第4話(BS39)「月光の煌めき」 1 / 2 / 3 / 4

1.0. 神聖学術院

 アントリア中部に位置するバランシェの街には「神聖学術院」という名の教育機関が存在する。その実態は、聖印教会内で最も実利主義派と言われる「月光修道会」の出資によって設立された総合学術研究所であり、「国家」「商業」「歴史」「啓蒙」「技術」「物質」「生物」「人体」「教養」という九つの学部から成り立っている(下図参照)。



 月光修道会とは、唯一神を崇め、皇帝聖印の実現による混沌の撲滅を目指す聖印教会の一員でありながらも、「皇帝聖印実現のために投影体を利用すること」を是とする特殊な宗派である。ブレトランドにおいては、アントリア騎士団の副団長アドルフ・エアリーズ(下図)がその一員として有名であり、彼もまた、この「神聖学術院」の有力な出資者の一人である。


 彼等は、邪紋使いや投影体に関しては、その大半が「自分の意思とは無関係に、混沌によって発生させられた産物」であり、「いずれこの世界から消えゆく宿命の存在」と位置付けた上で、君主に服従することを条件とした上でその存在を認めており、この点に関しては、同じ聖印教会の中でも、神聖トランガーヌを中心とする日輪宣教団とは明らかに認識が異なる。
 だが、エーラムの魔法師協会に関しては「彼等は自分達の権益を守るために、表面上では君主を支援しつつも、裏では(彼等の力の根元である混沌の完全消失をもたらす)皇帝聖印の成立を阻もうと暗躍する黒幕である」と断定し、彼等の本質はパンドラと変わらないと位置付けた上で、混沌を積極的に用いようとする所業に対しては批判的な姿勢を見せる(ただし、上述のアドルフのように、同僚の騎士達が魔法師と契約することを黙認する者もいる)。
 それ故に、彼等はエーラムの魔法大学による知識独占に反発し、独自の学術機関を創設した。それが、このバランシェの神聖学術院である。ここでは「混沌の力が完全消失した後の世界」を想定した上で、投影体からもたらされる知識や技術を、この世界の本来の物理法則に適合させて用いようとする研究や、そのような技術を正しく活用するための社会の在り方などが探求されている。それ故にエーラムからは敵視されているが、今のところは相互不干渉の方針であり、裏では両者の間で何らかの密約が交わされているのではないか、と憶測する者もいる。
 学生達の大半は貴族や豪商などの名家の子弟であるが、原則として「聖印」や「邪紋」を持つ者の入学は認められない(故に、一時的に聖印を親族などに預けた上で入学する者達もいる)。これは、まだ精神的に未熟な学生達の間での「力」の暴走による事故を防ぐための規則である。ただし、例外的に学長から「人格的に信用に足る学生」として認められた四人の学生達だけは、学長から従属聖印を受け取り、学内で混沌災害などの深刻な事態が発生した場合に限り、その力の使用が認められる。彼等は学生自治機関の代表でもあり、「聖徒会」と呼ばれている。彼等の任命に関する明確な規則はないが、一般的には「前任者の推薦」に基づいた人選が多い。
 形式的にはアントリア傘下の機関だが、経済的に貧しいアントリアには子弟に学問を学ばせるほど余裕のある家が少ないこともあって、ヴァレフールや大陸諸国の出身者も多く、現在の聖徒会は四人中三人が幻想詩連合諸国の出身である。だが、約3年前にアントリアがヴァレフールと戦争状態となって以降、彼等が「アントリアで得た知識」を祖国(敵国)に持ち帰ることの正当性に疑念を呈する者も多く、学内では微妙な緊張関係も生じつつある。
 これは、そんな複雑な国際関係の中で、それぞれの「お家の事情」に振り回される名門貴族の子弟達による、恋と青春の物語である。

1.1. 毒匠の令嬢

 聖印歴1688年2月14日、神聖学術院の購買部には「バレンタインデー・フェア」という看板が掲げられ、早朝から多くの学生達が押し寄せていた。
 これは、この購買部で働いている地球人の少女 レディ・オータガウァ の発案による、チョコレートを初めとする甘味菓子の販促企画である。この日は彼女の故郷では「バレンタインデー」と呼ばれ、「自分にとって大切な人に、愛や感謝の気持ちを伝える日」とされている(もっとも、そもそも異世界とこの世界では暦の基準が異なる以上「この日」と言って良いのかは微妙であるし、この世界のもう一つの暦である大陸歴の2月14日には、それはそれでまだ同様のフェアを開催しているのであるが)。
 ただし、その形式は地球上においても地域ごとに様々であり、こちらの世界では様々な地球人がそれぞれの流儀で独自の「バレンタインデー」を各地に伝えている。このバランシェの地では、彼女の解釈に基いて、「女性が男性に対してチョコレートを贈るのが一般的だが、逆でもいいし、同性でもいいし、チョコレートでなくてもいい」という「緩い認識」が広がっており、結果的にそれぞれが自由な解釈で菓子を購入する慣習が定着していた。
 チョコレートは基本的には異界の食べ物であり、この世界でもその味を再現しようとする人々はいるが、商品として出回っている数は少ない。無論、聖印教会の中には、そのような「異界の食べ物」を口にすること自体が危険だと考える人々もいるが、この学術院では彼女の働きかけにより、「有益な投影食物」として公的に認められている。そのため、この日は学術院内で多くの学生達の間で、購買部で購入したプレゼントを「意中の人」に贈ろうとする想いと、「意中の人」からそれを受け取りたいという想いが交差する、そわそわした空気が広がっていた。
 そんな中、生物学部(エメラルドの学部)の高等部の講義室にて、後輩の女子達に囲まれている一人の女学生がいた(下図)。彼女の名は、ブランジェ・エアリーズ。アントリア騎士団の副団長アドルフ・エアリーズの長女である。主な専攻は生物に影響を与える薬物関連の研究で、特に「毒物」の扱いに秀でていることで知られており、この学院内でも特に優秀(もしくは実家が裕福)な学生が集まる「フローレス女子学生寮」の寮長を務めている。


 男爵家の令嬢にふさわしい気品溢れる清純そうな佇まいから、異性よりもむしろ同性の学生達から「憧れの目」で見られることが多く、月光修道会の関係者達からも「次世代の修道会を導く聖女」としての呼び声も高いが、その一方で、生物の命を奪う毒物に強い関心を持ち、その研究に勤しむという側面を持ち合わせる、一種独特の存在感の持ち主であった。

「先輩、これ、良かったら受け取って下さい」
「ありがとう、美味しくいただくわ」

 ブランジェは優雅な物腰で後輩達からのプレゼントを受け取りつつ、満悦そうな表情を浮かべる。彼女は18歳だが、過去に重病で長期休学していたため、現時点で同じ講義を受けている女学生達の大半は彼女よりも年下である。人によっては、そのような環境に劣等感を抱く者もいるが、彼女はむしろ、この「かわいい後輩女子達に囲まれて学べる環境」を満喫しており、後輩達もまた、才色兼備な男爵令嬢であるブランジェと「お近付き」になれることを誇りに思っていた。
 一方、講義室の反対側では、彼女と同じくらい多くのチョコを集めている、高等部の男子生徒としてはやや華奢な体型の美少年の姿があった(下図)。彼の名はライザー。姓を持たない一般庶民の出自だが、特別に優秀な生徒達に支給される奨学金制度によって一年前に入学を果たし、次期聖徒会候補の一人と目されている俊英であり、「“雑草の”ライザー」と自称している。歳はブランジェよりも二つ下の16歳。学業には常に真剣に取り組み、放課後は園芸部の一員として、花壇の手入れなどに勤しんでいる。当然、女子生徒ばかりの園芸部においては彼のような男子生徒は珍しく、どこか母性本能を擽るその容貌も相まって、部内の年上の女性達からはいつも可愛がられていた。


 この日も、そんなライザーの周囲には先輩達が集まり、次々と彼にチョコレートを渡していたが、渡された彼は明らかに困惑している様子であった。そんな彼に対して、先輩達もまた微妙な表情を浮かべる。

「ライザー君、やっぱり、本当はサンドラさんから貰いたいの?」
「私達のチョコなんて、貰っても迷惑?」

 サンドラとは、聖徒会で書記を務めている生命学部の女子生徒のことである。ライザーは生真面目で、あまり恋愛方面には興味が無さそうな素振りを見せていたが、なぜかサンドラに対してだけは時折「特別な視線」を向けていることがあり、「実はライザーは密かにサンドラに片想いしているのではないか」という噂が、園芸部員達の間で広がっていた。

「あ、い、いえ、そんなことはないです、ありがとうございます」

 そう言いつつ、彼は取り繕った笑顔で受け取るが、あまり目が喜んでいるようには見えない。

「これはあくまで、日頃お世話になってる君へのお礼だから。ちゃんと『本命』は『本命』で貰えるといいわね」

 からかうような口調で先輩達はそう言い残しつつ、彼の元から去って行く。それと入れ替わりに、ブランジェが彼に近付き、声をかけた。

「ライザーちゃん、モテモテね」

 彼女は基本的に、相手が男性であろうと女性であろうと「ちゃん」付けで呼ぶことが多い。そんな彼女に対して、ライザーは視線を逸らしつつ、どう反応して良いか分からない顔を見せる。

「いえ、私は別に、特にこういったことには、その……」
「そうよね、食べ物をこんなに貰っても、一人じゃ食べきれないものね。困っちゃうわよね。ふふふ」
「えぇ……」

 ライザーは伏し目がちにそう言ったところで、ふと思い出したかのように、ブランジェに問いかける。

「そういえば、ブランジェ先輩はサンドラ先輩とは親しくされているようですけれども、あの方は、この学術院の中での評判はどうなのでしょうか?」

 彼はまだこの学術院に最近入学してきた身なので、学内でのサンドラのことについて、実はよく知らないらしい。
 一方、唐突にそう問われたブランジェは、やや困惑する。サンドラとブランジェは学部も学年も違うが、同じフローレス女子寮で生活していることもあり、確かに仲は良い。いや、より正確に言えば、ブランジェにとってサンドラは「かわいい後輩達の中でも、特にお気に入りの後輩」であり、ブランジェの中では(この感情をどう名付ければ良いか彼女自身が分からぬほどの)「特別な存在」であった。
 だからこそ、ブランジェの中では「サンドラに片想いしているという噂のあるライザー」に対しては、内心では密かに「穏やかならぬ感情」を抱いていたのだが、ここではそのことを表に出さずに、軽く小首を傾げながら答える。

「サンドラちゃん? 生真面目でとってもいい子よ。彼女がどうかしたの?」
「い、いえ、なんでもないです」

 ライザーがそう返したところで、講義室内の女子生徒達の間でザワザワという声が広がる。その声の先には、一人の男子生徒の姿があった(下図)。


「ライザー君、ブランジェ君、ちょっと、いいかな?」

 彼の名は、エルリック・エージュ。この神聖学術院のエリート集団「聖徒会」を束ねる「聖徒会長」である。彼はヴァレフール北西部のソーナー村の領主ダンク・エージュ(ブレトランド八犬伝4参照)の異母弟であり、粗暴で知られる兄とは対象的な穏健かつ理知的な性格として知られている。その軍師としての才覚は学長も認めており、彼をヴァレフールに帰国させないために会長に任命したとも言われているほど、周囲から高い期待をかけられている秀才であった。
 実際のところ、エルリックは兄とは不仲と言われているため、このままヴァレフールへと帰国せずにアントリアの騎士へと鞍替えすることを周囲からは期待されているが、今のところ、その本音は不明であり、自分の将来の身の振り方については誰にも話していないらしい。歳はブランジェと同じ18歳。国家学部(黒真珠の学部)に所属する身なので、本来ならばこの時間帯に生物学部に現れることはない筈の立場である。よほど特別な事情でもない限りは。

「何かしら?」

 ブランジェは、自分に関わる重大な案件であろうことを察しつつ、真剣な声色で問い返すが、エルリックはあくまでも穏やかな笑顔を浮かべたまま、柔らかな口調で説明を始める。

「実は今度、新たに聖徒会に『庶務』という新しい役職を作ろうと考えていてね」
「庶務?」
「有り体に言ってしまえば、私達の仕事の補佐役、かな。いずれ私達の仕事を引き継いでもらう上での知識・経験・人脈を身につけてもらうための役職だと思ってくれればいい」

 聖徒会には明確な「任期」がないが、現役の役員達も、いつまでこの学術院に在籍し続けるかは分からない。だからこそ、いずれ「引き継ぎ」が必要なのだが、その際の混乱を避けるための措置として「庶務」という研修職を付けるべき、と彼が(このバランシェの街の領主でもある)学長のミリシードに提案し、現在協議中らしい。

「君達に、その任について欲しいと考えているんだが、どうだろう? まだ明確な定員は決めていないんだが、とりあえず、複数人の枠を用意しようと考えている」

 これに対して、ブランジェが返答の言葉を考えている間に、先にライザーが口を開く。

「私が聖徒会の一員にふさわしいとは到底思えませんが、お仕事をお手伝いさせて頂けるのであれば、どのような仕事であれ、拝領させて頂く所存です」

 淡々とそう答えるライザーの隣で、ブランジェは微妙な表情を浮かべながら持論を語る。

「私も、お手伝いするのは構いませんわ。とても良い考えだと思います。ただ、『庶務』という言い方は、もう少しなんとかなりません? せめて、そうですわねぇ……、『聖徒会候補生』とか、そういった名前の方がよろしいのではなくて?」

 それが純粋に彼女の中でのネーミングセンス(美学)の問題なのか、あるいは、誇り高き男爵令嬢として、雑用係のような役職名に就くことへ抵抗があったからなのかは定かではなかったが、彼女のその言い分に対して、エルリックは落ち着いた笑顔のまま軽く頷きながら耳を傾ける。

「なるほど。その辺りについては、また再考することにしよう」

 なお、当初は「副書記」や「副会計」といった役職名案もあったが、「副会長」が既に存在しているので、混乱を招くという理由で取り下げられた。また、「会計監査」などという案もあったが、それはそれでまだ意味合いが変わってくるということで、却下されたようである。
 そして、エルリックがそれに続いて何かを言おうとした瞬間、一瞬、彼は「何かに気付いて、驚いたような顔」を見せる。

「どうしましたの?」
「あ、すまない、また詳しい話は授業が終わった後にでも」

 そう言って、彼は足早にその場から去って行く。この時、ブランジェも、ライザーも、その周囲にいた学生達も、誰も特にこれといった異変を感じ取ってはいなかった。ただ、講義室内にいる者達の中で、なぜかエルリックだけが「何か」に気付いたような顔を浮かべていたのである。彼女達がその意味を知るのは、もう少しだけ先の話であった。

1.2. 慧眼の貴公子

 同じ頃、技術学部(オパールの学部)では、エルリックと同じくヴァレフールから留学していた一人の青年が、学部内のとある実験室にて、この日の演習のための下準備を淡々と進めていた。彼の名はレヴィアン・アトワイト(下図)。ヴァレフール騎士団の副団長グレン・アトワイトの孫である。


 彼の実家はヴァレフール内における聖印教会派の筆頭であり、彼はいずれ祖父の地位を引き継ぐことを期待されてこの神聖学術院へと留学していたが、実際のところ、彼自身の唯一神への信仰心はそれほど高くはない。ただ、いずれ皇帝聖印が誰かの手で実現される未来が訪れることを見越した上で、その後の世界において必要となる知識・技術を今のうちに学んでおくべきという意識から、積極的に勉学に励んでおり、高等部の中ではまだ年若の16歳であるにもかかわらず、既に学術院内でもトップクラスの博識家としてその名は知られていた。
 彼は本来の専門である技術学部における工具開発に加えて、国家学部の講義にも積極的に参加している。それは現在の「聖印に基づく君主秩序」が崩壊した後の時代の政治体制の在り方を考える上で必要な知識がそこにあると判断したからであり、そちらでも聖徒会長のエルリックに次ぐ好成績を収めている。
 この他にも、未来のこの世界を生き抜くためには幅広い見聞が必要という観点から、様々な情報を求めて積極的に図書館に顔を出しているうちに図書委員の補佐役も買って出ていたこともあり、自然と彼の周囲には幅広い人脈が形成され、気付いた時には(前述のフローレス女子寮の男子版に相当する)最優秀生徒と名門貴族の令息達が集まる「クローム男子寮」の寮長を任されるに至るほどの信望を集めていた。
 そんな彼は必然的に学内の様々な女生徒達とも接点が多く、この日もその中の幾人かの少女達から「義理(感謝)なのか本命(恋心)なのか判断が微妙なプレゼント」を受け取っていた。だが、レヴィアンはそんな彼女達の気持ちには素直に感謝の意を示しつつも、彼自身の中の「本命」の女性のことを想いながら、複雑な気持ちに浸る。

(なぜだろう? 彼女はいつも、僕のことを避けているような気がする……。何か僕は彼女に嫌われるようなことをしてしまっていたのだろうか……)

 その「本命の少女」は、この学部内にはいない。そしておそらく、今までの彼女との人間関係を考える限り、自分のために何かを贈ってくれることも期待は出来ないだろう。そんな想いに苛まれながら、彼は一人密かにやるせなさを感じていた。
 一方、同じ実験室内の隣のテーブルでは、男性が多いこの技術学部における数少ない女生徒達が、楽しそうな「色恋話」で盛り上がっていた。そんな女生徒達の中心にいたのが、「聖徒会副会長」のオルタンス・アルカーナである(下図)。


 彼女は大陸の領邦国家アロンヌの名門貴族の出身である。アロンヌはヴァレフールと同様、このアントリアとは対立する幻想詩連盟の所属だが、彼女自身は現在、実家とは絶縁状態らしい(その理由に関しては、彼女は一切語ろうとはしない)。男だらけの技術学部には全く似つかわしくない華麗な容貌の持ち主であるが、その見た目に反して、本来は投影装備である異界のマスケット銃を自力で解体して、その構造を理解した上で「この世界の材料」を用いて再現させたほどの工学系才女でもあった。
 彼女は日頃は控え目で大人しそうな雰囲気だが、投影体などの外敵が学内に侵入した際には、二丁の長銃を同時に操り、鬼神の如き出で立ちで立ちはだかる。そんな彼女の周囲には必然的に性別問わず多くの信奉者が集まるが、あまりにも「高嶺の花」すぎる雰囲気から、彼女に直接告白しようとする男性は少ないようで、今のところ彼女には「特定の恋人」はいないらしい。
 そんなオルタンスに対して、こちらもこちらで周囲の女子学生達から「義理(憧れ)なのか本命(同性愛)なのか判断が微妙なチョコレート」が集まる中、その中の一人が彼女に問いかけた。

「副会長さんは、やっぱり、シャルル君にあげるんですか?」

 シャルルとは、現在聖徒会で「会計」を務めている商業学部(キャッツアイの学部)の中等部の学生であり、この学術院に来る以前はオルタンスの実家で彼女の侍従を務めていたと言われる「投影体の血を引く少年」である。今もオルタンスとは仲が良く、二人で一緒にいることが多いため、彼女との特別な関係を想起する人々も多い。

「彼はね、体質的に、チョコレートが食べられないのよ。だから、代わりにクッキーでも焼いてあげようかと思ったんだけど、私、彼から台所に立つことを禁止されててね……。日頃、お世話になってる彼や会長には、何かしてあげたい気持ちはあるんだけど、結局、何も思いつかなかったわ」

 彼女が台所に立つことを禁止されてるのは、彼女が包丁などで怪我をしないようにという配慮からなのか、彼女の作る料理を誰かに与えることで発生する可能性のある「不幸」を防ぐためなのか、この発言からは読み取れない。周囲の女学生達はその真相についてはあえて触れないまま、さりげなく話を本題に戻す。

「誰か、本命の人はいないんですか?」

 そう言われたオルタンスは少し遠い目をしながら、呟くように答えた。

「私はまだ、そういうことはいいかな……」

 彼女のその声色からは、何か深い事情がありそうな雰囲気が醸し出されており、女生徒達もどう反応すれば良いか分からないまま、微妙な空気が漂う。そんな中、オルタンスが視線を再び周囲の人々へと向けようとした時、隣のテーブルにいたレヴィアンと目が合う

「あ、レヴィアン君、ちょっといい?」
「なんですか? オルタンスさん」
「実は君に、会長から言伝があるのよ」

 彼女はレヴィアンに対して、前述の「聖徒会庶務(仮)」の創設案について説明する。どうやら、レヴィアンもその候補に入っているらしい。

「なるほど。そういうことなら、喜んでお受け致します」

 レヴィアンはそう答えたが、実際のところ、彼もいつまでこの学術院に残るかは分からない身である。祖国のヴァレフールでは現在、様々な問題が発生していることもあり(ブレトランド風雲録・簡易版参照)、実家の祖父からは早期の帰国を促す手紙が何度も届いている。だが、レヴィアンとしてはまだこの学術院で学びたいことは山のようにあるし、それに加えて前述の「本命の女性」へのモヤモヤした感情もあって、少なくとも今の時点では帰国する気にはなれずにいた。そんな彼にとって、聖徒会職の引き継ぎは、帰国を拒否する口実にもなり得るだろう。

「そう。それは助かるわ」

 オルタンスはそう答えると同時に笑顔を浮かべるが、次の瞬間、その美しい笑顔が突然乱れ、「何か」に驚いた表情を見せる。

「え?」

 彼女は思わずそう口走る。彼女以外、ここにいる者達は特に何の異変も感じてはいない。明らかに「ここではないどこか」で起きた何かに気付いたようだが、本来、君主には魔法師のような形で「遠距離で発生した何か」を察知する能力はない筈である。

「あ、うん、じゃあ、ちょっと失礼するわね」

 そう言い残して、オルタンスは実験室を後にする。やがて講師が訪れてこの日の演習が始まるが、彼女は一向に戻って来ない。一応、学術院で何か異変が起きた時には、役員の四人には、講義や演習を休んででも、その対処を優先することが推奨されている。ただし、それは「よほどの緊急事態」の場合のみである。

(一体、何があったのだろう?)

 レヴィアンは表面上は淡々と演習実験に従事しつつ、内心で様々な可能性について頭を巡らせていた。そんな中、彼は「聖徒会役員の持つ聖印」の性質に気付く。
 彼等の聖印は、この学術院の学長にして街の領主でもあるミリシードから分け与えられた「従属聖印」である。従属聖印は、その本来の持ち主の聖印が失われた際には「独立聖印」と化し、そのことは本人達にも分かる筈である。

(まさか、学長の身に何か……?)

 彼は、その憶測が思い過ごしであることを願いつつ、表面上は何事もなかったかのように、この日の午前の演習に取り組むのであった。

1.3. 拳の三男坊

 一方、学内の南部購買では、講義の開始時間が近付くにつれて客足が少なくなっていく中、レヴィアンとは対照的な雰囲気の「もう一人の異国の御曹司」(下図)が訪れていた。


 彼の名はタケル・ニカイド。アントリアと同じ大工房同盟に所属する大陸国家ユーミル男爵領の国主ユージーン・ニカイドの末弟である。長兄ユージーンから「ユーミルのために役立つ知識を学び、そしてあわよくば学内交流を通じて、ユーミルのために働く優秀な人材を勧誘するように」と促されて、この学術院に入学した身であった。
 所属は歴史学部(サファイアの学部)だが、どちらかというと彼の専門は「考古学」に近い。大混沌時代よりも更に前の時代、まだ混沌がこの世界に現れるよりも以前の時代に存在していたと言われる文明に関する情報を学ぶことを主専攻としている。
 と言っても、タケルは勉学に関しては凡庸であり、「人並み程度」の成績しか残せていない。 彼は二人の兄が頭脳面においてあまりにも優秀すぎたこともあり、彼等を相手に競っても意味がないと考え、あえて「身体」を鍛える方面に重点を置いた学生生活を送っている。そのため、山の上にある訓練場での「異界の運動科目(バドミントン、テニス、ゴルフ、etc.)」だけは極めて優秀だが、それ以外は特に目立ったところもなく、平凡な学生であった。
 だが、それでもアントリアにとっては有力な同盟国の国主の一族ということもあり、最高級寮であるクローム男子寮に配属され、副寮長を任されていた。年齢は18歳で、寮長のレヴィアンよりも年上だが、性格的にも能力的にも、あまり寮長向きではないと自分でも自覚しているため、今の立場に特に不満はない。
 そんな彼は、人通りの減った南部購買にて、レディ・オータガウァに問いかける。

「オータガウァさん、『贈り物用』のチョコレートって、まだ残ってるかな?」
「あるわよ」
「じゃあ、一個……」
「『自分用』じゃなくていいのね?」

 彼はあまりモテるタイプではない。そして、レディ・オータガウァの祖国の一部では、モテない男性が「女性から貰った」と称して見栄を張るためにチョコレートを買う、という呪われた風習もあるという。

「そういうことは、傷つくから、言わないでほしいなぁ。というか、そもそも『自分用』なんてあるのかい?」
「あら? 別に深い意味はないわ。誰にだって365日いつでも自分のためにチョコを買って食べる権利はあるのよ」
「いや、そうじゃなくて、ほら、今日は、そういう日じゃないか」
「そうね。じゃあ、『男の子からあげる用』だったら……、これでいいかしら?」

 他のチョコレートと何がどう違うのかは分からないが、なんとなく「それっぽい商品」を彼女は提示する。

「ありがとう。じゃあ、それで」
「受け取ってもらえるといいわね」

 こうして彼は「意中の人」への贈り物を手に、ひとまず授業を受けるために歴史学部の校舎へと赴くと、そこでは一人の「猫のような耳を生やした少年」(下図)が、張り紙をしていた。彼の名はシャルル・ナヴィル。聖徒会の会計にして、この歴史学部の東隣に位置する商業学部(キャッツアイの学部)の中等部の学生である。


 彼は聖徒会副会長オルタンスの元侍従である。 アロンヌの奥地に住む「投影体の末裔」と言われる被差別民族(通称:猫耳族)の一員だったが、偶然出会ったオルタンスに気に入られ、彼女の実家で召使として雇われていた。その後、彼女と共に出奔した後、紆余曲折を経てこの神聖学術院に入学し、演算能力の高さを見込まれて会計となったらしい。彼の一族はもともと動物との意思疎通が得意だったこともあり、今のシャルルは「様々な乗騎」を乗りこなす騎士として知られている。
 そんな彼が、学内掲示板に以下のような張り紙を貼っていた。

「下記の者を退学処分とする。タタス・ハット(商業学部)」

 タケルはこの人物の名に見覚えはない。ただ、それ以上に、この学術院において「退学」という制度があったこと自体に、彼は驚いていた。少なくとも彼が入学して以来、そのような事例は聞いたことがない。
 その退学理由については何も書かれてはいなかったが、張り紙を見た女生徒達(歴史学部にはなぜか女学生が多い)の間では、既にこの事件に関する噂話が広がっていた。

「この人、オルタンス先輩のストーカーだったらしいわよ。届け物を勝手に盗んだり、出したゴミを漁ったりしてたらしいわ」

 その名に対して、タケルは内心で一瞬反応する。実はそのオルタンスこそ、タケルがこれからチョコレートを渡して告白しようとしていた「意中の人」だったのである。

「うわー、何それ、マジ変態じゃない」
「そういえば、最近、ウチの学部のピーター君も、オルタンス先輩につきまとってるとか」
「いやーねー、変なコトされたら、たまったもんじゃないわ。ウチの学部の品位も疑われることになっちゃうじゃない。ねぇ、タケル君?」

 女生徒としては「お前も変なコトするんじゃねーぞ」という釘刺しのつもりでタケルにそう言ったようだが、彼はその意図には気付かぬまま、率直に思ったことをそのまま答える。

「さすがにな、それはちょっと男らしくないよな」

 同じ男として、オルタンスに惹かれる気持ちはよく分かる。実際、タケルも彼女のことは学食で見かけた時に一目惚れした身であり、彼女とお近付きになりたいという気持ちはあったが、あくまでもそれは、彼女に相応しい男として堂々と隣に立ちたいという感情であって、彼女に隠れてコソコソ付け回すようなことをしようと考えたことは一度もなかった。
 そんな中、その張り紙をしていたシャルルが、タケルの存在に気付いて声をかける。

「あ、ちょうど良かった。タケルさん、ちょっとお話が……」

 そう言って、彼もまたタケルに対して「聖徒会庶務」について説明した上で、タケルもその候補の一人となっていることを伝える。

「まぁ、年上のタケルさんに引き継いでもらう、というのも変な話ではあるんですが、あまり同じ人が長く続けるのも良くない立場だと思うので」
「でもよぉ、別に俺、勉強が出来る方でもないのに、そんな俺で大丈夫なのかよ?」
「大丈夫です。あなたには他の人には無いものがあります。血筋とか、立場とか、家柄とか……」

 いずれも「彼自身の能力」では無い。

「なるほどな……」
「あと、いざという時に学生を守るのも僕等の仕事ですから、戦闘能力という点でも、タケルさんは頼りになります。ウチのお嬢……、あ、いや、副会長も、きっとそうしてもらえれば喜ぶと思いますよ」

 シャルルがオルタンスの元従者であることはタケルも知っている。それ故に、彼の「この発言」には色々と思うところはあったが、ひとまず淡々とした態度で答える。

「まぁ、最初の方に言ってた理由は気に入らないけど、前向きに考えてみるよ」

 実際、タケルは身体能力には自信があり、特に格闘術に関しては人並み外れた実力の持ち主であった。よほどのことがない限りは武器の携帯が許されないこの学内において、緊急事態の発生時に丸腰でも学生達を守れる力を持っている彼に「聖徒会」の一員としての特権を与えることは、学内の治安維持という観点から考えれば、理に適った判断と言える(無論、それは彼が「その立場を利用して私利私欲のための暴力を振るわないこと」が絶対条件なのであるが)。

「ところで、今日、オルタンスさんの予定が空いてる時間って、いつ頃か分かるかな?」
「あぁ、それなら、今日の授業後に聖徒会室で庶務候補の人達と会って話をする予定なので、その時でも……」

 そこまで言ったところで、彼もまた(前述のエルリックやオルタンスと)同じように「何かに驚いたような表情」を浮かべる。

「ん? 大丈夫か?」
「あ、は、はい、大丈夫です。では、詳しい話はまた後ほど……」

 そう言って、シャルルは慌てて駆け出して行く。

「大丈夫かな、あいつ……?」

 何が起きたのか全く把握出来ないまま、タケルはシャルルを見送りつつ、改めて先刻購入したチョコレートのことで思案を巡らせる。

(さて、どのタイミングで渡すべきか……)

 授業後に彼女に会った時のことを想定しながら、彼は具体的な計画を錬るために、一人で集中して考え事が出来る場所を探して、学部棟から去っていく。こうして、彼はこの日の午前の講義を無断欠席することになるのであった。

1.4. 無垢なる芸術家

 神聖学術院にはそれぞれの学部内に専門書を所蔵した図書室が設置されているが、それらとは別に、より広範囲の書物を集めた巨大な「中央図書館」が独立機関として存在し、その近くには「グリーンベルト」と呼ばれる公園のような空間が広がっている。
 この日の午前の講義をサボったタケルは、そのグリーンベルトに設置された四角い石のオブジェに座りつつ、「オルタンスへのチョコレートの渡し方」について真剣に考え込んでいた。

(庶務の仕事を引き受けるかどうかはともかく、その話を聞きに行くために会うことは出来る。ただ、さすがに皆の前で渡すのはアレだよなぁ……。そうなると、その話を始める前がいいか、後がいいか……)

 世界の真理を追求する哲学者のようなポーズで真剣に脳内会議を展開するタケルであったが、そんな彼の視界に、一人の見覚えのある男子学生の姿が映る。


(アイツは確か、ウチの学部の……)

 彼の名は、ピーター・アルスター。歴史学部に所属する17歳の学生である。アントリアの商家の三男坊らしいが、実家のことも、自分自身のこともあまり語ろうとしない、奇妙な雰囲気の青年である。いつも無気力な様相で、あまり他の学生とも絡むことがなく、タケルとも顔見知り程度の関係であり、特にそれほど親しいという訳ではない。
 そんな彼は、やや眠そうな半開きの瞳でグリーンベルトに植林されている木を物色するように眺めつつ、その中の一本の前に立ち止まると、鞄から木工用の鋸を取り出し、その刃を木の側面に対して垂直に合わせようとする。
 その様子を見て、思わずタケルは立ち上がって声をあげた。

「お、おい、待てよ!」
「ん? 何?」
「いや、お前、何勝手に切り倒そうとしてんだよ!?」
「今、いいモチーフが思い浮かんだところだから、木材を手に入れようと」

 特に悪びれる様子もなく、淡々とピーターはそう答える。このグリーンベルトは学内関係者の憩いの場として設置された空間であり、その樹木を勝手に切り倒す権利など、一学生である彼にある筈もないのだが、そのことすらも理解していない様子であった。

(そういえばコイツ、元は芸術学部だったっけ)

 タケルは以前に人伝で聞いた彼の経歴を思い出す。数年前まで、この神聖学術院には「芸術学部(象牙の学部)」と呼ばれる学部が存在していたが、ダン・ディオードの質素倹約令の時代に同学部が廃止されてしまい、そこに所属していた教員と学生の大半はこの地を去り、残留を希望した一部の人々は歴史学部や教養学部へと移籍しつつ、「美術同好会」を設立して放課後に密やかに活動を続けている。
 ピーターもそんな「元芸術学部組」の一人で、その中でも特に「彫刻」を専門としていたらしい。歴史学部内での彼は、いつも無気力な雰囲気で、あまり人とも関わらずに淡々と過ごしているが、自分の中で創作意欲が湧いた時には、所構わずデッサンや彫像作業を始めてしまい、その時の彼は鬼気迫る形相で作業に没頭する。有り体に言えば「変人」である。
 そんな浮世離れした雰囲気の彼に対して、タケルがどこから説明すれば良いか分からずに悩んでいたが、ピーターはそんなタケルの表情から、なんとなく彼の言いたいことを読み取る。

「そうか、ここの木は切ってはいけなかったのか……。では、木材を手にれるには、どこに行けばいい?」
「あー、そうだなぁ……、技術学部の辺りの木だったら、ウチの学部でも発掘作業のために切ったりしてるから、大丈夫じゃないかと思うけど、今度聞いといてやるよ」

 別に、タケルにはそこまで気を回す義務はないのだが、なんとなく、その場の勢いでこのように自分から他人のやることに協力しようとしてしまう性格であった。その意味で、彼はレヴィアンとは違った意味での「人徳」の持ち主でもあり、それが彼が(学徒としては凡庸ながらも)副寮長や聖徒会候補に抜擢される要因でもあるのだが、本人にはその自覚はあまりない。
 そんな彼に対して、ふと思い出したかのように、ピーターは問いかける。

「ところで君は、副会長のことはよく知っているのかい? 彼女のことをよく見ているようだが」

 実際のところ、タケルは別にオルタンスにそこまでつきまとっている訳ではない。ただ、たまに見かけた時に(無意識のうちに)ひときわ熱い視線を送っているだけである。なぜそのことにピーターが気付いたのかと言えば(前述の女生徒達の会話にあった通り)ここ最近のピーターがオルタンスの周囲に付きまとっているからなのだが、タケルはそのことには気付かぬまま、素直に答える。

「んー、まぁ、見てるっちゃあ見てるが、知ってるのは名前くらいのものだよ」
「そうか……」

 少し残念そうな顔を浮かべつつ、ピーターは改めて語りかける。

「彼女は、美しいな」
「あぁ、そうだな」

 恋敵かもしれない相手に対して、タケルは率直に同意する。

「久しぶりに僕の中の創作意欲が湧いてきたんだ」
「創作意欲?」
「ぜひ彼女の美しさを『形』に残したい」
「な、なるほどな……」

 どうやらピーターの中では、オルタンスは恋愛や性欲の対象ではなく、純粋に「創作のモチーフ」でしかないらしい。

(芸術家の考えることは、よく分からないな)

 タケルは内心そう思いつつ、そのまま彼の話に耳を傾ける。

「おそらく彼女は、今が最も美しい時期だろう。だからこそ……」

 ピーターがそう言ったところで、タケルは思わず口を挟んだ。

「いや、そんなことはない。多分あの人なら、これから先、もっと綺麗になるだろう」
「なるほど……、そうかもしれないな……」

 ピーターは素直に納得したような顔を浮かべつつ、そのまま二人はグリーンベルトにて、オルタンスの美しさについて、午前終業の鐘の音が鳴り響くまで、熱く語り合うのであった。

1.5. 聖女と女騎士

 午前の講義が終わったところで、ブランジェは後輩達から貰ったプレゼントを自身のロッカーに一旦しまった上で、この日のために用意した「特製のプレゼント」を持って、他の学部とは少し離れた場所に設置されている人体学部(ルビーの学部)のキャンパスへと向かった。
 人体学部は医療関係者の養成機関であり、就職口が多いという事情もあって入学希望者は多いが、人命に関わる技術を習得する場であるが故に学業のハードルは高く、この学部の生徒達は学術院全体の中でも相当なエリート集団であると言われている。
 そんな人体学部の中で、ブランジェは「お目当の後輩」の姿を発見する(下図)。彼女の名は、サンドラ。人体学部の高等部に所属する17歳の女学生であり、この神聖学術院の聖徒会において「書記」を務めている人物でもある。


 彼女はもともとアトラタン大陸北部に位置するランフォード伯爵領の南西部に位置するカサドール地方出身であり、数年前に混沌災害でこの地が崩壊した際に(聖印教会の中でも混沌に対して最も苛烈な宗派と言われる)日輪宣教団に助けられ、その一員となり、聖印の力に目覚めたことで、人々を守る聖騎士として、彼らと共に大陸を転戦する武装集団の一員となった。
 その後、彼女はその戦いの中で、より迅速かつ確実に人々を救うための道を模索した結果、混沌を活用する必要性を実感するようになる。だが、それは混沌の利用を厳禁とする日輪宣教団の教義に抵触するため、彼女は最終的に日輪宣教団と決別し、条件付きで混沌の有効利用を認めた月光修道会に入信した上で、この地の学徒となる道を選んだのである。
 聖徒会の四人の中では最も信仰心が厚く、寡黙で無愛想な性格故に一般生徒からは敬遠されがちであるが、有事の際には率先して皆の盾となって戦う不言実行の気概の持ち主であり、そんな彼女のことを密かに慕っている後輩も多い。今も彼女は、この昼休みの時間帯に、学内の平和と安全を守るために、自ら率先して警備巡回していたところであった。そして彼女のそんな日課を熟知していたブランジェは、想定通りの場所でサンドラを発見した上で、笑顔で声をかける。

「サンドラちゃん、今、よろしくて?」
「どうしました、寮長?」
「今日はバレンタインとやらでしょう? だから、サンドラちゃんにもプレゼント」

 そう言って、彼女は上品な柄のハンカチーフと、日持ちするお菓子をサンドラに差し出す。

「食べ物は少なめにしておいたわ。沢山あっても、余ってしまうでしょう?」

 実際のところ、サンドラもまた後輩女性にモテるタイプなので、この朝から既に大量のチョコレートを貰っていた。

「確かに、大量に摂取すると、身体機能に支障をきたすという問題もありますからね。ともあれ、そういうことならば、ありがたく頂いておきます」
「では、ごきげんよう」

 ブランシェがそう言って満足気な顔で去ろうとしたところで、サンドラは彼女に声をかけた。

「寮長、一つ聞きたいことが」
「何かしら?」
「生命学部に、ライザーという若い学生が入っていると思いますが……」

 先刻、彼と会話を交わしたばかりのブランジェはあの時の彼の様子を思い出しながら答える。

「ライザーちゃん? 確かにいるけど」
「何か粗相をしてはいませんか?」

 どうやらこの二人、互いに相手の「学内での動向」を気にかけているらしい。

「私の耳に入ってくる限りは、何もしてないと思うわ。何か心当たりでも?」
「いえ、別にそういう訳では……」

 何かこの二人の間には特別な事情があることが伺える。当然、ブランジェとしてはそれが気になってはいたが、あえてこの場で深く追求はしなかった。

「そう。何か問題があったら、教えてちょうだいね、サンドラちゃん」

 自分の中で徐々に広がりつつある感情を抑えつつ、ブランジェは最後まで笑顔のまま、人体学部を後にする。授業後に、聖徒会庶務(仮)の件で再び彼女に会えることを楽しみにしながら。

1.6. 同郷の誼

 一方、午後からは国家学部の講義を受講するために同学部へと向かったレヴィアンは、ゼミ用の小型の教室の前で、その手に大量のプレゼントを抱えた(同郷の幼馴染でもある)聖徒会長のエルリックと遭遇する。

「あぁ、レヴィアン、ちょうどいいところに」
「エルリック……、なんというか、すごいな……」

 どうやら、学内の男子生徒の中では彼が一番人気らしい。ひとまず彼は、教室に入って机の上にプレゼントを置いた上で、鞄の中から(事前にこの事態を想定して用意していた?)紙袋を取り出して梱包しつつ、レヴィアンに語りかける。

「役割上、私は目立つ立場にいるからね。ところで、君は図書館によく足を運んでいるね?」
「あぁ。あそこの事務の手伝いをすることもある」
「では、これをその図書館の事務担当のソフィア君に渡してくれないかな? どうも私は彼女に嫌われているようでね。私が行っても、会ってはくれないんだ」

 そう言って、彼は鞄の中から、手紙か何かが入っていると思しき小さな封筒を取り出す。だが、それに対してレヴィアンは、悩ましい顔を浮かべる。

「そ、そうなのか……」
「別に、彼女に何かしようという訳ではない。あくまで事務的な話だよ」
「ただな、困ったことに、僕も彼女からは避けられているんだ……」

 レヴィアンは確かに「図書館の事務担当のソフィア」という少女と面識はある。そして、生真面目であまり色恋事に興味の無さそうな彼が、実は内心密かに心惹かれつつある相手が、まさにそのソフィアだったのであるが、レヴィアンが彼女との距離を縮めようとする度に、なぜか彼女はレヴィアンから遠ざかろうとしているように彼には思えた。図書館での仕事のシフトでも、不自然なまでに彼女はレヴィアンとだけは同じ時間帯の勤務にならないように組まれており、裏で人事担当者にそう頼んでいるように思えてならない。
 その話を聞いたエルリックは、何かに納得したような表情を浮かべつつ、呟く。

「そうか。ということは、やはり……」
「やはり?」
「いや、まだあくまで推測なんだがね」
「何か心当たりがあるなら、教えてくれないか?」

 レヴィアンとしては、自分が彼女に嫌われる心当たりがない。エルリックの中に、その手掛かりとなりそうな情報があるなら、ぜひとも知りたいと考えるのは当然である。それに対して答える前に、エルリックは逆に問い返した。

「彼女に見覚えはないか?」

 そう言われたレヴィアンは、図星を突かれた顔を浮かべる。

「一応、ある。昔どこかで会ったような気が……」

 実際、それもまた彼がソフィアに惹かれた理由の一つなのかもしれない。だが、それがいつのことで、どのような形で出会ったのかまでは、どうしても思い出せなかった。
 人伝で聞いた話によると、彼女は大工房同盟の盟主国ヴァルドリンドの旧貴族家の出身であり、レヴィアンとはこの学術院に来る前に接点がありそうには思えない。現在は物質学部(ダイヤモンドの学部)に所属しており、レヴィアンよりも更に若い15歳だが、日頃から図書館に通いつめていることもあり、その博識さには先輩達も一目置いているとのことだが、いずれにせよ、レヴィアンともエルリックとも、直接的な接点は殆どない筈である。
 だが、それでもレヴィアンの中では彼女に関する記憶が心のどこかに眠っているような、そんな気がしてならなかった。

「やはりそうか。とはいえ、私も今言えるのはそこまでだな。それ以上は、中途半端な憶測でかえって混乱させてはいけない。とりあえず、そういうことなら、この手紙は私が自力で彼女を探して渡すことにしよう」

 そう言って、エルリックは教室を出て行く。どうやら、彼の次の講義はこの教室ではなく、単にレヴィアンにこの話をする(と同時にプレゼントを梱包する)ために一時的に立ち寄っただけらしい。
 レヴィアンとしては、一瞬手がかりが掴めたようで、結局何も分かっていない、そんな中途半端な状況に、余計に頭を悩まされることになるのであった。

1.7. 図書委員の少女

 その頃、タケルとピーターは終業の鐘を聞くと同時に、男二人で学食へと向かおうとしていた。そんな中、二人の前に一人の少女が現れる(下図)。


 タケルは、その少女に見覚えはない。少女の方もタケルには興味を示さず、隣にいるピーターに対して、何か思わせぶりな笑みを浮かべながら近付いて来る。

「ん? 何?」

 首を傾げるピーターに対して、彼女は一包みのチョコレートを取り出す。

「ピーターさん、よろしかったら、これ、食べて下さる?」

 それに対してピーターは、今ひとつ状況を把握していない表情で受け取ると、彼女は踵を返してその場から立ち去って行く。

「では、ごきげんよう」

 呆然とその場に立ち尽くすピーターに対して、その傍らで存在を無視されたままのタケルは、彼の左足に対して、激しい嫉妬のローキックをぶちかます。少しフラッとなりつつも、どうにか倒れずにバランスを取る。彼は細身だが、見た目ほどヤワな身体ではないらしい。

「彼女は確か、図書委員のソフィア・ゾール……、なぜ、急に僕にこんなものを……。まぁ、甘いものは嫌いではないけど……」

 彼はブツブツと独り言のように呟きつつ、その包装紙を開く。どうやらピーターも彼女とそれほど親しいわけではないらしい(そして、彼女を聖徒会長のエルリックが探していることも、レヴィアンが彼女に特別な想いを抱いていることも、当然知る由もない)。
 だが、あまり興味がなさそうにその梱包を解いた彼は、チョコレートと包装紙の間に、謎の文字で書かれたメッセージカードが入っていることに気付く。隣にいたタケルにもそのカードは視界に入ったが、そこに書かれている文字はおそらく異世界の文字であり、タケルには全く読めなかった。
 ピーターはそのメッセージカードに視線を沿わせた上で、唐突にタケルに対して問いかける。

「なぁ、タケル、『山の上の訓練場』って、どこだっけ?」

 それは、体育の実技演習の授業でよく使う会場であり、タケルにしてみれば授業のみならず、個人的にもよく足を運んでいる場所である。

「あぁ、俺はジムがそこにあるからよく行くし、今から案内しようか?」
「よろしく頼む」

 こうして二人は「歩きながら食べられる軽食」を購入しつつ、その「山の上の訓練場」へと向かうことになる。この時、昼行灯なピーターの瞳の奥で、いつもは見せない真剣な眼光が眠っていたことに、タケルは気付いてはいなかった。

2.1. 白い仮面の男

「ここだぜ、ピーター」

 訓練場に辿り着いたタケルがピーターにそう告げると、彼は周囲を見渡しつつ、ここに来るまでの道程を再確認する。

「ふむ、なるほど。分かった。ありがとう」

 そう言って、ピーターは来た道をそのまま戻ろうとする。どうやら、今の時点でこの場所に用事がある訳ではないらしい。
 先刻の状況から察するに、おそらくはあの「図書委員のソフィア」から渡されたメッセージカードに、授業後あたりにここに来るように書かれていたのだろう。普通に考えれば、ここで直接会って愛の告白などが展開されそうなシチュエーションに思えたが、タケルとしては、他人の恋路に口を挟む気はなかった。

(今から行っても講義には間に合わないし、トレーニングでもしていくか)

 こうして、彼が午後の講義もサボろうと決め込もうとしていたところで、突然、訓練場の奥地の山林のあたりから、ガサガサという音が聞こえる。

(なんだ? クマでも出たか?)

 耳をすませてよく聞いてみると、それは「誰かが穴を掘っている音」のように聞こえる。考古学専攻の彼にとっては、聞き慣れた音であったが、この場所で演習をする予定は聞いたことがないし、そもそも音からして、一人で掘っているように聞こえる。不審に思ってタケルがその音のする方向へと向かうと、そこにいたのは、生物学部のライザーであった。
 とは言っても、タケルは彼とは面識がない。正確に言えば、同じ男子寮にいるので顔には見覚えがあるが、どこの学部の誰なのかまでは把握していない。そんな彼の手にはスコップが握られ、そして彼の足元では、彼が掘ったと思しき穴の中に、大量のチョコレートらしきものが埋められている光景であった。

「おい、テメェ! 誰だか知らないが、食べ物を粗末にするのは良くないぜ!」

 思わずタケルは、そう言ってライザーの前に姿を現す。それに対して、ライザーは驚きながらも反応する。

「い、いや、その……、食べられないんだから、仕方ないだろ!」

 彼の足元にある大量のチョコレートは、確かに一人で食べるにはかなり多い。ライザーは体格的に見てもあまり大食漢には見えないし、大量の糖分摂取が身体に悪いこともタケルには分かっていたが、だからと言って、この状況を見過ごして良いとは思えなかった。

「食えないなら、他のやつにあげればいいだろ! 捨てるなんてな、作ってくれた人に申し訳ないと思わないのか!?」
「そ、それはそうだが、『この食べ物』は……」

 ライザーはタケルの正論に対してまともに反論出来ないまま、視線をそらしつつ言葉を濁す。実は彼の中では明確な「埋めなければならない理由」があるのだが、それと同時に「その理由をこの場で公言出来ない理由」もあったため、この場でなんと言い返せえば良いのかが分からない。
 そんな中、彼が埋めようとしていたチョコレートの周囲に混沌核が現れ、そこに何かが収束していくことにタケルは気付く。

(あれはきっと、誰からも貰えない奴の怨念!)

 タケル自身もまだ誰からも貰っていないのだが、そんな自分を棚に上げたその憶測は、残念ながら正解であった。彼らの目の前に現れたのは、どう見ても女性にモテるとは思えない 「白マスクを被った半裸の筋肉質の男」の投影体(クリック時、音声注意) だったのである。

「な、なんだあいつは!」

 驚愕の声を上げるライザーに対して、その変態投影体はこう叫ぶ。

「男が嫉妬に狂う時、しっとマスクを呼ぶ合図!」

 そう名乗ったその変態投影体は、改めてライザーに対して言い放った。

「貴様! 女子からもらったチョコを捨てるなど、男の風上にも置けぬ奴! そんなチョコなど、この俺が食ってやる!」

 その変態投影体はそう言いながら、穴の中のチョコレートを包装紙ごとバリバリと食い漁り始める。あまりに不気味な光景を目の当たりにして呆気にとられたライザーに対して、チョコを一通りに食い散らかした変態投影体は、改めて敵意を向ける。

「私はモテない男と嫉妬の味方! 不埒な男を成敗するために、時空を超えてこの世界にやってきた! 覚悟するがいい、この邪悪なるイケメンよ!」

 そう言いながら、その変態投影体は拳を握り締める。この状況に対して、ライザー同様に呆然と眺めていたタケルは、改めて脳内で状況を整理する。

(こいつの言ってることは分からなくもないが、間違いなく「邪悪な投影体」だよな)

 月光修道会の教義としては、投影体は必ずしも悪ではなく、人間にとって有益な投影体は、殺さずに有効利用することが推奨されている。だが、この変態投影体の主張は(一部の男性にとっては正義であっても)明らかに人類全体に害を為す存在であることはタケルには分かった。そうなると、このまま放っておく訳にはいかない。そう判断したタケルが助太刀に入ろうとした瞬間、ライザーが叫ぶ。

「君は逃げろ! なんだかよく分からないが、彼が狙っているのは私のようだ。君はここから去った方がいい!」
「馬鹿野郎! 確かにテメェは憎いけどよ、俺より弱そうな奴を見捨てて逃げる訳にかいかないだろうが!」

 実際、どう見ても体格的にはライザーの方が自分よりも細身であり、少なくとも丸腰の状態で、彼が戦いに向いているとは思えない。

「いいから逃げろ! ここに君がいても足手まといだ!」
「何だとぉ!? テメェ!」

 明らかに貧弱そうなイケメンに格下扱いされたタケルは怒りを露わにしつつ、ライザーに詰め寄ろうとするが、その前に変態投影体がライザーに殴りかかろうとしたため、彼の前に立ちはだかり、逆にタケルの方から変態投影体に対して殴りかかる。
 タケルはこれまで様々な異界の格闘術を習得しており、その鍛えられた肉体から繰り出された拳は、確かに変態投影体の半裸の肉体に直撃した。それは並の人間であれば一撃で確実にKOされるほどの威力であったが、変態投影体はその白いマスクの下でニヤリと余裕の笑みを浮かべる。

「こいつの筋肉、硬い。まるで肉の鎧だ……」

 タケルは思わずそう呟く。この変態投影体の正体は とある異世界 における職業軍人であり、もともと鍛えられた肉体の持ち主であったが、そこにモテない男達の怨念(しっとパワー)が集まったことで、通常の人間の拳では太刀打ち出来ないほどの強靭な肉壁を作り上げているのである。

「貴様! なぜこのイケメンを庇う!? 貴様は『俺と同じ側』の人間だと思っていたが、貴様が此奴の味方をするというのであれば……」
「馬鹿野郎! 確かにコイツは憎い奴だけどな、弱い奴を一方的に殴ることの恐ろしさを、お前にも教えてやる!」

 そう叫んだタケルであったが、次の瞬間、今度は変態投影体の拳がタケルを襲う。

「うっ、速い!」

 咄嗟に避けようとしたタケルであったが、学内のボクシング同好会におけるスパーリング相手達とは明らかに次元の違う速度の一撃を直撃し、深手を負う。

「こいつ、 やるぜ……」

 今自分が戦っている相手が「ただの変態」ではなく、「鍛えられた変態」だということを実感したタケルであるが、次の瞬間、彼は自分の背後から「聖印」の気配を感じる。思わず振り返ったタケルの視界に入ってきたのは、さっきまで丸腰だった筈のライザーの手に握られた「光の剣」であった。その剣を握る彼の手の甲には、聖印が浮かび上がっている。

「お、お前、なんだそれは……?」

 タケルは思わずそう口走るが、それが明らかに「聖印の力で作られた剣」であることは、彼にもすぐに分かった(君主の中には、そのような力を持つ聖印の持ち主がいることを、タケルは知っている)。だが、この学内においては、聖徒会の四人以外の学生は、聖印を持つことを禁止されている筈である。

「お前は今、何も見ていない! いいな!」

 ライザーはそう叫びながら、変態投影体に向かって斬りかかる。突然のことに驚いた変態投影体は、その一撃を避けきれず、重傷を負う。

「おのれ貴様! ビームサーベル使いか!」

 彼はそう叫びつつ、傷口を手で塞ぎながら、バックステップで距離を取る。

「今日のところは引いてやる! だが、しっと仮面も、しっと団も、お前のような不埒者がいる限り、決して滅びはしない。嫉妬魂は永遠に不滅なのだ!」

 そう言いながら、彼は逃げ去って行く。ライザーは深追いしようとするが、その前にタケルに視線を向ける。

「今、何も見ていないよな、お前は」

 それに対してタケルは何も答えない。明らかに自分より弱いと思っていたこの「貧弱な美少年」に助けられたことのショックで、何も言えない心境であった。
 だが、ライザーがその沈黙の意図を測りかねて立ち止まっている間に、変態投影体は彼等の視界から消え去ってしまう。ライザーは内心で舌打ちしつつ、光の剣を自身の聖印の中へと「収納」した上で、自分を助けようとして深手を負ったタケルに対してその聖印を掲げ、彼の傷を癒す。これもまた、聖印を持つ者だけが使える特殊な能力であった。

「なぜ私を助けた? あいつの言い分とお前の言い分は、ほぼ同じじゃないのか?」

 タケルはそれに対しても何も答えない。彼の中では「邪悪な投影体」と「弱そうな男」がいた場合、たとえ後者がどれほど憎い存在であろうとも(そして前者の主張に共感する心が自分の中にあったとしても)、後者を助けるのが当然の道理であった。だが、その「弱そうな男」に自分が助けられたというこの状況で、その信念を口に出来る筈もなかった。たとえその男が「聖印」の持ち主であろうと、タケルの中ではそれは「負けて良い理由」にはならなかったのである。
 沈黙を続けるタケルに対し、ライザーは反応に困りつつも、ここで無理に返事を聞き出せる立場でもなかったため、気まずい空気が広がる中、憮然とした表情でその場に座り込んだタケルを残して、ライザーは一人黙って山を降りて行く。

(確か彼は、ウチの寮の副寮長……。あの状況で命懸けで私を助けようとするとは……、噂通りの「直情的で正義感の塊のような男」だな……)

 内心でそう呟くライザーであったが、実際のところ、その彼の心意気には素直に感服していた。しかし、だからこそ、その心中では誰にも打ち明けられない葛藤が広がっていた。

(なぜ、この学術院にはこんなにも「敬うべき人格者」が多いのか……、やはり、間違っていたのは私の方だったのか……?)

 そんな自問自答を繰り返しながら去って行くライザーの背中を黙って見送りつつ、タケルは打ちひしがれた心境のまま、虚ろな表情で訓練場のジムへと向かう。

(今のままじゃダメだ……、もっと、もっと強くならないと……。こんな自分では、オルタンスさんに告白なんて、出来る筈がない……)

 そう自分に言い聞かせながら、彼はそのまま午後の授業にも、そして授業後の聖徒会からの招集にも、顔を出さないまま、ただ一心不乱に自らの身体を鍛え続けるのであった。

2.2. 明かされた惨劇

 授業後、神聖学術院の中心(グリーンベルトを挟んで中央図書館の反対側)に位置する月光講堂内の聖徒会室には、会長のエルリック、副会長のオルタンス、書記のサンドラ、会計のシャルルの四名に加えて、「庶務(仮)候補」として召集されたブランジェ、レヴィアン、ライザーの三人が集まっていた。

「君達の他にも、クローム寮の副寮長であるタケル君にも声をかけた筈なんだが、忙しいのか、来てくれなかったようだね」

 エルリックがそう言うと、レヴィアンが少し意外そうな顔を浮かべる。

「タケルも呼んだんですか?」
「まぁ、聖徒会にも色々なタイプが必要だからね。他にも何人かに声をかけようと思ってたんだが、今日は朝から『色々』あって、まだ候補生全員には連絡が行き届いていない状態なんだ」

 その「色々」についてエルリックが説明しようとするが、その前にレヴィアンが口を開く。

「確かに、タケルは真面目とは言い難いですが、精神性というか、人を惹きつける魅力のようなものはありますからね」

 タケルはレヴィアンよりも年上だが、立場上はレヴィアンの方が寮長ということもあって、彼はタケルのことを呼び捨てで呼んでいる(一方で、レヴィアンはプライベートでは幼馴染のエルリックに対して「タメ口」だが、ここは公的な場ということで、敬語で話していた)。そんな彼の横で、ライザーが頷きながら呟く。

「そうだな、確かに、彼は見所のある人物だ」
「何かあったのか?」
「いや、まぁ、その……、前々から、私はそう思っていたんだ」

 先刻の一件を話す訳にもいかないライザーが、少し焦った様子でそう答えると、そこにブランジェが口を挟む。

「お二人はお知り合いですの? 私も混ぜて下さらない? 三人の中で私だけ会話に混ざれないのは、ちょっと……」
「あ、いや、ウチの男子寮の副寮長の話ですよ」

 そんな会話を交わしている中、今度は副会長のオルタンスが神妙な表情で口を開く。

「本来なら、今日はこれから『庶務』職の設立に関する説明会を開く予定だったのですが、今朝、この神聖学術院の存亡に関わる緊急の事態が発生しました。会長の判断により、未来の聖徒会候補である皆さんにも、この件について知らせておくべきだろうと判断致しましたので、皆さんにはこれから、私達に同行して頂きます」

 そう言われた三人は、黙って聖徒会の四人と共に部屋を出て、一つ上の階にある学長室の前へと案内される。エルリックはその部屋の扉のドアノブに手をかけた状態で、改めて三人にこう告げた。

「皆、落ち着いて、この状況を見てほしい」

 彼がそう言った上で扉を開けると、そこにはソファーに座った状態のまま、大量の鮮血にその身を染めながら天を仰いでいる学長ミリシードの姿があった。その様子を見る限り、既に事切れているのは間違いない。
 絶句する三人の中で、最初に口を開いたのはレヴィアンである。

「朝の時点で、副会長が何かに気付いたように見えたのは、やはり、こういうことだったのですか……」
「そう、気付かれてしまっていたのね……。私も迂闊だったわ……」

 オルタンスとしては、何か不測の事態があっても、その全容が明らかになるまでは、極力生徒達を不安にさせないように振る舞うべきだと考えていただけに、勘付かれていたことには少なからず落胆した様子であった。
 一方、既にこの事態を想定していたレヴィアンとは対照的に、ブランジェは驚いた表情のまま、率直に問いかける。

「会長、これはどういうことですの?」
「今朝、君達に話をしていた時、私達の従属聖印と深いつながりがある学長の聖印が消失したことに気付いて、何があったのかとこの部屋に向かったんだが、私が到着した時には、既にこの状態になっていた。一応、正確に伝えておいた方がいいと思うが、最初に発見したのは私だ。そして、その時点で既に学長は息絶えていて、その聖印は消えていた」

 つまり、状況的に考えれば、聖徒会の中で容疑をかけられるべきは会長ということになるが、他の役員達が「学長の聖印が消えた」と判断したのがほぼ同時だったということが、彼等の証言(および、その場にいたブランジェやレヴィアンの証言)とも一致しているため、少なくとも学長の死亡時間において、役員が全員この場にいなかったことは立証出来る。

「ただ、一つ妙なのは、この学長の『陰の額冠(サークレット)』がそのまま残っている、ということだ」

 そう言いながら、エルリックは学長の頭部の額冠を指差す。この「陰の額冠」とは四百年前の英雄王エルムンドの遺品(六つの輝石)の一つとされている宝具であり、装着した者の頭脳を活性化させる不思議な力が込められている。その力の源泉は魔法ではなく、英雄王の聖印によってもたらされた代物だと言われており、それ故にブレトランドの聖印教会の信者達の間では、フォーカスライト大司教が持つ「林の首飾り(ネックレス)」と並び称される、極めて貴重な聖遺物として知られていた。
 もし学長を殺したのが、エーラムやパンドラ、あるいは日輪宣教団などの思想的に対立する組織だった場合、これほどまでの貴重な宝具をあえて残して去って行くとは考えにくい。だとすると、個人的な怨恨か、あるいは神聖学術院もしくは月光修道会内の権力闘争の産物という可能性が高そうだが、彼等の検死結果によると、学長の首元に、何物かに噛み付かれたような跡が見える。

「おそらく、実行犯は『あまり知性のない投影体』の仕業だと思う。問題は、それを操っているのが誰か、ということだ」

 エルリックがそう語る中、生物の構造に詳しいブランジェが更に細かく歯型を調べたところ、どうやらそれは「鼠」のたぐいではないかと推測され、その噛み付いた先から、何か異物が学長の身体の中に入り込んだように彼女には思えた。ブランジェはエルリックに問いかける。

「犯人に心当たりはあるんですか?」
「今のところはない。生命学部の君ならば、何か分かるのではないかと思ったが」
「何らかの毒が入っていることは間違いないです。おそらくは鼠か何かの……」

 彼女がそう言ったところで、その傍らに立つレヴィアンは、学長室の扉の近辺の「一見すると誰もいないように見える場所」から、何者かの気配を感じ取る。

「誰だ!?」

 レヴィアンがそう叫んだ直後、その気配は部屋から遠ざかっていく。いつも理知的で物静かな彼のその様子に驚いたオルタンスが問いかける。

「レヴィアン君、どうしたの?」
「今、この部屋に誰かが近付いていたような気配を感じました。振り向いたら、遠ざかっていきましたが……」

 それに対して、シャルルが神妙な表情で口を挟む。

「あなたも感じたのなら、どうやら僕の気のせいではないようですね。僕も同じような気配を感じました」

 彼の一族は「動物に近い投影体」の血を引いているため、感覚は人一倍優れている。そのことを踏まえた上で、会長もまた更に深刻な表情を浮かべつつ、語り続ける。

「ということは、やはり何らかの投影体か何かの侵入を許している可能性が高いな。念のため確認するが、君達の学部で取り扱うような鼠ではないのだね?」

 そう問われたブランジェは、記憶を巡らせながら答える。

「そうねぇ、毒を持った鼠は貴重な個体だから、あまり実験などに使う対象ではないわよねぇ……」
「そうなると、やはり、何らかの過去の文献を調べた方がいいのかもしれない。歴史学科のタケル君か、図書委員のソフィア君がいれば良いかと思ったのだが、残念ながら二人とも来てくれてないし、どうしたものか……」

 ここで、レヴィアンが思わず呟いた。

「ソフィアさんも呼んでいたのですか……」
「あぁ。もっとも、人伝で手紙は渡すように頼んでおいたんだが、そもそも彼女に届いたのかどうかもまだ確認はしていない」

 どうやらエルリックが彼女に伝えようとしていた用件とは、このことだったらしい。もし彼女も自分と同じ「庶務(仮)」職に就くことになれば、今よりも彼女と会える機会は増えるだろうが、今以上に露骨に避けられる展開になるのも、それはそれで憂鬱である。しかし、今のレヴィアンとしては、そんな個人的な感傷に浸っている場合ではなかった。

「ひとまず毒物成分を検証して確認するために、学長の遺体を調べることを提案しますわ」

 ブランジェがそう提案すると、エルリックも同意する。そして、今まで黙っていた(人体学部所属の)サンドラが口を開いた。

「それに関しては、私の管轄です。ただ……、この情報を公開すべきだと思いますか?」

 そう問いかけらけたエルリックは、庶務候補の面々に視線を向ける。

「君達はどう思う?」
「あまり、よろしくないかと」

 そう答えたのはレヴィアンである。まだ全容が分かっていない状態で、中途半端な情報を広げることは、余計な事態の混乱を招く可能性があると考えたのだろう。これに対して、ブランジェは異を唱える。

「しかし、公開せずに、次の被害者が出たらどうするんです? 鼠だと分かっているなら、そのことだけでも伝えた方が良いのではなくて?」

 それもまた正論であるが、会長は慎重に答える。

「まだ、鼠だと確定した訳ではないがな」
「でも、その可能性はある訳でしょう?」

 ここで再びレヴィアンが、より深刻な声色で口を挟んだ。

「確かに、その可能性はあるが、ただ、それは一番マシな可能性な気がする……。もっと悪い可能性もあるかと。もっと『人為的なもの』の可能性も……」

 レヴィアンとしては、先刻の気配がどうしても気になる。もしあの気配が犯人だとするならば、犯人は今の「こちら側」の動向を眺めながら、次の一手を考えている可能性もあるだろう。もしかしたら、この学長暗殺は、より大きな陰謀の一端にすぎないのかもしれない。そう考えると、あまり迂闊に行動すべきではないように思えた。
 そんな彼等のやりとりを踏まえた上で、会長はひとまず決断を下す。

「そうかもしれない。ただ、どちらにしても『鼠警報』は出しておいた方がいいだろう。学長のことはしばらく伏せておく。まだ確定した訳ではないからな。もっとも、ここで鼠に対する警戒令を出すと、君達がヘマをやったのではないかと誤解する生徒が出てくるかもしれない」

 彼の視線の先には、生物学部のブランジェとライザーの姿があった。

「そうですわよね……」

 ブランジェは俯きながらそう呟く。実際のところ、彼女達の学部は「最も不気味な研究所」のように思われているため、偏見の目で見られることも多い(もっとも、それが本当に「偏見」なのかどうかは定かではないが)。一方、ライザーは強い口調で言い放った。

「そんなことを言っている場合ではないと思います。ブランジェ先輩はそうおっしゃいましたが、生物学部の不始末という可能性もゼロとは言い切れません。この状況であれば、多少生物学部が疑いの目を向けられるのも、それはそれで正当な話です」

 そう言い切った彼の声に後押しされるように、ブランジェも覚悟を決める。

「では、私達が管理している鼠を、一旦全て処分しましょう」
「そうですね、その方がいいと思います」

 生物学部の二人がそう言って腹を括ったところで、会長は改めて「庶務(仮)候補」の三人に告げる。

「では、鼠に対する警報については、生物学部に依頼しよう。レヴィアン君には、タケル君かソフィア君を通じて、文献方面から何かを探ってみてほしい」
「分かりました」

 三人が異口同音にそう答えると、彼等はそれぞれに思うところはありながらも、ひとまず「今やるべきこと」に向けて動き出すのであった。

2.3. 学術院への疑念

 ブランジェとライザーは、活版印刷で急遽作成した「毒鼠への注意喚起」の布告文を学内の各方面へ配って回る。その過程で、ライザーはふとブランジェに問いかけた。

「実際のところ、先輩はどう思いますか?」
「何のことですの?」
「鼠は、生物学部とは無縁だと本当に思っていますか? 私達の知らぬところで、誰かが良からぬ技術に手を染めているという可能性は?」

 真剣な表情でそんな疑問を呈するライザーに対して、ブランジェも真剣に答える。

「私は、生物学部には関係がないと、そう信じていたいですけれども、実際、分かりませんわ。誰かがそのような邪な思いを持って行動していたら、私はそのことに気付けないかもしれませんもの」
「確かに、私達のような一学生が学内の全てを把握することは出来ない……。そもそも、この学術院には色々分からないところが多すぎます……」

 ライザーはまだ入学して一年程度の新参者であり、子供の頃から学内で育ったブランジェよりも、この学術院への不信感が強まるのも当然であろう。

「分からないこととは、何かしら? 出来る範囲でお答えしますわ」

 学術院の有力出資者の娘であるブランジェがそう問い返すと、ライザーは少し逡巡しながらも、はっきりとした口調でこう言った。

「学術院の中には立ち入り禁止地域も多いですし、これだけの警備体制を敷いているにも関わらず、時折混沌災害が起きている。そもそも、この学術院を経営する月光修道会自体に色々と黒い噂もあります。あなたがそれでもここで学び続ける、あなたがこの学術院を信用し続けることが出来る根拠は、どこにありますか?」

 唐突な、しかも過激な学術院全体に対する批判に対し、ブランジェは戸惑いながらも、答えるべき言葉を導き出そうとする。

「話の意図が見えないんだけれど……、私個人の感想を言わせてもらえるならば、私はこの学術院では楽しく過ごさせてもらっているし、授業も充実しているし、先生方も素晴らしい方ばかりだし、お友達も皆優しくしてくださっている。警備が甘くなってしまっているのは確かだけど、私は、学校は開かれたものであるべきだと思うから、あまりガチガチに警備体制を整えるのも良くないと思うし……」

 ライザーの問いかけ自体の焦点が定まっていないこともあり、ブランジェの方もどうしても散漫な回答になってしまうのだが、ライザーの方は、その返答で納得したような表情を浮かべる。

「そうですね。多分、あなたが言っていることは正しいことです。そしてあなたはきっと正しい人です。それは私にはわかる。でも、だからこそこの学術院に……、あ、いえ、失礼しました。まだここのことがよく分かってない身で、無礼なことを」

 ブランジェの父親のことを思い出し、彼は慌てて言葉を止める。学術院を批判することは、彼女の実家を批判することにも繋がるということに、今更ながらに気付いたのである。

「いいのよ、気にしないでちょうだい。あんなことが起こったら、誰だって不安にもなるわ。ライザーちゃん、そんなに気負わないで、私達は私達に出来ることをやりましょう」
「そうですね……」

 ライザーは肩を落としつつ、そのまま淡々とブランジェと共に告知作業に専念することにしたのであった。

2.4. 聖印喰い(クレスト・イーター)

 一方、レヴィアンは「鼠の魔物」についての調査のために、中央図書館へと向かっていた。「鼠型の魔物」もしくは「鼠のような歯型を持つ魔物」についての過去の出現事例に関する情報を調べるなら、歴史学部の付属図書館か中央図書館のいずれかであるが、前者においては書庫の管理をそれぞれの研究室が実質取り仕切っていることもあり、閲覧しようにも色々と手続きが面倒で、部外者には分かりにくい(タケルがいればどうにかなるが、今も彼とは連絡が取れない状態だった)。
 そこで、レヴィアンはひとまず中央図書館に向かい、顔見知りの職員に声をかけた。

「あら、レヴィアン君、今日はあなたのシフトではなかったと思うけど」
「いや、ちょっとソフィアさんに話を聞きたいと思って……。彼女は今、どこにいますか?」
「今は確か、地下の書庫の方に行ってたような」
「分かりました。ありがとうございます」

 レヴィアンがそちらに向かうと、ソフィアが書庫の片隅で、一冊の図鑑と思しき本を開きながら、真剣な表情で何かを調べている様子が見える。どうやら今、彼女はレヴィアンが近付いているのに気付かないくらい集中しているようで、彼が近くに来ても一切反応がない。

「あ、すいません、ソフィアさん」
「は、はい! な、な、なんでしょうか!?」

 彼女は驚いて、思わずその場から数歩後ずさる。明らかに自分を避けようとしている動作に、レヴィアンはまた少し心を痛めつつ、すぐに本題を切り出す。

「あ、すみません、実はあの、エルリックから聞いた話なんですが、『見たことがない鼠らしき投影体』の目撃情報があったらしくて、危険な種類だったら怪しいと思って……」

 そう言いながら、レヴィアンがソフィアの持っていた本の背表紙に目を向けると、そこには「世界齧歯目図鑑」と書かれていた。

「あ、そ、そうなんですか、それなら、たまたま私が今読んでいたこの本が、ちょうど必要だったみたいですね!」

 そう言いながら、彼女は本をレヴィアンに手渡す。

「では、ごきげんよう!」

 彼女はそう言い残して去っていこうとするが、すぐにレヴィアンが声をかける。

「あ、ソフィアさん、まだ捕まってないらしいので、危険な種だったら、襲いかかってくるかもしれません。気をつけて下さいね」
「分かりました!」

 彼女は背を向けたままそう答えつつ、足早に地下の書庫から去って行った。明らかにその様子は、いつもの「優雅で落ち着いた雰囲気の令嬢」の彼女とは異なる。レヴィアンは、ソフィアが何かに動揺していることを実感しつつ、ひとまず彼女に渡されたその図鑑に目を向けると、ちょうど彼女が開いていたと思しき場所に「聖印喰い(クレスト・イーター)」という項目が記されており、そこには不気味に目を見開いた「鼠のような生き物」の姿が描かれていた。
 その図鑑によれば、それはアロンヌ地方に極稀に生息する「聖印を食らう、鼠型の投影体」らしい。身体能力的には通常の鼠と大差ないらしいが、この鼠は聖印を持つ者を襲い、強力な毒素によってその者の身体を死に至らしめた上でその聖印を喰らい、自分の中に取り込むことで、自分の中の混沌核を強大化させるという、非常に危険な特殊能力の持ち主であるという。基本的には聖印を持った者に襲いかかるが、持っていない者が噛まれた場合でも、猛毒に犯されることで死に至る事例が多い。
 この図鑑の説明を読む限り、今のところブレトランドで目撃されたという情報はないようだが、誰かがこの鼠をアロンヌ方面からこの地に持ち込んだとしたら、それは未曾有の大災害となりうる。強大な聖印を持っている筈の学長ですら(おそらく不意をつかれたとはいえ)一噛みで殺せるのだとしたら、それはもはやこの学術院だけの問題では済まない惨劇が小大陸中に広がる可能性もあるだろう。

「これは、すぐに対策を立てなければまずいな」

 レヴィアンは、本来は禁帯出扱いのこの図鑑を、聖徒会による特命と事務方に説明することで持ち出した上で、急いで聖徒会室へと向かった。

2.5. 密会する男女

 その頃、山の上の訓練場では、同輩達がそんな事件に奔走しているとは露知らず、タケルは一人、黙々と肉体鍛錬に励んでいた。もっとも、今の彼は先刻の「敗北」の失意に打ちのめされたまま、まともに頭が回っていない状態だったため、ただ現実逃避するように惰性で身体を動かしているだけの状態であり、無意識のうちに効率の悪い鍛錬法になってしまっている。タケル自身がそのことに全く気付けぬほど、彼は自分を見失っている状態であった。
 やがて陽が落ちかけて、夕闇が広がろうとしている頃、彼の視界に、窓の外を歩くピーターの姿が映る。タケルはタオルを首にかけながら、声をかけようとして外に出たところで、訓練場の裏に広がる茂みの中でピーターと対面するソフィアの姿を確認する。

(あれは確か、昼にピーターにチョコレートを渡していた子か。もしかしてあの二人……)

 やはり、ソフィアがピーターに渡したチョコレートの中に入っていた紙に記されていたのは、この場所での逢引を示唆していたのであろうことを彼は憶測しつつ、さすがにそのまま声をかけるのは控えながらも、少し離れたところで二人の様子を伺う。
 そんなタケルに対して、ピーターは一瞬「ん?」と気付いたような顔を見せつつ、「まぁ、いいか」というような表情を浮かべながら、あえて彼の存在を無視する。一方、ソフィアの方は何も気付いていない様子のまま、ピーターに話しかけた。

「あなたは、誰の差し金でこの学術院にいるんです?」
「誰も何も、僕は僕の意思でここにいるだけだよ」
「象牙の学部が無くなった今、転学部してまでここに残る必要があるのかしら?」

 象牙の学部とは、かつてピーターが所属していた芸術学部の通称である。

「歴史学部で美術史を学ぶのも悪くはない。それ以外の授業は確かに退屈だけどね。それに、彫像にしたい素材は沢山いる。副会長もそうだし、僕の中では君もその候補の一人だ」
「あら、オルタンス先輩と同格扱いにしてもらえるなんて、光栄ですわね。でも……、わたくしの目はごまかせませんわよ。あなた、この世界の住人ではないのでしょう?」

 ニヤリと笑いながらそう問い詰めるソフィアに対して、ピーターは淡々と切り返す。

「……それが分かるということは、君もまた、本来、この学校にいるべき者ではないのでは?」
「そう思いたいなら、勝手にそう思えばいいですわ。で、あなたはその正体を隠している。月光修道会は、本来、人間に対して友好的な投影体に対しては好意的である以上、別に素性を隠す必要はない筈ですわ。にもかかわらず、あえて人間のフリをしているということは、あなたが投影体であるということ以上に『知られては困る事情』があるからでは?」
「そう思いたければ、勝手にそう思えばいい。ただ、君がどう思おうが、僕がここでやりたいことは、美術史を学びながら、君のような美しい素材を、その美しさが損なわれる前に『形』として残しておきたい、それだけさ」
「では、わたくしがあなたの正体を学術院にバラしても良い、と?」
「それは出来ない。なぜなら、そのことを立証するためには、君自身もまた、君の正体を明かさなければならないからだ。そうだろう?」

 あくまでも淡々と応答するピーターのその言い分に対し、ソフィアはやや表情を歪ませつつ、独り言のように呟き始める。

「……そこまで腹が据わっているということは、まさか、あなたの背後にいるのはこの学術院そのもの? あえて投影体のあなたを、この学術院自体の意思で生徒達の中に潜り込ませている?」
「想像力が豊かだね。君はむしろ、作家になるべきではないかな? もっとも、象牙の学部が無くなってしまった今、そのために必要な技術をどこで学べば良いかは分からないけど」
「……まぁ、いいですわ。いずれ、あなたの正体は突き止めてみせます。ただ、仮にあなたが学長が紛れ込ませたスパイであったとしても、わたくしに危害を加えようとはせぬ方が得策ですよ。それは、お互いにとって最悪の事態を……」
「何度も言うけど、僕が興味があるのは彫刻だけさ。君のその美しい姿には興味はあるけど、君の心には、正直、あまり興味はないんだ」
「分かりました。では、今後も互いに不干渉、ということで。まぁ、彫像のモデルについては、考えてあげてもよろしいですけどね」

 ソフィアはそう言った直後に、一瞬にしてその場から姿を消す。

(消えた!? どういうことだよ……)

 黙ってその様子を眺めていたタケルが驚愕の表情を浮かべたところで、ピーターが振り返って声をかける。

「で、君、どこまで聞こえてた?」
「……気付いてたのか」
「まぁ、彼女は声が大きいからね。というか、彼女の方こそ、誰の差し金でここに来たのかは分からないけど、ちょっと不用心すぎるよね」

 本来ならば人がいないような時間帯とはいえ、先刻の会話は屋外で堂々と話して良い内容ではないことはタケルにも分かった。話の内容そのものは殆ど理解出来なかったとはいえ、明らかに、何らかの陰謀論にこの二人が関わっていることは間違いない。

「俺は学がないから、そんな難しいことは分からねえけどよ、もし、お前がなんか悪さをするなら……」

 軽く凄みながらそう言いかけたタケルに対して、ピーターはサラッと答える。

「あぁ、大丈夫。もう勝手にグリーンベルトの木を切ったりはしないから」
「まぁ、それならいいけどよ」

 話が微妙に逸らされたような感はあるが、そのままピーターはマイペースに話を続ける。

「僕はこれから先も、この世界にある美しい者達を形に残していきたい。僕が望んでいるのはそれだけだ」
「それだけ、か……。なぁ、一つだけ聞かせてくれよ。お前が昼から言ってる『形に残す』って、どういうことだよ?」

 そう問われたピーターは、どこから説明すれば良いものか、と逡巡しつつも、相変わらず淡々とした、どこか達観した口調で語り始める。

「この世界のものは移り変わっていく。普通のものはね」
「普通のもの?」
「生まれて、育って、朽ちて、消えていく。その中で『最も美しい状態』を保ち続けることは出来ない。ただ、この世界には変わらない、いや、変われないものもいる。そして変われない者は変われない者で、ある日突然、なくなることもある」

 おそらくそれは投影体のことであろう。投影体の中には、この世界の物理法則に合致して年老いていく者もいれば、形が変わらない者もいる。先刻のソフィアの言い分が正しければ、ピーターの正体は投影体、それもおそらくは「歳をとらない投影体」なのであろう。だからこそ、彼は「移り変わっていくもの」に対して、何か特別な感慨を抱いているのかもしれない。

「なるほど……。ということは、お前…………、いや、分かった」

 そう言って、タケルはピーターの前から立ち去って行く。まだ昼の「敗戦」で意気消沈した状態の彼は、この場でこれ以上、他人の正体に踏み入って追求する気力は残っていなかった。一方、ピーターの方も、ここまで聞かれた上でそれ以上追求されないことに少し意外そうな顔をしつつ、その場から去って行くのであった。

2.6. 鼠対策

「それらしきものが見つかりました。とりあえず、これを」

 聖徒会室に辿り着いたレヴィアンは、そう言って図鑑をエルリックに手渡す。この場にいるのは二人だけだが、現在は「公務」の最中ということで、幼馴染のエルリックに対しても、敬語口調のままであった。

「なるほど……。しかし、随分早かったね」
「ソフィアさんが、偶然、似たようなものについて調べていたので」
「ほう? 偶然、ねぇ……。まぁ、そうか。偶然なんだろうな、うん」

 「そういうことにしておこう」とでも言いたげな口調でエルリックはそう呟きつつ、一通り「聖印喰い」の記事に目を通す。まだ確証は持てないが、ここまでの状況と照らし合わせて考えれば、この鼠型の投影体が犯人である可能性は、極めて高そうに思えた。

「つまり、一般人にとっても危険な存在ではあるが、聖印を持たない者を積極的に襲う傾向は低い、ということか。それは不幸中の幸いだ。学長がああなってしまった以上、学術院内で聖印を持っているのは、僕達四人だけ。これは、僕達が餌になっておびき寄せるべきか、それとも……、まぁ、どこまでこの鼠が知性を持っているのかにもよるが……」

 思案を巡らせながらエルリックはそう呟きつつ、レヴィアンにこう提案する。

「技術学部の中で、鼠対策になるような工具があるなら、君の方から学部の人達に言って、用意してもらえるかな?」
「分かりました」
「そういえば、『鼠を殺せるような毒物』を作れそうな人もいるね」
「女子寮長ですか……」

 レヴィアンは、やや重い口調でそう呟く。確かにブランジェは毒物の生成に長けていると言われているが、レヴィアンとしては、彼女に対してはどこか不気味な怖ろしさを感じているようで、あまり彼女と直接交渉するのは気が乗らないようである。

「まぁ、それはそれでこっちでやってみよう。技術学部の方は頼むよ」

 そう言って、レヴィアンは技術学部へ、エルリックは生物学部へと向かう。

 ******

「……ということで、鼠に効くような毒団子か何かを作ってくれないかな?」

 生物学部で実験用鼠の「処分」を終えたブランジェの前に現れたエルリックは、彼女にそう告げる(なお、この時点で既にライザーは別行動となっていた)。

「鼠に効くような、と言われましても……、この世界に存在しているような鼠であれば作るのはたやすいことですけれども……」

 実際のところ、「聖印喰い」は投影体である以上、この世界の理(ことわり)が通用しない可能性は十分にありうる。

「それは分からないが、体の構造そのものは通常の鼠に近いらしい。ただ、聖印を食べることで鼠の体も大きくなるから、死に至らしめるためにどれほどの毒が必要なのかは判らないが……」
「分かりましたわ。出来るだけやってみます」

 難しそうな表情を浮かべつつも、ブランジェの口調はどこか楽しそうでもある。未知の鼠に対して、自分がこれまで研究してきた毒物がどこまで通用するかを試せる機会に、心踊っているようにも見えた(レヴィアンが苦手意識を持っているのは、おそらくこの辺りが所以であろう)。

 ******

 それから数時間後、レヴィアンは技術学部の先輩達と共に「鼠が入りたくて仕方がなくなるようなデザインの捕獲装置」を組み上げ、ブランジェもまた「致死性の極めて強い毒団子」の生成に成功し、それらを学内各地に設置して回ることになるのであった。

2.7. 司法取引

 すっかり陽が落ち、ブランジェやレヴィアンが各地に「罠」と「毒団子」を設置している頃、ようやくタケルが山の上の訓練場から戻ってくる。異界の技術で作られた街灯で照らされた学内の路上で、彼は(今日の勤務を終えた)レディ・オータガウァと遭遇した。

「あ、タケルくん、結局、例のアレはあげられたの?」
「いや、その、色々あって……」

 あの変態投影体との戦いですっかり自信を喪失してしまった彼は、結局、そんな気分にはなれなかった。「今の自分では、あの人に告白なんて出来る立場ではない」という意識に、すっかり捉われてしまっていたようである。

「あら、そうなの? まぁ、日持ちするものではあるけど、早めに渡した方がいいわよ。色々な意味で、何事も『鮮度』が大切だからね」
「分かりました……」

 そんなやりとりを交わしつつ、自身が副寮長を務める男子寮へとタケルが帰還すると、そこでは「引越し業者」と思しき者達が、大八車の前で顔を見合わせていた。

「あれ? どうしたんですか?」

 タケルにそう問われた彼等は、困惑した声色で答える。

「いや、退学になる生徒の荷物を持ち出そうかとしたんだが、しばらくここで待っててくれと言われて、そのままもう随分経つんだ」

 おそらくその生徒とは、朝の張り紙に書かれていた(オルタンスへのストーカー容疑で退学処分となった)「タタス・ハット」のことであろう。

「あー、じゃあ、ちょっと見て来ます」

 そう言って、タケルが寮内に入り、入寮者一覧を見て部屋番号を確認した上でタタスの元へと向かうと、そこではタタスと聖徒会会計のシャルルが口論していた。タタスは南方系の異文化圏出身で、その地方独特のターバンを頭に巻いた、どこか胡散臭い風貌である。

「おい、どうしたんだ?」
「あぁ、副寮長! ちょっと、その、副寮長からも言って下さいよ! あの退学処分、ちょっと酷すぎると思いませんか?」

 タタスはそう言いながら、すがるような視線でタケルを見つめる。だが、それはテンションが下がっている今のタケルにしてみれば、至極どうでもいい、面倒臭い案件でしかなかった。

「確かに悪かったとは思ってます! だからせめて、停学にして下さいとお願いしてるんです!」

 そう力説するタタスの横で、シャルルは困った顔を浮かべる。

「本来、そんなことは認められないんですが、ただ……、ちょっと事情が……」

 それに対して、タタスは畳み掛けるようにシャルルに訴える。

「知りたいんでしょ? 俺があの人のところに届いた郵便物の何を盗み出したかを」

 唐突にそんなやりとりを見せられて、何が起きているのかよく分からない状態のタケルに対して、シャルルがため息をつきながら事情を語り始める。

「彼が盗み出したものが、今、この学術院で起きている騒動の原因らしいんです。だから、その情報を彼から聞き出そうとしたら、司法取引として、その情報を出す代わりに減刑してくれと言ってきて……」

 そう言われても、そもそもその「騒動」自体をまだ知らされていないタケルとしては、それが必要な措置なのかどうかは分からないので、ひとまず一般論で応答する。

「確かに、それでその事件とやらの原因が分かるんだったら、その方がいいよな」
「でも、僕としては、一刻も早くこいつを学術院から追い出したい」

 冷たい視線をタタスに向けながらそう呟くシャルルに対して、タケルは反応に困りつつ、彼もまたタタスに目を向ける。

「それも分からなくもないが……、お前、反省してるのか?」
「勿論だ! 勿論、反省してる! それにほら、開き直るつもりはないんだけど……」

 タタスはニヤリと笑って、シャルルに訴える。

「でも結果的に、俺のおかげで、副会長が助かったかもしれないんでしょう?」

 そう言われて、シャルルは余計に苦悶の表情を浮かべる。

「おい、それ、どういうことだよ?」

 オルタンスの安否が関わっているとなると、当然、タケルとしても黙ってはいられない。そんな中、タタスは唐突に、すっとんきょうな提案をタケルに持ちかける。

「あ、そうだ、どうしても退学が免れないってんなら、副寮長、俺を『あんたの国』で就職出来るように、斡旋してくれないかな?」
「はぁぁ?」
「俺、めっちゃ優秀だからさ、鍵開けとか、鍵開けとか、鍵開けとか……」
「鍵開けしか出来ないじゃないか!」
「いや、忍び込みも得意だよ」
「そうは言われても、さすがになぁ。そもそも、何があったのかよく分からないけど、一発退学は確かに酷いとは思う。ただ、だからと言って、いきなり俺のところにすり寄ってくるのは、なんかおかしくないか?」
「いや、俺さ、行くところがないんだよ。ここを追い出されたら」
「あぁ、なるほどな」
「それにほら、あれだろ? あんたが俺に恩を売ったことで、この事件が解決したなら、きっと副会長の中でのあんたの株も……」

 どうやらタタスは、タケルが彼女に気があることを察しているらしい(というより、普段硬派なタケルが彼女に対して「特別な視線」を送っていることは、彼が思っている以上に、周囲からは気付かれているらしい)。

「俺は、そういう形で人に好かれたいとは思っていないんだ」

 恩を売ることで仲良くなろうという姿勢は、タケルにとっては「男らしくない考え」である。とはいえ、このまま放置しておく訳にもいかない。

「シャルル、とりあえず、俺とこいつでその問題とやらを解決する。解決出来たら、こいつの退学を取り消してくれないか? それまでの間は、俺がこいつを見張っておくよ」

 別に、ここで彼を助ける義理はないが、結果的にここで自分が手助けすることによって何かが解決するなら、それでいいと彼は考えていた。事情も何もよく分からないままであったが、それでも自分の中の義侠心が疼いたら、その衝動のままに行動する。それがタケル・ニカイドという青年の本質なのである。

「分かった。副寮長がそこまで言うなら、今回は大目に見よう。ただし、『次』はないからな」

 厳しい視線でそう言われたタタスは、ヘラヘラと媚びへつらうような表情を浮かべながら、「真相」を語り始めるのであった。

2.8. 副会長の過去

 タタス曰く、数日前にオルタンスの郵便受けに「プレゼントのようなもの」が届いたらしい。装丁からして、予定より少し早く到着した「バレンタインのプレゼント」のようにタタスには見えたという。

「それで、ほら、オルタンスさんに、悪い虫がついたらいけないじゃないですか」
「ほう?」

 弁明するタタスに対して、タケルは冷たい口調でそう言った。

「だから、俺は彼女を守るために、中身を確認しようとしたんだよ。あくまで正義感として」
「そうか。話を続けろ」
「そしたら、中から、大量の鼠が出てきて、そこら中に飛び散って行ったんだ」
「鼠?」

 騒動について何も知らないタケルは、唐突に出てきたその単語に戸惑うが、シャルルは「やっぱり、そうか……」と言いたげな顔を浮かべる(シャルルや他の聖徒会の面々も、この時点で既に「アロンヌ産の聖印喰い」の話をエルリック経由で聞いていた)。

「そのプレゼントには送り主の名前とか、書いてなかったのか?」

 タケルがそう問い掛けると、タタスではなくシャルルが答える。

「郵便担当に確認したところ、『ザッカリフ』と書いてあったそうですが、多分、あれは偽名です」

 何を根拠にシャルルがそう判断したのかは分からないが、確かにそれが悪意を持った贈り物であった場合、普通は本名は書かないだろう。タタスはそのまま話を続ける。

「ただ、その箱の中から出てきた鼠の数が、明らかに多すぎたんですよ。どう考えても、そんな大量の鼠が入りきるような大きさの箱じゃなかったのに。それに、開けるまでには箱からは一切音がしなかった」

 そう言われれば、タケルにもおおよそ見当はつく。

「なるほど、それは魔法の類いか何かか……。シャルル、何か心当たりはあるか?」
「無くは無い。無くは無いが……、出来ればお嬢には知らせたくないな、これは……」

 呟くようにそう答えたシャルルに対して、タケルは首を捻る。

「知らせたくない?」
「……この問題を解決してくれると言ってくれた以上、あなたには教えておこう」

 シャルルはそう言った上で、これまで隠してきた彼と「お嬢」の過去を語り始める(この時点で彼は「素」の状態になっていたため、年上のタケルに対しても敬語ではなくなっていた)。

「お嬢は今、アロンヌの実家と絶縁状態にある。彼女が実家を捨てたのは……、昔、父親の契約魔法師に手篭めにされそうになったからなんだ……。その時、それに気づいた僕が飛び込んで、どうにか食い止めたけど、アイツは『自分は何もしてないのに、突然この従者が襲いかかってきた』と言い張って、お嬢の父親もそれを信じてしまった。アイツはエーラムの偉い魔法師だかなんだかで、お嬢の家族はすっかりアイツに洗脳されてしまってる。実の娘の言うことすらも信じないほどにね。それで、お嬢の父親は僕を処分しようとした。そんな僕を庇おうとした彼女は、僕と一緒に家を出て行くと言いだしたんだ」

 それは確かに、堂々と公表出来るような話ではない。

「なるほどな……」
「その魔法師は、お嬢がこの学術院に来てからも、何度も手紙で『嫌がらせの品』を送ってきてる。ゲドウスとかヴィンドラスとか、いつも送り状の名前は違うけど、筆跡は同じなんだ。正体はあいつで間違いない」
「じゃあ、今回も?」
「おそらく。アイツは静動魔法師だ。大量の鼠を魔法の力で強引に箱の中に圧縮して詰め込むことも出来るだろう」

 実際にそんな魔法があるのかどうかは、シャルルは知らない。ただ、空間を操る能力を持つ制動魔法師であれば、それも可能なように彼には思えたのである。

「じゃあ、オルタンスさんにその鼠を送りつけてきたのがそいつで、もしかしたらそいつが学内で何かをやっているのかもしれないのか?」
「いや、多分、送りつけてきただけだと思う。ここに乗り込むほどの度胸はアイツにはない」

 ここでシャルルは、その「聖印喰い」が引き起こしたと思われる学長暗殺事件について、タケルにも一通り説明する。

「お嬢がこのことを知ると、きっと責任を感じて、もうこの学術院にはいられなくなる。と言っても、この学術院を去った後、彼女に行き場所がある訳でもない」
「そうだよな。そうなると、確かに知らせたくはないな……」
「お嬢はあの器量だから、家柄関係なく、貰ってくれる人を探そうと思えばいくらでも探せるとは思うんだけど……、彼女はその事件以来、『魔法師』と、そして『男性』に対して苦手意識を持つようになってしまった。日頃は表には出さないようにしてるけど、実は今でも、男性の教師や生徒に口説かれたりする度に、裏ではすごく怖がってる」

 そう言われてみれば、確かに彼女の周囲にいるのは(本来ならば男性の比率が圧倒的に高い技術学部であるにもかかわらず)いつも女生徒ばかりである。公務の都合上、男性と会話をする機会はあるが、彼女の方から積極的に公務以外の理由で男性と接している様子は見たことがない。ただし、そんな中で唯一の例外が存在する。それがシャルルである。彼女はシャルルとだけは、公的な場で以外でも一緒にいることが多い。

「僕のことが平気なのは、僕を『男』だと思っていないから。でもきっと、いずれ僕が大人になったら、今みたいな関係は続けられなくなる。だから、その前に、お嬢にはその苦手意識を克服してほしいと思ってる。ただ、その克服させるべき相手は、僕じゃない。僕と一緒にいる限り、お嬢は過去を忘れることが出来ない。だから、僕以外の誰かが、それを忘れさせてくれればいいと思ってるんだけどね」

 と言いつつ、彼は思わせぶりな視線でタケルを見る。

「なるほど……」

 タケルがその視線の意味に気付いているかどうかは定かではない。というよりも、今の彼は、昼から様々な事件に遭遇しすぎて、脳内の情報が処理能力を超過した状態であった。学内に現れた不審者、その不審者を撃退するために(禁止されている筈の)聖印を持ち出して戦った少年、ピーターとソフィアの不審な会話、そしてこの事件である。本来ならここで、聖徒会の一員であるシャルルに報告すべきこともあるのかもしれないが、今のこの状況で、何をどこまで話せば良いのか、判断がつかない精神状態に陥ってしまっていた。

「とりあえず、今回の件についていは寮長二人にも話をしているから、あなたも彼等と合流して対策を取った方がいいんじゃないかな。アイツの送り込んだ鼠が、この学生寮の中に入り込んでいる可能性もあるし」

 シャルルがそう言ったところで、タケルが反応に困っていると、タタスが横から口を挟む。

「まったく、許せないですね、その変態魔法師!」

 当然のごとく、二人の冷たい視線がタタスに突き刺さる。

「い、いや、だからね、旦那方、俺がその箱を開けなければ、お嬢はその鼠に噛み付かれて、死んでたかもしれないんですぜ」

 確かに、聖印を持つオルタンスの前に「聖印喰い」が大量に出現すれば、彼女は瞬殺されていたであろう。だが、それに対してはタケルが真顔で答える。

「それは! あくまで! 結果論! だから! それを良い様に言うんじゃない!」
「はい、すみません!」

 平身低頭するタタスに対してため息をつきつつ、タケルはシャルルにこう言った。

「分かった、じゃあ、レヴィアン達とも話してみる」

 こうして、ようやくタケルもまた、今回の事件に関わることになったのである。

2.9. 月と太陽

 一方、女子寮に帰還したブランジェは、入口でサンドラと遭遇する。ブランジェとは逆に、サンドラは寮の外に出かけようとしていたところであった。

「寮長、毒団子の件、お疲れ様でした」

 すれ違いざまにそう言って、彼女は足早にその場を去ろうとする。

「サンドラちゃん、どうしたの?」
「ちょっと、人と会う約束があって……」
「人と? こんな時間に?」

 既に陽は完全に落ちている。門限にはまだ余裕があるが、この時間帯に女生徒が外に出るのは、あまり感心されない。ましてや今日は「バレンタインデー」である。普通に考えれば、誰かとの逢引に行くようにしか思えない状況であろう。

「私にも、色々あるのです」

 珍しく、少しムキになるような口調でサンドラがそう言ったのに対し、ブランジェは心配そうな口調で更に問い掛ける。

「サンドラちゃん、その『これから会う人』って、この事件と関係しているの?」
「関係していない、と私は思いたいのですが……、まぁ、 関係していることはないでしょう。『彼女』にそんなことが出来るとは……、あ、いえ、何でもありません」

 サンドラがそのまま早足で立ち去るのに対し、密かにブランジェは尾行しようとする。それは決して見事な隠密とは言えなかったが、それ以上にサンドラが集中力散漫だったようで、サンドラは後をつけられていることに全く気付かないまま、微かな月明かりに照らされた薄暗い校舎の東側の区域へと向かう。
 そこには、サンドラを待っていた一人の青年の姿があった。ライザーである。真剣な表情でサンドラを見つめる彼に対して、サンドラは厳しい口調でこう言った。

「お前は一体、『ここ』に何しに来たんだ、イーラ?」

 「イーラ」という名前に、ブランジェは聞き覚えがない。一方、そう呼ばれたライザーは、サンドラに対してこう言った。

「分かっていたのですね、姉さん」
「それで変装したつもりだったのか? まったく、実の姉を何だと思っている」
「分かった上で、私をあえて泳がせていたのですか?」
「『裏切り者』である私を殺しに来たのであれば、素直に私が相手をすれば良いだけだと思って、様子を伺っていた。だが、ここまで私に何もしなかったということは、そういう訳ではないらしいな」

 サンドラが日輪宣教団出身であることは、当然ブランジェも知っている。もし、ライザー(イーラ?)がその彼女を「裏切り者」扱いしているとするならば、おのずとその正体も推測出来る。そして、これに対する彼の返答は、その推測を裏付けるに十分な内容であった。

「姉様が、心の底から混沌に毒されてしまったのかどうかを確認したかったのです。そして、姉様の心を奪った月光修道会の連中が、どんな奴等なのかも確かめたかった」
「で、どう思った? 生物学部や園芸部の女学生達からは、随分と人気なようだが」

 半分からかうような口調ではあるが、サンドラの表情は真剣なままである。そしてライザーもまた真顔で答えた。

「あの人達の心は純真です。そんな彼女達を嫌いになれる筈がない。でも、その純真な心が、混沌にまみれたこの学術院の中にいることによって汚染されつつある現状が、私には許せない」
「言いたいことは分からんでもない。確かに、混沌は危険な存在だ。それに頼る道は堕落に繋がる。だが、現実問題として、我々人間は弱い。聖印の力だけでは足りぬのだ。今のこの世界の人々を救うには」
「そんなことを言う姉様は、嫌いです。昔の姉様は、そんな弱音を吐いて、混沌に手を出す自分を正当化する様な卑怯な人ではなかった筈」
「すまないが、それはお前の中の勝手な幻想に過ぎない。私は、自分の限界をわきまえている。少なくとも今の私では、自分一人で世界の全てを救えるだけの力はない。ならば、同じ志を持つ者達と手を組むしかないのだ。たとえそれが、混沌の産物に頼る者達であっても」
「では、姉様は、必要であればエーラムやパンドラとも協力するおつもりですか?」
「そこまでは言っていない。確かに、混沌は危険だという自覚は、もっと多くの人々の間で共有すべきだ。だからこそ、そのことを教えてくれる唯一神様への信仰を止めるつもりはないし、お前や日輪の人々の様に、あくまでも混沌を拒み続ける人々も、この世界には必要だと思う。混沌無き世を作るための道標として、お前達がこの世界の太陽になってくれればいい。だが、太陽だけでは照らしきれない時もある。その時のために、月光が必要なのだ」
「そんな屁理屈は聞きたくありません!」
「分からんなら、分からんでもいい。ただ、お前がこの学術院の人々に仇為すつもりなら、私は今すぐお前を学術院から追放する。だが、お前があくまでも一学生として、この地で『混沌無き世界の新秩序』を作るための知識や技術を学ぼうという気があるなら、止める気はない」

 そう言われたライザーは、悩ましげな表情を浮かべる。

「この学術院は、居心地がいい。だから、ここに居続けたら、いずれ私も月光の思想に染まってしまうかもしれない。でも、そんなことは許されない」
「その程度で消えてしまう信念なら、とっとと捨て去ってしまえばいい。結局のところ、我々君主は、人々を守るために聖印を有している、その事実だけは、どうあっても変わらんのだ。お前が守るべき対象の中に、この学術院の人々が加わったところで、何を恥じる必要があろうか」
「あなたの言っていることが正しいのかどうか、今の私には分かりませんし、分かりたくありません」

 そう言い残して、ライザーはサンドラに背を向けて去っていく。そんな彼と入れ替わりに、ブランジェがサンドラの前に現れた。

「サンドラちゃん、今の話は、どういうことかしら? あなたが心配で、ついてきてしまったのだけど……」

 サンドラは内心動揺しつつも、平静を装いながら答える。

「……聞かなかったことには、して頂けませんかね?」
「聞かなかったことにしたかったわ。でも、そんな軽い内容じゃないでしょ?」
「では、どうします? 裏切り者を招き入れた私を糾弾しますか? 私に『聖徒会』としての資格がないと仰るのであれば、私のこの『書記』の肩書き、いつでもお譲りします」

 覚悟を決めた表情でそう語るサンドラに対して、ブランジェは泣き出しそうな声で訴える。

「どうして、そんなことを言うの? 私なにもあなたを責めようとしている訳じゃないわ。サンドラちゃん、辛かったわよね……、だって、実の弟さんなんでしょ? こんな風に対立して、切なくない訳がないわよね?」

 ブランジェは目を潤ませながら、サンドラに向かって歩を進め、そして彼女を抱き締める。サンドラはどう反応すれば良いのか分からない表情を浮かべながらも、毅然とした声色で答えた。

「これは私の家の問題です。そして、一つ言えるのは、さっきの話を聞いていたのなら分かっているのでしょうが、私とライザー、いや、もうイーラと言った方がいいでしょうか、私達は日輪宣教団に助けられた身です。私は彼等と袂を分かってここに来た。しかし、おそらくイーラはそんな私が許せなくて、私を監視するために潜り込んだのでしょう。ただ、日輪宣教団が学長を暗殺するために『聖印喰い』を使うということは絶対にありえない。だから、イーラはこの件とは全く無関係の筈です。そのことだけは信じてもらいたい」

 日輪宣教団は、どんな理由があろうとも、混沌を人為的に活用することを禁じている。ましてや、神に与えられた天恵の象徴である聖印を喰らうような魔物を利用するなど絶対にありえないということは、言われるまでもない道理であった。

「分かったわ。サンドラちゃんが言うなら私は信じる。でも、後々対処しなければならない問題なのよね。この件が落ち着いたら、また一緒に考えましょう」
「私としては、イーラがこのまま、この月光の理念を理解してくれるまで待ちたいと思っていたのですが、それは許されないことでしょうか?」
「それもいいんじゃないかしら? 許すとか許さないとか、私が決めることではないと思うし」
「でもいずれ、あなたにはその権限が回ってくる可能性もある。あなた自身も分かっているでしょう? 次期会長の最有力候補はあなたですよ」

 家系的に考えれば、どう考えてもそれが筋である。ブランジェの父であるアドルフの本音としては、いつまでも『ヴァレフールの若造』に聖徒会を任せたくはない。そんなことはブランジェにも分かっていた。

「そしてもう一つ、仮に現会長がこのままアントリアに帰化してアントリアに尽くすことになったとしても、それでも『会長の席』が空く可能性はあります。なぜなら今、『学長の席』が空いたのですから。18歳の領主というのは、今の御時世、決して珍しい話ではない。もちろん『逆』の可能性もありますが」

 この神聖学術院の学長を務めていたミリシードは、同時に学園町であるバランシェの領主でもあった。無論、今までがそうであったからと言って、今後もそうでなければならない理由はない訳だが、いずれにせよ彼の後任として、会長を誰かに譲った後のエルリック、あるいはブランジェが任命される可能性は、どちらも有りうる話である。

「つまり、いずれは私の聖印をあなたに預けることになるかもしれない。そのことも踏まえた上で、あなたが下してくれた処分に対して、私は従うつもりでいるし、イーラにも従わせるつもりでいます」
「どうしなきゃいけないとか、そういう話は一旦抜きにして、サンドラちゃんはどうしたいのかしら? 弟さんと一緒に、まだこの学術院にいたい?」

 ブランジェのその発言に対して、サンドラはどこか「罪悪感」を感じているような表情に見えた。直感力に優れたブランジェは、それがサンドラの中にまだ何か「隠していること」があるからのように思えたが、それが何なのかまでは分からない。

「私は、私を受け入れてくれた、この学術院と月光修道会と、そしてこの国のために尽くしたい。出来ればイーラにも、私の傍にいてほしい」

 戸惑いながらもそう言ったサンドラに対し、ブランジェは改めて問いかける。

「サンドラちゃん、まだ何か、言えてないことはない? 言いたくないことならいいけど、あなたの心にしこりが残るなら、言っておいた方がいいわ」
「それは、イーラ自身がいずれ言わなければならないことです。いや……、でも、言わない方がいいのかもしれない。言ったら言ったで、あの子の立場が色々『面倒なこと』になります」
「つまり、私は聞かない方が良いことなのかしら? それとも、知ってた方が、あなたや彼のために手助け出来る?」
「出来れば、知らないでおいて頂きたい」

 明らかに言いたくなさそうな雰囲気を感じ取ったブランジェは、これ以上踏み込むのはやめた(なお、この時、ブランジェが大陸北部における「イーラ」という名前の一般的な用法に気付いていれば、その「秘密」に気付けたかもしれないが、残念ながら彼女には、ブレトランド外のことに関して、そこまでの知識はなかった)。

「サンドラちゃん、色々大変だったのね。教えてくれてありがとう」
「御配慮頂き、ありがとうございます」
「今日、一人で寝られる? 辛くないかしら?」
「その意味ではむしろ、イーラの方が心配ですが、大丈夫でしょう、あの子は」
「私の部屋に来る? 何もないけど、お茶とお菓子くらいなら出せるし、一人で考え込んでいるよりはいいんじゃないかしら?」
「この事件が解決したら、ご相伴に預かることにしましょう」
「何かあったら、いつでも言ってちょうだいね」

 こうして、ひとまず二人は門限前に女子寮へと戻った。そしてブランジェは、今後の対策について男子寮長達と相談するために、両寮の間に位置する警備用の宿直施設へと向かうのであった。

3.1. 寮長会議

 宿直施設内の一角を借りて、クローム男子寮長のレヴィアンと副寮長のタケル、そしてフローレス女子寮長のブランジェの三人が顔を合わせる(なお、フローレス女子寮の副寮長はこの時、所用で学外に出ていたため不在であった)。当初、タケルは「重要参考人」としてタタスも同席させようかと思ったが、オルタンスの実家のことを話す訳にもいかない以上、彼にはひとまず自分の部屋で謹慎させることにした。

「シャルルに聞いたんだけど、なんか今、大変なことが起きてるらしいな」

 タケルがそう切り出すと、レヴィアンがここに至るまでの事情を彼に説明する。

「それって、投影体の仕業なのか?」
「分からない。ただ、ソフィアさんが偶然持っていた本のおかげで、その正体を突き止めることは出来た」
「ソフィアさん、か……」

 訓練場の裏での一件を思い出したタケルが複雑な表情を浮かべたのに対し、彼女に対して色々と特別な想いを抱いているレヴィアンが突っ込む。

「何か知ってるのか?」
「実は、ウチの学部のピーターとソフィアさんが話をしているのを聞いてしまって……」

 タケルは、あの時聞いた二人の会話をかいつまんで話す。

「この話を聞く限り、あの二人はどちらも投影体なんじゃないかと思う。しかも、どうもソフィアさんの方が、その、何かを企んでいるかのような……」
「それって、彼女がこの事件を引き起こしているってことか?」

 レヴィアンがやや声を荒げながらそう反応する。

「分からないけど、でも、そのタイミングで彼女が鼠のことを調べてたってのは、不自然じゃないか? そう考えると、俺は、怪しいのはソフィアさんなんじゃないかな、と……」
「いや、でも、それは……」

 レヴィアンとしては、そうは思いたくない。そう思いたくはない故に、必死で彼女を擁護すべき理由を考える。

「ソフィアさんは、犯人ではないと思う。彼女が犯人だったら、事件が終わった後で、鼠について調べる必要はない筈だ」

 それは確かに正論である。とはいえ、ならばなぜ、あのタイミングで彼女がその図鑑を開いていたのかの理由が謎のままではある。

「少なくとも、それだけの情報では、断定はしかねますわ」

 二人の話を聞いた上でブランジェが客観的にそう言うと、タケルも素直に頷いた。

「まぁ、確かにな。二人は、今の話を聞いた上で、何か心当たりはあるか?」

 本来ならば、この事件の大元の黒幕に関する重要な情報をタケルは握っているのだが、シャルルが言っていた通り、それを表沙汰にすることはオルタンスの立場を危うくする可能性があるため、この場で口にする訳にはいかない。

「わたくし達は鼠対策の方に回っていましたから、犯人探しについてはまだ何もわかりませんの。ごめんなさい」
「僕も罠の設置が終わってすぐにこっちに来たので、特におかしなものを見たことはないです」

 ここで一旦会話が途切れた後、レヴィアンはエルリックの発言を思い出す。

「会長は、自分達が囮になるのが良いんじゃないか、と言ってたけど……」
「最悪、それをお願いするしかないのかもしれませんわね。ひとまず聖徒会の四人の方々には警戒してもらいましょう」
「確かに、その鼠が襲うのが聖印を持つ人間だけだとしたら、襲われる人間は絞れる訳だよな」

 タケルはそう言ったところで、「山の上で遭遇した美少年」が密かに聖印を隠し持っていたことを思い出す。だが、本人が明らかに隠したがっていた以上、今この場で彼のことを話す気にはなれない。

(まぁ、俺があいつの近くにいればいいか)

 ちなみに、タケルはこの時点で、あの美少年の(学内での)名前が「ライザー」であることは(寮内の他の学生達からの聞き込みを通じて)確認していた。その上で、タケルは「今の自分がやるべきこと」について思案を巡らせる。
 なお、レヴィアン達の働きかけもあって、翌日の講義は鼠への警戒のために休講になった。大半の学生にはその理由は知らされなかったが、「バレンタインデーの翌日が休講」ということで、必然的にこの日の夜は「良からぬ行為」に走る者達が現れることが予想されたが、今この場にいる三人には、そんな「不埒な若者達」を取り仕切る余裕はなかったようである。
 結局、明日以降の対策については具体的な対策がまとまらないまま、それぞれの寮の門限の時間となり、この会議は散会することになった。

3.2. 幼少期の記憶

 自室に戻ったレヴィアンは、今回の事件への対策を講じながら、改めて「容疑者」としてのソフィアについて、様々な想いを巡らせていた。
 なぜソフィアがあの時、あの図鑑を開いていたのか、その答えはまだ出ていない。もしかしたら、彼女があの時点で既に事件を察知していて、独自に解決しようとしていたのかもしれないが、だとしたら、なぜ自分達に協力を要請しないのか。そもそも、なぜ自分のことをここまで避けるのか、レヴィアンには皆目見当がつかない。
 レヴィアンとしては、彼女に嫌がられるようなことをした記憶はない。また、今までに彼は、気付かぬうちに誰かに嫌がられ、避けられていたこともない(少なくとも自分が自覚している範囲では)。そして、会長のエルリックもまた彼女から避けられている様子であり、会長も自分も、彼女に昔会ったことがあるような気がする。だとすれば、二人の共通点である「ヴァレフール貴族」という出自が、彼女に避けられている最大の理由であると考えるのが自然であろう。
 ソフィアは「ヴァルドリンドの没落貴族の末裔」と自称しているが、実際のところ、その素性を証明出来るものはない。彼女が入学したのはつい一年ほど前のことであり、それ以前にどこで何をしていたのかは不明である。そんな彼女が入学前にレヴィアンやエルリックと出会ったことがあるとするならば、彼女の自称する出自そのものも怪しく思えてくる。
 そして、地下の書庫で彼女がレヴィアンに対して見せた表情が、彼の中ではずっと引っかかっていた。自分は以前、どこかで「あの表情の彼女」を見た気がする。いつもならば近付くことすら出来ずに優雅に避けられていた彼女に久しぶりに接した時に見せたあの「驚いた顔」が、とても懐かしく思えたのである。
 真実を知りたい。その真実が、自分にとって良いことであれ、悪いことであれ、思い出したい。そう思いながら自分の記憶を可能な限り昔にまで遡って紐解いていった結果、レヴィアンは遂に、脳裏の奥底に眠っていた小さな「記憶の欠片」にたどり着く。
 それはまだ彼が小さな子供だった頃、ヴァレフールの貴族達による何かの祝賀会の際に出席した彼は、自分と同じくらいの歳の貴族令嬢を、偶然の出来事で驚かせてしまったことがある。その時に見せた表情と、先刻のソフィアの表情が、彼の記憶の中で完全に重なった。
 その少女の名は、ロザンヌ・シュペルター。ヴァレフール七男爵家の一つであるシュペルター家の長女(第三子)である。レヴィアンの記憶が正しければ、ロザンヌは子供の頃に魔法の才能を見出されてエーラムに渡っており、それ以来会っていない。だが、レヴィアンの記憶の底から蘇った幼少期の彼女の表情は、確かに今のソフィアと合致していた。

「そうだった、あれは、ロザンヌだ……、なんで今まで気付かなかったんだろう? 出会った時から惹きつけられていたのは、だからだったのか。でも、彼女が魔法師協会の一員になっているということは……」

 こうして、レヴィアンの中では「今の自分が最初に為すべきこと」が決まった。事件を解決するためにも、そして、自分の中の感情を整理するためにも、まずは今、この問題にはっきりと決着をつける必要があると確信したのである。

3.3. 偽装廃棄作戦

 一方、副寮長のタケルもまた、自分の中のモヤモヤした感情に決着をつけるために、ある決意を固めて、同じ男子寮の住人名簿を確認していた。
 彼は今回の鼠騒動を早急に解決すべきだとは思っていたが、それについては「頭が悪い自分」がどうこう口出しするよりも、優秀な寮長二人に任せておけば大丈夫だと思っていた。むしろ、今の「中途半端な精神状態」のままでは二人の足を引っ張るだけだと考えた彼は、まず「本来の自分」を取り戻すことが、何よりも先決すべき問題だと考えていたのである。
 オルタンスに渡すことも出来なかったチョコレートを見つめながら、彼は意を決して、ある一人の学生の私室へと向かう。それは、あの憎きライザーの部屋であった。
 タケルの中では「ライザーに負けた」という意識が強すぎて、それを解決しなければ「その先」には進めない。だが、彼との決着をつける前に倒すべき相手がいた。それがあの「仮面の投影体」である。まずは奴を倒したい。そして奴をおびき出すために、もう一度ライザーに「同じこと」をやってもらおうと考えていた。
 ライザーの部屋の扉を叩き、就寝直前であった彼を呼び出したタケルは、恥を忍んで事情を説明した上で、懇願する。

「俺はお前と決着をつけたい。だが、まずその前に、俺はあいつに勝たなきゃいけないんだ。だから、悪いけどもう一度、チョコを地中に埋めるフリをしてくれないか?」

 自分があれだけ激しく糾弾した「チョコを埋める」という行為を、「自分が負けた相手」に頼むというのは屈辱の極みであるが、あの変態投影体を確実に呼び出す方法が、今のタケルにはこれ以外に思いつかなかったのである。

「分かった。実は今、私も色々モヤモヤしていて、発散する場がほしかったところなんだ」

 ライザーはそう答える。幸い、彼はあの後にも別の女生徒達から貰ったチョコがあり、それらも一切手をつけないまま、どうすべきか持て余していたらしい(タケルとしては、自分が買ったチョコをその偽装用に用いようかとも思っていたが、その必要は無くなった)。

「で、それをいつ決行する? 今からか?」

 思った以上に乗り気でそう言ってきたライザーに対して、タケルは冷静に答える。

「奴が『夜目が効く投影体』かどうかは分からないからな。もし、こちらだけ視界が厳しい状態で戦うことになったら不利だから、ここは夜が明けるのを待とう」

 タケルは「戦い」のことに関しては、人一倍頭が回るらしい。

「分かった。ところで、念のため聞くが……、昼のことは、誰にも言っていないな?」
「自分が負けたことを言いふらしたりはしねえよ」

 ライザーとしては、別にタケルが「負けた」とは思っていないのだが、ひとまず彼がそう答えたことには安堵した表情を見せる。

「では明日」
「同じ場所で」

 そう言って、二人は別れた。それぞれに「人には言えぬ想い」を胸に秘めながら。

3.4. 慰問と本音

 こうして男子寮長と副寮長がそれぞれに「自分の個人的な感情」に突き動かされた決意を固めていた頃、女子寮長もまた、事件の解決とは別次元で、「今の自分がやるべきこと(やりたいこと)」を実践しようとしていた。
 彼女はまず、副会長のオルタンスの部屋を訪問する。ブランジェを出迎えた彼女の様子は、少し気落ちしているように見えた。

「オルタンスちゃん、調子はどうかしら? 今日の一件があったから、心配で……」
「確かに『聖印喰い』は私達にとっては脅威です。ただ、もしかしたらそれは、私が原因なのかもしれない。嫌な予感がするんです。シャルルは何も言ってなかったけど……」
「それは、話してすっきりすることなのかしら? 嫌だったら、話さなくてもいいけど、話すことで楽になることもあると思うから」

 ブランジェにそう言われたオルタンスは、意を決して、彼女に「事情(自分が実家を捨てなければならなくなった魔法師の存在)」を一通り伝える。その上で、その魔法師がいつもこの時期には何か「嫌がらせの贈り物」を送りつけていることを告げ、今年はまだそれが届いていないことから、もしかしたら、例の摘発されたストーカーの男が勝手にその贈り物を開けたのかもしれない、という憶測にまで至っていた(存外、彼女は勘が鋭いようである)。

「でも、それはあなたのせいなのかしら? もしその魔法師が犯人だったとしても、それはあなたのせいではないでしょ?」
「私がここにいなければ、この街がそうならなかったかもしれないのです。あくまで、私の推測が正しければ、ですが」

 オルタンスとしても、自分のこの憶測が外れていること願いたい。だが、もし当たっていたら、と思うと、罪悪感で心が押し潰されそうになる。

「そんな悲しい顔をしないで。どう考えても一番悪いのはその魔法師の方だと思うわ」
「勿論その通りです。だから私はエーラムに媚びへつらう父親と決別して、聖印教会を頼る道を選びました。ですが……、まぁ、確かに今の時点で類推でこれ以上話しても仕方がないですね。ありがとうございます。話を聞いてくれて、少しは楽になりました」
「今日はゆっくり寝なさい。ね? また何かあったら教えてね」

 そう言って、ブランジェはオルタンスの部屋を去る。続いて彼女は「本命」であるサンドラの部屋の扉を叩いた。

「サンドラちゃん、ちょっとよろしいかしら?」
「何でしょう? 話すべきことは、概ねさきほど話したと思うのですが」
「あなたもお家のことを話してくれたから、私もお家のことを話そうと思って。というより、私が、聞いて欲しくて」
「ほう? ……分かりました、では、どうぞ」

 そう言って、彼女はブランジェを部屋に入れる。あまり他人を入れたことがなさそうな質素な室内で、ブランジェはおもむろに今の自分の境遇について語り始めた。

「あなたの悩みに比べたら、全然大したことじゃないんだけど……、ねぇ、殆ど会ったこともない、あまり親しくない人と、結婚の話が持ち上がったら、どうしましょう?」

 唐突に切り出された話であったが、サンドラはすぐに大筋の事情は理解する。

「なるほど……。名門貴族の方々には、やはりそのような悩みもあるのですね。私には、どうこう言う資格はありませんが、それはあなたの御父上が進めている話なのですか?」
「そうなの。でも、私はまだ18よ? 普通に友達がいて、仲良くなる男性がいて、お付き合いして、という、当たり前のことがしたいのよ」

 ちなみに、実際に現時点で彼女の結婚相手としてアドルフが想定しているのは、現アントリア子爵代行マーシャル・ジェミナイである。本来は最大の政敵である騎士団長バルバロッサの養子(甥)であるが、だからこそ、彼と娘の婚儀を通じて国内の安定を図ることこそが最良の国策であると彼は考えていた。とはいえ、今のブランジェとしては、そんな「大人の事情」を素直に受け入れる気にはなれない。

「あなたを慕っている人は、男性も女性も沢山いると思いますよ、この学術院には」
「サンドラちゃんは、私を慕ってくれる?」

 「本命」の相手に対して直球でそう切り込んだブランジェであったが、サンドラは落ち着いた物腰で淡々と答える。

「正直、私には、人を慕うということがどういうことなのか、よく分かっていません。でもおそらく、今の私はあなたに対して、一人の君主として、深い信頼と安心感を得ています。それは慕っているということなのかもしれません」
「私もよく分からないの。でも、よく分からないまま、どこかに嫁ぐということはしたくないわ。私だって、そりゃあ、御伽噺のようにはいかないけれど、素敵な王子様が迎えに来てくれないかな? とか思ったりもするし、一緒にご飯を食べに行ったり、お買い物に行ったり、デートとかもしてみたいのよ」

 いつもの寮長とは異なる奇妙なテンションにサンドラは戸惑いつつも、ひとまずは彼女のペースに合わせて話を続ける。

「では、どのような男性が好みなのでしょうか?」
「それも分からないのよ! だから、私、サンドラちゃんのことは、とても好きなのよ。だから、せめて私と『恋人ごっこ』をしてほしいな、と思って」

 その申し出に対して、サンドラは意外そうな顔をしつつも、それほど動揺はしなかった。サンドラは過去にも、女性に言い寄られたことは何度もある。ただ、彼女から見てブランジェは、自分と同じ「言い寄られる側の女性」だと思っていたので、その彼女の方からこのようなアプローチがあったことが、サンドラにとっては意外だったのである。

「『ごっこ』ということであれば、正直、そのようなことを求められたことは私もこれまでに何度かありました。私はどうも、男性よりも女性に好かれるタチのようなので。正直、私も男性と接しているよりも、女性と一緒にいる方が気が楽です。だからこそ『彼女』も……、あ、いえ、なんでもないです」

 ここでサンドラが言うところの「彼女」とは、数刻前に寮の前での会話に出てきた「彼女」と同一人物なのだが、そのことにはブランジェは気付かない。そしてサンドラは気付かれていないことを祈りつつ、話を続ける。

「ですから、あなたに対しても、あなたの心の安らぎ、とまでは行かないまでも、気を紛らわせる程度の、心の中のモヤモヤを晴らす程度のことであれば、私にも出来るかもしれません」
「ありがとう、正直、この話を誰にすればいいか分からなくて。じゃあ、『ごっこ』だけれど、恋人同士になりましょう。はい、指切り」

 そう言って、彼女は右手の小指を差し出す。これは異界における「契り」の儀式らしい。

「それであなたの心が安らぐというのであれば、喜んで」

 サンドラは自分の右手の小指を彼女の小指に重ね合わせる。その姿に、ブランジェは満足気な笑みを浮かべる。

「一緒にご飯を食べて、いっぱいお話しして、お買い物に行ったりするの。手を繋いで帰ったりとか。そういうのに憧れてるの」
「全てを解決したら、ぜひそうさせて頂きましょう。ただ、『聖印喰い』は非常に危険な存在のようです。少なくとも、私達よりも遥かに格上の学長が殺されているのですから。出来ることならば、あなたに……」

 サンドラはここで「何か」をしようとしながらも、途中でやめる仕草を見せる。

「いえ、それはダメですね。私の立場では」
「サンドラちゃん、あなたが言いたくないのであれば、それでいいわ」
「いえ、言うとかそういう訳ではなく……」

 彼女は、自分の聖印の一部を切り取って、ブランジェに渡そうとしたのである。現在の彼女の聖印は、学長の聖印が消滅したことにより、一時的に独立聖印となっている。この状況であれば、誰に気付かれることもなく自分の聖印を密かに誰かに分け与えることも可能であり、ブランジェに聖印を与えることで、彼女に「力」を付与することも可能であったが、サンドラの中では今でもこの聖印はあくまで「借り物」であり、自分の独断で切り分けることは許されなかった。
 それに、冷静に考えてみれば、今のこの状況でブランジェに聖印を与えるということは、むしろ彼女を(「聖印喰い」の対象にするという意味で)危険に晒すことになる。そのことに気付いた彼女は、改めてブランジェにこう言った。

「とりあえず、今の私は『聖印喰い』に狙われる可能性が高い。無論、私も十分に注意を払いますが、学長のように不意を突かれて殺されてしまうかもしれない。だからこそ、あなたには『私の背中』を守って頂けると助かります」
「もちろん、可愛いサンドラちゃんの為だもの!」

 こうして、ブランジェは晴れて「意中の相手と四六時中一緒にいられる権利」を手に入れた。そしてこの日の夜、彼女は愛するサンドラを守るために、鼠を一撃で殺せるほどの猛毒を、解剖用の短刀に念入りに塗り込みつつ、満面の笑みでその凶刃を眺めるのであった。

3.5. 雑草の正体

 翌日の早朝、タケルとライザーは落ち合った上で、学内であまり人通りが少なそうな、ライフル射撃場の裏の林へと向かった。
 ライザーが昨日と同じ要領で穴を掘り、少し離れた場所からそれをタケルが監視する。だが、ここで想定外の方向から、想定外の敵が現れた。ライザーの足元に「鼠らしき何か」が現れたのである。「大柄な仮面の男」が現れることを想定していたタケルの視線は必然的に「上」を見ていたため、その足元に気付くのが遅れてしまう。

「ライザー、危ない!」

 タケルはそう言って石を投げるが、すぐに避けられて、鼠はライザーのズボンの中へと入り込んでいく。

「な、な、なんだ、これは!?」

 ライザーは思わずガッと両手でズボンの上からその鼠を押さえ込もうとする。その時点で、既に鼠は腰のあたりにまで登って来ていた。この体勢では、聖印を出して斬りかかるには難しいし、もしこれが(事前にタケルから話を聞いていた)「聖印喰い」であった場合、聖印を取り出すこと自体が危険である。そう判断したライザーは、タケルに向かって叫んだ。

「私ごと殴れ!」

 純粋な肉体能力はライザーよりもタケルの方が明らかに高い。素手で鼠を叩き潰すなら、確かに彼の方が適任だろう。タケルもその意図はすぐに理解し、言われた通りにライザーが手で押さえていた左足の根元のあたりに向けて、全力の拳を叩きつける。ライザーに押さえつけられていたこともあり、その一撃は鼠に直撃し、鍛えられたその拳の衝撃で鼠はあっさりと消滅する。どうやらあの図鑑に書いてあった通り、身体的な耐久力自体は、普通の鼠と大差ないらしい。
 だが、その直後にそこから混沌核が広がり、彼のズボンとジャケットの一部が不気味な色に変色していく。投影体は倒した直後に浄化しなければ、その混沌核からまた新たな投影体が出現する可能性が高い。そのことに気付いたライザーはすぐに聖印を取り出した上でその混沌核を浄化するが、その結果、既に混沌に侵されていた部分の服の生地が消失してしまう。
 次の瞬間、タケルは消失した服の下から露わになったライザーの体型に「違和感」を感じる。それは、男兄弟の中で育ち、男子寮で副寮長を務め、基本的に女っ気のない生活を送ってきた彼にとってはあまり見慣れていない、明らかに「男性とは異なる腰のライン」であった。

「な!?」

 タケルが驚いてそう叫んだのを見て、ライザーは自分の服が破れていることに気付き、慌てて隠そうとする。

「お、お前は何も見ていない! いいな!?」

 動転した様子でそう言いながら背を向けるライザーに対し、タケルもまた、背中を向けつつ、自分の上着を脱いで、ライザーの体に被せる。

(ちょ、ちょっと待て、コイツが女!? じゃ、じゃあ、なんであの変態野郎は出てきたんだよ)

 おそらく、ナチュラルに「イケメンがチョコを捨ててる」と勘違いしたのであろう。所詮、本能だけで生きている変態投影体の判断力など、その程度のものである。

(あのクソがぁ! てか、俺、女に助けられて、その女相手にリベンジマッチするつもりだったのかよ? なんだよそれ、あり得ねえよ、何やってんだよ、俺……)

 そう、「彼女」はサンドラの「弟」ではなかったのである(ちなみにこの世界における「イーラ」とは本来は女性名である)。

「すまない、本当に助かった」

 背中を向けた状態のまま、明らかに動揺した様子のライザーがそう言ったのに対し、タケルもまたそれ以上に動揺した声色で答える。

「いや、こっちこそ、色々とすまん。ただ、これだと『アイツ』を呼び出すことは出来なさそうだな……」

 もっとも、この状況にあの変態投影体が気付いているかどうかは分からないのであるが。

「一つ、誤解なきように言っておくが、私は別に、男性に紛れて男子寮に入って何かをしようと考えるような変態ではないんだ」
「あ、あぁ」
「いや、別に、男性に興味がないという訳ではないんだが、色々と事情があって、その、なんというか……」
「まぁ、昨日から色々と『事情のある奴』は見てきたからな」

 「実は投影体かもしれない」などといった疑惑を抱えている生徒達に比べれば、性別の差など、大した問題ではない。だが、それでも、タケルの中ではこれまで想定していた全てがひっくり返るほどの衝撃であった。

(これじゃ、計画がパーになっちまったぜ……)

 彼としては、変態投影体を倒した後に、改めてライザーに決闘を申し込んで、勝って、自信を取り戻したところで、オルタンスに改めてチョコを渡して、告白するつもりだった。だが、さすがに女生徒を相手に私怨で決闘を申し入れるなど、彼の美学としては到底ありえない。
 タケルが内心でそんな葛藤に苦しみながら黙っているところで、ライザーが問いかけた。

「騙していたことを、怒りはしないのか?」
「そりゃあ、なんていうか、こう、言葉に出来ねえから、あれだけどよ、別に怒るようなことじゃねえよ。俺のけじめの問題だからな。あぁ、怒ることじゃねえ」

 タケルはもはや、完全に頭が回らない状態になっていた。二人共、ここから何をどうすればいいのかも分からないまま、ただ無為に時間だけが流れていくのであった。

3.6. 新たな君主

「よく眠れた?」

 サンドラの部屋を訪れたブランジェがそう声をかけると、彼女も笑顔で答える。

「お陰様で」
「良かったわ」
「では、鼠の駆除に参りましょう。私が出歩いて、私を狙って出現したところで、あなたにそれを退治してもらう。それが一番でしょう」
「分かったわ。毒を使うことなら任せて。ふふふ」

 特性の毒を塗った解剖用短刀を手に持ちつつ、ブランジェはサンドラと共に学内の哨戒を始める。警戒令を発してることもあって人通りの少ない学内の公道を、主に足元を警戒しながら慎重に歩を進めていたブランジェは、建物の物陰から、一匹の「鼠のような何か」がサンドラを狙っているのを発見する。

「見つけましたわ」

 彼女は小声でサンドラに耳打ちすると、彼女も頷く。

「では、私が挑発するので、出てきたところを、お願いします」

 そう言って、サンドラがあえて鼠の方に向かうと、即座に物陰から鼠が彼女に向かって飛びかかる。だが、それよりも早くブランジェがサンドラの前に立ちはだかり、彼女は毒刃で鼠を一瞬にして切り裂いた。直後に鼠の身体は消滅するが、それと同時に出現した混沌核が、サンドラの手で浄化されるより前に、そのままブランジェの身体に飛び付き、ブランジェの身体に入り込もうとする。
 混沌核に触れた者には、三種類の未来が待ち受けている。一つは、混沌核に身体を完全に支配されてしまう未来。それが大半の者達が辿る運命である。身体を保ったまま乗っ取られるか、もしくは新たな何かに書き換えられるための素材となるか、いずれにせよ、そうなってしまった者には、その先の未来はない。実質的には「死」と同義である。
 だが、一部の者達は、自分の自我を保ったまま、その混沌を自分の身体に「邪紋」として取り込むことが出来る。それが「邪紋使い」と呼ばれる存在である。だが、彼等もまたいずれはその邪紋に取り込まれることで、完全な混沌の産物となってしまう可能性が高い。それ故に、聖印教会の中には、邪紋使い自体を「いずれ必ず人類に害を為す存在になる」と考えて、危険な投影体と同様に「排除すべき対象」として考える人々が多い。その意味では「人間としては死んだも同然の存在」とみなすことも出来る。
 これに対して、混沌核に触れながらも「人」として生きていける道が一つだけある。それは、かつて始祖君主レオンを初めとする幾人かの君主が成し遂げたと言われる「混沌核を聖印に書き換える」という離れ業である。聖印教会の中では、それは「神に選ばれた特別な存在」だけが可能な奇跡であるとされており、その奇跡を成し遂げた人々には教会から惜しみないほどの栄誉が与えられるものの、あまりに危険な行為であるため、無闇にそれを試みることは推奨されていない。
 だが、この時、ブランジェの中で反射的に「何か」が動いた。彼女は自分の中に入り込んできた混沌核にそのまま自身と同一化させ、その上で、無意識のうちに「神の使徒」としての自身の高貴な魂をそこに重ね合わせると、次の瞬間、彼女の身体から、光り輝く紋章が浮かび上がる。それは紛れもなく「救世主」の聖印であった。
 ブランジェの体内の混沌核を浄化するために聖印を取り出していたサンドラは、自分と同じかそれ以上の輝きを放つブランジェの聖印を目の当たりにして、驚愕の表情を浮かべる。

「そこまでの力が、あなたに……」

 無意識のうちに聖印を作り上げたブランジェ自身も、まだ自分の感情がこの状況に追いついていない状態であった。

「やはり、あなたがこの地に来て、そして私と巡り合ったのは、神のお導きだったのですね」

 聖印の規模自体はまだ小さいが、自力で混沌から作り出したということ自体、極めて大きな価値がある。サンドラは彼女に跪き、そして顔を上げてこう言った。

「新たな君主の誕生に、神の祝福を」

3.7. 新たな居場所

 一方、その頃、レヴィアンはロザンヌを探していた。彼女に会って、確認しなければならないことがある。そして、伝えなければならないことがある。その想いから彼は早朝の中央図書館へと向かう。すると、開館と同時に受付事務のカウンターで彼女の姿を見つけた。

「あ、すみません、わたくし、本の出納に行って参ります」

 レヴィアンの姿を見るなり、彼女はいつも通りに彼を避けてその場から立ち去ろうとするが、レヴィアンはそんな彼女の腕を掴み、小声で語りかけた。

「ロザンヌ……」

 次の瞬間、彼女もまた小声で答える。

「……場所を変えましょうか」
「僕も、そう言おうとしていたところだ」

 ******

 出納の名目で一階の書庫(この中央図書館は二階に「入口」と「事務」があるので、実質的にはそこから一階下に降りた位置にあり、地下室に近い構造になっている書庫)へと向かったソフィアは、周囲に人がいないことを確認した上で、覚悟したような表情を浮かべながらレヴィアンに問いかける。

「……いつから気付いていました?」
「つい昨日。頑張って思い返してみたら、思い出した」

 その言葉に、ソフィアは「諦めたような、それでいて、どこか喜んでいるような表情」を浮かべつつ、開き直った態度で語り始める。

「ならばもう、察しはついているでしょう。今の私の名はロザンヌ・アルティナス。エーラムの魔法師です。私がここにいる理由も察しはついていますか?」

 エーラムに入門した者は、原則として入門先の一門の姓を名乗る。今の彼女はアルティナス家の一員、ということらしいが、レヴィアンにとってはそれはどうでもいい話であった。彼は率直に彼女の問いかけに答える。

「この月光修道会の内情の調査、で合ってるかい?」

 それに対して彼女は、なぜか満足そうな笑みを浮かべる。

「御推察の通りです。今のところエーラムとしては、月光修道会を相手に本格的に戦争をするつもりはありません。しかし、月光修道会の内側で、何か良からぬことを企んでいる者達がいるのではないか、という噂もあります。そこで、私は兄弟子であるグライフ様の密命を受けて、この地に潜入しているのです」

 彼女の兄弟子であるグライフ・アルティナスとは、エーラムでも最高峰の魔法師の一人と言われるエージェントである。その彼から見込まれたということは、彼女もまた相当な実力の持ち主であろうことは推察出来る。

「昔馴染みのあなたや会長を避けていたのは、私の正体に気付かれると思ったからです。特に会長は実家が隣町だったこともありますし、おそらく、あの方はもう私の正体には気付いた上で泳がせていたのでしょう。さて、あなたは私の正体に気付いた今、どうなさいます?」

 居直った笑顔でそう語る彼女に対して、レヴィアンもまた、どこか吹っ切れた表情で答える。

「僕は、どうもしないさ。僕だって、月光修道会に対して、そこまでの忠誠心はない。ただ、ここにある知識を得るためにここに通っているだけさ。それよりも、聞きたいことがある。君は、学長が死んだ事件には関わっているのかい?」
「一切、関わっていません」
「そうか、良かった……」
「というか、そのことにも気付かれていると思っていたのですけどね。あなたがその話を会長達から聞いた時、あなたの背後に隠れていたのは私ですよ」

 つまり、彼女はあそこで情報を聞き、鼠について調べていたところでレヴィアンに遭遇した、ということらしい。彼女は人伝にエルリックの手紙を受け取ってはいたが、直接接することで正体が露呈するのを怖れて、あえて姿を消してあの場に忍び込んでいたのである。この学術院の聖徒会の内情を調べるために。

「私も一年ほどこの学術院に通ってみましたが、私もこの図書館は気に入っています。ここにはエーラムでは手に入れることの出来ない書物もある。それらに触れることが出来るという意味では、貴重な環境です」

 エーラムのスパイと公言した上でのこの発言は、明らかに危険な言動である。だが、彼女は、レヴィアンにならばそこまで打ち明けても良いと確信していた。それが「女の勘」と呼ばれるものなのかどうかは定かではない。

「ひとまず、鼠を駆除するというのであれば、おそらく私の力が役に立つでしょう。私は『混沌の気配』を察知することが出来ますから」

 それはエーラムの「赤の学科」において習得可能な基礎魔法の技術の一つである。

「ただ、問題は、私をどうするかです。私の存在を明らかにせずに、あなたが混沌の気配を察知して次々と駆除していくのは、不自然でしょう?」

 つまり、ここで彼女の力を借りて鼠を根絶した場合、学術院の危機は去るが、彼女が魔法師だということが発覚してしまう可能性が高い。

「確かに。だが、この状況を放置する訳には……」

 レヴィアンが返答に困っていると、彼女は微笑を浮かべながら「本音」を語り始める。

「まぁ、私としても、ずっとここにいるつもりはありません。いずれはエーラムに戻り、『然るべき君主』に仕えるつもりです。グライフ兄様から命じられた情報収拾の任務については、もう私は十分に果たしたと評価されていますので、いつでも戻ることが出来ます。ただ、先程も申し上げた通り、出来れば私はもう少しここにいたい。でも、ここで私が本気を出して解決すれば、もう私はここにはいられない。しかし、その代償にふさわしい立場を得られるなら、私は今のこの環境を捨てることに躊躇はないです」
「代償?」
「あなたは聖印教会にはさほど執着していない、と仰ってましたね?」
「あぁ。ここにいる人々には悪いが、あくまで、知識を得るために利用させてもらっているだけだ」
「ならば、あなたには私の『新たな居場所』を作る権利はありますよね?」
「それはもしかして……」
「この学術院以上に私を満足させる居場所を、あなたは作ることが出来ますか? Dear Lord?」

 レヴィアンは彼女の意図を理解する。魔法師にとっての「居場所」を提供するということは、すなわち……。

「本当に? いいのかい?」
「幼い頃に会った時から、あなたには特別な運命の星の下に生まれた存在だと思っていました。そして、エーラムで時空魔法を学び、それを確信しました。まぁ、私が学んだのは時空魔法だけではないのですけどね。あとは錬成魔法さえ覚えれば……」

 サラッと経歴自慢を始めようとしたところで、彼女は話を本題に戻す。

「……それはともかく、私の認識が正しいのかどうか、まだ確信が持てない。ですから、新たな君主の門出としてはあまりに美しくない仕事ではありますが、今回の鼠駆除を通じて『あなたの力』を示して頂けますか?」
「僕としても、君を誘いたいと思っていた。もし、こんな僕でもいいのなら、一緒に働いてくれるかい? そのためにまず、この学術院の平和を取り戻すために協力してくれるかい?」
「分かりました」

 そう言うと、彼女は何かに集中するような仕草を見せる。おそらくはそれが、何らかの魔法を発動させているのであろうことは、レヴィアンにも想像出来た。

「ちょうど、この一つ下の階に一匹いますね。参りましょう」
「あぁ。いや、でも、ちょっと待ってくれ。今の僕には武器も何も……」
「大丈夫。少なくとも、今、『私』は『あなたの武器』ですから」

 彼女は笑顔でそう答えると、そのままレヴィアンを連れて地下の書庫へと向かった。

 ******

 自身の感覚を頼りに地下の書庫に降り立った彼女は、すぐに「鼠型の投影体」を発見すると、その直後に石飛礫の魔法でそれを瞬殺する。だが、その直後にその場に発生した混沌核を浄化することは、彼女には出来ない。

「では、お願いします」

 彼女はレヴィアンにそう言った。無論、それが「危険な行為」であることは彼女も知っている。だが、それでも彼女の中には「確信」があったのである。

「分かった。僕も君の誠意に答えることにしよう」

 そう言って、レヴィアンは混沌核に手を伸ばす。その直後、彼の身体に混沌核が流れ込もうとするが、彼は必死の形相でそれを制御しようと、集中力を研ぎ澄ませた。

(ロザンヌと共に、自分の限界まで、君主としての使命を果たし続ける!)

 自分自身にそう言い聞かせつつ、彼は苦悶の表情を浮かべながらも、自分を支配しようとするその混沌核の力に抗い続ける。そして、最終的にはその想いが身を結び、彼のその掌の上には「支配者の聖印」が浮かび上がった。
 その様子を見て、彼女は満面の笑みを浮かべる。

「やはり、私の目には狂いはなかったようですね。一瞬、心配にもなりましたが、それでも私は信じていました」

 実は密かに彼女は「幸運を招く猫」を呼び出すことでレヴィアンを補助する準備もしていたのだが、そのことは黙った上で、彼の前に傅く。

「よろしくお願いします、My Lord」
「これから、僕の命運が尽きるまで、ずっと共に歩んでくれないか?」
「勿論です。あなたにここまでさせた以上、私も一生涯かけてその誠意に答えます」

 こうして、レヴィアン・アトワイトは、ロザンヌ・アルティナスと魔法師契約を結んだ。それは、聖印教会が主催するこの学術院内の行為としては、この上ないほどの背徳行為である。だが、彼の中ではその決断に、一片の迷いもなかった。

3.8. 男のけじめ

 こうして、学内でほぼ同時に二人の「新君主」が誕生している中、ライフル場の東側では、微妙な空気を漂わせたまま背中を向け合っているタケルとライザーの間の空気を引き裂くように、「奴」が現れた。

「何なんだ! このビミョーに甘酸っぱいような、そうでないような、ビミョーーーーーな空気は!」

 それは紛れもなく、あの変態投影体であった。

「助かったぜ、お前が来てくれてよ!」

 間が持たなくて困っていたタケルは、ライザーを庇うような姿勢で彼の前に立ちはだかる。今の「服が破れた状態のままのライザー」を、この変質者相手に戦わせる訳にもいかない。彼のその心意気を感じ取ったライザーは、背中から彼に対して「何か」を注ぎ込んだ。

「お、おい、お前、何を……」
「いいから、受け取れ! さっきの鼠とは違うんだ。相応の投影体と戦うなら、相応の力が必要になる」

 ライザーはそう言いながら、自身の聖印をタケルに与えようとする。

「いや、ここは俺自身の力でケリをつけなきゃいけないんだよ!」
「私だって、私自身の手でこいつを倒したい。でも、お前が、私の代わりに戦ってくれるというなら、せめて、私の力をお前に預けさせてくれ。二人の力で、あいつを倒してほしいんだ」

 そう言われたタケルは、釈然としない心境ながらも、確かに自分だけの力で奴を倒せるという確信もなかったため、そのままライザーの聖印を受け取る。すると次の瞬間、タケルの拳の甲のあたりから聖印が浮かび上がった。その一連の様子を目の当たりにした白マスクの変態は、その両目から嫉妬の炎を燃え上がらせる。

「貴様……、許さん! 許さんぞ! せっかく我が同志だと思っていたのに! そんなラブラブ天驚拳的なシチュエーションなんぞ、許す訳にはいかん! この裏切り者め! 食らうがいい、正義のしっとパワーを!」

 血涙を流しながらそう言って殴りかかろうとする変質者に対して、タケルは一歩早く踏み込み、そして聖印の力を込めた全力の拳を叩き込む。もともと鍛え上げられていた肉体に更に聖印の力が加わったその一撃は、一瞬にしてその変態投影体を粉砕した。

「お、おのれ、このにっくきアベック(予備軍)共が……、だが、忘れるなよ。私が倒れても、いずれ今度は二号が……、そして新たなしっとマスクが、必ずこの世界に現れる……。しっとの心は滅びはしない。この世にモテないブ男がいる限り、しっとの炎は消えはしないのだ!」

 そう言い残して、彼は爆裂四散する。その後に残った醜い混沌核を前にして、タケルは聖印をライザーに返した。

「え? お前、なぜ……」
「これは『借り物』だからな」

 そう言って、彼は聖印を持たない状態のまま、自らその混沌核に向かって歩き出す。かつての英雄達に可能だったことが、今の自分にも出来るという確信があった訳ではない。だが、それでも、ここはどうしても成し遂げなければならない、と彼は考えていた。奴を倒すためにライザーの力を借りるのはやむを得なかったとしても、せめて最後のこの「仕事」だけは、自分自身の力だけで成し遂げなければ、失われた自信は取り戻せない。その強い決意と共に、彼は混沌核に向かって拳を突き立てる。
 すると、彼の拳に向かって、混沌核が入り込んできた。タケルは一瞬、その混沌の激流に飲み込まれそうになるものの、これまでの幾多の鍛錬を経て鍛え上げたその根性で、必死に自分の理性を保ち続ける。そんな彼の様子をライザーが心配そうに見つめる中、やがて彼の拳に、再び光り輝く聖印の力が宿る。今度は自分自身の力で作り上げた、借り物ではない、正真正銘の剣士(拳士)の聖印が。

(この混沌にまみれた学術院に、自力で聖印を作り出せる者がいるなんて……。これは、神が彼等の所業を認めたということなのか……?)

 ライザーは呆然とその光景を眺めつつ、タケルに何か声をかけようとした瞬間、中央図書館前にグリーンベルトの方面から、人々の悲鳴と喧騒が聞こえる。タケルはライザーに上着を貸した状態のまま、急いでその声のする方向へと駆け出して行った。

3.9. 決戦と継承

 タケルが到着した時、そこで繰り広げられていたのは、エルリック、オルタンス、シャルルの三人が、「人間の数倍の大きさの巨大鼠」と戦っている光景であった。その形状は、先刻彼が殴り殺した鼠をそのまま巨大化させたような姿であり、おそらくは「学長の聖印を喰らって混沌核を成長させた鼠」であろうことは推察出来る。
 シャルルが謎の「異界の動物」に騎乗した状態で巨大鼠に対峙しつつ、後方からオルタンスが二丁長銃を打ち込み、そこにエルリックが聖印の力を用いて威力を増幅させる。その巧みな連携作戦によって、巨大鼠は徐々に劣勢に追い込まれていく。
 そんな中、タケルとほぼ同時に、ブランジェとレヴィアンもその場に現れる。そして、新たな三つの「聖印」を目の当たりにした巨大鼠は、目の前にいる三人よりも彼等の方が喰らいやすいと考えたのか、その標的を彼等に変えて走り込んできた。
 真っ先に反応したのはブランジェである。彼女がその毒刃を巨大鼠に向かって投げ込むと、真正面から直撃した巨大鼠はその毒の威力に悶絶する。更にそこにタケルが、格闘技で鍛えたフェイント技術を駆使して殴りかかることで深手を負わせるが、即座に巨大鼠はタケルに反撃しようとする。だが、その鋭い前歯がタケルの首筋を捉えようとした瞬間、一瞬にしてタケルの周囲の時間軸だけが巻き戻ったかのように、その前歯の軌道がそれて、タケルは致命傷を免れる。それはレヴィアンの聖印が引き起こした力であった。

(せめて僕にも何か武器があれば……)

 初めて聖印の力を発動させたレヴィアンがそう思っていたところで、彼の目の前に奇妙な形状の剣が現れる。それは、姿を消して彼の背後に忍んでいた「彼の契約魔法師」が召喚した「異界の剣」であった。

「それを振るって下さいませ」

 小声で彼女にそう言われたレヴィアンは、慣れない手付きでその剣を振り下ろすと、突然、彼の背後から謎の「兵団」が現れ、そのまま巨大鼠に向かって突撃していく。レヴィアン自身がその状況を理解出来ないまま、その兵団は巨大鼠を蹂躙し、そのまま姿を消していった。
 その光景を、その場にいる誰もが唖然とした表情で見つめる中、グリーンベルトの南西に位置する歴史学部の二階の窓から遠目にその様子を眺めていた一人の「地球人の少年」だけが、その剣の正体に気付いていた。

(「幻団の剣」か……。まさか、あんなものを召喚出来るとは、思った以上に食わせ者だったみたいだね、あのエーラムのお嬢さんは)

 彼は、聖徒会の面々が巨大鼠に苦戦するようなら、助太刀する準備はあった。しかし、彼が本気を出せば、おそらく彼が地球人であるということは発覚し、更にそこから、彼の「正体」までもが明らかになってしまうかもしれない。もうしばらく、この地で学生として「美しい素材」を眺めていたいと考えていた彼としては、出来ればそれは避けたいと考えていたのである。

(さて、いつの間にか新たに三人も君主様が生まれたようだけど、どうするのかな、アレを)

 彼がそう思いながら眺めている視線の先には、巨大鼠を倒した後に生まれた巨大な混沌核が浮かび上がっている。学長の聖印を喰らって成長したその混沌核を浄化すれば、少なくとも騎士級以上の聖印となるだろう。
 タケルは、少なくとも今の時点では、自分の聖印を成長させることに興味はない。レヴィアンは一人の君主として、それを欲する気持ちもあったが、魔法師と契約して、これ以上この学術院に居続けることは出来ない身となった以上、これを受け取る訳にはいかない。また、そもそも二人共「外国人」である以上、ここはアントリアの人間が浄化するのが筋だろうと考えていた。その空気を察したブランジェが申し出る。

「では、私が頂いてもよろしいのでしょうか?」

 それに対して、レヴィアンが答えた。

「あなたがこの学術院で聖徒会長なり学長なりになるのであれば、それでいいでしょう」
「それは分かりませんわ。父は色々と考えているようですし、私も色々考えたいですもの」
「とはいえ、ここはあなたが引き取るのが一番無難かと」

 そう言われたブランジェは、意を決して聖印を掲げる。

「分かりましたわ。では、ここはひとまず私が。また後で、話し合いの機会を設けることにしましょう」

 そう言って巨大鼠の混沌核を浄化・吸収するブランジェであったが、その直後に、少し離れた場所から近付いてきたエルリックが叫ぶ。

「皆、バランシェの新たな領主の誕生だ!」

 その瞬間、周囲の人々は状況をよく理解出来ないまま、一斉に本能的に彼女に向かって跪いた。それに対してブランシェ本人は戸惑いながらも、ひとまずここは会長が作り出した「雰囲気」に従い、そのまま聖印をその場に掲げ続けるのであった。

4.1. 新体制への胎動

 こうして、ひとまず「聖印喰い」騒動は解決した。学内に残っていた鼠達は(姿を消したロザンヌの支援を受けた)レヴィアンの尽力によって一掃される。彼のその混沌察知能力に違和感を感じる者もいたが、エルリックが「支配者の聖印の持ち主の中には、混沌を探知出来る者もいる」と説明したことで、皆はひとまず納得した(なぜ彼がそんな方便を用いてまでレヴィアンを庇ったのかは謎であったが、そのことに対してレヴィアンはあえて追求はしなかった)。
 バランシェの町の新領主に関しては、家柄と能力に加えて、今回の事件を解決した功績も相まってブランジェ・エアリーズが適任であろうという方針で、聖徒会も修道会も全会一致で合意に至る。そして彼女はそのまま従来の慣習通り、神聖学術院の学長も兼任することになった。18歳の学長というのは前代未聞の事態ではあるが、あえてそれに意を挟もうとする者は現れず、「陰の額冠」もそのまま彼女が継承することになった。
 そして「領主兼学長」となったブランジェには、その多忙な立場上、マーシャルの妻となって彼を支えるという選択肢は事実上消滅した。アドルフとしても、こうなるとむしろ「入婿」を探さなければならないという考えに転じた訳だが、どちらにしても、今の時点で彼女に縁談を持ちかけられる状態ではない、という認識に至ったようである。
 そして事件が解決した後に、ロザンヌ(ソフィア)はレヴィアンと「とある約束」を交わした上で、学術院から姿を消した。上述の聖徒会長の機転のおかげで、彼女の正体は発覚せずに済んだが、彼女の中では既に「人生の次のステージ」への覚悟が定まっていたのである。そのあまりに唐突な出奔から、彼女に関しては「パンドラからのスパイだったのではないか」という疑惑が残り、学長暗殺も彼女の仕業だったのではないか、と噂する者もいたが、それに対して聖徒会やレヴィアンは否定も肯定もしなかった。レヴィアンにしてみれば、彼女がもう二度と学術院に戻るつもりがない以上、ここで庇う必要はなかったし、聖徒会(特にシャルル)にとっては「そういうこと」にしておいた方が都合が良かったのである。
 一方、レヴィアンは正規の手続きを通じて帰国の準備を始める。自力で聖印を作ってしまった以上、そのままの状態でこの学術院に残ることは出来ない。聖印を学外の誰かか、もしくは新学長のブランジェに預ければ一学生として在籍し続ける権利は維持出来るが、そこまでしてこの地に残る必要もない。彼には帰国した上で、ロザンヌとの約束を果たすという道が開かれてしまったのである。
 こうして、後継者候補だった後輩達が次々といなくなってしまったこともあり、聖徒会の面々は当面そのまま留任することになった。オルタンスも、今回の事件を引き起こした原因が自分にあるのではないかという疑念は残っていたが、シャルルもタケルも何も言わなかったことにより、その確信には至らずにそのまま留任の道を選んだ(そして、結果的にその秘密を握ることになったハットは、超法規的措置により、「停学」で許されることになった)。

4.2. 旅立つ二人

 こうして、目まぐるしく戦後処理が進む中で、タケルは一人、今でもどこかやるせない気持ちを抱え込んだままであった。彼の中では「自分の力で勝った訳ではない」という気持ちが、どうしても払拭出来なかったのである。

「俺もまだまだ、だな……」

 結局、そんな今の自分のままでは、オルタンスに告白する気にはなれない。そう思った彼は、渡せずに手元に残っていたチョコレートを、ライザーに「助けてくれたお礼」として手渡すことにした。
 唐突なその申し出に対して、ライザーは戸惑いながら問いかける。

「一応、念のため確認しておくが、これは『礼』だよな? それ以上の意味はないよな?」
「あぁ、無い」
「そうだよな、うん、分かってる。分かってる。私だって、こういう生き方をしてきたんだから、今更『そんなこと』は自分には起きないってことくらいは分かってる」

 自分に言い聞かせるようにそう呟くライザーに対して、タケルは改めて念を押す。

「あの時は、お前がいなければ勝てなかった。その時の礼だ」
「でも、私一人が戦っていたとしても、奴にとどめを刺すことは出来なかった。勝てたのは、君に君主としての素質があったからだ」

 そう言いながら、ライザーはそのチョコレートを受け取る。彼女の中ではこの「贈り物」を受け取るという行為に関して、実はまだ「別の大きな問題」があったのだが、ひとまずこの場はその点を棚上げした上で、タケルに対してもう一つ、聞きたかったことを問いかける。

「で、君はこれから、どうするつもりだ?」

 レヴィアン同様、聖印を自力で作り出した彼には、これからも学内に居続けるためには、その聖印を新学長もしくは学外の誰かに預ける必要がある。タケルとしては、聖印にそこまでこだわりがある訳でもないのだが、それ以前の問題として、彼には思うところがあった。

「そうだな……。今回色々あって、今までの自分じゃ、何もかも全然足りない、ということが分かったんだ。だから、出来れば、武者修行の旅に出たいと思う」

 一応、この学術院には「休学」という制度もある。学籍を残したまま長期の課外活動に出ることを可能とするための制度であるが、実際には、予定の休学期間を過ぎても帰って来ない学生も多い。それでも、よほどの事情がない限りは除籍にせずに復学を待ち続けるというのが、この学術院の基本方針である。
 その話を聞いたライザーは、言いにくそうな顔を浮かべながら、今の自分の状況を断片的に語り始める。

「正直、私も、今は訳あってここには居にくい状態なんだ。詳しくは言えないが、色々と面倒な事情があるというか、『彼女』とは顔を合わせ辛いというか……」

 当然、「彼女」が誰を指しているのかはタケルには分からないが、彼はそのことについては何も追求はしない。

「それに、私も自分の未熟さがよく分かった。まだこの世界について知らないことが多すぎる。何が正しいことなのかもよく分からない。唯一神様の教えに逆らうつもりもないが、何が正しい教えなのかということを知るために、旅に出ようかと考えていたところだ」
「じゃあ、一緒に行くか。お互い、切磋琢磨して行こう」

 そう言って差し出した彼の手を、ライザーは素直に握りしめる。そんな二人の前に、やや申し訳なさそうな表情を浮かべながら、シャルルが現れた。彼はタケルに対して、軽く一礼する。

「黙っていてくれて、ありがとうございます」

 この場にライザーがいる以上、「何を」とは言えない。そして、何か秘密の話があるかのように思えたライザーは、空気を読んでその場から立ち去ろうとする。

「正直、『あなたならば』と一瞬だけ思ったりもしたんですが……」

 彼は立ち去るライザーの後ろ姿を見ながら、首を振る。

「違いますね。少なくとも、今のあなたではない。将来的には、どうなるかは分かりませんが……、まぁ、これ以上はやめておきましょう。またいつでも戻って来て下さい」

 何の話なのか、はっきり言わないままそう告げたシャルルの意図を、タケルが理解出来たかどうかは分からない。ただ、タケルの中ではっきりしていたことは、少なくとも今の自分はオルタンスにはふさわしくない、ということだけである。だからこそ、今はあえて彼女には何も告げずにこの地を去ろう、と決意を固めていた。

4.3. 地球人の正体

 とはいえ、さすがにクローム男子寮の副寮長が休学するということになれば、当然、その話はそれなりに生徒達の間でも広がることになる。そして、その話を聞きつけたピーターは、タケルとライザーに対して、唐突にこう言った。

「君達二人の像を彫らせてほしい。と言っても、何日も拘束するつもりはない。スケッチさえとらせてくれれば、いなくなってからでも制作は継続出来る。君達が帰って来るまでには完成させておくから」

 そう言われた二人は、その意図をよく理解出来ないまま、彼のスケッチに付き合うことになる。どちらにしても休学手続きが受理されるまでに数日は要するので、その程度の要請に応じることは可能であった。
 ピーターは二人に勇ましいポーズを取らせつつ、黙々と作業しながら、内心で様々な想いを巡らせていた。

(今のこの二人は美しい。おそらくはこれが「青春の輝き」というものなのだろう。自分達自身がその輝きに気付いていないからこその輝き、それは、この世界の中でもう何十年もこの姿のままであり続けている僕では生み出せない、彼等だからこその輝きなんだ)

 ピーターの「本体」は、21世紀の地球(スコットランド)に生きる高校生である。だが、彼は数十年前にこの世界に投影されて以来、その姿のまま一切年を取らずに、何十年も各地を放浪していた。当初は戸惑っていた彼も、やがてこの世界に順応し、そしてこの世界に生きる「美しく生きる人々」を形に残すことに生き甲斐を感じるようになった。

(今のこの世界は美しい。だからこそ、この世界を壊させる訳にはいかない。混沌と聖印がひしめき合う中で必死に生きている人々の輝きこそが、何よりも美しい。皇帝聖印の力によって、それを消し去ってしまうなんて、そんな勿体無いこと、許されるべきではない)

 そう考えるようになった彼は、やがて自分と想いを同じ(?)にする「パンドラ均衡派」の存在を知り、その一団に加わった。そして今、そのパンドラのスパイとして、この学術院に潜入している。学内の動向を監視し、皇帝聖印の創出を防ぐために。

(自力で聖印を作り出した彼には、もしかしたら「その素質」があるのかもしれない。でも、大丈夫。彼が「今のこの世界」を脅かす危険な存在だと分かったら、その時点で僕が彼を殺せばいい。彼のその生き様が人々の記憶に残るように、美しく殺してあげるよ。そして君のその美しさは、永遠に僕の中で生き続ける。そして何度でも彫刻として蘇らせることが出来る。僕の中にその美しい記憶がある限り)

 地球人であるピーターにとっては、この世界はあくまでも「虚構の世界」であり、今の自分は「美しい夢」の中に生きる存在だと考えている。その夢はいつ覚めるかも分からない。だからこそ、覚める前に可能な限りの「美しい記憶」を、この「夢の世界」の中に刻み込んでおきたい。そんな想いを込めながら、丹念にスケッチに専念する彼であった。

4.4. 聖者の葛藤

 一方、タケルと共に旅立つ決意を固めたライザー(イーラ)であったが、彼女の中では一つ、どうしても割り切れない問題が残っていた。それは、タケルから貰ったチョコレートである。
 日輪宣教団の一員である彼女にとって「異界の食べ物」を口にすることは大罪である。彼女が先輩達から貰ったプレゼントを食べずに埋めようとしていたのも、そんな信仰心故の苦渋の決断であった。厳密に言えば、この学内で販売されている菓子の中には「異界からの投影物そのもの」と「異界からの投影物を元にこの世界で再構築した食べ物」が混在している。後者であれば、日輪宣教団の一員である彼女が口にすることも教義的に許される余地はあるが、彼女にはそれらを判別することが出来ないため、まとめて捨てざるを得なかったのである。
 だが、彼女の中では、それが人として正しい行動なのかどうかが分からなくなっていた。もし、混沌の産物を購入すること自体が罪なのだとしたら、なぜタケルは自ら聖印を作り出すことが出来たのか? 聖印教会の教義的には、聖印を自力で作り出せるのは、神に選ばれた特別な君主だけの筈である。実際、ライザーにとってタケルは、間違いなく尊敬すべき「神に祝福されるにふさわしい高潔な魂」の持ち主でもある。その彼が感謝の気持ちとして贈ってくれた食べ物を廃棄することが、どうしても今の彼女には出来なかった。

(いっそ、私の正体を明かしてしまうべきだろうか……。きっと彼なら、私の正体がスパイだと知っても、私を許してくれる。私達の教義解釈に対しても「そういう考え方もあるな」と認めてくれるかもしれない。私が彼の贈り物を口にすることが出来ないのも、仕方のないことだと割り切ってくれるかもしれない。だが、果たしてそんな私のことを、旅の仲間として認めてくれるだろうか……。私の正体を知ってなお、私が彼の隣に立つことを許してくれるだろうか……)

 ライザーの中では、そう思い悩むほどに、タケルの存在が大きくなってしまっていた。彼女にとってのその感情の正体が何物なのか、彼女自身が自覚していない。その感情が世間一般で何と呼ばれているかを、彼女は認識出来ていない。だが、いずれにせよ、今の彼女はタケルとの今の関係を壊したくはない。それと同時に、これまで守り続けてきた自分の信念を捨てることも出来なかったのである。
 彼女はそんな想いに苛まれつつ、このままではタケルから貰ったチョコレートの「賞味期限」が切れてしまうかもしれない、と考えた末に、旅立ちの前日になって、ある一つの「賭け」に出ることにした。それは、このチョコレートの販売元である購買部に赴いて、このチョコレートが「異界からの投影物」なのか「こちらの世界の物質で再構成した模造品」なのかを確認する、という道である。
 それは至極簡単な解決法なのだが、彼女がこの道を選ぶのを躊躇していた理由は二つ。一つは、(日輪宣教団にとっては存在そのものが悪である)地球人であるレディ・オータガウァと直接言葉を交わしたくなかったから。そしてもう一つは「投影物そのもの」であると告げられた時に、いよいよ「逃げ場」がなくなるからである。
 それでも、さすがに出発前にこの問題を解決しなければならないと考えたライザーは、ある日の夕方、意を決して仕事を終えた後のレディ・オータガウァを見つけて、問いかける。

「あ、あの、この菓子なのですが、これは、その、『異界から投影された菓子そのもの』なのでしょうか? それとも……」

 シドロモドロな様子でそう質問してきたライザーに対して、レディ・オータガウァはその表情から、彼女が何を思い悩んでいるのかを瞬時に察して、あっさりと答える。

「あぁ、それなら模造品よ。オリジナルではないわ」

 彼女のその言葉を聞かされたライザーは、まるで全てを許された大罪人のような晴れやかな笑顔を浮かべる。

「そ、そうでしたか! ありがとうございます!」

 深々と頭を下げ、嬉しそうな足取りで立ち去って行く彼女を眺めながら、地球人の購買職員は誰にも聞こえない声でボソッと呟く。

「この世界に投影されている時点で『模造品』なんだから、オリジナルではないわよね?」

 月光修道会の主催するこの学術院内においても、投影物そのものを口にすることを躊躇する者達はいる。そんな人々を納得させるための方便は、彼女の中では何通りも用意していた。それが出来ないようでは、聖印教会のお膝元で地球人が生き抜くことなど、出来る筈もないのである。

(まぁ、知らずに食べる分には罪ではないでしょ? そんなことも許してくれないような神様なら、信仰する価値なんてないわよ。あなたは『邪悪な地球人』の屁理屈に騙されただけの被害者なんだから、安心して『異界の味』を堪能しなさい)

 内心でライザーにそう語りかけながら、彼女は一人家路へと向かう。その日の夜、ライザーが初めて味わうチョコレートの味にどんな感慨を抱いたのかは不明であるが、翌日の彼女はいつになく上機嫌な様子で、タケルと共にこの地を旅立って行くことになる。その後の二人の物語は、またいずれどこかで語られることになるであろう。

4.5. 帰国と弁明

 一方、「休学」ではなく、正式に「退学」手続きを経て学術院を去ったレヴィアンは、大陸の第三国を経由した上で、無事にヴァレフールの内陸部に位置する祖父グレン(下図)の拠点・イカロスに帰り着いていた。


「よくぞ戻って来てくれた。とりあえず、学術院が今、どういう状況になっているのか、そしてお前がこれからどうするつもりなのか、教えてくれ」

 グレンにそう言われたレヴィアンは、ひとまず自分が学内で見聞きしてきた状況を一通り説明説明する。

「色々ありましたが、あの学術院自体には危険な様子は一切なく、普通に知性を広げているだけのようです」
「そうか。ならば良かった。あの学術院は、多方面に対して門戸を開きすぎている分、怪しげなスパイなどが潜り込んでいたりすることもあるかもしれないと心配していたのだが、特にそういった兆候もないのだな?」
「えぇ、『怪しいスパイ』はいませんでしたね」

 彼の中ではロザンヌは「怪しいスパイ」ではないらしい。その点について深く追求される前に、レヴィアンは話をそらす。

「あと、爺様、こうして帰国したことからも分かってもらえると思うのですが、私はあなたの後を継ぐ決心がつきました。この騎士団の一員として、ヴァレフールのために戦うことを誓います」

 その一言に、グレンは嬉しそうな表情を浮かべる。だが、その笑顔は長くは続かなかった。

 ******

 数日後、エーラムから「レヴィアン・アトワイトとロザンヌ・アルティナスとの契約を認める」と記された書類が届いた。

「これは、どういうことかな?」
「さぁ、どういうことでしょう?」

 おどけた口調で話をごまかそうとするレヴィアンに対して、グレンは苦い表情を浮かべる。

「シュペルター家の御令嬢がエーラムに行ったことは知っている。そして、儂はエーラムという組織そのものが全面的に悪だとは言わん。だが、儂の後継者が、ヴァレフールの縁者とはいえ、エーラムの魔法師と契約を結ぶのは、体面が悪いとは思わなかったのか?」

 グレンは聖印教会の中では穏健派であり、ヴァレフールの同僚の騎士達が魔法師と契約すること自体を悪く言うつもりはないし、聖印教会の信者でも魔法師を雇う者もいない訳ではない(エルリックの異母兄ダンク・エージュもその一人である)。だが、仮にもヴァレフール内の聖印教会派を束ねる身として、自分の孫が魔法師と契約したとなると、さすがにそれでは示しがつかないし、今の時点ではグレンに従っている過激派寄りの信徒達が離反する可能性もある(シュペルター家の次男フランクのように、出奔して神聖トランガーヌへと転じる者達が現れる恐れもある)。

「しかし、爺様、より多くの人々を救うためには、より多くの力が必要です」
「そのために魔法師とも手を結ぶ、か」
「はい」

 今度は率直な瞳ではっきりとそう言い切ったレヴィアンを目の当たりにして、グレンは諦めたようにため息をつく。

「まぁいい。というよりも、上手くやったな。ここで一度決まった契約を反故にするとなると、今度はシュペルター家との間で揉め事が起こりかねない。イアンは妹御のことを格別可愛がっていたからな」

 体面上は、エーラムに養子に出た者は実家との関係を断ち切られることになっている。だが、いくら形式的に断ち切られたところで、心情的に家族の情がそう簡単に断ち切れるとは限らないのもまた、当然の話である。

「それ故に、一度『既成事実』を作ってしまえば儂が覆すことは出来ないだろう、ということを見越した上でのことか?」

 レヴィアンはそれに対して何も答えず、黙って微笑む。

「……その覚悟があるならばいいだろう。ただし、少なくとも儂は、お前に副団長の座を譲る気はない。お前がファルクを超えるほどの君主になれば、おのずとこの国の人々は、お前に『副団長』や『それ以上の座』を与えるだろう」

 レヴィアンにとっては、それも覚悟の上の決断である。

「分かりました。では、私は血筋の力ではなく、自らの力で副団長、いや、団長を目指します」
「それでいい。ただ、一つだけ言っておきたいことがある。ケネスの孫には、負けるなよ」

 ******

 そして、それから更に数日後、諸々の手続きを終えたロザンヌが、イカロスに到着した。と言っても、魔法師を嫌う人々の町の人々の目をごまかすために、魔法師らしい格好はしていない。

「お爺様を説得して下さったのですね」
「あぁ」

 正確に言えば「説得した」というよりも「諦めさせた」という方が近いのだが、その差は大きな問題ではない。

「私のお兄様も少々驚いていたようですが、しかし今はこの国内の融和を進めるべき時。私とあなたが契約を結ぶことに、異論はないようです」
「ならば、私は今ここに誓おう。ロザンヌ、君の期待がある限り、私はどこまでも上り詰めてみせる。ついてきてくれるか?」
「その言葉、しかと胸に刻み込んでおきます。よろしくお願いします、My Lord」
「よろしく頼む」

 そう言って、彼はロザンヌの手を握る。その後、この「聖印教会の本拠地」に長居するのが心苦しくなった彼等は、ひとまずは騎士としての実績を重ねるために、ヴァレフール内で最も魔物の出現率の高い危険地帯である「ボルフヴァルド大森林」へと向かうのであった。

4.6. 聖徒会長の思惑

「せっかく、自力で聖印を生み出せるほどの素質を持った者達が三人も現れたのに、あっさりと二人も去ってしまうとは……。この学術院の聖印管理制度も、そろそろ見直すべきなのかもしれないな……」

 聖徒会長であるエルリックは、誰も居ない聖徒会室で、一人そう呟く。もっとも、レヴィアンとタケルに関しては、別に聖印を他人に預けるのが嫌で去った訳ではないのだが。
 周囲からは「何を考えているのか分からない」と評されることが多いエルリックであるが、実は彼の目標は極めて単純明快な「皇帝聖印の創出」である。それは聖印教会の信者にとってはごく当たり前の目標であったが、彼は誰よりも真剣にその実現を目指し、そのために自分が出来ることを探し続けている、そんな極めて敬虔な信者だったのである。
 ただし、彼は自分自身はその「器」ではないと考えており、その実現のためにまず必要なのは「その器の持ち主」を探すことであって、彼にとっては国や立場などはどうでも良かった。彼の中では、現アントリア子爵ダン・ディオードも、現ヴァレフール伯爵ワトホート・インサルンドですらも「その器の持ち主」ではない。そして、異母兄ダンクやヴァレフールの他の有力諸侯達の中にも、有力候補となりうる人物はいないと彼は考えていたのである(なお、トオヤ・E・レクナに関しては、まだ殆ど面識がないので判断は保留されていた)。
 一方で、アントリア子爵代行マーシャル・ジェミナイに関しては、十分にその資質があると彼は考えていたものの、マーシャルの覇道において自分が必要になるとは思えなかった。

(彼は私に似ている。私が出来ることの大半は、彼ならば実現可能だろう。ならば、私が彼を支える必要はない)

 彼がこの学術院に居続けるのは「自分の才を必要としている英雄候補生」を探し出すためである。その意味では、自ら聖印を作り出した「あの三人」には極めて強い興味を抱いていたが、その素質を見極める前に、その中の二人は去ってしまった。

(さて、唯一残ったのはあの新学長だが……、果たして彼女は「私の力」を必要とする君主なのだろうか……)

 少なくとも、今のブランジェには、まだそこまでの野心があるとは思えないが、将来的にはどうなるかは分からない。もっとも、それは彼女だけでなく、この学術院に通っている他の全ての学生達も同様である。これから先、「四人目の英雄候補生」が生まれる可能性も十分にありうるだろう。

(もうしばらく、私はこの『特等席』で、皆を見定めさせてもらうことにしよう。私が人生を賭けてこの力を捧げるに足る人物を、唯一神様が指し示してくれるその日まで……)

4.7. 新学長の優雅な日常

 「領主」と「学長」という二つの肩書きを同時に引き継ぐことになったブランジェは、未だ戸惑いを隠せない日々を送っていたが、そんな彼女以上に驚いていたのは、彼女の父のアドルフである。

「まさか、自力で聖印を作り出せるほどの資質が我が娘にあろうとはな。私ですらも考えてはいなかった」

 就任の儀を一通り終えたところで、学長室を訪れたアドルフはそう言った。

「私も今回のことは、自分自身でも驚きで、まだ状況を受け止めきれていません」
「正直、私は早くあのエルリックなどという異国の若造から会長の座を奪い取ってほしかったのだが、まさかその上に行ってしまうとは……。とはいえ、これで完全に私の傘下にバランシェと神聖学術院を置くことが出来たという意味では、極めて朗報だ。見合いの件については、立場上、マーシャル卿という訳にはいかなくなったが、お前としては、誰か希望はあるか?」

 ブランジェが自分と同じ「アントリア内の一つの街の領主」という立場に就任した以上、今までのような「父と娘」という上下関係ではなく、「平等ではないが対等な領主同士」としての立場で、彼はそう問いかけた。

「私はまだ、君主になったばかりで、右も左も分かりませんので、今はどなたかとの縁談の話をする前に、学ばなければならないことが沢山あると思っております。ですから、しばらくは勉強させて頂きたいです。幸い、この学術院には君主として聖印の力を持った方々がいます。私はその方々の支援を受けながら、しばらくこの学術院で『基盤』を築きたいと思っています」
「分かった。それならばそれでいい」
「その上で、何かご縁があれば、その時はお受けさせて頂きます」
「そうだな。まぁ、焦る必要はないが、身を固めたいと思ったら、早めに言え」
「お願いします。ですから、申し訳ないですが、マーシャル卿にはお父様の方から……」
「あ、いや、それは気にしなくていい。まだそこまで話が進んでいる訳ではないからな。あくまで、私とバルバロッサとの間で話を進めていただけだ。マーシャル卿本人に提案した訳でもない以上、最初から無かったことにすれば良いだけの話だ」

 その言葉に対して、ブランジェは内心で歓喜しつつ、淡々と頭を下げる。

「お父様が私のために色々と考えて下さった上での縁談だったのに、このような形になってしまって、申し訳ございません」
「別に構わん。お前は私の予想よりも早く、私の望む状況を作り出してくれた。それで十分だ。しばらくは学長としてモラトリアムを楽しむがいい」

 「学長職」を「モラトリアム」と評することには当然のごとく(そう言ったアドルフ自身ですらも)違和感があったが、今のブランジェにとっては、それは何よりも嬉しい言葉であった。
 こうして父との対談を終えたブランジェは、本拠地パルスェットへと帰還する父を見送った後、月光講堂の外で待っていた「恋人」の元へと向かう。彼女は、嬉しそうなブランジェの表情を見て、大方の事情を察した。

「無事に話は終わったようですね」
「そうね。縁談の話は無くなったわ」
「では、約束通り、あなたの淹れたお茶をいただきにいきましょう」
「えぇ、もちろん。お茶に合うケーキも買いに行きましょう」
「そうですね。あまり摂取しすぎるのは良く無いですが、たまにはいいでしょう」
「嬉しいわ。お友達を家に招いてお茶会なんて、夢みたいだわ。サンドラは何がお好き? チョコレート? それとも……」
「正直、チョコレートは少々食べ過ぎました。最初は、貰ったチョコレートは孤児院にでも寄付しようと思ったのですが、一人一人に色々な思いがあることを考えると、そうもいかないと思って、結局全部食べてしまったので……。そうですね、では、今の季節は北部購買のタルトが美味しいと私は聞いておりますが、いかがでしょう?」
「タルトは私も好きよ。一緒に行きましょう」

 そんな会話を交わしつつ、「恋人繋ぎ」で手を取り合って、学内の散策(デート)を楽しむ二人であった。

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最終更新:2018年01月27日 06:21