第9話(BS43)「遥かなる時を超えて」 1 / 2 / 3 / 4

1.1. 追憶の夢

 カーラは夢を見ていた。それはまだ自分が子供だった頃。自分の隣には母ヴィルスラグがいた。自分と母の前には、優しそうに微笑む一人の女性と、鉄仮面をつけた一人の男性がいた。その女性は、両手で赤子を抱きながら、穏やかな声色でこう言った。

「カーラ、この子と仲良くしてあげてね。あなたなら、きっとこの子の気持ちも分かってくれると思うから」

 その直後、カーラは目を覚ました。それは確かに過去に見たことがある光景だった。だが、それが何年前の話だったのかまでは分からないし、その女性のことも、赤子のことも、鉄仮面の男のこともよく覚えていない。

(確かあの後……、「うん、お姉ちゃんだから」と答えたような……)

 ******

 ドルチェは夢を見ていた。それはまだ自分が「ドルチェ」でも「パペット」でもなかった頃。自分の隣には7〜8歳くらいの黒髪の少女がいた。今の自分が何者なのかは分からないが、目線の位置から察するに、彼女は自分よりも少し年上らしい。彼女は自分に対して「絵本」を読み聞かせていた。そこに描かれていたのは「英雄王エルムンド」の物語。楽しそうな声色で彼女はこういった。

「すごいね。私達も、いつかこんな君主になりたいよね」

 その直後、ドルチェは目を覚ました。それが過去の出来事なのか、ただの妄想なのかは分からない。

(今のは一体……、懐かしい記憶、なんてものが、僕にあったんだろうか……)

 ******

 チシャは夢を見ていた。それはまだ自分が「チシャ・ドロップス」だった頃。これからエーラムへと旅立つ前夜に、母が優しそうな笑顔でこう言った。

「あなたはこれから先、ドロップス家ではなく、ロート家の一員となるけど、それでも、あなたが私の娘であることは変わらないから。辛くなったら、いつでも帰っていらっしゃい」

 その直後、チシャは目を覚ました。それは間違いなく、彼女の記憶に今も焼き付いている母の記憶であった。母に対する複雑な想いが、彼女の中で渦巻き始める。

(どうして今、こんな夢を……)

 ******

 トオヤは夢を見ていた。それはまだ自分が聖印を受け取る前の頃。それまで様々な噂が原因でどこか疎遠な関係にあった父が、真剣な表情でこう言った。

「お前は私の息子だ。誰が何と言おうと、私はそう信じている。だから、お前にはこれから、私の後継者となるために、為政者としての道を叩き込む。ウォルターがな」

 その直後、トオヤは目を覚ました。父の実家は下級騎士の一族であり、父はそこから功績を重ねてこの村の領主となったものの、為政者としての帝王学を学んできた訳ではない。それ故に、長年にわたって執政官としてこの村を支えてきたウォルターの方が教育係としては適任と考えたのだろう。とはいえ、この最後の一言で、当時のトオヤは少し肩透かしを食らったような気分になったのは、はっきりと覚えてる。

(なんか、変なところで放り投げるところが似てたんだよなぁ、俺と……)

1.2. 騎士団長代行

 翌朝、トオヤの元にケネスからの書状が届いた。それは、タイフォンの北西部に位置する山村ムーンチャイルドで起きている異変の調査を命じる令状であった。
 ムーンチャイルドを中心とする丘陵地帯はもともと混沌濃度が高いことで知られている(遥か昔に「月のかけら」が落ちたことで生まれた土地であるとする説もあるが、それが混沌の発生要因かどうかは分かっていない)。かつてこの村を治めていたのはトオヤの父レオンの親友デーリーだったが、彼はレオンと共にテイタニアの魔物騒動で命を落とし、現在はデーリーの部下だったバルザックという君主が領主を務めている。
 先日タイフォンを襲った強大な「異界の神」を生み出した原因がムーンチャイルド近辺の混沌濃度の急上昇であったことはトオヤも把握していたが、あれから数日が経った現在も、バルザックからはこの状況に対して何の報告もない。不審に思ったケネスが魔法師団の者達に命じてバルザックの契約魔法師であるジャミル・ドルトゥスとの魔法杖通信を試みたが、連絡すら取れない状態が続いているという。
 バルザックは誠実な人物であり、だからこそ、その彼が音信不通になっているこの状況は明らかに異常事態だと考えたケネスは、トオヤに「騎士団長代行」として、騎士団長直属の部下である「夜梟隊」と「悪鬼隊」を随行させた上で調査に向かうように、と令状には記されていた(彼等は、この手紙を届けた早馬に続いて到着予定であるという)。魔法杖通信ではなく、あえて書状という形で伝えたのは、上記の現状から、何者かによって魔法杖通信が妨害もしくは傍受される可能性があると考えたからであろう。
 トオヤとしても、ムーンチャイルドの混沌濃度の異変は気がかりだったため、すぐさま出陣の準備を始めるよう、チシャ、カーラ、ドルチェに通達する。その上で、今回はレア姫(本物)には村に残ってもらうことにした。まだ身体の中に混沌核を残した状態の彼女を、魔境化しているかもしれない地に連れて行くことはあまりに危険性が高い上に、あえて連れて行かなければならない理由もなかった。
 また、もし自分達が不在の間にこの村で何か異変が起きたとしても、彼女の側近(?)であるウチシュマが彼女の近くにいるという安心感もある。むしろ、前回の蛇神騒動の元凶であると自称しているウチシュマを混沌濃度の高いところに連れて行く方が危険性が高いようにも思えた。

(正直、助かったわ……。あんな夢を見てしまった後で、トオヤとはあまり顔を合わせたくなかったし……)

 トオヤから上記の方針を告げられたレアは、内心でそう思っていた。なお、前日の夜に彼女がどんな夢を見ていたのかは、永遠の謎である。

1.3. 炎の悪鬼

 その日の夕方、タイフォンに「悪鬼隊」と「夜梟隊」が到着する。彼等はトオヤと面会し、翌朝にマキシハルト経由でムーンチャイルドへと向かう方針を確認した上で、この日は村に逗留することになった。
 「悪鬼隊」の隊長のアグニ(下図)は、炎を操る邪紋使いであり、現伯爵の実弟である故・トイバルの側近として、数々の戦場で凄惨な破壊・殺戮を繰り返した悪名高い将校である。テイタニアの魔獣騒動の折にも運良く(?)生き延び、ケネス直属の武官となっていた。そんな彼が、領主の館の一角にあるチシャの執務室を訪れる。


「久しぶりだな、お嬢。だんだん『姐さん』に似てきたじゃねーか。もうあと数年すれば、色気も出て、いい女になりそうだな」

 アグニはもともとチシャの母ネネの知人として故トイバルに紹介された人物であり、チシャとも面識がある。チシャの中ではもともとあまり好印象の人物ではなかったが、ネネの正体を知った今となっては、より一層「あまり関わりたくない人物」として位置付けられている。

「お久しぶりです」

 眉をしかめつつ、淡々とそう答えたチシャに対して、アグニはニヤリと笑って問いかける。

「なぁ、もう俺の正体には勘付いてんだろ?」

 それに対してチシャは何も答えない。だが、ネネが「あの組織」の一員であることを考えれば、当然、彼もまたその関係者である可能性が高いと考えるのが自然だろう。もともと「庶民出身の侍女」にすぎなかったネネが、アグニのような荒くれ者と知り合いであることが不自然な話だったのである。この点に関しては、自然とチシャの中でも話が繋がっていた。
 チシャの表情からその心理を読み取ったアグニは、そのまま語り続ける。

「騎士団長様もそれを察して、俺を厄介払いしたいみたいでな。それで今回の任務を機に『あんたの主人』に俺を押し付けようとしているらしい」

 チシャにしてみれば、迷惑な話である。確かに武人としてはアグニは有能な人材ではあるが、獰猛な獣は制御に失敗すると大変な災厄を撒き散らすということは、先日のオブリビヨンの騒動でも実感したばかりであった。ましてや「あの組織」の関係者ということであれば、彼のような存在を手元に置いておくことは相応の危険を抱きかかえることになる。

「ただ、『俺達』はあんたらに危害を加える気はねえよ。それが姐さん達の方針だし、俺も、せっかくいいカンジに育ってきたお嬢をここで殺しちまうのは勿体ないと思うしな」
「勿体無い?」

 その言葉には様々な意味が込められているように思えたが、チシャがそのことについて問い直すべきか迷っている間に、アグニは話を続ける。

「あんたが今の主人に忠義を尽くすってんなら、俺達もあんたの主人に協力する。ただ、俺達みたいな胡散臭いのはいらねーってんなら、いつでも出ていくし、成敗するってんなら、今すぐケツまくって逃げるぜ。ただまぁ、この世界、表に出せねえことはいくらでもある。この世界の人々を導く君主様には、それがたとえ世の中に必要なことでも『やっちゃあいけないこと』が色々ある。そういう『汚れ仕事』を請け負うために俺達がいるんだ。それは分かってくれるだろ? だから、好きに利用してくれればいい」

 清々しいまでに自分の役割をわきまえた発言であるが、いずれにせよ、彼のような危険人物を雇うかどうかを決めるのはトオヤであって、自分ではない。チシャはそう考えていた。今回の任務はケネスの命令である以上、彼等の同行を拒否する権利はトオヤにも無いが、その後の彼等との関係については、改めてトオヤ達と話し合う必要があるだろう。
 そんなチシャの考えを知ってか知らずか、アグニはさっそく「売り込み」を始める。

「たとえば、俺なら裏社会の連中ともそれなりにツテはあるからな。今のお嬢ではおおっぴらには会えないような連中とも、話をつけることは出来るぜ」
「出来るだけ、頼らないようにはしたいです。もしものことがあれば、頼らせていただくかもしれませんが……」

 チシャはそこまで言った上で、今の時点でどうしても聞きたくなった「あのこと」について尋ねてみる。

「……母とは連絡を取っているのですか?」
「姐さんは姐さんで、今でもあんたのことを案じている。だからこそ、今でも俺はまだここにいるし、あんたらに、というか、あんたに危害を加えることは姐さんが許さない」

 チシャにとっては、それは予想出来た返答である。そんな母の「心遣い」が分かっているからこそ、やるせない気持ちが湧き上がってくる。

「会いたいかい? 姐さんに」
「……出来れば」
「そうか……、でもなぁ、親子喧嘩は見たくないしなぁ……」

 どうやらアグニにも、二人の今の関係は概ね予想出来ているらしい。

「あと、『あの王子様』に関しては、力づくで取り返すのは無理だ。仮にパンドラの中で内部抗争を起こしたとしても、新世界派のジャックを力でねじ伏せるのは難しい。ただ、交渉の余地はあるかもしれない」
「交渉? たとえば?」
「『代わり』を見繕うことだ。たとえば、あんたがとっとと『誰か』との間で子を作って、その子を差し出す、とかな。あ、俺は生娘は苦手だから、他をあたってくれ」

 平然とした表情で不快な言葉を連発するアグニに対して、チシャがあからさまに辟易した表情を見せ始めたところで、アグニも「話の切り上げ時」を悟る。

「俺は俺に出来ることをやる。さっきも言った通り、今の俺の一番の仕事は、あんたを守ることだ。あんたが主人を守れってんなら、あんたの主人も守る。今、ヴァレフールに崩れられるのは困るからな」
「『今』ですか……」

 将来的には、どうなるかは分からない。それがパンドラ(均衡派)としての本音なのだろう。とはいえ、それは別にパンドラに限った話ではない。利害が合う時は協力し、衝突すれば殺しあう。それは国と国の関係においても同じことであった。チシャもそのことは分かった上で、つとめて冷静な態度を保ち続ける。

「色々と思うところはありますが、頼りにはしています」
「それは何よりだ」

 アグニはニヤッと笑って、その場から立ち去っていく。その不気味な後ろ姿を、複雑な心境でチシャは見送るのであった。

1.4. 夜の梟

 その頃、もう一人のアキレスからの派遣部隊「夜梟隊」の隊長であるジーン・スウィフト(下図)は、出立の準備を進めつつあったドルチェの詰所を訪問していた。


「あんたが、ここの領主様の側近の傭兵隊長らしいね。私はジーン、よろしく頼むよ」

 ジーンは「影」の力を用いる女邪紋使いであり、彼女が率いる夜梟隊は主に偵察を得意とする斥候部隊である。長い黒髪を無造作に結び上げて露わになった頬に、はっきりとした邪紋が描かれている。

「私はまだまだ『新人』の部類だと思っていたんだが、『側近』と呼んでくれる程度には名が知られているようで」
「そりゃあね。ちょくちょく噂もあるんだよ。若い領主様が、どこから連れてきたかも分からない美人の傭兵隊長さんを重用してたらね」
「そうだろうね」

 ドルチェは思わず苦笑する。先日ヴァレフールに到着したばかりのレア姫にまで知られる程にその話が広がっているのだとすれば、それも致し方ないことだろう。トオヤの方が「そのこと」を隠す気がない以上、ドルチェとしても別に悪びれるつもりはない。

「まぁ、いいや。私はそこら辺のゴシップには興味ないから。私の専門は偵察だ。あんた、幻影の邪紋使いなんだろ? それなら多分、同じような役回りが回ってくるんじゃないかと思って、挨拶しておこうと思ってね」
「そういうことか。よもや世間話をしに来た訳じゃないだろうと思っていたが……」

 ドルチェにしてみれば、別に愛人疑惑を取り沙汰されることは問題ないが、もしジーンが「自分の正体」にまで勘付いているのだとすれば、それは少々厄介な事態である。いかに「本物の姫様」が帰ってきたとはいえ、今まで周囲を騙していたことを明るみにされると、様々な方面からトオヤが批判される恐れはある。ジーンが偵察や諜報が得意な邪紋使いということは、そこまで勘付いている可能性も考慮すべきだろう。だが、ここで彼女から切り出されたのは、全く想定外の話題であった。

「いや、世間話も世間話で、一つ聞きたいことがあるんだがな、個人的に」
「おや? なんだい?」
「アンタ、ここの領主様に雇われる前は、どこにいたんだい?」

 ドルチェにしてみれば、それはそれで聞かれたくない話ではあるが、この手の質問へのあしらい方は慣れている。

「どこに、ねぇ……。まぁ、大陸の傭兵団にいたこともあったけど、あんまり昔のことは分からないや」
「つまり、いわゆる『流れの傭兵』だった、ということ?」
「そうそう」

 そういうことにしておくのが、一番都合がいい。相手がそれで納得してくれるのであれば、それ以上特に何も言う必要はない。

「じゃあ、あちこち回ってたんなら、邪紋使いの間では、結構顔が広かったりするのかな? いや、ほら、あんたみたいな能力があれば、色々な任務で重宝されそうだからさ。まぁ、それは隠密の私も同じなんだけど」
「そうだね。色々な人には会ったよ。もっとも、それは『ドルチェ』としてではないから、『ドルチェ』の僕が連絡を取ろうとして取れるものでもないけど。彼等は皆、僕のことを『違う僕』だとして認識してるのさ」

 そう言ってしまえば、これ以上厄介な質問を投げかけられることもないだろうと思ったドルチェであったが、ジーンはその返答を踏まえた上で、彼女に問いかけた。

「なるほどな……。それなら、ひとまずあんた自身に聞きたいんだがね、どこかで『私とよく似た雰囲気の邪紋使い』を見なかったか? 私より少し若いくらいの」

 そう言われたドルチェはジーンの風貌を確認するが、少なくともドルチェが過去に出会った邪紋使い達の中に「彼女と似た雰囲気の人物」がいたという記憶はない。ただ、それはそれとして、ドルチェの中で奇妙な感覚が湧き上がってくる。

(「この人に似た人」というよりも、むしろ「この人自身」と前にどこかで会ったことがあるような……? いや、でも、気のせいかもしれないし、そもそもいつの話だったのかも思い出せないし……)

 少し迷った上で、ドルチェは答えた。

「うーん……、見覚えはないね」

 自分の中の記憶がはっきりしない以上、今はそう答えておいた方が無難だろう。自分が会ったのが「彼女」であろうと「彼女に似た邪紋使い」であろうと、その人物と会った時の自分が「どの自分」なのかを思い出せない上、ここは迂闊にそのことを話す訳にはいかない。

「そうか……。実は、私には弟がいてね。生き別れてしまっていて、もう十年以上も会ってないんだが、最近とある時空魔法師の人に占ってもらったところ、どうやらその子も今、邪紋使いになって、どこかで生きているらしい、ということが分かったんだ。ただ、その魔法師さん曰く、今は記憶もなくしてしまってるらしいから、多分、名前も覚えていないんだと思う。だから、私の方から見つけてやらないといけないんだが……」

 そう語るジーンの顔をドルチェは改めて凝視するが、やはりどこかで「彼女自身」と会ったような記憶は湧き上がって来る。だが、それが果たしていつどこでの話だったのかは、どうしても思い出せない。

「そういう訳だったか。力になれなくて、すまない。ただ、まさかとは思うけど、僕みたいな『幻影の邪紋使い』ってことはないよね? それだとさすがに僕にも分からないよ」
「うーん、どんな邪紋の持ち主なのかまでは分からないが……、なるほどなぁ、その可能性もあるのか……」
「あとは、君みたいな『影』とかね。隠れられては仕方がない」
「確かにな……。まぁ、何にせよ、今回の任務では色々と共同作戦を採ることになるだろうから、よろしく頼むよ」

 そう言って、ジーンはその場を立ち去っていった。一人その場に残されたドルチェは、これまでに実感したことのない奇妙な感慨に囚われていた。

(僕の過去、ねぇ……。僕が姫様と出会ってから十年くらい……。それ以前か……、何をしていたんだろうね?)

1.5. 霊と神

 その頃、カーラはタイフォンの兵士達に、ムーンチャイルドへの出立の準備を進めるように指示を出していた。そんな彼女の隣で、兵士達は不穏な噂を口にする。

「ムーンチャイルドには昔から、不気味な女の幽霊が出る噂があるらしいぞ」

 この世界では「幽霊」という言葉が何を指すかは非常に曖昧である。本来は「死者による残留思念」を意味する言葉だが、実際にそのような存在が実際に出現した事例は稀であり、市井の人々の間では「よく分からない不気味な怪物」全般を指す言葉として用いられることも多い。

「そういえば部隊長、確かクーンの城でも幽霊が出るとかいう噂がありましたよね? いるんですかね、この世界に幽霊とか」

 クーンの真相については、さすがに大っぴらに話して良いことではないので、ひとまずカーラは首を傾げつつごまかす。

「幽霊というか、なんというか、投影体の可能性もあるしなぁ……。混沌濃度が高いんだろ? しょっちゅうそこに現れる投影体とかがいてもおかしくないかもしれないし……」

 ひとまずそう言って話を切り上げたカーラであったが、それはそれで兵士達にしてみれば恐怖心をかきたてられる話であり、やはり不安な表情を浮かべている。幽霊であろうと、投影体であろうと、「正体がよく分からない敵」というのは、どうしても不安感を掻き立てるものである。そのような存在のことを、人々は「怪異」や「悪霊」などと呼んで忌避することもあれば、「神」や「聖霊」として祭り上げることもある。
 そしてこの時点で、このタイフォンには既に一人、「神なのか悪霊なのかよく分からない存在」としてのウチシュマが居候していた。兵士達や村の人々の中には、彼女に対しても訝しげな視線を向ける者は少なくなかったが、カーラはこの時、ふと(おそらく昨晩見た夢の影響から)幼い頃に母ヴィルスラグに言われていたことを思い出す。

「神様は、とりあえず崇(あが)めておくことで、祟(たた)られないようにしておいた方がいい」

 それがヴィルスラグの教えであった。彼女の出身世界は「太陽の女神」や「戦いの神々」などが混在する世界であり、様々な神々と折り合いをつけて生きていくためには、そのような形での柔軟な姿勢が必要だというのが、彼女の処世術だったらしい。

「とりあえず、出陣前にボクはあの『神様』にお供え物を届けに行くよ」

 カーラはそう言って、領主の館の敷地内の一角に建てられた小さな「祠」のようなウチシュマの仮設住宅へと向かう。小さな扉を開いて中に入ると、そこには、布団の上で横になって、芋を薄切りにして塩をまぶした異界の菓子を食べながら、ダラダラしているウチシュマの姿があった。食べかすがこぼれ落ちていることもあって、布団はかなり汚れている。

「神様、そのお布団、洗濯させて頂きますね」

 カーラはそう言いながら、ウチシュマをだっこして、隣のソファーへと移動させる。

「うむ、くるしゅうない」

 取ってつけたような「偉そうな物言い」でウチシュマがそのまま運ばれると、カーラは布団を担ぎ上げ、祠の外に出た上で、手を合わせて祈るような姿勢を取る。

「留守の間、レア姫をお願いします」

 カーラはそう告げた上で、布団を洗濯場へと運んで行く。

(次に来る時はお供え物を持ってこようかな。何がいいかな? お花かな? お香かな? むしろお酒が無難かな? でも、見た目からすると幼そうな気もするし……。何か安眠用の道具とか、いい匂いのするポプリとか、香油とか探して来ようかな)

 そんな想いを巡らせながら、彼女は丁寧に布団の手洗いを始める。相手が人であろうと神であろうと、基本的に彼女の「世話好きの本性」は発動されてしまうらしい。そして、カーラがこのような形でウチシュマを「神」として厚遇し続けていった結果、やがてこの村の兵士達や館の使用人達を中心に、少しずつ彼女の信者が増えていくことになるのであるが、それはまだもう少し先の話である。

2.1. 新米領主の憂鬱

 翌日、トオヤ達は「悪鬼隊」「夜梟隊」と共にタイフォンを出立し、その日の夕方にトオヤの弟ロジャーが治めるマキシハルトへと到着する。オブリビヨンの暴走によって破壊された建造物の大半は修復され、順調に復興が進んでいるように見えるが、そんな中、以前に来た時に比べて、微妙に混沌濃度が高くなっていることにチシャは気付く。だが、それ以上に強い違和感を感じていたのはカーラであった。

(なんだろう……、この懐かしい感覚……? こないだ来た時には感じなかったのに……)

 それは、以前にテイタニアで祖母マルカートの気配を感じた時に近い感覚であった。つまり、縁者か、もしくはそれに相当するほどに親しい誰かの気配のように感じる。そして、方角的にはそれはこの街から見て北東、すなわちムーンチャイルドの方角に近付くほどに強くなっているような気がした。

(こういう直感が働く時って、何か法則性とかあるのかな……?)

 カーラが密かに内心でそんな想いを抱いている中、トオヤ達は領主の館へ到着する。先日訪問した時には凄惨な虐殺の後でボロボロの状態であったが、今はどうにか元の姿へと戻りつつあるようだ。だが、その館の中から彼等の前に現れたロジャーは、重苦しい表情で口を開いた。

「兄上、二人で話がしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「二人? 別にいいが……」

 あえて他の者達を遠ざけてまで内密に話さなければならないような事態が起きているとは想定していなかったので、トオヤはやや面食らうが、ひとまず他の面々を別の応接室に待機させた上で、言われるがままにロジャーの私室へと一人で向かった。
 部屋に入ると、ロジャーはバタンと扉を閉めた上で、これまでに見せたことのないような怒りを込めた剣幕でトオヤに詰め寄った。

「兄上! 兄上の本命は、レア様ではなかったのですか? 兵士達が、兄上とドルチェ様のことを噂しているのですが、これはどういうことですか!」

 あまりにも想定外すぎる話を切り出されたことで、トオヤは完全に言葉を失った。ロジャーの表情は真剣である。これまでロジャーはトオヤに対しては常に従順で、トオヤの隠し子疑惑があった頃も決してそのことに触れようとはせず、常にトオヤのことは「憧れの兄」として尊敬の眼差しで見つめていた。そのロジャーが、生まれて初めて本気でトオヤに対して、感情をむき出しにした怒りをぶつけてきたのである。
 もともと、ロジャーがこの地に就任した当初から、兵士達の間では密かに噂は広まっていた。オーバーハイムの戦いの後に、兵士達の目の前で堂々と抱き合っていたのだから、それも当然の話であろう。だが、先日のタイフォンでの「白昼堂々のケーキ屋デート」が決定打となって、その噂が遂にはロジャーの耳にまで届くほどに浸透するに至ったらしい。

「子供の頃から、ずっと兄上とレア様は相思相愛だと思っていたのに、今更他の人に乗り換えるなんて……。 しかも、なんでよりによって、ドルチェさんなんですか!? なんで兄上ばっかり!」

 怒りのあまり、ロジャーの声が少し裏返る。「支配者の聖印」の持ち主として、常に冷静さを重んじるようにリューベンから教育を施されていた筈の彼が、明らかに我を忘れている。だが、それも仕方のないことであろう。彼は君主である以前に、一人の思春期の少年なのである。長城線で出会った「尊敬する兄の側近の美しい邪紋使い」に心を奪われていた彼にとって、その「尊敬する兄」の取った行動は、あまりにも残酷な裏切り行為に他ならない。

「いや、あの……」

 なんとか宥めようとしたトオヤであったが、いつもの如く動揺して咳き込んでしまう。そして、兄が咳き込む時は本気で動揺している時だということを、弟は嫌というほど熟知していた。それでもトオヤはどうにか弟に今の状況を理解してもらうために、なんとか言葉を捻り出す。

「……色々あったんだ」

 短い言葉で説明するには、それは確かに最適な言葉の選択ではあるが、同時にそれは「最悪の説明」でもある。

「色々あったんですね、レア様とも、ドルチェ様とも。色々してきたんですね。あれですか? もしかして、チシャ姉さんやカーラさんとも色々あったんですか?」
「と、とりあえず、一旦落ち着いて、話を聞こうか?」

 今までは盲目的なほどに兄に従順だった弟の突然の「闇堕ち」に対して、トオヤは必死で宥めようとするが、もはやロジャーは聞く耳を持とうとはしない。それもやむを得ぬ話であろう。彼は「思春期」なのだから。

「そういえば兄上の父親は本当は……」

 ロジャーはそこまで言いかけたところで、ハッと我に返り、口籠る。「兄上にも色事師の血が流れているのではないですか?」と言おうとしたようだが、さすがにこれは「言ってはいけないこと」だと気付いたらしい。トオヤもそれに対しては、あえて聞かなかったふりをする。

「……まぁ、もういいですよ。兄上がドルチェさんがいいと言って、ドルチェさんも兄上がいいと言ってるなら、もうそれでいいですよ。そりゃね、どうせ僕なんてドルチェさんの眼中には無かったってことですよね、そりゃね、仕方ないことですよね」

 つい先日、別の人物から同じようなことを言われたトオヤとしては、どう反応するのが正解なのかが分からなかったが、ひとまず弟の怒りがひと段落したようなので、話題を切り替える。

「ま、まぁ、その、とりあえず、仕事の話から進めようか。ムーンチャイルドの異変について、お前は何か知っているか?」
「サルファに聞いて下さい」
「いや、あの……、ね?」
「私はとりあえず、街の復興で忙しいので」

 実際のところ、マキシハルトはオーバーハイムに比べると被害も小さかったので、それほど復興に手間がかかっているようには見えなかったのだが、それでも、彼がそう言うのであれば、「そういうこと」にしておいた方がお互いのためだとトオヤは察する。

「あ、う、うん、そうだな。俺が悪かった」

 何がどう悪かったと思っているのかは有耶無耶にしたまま、トオヤは足早にその部屋を立ち去るのであった。

2.2. 裏社会組織

 領主兄弟がそんな思春期の会話を交わしている間に、応接室で待っていたチシャ達に対して、ロジャーの契約魔法師となったサルファが、やや顔を赤らめながら挨拶する。

「あ、あの、えーっと、お久しぶりです、チシャ先輩」

 彼もまた思春期の少年ではあるが、今のところまだ闇堕ちするような要因もないため、ひとまず今は一人の執政官として、調査隊の部隊長を務めるチシャ、カーラ、ドルチェ、アグニ、ジーンの五人に対して、現在の街の近辺の状況を説明する。

「ムーンチャイルドは昔から混沌濃度が高いと言われている土地ではあるんですが、先日のオーバーハイムでの戦いの直前の頃から、更に少しずつ上昇し始めていました。ただ、こちらはこちらで復興と新体制構築のための諸々の作業で手一杯で、そちらまで調査に出る余裕はなかったんです」

 村の被害自体が少なかったとはいえ、それまで村とは無縁だった新任の領主が就任するとなれば、当然のごとく新体制の構築には時間がかかる。サルファも数ヶ月前からこの地に滞在していたとはいえ、正規の契約魔法師ではなかった以上、前任者が早々にエーラムに帰還してしまった状態で、その後任としての仕事を独学で全て理解するのは容易ではない。補佐役としてガフが滞在しているとはいえ、まだまだ年若の二人には、村の外にまで目を向ける余裕がなかったのも当然であろう。

「そんな中で、ここ数日の間にムーンチャイルドの方面に向かった商人の人達も何人かいたのですが、皆、そこから先の足取りが途絶えてしまっているのです。私達としても、この事態を放置しておく訳にはいかないと考えていたところですので、こうして調査隊の皆さんが来て下さったことには感謝しています。ただ、実は今、他にももう一つ、少々気掛かりなことがありまして……」

 サルファは言いにくそうな顔を浮かべながら語り始める。

「最近、村の中で『ミルバートン・シンジケート』と呼ばれる反社会集団が暗躍してます。もともとは大陸系の組織らしいのですが、最近になってブレトランドにも進出してきたようで……。今のところ、この村では復興のための資材を安値で提供するなど、協力的な姿勢は示していますが、他の地域では御禁制の危険な物品を売り買いしていたり、パンドラとも通じているという噂もあります」

 「パンドラ」と言われると、チシャとしては内心穏やかではないが、ひとまずは黙って話を聞き続ける。その隣のアグニもまた、特に表情を変えることなく涼しい顔を浮かべていた。

「ですので、もしかしたらムーンチャイルドの異変も、彼等が何らかの形で裏で絡んでいるかもしれません。首魁のラザールは今、この村のどこかに潜んでいると言われているのですが、現状ではその居場所までは特定出来ていないので、接触を取るのも難しい状態です」

 サルファがそこまで言い終えたところで、トオヤが応接室に現れた。

「あ、マイロードとの話は終わりましたか?」
「うん、まぁ、終わった」

 その何とも言えない微妙な表情から、「何かあった」ということをチシャは察する。その後、ひとまずサルファが改めて同じことをトオヤに対して説明した上で、そのままサルファを同席させた上での「軍議」へと移行していく。

2.3. 分担調整

 ムーンチャイルドの現状に関してはサルファ達も全く把握出来ていないが、ここまでの状況から察するに、村の周辺が既に魔境化している可能性は十分にあり得るだろう。その場合、村の住人達の救助と同時に、その混沌災害の拡大を防ぐための手立ても必要になる。状況によっては、そのどちらを優先すべきかという難題に直面する可能性もあるだろう。
 そのことを踏まえた上で、最初に口を開いたのはアグニであった。

「面倒臭くなったら、俺に言ってくれれば、村ごと燃やすことは出来るぜ」

 不敵な笑みを浮かべながら、彼はそう言い放つ。実際、炎を操る能力を持つ彼が本気を出せば、問答無用で村一つを焼き払うことも可能であるし、もし村の異変が伝染病などが原因だとするならば、その道を選択せざるを得ない時もあるだろう(そして実際、ヴァレフールでは過去にそのような理由から村一つを丸々焼き払った事例もある)。アグニとしては、そのような「汚れ仕事」こそが自分の本懐であると開き直っていた。

「まぁ、それについては最終手段ということで。まずは状況の確認だな」

 トオヤが冷静にそう答えると、今度はジーンが手を挙げる。

「ならば、私が先行して調べてきましょうか?」
「それはムーンチャイルドの方かい? それとも、ミルバートン・シンジケートの方かい?」
「どちらも調べに行くことは可能ですが、どちらかというと私は屋外活動の方が得意なので、今の時点で行くなら、ムーンチャイルドの方ですかね。ミルバートン・シンジケートは、そもそも絡んでいるかどうかも分かりませんし」
「確かにな。とはいえ、ミルバートン・シンジケートに関しても調べてみる必要はある気がする」

 ジーンとトオヤがそんな会話を交わしていると、ドルチェが口を挟む。

「僕もある程度の調査は出来るけど、どうする? ムーンチャイルドはジーンさんに任せるなら、僕がミルバートンの方を調べてみようか?」

 確かに、能力的に考えても、街中に潜む裏社会組織を探し出すには、ドルチェの方が向いている気がする。ただ、ドルチェに一人で行動させると、また必要以上に危険なところにまで足を踏み入れる恐れがあるため、トオヤとしては出来れば許可を出したくない。
 トオヤがどうすべきかで迷っていたところで、アグニが「何か言いたそうな顔」をしていることにチシャは気付く。そのチシャの視線に気付いた彼は、不意に窓の外へと視線を向けた。

「お嬢、ちょっと外で妙な気配を感じるんだが、ちょっと様子を見に行かないか? あんた、投影体には詳しいんだろ?」

 この時、チシャは外から何の気配も感じられなかった。その上で、アグニの表情から、彼の意図を概ね察する。どうやら彼は「他の者達がいる前では言えないこと」をチシャにだけ伝えたいらしい。

「そうですね。では、一緒に行きましょう」

 チシャはそう答えた上で、駆け足で館の外に出る。口を挟む間も無く去ってしまった二人の後ろ姿を眺めながら、サルファが、やや心配そうな表情で問いかける。

「あの人は、何者なのですか?」

 それに対して答えたのはジーンだった。

「私の同僚でね。まぁ、ちょっと危険なだけの男だよ」

 あえて語弊のある言い方を選んだその返答に対して、サルファが露骨に焦燥の表情を浮かべると、ジーンは苦笑しながら補足する。

「いや、まぁ、役には立つ男だよ。要は『使い方次第』ってことさ。邪紋使いなんて、そんなもんだろ?」

 それに対してはドルチェと、そしてカーラも頷く。

「そうだね。それは否定しない」
「投影体も似たようなものだしね」

 実際、この世界において、邪紋使いや投影体は「君主や魔法師の制御下にあること」を前提とした上でその力の使用が認められている、という側面はある。とはいえ、本当に危険な邪紋使いや投影体は、その制御の外側で暴走してしまう可能性もあるということをつい先日の騒動で実感しているサルファとしては、アグニと一緒に出て行ったチシャのことが心配でならなかった。

 ******

 館の外に出たところで、アグニは周囲に人がいないことを確認しつつ、チシャに小声で告げる。

「ラザール・ミルバートンになら、俺は話をつけられるぞ」
「ということは、やっぱり『そちら』の……」
「あいつの正体は闇魔法師だ。ただし、パンドラではない。昔はパンドラとも繋がりがあったんだが、色々あって袂を分かったらしい。で、一時はかなり本格的に対立していたんだが、姐さんが間を取り持って、今はどうにか『付かず離れず』の関係にあるってとこだな」

 またしてもここで『母親』の存在が絡んできたことで、チシャは複雑な心持ちになるが、そんな彼女の心境をよそに、アグニは話を続けた。

「だから、姐さんの側近の俺が仲介して話をつけることは出来なくもない。まぁ、基本的にあの爺さんは人のことは信用しないし、こっちから見ても信用出来る人物ではないが、探りを入れてみる価値はあると思う。俺一人で接触する形でもいいし、お嬢も一緒に行きたいならそれでもいい。あんたの主人を一緒に連れてくことも可能だが、さて、どうする?」

 確かに、今の時点で直接接触するツテがあるなら、その方が話は早いだろう。問題は、どのような名目で接触するかである。

「トオヤは、『あなたの正体』のことは知ってる?」
「さぁな。もう既に勘付いてる可能性はあるが、少なくとも俺の方からは何も言ってない。もし、何も知らずに俺達を従軍させてるなら、今から俺がパンドラの人間だとバラす時点で、色々と面倒なことになるだろうな」

 実際のところ、もしトオヤが気付いていたとしても、パンドラの人間と公的に接触するというのは体面上好ましくはない。その意味では、トオヤにはアグニの正体は知らせない方が得策であろう。とはいえ、トオヤに無断で勝手に契約魔法師が反社会組織と接触する訳にもいかない、というのがチシャの考えでもある。
 彼女が答えに窮していると、彼女の心中を察したアグニの方から提案してきた。

「じゃあ、とりあえず俺が先行調査に行って来る。あんた達が奴等に話を聞きたがってる、ということを伝えた上で、奴等が話をする気がありそうなら、また帰ってくるから、その時までに方針を決めといてくれ」

 それに対してチシャは黙って頷くと、アグニは何処かへと歩き去って行った。

 ******

 こうして、「危険な男」との密談を終えたチシャが一人で部屋に戻ってくると、サルファが思わず駆け寄る。

「あ、あの……、大丈夫でしたか?」
「うん、特に心配されるようなことは何もないよ」

 チシャがそう答えると、今度はドルチェが問いかける。

「で、アグニはどこへ?」
「どうやらミルバートン・シンジケートにツテがあるらしいので、調べに行ってもらいました」

 厳密に言えば、この調査隊の指揮権はトオヤにある以上、部隊長の一人であるアグニの行動にもトオヤの許可を得る必要はあるのだが、トオヤは契約魔法師であるチシャには自分の代理人としての権限があると考えてるため、この彼女の裁量には特に異論を挟むつもりはなかった。
 トオヤは、ドギを奪ったパンドラの新世界派に対しては激しい敵愾心を抱いてはいるが、村の復興のために、状況によっては裏社会組織との協力が必要になることもある、ということも分かっている。ただ、どこまでその存在を許して良いかは「場合による」というのが彼の認識であったため、とにもかくにも、まずは情報を得るために探りを入れる必要がある、と考えていた。
 そのことを踏まえた上で、再びドルチェが口を開く。

「さて、直接ミルバートンの方と連絡が取れるなら、僕が忍び込む必要はなくなった。それなら、僕もジーンさんと一緒に偵察に行くという手もあるかな。もっとも、同じ偵察役でも、一緒に行動するにはあまり相性の良くない組み合わせになるんだけどね」

 ジーンの邪紋は「他人に見つからずに忍び込む能力」に特化されているのに対し、ドルチェはむしろ「他人に見つかっても正体を看破されない能力」を持つ邪紋使いである。その意味では、確かにこの二人が一緒に行動するのは、あまり向いていないのかもしれない。
 だが、ここでジーンが一計を案じた。

「あんた、人間以外に化けることも出来るのかい?」
「ん? あぁ、出来るよ」

 ドルチェはそう言うと、ひとまず「猫」の姿に化ける。すると、ジーンはそれをひょいと片手で抱えて、肩の上に乗せた。

「こういう形で一緒に行けばいいんじゃないかな。最悪、私がしくじった時には、一人で逃げてもらえばいい」

 人の姿でない状態で逃げる方が、人目を引かずに逃げられそう、ということらしい。もっとも、そのような目くらましが通じるかどうかは、相手次第ではあるのだが。
 そして、このタイミングでカーラがボソリと呟いた。

「ボクも、ちょっと気になってることがあるんだけどね……」
「何かあったんですか?」

 チシャがそう問いかけると、カーラは少し戸惑いながら訥々と語る。

「ちょっと何か感じる気配があるというか……」

 その言葉から、トオヤ達はテイタニアの時のことを思い出す。もしかしたらそれはまた『四百年前の何か』なのかもしれないが、ジーンがいるこの場でその話をして良いか微妙だと判断したので、ひとまずその話題は脇に置いた上で、トオヤは話を本題に戻すためにドルチェに問いかける。

「ドルチェは、調査に行きたい?」
「そうだね。情報は自分の目で確かめておきたい、というのはある。情報は力だ。それは僕はよく知っているし、僕なら『他の人には見つけられないもの』を見つける力もある」
「では、ジーン隊長とドルチェに、ムーンチャイルドに行ってもらうことにしよう。俺とチシャとカーラは、ひとまずこの場に待機する。もしかしたら、二人が帰って来る前に、ミルバートンとの連絡がつくようになるかもしれないしな」

 この場にいる者達はその方針で同意し、ひとまずドルチェとジーンがムーンチャイルドへと向かうことになった。

2.4. 紫角兎

 ムーンチャイルドへと向かう山道に入ろうとしたところで、ジーンの肩に乗っていたドルチェはふと何かを思い立ち、その姿を「猫」から「梟」へと変身させる。

「この方が『君の相方』として、それっぽいだろう?」
「なるほどな」
「もっとも、姿が変わるだけで、飛べるようになる訳じゃないんだけどね」
「そうか、幻影の邪紋ってのも、そこまで万能じゃないんだな」

 そんな会話を交わしつつ、軽快に山道を駆け上がるジーンであったが、その途上、ジーンの肩に乗った状態のドルチェは、少し離れたところに、奇妙な小動物を発見する。それは、額から一本の角を生やした紫色のウサギであった。今のところ、こちらには気付いてはいない様子である。

「ジーンさん、何かいるよ」
「あれは……、この世界のウサギじゃないね。何者だろう?」
「そういうことは僕じゃ分からないな。チシャなら何か分かるかもしれないけど……。とりあえず、一匹捕まえて連れ帰ってみるか」

 ドルチェはそう言うと、小柄なフクロウの姿のままジーンの肩を降りて、こっそりとウサギに近付こうとする。ジーンが周囲に別の投影体がいないか警戒する中、ドルチェ(フクロウ)は慎重に距離を詰めて行くが、襲い掛かれる間合いに入る前にウサギに気付かれてしまった。

(やっぱり、僕は本来、目立ってナンボの存在なんだよなぁ)

 そう開き直った上で、ドルチェはウサギの前に立つと、その翼を広げて魅惑的な姿勢を取りながらウサギを魅了しようと試みる。ウサギの視線はすぐにその姿に釘付けになるが、それと同時に、ウサギの方からもドルチェに対して何らかの術が掛けられた。ドルチェがそれに気付いた瞬間、彼女は強烈な眠気に襲われる。

(これは……、睡眠の魔法? いや、魔法ではないのかもしれないけど、いずれにせよ、本気を出さないとまずいな……)

 もしここで二人とも眠らされることになったら、一巻の終わりである。そう判断したドルチェは、ウサギからの攻撃を避けつつ、フクロウの短い細足で一気に間合いを詰めて、美しい羽根模様に気を取られているウサギの喉元を、一瞬にしてその鋭い嘴で食いちぎった。
 ウサギは血を流しながらその場に倒れる。もしこのウサギが投影体だった場合、完全に絶命させると消滅してしまうため、あえてトドメは刺さない状態で、嘴で咥えて引きずりながらジーンの元へとそのウサギを連れて行く。

「ジーンさん、捕まえたよ!」

 そう言われたジーンは、ウサギを気絶させた上で傷口を止血し、懐から取り出した皮袋の中にそのウサギを放り込む。その上で、彼女はドルチェに問いかけた。

「どうする? ひとまずコレだけ一旦持って帰るか? もう少し先まで行くか。あんたにコレを持って帰ってもらった上で、私が一人でもう少し奥まで行く、という手もあるが」
「うーん、まだ本来の目的を果たしたとは、とても言えないんだよね」
「確かにな。じゃあ、もう少し先まで行くか」

 二人はそう言って、そのまま山道を登って行く。だが、やがて村の建物が道の先に見えてきたあたりで、二人同時に強烈な睡魔に襲われる。出所ははっきりとは分からないが、少なくともジーンの皮袋の中からは特に何の力も感じられない。どうやら、空間全体にかかっている魔法のような存在らしい。その力は先刻のウサギが発していた力よりも強く、しかも、精神が削られるような苦痛も同時に感じ始める。

「あぁ、これはダメだな……。さっきのウサギみたいに、出所が分かっていれば、どうにかなるんだが……」
「そうだな……。とりあえず、意識があるうちに戻ろう……」

 こうして、ドルチェとジーンはひとまず退却することになった。調査を強行出来ないほどの睡魔や苦痛ではなかったが、原因不明の変調が発生するような領域の奥地に二人だけで踏み込むのは、さすがに危険すぎると判断したようである。

2.5. 裏社会の首魁

 一方、マキシハルトではその間にアグニが領主の館に帰還していた。

「ラザール・ミルバートンとは話がついた。とりあえず、話がしたいなら『ココ』に来い、とのことだが、どうする?」

 そう言って示されたのは、村の一角に位置する寂れた民家である。サルファが確認したところ、その家は小さな商家の奉公人の住宅らしいが、どうやらその地下にラザールは潜伏しているらしい。もっとも、あえて領主にこの場所を知らせたということは、あくまで「隠れ家の一つ」でしかないのだろうが。

「あまり大勢で行って圧力をかけると、向こうの態度を硬直化させるかもしれないからな。とりあえずは俺とチシャだけで……」

 そう言ったところで、カーラが心配そうな顔でこちらを見ていることに気付く。

「……『カーラ』も背負って行くことにするか」

 そう言われたカーラは、人間体を放棄した上で「大剣」だけの状態となり、トオヤに背負われる。アグニをあえて連れて行かない方がいいと考えたのは、彼の正体が何者であれ、場合によっては「彼に聞かせない方がいい話」が発生する可能性があると考えたからである。アグニも特にその方針に対して異を唱える気はなかった。
 こうして、トオヤ(と背負われたカーラ)とチシャは、その指定された民家へと向かう。すると、扉を開けた先で彼等の前に現れたのは、見るからに不気味な風貌の老人であった(下図)。彼は二人が入ってくると、まずチシャに対して侮蔑を込めた視線で語りかける。


「お主が、あの女の娘か。フン、よく似ている。男を惑わせながらも男には屈しない、そんな厄介な女の匂いがプンプン漂ってくるわ」

 それに対してチシャが表情を変えずに無言を貫いていると、今度はトオヤに視線を向ける。

「で、そちらが、今噂の騎士団長代行殿か?」
「あぁ。知っているのなら、自己紹介は不要だな」

 トオヤが淡々とそう答えると、ラザールはふてぶてしい態度で語り始める。

「最初に言っておこう。わしにとっては、エーラムも、パンドラも、ヴァルスの蜘蛛も、ついでに言えば聖印教会も、皆同じじゃ。手を貸すかどうかは、わしの金ヅルになるかどうか次第。せっかく見つけたこの村の利権を奪おうというのであれば、お主と話すことは何もない。その上で聞くが、何の用で来た?」

 トオヤ達が見る限り、この部屋の中にはラザール以外の住人の姿は見えない。アグニの話によれば地下室がある筈なので、そこに誰かが潜んでいる可能性はあるが、現在の両者の間合いを考えれば、トオヤが剣を振るえば一瞬でこの老人の首を搔き切ることは出来るだろう(もっとも、それはこの老人が「ただの老人ならば」の話だが)。この状況下であくまで強気な姿勢でそう言い放ったラザールに対し、トオヤは淡々と交渉を始める。

「商人が利益で動くのは悪いことだとは思わない。この村の復興が早く進んでいるのも、あんたの金儲けのおかげでもあるんだろう。とはいえ、あなたの利益の根源が『一線』を超えているかどうかは確かめる必要があると思ってな」
「一つ確認するが、それは『騎士団長代行殿』としての権限なのか、それとも『ここの領主の従属聖印を預かる君主』として言っているのか?」
「どちらかと言えば『この地の領主の従属元の君主』として、だな」

 つまり、あくまでも「ロジャーの保護者として」ということである。騎士団長代行としてのトオヤに許された権限は、あくまでも「ムーンチャイルドの異変の調査」であり、それに関係している可能性があるとはいえ、民間の商業活動にまで「騎士団長代理」の名の下でトオヤが口出しするのは、後々で厄介な問題を引き起こしかねない。だが、間接的にこの村を支配している立場としてであれば、介入する権限は確かにある。

「そうか。では『一線』を超えているとは、どういうことだ?」
「あくまで、噂の確認のために来ただけだ。そう身構えてもらっても、お互いに話し合いは出来ないだろう」

 トオヤはそう言って友好的な姿勢を示そうとはするが、その目に強い警戒心が宿っていることをラザールは見逃さない。

「わしら商人は、自分の手の内は基本的には見せん。それはお主たちも似たようなものだろう。その上で、今お主が見ている限り、わしはその『一線』とやらは超えてはいないのか? もしそうならば、これ以上話すこともなかろう」
「今の段階では確かにその通りだ。だが、その『一線』を超えたと判断したのならば、我々はあなたに対して容赦はしないし、そのことはあなたも重々理解しておいてもらいたい。あなたがやりすぎない限りにおいては、あなたがこの村で利益を上げることに、我々は特に何も文句を言うつもりはない」

 トオヤとしては、搬入元が不明な商品などについて全て調べる気はない。ただ、民を蝕むような商品(中毒性のある薬物など)を取り扱おうとしているのであれば、それは看過出来ない。もっとも、今のところはそういった商品をこの村で売り捌いている様子はないのだが。

「で、ここに来たのはその釘をさすためか? 本当に聞きたいのはそれだけか?」

 実際のところ、ここまでの話はトオヤにとっても本題ではない。だが、トオヤはひとまずここでは相手の出方を見ようと考えた。

「そちらは何か、俺達が聞きたいことを知っているというのか?」
「ふむ……、もう少し勘のいい男かと思っていたがな。てっきり、北の山村のことについて聞きに来たのかと思っていたのだが」
「それに関する情報を、こちら側に売るつもりはあるか?」

 ようやく話が本筋に入ったことを察したラザールは、トオヤに対して値踏みするような視線を向けながら答える。

「値段次第だな。わしが求めているものは一つ。『ヴァレフール全土における我等の経済活動の特許状』だ。要は、我等の参入を阻もうとする既存のギルドの連中を黙らせられる免状。未来の騎士団長殿であれば、それくらいは出せるであろう?」

 現在のヴァレフールのそれぞれの街や村には、それぞれの地域の商人ギルドごとの縄張りがある。そこに外部から新規の商人達が手を伸ばそうとした場合、それは現存するギルドの商人達の既得権益を奪うことに繋がる可能性が高いため、結束してその新規参入を阻もうとする傾向が強い。そんな彼等の妨害工作を封じ込める上で、この国において実質的に伯爵に次ぐ序列2位の君主である騎士団長が発行した商業特許状は、絶大な効果を発揮することになるだろう。
 だが、今のトオヤはあくまで「未来の騎士団長候補」にすぎず、少なくとも今回の任務限定の「騎士団長代行」としての立場で発行出来るような代物ではない。当然、本気でそれを対価として提示するなら、一度ケネスに相談する必要はある。
 とはいえ、前回のヴァルスの蜘蛛との交渉で高額な代価を払わされたことの教訓もあって、トオヤはここで「あくまでもこれは『交渉のスタートライン』としてふっかけてきているだけ」ということをすぐに察した。おそらく、この要求がこのまま通るとはラザールも考えてはいないだろう。あくまでも、ここから「妥協可能なライン」にまで条件を引き下げることを前提とした上での提示であることは推察出来る。
 そのことを踏まえた上で、トオヤはあえて、最初から条件の引き下げを提示するのではなく、あえて逆方面への交渉を切り出してみることにした。

「なるほどな。確かに商人としてあなたが求めるものは分かった。しかし、それではいささか対価として大きすぎるな。もう少し他に何か出せる情報はないか?」
「たとえば?」
「裏社会にいるあなただからこそ得られる情報もあるだろう」

 実際のところ、トオヤとしては今回の任務とは無関係なところで「どうしても手に入れたい情報」がある。だが、それが何かを知られてしまっては足元を見られるので、ひとまずはこの老人の情報網がいかほどのものなのかを見極めようとしたのだが、それに対してラザールは、ニヤリと笑って想定外の答えを提示した。

「そうだな、最近手に入れている情報としては……、たとえば『マカロン』という異界の菓子を手にれた闇商人ともわしは繋がりがあるが?」

 どうやらこの老人は「次期騎士団長候補」の趣向に関する情報も既に入手済みらしい。トオヤは必死で平静を装おうとするが、露骨に動揺した表情を隠せない。

「そ、そ、そ……、それ以外は?」
「キノコやタケノコの形をした菓子類を扱う業者にも心当たりが……」
「か、菓子に関する情報は、後で個別で受け付ける! それ以外に何かないか?」

 とりあえず「菓子」が交渉材料として使えることを確認出来たことにラザールは満足しつつ、真剣な表情で問い返す。

「まず、お主らとしてはどうしたいか、だ。確かに、情報の内容が分からん状態で特許状を出せないというのも分かる。ならば『手付金』として、まずはお主の土地であるタイフォンに我らが参入するのをひとまず『黙認』してくれれば良い。特許状を出せないというのであれば、それでも構わんが、我等の参入に対して既存の商人達が妨害してくるようであれば、我等もそれに対抗するための『手段』を取らざるを得なくなる。平和的に解決するためには、特許状を出してくれた方が早いのだがな」
「……分かった。ただ、特許状を出すかどうかは、しばらく考えさせてもらいたい。ギルド側に対してこちらから『妨害しないように』と圧力をかけることは出来る」
「では、ひとまずはそれで良しとしよう。もしお主らがこの約束を違えれば、我等はいつでもこの村の復興支援からは手を引くし、お前達にとって都合の悪い方向に市場価格を変動させることも出来る。我等が本気を出せば、チョコバナナクレープの値段を現状の数倍に釣り上げることも可能だということを、心しておくが良い」

 思わずトオヤは咳払いしつつも、つとめて冷静に答える。

「あぁ、分かった。お互いに利のある取引をしよう。ただし、そちらもやりすぎるようなら、こちらも容赦はしない」
「そうだな。お互いに、お手柔らかに願おう」

2.6. 銀盾と鉄仮面

 こうして、口約束ながらもようやく条件面で折り合いがついたところで、ラザールはようやく本題の話を切り出す。

「では、まずムーンチャイルドに関してだが、あの村に関して、お主等はどこまで知っている?」

 これに対しては、トオヤとしても今更隠し立てする必要もないと判断し、素直に答える。

「こちらとしては連絡がとれない状態になっていて、殆ど情報が得られていない。今は偵察部隊の報告待ちだ」
「では、まずそもそも、なぜあの地の混沌濃度が上昇したと思っている?」
「ムーンチャイルドはもともと混沌濃度が高かったと聞いている。なんらかの要因でその均衡が崩れたということか?」
「そう。問題はその『均衡が崩れた要因』だ。何か心当たりはないか?」
「もしかして、この間の蛇神か?」
「あれは、どちらかというと『結果』だな」

 その言葉の意味がトオヤにもチシャにもよく分からなかったが、少なくともこの老人は、あのタイフォンを襲った巨大蛇神のことも把握しているらしい。彼はそのまま、今回の事件に関する一つの仮説を提示するための前提条件について語り始める。

「あの土地の混沌は、村の領主の聖印だけで抑えている訳ではない。あの村の領主の館の地下に、『鉄仮面卿』と呼ばれる男がいることを知っているか?」

 その名前に対して、トオヤの背中に背負われたカーラが、一瞬カタッと反応する。彼女の先日の夢の中には、確かに鉄仮面をつけた男が登場していた。「赤子を抱いた優しそうに微笑む女性」の隣にいたその男は、その女性の夫のようにも見えたが、仮にそれが過去に実際に見た光景だったとしても、四百年近く前の話である。今回の話と直接関係しているのかは分からない。
 一方、トオヤもまた、その人物には見覚えがあった。ムーンチャイルドの先代領主デーリーは父レオンの親友だったため、子供の頃に何度も父に連れられて同地に行ったことはある。その際に、一度だけうっかり地下に迷い込んだ際に、暗い部屋の中で鉄仮面を付けた不気味な男と遭遇したことがあった。もっとも、10年以上前の話なので、その時点でトオヤが見たその「鉄仮面」が、ラザールの言っている男と同一人物かどうかは分からない。

「何者かは分からないが、どうやらその鉄仮面の男は『特殊な聖印を持った君主』であるらしい。そして、奴の地下室には『銀色に輝く盾』が封印されており、その盾そのものに聖印の力が宿っているという。おそらくは、その『銀の盾』の力と『鉄仮面卿』の存在が、あの地の混沌濃度を下げていたのであろう」

 「銀色の盾」と聞いた時点で、トオヤとチシャの脳裏には、子供の頃から何度も聞いたことがある「英雄王エルムンドの叙事詩」の最初の一節が思い返される。

七つの聖印携えて
六つの輝石の加護を受け
五つの銀甲身に纏い
四つの異能を従えて
三つの令嗣に世を託し
二つの神馬の鞍上で
一つの宝剣振り翳し
全ての希望を取り戻す
かの者の名はエルムンド
ブレトランドの英雄王

 この歌の中に登場する「五つの銀甲」の実態は定かではない。エルムンドが銀色の防具のような何かを身につけていたのではないか、という解釈が一般的であるが、少なくとも現時点でそれらがどこにあるのかを知る者はいない。もし、その銀の盾が「五つの銀甲」の一つなのだとすれば、確かに混沌を封じるための特別な力が宿っていたとしても不思議はない。
 もっとも、あくまで四百年前の伝説にすぎない以上、この歌自体に信憑性は殆どないし、そのような伝承にあやかって「我が一族に伝わるこの防具こそが五つの銀甲の一つだ」などと吹聴する者達などいくらでもいる。ただ、その歌の最後に登場する「一つの宝剣」の娘であるカーラが、ムーンチャイルドの方向から「懐かしい気配」を感じているという時点で、「その可能性」も十分に現実性のある仮説のように思えてくる。
 無論、そんなカーラのことなど知らないラザールとしては、その「銀の盾」の正体を確かめる術はない。故に彼はその盾の正体については踏み込まないまま、自身の提唱する「今回の事件を引き起こした要因」についての仮説の説明を続ける。

「さて、数日前にお主等が討伐した『オブリビヨン』のランディには、ローズという名の側近がいたことは知っておるか? 奴はいわゆる『影の邪紋使い』で、諜報活動に秀でているだけでなく、様々な物品を各方面から盗み出しては、オブリビヨンに献上してきた実績がある。そのローズが、あの戦いの過程で行方をくらませたまま、現在も生死は不明のままなのだ。そして、奴の上官であるランディが『武具』にこだわる男だったことは、お主等も知ってるだろう?」

 そこまで聞いたところで、ようやくトオヤ達にも話が見えてきた。

「つまり、そのローズがムーンチャイルドに向かい、何か君主の身に危険が及ぶこと、もしくは混沌の均衡が崩れることをした、と?」
「そういうことだ。正直、あの盾の正体はよく分からんが、奴がランディのためにその盾を盗もうとしたことで、何かが起きた可能性はある」

 少なくともトオヤ達が戦った時点で、ランディ達の中に「銀色の盾」を持っていた者はいなかったが、その前の時点で別働隊として行動していたのであれば、それがランディに届く前に彼等が全滅し、その後でローズが別の地で活動するオブリビヨンの元へと届けた可能性も十分にあるだろう(なお、今回の物語とは無関係だが、ブレトランドの光と闇3にて戦死したオブリビヨンのアクセルは、ローズの実の兄である)。

「そしてあの村に関しては気になることがもう一つある。お主等は『ストレーガ』という名の女傭兵を知っているか?」

 トオヤは心当たりがなかったが、チシャは以前にどこかで聞いた記憶があった。「不死」の邪紋を持つ不気味な風貌の女傭兵で、その姿を見ただけで相手は震え上がって戦意を喪失すると言われるほどの実力の持ち主らしいが、半ば伝説的な存在であり、その実態は明らかではない。
 だが、この場にもう一人、そのストレーガについて誰よりも詳しく知っている者がいた。カーラである。その名を聞いた直後にカーラは、先刻よりも激しくカタカタと震え始めた。より正確に言えば、彼女はその名を聞かされるまで、その存在のことを忘れていた。だが、名前を聞いた途端に、はっきりと記憶の中から蘇ってきたのである。
 それは、カーラが「封印」されるよりも前の時代。まだ父母が健在だった頃に何度か会ったことがある女傭兵であった。彼女は父シャルプの側近の一人で、ヴァレフールの建国にも協力した英雄であると聞かされていた。そして、一昨日の夜の夢の中に現れた「赤子を抱き、優しそうな顔をした女性」こそが、まさにそのストレーガであったということを彼女は思い出したのである。
 トオヤの背中に背負われた武器が突然の記憶のフラッシュバックに動揺していることなど露知らず、ラザールはそのまま話し続ける。

「なぜかは分からんが、昔からあの村の近くではストレーガの目撃情報が頻繁に起きている。あの村は混沌濃度が高いとはいえ、そこまで頻繁に投影体が出現する土地でもない以上、わざわざ奴が出向くのは不自然だ。何か特別な事情があるんだろう。そしてつい昨日、この村の近くで彼女を見たという噂を聞いた。まだこの辺りにいるのかもしれない。もしかしたら、奴も何らかの形でこの事件に関わっている可能性はあるな」

 そこまで言われたことで、カーラの中でのもう一組の「記憶の欠片」と「認識の欠片」がはっきりと繋がった。自分がこの地に来てから感じている「懐かしい気配」の正体が「ストレーガの気配」であることを確信したのである。

「ひとまず、今言えるのはそんなところだ」

 ラザールはそう言った上で、不気味な笑みを浮かべながら付言する。

「ちなみに『追加料金』を払うなら、もう少し調べてもいいぞ」
「調べに行ってくれる、ということか?」
「いや、『わしは未来を見ることが出来る』と言えば、分かるか?」

 ここで、今までずっと黙っていたチシャが口を開く。

「おっしゃらんとすることは」

 チシャは、ラザールの正体が魔法師であることをアグニから聞いている。その系統までは知らされていなかったが、彼の職業的特性を考えれば、時空魔法師である可能性は高いだろう。

「とはいえ、わしはもう身体にガタがきておる。『そういうこと』を試みるには体力を使うからのう」

 勿体ぶった仕草でそう呟くラザールを目の当たりにして、トオヤは訝しげな表情を浮かべながらチシャに小声で問いかける。 

「チシャ、どう思う?」
「対価として、何を要求されるか次第かと」

 そんな会話が交わされる中、トオヤの背中でカーラが再び揺れ始める。彼女としては、もうここまでの情報が手に入っただけで十分なので、早くここから立ち去った上でトオヤ達に自分が思い出したことを伝えたい、という心境だった。
 トオヤはその仕草から、カーラが何かを伝えようとしていることは察しがついた。その彼女が握っている情報次第では、これ以上の「追加料金」を払ってまで更なる情報をこの老人から引き出す必要はないのかもしれない。

「ちなみに、追加料金とは具体的にいかほどかな?」

 トオヤのその問いかけに対し、ラザールは単刀直入に答えた。

「アキレスでの活動の特許状。まだそこまでは払えんか? 今のお主では」

 ラザールの表情から、これは「値切りを前提とした提示」ではなく、本気でそれを交換条件として提示していることが伺える。

「そちらの情報が不確定である以上、それは対価として釣り合っているとは言えないな」

 トオヤもまた、あっさりとそう切り返した。仮にこのラザールが時空魔法の使い手であったとしても、あくまでそこで提示される未来予知は「不確定な断片情報」でしかない。とはいえ、ラザールとしてもその返答は想定の範囲内であった。

「すぐに結論が出ぬのは、仕方がない。お主も、騎士団長殿を説き伏せるのには時間も必要であろうしな。まぁ、今日のところはこの辺りにしておこうか。また行き詰まったらいつでも来るが良い」

 そう言われたトオヤは、黙って家を出る。その傍らではチシャが一言「有益な時間でした」とだけ告げた上で、彼の後を追って立ち去っていくのであった。

2.7. 符合する情報

 帰り道の途中で、カーラは「人間体」を出現させた上で、トオヤから「本体」を降ろしつつ、語りかける。

「さっきの話、団長殿だったら、特許状を出すくらいは認めそうな気がするけど……」

 それがカーラの見解である。カーラは当初「追加料金」を払うことには否定的であったが、アキレスの免状程度であれば出したところで問題がないように思えた。実際、ケネスであればあのような類いの人物と裏取引することに、さほど抵抗はないだろう。

「あんまり『食えん狸』を抱え込むつもりはない」

 それがトオヤの回答である。あのような人物を相手に、迂闊に「付け入る隙」を与えすぎるのは危険に思えた。

「でも、これから先、レア姫を支えるには清濁併せ呑むことも必要なのでは?」
「併せ呑むには、不確定要素が強すぎる」

 トオヤはそう答えたが、とはいえトオヤとしても色々と思うところはある。彼の中では、あの老人を通じて引き出したい情報はある以上、彼とは今後も何らかの形での交渉が必要になると考えてはいた。
 そんな彼等が領主の館に辿り着いたところで、ちょうど偵察から帰還したジーンと(人間状態に戻った)ドルチェに遭遇する。

「やあ、ただいま」

 ドルチェは少し疲れた様子ではあったが、それでも特に傷を負った様子はない。

「お疲れ様でした」
「無事に戻って来て、何よりだ」

 チシャとトオヤがそう声をかけつつ、彼等はアグニとも合流した上で、改めて領主の館の一室を借りて、軍議を開くことになった。 

「結局、村には入れずに引き返してきたんだけどね」

 ドルチェはそう言いつつ、一通りの事情を説明した上で、ジーンに預けていた「角の生えた紫色のウサギ(重症状態)」をチシャに見せる。

「……という訳で、お土産だ。晩御飯には、ちょっと毒々しすぎるけどね」

 確かにそれは、この世界に存在する「自然の産物」としてのウサギにしては不自然な風貌であり、あまり食欲をそそられる色合いではない。そして、そのウサギを見るや否や、チシャはすぐにその正体が分かった。

「アルミラージ、ですね」

 その名を冠する怪物は様々な世界に存在するが、チシャが見たところ、これは「裏アレフガルド界」と呼ばれる世界から投影された個体であり、人間を眠らせて無防備化したところを攻撃する習性を持つ魔物であるという。

「やはり、投影体だったか……。とはいえ、村の近くに行った時に感じた眠気は、このウサギと戦った時の比ではなかった……」

 ドルチェのその発言に対して、今度はトオヤが口を開く。

「ということは、こいつの親玉に相当する奴がいるか……」
「もしくは、村全体にそいつがウジャウジャいるか、だね」
「どちらにしても、対策を打つ必要があるだろうな」

 なお、チシャの見解によれば、このアルミラージの睡眠波動は、おそらく普通の人であれば問答無用で眠ってしまうほどの強烈な威力だが、君主や邪紋使いならばその影響下でも一定の活動は出来るだろうと推測出来る。また、「精神を削り取られるような痛み」を与えるような能力は持ち合わせていない筈なので、おそらく「村の近くで感じた眠気」は、このウサギとは別の要因である可能性が高いように思われる。
 また、ドルチェとジーンの証言から察するに、彼女達が何らかの「精神攻撃」を受けた時点で、その周囲の状況はまだ魔境化と言えるような状況ではなかったようにチシャには思えた。つまり、変異率の類いでもない可能性が高いため、チシャの力で発散させるのも難しそうである。

「そこまで強力な眠気だとすると、耐えられるのは『不死の邪紋使い』くらいかと……」

 不死の邪紋を極めた者の中には、一切睡眠を取らなくても行動出来る者達がいる、という話をチシャは聞いたことがある。もっとも、それは「眠らなくても体力や気力を回復出来る」というだけの話で、「魔法などの混沌の作用として強制される眠気」に対しても耐性があるのかどうかは分からない。それ故に、チシャとしてはあくまでも「たとえ話」程度のつもりで挙げた事例だったのだが、それに対してカーラが予想外の反応を見せる。

「じゃあ、ツテがあるから、ボクが探しに行くよ」
「ツテ?」
「さっきの話に出てきたストレーガっていう人は、かなり強力な不死の邪紋使いなんだけど、実は昔の知り合いなんだよ。どれくらい昔かというと、だいぶ昔なんだけど」

 唐突に告げられたその宣言に対して、「さっきの話」を直接聞いていなかったドルチェが真っ先に反応する。

「君の言う『だいぶ昔』ってのは、相当な昔ってことだよね」
「そうだね。えーっと……」

 カーラは周囲を見渡し、事情を知らない二人の邪紋使いがいることを再確認した上でトオヤに目線で問いかける。

(話してもいいよね?)

 それに対してトオヤが頷くと、彼女はジーンとアグニに対して語り始める。

「具体的に言うと、ボクはヴァレフールの初代伯爵シャルプ様とも知り合いなんだけど……」

 さすがに「娘」とまで言ってしまうと説明が複雑化するため、そこまでに留めておいた。実際のところ、彼女がオルガノンである以上、四百年以上前からこの世界に存在していたと言われても、それは普通に「ありうる話」なので、ジーンもアグニもそこまで驚きはしなかった。
 その反応を確認した上で、トオヤはひとまずラザールから聞いた話をかいつまでこの場にいる者達に説明しつつ、改めてカーラに問いかける。

「ストレーガがその頃から生きている邪紋使いで、今もムーンチャイルドにいる、と?」
「そう。そして多分、例の『銀色の盾』って、エルムンド王の叙事詩に出てくるアレだよね?」

 それに対して反応したのはドルチェであった。

「五つの銀甲のうちの一つ、か」

 彼女の中では昨日の夢の中で見た絵本の内容が思い出される。あくまでもお伽話程度に認識されてる話だが、久しぶりにその響きを聞いて、なぜかドルチェの中の何かが心踊るような感覚に囚われていた。

(この感覚……、英雄王に憧れていたあの子供は、やはり過去の僕自身なのか……?)

 そんなドルチェの奇妙な感慨をよそに、カーラとトオヤは話を続ける。

「だから、彼女は初代伯から『銀の盾』を任されているという可能性もある」
「そんな昔から?」
「彼女に聞けば、そのあたりのことも教えてもらえるかもしれない」
「さっきから感じていた『気配』というのは、そのストレーガの気配なんだな?」
「その可能性がだいぶ高い。だから、頼めば話を聞いてくれるかもしれない」

 カーラとしても、なぜそう言えるのかの理由は自分でもよく分からない。それがオルガノンとしての力なのか、それともエルムンドの血族としての力なのかも不明である。だが、それでも直感的にそう認識してしまう、としか言いようがない。そして実際、テイタニアではその直感が事態の解決を導いた実績がある以上、(そのことを知らないジーンとアグニがどう考えているかは不明だが)トオヤ達の中ではそれは十分に信用出来る情報なのである。
 しかし、だからと言ってこれが事態の解決に繋がるとは限らない。

「向こうが覚えていればいいんですけどね」

 チシャはそう呟く。カーラとストレーガが最後に会ったのは、封印されていたカーラの実感としては「つい数年前」であっても、もしストレーガが400年以上眠らずに活動を続けていたのだとすれば、その間に蓄積された膨大な記憶の下に埋もれてしまっている可能性はある。

「あと、『鉄仮面』についても、ボクはちょっと心当たりがあってね。四百年前に、ボクやストレーガさんと親しい関係にあった人の中に、鉄仮面を付けてる人がいたんだ。どんな人だったかまでは思い出せないんだけど……」

 とはいえ、さすがにそれが『今の鉄仮面卿』と同一人物である保証はない。むしろ、何代にも渡ってその鉄仮面を引き継いでいる「特殊な聖印の継承者」と考えた方が自然である。

「俺も一度、子供の頃にその鉄仮面卿とやらを見たことはあるんだが……、今のところは、やはり不確定な情報ばかりだな……」

 トオヤはそう呟く。こうなると、やはりもう一度、ラザールを頼って時空魔法で何か調べさせた方が良いのかもしれない。どちらにしても不確定な情報しか手に入らないかもしれないが、それを現在の自分達の持っている情報と符号させることで、また何かが見えてくる可能性もある。
 とはいえ、既にこの時点で陽は落ちており、アグニが言うには「夜は彼等が最も忙しい時間帯だから、ラザールもどこかに出かけている可能性が高い」とのことだったので、ひとまず今夜のところはここまでの旅と調査の疲れを癒すために休眠し、明日以降に備えることにした。
 領主の館はまだ改修工事の途中だったこともあり、オブリビヨンが去って以降使われなくなっていた一部の兵舎を借りて、兵士達と共に彼等は睡眠を取る。そんな中、カーラは寝る前にタイフォンにいると思われるウチシュマの方角に向かって静かに手を合わせ、無事に今日が終わったことへの感謝と、明日以降の平穏無事を祈るのであった。

3.1. 夢見ていた夢

 トオヤは夢を見ていた。彼の目の前には、父レオンの姿があった。だが、それはトオヤの記憶にあった生前のレオンに比べて、明らかに年老いている。

「もうお前は一人前の君主だ。あとのことはよろしく頼むぞ」

 そう言いながら、レオンは聖印をトオヤに託す。周囲には、その「継承の儀式」を笑顔で眺めている母や弟、そしてウォルターを初めとするタイフォンの住人達がいるが、いずれも今現在の彼等よりも年月を重ねた風貌である。だが、トオヤはそのことに特に違和感を感じることもなく、新領主に就任した自分のことを皆が心から祝福してくれている幸せに浸っていた。

 ******

 チシャは夢を見ていた。エーラムでの修行を終え、トオヤの契約魔法師となるためにブレトランドへ帰還した彼女の目の前には、父マッキーと母ネネ、そして三人の弟妹達の姿があった。

「おかえりなさい。今日は久しぶりに、家族全員で焼肉を食べに行きましょう」

 ネネはチシャにそう言った。ヴァレフールにおいて牛肉は重要な生産品の一つであり、チシャにとっては懐かしい祖国の味である。一度は実家との縁を断ち切ってロート家の養女となった自分が、こうして祖国へと帰還し、再び生家で家族団欒の時間を過ごせることの喜びを、彼女は深く噛み締めていた。

 ******

 ドルチェは夢を見ていた。自分の目の前には、一人のエーラムの制服を着た「赤髪の女性」がいた。

「やっと約束が果たせたね。これからよろしくね、マイロード」

 「赤髪の女性」はそう言った。そして彼女の隣には、つい先刻どこかで会ったような気がする「黒髪の女性」の姿があった。

「ユーフィー、弟をよろしくね」

 「黒髪の女性」はそう言った。そして自分の手の甲には、光り輝く聖印が浮き上がっていた。長年思い描いていた夢を叶えたドルチェは、満面の笑みでその達成感を二人の女性と共に分かち合っていた。

 ******

 カーラは夢を見ていた。彼女の手の中には、一人の赤子がいる。彼女の目の前には、髪の長い青年の姿があった。前髪で顔の半分が隠れてはいるが、端正な顔立ちで、穏やかな笑みを浮かべている。
 カーラの背後には、彼女の記憶にある姿よりも明らかに年老いた父と母、そして「髪の長い青年」の背後には「優しそうな笑顔を浮かべるストレーガ」と「鉄仮面の男」の姿があった。
 カーラはこれまで、諸々の事情から、堂々と家族一緒に過ごせる機会に恵まれなかった。だが、そんな彼女が今、胸を張ってこれから先の人生を共に歩んで行ける「自分の家族」を手に入れた。その喜びを、自分に寄り添う髪の長い青年と、自らの手の中に抱いた赤子を見て、改めて心の底から実感するのであった。

3.2. 苦い目覚め

 翌朝、チシャは目を覚ました。これまでに経験したことがないほどに、起きるのが辛い朝だった。出来ることなら、あの「幸せな夢」の中で、父や弟を失うこともなく、母の正体を知ることもなく、平和な日々を過ごしていたかった、そんな想いを抱きながらも、彼女は必死で自分を奮い立たせて起き上がる。
 その後、どうにか支度を済ませて周囲を見渡すと、いつもいる筈の者達が誰もいないことに気付く。 兵士達の大半がまだ眠りについたまま、トオヤもカーラもドルチェも姿を見せない。これはさすがにおかしいと考えたチシャは、まずトオヤの宿舎へと向かった。
 幸せそうな顔で眠りに就いているトオヤの周囲から、チシャは微量の混沌の気配を感じ取る。おそらくこれは何らかの外的要因に基づいて眠らされている状態だと気付いた彼女は、全力でトオヤの頬を叩いた。すると、トオヤはパッとその瞳を開いて飛び起きる。

「おぉ! びっ、びっくりした!」

 思わずそう叫びつつ、彼は状況を把握出来ていないような表情で周囲を見渡す。自分が、本来の予定よりもかなり長々と眠り続けてしまっていたことに気付いたトオヤが慌てて身支度を整えているのを横目に、チシャはカーラとドルチェも同じ症状なのではないかと考え、彼女達の部屋へと向かう。
 最初に向かったカーラの部屋では、案の定、彼女もまた混沌の気配に包まれる形で深い眠りに就いていた。チシャが強引に叩き起こしたことで、彼女はどうにか目を覚ましたものの、彼女は複雑な表情を浮かべる。

(なんだか心地良い夢だったけど、何かおかしい……。あの男の人は誰? ボクが抱いてたあの赤ちゃんは……?)

 そんな不可思議な感覚に囚われてるカーラをよそに、今度はチシャはドルチェの部屋へと向かう。ここでも同じように眠り続けていたドルチェを無理矢理チシャが起こそうとすると、ドルチェは寝ぼけたような顔でうっすらと目を開ける。

「あぁ、起こしに来てくれたのか……。ん? チシャ?」
「チシャですよ」

 真顔でそう答えたチシャを目の当たりにして、ドルチェもようやく正気に戻る。

「そうか……、魔法師の姿で僕を起こしに来るのはチシャくらいだよな……」

 ドルチェが何を言わんとしているのかはチシャにはさっぱり分からなかったが、ひとまず起きたことを確認したチシャは、兵舎全体を回って「まだ起きていない兵士を強引にでも叩き起こすように」と指令を出す。チシャの予想通り、殆どの兵士達がまだ深い眠りの床に就いていたが、チシャの命を受けた「夜勤明けの兵士達」が片っ端から彼等を叩き起こしたことで、どうにか全員が一通り目を覚ますことになる(その過程で多少の傷を負った者もいた)。
 無理矢理起こされて不機嫌な様子の兵士達から話を聞いてみたところ、どうやら彼等は全員、「起きたくなくなるほどに幸せな夢」を見ていたらしい。そして、それはアキレスから派遣された部隊長達も同様のようである。

「この地はなぜか寝心地が良かった。夢の中で、久しぶりに弟に会えたよ」

 ジーンの何気ないその一言を聞いたドルチェは、ここで「何か」に勘付くが、ひとまずそのことは胸の奥にしまったまま、平然とやり過ごす。
 一方、アグニは下卑た笑いを浮かべながら彼等の前に現れた。

「いやー、姐さん、いい女だったなぁ……」

 チシャはそんな彼に言いようがないほどの不快感を抱いていたが、ひとまずそんな彼等の状況を踏まえた上で、トオヤ達はこの「奇妙な共通現象」について検証する。

「皆が揃って深い眠りから覚めにくい状態になっていたのだとしたら、偶然ではないだろうな。多分これはムーンチャイルドにいる何者かの影響だろう」

 トオヤはそう推測した。昨日のドルチェとジーンの報告を聞く限り、あの村には他人を眠らせる能力を持つ何者かが潜んでいると思われる。おそらくはその影響がこの村にまで及び始めたということだろう。チシャだけが自力で起きられたのは、彼女が(投影体を制御するための)人並み外れた精神力の持ち主であったが故であろうと考えられる。
 そして、皆が共通して「現実とは異なる、幸せな夢」を見ていたのも、 「目覚め」の妨害の一環なのだろう。ただ、カーラとドルチェは、それが自分にとって本当に「幸せな夢」なのかが分からなかった。二人共、過去の記憶の一部(ドルチェに至ってはほぼ全て)を失っているため、過去の自分が何を望んでいたのかも定かではない以上、あの夢が本当に「自分の望んでいた夢」なのかどうかが分からなかったのである。
 とはいえ、カーラに関してはその夢の中に「ストレーガ」や「鉄仮面」が登場していたことから、明らかに夢の内容そのものが今回の事件に深く関わっている可能性が高い。彼女はそのことを自覚した上で、ここまでの流れを口に出して思い返してみる。

「タイフォンにいた時も昔の夢を見てたんだよな……。ムーンチャイルドに近付くことでその力が強くなってきているということは……」

 その彼女の言葉を受けて、トオヤが決断する。

「あまり、悠長なことを言っていられなくなったな。ラザール・ミルバートンへの再訪は中止だ。今すぐムーンチャイルドへ行こう」
「そうだね。次に寝たら、起きれる自信はないよ」

 カーラがそう答えると、他の者達も揃って頷く。こうして彼等は全軍を率いて、ムーンチャイルドへと向かう山道へと足を踏み入れることになった。

3.3. 死なずの傭兵

 調査隊が山道を慎重に北上していくと、先鋒を務めるジーンとドルチェが同時に「同じ気配」を進行方向から感じ取る。ジーンは小声でドルチェに声をかけた。

「なぁ、昨日の『アレ』に近い混沌の気配を感じるんだが……。しかも、今回はかなり数が多いような……」
「あぁ。こっちも数が多いことは多いが、厄介だな……」

 ドルチェはひとまず後続を率いるトオヤの元へと駆け寄った。

「トオヤ、『ウサギ』の気配がする」

 文脈上、それが「例のウサギ」を意味していることはトオヤにも当然理解出来た。

「困ったな。そいつらと接触する前に、チシャの魔法で焼き払えれば早いんだが」
「固まってくれていると、狙いやすいんですけどね」

 傍らに立つチシャがそう呟きながら、いつ襲撃を受けても対処出来るようにワイバーンを固定召喚して空中に浮遊させる。その上で、ひとまず彼等は臨戦体制を維持しつつ、そのウサギの気配の漂う領域へと歩を進める。すると、その先から「例のウサギ」と思しき獣の悲鳴と喧騒が聞こえてきた。彼等が進行速度を上げて近付くと、そこには、大量のウサギに囲まれた状態で孤軍奮闘する、不気味な青白い肌の女性の姿があった(下図)。その手には、身の丈よりも長い曲刀が握られている。


「あれは……、ストレーガさん?」

 カーラの夢の中に登場した「優しそうな微笑みで赤子を見つめていた時」とは真逆の表情だが、それは確かにカーラの知っている人物であった。彼女は巨大な曲刀を振り回し、襲い来るウサギ達を次々と撃退しているが、数が多すぎてキリがない様子である。
 ここでチシャがワイバーンに攻撃を命じればウサギ達は一掃できるだろうが、当然のごとくその中心にいる「彼女」もその一撃に巻き込むことになる。見たところ彼女は苦戦しつつも怪我をしている様子もないので、もし彼女が本当に「伝説の傭兵」なのであれば、ワイバーンの一撃程度で倒れはしないだろう。とはいえ、今回の事件の鍵を握っていると思しき人物に対して、初対面からいきなり敵対行動と取られそうな姿勢を見せるのは好ましくない。
 この状況でチシャが逡巡していると、ウサギ達の一部は彼等の気配に気付いて、視線を向ける。それに対して、昨日の遭遇戦で彼等の能力を実体験しているドルチェは、率先して前に飛び出して、ウサギ達の視線を一身に集める。さすがに、あの睡眠周波を味方全体にかけられるとのは厄介なので、それなら自分一人で囮になった方が良いと考えたらしい。 
 これに合わせてチシャはひとまずドルチェを魔法で支援しつつカーラに目を向けると、彼女はチシャに「何か」を伝えるような「目配せ」をした上で、ウサギに囲まれたストレーガ(と思しき女性)に向かって突進する構えを取る。ここでカーラの意図を察したチシャは、ワイバーンに「ストレーガを囲んだ全てのウサギ」を巻き込んだ大規模な突風を巻き起こすように命じると同時に、オルトロスをストレーガの眼前に瞬間召喚して彼女を庇わせる。更にそれに加えてカーラがストレーガの前に立ちはだかった。

「我が姿は壁となる!」

 カーラはここで、あえて母親譲りの特殊な力(青い文様のような光の壁)をストレーガに見せつけるように出現させることで、どうにかその損傷を最小限に食い止める。そして、突風が止んだ時点で、周囲のウサギ達は全滅し、そしてストレーガには(彼女達の献身の甲斐あって)傷一つついていない状態であった。
 ストレーガは、一瞬、何が起きたのか分からない表情を浮かべるが、すぐにトオヤ達のことを「味方」と認識する。そして、カーラの顔を目の当たりにして、呟くように問いかけた。

「カーラ、か?」

 その声色も表情も、「夢の中に現れたストレーガ」とはまるで別人のような、氷のように凍てついたオーラをまとっていたが、それでもカーラはこの反応から、彼女が「ストレーガ」であると確信する。

「はい。お久しぶりです、ストレーガさん」
「なぜ、お前が……? まぁ、いい……」

 ストレーガは淡々とした様子で周囲を見渡しつつ、カーラに問いかける。

「ラドクリフを見なかったか?」

 その名を聞いた直後に、カーラの中の記憶が思い起こされる。それはストレーガの夫の名前。日頃は鉄仮面をつけていた、夢のなかのあの男の名前である。

「私は見ていませんが、似たような仮面の人がムーンチャイルドにいる、と聞いたことがあります」

 カーラがそう答えると、ストレーガは表情を変えないまましばらく沈黙した上で、心なしか残念そうな声色で呟く。

「そうか、お前はそこまで覚えてはいないのか……」

 どうやら今のカーラの返答は、彼女が求めている答えではなかったらしい。そして彼女は、カーラが知らない何かを知っている、ということは伺えたが、カーラがそのことについて問いかける前に、ストレーガは機先を制して言い放った。

「覚えていないのであれば、思い出す必要はない。本来、お前達には関係のないこと。私達が、一方的に想いを押し付けただけだ」

 そう言って、ストレーガはこの場を立ち去ろうとする。彼女が何を言いたいのかは分からないが、カーラとしては当然呼び止める。

「あの! 今のウサギ達、どういう存在かご存知ですか?」
「人を眠らせる魔物。だが、私には効かない。私は既に人ではない」

 淡々と彼女はそう答えた。やはりチシャの仮説通り、不死の邪紋を極めた者には、眠気を与える混沌の力は作用しないらしい。もっとも、それは自ら「既に人ではない」と自認するほどの境地に達した者だけにしか該当しない、極めて特異な事例なのであろうが。

「ムーンチャイルドという村の中で何が起こっているのかは、ご存知ではないでしょうか?」
「私もまだ確かめられてはいない。だが、ラドクリフが今、おそらくあの村から離れている。そしておそらくこの辺りのどこかにある。私はそれを探している」

 この時、彼女が自分の夫のことを「いる」ではなく「ある」と表現したことを、カーラは聞き逃さなかった。カーラにしてみれば、自分自身が自他共に認める「道具」である以上、そのような呼び方にはそれほど違和感はない。だが、それはラドクリフが「自分と同類(オルガノン)」であった場合の話である。
 カーラの記憶の中ではラドクリフに関しては「鉄仮面をつけた男性」という記憶しかない。もしかしたら、彼の正体こそがムーンチャイルドに封印されているという「銀色の盾」なのかもしれない、と一瞬考えたが、ラザールが言うには、その盾には「聖印の力」が宿っているという。もしラドクリフがオルガノンだとするならば、その身に聖印を宿すことは出来ない筈である。
 だとすると、ラドクリフは盾以外の別の何か(鉄仮面そのもの?)のオルガノンなのか。それとも、オルガノンとはまた別の「何か」なのか。自分の中の中途半端な記憶から先が引き出せないもどかしさもあってカーラは内心困惑していたが、ひとまず「今思ったこと」をそのまま提案してみることにした。

「人手が足りないようでしたら、私達も手伝いましょうか?」

 それに対してストレーガは、背を向けたまま答える。

「好きにすればいい。ただ、この辺りは危険だ。何かあっても私は守りきれる自信はない」

 そこまで言い終えたところで、ストレーガは振り返り、カーラとその仲間達に向かって、相変わらず凍てついた表情のまま、こう言った。

「あと、さきほどは助かった。礼を言う」

3.4. 英雄王の盾

 こうして、カーラ以外の面々には何の話をしているのかもよく分からないまま、調査隊はストレーガによる「捜索」を、勝手に手伝うことになった。と言っても、何を探せば良いのかも分からない状態のため、当然のごとく兵士隊も他の部隊長達も困惑していたが、ここはカーラの直感を信じた方が良いと判断したトオヤは、「とりあえず、この近辺で何か怪しい物を見つけたら報告するように」と皆に命じる。
 しばらくそのまま彼等が「山狩り」の要領で探索を続けていると、カーラは街道から大きく外れた山の急斜面の一角に、一人の男性の死体を発見する。おそらく死後数日は経過していると思われるほどに腐食しているが、その身体には「邪紋が刻まれていたと思しき跡」があり、そしてその首筋から肩にかけて「怪物か何か」に噛み付かれたような跡がある。そしてその周囲の草木の様子を見ると「大蛇が通ったような形跡」が見受けられることから、おそらくはあの「蛇神」に殺された人物ではないかと推察出来る。
 そして、その彼の周囲を更に詳しく調べてみると、その斜面を少し降った先に、古ぼけた一つの盾が転がっているのを発見する。一見しただけでは材質は不明だが、少なくとも銀色ではない。だが、カーラはその盾に見覚えがあるような気がした。

「ストレーガさん!」

 カーラに呼ばれたストレーガがその「盾」を目にした途端、それまで一度も崩れることなく氷のような雰囲気を保っていた彼女の顔が、少しだけほころんだようにカーラには見えた(それは微かながらも、カーラの夢に出てきた「優しそうな顔を浮かべたストレーガ」に通じる雰囲気を醸し出していた)。

「よくぞ見つけてくれた」

 ストレーガはそう言うと、その盾をカーラから受け取った上で、トオヤに声をかける。

「そこの者、君主だろう?」
「あぁ」
「お主は英雄の器か?」
「英雄?」
「英雄の資質が、お主にはあるか?」

 トオヤは少し考えた上で、訥々と答える。

「突然聞かれて、なんと答えて良いか分からないが……、そうだな……、俺は自分のことを英雄だなんて思ったことはない。俺は自分の手が届く範囲が狭いことは知っているし、その手が届く範囲ですら守れないものも多いことを知っている。だが、俺には配下達がいるからな。彼等と一緒だったら、乗り越えられることがあると信じている」

 そう語るトオヤに対して、ストレーガは彼を改めて値踏みするような視線で凝視した上で、カーラが発見した「盾」を手渡す。

「では、これを持ってみよ」

 トオヤが黙ってその盾を受け取ると、次の瞬間、その盾が銀色に光り出す。その美しき輝きに周囲の者達が圧倒されている中、トオヤの心の中で、正体不明の声が語りかけてきた。

「何百年ぶりであろうか。エルムンド様と我が息子以外で、我が声を聞くことが出来る者は」

 トオヤは驚いて周囲を見渡すが、トオヤ以外の誰の耳にも、その声は届いてはいない。そんなトオヤの元に、再び同じ声が響き渡る。

「気高き聖印を持つ者よ、お主の名は」
「名前? ト、トオヤだが……」

 彼は思わず、そう口に声に出して答える。当然、周囲の者達から見ると、トオヤが誰に対して話しているのかも分からない状態だが、カーラはテイアニアでマルカートと交信していた時のことを思い出して、大方の状況を理解する。
 そんな中、「謎の声」と「トオヤ」の会話はトオヤの心の中で展開されていった。

「トオヤ、か。私はエルムンド様の盾。かつて『五つの銀甲』と呼ばれた武具の一つだった。我々はエルムンド様の聖印の力によって、武具でありながらエルムンド様の従属聖印を受け取り、魂を宿した。言うならばエルムンド様の『従属武具』とでも呼ぶべき存在だ」
「……ということは、元々はただの武具だったということか?」
「ただの武具ではないがな。名工ラドクリフによって作られた、エルムンド様にふさわしい武具であり、その名工の名で私は呼ばれていた」

 これはこの世界では別段珍しい話でもない。自らの作った武具の一つ一つに名前をつける工匠もいるが、そうでなければ工匠の名そのものが武具の呼称に転用されるのが一般的である。

「我々は言うならば、エルムンド様直属の家臣であり、実際にエルムンド様も我々を七騎士と同格の側近として遇して下さった。だが、それでも所詮、あくまで一つの盾にすぎない。自分の意思で動くことが出来る宝剣ヴィルスラグとは違う。私は、そんなヴィルスラグが羨ましかった。『人』であるかのように振る舞い、『人』として持ち主に愛されることが出来る彼女のような存在に、私はなりたかった」

 どうやら彼は、エルムンドから聖印を受け取った時点では、まだあくまでも「意思を持った盾」であり、オルガノンのような「擬人化体」を有する存在ではなかったらしい。

「私はエルムンド様の側近であった一人の魔法師に頼んだ。私に『人の体』を与えてくれ、と。彼女は答えた。『かりそめの姿』であれば、与えられなくもない、と。そして彼女は私に『エルムンド様そっくりの姿』を与えてくれた。私はその姿を利用して、『エルムンド様の影武者』としての役割を、様々な戦場で果たし続けた」

 おそらく、それは現在のレア(本物)やドギ(の侍女)にかけられている生命魔法の奥義のことだろう。とはいえ、『意思を持った盾』に『人間の姿』を与えるなどという発想自体、常人には思いつかない。まさに狂気の実験とでも呼ぶべき試みである。しかも、その狂気の物語にはまだ続きがあった。

「やがてヴァレフスとの戦いを終え、エルムンド様の死が公にされた後、私は『鉄仮面』をつけた一人の『騎士』となり、混沌濃度の高い危険な土地と言われたムーンチャイルドを治める領主となった」

 この時点で「鉄仮面」をつけた理由について、この声の主は明確には説明しなかったが、おそらくは混乱を防ぐためであろう。「英雄王」の死後に同じ顔の人物が存在しているのは、あまり好ましい話ではない。ならば別の顔を改めて作り直せば良かったのであろうが、ラドクリフとしては、一度貰った「主君そっくりの顔」を捨てることに抵抗があったのかもしれない。

「だが、やがて私は一人の邪紋使いに惹かれてしまった。彼女はエルムンド様の御長男の側近であった。いつしか私は、自分が『盾』であったことも忘れて、一人の人間になった気になって、彼女との間に『子』を作ってしまった。そして『盾』と『人』の間に生まれたその子は、文字通り、身体の半分が『盾』の姿だった」

 ここに来て、更にもう一段階上の「狂気」の顛末を聞かされたトオヤは、さすがに状況が想像出来なくなっていた。「身体の半分が『盾』」と言われても、何がどう「半分」なのか想像すら出来ない。

「そ、それはどういう……?」
「本人に会ってみれば分かる」
「本人?」

 どうやら、まだその「子供」は生きているらしい。トオヤはまだ認識の整理が出来ていない状態だったが、その「声」は構わず語り続ける。

「そして、その『半人半盾』の子供の姿は、普通の人から見れば『異形』にしか見えない。私も妻もその子を愛したが、周囲の者達はその子のことを不気味に思い、忌み嫌った。一人だけ、そんなあの子を受け入れてくれた少女がいたが、彼女が故あって封印された後、我が子は完全に心を閉ざしてしまい、妻もまた、笑顔を見せることはなくなった」

 この「少女」が誰のことなのか、今の混乱した状態のトオヤにはまだ理解しきれていない。

「私は、自分が『道具』であることを忘れて、人であるかのように振舞ったことで、不幸を生み出してしまったことを悔い、再び魔法師に頼んで、元の『盾』の姿に戻してもらった。その上で、ムーンチャイルドの混沌を鎮める任務を果たすため、領主の館の地下室に封印してもらうことにした。そして、人前に出ることを恐れる息子もまた、私と共に地下で生き続けることを選んだ。息子は私の鉄仮面で己の顔を隠して、私と共にこの地の歴代の領主に仕えることになった。妻はこの地の領主に、私と息子を子々孫々守り続けるように契約を交わし、そのために莫大な資金を稼ぎ、以降の歴代の領主に貢ぎ続けることを約束した」

 矢継ぎ早に語られる荒唐無稽な話にトオヤは困惑しつつも、どうにか状況を整理していた。カーラから断片的に彼女の過去の記憶の話を聞いていたこともあり、どうやらこの盾の「妻」がストレーガらしい、という推測に至ったことで、どうにかトオヤは納得したような表情を浮かべる。
 そのトオヤの様子を見て、傍らに立っていたストレーガは声をかけた。

「ラドクリフは全てをお主に話したようだな」

 トオヤがそれに頷くと、彼女はそれとほぼ同じ説明を、その場にいる人々に伝える。一般兵士達にしてみれば、何を言っているのかさっぱり分からない話であったが、その話を聞いたカーラは、ここでようやく全てを思い出した。
 父シャルプの側近であったストレーガと銀仮面卿ことラドクリフの間には、一人の息子がいた。その少年の名はクリフト。原理は異なるとはいえ、「人と武具の混血児」にして「聖印と混沌の混血児」でもあるという意味で、カーラとクリフトは極めて似通った境遇であた。そしてその特殊な出自故に、自分自身の存在自体を秘匿されていたカーラにとっては、クリフトはほぼ唯一の「歳の近い遊び相手」であり、かなり仲は良かった。
 そのことを思い出した上で、タイフォンとマキシハルトで見た夢を思い返すと、カーラはその場で頭を抱えて唸り出す。あの夢の持つ意味を理解したことで、彼女自身の中で今までに経験したことのない理解不能な感慨が湧き上がってきたのである。
 トオヤはそんな彼女の異変に気付きながらも、まずはストレーガに問いかけた。

「さっきの話通りならば、あなたの息子はまだ村にいるのでは?」
「あぁ。おそらくまだ館の中にいるのだろう。なぜラドクリフがここにあるのかは分からんが」

 それについては、トオヤ達の間では概ねの予想はついていた。ラザールの仮説に基づいて考えれば、おそらくラドクリフの近くに転がっていた死体の正体は、オブリビヨンのローズであろう。彼が領主の館から盾を不用意に盗み出したことで、封じ込められていた村の混沌が蘇り、それがあの「蛇神」を呼び出し、そして彼を殺害したのだと推測される。蛇神は既にトオヤ達の手で倒されたが、今も村に何らかの異変が起きているということは、少なくとももう一つ、何か別の魔物が現れ、それが今も村に残っている可能性が高い。
 トオヤ達がその推測に辿り着いたところで、先刻までこの遺体(推定:ローズ)を埋葬しようと考えていたカーラは、彼の身勝手な行動への怒りから、その必要性を感じなくなっていた。とはいえ、邪紋使いの死体をそのまま放置しておくのも、何か新たな災害の原因になりかねないような気がしたトオヤは、ひとまずアグニに「火葬」を命じる。その上で、まだ銀色に光り輝いた状態の盾を見つめながら言った。

「とりあえず、こいつを館に戻せばいいのかな」

 それに対して、カーラが微妙な表情を浮かべながら進言する。

「あの……、その方を『こいつ』と呼ぶのはやめてもらいたいかな……」

 カーラにしてみれば、ラドクリフは「幼馴染の父」であり、「母の友」であり、「父と祖父の側近」である。いかに武具とはいえ、あまりぞんざいに扱われるのは心地が悪かった。
 そして彼女は、幼馴染のクリフトが「銀仮面卿」として今も村にいるという上述の仮説から、自分の中でもう一つの派生仮説が湧き上がってくる

(もしかして……、彼もボクと同じ夢を見てる?)

 マキシハルトで見た夢に登場した「髪の長い男性」が彼なのだとしたら……、と考えると、彼女はなんとも言えない心境に陥ってしまうのだが、いずれにしても、まずは村に向かわなければならない。そう決意した彼女は、ストレーガに問いかける。

「ストレーガさんも、ついて来てもらえますか?」
「無論だ。だが、あの村は今、人々を眠らせる能力を持つ強力な投影体が支配している。私が昨日、村に行った時には、その投影体に操られた『夢遊病状態の村人達』が私に向かって襲って来て、領主の館にも近付けない状態だった。さすがに、村人相手に本気で戦う訳にはいかないからな。それで、ラドクリフを連れて行けばどうにかなるかと思ったのだ。私ではラドクリフの力を引き出すことは出来ないが、まだクリフトが無事ならば、この盾を届ければあの地の混沌を無効化することが出来る筈……」

 ストレーガ曰く、「英雄の資質を持つ君主」がラドクリフの魂と共鳴することが出来れば、一定時間、周囲の全ての混沌の力を無効化出来るらしい。ただし、その力はその周囲の空間全体に影響を及ぼすため、ストレーガを初めとする味方の邪紋使いの力も使えなくなるし、チシャも魔法を使うことは出来なくなる。先刻の話を聞く限り、トオヤでもこの盾の力は使えるようだが、現状、君主が一人しかいないこの調査隊が使うには、利点よりも欠点の方が大きいと言えよう。

「まぁ、最後の切り札だな。俺達が使うには相性が悪い」

 トオヤはディフェンスには定評があるが、オフェンスに関しては全く無力である。彼一人だけが力を使える状態でも、事態の解決には繋がらない。せめて「もう一人の君主」であるクリフトの無事が確認出来るまでは、使用は控えた方が無難だろう。
 一方、その話を聞いたカーラは、その力を発動されたら自分自身の存在そのものが消えてしまうのではないか、という恐怖を感じたのだが、それについてはストレーガが否定する。あくまでも混沌が不可思議な現象を引き起こそうとする作用を無効化するだけで、一度「物質」として収束した投影体そのものを消失させられる訳ではない。ましてやカーラの場合は体の半分が人間である以上、存在そのものが失われることはありえない、というのがストレーガの見解である。
 その話を聞いて一安心したカーラであったが、そこでボソッと「あること」に気がつく。

「ドルチェ君の姿はどうなるのかな?」

 その疑問に対しては、さすがのドルチェも動揺を隠せない表情を浮かべながら絶句する。確かに、ドルチェの今の姿は混沌の力によって上書きに上書きを重ねた上での姿であり、「元の姿」が何だったのかをドルチェ自身が覚えていない(「パペット」でさえも、あくまで「仮の姿」である)。今の自分を形作っている「邪紋による仮の姿」の解除方法を忘れてしまったドルチェだが、ラドクリフの力で強制解除させられれば、確かに、一時的に「元の姿」に戻る可能性もある。

(僕の「本当の姿」……?)

 かつての「パペット」であれば、元の姿が判明したところで、特に深い感慨を抱くこともなかっただろう。「そうか、これが本当の僕か。でも、これはもう『今の僕』ではないし」などと言って、また新たな姿を上書きすることで「影武者」としての日々に戻っていただろう。
 だが、今の彼女はもはや「何者でもないパペット(人形)」ではない。「トオヤを愛する一人の女性としてのドルチェ」としての人格が既に確立されてしまっている。その一方で、彼女はここ数日の夢の内容と、そしてこの日の朝の「とある人物」の証言から、自分の「正体」に気付き始めていた。まだそれは今の時点ではあくまでも「仮説」であるが、ここで「本当の姿」が明るみになることで、その仮説の正しさが立証される可能性がある。しかも、それは色々な意味で「今のドルチェの存在価値そのもの」を否定しかねない仮説であった。
 つとめて冷静に振る舞おうとするドルチェであったが、明らかにその表情がいつもの「飄々と周囲を翻弄する幻惑の邪紋使い」ではなくなっていることに気付いたトオヤは、その点についてはあえて触れなかった。彼としては、ドルチェの正体が何者であろうと、「今のドルチェ」を愛する気持ちは変わらない。だからこそ、彼女のどんな過去をも受け入れる覚悟は定まっていたが、だからと言って、彼女が「知られたくない」と思っている過去を無理に暴く気もない。よほどのことがない限り、この盾の力は彼女がいる場では使わないようにしよう、と改めて決意する。

3.5. 眠りの女王

 こうして「ストレーガ」と「ラドクリフ」という、遥か昔の英雄の助力を得た彼等は、そのまま村に向かって進軍を続行する。やがて村の入口に差し掛かったところで、トオヤ達は強烈な眠気に襲われる。睡眠欲を完全に克服しているストレーガと、強靭な精神力を持つ召喚魔法師のチシャ以外は、昨日のドルチェやジーンと同様に激しい精神的苦痛に襲われるが、それでも彼等は怯まず直進する。どうしても耐えられなくなった時はトオヤがラドクリフの力を発動させればいい、という開き直りが、かろうじて彼等の意識を保ち続けていた。
 そして村に入ったところで、彼等の前に激しい濃霧が広がり、その中から奇妙な風貌の女性型投影体が現れる(下図)。雪のように白い肌の上に、露出の多い黒衣の装束をまとった彼女は、体格自体は(先日の蛇神とは異なり)普通の人間と同程だが、彼女の周囲には強力な混沌の力が広がっていることが伺えた。


「おぬしら、なにしにこの村に来た? わらわの術で倒れぬということは、相当な精神力の持ち主だな」

 それに対して、真っ先に答えたのはカーラであった。

「幼馴染に会いに」

 強い決意を込めた瞳でその黒衣の投影体を睨みつけるカーラに対し、黒衣の女性は彼女が何者なのかをすぐに理解した上でこう言った。

「おぬしは既に『夢』の中で会えたのではないのか?」

 どうやら、彼女がここまでの一連の「眠り」の事件の首謀者のようである。彼女はゆったりとした口調で、カーラにそのまま語り続ける。

「わらわの生み出す夢の中は良いぞ。なんでも思うがままじゃ。いくらでも人生はやり直せる。気に入らない結末は何度でも書き換えられる。好きな場面は何回でも読み返せる。わらわの夢の中で『永遠の幸せ』を享受し続ければ良かろう」

 カーラの予想通り、彼女は「他人を眠らせる能力」と同時に「他人に幸せな夢を与える能力」の持ち主であるらしい。ということは、カーラの見た「あの夢」は「カーラ自身が望んだ夢」であるということになるのだが、果たしてそれが本当なのかどうか、確かめる術はない。いずれにせよ、カーラの中ではこの黒衣の女性に対して、沸々と怒りが湧き上がっていた。

「つまり、現実で会う権利はない、と言いたいのかなキミは?」

 顔を引きつらせながらそう問いかけるカーラに対し、黒衣の女性はため息をつきながら、呆れたような口調で問い返す。

「『現実』などというものに何の価値がある? この世界がおぬしらの言う『現実の世界』だとして、それと『わらわの作り出す世界』と、何が違う? 『この世界に住む一人一人』の心の中に『無数の世界』がある。『この世界』とて『誰かが作り出した妄想の世界』かもしれん。だとすれば、このように不都合の多い『現実の世界』など、出来損ないの三流劇だとは思わぬか? そんな世界など放置して、わらわの夢の世界に没頭した方が、おぬしも幸せであろう?」

 黒衣の女性のそんな哲学的な問いかけも、今のカーラには無意味であった。

「誰かに作られた予定調和なんて、ボクはほしくないけどな」

 そう言って、カーラは剣を抜く。その様子を見ながら、黒衣の女性は肩をすくめた。

「まぁ、そこの面倒なものを持ち込んできた時点で、こちらの言うことを聞く気がないことはわかっておったがな」

 彼女はトオヤの左手に装備された「銀色に輝く盾」を見ながら、そう呟く。

「話が早くて助かる」

 トオヤがそう答えた上で臨戦態勢を整えると、黒衣の女性は再びカーラに視線を移した。

「だが、そもそもわらわを呼び出したのは、お主の幼馴染なのだがな。やつの『鬱屈した心』がわらわを呼び出したのだ」

 投影体の出現要因には様々な説がある。召喚魔法師による意図的な召喚術以外で収束した投影体に関しては、この世界の誰かの願望に呼応して出現するという説もあれば、投影される側に内在する何かが要因ではないかとする説もあるが、はっきりしたことは分かっていない。ただ、クリフトが生まれながらにして特殊な力を持った存在なのだとすれば、彼の意識が投影体の出現に影響を及ぼしたという可能性も、ありえない話ではないだろう(とはいえ、それはカーラの中では、今のこの事態を放置して良い理由にはならないのだが)。

「そういえば、わらわと共に呼び出された『蛇の化け物』は、どこかに消えてしまったな。せっかく、奴にも『奴が望む夢』をくれてやったというのに。どうやら奴もまた、夢の中だけでは満足出来なかったらしい」

 「蛇の化け物」ことクンダリーニがこの世界に出現したのもクリフトが原因なのか、それとも偶発的な出現だったのかは分からない。ただ、彼女がウチシュマの夢の中に出現したのは、紛れもなくこの黒衣の女性の仕業である。より正確に言えば、クンダリーニが作り出した夢の中に、ウチシュマの夢が引き摺り込まれたのである。もっとも、その夢の世界の支配者の半分はウチシュマでもあったため、クンダリーニがいくら彼女を攻め立てようとも、ウチシュマにはそれが「心地良いマッサージ」程度の影響しか与えられなかったのであるが(なお、そもそもウチシュマがそのような夢を見ていたことを知る者自体、この場には誰もいない)。
 そして、ここまで黙って話を聞いていたドルチェが、ここでようやく口を開く。

「まぁ、そうだろうね。僕らだってその蛇のなんちゃらさんと同じだよ。夢は所詮、夢なのさ」

 ドルチェもまた、自分がなぜ「あのような夢」を見たのかは分からない。今の自分が「昔」を思い出したいと考える要因には心当たりはなかったし、少なくともそれは今の彼女にとっての「幸せな未来」ではない。だが、もし仮にドルチェが「今の自分が望む夢」を見ていたとしても、やはり、彼女はそれだけで満足するには至らなかったであろう。
 あくまでも彼等が敵対的な姿勢を崩しそうにないことを悟った黒衣の女性は、再びため息をついた上で、静かな声色でこう告げた。

「ならば仕方がない。その盾を手放す気がないのであれば、力づくで奪わせてもらおう」

 彼女がそう言った瞬間、彼女の周囲を取り囲む民家から、おそらくは半眠状態で操られていると思しき村人達が鋤や鍬を握った状態で現れ、彼女の周囲を取り囲む。その様子を見ながら、それまで黙って彼女の様子を確認していたジーンは、周囲の者達に助言する。

「あいつはおそらく、人々の夢を操る異世界の魔物『バク』の投影体だね」

 ジーン自身が実物を見たことがある訳ではないが、噂には聞いたことがある。通常、それは「白黒の四つ足の獣」の姿で出現することが多いが、彼女のように「人」の姿(擬人化体?)で現れることもあるという。

「以前に聞いた話によれば、あの姿で出現したバクは、その周囲の空間そのものを支配することによって、自分の身体をその周囲の空間内の別の場所へ瞬時に移動させることが出来るという、面倒な存在らしい」

 つまり、村人達に敵を攻撃させた上で、自分の周囲に敵が迫ってきたら、即座に瞬間移動で逃げることが可能、ということである。もっとも、あまりに遠くには逃げられないので、辺り一面をチシャの魔法かアグニの能力で焼き払うという道もあるが、その場合は村人達にも甚大な被害が出ることになるだろう。
 トオヤは頭を悩ませる。ラドクリフの力を使えば村人達を一時的に解放することは出来るかもしれないが、自分以外の者達が「能力」を失った状態で、黒衣の女性(推定:バク)を倒せる保証もない。それに加えてドルチェの先刻の様子もあり、なるべくこの力は使いたくないと考えていた彼は、別の解決策を考える。

「俺が村人達を食い止めている間に、カーラ達には先に館に行ってもらった方がいいかもしれないな」

 館の中に銀仮面卿(クリフト?)がまだ存在しているなら、彼との接触がこの事件の解決に繋がる可能性もある。だが、彼等がこうして方針を協議している間に村人達が彼等に向かって襲いかかろうとしている。彼等をかいくぐって村の中心部まで向かうのは難しそうだが、この時、チシャの傍らにはお誂え向けの従属体がいた。

「では、ワイバーンに乗って下さい」

 チシャがそう言うと、トオヤ率いるタイフォン軍、アグニ率いる悪鬼隊、ジーン率いる夜梟隊が盾となって村人達の前に立ちふさがっている間に、他の者達がワイバーンに飛び乗る。この時、トオヤはあえて盾を(事態解決の鍵になるかもしれないと判断した上で)カーラに託した。
 そしてワイバーンが空高く飛び上がって領主の館へと向かおうとするのを確認した上で、その場に残ったトオヤ達は村人達の攻撃をかわす中、アグニが黒衣の女性(推定:バク)へと遅いかかろうとするが、ジーンの推察通り、あっさりと避けられる。

「チッ、面倒な相手だな……。旦那、いっそ、この村ごと……」
「ダメだ。村人に傷を付けることは許さん。チシャ達が戻ってくるまで、なんとかここで時間を稼ぐんだ!」

 トオヤは聖印を掲げて部下達の士気を高揚させつつ、持久戦を前提とした陣形を部下達に指示する。どちらにしても、トオヤ隊が本気を出して防御に徹すれば、(おそらく混沌の力で強化されているとはいえ)村人が振りかざす農具程度の威力では、傷をつけることは出来ない。ここから先は、どちらが先に気力を使い果たすかの我慢比べとなる。トオヤの聖印の力が尽きるまでに、チシャ達が打開策を見つけて帰って来ることを信じて、彼等はこの霧の戦場をただひたすらに耐え続けるのであった。

3.6. 孤独からの解放

 どうにかワイバーンに乗って館へと到着したチシャ達は、開け放たれたままの扉をくぐって中に入り、地下室へと向かう。すると、そこには床に仰向けで倒れた姿勢で眠り続けている「鉄仮面をつけた男」(下図)の姿があった。


 カーラは確かにその鉄仮面には見覚えがある。そして、今のこの仮面を付けた「彼」については、「カーラの記憶にある彼」よりも遥かに大柄に成長していたが、それでもカーラは、この男が「探し求めていた幼馴染」であることを確信する。
 カーラはその男の脇腹に、全力の拳を叩き込んだ。チシャがカーラ達を起こした時も、確実に目覚めさせるために全力で叩いたが、所詮は生身の「かよわい少女」にすぎないチシャの平手と、「生まれながらの武器」であるカーラの拳では、その威力は天と地ほどの違いがある。その拳が無防備な脇腹に直撃したことで、当然のごとくその鉄仮面の男は即座に目が醒める。

「カーラ……? そうか、目が覚めたと思ったが、まだ夢の中にいたか……」

 その声は、さすがに多少声変わりはしていたが、紛れもなくカーラの記憶にある「クリフト」の声であった。

「もう一発、いる?」

 笑顔で拳を握りながらそう言い放つカーラを目の前にして、クリフトが混乱した様子を見せていると、彼女の隣に立つドルチェはこう言った。

「見たものが信じられないのは分かるが、目を覚ませ」

 ドルチェ自身、つい半日ほど前に同じような境遇に陥っていたからこそ、彼の心境はある程度まで理解出来たらしい。
 と言っても、実際に彼の心理を本当の意味で理解出来る者など、まずいないだろう。何百年も眠り続けていたカーラとは異なり、彼はその何百年もの間、暗い地下室の中で、両親以外と顔を合わせることもなく、ただ混沌を鎮めるために「存在し続けるだけ」の任に就いていたのである。それが彼自身が選んだ道とはいえ、それは想像を絶する孤独との戦いであった。その彼の前に、数百年ぶりに「唯一、自分と素で語り合える幼馴染」が現れたのである。困惑するのも当然であろう。

「では、この痛みは本物……? どうしてお前がここに? それは……、父上!?」

 「ラドクリフ」を目の当たりにしたクリフトがそう言いながら「父」をその手に受け取ると、「その盾」は再び銀色に光り始めた。そして、クリフトの心の中で「親子の会話」が繰り広げられる。当然、周囲の者達にはその内容は分からないが、どうやらラドクリフはクリフトに対して「現状」を説明しているらしい。

「そうか……、私のせいでそのようなことに……。では地上は今……」

 周囲から見るとそんな独り言のような言葉をクリフトは呟きつつ、すっと立ち上がる。

「こうしてはいられん!」

 彼はそう言って、盾(父)を持ったまま、地上への階段へと向かおうとするが、その途上で振り返って、カーラ達にこう言った。

「私は今から、この盾の力を使う。だから、しばらく地上には出ないでほしい」

 どうやら、地下にいる限りは影響を受けないらしい。それに対してドルチェ、チシャ、カーラの三人は揃って頷く。

「まぁ、そうだな。ついて行っても役に立たないと分かっていてついていく趣味はないさ」
「同じく」
「あとでお説教ね」

3.7. 聖光と追撃戦

 領主の館の扉を開けたクリフトは、トオヤ達と村人による喧騒のする方角へと走り出し、そして「銀の盾」を掲げて「力」を解放した。彼を中心に眩い光が拡散し、村人達は次々とその場に倒れて行く。
 その異変に気付いた黒衣の女性は、自らの力が失われていくのを実感しながら、クリフトを睨みつけた。

「き、貴様、目覚めおったか……。貴様のために夢の楽園郷を作ってやったのに、この恩知らずが!」
「現実の彼女が私を起こしに来てくれた。もうお前は必要ない!」

 鉄仮面の奥から鋭い瞳で黒衣の女性を睨みつけながら、クリフトはそう言い放った。その言葉のやり取りだけを聞けば、確かにそれは「恩知らず」であり、黒衣の女性からしてみれば「不条理」な話である。だが、もはや完全に「正気」を取り戻した状態のクリフトと、その手に掲げられたラドクリフを目の当たりにして、彼女はその場からすぐに逃亡を始める。トオヤに加えて「もう一人の君主」が現れたことで、彼女は完全に無勢を悟ったらしい。

「逃すか!」

 アグニがそう言って炎を放とうとするが、銀の盾の効果によって、今の彼は何も生み出すことが出来ない状態となってしまっていた。追跡能力には定評がある筈のジーンも、この光の下ではいつもの俊足を発揮出来ない。かといって、この場でこの「盾」の力を解除してしまっては、村人達が再び襲いかかってくる。
 つまり、この状況下でまともに追撃が可能なのは、トオヤとクリフトしかいない。だが、クリフトは周囲の混沌の制御に集中しているためこの場を離れる訳にはいかず、そして重装備で機動力に欠けるトオヤでは彼女の足に追いつくのは難しい。

「このまま奴を逃す訳にはいかない! だが……」

 トオヤは自分一人では彼女に追いつけないことを察した上で、ひとまずチシャ達と合流するために領主の館へと向かう。そして、クリフトが周囲の混沌を一通り無力化した時点で、一旦、その力を停止させると、チシャ達も地上に上がり、そして今度はトオヤもチシャのワイバーンに乗って、黒衣の女性が走り去った方向へと追撃する。
 ワイバーンの飛行速度で周囲を飛び回った彼等は、獣道から下山する形でこの場から離れようとする黒衣の女性の姿を発見する。そのことに気付いた彼女は、盾の効果が無力化していることに気付き、再び精神攻撃を仕掛けるが、トオヤ達は苦しみながらもそのままワイバーンに乗って彼女に向かって特攻する。
 まず、ドルチェが彼女に接敵した上で邪紋の力で彼女の視線を自身に釘付けにさせると、ドルチェからいつもの「合図」を受けたカーラが自身の本体を巨大化させて、あえてドルチェを巻き込む形で十字切りを彼女に向かって仕掛ける。

「待て! こやつはわらわの新たな下僕となる者! 殺させる訳にはいかぬ!」

 黒衣の女性はドルチェを庇うことでその十字切りを二重に直撃し、その直後にドルチェが自身を庇っている彼女の急所に至近距離から(残された邪紋の全ての力を込めた)短剣を突き刺す。自分が庇った筈の相手からの不意打ちによろめいたところに、チシャがラミアを瞬間召喚して特攻させたことで、彼女はその混沌核ごと一瞬で破壊された。

「この、恩知らず共がぁぁぁ!」

 その最期の断末魔と共に、人の夢に巣食う「擬人化バク」の投影体は、この世界から(ひとまず?)姿を消したのである。

4.1. 領主の責任

 諸悪の根源と思しき投影体を打ち倒し、その混沌核(の残骸)の浄化吸収を終えたトオヤ達がムーンチャイルドに帰ると、村の領主のバルザックと契約魔法師のジャミルが出迎えた。どうやら彼等もまた、あの投影体の力で眠っていたようである(ただ、彼女が夢遊病状態にして操ることが出来るのは「力を持たぬ一般人」のみであり、君主や魔法師のような一般人よりも強固な精神力を持つ者を操ろうとすると、逆に目を覚ます危険があったため、彼等はそのまま自宅で眠らされ続けていた)。

「詳しい話はストレーガ殿達から聞きました。面目次第もございません。我等が不甲斐ないばかりに……」

 バルザックはそう言って深々と頭を下げた。彼等は先日のオブリビヨン騒動の際に、ランディ達がムーンチャイルドに矛先を向ける可能性があると考え、南方の街道方面に警備を集中させていたのであるが、その結果として領主の館の警備が手薄となり、その隙を突かれて「盾」を盗まれてしまったらしい。

「この不始末、いかなる処分もお受けいたします」

 そう言って、バルザックは自身の聖印をトオヤに差し出した。それに対してトオヤは「騎士団長代行」として答える。

「此度の一件は確かに領主としての失態ではある。しかし、長年あなたがこの地を治めてきた功績に鑑みるのであれば、そう易々とその聖印を差し出されても困る。追って沙汰は下すが、引き続きあなたにこの地を任せることになると思う」

 実際のところ、今回の出来事は確かに結果的にはバルザックの判断ミスが原因ではあるが、あの状況下において南方からの攻撃を警戒すること自体が間違っていたとも言えない。それに、混沌濃度の高い危険な地域において、ラドクリフとクリフトという「英雄王の遺産」とも言うべき特殊な存在の秘密を預かる者の首を、そう易々と挿げ替えるのは良策とは言えないだろう。

「分かりました。では、まずは村人の安全を確認してきます」

 そう言って、バルザックは村の各地の巡視のために彼等の前から走り去って行く。その上で、その場に残った契約魔法師のジャミルは、トオヤ達にこう言った。

「クリフト殿が、館の地下室にてお待ちです。皆様にお話したいことがある、と」

4.2. 人として生きる道

 トオヤ達はジャミルに案内される形で、領主の館の地下室へと案内される(なお、この時点でジーンとアグニは村の近辺に混沌の残骸が残っていないかどうかの調査に出ていた)。地下室には、クリフトとストレーガ、そしてラドクリフの三人(?)が揃っていた。
 案内を終えたジャミルが地上へと戻ると、クリフトはゆっくりと、トオヤ達の前でその鉄仮面を外す。その下から現れたのは「ストレーガに似た端正な右半分の顔」と「父親と同じ銀色の金属のような何かに覆われた左半分の顔」から成り立った、カーラにとっては懐かしい「彼の素顔」であった(下図)。よく見ると、その左半分の顔の一部には、ストレーガの邪紋と良く似た文様が刻まれている。


「申し訳ございませんでした」

 クリフトはそう言いながら、深々と頭を下げ、まずは自分の「正体」について明かす。

「私の体の半分は、このように、生まれながらにして『盾』で覆われています。それと同時に、私は父の力を受け継いで、生まれながらに『特殊な聖印』を持っていました。しかし、私の聖印は不安定な存在であり、私の精神が不安定になると混沌核に書き換わりそうになり、それを私が必死で抑えようとすると、その周囲の混沌濃度が高くなってしまう、そんな『災厄をもたらす聖印』だったのです。ですので、私はあまり人前には出ない方が良いと考え、この地下室で父と共に三百年以上の間、歴代の領主殿の下で仕え、この地の混沌を鎮め続けると同時に、自分自身の精神を抑えていたのです」

 事前に「父」からある程度の話を聞いていたこともあり、トオヤは彼の話を素直にそのまま受け入れる。

「しかし、不意を突かれて『父』を賊に奪われたことに動揺した私の聖印が、もともと混沌濃度が高かったこの地の空気と最悪な形で同調してしまい、やがて二体の凶悪な投影体をこの世界に生み出してしまったのです。私は自分一人でもなんとかそれを封じようとはしたのですが、巨大な蛇の投影体との戦いで苦戦している間に、もう一人の投影体によって眠らされ、そのまま奴の生み出した夢の世界に引き込まれてしまいました」

 そこまで言った上で、クリフトはカーラに視線を向ける。

「カーラ……、私はずっとお前が羨ましかった。この私の『異形の姿』に比べれば、お前はより『人間』に近い。同じ『混沌から生まれた者』でありながら、『より人間に近い、人間に愛される姿』を持つお前のことを羨ましく思い、心のどこかで嫉妬していた。それと同時に『お前の存在』が『私の心の支え』でもあった。夢の中でお前と再び会えた時、現実には存在しない『私が心のどこかで願っていた未来』という妄想の世界に浸り続けることで、私の心は完全にあの投影体に支配されてしまった」

 どうやら彼もまたカーラと「同じ夢」を見ていたようである(ただ、もしそうだとすると、正確に言えばそれは「未来」ではなく、何百年も昔の「実現出来なかった過去」のだが)。

「私を目覚めさせてくれたお前には、いくら感謝してもしきれるものではない。その上で、私はこの罪をどう償えばいい?」

 首を差し出せと言われれば素直に応じる程の覚悟でクリフトはそう言ったが、それに対してカーラは、露骨な不満でその顔を歪ませつつ、全くクリフトが想定していない言葉を浴びせかける。

「羨ましいといえばさぁ……」

 それは、今までにトオヤ達の前では決して見せたことがない「本気の愚痴」を語る時のカーラの顔であった。

「あのね、ボクからすればね、今でも両親が健在な君の方がずっとずっと羨ましいんだけど! しかも君、割と頻繁に両親に会えてたんでしょ? ボク、ずっと意識がなかったとはいえ、ずっとずっと一人きりだったんだよ! 目覚めてもしばらくは会えなかったんだよ! これが羨ましい以外の何だと思うんだい!」

 捲し立てるようにそう言ったカーラにクリフトはやや面食らいつつも、素直に彼女の言葉を受け止める。

「それはそうかもしれない。だが、私にとっては、両親に会える喜びより、お前に会えない悲しみの方が大きかった」

 あっさりとそう言い切ったクリフトに対し、カーラはどう反応すれば良いのか分からず、一瞬、言葉を失う。だが、彼のその「気持ち」を察した上で、先程から確認したかったことを、そのまま彼に投げかけてみた。

「『ボクが見てた夢』は『君が見てた夢』と同じなんだよね?」

 実際のところ、カーラがどんな夢を見ていたのかは、彼女が何も語っていない以上、本来ならばクリフトに分かる筈がない。だが、彼はなぜか、概ねその内容を察していたようである。

「あぁ。それはおそらく、私の妄想がお前の夢の中に入り込んでしまったのだろう。私の願望に付き合わせてしまって、申し訳なかった」
「えーっと……、うーんと……」

 カーラは周囲を見渡し、皆がいることを確認して躊躇しつつも、聞きにくいことをあえてそのまま問い質す。

「キミは、ボクと所帯を持ちたかったのかい?」
「それが叶わぬ愚かな夢だと分かっていても、そんな叶わぬ未来にしか希望を見出せなかった。私と違ってお前は美しい。人に愛される素質を持ったお前と、人から忌み嫌われる私では、そんなことは叶わぬことは分かっていたんだがな」

 過剰なまでに卑屈な劣等感をそのまま投げかけられたカーラは、思わずため息をつきつつ、視線をそらしながら小声でボヤく。

「……幼い頃は、顔の半分とはいえ、そっちの方が可愛くて、ずっと悔しかったんだけどな」

 そんな二人の会話に対して、彼の「母親」が横から口を挟んだ。

「すまない、こいつは人との接し方が分からないんだ。だから、こういう言い方しか出来ない」
「ボクもあんまり変わらないんですけどね。起きてから五年間、人に囲まれていた程度で」
「その『五年の差』が『今の差』なのだろう。だから、今のこやつの言うことが突飛に聞こえるのは、何百年もの間、人と接する機会を作ってやれなかった私のせいだ。そのために、伝えるべき言葉で伝えられていなくて申し訳ないと思う。だが、お前がいれば、クリフトも『人として生きる道』を見出せるかもしれない。母としての、身勝手な願いではあるが……」

 そう言われたカーラは、少し考え込む。彼と「所帯」を持つかどうかはともかく、彼の近くに居続けることはカーラとしてもやぶさかではない。ただ、自分はあくまでも「タイフォンの領主トオヤの剣」であり、クリフトにはこの地で父と共に混沌を封じ続けるという任務がある。ただ、後者に関しては、必ずしも彼がここに居続けなければならない訳ではなく、むしろ今回の事件に関しては、彼がいたことによって被害が拡大したという側面もある(ストレーガとしてもこのような事態が発生する可能性も視野に入れていたからこそ、「厄介事」を押し付けることになるこの地の歴代の領主達には、彼女が各地の傭兵業で稼いだ莫大な金を献上し続けていた)。
 だから、トオヤに頼んで彼をタイフォンに呼び寄せるという道もある。だが、今の状態の彼のためにそこまですることが、果たして彼のためになるのか、と考えると、それはそれで疑問である。過度なカーラへの依存症は、今後「何か」があった時に、逆に彼の精神をより不安定化させるかもしれない。
 カーラはしばしの沈黙の後、何かが吹っ切れたような声で、クリフトに向かって言い放った。

「償う云々は放棄! 今は考えるな! 何かやってほしいことを思いついたら、その時に言う!」

 その上で、彼女はクリフトのことを改めて凝視する。カーラも女性としてはかなり長身の部類だが、それでも今は見上げるほどにクリフトの方が背が高い。

「うーーーー、確か年下だった筈なのに……」

 複雑な感慨を抱きながら、彼女はクリフトを見上げつつ、睨みつける。

「でも、寿命的に釣り合いそうなのが他にいないしなぁ……」

 実際のところ、カーラもクリフトも、あと何年ほどの寿命があるのかは分からない(どちらも、他に似た事例の人物が周囲にいない以上、予想が出来ない)。ただ、おそらく今後もあまり歳を取ることが無さそうなカーラにとって、これから先、共に永い人生を歩んでいけるパートナーとして、彼以上の適任者を見つけるのは相当に難しいだろう。

「とりあえず、月に二回手紙のやりとり! あと、なるべく頻繁に休暇をとって遊びに来るから、もてなしなさい! とりあえずそれで手を打とう!」
「わかった」

 カーラの中の複雑な感情をどこまで理解しているのかは分からないが、クリフトは短くそう答えた。

「あと、顔の半分は綺麗なんだから、もう半分を髪か何かで隠して、人前に出たらどう?」
「それは、お前が『私の同類』だからそう思うだけだ。やはり、普通の人々には私のこの姿は理解出来ない」

 だが、それに対して今度はトオヤが横から口を挟む。

「え? カッコいいじゃん」

 彼はもともと異界文書に登場する「変身ヒーロー」に憧れるような人物である。クリフト自らが「異形」と自認するその姿は、トオヤにとってはむしろ羨望の対象であった。

「私も、綺麗だと思いますよ」

 チシャもまたそう言った。彼女は彼女で、異界の様々な「一般的な感覚で見れば不気味に思えるような投影体」と触れ合ってきた身であり、その感性は「普通の人々」とはどこか異なっているのかもしれないが、それでも彼女がそう思ったのは紛れもない事実である。
 そんな二人の率直な実感を踏まえた上で、ドルチェがこの場にいる者達の考えをまとめて代弁する。

「君の過去に何があったかは知らないが、人が皆、 君のことを異形だと思っている訳ではないんだよ。僕なんて、そもそも『定まった形』を持たない存在なんだ。そんな人間が、今更他人の姿形が『普通』かどうかなんて、一々気にすると思うかい?」

 立て続けに三人にそう言われたクリフトは、やや困惑する。彼等三人が揃って「気にしない」と言ってくれたところで、それはこの三人が変わり者なだけで、世間一般の人々が全てそう考えてくれる訳ではない、というのがクリフトの認識である(そして実際、その認識は概ね正しい)。だが、それでも、彼等のこの言葉は、今のクリフトの中では確かに一定の「救い」を与える言葉ではあった。

「お前達の言葉が人々の総意とは思えない。だから、私がこれからどう生きるべきかは、ゆっくり考える。その上で、最後にこれだけは聞かせてくれ。私は『人』として生きていいのか?」
「何を今更」

 カーラが即答すると、クリフトは少しだけ晴れやかな表情を浮かべた。

「分かった。では、『人』になれるように、『人としての生き方』を探していきたいと思う。お前と一緒に」

 その言葉に対し、カーラは少し迷いながらも、あえて軽く突き放す。

「とりあえず、しばらくは一緒。 そこから先は、少し距離を取るからね」
「そうなのか……」

 そんな二人のやりとりを見ながら、ストレーガは僅かに笑みを浮かべながら、クリフトに一言だけ声をかける。

「まぁ、ゆっくりやれ」

 そう言って、彼女は地下室から立ち去って行く。その背後では、「息子」と「未来の嫁候補」の会話が続いていた。

「手紙を出す時は、タイフォンの領主の館のカーラへ、と書いてね」
「分かった」
「そっちは『領主の館のクリフト』で届く?」
「届くとは思うが、今まではずっと『鉄仮面』だったからな」
「じゃあ、『領主の館のクリフト(鉄仮面)』の方がいい?」
「しばらくは、その方がいいかもな」

 やがて扉の外に出て、階段を上っていく過程で、その二人の声は彼女の耳には届かなくなる。この時、ストレーガの表情は一瞬だけ、カーラの夢の中に出てきた「四百年前の優しそうな表情」に戻っていた。

(人と剣が結ばれ、人と盾も結ばれたのだ。剣と盾が結ばれることなど、そう難しいことではあるまい。そうだろう? ラドクリフ、ヴィルスラグ、そして、シャルプ陛下……)

4.3. 今は亡き夢

 翌日、トオヤ率いる調査隊は、マキシハルト経由でタイフォンへと帰ることになった。その途上、マキシハルトの宿屋にて、ドルチェはジーンの部屋を訪ねた。

「今回は、お疲れ様だよ」
「大して役には立てなかったけどね。まぁ、無事に解決して何よりだ」

 ジーンはそう答えつつ、ふと遠くを見つめながら呟く。

「それにしても、あの『不思議な夢』が混沌の仕業だったとはねぇ……。正直、私はちょっと、あの投影体に感謝している気持ちもある」
「なんで?」
「忘れかけていた『弟の顔』をまた見ることが出来たからね。そして……、まぁ、笑ってくれていいんだが、私と弟は子供の頃、君主になりたかったんだ。結果的に色々あって、今は私も弟も邪紋使いになってるみたいだけど、その二人が揃って君主となっている夢を見ることが出来たんだ。夢の中だけでも『幸せな時』を送れたのは、それはそれで悪くない感慨ではあった。もちろん、そこから出られなくなったら困るけどね」

 なぜ彼女がそのことを「この場」で口にしたのか、そこに何らかの意図があるのかは分からない。だが、それに対してドルチェは何も気付いていないような素振りのまま口を開く。

「『幼い頃の夢』ってやつか。ま、いいものだよね。僕もね、この街で不思議な夢を見たんだ。僕に昔なんてものはないから、それが本当に僕の夢だったのかどうかは分からないけど。ちょっとそんなお話をしてもいいかな?」
「あんたは、どんな夢を見たんだい?」
「『君主になりたかった少年』と『魔法使いになりたかった女の子』のお話しさ。一体、あれは誰だったんだろうね?」

 正確に言えば、ドルチェの夢には「もう一人の登場人物」がいたのだが、あえてその人物のことには彼女は触れなかった。

「そうか……、じゃあ、きっとそれもあんたの夢……、子供の頃はきっと『あんた』は魔法師になりたかったんじゃないのか?」

 ジーンはそう答えた。ドルチェのその言葉を素直に受け取れば、そう解釈するのが自然だろう。そして、ドルチェはあえてその解釈を否定しないまま、独り言のように呟く。

「そうか……、そうかもね……。魔法の力で皆に夢を与える、いいじゃないか、そんな人がどこかにいたのかもね……。僕が『そんな夢』を見たのは、僕の理想は案外『そんなところ』にあったからなのかもしれない。まぁ、いいけど。その夢に出てきた少年と女の子が誰だろうが、関係ないさ。『ここにいる僕』はドルチェだから。そうだよね」

 その言葉の意味をジーンがどこまで理解したのかどうかは分からない。だが、もはやこれ以上話すべきことは、ドルチェの中には残っていなかった。

「じゃ、明日もそれなりに早くからタイフォンに出発するんだ。あまり夜更かしもしていられない。また何かお仕事絡みで機会があったら会おう。それじゃあね」

 ドルチェはそう言って、部屋を立ち去ろうとする。

「そうだね。あんたとは一緒に仕事をしていて、なぜかやりやすかった。不思議な安心感があったよ」

 ジーンのその言葉を背に、ドルチェは部屋を出る。そしてポツリと呟いた。

「気付かれなかったのなら、仕方ないか……。じゃあね。さよなら、おねえちゃん……」

4.4. 併せ呑む覚悟

 その頃、トオヤはアグニ経由でラザール・ミルバートンとの再会談に臨んでいた。今回は、あえて自分一人のみでの交渉である。

「どうにか無事に解決したようだな」
「えぇ、まぁ、それなりになんとか。それで、今日は『商談』に来ました」
「ほう?」

 先日来た時とは明らかにトオヤの雰囲気が異なることにラザールは気付いた。前回は何をどう聴き出すべきかの方針もはっきりしないままだったが、今回は明らかに明確な目的と戦略を持って交渉に挑もうとしてる様子が伺える。

「俺には『売って欲しい情報』がある。ただ、その情報があんたから入って来るものかどうかは分からない。だから、出せる対価も限界がある」
「……とりあえず、話は聞こう」

 ラザールはトオヤの決意の強さを感じ取りながら、真剣な表情を向ける。それに対してトオヤも、真正面から見つめ返す視線を浴びせながら答えた。

「俺はパンドラの情報がほしい。それも、新世界派と名乗る連中の情報だ」

 トオヤには、ゴーバンとの約束がある。ゴーバンが今もこの世界のどこかで、ドギを助ける力を得るための修行に励んでいるのなら、その間に自分もまた、ドギを助けるために必要な情報は何が何でも手に入れたい。それが、彼がこの老人のことを訝しげに思いながらも、彼との関係を断ち切ろうとはしなかった最大の理由である。

「なるほどな……。だが、あやつらは一番得体が知れん。ある意味、最も純粋なパンドラだ。奴等に関しては、わしも出せる情報に限界はある。わしらですら、そうそう尻尾をつかめている訳ではないからな。だが、情報を高く買ってくれるというのであれば、これから先、何かそれらしい話があれば、そちらに話をもちかけることにしよう」
「あぁ、それで頼む」
「その上で、お主にとって有益な情報を出す度に、一箇所ずつ免状をもらえればそれでいい」
「お互いに利のある関係であれば、後々、俺が立場を手に入れた時に、あなたに色々と利を与えることは出来るだろう。その将来に投資してもらうための取引だ」
「いいだろう」

 こうして、トオヤは密かにドギ奪還に向けての一歩を踏み出した。カーラが言っていた通り、この国を背負うためには清濁併せ吞むことは不可欠である。果たしてこのラザールという濁水が、トオヤにとっていつまで飲み続けなければならない汚水なのかは分からないが、少なくともドギを取り返すためなら、どんな危険な存在が相手であっても、条件次第では裏交渉の機会を作る。そのための覚悟を、トオヤは密かに固めていたのである。

4.5. 勤勉な弟と危険な男

 その頃、密かにその「パンドラ」の情報の一端を掴みつつも、まだトオヤにそのことを伝える決意を固めるにまでは至っていなかったチシャは、今回の事の顛末を、一通り義弟のサルファに報告し終えたところであった。サルファは素直にチシャを笑顔で労う。

「お疲れ様でした。そして、ありがとうございました」
「なんとか穏便に終わりました」
「それならばよかったのですが、もし今後、また何か危険な任務に向かう時があれば、その時はぼ……」

 サルファがそう言いかけたところに、どこからともなく現れたアグニが割って入る。

「さて、お嬢。とりあえず今回の任務は終わったんだが、俺はどうすればいい? あんたの主人が俺を使い続けてくれるなら、タイフォンに居続けてお嬢を守り続ける、でもいいんだが」

 あえてサルファに見せつけるように、チシャに対して馴れ馴れしい態度で距離を詰めようとするアグニに対して、サルファは露骨に不快な顔を浮かべる。

「ちょっと待ってください! あなた、何なんですか!?」

 サルファがそう言って「(ジーン曰く)ちょっと危険なだけの男」に食ってかかろうとしたところで、チシャが宥めに入った。

「一応、彼はうちのお爺様の部下で、今回も色々助けてもらったので……」

 実際のところ、今回の任務においてアグニはラザールとの仲介役を担った程度で、彼の「本領」を発揮する機会がそもそも与えられなかった(アグニとしてはそれが不満だった)のだが、それでも、今回の一件を通じてチシャの役に立つことがほぼ何も出来なかったサルファとしては、そう言われてしまうと何も言えない。しかし、だからこそ彼の中ではアグニへの嫉妬と憎悪が静かに湧き上がり、それは表情にもはっきり現れてしまっている。アグニはそんなサルファを内心で嘲笑いつつ、チシャに問いかける。

「まぁ、どの道、このままあんたの主人が騎士団長になる流れは、ほぼ決まってるんだろう?」
「おそらく……」

 実際のところ、まだその点に関しては交渉中だが、レアに爵位を継がせる上で、ケネスを納得させるにはそれが絶対条件だろうとチシャは考えていた。そして、トオヤが騎士団長になれば、ほぼ自動的にアグニもそのままトオヤの直轄下に入ることになるだろう。トオヤがそれを拒否しない限り。

「あとは、爺さんが譲るタイミングをどうするかだな。今回、俺はあまり役に立たなかったようだが、今後またあんたらが必要な時に呼んでくれれば、あんたらの力になる」

 自分が言いたかったことを先に言われてしまったサルファは、改めて悔しそうな目でアグニを睨みつける。

「じゃあな。次こそは『俺の仕事』をやらせてくれよ」

 そう言って、アグニが去って行くと、ようやく好機到来とばかりに、サルファはチシャに詰め寄って熱弁する。

「あ、あの、必要な時は僕もいつでも駆けつけますから! いつでも呼んでくださいね!」
「ありがとう。まずはこのマキシハルトのことをお願いね」
「はい!」

 サルファが満面の笑みでそう答えたところで、彼の契約相手であるロジャーが現れる。

「おいサルファ! 仕事だ! お前一人だけがいい思いをするなんて、許さないからな!」

 彼はそう言いながら、サルファの首根っこを引っ掴んで、チシャから引き剥がす。この少年領主は、自分の相方が幸せになることも許せない程度に、まだ闇堕ち状態が続いているらしい。

「あ……、が、頑張ってね……」

 チシャはそう言って、引きずられていくサルファを見送るのであった。

4.6. 捧げ物と贈り物

 こうして、各自がマキシハルトでそれぞれの時をすごしている中、カーラは復興が進むこの村の商店にて、留守番を務めてくれた「神様」への供物(土産物)の買い出しに来ていた。
 ウチシュマは「ふかふかの布団」が欲しいと言っていたが、さすがにまだ復興途中のこの村では、現在の彼女の祠にある布団よりも高級な品は見当たらない。菓子類も好きなようだが、やはり(トオヤやウォルターが構築してきた人脈の影響から)タイフォンの方が充実しているように見える。その他に何かウチシュマが欲しがるようなものはないかと物色していたところで、カーラはふと、道具屋の隅に転がっていた「仮面」が目に入る。その瞬間、彼女の思考の中に「別の人物」が割り込んできた。

(外の世界を知るためには、もっと積極的に人に触れ合って欲しいけど、やっぱり、まだ「仮面」が必要なのかな……。せめて、ストールとか巻いたら目立たなくなるかな? どんな柄なら似合うかな?)

 そんな考えが頭をよぎる中、いつの間にか彼女は当初の目的とは全く無関係な「幼馴染への贈り物」を探し始めていたのであった。

4.7. 最初の名前

 翌朝、彼等は無事にマキシハルトを出発して、その日のうちにタイフォンへと帰還する。一人の死傷者も出すことなく全員を無事に帰還させた「騎士団長代行」としてのトオヤのことを、レアは「次期爵位継承者」として讃える。
 そして、アグニ率いる悪鬼隊はその日はそのままタイフォンで一泊することになったが、機敏性を持ち味とするジーン率いる夜梟隊は、ケネスへの迅速な報告のために、その日のうちにそのままアキレスへと帰還することにした。やや強行軍ではあるが、彼女達が本気を出せば日が暮れる前に辿り着くことは可能である。
 ジーンは去りゆくタイフォンを背に、空を見上げながら一人感慨に耽っていた。

(何がどうあったのかは知らないけど、今はもうあんたにはあんたの人生があるんだよね……。思い出さない方がいいなら、もうこれ以上、私はあんたの人生に介入する気は無い。でも、あんたが助けが必要な時は、いつでもまた駆けつけるから……)

 彼女は一度だけ振り返り、タイフォンにいる「誰か」に向けて、一言だけ呟いた。

「じゃあ、またね。シモン」

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最終更新:2018年03月14日 08:20