聖印は既に「子爵級」と言っても差し支えないほどにまで成長を遂げていた。

4.1. 敗軍の魔法師

「これで私の契約相手はいなくなった。戦後処理までは付き合うが、その後はエーラムに帰る。この地での私の仕事は終わりだ」

 ヒルダはトオヤ達を再び村内に迎え入れた上で、淡々とした口調でそう語る。その表情は、会議の場に同席していた時とも、チシャと密談していた時とも、戦場に現れた時とも、明らかに異なっていた。今の彼女からは、亡き主君への哀悼の意思も、同期のチシャへの対抗心も感じられない、ただの無機質な人形のような雰囲気を漂わせていた。

「もう守秘義務も無くなったので言わせてもらうが、先刻、こちらの計画が完全に失敗したという連絡が届いた」

 どうやらトオヤ達の予想通り、ガスコインはアントリア軍と手を組んだ上で、アントリアに長城線を壊させる作戦だったらしい。しかし、レヴィアンの時間稼ぎ作戦によってその計画が難しいことを悟った「暁の牙に偽装したアントリア軍」は、ケイへと帰還した上でマーチ経由でアントリアへと撤退する方針であるという。

「君達のここでの戦いは、それまでの時間稼ぎだった訳だ」

 トオヤがそう言うと、ヒルダは相変わらず感情が抜けきったような表情で答える。

「稼いだところで、彼等が失敗しては意味はなかったのだがな。こちらの戦況の不利を悟った上で、撤退を決意したらしい」

 実際のところ、彼等がどの時点で撤退を決意したのかは分からない。もしかしたら、レレイスホトでの戦況不利の情報が彼等に伝わったことで撤退を決意した可能性もあるが、今この場で重要なのは、そのことではなかった。トオヤはずっと気になっていた問題の核心部分について問いかける。

「確認したいんだが、グリースとはどのような関係を結んでいたんだ?」
「グリースは今回の計画には加わっていない。グリースはヴァレフールとブラフォードの両国と友好関係を結んでいる以上、今回の争いには干渉しない、と私は聞いている。それを信じるかどうかは貴公らの自由だ」

 そう言われてしまうと、トオヤとしてもこれ以上問い詰めてもそれ以上の答えが出てこないことを察する。そんな彼に代わって、今度はドルチェが口を挟んだ。

「要は、たまたま、ちょうどいいタイミングで『交換留学生』が来ていたというだけなんだね」

 それが本当に「たまたま」なのかどうかについてはヒルダは何も言わない。その上で、彼女はドルチェにこう告げる。

「ただ、我が元契約相手はグリース側に対して『自分に何かあった時はセシルを頼む』とグリース側に伝えていたらしい」
「ふーん……。少なくとも、それはちょっとキナ臭いね……」

 ドルチェのその言葉を受けて、トオヤが提案する。

「今すぐケイに向かうか」
「そうだね。領主不在となった今、放置していい理由はない」

 二人がそう言うと、傍にいたチシャとカーラも同意して、そのまま彼等はケイに向かう準備を整えるよう、兵士達に指示を出す。その上で、トオヤはヒルダに改めて声をかける。

「ここに倒れている連中の治療を頼めるか?」
「もちろん。戦いが終わった以上、今の私はただの魔法師だ。人道的観点から、どちらの軍の負傷者に対しても、出来る限りのことはしよう」

 彼女は生命魔法の専門家ではないので、簡易的な回復魔法しか使えないが、それでも最低限の医療の心得はある。

「僕等も、無駄に命が失われることを望む訳じゃない。では、ケイに向かおうか」

 ドルチェはそう言って立ち去ろうとするが、そこで何かを思い出したかのように、もう一度ヒルダに語りかけた。

「そうそう、ヒルダさん。先程は悪いことをしたね」
「仕方がない。それだけ私の存在を『脅威』と思ってくれたのだろう?」
「そうだね。正直、君がいればガスコイン卿にもう少し粘られたかもしれない」
「終わったことをいくら言っても仕方がない。むしろ私は、本来なら最初からあの戦場にいるべきだったんだ。だが、ガスコイン卿からは、どうせ戦闘では役に立たないんだから来るな、と言われてしまった。それだけ私に信用がなかったのが敗因だろう」

 そう語るヒルダの言葉の端々に、少しずつではあるが、消え去った感情の断片が垣間みえているようにも感じられる。そんな彼女の心理状況を知ってか知らずか、トオヤは複雑な表情を浮かべながら、微妙な声色で呟く。

「信頼がなかったら、こんな事態にはなっていないよ」

 実際、ガスコインは戦時以外においては補佐官としてのヒルダに対して絶大な信頼を寄せていた。だからこその(彼女の「予言」を信じた上での)叛乱だったことは疑いない。
 そんなやりとりを交わしつつ、最後にドルチェは改めてヒルダに言葉をかける。

「まったく、彼も罪な人だ。じゃあ、私達は急いでケイに向かわなくちゃいけないんで、この辺で。君を生き残らせたことで、僕が罪悪感に苛まれなくても済むような人生が、これから先の君を待っていることを祈っている。じゃあね」
「次に私が契約する相手が誰になるかは分からないが、もう幻影の邪紋使いの相手はしたくないものだな」
「幻影だと分かっている幻影はまだマシなものさ。どこにいるか分からないんだよ、本当に怖い者は」

 そう言って去っていくドルチェを、ヒルダはただ黙って見送った。そして、彼女達と共にケイへと向かう旧友チシャとは、最後まで言葉を交わそうとはしなかった。

 ******

 それから数日間、ヒルダは一切表情を変えることなく、一通りの戦後処理を淡々と片付ける。「ガスコインの忠実な契約魔法師」から一転して「魔法師協会所属の善意の第三者」となった彼女の仲介により、街を占領したヴァレフール軍に対する住民達の反発はかろうじて抑えられた。住民達の中には、戦場で「敵前逃亡」した上で生き残ったヒルダのことを激しく叱責する声もあったが、ヒルダはあえてその声に対して何ら反論せず、むしろ自分一人に住民達の憎悪が向けられることで事態の収拾が図られることを望んでいるようにも見えた。
 その後、やがて一通りの処理が片付いた時点で、彼女は海路でエーラムへと帰還することになる。その船内において、彼女は到着まで客室から一歩も出ることなく、ただひたすらに声を押し殺して泣き続けたのであるが、そのことを知る者は誰もいない。

4.2. 遺された少年領主

「虚しいものだな。人と人の争いというものは……」

 トオヤ達がケイへと向かう道の途上、なりゆきでそのまま彼等と同行することになったレッドウィンドがそう呟くと、たまたま彼の傍にいたドルチェは苦笑を浮かべる。

「君は君主でも義賊でもなく、吟遊詩人か何かなのかい?」
「俺が戦う相手は、混沌と、人民を脅かす君主だ。ガスコインの旦那もあんたらも、そうではないだろう? だから戦う理由はなかった」

 そんな会話を交わしつつ、やがて彼等はケイに到着する。時をほぼ同じくして、氷結したブラフォード湖の上空を進軍してきたレヴィアン達もまた同地に現れた。
 彼等が到着した時点では、暁の牙(およびアントリア軍)は跡形もなく消えている。また、その混乱の最中に、グリースから来訪していた子爵の実妹「ルルシェ・ルードヴィッヒ」とその護衛のオルガノンもまた姿を消していたらしい。
 一方、湖の反対側では、ダイモンの領主であるベンジャミン・グラッドストーンが、契約魔法師による魔法杖通信を通じて、ヴァレフールへの降伏を申し出てきた。ベンジャミンは聖印の献上を条件に関係者全員の助命を要求しているらしい。トオヤとしては、もともと誰の命を奪うつもりもない以上、その申し出を断る理由は何もなかったが、現時点におけるヴァレフール全体の主権者はワトホートである以上、今の時点で明確に返答出来る話ではなかった。
 そして、この一連の戦いの最中、長城線の向こう側に陣取り続けていたアントリア軍は、ヴァレフール軍に対して終始圧力をかけ続けながらも、結局一度も実際に戦端を開くことはなく、グリース軍もまた一切動きを見せなかった。トオヤ達がその状況を不気味に思っている中、ほどなくしてガスコイン派の最後の拠点となったマーチ村のヴェルナから、チシャに魔法杖を通じた連絡が届く。

「状況を説明します。まず先刻、『暁の牙』を名乗る者達がこの地を素通りしてクワイエット方面へと向かいました」

 そこまではチシャ達の予想通りである。問題はその後であった。

「そして今、セシル様が、グリース軍を引き連れた上で帰還されました。セシル様曰く『父上の仇は取りたいけど、今の自分では無理だ。ただ、父上の仇がこの村に攻めてくるのであれば、僕は戦う』とのことです」

 ヴェルナを介しての情報なので、セシルがどれほどの剣幕で今のこの状況に怒りを覚えているのかは分からない。だが、(いかに父親とは疎遠であったとはいえ)11歳の子供にしてみれば、自分の父親を殺した相手に対して、まともに対話しろというのが無理な話であろう。
 その上で、セシルをこの地まで「護送」してきたグリース軍の将校の言い分によれば、彼等は「ヴァレフール伯爵とブラフォード子爵の双方と友誼を結ぶ者」として、この度の両軍の「不幸な衝突」に対しては遺憾の意を示しつつ、「戦死した盟友ブラフォード子爵からの遺言」に従い、「セシルの後見人」として彼を支えるという方針を表明する。

「『セシル殿がヴァレフールに戻りたいとお考えなのであれば、ぜひともヴァレフールには寛大な措置をお願いしたいところではあるが、今のところセシル殿にはその御意志はないらしいので、当面は我々がセシル殿を支える所存である』とのことです」

 それはすなわち、今後の「セシル」および「マーチ村」に関しては、トーキー同様、グリースの保護下に置く、ということを意味している。
 実際のところ、今回の戦いにおいてグリースは(少なくとも表面上は)ヴァレフールに対して何もしていない。トーキーをアントリア軍が素通りしたことに関しても、彼等が「暁の牙」を自称していたという建前がある以上、彼等がブラフォードの救援に向かうというのであれば、それを止める権限は「同盟国」としてのグリースには無いだろう。つまり、ヴァレフールは今回の戦いにおいて、グリースからは直接的な被害は何一つ受けていないのである。
 そして、マーチ村は元来は旧トランガーヌ家の属領であり、セシルの母親はもともとマーチ村の領主の家系に連なる女性であることを考えれば、「旧トランガーヌ子爵領の実質的な後継国家」であるグリースが、「マーチ村の領主の末裔」であるセシルを領主として支えるという構図は、確かに筋が通っている。一年前の巨大蛾騒動の混乱の最中、どさくさ紛れのなりゆきでヴァレフール領扱いになっていただけで、ヴァレフールがあの地の領主権を主張することには、もともと何ら歴史的正統性は無かったのである。
 ただ、ヴァレフール側にしてみれば、今回の一連の動乱の裏で糸を引いていたのがグリースだったのではないか、という疑念は当然ある。とはいえ、明確な証拠のある話ではないし、ここで下手にグリースを刺激して、彼等がアントリアと手を結ぶことにでもなったら、状況はより悪化する。不本意な形ではあるが、「村一つ」で済むならば良しとしようという空気が、トオヤ達を含めたヴァレフール側の君主達の間では広がっていた。ましてや今、マーチ村にはチシャの弟のラファエルがいる以上、ここでグリースと事を構えることになれば、彼を人質に取られる可能性もある。
 そうした諸々の事情に鑑みた上で、ひとまずヴァレフール側はグリースの主張を認めた上で、セシルとマーチ村をグリースに「預ける」という形で決着することになる。こうして、中央山脈一帯は完全にグリース傘下となり、ラファエルはヴェルナに護衛される形で、ヴァレフールへと帰国することになるのであった。

4.3. 黒幕達の総括

「最低限の報酬は得られた、ということろですかね、マイロード」

 中央山脈の奥地に建てられた城塞の中で、「パンドラ均衡派」を率いる自然魔法師は、契約相手である「山の覇王」に対してそう語る。

「そうだな。出来れば、この機に『壁』を破壊するところまでやってほしかったところだが」
「まだそこまで機は熟していなかった、ということでしょう。とはいえ、これで山岳街道は完全に手中に収めました。いつでもまた『同じこと』は可能です」
「次はまた別の方便が必要になるだろうがな」
「えぇ。それに、状況によっては交渉相手が『逆』になる可能性もありえますし」

 そんな会話を交わしつつ、二人はブレトランドの地図を眺めながら、今回の計画について改めて総括する。
 彼等の中での今回の計画の最終目的は「長城線の破壊」であった。彼等がその決断に至るには、ブレトランド全体における複雑な勢力構造の変転がその背景にある。
 パンドラ均衡派が「この国」に手を貸している最大の理由は、「現時点で最も皇帝聖印に近いと目される男」ことアントリア子爵ダン・ディオードの打倒である。そのための防波堤として「この国」を建国した上で、ヴァレフールとも協力しつつアントリアを倒す、というのが本来の彼等の戦略であった。
 ところが、神聖トランガーヌの出現と、ダン・ディオードのコートウェルズ遠征の開始によって、その計画は軌道修正を余儀なくされる。神聖トランガーヌとの抗争で「この国」が疲弊する中、ダン・ディオードに代わってアントリアを治めるマーシャル・ジェミナイ子爵代行が、それまで破綻寸前であったアントリアを経済的に立て直していくのを目の当たりにしたパンドラ均衡派は、この状況が続けば最終的にダン・ディオードの基盤をより強めることになる、という結論に至る(マーシャルとダン・ディオードは不仲という説もあるが、最終的にはそれでも協力することになるだろう、と彼女は予見していた)。
 この状況を転換させ、ヴァレフールとアントリアを本格的に戦わせることでアントリアを疲弊させるために、「この国」はまず神聖トランガーヌの二代目枢機卿となったネロ・カーディガンとの間で極秘裏に不戦協定を結んだ上で、ヴァレフールとアントリアの間の均衡状態を保っていた「長城線」をアントリア軍に破壊させることを決意したのである。そのための偽装工作としての「暁の牙」の召喚と「ブラフォード子爵領」の独立という筋書きを献策したのも、基本的にはこの女性であった。
 もともと両国の戦力比的にはアントリアが有利である上に、ガスコイン達を離反させたことによって、長城線が破壊されれば最終的にはアントリアがヴァレフールに勝利する可能性が高いことは誰の目にも明らかであった。それでもあえて長城線を破壊させた上で、機を見計らって神聖トランガーヌと共にアントリアを奇襲することで、建て治りつつあったアントリアを本格的に瓦解させることが彼等の目的だったのである。
 なお、ガスコインに「告発状」を送ったのも、他ならぬこのパンドラ均衡派の首領の仕業である。彼女はこれまでのパンドラ各派とヴァレフールとの因縁を把握していたからこそ、その情報をガスコインに伝えれば間違いなく離反すると確信していた。とはいえ、この計画が成功する保証もなかった以上、失敗時に備えてヴァレフールとの関係を悪化させないよう、あくまでも自分達自身は動かないという安全策を選びつつ、最悪失敗してもマーチ村とセシル(および彼が手懐けている巨大化の幼虫)だけでも手に入れられれば良い、という腹積もりだったのである。

「本気で皇帝聖印を目指そうとする奴の気概は、嫌いではなかったのだがな」
「そこまでの器ではないことは、彼自身も分かっていたようにも思えます。だからこそ、マイロードの野心に期待していたのかもしれませんよ。もっとも、マイロードがパンドラと手を組んでいることを知ったら、おそらく討たれる前に憤死していたでしょうが」
「清濁併せ呑むことも出来ぬ奴に、大望は成し遂げられん。奴は聖印教会のことも嫌っていたようだが、結局のところ、その性根は聖印教会の奴等と大差なかったのかもしれんな」

 とはいえ、実際にはむしろこの覇王の方が、混沌への嫌悪感という意味では、より思想的には聖印教会に近いとも言える。ただ、彼は嫌いなものでも自分の野望のために必要だと分かれば、それを有効に利用することを前提に受け入れることが出来る。ある意味、彼のこの節操のない開き直りの精神こそが、この「歪な新興国家」の屋台骨を支えていたのである。

「さて、ではそろそろ新伯爵様に挨拶に行くとするか。噂の風雲児とやらがどれほどの者なのかも、見極めねばならんしな」

4.4. 新伯爵の騎士

 マーチの領有権がグリースに移ったことで、実質的に「最前線」となったケイに関しては、ひとまずレヴィアンが暫定領主としてこの地に残留することになった。ブラフォード湖の戦いで発揮された彼の手腕を見越した上での人事であると同時に、ガスコイン派の残党の反発を抑えるためにも、彼を討った張本人であるトオヤよりは、直接的な因縁の薄いレヴィアンの方が無難であるという判断もあったらしい(一方、レレイスホトとダイモンに関しては、それぞれケネス派とグレン派の君主が暫定領主として派遣されることになった)。
 ただ、このまま彼をこの地の正規の領主とするかどうかについては、ワトホートも容易には決断を下せなかった。それは、ガスコインの戦死によって生じた「七男爵」の空席を誰が埋めるのか、という問題とも深く関わってくるからである。
 現時点でレヴィアンは既に男爵級の聖印の持ち主であるため、祖父グレンの後継者とは別枠で彼を新たな男爵に任命しても良いのだが、ガスコイン派の遺臣達の反発を防ぐために、あくまでもセシルを説得して帰還させ、ケイの領主の座と男爵の地位を継がせるべき、という声もある。
 そして、ある意味でもっと厄介なのがトオヤの存在である。もともと騎士団長ケネスの後継者と目されていた彼が、まだその聖印を継承する前の時点で、既に子爵級の聖印を手にしているのが現状である。仮にガスコインの聖印の分をセシルに返したとしても、それでもケネスの聖印を加えれば間違いなく再び子爵級以上となることは確実である以上、これまでの「七男爵」の枠を超えた存在となることは明白であり、それは長年続いてきたヴァレフール伯爵領における諸侯間の秩序の均衡を崩す恐れがある、とも考えられ始めていたのである。
 そんなトオヤに対して、カナハで彼を出迎えたレアは、ひとまず労いの言葉をかける。

「お疲れ様でした。大変な役目を、よくぞ果たしてくれました」
「いえ、私は勤めを果たしただけなので」

 トオヤの顔は、どこか浮かない様子であった。彼としては、自分が望む形での解決を成し遂げられなかったことが、どうしても心残りであったらしい。

「今回の戦いを通じて、今のあなたの聖印は、既に子爵級にまで成長していると聞き及んでいます。その上で、あなたの今後の立場に関してなのですが……」
「はぁ」

 トオヤは自分自身の話であるにもかかわらず、どこか他人事のような、あまり興味の無さそうな様子であった。おそらく、まだ今回の件についての心の整理がついていないことが原因なのだろう。

「あなたは『騎士団長』という役職にこだわりはありますか?」
「いえ、私のなすべきことはヴァレフールを守ることと、人々の幸せを守るために戦うことだけですから、役職そのものにこだわりはないです」
「そうですか。では、その上でお伺いしますが、あなたはこれから先も『私の騎士』でいて下さいますか?」
「はい、そのつもりですが……」

 トオヤとしては、なぜ今更レアがそんなことを聞いてきたのかが分からない。だが、レアはその彼の反応を確認した上で、以前から密かに計画していた「新体制案」の実現を目指すことを決意する。
 その後、レア、ケネス、グレンの間で、改めて新たな「密約」が結ばれることになるのだが、トオヤ達がそのことを知るのは、もう少しだけ先の話であった。

4.5. 「迷う者」と「まがいもの」

 それから数日後、無事にタイフォンに帰還したトオヤは、まだどこか悩ましげな表情を浮かべたまま、ドルチェに対して語りかける。

「なぁ、俺は……」
「どうしたんだい、トオヤ?」
「俺は、間違ってたよな?」
「ケイでのこと? まだ気になってるの?」
「守りたいと思っていたのに、結局は自分で奪ってしまった……」
「ガスコインさんを?」
「でも、あのままあの道を走らせれば、彼の思想によって傷つく人は多いと思った。だから、後悔はしていない。でも、あれは本当に……、いや、すまない。ただの弱音だった」
「間違っていたかと言われれば、そうかもしれないさ。それ以上の結果を得られる道はどこかにあったのかもしれないし、無かったのかもしれない。これが最善だとも、もっといい道があるとも、誰にも言えない。でもまぁ、ほら、君は優しいからさ。その場その場ではやっぱり、これで最善だと、皆がHappyになれる結末に一番近いと思って選んでるんだろ? 最後まで貫きたまえ」
「あぁ。最後まであがくさ。君が最後まで綺麗だと言ってくれた色が、その通りだろうって、君に誇ってもらえるように」
「虹の色って、不思議だからさ。一つ一つは何でも無かったり、並べて見ると綺麗だったり、絵の具だと思うと、真っ黒かもしれない。その辺も含めて、迷っていくのさ。ま、安心したまえ。少なくとも僕はずっと君と一緒に迷ってあげよう」
「……ありがとう」
「僕も所詮は『まがいもの』。迷いの中の人間さ。お似合いだろう?」
「あぁ。でも君は、今ここにいて、傍にいてくれるだけで心が落ち着くんだ。だから、まがいものとか、もう関係ないんじゃないか?」
「そうだね。この『形のないまがいもの』に、ドルチェっていう名前を与えてくれたのは君だった……。さて、しんみりした話は終わりだ。せっかく久方ぶりにタイフォンに戻って来たんだ。となれば、君と僕がすることは一つだろう?」
「え、えっと、はい、そ、そ、そ、そうですね……」
「ほら、ニシンパイは口に合わなかったんだろう? 口直しと行こうじゃないか」
「う、うん。そうだね!」

 こうして、ようやく本来の笑顔を取り戻したトオヤは、最愛の女性と共に「いきつけの店」へと向かう。彼の中で、一人の気楽な田舎領主として、のんびりと余暇を楽しめる時間が、あとどれくらい残されているのかは分からない。しかし、だからこそ、今のこの貴重な時間を大切にしたいと考えていたのであろう。それは、彼を支える最愛の「まがいもの」もまた同様であった。

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最終更新:2018年05月06日 03:13