第8話(BS42)「姫君の帰還」 1 / 2 / 3 / 4

※注:本記事の前にブレトランドの光と闇5を読んでおくことを、強く推奨します。

1.1. 蛇の夢

 ここはフーコック島。通称、楽園島。パンドラ楽園派が「投影体の国」の設立のためにブレトランドの南東部に出現させた「投影島」である。現在、この島では多種多様な世界からの投影体達が、それぞれの価値観を尊重し合いながら、島の外の人間社会との「棲み分け」という理念の下で、平和な日々を送っていた。
 この島の住人の一人に、ウチシュマという少女がいる(下図)。歳は十三。彼女は「人間の父親(現アントリア子爵ダン・ディオード)」と「異界神の母親」の間に生まれた「半神」だが、本人には自分がそのような「特異な血統の持ち主」という自覚はなく、ただ漫然と自堕落な日々をダラダラと送り続けていた。


 そんなウチシュマが、この日も昼間から自室でスヤスヤと惰眠を貪っていたのだが、そんな中、ふと気がつくと、彼女は何匹もの「大蛇」達に囲まれていた。

「あ〜、これは夢だね〜。じゃあ、別にいいや〜」

 すぐにそう悟った彼女は、そのまま寝転ぶ。そんな彼女に対して、大蛇達は不気味なオーラを放ちながら彼女の身体に絡みついてきた。だが、夢だと分かっている彼女は、全く動じる気配もない。

「う〜ん、イマイチ暖かくないなぁ〜、もう少し体温を上げてからきなよ〜」

 変温動物に無茶な要求をするウチシュマに対して、蛇達は明らかに敵意を向けた様子でギリギリと締め付けていく。

「あ〜、この締め心地、なかなかいいね〜、最近のツボ・マッサージとかいうやつ〜?」

 そんな余裕を見せつつも、身体的にはその刺激はかなり強力だったようで、その衝撃で彼女は目が醒める。

「ん〜、醒めちゃったかぁ〜。仕方ない。二度寝二度寝〜」

 そう言いながら彼女が再び布団に入ろうとしたところで、彼女の母親(下図)が現れる。母親の名はアカラナータ。またの名を不動明王。密教界から投影された神格であり、この島では警備隊長的な立場にいる。


「あんたいい加減、そろそろ出かける準備しなよ」

 ウチシュマはまもなく「島の外」に出かける予定であった。とある「友達」の行く末を見守るために。

「いやもう大丈夫だよ〜、そこにある荷物を持ってくだけだから〜。それまでちょっとひとやすみ〜」

 そう言ってウチシュマが布団に倒れこもうとしたところで、アカラナータはその布団を無理矢理引っぺがし、彼女に荷物の点検をさせつつ、ふと思い出したことを口にする。

「ところで、私は最近、『蛇の夢』をよく見るんだが、もしかしたら、またクンダリーニが戻ってきたのかもしれん」
「クンダリーニ……? 確か、昔、母さんがブイブイ言わせてた頃の……」
「あぁ、古い連れの一人だ」

 それはアカラナータと同じ密教界の神格投影体である。またの名を軍荼利明王。アカラナータ同様、女性型神格としてこの世界に投影され(元の世界でどちらだったのかは本人達もよく覚えていない)、アカラナータよりも先に彼女はパンドラに加わっていたが、アカラナータのことを昔からライバル視していたため、アカラナータが娘と共にパンドラに加わった時点で「アカラナータと殺し合う立場に戻りたい」という理由からパンドラを脱退した。元の世界においては人々から崇められる存在である「明王」だった筈の彼女は、この世界ではその闘争本能だけが肥大化する形で投影されてしまった結果、ほぼ「邪神」扱いされている。

「アイツは私にしょっちゅう突っかかってきて、その度にぶっ殺してやったんだが、 何度ぶっ殺しても帰って来やがるんだよなぁ、アイツは」

 この世界における投影体とは「そういうもの」である。あくまでも「『異世界に存在する本体』の複製体」である以上、この世界で何度その身が消滅しても、再び「同じ複製体」が出現することは可能なのだ。もっとも、その再出現の条件は投影体によって様々なので一概には言えないが、クンダリーニの場合、アカラナータがこの世界に存在し続ける限り、何度でも再臨しようとする奇妙なサイクル(輪廻?)に縛られているらしい。

「アイツは昔っから私のことを目の敵にしてたから、もしかしたら、いずれどこかであんたにも絡んでくるかもしれないが、そん時はそん時で、適当に熨(の)してやってくれ」
「面倒臭いなぁ〜、もう〜。じゃあ、そのクンダリーニさんは私に任せてくれればいいから、母さんは、その引っ剥がした掛け布団を返してくれるところから始めればいいと思うよ〜」
「どっちにせよ、そろそろ洗濯せんといかんだろ」

 そう言って、彼女はその掛け布団をかついで部屋から去っていく。と言っても、自分で洗濯する気はサラサラない。おそらく、友人の「地球人」にでも押し付ける気だろう。

「やれやれ、しょうがないなぁ〜」

 ウチシュマはそう言って、掛け布団のない状態で再び眠りにつく。布団があろうがなかろうが、いついかなる時でも惰眠を貪ることが出来る。それこそが、父譲りでも母譲りでもなく、彼女自身のこれまでの人生の中で手に入れた、彼女の最大の特殊能力なのかもしれない。

1.2. 諜報員の助言

 その頃、島の海岸では、ウチシュマの「異母姉」にあたるハーフエルフの少女が、弓と短剣と杖を交互に持ち替えながら、一人で戦闘訓練に励んでいた。


「うつべし! さすべし! やくべし!」

 そう叫びながら、彼女は木の板を相手に様々な攻撃法を繰り出す。彼女の名はモルガナ。彼女の母親はエルフ界からの投影体である。彼女はウチシュマとは対照的に、何事に対しても全力で取り組み、そして全力で頑張っている誰かを応援することに生き甲斐を見出す、そんな真正直な性根の持ち主であった。彼女もまもなく、ウチシュマ同様、ある一人の「友人」を見届けるための旅に出る予定であり、旅先で何かあった時のための訓練に専念していたのである。
 そんな彼女の視線の先に、一隻の船が来航する様子が映る。その船は幾度かこの島と大陸やブレトランドを行き来している巡航船であり、この地に現れること自体は何ら珍しいことではない。故に、特に気にすることなく彼女が鍛錬を続けていると、彼女の前に、その船から降りてきた一人の女性(下図)が現れる。


「お元気そうですね、モルガナ」

 彼女の名はネネ。モルガナの母リーザロッテの友人であり、パンドラ均衡派の一員である。均衡派と楽園派の関係は比較的良好であり、彼女が楽園派の面々の前に姿を現す時は、均衡派の首領であるマーシー・リンフィールドからの密命を帯びてきた時か、もしくはリーザロッテに個人的な用事がある時かのいずれかである。
 なお、彼女は若い頃は絶世の美女だったと言われており、その美貌を生かして均衡派内でも屈指の敏腕諜報員として活躍していた。現在もあまり年齢を感じさせない外見のため、彼女もまた投影体なのではないかと言われているが、その正体についてはモルガナはよく分かっていない。

「おひさしぶりです、ネネさん」
「ソウジさんから話は聞きました。ブレトランドへ行くそうですね」
「ソウジさん……? あぁ、こないだからきている、あのお客さんですか」

 その「お客さん」の正式な呼称は、沖田総司。地球からの投影体であり、ハルーシアの遊撃部隊を率いる天才剣士でもある(詳細はブレトランド八犬伝8参照)。十日ほど前に彼はこの地を来訪し、この島の要人達との間で「個人的な密約」を交わしていたようだが、その内容についてはモルガナは何も知らされていない。

「あの方をここに連れて来たのは私なのです。色々と事情があって、私は少し前まで大陸にいたのですが、その時にあの方と知り合い、皆さんのことを紹介させて頂きました」

 正確に言えば、その前からソウジは「パンドラ楽園派」の存在は知っていた。それは、サオリと面識のある「日本刀のオルガノン」から余談程度に聞かされていた話なのだが、その時点ではあくまでも存在を知らされただけで、興味はあったものの、直接接触する術を持たなかった。そんな彼に直接的に「渡り」をつけたのが、ネネだったのである。
 彼女はそのままモルガナを相手に話を続ける。

「アキレスやタイフォンに行くなら、パンドラであることはなるべく隠した方が賢明です。彼等は今は『休戦協定』を結んではいますが、パンドラと遺恨があります。いつ彼等がその約定を違えるかは分かりません」
「アキレスやタイフォン……、えーっと、たしか、あのへんでしたよね……」

 モルガナは最近調べた島の対岸のブレトランドの地図を思い出しながら、そう呟く。さすがにまだ詳しい地理関係までは頭に入りきっていなかったようだが、それでも「パンドラ」という組織が、島の外では「悪の秘密結社」として扱われているらしい、という話は、母親からも散々聞かされていた。

「おそらく彼等は、あなた達『楽園派』への遺恨はないでしょうが、『革命派』と『新世界派』には非常に強い『敵愾心』を抱いている筈です。そしておそらく、私個人に対しても」
「はぁ……」

 急にそんな話をされたところで、モルガナが理解出来る筈もない。彼女の中では、今までに出会ってきたパンドラの各派の人々は、ネネも含めて概ね皆「いい人」だったという認識であり、なぜ彼等が嫌われているのかはよく分からない。きっと、大人には大人の事情があるのだろう、などと漠然と思っていた程度であった。

「とりあえず、例の『姫様』については、ハルーシアに救助されたことにした方が、話はまとまりやすいと思います。それで、ソウジさんの船でヴァレフールに入港するという形にすれば、同盟国ですから話も通しやすいでしょうし、辻褄も合うでしょう」
「ハルーシア……、あぁ、エレちゃんが留学したいと言ってた国ですね」

 モルガナは記憶を紐解きながらそう呟く。そして、ソウジがその国の一員であるということも思い出した。

「あなた達が彼女と一緒にヴァレフールに行くなら、いっそそのまま『レア姫の側近』としてあのヴァレフールに仕える道もあるかもしれませんね。かつての私のように」

 サラッと「まだモルガナには話していなかったこと」をネネは口にしたが、モルガナは「投影体を側近とすることは、人間の姫君としてありなのかどうか」ということが気になっていたようで、あまり頭に入っていなかった。

1.3. 地獄の特訓

 そしてこの島にはもう一人、ウチシュマ、モルガナと(半分)血を分けた異母兄弟が存在する(下図)。彼の名はエイト(瑛斗)。彼の母親は地球人であり、生まれた順番としてはウチシュマとモルガナの間だが、数ヶ月程度の差しかないため、実質的には周囲の人々からは「母親違いの三つ子」扱いされていた。左右の目の色が異なる独特の風貌ではあるが(右目は父親と同じ青、左目は母親と同じ黒)、日頃は長い前髪で右目が隠れているため、普通は初見では気付かれない。


 彼は元来は争いごとを好まず、(モルガナの母親と共に)園芸を楽しむような物静かな性格で、常に世の中を冷めた目で眺めて、自分の感情を他人に悟られることなく、虚言癖で全てをごまかすようなシニカルな少年であった。
 だが、数日前に姉妹達と一緒に「はじめてのおつかい」から帰ってきてから、何かに取り憑かれたように「強くなりたい」という感情を剥き出しにしつつ、剣の特訓に励んでいたのである。
 そんな彼の相手を務めているのは、大剣を手にした褐色肌の少女であった。彼女の名はサンクトゥス(下図)。何百年も昔からこのブレトランド各地を放浪していると言われる「聖剣」のオルガノンである。体格的にはエイトよりも遥かに小柄だが、自分の「本体」であるその大剣を自在に操り、文字通り人間離れした動きでエイトを翻弄していた。


 ここ数日の特訓で、エイトの身体は既にボロボロである。だが、もともと(混血児とはいえ)地球人としての治癒能力に長けていた彼は、必死でその身を自力で回復しながら、その地獄の特訓に耐え抜いて、剣を振るい続けた。その剣の大きさと重さはサンクトゥスとほぼ同等であり、これは彼自身が「サンクトゥスの持ち主」として彼女の本体を振るうための特訓でもあった。それだけに、サンクトゥスも彼がそれにふさわしい剣士となるように、どんな戦場でも生き残れるよう、本気で殺しにかかっているかと思えるほどの形相でエイトに襲いかかる。
 無論、本気で殺す気はなかったが、それでもエイトにとっては、本気で殺されるかと思うほどの地獄の日々が続いていた。だが、その特訓の甲斐あってか、この数日でエイトの剣技は着実に成長している。まるで、当代随一の覇王と称される父の血を覚醒させているかのように。

「それにしても、どういう風の吹き回しじゃ? 急に『剣の稽古』がしたいなどと」

 涼しい顔を浮かべながらサンクトゥスがそう問うと、エイトは満身創痍の状態で、肩で息をしながら、それでも瞳には闘志を浮かべ続けつつ答える。

「いや……、その……、小大陸に、行くなら、別に、何かと、ことを、構える、つもりは、ないん、だけど、でも……、これくらい、しなきゃ、いけないと、思ってぇぇぇ!」

 息も絶え絶えにそう語りながらサンクトゥスに襲いかかるが、当然のごとくあっさりと躱される。だが、サンクトゥスはその様子に満足そうだった。純粋な剣技の成長だけでなく、今まで微塵も覇気を見せなかった彼が、はじめて「闘争心」を剥き出しにしてきたことに、何か感じ入るものがあったらしい。

「そうか。なんにせよ、やる気を出したのは良いことじゃ。出来れば、もう少し早くそうなって欲しかったところじゃが、お主にはまだまだ成長の余地がある。これから先が楽しみじゃな。期待しておるぞ」

 実際のところ、今のエイトではまるで彼女には歯が立たない。だが、それでもサンクトゥスの中では、エイトの中に「剣士」としての才能の片鱗を感じ取り始めていた。もともと13歳にしては早熟で、体軀には恵まれていたため、向上心さえ持てばきっとモノにはなると思っていたのだが、僅か数日でここまで伸びるかと思えるほどの成長を見せている。

(そこまでこやつをその気にさせたのは、果たしてどちらの姫君なのかな)

 物陰から、この特訓の様子を心配そうに眺めている「二人の異国の姫君」の視線を感じつつ、聖剣少女は微笑を浮かべながら、少年を再び死の淵のギリギリにまで叩き落とすのであった。

1.4. 腹を割る覚悟

 その頃、タイフォン村では、トオヤがドルチェを連れて、チシャとカーラとウォルターの「お茶会」の場に現れていた。彼は現在、願掛けのための「甘味断ち」の最中だったが、あえてその彼が誘惑に満ちたこの場に現れたということは、彼女達に何か重大な話があるのだろう。そんな空気を察したウォルターは「仕事があるから」と言って、ひとまずその場から退席する。
 トオヤはそんなウォルターに「すまない」と言って見送りつつ、(どうにも耐えられなくなったので、とりあえず菓子をひとつまみした上で)真剣な表情でチシャとカーラにこう言った。

「姫様のことを、お爺様に相談しようと思う。あの人もあの人で、腹をくくり始めているし、いい頃合いだと思うんだが、どうだろう?」

 二人はしばらく考え込みつつ、先にチシャが答える。

「確かに、後ろ盾が増えるのはありがたいですね」

 この数ヶ月間の尽力の結果、七男爵のうちの三人とは誼を結び、先日の戦いを通じて副団長グレンの孫のレヴィアンとも一定の信頼関係の構築に成功した。だが、それでも彼等が明確に「味方」になってくれたとは言えない。今のところ「レア」の真実を知った上で友好的な姿勢を示しているのはロートスのみであり、ここで自分達の事情を理解した上で協力してくれる明確な「後ろ盾」として騎士団長ケネスの支持が得られれば、今後の選択肢は大きく広がる。

「団長殿も、最近は覇気というか、野心的なものが衰えてきたようだしね」

 カーラにはそう思えた。さすがに「ドギの一件」は彼の中でも相当に堪えたようで、確かに以前に比べてトオヤへの高圧的な態度が弱まってきたように見える。先日の戦いでもトオヤを「実質的な騎士団長派の代表」として反乱軍の討伐に向かわせるなど、着実に彼のことを「自分の後継者」と認め、禅譲に向けての布石を打ちつつあるように周囲の目には映っていた。
 とはいえ、それでもカーラの中には不安もある。

「ただ、何か『利』になるようなことを言わないと協力してくれないかもしれない……。掛け値無しに話してしまって、大丈夫なのかな……」

 その懸念は当然トオヤの中にもあったが、それでも彼の中では、今のこのタイミングなら協力関係が築けるのではないか、という憶測はあった。

「もうレア姫への爵位継承という方向へ話は進め始めている。この路線に乗ったまま話が進むことには反対はしないと思う。その上で、姫様を探し出すための手助けをお爺様に求めるのも、悪い話ではないと思うんだ」

 ゴーバンが去った今、レア以外の誰かへの爵位継承という選択肢が現実的ではないことはケネスも理解している。この国を立て直すためには、どう考えても「レアが後継者となり、トオヤがそれを支える」という構図が最良手であろう。その認識を共有した上で、そのために必要な「最重要人物」が不在という事実をケネスが知らないままの状態では、今の事態の好転には繋がらないとトオヤは考えていたのである。現実問題として、ここ数ヶ月間、トオヤ達はレアの捜索に向けて有効な手立てを何一つ打てていない。ここで幅広い情報網を有しているケネスの協力を得られれば、この状況を打開する術が見つかるかもしれない。
 そんな彼の考えを代弁するかのように、今度はドルチェが口を開く。

「本物の姫様が帰ってこないことには、聖印を継がせることは出来ない。僕が影武者を続けるのにも限界はあるんだ」

 邪紋使いである彼女は、聖印を身体に受け入れることは出来ない。ワトホートからの爵位継承までもう一年も残されていないことを考えると、そろそろ「その場しのぎの対応」から一歩踏み出して、本格的なレアの捜索を始めなければならない段階に入っていると彼女は考えていた。

「どちらにしてもここから先は、姫様抜きでは話は成り立たない。だからこそ、打てる手は全て打つべきだと考えたんだがけど……、チシャはどう思う?」

 チシャもまた、(家系図上の)祖父ケネスに対しては様々な想いがあるが、いつまでも不信感を互いに抱き続けているだけでは袋小路に陥るだけだという認識も抱いていた。

「懸念がない訳ではないですが、確かにいい頃合いではありますし……、そうですね、私も賛成です」

 実際のところ、現状を打開するためには、それ以上の策は思いつかない。自分が対案を出せない状態で反対する理由は、彼女の中にはなかった。

「カーラは、反対?」

 トオヤにそう問われたカーラは、難しい表情を浮かべながらも、最終的には何かを吹っ切ったような顔で答えた。

「……いいよ、あるじ、キミを信用することにする。政治的な判断については、もう全部キミに投げちゃう! 任せます!」

 実際のところ、これ以上この問題について考えるのは彼女の本分ではない。自分はあるじを信じて、あるじを守るために生きる。彼女はそう割り切ることにしたようである。そんな彼女に対して、トオヤは苦笑を浮かべる。

「これから先、お爺様と本格的に対決することになるかもしれない。でも、あの人は野心家ではあるけれど、決してヴァレフールのことを考えていない訳じゃないから……」
「うまくいかなかった時は、ボクが血路を切り開けばいいかな?」

 さすがにもう考えるのが辛くなったカーラは、開き直った笑顔でそう問いかけると、トオヤとチシャは顔を見合わせた上で答えた。

「うん、その時は頼む」
「そういうことにならないためようにするために、話をする訳ですからね」

 こうして、彼等四人は、騎士団長ケネスが治める隣町アキレスへと向かうことになった。ここでの交渉が彼等やレア、そしてこの国の未来を大きく左右することになる、極めて重大な局面であることを、彼等一人一人が改めて強く実感していた。

1.5. 伯爵令嬢の決意

 トオヤ達がアキレスへと到着した頃、その対岸に位置するフーコック島の海岸では、旅支度を整えたモルガナ、エイト、ウチシュマの三人が集められていた。彼等三人の背後には、それぞれの母親であるリーザロッテ(下図左)、ユリ(下図右)、アカラナータの三人が並ぶ。


 そしてこの場には彼等三兄弟の他に、彼等と同じくらいの年代に見える三人の少女がいた。一人は「エイトの剣」として彼について行く予定のサンクトゥス。彼女はエイトの隣で「本体」を抱きかかえるような姿勢で、エイトに視線を向ける。
 一方、エイト達の視線の先には、トオヤ達が探し求めている「彼女」の姿があった。


 彼女の名は「レア・インサルンド」。ドルチェことパペットがこれまで演じ続けてきた「姫君」その人であり、その立ち姿はパペットが今までヴァレフールの人々の前で披露してきた姿そのものである。だが、今の彼女のその姿は、彼女の「本来の姿」であると同時に、実は「偽装された姿」でもあった。
 彼女は約半年前、(パペットへの手紙に書いてあった通り)巨大な混沌核に触れてその聖印を書き換えられたことにより、「魔獣の姿」となってしまった。現在の彼女は、その状態から更に生命魔法の力で「上書き」することによって、その外見のみを「本来の姿」へと書き換えられた状態なのである。そのため、見た目は「人間の少女」の姿ではあるが、彼女の体内には今もまだ(聖印ではなく)「混沌核」が宿ったままの状態であった。
 彼女にその「応急措置」を施した生命魔法師の名は、アイン・ナウム・サンデラ(下図)。このパンドラ楽園派の首領である。数ヶ月前、この島に「魔獣の姿」のまま漂着したレアのことを、彼は「新たな住人」として受け入れた。その時点でのレアは記憶を失っていたのだが、アインは彼女の身につけていた装飾品(特に、彼女の右手にはめられていた特殊な指輪)などから、元は「人間の貴族令嬢」だったのではないかと推察していた。そして、彼女と仲良くなったモルガナ達三兄弟の尽力によって彼女の「本来の姿」のスケッチを手に入れたアインは、それを元に(革命派から出向していた幻影の邪紋使いにその姿を立体再現してもらった上で)高度な生命魔法を用いてレアをその姿へと上書きしたのである。更に、それと前後して彼女の記憶は、彼の盟友の闇魔法師の手によって復元されていた。


 アインが「ヴァレフールの、しかも聖印教会派に担がれた姫君」を助けるためにそこまで尽力した背景には様々な思惑があるが、その中で彼が描いている未来像の一つには「彼女がヴァレフール伯爵となることによる、この島との友好関係の維持」という算段があることは言うまでもない。だが、それと同時に、彼の中では「一度、島の住人として受け入れた者のことは見捨てない」という矜持もあった。無論、それは彼だけでなく、モルガナ達をはじめとする彼女の周囲の人々も同様である。
 記憶を取り戻したレアは、そんな彼等の協力に心から感謝しつつ、今後の自分の身の振り方を考える上で、「まずはヴァレフールに帰って、色々な人達と話をしてから決めたい」という意思を示し、彼等もまたその方針に同意した。その上で、モルガナ、エイト、ウチシュマの三兄弟は、彼女を守るためにヴァレフールまで同行することを決意したのである。

「とりあえず、私の従兄弟のトオヤと直接話をしてみようと思います。どうやら、私の影武者もそこにいるみたいですし」

 アイン達から「現在のヴァレフール情勢」についての概略を聞かされていた彼女は、皆を前にしてそう宣言した。今のヴァレフールにおいて「レア」と名乗っている人物がパペットであることはほぼ間違いない。その上で、彼女がトオヤの本拠地であるタイフォンにいるという状況は彼女の中では想定外だったが、彼女の中ではトオヤは「最も信頼出来る人物」であり、そして彼女の中でも色々な意味で「特別な存在」だったため、彼女にしてみればこれは好都合な状況のように思えた。

「トオヤは信用出来る、誠実な人物です。ただ、トオヤの祖父の騎士団長ケネスは、私の父の政敵なので、今は直接会わない方が良いでしょう。ですから、出来ればここから一番近い港町のアキレスではなく、トオヤが治めているタイフォンの村に直接行きたいです」

 彼女がそう提案したところで、彼女を連れて行く予定のハルーシアの海上遊撃隊の隊長・沖田総司(下図)は、少し難しそうな顔を浮かべる。


「なるほど……。ただ、私がタイフォンに直接行く名目があるかとなると、微妙なんですよね」

 レアはトオヤのことを「信用出来る」とは言ったが、現在の彼がどのような立場で、どこまでの権限があるのかは不明である。「レアの影武者」を「レア」として遇しているところに「本物のレア」を堂々と連れて行った場合、様々な混乱が発生する可能性があるだろう。トオヤがすぐにその話を信じるとは限らないし、最悪の場合、彼自身と出会う前に「『本物のレア』のことを『都合が悪い存在』だと考えている者達」に襲撃される可能性もありうる。
 そのため、ひとまずは「連合の一員であるハルーシアの軍船の一員」として、レアはその身分と姿を隠した上で入国し、そして秘密裏にトオヤや影武者と密会した上で、今後の方針について相談する、という作戦を総司は考案していた。ただ、タイフォンは「小さな漁村」なので、軍船が停泊出来る程度の港はあるが、普通は遠方からの来客がわざわざ訪れるような村ではない、そこにハルーシアからの軍船が来訪した場合、それだけで必要以上に目立つことは避けられないだろう。だからこそ、せめて現地の人々を納得させるだけの「名目」が欲しかった。
 総司はしばらく考えた上で、一案にたどり着く。

「とりえあず、私が個人的に『タイフォンに滞在中のレア姫』にご挨拶したくて参上した、ということにしておきましょうか。一応、サンドルミアで一度お会いしたこともありますし」

 笑顔でそう提案した彼に対して、レアが一瞬戸惑いの表情を見せる。

「あれ? お会いしましたよね? 覚えてませんか? 確か3年ほど前に、私がまだハルーシアに加わる前、私があの国で放浪してた時に……」

 そこまで彼が言いかけたところで、レアは申し訳なさそうな顔を浮かべる。

「ごめんなさい、多分、その時にお会いしたのは『私の影武者』の方だと思います。私の記憶にはないです……」

 実際のところ、パペットは「影武者」状態にあった出来事は一通りにレアに伝えている。ただ、「珍しい姿をした投影体を見かけた」という程度の話は何度も聞いているので(そして、その外見を詳しく聞いていた訳でもないので)、いつの話のことだったのかすら、レアの中では特定出来ない。

「なるほど。それなら尚更、その影武者さんにお会いしたくなりました」

 総司は笑顔でそう答え、ひとまずレアも「その方針」で合意するのであった。

1.6. 同行者達の決意

 その上で、モルガナ、エイト、ウチシュマの三兄弟は「総司の従者」という建前でついて行こうとするが、そんな彼女達に対して、レアは神妙な面持ちで語り始める。

「私は、皆さんの中にある『リカ』ではありません」

 「リカ」とは、この島に流れ着いた時点での、まだ記憶がなかった頃の彼女に対して、この島の住人(サオリ・タカミネ)がつけた名前である。モルガナ達は彼女のことをこれまでずっと「リカ」と呼んでいた。

「私の中には、確かに『リカ』としての『皆さんとの楽しい思い出の記憶』はあります。でも、『皆さんの中のリカ』は、皆さんに囲まれていた間だったからこそ生まれた人格であって、『レア』に戻った今、これから先の私が『レア』としての人生に戻っていく中で、徐々に『リカ』としての意識は薄れていってしまうかもしれない。私の本性を知ってなお、皆さんが守りたいと思ってくれる存在であり続ける自信はないです。それでも皆さんは、私に協力してくれるのですか?」

 そんな彼女の真剣な問いかけに対して、最初に答えたのはモルガナだった。

「モルガナは、リカちゃんが『やりたいこと』をやりきれるかどうかを見とどけるために行くだけだよ。もし、記憶がもどったリカちゃんのなかで、君主としてすべての投影体をほろぼす道をえらんで、モルガナたちをやきはらうことになったとしても、それはそれで仕方ないことかと」

 唐突に物騒な「最悪の未来」を淡々と語るモルガナに対して、周囲の者達が困惑した表情を浮かべる中、ウチシュマがいつも通りのダラけた口調で割って入る。

「いや〜、さすがにそれは嫌だな〜」
「あ、もちろん、死にたくはないので、死なない程度に反撃はするよ」
「そういうことじゃなくてね〜」

 どこまで本気で言っているのか分からない彼女達の織り為す不思議空間に周囲が飲み込まれそうになったところで、エイトが真剣な口調で「空気」を元に戻す。

「当たり前でしょ、友達なんだからさ」

 そう言われたレアは、少し目線をそらしながら答える。

「ずるいですよね、私。最初から、エイトさんならそう言ってくれるってことを期待して、こんなこと言ってるんですから。そういう女なんです、私は」

 そんな彼女の様子を見ながら、モルガナとウチシュマはニヤニヤと笑みを浮かべる。

「うんうん、前よりかけひき上手になってきたかな」
「まぁ、エイトが相手なら、それくらいの方がいいと思うけど〜」
「そうだね」
「少なくとも、エイトがいる限りは、私達を裏切るようなことはしないでしょう〜」
「そうであってほしいよね。あ、でもモルガナとしてはエレちゃんに……」

 モルガナがそう言いかけたところで、この場にいた「もう一人の少女(下図)」が口を開く。


「私も、大したことは出来ませんが、精一杯、皆さんのお役に立ちたいと思っています!」

 震えそうな声でそう言い放った彼女の名は、エレオノーラ。ノルドの海洋王エーリクの姪であり、聖印の力で海亀を乗騎とすることから「海亀姫」と呼ばれていた(なお、数ヶ月前に長城線でトオヤ達と戦った「梟姫」は彼女の姉である)。彼女は祖国ノルドの武勇一辺倒の国風を嫌って出奔した後、エイト達に助けられ、諸々の経緯を経て、現在は「在フーコック島・ノルド大使」とでも呼ぶべき立場となっていた。
 彼女は自分を助けてくれたエイトに対してほのかな恋心を抱いていたが、彼女の目には、エイトは自分よりもレアの方に心惹かれているように見えた。だからこそ、ここで彼等がレアと共にヴァレフールに行くのを黙って見送った場合、エイトが彼女と共に島に帰って来ないかもしれないと考え、彼等に同行することを決意したのである。
 とはいえ、さすがに何の大義名分も無しについて行く訳にもいかないと考えた彼女は、「今の自分」に出来ることを必死で考えた上で、こう言った。

「えーっと、あの、ですね、私、ヴァレフールのチシャさんとは、一応、面識があります。だから、その、私が仲介すれば、穏便に話を聞いてもらえるかもしれないというか……」
「チシャ?」

 モルガナは首をひねる。彼女はもともと「エレオノーラを応援する立場」なので、別に今更そんな大義名分も必要なかったのだが、初めて聞くその名前に対して疑問を抱くのは当然であった。

「あ、その、チシャさんというのは、私がエーラムにいた時に知り合った魔法師さんで、今はタイフォンのトオヤさんと契約を結んでいる筈の人です」

 エーラムには魔法師見習いだけでなく、純粋に教養を学ぶために留学する貴族の子女達も多い。エレオノーラもその一人であり、そこで「豊かな南国の貴族文化」に触れすぎてしまったことが、彼女の祖国からの出奔の一因だったのだが、その地で彼女はチシャと出会っていた。チシャは貴族出身ながらも魔法師の才能を見出された希少な子供の一人であったため、魔法師見習いの立場でありながら、例外的にその「貴族の子女達の集まり」にも顔を出していたのである。

「とにかく、そんな訳で、私も皆さんの力になりたいんです。よろしくお願いします!」

 必死でそう主張する彼女を見ながら、ウチシュマとモルガナはまたしてもニヤけた顔を見せる。

「そっか〜、エレオノーラは『誰か』の力になりたいんだね〜」
「ねー」

 エイトはそんな姉妹を無視しつつ、話を続ける。

「まぁ、確かに交渉の窓口は多い方がいい、かな……。そうだね、今のエレオノーラなら、多分大丈夫だよね」

 そう言いつつも、エイトはまだどこか心配な様子ではあるが、それでも彼女が協力したいというならば、それを拒む権利は彼にはなかった。

「では、我のことも道中よろしく頼むぞ、エイトよ」

 そう言ってサンクトゥスは「聖剣」のみの状態となった上で、エイトの手にその身を委ねる。今回の船出の先に、この数日の地獄の特訓の成果を見せる機会があるのかどうかは分からない。エイトとしては、出来ることなら、自分の全ての努力が徒労に終わる方が望ましいと考えつつも、おそらくそれでは済まないだろうという不安が、彼の中では支配的になっていた。

(何があろうと、彼女は僕が守る)

 表面上は涼しげな顔でレアを眺めながら、内心では彼はそう決意を固める。自分をそこまで突き動かしているその衝動が、果たして「友情」という言葉で表現されるべき感情なのかどうかは、彼自身もまだ分かってはいなかった。

1.7. 命の価値

「さて、出発前に、一つ言っておきたいことがある」

 そう言いながら子供達の前に一歩踏み出たのは、この島の首領、アインである。彼は三兄弟達に視線を向けながら、こう言った。

「お前達三人は『投影体』ではない。神であり、エルフであり、地球人であるとは言えるが、少なくとも、お前達を『投影体』と呼べる根拠はない。なぜなら、お前達の『本体』は他のどの世界にもいないからだ。俺達は異界に住む『本体』がこの世界に『投影』されることでここにいる。だからこその『投影体』。だが、お前達は紛れもなく『この世界で生まれた存在』だ」

 そんなことは、この三人の混血児達にとっては今更言われるまでもない話である。だが、彼が本当に伝えたいのは、ここから先の話であった。

「俺達『投影体』は、この世界で仮に死んだとしても、元の世界の俺達は元の世界で生き続けているし、この世界で死んだ後でも、何かの拍子に再びこの世界に投影されることはある。だが、お前達には『本体』がない以上、一度死んだら、それで全てが終わる。『この世界の本来の住人達』と同じように、たった一つの命しか持たない。だから、俺達とは違うんだ」

 その認識は確かに「事実」に即した話ではあるが、それはむしろ、投影体の生命や権利を蔑ろにする者達が用いる論理であり、「投影体の国」の首領の発言としては、極めて異例である。

(まぁ、『それ未満』かもしれないしな……)

 エイトは表情を変えないまま、内心でそう呟く。彼はもともと、楽園派の理念に対しては否定的であり、「この世界の本来の住人」ではない母達や、「どちらの世界の住人とも言えない存在」である自分達には「この世界で生きていく権利」など認められる筈がないと達観しながら生きてきた。だが、それと同時に、そんな自分でもこの世界のどこかで(少なくとも、彼にとっては欺瞞としか思えないこの「偽りの楽園」ではないどこかで)「自分の居場所」を見つけたいと願ってもいる。そんな屈折した想いを彼は抱いていたのである。
 一方、そんな彼とは対照的に、率直な性根のモルガナは真正面から疑問をぶつける。

「自分が死んでもいいとおもっているなら、こんなところで楽園なんてつくってないでしょう?」

 更に、横からウチシュマもだらけた表情で口を挟む。

「おや、これは一本取られましたねぇ、ボス〜?」

 彼女はアインのことを「ボス」と呼ぶ。アカラナータが冗談半分にそう呼んでいたフレーズが、なぜか気に入ったらしい。そんな二人に対して、アインは苦笑しつつも真剣な声色で答える。

「それでも『命の価値』は違うだろう? 少なくとも、そう思う者は多い。そのような理屈で殺される投影体が多いからこそ、この楽園を築いたのだ」

 アインのその答えに対して、モルガナは分かったような分からないような心境だったが、それ以上は何も言わなかった。彼女は決してエイトのような「冷めた性格」ではないが、彼女の「死生観」はどこか達観している。先刻の「焼き払われても仕方ない」という言葉も、極論ではあるが、確かに彼女の中での本音ではあった。だからこそ、先日のノルド海軍との戦いにおいても躊躇なく「圧倒的な力」で蹂躙することが出来たのであろう(この点に関しては、その時にいち早く「敵の生き残り」の救助に向かったエイトの方が「人間らしさ」が垣間見れる)。

「それでも、この島に残る気があるのなら、俺達はこれまで通り、お前達を仲間として遇する。しかし、この島の外に居場所を見つけられたなら、その地で生きるのもお前達の自由だ」

 これに対して、今度はウチシュマが答えた。表情そのものは相変わらず「締まりのない笑顔」ではあるが、その目にはどことなく真剣な決意が宿っている。

「そう言ってくれて、ありがとう、ボス。きっと私達全員、『自分が生きていられる場所』を探していると思うんだ〜。『こんな身体』だしね〜。ひょっとしたら、その場所はこの島ではないかもしれないけど、仮にそんな場所を見つけたとしても、またボスに会いにくるよ〜」

 特に何も考えずに生きているように見えるウチシュマも、実は「自分の居場所」を探しているという点では、エイトと同じ感性を共有している。そして、それはモルガナもまた同様であった。三人共特殊な混血児だからこそ、心のどこかで「自分のアイデンティティ」に不安を感じている。それはある意味、必然的な心境だったのかもしれない。

「そうだな。いつでも好きな時に戻って来ればいい。もうお前達も、自分の人生を選べる歳になってきた訳だからな」

 アインはそう言ったものの、実際のところ彼女達は13歳である。親の庇護下でぬくぬくと生活する権利も当然ある。前回の「おつかい」に続いて、今回の「姫君の帰還への同行」が、そこから踏み出す新たな一歩となるかどうかは、彼女達次第であった。
 その上で、アインは最後にレアに向かって軽く一礼する。つい先日まで、彼女のことは「一住人」として扱い、三兄弟達に接する時と同じような口調で話していた彼であったが、ここに至って彼は初めて彼女を「異国の姫」として遇する態度で語りかけた。

「レア・インサルンド殿下、それはあなたも同様です。あなたが、『レア姫』としてであれ、『リカ』としてであれ、この地に滞在を望まれるのであれば、我等はあなたを同胞として迎え入れる準備は出来ております。そのことを踏まえた上で、あなたはあなたの人生を選択して下さい」

 レアはその言葉を深く受けとめつつ、深々と頭を下げる。

「今まで本当にありがとうございました。今の時点ではまだどうするとも言えない状態ですが、どんなことになろうとも、私はこの島で受けた恩を忘れるつもりはありません」

 彼女はそう答えた上で、エイト、モルガナ、ウチシュマ、エレオノーラ、(エイトの手に握られた)サンクトゥスの五人と共に、沖田総司率いるハルーシアの軍船へと乗り込む。その船出の先で、自分の進むべき道をはっきり見定めると心に誓った上での、決意の乗船であった。

1.8. 切り札と交換条件

「なるほどな。色々と腑に落ちないことが多かったが、これでようやく合点がいった」

 これまで隠され続けていた「秘密」を打ち明けられたケネスは、そのことを告げたトオヤ達四人を前にして、そう呟いた。

「もう少し早く話してくれれば、色々と選択肢も広がったであろうにな。とはいえ、儂のことを信用出来んというのであれば、それもまたもっともな話ではあるが」

 騎士団長は自嘲気味な微笑を浮かべつつ、本題に入る。

「それで、お前としては、本物のレア姫が、戻ってきた場合と来なかった場合で、それぞれどうするつもりなのだ?」
「戻ってきた場合は、今の路線のままレア姫が爵位を継承すればいいと思います。戻ってこなかった場合は……、そうですね……、それこそ、ヴェラ様を引っ張り出すしかありません」

 ヴェラは爵位継承権の放棄を宣言しているが、それでも直系の血筋が完全に絶えてしまった場合は、彼女が翻意する可能性もありえるだろうとトオヤは考えていた。

「なるほど。さすがに『そこの偽物』を立てて嘘を突き通す訳にはいかないと思ったか」
「えぇ。時間稼ぎなら大丈夫かと思いましたが……」

 正式にレアが爵位を継承するとなると、エーラムの認証が必要になる。そこで魔法師達の目を完全に騙しきるのは、さすがにドルチェでも難しい。

「しかし、別にヴェラ様にこだわる必要もなかろう。ゴーバン殿下も戻ってくるかもしれんし、ドギ殿下も今は聖印を受け取れる身体になっておられる。そうだよな?」

 「ドギの事情」を知っている彼等に対してあえてケネスがそう問いかけるが、トオヤとドルチェはあえて黙って何も答えない。

「そうですね……」

 目線をそらしながらそう答えたのはチシャであった。一方、カーラは内心で怒りを押し殺しつつ、現実的に「その可能性」についても考える。

(『ドギ様』はともかく、ゴーバン様が帰ってくるなら、ヴェラ様に継がせるよりは良いかもしれないな……)

 ヴェラは確かに智勇に秀でた人物ではあるが、正義感・倫理感の強さ故の精神的な脆さも彼女は知っている以上、あまり無理はさせたくない。無論、ゴーバンに関してもそれは同じことなのだが、彼には(まだ子供な分)将来性があるし、もし彼が暴走しそうになっても、自分達の手で彼を止めることは出来るだろう。

「そういえば、ヴェラ様は御懐妊されたのであったな。ならば、いっそのこと一足飛びで『そこ』まで継承権を移行させるという手もあるが、さすがに一年後と決めてしまった以上、そうはいかんか」

 この世界における「君主」は、いかに政治権力構造的には傀儡であったとしても、最低限聖印を制御出来る力がなければ務まらない。さすがに乳幼児に継がせる訳にはいかないのである。

「まぁ、帰ってこなかった場合については、ひとまず置いておこう。だが、仮に帰って来たとしても、もう一つの問題がある。仮に本物のレア様が帰ってきたとしても、失踪直前のあの方は『聖印を持てない状態』だったのだろう? それが治らない状態で帰ってきた場合はどうする?」

 それに対してトオヤが即答出来ずにいると、ケネスはそのまま話を続けた。

「その場合、一つの道として、魔法の力で『見た目の姿』だけを『本来の姿』へと書き換えた上で、後継者とすることは出来るだろう。儂にはそれが可能な生命魔法師のツテもある。しかし、その状態では当然、レア様は聖印を引き継げない。その場合は何かしらの理由をつけて、『姫の結婚相手』が引き継ぐのが筋になるだろうな」

 このことはトオヤ達も分かっている。確かに、レアが聖印を引き継げない限りはそれが一番の解決法であり、その「結婚相手」の最有力候補は間違いなくトオヤである。だからこそ、今の彼としてはこの道を推奨する訳にはいかない。今の彼はもう「別の相手」を選ぶことを心に誓ってしまったのだから。
 トオヤがそんな葛藤に苦しんでいる中、ケネスはその沈黙の意味を類推しつつ、ここで新たな選択肢を彼に提示する。

「そしてもう一つ、姫を元に戻すアテがない訳ではない。確実に戻せるという確証はないし、これは儂にとっての『重要な切り札』ではあるのだが、それを使えば元に戻せる可能性はある。その方法を知りたいか?」
「それは知りたいですが……」
「ならば一つ条件がある。お前がレア姫を娶ることだ。今ここでお前がそう誓約するのならば、それを教えてもいい。どうする?」

 ケネスとしては、さすがにそろそろこの問題についてはっきりさせたいと考えていた。トオヤもそのことは分かっていたが、今この場で「それは出来ない」と断言してしまうと、その選択肢を聞き出す機会そのものが完全に失われかねない以上、またしても沈黙が続いてしまう。
 その状況に対して、ケネスは呆れたようにため息をついた。

「まぁ、確かにすぐには決断出来ぬことなのかもしれん。だが、なぜここで迷う必要がある? 世間の者達は既にお前とレア姫が結ばれるものだと考え始めている。もっとも、最近、お前が『別の女』に手を出しているらしいという噂も聞いたことはあるが……」

 ケネスがドルチェを見ながらそう言うと、トオヤはむせ始める。つい先日、オーバーハイムでの戦いの後、彼は兵士達の前で「ドルチェ」を抱き抱えていたのだから、当然と言えば当然の話であろう(なお、このことについてはチシャもカーラもあれから何も言わなかったが、彼女達も、これまでの二人の様子から「おおよその事情」は察していたようである)。

「別にそれはそれで構わん。どちらにしても、レア姫の身体を魔法で上書きしようが、『もう一つの選択肢』を用いようが、それで『次の後継者』が産める身体になるかどうかは分からんしな。もしそれが出来なかった時は、そこの『偽物』に『お前とレア姫の子供』として産ませれば良いだろう。『お前自身』がそうであったようにな」

 ただでさえ沈黙が続いていたトオヤ達であったが、そこに突きつけられたこの発言は、さすがにその場の空気を震撼させた。トオヤは自分の出生の秘密まではチシャ達には話していなかったが、この祖父の発言から、彼女達も概ねの事情を察して、それ以上は何も聞かなかった。

「無論、お前にその気がないのであれば、他の選択肢も無くはない。マーシャル・ジェミナイ、ゲオルグ・ルードヴィッヒ、ネロ・カーディガン、いずれも独身だ。いくらでも道はあるぞ」

 無論、これは極論である。ゲオルグはまだしも、マーシャルやネロとの婚姻による和議などケネスが望んでいないことはトオヤも知っている。とはいえ、グレン側がそのような選択肢を提示してくる可能性は十分に考えられる以上、自分自身以外の代替選択肢を提示せぬまま「レア姫を焦って結婚させる必要はない」と言い切るには、最低限「レア自身が聖印を受け取れる身体」になっている必要があることは、トオヤも分かっていた。

1.9. 風の指輪

 結局、明確な答えが出せないトオヤの様子を見ながら、この問題についてこれ以上押し問答をしても埒があかないと判断したケネスは、ひとまずトオヤ達が聞きたがっていた「本題」へと話を話題を切り替えることにした。

「レア姫を探す方法についてだが……、さきほどのお前達の話では、ワトホートの契約魔法師達が『位置探索』の魔法を駆使しても見つからなかった、ということだたな」
「えぇ。聖印の繋がりが変質しながらも消えてはない以上、生きていることは間違いないようですが、おそらく姿が書き換わったせいで探知出来ないのではないかと」

 その話を聞いたケネスはしばらく考えた上で、「あること」に気付く。

「これは、既にワトホート達も気付いて試している可能性もあるが……、仮に本人の姿が変わっていても、『風の指輪』を頼りに探すことは出来るのではないか?」
「え? それはどういう」
「『そこの偽物』が持っていた指輪は、どうせ偽物なのだろう?」

 そう言われたドルチェは頷きつつ、納得した表情を浮かべながら呟く。

「確かに。もしレア姫がまだあの指輪を持っているのであれば……」

 「風の指輪」とは、英雄王エルムンドが有していたと言われる「六つの輝石」と呼ばれる「聖印の力が込められた宝石」の一つが嵌め込まれた指輪である。ヴァレフール伯爵家に伝わる家宝であり、レアが留学する直前に(当時の第一継承者候補だった)ワトホートから「継承者の証」として渡されていた。
 ブラギスの許可も騎士団会議の承認も得ることなく、ワトホートが勝手に自分の娘に譲り渡すことで「次々世代までの継承順」を規定路線化しようとしたことを当時のケネスは批判したが、最終的には「指輪の所持そのものは継承者選定においては意味を成さない」というブラギスの言質を得ることで矛を収めたという経緯がある。
 とはいえ、その指輪には強力な英雄王の聖印の力が込められており、極めて貴重な逸品であることは間違いないため、レア自身の護身のためにも彼女自身が常に肌身離さず持ち歩いており、影武者としてのパペットは常に「模造品」を身につけていた。そしてレアはその指輪を持ったまま失踪している筈である。

「位置探索の魔法は、人だけでなく『物品』の探索も可能な筈だ。それが『この世界に一つしかないもの』であれば、その物品を正確に想像出来る者さえいれば、場所を特定することは出来る。さすがに異空間にまで消えてしまっては探しようがないし、魔境の中などであれば探知出来ない可能性もあるが、試してみる価値はあるだろう」

 ケネスは、子供の頃にエーラムの魔法学校に勧誘されたこともあって、魔法に関しては一定以上の知識を有している。それは、自分自身が魔法を使えなくとも、契約魔法師の力を最大限に有効活用するために必要と考えた上での勉学の成果であった。

「チシャ、お前は『位置探索』の魔法は使えたか?」
「すみません、私は……」

 「位置探索」は魔法の系統としては「基礎魔法」だが、チシャはその魔法の講義を受講してはいなかった。彼女は申し訳なさそうな顔をしていたが、むしろここで彼女がそれを使えたなら「なぜ自分で気付かなかった!」とケネスから説教されていたことだろう。

「ではウチの魔法師団の中から、出来る者達を探すことにしよう。少なくとも一人はいた筈だ」

 ケネス自身の正規の契約魔法師はハンフリーの死後は不在のままだったが、この城にはケネス派の騎士と契約した魔法師達が何人かいる。いずれもまだ実力的にはチシャには遠く及ばぬ者達ではあったが、それでも、いざという時のために様々な系統の魔法師達を揃えていた。

 ******

 それからしばらくして、一人の魔法師が呼び出され、そしてドルチェが有していた「本物そっくりの模造品」を手掛かりに、これと同じ形状の物品が、この場所から見てどの方角のどの距離にあるのかを探索した。
 その結果、「奇妙な結果」が彼等の前に提示される。

「……海の上、だな」

 その魔法師が提示した「距離と方角」を聞いたケネスが、そう呟く。

「え?」

 唐突に提示されたその言葉にトオヤは驚くが、ドルチェは淡々と答える。

「まぁ、順当に考えれば、船の上にいるということだろうね。僕はレア姫の変化した姿を知らないけど、さすがに泳いでは来ないんじゃないかな」

 彼女が水棲の魔獣となっている可能性も無いわけでは無いが、どちらにしてもそれは大した問題ではない。その魔法師の証言によれば、その距離は少しずつブレトランドに近付きつつあるという。ケネスはその座標を正確に聞き出した上で、自身の脳内地図と照らし合わせてみた。

「どうやら、方角的にはタイフォンに向かっているようだな」
「タイフォン!?」

 トオヤは思わず声を荒げる。よりによって自分達が不在のこの時に「本物のレア姫」が来訪しようとは思いもしなかった。無論、今でも彼女が指輪を持っているとは限らない以上、近付いているのがレア本人だという保証はないが、少なくともそれが彼女の手掛かりを知る上での重要人物であることは間違いない。

「お前達、今すぐ戻れ!」

 ケネスがそう叫ぶと、言われるまでもなくトオヤ達はその部屋から立ち去ろうとする。その上で、ケネスは去り際の彼等にこう言った。

「さっきも言った通り、もし仮にレア姫が『魔獣』のままだったとしても。元に戻せる可能性のある『切り札』は一つ、私の手の中にある。そのことについても、よく考えておくことだ」

 その言葉に対し、トオヤは内心で複雑な想いを抱きつつも、ひとまず今は何も答えぬまま、仲間達と共にアキレスの居城から走り去るのであった。

2.1. 別時空の地球人

 かくして、トオヤ達がその存在に気付いてタイフォンへと急遽帰還しようとしていた頃、レア達を乗せたハルーシアの遊撃船は、一足先にタイフォンの漁港へと近付きつつあった。
 船の中では海が苦手な(陸を離れるとなぜか気力を失う)モルガナが体調を崩してぐったりと甲板に倒れこみ、そんな彼女を(ワカメと罵りつつ)気遣ったエイトがハーブの鉢植えを並べる一方で、ウチシュマは船の上であろうがかまわずダラダラと惰眠を貪り続ける。そんな彼等を横目に見ながら、レアは眼前に迫る故郷の大地を見て心を高ぶらせている中、その隣でエレオノーラは海上に出たことで高揚する自分の中の「海賊としての本能」への嫌悪感に苛まれ、そんな子供達の様子をサンクトゥスは興味深そうに眺めていた。
 やがて彼等を乗せた「軍船」がタイフォンの漁師達の視界に入ると、彼等はすぐに留守居役のウォルターに連絡する。港に赴いたウォルターは軍船が「幻想詩連合」の旗を掲げていることに気付き、自ら出向いて総司と面会した上で、総司が「サンドルミア時代に交流があったレア姫」との会談を申し出ると、ウォルターはあっさりと彼等の上陸を許した。ネネの助言通り、三兄弟と「深めにかぶったローブと眼鏡で軽く変装したレア」は「総司の従者」という名目で、そしてエレオノーラは(出自をボカしながら)「エーラム時代のチシャの友人」と名乗った上で、彼と同行することになった(サンクトゥスは「剣」としてエイトが所持していた)。
 ひとまず、ウォルターから「姫様もチシャ様も領主様と共に出かけていて不在だが、今日中には戻られると思う」と聞かされた彼等は、帰って来るまでの時間潰しとばかりに村の中を散策していると、唐突に一人の少女(下図)が彼等の前に現れ、そしてエイトに向かって声をかける。


「あら、エイトくん、久しぶりね」
「げっ!?」

 思わずエイトはそんな声を漏らす。見た目はエイトよりも多少年上に見えるこの少女の名は、キリコ・タチバナ。エイトの母ユリと同じ地球からの投影体であり、ユリの友人でもある。キリコは「大正時代の日本出身」と名乗っており、その証言が本当なら、ユリとは同郷の同時代人である筈なのだが、二人の記憶の中にある「大正時代の日本」は微妙に様々な点で違いが多く、おそらくはもっと前の時代のどこかで分岐した別時空の地球人なのではないかとユリは考えていた(彼女の出身世界については闇に妖、人に花「なまえのないかいぶつ」参照)。
 彼女は特殊な隠密能力に長けており、またこの世界における「風景」などを「一枚の絵」として切り取ることが出来る特殊な異界の道具の持ち主でもあったため、諜報機関「ヴァルスの蜘蛛」において、腕利きの調査員として活躍している。パンドラの一員ではないが、ユリとの個人的繋がりから、情報屋として彼等に協力することも多かった。

「あらまぁ、随分おっきくなっちゃって。で、何なの? こんなに女の子はべらせちゃって。いやー、いつか君はきっと『いい男』になるだろうとは思ってたけどねぇ、こりゃあお姉さんもびっくりだわ」

 キリコはエイトとは面識があるが、モルガナやウチシュマとは初対面である。そんなキリコから見れば、今のエイトは「四人の女の子を侍らせているマセガキ」にしか見えなかった(「保護者」としての総司については、この時点ではやや離れた場所にいたため気付かなかった)。

「なんでここにいるんですか!?」
「私は情報を探して回るのが仕事だからね。今、ここの領主様がちょっと話題になってるのよ」
「甲斐性無しなんですか?」

 何の根拠もないままに、あえてそう聞いてみたエイトであったが、キリコは笑顔で首を振る。

「逆よ逆。この村の領主様、次期騎士団長とも、レア姫の王配候補とも言われてるくらい、若くしてやり手の有望株なんだけど……」

 その話に対して、エイトは内心穏やかならざる感情が湧き上がっていたが、平静を装いつつ聞き流す。一方、彼の後ろではレアが、ローブの奥でビクッと反応していた。

「……ただ、最近、ちょっとやらかしちゃってねぇ。これ見てよ。こっちの聖印掲げてる人がその領主様なんだけどね」

 そう言って彼女が取り出したのは、彼女の「異界の道具」によって切り取られた「白黒の風景画」であった。そこでは「『領主様』が兵士達の前で片手から聖印を掲げて混沌核を吸収しつつ、もう片方の手で一人の女性を抱き寄せている様子」が描かれている。その場にいる誰も「その女性」には見覚えがない。だが、その光景が「レア姫の王配候補」としてふさわしくないことだけは、誰の目にも明らかであった。

「あ〜、これはいけませんわぁ〜」

 ウチシュマがあえて煽るような声色でそう言うと、キリコもそのテンションに便乗するように、楽しそうな口調で話を続ける。

「この相手の人、どうやら領主様の側近の女傭兵らしいんだけどね、レア姫のいないところで、こんなことやっちゃってるのよねぇ。しかも、普通に兵士達が見ている前で、白昼堂々と」

 彼女はヴァルスの蜘蛛の中では「戦場カメラマン」を自称しており、ブレトランドを中心に様々な地域の戦場を渡り歩き、多くの軍事機密を入手してきた。この時も、オブリビヨンの暴走の真相を突き止めるために潜入していたのだが、その解決後に思いのほか「面白い絵面」が撮れたので(兵士達も目撃している以上、純粋な「情報」としての価値はほぼないが)「お気に入りの一枚」として持ち歩いていたらしい。

「この女傭兵、ドルチェって名前らしいんだけど、正体がよく分からないのよ。ただ、レア姫と彼女が一緒にいるところを見た人はいないらしくてね。つまり、どういうことかと言うと、この二人、実は……」

 彼女はあえてもったいぶった上で、ニヤリと笑ってこう言った。

「仲が悪いのよ! 多分、彼を巡って裏でバチバチやってるんじゃないかと。だからきっと、共演NGなんだわ。まぁね、私の世界にも『英雄、色を好む』という言葉はあるしね。モテる男は仕方ないんじゃないかな。君のお父さんとかも、そうだったらしいしね」

 キリコはユリから「エイトの父親がダン・ディオード」であることは聞かされているが、その情報についてはヴァルスの蜘蛛の中でもトップクラスに価値の高い情報なので、気軽に漏らして良い話ではない。だが、基本的に彼女は「喋りたがり」なので、このように話しても問題のない相手(本人)に会う度に、ベラベラと聞かれてもいないことを楽す癖がある。一方、「幾人もの女性を孕ませた上で育児もせずに放置してきた父親」に対して当然のごとく強い嫌悪感を抱くエイトは露骨に舌打ちするのだが、しかし、客観的に見れば今の彼の周囲にもまた「魅力的な女の子」が集まっている状態であった。

「まぁ、君も気をつけなさいよ。あんまり女の子泣かせると、いつ背中から刺されるか分かったもんじゃないから」
「僕を、あの父親と一緒にするな!」

 思わずエイトがそう怒鳴ると、ここで唐突に、 それまで「聖剣」だけの状態であったサンクトゥスの「人間形態」が現れる。

「どれどれ、その写真、我にもよく見せてくれ」
「あら何? もう一人いたの?」
「まぁ、彼女はオルガノンだから……」

 実際のところ、それは「対象外」であることを意味してはいないのだが、少なくともエイトの反応から、彼の方はあくまでこの褐色少女のことを「剣」としか認識していないことは、キリコにも推測出来た。キリコはそんなエイトを面白半分にからかいながら、周囲の少女達の反応を密かに観察する(無論、その動機はあくまでも彼女の興味本位である)。

(エイトくんのことを一番意識してるのは、あのおとなしそうな帽子の娘みたいね。でも、エイト君の方は、あのローブを被った眼鏡の娘を一番気にしてる……)

 その「ローブを被った眼鏡の娘」は、眼鏡の奥でなんとも表現しがたい顔で、後方からその写真を凝視していた。

(この写真に一番興味を持ってるのはこの娘みたいだけど、さて、どういうことなのかしら?)

 そんなことを考えながら、あまり往来で「この地の領主の醜聞」を堂々と話すのも良くないと考えた彼女は、ひとまずその「白黒絵」をしまう。

「とりあえず、『ヴァレフールのこっち側』の情報は色々持ってるから、何か知りたいことがあったら、聞いてね。さすがに、高度な情報になってくると、タダとは言えないし、そもそも上の許可が無いと話せなくなるけど」

 そう言われたエイトは「今、この村にいるレア姫」についての話を聞こうかと考えていたが、その話をどう切り出すべきかと迷っている間に、村の北の方から騒がしい様子が聞こえてくる。

「領主様と姫様がお戻りになられたぞー!」

 村人達の嬉しそうなその声に対して、誰よりも激しくビクッと反応したのは(当然のごとく)レアである。そして、エイトがそんな彼女を心配そうな様子で見つめている間に、いつの間にかキリコは彼等の前から姿を消していた。

(またあのよく分からない隠密の術を使ったか……)

 話を聞きそびれてしまったエイトであったが、ひとまず「本人」が現れたのであれば、あえてここで無理に彼女を探す必要もない。そう考えた彼は、総司とも合流した上で、その「領主様と姫様」が現れたと思しき場所へと向かうことにした。

2.2. 再会と困惑

 トオヤ達はいつものごとく、「レア姫が乗っている(ことになっている)馬車」を警護するような形で、その周囲を(ドルチェを含めた)四人で騎乗した状態のまま入村する。その姿を見たエイト達は、先刻見た「白黒絵」に映っていた「領主」と「領主が抱き寄せていた女性」に対して訝しげな視線を向けていたが、レアだけは、ローブの奥で密かに感動に打ち震えていた。

(あぁ、トオヤ……、本当にトオヤだわ……。私、帰ってきたのね、ヴァレフールに……)

 そんな中、まず真っ先に総司が彼等の前に姿を現わす。トオヤ達から見れば、明らかに異様な装束の青年であったが、ドルチェだけは見覚えがあった。

(あれは確か、サンドルミアにいた時に出会った……)

 彼女がそのことを思い出そうとしている間に、総司はトオヤに語りかける。

「こちらの領主様でしょうか? 私、ハルーシアの海上遊撃部隊の隊長を務めております、ソウジ・オキタと申します」
「ほう?」
「少々お話したいことがありまして……」

 彼はそう言うと「ローブを深く被った少女」を呼び寄せる。そして彼女はトオヤの乗馬の真横にまで近付いた上で、トオヤだけに「中身」が見えるような角度で見上げながら、変装用の眼鏡を外す。
 その瞬間、トオヤは思わず目を見開き、そしてすぐに馬を降りて、彼女の耳元で小声で問いかける。

「レア?」
「話には聞いていたけど、本当に立派になったのね……」

 レアもまた小声でそう返した。つい先刻まで「あの絵」のことで激しく動揺していたレアだったが、今はその点に関する「疑惑」よりも、実際に本人を目の当たりにしたことへの「感動」の方が上回っていた。そして、レアのその様子から、彼女の中でトオヤが「特別な存在」であることは、周囲の者達にも感じ取れた。だからこそ、島から来た子供達(特にエイト)の中では「男性としてのトオヤ」への不信感が湧き上がっている。
 一方、そんなトオヤの様子から、ただごとではない事態が起きていると察したチシャ、カーラ、ドルチェの三人も、すぐにトオヤの近くに駆け寄り、そして「彼女」の姿を確認したことで事態を把握する(カーラは初対面だったが、その姿はドルチェを通じて見覚えがあった)。

「あるじ、とりあえず、ウチに招いたらどうかな?」
「そうだな。ここでの立ち話は、往来の邪魔になるし」

 トオヤにそう言われたレアは、ひとまず黙って頷く。

(あの魔法師はチシャよね? この人は見たことがないけど、「あるじ」と呼んでるということは従者なのかしら。そして、あの人は……)

 レアが疑惑の視線をドルチェに向けようとすると、それを察した彼女は、あえてレアの前を横切るように通り過ぎようとして、その際にあえて(「パペット」の姿の時にいつも使っていた)ループタイを、彼女に見えるように落とす。

「あぁ、これは失礼」

 そう言ってドルチェはそれを拾い上げる。その瞬間、レアはその動作の意味に気付いた。

(そうか、彼女はパペットだったのね……)

 「得体の知れない女性」がトオヤと親密な仲になっていると聞かされた時の困惑からは一瞬だけ解放されたレアであったが、その次の瞬間、彼女は「より根深い疑惑」にとらわれることになる。

(いや、ちょっと待って……。なんでパペットは今、「こんな姿」をしてるの? 彼女は今も「私の影武者」を務めてくれてるんじゃないの? 彼女がここにいるなら、今、馬車の中にいるのは誰? 「私の姿」ではなくて、「この姿」でトオヤと「あんなこと」をするって、一体、何が起きているの……?)

 実際のところ、5年前はレアもトオヤもまだ子供で、極めて親密ではあったが、決して恋仲と言えるような関係でもなかった。それから5年の時を経た今、自分の知らないところでトオヤに恋人が出来ていてもおかしくないとレアは思っていたし、もともと立場的にも身分的にも彼と結ばれるのは難しいだろうとも考えていた。だが、彼が「自分の影武者だった人物」と「そのような関係」になっているという事態は完全に想定外であり、彼女は困惑していた。

(とりあえず、落ち着かなきゃ。落ち着いて、ゆっくり話を聞かなきゃ。むしろその前に、まず、私の方から色々と話さなきゃいけないしね。多分、全てを彼等に聞かせたら、今の私以上に彼等の方が驚くことになるだろうし……)

 必死で自分にそう言い聞かせつつ、そもそも何をどこまで話せば良いのか、という問題に気付いた彼女は更に困惑する。そんな、明らかに動揺した彼女の様子を目の当たりにしたエイトは、相変わらず平静を装いつつも、内心では一人静かに怒りに震えていた。

(レアは信用出来る男だと言ってたけど……、こいつにレアは渡せない!)

2.3. 不穏な道中

 こうして領主の館に向かって歩み始めようとしたところで、チシャは総司を取り巻く従者達の様子を眺めつつ、明らかにそれが「奇妙な集団」であることに気付く。いずれの装束も明らかにこの世界の文化とは別物であり、召喚魔法師であるチシャの目には「出身世界もバラバラの投影体集団」としか思えなかった。
 そんな中、一人だけ「普通の人間」のように見える少女と目が合うと、その少女の方からチシャに向かって走り寄ってきた。

「チシャ様、ですよね?」

 その声を聞いたことで、チシャもようやく思い出す。

「ひょっとして、エレオノーラさん?」

 エーラムで最後に会った時に比べてかなり成長していたため、最初は気付かなかったが、それは確かにノルドからの留学生のエレオノーラであると彼女は確信する。

「はい、色々ありまして、こちらの方々のところでお世話になっておりまして、あの、ソウジ様は本当に良い方で、ソウジ様の従者の方々も本当に良い方々ばかりで……」

 エレオノーラとしては、どう説明すれば良いのか分からないので、ひとまず「良い方」を連呼するだけの雑な持ち上げ方となってしまったが、彼女のその必死な様子から、言いたいことはチシャには十分伝わる。

「ソウジ様達は、ハルーシアの投影体部隊の方々なのです」

 最終的に、彼女はそう言ってごまかすことにした。本当は、ソウジが率いているのは「彼を信奉する模倣型邪紋使い」を中心とする部隊なのだが、ひとまずそう言っておいたた方が無難だと考えたらしい。もっとも、同盟の中核国の一つであるノルドの姫君が、ハルーシアの軍人達と行動を共にしているという時点で、端から見れば明らかに不自然な取り合わせではあるのだが、ひとまずチシャはその件に関してはこの場では踏み込まないことにした。
 むしろ、今のチシャがより気になっていたことは、レアの身体から微弱な混沌の気配が感じ取れたことである。

(見た目は人間の姿に戻ってるけど、まだ身体は完全には治っていない、ということなのかな? 指輪を持ってはいるから本物みたいだけど……、でも、「幻影の邪紋使い」の可能性も……)

 さすがにこれまで何度も様々な「偽物」に騙されてきたこともあり、チシャはまだ彼女のことを「本物」であると完全に断定するには至れない心境であった。

 ****** 

 一方、カーラもまた「奇妙な子供達」の中に一人の「知人」を発見する。先に声をかけてきたのは、その「知人」の方であった。

「おぉ、久しぶりじゃのう。まだそこの『お主を使ってもくれぬ男』に仕えておるのか。剣というものは、人に使われてなんぼじゃぞ」

 サンクトゥスはそう言いつつ、背伸びしながらカーラの肩をポンポンと叩く。実は彼女は数年前までこのブレトランドの各地を放浪しており、その頃にカーラに出会っていたのである。当時の彼女は「自身の使い手となる剣士」を探しており、カーラに剣士としての才能を見出して、自身の持ち主にならないかと持ちかけたが、カーラ自身が自分と同じオルガノンと知って諦めるに至った。カーラのこれまでの人生の中で「剣としての自分」を欲しがる人物と遭遇したことは何度もあったが、逆に「剣士としての自分」を求められたのは初めてだったので、良くも悪くも印象的な出来事であった。

「まぁ、ボクには『何をどうあがいても盾にしかならないあるじ』がいるので。そのあるじのためにボクが『独立して動く剣』として斬り込んでいく、それで満足してますから」

 満足気な表情でそう語るカーラから、「あるじ」に対する深い親愛の情を感じ取ったサンクトゥスは、少し羨ましそうに微笑を浮かべつつ、それ以上は何も言わなかった。一方、そんな彼女の隣から、ウチシュマが口を挟む。

「トオヤ君、果報者だね〜」

 微妙に意味深なその言い回しに対してカーラがどう反応すべきか迷っていたところで、今度はモルガナが割り込んで来た。

「トオヤさんって、どんな人? 結局、彼はだれに目をかけてるの? それとも、全員どうにかしようとしてるの?」

 唐突にそう言われたカーラはオロオロしつつ、なんとか「無難な回答」を引き出そうとする。

「一番皆から望まれているのは、レア様と結ばれることなんでしょうが……」

 それに対してウチシュマが、人の悪そうな笑顔で尋ねる。

「でもそれって〜、『君主としての、後継者としてのレア』だよね〜?」

 それに対してはカーラは何の迷いもなく「うん」とカーラは答える。その返答を踏まえた上で、モルガナは更に問いかけた。

「じゃあ、トオヤさんとレアさんって、ほんとうは仲わるいの? なんかさっきから、馬車の中と外で、あんまりはなしてなかったし」

 無論、モルガナは「馬車の中にいるレア」が本物のレアではないことは知っている(より正確に言えば、そもそもこの時点で馬車の中には誰もいないのだが)。その上で、あえて「従者」としての彼女にそのように尋ねてみたのだが、それに対してはカーラはどうごまかせば良いのか分からないまま、遠い目をしながら答えた。

「貴族って、恋愛もままならないんですよねぇ……」

 カーラのその言葉にどんな意味が込められていたのかは正確には伝わらなかったが、ウチシュマとモルガナはそんな彼女の傍らで、好き勝手に雑談する。

「まぁ、権力闘争とか色々ありそうだしねぇ〜」
「ウチの弟にもかいしょうはほしいけどね」
「それはそれとして、ウチのリカをどうしたいのかを聞きたいよねぇ〜」

 彼女達が何の話をしているのかはカーラには分からなかったが、少なくとも、あまり人前で話すべき内容ではないように思えた。

「あの、道行く人もいますから、その、そういう話は、館についてからということで……」

 ******

 そうこうしている間に、ようやく領主の館が見えてきたところで、総司は密かにトオヤに問いかける。

「領主殿、こちらは『私達が連れてきた彼女』が本物のレア姫だという前提でいるんですが、その認識で間違いはないですか?」
「えぇ。僕の記憶にある彼女は、間違いなくあの彼女です」
「で、今までは『彼女の影武者』があなたの近くにずっといた、ということですね」
「はい」
「では、あなたと彼女と彼女の影武者と三人で話をするように彼女に言った方がいいですか?」
「そうですね……、いや、出来れば、僕の仲間も一緒に同席させてもらいたいです」

 まだレアの現状がよく分からない以上、混沌核に関する知識はトオヤにはないため、カーラやチシャの知恵を借りたい、というのが彼の本音であった。総司がその申し出をレアに伝えると、彼女もその方針で同意する。
 一方、 エイトは総司を通じて「トオヤとの会談中のレアの護衛」を申し出る。レアは「一人で大丈夫」と言っていたが、エイトとしてはどうにも心配でならない。最悪の場合、この地の領主達にとって「彼女」の存在が邪魔になった場合、消される可能性もありうると考えていた。総司は少し考えた上で、妥協案を提示する。

「まぁ、そういうことなら、扉の外での護衛くらいは認めてもらいましょう。君の耳が良すぎて、中の話が『偶然』聞こえてしまう分には仕方ないということで」

 総司がその旨をトオヤに提案すると、トオヤとしても、さすがにそこまでは断れなかったため、本来の館の警護兵館と並んで扉の外で護衛に就く、という形で同意する。そして「エイト一人だと心配だから」という理由でウチシュマもまた同じ護衛の任に就くことにする一方で、モルガナはあえてそこには加わらず、総司やエレオノーラと共に別室で待機することになった。

2.4. 姫君の事情

「今までありがとう、パペット」

 エイト達を扉の外に残した上で、トオヤ達四人と共に応接室に入った彼女は、「ドルチェ」の姿のままの「パペット」に対してそう言った。

「僕は君に『自分が帰ってくるまで時間を稼いで欲しい』と言われたから、その通りにした。君が自分のことは自分で何とかすると言った以上、それを信じて待ち続けていただけだよ」

 淡々とそう答えたパペットに対して、レアは申し訳なさそうな顔を浮かべる。

「ごめんなさい。実はまだ、私の身体は元に戻ってはいないの。それでもここに帰ってきたのは、これから私がどうすべきかについて、あなたの意見を聞きたかったから」

 彼女はそう言った上で、パペットやトオヤ達が聞きたがっているであろうことを話そうとしたが、その前にまず、断りを入れる。

「ごめん、まず最初にこれだけは言わせて。私が誰に助けられて、どうやってここに来たのか、ということに関しては、今はまだ詳しくは言えない。でも、私を助けてくれたのが、私のことを本当に心から思って、助けてくれた人達であることは間違いないわ。だから、今は私と『彼等』の言うことを信じてほしい」

 彼女が言うところの「彼等」がどこまでを指しているのかはトオヤ達にはよく分からなかったが、何かよほど特殊な事情があるのだろうと察したトオヤ達は、ひとまずその前提を受け入れた上で、彼女の話に耳を傾ける。

「パペットから話を聞いてるかもしれないけど、私はサンドルミアにいた時に、混沌核の浄化に失敗して、聖印を混沌核に書き換えられて、身体を『魔物の姿』に変えられてしまったの。そして、今の私のこの身体は、私を助けてくれた魔法師の方が、生命魔法の力で『見た目』だけごまかす形で書き換えてくれたもので、私の中にはまだ混沌核が残ってる」

 そう説明されて、彼女から混沌の気配を感知していたチシャも合点がいく。そして、そこまで高度な生命魔法が使える人物は、この世界にそう何人もいないことも彼女は知っている。当然、この時点でチシャの中では(つい先刻、ケネスとの会話で「ドギの一件」を聞かされていただけに)「嫌な予感」がよぎったが、この時点ではまだ確証には至らなかったので、あえて今はそのことは考えないことにした。

「そして、『その人の仲間で、私の記憶を戻してくれた魔法師の方』が言うには、私の身体を治す方法は二つあるらしいわ」
「二つ?」

 トオヤとしては、ケネスが言っていた「切り札」の話が頭をよぎったが、ひとまずはそのまま彼女の説明を聞き続ける。

「一つは、コートウェルズにいる『流浪の君主』の力を借りて、私の中にある『混沌核に変わってしまった私の聖印』を、もう一度聖印に書き換えること。でも、その人の力で作り変えられた聖印は、聖印に近い力を持っているだけで、混沌を浄化することも、他人から聖印を受け取ることも出来ない『特殊な聖印』になるらしいわ。つまり、私がその聖印の持ち主になった場合、私がヴァレフール伯爵家の聖印を継ぐことは出来なくなる」

 エーラムの魔法師協会はこのような聖印のことを「擬似聖印」と呼んでいるが、極めて稀な事例であるため、チシャですらもその話は聞いたことがなかった。

「もう一つの方法は、私の身体の混沌核を私から引き剥がすこと。アントリアの北東部のラピスという村の領主の聖印なら、それが出来るらしいの。ただ、その人がこれまで剥がしてきたのは人の体に刻まれた『邪紋』であって、私の中の混沌核は邪紋とは少し違うから、剥がせるかどうかは分からない。最悪、剥がすことが出来たとしても、私が私の身体を維持出来なくなって、死んでしまうかもしれない。ただ、これが成功すれば、私は『まっさらなただの人間』に戻るから、お父様の聖印を改めて引き継ぐことは出来る」

 その聖印の持ち主についても、トオヤ達は何も知らない以上、今の時点では何とも判断が出来ない。ただ、「死んでしまうかもしれない」という推論は、当然のごとく彼等にとっては極めて重い。そのことを踏まえた上で、彼女は四人に問いかける。

「私が聞きたいのは、私が危険を冒してでも『完全にまっさらな身体』に戻るべきなのか、それとも、危険性の低い方法で、ひとまず『人間』に戻るべきなのか、ということ。私自身がヴァレフール伯爵家を継ぐ必要があるのなら、身の危険を冒してでも、そのラピスの聖印に賭けてみる必要がある。でも、誰かが私と結婚して、私の代わりに聖印を継いでくれるなら、コートウェルズの流浪の君主の聖印で、より安全に『人間としての自分』を取り戻す道を選ぶことも出来るわ。もちろん、どちらも『その君主が協力してくれるなら』という前提の上での話ではあるけど」

 その二人の君主についての詳しい情報はレアも知らない以上、どちらの方が実現可能性が高いのかはレアには分からない。そして前者の選択肢を選ぶ上での前提となる「代わりに聖印を継ぐ結婚相手」についても、レアは今の「自分」がどのような立場に置かれているのかをまだ正確に把握していないため、まずはそのことを確認する必要があった。

「ここに来るまでに聞いたわ。あなたが今、私の夫の候補となっているということを」

 実際には、聞いたのは「その話」だけではないのだが、ひとまずそのことは伏せた上で彼女は問いかける。その発言に対して、トオヤがどう反応すべきか迷っている様子を確認したレアは、とりあえずその件については脇に置いた上で、まずは今の時点で話し合うべき本題を明らかにする。

「まず、私はどうすべきだと思う?」

2.5. 姫君の疑念

 レアが一通りの「事情」を話し終えたところで、しばらく沈黙が続いた後、おもむろにカーラが手を挙げる。

「ちょっと口を挟ませてもらってもいいかな、レアお嬢?」

 カーラとしては、(余計な疑惑を生まないためにも)まず自分がここにいる理由を説明する必要があると実感したようである。

「はじめまして、だよね? トオヤの従者をしています、オルガノンのカーラです」
「あぁ、あなたが。私の代わりに『彼女』が一緒に探し出したという……」

 レアがそう言いながらドルチェに視線を向けると、ドルチェは落ち着いた笑顔で頷きながら、しみじみと述懐する。

「そういうこと。あれも懐かしい思い出だ。あの時の君は、随分悔しがっていたね、一緒に行けなかったことに」
「本当に行きたかったわ。でも、結果的にそれで良かったのかもしれないわね」

 少なくとも、あの時点で体調不良のレアが無理して同行すれば、当然のごとく足手まといになっていただろう。その場合、カーラを見つけるところまで辿り着けたかどうかは分からない。

「あるじ、一応、これはボクが言っておかなきゃいけないことだと思うから、ここではっきり断言しておくけど、ボクのお父様の血にかけて、彼女は間違いなく『レア・インサルンド』だよ」

 カーラは今、かつてチシャに感じた時と同じ気配をレアから感じ取っていた。当然、レアには彼女の「お父様の血にかけて」という言葉の意味は分からなかったが、カーラはその点について説明することなく、語気を荒げながら話を続ける。

「まずいのは、『インサルンドの血の者』が『混沌に近い形』で存在している、ということだと思うんだ!」

 つまり、このまま放置しておくと「マルカートと類似した存在」となる可能性もありうると彼女は考えていたのである。

「そうだな。とはいえ、まぁ、落ち着け、カーラ」
「あ、うん、ごめん」

 トオヤに言われたカーラがひとまず引っ込むと、トオヤは冷静な口調でレアに語りかける。

「とりあえず、最初に言っておくべきことがあったとは思うんだけど……、その前に、まず、お互いの持っている情報を擦り合わせよう。その問題は、今すぐ決めるべきことじゃない。というのも、実はウチのお爺様にも、君の身体の事情を解決出来るかもしれないアテがあるらしい。それが、キミの言っている君主の話と同じかどうかは分からないけど、もしかしたら別の選択肢があるのかもしれない。まずはお爺様からその話を聞いてからにしたい」

 それに対して、レアは少し驚いた様子を見せる。

「ケネス団長に『私のこと』を話したのね?」

 レアとしては、パペットがこの地にいた時点で、トオヤ達にまで自分の事情が伝わっていることまでは想定していたが、さすがに父や祖父の政敵であるケネスにまで知られているとは考えていなかったらしい。

「まぁ、あなたも色々考えた上で、それが必要だと思って話したんだろうから、それはいいわ。でも、今のあの人に、私の身体を治すことに協力する理由はあるのかしら? あの人は『自分の孫』にこの国を継がせたいと思ってるんじゃないの? 今、『あの三人』はどうしてるの?」

 レアが言うところの「あの三人」とは、ケネスの九人の孫達のうち、爵位継承権を持つ三人、すなわちトイバルとケネスの娘シリアの間に生まれたサラ、ゴーバン、ドギの三人である。

「サラはハルーシアの貴族家に嫁いだんだ」
「なるほど。まぁ、順当な話ね」
「ゴーバンは、その、旅に……」
「旅?」
「……ごめん、そのことについては、話したいことは色々あるんだけど、今それを話すと、色々感情的になってしまうから、とりあえず、その話は『保留』ということにしてもらえないか?」

 明らかに動揺した様子のトオヤを見て、レアはそれ以上の追求をやめる。そもそも、今は自分の方もエイト達の素性を隠している以上、どうこう言えた義理ではない。

「分かったわ。じゃあ、ひとまずそれはいいとして、結局、ケネス団長は今、誰に継がせたいと思ってるの?」
「お爺様は、君が伯爵位を継いで、俺が君の夫になることを望んでいる」

 トオヤのその発言は、レアの中では想定通りの答えだった。ただ、そう話す時のトオヤの様子が明らかに不本意そうに見えたことで、レアの中に徐々に「嫌な予感」が広がっていく。

「そうよね。やっぱり、そう考えるわよね……。てっきり、最初は私をゴーバンと結婚させるつもりなのかと思ってたけど、ここに来るまでにそんな話は聞かなかったし。で、さっきのあなたもそのことを明確に否定する気は無かったみたいだし。そもそも、『私』が『この村』にいることを許されているということは、その縁談はもうウチのお父様は納得済みなんじゃないかしら? まず、ウチのお父様はどこまで把握してる?」

 平静を装おうとしつつも明らかに乱れた口調で矢継ぎ早にそう問いかけるレアに対して、困った様子のトオヤに代わり、ドルチェが答える。

「そうなんだよね。だいぶ前にもワトホート様にもお会いしたよ。ワトホート様は、君の身に『何か』があって、そしてブレトランドにはいない、ということまでは分かっていた。まぁ、当然だよね。混沌核に書き換わったとはいえ、君はあの人の従属聖印を持っていたんだし」
「なるほど。あくまで偽物だ分かった上でのことなのね。とはいえ、この村で『私』が『トオヤ』と一緒に暮らしているという『形式的な事実』を認めているといことは、お父様もケネス団長と同じように『そういう方向』に話を進めようとしているんじゃないかしら?」

 レアはそう言いながら、トオヤに視線を向けた。

「ま、まぁ、そういうことになるだろうな」

 明らかに動揺するトオヤを目の当たりにして、レアの中で更に「疑惑」が広がる。

(トオヤがこういう顔をする時は、何か「うしろめたさ」を感じている時……。それは「私に黙って私との縁談を進めたこと」へのうしろめたさ? それとも……)

 レアの中で、考えたくない「もう一つの可能性」が湧き上がってくる中、ひとまずドルチェが淡々と今の状況について解説する。

「ワトホート様にしても、ケネス団長にしても、このまま国内対立を長引かせるつもりはないんだよ。ヴァレフールを一つにまとめるための落とし所としては、アリなんじゃないかい?」
「そうね。それはそれで納得出来る。それで、トオヤ、あなたはそれでいいと思ってるの?」

 意を決して、レアが核心をつく質問をトオヤに投げかけるが、彼は沈黙を続ける。

(トオヤ……、あなたには、私の気持ちが伝わっていたんじゃないの? 私が、あなたとの縁談なら喜んで受け入れると分かった上で、縁談を進めてくれてたんじゃないの? 私が嫌がる訳じゃないじゃない。嫌だったら、こうやってお父様よりも先にあなたに会いに来たりしないわよ。もし、あなたが私の気持ちを分かった上で、それでも答えられないとしたら、それは……)

 レアは、自分にとっての「考えたくない可能性」を否定してほしかった。だが、どうしてもトオヤが答えてくれないなら、もう一人の「容疑者」に聞くしかない。

「パペット、あなたは今まで、彼の前で『どういう私』を演じてきたの?」

 その発言に対して、ドルチェが答える前にトオヤが咳き込み始める。

「おや、トオヤ、どうかしたかい?」
「いや、なんでもない」

 いつもの調子でドルチェはトオヤとそんな会話を交わしつつ、いつもの通りに彼女は飄々とした口調で素直に答える。

「レア・インサルンドとしての演じ方は変わらないさ。昔このブレトランドにいた時も、サンドルミアに行っていた時も、そして、戻ってきてからも。僕は君の影だ。そこに偽りはない」

 何ら悪びれることもなくそう言い切った彼女を目の当たりにして、レアは改めて「真実」へと近づく決意を固める。

「昔、私といつも一緒にいた時は、あなたは『私を正確に映し出す影』だったんだと思う。でも、この数ヶ月間、私とあなたは多分、全く違う生き方をしてきた。その過程で、私とあなたの間で『ズレ』は起きてない?」
「……あるだろうね」
「それは当然のことだし、そもそも私の方から勝手に姿を消したんだから、どうこう言うつもりはないわ。ただ……」

 レアが次に何をどう言えばいいか分からず迷っているところで、先にドルチェが口を開く。

「影武者としては、それでも出来る限り君に近付けるべきだとは思うんだけど……、残念ながら僕にはそこまで出来なかった。それ故にここにいるのが、パペットでも、レア・インサルンドでもなく、ドルチェなんだと、そう認識している」

 婉曲的な言い方だったが、それでもレアはこの時、自分の中の疑惑がほぼ「核心」をついているのだと確信した。

「あなたは本当に私の考えていることは殆ど全て分かっていた。だから、『私の気持ち』も分かっていた筈。だから、きっとあなたはトオヤに対しても、私がトオヤに抱いていた気持ちのまま、接していたのだと思う。その気持ちがトオヤに届いていたのかは分からないけど……」

 レアはそう言いながらも、自分の中では既にほぼ結論は出ていた。トオヤには(パペットを通じて)「自分の気持ち」はきっと伝わっている。伝わった上で、彼がそれを受け入れることを拒否しているのだということを……。

2.6. 姫君の心

 扉の中でそんな会話が繰り広げられていた頃、扉の外ではエイトが、母から貰った懐中時計を握りしめながら、全神経を聴覚に集中させ、必死で聞き耳を立てていた。隣にはこの館の本来の衛兵達もいるため、扉に耳を押し当てる訳にもいかず、肝心な部分が聞き取りにくい。

(もう少し、せめてあと頭半分近付けることが出来れば……)

 だが、これ以上扉に寄るのは明らかに不審行為とみなされる。そのギリギリのところで集中していた彼の耳が、突然、ほんの少しだけ通常時よりも鋭敏に物音を聞き取れるようなたのを感じた。隣でやる気なくあくびをしていたウチシュマが、彼と目が合った瞬間に目配せをする。

(これは、ウチシュマがくれた神の加護……! ありがとう、ウチシュマ)

 内心そう思いつつ、彼女に密かに懐から「色鮮やかな飴玉の入った缶」を取り出し、その中から一つ、りんご飴をプレゼントするのであった。

 ******

「トオヤ、あなたは私が帰って来るまでの間、人前で『私のフリをした彼女』を相手に、『世の中の人達を納得させるために』仲良さそうなフリをしていた?」

 そう言われたトオヤは、この数ヶ月間、彼女と共にヴァレフールの各地で甘味処巡りをしていた日々を思い出す(もっとも、大抵の場合、その場にはチシャとカーラもいたのだが)。

「えーっと、あの、そ、そうですね……、割と、本心から楽しんでました……」

 さすがに心苦しさが限界に達したのか、明らかに口調が不安定になっていく。そんなトオヤを見るに見かねたのか、ドルチェが覚悟を決めて、トオヤの前に歩み出る。

「もっと分かりやすく聞こうか?」

 そう言いながら、彼女は「レア」の姿に変身した。

「トオヤ、私のことは好きかい?」

 この発言に対して、脇で見ていたカーラとチシャは思わず硬直し、レア本人も困惑する中、トオヤはやや顔を硬直させつつ、ゆっくりと口を開く。

「えーっと…………、好きです」

 その一言を確認した上で、今度は「本物のレア」が「偽物のレア」に向かって問いかけた。

「じゃあ、私もあなたに一つ質問していい」
「ん? なんだい?」
「『あなた』は、トオヤのことをどう思っている?」

 この切り返しは再び部屋の空気を一瞬にして凍りつかせたが、彼女はすぐに答える。

「……そうさ、ここにいるレア・インサルンドは、トオヤのことが好きだった。そして……」

 「彼女」は「ドルチェ」の姿に戻る。

「ここにいる『他の誰でもないドルチェ』は、トオヤのことが好きだ」

 はっきりとそう言い切った彼女に対して、レアは深いため息をつく。

「やっぱり、そういうことだったのね……。それなら、トオヤがさっきから私の質問に答えられなかったのも、仕方のないことよね……」

 ほぼ全てを察したレアは、絶望とも達観とも取れそうな生気の抜けた表情で、そのまま訥々と語り続ける。

「私は今までずっとあなたのことを『私の影武者』にしてきた。あなたは今までずっと私に仕えてくれていた。私の代わりとして。その上で……」

 崩れ落ちそうな自我を必死で保ちながら、レアはトオヤに問いかけた。

「トオヤ、私が帰って来ない方が良かった?」

 今までひたすら答えに窮していたトオヤだが、これに対しては即答であった。

「そんなことは絶対にない。君が帰ってきてくれて、本当に嬉しい」
「それは、このヴァレフールのため? それとも……」
「一人の友人として、君が帰ってきてくれて、本当に嬉しい」
「一人の友人として、か……」

 それが社交辞令ではないことは分かっている。トオヤは確かに自分のことを「友人として」大切に思ってくれているのだろう。レアは確かにそのことは実感出来た。だからこそ、今の彼女は、張り裂けそうなほどに胸が苦しかった。

「因果応報ね……」

 彼女はこれまでずっと、パペットのことを「どんな時でも自分のために尽くしてくれる、便利で優秀な影」だと思っていた。そんな彼女に相談もなく勝手に全てを押し付けて失踪して、そして結局何も自分では解決出来ないまま、厄介な決断を押し付けるために舞い戻った自分の目の前で、自分の「影」が、「自分が一番欲しかったもの」を手に入れている。そんな状況に対して、もはや彼女は運命を呪う気持ちすら失せていた。ただただひたすら、自分が愚かで惨めな存在であるという自虐と自嘲の念に囚われていた。

「じゃあ、あなたは『レア・インサルンドを娶る気はない』ということ?」

 「本物のレア・インサルンド」は、トオヤにそう問いかける。色々な解釈が可能な言い方であったが、それに対して彼は、真剣な表情で向き合う決意を固める。

「多分、こういう言い方はすごくズルくて、よくない言い方だと思うんだけど、でも多分、俺は……」

 そう前置きした上で、今度こそ彼は、はっきりと答えた。

「俺はドルチェと一緒にいたい」

 その一言が、レアの初恋に終わりを告げた。もともと、いつか叶うという確信があった訳でもない。むしろ、旅先でヴァレフールの情勢悪化の知らせを聞くたびに、この恋はもう封印すべきだという気持ちに追い込まれていた。それでも微かに抱き続けていた希望が、今、はっきりと潰えたのである。

「そっか……。あなたは、いつから気付いてた? 私と彼女が時々入れ替わっていたことに」
「えっと…………、ドルチェに言われるまで、全然気付いてなかった……」
「それはつまり、彼女が戻ってきてから?」
「そうだね……」

 この点に関しては、嘘をつくこともごまかすことも意味はない。自分の「察しの悪さ」を恥じつつトオヤがそう答えると、レアもまた、どこか恥ずかしそうな表情で呟く。

「だとすると、結局、私の勘違いだったのかな。私は、あなたも私のことを好きでいてくれると思ってた。でもそれは『時々、私の代わりに現れていた彼女』に対する気持ちで、それを『私自身』に対する気持ちだと、私が勘違いしていたのかな」
「今となっては、昔のことは分からないことが多い。今思い返してみれば、当時の僕は『君』に惹かれていたと思う。それでも、今では、そこにいるドルチェが、誰よりも好きで、誰よりも一緒にいたい人なんだ」

 一度はっきりと言葉に出したことで、トオヤの中でも何かがふっきれたらしい。自分の言葉がレアの心を更に傷つけることになるかもしれないと分かっていても、もうこれ以上、何かを隠して彼女の追求をごまかすことは、彼女に対しても良くないことだと悟ったようである。
 実際、そうやってはっきり言われたことで、レアの中でも徐々に今のこの状況を客観的事実として受け入れようという気持ちが強まっていくが、それでも、そう簡単に全てを割り切ることは出来ない。

(ごめん、トオヤ、もう少しだけ、私の話につきあって……)

 心の中でそう懺悔しつつ、彼女はトオヤに問いかけた。

「あなたには、一つの選択肢として『私と一緒になった上で、彼女とも一緒に居続ける』という選択肢もあった筈。でも、そんな道すら選びたくないほどに、彼女とだけ一緒にいたい、私とは一緒にいたくない、ということなの?」

 自分でも、意地の悪い質問だということは分かっている。分かってはいたが、それでも言わずにはいられない。

「私は今までずっと彼女を身代わりにしてきた。だから、今度は私が彼女の身代わりになるという道も、あなたの選択次第ではありえたと思う。形だけ私があなたの妻となり、実際に愛されるのは彼女だけ。そんな道も無くは無かった。でも、あなたはその道は選びたくない、そういうこと?」

 決して、それはレア自身が本心から望んでいる関係ではない。だが、そのように扱われる価値すらないと思われているのか、という想いがレアの心を蝕んでいた。

(私のことが邪魔なら、はっきりそうだと言って欲しい。そう言ってくれれば、私はあなたの前から逃げ出すことが出来る。全てを捨てて、この国から去ることだって……)

 レアはそう思いながら、一瞬、「楽園島」での楽しかった日々を思い出すが、その直後にまた別の感情が湧き上がる。

(……待って、あの人達が、本当に私のことを思ってくれてるという保証がどこにあるの? あの人達だって、もしかしたら、私が「ヴァレフールの姫」だから、利用価値があるから優しくしてくれただけかもしれないじゃない……。ここから逃げ出した先の私にまだ存在価値を感じてくれるなんて、そんな都合のいい思い込みをあの人達に押し付けたところで、それが私の勘違いだと分かったら、今度こそ、もう私は……)

 もはや世の中全てに対して疑心暗鬼になり、錯乱しかけていた状態の彼女であったが、それに対してトオヤは、悲しそうな顔で静かに答えた。

「それはさ、ダメなんだよ。そういうあり方は……」

 トオヤは少しだけ逡巡しつつ、自らの身の上について語り始める。

「話してなかったんだけどさ、俺の母さんは、君の知っている俺のお母さんじゃないんだ」
「え?」
「俺はさ、父上と『母上のふりをしていた幻影の邪紋使い』の間に生まれた子供なんだ」

 先刻のケネスの話に続いて、ここでトオヤがはっきりとそう言ったことで、ドルチェ達も改めてその事実に直面させられる(そしてドルチェの中では「自分よりも前からヴァレフール伯爵家に仕えていた幻影の邪紋使い」に一人、心当たりがあったが、今のこの時点では、まだそのことは確信には至らなかった)。

「俺も最近そのことを知ったんだけど、結局、俺も、父上も、代役をしていた邪紋使いも、誰も幸せになっていないと思うんだ。だから、それと同じようなことは僕には出来ない。それに、誰よりも大好きなのは、さっき言った通りドルチェなんだけど、だからと言って、他の人への友情や信頼や忠誠といった感情を持ってないという訳ではない。その中の一人である君を傷つけたくないという気持ちもある。決して君が嫌いな訳じゃない」

 これまで誰にも話していなかったその思いを打ち明けたトオヤの表情は、誰よりも真摯で、誠実で、そして紛れもなくそれは「レアが愛したトオヤ」の姿であった。

「あなたはそういう人よね……。それは分かっていた……。じゃあ、なおさら私は、帰ってきた方が良かったわね。早く帰って来て、彼女を早く自由にすべきだった。あなたが彼女を娶れるようにするために。私は私の仕事に戻る。私は私の使命を果たす。それでいいのね?」

 レアは自分に言い聞かせるように、そう問いかける。トオヤもそんな彼女の心境を知ってか知らずか、真剣な表情でこう答えた。

「それを決めるのは君自身で、俺はそれを支える。もし、君がその重い立場が嫌だと言うなら、それはそれで俺は構わない。君がいなくなった後のヴァレフールは、俺がなんとかする」
「それはつまり、私がいなくなった後、どちらにしても彼女にはもう私の役はやらせない、ということ?」
「その通り」

 トオヤはそう答えた。現実問題として、レア不在のままこの国を立て直せる明確な見通しがある訳ではない。だが、国の行く末のための政略結婚よりも、自分自身の愛と信念を優先させたトオヤにとっては、ここでレアを無理に縛り付ける権利はないと考えていた。
 レアはそんな彼の心境を察しつつ、静かに目を閉じて、自分の心に問いかける。出来ることならば、トオヤには自分のことを「君主として絶対に必要」だと言ってほしかった。それならば何も迷うことなく、「伯爵令嬢に生まれた運命」に身を委ねることが出来た。だが、トオヤはあくまでも彼女自身に道を選ばせようとした。あくまでも一人の友人として、自立した一人の人間としての自分に、道を切り開く権利を与えてれた。そして、自分がどの道を選ぼうとも、彼はこれから先も自分を支えてくれると確信していた。

(それならば、私は彼の期待に応えよう。私自身が選ぶ必要があるのなら、私は自らの意思で選ぶ。そして自分の運命は自分で切り開く。私を支えてくれる彼等と共に)

 その決意を胸に、彼女は再び目を開けて「ヴァレフール第一爵位継承者」として生きる覚悟を定めるのであった。

2.7. 姫君の結論

「では、ここから先は一人の爵位継承者候補レア・インサルンドとして、次期騎士団長候補であるトオヤ・E・レクナに問おう。貴殿は今、誰がこの国を継ぐべきだと思う?」

 「少女としての自分」を封印して、「第一継承者としての自分」になりきるために、彼女はあえてトオヤに対してそう問いかけた。彼女が明らかに無理をしていることは誰の目にも明らかであったが、壊れかけた自分の心を維持するために、今の彼女は「今までとは別の自分」になりきるしかなかったのである。その悲壮な決意を察したトオヤは、あえてその問いに真正面から答える。

「それはあなたです。しかし、今のあなたの周囲の状況に鑑みるならば、今は無理でしょう。ですが、あなたにそのつもりがあって、あなたの身体の事情を治す術があるならば、私はどこまででも行って、あなたを元に戻せるように努力します」
「分かった。ならばもう一つ、それに関わる話を聞いておこう。私の夫にふさわしい人物は誰だと思う?」

 あえてこの点についても、彼女は「継承者」として問いかける。自分の中の恋心とは別問題として、どうしてもこれは避けては通れない話なのである。

「それは今、誰かと申し上げることは出来ません。国内情勢、国外情勢、全てが今、目まぐるしく動いています。それらを見極めた上で動くべきでしょう」
「しかし、貴殿の祖父であるケネス団長は、和平の条件として私と貴殿が縁を結ぶことを前提としていたのではないか? 貴殿がそれを望まないとして、それで国がまとまるか? 貴殿がダメだというのであれば、従兄弟であるゴーバン、もしくは騎士団長派の誰かと縁を結ぶなどの道を選ばなければ、和平案自体が破綻するのではないか?」
「そうなる可能性はあります。確かにお爺様は自分に近い者をあなたの夫としたがるでしょう。しかし、今回のこの対立が起こったのは、騎士団長派と副団長派の血縁が原因でした。そのことを踏まえるのであれば、今、陣営同士の力関係を理由に誰かをあなたの夫にすることで、逆に遺恨を残すことになるのかもしれません。お互いに納得出来る人物であれば、その心配はないのでしょうが……」

 少なくとも現時点で、その条件を完全に満たせる「結婚相手」はいないと考えていた。無論、それは(今の自分自身の個人的感情の有無にかかわらず)自分自身が彼女の夫となった場合でも同様であるというのがトオヤの認識である。

「では、まずそもそも、私が後継者で納得すると思うか? 貴殿の祖父や、ケイの領主ガスコイン、そして場合によっては我が祖父グレンさえも、私で納得するとは限らんぞ」

 ここで彼女が、本来の自分の後ろ盾であるグレンの名も挙げているのは、今の自分の「裏事情」を知れば聖印教会派の離反を招く可能性があると考えたからだが、その事情自体を知らないトオヤにその意図が伝わる筈もない。だが、トオヤにとっては、ここで誰の名を挙げられようが、さして大きな問題ではなかった。

「説き伏せねばならない人物はまだ多くいます。しかし、初めから困難だ困難だと言っても、始まりはしません」
「なるほどな。では、私ならば彼等を納得させることが出来ると貴殿は考えているのか?」
「えぇ。私は、あなたならばヴァレフールを継ぐにふさわしい。そう考えています」
「分かった。ならばその期待に応えよう。そして今の時点で身内との婚姻を進めないというのであれば、中途半端な『擬似聖印』ではなく、私が『正規に聖印を受け取れる身体』になる、それしかない訳だな」

 彼女のこの判断に対して、ここまで歯切れ良く答えてきたトオヤは、再び沈黙させられる。レアの中では、これは先刻彼女が挙げた二案のうち「ラピスの領主」を頼る道を選ぶことを意味しているのだが、それは彼女の命を危険に晒す賭けでもある以上、トオヤとしてはあまり強く賛同は出来ない。そして、それはチシャもカーラもドルチェも同様であった。
 そんな彼等の心情をレアは理解しつつ、改めて先刻のトオヤの話を思い出す。

「『ケネス殿が考えているもう一つの方法』については、貴殿は詳しいことは知らないのか?」
「えぇ。話してくれませんでした。条件があると……」
「ほう、それは?」
「そ、それは、あの……、えーっと」

 ここまで「覚悟を決めたレア」に合わせて、厳粛な口調で応じてきたトオヤだが、ここに至って綻びが見え始める。

(やっぱり、この展開は避けられないかな……)

 カーラは心の中でそう呟く。そして、今のトオヤには、まだ「次期騎士団長」の荷は重いということも実感させられた。ここまでどうにか維持してきた「仮面」がはがれて、彼は完全に「少年の顔」に戻ってしまっている。

「あの、殿下……、さきほどあのような話をした後に、本っ当に申し訳ないんですが……、えーっとですね……、ウチのお爺様はその内容を伝える条件として、あなたと私が結婚することを誓いなさい、という条件を出されまして……」
「なるほどな。しかし、それは貴殿の矜持としては絶対に出来ない、と」

 あえて意地の悪い言い方をしてしまったことに気付いたレアは、本気で心が沈んだ様子のトオヤを目の当たりにして、少しだけ悪びれた様子で話を続ける。

「いや、すまない。これ以上貴殿を苦しめるのは、私としても本意ではない」
「あの、それはその、なんというか……、私も、好き勝手に思ったことをそのまま言っているだけなので……、とはいえ、ひとまず、なんとかしてお爺様から話を聞き出したいのですが……、どうしましょう?」

 困惑が極度に達した結果、もう完全に口調も乱れ、「いつものトオヤ」に戻りつつあった彼に対し、レアは思わずため息をつく。

「とはいえ、私が聞いても答えてはくれないだろうしなぁ……」

 トオヤにつられて口調が乱れ始めたことに気付いたレアは、慌てて表情を引き締め直しつつ、ふと思い出したかのように呟く。

「機密情報を調べるということであれば、隠密が得意な者には一人、心当たりがあるのだが」

 そう言いながらドルチェに視線を向けると、彼女は苦笑を浮かべる。

「僕のお仕事かい? あまり無茶するとトオヤが怒るから、最近は自重してるんだが……」

 サラッとそうノロケたドルチェに対し、自分が必死で抑えている感情を刺激された気分になったレアは、眉間にしわを寄せながらも、必死で笑顔を取り繕いつつ釘をさす

「さっきは私の方からあんな言い方をした上で、こういうことを言うのも何だが……、なるべく、表現には気をつけてほしいな。なるべく私が傷付かない言い方をしてくれると、私は嬉しい」
「すまないね。昔から、少し意地悪な性分なんだ」

 こうして、再び「忘れようとしていたこと」を思い出させられることになったレアであったが、結果的にそれが、もう一つの重要な「嫌な記憶」を呼び起こすことになる。

「そういえばさっき、『あなた達』のことを嗅ぎ回っている諜報機関の者を見かけたな……」
「え?」

 想定外の話を持ち出されたトオヤは、完全に「素」の表情になる。そんな彼につられて、レアもまた完全に「本来の口調」に戻ってしまっていた。

「詳しくは言えないんだけど、私、色々あって、異界の技術にちょっと詳しくなってね。その異界の技術の一つに、『目に映った光景』をそのまま切り取って絵にすることが出来る道具があるのよ。でね、『あなた達』が兵士達の前で抱き合いながら混沌核を浄化している場面を……」
「待って! ちょっと待って!」

 トオヤは激しく狼狽する。もう自分の本音を曝け出した後とはいえ、まさか「あの時のこと」が事前に彼女に知られていたとは思っていなかったため、完全に混乱していた。

「いや、私はもういいのよ。私はもうそのことは納得したから、別にいいんだけど」
「え? なんで? どうしてその時のことを……」

 そもそも兵士達の前で堂々と抱き合っていた時点で、彼としては噂が広がることは覚悟していたし、特にやましい気持ちもない。だが、それが見ず知らずの人間によって「形」として残されていたという事実は、彼の中では衝撃的すぎたらしい。

「私が今言いたいのはね、そうやってあなたに気付かれずに『あなた達』のことを嗅ぎ回れるくらいの情報収集能力を持ってる人に心当たりがある、ということ。それだけ」
「そ、そう、そうか、そうなんだ……」
「だから、もしかしたら彼女なら、ケネス団長が握っているその情報についても、何か知ってるかもしれないし、今からでも調査を依頼することは出来るかもしれない。『さっき、あのハルーシアの人の従者と言って紹介した人達の一人』と知り合いだったみたいだから、彼経由なら話を聞けるかもしれないけど、どうする?」
「分かった。ひとまず、そっちの線で調べてみよう」
「じゃあ、私の方から彼に聞いて見るわ。もっとも、彼はあの人のこと、あまり好きじゃなさそうだったけどね」

 こうして、「レアがこの国を継承する」ということを前提とした上で、まずは「レアの身体を戻すこと」を第一目標としつつ、そのために「ケネスの握っている情報を確認する」という方針に至ったところで、ひとまずこの「第一次会談」は決着した。レアの中ではまだ「微妙なしこり」が残ってはいるようだが、それでも彼女は、今はまず「爵位継承者」としての使命を果たすことに専念すると決心し、トオヤ達も彼女を支える決意を改めて固める。
 なお、この時、カーラとチシャの脳裏には「他人の恋路に興味を示す腕利きの諜報員」として、数ヶ月前にタイフォンに現れた「肌面積の少ない服を着た女性」が浮かび上がっていた。

2.8. 会談中の従者達

 こうして、レアが「少女としての自分」を捨てて「次期伯爵候補としての自分」となるための一歩を踏み出そうとしていた頃、扉の外でその一部始終を盗み聞きしていたエイトは、心が砕けそうな心境に陥っていた。
 もしもトオヤが、二人の女性の心をいたずらに弄ぶような男なら、彼を殺してでも彼女をここから連れ去る覚悟だった。だが、扉の中から聞こえてきたトオヤの言葉は、エイトが(事前情報に基づいて)想像していた彼のイメージからは大きくかけ離れていた。時に逡巡し、時に狼狽しつつも、彼の言葉には「芯」がある。いつも本音を隠し、誰かと本気で向き合うことを避け続けてきたエイトにとって、あそこまで真正直に自分の本音を曝け出した上で、相手の心に真摯に向き合おうとするトオヤの姿勢は、あまりにも衝撃的であった。
 そんなトオヤだからこそ、レアが心から惹かれていたということは、今のエイトには十分すぎるほどに分かる。そして、そんなトオヤへの恋心が打ち砕かれたレアの悲しみの深さと、それでも自分の果たすべき道を見据えて生きていこうとする彼女の強さと、そんな彼女を支えたくても支えきれそうにない今の自分の無力さに、ただただひたすら打ちのめされていたのである。

(あいつがもっとダメな奴だったら、こんなに苦しまずに済んだのに……)

 そんな想いを抱きながら、悔しさと情けなさを滲ませたエイトの瞳を横目で眺めながら、ウチシュマはため息をつく。

(さてさて、このヘタレをその気にさせるには、どうしたらいいのかな〜?)

 いつも通りの「やる気のなさそうな笑顔」を浮かべながら、神と英雄の血を引くこの末妹は、一人静かに悪巧みを始めるのであった。

 ******

 一方、エレオノーラと総司は別室にて、ウォルターによる「お茶菓子接待」を受けていた。投影体とはいえ連合盟主のお墨付を持った遊撃隊長と、敵国ノルドの海洋王の姪という、なんとも不思議な組み合わせではあったが、ウォルターにしてみれば、どちらも軽んじて良い存在でないことは確かであったため、いざという時のために残していた秘蔵の「異界のチョコレート」を惜しげも無く振舞っていた。

「美味しいですね、これ……。やっぱり、ノルドとは全然違います」

 エレオノーラはその甘美でまろやかな口溶けに、素直に感動していた。楽園島でも様々な世界の食物を口にする機会があったが、それぞれの投影体ごとに味覚も違うのか、個性的すぎる味に遭遇することも多かったため、このような「普通に美味しいお菓子」を口にしたのは久しぶりなのである。一応、ノルドにもノルド原産の独特の菓子は存在するが、エーラム暮らしが長かったエレオノーラの口には合わなかった(なお、彼女の「二つ上の姉」は現在、「長城戦の向こう側」で日常的にそれを口にしているのだが、そんなことまでは彼女は知らない)。

「こちらはローズモンドの商店でしか取り扱ってない特産品です。ブレトランドでも定期的に輸入しているのはこの村くらいでしょう」

 誇らしげにウォルターはそう語る。甘党揃いのタイフォン村ならではの隠れた名物であった。

「それにしても、何故にノルドの姫君がハルーシアの軍船に?」

 ウォルターにとっては当然の疑問である。これに対して、二人は事前の「口裏合わせ」通りに答えた。

「私は現在、ノルドの非公式大使として各地を歴訪しているのです。ソウジ様の個人的な御厚意で、こうして連合諸侯の方々の地にも足を運ぶことが出来ました」
「ハルーシア公は今も将来的には同盟との和議を望んでおりますので、そのための布石として、まずはこのような形での人的交流を広げるべきと考えている次第です」

 二人のこの言い分は完全な「でっちあげ」だが、同盟との和議を願うハルーシア公爵アレクシス・ドゥーセであれば、おそらくこの総司の独断行動を喜んで追認するだろう。とはいえ、端から見れば「敵国の軍船」に乗っているエレオノーラの行動は明らかに不自然ではある。彼女の当初の気持ちとしては、このままハルーシアに亡命出来れば万々歳だったのだが、今はその前に「やるべきこと」が出来てしまったため、公式に「亡命者」を名乗る訳にもいかず、このような中途半端な肩書きを詐称することになった。

「ところで、護衛の方々の中にいた、あの弓と短剣と杖を持った方は今、どちらに?」
「あれ? そういえば……」

 総司の気付かぬうちに、モルガナは二人の視界から姿を決していたようである。

 ******

 その頃、モルガナは一人気ままに館の中を散策していた。

「トオヤさんが『話に聞いた通りの人』だとすると、リカちゃん可哀想だなぁ……」

 モルガナがそんなことを呟きながら、何か彼についての情報を得ようと廊下を歩き回っていた時、館の壁に掲げられた「騎士団長家の一族」の肖像画を発見した。本来、それは彼女の興味を引くような代物ではなかったが、その中に見知った人物の顔が描かれていた。名前欄には「ケネス・ドロップスの長男マッキーの妻 ネネ」と書かれている。彼女がそれを見て一瞬足が止まったところに、総司が通りかかる。

「おや、こんなところにいたんですか」

 彼はどうやらモルガナの行方を捜していたらしい。そんな彼がモルガナの視線の先にある肖像画に気付く。

「あぁ、若い頃のネネさんですね。本当にお綺麗だ」

 ネネが話していた通り、彼はネネ経由でフーコック島に来ているため、彼女の素性のこともある程度知っているらしい。

「これは『同じネネさん』ですか?」
「どういうことです?」
「投影体なのだとしたら、『何人目』かは分からないでしょう?」

 投影体は、一度死んでも何度もこの世界に「同じ個体」が現れることがある、ということを、あの島に住む彼女は子供の頃から何度も聞かされていた。

「あれ? あなたは知らないんですか? ネネさんは投影体ではないですよ。彼女は『投影体と投影体の間に生まれた、この世界の人』です。彼女はあなたと同じで、一人しかいません。あ、でも、あなたも聞かされていないということは、このことはあまり言わない方がいいのかな……」

 「投影体と現地人の混血児」であるモルガナ達が「厳密に言えば投影体ではない」ということは理解しやすいが、「投影体と投影体の混血児」もまた「厳密に言えば投影体ではない」という話は、感覚的には理解しがたい。だが、アインも言っていた通り「この世界で生まれた存在」である以上、それはどう解釈しても「投影体」ではないのである。

「そういうものなのかぁ……」

 モルガナは漠然とその事実を受け入れつつも、改めて彼女や自分達のような「投影体とは呼べない混沌の産物」という存在は、この世界にとって何者なのか、という疑問が湧き上がってくる。とはいえ、そのことについて深く考えたところで、結局のところどうにもならないだろう、というのが彼女の実感でもあった。

2.9. 会談後の従者達

 その後、応接室にてレア達がひとまず会話を終えると、「従者」としてのカーラが扉を開け、 そのまま彼女はレアを(それまでは実質ドルチェが使っていた)「レアの部屋」へと案内しようとする。すると、その扉を開いた先にはウチシュマと、うなだれた様子のエイトの姿がいたことにレアは気付いた。

「あ、お疲れ様〜」

 ウチシュマはいつものだらけた口調でレアに声をかける。

「え? あ、あぁ、いたんだ……」
「手、出して、手」
「手?」

 そう言われたレアが掌を差し出すと、ウチシュマはその上に、さっきエイトから貰った飴玉を乗せる。

「疲れた時は甘いものが欲しくなるでしょ。美味しいもの食べると気分が良くなるっていうし。とりあえず、それだけ!」
「あ、ありがとう」

 レアにそう言われたウチシュマは、笑顔でエイトの後ろに回り込むと、彼の背中を蹴って、レアの前に突き出す。

「いて!」

 いきなりレアの前に突き出されたエイトに対して、レアは驚きつつも小声で問いかける。

「……聞こえてた?」

 エイトは気まずそうな顔を浮かべながら、無言で頷いた。レアは思わず頬を紅潮させつつ、彼に対して「どこまで?」と聞こうかと思ったが、そこにモルガナが現れる。

「おわったー?」

 そう言いながらレアに近付こうとするモルガナであったが、即座にウチシュマが彼女の首元を掴み、そのまま引きずってレアから遠ざけていく。

「はいはい〜、今は冷やかし組は離れましょうね〜」
「あーれー」

 レアはそんな二人を困惑した表情で眺めつつ、改めてエイトと顔を合わせ、やや焦った様子ながらも「まず彼に聞くべき本題」を思い出す。

「そ、そっか……。あ、ところで、例の、『異界の道具を持ってた人』にあたりを取ることって、出来る?」
「出来るよ。出来るし、やるさ。そうしないと、レアはラピスの領主を頼りに行くことになるんだろう?」

 エイトはもともと、レアの身の危険が伴う「ラピスの領主の力を借りる手段」には反対だった。だからこそ、苦手な人物相手の交渉でも、引き受けない訳にはいかない。
 そして、エイトのこの反応から、少なくとも「その辺りの話」までは伝わっていたらしいということを確認したレアは、少しずつ冷静さを取り戻しながら話を続ける。

「そうね。ラピスの領主でもいいんだけど、より確実な方法があるなら、そっちの方がいいだろうし」
「分かった。話はつけてみるよ」
「私が直接行った方がいい? 任せた方がいい?」
「いや、君が直接来る必要はないんじゃないかな」
「分かった。じゃあ、お願いするわ」

 二人がそんな会話を交わしつつ、そのままカーラによって、ひとまず「レアの私室」へと案内される。「ハルーシアの人々」に対してはそれとは別の客室が用意されていたが、流れ上、そのまま三人はひとまずレアを護衛するような形でその部屋へと向かう。その途上で、レアはエイトに改めて小声で語りかけた。

「話を聞いていたなら、大体の事情は分かってくれてると思うけど、私はこの国を継ぎたい。継いだ上で、あなた達とも、あの島の人達とも、共存する道を探したい」
「それは君の願いなんだね?」

 それはいかにもエイトが言いそうな問いかけであったが、実際にはその言葉を発したのは、彼の言い方を真似たモルガナであった。唐突な横槍にエイトは面食らい、レアも一瞬困惑するものの、そのまま素直に彼女は答える。

「そう。それが今の私のやりたいこと」
「じゃあ、リカのことを応援するね」

 今度はモルガナは「本来の自分の口調」でそう告げる。そんなやりたい放題の姉に対してエイトは露骨に不機嫌な顔を浮かべつつ、いつもの「本音を隠した口調」で淡々と問いかける。

「ねえ、ヴァレフールに『レア・インサルンド』は必要なのかい? 君がどう思うかじゃなくて、この国が君を必要としているか、ということなんだけど」
「少なくとも、必要としている人はいる。そりゃあ、一つの国なんだから、色々な考えの人がいるわ。でも、私がいないと困る人は大勢いる。その上で私も、この国を救いたい。というか、この国を救うことに専念することで、今は忘れたいこともあるから……」

 そんな彼女に対して、エイトは彼女に対する諸々の感情を押し殺しつつ、自分の中の葛藤を悟られぬよう気を配りながら、あえて少し意地悪な口調で語りかける。

「女の子の一人がいなくなったところで、こんな大きな国は揺るがないよ。レアを必要としている人は、君が思っているほどは多くないと思う」

 何の根拠もない推論であるし、そもそもエイト自身がそうは思っていない。ここに来て虚言癖という悪弊が表に出てしまった彼であったが、レアはつとめて冷静に答える。

「仮にそうだとしても、あなたには分からないかもしれないけど、伯爵家に生まれるというのは特別なことなのよ。あなたは『自分の血筋』のことをよく思っていないのかもしれないけど、血筋のことを重んじる人達は大勢いる。特に、こういう歴史の古い国ではね」

 レアのその言葉を受けて、エイトは何かを諦めたような表情を浮かべた。

「そうだね。僕達は誰からも必要とされてないから、分からないかも……」

 そんな彼に対し、レアは唐突に「前々から思っていたこと」を彼に伝えたい気持ちになった。それは彼女が「リカ」と呼ばれていた頃からの、エイトに対する彼女自身の見解である。

「『あなたのお父様の話』は私も少しだけ聞いたことがあるけど、多分、あなたはあなたのお父様のいいところを継いで、悪いところを継がなかったんだと思う」

 唐突に父親の話を出されたエイトは困惑するが、レアはそのまま語り続ける。

「『いいところ』は、あなたは本当に魅力的な男性だということ。そしてお父様の『悪いところ』を継がなかったからこそ、あなたは自分に過剰な自信を持たずにいる。だからこそ、あなたのことをそう思っている女性の存在に気付きにくい」
「今の僕にそれを言うか! 今の君が、それを僕に言うのか!」

 いつもは冷めた口調のエイトが、珍しく声を荒げる。

「少なくとも、一人ではないと思うわよ」
「もうやめてくれよ! そういう話は」

 本気で嫌がるエイトの様子を目の当たりにして、レアは(色々な意味で)「余計なことを言いすぎた」と反省する。

「そうね……。今の私にはやるべきことがある。そして、私はあなたにやってほしいことがある。だから、『あの人』への連絡をお願い」
「分かった。それはやるよ。絶対に」

 そんな二人のやりとりが「自分の真後ろ」で繰り広げられているのを聞かせられたカーラは、いたたまれない表情を浮かべていた。

「カーラさん、おかし食べます?」

 そう言って彼女に手持ちの「異界の駄菓子」を出してきたのは、ウチシュマである。自分を無視して繰り広げられる「二人の世界」が醸し出す重苦しさに耐えきれなくなっていたカーラにとっては、このウチシュマの周囲に展開された「マイペース自堕落空間」が、せめてもの救いであり、癒しでもあった。

「ボクも色々こういう場面には出くわしてるけどね……。あるじとドルチェ君が、レア姫のふりを出来ていない時にああいう話をしている時もあったりして……」

 先刻の密談の場面も含めて、さすがに胃が痛くなるような色恋話に疲れていたカーラは、ついつい「言わなくてもいいこと」までこぼしてしまう。それを聞いたモルガナとウチシュマの中では(まだ密談の詳しい内容をエイトから聞かされていないこともあって)更に余計な憶測が広がっていく。

「トオヤさんって、やっぱりダメな人なのでは?」
「カーラさんも色々苦労してるんだね〜、うんうん〜」

 そんなマイペースな子供達を案内しつつ、カーラは彼等が何者なのかもよく分からないまま、ここで「新たな問題」が浮上しつつあることを、なんとなく実感していた。

(この後、ボク達は「レア様のお婿さん」を探す旅に出た方がいいのかなぁ……)

3.1. 払える対価

 その後、カーラと共にレアを部屋まで送り届けた後に、エイトは例の「情報屋の女性」と接触するためにその場を去り、ウチシュマが黙って彼の後をつけて行く一方で、会議の場にいなかったモルガナは、その部屋に残ってレアから事情を聞くことにした。
 レアとしては、さすがに自分の失恋話まで滔々と語る気にはなれなかったので、その点に関しては「トオヤは自分の影武者と恋仲で、自分と結婚する気はない」とだけ告げた上で、「自分の体を元に戻せる方法を、この国の騎士団長が握っているらしいが、その情報を開示する条件として自分とトオヤの婚約を提示され、彼がそれを断ったために交渉が難航している」という現状と、そのための打開策としてエイトに情報屋との繋ぎを依頼した、ということまで告げる。
 その話を聞いたモルガナは、少し考えた上で、唐突に杖を取り出して呪文を唱え始めると、一瞬にしてレアの前から姿を消す。レアがそれに驚いていると、すぐに彼女は姿を再び表した。

「これくらいの隠密なら、モルガナにもできるけど、どうする?」

 つまりは、そういうことが言いたかったらしい。

「そうね……、状況によっては、あなたの力が必要になるかもしれない。今はまだ、騎士団長が持っている『切り札』が何なのかもよく分からない状態だけど、場合によっては……」

 何らかの「強硬手段」に出ざるを得ない時もある、と彼女は実感していた。この辺り、彼女は深窓の令嬢のように見えて、いざとなったら大胆な行動に出られるだけの度胸はある。そんな彼女に対して、モルガナは素朴な疑問を投げかける。

「あのさ、『レア姫』として人のおもいに応えるためには、『対価』が必要だとおもう?」

 その質問の真意がレアにはよく分からなかったが、ひとまず彼女は素直に答える。

「そうね。姫というか、伯爵位を継ぐと決めた以上、人の上に立つ者として、何かを為すべき時には、それに協力してくれた人に対して、相応の報酬を与えるべきだと思う」
「じゃあ、敵国の人にたのんで、伯爵になるために混沌核を浄化してもらうのに、どれくらいの報酬が必要なの?」
「それは交渉次第ね。向こうが何を要求してくるかによるわ。アントリアの人にとっては、確かに私を元に戻すことにメリットはないから、そもそも協力してくれる保証自体がどこにもない。もっとも、そのラピスの領主は元ヴァレフールの騎士らしいから、交渉には応じてくれると思いたいんだけど、今のところはどういう人なのかさっぱり分からないから、なんとも言えないわ」

 実際のところ、「ラピス案」は危険性だけの問題でなく、そもそも実現可能性自体が全くの未知数である。その実現のためにどこまでの対価が必要なのか、レアとしても現状ではまるで想像がつかない状態であった。そんな彼女に対して、モルガナは更に問いかける。

「あなたは『自分の願い』のために、どれくらいまでなら犠牲にできるの?」
「犠牲、か……。そうね……」

 実際のところ、今のレア自身には何も対価として払えるものがない。彼女が爵位を継いだ後なら金品などを提示することも可能であるが、そもそも現状のままでは爵位を継げるかどうかも分からない状態であった。

「とりあえず、トオヤさんって人は、そういうことが全然出来ない人だってことは分かったけど」

 何を根拠にモルガナがそう言っているのか、レアにはよく分からないが、あえてその発言は聞き流した上で、彼女は今の時点で答えられる範囲で応えようとする。

「金品を要求されるのであれば、額次第としか言えない。それ以外だとすると、たとえば?」
「君が欲しい、とか言われたら?」
「……考えなくもないわ。ヴァレフールにとっては、男爵級の、しかも特別な聖印を持った君主が帰ってくるのであれば、国全体にとっても有益なこと。向こうがそんな要求をしてくるかどうかは分からないけどね」

 実際問題、今のレアには「新たな恋」を始めようとする動機は微塵もなかった(厳密に言えば、彼女の中にある「リカとしての人格」はまた別の感情を抱いていたのだが)。それ故に、開き直って自分の爵位継承のための政略結婚に身を委ねるという選択肢は、それはそれで彼女の中では「今のモヤモヤを晴らす上での最適解」なのかもしれない。

「その人の人格は、モルガナもよくしらないし、むずかしい話はよくわからないけど……」
「そもそも得体が知れないのよ、そのラピスの領主は。もっとも、もう一人の『流浪の君主』の方も得体の知れない人なのだけど……」

 まさかその「流浪の君主」の許に実姉が一緒にいようとは、レアが知る由もない。

「でも、そっちの『流浪の君主』の方は、そもそも『レア姫としては』のぞんでいないんでしょう? だったら、かんがえても仕方ないんじゃない?」
「そうね。ただ、ラピスの君主に断られた時のことも考えた上での、次善の策よ。少なくとも今の混沌核を持ってる状態よりは、まだマシだから」

 そこまで言ったところで、レアは「混沌の申し子」であるモルガナに対する言葉としては不適切な言い方だったかもしれないと反省したが、モルガナは特に気にしている様子は見えなかった。そもそも彼女自身、自分自身のアイデンティティがどこにあるのかよく分かっていないし、この世界に生きる者として「何が望ましいことなのか」を判断するための基準も、今ひとつはっきりしていない。
 だからこそ、彼女はひとまず、何かに向けて頑張る友人や弟妹達を応援することに生き甲斐を感じている。 ひとまず、リカ(レア)がやりたいことは概ね理解した。その上で、彼女はひとまずレアの部屋を後にして、前々から気になっている「もう一人の姫君」を探し始めるのであった。

3.2. 荒ぶる少年

 複雑な思いを抱えながら領主の館を出たエイトは、周囲を見渡しながら叫ぶ。

「タチバナ! いるんだろ!?」
「あら、よく分かったわね」

 そう言いながら、キリコ・タチバナは中庭の茂みの中から現れる。

「こんな面白そうなネタ、放っておく訳がないからな」

 皮肉めいた口調でエイトはそう言った。実際、彼女はトオヤ達が現れて以来、しばらく姿を消したまま、彼等の後をつけて話を聞いていた。それでも、さすがに領主の館の中にまで入り込むのは自重していたようなので、彼女が今、どこまで状況を把握しているのかは、エイトにはよく分からない。

「で、どんな情報が知りたい?」

 キリコのその問いかけに対し、突然エイトの後方から現れたウチシュマが、勝手に答える。

「いや〜、エイト君が失恋しちゃってさぁ〜」
「え? なに? 可愛い子紹介しろって? しょうがないなぁ〜、じゃあ、私が……」
「そうじゃないから!」

 傷口をえぐられて激怒するエイトに対して、ウチシュマは更に追い討ちをかける。

「あれ〜? 失恋したから新しい恋を見つけるんじゃなかったっけ〜?」
「違うよ!」
「あぁ、そっか〜、その前に失恋した相手をストーキングしたいんだっけ〜?」
「お前は僕の話の何を聞いてた!?」

 エイトは聖剣サンクトゥスを抜いてウチシュマへと斬りかかるが、ウチシュマはひょいひょいと避けつつ、彼の視界から消え去る。無神経な妹を追い払ったところで、エイトは改めてキリコに「本題」を切り出した。

「ケネス・ドロップスが握っているという『混沌核に書き換わった聖印』を元に戻す方法について、何か知らないか?」

 そう言われたキリコは、少し考えた上で、何かを思いついたかのように、目を見開く。

「もしかして『あの件』かな?」

 彼女自身、それが「正解」かどうかは分からないが、どうやら心当たりはあるらしい。

「『その方法』に繋がる話だという確証はないけど、関係している可能性のある情報に心当たりはある。ただ、気軽に話せることではないわ。ヴァルスの蜘蛛として握っている超重要機密の一つね。依頼主と話をさせてもらいたいんだけど、それは『ここの領主様』からの依頼、ということでいい?」
「どちらかというと、レア姫から、かな」
「なるほど。とりあえず、こちらもまず『上』と話をしてみた上で、いくらでその情報を出して良いかを確認しなくちゃいけない訳だけど、さすがにレア姫様からの依頼なら、そこそこお金は用意出来るわよね?」

 キリコはそう言ったが、現実問題として今のレア姫自身は「お金」を殆ど持っていない。

「まぁ〜、いざとなったらトオヤさんが払ってくれると思うよ〜」

 唐突に再び現れたウチシュマがそう言って口を挟みつつ、エイトに睨まれるとすぐにまた姿を消す。中途半端に現れる妹に心を乱されながら、改めて真剣な表情でエイトは訴えた。

「それなりの額は用意出来ると思う。それでもダメなら……、出世払いでもいいかな?」
「……とりあえず、私も『上』と話をしてみる。今夜中にまた来るわ」

 そう言って、キリコもまた彼の前から姿を消した。ひとまず、今の自分に出来る最低限の仕事を終えたエイトは、そのまま館の中庭に移動しつつ、自分の中のモヤモヤを晴らすために、無心で剣の鍛錬を始める。

「斬るべし! 斬るべし!」

 そう叫びながら聖剣を振るう彼のことを、館の二階の窓から偶然見かけたカーラは、その愚直なまでに「力」を求める姿から、ゴーバンのことを思い出す。

「ゴーバン様、今も元気だといいけど……」

 彼女がそんな想いを抱いていたところで、そんなエイトの前にウチシュマがどこからともなく現れる(三度目)。

「やあやあ、精が出るねぇ〜、フラれたばかりなのに〜」

 そんな彼女に対して、もはやエイトは何も言わずに無言で斬りかかる。

「いや〜、こ〜ろ〜さ〜れ〜る〜」

 楽しそうにそう言いながら逃げ回るウチシュマに対して、徐々にエイトの振るう剣に「本気」が宿り始める。

「ウチシュマは死んだって、どうせ何度でも湧いて出るだろ!」

 残念ながら、彼女もまた「この世界で生まれた存在」である以上、「一度死んだらそれまでの命」しか持たない。そんな彼女は、明らかに我を忘れた状態になっている兄に対して、淡々と問いかける。

「実際問題さ〜、君、フラれた訳でもないんでしょ〜? 何をそんなに落ち込んでるのさ〜?」

 そう、実際にはフラれてすらいないし、そもそもまだ「彼」と「彼女」の間では、何も始まってすらいないのである。そんなことはエイトも分かっている。分かった上で、今の彼の中では、そんな自分への嫌悪感に加えて、もう一つの「苛立ちの要因」があった。

「ここの領主が、思った以上に『出来る奴』だったから……」
「あぁ〜、あの部下と抱き合ってた人〜?」
「アイツがもうちょっとヘタレだったり、クズだったり、性格的に問題があれば、こんなに悩むことはなかったのに……」

 もし、この会話内容がカーラにまで聞こえていたら「いや、ヘタレではあるけどね」と突っ込んでいただろう(実際には、彼女には会話内容までは聞こえていなかった)。だが、少なくとも今の「自分の中の気持ち」を曝け出すことすら出来ない自分に比べれば、あの場であそこまで言い切ることが出来たトオヤは、それだけでも十分、彼にとっては尊敬の対象であり、「レアが自分ではなく彼に惹かれていた理由」も理解出来た。だからこそ、やるせない気持ちに苛まれていたのである。

「いや〜、そんなことで悩んでるなんて思ってもいなかったよ〜。彼がヘタレかどうかなんて、関係ないんじゃないのか〜い? だって君〜、そもそも『彼女』にとっては比較対象にすらなってないんだから〜」

 エイトは激怒した。必ず、この無礼千万の妹を除かなければならぬと決意した。

「ぎゃ〜、や〜ら〜れ〜る〜」

 振り回される聖剣をギリギリのところで避けながら、ウチシュマは庭中を逃げ回る。

「ウチシュマ、本当に頼むから一回死んで!」

 さすがにこれは止めなければならないと思ったカーラが、慌てて階段を降りて中庭へと出ようとするが、それよりも先にその場に現れた人物がいた。
 トオヤである。彼は彼で、ひとまず自分の中でモヤモヤしいていた感情を晴らすために、来客用の菓子の買い出しという名目で、村の市場へと向かおうとしていたところであった。そんな彼が、目の前で繰り広げられる刃傷沙汰を目の当たりにして唖然としていると、その傍らにモルガナが現れる。彼女は涼しげな顔で弟妹達を眺めていた。

「止めなくて大丈夫か?」
「あー、心配しなくていいよ」

 彼女がそう言った瞬間、ガシャン! という音と共に、中庭の花壇の柵が破壊される。ウチシュマを斬り殺そうとしたエイトが、勢い余って柵に突撃してしまったのである。この瞬間、エイトは我に返った。

(しまった!)

 エイトはもともと園芸が趣味だったこともあり、花壇の柵を壊してしまったことには本気の罪悪感が広がる。
 そして、さすがに見るに見かねたトオヤが割って入った。

「君達はハルーシアの人の側仕えの人だよね? ここは、俺も訓練に使ったりするから、そういう目的で使うのは、まぁ、いいんだが、あまり人の家の庭を壊さないでほしいな」
「すみません……」

 本気で反省して俯くエイトの後方から、ウチシュマが声をかける。

「まったく〜、反省しなさ〜い」
「誰のせいだ!」

 そう怒鳴ったエイトだが、さすがにこの状況で再び暴れるのはまずいと思ったのか、グッと堪える。

「あと、兄弟喧嘩は良くないと思うぞ」

 トオヤがそんな正論を掲げたところで、ウチシュマがまたしても口を開いた。

「ごめんね〜、この子、たった今『失恋』したばかりで荒れててさ〜」
「失恋?」

 トオヤが首を傾げたところで、再び我慢の限界を超えたエイトが聖剣を抜くが、すぐにトオヤが間に入り、そして今度はウチシュマをたしなめる。

「あ、あの、何があったのかは知らないけど、そうやって人の神経を逆なですることは言わない方がいんじゃないかな……」
「え〜、そうは言っても〜、こっちの神経も逆撫でされてるんだけどね〜。だってこいつ〜、全然自分からはモーションかけないくせにさ〜、いざ向こうが『ああいう状況』になったら、『こういう状況』になるしね〜」

 ウチシュマがそう呟いたところで、更にモルガナが追い打ちをかける。

「それにくわえて色々な女の子をくわえこむしね。みさかいなしに手をだすのはよくないとおもうよ」

 だが、ここまで言いたい放題言われたことで、自分の中で何かが切れてしまったのか、エイトはもはや斬りかかる気力も失せた様子で、その場から立ち去って行く。そんな彼等の背後では、密かに到着しつつ周囲の建物に被害が及ぶのを防ぐために仁王立ちしていたカーラの姿があったのだが、エイトはその存在にすら気付かぬほど、茫然自失の状態となってしまっていた。

3.3. 少女の葛藤

 一方、チシャはその様子をカーラとは反対側の建物の二階から眺めていたのだが、彼等の喧騒に気付いたのが途中からだったこともあり、彼等が何をしていたのかをよく理解出来ずにいた。
 そんな彼女に対して、廊下の後方から現れたエレオノーラが声をかける。

「すみません、ちょっといいですか? レア姫様について、お伺いしたいことがあるんですけど」
「え? あ、はい」

 チシャは戸惑いながらも、ひとまず彼女の話に応じることにした。とはいえ、彼女はチシャにとっては旧友であると同時に敵国ノルドの姫君であり、何をどこまで話して良いのか、判断が難しいところではある。
 だが、その点に関してチシャが心配すべき問題は何もなかった。というのも、実はエレオノーラはつい先刻、モルガナから「おおまかな事情」を既に聞かされていたのである。モルガナはレアから聞いた話を元に「トオヤはレアと結婚する気はない」「レアはこの国を継ぎたいと考えている」「そのことを踏まえた上で、なぜかエイトが落ち込んでいた」ということを伝えつつ、「あとはエレちゃんがどうしたいか次第だよ」と彼女に助言していた。
 その話を聞かされたエレオノーラは、思い詰めた表情を浮かべながら、まずチシャに対して「最重要問題」についての確認を取ろうとする。

「トオヤ様とレア姫様は、今後、本当に、何もないのでしょうか?」

 彼女は真剣な面持ちでそう問いかけるが、チシャにしてみれば、この異国の姫君が、なぜそんなことを気にするのかが理解出来る筈がない。

「トオヤとは、まぁ、その、多分……」

 ひとまずはそう言ってお茶を濁すしかない。先刻の二人(とドルチェ)の様子を見る限り、あの二人の間で今後「何か」があるとは到底考えにくかったが、本人達のいないところで断言してしまうのも、彼女としては気が引けたようである。
 その話を踏まえた上で、エレオノーラはそれと同じくらいの「彼女の中での重要な案件」について質問する。

「あと、この国の流儀として、『貴族家の人』が『投影体』と結ばれることはまずない、ということでよろしいのでしょうか?」

 それを聞かれると、チシャとしては非常に困る。彼女と最も親しい「カーラ(の両親)」という実例の存在に加えて、チシャ自身もまた(厳密に言えば投影体ではないが)「投影体の血を引く人物」と「貴族」の娘であり、そしてトオヤの母親もまた、かつて投影体と恋仲だったという噂のある貴族家の女性である(この点について、チシャはまだ真相を聞かされてはいない)。だが、いずれも「非公式の関係」であり、そのことを今ここで公言出来る筈もない。

「私が知っている限り、『正式な事例』としては、そのような記録は無いですね。正式には」

 ひとまず今はそう答えるしかない。そもそも、エレオノーラがなぜこのタイミングでそのようなことを聞いてきたのかがチシャには理解出来なかったが、その話を聞いたエレオノーラは、なぜか嬉しそうな顔を浮かべる。

「では、レア姫様がこの国を継ぐということになるならば、お相手は貴族の方、と」
「そうなりますね、おそらく」

 これについても断言は出来ないが、その可能性が一番高いことは間違いないだろう。少なくとも、レアと投影体が結婚するなどという選択肢を、彼女の最大の支持母体である聖印教会が認める筈がない。
 その推論を聞かされたエレオノーラは満足気な様子をうかがわせつつ、ここでレア姫とは関係のない「第三の質問」を投げかける。

「あの、これはあくまで仮定の話なんですけど……、ヴァレフールの方々にとっては、今、『同盟側の貴族』がこの国に亡命しようとしてきた場合、それは御迷惑でしょうか? あ、いや、私が今すぐ亡命するという訳では無いんですけど、色々ありまして……」

 明らかに今までの二つとは毛色の異なる、そしておそらくはエレオノーラ自身に直接関わっているであろう現実味のある質問であったが、チシャにとっては、まだこちらの方が答えやすい内容であった。

「率直に言ってしまうのであれば、色々と問題はあるでしょうが、もし仮にあなたが亡命してくるのであれば、私は歓迎します」
「それを聞いて安心しました。本当は私……、あ、いえ、その、やめておきます。私は私で、色々と考えなければならないこともあるので」
「もし何かあったら、いつでも言って下さい」
「ありがとうございます!」

 そう言って、エレオノーラはチシャの元から去って行った。

(あの方がこの地で『レア様』として生きる限り、エイトさんとあの方が結ばれる可能性はほぼない……。それでもエイトさんがこの地であの方を支え続ける気なら、私も正式にこの国に亡命するという選択肢もある……。そして、亡命者となった私は「この国の貴族の結婚の流儀」に従う必要もない……)

 彼女はそんな「都合のいい妄想」を巡らせつつ、それと同時に、そんな思考に至っている自分に対する嫌悪感も抱き始めていた。

(それで本当にいいの? 私には「祖国と楽園島の架け橋」としての使命があるんじゃないの? ここで私がその使命を放り出してヴァレフールに亡命するなんて、私を受け入れてくれたあの島の人々と、私のわがままに巻き込まれて死んでしまったノルドの人達に、申し訳ないと思わないの? そもそも、レア様は自分の祖国のために、一心不乱に頑張ろうとしているのに、そんなレア様に惹かれているエイトさんが、こんな身勝手な私のことを好きになってくれるなんて、どうして思えるの?)

 モルガナは自分に対して「エレちゃんはエレちゃんのやりたいことを頑張ればいい」と言ってくれた。しかし、今のエレオノーラは、何が自分にとって本当にやりたいことなのかが、よく分からない心境に陥っていた。

3.4. 夢と醒(めざめ)

 その頃、レアの部屋にはモルガナと入れ替わりに、別の客人が訪ねてきていた。「パペット」である。あえて彼女は(レアの心象を考慮して)「ドルチェ」ではなく、レアにとって見慣れた「パペット」の姿で、レアとの「一対一の対談」に臨んでいた。

「さて、さっきは色々と慌ただしかったけど、改めて、お久しぶりだね」

 以前と変わらぬ様子でそう語りかけてきた元従者に対して、レアは苦笑を浮かべながら答える。

「そうね。お久しぶりね。というか、やってくれたわねぇ」

 やや冗談めかした口調で、レアはかつての自分の従者に対してそう言った。とはいえ、その語気からは、どこかまだ吹っ切れていない様子が伺えた。

「君には悪かったと思ってるよ」
「それについては本当に、私が言えた義理ではないわ」
「さっきもちらっと言ってた、因果応報というやつかい?」
「えぇ。それに、あなたには……」

 彼女はそこから何かを言おうとするが、ひとまず取りやめて、改めて言い直す。

「あなたの仕事は、他人の姿に化けることと、人を魅了することよね」
「そうだね」
「そりゃあ、勝てる訳ないわよね……、ってことにしといてくれない? ……あ、いや、でも、それもそれでなぁ、トオヤが幻影の術に惑わされてそうなった、というのもなぁ。どう解釈するのが私にとって一番マシなのか……」

 独り言なのか何なのかよく分からない様子で、彼女は語り続ける。おそらく、今の自分の気持ちをどう整理すれば良いのか、彼女自身もよく分かっていない。納得したようなフリをしながらも整理しきれない気持ちを誰かにぶけたいという気持ちを抱いているように見えた。

「別に、君が今から僕の恋敵に名乗りを上げてくれてもいいんだよ。それでも、僕は全力で応じるけどね」
「そうね。それも無くは無いけど……」

 正直、レアにとってはそんなドロドロの愛憎劇は、あまり想像したくない未来だった。彼女は確かにトオヤを愛していた。だがそれは「彼もまた自分のことを一人の女性として一番に愛してくれること」を前提とした上での感情だった。彼が自分以外の女性を自分以上に愛しているという事実を目の当たりにした時点で、レアの中でのトオヤへの感情は、明らかに「別の何か」へと変質してしまったのである。

(もしかしたら私は「ただ愛されたかっただけ」なのかもしれない。パペットから彼を奪い返すために張り合おうという気概を持てない時点で、これは本当の恋ではなかったのかもしれない)

 そんな想いが広がる一方で、「それは、パペットに負けたことを認めたくないが故の言い訳なのでは?」という気持ちも彼女の中にはあった。結局、どちらが自分の本音なのかは自分でもよく分からない。ただ、一つだけはっきりしていることは、どんな理由であれ、今のレアの中では「早くこの恋を忘れたい」と考えていたことである。
 今の自分がトオヤへの気持ちを完全に断ち切るにはどうしたら良いのか、ということを考えているうちに、レアはふと思ったことを問いかける。

「あなたとしては、結婚を焦る気はないの?」
「まぁね。今すぐって言っても困るだろうしね」
「私ほどじゃないにしても、彼も彼で、これから先、見合いの話はいくらでも来るわよ。早めにはっきりさせておかないと……」
「そうだね」

 現実問題として、名門貴族出身の騎士団長が邪紋使いと結婚するというのは、あまり事例がない。おそらく今のトオヤの心境としては、周囲の反対を押し切ってでもパペットとの結婚を望んでいるのだろうが、当然、時の流れと共に彼の気持ちが移り変わっていくことも十分にありうる。この数ヶ月の間にその変化を目の当たりにしていたパペットには、その可能性を完全に否定出来る客観的根拠は持ち合わせていなかった。

「正直、他の女に盗られるくらいなら、あなたの方が百倍マシだわ」
「随分と評価してくれるね」
「今の騎士団長様がそれで納得するかどうかは知らないけどね」
「どうだろ? あの人も結構底が知れないところがあるから。で、君は今から何がしたいのさ?」
「さっきも言ったけど、私は今はこのヴァレフールを立て直すことに専念したい。現実逃避のために伯爵位を継ぎたいなんて言ったら、一体何万人の人に絞め殺されるか分かったものじゃないけど……」
「そうだね。それは僕も感心しないな。偽物の伯爵位継承者なんて状態ですら、結構な重圧だったよ」
「苦労をかけたわね、本当に……」

 そんな会話を交わしつつ、やがて話題は他の継承者候補達へと移る。

「さっきも言ったけど、正直、私はゴーバンと結婚させられることになるんじゃないか、と思ってたわ。まぁ、ゴーバンも、いずれ育ったら『いい男』に成長するかもしれないけど、でも……、なんかあの子とは相性悪そうな気がするのよね、私……」
「ゴーバンね……、彼も今、どこで何をしているのやら……」
「というか、よく旅に出るなんて、あの騎士団長が許したわね」
「そこは色々あってね。どっちかというと、僕や姫様の話というよりは、トオヤやケネスの爺さんの身内問題だから、聞くならそっちから聞くといいさ」
「そういえば、ドギは元気なの?」
「あぁ、元気さ」

 さすがに、この質問に関しても自分の一存で答える訳にはいかない以上、この時点ではそうとしか答えようがない。その上で、パペットは唐突に話題を変える。というよりも、自らレアの部屋を訪れてまで言いたかった「本題」について語り始める。

「君と話をしたかったのはね、君が何をしたいか、ということを知りたかったからなんだ。僕がトオヤを好きになったことは君への裏切り行為かもしれないけど、それでもやっぱり僕は、今でも姫様の、レア・インサルンドの従者であって、君には恩を感じてる。だから、君のしたいことには勿論、出来る限りの協力はするつもりでいる」

 そこまで言ったところで、パペットはふと先刻のレアの発言を思い出す。

「あと、『因果応報』なんて言い方をされると、まるで姫様が僕に『この仕事』を無理矢理やらせていたかのように聞こえるけど、僕は別にそれを嫌だったなんて思ってないさ。むしろ、幻影の邪紋使いという、よく分からない存在になった僕に対して、かりそめでも居場所を与えてくれたのは君だよ。それは一つお忘れなきよう」

 そこまでパペットが語り終えたところで、レアは少し迷いながら問いかける。

「じゃあ、一つ、私も、意地悪いことを言っていいかな?」
「ほう? なんだい? さきほどの僕よりはお手柔らかな程度のことならば、いくらでも」
「トオヤの姿になって」

 そう言われたパペットは、言われるがままに応じた。

「これでいいかい?」
「その姿で、私が今、トオヤから聞きたい言葉を言ってくれる?」
「難しいね……」

 しばらく考え込んだ上で、パペットは自身の邪紋の中に込められた「魅了」の力を発動させようとする。レアはそのことに気付いたが、あえてそのまま「魅了」されることを選んだ。最後の甘美な夢を味わわせてもらうために。

「今だけは、君と僕は『一つ』だ。そして、夢から覚めて歩み始める君に、祝福あれ」

 そう言って、「トオヤ」はレアの手の甲に唇を寄せる。レアはうっすらと涙を流しながら「ありがとう」とだけ言って、本物のトオヤの仕事を手伝うために、彼の執務室へと向かう。そんな彼女を見送りながら、 「トオヤ」は「ドルチェ」の姿へと戻り、誰にも聞こえない声で、一人静かに呟いた。

「さぁ、おはようの時間だよ、姫様。君が歩み続けるのなら、僕もまた君の前に立ち塞がる壁を切り開く、一つの力となる。それは僕がパペットだろうと、レア・インサルンドだろうと、ドルチェだろうと、今も昔も変わらない。僕の最初の、生きる意味だから」

3.5. 機密情報

 それから数時間後、すっかり陽が落ちた頃に、キリコがエイトの前に現れる。

「とりあえず、『上』と話はついたわ。で、私は誰と交渉すればいい? 姫様? 領主様?」
「さっきはああいったけど、実際のところ、直接的な依頼主は僕なんだよな……」
「でも、あなたお金出せる?」
「出せない……」

 仕方ないので、ひとまず彼はレアを呼び出すと、キリコは彼女を相手に料金交渉を始めた。

「とりあえず、この情報の値段は、こんなカンジですかね」

 そう言って彼女が提示した「情報料」は、とても個人で軽く払える額ではない。この村の数ヶ月分の予算に相当する額である。

「じゃあ、今から『財布』を連れてくるね〜」

 ウチシュマはそう言って、トオヤを呼びに行こうとするが、その前にモルガナが呼び止める。

「いいの? 彼にお金をはらってもらうなら、まきこむことになるけど」

 そう言いながら、モルガナはレアに視線を向けるが、彼女ははっきりと頷く。

「最終的には、私がこの国を継ぐことを前提にした話である以上、今は私がトオヤに借金するという形で、払ってもらうわ」

 レアがそう言ったのを確認した上で、ウチシュマはトオヤの私室へと向かうのであった。

 ******

 ウチシュマから事情を聞いたトオヤは、キリコやレアが待つ応接室へと向かう。その途中でチシャ、カーラとも合流した上で、三人で交渉に臨むことにした。

「いやー、すごいねぇ〜、トオヤくん、歩いてるだけで女の子が集まってくるなんて」
「あのね、ちがうよ。君、勘違いしてるみたいだけど、そうじゃないからね。ウチの村の要人達を集めてきただけだからね」
「うんうん、分かってる分かってる。分かってて言ってる」

 なお、その間にドルチェは、しれっと「館の女中」に化けて、客人であるキリコにお茶とお菓子を出していた(当然、レアも含めてこの場にいる者達は誰も気付いていない)。そして到着したトオヤに対して、キリコは改めて「金額」を提示する。

「ということで、領主様、これくらいの額を出して頂けるのであれば話してもいい、というのが『上』からのお達しです」
「そ、そうですか……」
「正直、この情報、あなたが買う必要があるかどうかは微妙なんですけどね。むしろ、なぜあなたがこの情報を知らされていないのかが不思議なくらいです。お爺様とよほど仲が悪いのかは知りませんが。とはいえ、話を聞けば、それだけの価値がある情報だということは分かると思いますよ。少なくとも、これが外に漏れたら相当まずい話です」

 「ヴァルスの蜘蛛」は情報の二度売りはしないことで有名である。つまり、ここでトオヤがその情報を「購入」すれば、外に漏れることは絶対にない。

「その意味では、この子達もこの場で聞いてていいのかな、と思うのですが」

 キリコがそう言いながらエイト達を見渡すと、彼等(と女中に化けているドルチェ)はあっさりと自主的に退席しようとする。その直前に、モルガナとウチシュマはレアに声をかける。

「トオヤさんに何かされそうになったら、すぐに悲鳴を上げてね!」
「何かあったら、私たちがついてるからね〜」

 なぜか危険人物扱いされていることにトオヤが納得いかない表情を浮かべている中、カーラは二人と一緒に退席しようとしていたエイトを見ながら、トオヤに進言する。

「『ツテを取ってくれた彼』はいてもいいかとボクは思うんだけど、あるじはどう思う?」

 それに対してトオヤは少し迷いつつも、首を横に振る。

「いや、情報の種類が分からない以上、知る人は少ない方がいいと思う。彼が信頼出来る人物かどうかはレアの方が分かってるだろうし、必要があるとレアが判断すれば、レアが彼に話す、という形ではダメだろうか?」
「確かに、その方が安全だね」
「僕は『彼がさっき庭先で柵を壊している光景』しか見てないからさ。どういう人なのか、よく分からないんだ。情報屋さんに繋いでもらったことには感謝してるけど」
「その件については、すみませんでした」

 エイトは真摯に頭を下げる。そんな彼の横で、レアはトオヤに対してこう言った。

「彼は信頼出来る人です。ただ、これが『ヴァレフールの闇』に関わる問題ならば、むしろ巻き込まない方がいいと思います」
「ならば、退席してもらった方がいいでしょう」

 トオヤにそう言われたエイトは、無理に聞く気もなかったため、納得した上で退席する。ただし、彼も彼で、去り際にレアに対して一言だけ言い残して言った。

「さっきはああ言ったけど、僕は、君が命をかける必要まではないと思ってるからね」

 彼としては、あくまでもラピス案には反対らしい。そして、ここで明かされる「第三の道」も、もしそれが彼女の身を危険に晒すような方法なのであれば、断固反対するつもりであった。

 ******

 こうして、部屋の中にトオヤ、チシャ、カーラ、レア(本物)の四人とキリコだけが残った状態で、改めて交渉に入る。情報量に関しては、即金で用意するのは難しい金額であることはキリコも分かっていたため、一年以上かけた上での分割払いという形で承諾させるにいたった。
 当然、その間の村の財政は厳しくなるが、トオヤも改めて甘味断ちすることを前提に自身の給料(小遣い)を減らす覚悟を決める。

(じゃあ、あるじのために何かお菓子の代わりになるもの……、果物でも育てるかぁ)

 カーラが密かにそんなことを考えている中、トオヤはキリコの提示した契約書にサインする。

「では、契約成立ということで、お話し致しましょう」

 キリコ曰く、現在、ケネス団長の手に、大陸でも非常に稀な「特殊な回復薬」があるらしい。その回復薬は、飲んだ者に『自分の想像できる範囲の理想の体』を恒常的に与える代物であり、同じ薬を用いて高度な呪いなどを解呪出来た事例もあるという。そしてこれは、もともとは副団長グレンが手に入れてワトホート用に使おうとしたものを、ケネスの配下の刺客が奪い取った「盗品」であった(ブレトランドの英霊6参照)。
 ケネスの当初の計画では、これは対ワトホート用の「切り札」だった。具体的に言えば、ワトホートが退位して聖印をゴーバンに渡すことを条件に薬を渡す、などといった形での妥協案を提示しながら、水面下で交渉していたのである。もう一つの使い道として、その薬を用いてドギの「聖印が受け取れない体質」を治すという選択肢もあったし、テイタニアの懐柔のために同地の領主の妹サーシャに渡すという選択肢もあった。だが、この半年ほどの間に様々な状況の変化もあり、明確な使い道が定まらないまま現在に至っているという。
 また、その入手経路が知られると様々な問題を引き起こすこともあって、あまり公には出来ない存在であり、以前はケネスの筆頭魔法師ハンフリー・カサブランカが厳重に管理していたが、彼の死後はケネスが持っている可能性が高いというのが「ヴァルスの蜘蛛」としての見解である。
 無論、この回復薬を用いたところで、「混沌核に書き換わった聖印」を元に戻せる保証はない。どこまで治るかは、やってみないと分からないところではある。過去には混沌の力に飲まれた者の浄化に使われたという説もあるが、数百年前に書かれた記録のため、そこまで信憑性は高くない(そもそも、別の薬の記述だった可能性もある)。ただ、少なくとも「試してみる価値」はありそうである。

「以上です。では、お支払い方法はこの契約書の通りでお願いします」

 そう言い残して、彼女は契約書を手に応接室を去って行くのであった。

 ******

 その間に、応接室から追い出されていた三兄弟は、廊下で(偶然?)遭遇したエレオノーラと共に、別室にて(女中に化けたドルチェが淹れた)お茶とお菓子の接待を受けていた。と言っても、エイトはレアのことが気になって、手を付ける気になれず、エレオノーラもまたそんな彼の様子が気になってお茶どころの心境ではなかったのだが、その横ではウチシュマが満面の笑みで菓子を味わっている。

「いや〜、ここのお菓子、甘くて美味しくて、いいね〜」
「領主様が、甘味にはこだわる方ですので」

 女中(ドルチェ)との間でそんな受け答えがなされている中、その部屋にキリコが現れた。

「とりあえず、話は終わったんだけど、思った以上に気前のいい領主で、久しぶりに大きな収入が入ったから、ちょっとサービスで『おまけ』を一つあげるわ」

 実際のところ、キリコとしてはある程度まで値切られることを覚悟した上での値段設定だったのだが、そのような商売上の駆け引きなど、トオヤに出来る筈もない。

「なんだよ?」
「今ね、この村の北西の山のあたりで、ちょっと混沌濃度が高まってるっぽいわよ。それが段々こっちに近付いて来てるっぽいの」

 このタイフォンから北西の方角は確かに山岳地帯となっている。その中腹部にはムーンチャイルドという小さな村があり、もともと混沌濃度が比較的高い地域ではあったが、それでもここ数年は特に大きな災害もなく、比較的平和な日々が続いていた。そして、この地方の土地勘が全くないエイトがそのことを聞かされても、それがどれほどの事態なのかが今一つ実感出来ない。そもそも彼等は日頃から「魔境」の中で生活している子供達なのである(そして、この話に内心で一番反応していたのは、女中に化けたドルチェであった)。

「それ、どちらかというと、ここの領主に言うべきことだったんじゃないか?」
「まぁ、そうなんだけどね。これはあくまで『あなた個人への仲介料』みたいなものだから」
「それは、ありがたく受け取っておくというか、伝えておくよ」
「今のところ、まだ気付いてる人も少ないみたいだけどね。ちょっと前に近くで一騒動あったみたいだから、その影響かもしれない」

 そして、この場にいる唯一の「君主」であるエレオノーラは(本来ならばこの地の情勢とは一番無縁の筈なのだが)静かに使命感に燃えていた。

「だとしたら、これは私達も警戒した方がいいでしょうね」

 彼女としては、ここまでただ漫然とついてきただけで、何の役にも立てていないことに焦りを感じていたのである。もっとも、それはウチシュマやモルガナもほぼ同様なのだが、そのモルガナは別にそのことに後ろめたさを感じる様子もなく、冷静に今の自分達の立場を思い出す。

「とはいえ、モルガナ達が勝手にうごいていいのかな? 一応、いまは『ハルーシアの人の従者』という名目なんだけど」
「じゃあ、私がソウジさんに伝えてきます!」

 そう言って、エレオノーラはソウジのいる客室へと走って行った。彼女としては、とにかく今は何か「やるべきこと」が欲しいらしい。もっとも、海亀を乗騎とする彼女は、陸戦ではあまり戦力としては役に立たないのであるが。

3.6. 争点と妥協点

 その頃、キリコが去った後の応接室では、レアが再び「爵位後継者」としての口調で、トオヤ達に対して「本音」で問いかける。

「正直に言わせてもらえば、私としては、その薬はぜひとも欲しい。しかし、それに関して貴殿等の意見を聞きたい。その薬の使い道として、私を治すことと、我が父を治すことと、どちらを優先すべきだとトオヤは思う? 我が父は一年後に退位するという約定を交わしてはいる。その約定がなければ、父を治すのが筋だろうが……」

 そこまで言ったところで、レアは「もう一つの重要案件」について思い出す。

「すまないな。その前にまず確認することがあった。そもそも、今の時点で正規にその薬を入手するには、私とトオヤの婚約が必要だが、トオヤはそれに同意出来ない。であるならば、私達はその薬を『別の交渉材料』を持ち出すことで騎士団長殿を説得して平和理に手に入れるべきなのか? それとも、『彼等が用いた方法』を使って奪い返すべきなのか?」

 キリコの情報が正しければ、もともとケネス側がグレンの部下から盗んで手に入れた薬である以上、それをレア達が盗み返したところで、少なくとも彼等は(その入手経路を説明出来ない以上)公的に批判は出来ない。だが、その選択肢を選んだ場合、それが成功しようが失敗しようが、トオヤとケネスの信頼関係は完全に崩壊するだろう。

「この二つ問題について、貴殿らの意見を聞こう。いかにして薬を手にれるべきなのか、そして、その薬を誰のために用いるべきなのか」

 これに対して、あえてトオヤはレアの「明らかに無理をした公的口調」には付き合わずに、「いつもの口調」で答える。

「俺は、その薬を手に入れた上で、君が使うべきだと思う。君がさっき言っていた二つの案にしても、その薬にしても、どちらにしても上手くいく確証はない。ただ、君が元に戻りたいのであれば、まずは試すべきだと思う。もちろんリスクはあるとは思うが……」

 実際のところ、レアが別の方法で元の姿に戻れるのであれば、あえてその薬は今の段階では使わずに、ワトホートのために残しておくという選択肢もあり得るだろう。とはいえ、先刻の話を聞く限り、レアが「爵位後継者」となるための選択肢としては、その薬が最適に思える。

「俺さ、すごく身勝手な奴なんだ。いざとなったら多分、自分の立場とか放っぽり出して、自分の一番守りたいものを守る、どうしようもない奴なんだ。俺は君がヴァレフール伯を継ぐべきだと思っているけれど、それ以上に君のその身体の問題を、何が何でも早く治したい」

 彼がそう考えている最大の要因は、カーラが指摘していた通り、このまま放置していたらレアが「第二のマルカート」となってしまう可能性があると考えていたからである。彼女が混沌に飲まれていった場合、仮に今の人間の姿自体は魔法の力で維持出来たとしても、心の方が完全に暴走状態になってしまう危険性もありえるだろう。

「どういう手段を用いるかは一旦置いておくとして、まず一番手近にある『お爺様の薬』を渡してもらって、それを試してみるべきだと思う」

 トオヤがそう言い終えたところで、レアは納得した表情を浮かべる。

「そうね。というか、そもそもこういう話をあなたに聞くこと自体が卑怯だったわ」

 レアの方も、ここは無理せず自然体で話した方がいいと感じたのか、素の口調に戻っていた。

「私は今、私自身の手でこの国をどうにかしたい。だから、お父様には悪いけど、その薬を使わせてほしい」
「分かった。それで……、どうしよっか?」

 ここから先は「もう一つの案件」の話となる。レアとトオヤは顔を見合わせながら意見を交わし合う。

「私と一緒についてきた『私の信頼出来る仲間』の一人に、隠密に長けた人はいる。その人とパペ……、あ、いや、『ドルチェ』だっけ? とにかく、彼女の力を上手く合わせれば、何か出来ることがあるかもしれない」
「最終手段は、それだよな……」
「交渉でまとまるなら、その方がいいんだけどね」
「出来れば交渉でまとめたい。君とお爺様の間で遺恨が残るのは、今の対立構造をそのまま残すことになるかもしれないし」
「そうね。でも、そのためにはあなたのお爺様に、私が継ぐことを納得させなければならない……」
「そうなるね」
「じゃあ、もし他の選択肢、たとえば……、ケネス団長が『私』と『あなたの弟のロジャー』との婚約を条件として出してきたら、あなたはどう思う?」

 この質問は、トオヤだけでなく、黙って聞いていたチシャとカーラをも硬直させた。正直、三人共、どう反応すれば良いのか分からない。長城線で同じことをリューベンに言われた時は激怒したトオヤであったが、言っている内容は同じでも、彼女に言われるのでは意味が全く異なる。

「ありえない話じゃないと思うけど?」

 そのことが分かっているからこそ、重い沈黙が続く。

「……ごめんね、これ、半分は意地悪で言ってるけど、でも、十分にあり得る話だと思うから、聞いておきたい」
「そうだろうね……。おじいさまだったら十分にその選択肢は頭に入れていると思う。そのための布石として、ロジャーに領主としての経験を積ませることにしたんだろうし……」
「もちろん、選択肢はロジャーだけではないわ。チシャのところの一番下のラファエルもいるし、他にも、私に歳の近い君主は沢山いる。それでもいいとあなたは思う? さっきのあなたの話だと、私はまだしばらく独り身の方がいい、という考えみたいだったけど」
「まぁ、それが妥当かと思ったんだが、所詮はそれも一領主の考えだし……」

 実際のところ、レアが誰かと結婚したいと言い出すのならば、トオヤは(相手が「レアを不幸にしない人物」である限り)それを止めるつもりはサラサラないし、政略上の理由からレアが名門貴族家の誰かを婿に迎えることに対しても、声高に反対は出来ない立場であった。とはいえ、今の時点でレアも「誰を王配に迎えることが適切なのか」ということは分からない。

「じゃあ、もういっそ、直接聞いてみる? あなたと私で一緒に団長殿に『後継者としての私に何が足りないのか?』ということを。その上で『あなたの孫は私と結婚したくないみたいだから、他にどんな条件なら納得してくれる?』って聞くのが早いんじゃない?」
「え!?」
「そう言わなきゃ納得しないでしょ。『あなたの孫は私のことを自分の妻としてふさわしくないと言っているので、別の形で妥協したいんですが』って」
「いや、あの、君の気持ち的にそういうことを言いたくなるのは分かるんだけどさ、そういう言い方をするとお互いに傷付くだけだと思うんだ……。俺が言えた義理じゃないけどさ……」
「でも、交渉の糸口が見つからないなら、そういう形で聞き出すしかないわ」

 確かにそれは一つの正論ではあるが、レアがあえてこのような「棘のある言い方」を選んだ背景には、当然「嫌味の一つくらい言ってもいいでしょ」という彼女の本音もある。だが、その棘はレアの想定以上にトオヤに深く突き刺さり、もはやまともな思考が出来ない状態に陥っていた。

「そもそも、どうして私のお爺様とあなたのお爺様は仲が悪かったんだっけ? 私の即位を歓迎してないのは、お爺様同士の不仲が原因なんでしょ?」

 ここに至って思考を原点回帰させたレアであったが、それに対して、今のトオヤではまともに回答出来ないと考えたチシャが、代わりに答える。

「今の時点での対立の争点は、外交方針ではないでしょうか?」

 正確に言えば、外交問題と宗教問題である。ケネスがもともと「親エーラム・親連合」の立場であるのに対し、グレンはエーラムと対立する聖印教会の信者であり、連合と同盟の対立にも積極的に関わらずに中立を維持すべきと主張していた。レアの留学先がエーラムでもハルーシアでもなく中立国家サンドルミアだったのも、そんな彼の戦略が影響している。

「そうか……、そういうことなら、ある意味で『今の私』は団長殿にとって『望ましい君主』と言えるのかもしれない」

 レアの今の目標は「楽園島の人々とこの国の人々が共存する未来」を築くことである。その目標を達成するためには、グレンよりもむしろケネスの方が思想的な意味での共闘が容易なようにも思えてきた。無論、彼女もパンドラが社会的に受け入られる存在ではないことは分かっているため、そのことを堂々と話して良いものかどうかは悩ましい。そこで、以前に聞いた「気になる噂」について問いかける。

「ところで、このアキレスの人達とパンドラの人々との間で遺恨があると聞いたことがあるんだけど、心当たりはある?」

 この問いかけは、再び室内の空気を凍りつかせる。だが、彼女がこの国を継ぐ覚悟を決めた以上、これは遅かれ早かれ知らなければならない話である。
 故に、トオヤは観念して、全てを話した。自分が謹慎中に起きていた革命派との抗争、ドルチェと最初に出会った時から続く新世界派との因縁、自分達の預かり知らぬところで締結された楽園派との不戦協定、そして均衡派のネネによるドギ誘拐と、謎の生命魔法師による「擬似ドギ」の形成、およびゴーバンの出奔に至るまで(なお、その過程で付随するチシャとカーラの血統問題については軽くボカして説明したが、レアはヴィルスラグの正体を知っていたため、カーラの出自はすぐに察しがついた)。
 そして、ドギ誘拐の話を聞かされた時点で、レアは全身から血の気が引いていくのを実感する。

(これは、彼等がパンドラだと知らせる訳にはいかない……)

 状況次第では、自分がパンドラに助けられたことも伝えてしまおうかと思っていたが、さすがにこの話を聞いた後では、そのことは言えない。正直、あのアインやネネが幼子の誘拐に手を貸していたという話自体、レアには信じがたかったが、大人には大人にしか分からない事情があるのかもしれない、と思える程度には、彼女も(良くも悪くも)「大人」に近付きつつあった。

「ごめん、私が考えていた案は無理だわ。とはいえ、何か方法はないものかしら……」

 なんとか話題を変えようとレアが頭を巡らせているところで、ふとカーラが進言する。

「腹心の部下ですと言って、『あの子達』を連れていけばいいんじゃないかな? ハルーシアの人の従者だと言ってたけど、実際のところは、レア姫の知り合いなんでしょ? あの子達って、投影体だよね?」

 さすがに今までの諸々の経緯から、あの三兄弟とレアが何らかの特別な関係にあることはカーラにも想像出来た。そして、昼の中庭での諸々の過程で、彼等が「聖印でも魔法でも邪紋でもない特殊な力」を有していることも分かる。

「なるほど。確かに、それなら私と聖印教会が繋がりが薄いということは、ケネス団長にも伝わりやすくなるかもしれない」

 とはいえ、彼等との関係を対外的に強調すぎると、今度はグレンの方がレアの後継者としての資質を疑い始める可能性もある。最悪の場合、グレンが「聖印教会の思想に染まったゴーバン」に帰国を促した上で、神輿を入れ替えた形で対立が再燃がする可能性すらありえるだろう。そのあたりの匙加減には注意が必要である。

「では、とりあえずはその方向で、明日の時点でアキレスに行って、話をしてみることにしよう」

 レアがそう言うとトオヤ達は頷き、この日の「第二次会談」もこれにて散会することになったのであった。

3.7. 夜の客室

 話し合いが終わり、各自がそれぞれの部屋に戻ろうとしたところで、エイトはトオヤとチシャに、キリコからの伝言を伝える。

「なるほど。その状況を捨ておくのは危険だな」
「ちょっとまずいですね……」

 二人は顔を見合わせる。このタイミングで混沌災害が起きるとしたら、一つ思い起こされるのは先日のオブリビヨンの反乱だろう。方角的にはややズレるが、彼等の残党が何かを引き起こした可能性は充分にある。そうでなかったとしても、あの時に周辺地域全体の混沌濃度が上がったことが、新たな混沌災害を誘発したのかもしれない。

「ともあれ、伝えてくれて助かった」
「ありがとう」

 二人はエイトにそう礼を告げると、隣にいたレアに対して、トオヤは(エイト達の前ということもあってか)公的口調で提言する。

「申し訳ございませんが、この地の領主として、この話を放っておく訳にはいかないので、アキレスに行く話は一旦延期ということにさせて頂けないでしょうか?」
「そうね。それでいいと思う。君主の一番の仕事は、混沌災害から人々を守ることだしね」

 レアはそう言った上で、ひとまずトオヤ達とは別れて、三兄弟に対して小声で告げる。

「とりあえず、私の身体を治せるかもしれない薬を、この国の騎士団長が持っていることが分かったわ。その上で、私はあなた達に助けられて、あなた達と懇意な関係にある、ということをその人には伝えたい。ただ、あなた達がパンドラだということは、絶対に言わないで」

 その申し出に対して、エイトとウチシュマは何も詳細を聞かないまま同意するが、モルガナは一つの疑問を呈する。

「投影体だということ自体は、言っても大丈夫なの?」
「トオヤの側近にも、あなた達と同じような素性の人がいるから、それは心配ないわ。騎士団長もその辺りは話が分かる人だから心配ない。むしろ問題なのは、私のお爺様の方なんだけどね。あの人は聖印教会っていう、混沌を人間が有効利用することすらもよく思わない人達の、この国の中でのまとめ役だから」

 それを聞いたエイトは、さすがに顔をしかめる。

「確かに、それは僕等とは仲良くはなれそうにないな」
「とはいえ、ウチのお爺様にとっては、私以外に選択肢はない筈だから、よほど大丈夫だとは思うんだけどね」

 そんな会話を交わしつつ、ひとまずレアは自室へと戻り、モルガナとウチシュマはエレオノーラと、エイトは総司と同室という形で、それぞれの客室へと女中(に変身したドルチェ)に案内されるのであった。

 ******

 一足先に客室でくつろいでいた総司は、諸々を終えて部屋に到着したエイトに対して、おもむろに語りかけた。

「話がまとまったのかどうか分からないですけど、とりあえず、 姫様としては腹を括ったのでしょうか?」
「そうみたいですね」

 正確に言えばこの場には「姫様」は二人いるのだが、それがレア姫の方を指していることを互いに察しつつ、総司はエイトに問いかける。

「あなたはこれから、どうします?」
「これから、とは?」
「そもそも、あなたはどうしてここに来たんでしたっけ?」

 エイトは少し考えつつ、いつもの涼しげな笑顔で答える。

「もし、こちら側の領主が『話が分からない人』か、むしろ『話が分かりすぎる人』だったら、僕達が彼女を連れて来ても、『姫様はずっとここにいましたよ』なんてことを言い出すかもしれないでしょ? そうならないようにするためですね」

 まわりくどい言い方であるが、要は「権力者の都合で、『本物のレア姫』の存在が抹消される可能性」を考慮した上での護衛である。とはいえ、実際にはそれだけが理由なのではないが、それ以上のことを言う気はない。

「では、その心配はもう無くなったようですが、あなたはこれから島に帰りますか?」
「レア姫の用事が終わるまでは、付き合うつもりではいるけど……」
「今の彼女の『用事』は、ヴァレフール伯爵位を継ぐことのようですけど、そこまで付き合いますか?」
「そこまで付き合うのも……、面倒だけど悪くはないかな……」

 エイトのその表情から「何か」を察した総司は、優しそうな笑顔を浮かべる。

「なるほど。そういうことなのであれば『あなた達は怪しい人物ではない』という『お墨付き』を私が与えることは出来ますよ。これでも私、連合の中では『信用出来る投影体』として、それなりに有名な立場なので」

 「連合盟主アレクシスの友人」という彼の肩書きは、いわば傾奇御免状のようなものである。その威光は確かに幻想詩連合諸国の間では絶大であろう。

「僕やウチシュマやモルガナには立場なんてものがないから、その辺りのことはよく分からないですけど、そう言って頂けるのはありがたいです」
「それで、この国の人々が信用してくれればいいんですけどね」

 なお、二人がそんな会話を交わしている中、部屋の隅の壁に掛けられた二振りの「剣のオルガノン」達は、何か特殊な手段を用いて心を通わせていたようだが、その「会話」の内容までは、持ち主である二人にまではさすがに伝わらなかった。

 ******

 一方、もう一つの客室では、モルガナ、ウチシュマ、エレオノーラの三人もまた「この後の身の振り方」について語り合っていた。

「私は、そうですね……、まず、私の実家であるノルドと楽園島の方々との関係がどうなるかにもよるんですけど……」

 少なくとも、ノルドとの国交が成立するにせよ、決裂するにせよ、ある程度の決着がつくまでは、エレオノーラには「窓口」として島に滞在する必要があるだろう。だから、他の者達がどうするにせよ、少なくとも彼女は一度は島に帰る必要があった。そのことは自覚した上で、彼女としてはエイトの動向が気になっていた。そのことを察したモルガナは、淡々と本音で助言する。

「正直、エイトの身柄はういてるから、そのままさらってもいいんだよ」

 そう言われたエレオノーラはやや頬を紅潮させつつ、困った顔を浮かべる。

「でも、そもそも今の私に『連れていける場所』がある訳じゃないですし……。この後、エイトさんはどうするんでしょう?」
「このままリカちゃんのそばにいるんじゃない? 近くにいたところで、別に何も言いださないくせにね」

 モルガナは呆れた口調でそう答えるが、ウチシュマは微妙に異なる見解を示す。

「どうだろうねぇ〜。このままだったら、耐えきれなくなって帰ってくるんじゃないかな〜」
「そうなったらなったで、エレちゃんが傷心のあの子をなぐさめればいいわけだし。どちらにしても、エレちゃんに利はあるわよ」

 そう言われたエレオノーラは、あえて何も答えぬまま、何かを決意したような顔を見せる。そんな彼女を横目に見つつ、ウチシュマは「もう一人の姫」のことを思い返す。

「リカのことも心配なのよねぇ〜。このまま放っておいて大丈夫なのか……」
「でも、モルガナ達がどうにか出来ることじゃないし」
「そうなんだけどねぇ〜」

 相変わらず気力の感じられない声でそう呟きつつも、ウチシュマもウチシュマで、何かを考えている様子ではあった。

3.8. 彼女のために出来ること

 その頃、カーラとチシャが翌日の混沌調査に向けての出立の準備を整えている間に、トオヤは部下に依頼して、ドルチェを自室に呼び出していた。

「呼んだかい、トオヤ?」
「あぁ、すまない。こんな形で呼び出して」
「別に構わないさ。で?」
「いや、なんというか、あの、愚痴程度で聞いてもらえばいいんだけど……」
「姫様のことかい?」
「俺、もう、姫様のために出来ること、何かないかな?」
「ふーん?」
「いや、分かってるんだよ。そんなこと言えるような立場じゃないってことくらい」
「だろうね」
「でも、そこまで割り切れるほど俺、大人じゃねーし。ドルチェも知ってると思うけど、結構、俺、欲張りだから」
「本命は僕だけど、姫様も助けたい?」
「あ、いや、そういうことじゃなくて……、何か出来ることないかな、って」
「まぁ、難しいよね……。僕もね、元は姫様の従者だし、姫様のことは出来る限り助けたいさ。姫様がこうしたい、何かがしたいと言ってくれれば、出来る限りそれを助けたいと思ってる。でも、そこまでなんだよね。それで十分だと思ってる」
「そうか」
「行先を見定めて、自分の足で歩き出せる。姫様はそれが出来ると思ってる。それくらいには姫様を信用してるさ。だから姫様の従者として、影武者として、あるいはドルチェとしても、姫様と仲良くなれたらとは思うけど、それはまだしばらくかかりそうかな……。どんな形でもいいから、いずれ自然に姫様の助けになることが出来ると僕は思ってる」
「そうだよな。俺に今出来ることなんて、そんなに多くないんだと思う。でも、いずれ姫様の助けになれる時は来るなら、その時のために『俺に出来ること』を多くしておきたい」

 そこまで言ったところで、トオヤは少し間をおいた後に、「聞きにくいこと」を尋ねる。

「あの、ちなみになんだけど……」
「なんだい?」
「あの後、姫様と会ったりした?」
「あぁ」
「……どうだった?」
「まぁ、募る話も色々あるからね」
「そ、そう。いや、さっき君がいなかった時に、すごく怒ってたから……」

 実際のところ、別にレアはそれほど怒っていた訳ではない。ただ、彼女の言い方にほんの少しだけ棘があっただけである。だが、トオヤはそれを「ほんの少し」とは感じてはおらず、彼女がどこまで気分を害しているのか、推測出来ない状況であった。端的に言えば、姫様の「女心」が読み切れないまま、気を揉み続けていたのである。

「まぁ、今となっては十年来の恋敵なんだ。そういうこともあるだろうよ」
「そうなるのは覚悟の上だったんだけど……、なんというか、君に頼めることじゃないんだけど、もし俺が、その、姫様を相手にすごく『分かってないこと』をしてたら、その時は、諌めてもらっていい?」
「それ、カーラあたりの方が適任だと思うよ。僕は僕で、君が絡んでくると、結構空気が読めないことをするからね」
「あぁ、まぁ、まぁね……」
「知ってるだろう?」
「うん……、そうだね……。ごめん、しばらくもう少しウジウジしてると思うけど、割り切りつけるから、ごめん」
「うん、今は好きなだけウジウジしててくれたまえ。いざとなったらトオヤは頼りになる。その
ことを僕は分かってるからね。だから、今くらいは好きにすればいい」
「ありがとう」
「じゃ、そういうことで。いざとなったらその時はよろしくね。その時もまだ君がウジウジしてるようなら、僕のこの『幻影の邪紋』にかけて、無理矢理にでも動かすよ」

 そう言って、彼女は部屋を去って行く。そんな彼女の後ろ姿を見送りつつ、トオヤは一人静かに扉を閉めて、そしてボソッと呟いた。

「かなわないなぁ……」

 一方、扉の外では、そのドルチェとすれ違う形で、彼の部屋に別の人物が近付いてきた。エイトである。

(おや? あれは確か……)

 ドルチェは彼の姿を確認しつつ、なんとなく今は「レアの側近」と思しき彼とは顔を合わせたくない気分だったので、そそくさとその場を立ち去る。エイトの方は特に彼女のことは気にする様子もなく、トオヤの部屋の前まで来て、扉を叩いた。

「レア姫の従者として来た者です」

 エイトがそう言うと、扉を開けて中から出てきたトオヤは意外そうな顔を見せる。

「あぁ、君か。どうかしたのかい?」
「話がしたくて……」
「話? まぁ、いいけど」

 トオヤはそのまま彼を部屋の中へ入れると、彼は開口一番こう言った。

「昔のレア姫って、どんな人だった?」
「昔のレア?」

 そう言われて、トオヤは少し考え込む。

「気品のあるお姫様、ってカンジだったかな。いや、時々抜けてるカンジはしてたんだけど……、それがどうかしたの?」
「いや、僕も彼女と知り合って間がないし。ましてやレアのことをよく知ってる訳でもないから、どんな人だったのかな、って思って、知ってる人に聞いて回ってる」

 彼のこの言い方から察するに、おそらく彼はレアのことを「姫様」とは知らずに親しくなったのだろう、ということは予想出来る。だが、彼の中でレアがどのような位置付けなのか、ということまではトオヤには分かっていなかった。

「うーん、俺が知ってる彼女がどうこうよりも、『君が知ってるレア』がレアなんじゃないかな。君がどういう経緯で彼女と知り合ったのかは知らないけれど……。ちなみに、どういう経緯だったの?」
「自分達の住んでるところに、記憶を失ってやってきた……」
「なるほど。レアを助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして……」

 ボソッとそう答えるエイトであったが、彼が今言いたい言葉はそれではなかった。だが、今の自分の感情をどう表現すれば良いのかが分からないし、トオヤもまた、この少年が何を思って自分を訪ねてきたのかが、まだよく分かっていない。
 微妙な沈黙が広がる中、その空気を変えたいと思ったトオヤが、おもむろに口を開く。

「えっと……、何か食べる?」

 そう言いながら、彼は執務用の机の下の方の引き出しから、何かを取り出す。

「秘蔵のビスケットならあるんだけど」
「あ、はぁ……、いただきます」

 エイトの方も、今のこの沈黙が耐え難かったので、この提案はありがたかった。渡されたビスケットを口にしたエイトは、素直にその菓子を味わう。

「あ、結構美味しい……」
「それ、俺が行きつけの店の絶品のビスケットなんだよ。気に入ってくれたようで嬉しい」
「あんた、お菓子好きなんだ」
「まぁ、甘味系とか、大好きだけど」

 トオヤがそう言うと、エイトは懐から「例の缶」を取り出し、何度か振った上で、(彼自身が一番嫌いな)「薄荷飴」をトオヤに差し出した。

「これは、飴?」
「あぁ。ちょっと珍しいやつ」
「そうなのか。りんご飴とかは食べたことあるけど。いいのかい?」
「うん、ビスケットのお礼」
「そうか。ありがとう」

 トオヤがそれを口に入れると、今まで感じたことのない独特の刺激が口の中に広がり、その直後に、なぜか鼻筋がスースーと通るようになったのを感じる。

「へぇ、こういうのもあるんだ……」

 初めて体験した新鮮な感覚に対して素直にそんな感想を述べつつ、改めてトオヤはエイトに問いかける。

「そ、それで、わざわざ訪ねに来て聞きたかったのは、昔のレアの話で良かったのかな?」
「そうだよ。話してくれてありがとう」
「いや、別に大したことを喋ったとは思ってないし」
「遅い時間にお邪魔してごめんなさい」
「いや、別に構わないけど」

 そんなやりとりを交わしつつ、ひとまずエイトは、今の時点でトオヤが聞きたいと思っているであろうことを、自分の方から切り出す。

「他の二人はともかく、僕はしばらくレアの護衛としてついていくつもりだから、何かあったら力になるつもりでいるよ」
「あぁ、それはありがとう」

 実際のところ、今のトオヤにとっては「レアの心の支えになれる人物」が彼女の近くにいてくれることは、それだけでも十分にありがたい。もっとも、エイトの方はそう言いつつも、実際にどのような形で彼女の力になるべきなのかは、まだはっきりとは決めかねてはいた。
 そう言ってエイトが立ち去ろうとする時に、トオヤは思いついたように問いかけた。

「少し聞きたいんだけど、今の君から見て、レアはどんな人かな?」

 これに対して、エイトは本音を語るべきか、それともいつもの虚言癖でごまかすべきか、内心で静かに葛藤しつつ、ボソッと静かに答える。

「遠い人、かな……」

 それは確かに彼の本音であった。それが全てではないが、今の彼にとってそれが最も率直な「今の自分から見た彼女」であった。だが、それに対してトオヤは、やや意外そうな顔を浮かべる。

「そうか……。僕はさっき事情を聞きかじっただけだし、君達とレアがどんな接し方をしてきたのかは分からないけど、そこまで遠いのかな? 確かにレアには立場があって、彼女は彼女なりの信念を持ってヴァレフールという国を治めようとしていた訳だけど、さっきから遠目に見ていた『彼女と君達の関係』は、決して遠いものには見えなかったけどな」

 そう言われたエイトは、思わず苦笑いを浮かべる。

「そう見えてたならいいんだけど」
「それにさ、遠くても、嫌われてても、遠ざけられてても、その人を想って出来ることはあると思うんだよね。自分にとって大切な人のために出来ることって」

 彼に言ってるのか、自分に言ってるのか分からないような言い方で、トオヤはそう呟く。

「そう、かもな……」
「ごめんな、変なことを言って、引き止めちゃって」
「僕は、レアのためになることをしたいだけだよ」

 本当は、それだけではない。だが、今はそれ以上のことを口にする気にはなれなかった。

「お邪魔しました」

 エイトはそう言って、トオヤの部屋を後にする。そして、廊下で一人、壁に手をついて小声で呟いた。

「本当にダメな奴だったら、なんとでも考えようがあるのに……」

3.9. 親の因果

 こうして、それぞれに複雑な想いを抱えながら、やがてタイフォンの夜は更けていく。皆がここまでの旅路の疲れから静かに就寝していたが、そんな中、昼間から何度も惰眠を貪りながらも夜は夜でぐっすり眠っているウチシュマの夢の中に、再びあの「大蛇達」が現れていた。しかも、今回はその蛇達の後方まではっきりと見える。そこには、身体から八匹の巨大な蛇を生やした、巨大な女性の姿があった。

「まさか貴様の方から近付いてきてくれるとはな。我が宿敵の血族よ」
「(うわ〜、めんどくさいな〜)人違いで〜す」

 ウチシュマはそう言ったが、明らかにそれが母の言っていた彼女の宿敵「クンダリーニ」であろうことは推察していた。

「忘れはせぬぞ、あの女……、しかも貴様、『あの男』との間の子であろう。私の方が先にあの男には目をつけていたというように……。あの女が手を出した後では、今更私が手を出す訳にはいかないではないか……、あやつの『お古』に成り下がってしまった男など……」

 ブツブツとそう呟く彼女に対して、なんとなくウチシュマは事情を察しつつ、いつもの異母兄を煽る口調で言い放つ。

「これだからヘタレは〜、こいつもヘタレかぁ〜」
「……やはり、あの女、ただ殺すだけでは飽き足らん。まずは貴様の生首を、あの女の前に差し出さねば」
「あ〜、あるよね〜、いくさの前の作法ってやつ〜?」
「…………まだ今ひとつ事態が把握出来ていないようだな? 心に言っても分からんのであれば、身体に教えてやろう!」

 彼女がそう叫ぶと、ウチシュマ達が滞在する領主の館の上空に、巨大な混沌核が出現した。ウチシュマはすぐに目が覚め、さすがにこれは「よそさまの土地」で引き起こしてはならない事態が発生しているということに気付く。

「とりあえず、被害の少なそうなところまで引きつけるか〜」

 そう言いながら、彼女はひとまず館の中庭へと飛び出す。その物音で、同じ部屋にいたモルガナとエレオノーラも目が覚めた。

「ごめんね〜、ちょっと行ってくるよ〜」

 そう言って寝間着のまま外に出るウチシュマに対し、何が起きたのかよく分からない様子の二人も、ひとまず彼女の後を追おうとするが、廊下に出たところで、同じように物音に気付いて飛び起きたエイトと総司に遭遇した。

「どうやら、巨大な混沌核が、この館の上空に出現したようですね。彼女には、何か心当たりがあるのでしょうか……?」

 一目散に外に走り去るウチシュマを見ながら総司がそう呟くと、エイトとモルガナは嫌な予感が胸をよぎる。ウチシュマは日頃は自堕落だが、「やる時はやる子」である。そして、彼女があそこまで全力で走っている様子からして、これは彼女が本気でやる気をださねばならないほどの緊急事態であろうと推察出来た。

「僕はウチシュマを追います!」
「モルガナも!」

 二人がそう言って外に向かおうとすると、総司はあえて二人とは反対側の方向に向かって走り始める。

「では、私はレア姫様をお守りするよ。もしかしたら、彼女が原因の可能性もあるしね」

 実際のところ、今のレアには聖印の力はない。ノルド軍との戦いの時に彼女が放ったあの「怪光」が今も使えるのかどうかは分からないが、この混沌の収束が人為的なものであった場合、首謀者の標的が彼女という可能性もある以上、誰かが彼女を守る必要はある。

「私も、そちらに行きます!」

 エレオノーラはそう言った。彼女にとっては恋敵ではあるが、ここでレアに万が一のことがあった場合、エイトの心が完全に壊れてしまうような気がした。今の自分に、そうなった時の彼の心を癒せるとは思えない。ならば、ここは全力を以ってその「最悪の事態」を防がなければ、と彼女は決意を燃やす。
 そんな彼女に対して、エイトも去り際に声をかけた。

「じゃあ、任せたよ!」
「はい! 何があっても絶対に守り通します!」
「もし何かあったら、大声で呼んでくれればいいから」
「エイトさんの方こそ、お気をつけて」
「安心してよ。サンクトゥスのしごきは伊達じゃないから」

 こうして、「客人達」は二手に分かれて走り出す。一方、領主の館の住人達の中でも、直感的に異変に気付いて目が覚めた者達がいた。チシャとドルチェである。チシャはカーラを起こしつつ、状況を確認するために建物の外に出て、ドルチェはトオヤを起こした上でレアの元へと向かった。
「おや、領主様」
「あ、どうも」

 レアの部屋の前で、トオヤとドルチェは総司と遭遇する。少し遅れて後方からエレオノーラが走ってくるのも確認出来た。その喧騒で目が覚めたのか、部屋の中からはレアが現れる。

「トオヤ……? 今、何が起きてるの?」
「分からない。だが、もしかしたら『例の混沌災害』の影響が、もうこの地にまで届いてしまっているのかもしれない」

 彼等がそんな言葉を交わしていると、館の外で何か激しい物音がする。彼等が廊下の窓から外を見ると、そこには月光に照らされた「二階建ての建物よりも巨大な、身体から八匹の大蛇を生やした女性型の巨人」の姿が現れた。それは長城線で戦ったあのノルド軍のドラゴンよりも強大で、今まで見てきたどの投影体よりも禍々しい雰囲気を漂わせていた。
 この投影体が何者かは分からないが、少なくとも放置して良い存在ではない、そう考えたトオヤは、廊下の窓を開け、飛び降りながら聖印を掲げる。

「変身!」

 彼がそう叫ぶと、彼がまとっていた簡易鎧が、聖印の力によって明らかに「別の何か」に書き換わっていく。

(あれが、今のトオヤの力……)

 レアがうっとりとその姿を眺めているのを横目に、ドルチェもまた(レアの警護を総司達に任せて)トオヤを追って飛び降りる。そして二人がその「怪物」の目の前に来た時点で、チシャ、カーラ、そして三兄弟がその場に集まっていた。

「いや〜、ウチの母親がすみませ〜ん」

 ウチシュマが唐突に「誤解を招きそうな言い方」でそう言うと、それを訂正するかのように、エイトが問いかける。

「アカラナータさんの知り合い?」
「本人達はそう言ってるよ〜」

 相変わらずの呑気な口調でそう答えたウチシュマに対して、今度はトオヤが問いかける。

「知り合いなら、話し合いでなんとかなりませんか?」

 もっともな言い分だが、ウチシュマは首を傾げながら、クンダリーニを指差す。

「ウチの母親がアレを殺した回数を聞きますか?」
「……よく分からないけど、無理っぽいな」

 トオヤはよく分からないまま覚悟を決め、ドルチェ、チシャ、カーラの三人もまた、いつものようにそれぞれの力を発動させようとするが、そんな彼等よりもいち早く動いたのは、客人の三兄弟であった。

(多分、あの蛇さん、毒とか持ってるよね〜)

 そう考えたウチシュマは、トオヤ達を含めた仲間達に対して、毒などの特殊な影響を無効化する神聖なる加護を与える。これは半神としての彼女が母親から受け継いだ能力であり、トオヤ達は何が起きたのかよく分からない状態だったが、少なくとも自分達の身体に何か特別な力が備わったことを実感する。
 それに続いて、モルガナはハーフエルフとしての感応力を用いて周囲の精霊達の力を喚起させ、エイトは母親譲りの地球人特有の妄想力を駆使しつつ聖剣サンクトゥスの力を発動させることで、それぞれの能力を活性化させる。

(なんだ!? 彼等のこの異様な「速さ」は!?)

 まさにそれは電光石火の早業であった。いつも通りにトオヤが聖印の力で鎧を強化し、カーラがその本体を巨大化させ、ドルチェが怪物(本体および蛇達の半分)の視線を邪紋の力で引きつけてる間に、三人は速攻で怪物に向かって攻撃を仕掛ける。
 ウチシュマの雷撃とモルガナの火炎が怪物の全体を焼き焦がし、更にウチシュマの呪詛の力によって蛇達を特殊な力で縛り上げる。そこにサンクトゥスを掲げたエイトが斬りかかりつつ、彼はその直後に一歩下がって、カーラの武器を混沌の力で強化した。

「あ、ありがとう」
「次は魔法師さんの番かな」

 エイトは、チシャが怪物全体を巻き込む召喚魔法を放とうとしていることに気付いていたため、その魔法に巻き込まれないようにするために、あえて一撃を与えてからすぐに退いたのである。彼は出会ったばかりの彼女達の戦い方の特性を瞬時に見抜いて、この場で必要な連携行動が何かを割り出していた。
 一方、ウチシュマもまた、自分のすぐ近くにいたドルチェが、すぐにでも怪物の懐に飛び込もうとタイミングを伺ってるのに気付くと、神風の力で彼女を一瞬にして怪物の目の前へと運ぶ。

「これはありがたい!」

 彼女はそう叫びつつ、半数の蛇達の視線を完全に自分へと惹きつける。だが、その彼女の邪紋による力をくぐり抜けた他の蛇達は、後方に控えていた他の面々に対して、彼等全体を巻き込むほどの強大な魔毒を込めた連続攻撃を浴びせかけた。
 ウチシュマの加護によって毒そのものの力は無力化されていたが、それでも同時に吐き出される特殊な瘴気の力は、彼等の身体を内側から破壊しようとする。

(さすがにこれは本気でとめないとまずい)

 そう判断したモルガナは、最初の二匹の蛇によって放たれた瘴気の威力を、水の精霊によって大幅に軽減するが、そこで魔力を使い果たして、片膝をつく。

「だめー、もうこのへんが限界ー」
「大丈夫だ。次は僕に任せろ!」

 三匹目の蛇に対して、今度はエイトが地球人固有の「混沌の作用そのものを弱める能力」を駆使して、蛇の攻撃の精度を落とさせ、重装備のトオヤとカーラ以外は素早い動きでその三撃目をかわす。更にそれ続く四匹目の蛇に一撃に対しては、今度はトオヤが聖印を掲げて光の壁を作り出すことで、完全に打ち消した。
 一方、単身で敵の懐に飛び込んでいたドルチェには残りの四匹の蛇が遅いかかってくるが、ドルチェは華麗にそれを避けつつ、逆に他の蛇にその毒と瘴気を食らわせるなど、完全に敵を翻弄していたが、さすがに邪紋の力を使いすぎたこともあり、この戦術はあまり長くは続けられないと判断した彼女は、ひとまず一旦その場から離脱する。
 そして、そのタイミングを見計らって、満を辞してチシャがジャック・オー・ランタンを瞬間召喚してそこに全ての魔力を注ぎ込み、更にそれをトオヤの生み出した聖印の盾の力で増幅させたことで、蛇達の大半が死滅する。その直後にカーラが突撃して残った蛇を一掃した上で、クンダリーニの「本体」にも深手を負わせる。クンダリーニはそれでもひるまず、残された力を全て込めた何かを発動しようとしたが、次の瞬間、彼女の周囲で収束しつつあった混沌が、一瞬にして消失した。

「なぜだ!? なぜ力が発動しない?」
「妹が世話になったらしいな!」

 それはエイトによる混沌無効化の力であった。そこで更にトオヤが聖印を掲げて皆の闘志を盛り上げつつ、ウチシュマが放った二度目の雷撃にもトオヤが光の盾でその力を増幅させたことによって、その雷はクンダリーニの身体を完全に真っ二つに切り裂いた。

「ま、まさか、このような小娘達ごときに……」

 クンダリーニは恨み顔でそう呟きながら、消失していく。こうしてトオヤ達は「なんだかよく分からないうちに現れた、よく分からない不気味な巨大投影体」の撃破を果たしたのであった。

4.1. 代替条件

 翌日、チシャが周辺地域の混沌濃度を調査した結果、キリコが言っていた「北西から迫りつつある巨大な混沌核」が、昨夜倒した「よく分からない不気味な巨大投影体」だったことが判明する。それを呼び寄せた要因がウチシュマらしい、という話ではあったが、今ひとつ確信に至る証拠もなかったため、ひとまずその件については不問とされた。
 その上で、彼等は安心してアキレスへと向かうことになる。隣街なので、いつもなら陸路を用いることが多いが、今回はあえて総司の乗ってきた船に客人達と共に乗船し、海路で向かうことにした。これは、ケネスとの会談の内容次第では、すぐにラピスやコートウェルズへと向かうことになる可能性もあったので、そのための「交通手段」を事前に確保しておいた方が良いという判断であった(ちなみに、総司はラピスの領主とも面識はある)。
 レアはトオヤ達に加えて(カーラの進言通りに)「三兄弟」を同行させ、更にドルチェと並び立つことで自分が「本物」であることを強調した上で、ケネスに対して「まだ今の自分の体内には混沌核があること」「本来の体に戻るための『方法』を教えてほしいこと」「今の自分の信念は聖印教会とは相容れないということ」を告げる。行方不明であった間の自分の動向についてはボカしながら断片的にのみ説明したが、それでもケネスはおおよその見当がついていた。

(外見を変えることが出来る生命魔法の使い手など、そう何人もいる訳がない。十中八九『あやつら』だろう。彼女がずっと『あの島』にいたのだとすれば、仮にワトホート派が過去に風の指輪を魔法で探そうとしていたとしても、魔境の特殊な力でその発見を妨害させていたとしてもおかしくはない……)

 当然、ケネスとしては「彼等」に対しては様々な鬱積した想いがあるが、今の時点ではむしろ、レア姫の思想が「彼等寄り」になることは、聖印教会側牽制する上でも悪くない。ケネスの中では、自分の「契約魔法師」と「孫」を奪った「あの組織」よりも、将来的な脅威としては聖印教会の方を警戒している。そして、それが国全体にとって有益であると考えれば、いかなる仇敵とも手を組むことを厭わない。それこそが、騎士団長として長年この国を率いてきた老将の統治方針だったのである。
 その上で、レアはトオヤとの婚姻に代わる別の条件での協力を申し出たところ、ケネスは熟考の末に、以下の三条件を提示した。

  • レア自身は聖印教会とは関わらないこと
  • 騎士団長としてトオヤを推挙すること
  • 副団長に聖印教会の者を任命しないこと

 一つ目は、今のレアにとっては何の問題もない。二つ目についても、むしろレアの望むところではある。だが、それを踏まえた上での三つ目の条件に関しては、さすがにレアも即答は出来ない。彼女自身が聖印教会に協力する気がなくても、ここまで明確に国政の中核から排除すると宣言してしまっては、これまで彼女を推してきたグレン達が敵に回る可能性もある。

「いかがですかな、レア姫? ご承諾頂けませぬか?」
「私自身は聖印教会に加わる気はないが、だからと言って、彼等との全面的な敵対は再びこの国を混乱に陥れるだけだ。だから、副団長の件については私の一存では決められない以上、まだ今の時点で約束出来ない」
「分かりました。確かに、グレン達とも相談する必要はあるでしょう。ですが、今のあなた自身と、そしてこの国の未来のために、最も優先すべきことは何なのか、ということを改めてよくお考え下さい。その上で、未来のこの国の国主として、適切な判断を下して頂けることを期待しております」

 こうして、完全決着には至れなかったものの、レアの身体を元に戻すための道筋は見えてきた。そのためにグレンを説得するのも難しそうな話ではあるが、ひとまずこの日のケネスとの対談は、これにて幕を閉じることになったのである。

4.2. 分岐点

「私はもう大丈夫。あの戦いでも分かった通り、私には頼りになる仲間がいるから」

  ケネスとの会談の後、レアは城内の廊下を歩きながら、エイト達三兄弟に笑顔でそう告げた上で、彼等に「島」への帰還を促した。実際のところ、あの巨大投影体との戦いにおいては、トオヤ達だけでなく、彼等の助力がなければ勝てた保証はないのだが、そもそもウチシュマがいなかったら、あの投影体は出現していなかったという側面もある以上、あえて彼等を自分の傍らに残し続けておく理由はなかった。

「それに、私はこれからあの島の人達と友好関係を築いていきたい。そのためには、あの島に信頼出来る人達がいてくれた方が助かる。特に、私にとって『言いたいこと』が言える人がいてくれた方がありがたい」

 彼女としては、三兄弟の母親達やアインが相手だと、どうしても気後れしてしまうらしい。また、ドギの一件を聞かされたレアとしては、アインに対しては全面的に信頼する気にはなれなくなってしまっていたという事情もある。
 そんな彼女の主張に対して、ウチシュマは理解を示したような顔をしつつ、こう言った。

「分かった。じゃあ、エイト、あの島に戻っても頑張って。私は『あの村の寝心地の良いベット』から離れる気はないから」

 このウチシュマの唐突な残留宣言に対して、レアは呆気にとられていた。この三兄弟の中で、残りたいと言い出す可能性が一番低いのがウチシュマだろうとレアは考えていたのである。だが、彼女の隣にいたモルガナは、淡々とその発言を受け入れる。

「そこまで強い決意を持ってるなら、ウチシュマちゃんはそれでいいわ。あなたは昔から、ダラけることを極めると決めてたんだから、新天地でも全力でダラけ続けなさい。エイトは、拾ったエレちゃんの世話もしないといけないから、モルガナと一緒に島に帰らないとね」

 モルガナにそう言われたエイトは、一瞬反応に困る。実際、エレオノーラのことを言われると、エイトとしても色々な意味で心苦しい。現実問題としてエレオノーラは、少なくとも対ノルド問題を解決するまではあの島にいる必要があるだろう(なお、彼女は立場上、さすがにケネスとの対談の場に居合わせる訳にはいかなかったので、今は総司の船で待機している)。

「それについては、少し考えるよ……」

 ひとまず、エイトはそう言ってこの場をやりすごす。

「煮え切らないことを言うつもりね」
「でもね〜、エイトも分類上は男の子だからねぇ〜。ヘタレだけど〜」

 相変わらず姉妹達が好き勝手にそう言って彼を囃し立てていると、後方からドルチェが割り込んでくる。

「まぁでも、最初はトオヤも結構ヘタレだったし」

 それに対して、更に後方にいるトオヤは何も言い返さない。

「というか〜、今でも結構ヘタレでしょう〜?」
「それは否定しないけど」

 ウチシュマとドルチェのそんなやりとりに対しても、トオヤは何も言い返そうとはしなかった。一方、カーラはエイトに対して笑顔で語りかける。

「あるじの元では僕もこうやって働いているんだから、君が投影体でも、タイフォンでは何らかの仕事は出来るよ」
「まぁ、それはそうなんだろうけど……」

 エイトが危惧しているのは「そこ」ではなかった。だが、少なくとも面白半分に煽るだけのウチシュマやモルガナがいるこの場では、本音を語る気にはなれなかった。

4.3. 友としての報告

 この日の夜、ひとまずケネスの用意した高級宿に泊まることになった「客人達」は、それぞれに「個人的に話をしたい人物」を呼び出すことになる。

「一応、私、あなたと話をするという名目で来たんですよ」

 そう言って総司が呼び出したのは、ドルチェである。もっとも、総司の中では今でも彼女は「ドルチェ」ではなく「数年前に出会ったレアの影武者」だったのだが。

「大まかな話はレア姫から聞きましたが、これから先もあなたはこの国で彼女を支え続ける、ということで良いのですか?」
「えぇ。レア姫が帰ってきた以上、今までのようにずっと彼女の影武者としてすごすことはないでしょうが。基本的には『ドルチェ』として、トオヤと、そしてレア姫を支えていくことになるのでしょうね。無論、必要とあればまた『レア姫』となることもやぶさかではないですが」

 彼女がそう答えたところで、総司は少しだけ真剣な表情で語り始める。

「私は、皆さんがここで、言い方は悪いですが『周囲の人々を謀ってきたこと』に関して口外する気はありません。ただ、私はもともとハルーシアの軍人というよりは、ハルーシア公アレクシスの友として今の立場があります。実はその彼から、トオヤ殿の話は聞いたことがあるのです」
「あぁ、テイタニアの魔獣騒動の話だね。あの時は確かにアレクシス様には世話になった」
「そのことを踏まえた上で、彼に今回の一件、どこまで伝えてもいいですか?」

 総司の口調は淡々としているが、これはそれなりに重い問題である。

「そうだね、図らずもアレクシス様を謀るような形になってしまった訳だ……」
「彼は『あの二人はいつ結婚するんだろう』とワクワクしている様子でしたから、これから先のことを考えれば、そのことを伝えておいた方が、彼の中でも色々とすっきりすると思います」

 確かに、ロマンティストのアレクシスにしてみれば、いずれトオヤが「ドルチェ」と結婚することになった場合、少なからず動揺するだろう。下手したら、それはこの真相が明らかになることよりも、彼の中でのトオヤの印象を悪くする可能性もある。それよりは「実は姫の影武者との秘められた恋だった」とでも言っておいてもらった方が、まだマシに思えた。

「アレクシス様はそのことを知っても、好き好んで吹聴するような人だとは思えないしね」
「そう。あと、彼がその事実を知れば、新しい道も開けます。たとえば『レア姫とハルーシアの貴族との婚姻』とか。多分、それは今のケネス団長にとっても望ましい話ではないですか?」

 実は既にハルーシア内でもレア姫と誰かを結婚させようとする案はあったらしいが、アレクシスが「レア姫には、もう心に決めた人がいるからダメだよ」と言っていたらしい。

「確かにそうだろうね。では、アレクシス様には、よろしく本当のことをお伝えしてくれ」
「はい。こっそりとお伝えしておきます」
「ただ、縁談に関しては、レア姫がどう受け取るかは私がどうこう言うことではない」
「確かに、今の彼女であれば、たとえアレクシス様自身が相手と言われても、首を縦には振らないでしょうね」

4.4. 薄荷味の告白

 一方、その頃、そのレアはエイトに呼び出されていた。彼女が来る前に、エイトはあえて苦手な薄荷の飴を口に含み、バリバリ噛んで飲み込んでいた。
 そうしている中、エイトの前にレアが現れると、彼が何かを言い出す前に、彼女の方から語り始めた。

「本当に、あなた達にはお世話になったし、今回の件でも何度も何度も助けられた。その上で、あなたはこれからどうしたい?」
「僕は、君の邪魔になるようなことをしたいと思っている訳じゃないんだけど、結果的に僕がやりたいことをすれば、そうなってしまうかもしれないと思って、伝えようか迷ってたんだけど」

 そんな前置きを踏まえた上で、彼は意を決して本題に入る。

「今まで僕は『君の友人』として協力して来た訳だけど、それが出来る範囲はもうここまでだと分かってる。だから、今からは、友人としてではなく、その……」

 決意を込めて語り始めた筈が、徐々にその声が小さくなっていく。

「……『一人の人間』として、協力したい」

 本当は、エイトの中で用意されていたのは「別の言葉」であったが、彼はこの場で「その言葉」を出し切ることが出来なかった。

「そうね。あなたは紛れもなく『人間』。投影体ではない。もちろん、投影体だからと言って差別するつもりはないけど。要は、あなたが『この世界の人』として生きていくという覚悟を決めたということでいいのかしら?」

 冷静な口調でそう答えたレアに対して、エイトは少し寂しそうな顔を見せる。

「そう聞こえたかな……」

 言葉通りに解釈すれば、そういう意味にしか聞こえない。違う解釈をしてほしいなら、もっと分かりやすい言い方をすればいい。そのことはエイトも分かっていた。

「人としてということは、この地に残るということ? それとも、向こうに戻るということ?」

 そう問われたエイトは、唐突にグシャグシャと自分の髪をかき乱した。この時、いつもは前髪で隠れている「もう一つの、青い方の目」が露わになる。

「あー、もう、嘘つきなことが、僕のアイデンティティだったのにな!」

 半ば自暴自棄な様子で、彼は言い放った。

「僕は『一人の男』として君の傍にいたい! それじゃ、ダメかな? それとも、こんな投影体かどうかも分からない奴が従騎士なんて、格好がつかないかい?」

 ようやく自分の気持ちをはっきりと言葉にしたエイトに対し、レアもまた覚悟を決めた表情で、今までエイトに対して隠していた「自分の気持ち」をさらけ出す。

「あなたが近くにいると、『私の中のリカ』がまたもう一度、目を覚ましてしまう……」

 レアもまた、このことを彼に伝えて良いものかどうか、ギリギリまで迷っていた。だが、エイトがここまで言ってくれた以上、彼女としても自分の気持ちを隠し続ける訳にはいかない。今の「『リカとしての感情』を意図的に封印している自分」としての本音を、彼女は語り始める。

「私の中のリカは、確かにあなたに惹かれていた。リカは間違いなく私の中の一部。そして、大切な時間だった。でも、私はこれから先、『レア』として生きていかなければならない。このまま交渉が上手くいけば、私は近いうちに伯爵位を継いで、この国を背負っていくことになる。そうなった時に、この国の人達は私に『伯爵の夫としてふさわしい相手』との結婚を望むようになる。もし私が結婚することになったら、私はその相手のことを全力で愛したい。世の中には、複数の愛人を持つ女貴族もいるらしいけど、多分、私にはそれは出来ない」

 「自分の中のリカ」の存在に葛藤しつつも、レアはあくまで毅然とした態度で、エイトに対して「正論」を叩きつける。それは彼女にとって、「自分の中のリカ」を自分自身で叩き潰すための正論でもあった。

「もし仮に、私があなたを相手に選んだ場合、多分、あなたでは想像がつかないほどの混乱がこの国に起きる。そして何より、あなた自身に、あなたの想像を超えるような何かが降りかかることになると思う。私にこんなことを言う権利はないと思うけど、私は今のあなたがそれに耐えられるとは思えない」

 それに対しては、エイトは何も言えない。ここで反論出来るほど自分の存在に自信と誇りを持てる少年であれば、今まで虚言にまみれた人生を送ることはなかっただろう。

「トオヤは、どちらにしても私はしばらく結婚しない方がいいと言っていた。確かに、私はまだ全然そんなに焦るような歳でもないしね。私自身も自分の気持ちを整理する必要があるだろうし、あなたも一度、冷静になるべきだと思う。あなたが好きだったリカは、私の中のほんの一部でしかない。それは私の中で大切な一部ではあるけど、全てではない。それでも、このヴァレフールという国の存亡そのものをひっくり返すような可能性を背負うことになってでも、その気持ちを持ち続けていられるかどうか。もう一度、あなた自身も冷静に考えてみるべきだと思う……。ごめんね、こんな卑怯な言い方で……」

 ここまで黙って聞いていたエイトが、ようやくここで口を開く。

「そんな言い方をされるってことは、まぁ、僕ではまだ不安なんだろ?」
「そうね……。あなたから見れば、私にこんなことを言われるのは不本意だろうし、あまり気を持たせるような言い方をすべきではない、ってことも分かってる。分かってはいるのだけど、でも、今ここでそれを完全に断ち切れるほど、私の中のリカは小さな存在ではない。だから、出来ればこんな中途半端な私のことは忘れて、あなたはあなたの人生を歩んで欲しいと、レアとしての私は思ってる……。トオヤは、はっきり私のことを断ち切ってくれたのに、私はまだ自分の気持ちを整理出来てない……。自分でも、情けないと思うわ……」

 レア自身もやや錯乱した心境のまま、それ以上の言葉が出てこなくなったところで、エイトは「結論」を出す。

「そっか……。分かった。僕は島に帰る。まぁ、せいぜい、僕がサンクトゥスに殺されないように祈っておいてよ。もう少し、頼り甲斐のある男になるからさ」

 今の無力な自分を変えるには、それしかない。肉体的にも精神的にも強くなる。その目標に向けて邁進することだけが、今の自分に残された唯一の道であるようにエイトには思えた。

「どんな形であれ、私はあなたが命を落とすのは嫌だけど、あなたが強くなるために努力するのなら、私はあなたを応援するわ。でも、それはそれとして、これだけは言っておかなきゃいけないと思う」

 そう前置きした上で、彼女はエイトに問いかける。

「今の私のような、中途半端な未練だか何だかよく分からないような気持ちではなくて、真剣にあなたのことを想っている人がいることに、あなたは気付いてる?」
「さすがに、その言い方はあんまりだよ……。僕も君と同じでさ、中途半端な気持ちでこういうことを考えたくないんだ……」

 しばしの沈黙の後、レアは精一杯の笑顔を浮かべながら、改めてエイトに語りかけた。

「結局さ、私達、まだ子供なのよね。 私は立場のこともあって、『そういうこと』を考えなきゃいけなくなってるけど、本当はやっぱり、まだ『そういうこと』を考えるべき時じゃない。だから、私は今の場所で、あなたはあなたの場所で、まずは大人になる。その後のことは、大人になってから考える。それでいいかな?」
「……仕方ないかな」

 エイトは短くそう答えた上で、その場から立ち去ろうとするが、去り際に足を止めて、最後に彼女にこう言った。

「一つだけ訂正しておくよ。『リカ』は僕の大事な友人だけど、僕が好きな人は『レア・インサルンド』だ。それは嘘じゃない」
「…………ありがとう」

 その言葉を最後に、二人は互いに背を向けて、それぞれの道を歩み始める。いつかまた、互いに大人になった時に、今よりも胸を張って生きていける未来が拓けていると信じて。

4.5. 失言

 宿に戻って来たエイトに対して、姉と妹はいつもの調子で囃し立てようとしていたが、彼は何を言われても無言で、半ば放心状態のような状態であった。そんな彼の様子を遠目に見たエレオノーラは、彼の表情からおおよその事情を察しつつ、「今の彼」に「今の自分」が何を言っても響かないだろうと判断した上で、ひとまず今は自分のやるべきことをやろうという決意を胸に、帰る前にチシャに挨拶に行くことにした。

「色々と本当にお世話になりました。あと、ウチの姉が色々とご迷惑をおかけしたようで……」

 彼女はタイフォンにいた時に、ウォルターや屋敷の人々から、トオヤやレア(の影武者)達の話を聞き出していた。その過程で、数ヶ月前の「長城線の戦い」での彼等の武勇伝も聞かされていたのである。

「まぁ、それに関しては……」

 チシャとしても反応に困る。異なる国に仕える以上、戦場で遭遇すれば殺しあうのは当然のことであるし、その前段階において様々な奸計を用いることについても、格段非難されるべきことではない。それがこの時代に生まれた者としての宿命である。

「姉はまだアントリアにいるみたいですけど、それも彼女が自ら選んだ道ですから、戦場でまた戦うことになった時は、手加減して頂かなくても結構です」
「あ、はい……」

 もとより、チシャとしては手加減するつもりはない。というより、手加減した状態で自分が無事でいられると思えるほどの自信家でもなかった。

「ところで、あの、失礼な言い方ですけど、チシャ様は今、お独り身なのですよね?」
「え? えぇ。でも、なぜ?」
「いや、その、貴族の方々は、そういった立場におられると、『そういう話』もあるのかなと」
「特に今はそういうことはないかな。今は政治に集中しないといけないし……」

 どうやら今のエレオノーラは完全に「恋愛脳」に染まってるらしい。その上で、出来ればチシャに相談に乗ってほしいと思っているようだが、彼女は明らかに相談する相手を間違えていた。

「本当にすごいことだと思います。その歳で政務を任されるということ自体が。私はノルドの人間ではありますが、当面は楽園派の方々と一緒に……」
「楽園派?」

 その言葉をチシャは聞き逃さなかった。それまで穏やかな表情で話を聞き流していたチシャの表情が、一瞬にしてこわばる。

(え? あ、あれ? 言ってはいけないんでしたっけ? えーっと……)

 エレオノーラは、レアがエイト達の正体についてもトオヤやチシャに説明しているものだと勘違いしていた。彼女は完全に狼狽して、ガクガクとその身を震わせる。

「い、いや、そのお気になさらず、というか、その、気にしないで下さい!」

 唐突に滝のような汗を流しながら、またしても自分が「余計なこと」をしでかしてしまったことで、深い自己嫌悪に陥る。

(ど、どうすれば……? このままではエイトさん達の身の上が危険に……? そんなつもりはなかったのに! 今度こそ、皆さんのお役に立ちたかったのに! あぁ! もう! 消えてしまいたい! こんな私なんて……)

 完全に惑乱状態に入ってしまったエレオノーラであったが、実際のところ、これは遅かれ早かれいずれは発覚していたことである。実際、チシャの中でも「他人の姿を変えることが可能な生命魔法師」の話を聞いた時点から、薄々察しはついていた。
 そしてチシャとしても、レアを助けてくれたのがパンドラ楽園派の人々なのであれば、そのことについて誰かを糾弾するつもりはない。エーラムの魔法師としては、パンドラの存在そのものを認める訳にはいかないが、常にそのような原則論だけで世の中が成り立っている訳でもない、ということを彼女は理解していた。
 ただ、一つだけどうしても聞いておきたいことがある。

「『ネネ』という人に心当たりはある?」

 そう問われたエレオノーラは、必死で記憶を紐解こうとする。

「え? えぇ。確かにそういう名前の人にはお会いしましたが、でもまぁ、その、多分、よくある名前、なのかな……?」
「あ、いいよ、それなら……。そうか、『そこ』にいるんだ……」

 いつもの「優しいお姉さん」としてのチシャとはやや異なる雰囲気で、淡々と彼女はそう語る。そんな彼女の様子が逆に不気味に思えたエレオノーラは、必死でこの場を取り繕うとする。

「でも、あの、エイトさん達は本当に、レア姫様を守ってこられた方なのです。私も正直、最初に会った時はちょっと怖かったんですけど、でも、本当に、そう、えーっと、だから、お願いします! 本当に、このことは胸の奥にしまっておいて下さい!」

 そう熱弁する彼女の主張を聞き流しつつ、チシャはチシャで昨日の戦いを思い出す。

(一緒に戦ってみた限り、少なくともあの人達は、今すぐどうこうしなくちゃいけない相手ではない、かな?)

 実際のところ、彼等は確かに自分達に対して友好的であったし、味方として共に戦う分には頼もしい存在でもある。一方で、いずれ人類社会全体を脅かす危険な存在になると思えるほどまでのポテンシャルは感じられなかった。

「少なくともレア様は、あの人達と争うことは望んでいません、絶対に!」

 エレオノーラのその主張には、チシャも素直に同意する。レアが彼等の正体を知っているのかどうかは分からないが、仮に知っていたとしても、彼女は自分を助けてくれた彼等への恩義は決して忘れないだろう。つまり、チシャ達が彼等を敵視することは、レアとの対立に繋がりかねない。そしてそれは、間違いなくトオヤの意に反する状況となる。彼を支える立場にあるチシャとしては、なかなかに悩ましい状況であった。

「あの、本当に、すいませんでした!」

 結局、エレオノーラは何に対して謝っているのか分からない様子で、その場から逃げるように走り去って行く。チシャは深いため息をつきながら、複雑な思いを込めた視線で、そんな彼女を見送るのであった。

4.6. 人と剣の狭間で

「あの戦いを見る限り、お主、思っていたよりはやるようじゃの」

 呼び出したカーラに対してそう言ったのは、聖剣サンクトゥスである。彼女は前日の「よく分からない巨大投影体」との戦いにおいてエイトの武器として参戦しつつ、「オルガノンとしてのカーラ」の活躍を目の当たりにしていた。

「出来れば、今のお主と腕試しをしてみたい気持ちもあったのじゃが……、お主に『持ち手』がおらぬのでは、対等は言えぬからな」

 それは「持ち手がいる自分の方が有利」という意味ではなく、「まだ未熟な今の持ち手(エイト)に振るわれる自分の方が不利」という認識である。無論、 サンクトゥスも「自分の擬人化体」を用いて戦うことは出来るのだが、今の彼女は、そのような形で「自分一人で戦う時の強さ」を競い合うよりも、「武器として誰かに使われた状態での強さ」にこだわりたい心境らしい。

「我はやはり、人に使われる方がいい。だから、いずれお主も、お主の今のあるじでもいいし、他の誰かに振るわれる形でもいいが、ともかくお主を振るえる者が現れたら、またその時に手合わせを願おう。その時まで、ウチの小童が生きているかは分からんがな」
「ぜひとも、その機会が来ないことを願いたいんですけど……」

 カーラはゴーバンとの訓練で怪我を負わせて以来、迂闊な手合わせには応じたくない気持ちが強まっていた。自分自身だけで戦うならまだしも、「持ち手」が互いにいる状態では、余計に手加減も難しくなる。そもそもカーラは、これまでろくに誰かにその身(本体)を委ねたことがない以上、「誰かの手の中で戦う」という感覚自体、よく分かっていない。
 一方、カーラもカーラで、「大先輩」であるサンクトゥスに聞きたいことがあった。

「ところで、『あの子達』を見ていて思ったんですけど……、彼等みたいに日頃から投影体同士で一緒にいることが多いと、『死んでも、どうせすぐに帰ってくる』みたいな思考になってしまうものなんですか?」

 タイフォンの領主の館の中庭でエイトがウチシュマを追いかけ回していた時に彼が言っていた言葉が、どうにもカーラの中では引っかかっていたらしい。確かに、投影体の中には「何度殺しても帰って来る個体」がいることはカーラも知っている(チシャの母方の祖父母などは、まさにその実例である)。しかし、だからと言って「別に殺してもいい」という死生観はカーラには抱けないし、そこに強烈な違和感を彼女は感じていた。

「それは、人によるんじゃないかのう?」

 サンクトゥスとしては、そう返すことしか出来ない。少なくとも彼女自身は、まだこの世界に投影されてから誰かに殺された記憶はないし、これから先も自分を殺せる者など現れる筈もないと考えている以上、「死んだらどうなるか」ということ自体を考えたことがなかった。lそして自分が殺してきた投影体達が再び出現しようがしまいが、別にどうでもいいことのように思えていたのである。

「ボクが人に囲まれていることで感覚が人に染まってしまった訳ではなくて、彼等の方が異常なんですよね?」
「さて、どうなんじゃろうのう?」

 一つの可能性として、カーラが「厳密な意味での投影体ではないから」というのも一つの理由のようにも思えるが、実はその点についてはあの三兄弟も同じなので、少なくともそれが主因であるとは言い難い。結局のところ、やはりそれは「人(投影体)それぞれ」としか言いようがないのかもしれない。

4.7. 帰還と旅立ち

 翌日、総司率いるハルーシアの遊撃船は、モルガナ、エイト(とサンクトゥス)、エレオノーラを楽園島へと連れ帰った後、本国ハルーシアへと船出して行った。子供達が去り、急に静かになった甲板で、総司が名残惜しそうに楽園島を眺めていると、彼の相方の「刀」が語りかけてくる。

「今回は、少し首を突っ込みすぎたのでは?」
「確かに、色々と踏み込んではいけないところにまで踏み込んでしまった気はしますね。でも、仕方ないですよ。私の『子供好き』は、多分一生治りませんから」

 それが、アレクシスと彼を繋げた縁でもある。今回の一件をアレクシスに事後報告したところで彼は決して責めることはないだろうし、おそらくアレクシスも同じ立場であれば同じことをしただろう。互いにそう確信し合える間柄だからこそ、総司は投影体であるにもかかわらず、ハルーシアにおける特権的な地位を認められているのである。

「そうでしょうね……。私も、久しぶりに自分以外のオルガノンの人達とお会い出来たのは、少し楽しかったです」

 そんな会話を交わしつつ、二人(一人と一振り)はかつての自分達の「もう一人(一振り)の相方」であった日本刀のことを思い出す。もし、姫達を連れてラピスに行くことになっていたら、久しぶりに「彼女」に会うことも出来たのかもしれないと思うと、今回の結果が少しだけ残念に思えた(もっとも、実際には彼女はこの時点で既にラピスにはいなかったのであるが)。

 ******

 その頃、モルガナはアインに「タイフォンとアキレスでの一部始終」を報告していた。

「……ということで、ウチシュマちゃんは置いてきたから」
「よりによってあいつか……。それにしても、よく受け入れてくれたな。まぁ、一人は口利き役が向こうにいてくれた方が、今後の交渉も色々やりやすくはなるが」

 現在、タイフォンの領主の館の敷地内の一角には彼女のための「祠」が築かれ、そこで今まで通りに朝も昼も夜も惰眠を貪り続ける日々を送っている。彼女がこの地に残ると聞いた時、トオヤ達も最初は戸惑ったが、あの時の戦いで彼女の半神としての実力を見せつけられたトオヤとしては「自分達が不在の間のレア姫の護衛役」として、彼女がタイフォンにいてくれることの意義は大きいだろうと判断し、そのまま滞在許可を出すことにしたのである。
 なお、アカラナータは娘のその決断に関しては「好きにすればいい」とだけ言いつつ、彼女と共に自身の宿敵クンダリーニを倒したモルガナとエイトに対しては、彼等の母親達と共に手厚くねぎらった。
 その後、モルガナは今まで通りに海岸で武術の稽古に励む日々に戻る一方で、エイトもまたサンクトゥスとの稽古にこれまで以上に精を出すようになる。

(今のままじゃダメなんだ。僕は強くなる。今よりも、誰よりも……)

 サンクトゥスはそんなエイトの前髪の奥に光る「父親譲りの青い目」の輝きを感じ取りながら、彼の中で徐々に「覇王の血」が覚醒しつつあることを実感し、満足そうに微笑むのであった。

 ******

 それから数日後、ノルドから正式に「フーコック島との国交樹立」を求める使者が来訪した。エレオノーラは正式にエーリクから「フーコック島駐在員」に任命され、ノルドの商船とフーコック島の人々との間の仲介役を担当することになる。こうして、彼女は当初夢見ていた「知的で文化的な南国での生活」とはまた異なる人生を歩むことになったのだが、それでも彼女はようやく「自分の居場所」を見つけられたことに満足していた。

(私には、お姉様達のような「戦場で活かせる才能」がない。そんな私にも出来ることはきっと何かある筈。それが「このお仕事」なのかどうかは分からないけど、今は精一杯、やれるだけのことはやってみよう。精一杯、胸を張って生きていける自分になるために……)

 そんな彼女の「新たな人生」への決意を見届けつつ、エイトはやがてサンクトゥスと共に島を去ることになる。彼の行き先については、首領のアインも、実母のユリも、異母姉のモルガナも聞かされていなかったが、皆、無理に探し出そうとはしなかった。エレオノーラもその話を聞いた当初は激しく動揺したが、すぐに彼の心境を察して、あえて何も言おうとはしなかった。
 彼には彼の人生がある。そして彼にはもう、自分で自分の人生を切り開けるだけの強さがある。彼のことを深く知る者達は皆、そう考えていた。

4.8. 友として共に

「ドルチェ、なんというか、その、街にデートに行かない?」

 アキレスから帰ったトオヤは、開口一番にそう言った。

「どうした? 君の方からそう言うとは、珍しいじゃないか」
「ケーキを買いに行きたいんだ」
「あれ? 甘いものは絶っていたんじゃなかったっけ? それに、結構派手にお金も使ったんだろ?」
「そうなんだが、ほら、姫が帰ってきてから、まだお祝いしてないじゃない」
「自分がケーキを食べたいだけじゃなくて?」
「いや、その……、それもあるんだけど、でも……」
「じゃあ、行こうか。姫の好みなら、誰よりもよく知っている」

 そんなやりとりを経て二人が出て行くのを眺めながら、カーラは少し満足気な様子を見せる。

「ようやくデートっぽいことをするようになったね」

 よくよく考えてみれば「ドルチェ」の姿で二人きりで私用で出かけるのは、これが初めてかもしれない。

「でも、これから先は節約もしなくちゃいけないんだよなぁ……、何か安上がりで甘味を作り出せる方法……、うーん……、チシャお嬢、パンケーキでも一緒に焼きませんか?」
「そうですね。色々と準備しておきましょう」

 そんな会話を交わしながらチシャとカーラが調理場へと向かう一方で、ドルチェはトオヤと共に村を散策しながら、今の実感を素直に口にする。

「ようやく姫様も帰ってきたし、これで『レア・インサルンドとしての僕』はお役御免かな」
「僕としてはそうなる方がいいと思ってるんだけど、もしかしたら、事情によっては、またやってもらうかもしれない」
「それはそうだな。でも、今くらいは『ドルチェとしての自分』でいたいんだ。それはいいだろ? 君が目の前にいるんだから」
「あぁ。その方が俺も嬉しい」

 満面の笑みでトオヤはそう答えつつ、少しだけ真剣な表情で改めて語りかける。

「今回の件で、色々と考えたんだけどさ」
「何をだい?」
「これから姫様とどう接して行くか、なんだけど……、とりあえず、もう悩むのはやめるよ。姫様は俺の大切な友達だし、主君として忠誠を捧げていくのは、考えるまでもなく、俺がそうしたいから。だからもう、あまりクヨクヨせずに、俺が出来ると思った助力をこれから先もやっていきたい。それが彼女にとって負担になるようだったら、また距離の取り方を考えればいい」
「だいたい僕と同じようなところに落ち着いたじゃないか。この後なにが起こるかは分からないけど、これから先も僕は、姫様と、君と、共にありたい」

 ドルチェは呟くようにそう答えつつ、やがて「領主御用達の店」の看板を発見する。

「さて、ケーキ屋についたよ。ショーケースの前で、子供のように目を輝かせてケーキを選ぶ君を見たいんだ。早く行こう」

 そう言われてドルチェに手を引かれつつ、トオヤは内心で「大切なこと」を思い出す。

(ずっと言いそびれてたけど、姫にちゃんと「お帰りなさい」と言わないとな……)

4.9. 覇道への決意

 この日の夜、レアの私室にトオヤ、チシャ、ドルチェ、カーラの四人が集まって、ささやかな「帰還祝い」の宴が開かれた。ようやく「本来の住人」を迎え入れることになった「レアの私室」にて設置された小さなテーブルの上に、カーラとチシャが焼いた自家製パンケーキと、いつもの紅茶が並ぶ。ただし、カーラだけは(色々な意味で「甘い空気」に直面させられすぎた反動からか)この日はブラックコーヒーを嗜んでいた。
 出来ればもっと大々的な祝宴にしたかったが、「彼女が今まで不在だったこと」を知られる訳にはいかない以上、他の人々を招く訳にはいかない(なお、もう一人の当事者であるウチシュマは空気を読んだのか、この日は新設の「祠」で眠り続けていた)。
 レアは「懐かしい友」との時間を楽しみつつ、今の自分を取り巻く環境について、改めて自分の中で整理する。「父の命を救うための薬」を奪った相手と密約を交わし、その薬を自分自身のために手に入れる決断を下した。幼い頃から自分を誰よりも可愛がっていた祖父の期待を裏切り、この世界全体を敵に回しかねない秘密結社とも手を組んだ。その選択が正しかったのかどうかは分からない。運命の悪戯に弄ばれたのも事実である。だが、それでも、最終的にその道を選んだのは、彼女自身であった。

(もう私は迷わない。私は彼等と共に、私の覇道を進む。この国の人々と、あの島の人々が争わずに暮らしていける未来を切り開く。それこそが私の覇道。それを阻もうとするならば、お爺様とも、お父様とも、私は闘う)

 彼女にはまだ、トオヤ達に話していないことがある。だが、こうして共に笑顔で自家製パンケーキを味わいながら、楽しく語り合っている彼等を見ていると、彼等はこれから先も何があっても自分の味方でいてくれそうな、そんな都合のいい妄想に浸ることが出来ていた。そして、子供のような笑顔を浮かべながら、心の底から自分の帰還を喜んでいてくれるトオヤの姿を目の当たりにして、彼女の口元にも自然と笑みが溢れた。

(一番欲しかったものは手に入らなかったけど、一番信頼出来る人がそれを手にしてくれたなら、もう私に悔いはない。パペット、彼のことをお願いね……)

 こうして、彼女の初恋はひっそりと幕を降ろした。「夢見る少女」の時は過ぎ去り、「夢を叶える君主」への道を彼女は歩み始める。深い信頼で繋がり合った、誰よりも頼りになる仲間達と共に。

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最終更新:2018年03月13日 00:53