第6話(BS44)「星々の瞬き」 1 / 2 / 3 / 4

1.1. 港町の領主

 ブレトランドから海を挟んで南東に位置する大陸北岸のヴァンベルグ侯爵領は、ランフォード、アロンヌ、ファーガルド、メディニア、サンドルミアなどと国境を接する大国であり、国主のアントニア・フラメル(下図)は質実剛健で実直な聖印教会の信徒として知られている。 幻想詩連合に所属し、爵位制度には組み込まれているものの、エーラムからの契約魔法師や技術支援を拒絶するほどに聖印教会への忠誠心が高く、国民の大半も彼に倣ってその教義を受け入れている。


 そのヴァンベルグの北端に、ハルペルという名の港町がある。百年程前にヴァレフールからの亡命貴族が中心となっておこなわれた干拓事業によって築かれた町であり、国土の大半を内陸が占めるヴァンベルグにとって唯一の海の玄関口であった。町の名はその貴族家の姓に由来しており、現在のこの町の領主はその末裔のアーノルド・ハルペル(下図)が務めている。


 ハルペル家は今でもヴァレフールとの繋がりが深く、アーノルドの母親はヴァレフールの古都インタシティの領主の娘で、彼自身も幼少期はその地で育った身である。その後、彼はイスメイアの教皇庁へ留学して君主としての手解きを受けた上で、数年前に父の後を継いでハルペルの領主に就任した。現在32歳。国主譲りの生真面目な気性で、教皇庁時代は過激な混沌滅殺論者だったが、それから様々な経験を経ていくうちに、魔法師や邪紋使いの必要性も感じるようになり、最近では(一部では混沌由来説もある)趣味で珈琲を嗜む程度の柔軟な性格となった。
 そんな彼が治めるハルペルの港町において、まもなく「始祖君主(ファーストロード)レオンの聖誕祭」が開催されようとしていた。これは聖印教会が定めた「レオンの誕生日(真偽は不明)」を中心に「前日祭」「当日祭」「後日祭」の三日にわたって開催される聖印教会主催の祭典であり、昔は毎年イスメイアの教皇庁で開催されていたが、十数年前から世界各地の信徒達の手で毎年持ち回りで会場が変わる制度へと移行した。
 今年はアントニアの強い意向によりヴァンベルグでの初開催となり、遠方からの来客の人々への利便性を考慮した上で、港町のハルペルが会場に選ばれたのである。ハルペルはアーノルドの堅実な統治が日頃から行き届いていることもあり、交通の要所で人の行き来が多い割に治安は良好で、住民達の信仰心も強いため、開催地としては申し分ない土地であった。
 そんな聖誕祭の管理責任者であるアーノルドのところに、先日招待状を送った隣国ランフォードの領主クレア・ウィンスローから返事の手紙が届いた。彼女はランフォード子爵家の正統後継者であり、父の死後にその座を継いだものの、疫病と飢餓に起因する混乱から国内は分裂し、現在の彼女の実質的な支配領域は中南部のミスタリア地方のみとなっている。修道院で育ったこともあり、聖印教会と深い繋がりを持つが、彼女自身はそこまで明確な信仰理念を確立している訳でもなく、彼女の傘下には魔法師も邪紋使いもいる。現在はヴァンベルグからの軍事・経済的支援によってかろうじて勢力維持している状態ではあるが、今のところはまだ幻想詩連合への所属を明言してはいない。
 手紙の内容は以下の通りである。

「大変申し訳ございませんが、国内情勢の悪化により、私は今回の式典に出席出来なくなってしまいました。その上で、お伝えしたいことがあります。私の契約魔法師によると、どうやらハルペルに『姿を変えることが出来る邪紋使い』が入り混む未来が見えたそうです。あなたは魔法師に理解がある方だとお伺いしたので、このような形で御連絡させて頂きましたが、魔法師の助言に従うことを快く思わない人も多いでしょうから、このことは公にはせぬまま、領主様の判断で対応策を練って頂けると助かります。もしかしたら、その者は私に化けて潜入を試みるかもしれません。邪紋使い達の中には聖印を模倣出来る者もいるという噂もありますので、くれぐれも御注意下さい」

 前述の通り、アーノルドは確かに聖印教会内では穏健派で、クレアのように魔法師や邪紋使いを雇用する方針にも理解があり、(ヴァンベルグの国風上認められないが)本音では彼も雇用したいと思っているほどである。それ故に、彼は魔法や邪紋についての知識もそれなりに持ち合わせているのだが、その彼から見て、この手紙からは二つの違和感が感じられた。
 まず、アーノルドが知る限り、魔法師達の中でも未来予知が可能なのは「時空魔法師」と呼ばれる系譜の者達なのだが、以前に聞いた話によれば、クレアの契約魔法師は「生命魔法師」の筈である。そして「姿を変えることが出来る邪紋使い」が存在することはアーノルドも知っているが、彼等の中に「聖印まで模倣出来る者」がいるという話は聞いたことがない。無論、彼が知らないうちにクレアの元に新たな時空魔法師が雇われた可能性もあるし、「聖印を模倣出来る邪紋使い」も絶対にいないと断言出来る根拠はないが、逆に言えば、この手紙が本物であると確信出来る根拠もない。

「とはいえ、仮にこの手紙が偽物だったとしても、この手紙を信じて私が警備を強化したところで、それがハルペルに害を為すことに繋がる訳ではないと思うが、さて、どうしたものか……」

 なお、聖誕祭当日は魔法師・邪紋使い・投影体は完全に立ち入り禁止となる習わしなので、どちらにしても邪紋使いを発見すれば即刻逮捕することは可能である。だが、姿を変えられた状態では探すのも困難であり、現状では具体的な対策が思いつかない。
 アーノルドが執務室で一人頭を悩ませていると、廊下を走って近付いてくる足音が聞こえてくる。その音から感じ取れるせわしない様子から、アーノルドはそれが誰なのかすぐに察しがついた。

「クレア師匠から手紙が届いたって聞いたんだけど!」

 そう叫んで入って来たのは、一月程前からアーノルドが預かっている少年である(下図)。バンダナを巻き、キュロット(半丈のズボン)を履いたその少年の名は、ゴーバン・インサルンド。現ヴァレフール伯ワトホートの弟トイバル(故人)の長男である。彼の母親はヴァレフール騎士団長ケネスの娘シリアであり、彼はつい数ヶ月前まで、ケネス達を中心とするヴァレフールの「反ワトホート派(反体制派)」の旗印だった。まだ11歳だが、亡父から従属聖印として授かった「対混沌戦用に特化された聖印」の持ち主でもある。


「あぁ、これは、同名の別人だ。ゴーバンが知っているクレア殿とは別の方でな」

 アーノルドはそう答えた。「ゴーバンが知っているクレア殿」とは、聖印教会所属の流浪の女騎士クレア・シュネージュのことである。数ヶ月前、ゴーバンは彼女に弟子入りして「修行の旅」に出たが、その後、クレアが旅先で出会った人々に請われてコートウェルズの危険地帯へ向かうことになったため、さすがにまだ幼いゴーバンを連れて行くのは危険と判断し、旧知のアーノルドに彼を託したのである。アーノルドは以前、クレアに助けられた恩義があり、また血統的にもヴァレフールと近い立場であるため、適任と思われたのであろう。
 なお、アーノルドは現在既に32歳だが、妻子はいない。堅物すぎる性格故に婚期を逃したと言われているが、決して彼も木石ではなく、過去には女性に慕情を抱いたこともある。実は、そんな彼にとっての少年時代の初恋の相手が、ゴーバンの母シリア(歳はアーノルドの一つ上)であったのだが、当然、ゴーバン自身はそのようなことを知る由もないし、クレアもそんな事情を知らないまま彼にゴーバンを託すことになった。
 ちなみに、ゴーバンの母方の祖父ケネスは聖印教会を嫌っていることで有名だが、現在のゴーバンは実家とは袂を分かっているようで、むしろ祖父への反発から聖印教会の教義に興味を抱き始めている。もともと正義感溢れる熱血少年で、「対混沌戦特化の聖印」の持ち主である彼は、「混沌からの解放」を第一に掲げる聖印教会の教義とは相性が良いらしい。もっとも、まだその教義の本質を理解しているとは到底言えないような状態なのだが、アーノルドはそんなゴーバンの姿に昔の自分を重ねつつ、彼のことはあくまで「一人の君主」として遇している。

「そうなのか……。なぁ、ところでさ、もうすぐ始祖君主レオンの聖誕祭があるんだろ?」
「あぁ、そうだ」
「それでさ、前から気になってたんだけど、始祖君主レオンと英雄王エルムンドって、どっちが強いんだ?」

 これはブレトランド生まれの少年であれば、誰もが一度は考えることである。いつの世も、少年達は「強さ比べ」の話題には目がない。ましてやゴーバンにとっては、英雄王エルムンドは自身の祖先である。興味を抱かない筈がないだろう。

「そうだな……。御二方共、立派な偉業を成した人達だ。そんなことは叶わないだろうが、実際に戦ってみないと分からないだろうな」
「うーん、何か遺品を探して、サーバントとして呼び出して戦わせることが出来れば、早んだけどなぁ」
「遺品?」
「昔、じっちゃ……、あのクソジジイの契約魔法師に聞いたんだよ。異界では、過去の英霊をサーバントとして呼び出して戦わせる文化があるとか何とか」
「文化?」
「まぁ、色々金のかかる文化らしいとも言ってたけどな。それと同じような召喚魔法を、こっちの世界で研究してる連中もいるとかどうとか……」

 ゴーバンが話している「文化」がいかなる実態はよく分からないが、ひとまずこれは「釘」を刺しておかねばならない事案だとアーノルドは察した。

「ゴーバン……、お前に聖印教会の教義を強要する訳ではないが、私以外の者にはそういうことは言わない方がいいぞ。この街の中ではな」
「あ、そうか、ここは魔法とか異界の話とかはダメだったんだったな……。でも、なんでなんだ? 魔法とか色々あった方が便利じゃないか?」

 聖印教会に興味を抱いているとは言っても、あくまでそれは「悪い混沌を倒す」という一点に関してのみである。なんだかんだで、子供の頃から魔法師や邪紋使いと触れる機会が多かった彼にとっては、それらの存在そのものが悪だと断ずる教義には参道出来ないらしい。そして、アーノルドも本音ではゴーバンの言うことに共感しているのだが、それでもこの国で生きていくための「建前」が必要だということは伝えなければならない。

「あぁ。今の世の中においては、確かにその通りだ。だが、私は魔法や混沌の力は皇帝聖印が実現した時、消えて無くなると考えているからな」

 実際のところ、これについては「実例」が過去に存在しない以上、はっきりしたことは言えないのだが、聖印教会としてはそれが一般的な見解である。だからこそ、それに頼り続けることは皇帝聖印への道を閉ざすことになるという懸念があり、あまり望ましく考えられていない。もっとも、この辺りの教義解釈およびそれに基づく方針に関しては教派によりけりであり、人々を守るための魔法や邪紋ならば認めるべきと考える者達も少なくはないのだが、少なくとも「文化」と称して興味本位に死者を蘇らせて戦わせるような魔法師は、聖印教会としては最も忌むべき存在であろう。

「まぁ、まだお前の歳でそういったことを考えるのは面倒臭いと思うかもしれないが、一人前の君主になるためには、魔法や聖印についての考えはしっかり持っておきなさい」
「うーん……」

 ゴーバンは、分かったような分からないような顔を浮かべる。

「まぁ、今はそれでいいさ」

 見守るような笑顔でアーノルドはそう言いつつ、その視線の先にある壁に掲げられている一対の「籠手(ガントレット)」に視線を向ける。

(そういえば、あの籠手も「名高い英雄の遺品」だと言われていたな……)

 それはハルペル家に伝わる「伝家の籠手」であり、軽い割に頑丈で使い勝手が良く、アーノルドも戦場に出る時は愛用している。同家がブレトランドの貴族家であった頃からの伝来品だが、その由来は不明である。何か特別な力が込められているという伝承もあるが、今のところそのような力が発動したことはない。もっとも、この籠手が投影装備やオルガノンの類いであるとするならば、聖印教会の一員としてその力を用いる訳にはいかなくなるので、今のアーノルドとしては、ただの「品質の良い籠手」のままであってくれる方が望ましかった。

1.2. 子連れの女騎士

 ヴァンベルグは君主の影響力が強い土地ではあるが、それでも君主の目が届かない辺境地域も存在する。同国南部のとある村の一角で、この地の領主が公務で不在の隙に、異界から出現した「猪のような投影体」が畑を荒らす被害が発生していた。そんな中、偶然この村に立ち寄っていた女騎士(下図)が、「光の盾」を翳しながら村人達を守って奮戦している。


「おじいさん、下がっていて下さい!」

 彼女はそう叫ぶと、老人に向かって突撃してきた猪の前に立ちはだかり、その盾で猪の突進を止めつつ、そのまま盾の圧力で猪を吹き飛ばす。たった一人で次々と現れる猪達を事も無げに撃退していく彼女の背後では、彼女の娘である一人の幼子が(下図)、小さな聖印を掲げて、(彼女達が到着する前の猪との戦いで)怪我をしていた住民の傷を癒していた。


 母親である女騎士の名はウルスラ。29歳。元はブレトランド中部に位置する聖印教会の聖地フォーカスライトの領主(大司教)を務めるグレイ家の長女であった。若い頃は留学先の教皇庁で優秀な成績を治めていたこともあり、父からは大司教位の後継者として期待されていたが、彼女は継承権を弟のロンギヌスに譲り、現在は娘の11歳の娘ラーヤと共に旅をしている。
 ラーヤの父親は、ウルスラが家を出た後に旅先で出会って恋に落ちた流浪の君主である。だが、ウルスラがラーヤを身籠っていることに気付いた時、ウルスラは既に彼の元を離れたため、彼はラーヤの存在を知らず、そしてウルスラはラーヤにもそのことを話していない。
 なお、ウルスラが愛用している鎧はその「流浪の君主」から譲り受けた代物であるが、それとは別に彼女にはもう一つ、実家から引き継いだ伝家の武具としての「長靴(ブーツ)」を有している。ただし、現在は既にこの長靴は常用していない(使い勝手の良い武具ではあるのだが、彼女が自身の武術を確立させていくにつれて彼女の戦い方には合わなくなった)。いずれ娘の身体がこの長靴に合うほどに成長したら彼女に引き継がせるつもりで、常に背中の鞄の中に忍ばせている。
 なお、ウルスラの聖印は人々を守ることに特化された「聖騎士の聖印」であるのに対し、彼女から従属聖印を受け取っている娘のラーヤは「救世主の聖印」と呼ばれる治癒能力に特化された聖印の持ち主である(聖印の性質は血縁関係や親子関係に影響を受けることもあるが、基本的には個人の資質によるものであり、このように全く別種の聖印が形成されるのが一般的である)。ラーヤは身体的には未熟であるが、他人を癒す能力に関しては、既に一人前の騎士(もしくは宣教師)級の実力であった。
 そんな二人の活躍もあり、どうにか混沌災害(畑荒し)は無事に解決し、村人達は口々に彼女達に感謝の意を述べる。

「ありがとうございます! 君主様は、この国の方なのですか?」
「いえ、各地を放浪している者です」
「ということは、もしかして、ハルペルでのレオン様の聖誕祭にご参加されるために、この国に来たのですか?」
「あぁ……、そういえば、もうそんな季節ね」

 ウルスラがそう呟くと、隣でラーヤが首をかしげる。

「聖誕祭? それはどのようなお祭りなのですか?」

 キョトンとした顔でそう問いかけたラーヤに対して、村人達は笑顔で答えた

「世界各地から、聖印教会の信徒の方々が集まり、始祖君主レオン様の御生誕をお祝いする催し物です。多くの人々が集まるため、その機会に各地の物産展や、吟遊詩人や大道芸人の方々による出し物なども催される、世界最大のお祭なのですよ」

 その話を聞いて、ラーヤは心なしか目がキラキラしている様子に見える。彼女はあまり「お祭」というものを経験したことがない。これまで各地を旅する過程で様々なそれぞれの土地の文化に触れる機会はあったが、それらが一堂に会すると聞いて、強い興味を惹かれているらしい。そんな娘の様子に気付いた母は、彼女に問いかける。

「今から向かえば、ちょうど聖誕祭が始まる頃には着けるけど、あなたはどうしたい? ラーヤ?」

 そう問われたラーヤは、少し迷いつつ、自分の考えをまとめながら答える。

「それだけ多くの人が集まるということは……、もしかしたら、そこに困ってる人もいるかもしれないし、何か揉め事が起こることがあるかもしれないし、私達の力が必要になるかもしれないですよね!」

 どうやら彼女は、純粋に「面白そう」という理由だけで参加することに後ろめたさを感じているのか、何か「大義名分」が必要だと考えたらしい。ウルスラとしては、別にそれほど厳しく娘を躾けたつもりもないのだが、聖騎士として各地の人々を助ける日々を送るウルスラの背中を見て育つうちに、やや過剰なまでに禁欲的な性格となってしまったようである(実際のところ、ウルスラ自身はそこまで生真面目でもないのだが)。

「そう。じゃあ、あなたがそう言うのなら、次の目的地はそこにしましょう」

 ウルスラは、極力「ラーヤの意志」を尊重する方針で育ててきた。何をするにしても、自分自身で考えた上で、その結果を受け入れて、成長していくことが必要だと考えている。無論、その選択の結果としてラーヤが危機に陥る可能性も十分にあり得るが、自分が彼女の傍にいれば、よほどのことがない限りは彼女を守れるという自信もあった。

「お母様は、そのお祭りに行ったことはあるのですか?」
「あなたが生まれる前は、ね」

 彼女が教皇庁に留学していた頃は、毎年教皇庁で開催されていたため、それが日常行事であった。各都市での持ち回り開催になって以降は、別に避けていた訳でもないのだが、彼女の旅先と開催地が合わない年が続いており、一度も行ったことがない。

「そう考えると、随分久しぶりになるわね」

 ウルスラはそう呟きつつ、教皇庁時代の聖誕祭の思い出を振り返りつつ、今年の開催地が「ハルペル」ということから、教皇庁時代の一人の友人のことを思い出した。その友人の名は「アーノルド・ハルペル」。彼女より少し年上で、共に君主となるための訓練を受けていた人物であるが、彼女の記憶が正しければ、現在は彼がその地で領主を務めている筈である。

(彼に会うのも久しぶりね)

 教皇庁時代の彼は、極めて生真面目な青年だった。あれから年月を経て、今はどんな領主になっているのかは分からない。彼女自身もあの頃に比べて大きく変わった。彼はどう変わっているのだろう。もしかしたら、他にも教皇庁時代の友人が遊びに来ているかもしれない。そう考えると、ウルスラ自身も少し楽しみに思えてきた。

1.3. 教皇庁の異端児

 アーノルドやウルスラが青春時代を過ごした「教皇庁」とは、イスメイア中部の小都市マトレに存在する聖印教会の中央機関である。教皇が鎮座する「大聖堂」を中心に、世界各地から集まった優秀な君主達によって構成されている教皇直属組織であり、世界中の聖印教会の信徒達の中から君主志望の若者達を集め、育てるための教育機関としての役割も果たしている。
 この地で君主としての修行を積んだ者の中には、アーノルドのように実家に帰って聖印を継ぐ者もいれば、ウルスラのように各地を旅して人々を救う自由騎士や宣教師となる者もいる。一方で、この地に残って教皇直属の君主となった者もいる。イスメイア自体が連合所属の国家であるため、そのような者達の大半は連合諸国出身だが、中には同盟諸国からこの地に留学し、そのまま教皇直属の「神の戦士」となった者もいる。
 その数少ない事例の一人に、ヒューゴ・リンドマンという人物がいる(下図)。歳はアーノルドと同じ32歳で、教皇庁に留学した時期もほぼ同期だが、その体格は(決して小柄ではないアーノルドと比べても)頭一つ違うほどの巨漢である。


 元来は北の大国ノルドの名門氏族リンドマン家の九人兄弟の次男に生まれた。その恵まれた体躯故に若い頃から武勇に優れ、やや歳の離れた異母兄フレドリクよりも彼のほうが後継者に相応しいと考える者もいたが、彼自身はあくまでもフレドリクの後継を支持していた。だが、その後継者問題を巡る混乱の最中、彼はノルド侯爵家にまつわる「ある秘密」に触れてしまい、口封じのために殺される可能性を危惧した兄の手によって、教皇庁に留学させられることになる(それはおそらく、地理的にも文化的にも最もノルド候の影響力が届きにくい土地だからであろう)。
 いかにもノルド然とした威圧的な風貌と、その風貌から予想される通りの粗暴な立ち振る舞いは、南国の貴族文化で育った君主達を中心とする教皇庁においては極めて異質であり、暴君として恐れられることも多いが、決して無法者ではなく、自らが聖印を捧げた教皇への忠誠心は極めて強い。その上で、あくまでも自分の君主道を貫く姿勢は、枢機卿や大司教などの聖印教会の幹部達から高評価を得ている。
 そんな彼に教皇からの勅命が降った。大聖堂内の謁見の間に呼びだされたヒューゴの前に現れたのは、教皇からの伝令役を担当する腹心の司祭である。彼は荘厳な装飾の施された「書簡筒」をヒューゴに提示しつつ、その旨を告げる。

「間も無く、ヴァンベルグのハルペルにて本年の聖誕祭が開催される予定だが、知っての通り、現在、教皇猊下は体調が思わしくない。そこで、猊下の代わりにこの書状を現地に届けて、そのお言葉を読み上げるという栄誉を、貴殿に託す」

 現在の教皇ハウルは数ヶ月前から病床にあると言われており、表には出てくることは少ない。もっとも、その具体的な病状については明らかにされていないため、一部では死亡説も流れている一方で、実は病気ではなく別の理由で表舞台に出られないのではないか、と勘ぐる者もいる。
 だが、ヒューゴにとってはそのような「雑音」はどうでも良かった。彼はその言葉と共に差し出された筒を、むんずと掴み取る。

「我が主からの命とあれば、断る謂れはない。喜んで引き受けよう」

 繊細な装飾が施された謁見の間に似合わぬ野太い声が響き渡る。

「貴殿の声であれば、よく響くだろうからな。その意味でも適任だろう。もっとも、今回の開催地は幻想詩連合の土地だ。ノルド出身の貴殿としては、多少居心地は悪いかもしれんが、貴殿はもう既に神に直接使える身。人と人の争いなど、気にする必要はない」
「まぁ、気にするような奴がいたら、黙らせるだけどな」

 握りしめた拳を見せつけながら、ヒューゴは笑顔でそう語る。彼は今でも自分の本分は「武人」であると認識しているが、少なくとも彼がこの地に就任して以来、教皇庁に武力で攻め込もうとする勢力は一切存在せず、その力を持て余している。もっとも、それは彼のような実力者達を擁しているからこそ保たれている平和でもあり、彼の存在価値は本人が思っているよりも大きい。
 そんな彼が謁見の間から出てくると同時に、一人の少女(下図)が彼の前に現れた。


「ヒューゴ、用事は何だったの?」

 彼女の名はロヴィーサ。ヒューゴの兄フレドリクの四女であり、ノルド候エーリクの姪でもある。頭上に乗せた蛙(名前はマヨリカ)を聖印の力で巨大化して乗騎とする特殊能力の持ち主であり、「蛙姫」の異名を持つ。といっても、まだ11歳の子供であり、戦場での武勲などある筈もない。
 彼女は「娘達には幅広い教養を身につけさせたい」という母クリスティーナ(海洋王エーリクの姉)の方針により、イスメイアの教皇庁に留学させられており、叔父のヒューゴが教育係を務めている(彼女の両親にしてみれば、ヒューゴ達が「ノルドからの留学生」としての前例を作っていたからこその留学だったとも言える)。
 だが、ロヴィーサは、11歳にして自身の聖印の力で特殊な乗騎を作り出すほどの才覚の持ち主であるものの(なお、同様の能力は彼女の三人の姉達と母親にも共通しており、そこには遺伝的な要因もあるのかもしれない)、勉学は苦手で、いつも司祭達の講義を抜け出して、自身の好奇心の赴くままに各地で遊びまわっている。そして、武勇一辺倒のヒューゴにまともな「教育係」が務まる筈もなく、むしろ明朗快活に飛び回る彼女のことを好意的に見守っていた。

「あぁ、ちょっとこれからヴァンベルグ……、だったかな? そんなような国の、ハルペルという町まで行ってくる」
「ハルペルって、どんなとこ?」
「港町、らしい。まぁ、ノルドの港に比べたら、大したことはないだろうがな。とりあえず、お前はエリンと一緒にゆっくり留守番してろ」

 エリンとはヒューゴの3歳下の妹であり、彼女もまた個人的な事情でこの地に留学することになった身である。ヒューゴとは正反対の、落ち着いた雰囲気の理知的な女性であり、子供好きな性格でもあるため、本来ならば彼女の方がロヴィーサの教育係としては適任な筈だったのだが、優秀であるが故に既に教皇庁内でも重職を任されて多忙を極めているため、彼女の負担を増やしすぎないよう、日頃はヒューゴがロヴィーサの面倒を看ることになっていた。

「えー、でも、もうここの教皇庁も飽きてきちゃったしぃ……。ハルペルで、何があるの?」
「聖誕祭という、なんかよく知らんが偉い人が生まれたのを祝う祭があるらしい」
「え? お祭? お祭?」

 途端にロヴィーサの目が輝き始める。

「祭りらしいな」

 そう言いながら、ヒューゴは謁見の間に来る前に預けた自身の武具を受け取るために、大聖堂の隣に設置された倉庫へと向かうため、すたすたと歩き出すが、その後ろをロヴィーサがピョンコピョンコと跳ねながらついて来る。

「じゃあ、わたしも一緒に行く! 絶対行く!」

 キラキラした瞳でヒューゴを見つめる。

「そうか、ついて来るのか、うーん……」

 ヒューゴは3秒ほど考える。

「家に書き置きだけは残しとけよ。そんで、とっとと準備しとけ。すぐに出るぞ」
「大丈夫だよ。わたし、この子さえいればどうにかなるから」

 そう言って彼女は頭の上の蛙を指差す。

「そうか。じゃあ、このまま行くか」

 ヒューゴはそう言いながら、彼女と共に倉庫へ赴き、預けていた武具を受け取る。その中には、やや年代物の兜があった。元はリンドマン家の祖先がブレトランドに遠征した時に戦利品として奪ってきた代物らしいが、どういう由来の武具なのかは分からない。ただ、かなり精巧かつ頑丈に造られた名品であることは、日頃から愛用しているヒューゴが一番良く知っている。
 そして、彼等はその日のうちに海路でハルペルに向かうことになった。なお、ロヴィーサからエリンへの書き置きには、行き先も目的も同行者名も書かずに、ただ一言「行ってきます」とだけ記されていたという。

2.1. 前日祭の朝

 それから数日が経過し、レオン生誕祭の「一日目(前日祭)」の朝を迎える。アーノルドが気を引き締めて警備の任務のために館を出ようとしていた時、使用人が血相を変えて彼の前に走り込んできた。

「すみません、ゴーバン様を見ませんでしたか?」
「今は、剣の修行をしている時間では?」
「それが、どこにもいらっしゃらなくて……」
「あいつめ、またやりやがったか。この忙しい時に……」

 ゴーバンが勝手に館を抜け出して街に遊びに出かけるのは「いつものこと」であり、いつも無事に帰って来ているので、そこまで目くじらを立てるほどのことでもないとアーノルドは考えている。今回も、おそらくは祭の見物のために抜け出したのだろう。特に仕事をさせようと思っていた訳でもないので、祭で羽を伸ばしたいならそれでも構わないのだが、問題は、今回の聖誕祭の裏で何か不穏の動きが展開されている可能性がある、ということである。

「クレア様からの預かり人だ。万一のことがあってはいけない。行動は自由にさせてもいいが、居場所は把握しておかなければならないだろう」

 そう言って、アーノルドは部下の兵士に「ゴーバンを見つけ次第、自分に連絡するように」と伝える。その上で、彼は使い慣れた「伝家の籠手」を装着し、愛用の複合弓を背負いつつ、教皇庁からの使者を乗せた船が到着する予定の港へと向かった。

 ******

 その頃、ウルスラとラーヤの親娘は、助けた村の住人達と一緒に、馬車で現地へと向かいつつあった。そんな中、ウルスラは街道から少し離れた森林地帯のあたりから「混沌」の気配を感じ取る。これまで十年以上も混沌浄化の旅を続けてきた彼女は、混沌濃度の高まりによる空間の歪みに対して敏感になっていた。

「すみません、馬車を止めてもらえますか?」
「あ、はい。どうしました?」
「皆さんは先に街に向かって下さい。私は所用が出来ましたので」

 そう言いつつ、ウルスラはラーヤと共に馬車を降り、その気配のする方へと向かって行くが、ウルスラは重装備なこともあって、あまり足は速くない。そして、そんな彼女が近付くにつれて、彼女が感じた「混沌の気配」が徐々に彼女から遠ざかっていき、彼女が最初に異変を感じ取った場所に到着した頃には、既にその地の混沌濃度は平常化していた。

「逃したというべきか、追い払えたというべきか……。どちらにせよ、これ以上は無駄のようね」「何があったんですか? お母様」

 ウルスラが何も言わずに走り出したのに対し、ラーヤはここまで黙って付いて来ていた。

「あなたはまだ感じられなかったのかもしれないけど、混沌の気配よ」
「そうですか。じゃあやっぱり、気をつけないといけませんね」

 すっかりお祭気分だったラーヤの顔が、少し引き締まる。

「大丈夫。あなたのことは私が守るから」
「お母様はむしろ、お祭りに来て下さった全ての方々を守らなければ。私も自分の身は私が守ります」
「そういうことは、この街の領主さんにお任せするわ。私は私の優先度が高いものを守る。私の中ではあなたが一番大切だから」

 そう言われたラーヤが少し照れたような顔を浮かべると、ウルスラは笑顔で愛娘を見つめながら街道へと戻る。

「じゃあ、少し急ぎましょうか。せっかくの祭に遅れてしまうわ」

2.2. 教皇庁からの来訪者

 アーノルドが港に到着すると、ほどなくして到着したイスメイアの船から、「見覚えのある年代物の兜」を装着した大柄な男が、のっしのっしと降りてくる様子が見える。その後ろを、ぴょんこぴょんこと付いてくる少女の姿もあったが、アーノルドの位置からは、その大男の陰に隠れて殆ど見えない。アーノルドはその大男が明らかに「旧知の人物」であることを確認しつつ、ひとまずは礼式通りに丁重に出迎える。

「ヒューゴ・リンドマン殿、はるばる教皇庁からの船旅、お疲れ様でした」

 そう言われたヒューゴは、ここでようやく、今自分を出迎えている人物が旧友であることに気付く。

「ん? あぁ、アーノルドじゃないか。お前もこの町に来てたのか」
「何を言ってる? というか、知らなかったのか? 俺の実家はこの町だ」
「おぉ、そうだったのか! 全然知らなかったわ! ハッハッハ!」

 実際には、おそらく前に話したことはあったと思うのだが、ヒューゴの性格上、覚えていないのも仕方がないとアーノルドは割り切っていた。出自にこだわらないのは、それはそれでヒューゴの美徳でもある。

「まさかノルドの貴族である君が来てくれるとはな」

 これもまた、そんなヒューゴの「美徳」の賜物なのだろう。聖誕祭の開催地が「持ち回り制」になって以降、一般的に連合加盟国で開催する年は同盟諸国からの参加者は少なく、逆もまた同様である。現在は教皇直属の騎士とはいえ、いずれこのヴァンベルグに攻め込む可能性もあるノルドの海洋王エーリクの縁者が「教皇の使者」としてこの地を訪れるというのは、誰がどう見ても異例の人事である。

「誰も手が空いてなかったようでな。俺もこういう、あんまり楽しくもない任務は受けたくないんだが」

 「教皇の代理人」としての大役を「楽しくもない」と言い切ってしまうあたり、やはりヒューゴの肝の座り方は尋常ではない。おそらくはその度胸の良さもまた、彼がこの任務に選ばれた要因の一つなのだろう。

「教皇庁務めも大変だな。とりあえず、身分証と書状は確認させてくれ」

 そう言いながら、アーノルドは念入りにそれらが「本物」であることを確認する。本来なら、旧友に対してこのような措置は取りたくはないが、「クレア・ウィンスローからの手紙」の問題もある以上、どうしても慎重にならざるを得ない。

「お前は昔から堅物だもんな」

 仕事熱心なアーノルドに対して、皮肉とも同情とも取れるような口調でヒューゴは呟く。

「これでも、少しは柔らかくなったつもりだがね」

 アーノルドがそう答えたところで、ヒューゴの後ろから「頭上に蛙を乗せた少女」が、ひょっこりと顔を出した。

「なに? ヒューゴ、知り合いなの?」
「昔馴染みだ」

 ヒューゴがそう答えると、この二人の様子から「おそらくこの少女はヒューゴの縁者だろう」と推測したアーノルドは、ひとまず端的に自己紹介する。

「今はここの領主を務めている、アーノルド・ハルペルだ」
「そう。わたしはロヴィーサ、この子はマヨリカ。よろしくね」

 頭上の蛙を指差しながらロヴィーサはそう言いつつ、そのままアーノルドに問いかける。

「ねぇ、ここで一番美味しいものって、どこで売ってる?」

 これに対して、アーノルドは少し考える。今日は世界各地から露天商が集まって来ており、様々な料理人達が店を構えてはいるが、さすがに各店の味についてまでは確認していない。ここは素直に「自分の街の名産品」を進めておくのが妥当であろう。もし彼女がヒューゴの親族なのだとしたら、海産物を主体とするこの街の食文化とも相性は良さそうである。

「そうだな……、ノルド産には及ばないかもしれないが、魚料理の店なら案内させようか?」
「じゃあ、 ニシンの塩漬け ある?」
「いや、それはちょっと……」

 「ノルド産のニシンの塩漬け」は、極めて独特の匂いを放つ発酵食材であり、現地の人々以外が口にすることは滅多にない。

「なんだ、あんな旨いものを置いてないのか」
「ここ最近、食べてないんだよね」

 ヒューゴとロヴィーサはそう言うが、その感性はノルド人以外にはあまり理解されない(なお、ノルド人の中でも南部の人々の舌には合わないという説もある)。

「すまんな。あれは輸入しようとしても色々と問題があって……。とりあえず、私は巡回任務があるから、露店街までは部下に案内させよう」

 アーノルドがそう言って、兵士の一人をロヴィーサに紹介すると、彼女について行くかと思われたヒューゴは、アーノルドに向かってこう言った。

「では、俺はお前の巡回任務に同行しよう」
「おや? 教皇の代理人様に、そんなことをさせてもいいのか?」
「まぁ、どうせ『コレ』についての打ち合わせも必要だしな」

 そう言いながら、ヒューゴは教皇からの書状が入った書簡筒を見せる。ロヴィーサに関しては、放っておいても大丈夫だと考えたらしい。

「なるほど。では、ひとまず侯爵様の元へ御案内させてもらうことにしよう」

 そう言って、アーノルドとヒューゴはロヴィーサと別れて街の中心部へと向かう。もし、彼女が「海洋王エーリクの姪」だということをアーノルドが知っていれば、部下の兵士には祭が終わるまで彼女の護衛をそのまま命じただろうが、ヒューゴもロヴィーサ自身も何も言わなかった以上、当然、アーノルドや兵士がそこまで気付く筈もなく、ロヴィーサは露天商が立ち並ぶ大通りに着くや否や、案内役の兵士を放り出して一人で勝手に食べ歩きを始めるのであった。

2.3. 喧嘩の仲裁

 やがてウルスラとラーヤがハルペルの街に到着すると、露天商の店先で言い争いをしている子供達がウルスラの目に入る。年の頃はおそらくラーヤと同じくらいの「バンダナを巻き、キュロットを履いた少年」と「頭の上に蛙を乗せた少女」であった。

「これ、俺が先に見つけたんだぞ!」
「違うわよ! わたしの方が早かったわよ!」

 どうやら二人は屋台の前で「一品だけ残っていた珍しい果物」を取り合っているらしい。それだけならば「よくある光景」だが、果物を奪い合っている二人の動きを見ていると、明らかにそれは生身の人間の動きではなく、どうやら「ただの子供」ではないらしい。そんな二人の喧騒に、屋台主や周囲の人々が迷惑しているようだったので、ウルスラが一歩踏み込み、割って入る。

「こら、あなた達!」
「ん? なんだ、おばさん?」

 少年が軽く睨みつけながらそう言い返すと、一瞬ウルスラの表情が強張るが、そんなことで怒っていたらキリがないと割り切り、冷静に問いかける。

「何を喧嘩してるの?」
「俺がコレ買おうとしたら、こいつが横取りしようとしたんだよ!」
「違うわよ! わたしの方が先に見つけたんだから! あんたの方が先に手をつけたかもしれないけど、わたしたちノルドの民はね、普通の人の三倍の視力があるんだから、遠くからでも見えたのよ!」

 周囲の人々は「ノルド」という地名にざわつくが、彼女は気にせず二人に対して言い放つ。

「あなた達二人が喧嘩してるようなら、その果物、私が取っちゃうわよ」

 そう言って、二人が奪い合っていた果物を、ひょいとウルスラが取り上げて、空に掲げる。

「あぁ? なんだよ! 返せよ!」
「ちょっとぉ! わたしのぉ!」
「ふふん、取れるもんなら、取ってみなさい」

 ウルスラは笑顔で挑発しつつ、背を伸ばす。彼女は女性としては長身な部類であり、子供の身長では敵わない。

「くっ! 届かねぇ!」
「いけ、マヨリカ! じゃんぷ!」

 意地でも奪い取りたいと思った二人は、自身の身体能力を高めようとして手の甲に「光を帯びや何か」を発現させようとする。ウルスラの後ろから二人の様子を見ていたラーヤは、すぐにそのことに気付いた。

(あれは、聖印!?)

 ラーヤはこれまで、自分と同世代で自分以外に聖印を持つ者を見たことがない。その状況に彼女が驚愕する中、屋台の店主がおずおずと、係争中の三人に声をかけた。

「あの、お客さん方、誰でもいいから、お代を……」
「あら、あなた達、お金も払って無かったの?」
「だから、これから払うつもりだったんだよ!」

 そう言って少年は財布を取り出すためにキュロットのポケットに手を入れる。同じように少女もまた財布を探そうとするが、そんな二人をウルスラが制した。

「いいわ。じゃあ、私が払いましょう」

 そう言って、ウルスラは店主に代金を支払いつつ、懐に忍ばせていた小型ナイフを取り出し、果物を半分に割って、二人に差し出す。二人とも、やや不本意そうな顔を浮かべながらも、 素直に受け取った。

「ありがとな、おばさん」
「今日のところは、これでいいわ。次は負けないから」
「喧嘩するなとは言わないけど、ほどほどにね」

 ウルスラがそう言って二人を宥めていると、やがてその場に若い男性の声が響き渡る。

「もうすぐ中央広場で、我が劇団の公演『始祖君主レオン vs 竜王イゼルガイア 史上最大の決戦』が始まるよー!」

 どうやら彼は旅芸人集団の一員らしい。その話を聞いた(つい数秒前まで喧嘩していた)少年と少女は、目を輝かせる。

「え? なんか面白そうだな、おい、行ってみようぜ!」
「どんな話なのかな?」

 貰った果物を頬張りながら、二人は仲良く中央広場の方へと走り去って行く。なお、この二人はつい先刻出会ったばかりであり、友達でも何でもなかった筈なのだが、どちらもあまり細かいことは考えずに、好き勝手に行動する性格らしい(もっとも、少年の方はむしろ「今は難しいことを考えたくない」という心境だったが故の現実逃避、という側面もあるのだが)。
 そんな二人のテンションに終始圧倒されていたラーヤは、彼等の後ろ姿を呆然と見送りつつ、母に問いかける。

「今の子達、ただの子供じゃないですよね……。多分、二人とも、私と同じように聖印を持ってる……。私と同じくらいの歳の子で、聖印を持ってる子が私以外にいるなんて……」
「そうね。色んな所を旅したけれど、そういう経験は今まで無かったわね」

 ウルスラはそう呟く。そもそもラーヤの場合、同世代の子供と触れ合う機会自体が極端に少ないし、旅先で少し仲良くなりかけた子供がいても、すぐにウルスラと共にその地を立ち去ってしまうため、母親以外との間で、あまり深い人間関係が構築出来ていない(その点に関しては、ウルスラは少し負い目を感じていた)。
 だからこそ、ラーヤはこの地で初めて「自分と似た力を持つ少年少女」を発見したことに、内心では少なからず刺激を受けていた。

(あの子達、どこから来たんだろう? このお祭の間に、また会えるかな……?)

2.4. 竜王の代役

 その頃、ヒューゴはアーノルドに連れられて、今年の聖誕祭の総責任者であるヴァンベルグ侯爵アントニア・フラメルの元へと挨拶に向かおうとしていたが、そんな中、道端でヒューゴに見知らぬ男性が声をかけてきた。

「あんた! そのお偉いさんの護衛の人か何かかい?」

 見たところ、その男性はただの一般人のようである。アーノルドが(警備のために武装しているとはいえ)この地の領主として「相応の装束」を見にまとっているのに対して、ヒューゴは露骨に武骨な重装備である上に、体格的にもヒューゴの方が一回り大きいため、そう見えてもおかしくはないだろう。

「そういうお前は何者だ?」

 凄みのある態度でヒューゴがそう問い返すと、その男は少し怯えながら答える。

「俺は今、ここに来てる劇団の者なんだが、実はちょっと『巨大着ぐるみ』に入る予定だった奴が来れなくなっちゃって、代役を探してるんだ。これがあんたくらいの体格の人でないと動かせないくらい、馬鹿でっかい代物でさ……」

 ヒューゴほどの体格の持ち主となると、確かにそうはいないだろう。しかも、その大きさの着ぐるみを動かすには、ただ背が高いだけでなく、相当な膂力が必要となる。機械技術が未発達のこの世界において、魔法や投影体の力に頼らずに「巨大生物」を表現するのは難しいようだ。

「とりあえず、怪物の役だから、別に台詞とかはないんだ。適当に暴れて、適当なところで倒れてくれればいいだけの役なんだが、どうだろう? やってもらえないだろうか?」

 これに対して、ヒューゴはひとまずアーノルドに視線を向ける。ヒューゴが「教皇の書状の読み上げ」を担当するのは明日であり、アントニアへの事前挨拶にしたところで、別に急がなければならない状態ではない。
 とはいえ、アーノルドとしては、まずこの男に対して言わなければならないことがある。

「領主であるこの私の護衛を引き抜こうとは、なかなかいい度胸をしているな」

 実際には「護衛」ではないのだが、どちらにしても勝手に話を進められるのは問題であった。

「りょ、領主様でしたか……、これは失礼しました! し、しかし、もう人が沢山集まってるんです。今更中止には出来ません! どうか、何卒……」
「いや、まぁ、祭だからな。多少の無礼講は問題ない」

 むしろ問題なのは、わざわざイスメイアから書状を届けに来てくれた「教皇の代理人」にそんなことをやらせて良いのか、ということである。これがヒューゴでなければ、アーノルドは即座に却下していただろうが、彼は旧友の気性を理解した上で、ひとまずその意思を確認する。

「で、お前、やってみる気はあるのか?」
「まぁ、年に一度のお祭りだからな。やってみようか」

 予想通りの反応である。少なくとも、おとなしく来客用の高級宿で休養するよりは、自分の力を誰かに役立たせる方を選ぶであろうことは推察出来た。

「お前も見て行くか?」
「いや、俺はこれからやることが色々あるからな。一応、何かあった時のために伝令は一人残しておこう」

 アーノルドがそう言うと、劇団員の男は深々と頭を下げて感謝の意を示しつつ、ヒューゴを中央広場裏に設置された天幕の奥へと連れて行く。そこで彼を待っていたのは、コートウェルズの支配者である「竜王イゼルガイア」の巨大着ぐるみであった。
 ヒューゴはひとまず兜や鎧を脱いだ上で、その男に言われた通りにその着ぐるみを被り、そして動き方を指導される。日頃から重装備を着込んでいる彼でも動きにくいと感じさせるほどの重量感であり、おそらく普通の人間では歩くことすらままならないだろう。

「で、対戦相手はこの人です。この人が『始祖君主レオン』の役なので、出番になったら舞台に出て、この人を相手に適当に暴れて、盛り上がってきたところで倒れて下さい」

 短時間で綿密な殺陣の打ち合わせをする時間はないと判断した彼等は、ひとまずその程度で良いと考えたらしい。

「うむ、分かった。適当に暴れて、盛り上がってきたら倒れればいいんだな」

 ******

 こうして、どうにか準備を整えた上で「始祖君主レオン vs 竜王イゼルガイア 史上最大の決戦」の幕が上がった。一般的な伝承としては、レオンには「魔法師ミケイロ」や「妖精女王テイタニア」などの仲間がいたと言われているが、聖印教会が発行する聖典においては、ミケイロは「レオンを裏切った悪人」として描かれ、テイタニアは「レオンに助けられた人間の姫君」であるとされている(どちらの伝承が正しいのかは、今となっては確かめようがない)。
 そして、この寸劇はあくまでも「大衆向けの娯楽劇」なので、ただひたすらにレオンの強さと偉大さを伝えるための単純明快な英雄活劇(ヒーローショー)として仕立てられていた。レオンがコートウェルズの民を救うために島を訪れ、次々と襲い来る竜王の眷族(蛇人)達を倒し、そして「竜の巣」の奥地にまで辿り着いたところで、ヒューゴに声がかかる。

「じゃあ、お願いします」

 そう言われたヒューゴは、全速力で舞台に飛び込み、そのままレオン役の劇団員に向かって、本気で殴りかかった。初めて身にまとった装備だったこともあり、全力を出さなければ竜王の凶暴さは表現出来ないと考えたようだが、レオン役の男は、まさか素人にここまでの動きが出来るとは思っていなかったようで、その「イゼルガイア」の一撃をまともに受けて舞台の外にまで吹き飛ばされ、柱に激突して倒れ込んでしまう。

「頑張れ! レオン!」
「立ち上がれ!」

 観客達が声援を送る中、「レオン」は必死で舞台に戻ろうとするが、打ち所が悪かったのか、なかなか起き上がれない。
 そんな中、興奮した様子の「バンダナとキュロットを見にまとった少年」が、観客席から舞台に飛び込んで来た。

「よし! じゃあ、今度は俺が相手だ!」

 彼はそう言いながら聖印を掲げ、その聖印から「光の大剣」を作り出して、「イゼルガイア」に襲いかかる。

(お、おい、あれ、ガチの聖印じゃないのか!?)
(まずい、あれを食らったら、さすがにタダでは済まんぞ)

 舞台袖で劇団員達が焦燥の表情を浮かべるが、「イゼルガイア」は(相当な重装備で身体の自由が封じられていたにもかかわらず)神がかり的な動きでその一撃をかわす。

「こいつ、速い!」

 少年がその動きに驚愕する中、今度は「頭に蛙を乗せた少女」が舞台上に乱入する。

「今度は私が相手よ!」

 彼女はそう言うと同時に舞台上で頭上の蛙を巨大化させ、その蛙に飛び乗った上で高く跳び上がり、上空から角度をつけて「イゼルガイア」に向かって突撃すると、今度は「イゼルガイア」も避けきれずに直撃し、少しよろめく。
 そして、皆の視線がそんな子供達に集中している間に、影で密かに治療を受けていた「レオン」が起き上がり、再び舞台に舞い戻る。

「ありがとう、子供達! 君達の勇気、見せてもらった! あとは任せろ!」

 彼はそう言うと「イゼルガイア」に斬り掛かり、そして「イゼルガイア」は今度こそ素直に倒れる。観客からは拍手喝采が巻き起こり、こうして無事に公演は閉幕するのであった。

2.5. 小大陸の聖者達

 一方、ウルスラとラーヤは、先刻での一件の後も、露天商の中に立ち並ぶ果物や水飴などの甘味系の屋台を回っていた。

「ラーヤ、何が食べたい?」
「じゃあ……、この焼き菓子を……」
「店員さん、それを二つ」

 一見すると、娘のためにお菓子を買い与えている優しそうな母親の図だが(それはそれで間違いではなのだが)、実はウルスラ自身も相当な甘党であった。ウルスラは受け取った焼き菓子を娘に一つ手渡し、一緒にその味を堪能する。

「お、美味しい……」

 初めて食べる独特の風味に、ラーヤは思わず感動する。若い頃から各地の焼き菓子を食べ歩いてきたウルスラにとっても、これはなかなかの上物であった。

「美味しいわね。さぁ、ラーヤ、次は何がいい?」

 あっさりとたいらげた上で、次の屋台を探す。

「じゃあ、あそこの果物を……」

 親娘でそんな食べ歩きをしばらく繰り返していたところで、後ろからウルスラに声をかける男性が現れる。

「ウルスラ殿、ではありませんか?」

 買ったばかりの果物を頬張りながらウルスラが振り向くと、そこにいたのは眉目秀麗な一人の聖騎士であった(下図)。


 彼の名はファルク・カーリン。ブレトランド南部を支配するヴァレフール伯爵領を支える七男爵の一人であり、眉目秀麗にして文武両道の「理想的な騎士」として名高く、同国における聖印教会派(特に女性)にとっての精神的支柱と言われている。
 彼の本拠地であるイェッタは、ウルスラの故郷のフォーカスライトの隣に位置しており、ウルスラとは歳が近いこともあって、子供の頃から仲の良い幼馴染の一人である(親同士の間では密かに縁談が持ち上がったこともある)。ウルスラと会うのは十数年ぶりだが、それでも一眼見れば分かる程度には、昔の面影を残していた。
 突然の再会に驚いたウルスラは、慌てて果物を飲み込もうとして、喉に詰まらせる。

「し、失礼しました」

 なんとか呼吸を整えた彼女がそう言うと、ファルクはどこか安心した笑顔を見せる。

「いえいえ。やっぱり、ウルスラ殿ですよね? 実家を出てからもう十数年も帰っていないとロンギヌス殿から聞きましたが……」
「単に、見聞を広めるために各地を放浪しているだけです」
「そうですか。この街に来ているということは、あなたは信仰を捨てた訳ではなかったのですね?」
「どうでしょうか? もう昔ほど熱心ではありませんけれど」

 もともと、ウルスラは混沌にはあまり良い印象は持っていなかったが、最近は「力そのものには善悪はなく、聖印も魔法も邪紋も、それが善か悪かは使う人の方の問題」という認識へと転じつつある。そのような意識の変化は、人によっては確かに「宗教的熱意の喪失」と解釈されることもあるだろう。

「信仰の形は人それぞれで良いと私は考えています。今のあなたの中で信じるものがあれば、それが信仰なのでしょう」

 ファルクは笑顔でそう語る。彼自身も聖印教会の中では穏健派と言われており、魔法師や邪紋使いに対して特に敵愾心を抱いてはいない。実家の家風をある程度引き継がざるを得ないが故に契約魔法師などは雇ってはいないが、同僚の騎士達に仕える契約魔法師や、実家と袂を分かって隣国に亡命した邪紋使いの妹などとの間では良好な関係を築いている。
 そんな会話を交わす二人の横で、ラーヤはポーっとした表情でファルクに見惚れていた。

「ラーヤ、こちらは、ファルク・カーリン様よ」
「あ……、は、は、は、はじめまして! ウルスラの娘、ラーヤと申します」

 頰を赤らめつつ、ラーヤは深々と頭を下げる。

「あぁ、もうご結婚なされていたんですね」
「いいえ、私は未だ独り身よ」

 ウルスラがそう答えると、余計なことを言ってしまったと察したファルクは、やや気まずい表情を浮かべる。

「もしかして、この子の父親のことが気になってるの?」
「あ、いえ、それは、人それぞれ色々ありますから、詮索するつもりはありません」
「相変わらず紳士なのね。面白くないけど」

 もともとウルスラの方が年上ということもあり、いつの間にか彼女の口調は敬語ではなくなっていた。日頃は「流浪の聖騎士」として、旅先で出会う人々には一定の礼節をわきまえた態度で接している彼女であるが、久しぶりに再会した幼馴染を前にして、どこか「素」の部分が見え隠れしている。
 そんな中、また別の青年が彼女達の前に現れた(下図)。


「ファルク殿、お知り合いですか?」

 その青年の名はエルリック・エージュ。聖印教会内において「投影体の有効活用」を公的に認める集団である「月光修道会」が設立した「神聖学術院」の聖徒会長を務めている人物である。神聖学術院はアントリア中北部のバランシェの街に存在するが、エルリック自身はヴァレフール北西部のソーナーの村の出身であり、同村の現領主ダンク・エージュの異母弟にあたる。粗暴で知られる兄とは対称的な穏健かつ理知的な性格であり、軍師としての才覚には定評があった。
 ソーナーの村はファルクの本拠地のイェッタとも近いため、エルリックはファルクとも親しい関係にあったようである。そんなエルリックに対して、ファルクは丁寧に幼馴染を紹介する。

「こちらはフォーカスライト大司教の姉君にあたられる方です」
「ほう、ロンギヌス様に姉君がおられたのですか」

 エルリックはウルスラとは10歳以上離れていたこともあり、彼が物心ついた頃には既に彼女は教皇庁に留学中だったため、存在自体を知らなかったらしい。

「えぇ、まぁ、一応。家を出た身ではありますけど」

 ウルスラとしては、もう「グレイ」の姓も名乗っていないので、あまり実家との関係を強調されるのは望ましくなかったのだが、ファルクの視点からはそのような紹介になってしまうのもやむを得ないと諦めていた。

「そうでしたか。はじめまして。エルリック・エージュと申します。実家はヴァレフールのソーナーの領主家で、今はアントリアの神聖学術院で聖徒会長を務めています。そちらは娘さんですか?」
「えぇ、そうです。ラーヤ、自己紹介しなさい」

 そう促されたラーヤは、エルリックを見上げながら、またしてもやや顔を紅潮させつつ自己紹介する。

「はじめまして、ラーヤです。よろしくお願いします」
「よろしく、ラーヤさん」

 優しそうな声色でエルリックは軽く会釈しつつ、彼女の「保護者」に向かって営業スマイルで語りかける。

「今、神聖学術院では、ちょうどラーヤさんくらいの年頃の子を対象に、新たな入学者を募集しています。この社会を構成している様々な仕組みから、新たな技術を作り出す試みまで、それぞれの学部ごとに幅広く様々な学問を学べます。よろしかったら一度、体験入学してみるのはいかがでしょうか?」

 そんな彼の語り口調に対して、ウルスラはラーヤの反応を確認すると、どうやら興味深そうな顔で真剣に聞いてる様子である(もっとも、半分はエルリック個人に見とれてるような様子でもあったが)。
 だが、そんな彼の勧誘トークに対して、少し離れたところから横槍を挟む声が響き渡る。

「おやめなさい!」

 それは威厳に満ちた迫力ある女性の声であった。その声の主は頭上に聖印を輝かせながら、彼等の前に現れる(下図)。その巨大な聖印から発せられる圧倒的なオーラは、その場の空気を戦慄させるに十分な威圧感を漂わせていた。


「そのような幼子を邪(よこしま)な道に引きずりこむための場として、この神聖なる始祖君主の聖誕祭を利用するとは、看過出来ません」

 厳しい表情でそう言い放ちつつエルリックに近付こうとする彼女に対して、道行く人々は思わずたじろぎながら道を開ける。

「おい、あれ、日輪の……」
「やべー奴が来たぞ、おい!」

 周囲の人々は彼女を見ながら、小声でヒソヒソと囁き合う。彼女の名はイザベラ・サバティーニ。聖印教会の中でも特に激しく混沌を忌み嫌う「日輪宣教団」の創設者である。元来はエストレーラの辺境の村娘だったが、夫をエーラムの魔法師に殺された後、聖印に目覚めて入信し、以後、全ての混沌の利用を禁じるラディカルな主張を掲げて人望を集め、現在では次期教皇の有力候補の一人とまで言われている。しかし、その「過激な正論」に反発する者も多く、教団内でも敵は多い。
 彼女はブレトランド中西部での神聖トランガーヌ建国にも大きな役割を果たし、現在は娘婿のリーベックを後継者として育成しつつ、大陸とブレトランドを行き来する生活を続けている。ブレトランド内においてはヴァレフールともアントリアとも敵対関係にあるが、教皇のお墨付きを得た上で築かれた国家という建前がある以上、両国の聖印教会の信徒達としては手出しがしにくい、非常に厄介な存在であった。
 当然、混沌の有効利用を認める月光修道会とは最も激しい対立関係にあり、エルリックと彼女がこの場で鉢合わせてしまったことに対してファルクは思わず身構えるが、当のエルリックは、肩をすくめながら彼女に頭を下げる。

「邪な道と言われるのは心外ですが、確かに、今ここでお話しすべきことではなかったかもしれませんね。失礼致しました」

 さすがに、この場で喧嘩はしない方が良いと判断したようで、ひとまず彼は空気を読んでその場を去って行く。イザベラはそんな彼を厳しい視線で見送りつつ、ラーヤと目線を合わせるように腰を屈めながら、彼女に対して語りかけた。

「小さなお嬢さん、あなたの道は、あなた自身で決めるべきことです。周りの大人は色々なことを言うでしょうが、何が真実なのか、何が正しいことなのか、それはあなたの中で見定めて下さい。周りの悪い大人達の甘言に惑わされてはなりません。この世界では、単に『便利だから』という理由で、この世界を乱そうとする悪い大人も沢山いますから」

 そう言い残して、イザベラもまた立ち去って行く。ファルクもそんな彼女を見届けた後に、ウルスラとラーヤに軽く一礼した上で、ひとまずその場を後にした。緊張した空気がひと段落したところで、周囲の人々もようやく安堵の表情を浮かべる。

「あー、もう、冷や汗かいたぜ……」
「ブレトランドの揉め事を、こっちに持ち込まないでほしいよな」

 街の人々がそんな会話を交わす中、唐突に色々言われてやや混乱した様子のラーヤの様子を悟ったウルスラが声をかける。

「ラーヤ、少し休憩しましょうか」
「そうですね……。あの、一つお伺いしたいのですが、さっきの最後に来られた女の人も、ブレトランドの方なのですよね?」
「そうだった筈よ」

 厳密に言えば彼女の出自はエストレーラなのだが、そこまではウルスラも知らない。

「ブレトランドって、なんかこう、綺麗な人が多い土地柄なのかな……。そうか、だからお母様も美人なのね」
「大丈夫。きっとあなたも美人になるわ」

 そんな会話を交わしつつ、ウルスラは二人で腰掛けられそうな座席のある店を探す。もっとも、正確に言えばラーヤの父親は血統的にはブレトランド人ではないのだが、そのことを知る者はウルスラ一人であった。

2.6. 不穏な兆候

 ヒューゴと別れた後、再び巡回任務に戻ったアーノルドの前に、別の部署を担当している筈の部下の兵士が現れ、声をかける。

「あ、領主様、先程の件なのですが……」

 アーノルドは確かにその兵士の顔には見覚えがあるが、「先程」と言えるようなタイミングで彼と会った記憶はない。不信に思ったアーノルドは問いかける。

「まず、お前の所属と名前を言え」
「あ、はい、第三連隊のマタイです」

 アーノルドの記憶が間違っていなければ、その名前にも所属にも間違いはない。その物腰からも、特に不自然な様子は感じ取れなかった。その上で、彼はアーノルドに報告する。

「先程の件なのですが、あちらの区画には怪しい者はいませんでした」

 そう言って、彼は北西方面の区画を指差すが、アーノルドはそんな指示を出した覚えはない。

「もう少し詳しい話を聞かせてもらおうか。お前はその指示をいつ受けたんだったか?」
「え? ついさっき、でしたよね?」

 マタイと名乗ったその兵士はそう答えるが、この瞬間、アーノルドは事態を把握する。どうやら、「クレア・ウィンスローの手紙」にあった通り、誰かが「自分」に化けて、この町のどこかに潜伏して偽司令を出しているらしい。

「お前の所属を変更しよう」

 アーノルドはそう言った上で「自分の偽物がいるらしい」ということを(公言しないようにと言い含めた上で)マタイに告げつつ、彼がその「偽アーノルド(推定)」から聞いた話を聞き出す。
 マタイ曰く、どうやらその偽物(推定)は兵士達に「北西方面に怪しい人物がいるから調べろ」と通達しているという。しかし、アーノルドの認識の中では、そこは特に怪しい地区でもない。

(参加者の誰かに変装するかもしれないとは考えていたが……、まさかこの私自身にとは……)

 だが、街の警備の指揮系統を混乱させるためなら、確かにそれが一番有効ではある。しかも、今から探し回ったところで、既に別の人物に顔を変えている可能性がある。そうなると、特定は非常に困難であろう。

(迂闊だった……。最初にこの可能性を兵士達に伝えておけば……)

 アーノルドは後悔するが、今からでも打てる手はある。もし本当に「自分に化けた偽物」がいるとするならば、それは確かにクレアの手紙が正しかったことになるが、だからと言って「聖印を模倣出来る者もいる」という情報の信憑性が今の時点で保証された訳ではない。そう判断した彼は、ひとまず部下達に「自分を含めた君主から話を聞く時は、必ず聖印を確認するように」という連絡を回す。
 兵士達にしてみれば、各国の要人達を相手に失礼な対応を強いられることになるが、事態が事態だけにやむを得ない。この方法で確実に偽物を見破れる保証もないが、それでも、何もしないよりは遥かにマシに思えた。

(その上で、問題はその侵入者の目的が何なのか……。北西区画に兵士達の目を向けた上で、別のところで何かを起こそうとしている? それとも、純粋な内部撹乱が目的か?)

 アーノルドは必死で思考を巡らせつつ、自分自身もまた「自分自身の偽物探し」のために、ひとまず各区域を早足で巡回して回ることにした。

2.7. 翻弄する幻影

 ウルスラとラーヤが屋外席のある喫茶店で茶菓子を楽しんでいると、ウルスラの視界に、見覚えのある人物が映る。何か兵士達に指示を出していると思しきその人物は、彼女の記憶が確かならば、教皇庁時代に仲が良かった3歳年上の君主の筈である。堅物で知られる彼は、現在はこの街の領主となっていると聞いていた。
 ひとまずラーヤにはその場に残るように言った上で、ウルスラは彼に声をかける。

「アーノルド様」

 呼ばれた男は、振り返ると同時に恭しく挨拶した。

「いかが致しました、madame?」

 そのアロンヌ訛りの口調に、ウルスラはやや違和感を感じつつ、相手が自分を認識していないことを認識する。

「忘れてしまいましたか? それとも、そんなに私は昔と変わってしまいましたか?」

 これに対して、彼は一瞬間を空けた上で答える。

「いやー、申し訳ない。女性は会う度に美しくなっていく。以前にあなたと会った時の美しさとは異なる美しさを手に入れてしまったあなたのことを、今の私では判別することが出来ない」

 堅物のアーノルドをちょっとからかってやろう、くらいの気持ちでいたウルスラは面食らう。明らかに、こんな台詞をベラベラと言い出すような人物ではなかった筈である。

「そうですか。ウルスラですよ。そういうあなた様も、随分変わったようですけど」
「まぁ、男も男で変わるものです。男子三日会わざれば、とも申しますし」

 確かに、十年以上も経てば性格も雰囲気も変わるのが当然と言えば当然なのだが、それにしても変わりすぎではないか、というのが率直なウルスラの実感であった。

「あとで、ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
「まぁ、今は私は勤務中ではありますが、なんとか時間を作ってお会い出来る機会を作りましょう」

 そう言って彼がその場を離れようとしたところに、舞台出演を終えていつもの武装に着替え直したヒューゴが通りかかる(彼は、アーノルドから預けられた伝令兵にアーノルドを探すように頼み、その兵士の案内でここまで到達したのであった)。

「アーノルド、ここにいたか!」

 そう言われたその男は、一瞬の沈黙の後に答えた。

「お久しぶりです。あなたも来て頂けたのですね?」
「来て頂けたというか、さっき会っただろうが。何言ってるんだ、お前?」

 その反応に対して、「アーノルド」は明らかに焦燥した表情を浮かべる。だが、その不信な様子にヒューゴが気付く前に、ウルスラがヒューゴに語りかけた。

「もしやその声は……」
「ん?」

 ヒューゴは首を傾げる。

「ヒューゴ様も忘れてしまったのですね?」

 ウルスラが落胆して肩を落とすと、彼は途端に動揺した表情へと一変する。

「ど、ど、ど、どちら様ですか? こ、このようなお美しい方とは……」

 ヒューゴは女性に免疫がない。故に、自分が忘却したせいで女性を落胆させたことに、激しく狼狽してしまったらしい。

「ヒューゴ様はお変わりありませんね。教皇庁でお世話になったウルスラですよ。エリン様と仲良くさせて頂いた者、と言った方が覚えているかもしれませんね」

 ヒューゴの妹のエリンは、ウルスラとは同い年であったため、どちらかと言えば彼女の方がウルスラとは仲は良かった。そして、言われてようやくヒューゴは思い出す。

「おぉ、あのウルスラか!」
「えぇ。どうやら、忘れられやすいみたいですけど」
「忘れられやすいも何も、ひぃ、ふぅ……、もう十年以上会ってねえだろ?」
「もうそんなになりますか。アーノルド様と三人揃うなんて、本当にあの頃を思い出しますね」

 ウルスラはそう言って「アーノルド」に視線を向けるが、彼が二人を置いてどこかに行こうとしているのが目に入る。だが、そんな彼の首根をヒューゴが掴んだ。

「あぁ、そうだな。久しぶりに三人揃ったんだ。久しぶりに話でもしようぜ」
「あ、 いや、まだ勤務中ですし」
「どうせ、この後でまた例の用事があるんだ。ちょっとここに残れや」

 そう言って、強引に「アーノルド」を引きとめようとしているところに、「彼と同じ顔をした人物」が現れた。

(え!?)
(どういうことだ!?)

 当然のごとく、ウルスラもヒューゴも混乱する。だが、ウルスラはすぐに気付いた。「世の中には『混沌の力で姿を変える方法』が色々ある」ということに。

「私の名を騙る偽物め! まだその姿でいたとは、大した度胸だな!」

 「後から来た方のアーノルド」がそう言い放つと、それに対して「前からいた方のアーノルド」も言い返す。

「そっちこそ、ついに見つけたぞ、この偽物め!」

 だが、「前からいた方のアーノルド」はまだその身をヒューゴに拘束された状態のままである。ウルスラは「どちらかが偽物」であろうという推測に基づいた上で、「後から来た方のアーノルド」に近寄った。

「では、私はこちらを」

 そう言ってウルスラは「後から来た方のアーノルド」に抱き付いた。

「待て! 何だ君は!?」
「大変失礼ですが、こうするのが一番早いかと」

 そう言いながら彼女がアーノルドを羽交い締めにしようとする。どちらかが偽物なら、ひとまずどちらの身柄も拘束する必要があると考えたらしい。だが、ここで彼女を間近に感じたことで、「後から来た方のアーノルド」は彼女のことを思い出す。

「いや、待て、君はウルスラ殿、ウルスラ殿じゃないか! なぜ君がここに!?」

 その反応を見て、ウルスラは「どうやら、こちらの方が本物らしい」と考えて、ひとまず素直に手を離す。
 一方、「最初にいた方のアーノルド」は、先刻のヒューゴの状況から彼の性格を読み取った上で、自らの姿を「若く美しい金髪の女性」へと「変身」させると同時に、上目遣いで魅惑的な視線をヒューゴに向けた。突然の出来事に困惑したヒューゴが反射的に手を離してしまうと、「彼女」はそのまま走り去ろうとする。

「ヒューゴ! ……あのバカ!」

 アーノルドは慌てて「彼女」の後を追いかけると、呆然としていたヒューゴも我に返った。

「お、おぉ、俺も行くぞ!」

 ヒューゴもすぐに後を追う。一方、ウルスラは事態がよく把握出来なかった上に、(喫茶店の席でその様子をよく分からないままに眺めていた)ラーヤを置いていく訳にもいかなかったので、ひとまずその場に残ることにした。

 ******

 路地裏へと逃げようとした「彼女」に対して、先に追いついたのはヒューゴであった。最初の出足こそ遅れたが、身体能力的にはアーノルドよりも彼の方が上のようである。「彼女」を壁際に追い詰めた上で、ジワリジワリと距離を詰める。

「お兄さん……、見逃してくれる訳にはいかないかな……?」

 「彼女」は媚びるような態度でそう訴えるが、今度はヒューゴの表情も揺るがない。

「それは俺じゃなくて、領主であるアーノルドに言うことだな」

 ヒューゴはそう言いながら大斧を構える。先程は唐突な変身で面食らってしまったが、相手が「領主に化けて行動する不信人物」だと分かった以上、いかに美しい女性の姿をしていようとも、ここで容赦する訳にはいかない。
 だが、いかにヒューゴが理屈ではそう考えていても、「彼女」にはその「理屈」を超えた手段でこの場を乗り切る方法があった。「彼女」は内なる邪紋の力を発動させ、魅惑的な仕草でヒューゴの視線を引き寄せながら、少しずつ彼の心を支配していく。「幻影の邪紋使い」が持つ「変身」と並ぶもう一つの特技である「魅了」である。

「お兄さん、『あなたが探している人』はあっちにいるから、あっちに行きなさい」

 そう言って「彼女」が「さっき来た道」を指し示すと、ヒューゴは虚ろな表情を浮かべながら、その道を引き返していく。その間に「彼女」は何処かへと姿を消してしまうのであった。

2.8. 十数年来の友誼

 その後、ヒューゴは少し遅れて追いかけて来ていたアーノルドと遭遇したところで我に返るが、当然、そこから「彼女」を追い直そうとしたところで、間に合う筈がない。やむなく引き返してウルスラと合流したところで、先刻の経緯を確認した結果、やはり「あの人物」こそがこの街を混乱させようとしている侵入者であると確信する。

「はぁ、ヒューゴが女に弱いとは分かっていたが……」
「仕方ないだろ! いきなりだぞ! いきなり、さっきまでお前の顔だったのが、いきなり『綺麗なお姉さん』になってるんだぞ! びっくりするわ!」
「いや、責めている訳ではないんだ。二人とも、久しぶりに会えたというのに、すまない。警備の不行き届きだ」
「いや、こちらも、逃してしまってすまない」

 アーノルドとヒューゴがそう言って肩を落とす。さすがにこの状況になると、あの侵入者も今後はまた「別の姿」へと姿を変えた上で行動することになるだろう。そうなると、ますます特定は難しい。ひとまずアーノルドが周囲の兵士達を集めて今の状況を説明すると、この周囲の地区を仕切っている部隊長がアーノルドに進言してきた。

「敵が既に街の中に潜んでいるなら、外の警備兵の何割かを内側の捜索に回しましょうか?」
「いや、人数を増やしたところで、顔を変える相手には意味がない。お前達は当初の持ち場でそのまま任務をまっとうしてくれ。誰かから指示を受けた時は、本人確認をしっかりするように。先程の様子を見る限り、記憶まで真似出来る訳ではないらしい。あと、君主が相手であれば、聖印を見せてもらうのも良いだろう」

 ここまでの状況を踏まえた上で、ここで一番危険なのは、相手のペースに惑わされることであるとアーノルドは考えていた。今のところ「あの侵入者」以外に不審な報告は届いていないことから察するに、「あの侵入者」自身は陽動で、自分達の目を「彼(彼女)」に注目させることが目的であるように思えたのである。
 その上で、彼はヒューゴとウルスラにも頭を下げた。

「申し訳ないが、お二人にも協力してほしい」

 それに対して、先刻の失態の後ろめたさもあるヒューゴは黙って頷いたのに対し、ウルスラは悪戯っぽい笑顔を浮かべながら答える。

「アーノルド様、これは『かし1』になりますわよ」

 その言葉に『貸し』と『菓子』の両方の意味が含まれていることをアーノルドは察する。

「分かった。ひとまず事件が解決したら、とびきりの珈琲と、お茶菓子を用意しよう。もちろん、そちらのお嬢さんにもだ」

 アーノルドがラーヤを見ながらそう言うと、ウルスラも彼女に語りかける。

「そういう訳だから、やらなくちゃいけないことが出来たけれど……」
「足手まといでないなら、手伝いたいです」
「街で遊ばなくてもいいの?」
「でも今は、それより大変なことが起きてるんでしょう?」

 ラーヤはまだ今の状況をよく分かってはいないが、大人達の深刻な様子から、なんとなく「緊急事態」が起きていることは察していた。
 アーノルドとしては、こんな小さな子に手伝わせるつもりはなかったのだが、ウルスラの物言いから、彼女が「ただの子供」ではないことを察する。

「彼女は、君の娘さんなのかな?」
「えぇ。正真正銘、私の娘よ」
「聖印を持っているんだね?」
「もちろん、偽物ではないわ」
「あ、いや、それを疑っている訳ではないんだ」

 アーノルドとしては、彼女が「ただの子供」かどうかを確認したかっただけなのだが、ラーヤは素直に聖印を掲げる。それが既に騎士級の聖印にまで達していることを確認したアーノルドは、改めてラーヤに向かってこう言った。

「よろしい。君のことを一人前の君主として扱わせてもらおう。どうか協力をお願いしたい」
「分かりました」

 アーノルドとラーヤは互いにに深々と頭を下げつつ、再び顔を上げたところで、アーノルドが付言する。

「とはいえ、危ないと思ったらすぐに下がるように」
「大丈夫よ、何があっても私が守るから」

 ウルスラが笑顔でそう言うと、アーノルドとヒューゴも笑みを浮かべる。

「あぁ、そうだな。ウルスラがいれば、何も心配することはないか」
「確かに」

 二人はそんな言葉を交わしつつ、ラーヤが「自分が預かっている子供」と同い年くらいであることに気付く。二人は、もし彼(彼女)がこの場にいれば、きっと同じように「自分も手伝う」と言い出していただろう、などと思いを馳せていた。

 ******

 その頃、英雄活劇への乱入を通じて「戦友」意識を高めあっていた子供達は、そのまま二人で食べ歩きを始めていた。

「いやー、やっぱり、ロブスターはブレトランド産に限るな」
「何言ってるのよ。ノルドのザリガニの方が美味しいわよ」

 そんな些細な言い争いを交わす中、二人の背後から、眼鏡をかけた長髪の男が近付いてくる。

「お二人共、まだお若いのに御立派な聖印をお持ちなのですね」
「ん? 誰だ、お前?」
「わたしたちに、何か用?」

 眼鏡の男はニヤリと笑いながら、二人に対してこう言った。

「もしよろしければ、そのお力をぜひお貸し頂きたいと考えている所存です」

2.9. 西の姫君

 その後、アーノルドはヒューゴ、ウルスラ、ラーヤの三人と共に、ひとまず街の要所を中心に、何か怪しげな事態が起きていないかと巡回を続けていたところ、一人の兵士が駆け込んで来た。

「あ、領主様!」
「何があった?」

 アーノルドがそう答えると、兵士達は「アーノルドの命令通りに」こう言った。

「まずは、聖印を見せて下さい」
「あぁ、ハルペル家の聖印、しかと見るがいい」

 そう言ってアーノルドが聖印を掲げるのを確認すると、彼にこう報告した。

「今、西門からランフォードのクレア・ウィンスロー様御一行が御到着されたようですが、御挨拶に向かわれますか?」

 それを聞いたアーノルドは、少し迷いつつ、もはやこの時点で隠し立てすべきではないと考え、その兵士に対してこう言った。

「クレア様からは『今回の聖誕祭には来られなくなった』という手紙が届いている。もしかしたら、偽物かもしれない。私も出向くが、警戒して対応するよう、皆に伝えてくれ。ただし、各自の持ち場は決して離れないように」

 実際のところ、「手紙を出したクレア」と「今来ているクレア」のどちらが偽物なのかは分からない以上、どうしても警戒は必要である。もし後者が偽物だった場合、これから西門で乱闘や追撃戦が発生する可能性もあるだろう。アーノルドはその危険性をウルスラ達三人にも伝えた上で、彼女等と共に西門へと向かうことにした。

 ******

 アーノルド達が西門に到着すると、そこではクレア・ウィンスロー(下図)の身分を門兵達が確認している作業中であった。兵士達がアーノルドの指示通りに彼女に聖印の提示を求めると、彼女は「子爵級の聖印」を掲げる。


 その状況を確認した上で、アーノルドは三人の協力者と共にクレアの前に現れた。彼の面持ちから、クレアは何かを察する。

「随分と物々しい雰囲気ですね。何かあったのでしょうか?」
「そう仰られるということは、心当たりはそちらにはない、ということでしょうか?」

 アーノルドがそう問い返すと、彼女はキョトンとした顔で更に問い返す。

「どういうことでしょうか?」

 それに対して、アーノルドは「手紙」を彼女に見せた。

「この手紙を送ったのは、あなたではない、ということでよろしいですか?」

 クレアはそれを受け取り、中身を確認する。

「はい。私ではありません。私の契約魔法師には予知能力などありませんし……」
「そうですか。大変失礼致しました。実は今、実際にこの手紙のように『何者かに化ける者』がこの街の中に潜入してしまったようなのです」

 もし、この手紙に書いてあったことが全て真実なら、今、目の間にいるクレアもまた「聖印を偽造した侵入者」の可能性はあるのだが、アーノルドはあえてその可能性は切り捨て、彼女のことを「本物のクレア」であると確信していた。聖印を偽造する方法があるとは思えないし、聖印教会の信徒として、自分自身が「本物の聖印」を見間違える筈がないという確信も彼の中にはあったのかもしれない。

「ということは、どういうことなのでしょう? その侵入者のことを啓発する意図でこの手紙を書いたのであれば、この手紙の差出人に悪意はない、ということになりますが、なぜ私の名前を騙る必要があったのか……」
「えぇ。どうにもそこが解せない」
「子爵である私からの手紙という形にしないと聞いてもらえない、と思ったかもしれませんが、それが私からの手紙ではないと分かった時点で、かえって不信感を煽ることは分かる筈……」
「仰る通りです。そのような訳で、このような物々しい出迎えになてしまったことは申し訳なく思います」
「いえ、それは致し方のないことです。私達も気をつけましょう。幸い、今この街の中には混沌の力を用いる者はいない筈です。ということは、混沌の力を用いる者がいた時点で、その者を『危険人物』として特定することは可能でしょう」
「はい、その通りです」
「では、何か御協力出来ることがあればお申し出下さい」
「ありがとうございます」

 クレアとのこのやり取りを通じて、この場にいる彼女がおそらく本物であると改めて確信したアーノルドは、ひとまず兵士達に彼女を宿まで案内させようとする。そして立ち去る直前に、クレアは一つ、重要なことを思い出した。

「そういえば、ここに来る途中で、ヴァンベルグ近辺にしては珍しく、『混沌』が収束しつつあるように思える場所がありました」
「そうなのですか!?」
「しかし、私達がそれを確かめに行こうとした時にはもう無くなっていました。自然に発生した混沌だったのか、誰かが人為的に何かを起こそうとしていたのかは分かりませんが……」

 もし自然発生だとすれば、それが途中で自然に消滅したというのは、むしろ不自然である。だとすれば、誰かが人為的に混沌災害を引き起こそうとして、それがクレア達に見つかりそうになった時点で退散した、という可能性が高そうではある。
 そして、この話を聞いたウルスラは、自分達がこの村に来る途中で見た光景を思い出す。

「そういえば、私達がこの街に来る時も混沌の気配を感じました」
「ウルスラも?」
「ごめんなさい、言い忘れていたわ」

 ただし、ウルスラ達が見たのは村の南方であり、北西部からこの地を訪れたクレア達とは明らかに方角が異なる。

「アーノルド様が気になるなら、見回りでも何でも行って来るけど?」
「そうだな……。私は今、この街の警備から手を離せない。ウルスラが行ってくれるなら、本当に助かる」
「あぁ、じゃあ、俺もそっちに付いて行くわ」

 ヒューゴも大斧を担ぎながらそう宣言すると、改めてアーノルドは二人に頭を下げる。

「再会したばかりなのに、こんなことになってしまって本当に申し訳ないが、二人に城壁外の探索をお願いする。私はこの中で、まだ『奴』が残っていないかどうか確認したい」

 その上で、合流予定地として、ひとまずヒューゴ(教皇庁からの使者)用に与えられた高級宿の場所を指定する。ヒューゴはその場所を聞いた上で手元の筆記用具で書き留め、その紙片を手に持ちながら、ウルスラに問いかけた。

「お前の娘、借りていいか?」
「何する気!?」

 唐突な申し出に対して、ウルスラは思わず娘を庇うような姿勢でそう叫ぶ。

「いや、連れがいてな。とりあえず、宿舎の場所を連絡しなくちゃいけないんだ。この街のどこかにいる筈なんだが……。まぁ、見つけるのは簡単だ。頭に蛙を乗っけてるからな」

 それを言われて、ウルスラとラーヤはすぐに「果物屋にいた少女」のことを思い出す。

「あの子、あなたの連れだったの?」
「なんだ、もう会ってたのか?」
「ちょっとだけね。というか、あなた、あの子放っておいて大丈夫なの?」
「あぁ、あいつは一人でなんとかするだろう。それがノルド流だ。あ、でも、あの邪紋使いがいる状態で放っておくのもまずい気がするな……」

 ヒューゴはそう呟きつつ、ロヴィーサを探して紙片を渡してもらうようにラーヤに頼もうとしたが、彼女はウルスラと一緒について行くと言ったので、ひとまずはアーノルドの部下の兵士に捜索を依頼することにした。

3.1. 謎の魔法陣

 ヒューゴとウルスラはそれぞれアーノルドの部下から軍馬を借り、ラーヤはウルスラの軍馬に同乗した上で、まずは西門の外へと出向いて行った。
 クレアが混沌の気配を感じたと言っていた場所を中心に両騎が駆け巡っていると、やがてヒューゴは、茂みの中で怪しげな人物の姿を発見する。やはりノルド人の視力は常人よりも優れているらしい。そして彼の目には、それが「魔法師が何らかの儀式をおこなっている様子」に見えた。

「魔法師かよ……。ウルスラ、あっちだ!」

 彼がそう叫び、二騎が駆け寄って行こうとすると、彼等とその人物の間で混沌が収束し、そこに「風の障壁」が出現する。どうやら、元素魔法の使い手らしい。
 だが、ヒューゴは気にせずそのまま「風の障壁」に向かって特攻する。結果、渦巻く鋭い鎌鼬によって彼の体は切り刻まれていくが、ヒューゴの聖印は自身が窮地に陥れば陥るほど聖印としての力を増す性質であるため、風圧によって妨げられながらも、彼はジリジリとその身を強化させながら近付いて行く。
 一方、ウルスラは光の盾を作り出し、ラーヤを庇いながら突入する。彼女の聖印は防御の力に特化された聖印であり、風の壁が繰り出す烈風をもろともせず弾き飛ばす。そして、ラーヤは馬上で態勢を崩しながらも、自身の聖印の力でヒューゴの傷を癒していく。
 これに対し、魔法師は火炎球の魔法をウルスラに向かって解き放った。この時点で魔法師により接近していたのはヒューゴだったのだが、ウルスラの放つ聖印の異様な輝きに目を奪われ(それもまた彼女の聖印の特性の一つである)、先に彼女を標的と定めたのである。だが、守りに特化した彼女の聖印の力によって、この魔法師の火炎魔法は完全に無効化されてしまう。
 障壁が無意味である上に魔法攻撃も効かないことを理解した魔法師は、さすがに無勢を悟って、彼等に背を向けてこの場から走り去ろうとする。だが、ここでヒューゴとウルスラはこの魔法師が立ち去った場所から、奇妙な混沌の気配を感じ取った。どうやら彼はこの地に何か「仕掛け」をしたのではないかと考えたウルスラは、ラーヤと共にひとまずこの場に残り、その間にヒューゴが魔法師を追う。

「待て待て待て待て待てー!」

 しかし、結局、その魔法師を捕らえることは出来ず、見失ってしまう。何の魔法を用いたのかまではヒューゴには分からなかったが、どうやらあらかじめ、いざという時のための「脱出手段」は整えていたらしい。
 一方、その場に残ったウルスラとラーヤは、地表にうっすらと魔法陣のようなものが浮かび上がっていることに気付く。魔法師が去った後もその場に残り続けているところから察するに、何か時限式の魔法のようにも思えるが、よく見ると周囲の土が一度掘り返されたような形跡があり、この魔法陣の真下の地中に何らかの魔法装置が埋まっているようにも見える。
 もしそうだとすると、掘り返してみたいところだが、仮に掘り起こして「魔法装置」を発見したとしても、魔法の力によってこの地中に固定されているのであれば、普通の方法では取り出せないだろう。下手にそれを動かそうとすると、爆発などを誘発する可能性もある。ウルスラは聖印教会の信徒ではあるが、これまでの長い放浪期間を通じて、魔法に関しても一定の知識を有していたため、このような事態に対しては慎重な対応が必要だと考えていた。
 そんな中、やがてヒューゴが不機嫌そうな顔で戻って来る。

「逃げられた」
「……仕方ないわね」
「こういう時にアーノルドがいてくれればな……」

 アーノルドは弓(複合弓)を得意とする君主である。本来、逃げる相手に追撃するのは彼の流儀に反することなのであるが、この状況ではそれもやむを得ぬと分かってくれるだろう。

「いないことを嘆いても仕方がないわ。それより、これを見てくれる?」
「これは?」
「魔法の装置のようなものらしいんだけど……」

 ウルスラとしてはそれ以上のことは分からない。そして当然、十年以上教皇庁に務めていたヒューゴにも分かる筈がない。だが、ここで意外な人物が口を挟んだ。

「お母様、この魔法陣、お母様が持ってた『あの本』に書いてあったような……」

 ラーヤである。彼女はウルスラが旅先で手に入れていた「魔法に関する専門書」を時折開いて読み込んでいたらしい。言われたウルスラは背中の鞄を開いてその本を取り出すと、ラーヤは記憶を頼りに「この魔法陣が描かれていた頁」を開く。
 すると、そこに記されていたのは「地震を起こす魔法装置」に関する情報であった。どうやらそれは、いくつかの同じ装置を同時に起動させることで「その装置に囲まれた地域」で地震を発動する仕組みとなっているらしい。もともと干拓によって成り立っていた低地帯のハルペルでこれを発動させれば、おそらく街全体が海に沈むことになるだろう。
 こんな小さな子供がこの魔法装置の正体を見抜けたことに感動したヒューゴは、思わずラーヤの頭を激しく撫で回す。

「さすがウルスラの娘だなぁ。すっげぇ教育してるんだな」
「え、えぇ、まぁ、ね……」

 正直なところ、ウルスラとしてはラーヤにここまで教えた記憶はない。まさか自分が持っている専門書を、自分よりも娘の方が熟読しているとは考えてもいなかった。
 更に詳しく読み進めてみたところ、やはりこの装置は地中に設置される仕様であり、一度設置すると魔法師以外ではその場から動かすことは出来ないが、外的衝撃を与えれば壊すことも可能であり、特に誘爆の危険性はないという。とはいえ、どこまで深く埋め込まれているかが分からないため、掘り起こすのにどれだけの時間がかかるのかは分からない。
 とりあえずヒューゴがこの場に残って掘り進めつつ、ウルスラはラーヤを連れてアーノルドのところに報告に行くことにした。

3.2. 東の男爵

 一方、街中の巡回に戻っていたアーノルドは、期せずしてゴーバンを発見する。より正確に言えば、彼の姿を見かけたゴーバンの方から声をかけてきた。

「なぁなぁ、アーノルド、俺、ユーミルに行っていいかな?」

 ユーミルとは、ヴァンベルグから見て北東の方角に位置するバルレア半島の南東部の小国である。聖印教会の影響力が強いことで知られてはいるが、ヴァンベルグやヴァレフールが属している幻想詩連合とは対立する大工房同盟の一角を占める国である。

「……とりあえず、言いたいことは色々あるんだが、いきなり何を言い出すんだ?」
「いやー、さっきそこで『眼鏡のあんちゃん』に勧誘されてさぁ。俺の力が必要だって言われちまったんだよ」

 得意気にそう語るゴーバンに対して、アーノルドは頭を抱える。アーノルドは、ゴーバンが言うところの「眼鏡のあんちゃん」には心当たりがあった。というよりも、ある程度国際情勢に通じた人物が今の話を聞けば、分からない筈がない。

「俺が、よく分かんない蛙女と喧嘩してたら、いきなり間に入って来てさ。なんか、俺達の聖印の力がすげーから、ユーミルに来ないかとか言われて……」

 「蛙女」と聞いて、アーノルドの脳裏に一人の少女が思い浮かんだが、そのことについて確認する前に、まず言うべきことをゴーバンに伝える。

「私はクレア様から君を預かっているんだ。本当に行きたいなら、クレア様が帰って来てから許可を取るといい。だが、それまでは許可は出せないぞ」
「うーん、そうなのかぁ……」

 ゴーバンが少し困った顔を浮かべる一方、そこから少し離れたところで「眼鏡のあんちゃん」と「頭に蛙を乗せた少女」が話をしている様子がアーノルドの視界に入る。どちらもゴーバンには見覚えのある人物であった。

(あれはヒューゴと一緒に来ていた少女……、なぜ彼女がゴーバンと一緒に?)

 アーノルドはそのことに気付くと同時に、その隣にいる「眼鏡のあんちゃん(下図)」が「予想通りの人物」であったことも確認する。


 彼の名はユージーン・ニカイド。バルレア半島の東南部に位置するユーミル男爵領の国主である。極めて熱心な信仰心の持ち主であり、唯一神の名の下に「バルレアの瞳」を攻略することを悲願としているが、その一方で、戦力不足を補うために、部下達が独自の判断で魔法師や邪紋使いなどを雇うことを黙認する程度には現実主義的な側面も併せ持つ人物でもある(なお、眼鏡をかけたその風貌から知将然とした印象が強いが、実は槍を得意とする前線指揮官らしい)。
 そんな彼に対して、「蛙の少女」ことロヴィーサは問いかける。

「で、ユーミルってどんなところ?」
「巨大な魔境と隣り合わせの小さな国です。だからこそ、あなたのような前途ある若者達の力を欲しているのですよ」

 笑顔で人材勧誘に勤しむその様子を見て、アーノルドは表向き丁寧な物腰で割って入った。

「これはこれはユージーン様、ようこそお越しいただきました」

 本来ならば、ユーミルは大工房同盟所属である以上、ヴァンベルグにとっては「敵国」なのだが、聖印教会主催の聖誕祭である以上、彼の参加を拒む理由はない。ただ、この式典を自国の戦力強化のための場として利用しようとするのであれば、看過する訳にはいかない(ノルド人と思しきロヴィーサはともかく、ゴーバンを同盟諸国に渡すのは大問題である)。彼はひとまずユージーンの意図を確かめるべく話を聞こうとしたが、それよりも先にユージーンの方から本音を語り始めた。

「さきほど、こちらの『二人の小さな勇者様』の猛々しい演武を見せて頂きましてね。このお二人は、あなたのお子様ですか?」

 先刻の劇団公演への乱入のくだりを見ていなかったアーノルドとしては、ゴーバンとロヴィーサがどのような「演武」を披露していたのかは分からないが、ひとまずこの場は率直に答える。

「いえ、『さるお方』から預かっている縁です。ですので、私の一存でゴーバンをユーミルにお送りすることは出来ませんので、ご了承下さい」
「なるほど。そういうことならば、私も無理にお願いはしません。とはいえ、子供達の未来は子供達自身の手で切り開くものですから」
「えぇ、その通りです」
「我がユーミルは有望な若者をいつでも歓迎します。ところで、さきほどから警備兵の方々が妙に物々しい様子ですが……」
「はい、お騒がせしてすみません。少々問題が発生しまして、その対処に奔走しているところです」
 アーノルドとしては、ここでユージーンにどこまで話して良いかは難しい問題である。同じ聖印教会の信徒である彼を疑うのは好ましくない発想だが、一部では「辣腕の謀将」とも噂される彼が、今回の件に裏で関わっている可能性も無いとは言えない。仮にそれが杞憂であったとしても、同盟所属の君主である彼に、どこまで内情を話しても良いかは微妙である。
 そんなアーノルドの苦悩を察したのか、ユージーンは神妙な顔で語り始める。

「立場上、私に伝えられない機密もあるでしょう。それは致し方ないことかと存じます。しかし、我らは同じ唯一神に仕える者同士、ここはお互いに隠し事をすべきではないかと思いますが……。ちなみに、私もここに来る前に少々気になったことがありましてね」

 その話を聞いたアーノルドは、少し迷いつつも、領主として答えるべき言葉で答える。

「今、この場で『同盟』や『連合』の違いなど些細なことかと私も思います。ですので、その件についてお聞きしたいのですが、まずはその前に、大変失礼かと存じますが、ユージーン様の聖印を見せて頂けないでしょうか?」

 この状況において、まず最も憂慮すべき問題はそこである。それに対してユージーンはやや怪訝そうな表情を浮かべながら、手の甲をアーノルドの前に掲げる。

「東門の検問でも出しましたが、どうぞ御確認下さい」

 そう言って出現させたのは、確かにユーミルの国主と思しき「男爵級聖印」であった。

「失礼致しました。万が一、『何者かの変装』ということがあってはなりませんので……」
「ということは、つまり、『怪しげな賊』の潜入情報が届いている、と?」
「その通りです」

 ユージーンが本物であると確信出来た以上、この件に関しては、もはや隠し立てしている場合ではないと判断したアーノルドがそう答えると、ユージーンは眼鏡の下から鋭い眼差しを彼に向けつつ、話を続ける。

「その件についても詳しい話をお伺いしたいところなのですが、まずは私は私で話すべきことをお話ししましょう。それを聞いた上で、あなたも伝えるべきことがあるならば私にお伝え頂きたい。まさか、このような幼子がいる前で、人を謀るようなことはしませんよね? 聖印を持つ者として」
「えぇ、お互いそんなことはないだろうと信じていますよ」

 キョトンとした顔のゴーバンとロヴィーサの横で、二人の君主が微妙な空気を醸し出す中、ユージーンは自分が見てきた「気になったこと」について語り始める。

「私は今回、中立国であるサンドルミアを経由して陸路で入国させて頂いたのですが、この街の近くまで来たあたりで、奇妙な魔法師風の男を見かけたのです。所属を聞こうとしたら即座に逃げようとしたので、その場で抹殺しました」

 淡々とユージーンはそう語るが、異国の地で遭遇した「魔法師」を、正体も確かめぬまま独断で殺すことは、本来ならば大問題である。しかし、彼は特に悪びれる様子もない。

「わざわざこの聖誕祭の日に現れる魔法師など、ろくな者ではありませんからね」
「えぇ。それはやむをえぬことでしょう」

 アーノルドもその判断には理解を示す。そもそもヴァンベルグでは国策として魔法師を雇っていない以上、君主も伴わずに単独行動している魔法師など、その時点で「不審人物」扱いされて当然である。もっとも、それでも異国人が独断で勝手に命を奪うことに問題がない訳ではないが、あえてアーノルドはその点については何も言わなかったため、そのままユージーンは話を続ける。

「その魔法師を倒した地には、奇妙な魔法陣が築かれていました。魔法師を倒した後もその場に残っていたため、嫌な予感がして、一応、部下の兵をその場に何人か残しています」
「なるほど……。ちなみに、その倒した魔法師の使っていた魔法の系譜は分かりますか?」
「あれはおそらく、元素魔法でしょうね」

 ユージーンは魔法師嫌いではあるが、国主として最低限の知識は持っている。彼の中ではそれは「倒すべき怪物に関する知識」と同等程度には「必要な情報」であった。

「それでは、こちらも包み隠さず話しましょう」

 アーノルドは「クレアを装った人物からの手紙があったこと」「幻影の邪紋使いと思しき者がアーノルドに化けて工作していたこと」「町の外の西方や南方でも怪しげな気配が漂っていたこと」を告げた上で、改めてユージーンに問いかける。

「まさかとは思いますが、ユージーン様が私と会ったのは今が初めてですよね?」
「え? えぇ、まぁ、そうですが」

 どうやら、ユージーンは「アーノルドの偽者」には会っていないらしい。もっとも、別の誰かに化けた状態で彼に遭遇している可能性もあるのだが。

「貴重な情報、ありがとうございました、ユージーン殿。ひとまず、その兵士の方が待機している場所に、こちらからも人を派遣させて頂きます。もし、何か気付いたことがあれば、御一報をお願いします」
「分かりました」

 そう言ってユージーンが去って行ったところで、真横で話を聞いていたゴーバンがアーノルドに問いかけた。

「よくわんないけど、この辺に悪い奴等が来てるのか?」
「そういうことだ。だから、もし何か危険なものを見つけたら、私に知らせてほしい」

 そんな二人の会話に、ロヴィーサが割って入る。

「分かった。じゃあ、何かあったらこの子を使いに出すよ。それとも、この子を大きくしてジャンプさせた方がいいかな?」

 そう言いながら、彼女は頭の上の蛙を指す。この発言から、彼女が「特殊な生き物を巨大化させて乗騎とする聖印の持ち主」であることをアーノルドは察した。

「なるほど……」

 この少女が、ヒューゴからは「一人で放っておいても大丈夫」と判断され、ユーミルの国主からは「有用な人材」として勧誘する価値があると思われるような少女であるということを、アーノルドは改めて実感する。

「で、どんな人が怪しいの?」
「姿を変えることが出来る者が潜んでいるらしい。とにかく、一人で突っ込んだりはしないように。必ず、私に知らせてくれ」

 アーノルドはそう言って二人に注意を促すが、どちらも「悪い奴等」が現れたことに対して、恐怖よりも好奇心の方が優っている様子である。このまま二人を勝手に行動させるのは危険と判断した彼は、ひとまずヒューゴが「合流場所」に指定していた彼の宿へと二人を連れて行くことにするのであった。

 ******

 その頃、町の北西部で一人「魔法陣」の下を掘り続けていたヒューゴは、やがて地中に埋められていた「硬い何か」に到達する。それは、ウルスラの持っていた専門書に書かれていた魔法装置本体の外観と極めてよく似ていた。どうやら、思っていたほど地中深くに封印されていた訳ではなかったようである。

「壊しても問題ないって言ってたよな。じゃあ……」

 本来ならば、アーノルド達がここに来るのを待ってから対処法を考えるべきなのだが、自分一人で早々に解決出来るならばその方が早いとヒューゴは考えたようである。彼は大斧を振りかぶり、その魔法装置に振り下ろす。だが、何らかの力で外壁が強化されているようで、ビクともしない。

「これは、本気を出さないと無理のようだな」

 彼はそう呟くと、改めて聖印を出現させ、その中に秘められた「何かを蹂躙する力」を全て大斧に注ぎ込んで、本気の一撃を叩き込んだ。
 すると、装置を覆っていた魔法の力と思しき障壁が破壊され、そのまま中の装置に大斧の刃が直撃する。次の瞬間、魔法装置は完全に粉砕された。

「なかなか骨が折れたな。これがあといくつあるのか……」

 とはいえ、当初の予定よりも早く事件の一端を(力付くで)解決した(と解釈した)ヒューゴは、ひとまずそのままハルペルへと帰還するのであった。

3.3. 合流と再会

 その間に、ウルスラとラーヤは先にハルペルへ帰還して、ヒューゴの宿でアーノルドとの合流を待っていたのだが、結果的にはアーノルドがゴーバンとロヴィーサを連れてこの宿に来るのとほぼ同時に、ヒューゴもまたこの宿に到着することになった。

「そっか、おばちゃん、アーノルドの知り合いだったのか」

 ウルスラと期せずして再開したゴーバンがそう呟く。ウルスラとしても、まさかこの少年の保護者がアーノルドだとは思わなかったのだが、彼との詳しい関係やゴーバンの出自については聞こうとはしなかった(同様に、他の者達も「ラーヤの父親」については誰一人詮索しようとはしなかった)。一方で、ロヴィーサがヒューゴの姪だという話もこの場で明かされ、それについてはアーノルドもウルスラも納得した表情を浮かべる。
 その上で、それぞれが得た情報を共有しつつ、今後の対策について考える。今の時点ではまだ夕刻前だが、間も無く各国の主賓級の人々を集めた宴会が、街の中心部に建てられた聖講堂にて開催される予定である。その場にヴァンベルグ侯爵アントニア・フラメルもいる筈なので、まずはアーノルドとしては彼に現在の状況を報告した上で指示を仰ぐ義務がある。
 一方、ヒューゴとウルスラはあくまでも「来客」なので、彼等には独自に行動する権利がある。取り逃がした元素魔法師や幻影の邪紋使いが今も何かを企んで暗躍していると考えると、一刻も早く動き出す必要があるように思えたヒューゴは、すっと立ち上がった。

「じゃあ、アーノルドが侯爵殿に報告に行ってる間に、東の方の装置は俺が壊しに行った方が良さそうだな。あれはかなりの強度だった。普通の武器で歯が立たんだろう」

 更に言えば、その東の装置の近辺に配置されているのは(ノルドと同じ同盟所属の)ユーミルの兵士であることを考えると、ノルド人であるヒューゴが行った方が話は円滑に進むだろう。
 その提案を聞いた上で、ウルスラもまた自分の為すべきことを考える。

「南の方も気になるけど……、そこまで硬いのなら、私では壊せるかどうか分からないわね……。それなら、私は街の中に侵入者した邪紋使いの方を探そうかしら。見つかる保証はないけど」

 ウルスラ相手であれば、少なくとも「美女による色仕掛け」は通じないという意味で、これも適任と言えよう(もっとも、別の方法で相手を誘惑する方法も心得ている可能性は高いが)。アーノルドは、あの邪紋使いはあくまでも陽動の可能性が高いと考えてはいたが、かといって放置しておく訳にもいかない以上、もともと街の警備の戦力には含まれていなかったウルスラに任せるのが(街の戦力の分散を避けるという意味でも)一番妥当な選択肢とも言える。

「じゃあ、俺もその侵入者探しを手伝うぜ! 街の中にいる『怪しい奴』を探し出して、ぶっ倒せばいいんだよな?」

 そう言ってゴーバンが手を挙げると、ロヴィーサとラーヤもそれに続く。

「わたしもやるー!」
「私も、手伝います!」

 子供達が口々にそう言い出したので、ひとまずウルスラが彼等三人と共に街の調査に出ることにした。手分けした方が見つけやすいかもしれないが、さすがにそれは危険すぎると判断したのは当然の話である。

「ゴーバン、何度も言うが、一人で突っ走るんじゃないぞ」
「わーってるよ」

 アーノルドがゴーバンにそう言い含めている横で、ヒューゴはロヴィーサをけしかける。

「ロヴィーサ、一人でイケるなら、ヤっちまえ!」
「もちろん! まぁ、一緒には行くけどね」

 そんなやりとりを端で見ながら、ラーヤは自分の中で、よく分からない新鮮な感情が芽生えつつあることを実感していた。

(この子達、どんな聖印を使うんだろう……? 私よりも強いのかな……?)

 これまで彼女は「聖印を持つ自分」のことを「普通の子供とは違う特別な存在」だと思っていた(実際、それは極めて稀有な存在ではあるのだが)。だからこそ、この「同世代の君主」との邂逅に、不思議な高揚感を抱いていたのである。人間が、他人との比較の中で初めて「自己」という存在を認識する生き物であるとするならば、まさにこの出会いこそが彼女にとって「母親の補佐役としての自分」ではなく、「一人の君主としての自分」としての意識を確立させる最初の契機でもあった。

3.4. 聖者達の苦悩

 アーノルドが聖講堂に到着した時、ヴァンベルグ侯爵アントニア・フラメルは「応接室」にてヴァレフールからの来客であるイェッタ男爵ファルク・カーリンとの会談中であった。その応接室の隣に設置された「待合室」には、ランフォード子爵クレア・ウィンスロー、ユーミル男爵ユージーン・ニカイド、神聖学術院の聖徒会長エルリック・エージュ、日輪宣教団の団長イザベラ・サバティーニといった面々が「次のアントニアとの会談の順番待ち」で待機している。
 その状況を目の当たりにしたアーノルドは、頭を下げつつ来客達に懇願する。

「申し訳ありません、皆様方。緊急の用件なのです。お待ちのところ申し訳ございませんが、先に通しては頂けませんか?」

 さすがに、そう言われてしまったら、誰もそこで異論を挟むつもりはない。まだ会談の途中であったファルクも素直に一旦隣の「待合室」へと退いた上で、応接室にはアーノルドとアントニアの二人だけが残された。

「来客を押しのけての報告ということは、相当な案件なのだろうな?」

 突然乱入してきた臣下の領主を睨みつけながら、明らかに不機嫌そうな声色でアントニアはそう言った。

「えぇ。極めて重大な緊急事態です」

 アーノルドは短くそう答えた上で、現在の状況(「侵入者」および「地震装置」の件)を説明すると、アントニアは猛々しく声を荒げる。

「なぜそれをもっと早く報告しなかった!」
「すみません、さきほど発覚したばかりなのです。緊急の対処が必要だと考え、現在、私の旧知の協力者に、東の魔法装置の破壊に向かってもらっています」

 アーノルドがそう答えたところで、隣の応接室からザワついた声が聞こえてくる。あまり声量を下げずに説明していたため、どうやら扉の外にまで声が漏れていたらしい(緊急の用件と言われれば、耳を潜めて聞こうとするのは当然の話であろう)。
 すぐに扉の向こう側からノックする音が響き、アントニアが入室を許可すると、扉の外にいた五人が神妙な表情で入って来る。

「僭越ながら、話を聞かせて頂きました」

 ファルクがそう言って頭を下げた上で、最初に意見を陳情したのはエルリックである。

「領主様、そして侯爵様、ここはまず祭を中止して、住民の方々をこの場から避難させることを優先すべきではないでしょうか? 装置の一つを壊したとはいえ、それで発動が止められた保証はない以上、ここは最悪の事態を想定して行動すべきかと」

 それに続いて、彼の「宿敵」であるイザベラも、この場は彼の意見に同調する。

「私も同感です。不本意な形ではありますが、魔法装置の正体が分からない状態で、既にその中の一つをこちらが壊しているのであれば、むしろ敵は予定を早めて動いて来る可能性もあります。早急に手を打たなければ!」

 地震装置の発動がいつになるかは分からないが、今から住民と来訪者達の避難誘導を開始すれば、翌朝までには全員を干拓地の外にある高台へと退避させることは可能である。
 だが、そんな二人に対して、ユージーンは異を唱えた。

「しかし、住民を混乱なく誘導するには相当な人手を割かなければならないでしょう。そのために人手を割くよりは、この情報は伏せたまま人々の混乱の発生を避けた上で、魔法装置の発動を止める方に全力を尽くすべきではないでしょうか?」

 今のこの状況で動かせる戦力には限りがある。その戦力を全て魔法装置と侵入者への対策に集中させる方が、事件を解決する上で得策であるかのように彼には思えたのである。
 その意見に対して、ヴァンベルグの国主にして今回の主催者でもあるアントニアは深く頷く。

「当然、今から中止などありえん。そもそも、その魔法装置なるものが本物かどうかも分からんのだろう。我々を混乱させることが奴等の目的なのだとしたら、ここで祭を中止にしてしまっては、奴等の思う壺ではないか。ここは我等君主の力を信じて、全力でその陰謀を止めるべきだ。聖印を持つ者が、魔法師などに屈してはならん!」

 アントニアはそう言い放った。本来は「幻想詩連合」と「大工房同盟」という対立関係にある両国の国主が「解決優先策」で意見を一致させる一方で、犬猿の仲である筈の 「日輪宣教団」と「月光修道会」の二人が口を揃えて彼等とは真逆の「避難優先策」を唱えるというこの構図は、一見すると奇妙な状況のようにも見えるが、それは「国を預かる者」と「民に根ざす者」の意見の対立でもあった。
 ここで弱腰の姿勢を見せれば、今後同じような形で国内各地で同じような工作を仕掛けてくる者が頻発する可能性がある。だからこそ、全力を以ってその陰謀を打ち砕かなければならないとアントニアやユージーンは考えていたが、イザベラやエルリックにしてみれば、そのような先々の懸念よりも、まず目の前の人命を確実に救うことの方が大切に思えたのである(くしくも二人共、本質的には「国と国の壁を超えて生きる人々の集団」の代表者でもあった)。
 一方、「ヴァレフール内の一地方領主」であるファルクは、両者の意見に配慮しつつ、苦悶の表情を浮かべながら私見を語る。

「これは私が判断出来る問題ではありません。私としては人々の避難を優先すべきだと思っていますが、決定権は領主様および侯爵様にあると思います」

 そして「形式的にはランフォード全土の君主ながらも、実質的にはその中の一地域のみの領主であるクレア」もまた、悩ましい顔を浮かべながら、今の自分の中のまとまらない心境をそのまま口にする。

「正直なところ、私にはどちらが良いのかは分かりませんが、私も国を背負う者として、『人が住むための土地を守ること』は大切だと思います。仮にここで人々の避難に成功したとしても、その後で『人々が暮らすべき土地』が無くなっては困ります。その意味では、やはり何としても魔法装置を止めるべきだとは思いますが……、人命が優先だという気持ちも分かります……」

 実際のところ、クレアの本音としては「人命優先」と言いたかった。だが、もしそれでこの地が沈んだ場合、生き残った人々が路頭に迷うことになるのも、彼女としては耐え難い。少なくとも、祖国の民が飢えや貧困に苦しんでいるクレアとしては、ここで無責任に「土地が無くても人は生きていける」などと言える立場ではなかったのである。
 同じ神を崇める者達が、それぞれの信念に基づいて意見を対立させる中、やがて彼等の目は、当然の如く「この街の領主」であるアーノルドへと注がれる。

「お前も、自分の土地をみすみす沈没させるという選択肢など、ありえんだろう?」

 アントニアがそう問いかけるのに対し、イザベラが激しい口調で訴える。

「あなたが大切なのは、土地なのですか? 人なのですか?」

 彼等からそんな激しい言葉を浴びせられたアーノルドは、一呼吸置いた上で、確固たる信念を込めた瞳で語り始める。

「まず、皆様にお詫びします。この事件がここまで大きくなってしまったのは、全て私の管理不行き届きの結果です。事態を収集させた後、いかなる形でも責任を取るつもりです。しかし、今、この地を預かる者として、相手がどのような手を打っているか把握出来てない以上は、相手を撃滅することは難しいと思います。ですので、今夜の催しを中止して、まず住民を避難させるための最善の手を打った上で、脅威を排除しなければならないと考えます」

 すなわち、魔法装置を止めるために手は尽くすが、それと同等以上に優先すべき問題として、住民の避難を進めなければならない、ということである。当然、これに対しては「解決優先論」のユージーンが反論する。

「しかし、住民避難に戦力を割いて魔法装置への対処が遅れることによって、結果的に住民への被害が増える可能性はありますよ。もちろん、あくまで『可能性』の話ですが。
「おっしゃる通りです」
「我々が全力を尽くせば一切の被害が無くなる可能性がある。というよりも、私と侯爵様は、ここにいる者達が全力を尽くせば被害をゼロに出来ると信じている。あなたは、自分自身を含めた『聖印を持つ我等の力』を、そこまで信じることは出来ませんか?」
「そうですね……、我々聖印教会の君主は、魔法に関する知識が絶対的に足りなかった。今回の事件に関してはそう考えています。ですので、どこまで手を打っても、疑念を完全に晴らすことは出来ないと思います」

 ある意味、それは君主としての完全な敗北宣言である。だからこそ、今後はもう二度と敗北しないための対策も必要となるという前提の上で、今はまずこの時点で、自分自身がその敗北の汚名を全て背負ってでも、この地の住民の命を守れる可能性がより高い道を選ぶべきだとアーノルドは考えていた。
 その彼の強い決意を目の当たりにしたユージーンは一歩退き、そしてアントニアに視線を向ける。アントニアは険しい表情を浮かべつつ、しばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。

「分かった。お主を今回の警備責任者に任命したのはこの私だ。今回はお主の判断を受け入れよう。その上で、この地の住民達が住むところを失ったとしても、それはお主を任命した私の責任だ。彼等の移住先についても、私がどうにかしよう」

 今年の聖誕祭の主催者として、アントニアが苦渋の表情でそう決断すると、イザベラとファルクが一歩踏み出して進言する。

「もし、住むところが足りないようであれば、いつでも我が神聖トランガーヌへお越し下さい。我が国は世界中のどんな国の人々でも受け入れることが国是ですので」
「我がヴァレフールも、同じ連合の同朋として、難民となってしまった方々を受け入れる準備はありますし、復興支援にも協力させて頂く所存です」

 そんな二人とは対照的に、難民を受け入れたくても今は自国民の食料確保だけで手一杯の状態のクレアは、俯きながら歯痒い思いに身を震わせる。一方、大工房同盟の一員であるユージーンもまた、立場上この場で手を差し伸べる訳にはいかないため、空気を読んで目をそらしつつも、侯爵の決断を受け入れる姿勢を示す。

「皆様、ありがとうございます。必ず騒動を納めてみせます」

 アーノルドはそう宣言した上で、ひとまずはこの場にいる君主達に住民への避難誘導への協力を要請する。無論、彼等はこの地の地理などには全く通じていないため、実質的にはアーノルドの部下が誘導することになるのだが、民衆達の動揺を抑えるためには、強力な聖印の持ち主である彼等の威光が必要であると考えたのである。
 その上で、アーノルド自身はウルスラやヒューゴと合流した上で侵入者や魔法装置の調査に向かおうとしたのだが、そんな彼の強い決意が、ここで一つの奇跡を引き起こすことになる。

3.5. 英雄王の武具

 避難誘導に関しての話し合いを諸侯達が始めたのを背に、アーノルドが部屋を出ようとした矢先、彼の両腕に装着された「籠手」が、突然「銀色」に輝き始めた。

「領主様、それは一体……?」

 ファルクがそう問いかけるが、当のアーノルドにとっても初めて目の当たりにした現象であり、何も答えられない。そんな中、アーノルドの脳内に、何者かの声が響き渡った。

「幾百年ぶりであろうか……。これほどまでの聖印の持ち主の手に我が辿り着いたのは……」

 アーノルドが周囲の者達を見渡したところ、誰もその声に気付いている様子はない。どうやらこれは自分だけに届いている声だと察したアーノルドは、そのまま心の中でその「謎の声」に対して問いかける。

「一体、あなたは……?」
「我が名はコンドール。英雄王エルムンドの『五つの銀甲』と呼ばれた武具の一つ。我は武具でありながらエルムンド様の聖印によって、聖印としての命を与えられた存在」

 唐突に訳の分からない話を聞かされて、アーノルドは混乱する。彼は幼少期をブレトランドで過ごしていたため、当然「英雄王エルムンド」の存在は知っている。だが、「五つの銀甲」と言われても、それが何を意味しているのか、今ひとつよく分からない(もっとも、その意味を正確に知っている者は、ブレトランド人の中にも殆どいないのであるが)。

「言うなれば、我は『英雄王エルムンド様の従属聖印そのもの』のような存在。だが、エルムンド様亡き後、我が主となるべき聖印の持ち主に長らく出会えずにいた……。お主は、自分の全てを捨ててでも民を救いたいと考えている。ならば、お主は『我が力』を預けるに値する君主と言えよう」
「我が力とは一体……?」

 アーノルドが心の中でそんな会話を繰り広げている中、傍目にはずっと黙っているように見る彼に対して、改めてファルクが問いかける。

「どうしました? 領主様?」
「……この籠手に封じられている何かが、私に話しかけているようなのです」

 未だによく分からない状態のままアーノルドが答えると、イザベラは鋭い瞳で問い質す。

「まさかとは思いますが……、それは『オルガノン』と呼ばれる存在ですか?」

 「オルガノン」は混沌の産物である以上、もしそうだとしたら、イザベラとしてはそれをこの場で滅殺処分しなければならない。

「分かりません。しかし、私達の聖印と同じ力を感じます」

 アーノルドがそう答えると、周囲の人々も困惑する。だが、確かにこの場にいる誰もが、その籠手から放たれる輝きが「聖印」の光に近いことは実感する。
 そんな中、今度はユージーンが、眼鏡に手をかけながら問いかけた。

「そもそも、その武具はどこで手に入れたものですか?」
「我が家に代々伝わる存在です。今までは、単に『使い勝手の良い武具』としか考えていなかったのですが……」

 この場にいる者達が全員困惑する中、エルリックがこの「銀色の籠手」を見て、ふと何かを思い出したかのような表情を浮かべつつ、アーノルドに問いかける。

「領主様、あなたの一族はもともとブレトランドの貴族だったと伺っていますが、間違いはないですか?」
「はい。この籠手もブレトランド時代から伝わる物だと聞いています」

 それを確認した上で、エルリックは半信半疑の心境で語り始めた。

「ブレトランドに伝わる英雄王エルムンドの叙事詩の中に、このような一節があります。

『七つの聖印携えて
 六つの輝石の加護を受け
 五つの銀甲身に纏い
 四つの異能を従えて
 三つの令嗣に世を託し
 二つの神馬の鞍上で
 一つの宝剣振り翳し
 全ての希望を取り戻す
 かの者の名はエルムンド
 ブレトランドの英雄王』

この一節の中にある『五つの銀甲』が何を意味しているのかは長らく不明のままでしたが、もしかしたらその籠手が、その一つなのかもしれません」

 その説明は、確かにアーノルドに語りかけている「籠手と思しき声」の話と合致する。だが、果たしてそのような伝説級の武具が、なぜ自分のような中流以下の貴族家に伝わっていたのか? そしてなぜそれが今になってこのような輝きを放つようになったのか? アーノルドとしては不可解なことが多すぎる。
 アーノルドが困惑する中、先刻のアーノルドの問いかけに対して「籠手」が答えた。

「我には、混沌から人々を守るための二つの力が備わってる。一つは、混沌の存在を感知する力。そしてもう一つは、混沌と戦う聖印の加護を受けし者達に秘められた潜在能力を極限まで引き出す力だ」
「それは一体、どういう……?」
「使ってみれば分かる。少なくとも今、お主はこの街を救うために『混沌』と戦おうとしているのであろう? ならば、我がお主をその混沌の蔓延る場へと誘ってやろう」

 その言葉に対して、アーノルドは半信半疑の心境ながらも、今のところ他に手掛かりもないため、ひとまず街の住人達の避難指示は他の君主達に任せて、その籠手の導きに従って聖講堂の外へと走り出して行く。そんな彼の腕に装着された状態のまま、銀の籠手は屋外に出た瞬間に「何か」
を感じ取る。

(どうやら、我が同胞達も目覚めたようだな)

 その「心の声」はアーノルドには聞こえなかった。もっとも、仮に聞こえていたとしても、この時点ではその言葉の意味が彼に分かる筈もなかった。

 ******

 同じ頃、ウルスラは子供達と共に「侵入者」を探していたが、やはり何の手がかりもない状態で「怪しい人物」を探すというのは、かなり無理がある。先刻まで広場で公演を開いていた劇団の人々をはじめとする旅芸人の者達は「奇妙な装束」自体が(彼等にとっての)「正装」であるし、この機にレオンの姿を模した鎧や装束を身にまとうような形での「仮装」を楽しむ者もいる以上、何をもって「怪しい」と考えるかの基準が難しい。

(まずいわね……、こうしている間にも、また何かを仕掛けているかもしれない。早くなんとかしないと……。これだけ多くの人達を海の底に沈めるなんて、絶対に許してはならないわ!)

 ウルスラがそんな強い危機感と使命感を心に抱いていると、彼女は背中に背負った荷物袋から、何か「特別な力」を感じり、思わず足を止める。

「どうしたんですか、お母様?」
「ちょっと待ってね。少し、気になることが……」

 鞄を一旦下ろして、その中を調べると、日頃は使っていない「実家から預かっていた伝家の長靴」が、銀色に光っているのを発見する。

(え? なに? 今までこんなことって……)

 ウルスラはこの長靴に関しては「先祖代々伝わる由緒正しい聖なる武具」だとは聞いていたが、その正式な由来までは知らされていない。
 彼女がそれを手に取ると、彼女の心の中に何者かの声が響き渡った。

「我はエルムンド様の用いていた『五つの銀甲』の一つ、ドーディー。鞄越しとはいえ、お主の高貴なる魂は我に伝わった。お主を我が力の後継者として認めよう」

 唐突な出来事に当然のごとくウルスラは困惑する。ブレトランド貴族家出身である彼女は当然、英雄王の叙事詩に登場する「五つの銀甲」という言葉は知っているが、それはあくまでも「叙事詩の中にのみ登場する概念」であり、本当に実在するものなのかどうかすら怪しいと彼女は考えていた。だが、これまで古ぼけた年代物の武具でしかなかったこの長靴は今、確かに「銀色」に光っている。
 彼女は心の中でその声に対して問いかけた。

「どういうこと? あなたはこの靴そのものに宿った意思?」
「そうだ。我はエルムンド様の聖印によって魂を与えられた存在。そして我には『混沌を探し出す力』と『聖印の加護を受けた者の身体を守る力』が備わっている。混沌災害からこの地を守ろうとしている今のお主には、いずれも必要な力であろう?」

 そう言われても今ひとつ現実味のない話であったが、手がかりがない今の状況においては、試してみる価値はありそうに思えた。

「どうすればその力を使えるの?」
「我を身につけよ。さすれば、お主の望む時にいつでも我が力はお主が発動出来る」

 ウルスラとしては、もうこの長靴は自分では履かずに、いずれラーヤに譲るつもりであった。だが、今のラーヤの身体ではまだ足の大きさも合わないし、何よりこのような「得体の知れない力」をいきなり幼い愛娘に試させる訳にはいかない。
 ひとまずウルスラはその場に腰を下ろし、靴を履き替える。

「お母様、その長靴、そんな色でしたっけ?」
「……色々あるのよ」

 ラーヤからの問いかけに対して、ひとまず今はそう答えるしかない。一方で、ゴーバンとロヴィーサは初めてみるその長靴の輝きに目を奪われる。

「うわー、かっけー!」
「なにそれ!? きれー!」

 そんな二人の感嘆の声を聞きながら、ウルスラは「銀の長靴」を装着し、そして感覚を研ぎ澄ませる。すると、確かにここから少し離れた街の一角から「混沌」の気配が感じられた。

「みんな、賊を捕まえたいのなら、ついて来なさい!」

 そう言って彼女は走り出す。何が起きたのかも分からないまま、三人の子供達は彼女を追いかけるのであった。

 ******

 一方、東門の外に出て、街の北東部の方面へと向かっていたヒューゴは、無事にユーミルの軍服を着た兵士達を発見する。どうやら彼等もまた既に地中を掘り起こし、北西部でヒューゴが発見したのと同じ形状の「魔法装置」を見つけ出していたらしい。
 彼はユージーンから話を聞いていることを伝えた上で、背中に背負った大斧を振りかぶる。

「よし、じゃあ、やるか!」
「これ、本当に壊して大丈夫なんですか?」
「怖いなら、下がってろ」

 そう言われた兵士達が素直にその場から退散すると、ヒューゴは先刻と同じ要領で大斧を振り下ろす。

(アーノルドの街を、沈める訳にはいかねぇんだよ!)

 強い決意と共に聖印の力を込めて振り下ろしたその一撃で、魔法装置は一瞬にして粉砕される。そして次の瞬間、ヒューゴの頭上から、ヒューゴの心に謎の声が響き渡る。

「我は聖兜アーウィン。英雄王エルムンド様によって生み出されし『五つの銀甲』の一つにして……」
「な、なんだ? おい!?」

 ヒューゴは周囲を見渡すが、既にユーミルの兵士達は退散した後であり、この場には誰もいない。ただ、自分の頭上に何か違和感を感じた彼が一旦「実家から託されたブレトランド伝来の兜」を脱ぐと、それが銀色に光っていることに気付く。

「どういうことだ? お前が話しかけているのか?」
「そうだ。お主はその武を持って人々を救おうと決意した。その心意気に我が心が呼び起こされ、数百年ぶりに、エルムンド様から賜ったこの魂を目覚めさせるに至ったのだ。さぁ、『我が力』を受け取るが良い」

 銀色に輝く鎧はヒューゴの心にそう語りかけるが、生粋のノルド人である彼はそもそもエルムンドの名前すら知らず、「五つの銀甲」という言葉など知る筈もない。

「よく分かんねえけど、お前、何か特別な力を持っているのか?」
「あぁ。我が力を以ってすれば、この世に蔓延る『混沌』の気配を察知し、そして『混沌と戦うために必要な心の力』を『聖印の加護を受けし者達』に授けることが出来る」
「……やっぱり、よく分かんねえな。まぁ、いいや。とりあえず、混沌の気配が分かるなら、教えてくれ。今、俺が壊したやつと同じような装置が、この辺りにあるかどうか」
「造作もない。では、我をもう一度装着せよ」

 銀の兜に言われたヒューゴは、言われた通りにかぶり直し、そして神経を集中させる。すると、この地から南に向かった方角に、極めて強い混沌の気配を感じる。だが、それは一つだけではなく、いくつもの気配が折り重なった状態であるように思えた。

「どういうことだ?」

 ヒューゴが心の中で問い掛けると、兜は答える。

「魔法装置と思える気配が一つ。その周囲に、巨大な魔法生物の気配がいくつも感じられる。そしておそらく、それを操っている魔法師も……」

 その話を聞いたヒューゴは、判断に迷う。今の状況を考えると、少しでも早く叩き潰しておきたいところだが、いかに「一対多数」の戦いを得意とするヒューゴといえども、得体の知れない敵の集団相手にあえて一人で飛び込むのは得策とは言えない。また、もし仮に戦力的にはヒューゴ一人で十分な程度の敵であったとしても、ハルペルに来て以来二度にわたって敵に逃げられた前科があるヒューゴとしては、どちらにしても一人で解決出来る問題ではないように思えた。

「しゃーねーな。一旦街に戻るか」

 こうして彼は、ただでさえ人目を引きやすい巨漢の上に銀色に輝く兜をかぶった「この上なく目立つ姿」のまま、堂々と街へと帰還するのであった。

3.6. 侵入者の正体

 ウルスラは銀の長靴の探知能力を頼りに街の中を探索を続けていたが、そんな中、彼女は街中で「ファルク」の姿を見かける。「彼」は多くの貴婦人達に囲まれて愛想を振りまいている様子であったが、そんな「ファルク」を目の当たりにしたウルスラに対して、長靴はこう言った。

「あの男から混沌の気配を感じる」

 そう言われたウルスラは改めて「ファルク」を凝視すると、確かにその姿そのものは「ファルク本人」にしか見えないが、その物腰がどこか「先刻会った時のファルク」とは異なっているように見える。端的に言って、自分を取り巻く貴婦人達への態度や口振りなどが、どこか「軽薄」そうな印象に見えた。

「ファルク様」

 ひとまずウルスラはそう言って近付いてみる。

「おや? たしかウルスラ様でしたかな?」

 「ファルク」はそう答えるが、この反応から、ウルスラはこの長靴の推測が正しいことをほぼ確信する。

「少しお話をしたいのですが、お時間よろしいでしょうか?」

 そう言って更に近付こうとするが、それに対して彼を取り巻く女性陣が立ちはだかる。

「あなた、どなたですの?」
「抜け駆けなんて、許しませんよ」

 そんな彼女達に対して、ウルスラはあえて挑発するような口調で言い放つ。

「別にいいでしょう? 彼は私の許嫁みたいなものなのですから」

 実際、子供の頃にはそのような話が無かった訳でもないのだが、その発言を聞いて、その場にいる「ファルク」を含めた全員が驚愕の表情を浮かべる。

「え? ちょっと、どういうこと、ファルク様?」
「いえ、私は神にこの身を捧げた立場ですので、そのような……」

 そんな喧騒が巻き起こる中、後方からその様子を眺めていたラーヤもまた、ウルスラの言葉を真に受けて困惑していた。

(え? この人、私の新しいお父さんになるの?)

 嬉しいような複雑なような感情に少女が囚われていたところで、道の反対側からアーノルドが現れる。どうやら彼も「籠手」の助言に従って、この場まで辿り着いたらしい。彼は聖印を掲げつつ、その場にいいる人々に向かって叫ぶ。

「その者は、ファルク・カーリン殿ではない。真っ赤な偽物である!」

 その声に女性達は困惑しつつも、アーノルドの掲げた聖印から、彼自身が「この街の本物の領主」であることを察した女性達は、ひとまず「ファルク」から離れる。

(私の嘘が台無しじゃない。ま、いいけど)

 ひとまず「ファルク」の周囲から貴婦人達が離れたのを確認した上で、ウルスラは聖印を掲げて、「ファルク」の視線を自分に集中させる。それに対抗すべく、「ファルク」もまた幻影の邪紋の力を発動させてウルスラの視線を奪うことで、互いに周囲の状況が見えない状態に陥っていた。
 こうなると、必然的に「仲間」がいる方が優勢となる。ウルスラ以外の者達が視界から消えてしまった状態の「ファルク」に対して、アーノルドは聖印の力で炎をまとわせた矢を命中させ、その装甲を焼き落とすように削り取っていく。さすがにこの状況では逃げるしかないと判断した「ファルク」は、ウルスラを邪紋の力で自分から離れるように誘導することで、なんとかこの場から脱出を試みようとする。
 だが、ここでロヴィーサは先刻ヒューゴに言われていた教えを思い出していた。

(敵を見つけたら、まず退路を断て)

 この街に来て以来、二度に渡って敵に逃げられていたヒューゴとしては、まずそれが彼女に伝えるべき忠告であった(一人で倒せるならヤっちまえ、とは言っていたが、仲間がいる状態なら、取り囲むように戦う方が賢明であることはヒューゴにも分かっていた)。ロヴィーサは即座に蛙を巨大化させた上で、それに乗った状態で「ファルク」の反対側に回り込むことで、逃げ道を塞ぐ。
 その直後に、ゴーバンは光の大剣を作り出し、全力の一撃で斬り掛かる。

「ファルクは、お前みたいな奴じゃねぇ!」

 故郷の知人を馬鹿にされたような気分になっていたゴーバンの一撃は、深々と「ファルク」の身体に突き刺さる。彼の聖印は「投影体」や「邪紋使い」を相手にした時にこそ本領を発揮する。この一撃で「ファルク」が苦悶の表情を浮かべていることこそが、彼が「偽物」である証明でもあった。
 だが、その「ファルク」は、血反吐を吐きながらも、ニヤリと笑ってゴーバンに語りかける。

「よろしいのですか、ゴーバン様。私は『ジャック様の直参』です。私を斬れば、あなたのお爺様に害が及びますよ」

 それを聞いたゴーバンは、露骨に動揺した表情を浮かべる(この発言の意味についてはブレトランド風雲録6を参照)。

「し、しらねーし! あんなジジイがどうなろうが、お、俺の知ったことじゃ……」

 その様子を見たアーノルドは直感的に、この男にこれ以上喋らせるのはまずいと判断し、先刻の攻撃の際に「ファルク」の身体に打ち込んだ聖印の鎖で彼を縛り上げる。その激痛で「ファルク」の表情は更に歪むが、ここで「彼」はその姿を「ゴーバン」へと変身させた上で、ゴーバン自身に絡みつく。

「なっ! お前……」

 ゴーバンが困惑する中、傍目にはどちらが本物か分からない状態になってしまうが、「銀甲」を装備している状態のアーノルドとウルスラには、どちらが「混沌の産物」なのかはすぐに判別出来る。アーノルドは「籠手」の導きに従い、即座に「偽物」の方にとどめの一矢を放つ。その直後、「彼」の体を構成していた邪紋は破壊され、そのまま絶命した。
 その傍らでは、色々な意味で困惑した状態のゴーバンが、光の大剣を握ったまま、呆然と立ち尽くす。

「ゴーバン、すまないな。何か『後味の悪い思い』をさせたようで」
「いや、それはいいんだけどさ……、その、アーノルド、お前……、ウチのじっちゃんとは親戚じゃないよな?」

 唐突に奇妙なことを問われたアーノルドだが、少なくとも彼が知る限り、ゴーバンの実家との間で縁戚関係はない筈である(アーノルド自身が「ケネスの娘」との縁戚を望んでいた過去はあるが、決して内縁関係を結ぶような不義理は犯していない)。

「あぁ、特に繋がりはない筈だが?」
「そっか、それなら大丈……、あ、いや、もう別に、どうでもいい! どうでもいいんだ!」

 ゴーバンはその発言の意味を説明せぬまま、自分で自分を納得させようとする。この場にいる他の者達は誰一人として状況が理解出来なかったが、無理に彼から事情を聞き出そうとはしなかった(この顛末がもたらした影響についてはブレトランド風雲録10を参照)。
 一方、誰かが怪我をしたら治癒の聖印の力を発動させようと構えていたラーヤは、無傷でこの戦いを終えられたことに安堵しつつ、光の大剣や巨大蛙を駆使して戦う同年代の子供達の活躍に素直に感動していたが、その一方で、ゴーバンの虚ろな表情が少し気になっていた。

3.7. 大人達と子供達

 こうして、どうにか最大の難敵であった「幻影の邪紋使い」を倒した彼等であったが、話を聞き出す前に殺してしまったこともあり、結局、彼が何者で、どのような陰謀に基づいて行動していたのか、魔法師や魔法装置のことを知っているのかどうかなど、何一つ情報が分からない状態のままであった。
 そんな中、「街の北東部の魔法装置」の破壊を終えたヒューゴが合流し、互いに現在の状況を説明し合う。そしてこの時、それぞれの「伝家の武具」が銀色に輝きながら奇妙な力を発揮するようになっていたことにも気付くが、今はこの武具の正体を調べるよりも、まずは一刻も早く残りの魔法装置を破壊することに専念すべきだという考えで一致する。
 そして三人が揃って同時に「銀甲の探知能力」を行使した結果、南方に巨大な混沌の気配が集まりつつあることを察する。「一対多数の戦い」を得意とするヒューゴですら「一人では厳しい」と考えて協力を仰ぐほどの敵ではあったが、アーノルドとしては当初の予定通り、街の警備兵達は住民達の避難誘導の作業から引き剥がすべきではないと考えた上で、あくまでもこの件は自身とヒューゴとウルスラの三人だけで解決すべき、という結論に至った(今から兵を編成し直す時間も惜しい、という考えもある)。
 その上で、アーノルドはゴーバンにこう言った。

「ゴーバン、君には、住民の避難の指示を頼みたい」

 実際のところ、そのような作業にゴーバンが向いているとは思えない。だが、強大な敵との決戦に彼を連れて行くことは、どうしてもアーノルドには出来なかった。ゴーバンは薄々その配慮を察していたが、今の自分では足手まといになるであろうことも分かっていたため、内心で悔しい思いをしながらも、素直に頷く。

「分かった。それが今、俺に出来ることなら……。そっちにまた誰か敵が出て来るかもしれないしな」
「あぁ。その時は、皆を守ってやってくれ」

 そんな会話を交わす中、ここでラーヤが珍しく自分から手を挙げる。 

「私も、そっちに行きます。街の皆さんの避難誘導に協力させて下さい」

 彼女はここまでずっと母親の近くにいたが、大人達の雰囲気から、ここから先の戦場では、歴戦の君主と思しき彼等にとっても相当に危険な戦いが待ち構えていることは推察していた。ウルスラは何があっても自分を守ってくれると言ってくれているが、それでも、今のラーヤとしては母の足を引っ張るようなことはしたくない。それよりは、避難時の混乱で怪我をするかもしれない住民達の支援の方が自分には適任と考えたのだろう。
 また、それと同時に、彼女の中ではゴーバンの様子が気になっていた、という理由もある。先刻の戦いの際、彼が繰り出した光の大剣の一撃にラーヤは感動を覚えると同時に、その直後に敵の言葉を聞いて以降の彼の挙動が、どうしても不安に思えたのである。

(彼の中で何があったのかは分からないけど、誰かが彼を支えなきゃいけないような気がする。このまま放っておいたら、何か危険な道に進んでしまいそうな……)

 そんな想いをラーヤが内側に秘めていたことに気付いていたか否かは不明だが、ウルスラはその娘の宣言を素直に受け入れる。娘が自分から離れて行動することに不安が無いと言えば嘘になるが、それでも、娘が自分から「やりたいこと」や「やるべきこと」を見つけ出して動き出すのであれば、それを妨げるつもりは毛頭無い。

「頼むわね」

 ウルスラは笑顔で娘にそう耳打ちする。出来れば自分もそちらに回ってラーヤを守りたい気持ちもあるが、おそらく自分が参戦しなければ、南方に出現しつつある混沌群は浄化しきれないであろうことを、彼女は銀の長靴を通じて実感していた。
 そして、もう一人の少女もまた、少し考えた上で自らの意思を表明する。

「わたしも、ここに残って一緒に誘導するわ」
「いいのか? ロヴィーサ」
「うん。それに、この子がいれば信号弾として便利でしょ」

 ロヴィーサは頭の蛙を指差しながら、ヒューゴに対してそう答える。確かに、彼女の蛙の跳躍力を利用すれば、人々を導く上での目印にもなるだろう。また、人々の頭上を飛び越えて移動することが出来る彼女の能力は、他にも様々な局面で役に立ちそうではある。
 そしてロヴィーサもまた、出来たばかりの「喧嘩友達」が先刻の戦いの途中から元気を失っていることが気掛かりだった、という裏事情もある。

(何があったのかは知らないけど、寂しい時は誰かが近くで元気付けてあげなきゃね)

 そんな彼女なりの気遣いを知ってか知らずか、ヒューゴは姪御を素直に激励する。

「じゃあ、言ったからには結果を出せよ!」
「もちろん。ちゃんと無事に避難させるよ。生きてさえいれば、もしこの街が無くなっちゃっても、みんなノルドに連れて帰ればいいしね」

 国際関係の事情など何も理解していないロヴィーサは、笑顔でそう語る。氏族社会のノルドで大量の難民を受け入れた場合、果たして彼等にまともな市民権が与えられるかどうかは怪しいところであるが、ひとまずアーノルドとしてはその発言を聞き流しつつ、子供達三人を自身の直属の従属君主達に預けた上で、ヒューゴ、ウルスラと共に「混沌の気配」が漂う街の南方へと向かって、軍馬を走らせるのであった。

3.8. 子供達の群像

 子供達三人は、アーノルドの部下に連れられて、ひとまず他の兵士達と合流するために村の広場へと向かうことになった。その途上、ラーヤはふとゴーバンに問いかける。

「あなたは、ブレトランドの人なのですか?」
「ん? あ、あぁ。そうだぜ。アーノルドから聞いたのか?」
「そうではないですが、なんだかファルクさんと知り合いだったようですし」
「おぉ、まぁ、そうだな。知り合いっちゃあ知り合いだな」

 とはいえ、あまり自分の出自について深くは語りたくないゴーバンとしては、ここで微妙に話をそらす。

「そういや、お前のかーちゃん、『ファルクの婚約者みたいなもの』だとか言ってたけど、あれ、本当なのか?」
「分かりません。でも、もし本当に、あんな素敵な人が私の『新しいお父さん』になってくれるなら、それもいいかなって……」
「ケッ、女はみんなファルクが好きだよなぁ。まぁ、確かにカッコいいけどよぉ」

 そんな中、横で話を聞いていたロヴィーサが、デリカシーのない質問をラーヤに投げかける。

「『新しいお父さん』ってことは、『前のお父さん』はどうしたの?」
「それも分かりません。まだ生きているのかどうかも……」
「ふーん。他に家族は? 兄弟とか、いないの?」
「いません。私はずっとお母様と二人で旅してきました」
「えぇ!? たった二人で? ずっと? それって、寂しくないの?」
「私の中ではそれが普通だったので、別に……」
「ふーん、そういうものなのか。わたしには『おねーちゃん』が三人いるんだけど、最近は全然会えてなくて寂しいわ。そういえば、あんたはどうなの?」

 急に話を振られたゴーバンは、複雑な表情で答える。

「俺は、姉ちゃんが一人と、弟が一人……」

 そう言いかけたところで、ゴーバンの中で「何か」が思い出されたようで、その目に怒りの感情が宿り始めたことにロヴィーサは気付いた。

(あ、これは聞いちゃダメなやつだったかな?)

 ロヴィーサには子供ながらの無神経さはあるが、相手の反応を見た上で、聞いてはいけないことはもう二度と聞かないようにする程度の学習能力は持ち合わせている。すかさず彼女は話題を変えた。

「あんたのその光の剣ってさ、誰から作り方を習ったの?」
「別に、誰からって訳でもねーよ。俺が『カッコいい剣が欲しい』と願ったら、出てきたんだ」
「すごいじゃない! まるで絵本に出てくる英雄みたい!」

 ロヴィーサのこの言葉は、半分はゴーバンを励ます意図での「おだて文句」ではあったが、残り半分は確かに彼女の本音でもあった。聖印から剣を作り出すという姿は、子供心にカッコ良く思えるのは当然の話である。

「そ、そうか……、まぁ、その、まだまだ英雄には全然届かないんだけどさ……、でもまぁ、ありがとな」

 これまであまり同世代の子供(ましてや少女)に褒められることがなかったゴーバンは、ロヴィーサの無邪気な笑顔を目の当たりにして頬を少し赤らめる。そんな照れた自分を隠すように、彼は今度はラーヤに問いかけた。

「そういえば、お前のかーちゃんも『光の盾』を作れるよな。あれって、お前も出来るのか?」
「私には出来ません。ただ、お母様も、あの力に目覚めたのは最近だと言っていたので、もしかしたら私もいずれは作り出せるようになるのかもしれません」
「そうか。まぁ、俺の父ちゃんも、爺ちゃんも、俺とは全然違う聖印の力の使い手だったからな。結局、人それぞれなのかもしれないけど」

 ゴーバンはそう言いながら、祖父ケネスのことを思い出して再び心を乱しかけるが、今はそのことは忘れようと自分に言い聞かせる。一方、そんな二人の会話を聞いていたロヴィーサは、首を傾げながら呟いた。

「んー、でも、わたしの家族は全員、私と同じような聖印の力を使う君主だよ」
「では、皆さんがその……、蛙さんに乗っているのですか?」
「いやいや、そうじゃないんだけどね。クジラとか、フクロウとか、ウミガメとか……」

 そこまで聞いたところで、ゴーバンが割って入る。

「フクロウに乗れるってのは、ちょっとカッコいいな」

 なお、その「梟姫」が彼の故郷にとっての脅威の一人であることに、ゴーバンはまだ気付いていない(ブレトランド風雲録5参照)。

「わたしのマヨリカだって、カッコいいし、カワイイよ」
「そうかぁ? 正直、それだったら普通に馬の方が……」
「ひっどーい! せっかく、この一件が終わったら、一度くらい一緒に乗せてあげようと思ってたのに」
「別にいいよ。なんかヌメヌメしてて乗り心地悪そうだし」
「じゃあ、ラーヤちゃん、代わりに一緒に乗る?」
「え? えぇ、まぁ、その、機会があれば……」

 ラーヤは別に蛙が特別苦手という訳でもないが、特に可愛いとも格好いいとも思えない、というのが本音であった。ただ、それ以上に、同い年の子供に「ラーヤちゃん」と呼ばれたのが新鮮で、そのことへの戸惑い(と嬉しさ)の感情の方が強かった。

「やめといた方がいいぜ。そいつ、ぜってー無茶苦茶な乗り方するからな。お前みたいなトロそうな奴が乗ったら、振り落とされて怪我するぞ」

 そんな憎まれ口を叩くゴーバンであったが、その表情は少し「本来の彼」に戻りつつあるように思えた。ロヴィーサはそのことを確認しつつ、笑顔で反論する。

「いやだなぁ、わたし別にそんな乱暴な乗り方しないよ」
「お前の基準で考えるんじゃねーよ。お前みたいなガサツな女のペースに、そんなひ弱そうな奴がついていける訳ねーだろ」

 それに対し、今度はラーヤが珍しく声を荒げた。

「私は別にトロくはないし、ひ弱でもありません! これでも、今までずっとお母様と一緒に世界各地を旅して、混沌と戦ってきた身です。甘く見ないで下さい!」

 日頃の物腰は「清楚なお嬢様」のような雰囲気だが、実際のところ、君主としては彼女が一番の「現場育ち」である。だからこそ、君主としての自負心は、実は彼女が一番高かった。
 ゴーバンはそんな彼女の(母親にすら滅多に見せない)「強気な表情」に一瞬驚き、それまでなんとなく見下していた彼女から放たれる「歴戦の君主」のようなオーラにやや圧倒される。彼自身、自分の「実戦経験不足」に関しては自覚していただけに、自分よりも軟弱そうに思えていた彼女のこの発言には痛いところを突かれたような気分になり、自分の中の負けず嫌いな心が反発を始める。

「つっても、どうせ、あの強そうなかーちゃんの後ろで隠れてただけだろ?」
「確かに、いつもお母様が守ってくれてましたけど、それでも、大人の人達と一緒に、何度も混沌災害と戦ってきたんです。蛙さんに乗ることくらいのことで怖がったりはしません」

 なお、別に「乗りたい」とも言ってはいないのだが、ロヴィーサは嬉しそうな顔でラーヤに後ろから抱きつく。

「じゃあ、今度一緒に乗せてあげるね。こんな怖がってる弱虫のことなんか置いといて」
「別に怖がってねーよ! 興味ないって言ってるだけだよ!」

 そんな口論を交わしつつ、ゴーバンがいつの間にかすっかり本来の元気を取り戻したことに、ロヴィーサもラーヤも内心で安堵していた。

 ******

 やがて、子供達は警備兵達の本体と合流した上で、それぞれの聖印の力を駆使して避難民の誘導に協力する。
 ゴーバンは光の大剣を掲げて道標としつつ、列を乱して駆け出そうとする者達を威圧することで、その場の秩序を保った。
 ラーヤはすぐに動けそうにない怪我人や病人を聖印の力で癒すことで、どうにか自力で歩ける程度にまで回復させていく。
 ロヴィーサは巨大蛙に騎乗した状態で様々な建物の屋根の上を飛び移りつつ、各地の兵士達の間での連絡役を買って出た。
 彼等の活躍もあって、当初の予定よりもスムーズに来客や住民達の高台への移動は進行していく。なお、この間に魔法師や邪紋使いによる襲撃は一切発生しなかった。どうやらアーノルドの推測通り、街の中で撹乱行動を起こしていたあの邪紋使いは、ただの陽動にすぎなかったようである。

3.9. 戦場を包む光

 三つの「銀甲」に導かれながら、南方の「混沌の気配が漂う地点」にまで到達したアーノルド、ヒューゴ、ウルスラの三人の前に現れたのは、巨大な人型の魔法兵器達と、それを操る一人の壮年の男性と思しき魔法師であった。ヒューゴとウルスラが街の西方で発見した魔法師とは明らかに別人だが、羽織っているローブなどの雰囲気から、おそらくは同じ一派ではないかと推測される。
 巨大な人型兵器達に守られながら、魔法師は三人に向かって淡々と語り始める。

「思ったよりも早く反応されてしまったようですね。おかげで、また設置し直さなければならない。まったく、あいつも、もう少し上手く撹乱してくれれば良かったものを……」

 それに対して、アーノルドは単刀直入に訴えた。

「今すぐ設置を中止して、投降してもらおうか。そうすれば、場合によっては命は助かるかもしれないぞ」

 ここで嘘でも「命は助ける」と明言したりはしないあたりが、彼の誠実さではある。無論、その誠実さが交渉においては仇になることもあるのだが、この局面においては、どのような言い方をしたとしても、結果は変わらなかった。

「エーラムの御仁が相手であれば、まだ交渉の余地はあるのでしょうが、あなた方は頭が硬すぎる。とてもではないが、命の保証をしてくれるとは思えませんな」

 実際、この見解はほぼ正解である。よほどのことがない限り、(アーノルドはともかく)アントニアは「魔法師の工作員」の助命など、認めはしないだろう。そして、この彼の発言から、この人物は「エーラムの魔法師」ではない、ということは推測出来る。その上で、ここまで大掛かりな作戦を組織的に遂行出来る者達がいるとすれば、その正体はおそらく「あの闇魔法師組織」であろうということは推測出来た。世界中から聖印教会の要人達がハルペルに集まっているというこの状況は、「あの闇魔法師組織」にとって、この街を海に沈めるという暴挙を決行する上での、十分すぎるほどの動機となる。
 そのことを踏まえた上で、アーノルドは言い放った。

「そちらから見れば、そうだろうな。そして、こちらから見ても、混沌の力を使って国を乱す者は『魔法師』などと言える者ではない。それはもはや『混沌災害』だ。話し合いが通じないというのなら、容赦は出来ない。いいんだな?」
「こちらも先を急いでいますのでね。早々に終わらせて頂きますよ」

 魔法師はそう答えるや否や、魔法詠唱を始める。それに対し、ヒューゴの兜とウルスラの長靴が、それぞれの持ち主の聖印に呼応するように、神々しい光を周囲に放ち始めた。

「ちっとは役に立てよ」

 ヒューゴがそう呟いた直後、周囲の空間が不思議な光に包まれる。魔法師はその現象に違和感を感じつつも大規模な攻撃魔法を放ったが、その一撃はウルスラの聖印の力によって彼女一人に集中し、そして彼女の長靴の力によって、完全に無効化される(ただし、その魔法がもたらす副作用としての心身への疲労感や身体の自由を奪うような影響までは止められなかった)。
 その直後、アーノルドは矢の雨を敵全体に向かって降り注ぎつつ、戦場全体の状況を統御しながら、ヒューゴやウルスラに攻撃の機会を与えるが、大きく振りかぶったヒューゴの攻撃はあと一歩のところでかわされてしまう。その直後に巨大人型兵器がヒューゴやウルスラに襲いかかるが、彼等の攻撃は全く通用しない。正確に言えば、直撃している筈なのにまるで傷を与えられていないのである。しかも、この一連の攻防において明らかに聖印の力を多用している筈の三人の君主達の気力がまるで尽きる気配もない。間違いなく、これは兜と長靴の効果であった。
 魔法師がその状況に困惑する中、アーノルドの全力斉射によってゴーレム達は一掃され、そして魔法師も深手を負う。

(なんなんだ、この光は? この空間そのものが、聖印によって歪められているのか……?)

 さすがにこれはまともに戦える状況ではないと気付いた魔法師は、なんとかこの戦場を脱出しようとするが、全力で駆け込んだヒューゴとアーノルドの追撃を受け、最後はウルスラが作り出した光の盾によって殴り潰され、そのまま命を落とす。
 結局、この人物が何者だったのかは分からないままであったが、こうして、街の周囲に発生していた混沌群の中でも最大の脅威を祓うことに彼等は成功したのである。

4.1. 侯爵の裁定

 その後、三人は銀甲の導きに従って、夜が明けるまでに残りの装置を全て(主にヒューゴが)破壊するに至る。その頃までには街の人々の避難は予定通りにほぼ全て完了していた。その上で、改めて銀甲の力で周囲の状況を再確認しつつ、最終的に地震の兆候も混沌の兆候も完全に消滅したと判断したアーノルドは、アントニアにその旨を報告した上で、住民達と来客達を再び街へと帰還させる。それが完了したのは、その日(二日目)の夕刻頃であった。
 当然、本来ならば最も盛り上がる筈の当日祭の企画の大半は中止となり、何ヶ月も前から用意していた諸々の準備は全て無駄になった。一応、それでも形式的に簡素な形での式典は執り行い、ヒューゴによる「教皇による御言葉の(代理人による)読み上げ」も粛々とおこなわれたが、この日の「楽しい催し物」のために世界各地から訪れた人々の多くは、落胆を隠せない様子であった。
 そして翌日の後日祭(三日目)は当初の予定通りに開催されたものの、既に人々の大半が疲労困憊状態だった上に、事件の発生によって早期に帰国する人々が参加を取りやめた人々も多かったため、当初の想定通りの盛り上がりとは程遠い形で閉幕することになる。当然、この間もアーノルド達は魔法師達の生き残りの動向を最後まで警戒し続けてきたが、結果的には何も発生することなく、無事に全三日の日程を終えることとなった。
 その結果を踏まえた上で、三日目の夜、アントニアはアーノルドを呼び出し、険しい表情で今の心境を率直に語り始める。

「結果的に言えば、お主の進言通りに民を避難させたことは無駄に終わった。お主の進言を聞き入れたことで、この日のために人々が準備していた努力の結晶も全て無駄になった訳だ」
「責任は全て私にあります」

 粛々と、どんな処罰も受け入れる覚悟でアーノルドはそう答える。その態度を目の当たりにしつつ、アントニアは険しい表情を変えぬまま話を続けた。

「とはいえ、お主がいなければ、そもそも止めることも出来なかっただろう。その功績は、無駄な避難を強行させた罪を補って余りある。私としては、今回の雪辱を胸に、来年の開催予定地として再び立候補するつもりだ。実現出来るかどうかは分からんが、来年が駄目なら再来年もある。いずれにせよ、次の聖誕祭があった時に、今度こそ務めを果たせ。それまで領主の座を降りることは許さぬ」
「身にあまる寛大な処分、本当にありがとうございます」

 アーノルドは深々と頭を下げると、アントニアはそれ以上何も言わぬまま街を去って行く。現実問題として、教皇庁の中には「もう二度とあんな危険な街で開催など出来るか」という声も上がるだろうが、アントニアとしては、むしろ今回の戦いの過程で領主であるアーノルドが「混沌を感知出来る籠手の力」を手に入れたことを強調し、「次回以降はどの都市よりも安全に開催出来る」と主張することで、再誘致を目指したいと考えていた。
 なお、ヒューゴとウルスラが今回の件の解決において大きな役割を果たしたことについては、一部の人々にのみ伝える程度に留めておいた。ウルスラとしては(諸々の理由から)自分の存在をあまり大きく取り沙汰されたくないという個人的事情があったし、ノルド人であるヒューゴにこの街が助けられたというのは連合の一員として体面が良くないという政治的事情もあった。そしてヒューゴ自身もまた、今回の一件において功績を誇れると思えるほどに活躍出来たという意識もなかった(特に最後の戦いにおいて本領を発揮出来なかったことを悔やんでいた)ため、ことさらに吹聴するつもりもなかった。

4.2. 母と娘

 同じ頃、ウルスラとラーヤはアーノルドによって斡旋された宿屋にて、この三日間の警備の疲れを癒していた。

「無事に終わって本当に良かったですね、お母様」

 ラーヤは笑顔でそう語りかけるが、ウルスラの表情は今ひとつ浮かない様子であった。

「でも、あなたが祭を楽しめなかったのは残念だわ」
「いえ、十分楽しかったです。私の他にもすごい力を持ってる子達がいるのも分かりましたし。私がお母様から引き継ぐと言われてた長靴が、私が思ってた以上にすごいものだということも分かりました。今までは、ただの綺麗な装飾品だと思ってたんですけど、お母様としては、相当な覚悟でそれを私に引き継がせようとしてくれてたんですね」

 実際には、ウルスラもそんなことは知らなかった。

「そんなに重く受け止めなくていいわ。あなたに全部背負わせるつもりはないから」
「そうですね。そもそも、私がその力にふさわしいかどうかも、まだ分からないですし」
「大丈夫よ、あなたならきっと」

 そんな会話を交わしつつ、ウルスラはふと問いかける。

「あなたはこれからどうする? 」

 この街で知り合ったエルリックが紹介してくれた「神聖学術院」に行くという道もある。せっかく知り合った「友人」のいる「この街」や「教皇庁」で暮らすという道もある。今までずっと母親と二人だけの旅を続けてきた彼女であったが、そろそろ「自分自身の道」を探し始めてもいいのではないか、とウルスラには思えてきたのである。

「うーん……」

 ラーヤはしばし熟考する。その上で、少し恥ずかしそうな顔を浮かべながら、結論を出した。

「……まだもう少し、お母様と一緒にいたいかな」
「分かったわ。あなたの好きにしなさい。でももし、これから先、どこかの街に留まりたいと思ったなら、いつでも言いなさい」

 ウルスラは、どこか安心したような笑顔でそう答える。「親離れ」にも「子離れ」にも、まだもう少し時間がかかりそうである。
 一方、ラーヤの方も母親に対して「言わなければならないこと」があった。

「お母様も、誰か『いい人』を見つけたら、私のことは気にせず、いつでも一緒になってくれていいですからね」

 唐突にそう言い出した娘に対して、ウルスラは苦笑しながら答える。

「そうね……。『あの人』以上の人に出会えたらね」
「『あの人』って、ファルク様のことですか?」

 どうやらラーヤは、まだ「一昨日の嘘」が気になっているらしい。

「いいえ。あの人よりも、もっとカッコいい、あなたの本当のお父さんのことよ」
「私の本当のお父さんって、まだ生きているのですか?」
「いつか、その話も出来るといいわね」

 そんな会話を交わしつつ、今はまだ語るべき時ではない、とウルスラは改めて考えていた。その父親の名を知ることは、今後、娘を大きな陰謀の渦に巻き込む可能性がある。少なくとも彼女が自分の出自とどう向き合って行くべきかを判断出来るだけの自我が確立されるまでは、伝えるのは危険であるように思えた。
 十年以上前に別れて以来一度も会っていない彼女の父親は、風の噂によれば、現在、コートウェルズにて「紅蓮の翼竜」を駆り、竜王イゼルガイアと戦っているという。一部では最も皇帝聖印に近い男とも噂されるかつての恋人のことを思い出しながら、ウルスラは(今回の一件でも自分の身を守ってくれた)彼から譲り受けた鎧を丹念に手入れするのであった。

4.3. 叔父と姪

 翌日、ヒューゴとロヴィーサは教皇庁への帰還の船に乗る。

「いやー、 面白かったぁ。まぁ、わたしはあんまり活躍出来なかったけどね」
「何言ってるんだ、イゼルガイアにかました飛び蹴りは、見事だったぞ」
「え? なんでそれ知ってるの?」
「なんでだろうな」
「あ、後ろの方で見てたのか。ヒューゴが前の方にいたら、後ろの子が見えないもんね」

 そんな会話を交わしつつ、ロヴィーサは今回の一件を振り返る。

「でも、凄かったなぁ。あの二人。ゴーバンって子の光の剣もカッコ良かったし、例の魔法装置を正体を見破ったのはラーヤって子なんでしょ? そのお母さんも強かったし。あと、領主様の炎の弓矢も……」

 興奮気味にそう語りながら、ロヴィーサはふとヒューゴの兜に視線を向ける。

「そういえば、なんで急に光り出したの? その兜」
「なんかよく分からんが、すげー武具だったらしい。帰ったらエリンに聞いてみよう。あいつは俺より頭いいし」

 一応、兜は何度もヒューゴに「英雄王エルムンドとの思い出」を語ろうとしていたのだが、そもそもブレトランドとは直接的な縁のないヒューゴには、何度聞いてもその話は今ひとつピンと来なかったようである。

 ******

 後日、二人が教皇庁に帰還すると、行方不明だった「ノルドから預かった姫君」が無事に帰ってきたことに、人々は安堵する。もっとも、大半の人々は「ヒューゴが連れ出したのではないか」と予想はしていたようだが。

「よぉ、エリン。今帰ったぞ」

 ロヴィーサを肩で担ぎながらエリンの部屋を訪れたヒューゴに対して、当然のごとくエリンは怒りの形相で出迎える。

「連れて行くなら、せめて、ちゃんと手紙くらい書き残しておきなさいよ!」
「あれ? お前、書いてなかったのか?」
「ううん、ちゃんと書いたよ」
「『行ってきます』だけで分かる訳ないでしょ! というか、それはあなたが書くべきことでしょ、ヒューゴ!」
「そうか? まぁ、無事に帰って来れたんだから、いいじゃねえか」

 呑気な兄と姪のそんな様子を目の当たりにして、エリンはがっくりと肩を落とす。

「はぁ、私だって本当は行きたかったのに……」

 ボソッと彼女はそう呟く。もし、ここで「現地でウルスラに会った」ということを伝えたら、彼女と仲の良かったエリンはより一層怒ることになるだろう。その意味でも「銀甲」の話を彼女に聞くのは、もう少し後にした方が無難そうである。

4.4. 保護者と御曹司

 それから数日後、聖誕祭(および避難騒動)の後片付けも終わり、街が平穏を取り戻した頃、ゴーバンは領主の館の一室にて、どこか殊勝な表情でアーノルドに語りかける。

「結局、よく分かんなかったけど、あんた、結構すげーやつなんだな」
「そんなことはない。君が正しく育てば、私を超える領主になることだって、十分出来るさ」
「まだ俺は、心も体も未熟だということがよく分かった。あと、この街がいつ沈むかも分からない危険なところだってこともな」
「そうだな」
「だから、本当はとっとと師匠の後を追いかけたかったけど、もうしばらくここで修行させてもらうよ。あんたに助けてもらった借りもあるし」

 アーノルドにしてみれば、今回の一件ではむしろゴーバンに助けられた立場だったのだが、ゴーバンの中では、あの「偽ファルク」との戦いの際に「みっともないところを見せた」という気持ちが強かったようである。だからこそ、今後再びこの街を襲ってくる者達が現れた時に、この街を守ることに尽力することで、今回の(ゴーバンの中での)汚名を返上する心算であった。

「ところでさ、手紙って、書いたらどこに出せばいいんだ?」
「ん? 使用人にでも渡してくれれば、こちらで発送の手続きはしておくが」
「そっか。いや、そろそろ母ちゃんに手紙出した方がいいのかな、って思って」

 ゴーバンの「母ちゃん」と聞いて、アーノルドの脳裏には子供の頃の記憶が一瞬蘇るが、特に感情を表に出すこともなく、そのまま淡々と答える。

「あぁ、そうだな。安心させてやるといい」
「ここの領主のアーノルドってのがすげー奴だってことも伝えておくから」
「そうか、ありがとう」

 それから数ヶ月後、実際に彼の母(未亡人)がこの街に挨拶に来て、アーノルドは二十数年ぶりに「初恋」と再会することになるのだが、それはまた別の物語である。

「で、ところで、その籠手は何だったんだ?」
「あぁ、これはブレトランドの英雄王エルムンド様の使われていた武具だったらしい」

 アーノルドはあっさりとそう答える。結局、今回の戦いではその真の力(君主達の限界能力の解放)を発動させるには至らなかったが、それでもこの籠手の持つ混沌感知能力が無ければ事件を解決出来なかったことは間違いない以上、そこまで特殊な力を持つこの籠手が、それほどまでに由緒ある逸品だということにも、今のアーノルドならば素直に納得出来る。

「え? なんでそれをあんたが? てか、それ、本来俺が持っておくべきものじゃね?」

 ゴーバンは英雄王エルムンドの直系の子孫である。また、剣を持って前線に立つ機会が多いという意味でも、弓術使いのアーノルドよりも防具の必要性は高いだろう。

「確かにそうだ。だから、お前がこれを欲しいというのなら、次の継承者はお前ということにすることも出来るが、どうする?」
「どうするって、そんなもん、欲しいに決まってんだろ! だってよぉ、トオヤはいくら言ってもあの剣くれねーし、せめて俺にもなんか同じくらいすげーもんが……」
「そうか。じゃあ、ゴーバン、君が私を超える騎士になったら譲る。約束するよ」
「分かった。俺はあんたを超える。あんたよりも、トオヤよりも、クレア師匠よりも強くなって、そして、おとう……」

 そこまで言いかけたところで、ゴーバンは口をつぐむ。「この話」は人に聞かせるべきではないと思っているらしい。

「……俺は、全てを取り戻す」

 強い決意を込めた瞳でそう語るゴーバンの様子から、アーノルドは一抹の不安を感じつつも、彼がこれから先も道を誤らぬよう、「保護者」として正しく導いていかなければならない、と改めて実感するのであった。


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最終更新:2018年04月24日 11:33