第6話(BS38)「真実を語る意義」 1 / 2 / 3 / 4

1.1. 覇王と魔女

「マイロード、ケイの領主ガスコインから返事が届きました。どうやら、マーチを我が軍が通過することは認められたようです」

 ブレトランド小大陸の中央山脈の奥地に位置するグリース子爵領の首都ラキシスにて、子爵の腹心の女魔法師がそう言った。彼女の名はマーシー・リンフィールド。「先読みの一族」と呼ばれる自然魔法師であり、グリース子爵を旗揚げ当初から支え続けた側近達の一人である(グリース建国の経緯についてはブレトランド戦記・簡易版を参照)。

「ヒュース殿のワイバーンを用いれば、ある程度の戦力まではトーキーまで空輸も可能ですが、いざという時に補給を止められても困りますし、ヴァレフールに恩を売るという観点から考えても、正規に話を通した上で許可が得られたのは上々の結果と言えるでしょう」
「恩を売るとは人聞きが悪いな。我々は純粋なヴァレフールとの友誼に基づいて、長城線の同胞を援護するために派兵するのだ。そうだろう?」

 芝居掛かった口調でそう語る子爵に対して、淡々とマーシーは答える。

「書状にはそう書いておきましたが、おそらく文面通りには受け取って頂けないでしょうね」
「残念なことだな」

 子爵は自嘲気味な笑みを浮かべながらそう呟く。なお、君主間の友誼などというものを一番信用していないのは、他ならぬこの子爵自身であった。
 アントリアの最前線基地であるクワイエットの西方に位置するトーキー村は、現在、グリースの保護領となっているが、ラキシスとトーキーの間には、ヴァレフール領のマーチ村が存在するため、実質的にトーキーはグリースにとって「飛び地」であり、これまでヴァレフールとアントリアの間の緩衝地帯のような役割を果たしてきた(下図参照)。


 そんな中、マーシーはアントリアへの牽制という観点から、トーキーにグリースの主力部隊の一部を駐留させるため、マーチ村の通行許可を、マーチの領主セシル・チェンバレンの父親であるガスコイン・チェンバレンに要求していたのである。ガスコインはマーチの南に位置する湖岸都市ケイの領主にして、ヴァレフール七男爵の一人であり、現在のヴァレフール反体制派の実質的なナンバー2である。セシルがまだ幼いこともあり、実質的には現在のヴァレフールの中で対グリース外交の最前線を担当しているのは、彼と(イェッタの領主である)ファルクの二人であった。

「また、御子息の留学の件に対しても、正式な返答はまだ保留していますが、前向きなようです。少なくとも今のところ、彼はこちらに対して悪印象は抱いていないようですね」
「結構なことだ。今のヴァレフールが混乱している以上、着実に七男爵を一人ずつ味方に付けていく必要があるからな」

 ガスコインは、ケネス同様、聖印教会のことを快く思っていない。それ故に、聖印教会の中でも特に過激な思想を掲げる神聖トランガーヌを、もう一つの新興勢力であるグリースが討伐することに強い期待を寄せている。もっとも、ゲオルグ自身は聖印教会に対して必ずしも否定的ではなく(彼は混沌災害で故郷を失った経験があるため、混沌そのものを嫌う傾向が強い)、マーシーもまた、二代目枢機卿による新体制へと移行しつつある神聖トランガーヌと密かに和議を結ぼうと画策しているのであるが、そのことをガスコインは知らない(そして勿論、彼はマーシーの「正体」を知る由もなく、グリースが短期間で急成長した背景で「あの組織」が暗躍してきたことも知らない)。

「ひとまず、我々がトーキーに進駐したという話が届くだけで、アントリアによる再侵攻の防止策にはなるでしょう。我々としても、今、長城線を破壊される訳にはいきません」
「今はまだ、な」

 そう言いながらニヤリと笑う子爵に対して、マーシーもまた静かな微笑を浮かべる。それが友誼であるか否かはともかく、今の彼等にとって、アントリアの伸長を防ぐための防波堤としての長城線を落とされては困るという気持ちに嘘偽りはない。少なくとも、今は、まだ。

1.2. 手紙と噂

 このグリース軍によるトーキー進駐の話が伝わったことで、クワイエットのアントリア軍は完全に沈黙した。銀十字旅団の一員として前線に残った梟姫は再侵攻を切望していたが、今の彼女にそこまでの発言権がある訳でもない以上、今は黙ってアントリアの方針に従うしかなかった。
 それでも、万が一に備えてトオヤ達はしばらくそのままオディールに滞在していたが、事態が概ね沈静化したことが確認された頃、本拠地タイフォンに住むトオヤの母プリスから、彼の元に手紙が届いた。その中身の大半は彼の活躍を労い、その身を案じる、ごく一般的な「家族からの手紙」であったが、その最後の一節に、こう記されていた。

「次にタイフォンに戻ってきた際には、あなたに伝えなければならないことがあります。あなたにとって、それは聞きたくない話かもしれませんが、これ以上黙っておくことは私には出来ません。どうか、この母からの最後の遺言だと思って、心して聞いて下さい」

 どうやら彼女の中でそれは、どうしても直接会って話さなければならないほど重要な話らしい。十中八九、あの「紅の楽士」のことであろう、とトオヤは予想しつつ、彼自身もそれはいずれ聞かなければならない話だと覚悟はしていた。
 それと時を同じくして、そのタイフォンの隣に位置する、彼の祖父ケネスが治めるアキレスから、衝撃的な情報が伝わってきた。これまで「生まれつき聖印を受け取れない虚弱体質」と言われていたドギ(ゴーバンの弟、トオヤとチシャにとっての家系図上の従弟)が、その体質の改善に成功し、君主としての力に目覚めた、とのことである。もしこれが真実なら、今後の伯爵位継承権問題にも影響しかねない案件である。
 また、それとほぼ同時期に、アキレス近辺で大規模な混沌災害が発生したという噂も流れていた。今はもう概ね沈静化したらしいが、それでも「危険な投影体」の出現率が以前に比べると上がっているとのことであり、戦力不足のアキレスの現状を考えると、どうしても不安がよぎる。
 以上の状況に鑑みた上で、ひとまずトオヤ達は、アキレス経由でタイフォンへと帰還することを決断した。今回の旅路の最大の目的であった「中立派諸侯との交流」はそれなりに果たせた以上、そろそろ国許に戻る必要もある。アキレスおよびタイフォンの近辺で混沌濃度が不安定な状態になっているのであれば、戦力の増援も必要だろう。
 その旨をオディール領主のロートスに告げると、彼は笑顔でその申し出を受け入れた上で、オデットに彼等をペリュトンでアキレス方面へと送るように伝える。

「皆さん、本当にありがとうございました。北の情勢がどうなるかは分かりませんが、こちらもこちらで頑張っていきたいと思います。ヴァレフール全体としても、一刻も早く内部対立が解消出来るといいですね」

 最後まで爽やかな笑みを浮かべながらそう語るロートスに対し、「レア姫」も素直に答える。

「あなたが今のヴァレフールのこの対立の解決に協力してくれるというのであれば、非常に頼もしく思います。これからもよろしくお願いします」

 実際のところ、ロートスは「彼女」の正体をオルガから聞かされているのであるが、「レア」もそのことは分かった上で、ここはあくまで「建前通りの対応」を貫くことにした。
 一方、そんな彼等を見送りに来たロジャーは、周囲を見渡しながらトオヤに問いかける。

「兄上、ドルチェ殿は今、いずこに?」
「あぁ、彼女は、今は身を潜めているというか……、元々あまり人前で活動したがる奴ではないからな」
「そうなのですか……。もし、次にこちらにいらっしゃることがあれば、ぜひジゼルの方にもお越しください。特に何もない村ですが、精一杯、おもてなししますので!」

 どうやら、リューベンの予想とは全く異なる形で「兄弟の三角関係」が発生しつつあるようだが、それに対して、今のトオヤとしては、何も言えない心境であった。そんな二人に割って入るように、カーラはお別れの挨拶としてまたロジャーの頭をグシャグシャと撫でる。

「それでは皆さん、参りましょう」

 オデットはそう言って、彼等の足元に再びペリュトンを出現させる。そんな彼女に対して、後輩であるチシャが声をかける。

「長城線で何かあったら、また教えて下さいね」
「はい。その時はまた迎えに行きます」

 笑顔でそう頷くオデットであったが、実際のところ、毎回彼女に迎えに来させるのは(その間の長城線の防備が弱まるため)あまり望ましくない。出来ればその頃までに、自分も自力で自軍を空輸出来るような魔法を習得しておきたいと、優秀な先輩の背中を眺めながら切に願うチシャであった。

1.3. 猛毒の悪魔

 こうして、オデットのペリュトンに乗ってアキレスへと向かうことになったトオヤ達は、数日に渡る「空の旅」を経て、アキレス北部の森の近辺にまで到達したところで、この森の混沌濃度が通常よりも明らかに高くなっているのを感じ取る。
 さすがにこの状況で素通りする訳にはいかないと判断した彼等は、上空からでは森の内側の異変を確認することが難しく、逆に地上からの不意打ちによってオデットが狙い撃ちされる危険があるため、ひとまずアキレスの手前に位置する宿場町モンスーンに立ち寄り、ここまでの空輸のために魔力を大量に消費したオデットにはひとまずその町の宿で休養してもらった上で、ここまで共に戦ってきたタイフォンの兵達と共に、森の調査へと向かうことにした。
 ひとまず馬車と軍用馬を調達した彼等は「いつもの手順」で「ドルチェ」を兵士達の前に登場させ、完全装備の状態で森へと向かう。そんな森の中で彼等の前に現れたのは、不気味な様相の三体の悪魔であった。通常、悪魔は人間に近い姿をしていることが多いが、この悪魔達は二足歩行型ではあるものの、異様なまでに腹部が成長しており、まるでその腹の中に「特殊な何か」が詰まっているようにも見える。

「変身!」

 トオヤがそう叫んで真っ赤な鎧に身を包む横で、ドルチェは悪魔達に妖しい視線を送り、彼等の集中力を乱す。そしてチシャの魔法によって強化された武器を掲げたカーラ隊が、三体のうちの一体に向かって突撃し、その巨大な腹を大剣の一閃で掻っ捌くことで撃破するが、次の瞬間、その腹の中から明らかに猛毒と思しき体液が彼女達に向かって激しく飛び散る。間一髪のタイミングでそこにトオヤ隊が割り込んでカーラ達を庇うが、その体液を受けたトオヤとその配下の兵士達の鎧が見る見るうちに溶け始めた。どうやらこの悪魔は、その太鼓腹の中に「あらゆるものを溶かす猛毒」を溜め込んでいるらしい。
 これまで仲間を守り続けてきたトオヤの鉄壁の装甲が、一瞬にして無力化されてしまったのを見て、カーラは青ざめる。

「あるじ! 次は庇わなくていいからね。一発くらいなら大丈夫だから」
「心配するな。これくらい、どうってことはない」

 彼はそう叫びながら、改めて聖印の力で鎧を再強化させようとするが、この悪魔の体液を受けた彼の身体は既に内側から毒素で蝕まれており、そう何度も同じ毒液を受け続けると、さすがのトオヤでも身が持たない。彼はひとまず魔法薬で自分の身体を癒しつつ、聖印を掲げて周囲の皆の精神力も回復させる。
 その間にチシャは瞬間召喚したジャック・オー・ランタンを残り二体の悪魔のうちの片方に突撃させる一方で、もう一方には固定召喚したトロールを向かわせる。そのトロールに対して、悪魔は口から毒液をトロールに向かって吐き掛けるが、トロールには自身の身体を自力で回復させる力があるため、その程度で動じることはない。
 そして、この難敵を相手に長期戦は得策ではないと判断したドルチェは、自身の邪紋の力を一気に放出して、立て続けに残った二体の身体を内側から破壊する奥義を連発する。その度に彼女の身体に激しい毒液が飛び散るが、彼女はそれらを華麗に避け続け、後方から支援するチシャの魔法の援護もあって、どうにか無事に残り二体の悪魔の撃破にも成功するのであった。

1.4. 孤高なる女騎士

「とりあえず、一仕事終わった、ってカンジだね。とはいえ、だいぶ疲れたから、アキレスに戻って休みたいところではあるけど」

 日頃、あまり弱音を吐くことがないドルチェが、そう言いながら肩で息をするほどに疲労しているのを目の当たりにしたトオヤ達は、彼女を庇いつつ、来た道を戻ろうとするが、そんな中、彼等のいる方向に向かって、何者かが近付いてくる足音が聞こえる。その音の大きさから察するに、おそらくは一人、しかも人間であろうと推測されたが、彼等は警戒しつつその場に立ち止まる。すると、彼等の前に現れたのは、一人の優雅な女騎士であった(下図)。


「貴公等は、ヴァレフール軍の方々ですかな?」
「はい、タイフォンの領主、トオヤ・E・レクナです。そういうあなたは?」
「タイフォン? 確か、アキレスの南の村でしたか……。私の名はクレア・シュネージュ。旅の騎士です。今回の混沌災害に対して、アキレスの軍隊がなかなか動かないと聞いていたのですが、わざわざ隣の村から鎮圧に来て下さりましたか」

 彼女の名はトオヤも聞いたことがある。聖印教会に所属する流浪の女騎士だが、部下も領地も持たず、その身一つで行く先々で多くの人々を混沌災害から救っていると評判の人物であり、聖印教会の信徒のみならず、世界中の民衆から絶大な人気を持つ在野の君主であった。

「いえ、たまたま通りかかっただけでして……」

 トオヤはひとまずそう答える。この説明はあまり正確ではないが、実際のところ、どういう経緯でここに来たのかを説明するのは手間がかかるので、今はこの一言で終わらせるのが適切と彼は考えていた。
 一方、彼女の名を聞いたドルチェは、トオヤが対応している間に、こっそりとその場を離れる。彼女は聖印教会の中では比較的穏健派であり、邪紋使いに対しても比較的寛容であると言われてはいるが、それでもあまり快く思われていないことは間違いない(そして今の彼女は「レア」ではなく「ドルチェ」である)以上、ここはトオヤに任せた方が得策と判断したようである。
 ちなみに、実はクレアは「本物のレア姫」とは面識がある。数年前、彼女の名声を聞きつけた副団長グレンが、ヴァレフールの若き騎士達に「混沌と戦う君主の心得」を伝えるための講師として、彼女をヴァレフールに招いたことがあった。その際に、レアやゴーバンもまた、彼女の薫陶を受ける機会が与えられていたのである。その時の話はドルチェもレアから聞かされていたが、少なくとも当時のレアは、クレアの君主としての孤高な生き方に感銘を受けていたらしい。


「そうですか。それにしても、この状況下でアキレスの警備兵が動かないということは、彼等は今、どこか別の地域の鎮圧に向かっているのでしょうか……」

 クレアはそう呟くが、実際のところ、今のアキレスにはそもそも十分な戦力が残っていない。おそらくは城下町の警備で手一杯で、町の外の混沌災害にまで戦力を割く余力がないのだろう。トオヤはそう思いながらも、ひとまずそのことは黙っていた。
 ちなみに、クレアは数日前に大陸の港町ローズモンドに立ち寄った際に「アキレス近辺で混沌災害が起きている」という話を聞き、その被害の拡大を食い止めるために、単身この地に乗り込んできたらしい。既にこの森の中で幾体かの危険な投影体を撃破していたようだが、トオヤ達が部隊を率いてかろうじて撃退した悪魔達を相手に、たった一人で連戦出来ていたということからも、明らかに彼女はトオヤ達とは「格」の違う存在であることが伺える。
 トオヤは彼女の助力に感謝しつつ、ひとまずここは合流した上で一旦アキレスへと向かうことを提案し、彼女もそれに同意した。そして、チシャは魔法杖を用いてモンスーンに滞在中のオデットにその旨を伝えると、彼女は「私はその人に会わない方がいいと思う」と彼女に告げた上で、モンスーンには戻らず、直接アキレスに向かうように示唆する。どうやらオデットは、聖印教会の人間に対して(普通の魔法師以上に)苦手意識があるらしい。チシャはここまで送ってくれたことに改めて感謝しつつ、彼等はそのままアキレスへと向かうことになった(その間に「ドルチェ」は馬車の中で「レア」に戻っていた)。

2.1. 凱旋入城

 その日の夜、タイフォン軍は無事にアキレスに到着する。レア姫とトオヤの帰還に市民達が大いに湧き返る中、彼等は領主であるケネスが待つ城へと向かった。

「よくぞ戻った、トオヤ。クレア殿も、ご足労頂いたことには感謝する」

 ケネスはそう言って、彼等を出迎える。クレアに対する彼の声色は、どこか素っ気ないようにも見えたが、聖印教会に対して否定的な立場を取る彼としては、それも無理からぬことであろう。そして彼は、トオヤにエスコートされる形で姿を現した「レア姫」に対して問いかけた。

「ウチの孫は、護衛役として十分な働きをされましたかな?」
「それはもう十分なほどに。この旅の中で彼に助けられたことは一度や二度ではありません」

 実際のところは、彼女がトオヤ達を助けたことも多々あったのだが、表向きは「レア姫」自身は(長城線の防衛戦以外では)あまり表立って行動していた訳ではない以上、トオヤとしてもその点については何も言わずに黙っていた。
 そんなトオヤに対して、ケネスはふと思い出したかのように問いかける。

「そういえば、ドルチェとかいう有能な邪紋使いを雇っているとも聞いたが……」
「はい、彼女は非常に優秀で、非常に助かっています」
「そやつは、お主と個人契約をしている、ということでいいのだな?」
「えぇ、そうですね」
「傭兵を雇う時は、色々と気をつけておけよ。支払いが滞ると、後で色々と面倒なことになるからな」

 これは、実際に町の警備を「質の悪い傭兵」頼みにならざるを得なくなっているケネスだからこその切実な忠告であった。

「その辺りに関しては、個人的な蓄えから出しているので大丈夫です」

 ひとまずトオヤはそう言ってごまかす。実際のところ、トオヤが彼女のために支払っているのは、諸々の必要経費の他には、(彼と一緒に甘味処を回る際の)ささやかな遊興費程度である。そんな破格の値段で「一線級の邪紋使い」を雇っていることが知られると、色々と彼女の正体に勘付かれる可能性もあるので、その点はあまり公にしてはいない。
 一方、クレアはケネスから今のアキレスの近辺の混沌災害の状況を一通り聞いた上で、なんとなく「自分がそれほど歓迎されてはいない空気」を察したのか、城の客室は借りずに、下町の民間宿に泊まると告げる。彼女としては、街中にまで混沌災害が広がった時に対処するためにも、その方が効率的だと考えていたようである。
 とはいえ、ケネスとしても、混沌災害の鎮圧に協力してくれたクレアをそのまま放置する訳にはいかない以上、翌日に彼女を交えた形で「トオヤ達の帰還祝いの宴」を開きたいと申し出てたのに対し、彼女もそれを了承した上で、ひとまずその場から立ち去るのであった。

2.2. 王配の選択肢

 その後、チシャ、カーラ、「レア」の三人がそれぞれの客室へと案内される一方で、トオヤとケネスだけが謁見の間に残る。どうやら二人とも、「サシ」で話しておきたいことがあるらしい。

「さて、今回の旅を通じて、各地の領主達との関係はどうなった?」
「そこまで悪い印象を持たれているとは思いません。ただ、今回訪問した先の人々は、前回の七男爵会議の際に『消極的支持』を示していた人達でしたから、難しいのは、これから先かと」

 ケネス以外の七男爵のうち、ユーフィー、イアン、ロートスの三人とは友好関係を結べた。残る三人のうち、副団長グレンとその親族であるファルクはもともとワトホート派である以上、レアの継承自体に異を唱えるとは思えないが、ファルクはともかくグレンの方は、ケネスの孫であるトオヤがレアの側近として相応の地位を占めることに対しては異論を挟むだろう。
 残る一人である湖岸都市ケイの領主ガスコインはケネスの盟友だが、それだけに、これまでケネスと共にゴーバンによる継承を強く訴えてきた彼が、ここであっさりとその主張を覆すかどうかは分からない。少なくとも、ケネス派が新体制下で相応の立場を保証されない限りは同意しないだろうが、その要求を強めることはグレン達の反発を招く可能性が高い。
 そのことを踏まえた上で、ケネスは改めてもう一つの「最重要案件」について問いかける。

「お前としては『自分の身の振り方』について、決心はついたか?」
「それについては色々な人々に問われましたが、まだ引っかかるものが色々とありまして」
「おそらく、皆が一番気になっているのはそこだ。レア姫の即位に異を唱える者は、そういないだろう」
「それに関しては、そうでしょう」
「なんとかゴーバン殿下にも話はしたが、やはり、レア姫と夫婦になることにはあまり乗り気ではない。まぁ、そもそもまだ『結婚』ということの意義もよく分かっていらっしゃらないようだがな。そうなってきた場合、問題は誰が彼女を娶るのかだ」

 ここまでの話はトオヤも概ね理解している。問題は、ここからであった。

「この際だから、こちらもはっきり言おう。お前にその気がないのであれば、『別の選択肢』を儂は考えている」
「別の選択肢、とは?」
「今のこのヴァレフールを立て直せる人物、誰がいると思う?」

 唐突にそう問われたトオヤは、これまでに出会ってきたヴァレフールの要人達を思い返し、熟考した上で、言葉を選びながら答える。

「何人か名前が思い浮かばない訳ではありませんが、誰がやっても困難な道ではあるでしょう」
「正確に言えば、ヴァレフールだけではなく、このブレトランドを立て直せる人物、ということなのだがな」
「えぇ、それはそうでしょう」

 ヴァレフールが再統一を果たしたところで、アントリアからの侵攻を止めないことには、平穏は訪れない。その意味では、確かにヴァレフールの平和はヴァレフール単体では成り立たないのであるが、まだこの時点ではケネスの言いたい意図はトオヤには伝わっていなかった。

「では、グレンは誰を推そうとしていると思う?」
「噂では、ファルク殿と聞いていますが」
「それはそれで奴としては望ましい選択肢の一つだろうが、それではこちらが納得しないことも分かっているだろう。そして、おそらくあやつの本命は、ファルクではない。だが、おそらくその選択肢は、ファルク以上に大きな反発が出る」
「その選択肢、とは?」
「アントリア子爵代行マーシャル・ジェミナイ」

 その名前を聞いたことで、ようやくトオヤもケネスの真意を理解した。政略結婚の相手は国内の要人とは限らない。むしろ、対立国の王族同士の婚姻こそが、古来より脈々と受け継がれてきた王道の外交術である。

「……なるほど。確かに、子爵代行殿も独り身でしたね」
「そうだ。そして歳もまだ16。レア姫とも近い。グレンはとにかく、このブレトランドの戦乱を終わらせたいと考えている。そのためにアントリアと和平を結ぼうと考えた場合、必然的にこの選択肢に行き着くだろう」
「確かにそうですね。アントリア側が受け入れるかどうかは、また別の問題ですが」
「仮にそれが成り立ったとして、その後、この小大陸はどうなると思う?」
「おそらく、連合と同盟の力関係に、これまで以上に悩まされることになるかと」

 仮に和平が成り立ったとして、その両国が連合と同盟のどちらにつくのか、という問題は残る。両国が今のように両勢力に分断されている限り、この和平は成り立ちそうにない。

「アントリアが我等と同じ連合側に寝返れば、おそらくノルドが攻め込んでくる。我等が同盟側に寝返れば、今度は連合諸国が攻め込んでくるだろう。結局のところ、ブレトランド人同士で争うか、ブレトランドで一致団結して『大陸のどちらか』と戦うか、という違いでしかない。グレンもそれが分からない訳ではないだろう。だからこそ、この提案が難しいということは分かっている筈だ。その上で、あやつはおそらく、もう一つの選択肢も考えている。それが、数ヶ月前に神聖トランガーヌ枢機卿の座を継いだ、ネロ・カーディガンという男だ」
「その人に関しては、風の噂で名前くらいは聞いたことがありますが……」

 神聖トランガーヌの中では、比較的穏健派の人物と言われているが、その人物像については、まだ不明な点が多い。旧トランガーヌ子爵家の分家の出身で、歳は20。家柄的にも年齢的にも、条件としては悪くないが、為政者としての能力は、まだ全くの未知数である。

「その婚姻を通じて神聖トランガーヌを取り込むことで、アントリアを牽制しようという算段なのだろうが、我々にとっては、それはマーシャル卿以上に受け入れがたい提案だ」
「あの国は、少々過激なきらいがありますからね。あの国の歩調に我が国が合わされるかと言われれば、否と言わざるを得ません」
「では、そのことを踏まえた上で、私がレア様の御相手として、お前でもゴーバン殿下でもない『もう一つの選択肢』として、誰を考えているかは分かるか?」

 この話の流れで、残された選択肢は一つしかなかった。

「……グリースですか?」
「そうだ。グリース子爵ゲオルグ・ルードヴィッヒ。奴は明らかに『我々の力』を欲している。あの国の中にも色々な立場の者達がいるので、本格的にアントリアと敵対する道を選びにくい事情もあるようだが、我々があの男をレア姫の夫として迎え、そのままグリース子爵領をヴァレフール傘下に納めれば、奴もヴァレフールの兵を使って神聖トランガーヌと本格的に戦える。今回、トーキーに兵を派兵してアントリア軍を牽制しているのも、我が国への友好姿勢を示すためだろう」
「しかし、噂で聞く限り、あの国の子爵殿に関しては、正直、隙を見せれば食われるというか、獣の獰猛さを感じるので、あまり信用しすぎるのもどうかと思いますが」
「その通り。だが、別に信用はしなくてもいい。利用すればいいのだ。あのような類の者はな」
「とはいえ、油断すれば、いつ首元に食いついてくるか分かりません」
「そうだな。だから、お前がグリースの覇王以上にこの国を立て直せるというのであれば、お前がレア姫の夫となって、この国を率いていけばいいだろう。だが、お前にその気がなくて、グレンがファルクやマーシャル卿、あるいはネロ・カーディガンとレア姫との結婚を目論むのであれば、儂はそれに対抗するために、グリースの覇王を推挙せざるを得なくなる。あくまで、お前にその気がないのであれば、だがな」

 無論、これはこれで色々な意味で無茶な提案であることはケネスも分かっている。だが、そのような無茶な選択肢にも頼らざるを得ないほど、今のこの国の状況は逼迫している、ということをトオヤに分からせるための、一種の脅し文句でもあった。それに対してトオヤは、今の自分の立場で表明出来る範囲の、精一杯の言葉を捻り出す。

「レア姫様の結婚に政治的な意味合いが強くなってしまうのは、あの方のお立場上、どうしようもないでしょう。ですが、私がレア姫様と結婚するとか、そういうことについては、今でもまだ考えることが出来ません。それでも俺は、彼女の味方ではあり続けたいと思っています」

 今のトオヤとしては、そこまでしか言えない。少し前までは、彼の中には確かに一人の男性として、レアのことを想う気持ちがあった。だが、今は彼の中でそれは「レアの姿をしていたドルチェ」への気持ちとして位置付けられている。果たしてそれが「最初からそうだった」のか、「置き換えられた」のかは分からない。だが、いずれにせよ、今の彼の中では、「本物のレア」のことを「人生の伴侶」として迎えるという選択肢は消失してしまった。
 だが、もし万が一、レアがこのまま戻らなかった場合、「ドルチェ」が一生「レア」として生き続けることになる可能性も有り得る。トオヤとしては、そのような未来は考えたくなかったが、その可能性を完全否定も出来ない以上、今の時点でこの問題について結論を出せなかった。そしてケネスに対して、「レア」の真実を伝えるべきか否かの判断がトオヤの中で定まっていなかった以上、これ以上の説明も出来なかったのである。

「ならば、その件に関しては、今しばらく保留としても良い。ただ、いずれにせよ、私がレア姫の即位を認めるとするならば、それは少なくとも『聖印教会寄りの者』が彼女の夫とならないことが最低条件だ。その意味では、ファルクもネロも論外。かといってマーシャル卿というのも非現実的な話だ。その上で、お前もゴーバン殿下も断るというのなら、選択肢としてはゲオルグ卿しかなくなる。しかし、それはあくまでもレア姫を即位させるならばの話だ。儂の本音としては、今でもゴーバン殿下に継いでほしいと考えている」
「それは、ゴーバン殿下が国を導けると思ってのことではないのでしょう? 『そういう思惑』に基づいて物事を進めようとする限り、この国は決してまとまりません」
「では、どうすべきだと思う?」
「その答えに関しては、今でもレア姫様を立てることで国を導いていくしかない、という考えは変わっていません。しかし、それに対して僕達臣下がどのようにレア姫様に尽くしていくかについて、もう一度改めて考えてみるべきでは? 今回、色々と各地を回ってみて思いましたが、この国では以前から、亡きブラギス陛下をお支えるするための力が不足していたのではないかと、今では思わざるを得ません」
「ほう? では、支えられる君主を作るには、どうしたらいい?」

 ケネスにとって、あくまでも君主は「作るもの」らしい。その点に対しては、特にトオヤは肯定も否定もせぬまま話を続ける。

「それについては、まだ分かりません。結局は、主義主張が違う訳ですから。話し合って、お互いの妥協点をきちんと見つけるしかありません。そのためにも、僕達は民の声を聞いて、理解するところから始めなければならないと思います。聖印教会寄りだからと言って、真っ向から否定するのではなく、どこか折り合いをつけられるところはないのか、あるいは、互いに何か勘違いしているところはないのか、そういうことを考えるべきだと思います」
「それが出来れば、苦労はせんのだがな」
「それが人間の難しいところでしょう」

 今のところ、トオヤの口から具体的な解決案は何も出ていない。ただ、少なくとも、彼が自分の中で「目指すべき方向性」を見出そうとしていることは、ケネスには伝わっていた。老獪な騎士団長から見れば、それはまだ「青臭い理想論」の域を出てはいないが、国を導くためには何らかの「理想」が必要であることもケネスは理解している。

「まぁいい。今日のところは長旅で疲れたであろう。もう休め」
「いえ、こちらこそ、少々言葉過ぎたようで、すみません。ところで、ゴーバン様やドギ様はお元気ですか?」
「あぁ、実は、ドギ様は二週間程前に病気にかかられてな」
「は!?」

 唐突にサラッとそう言われたことに、トオヤは思わず驚嘆の声を上げる。

「いや、今はもう全快されたから心配はない。そして、その時の影響からか、体質が改善されてな。今はようやく、聖印が持てるようになったのだ」

 その噂はトオヤも聞いている。だが、ひとまずここは話の流れ上、「そのことも知らなかった体裁」で会話を続けることにした。

「ほう? ということは、今はドギ様は聖印を?」
「あぁ。とはいえ、ドギ殿下はゴーバン殿下以上に幼い。今の時点で即座に後継者候補となることはないだろう。ただ、これで将来の選択肢が増えたことは素直に喜んで良い」
「えぇ、まぁ、それは」
「ゴーバン殿下の方は、弟がそのような形で『自分以外の選択肢』として浮上してきたことに、不満というか、不機嫌な様子なのでな。そこはお主が適当に宥めてさしあげろ」
「分かりました。どちらにしても、戻ったら久しぶりに稽古をつけるつもりだったので。その際にでも」

 そう言ってトオヤは退室しつつ、今は亡きトイバルとワトホートの対立を思い出す。兄と弟の気性は真逆であるが、「新たな選択肢」が発生したことで、これまでに考える必要がなかった「最悪の未来図」も考える必要が出てきた。

「いや、まさかな……」

 トオヤが見てきた限り、ゴーバンとドギの兄弟仲は決して悪くはない。だが、それはドギに継承の権利がないことが前提となっていたからこそ、なのかもしれない。色々と悩ましい問題を抱えつつも、この日のトオヤはひとまずそのまま客室へと向かい、静かに床に就くのであった。

2.3. 下町の活況

 トオヤとケネスがそんな会話を交わしていた頃、カーラは自分の部下の兵士達に、これまでの長旅の苦労をねぎらう報奨金を手渡し、「これで好きなだけ酒場で羽を伸ばしてしてくるように」と伝えた。彼等が喜んで下町に出て行く様を横目で見ながら、ドルチェ隊の兵士達はため息を付きながらボヤく。

「いいよなぁ、カーラ隊長は、ちゃんと部下達のことも考えてくれてて。それに比べて、ウチの隊長は付き合い悪いというか、なんというか、いつもいつの間にかどっか行っちまってるし」
「いや、でもさ、ウチの隊長って、自分の姿を変えられるんだろ? もしかして、俺達の中に混ざって、俺達のことを監視してるんじゃないか?」

 そんな話をしていたところに、背後から(「レア」として客室に引きこもったふりをした後の)ドルチェが現れる。

「君達は一体、人のことを何だと思っているんだ?」
「あ、隊長! いや、その、隊長って、いつも突然いなくなったりするから……、俺達の中の誰かに化けてるんじゃないかとか……」
「あぁ、そうかもしれないね」

 ニヤニヤと笑いながら、ドルチェが冗談めかした口調でそう言うと、兵士達もおどけた口調で答える。

「よし、じゃあ、今度から戦闘になったら、俺達の中で誰かいなくなった奴がいないかどうか確認してみようか」
「そうして気をつけてもらうことは構わないけど、私は人間以外の者にもなれるからね。その辺りも注意するようにね」
「うーん、そうか……、あんまり、難しいことは考えない方がいいのかもしれないな……」
「まぁ、いいさ。これ以上人付き合いが悪いと言われても敵わない。労いの会をやるなら、私も付き合うよ。いいだろう?」
「えぇ、それはもちろん!」

 こうして、美人の女隊長に連れられた兵士達は、アキレスの下町で一番大きな酒場へと向かうと、必然的にそこでカーラ隊の兵士達とも遭遇することになった。彼等は互いに酒を酌み交わしながら、それぞれの武勇伝を競い合う自慢話を始め、やがてそれが上司自慢へと発展する。

「ウチのドルチェ隊長はすげーんだぞ」
「いやいや、ウチのカーラ隊長だってな」

 そんな彼等のやりとりを酒場の人々は面白がって眺めつつ、ドルチェは自分が彼等の目の前にいるとそんな話もやりにくいだろうと考え、少し離れたところで一人で飲んでいた。そんな彼女の前に、吟遊詩人のハイアム・エルウッドが姿を現す。

「あなたが噂の美貌の傭兵隊長殿ですね。ぜひ、詳しいお話を聞かせていただきたいです」

 以前、彼に対して「レア」としてトオヤの武勇伝を語ったことはあるが、「ドルチェ」としてはこれが初対面である。

「話を聞かせるのは構わないけど……」

 何をどこまで話せばいいものやら、と彼女が考えている間に、先にハイアムから語りかけた。

「ようやくこの国にも『光』が見えてきたようですね」
「それは、件の姫様のことかい?」
「えぇ。姫様と、それを助ける騎士様達の武勇伝のおかげで、つい数ヶ月前まで、非常に重苦しい雰囲気だった町の人々の様子が、今は活気付いています」

 実際、それはドルチェも感じ取っていた。少なくとも、以前にこの地を訪れた時に頃に比べれば、明らかに人々の表情が明るい。

「ふーん。まぁ、吟遊詩人として市井を渡り歩いている君が言うなら、そうなんだろうさ。それに少しでも私が貢献出来ているというなら、私もそれほど嬉しいことはない」
「そして、その武勇伝による精神的な高揚と関係しているのかどうかは分からないのですが、最近になってこの街に、どこかからか出資して下さる人々が現れたようで、経済的にも立ち直りつつあるのです」
「おや、それは興味深いね。このタイミングで資金援助をする人々が現れた、と?」
「えぇ。おかげで、借金まみれだったこの街の財政も急速に回復し、借金の取り立てに来ていた大陸の大商人達も、満面の笑みを浮かべて帰っていきました」
「街に活気が戻るのはいいことだが、少々気になると言えば気になるね。金はいつだって代償を必要とするものだよ。傭兵崩れの私が言うんだから、間違いない」
「この国やこの街に、何か期待している人がいる、ということなのでしょうね」

 確かに、経済というものは、ほんの些細な出来事を契機に急激に好転することも悪化することもある。だが、いかにトオヤの武勇伝が伝わってきているとはいえ、街の財政を即座に立ち直らせるほどの出資金を出す者がいるとは考え難い。何かその話には裏があるのではないかとドルチェは推測しつつ、ひとまずはハイアムに「程よく脚色されたトオヤの武勇伝の続編」を(「レア姫」の時とはまた異なる口調で)楽しそうに語るのであった。

2.4. 浮かぬ兄

 翌朝、カーラは日課の鍛錬のために中庭に出たところで、体力作りのために走り込みをしているゴーバンと、ばったり遭遇する。

「お、おぉ、お前か……、帰ってたんだな……」

 カーラを見るなり、そう答えたゴーバンの様子は、今ひとつ元気がないように感じられた。

「お久し振りです」
「お前がいるってことは、トオヤも帰って来てるのか?」
「そりゃあ勿論。あるじに何か用事でも?」
「いや、用事っていうか、その……」

 何か思っていることはあるようだが、口には出せない、そんな様子に見えたカーラは、ひとまず彼を元気付けようと一計を案じる。

「今日の昼過ぎにでも、あるじと私と三人で一緒に稽古をしませんか? 今度は私も、私の『本体』を使って稽古をしてもいいですよ」

 カーラが見たところ、あれからゴーバンもそれなりに鍛錬を重ねたようで、以前より若干成長したようにも見える。それでも、今の自分の本体で戦うのにはまだ少し不安はあるが、トオヤの聖印の力でゴーバンの鎧を強化すれば、そこまでの重傷にはならないだろうと判断した。

「そうか……。うん、分かった。そうしよう。そうだな、うん、頑張るか」

 自分に言い聞かせるようにそう言いながら、ゴーバンはその場を去って行く。あれほど熱望していたカーラの「本体」との手合わせに対して、想定外に反応が薄い。やはり、明らかにどこか様子がおかしいとか思えなかった。

(まぁ、稽古の時に発散させればいいか)

 カーラは内心そう思いながら、一人淡々と素振りを始めるのであった。

2.5. 微笑む弟

 その頃、チシャはドギの私室へと挨拶に向かっていた。

「こんにちは、ドギさん」
「あぁ、チシャ、こんにちは。各地で色々と活躍していたようだね。あれから僕も、色々と寒冷地の植物について、調べてみたんだよ」

 そう言って、ドギはまた植物図鑑を広げて語り始めようとするが、ここでふとチシャは違和感を感じる。これまで、チシャがドギと会って話をする時には必ず随行していた一人の侍女の姿が見えなかったのである。
 病弱なドギの周囲には常に幾人かの侍女が侍っており、それを取り仕切っているのは(以前はチシャの母ネネの侍従であった)邪紋使いのアマンダだが、彼女は城全体の警備の指揮官も兼任しているため、常にドギの近くにいる訳ではない。
 そんな中、ほぼ常にドギにつきっきりで身の回りの世話を担当しているのが、キャティという名の侍女であった。彼女はアマンダとは異なり一般人のため、武術には通じていないが、病弱な体質のドギの健康を管理するに足る医療知識を持ち合わせており、決して出しゃばることなく、静かに淡々と彼のそばを離れず尽くし続ける、極めて真面目で優秀な侍女である。

「キャティさんは、今日はどこかに出かけているのですか?」
「あぁ、彼女は、この仕事を辞めたんだ」
「え? 何かあったのですか?」
「つい先日、この城を訪れた旅人の男性と『いい仲』になって、そのまま彼と一緒に」

 サラッとドギはそう説明する。長年仕えた侍女が突然退職した割には、特に寂しそうな様子も、かといって心から祝福しているという様子もなく、淡々とした態度である。チシャの記憶にあるキャティは、ドギに対して常に献身的に尽くし続けていた責任感の強い女性であり、侍女の任務をいきなり放り出して、出会ったばかりの男と駆け落ちするかのように出て行くとは考えにくい。彼女をそこまで変えてしまうような男性とは、一体、何者なのか?

(旅人……、駆け落ち……、まさか、あの……?)

 チシャの脳裏の中に、クーンで出会った「祖父」の姿がよぎる。

「そのお相手って、どのような方なのでしょうか?」
「うーん、まぁ、誠実そうな人だったかな」

 およそ「彼」は誠実そうな人物とは思えないが、もしかしたら、子供を騙せる程度には誠実そうな演技も出来るのかもしれない。嫌な予感を感じつつ、この場ではチシャはそれ以上何も追求せぬまま、いつも通りにドギを相手に「植物学講座」を始める。ドギはいつも通りの笑顔を見せながら、興味深そうにチシャの話に耳を傾けるのであった。

2.6. 奇妙な違和感

 その頃、トオヤは自室で、昨日の悪魔との戦いで破損してしまった鎧を修復していた。修復と言っても、実質的にはほぼ一から作り直しているのに近い。それほどまでに、あの悪魔の腹から飛び散る毒液は強烈であった。
 そんな彼の部屋に、ひょこっとカーラが現れる。

「あるじ、とりあえず、儀礼用の軽い鎧でもいいから、城の中でも最低限の武装はしておいてよ」

 カーラはクーンの城での顛末を思い出しながらトオヤにそう進言した上で、彼にゴーバンの様子を伝える。

「……ということで、稽古を通じて元気付けてあげたいから、聖印での支援をよろしくね」
「うん、まぁ、それはいいんだが……、そうか、そこまで鬱屈した様子だったのか……」

 トオヤはそう言いながら、昨晩ケネスが最後に言っていたことを思い出す。とりあえず、まだカーラが約束した稽古の予定の時間帯には早かったので、トオヤとしては、まずその前に一度、重病にかかっていたというドギの部屋に、カーラと一緒にお見舞いに行くことにした。
 こうして、チシャの「植物学講座」の場に、トオヤとカーラも姿を表すことになる。

「あ、トオヤさん、この度はお疲れ様でした」
「病に倒れたと聞いたが、元気そうで何よりだ」

 従弟とはいえ、主君筋の御曹司に対して、挨拶せずにいきなり話をしたトオヤに対して、カーラはジト目を向けるが、ドギは穏やかな笑顔で答える。

「おかげさまで、どうにか持ち直しました」

 その彼の笑顔を目の当たりにしながら、トオヤは彼の仕草が、どこがどうという訳ではないが、微妙に以前と変わっているように見える。それが、病気を乗り越え、聖印を手に入れたことによる心境の変化がもたらしたものなのか、あるいは何か別の要因によるものなのか、この時点ではトオヤには判断出来なかった。
 一方、カーラはトオヤ以上に「強い違和感」を感じ取る。彼女はこれまで、ゴーバンやドギに会う度に、ほのかにチシャに会った時と同じような「懐かしさ」を感じていた。おそらくそれは、彼女の父シャルプ(初代ヴァレフール伯爵)の血脈であることを感じ取る彼女の独特の嗅覚なのだろうが、今、目の前にいるドギから、その「気配」が感じられなかったのである。

(え? あれ? ドギ様……、だよね?)

 カーラが困惑の表情を浮かべつつ、ひとまずトオヤの後ろに隠れるように立ち、少し離れた場所から様子を伺う。すると、そこに侍従長のアマンダが姿を現した。

「ドギ様、そろそろお食事の時間です。すみません、皆様。ドギ様はまだ今は体質が変わったばかりで、食事に関しても特別な配慮が必要なのです」

 彼女がそう言って頭を下げる傍らで、ドギも軽く皆に頭を下げる。

「では、また。今夜宴が開かれる予定なので、よろしくお願いします」

 そう言われたトオヤ達が部屋から出て行こうとしたところで、トオヤ達を探していたドルチェと、開いた扉を挟んで向かい合うことになった。

「あぁ、ここにいたのか。皆、探したよ」

 ドルチェはトオヤ達にそう言った上で、その奥にいるドギにも挨拶する。

「ドギ様、はじめましてですね。この度トオヤに雇われることになったドルチェです。よろしく」
「はじめまして。ドギ・インサルンドです。よろしくお願いします」

 ドギはそう答えるが、この時、ドルチェはドギの身体から「奇妙な力」を感じ取る。おそらくそれは、何らかの「魔法」の気配であることが彼女には分かった。そして同時に、彼から何か「不自然さ」を感じる(「ドルチェ」としては初対面だが、彼女はその前に幾度も「レア」としてドギとは会っている)。
 ドルチェがそこで何らかの違和感を感じていることを察したカーラは、彼女の耳元で小声で話しかける。

「あとで、話し合いましょう」

 そう言われたドルチェは、無言のままウィンクで返しつつ、彼等と共に部屋から退室した。

2.7. 疑惑と推論

 ドギの部屋から出た四人は、一旦、トオヤの客室に集まることにした。その途上、廊下でトオヤはチシャに語りかける。

「ドギ様、なんというか、前よりもちょっと成長したかな?」
「そうでしょうか?」

 これまで一番ドギと接する機会が多かった筈のチシャだけは、特に彼からは何も違和感は感じていなかった。もしかしたらそれは、キャティ不在の裏で祖父(楽士)が暗躍しているかもしれない、ということに気を取られていたからなのかもしれない。
 彼等がトオヤの部屋に入って、扉を閉めたところで、ドルチェはカーラに問いかけた。

「で、君は何に気付いたんだい?」
「実は……、僕にはちょっと不思議な感覚があって、伯爵家の人達からは『お父様の気配』を感じることが出来るんだよ。でも、『今までのドギ様』から感じられていた『お父様の気配』が、『さっきのドギ様』からは感じられなかったんだ」

 その話を聞いたドルチェは、納得したような表情を浮かべる。

「なるほど、それはキナ臭くなってきたね」

 カーラのこの感覚は、彼女の出自を知らない者達には、言っても信じてはもらえないだろう。だが、この場にいる者達にとっては、それは十分に説得力のある「疑惑の証拠」となる。

「偽物と入れ替わっている、ということか……」

 トオヤがそう言ったところで、「偽物」の第一人者であるドルチェは補足する。

「あぁ、それから、僕の方からも一つ。ドギ様には、何らかの魔法がかかっているようだ。カーラの話と合わせると、『姿を変える魔法』とかが妥当なところか」
「そういえば、長城線の時もそんなようなコトがあったな」

 トオヤがそう言ったのに対し、チシャは魔法師としての見解を示す。

「私が知る限り、魔法で姿を変えられる方法は二つです。基礎魔法で偽の映像を作り出すか、もしくは、かなり高度な生命魔法で姿そのものを変えるか」

 ただし、基礎魔法で作り出す映像の場合、声までは変えられないし、実際に触れてみればそれが偽物であることはすぐに分かる。そう考えると、生命魔法によって姿を変えた偽物がなりすましている可能性が高いが、そこまで高度な生命魔法が使える者は、世界全体を見渡しても数人程度しか存在しない。少なくともチシャが知る限り、このブレトランドには誰もいない筈である。
 しかし、それはあくまでも「エーラムの魔法師協会」が管理している範囲の魔法師の話であり、彼等の管轄の外側にいる「闇魔法師」に関しては、どれだけの実力者がどこに何人いるのか、正確に把握出来ている者は誰もいない。そして、このブレトランドにも、そんな闇魔法師の組織が存在することを、彼等は知っている。

「あと、いつもドギさんの傍にいた侍女のキャティさんがいなくなってました。ドギさんは『彼女は辞めた』と言ってましたが……」

 チシャとしては、どうしてもその点に不自然さを感じざるを得ない。これに対して、本業の影武者であるドルチェが自身の見解を述べる。 

「キャティさんか……。彼女は魔法や邪紋が使える人ではなかったけど、逆に言えば、一般人であれば、聖印を受け取ることも出来る」

 つまり、何者かが魔法でキャティの姿をドギに変えた上で、ドギになりすました彼女が聖印を受け取ることも可能、ということになる。この点で言えば、邪紋使いであるが故に聖印を受け取れないドルチェよりも、一般人の方が「君主の影武者」には向いている。そして、いつもドギの傍にいて、彼と周囲の人間との関係も把握している彼女であれば、ドギになりすます人材としては最適だろう。

「ちょっと待っておくれよ。まず今、一番に考えるべきことは、本物のドギ様がどこにいるのか、じゃないのかい?」

 カーラがそう言って周囲を見渡すと、ドルチェは「そうだね」と短く答え、そしてトオヤが少し考え混みながら語り始める。

「それについては、まず『影武者を用意した人間』の思惑を考えれば自ずとわかるんじゃないかな。まず、そもそもあの影武者の存在に『お爺様の意思』が介在しているかどうかによって、話が全然変わってくる。まずその点を確認する必要があるだろう。もし、お爺様の意志によるものだとしたら、そこには何かしらの理由がある筈だ」

 現状、ケネスはトオヤにも、ドギが影武者であることは知らせていない。そう考えると、ただ単にドギが重病で伏せっている間だけの代役、という可能性は考えにくい。身内にも伝えられないような、特殊な事情があると考えるのが妥当だろう。
 それを踏まえた上で、ドルチェは自身の推察を語る。

「真っ先に考えられるとしたら、何が何でもドギ様を『聖印を受け取れる身体』にしたかった、ということだろうね。そのことにどれほどの意味があるかは分からないけど」

 つまり、本物の「聖印を受け取れないドギ」を「聖印を受け取れるドギ」にすり替えたという可能性である。その場合、最悪の場合、本物のドギは既に死んでいる可能性もあり得るだろう。二週間前の病気で命を落としてしまったが故のやむなき措置なのか、あるいは……。

「昨夜のお爺様は、確かにドギ様が聖印を受け取れるようになったことによって『選択肢が増えた』とは言っていたが、今の時点でレア様とゴーバン様以外の選択肢を増やすことに、そこまでの意義を見出しているとまでは思えなかった。だから、それ自体が目的という可能性は低いんじゃないかな」

 トオヤがそう返したところで、カーラは少し苛立った表情で口を挟む。彼女から見れば、トオヤやドルチェの推論は、全くの的外れな議論に思えた。

「あのね、ボクが懸念していることを、はっきり言おうか? レア様を拐おうとしていたパンドラの連中がいただろう? そこを考えてほしかったんだよ! 彼等は伯爵家の血を引く者が欲しかったんだろう? そして、パンドラの連中には魔法が使える奴が多いんだろう? ボクはそこに気付いてほしかったんだよ! なんで分かってくれないんだい!?」

 机をバンバンと叩きながら、カーラはそう力説する。それに対してトオヤは、平静を装いながら答える。

「あぁ、そういうことか……」

 トオヤとしては、正直、あのドギが「ケネスの意図で用意された影武者」であってほしいと考えていた。もし、既にドギがパンドラの手に落ちていた場合、取り戻す術が全く思いつかないし、そもそも城内の最深部にまでパンドラが入り込んで好き勝手やってるという状況に、ケネスが気付いていないのだとしたら、その状況はあまりにも絶望的すぎる。

「なるほど、その懸念はありうるな。これは目の付け所が甘かったね」

 ドルチェは素直にそう答えるが、あくまでそれも「一つの可能性」でしかない。ドルチェが懸念しているように、既に二週間前の病気でドギが死去してしまっているのかもしれないし、何か別の陰謀で入れ替えられている可能性もある。
 いずれにせよ、この状況でまず確認すべきは、やはりトオヤが言っている通り、ケネスが影武者のことを知っているかどうかである。そのことについて確認するために、まずはキャティの行方などについて調べてみようか、という話になってきたところで、カーラは、窓の外の陽が高くなっていることに気付く。

「あるじ、言いにくいんだけど、そろそろゴーバン様との稽古の約束の時間が……」

 カーラは申し訳なさそうにそう言いながらも、内心では、彼女自身の中の今のモヤモヤを晴らすために、体を動かして発散したい気分にもなっていた。

「そうだな。ゴーバンも様子がおかしかったのなら、この機にあいつとも話してみるべきなのかもしれない」

 こうして、ひとまずトオヤとカーラがゴーバンとの稽古に向かい、チシャとドルチェは城内の聞き込み作業に入ることにした。

2.8. 兄の懸念

 トオヤとカーラは約束通りにゴーバンと剣の稽古に励むことになったが、稽古中のゴーバンは、頑張って気合を入れようとする姿勢は伺えたものの、カーラやトオヤ以上に、どこかモヤモヤした様子に見えた。念願だった筈のカーラの「本体」との打ち合いにおいても、どこか「心ここにあらず」な様子で、カーラとしても、とてもまともに打ち込める状態ではなかった。
 そうしてしばらく打ち合った上で、休憩に入ったところで、トオヤがゴーバンの様子を伺おうとする前に、ゴーバンの方から話しかけてきた。

「なぁ、ちょっと聞きたいんだけどさ、人間って、聖印を手に入れたら、性格とか人柄とか、変わるものなのかな?」

 どうやら、彼も彼で、ドギの「変化」に気付いているらしい。

「てかさ、実は、ドギが聖印持てるようになったんだよ。最初は俺もそれが嬉しくてさ、これであいつも少しは戦えるようになるだろうし、兄弟で一緒に強くなっていければ、と思ってたんだけど……、なんか最近、妙に俺に対してよそよそしくってさ……。聖印を持っただけで、人って、変わってしまうものなのかな?」
「そうだな、確かに力というものは、多かれ少なかれ人に影響を与えるものだよ。ただし、それは良くも悪くもだ。力に良いも悪いもないから、聖印だろうと邪紋だろうと魔法だろうと、力は力だ。そこからどんな影響を受けるかは、結局、その人次第だよ」

 トオヤとしては、ひとまずここはそんな一般論を語るに留めた。今の時点でドギが偽物である可能性が高いということについては、少なくとも今のこの場でゴーバンに知らせる気にはなれなかったのである。だが、ゴーバンとしては、その一般論自体にはひとまず納得しつつも、まだ自分の中で釈然としていない様子であった。

「このことを、母ちゃんにも爺ちゃんにも話したんだけど、皆、気のせいだろうとか、聖印を持ったことで成長してるんだろう、とか言ってたんだけど、なーんか引っかかるんだよなぁ」
「何が引っかかるんだ?」
「話してて、『あいつじゃない感』があるというか……、あいつホントにドギなのかなぁ、ってくらい、違和感があるんだ」
「そうか、ちなみに、その違和感の正体を、もう少し具体的に教えてもらえるか?」

 もしかしたら、そこに何か謎を解く手掛かりがあるかもしれない。おそらく本物のドギのことを誰よりも知っているであろう(そして「すり替え」の陰謀劇に関わっている可能性が一番低そうな)ゴーバンの意見には、一聴の価値があるように思えた。

「うーん、そうだなぁ……、やっぱり、なんかよそよそしい気がするんだよな。俺のことを警戒してるように見えるっていうか……。俺、あいつと喧嘩なんかしたことないんだよ。あいつ身体弱いんだから、弱い奴と喧嘩しても仕方ないし。むしろ、弟なんだから、俺がずっと守ってやらなきゃって思ってたし……。あいつ、優等生ぶってるけど、俺と話してる時は、別に普通だったんだよ。普通に俺のことは兄貴として頼ってくれてたし……。でも、今のあいつは、どこか微妙に『距離』の取り方がおかしいんだよ。俺が話してる時も、どこかぎこちなさそうな顔で聞いてるし。まぁ、聖印を手に入れて、戸惑ってるだけなのかもしれないんだけどさ」
「そういえば、二週間くらい前にドギが病気で倒れたと聞いたんだが」
「あぁ、その時は、その病気が『感染る病気』だったらしくて、病室の中でずっと看病されてて、医者以外は誰も入っちゃダメと言われてて、詳しいことは分からないんだ」
「そうか。その時期に、何かドギに関して変わったことはなかったか?」
「変わったことかぁ……」

 ドギが頭を悩ませているところで、カーラが横から口を挟んだ。

「そういえば、ドギ様の侍女のキャティさんがいなくなったのって、その病気になるよりも前でした? 後でした?」
「キャティ? あぁ、あいつか……。そうえば、うーん、いつだったかなぁ……、いつの間にかいなくなってたような……」

 単にゴーバンが彼女に興味を持ってなかっただけかもしれないが、少なくとも、この様子から察するに、堂々と寿退職した訳ではなさそうである。
 とはいえ、トオヤとしては、ここでこれ以上ゴーバンの不安を煽るのも良くないと考えたので、ひとまず「まとめ」に入る。

「ドギも今、聖印を受け取ったばかりで、気持ちが安定してないのかもしれないから、しばらくは様子を見よう。それで何かあったら、お前が助けてやればいい。お前は兄ちゃんだろ?」
「そうだな。俺はあいつの兄貴なんだから、何があっても俺が、あいつを助けないとな」
「それにしても、さっきは全然気が散っててダメだったじゃないか?」
「しょうがねーだろ、俺だって色々ドギのことが気になってるんだから」
「とはいえ、そうやって戦いの時に集中出来ないようでは……」

 トオヤはそう言って説教を始めることで、ひとまずこの話題を終わらせた。

2.9. 内通疑惑

 この間に、ドルチェはドギの病気に関する情報を調査してみたところ、二週間前の時点でドギが重病で寝込んでいた際に、実際に病室に入った者は見つけられなかったが、外部から医者が招かれていたのを目撃した者は何人もいた。ただ、それが普通の医者なのか、魔法師なのかは、普通の人が見て分かることではない。もし、その人物が魔法師だった場合、その時点で「影武者のドギ」をドギの病室で作らせて、ドギと入れ替えた、という可能性はあり得るが、今の時点で確信に到れるような情報ではなかった。
 一方、チシャはキャティの失踪について調査してみたところ、彼女が失踪したのはドギが重病から回復する直前であるらしい。ただ、彼女が駆け落ちした相手である「旅人」なる人物を実際に目撃した者はドギとアマンダのみであり、彼女の同僚の使用人達には、誰一人としてその人物を見た者はいなかった。アマンダは「真面目そうな人でした」と言ってはいたが、今一つその「旅人」の実像が見えてこない。これは、ドギ(影武者)とアマンダが口裏を合わせているだけで、実際には存在しなかったという可能性が十分にあり得る。
 そして、この調査の過程で、チシャは思いもよらぬ情報を手に入れる。というのも、キャティの失踪の直前に、彼女の部屋の近くで、チシャの毋であるネネを目撃したという証言が出てきたのである。もし、クーンの城下町でリチャードが言っていたように、彼女がパンドラに通じているのだとしたら、ここで彼女が関わっている可能性は極めて高い。そして、もともとこの城内で暮らしている彼女ならば、侵入することも容易であろう。
 二人はそんな情報を入手した上で、夕方頃に再びトオヤの部屋へと向かい、トオヤとカーラに一通りの話を伝えた上で、改めて今後の方針について協議することになった。

「ただの病気なら、わざわざ得体の知れない外部の人間を招くとは思えない。そこが、どうにも気になるところだね」

 ドルチェがそう語ると、トオヤはそれに頷きつつ、自身の見解を述べる。

「その外部の人間を招いたのがお爺様なら、やはり、この件はお爺様が関わっているのだろうか。その医者に偽装してパンドラが入り込んだという可能性もあるが、自分の契約魔法師を殺されて、その犯人も奪還されているのだから、さすがにパンドラに対しては十分に警戒している筈だし、そう易々と騙されるとも思えない」

 逆に言えば、もし、この件にパンドラが関わっているとしたら、それはこの城の相当内部にまで食い込まれていることになる。最悪の場合、ケネスとパンドラが共謀して何かを企んでいるという可能性すらも考慮する必要が出てくる。
 その上で、ここでカーラの脳裏に別の「嫌な予感」が思い浮かぶ。

「最悪、ドギ様も『レア様と同じような状態』になってる可能性もあるんじゃ……?」

 本物のレアは数ヶ月前、巨大な混沌核の浄化に失敗して、聖印を混沌核に書き換えられ、その身を投影体の姿に変えられてしまった。ドギはもともと聖印を持ってはいなかったが、聖印を持たない人間であっても(むしろ、持たない人間だからこそ?)、身体を混沌核によって作り変えられる可能性は確かに考えられるだろう。
 どちらにせよ、やはりケネスを問い詰める必要はある。全てケネスの思惑に基づいた上での影武者ならばまだ良いが、ケネスが何も知らないのだとしたら、それは本格的にパンドラが城内で暗躍していることになる。
 無論、このことをケネスが知っていた場合、どのような事情があるにせよ、昨夜の時点でトオヤと一対一の状態の時でもそのことを告げなかったということは、相当に重い「隠さなければならない事情」があるということになる。その口を割らせるためには、こちらも相応の覚悟で臨まなければならない。そして、もしパンドラが城内に忍び込んでいるという状況を考えると、ドギと同じように伯爵家の血を引いている(と思われる)チシャも、カーラも、そして「レア」も、一人にしておくことは危険である。
 その状況を踏まえた上で、ケネスとの交渉には、四人全員で向かうことにした。ただし、「レア」がその場にいるとケネスが真実を隠そうとする可能性もあるし、かといって、最近雇い始めたばかりの「ドルチェ」を密談の場に同席させるのも、良い顔はしないだろう。そこで、以前に用いた策、すなわち、「ドルチェが『カーラの人間体』の姿に変身して、『本体だけの状態になったカーラ』をその手に持つ」という作戦で、トオヤ、チシャと共に同行することになった。無論、ケネスがカーラに退席を命じる可能性もあり得るが、それでも「二人一緒」の状態である方が、まだ幾分安全であった。
 その上で、万が一、ケネスがパンドラと通じている、あるいはパンドラの誰かにすり替わられている可能性も考慮した上で、カーラは改めてトオヤに進言した。

「皮鎧でもいいから、何か着て行ってね。儀礼用の、装飾過多のやつでもいいから」

 何らかの鎧さえあれば、トオヤの聖印で強化(変身)して戦うことは出来る。アキレスの城内で刃傷沙汰になることは避けたいが、常に最悪の事態を考慮しておく必要があるということをクーンの城で実感していたトオヤは、素直にその進言を聞き入れ、この後で開催される祝宴時に着用するという名目で、城内の倉庫に格納されていた典礼用の皮鎧を借りることにしたのであった。

3.1.1. 真相〜祖父からの忠告〜

 騎士団長ケネスの部屋に、彼の孫であるトオヤとチシャ、そしてトオヤの侍従のカーラ(に姿を変えたドルチェとカーラ本体)の三人(実際には四人)が面談を申し込んだことで、どこか物々しい雰囲気が漂う中、やや険しい表情を浮かべたケネスが問いかける。

「もうすぐ、お前達を歓迎する宴を開催する予定なのだが、その前に聞きたいこととは何だ?」

 トオヤは今ここで長々と腹の探り合いをしても仕方がないと判断し、意を決して問いかける。

「率直にお伺いさせて頂きますが、今、ドギを演じているのは誰です?」

 これに対して、ケネスは表情を変えずに問い返した。 

「……お前は、誰だと思う?」
「あのキャティという侍女ではないですか?」

 数秒の沈黙の後に、ケネスは三人を見渡しながら、ゆっくりと口を開く。

「この話をするにあたって『この二人』を一緒に連れてきたのは、彼女達と共に真相を知りたい、ということだな?」
「その通りです」

 トオヤがはっきりとそう答えるが、ケネスは更に念を押す。

「彼女達に真相を知られても構わない、と?」
「というよりも、彼女達はドギのことを案じています。特にチシャは、ドギの相談にも乗っていた訳ですし。そんな彼女達に聞かれてはならない話なのですか?」

 一歩も引かずにそう問い返すトオヤに対して、ケネスもまた、更に詰め寄るような姿勢で問いかける。

「話の内容によっては、お前達は儂を殺さねばならなくなるかもしれない。それでも真実を知りたいか?」
「それは、話を聞いてから決めます」
「どんな真実であっても、それを受け入れた上で、聞いたことを後悔はせぬのだな?」

 ここでまでしつこく確認を取ろうとする祖父の意図を察して、一旦トオヤは後ろを振り返る。

「そういうことだから、話を聞かないという選択肢もあるけど、どうする?」

 当然、彼女達も今更引く気はない。

「最初から、聞かせるつもりで連れて来たんだよね?」

 「カーラ」はそう言って、チシャは黙って頷く。その様子を確認したケネスが、ようやく決意を固めた表情を浮かべる。

「では、お前のことを『次期騎士団長』と見做した上で話す。その上で、私が嘘を言っているかもしれない、ということも考慮した上で聞け」
「承知致しました」

 トオヤがそう答えると、ケネスは一度溜息をついた上で、淡々と語り始めた。

3.1.2. 真相〜母の正体〜

「事の発端は、ネネだ。長らく行方不明になっていたあの女が、二週間前にこの城に現れた。と言っても、私はその時点では会ってはいない。城内の旧知の給仕達を通じて、中に入ってきたらしい。まず、確認しておくが、お前達はネネが今、何をしているか、知っているか?」

 これに対しては、チシャが答える。

「リチャードさんから断片的な話は聞いていますし、別の人物から『今は大陸にいる』という話も聞きましたが、正確には把握していません」

 チシャの表情から、彼女が「最悪の可能性」を想定しているであろうことを察したケネスは、残酷な真実を告げる。

「お前達が察している通り、彼女はパンドラの人間だ。お前達がいつの時点でそのことに気付いたのかは知らんが、この城内で最初にそのことに気付いたのは、アマンダだった」

 それは、ネネの夫のマッキーが死んだ直後のことであった。ネネがマッキーの遺品を整理している過程で、それを手伝っていたアマンダはネネの様子に微妙な違和感を感じて、彼女の周囲を見張っていた時に、パンドラと思しき者達と彼女が密通しているのを発見したという。
 アマンダは個人的にネネに忠誠を誓っていた身であり、彼女としてはこのことを即座にケネス達に報告する気はなく、その前にネネに事情を聞こうと考えていたのだが、気付かれたことを悟ったネネが即座に失踪し、彼女の行方を探るために、アマンダはやむなくケネスに報告した上で、彼の情報網を活用してその行方を探ろうと試みる。

「ネネは最初から間者として宮中に侍女として潜り込み、二十年以上にわたって、ヴァレフールの内情をパンドラに流していたらしい。当然、そんな女狐を儂の息子の嫁に迎えていた、などという失態を表に出せる筈もない以上、このことはアマンダ以外の城内の者達には誰も知らせなかった。結果的に言えば、それ故に先日、彼女が久しぶりに城に戻ってきたと聞いて、使用人達は彼女を警戒せずに中に通してしまったのだがな。そして、彼女はドギ様と接触したらしい」

3.1.3. 真相〜父の正体〜

 ここまで話したところで、話の核心に入る前に、ケネスとしてはまずチシャに確認すべきことがあった。

「チシャ、お前は自分の出自のことをどこまで知っている?」
「マッキーが私の本当の父ではないこと、そして私にインサルンドの血が流れているであろう、ということは存じています」

 それはつまり、血縁的にはチシャがケネスの孫ではない、ということを意味している。彼女のその答えを聞いたケネスは、再び大きく溜息をついた。

「まぁ、魔法師の道に進むということは、いずれどこかで真実に辿り着くことになるだろうとは思っていたのだがな……」

 そう前置きした上で、ケネスは18年間隠し続けていた真実を告げる。

「お前の本当の父親は、今は亡きブラギス陛下だ」

 部屋の中の空気は凍りついた。その可能性は当然、チシャの脳裏にもあった。インサルンド家の血筋を引いているということは、普通に考えれば、彼女の父親はワトホート、トイバル、ブラギスの三択であろう。その中で、当時のヴァレフールの最高権力者であったブラギスが、宮中一の美女と呼ばれていた侍女に手を出していたというのは、それほど驚くべき話でもない。
 だが、想定していた三択の中でも「よりによって」ブラギスであったという事実は、極めて重い。それはつまり、現時点でゴーバンやドギよりもチシャの方が継承順位が上であることを意味している。もっとも、それは彼女がこの事実を公表し、それが事実として認められれば、という前提の上での話であるし、そもそもネネがパンドラの間者であったという話が表沙汰になれば、その時点でチシャにも相応の疑惑がかかる以上、爵位継承どころか、トオヤの契約魔法師としての立場すら危うくなるだろう(それもまた、ケネスがネネの正体を口外出来なかった理由でもあった)。

「そのことについては、マッキーも分かってはいた。分かった上で、自分の子として育てた。そして私もそのことは分かっていたが、それでもマッキーが認めた以上、私も自分の孫として扱うべきだろうと考えた。その上で、今後、お前が本当の血筋のことを公にするかどうかは、お前の判断に任せる。まぁ、そのことは今はどうでもいい。重要なのは、ネネが言うには、ついこの間までお前は、その血統故に、パンドラに狙われる立場にあった、ということだ」

 そのことについては、チシャ達も十分すぎる程に分かっている。むしろ重要なのは、ここでケネスが「ついこの間まで」と過去形で語ったことなのだが、話の核心に入る前に、ケネスは自分が把握している範囲の前提知識を、トオヤ達にまとめて伝えることを決意する。

3.1.4. 真相〜敵の正体〜

「このブレトランドのパンドラには、四つの派閥がある。ネネが属しているのはその中の『均衡派』と呼ばれる者達だ。皇帝聖印の出現を阻止するために、世界の均衡を保つことが奴等の目的であり、ネネが言うには、現在、奴等は『皇帝聖印を作り出すかもしれない存在』として、アントリアのダン・ディオードを警戒し、奴の勢力拡大の阻止を第一目標としているらしい。その意味では、現時点では我々ヴァレフールとは共闘出来る関係にある。もっとも、我々が強くなりすぎたら、寝首をかかれることになるだろうがな」

 このケネスの認識が正しいのかどうかは分からない。ただ、この見通し通りなら、今の時点でネネがヴァレフールに仇為す行為に走るとは考えにくい筈である。今ひとつ話の本筋がよく見えないまま、ケネスは改めてチシャに視線を向けながら、説明を続けた。

「これに対して、儂の契約魔法師だったハンフリーを殺し、その下手人を殺そうとしたのを妨害し、儂の権威を失墜させたのは、『革命派』と名乗っている連中だ。こいつらはエーラムの支配体制を壊そうとしている。つまり、今の『お前』にとっては最大の敵だな」

 そう言われたチシャであったが、実際のところ、彼女自身はそれほどエーラムという組織そのものを信奉している訳ではない。それでも、確かに「敵」であることには変わりないだろう。彼女はこの見解に対して補足も反論もせぬまま、黙って話を聞き続ける。

「その一方で、海の向こうで『異界の島』を呼び出して、勝手に自分達の国を作ろうとしている連中がいる。奴等は『楽園派』と名乗っているのだが、奴等のことは前にも話したな?」
「彼等とは、不可侵の関係でしたね」

 トオヤがそう答えると、ケネスは無言で頷いた上で、いよいよこの話の「核心中の核心」について語り始めた。

「そして第四の派閥が新世界派だ。あやつらは、この世界をもう一度『混沌の支配する世界』に戻そうとしている。奴等が言うには、この世界に聖印と混沌が存在することが、様々な社会的格差の発生原因であるらしい。そこから聖印を排して、もう一度大混沌時代に戻して、その中で生きていける者達が新たな人類として新たな世界を築いていけば良い、という途方もないことを考えているのだそうだ」

 ここまでの話は、トオヤ達も以前に「ヴァルスの蜘蛛」のクリステルから聞いている。問題は、ここからである。

「その新世界派の首領であるジャック・ボンキップという男には、どうやら『実体』がないらしい。元は生身の人間の魔法師だったが、精神を身体から切り離し、他人の身体を乗っ取ることによって、何百年も生き永らえているという。ただ、奴の魔力が強くなればなるほど、『その器となる身体』には強力な力が必要となる。そして、パンドラの連中が言うには、奴の器として最も有効なのは、英雄王エルムンドの力を引き継ぐ者の身体であるという」

 ようやく話が繋がった。このケネスの話も本当であるという保証はないが、少なくともトオヤ達がこれまで聞いてきた情報、および実際に遭遇した体験と照らし合わせて考えても、それならば確かに彼等の行動原理は理解出来る。レアを狙い、チシャとカーラを狙い、そして今度はドギを狙った。全てがその首領の「器」を得るための行為だったとすれば、確かに辻褄は合う。

3.1.5. 真相〜凶行と密約〜

 ここまでの前提知識を踏まえた上で、ようやくケネスは「事件の真相」を語り始めた。

「ネネは本来は均衡派だが、今回は彼女が一時的に自分の身体をジャックに貸し出した上で、この城に侵入し、ジャックがドギ殿下の身体を乗ったらしい。その上で、殿下の身体を手にしたジャックは、この城から姿を消した。そしてネネは儂の前に現れ、取引を申し出てきた。パンドラと我々の間でこれ以上の争いを起こさないよう『密約』を結びたい、と。つまり、殿下の身柄を我々が諦める代わりに、今後はパンドラからも一切我々に介入しない、という協定だ。そのための賠償金としての大金を、ネネは儂の前に差し出した」

 淡々と衝撃的すぎる事実を語る騎士団長に対し、カーラの本体である大剣が小刻みに震える。端から見れば、それはカーラが怒りのあまり手を震わせているように見える(実際のところ、それはそれで本質的には間違ってはいない)。
 一方、「カーラ」の人間体の姿を模したドルチェは、存外落ち着いた様子で状況を整理する。

「なるほど。街に随分とお金が流れているという噂があったけど、そういうことだったんだね」

 崩壊寸前だった街の経済があまりにも短期間で急回復したことには、何か裏があるだろうとは思っていたが、まさかパンドラからの資金提供であったとは、気付ける筈もない。ましてやそれが、彼等にとっての第二王子の身柄と引き換えの「手打ち金」であろうとは、誰が予想出来ようか。そして、この事実が表沙汰になれば、ケネスは完全に逆賊である。たとえそれが国を立て直すための苦渋の決断であったとしても、このような手法を国民が納得出来る筈がない。

「だが、そう言われても儂も即座に納得する訳にはいかん。どちらにしても、今の儂では殿下の身柄を取り戻すことは出来ないことは分かっていたが、さすがに黙って奴等の要求だけを飲むのは堪え難い。そこで、追加条件として、手打ち金の増額を要求した上で、『殿下の影武者』を作り出すための協力を要求したのだ。お前達が海で新世界派相手に一矢報いてくれたことで少しはメンツが立ったが、これまでに二度もパンドラに敗北している儂が、ここで三度目の敗北を喫したことを公にする訳にはいかんからな」

 実際、ここでパンドラの要求を完全に蹴ったとしても、ドギを守れなかった汚名はケネスには必然的につきまとう。そうなると、今後のグレン派との和平交渉においてもケネスの立場は悪化し、そして聖印協会派が国内で勢力を伸ばす可能性が高い。それだけは何としても避けなければならないと彼は考えていた。少なくとも、トオヤへの禅譲を完遂するまでは、自分が失脚する訳にはいかなかったのである。

「儂は昔、魔法について勉強していたこともある。だから、高位の生命魔法師ならば、他人の姿を変えることも可能であることは知っていた。そこで、パンドラの生命魔法師に、追加条件として、キャティの身体を『殿下の姿』に変えるよう要求したのだ」

 影武者としてキャティを選んだのは、彼女が最もドギの傍にいた人物だからこそ、ボロが出る可能性が一番低いと考えたからである(また、彼女は家族を既に戦争で亡くしており、身寄りがいない存在だったため、その意味でも好都合だった)。これまで自分の人生を賭けてドギを支えてきたキャティは、ドギを守れなかった自責の念に囚われながら、その命令に粛々と従った。この結果、ヴァレフールの宮廷から「キャティ」という侍女は消失することになったのである。
 なお、この生命魔法の施術を担当したのは、以前にケネスと交渉した上で新世界派の蝿男の首を密かに差し出すことで「手打ち」の道を選んだ、楽園派の首領であった(どうやら彼の中でも、新世界派に対してこの時の罪悪感はあったからこそ、今度は彼等の騒動の後始末に協力することにしたらしい)。この施術およびキャティが「ドギ」に成り済ますまでの訓練の時間を作るために「重病」という建前が発表されることになったのである。
 なお、他人の姿を変える生命魔法は、かけた本人が解除を宣言しない限りは永続する。また、どの程度まで変化させるのかは術者の側で調整することも可能らしいが、この時点でキャティにかけられた魔法は、身体の内部構造そのものをドギと完全に同一化させるまでの徹底した転換であり、今後、彼(彼女)は歳を追うごとにドギそのものであるかのように成長していくらしい。一方で、ドギの「聖印を受け取れない体質」に関しては、そういった物理的な身体機能とは別の問題だったようで、その性質までは魔法で複製されなかった結果、「聖印を受け取れるドギ」が誕生することになったのである。

「さて、チシャよ。なぜ均衡派のネネが、新世界派の企みに手を貸したと思う?」

 問われたチシャは、複雑な表情を浮かべながら、何も答えない。

「さすがに、分かっていても自分の口では答えにくいか。トオヤ、お前なら分かるか?」
「チシャを守る為、ですか?」
「そうだ。奴はパンドラの人間とは言っても、やはり、自分の娘には特別な思いがあるらしい。娘が狙われないようにするために、他の者を差し出す道を選んだようだ」

 確かにそれは、紛れもなく母の愛である。だが、そのために、娘が懇意にしていた、そしてネネ自身も長年仕えていた主家の御曹司を身代わりに差し出したという事実に対して、チシャはまだ信じきれない、というよりも、信じたくない心境であった。ケネスはそんな彼女の心境を推察しつつも、あえてこれ以上はチシャに言葉をかけぬまま、まだ彼等に告げていない、パンドラとの密約の「最後の一節」について語り始める。

「当然、それだけの要求を突きつけた以上、奴等も更に別の交換条件を要求してきた。それが、これだ」

 そう言って、ケネスは突如、上半身をまとっていた服を脱ぎ捨て、歳の割に引き締まった身体をトオヤ達に見せつける。その彼の左胸の心臓の周囲に、禍々しい謎の紋章が刻まれていた。それが何らかの魔法陣であることはチシャの目には分かったが、おそらくその特殊な形状からして、今はもう失われた(少なくともエーラムの正規課程では学ぶことが出来ない)古代の遺失魔法の一つであろうと推測出来る。

「今後、『儂』と『儂の血族』がパンドラ新世界派の連中に弓引いた場合、この紋章は私の心臓を貫く。それが最終的に儂と奴等の間で交わした最後の交換条件だ」

 その不気味な紋章を目の当たりにして、トオヤは思わずたじろぐ。トオヤとしては「金」と「隠蔽工作」を条件に、ドギを攫ったパンドラと勝手に手打ちをした祖父の所業は許せない。だが、そのためにここまで自らの身を犠牲にしてでも本懐を果たそうとする祖父の執念に、理屈や感情を通り越した次元で、威圧されていた。

「ゴーバン殿下は良くも悪くもトイバル殿下の気性を引き継いでいる。あのような方は、長生き出来るとは限らない。だからこそ『別の選択肢』は常に必要なのだ」

 それはつまり、状況によっては、この「影武者としてのドギ」にヴァレフールの聖印を継がせる可能性もある、ということを意味している。ケネスの中で「伯爵家の血筋」とは、あくまでも「民衆を導くための神話」であり、必ずしもそれが真実である必要はないと考えていた。
 もっとも、この点に関しては、まさにレアの影武者を偽って報じているトオヤ達もあまり人のことは言えない。彼等はあくまでも「レアが帰って来ること」を信じた上での偽装工作を続けてきた訳だが、もし万が一、レアがこのまま帰って来なかったとしても、ドルチェとしてはレアの姿のまま一生彼女を演じ続ける覚悟は出来ていた(ただし、ドルチェは邪紋使いであるが故に、聖印を受け取ることは出来ないのだが)。

3.1.6. 真相〜迫られる判断〜

「今の話を聞いた上で、儂を反逆者として殺したければ殺すがいい。お前達にはその権利はある。だが、まだ話を聞く気があるのなら、儂の今後の計画も伝えておこう」

 今のこの状況に対して、四者四様に内心で様々な感情が渦巻いていたが、ひとまずケネスの話は最後まで聞くべきだろうと考えた彼等は、そのまま耳を傾ける。

「今、儂とグレンとの間で、二人で同時に騎士団を退くことを前提とした裏交渉を進めている。奴は次期騎士団長としてファルクを推すだろう。儂は当然、トオヤ、お前を推す。お前がここまで中立派の諸侯と誼を結んできたことで、それは実現に近づきつつあるかもしれない。だが、ここでお前が私を殺せば、それはある意味で『国を救った』とも言えるだろうが、この事実を公表することで、お前もチシャも身内としての責を問われることにもなるだろう」

 ケネスとしては、今更命乞いをする気はない。だが、今はまだ「その時」ではない、というのが、今の彼の認識であった。

「儂としては、この事実を隠したままグレンと二人で引退し、お前が騎士団長を継いだ後で、何らかの理由をつけてお前に殺されるなり、パンドラに殺されるなりすれば良いと思っている。儂の役目はそこで終わりだ」

 まるで他人事であるかのようにケネスはそう語り終えた上で、最後にこう付言した。

「この真実を知った上で、どうするかはお前の自由だ。だが、先ほど言った通り、儂はお前が騎士団長になる覚悟があると信じた上で、このことをお前に話した。全ての真実を知る必要はないが、真実を知った上で正しい判断が出来ると思うならば、お前自身のその判断に従えばいい」

 そう言い切った上で、ケネスはトオヤ達の反応を伺う。だが、次の最初に声を上げたのは、トオヤでもチシャでも「カーラ」でもなかった。騎士団長室の外側から、扉をバタッと開ける音と共に、これまでの話を密かに立ち聞きしていた少年が、姿を現したのである。
 その少年の名は、ゴーバン・インサルンドであった。

3.2. 森の巨人達

「そういうことかよ……、そういうことだったのかよ! もういい! 国のメンツだとか、そんな訳分かんねー理由でドギを売り渡すような国なんて、俺はもう知らねぇ! ドギは俺が助け出す!」

 そう叫んで、ゴーバンは廊下を走り去って行った。「カーラの本体」が再びブルブルと震え、それに呼応するように「カーラの姿をしたドルチェ」は真っ先に走り出す。トオヤとチシャも、彼女の後を追った。
 子供とはいえ聖印を持つ君主であるゴーバンの足は、並大抵の人間では追いつけないほどに速い。彼は城を飛び出したまま、闇雲に城下町を駆け抜け、そのまま北の森へと走り去る。彼の中では別に、そこで何かをしようという目的はなかった。ただ、ケネスの話があまりにも許せなくて、彼の支配するこの町にいたくない一心で、彼の近くから離れようとしていただけである。だが、方角が悪かった。彼が向かった先は、未だ混沌濃度が高い区域だったのである。
 そんな彼を追いかけて街の外の森林地帯に入ったドルチェは、周囲に人通りが無くなったことを確認した上で、自分は「ドルチェ」の姿に戻った上で、カーラに「人」の姿に戻るよう促す。カーラはすぐに人型に戻ったところで、ゴーバンに向かって大声で叫んだ。

「一人で突っ走るな、バカー!」

 この非常事態において、礼節や主従関係を重んじる心はカーラから完全に消えていた。今の彼女の中にあるのは、何としてもゴーバンを止めなければ、という一心のみであった。

「うっせぇ! もうお前らのことなんか、信用出来ねぇ!」

 ゴーバンはそう叫び返すが、次の瞬間、木々を避けながら走り続けていた彼の目の前に、不気味な二体の巨人が現れる。一体は、その全身に地獄の業火を宿したヴァルハラ界の巨人ムスッペル、そしてもう一体は、百の腕と五十の頭を持つタルタロス界の巨人ヘカトンケイル、いずれも、並大抵の騎士や魔法師では太刀打ち出来ないほどの強敵であった。

「こ、こんな奴等、俺が……」

 ゴーバンはそう言いながら、自らの聖印を翳し、その場で「光の大剣」を作り出すが、巨人達のあまりの禍々しい姿に気圧されて、思わずその場で腰を抜かす。ハンフリーがまだ存命だった頃、彼の使役する投影体を見たことはあるし、訓練がてらに戦ったこともあるが、野生の、しかもここまで強大な魔物を目の当たりにしたのは初めてだった。
 そんな彼と巨人の間に、真っ先に追いついたドルチェが割って入る。

「言いたいことがあるなら後で聞くから、ちょっとこれを借りるよ」

 彼女はそう言って、既に握力も無くした状態のゴーバンからその光の大剣を受け取り、丸腰のままここまで走ってきたトオヤに向かって投げる。トオヤがそれを受け取り、カーラと共にゴーバンを追い越して巨人の前に立ちはだかると、彼の傍らに立つカーラは、先刻のゴーバンの発言に対して、ボソッと答えた。

「可愛い甥っ子を見捨てる程、僕は悪い人じゃないんだけどな」

 正確に言えば「甥」どころの関係ではないのだが、「彼女」と「ゴーバンやドギ」との関係性を一言で表せる言葉が存在しなかったため、あえて最も近い言葉として、彼女はその言葉を選んだ(無論、ゴーバンにはその言葉の意味は分からない)。
 だが、彼等が戦闘態勢を整える前に、ヘカトンケイルが禍々しい咆哮を上げた。トオヤ達はその声圧に圧倒され、一瞬心を乱すが、それでもここで退く訳にはいかない。ドルチェが邪紋の力で相手の視線を自分に集中させ、カーラが本来の力を覚醒させる中、トオヤはいつものように「変身」とは叫ばず、複雑な表情のまま聖印を大地に叩きつける。次の瞬間、彼が身につけていた典礼用の皮鎧が、その煌びやかな装飾をかき消すように、 赤黒い不気味な装甲 へと変わる。それは今の彼の心境を表した姿だったのかもしれない。
 そしてチシャが、本気の魔力を詰め込んだジャック・オー・ランタンを二体の巨人に向かって叩き込む。いつもは相手の出方を伺いつつ魔力を温存した戦い方を選ぶチシャであったが、ここは早めに決着させた方がいいと判断したらしい。その結果、ムスッペルが纏った炎よりも遥かに高度な業火が放たれ、二体の巨人に深手を負わせる。
 だが、その直後に今度はムスッペルがトオヤ達全体にそれ以上の火炎攻撃を吹きかけてきた。ドルチェだけはあっさりとかわすものの、カーラもチシャもトオヤもゴーバンもその炎に包み込れてしまう。ゴーバンはトオヤがその身を挺して庇い、チシャもオルトロスを召喚して自分を庇わせることで、かろうじて一命は取り留めるが、次に同じ一撃が放たれれば、おそらくチシャでは耐えきれないだろう。カーラもまだかろうじて立ってはいるものの、相当に辛そうな表情を浮かべている。
 そして、いつもならトオヤがここで自らの聖印で味方の負傷を回復させるところだが、ここで彼はあえて先に自分の身体の傷を回復させる。次にゴーバンを狙われた時に、自分が彼を庇うことを考えると、今の(聖印で強化されているとはいえ)軽装の鎧しか着ていない状態では、守り切れる自信がなかったため、ここは自分の身体を回復させることを優先せざるを得なかったのである。それほどまでに、今の彼等はこの二体の巨人に追い詰められていた。 
 この状況を打開すべく、ドルチェは意を決してヘカトンケイルへと走り込み、その巨体の急所を狙って鋭い刃を突き刺し、身体の内側に邪紋の力を流し込むことによって巨人の内臓を蝕むように破壊していく。次の瞬間、その巨体から凄まじい勢いで血が吹き出るが、その返り血が地に届く前にカーラが二体の巨人の間に割り込むように入り込み、激しくその「本体」を乱舞させることで衝撃波を放ち、二体同時にその身を切り刻む。三人の全力の一撃を立て続けに浴びせられたヘカトンケイルは、その場に突っ伏して倒れ込んだ。
 一方、残ったムスッペルに対してチシャが呼び出したトロールが立ちはだかることで足止めをしている間に、ゴーバンは立ち上がりつつ、トオヤに想いを伝える。

「すまん、トオヤ、俺の代わりにその剣で、なんとか……、なんとかしてくれ……」
「あぁ、任せろ!」

 そう言って、トオヤがムスッペルに接敵して、ゴーバンから預かった光の大剣を振り下ろす。もともと彼は槍を武器として使っていたため、大型の武器の扱いには慣れているが、攻撃を強化する力を持たないその一撃を受けただけでは、まだ倒れはしない。それに続いてチシャが魔力撃をムスッペルに放った直後、遠くの方で「別の魔物」が近付きつつある気配を彼等は感じた。

(まずい、もしここで、後ろから来られたら……)

 カーラはそう思いながら後方を警戒する。だが、その魔物が近付いてくる前に、チシャの魔力弾の一撃を耐え切ったムスッペルが再び火炎攻撃を放つ。ドルチェは邪紋の力でその火炎を自らの方に引き寄せることで被害の拡大を防ぐが、それでもカーラは巻き込まれてしまい、そんな彼女をトオヤが庇う(そしてドルチェはあっさりと避ける)。再び深手を負ったトオヤではあったが、先刻の聖印による回復の効果もあって、まだ十分に戦える状態は維持していた。
 そして、ドルチェは最後の力を振り絞って、先刻と同様の一撃をムスッペルの体内を蝕むことで重傷を負わせ、そこにカーラが止めの一撃を繰り出すことで、どうにかこの火炎の巨人の撃破に成功するのであった。

3.3. 女騎士との再会

 彼等がこの二体の巨大を倒したのとほぼ同時に、遠方から感じられた「別の魔物」の気配も消えた。どうやら、あちらも何者かによって倒されたらしい。トオヤ達が魔法薬で心身を回復させる中、ゴーバンは息を整えながらトオヤに寄り添うように近付く。

「すげーな、お前……」
「別に俺が倒した訳じゃない。俺が出来ることは、いつもこうやって、仲間を守ることだけだ」

 彼がそう答えたところで、先刻まで「別の魔物」の気配がしていた方向から、一人の女性が姿を現した。クレア・シュネージュである。

「陽が落ちる頃にはまた魔物が出るかもしれないと思って来てみましたが……、貴公等も、同じように考えてここに来られたのですか?」
「えーっと、色々と事情は違うのですが……、まぁ、そういうことにしておいて下さい」

 ひとまずトオヤがそう言ってごまかしたところで、ゴーバンが声を上げた。

「クレア師匠! どうしてここに?」

 前述の通り、数年前にクレアがヴァレフールに招かれた時、ゴーバンもまた彼女の薫陶を受け、その話に深い感銘を受けた人物の一人であった。彼女と同じ「混沌を倒すことに特化された聖印」を持つ者として、そして正義感に満ち溢れた一人の少年として、それは当然の反応であろう。以来、ゴーバンの中では彼女はずっと「心の師匠」となっていたようである。

「おぉ、貴殿は確か、伯爵家の御曹司……? このような子供がこの地に来られるとは、一体、何が? この子、いや、この方は、この国にとって大事な方なのでは?」
「いや、俺はもうこの国なんて知ったこっちゃない! 俺はもう伯爵家の人間でも、ヴァレフールの人間でもない! 俺は、俺はただの……、ドギの兄貴だ!」

 カーラはそんなゴーバンを黙らせようとするが、それをトオヤが止めつつ、クレアに対して神妙な表情で訴える。

「申し訳ありませんが、少々身内のゴタゴタがありまして……。投影体を倒して頂いたことには感謝しますが、また後で出来る範囲の説明はしますので、ひとまずこの場からは立ち去って頂けないでしょうか? こちらで話をつけますので」
「まぁ、そちらにもそちらの事情があるのでしょう。ただ、話し合いをするなら、一度城下町に戻った方が良いのでは?」

 確かに、今のこの危険な森でゴーバンと話し合うのは得策ではない。ただ、ゴーバンは「ケネスの支配する城下町」に戻ること自体を嫌がり、その場に座り込んでしまう。
 トオヤはそんなゴーバンに対して、同じように屈んで彼と目線を合わせた上で、語りかけた。

「お前が怒る気持ちは分かる。いや、本当は分かってないのかもしれない。だけど、話をさせてくれ。お前まで、いなくなったりしないでくれ……」

 若干消え入りそうな声で、必死の想いを込めてそう訴えるトオヤを目の当たりにして、激昂していたゴーバンの心が、少しだけ緩み始める。

「分かった……。けど、やっぱり、俺はあそこには戻りたくない」

 アキレスを見ながらそう言ったゴーバンに対して、クレアが手を挙げる。

「ならば、私が周りを警備している間に貴公等で話をする、ということでいかがでしょう?」

 確かにクレアならば、大抵の魔物が出現しても、一人で対応は可能だろう。もし、どうしても厳しい相手が出現した時は、大声を上げてくれれば即座に駆けつけることも出来る。

「迷惑をかけてしまって申し訳ないが、その提案に乗らせてもらいたいです」

 トオヤにそう言われたクレアは、黙って頷いて、彼等から距離を取るように、より混沌濃度が高い森の奥地の方面へと向かって歩いて行った。

3.4. 衝動と葛藤

 相変わらず怒りが収まりそうにないゴーバンに対して、最初に問いかけたのはカーラであった。

「君は、どこら辺から話を聞いていたのか、まずはそこから教えてもらえるかい?」
「ドギがパンドラに誘拐されて、金で解決した、とかなんとか言うところだ。それがネネの仕業だってことも聞いてる」

 そう言った上で、ゴーバンはチシャに対しても厳しい視線を向ける。それについてはチシャも覚悟していたことなので、あえて何も言わなかった。

「とにかく、あのジジイが俺の弟を売りやがった。その話を聞いて、お前らが何も言わないから、『おい、なんだよこれ、納得出来てないの、俺だけかよ?』と思って、それで、もう、何もかも我慢出来なくなった」
「納得はしないよ! しないけど、でも、あの場でケネス殿の首を打ち取っても、何の解決にもならないだろう?」

 カーラはそう訴える。実際のところ、あの場で一番純粋に怒りを表していたのはカーラだったのだが、そもそも「あの状態」では、カーラは何かを喋ることすら出来なかった(無論、そのことまではゴーバンは知らない)。

「ともかく俺はもう、キャティのことをドギだと思って話すなんてこと出来ないし、そんな嘘で塗り固められたあの城になんて、もういたくない! もうあのジジイは、ドギのこと見捨ててるんだろ? だったら、俺が助けに行くしかないじゃないか! 言ったよな? 俺が兄貴なんだから、ドギのことは俺がどうにかしろって!」

 トオヤに対してそうまくし立てるゴーバンに対して、皆がどう言って宥めようかと言葉を選んでいる間に、更に彼は語り続ける。

「で、俺がいなくなって困るってんなら、今度は『俺の偽物』を作ればいいだけだろ? どうせ、本物である必要もないみたいだし」

 そんな彼に対し、カーラはひとまず後ろから手刀で彼の首元を狙って、一旦気絶させようかと考えたが、その前にトオヤが、悲痛の表情を浮かべながら答える。

「頼むから、そんな悲しいことだけは言わないでくれ……」

 トオヤにとっては、ゴーバンもレアやチシャと同じくらい大切な「家族」である。レアに続いてドギまでもが行方不明となった現状において、今のゴーバンの言葉はトオヤにとっては、あまりにも辛すぎた。

「お前が怒るのはもっともだ。ジジイがやったことは、人として、本当に許せないことだ。それに対して怒ってるのはお前だけじゃない。だからと言って、今飛び出して行って、お前、ドギのところまで行けるのか? どこにいるかも分からないだろう?」
「だから、それを探しに行くんだよ! 少なくとも、城の中にいたら、絶対に分からないだろ?」
「あぁ、それはそうだ」

 ここで、ドルチェが割って入る。

「君の言うことはもっともだ。そして、それを果たそうとするための勇気もある。それは素晴らしいことだ。だが、その結果、どういうことが起こるか、それを考えると止めざるを得なかった……。ケネス団長の刻印のことは聞いたかい?」
「なんか、『これが儂を突き刺す』とかどうとか言ってたのは、聞こえたけど、そこら辺は何の話をしてるのか、よく分からなかった……」

 ゴーバンは「盗み聞き」をしていただけなので、実際にあの刻印を見せていることを前提とした上で説明している「声」だけを聞いても、その状況が想像出来なかったらしい。それに加えて、その前の時点で既に怒りが沸騰していたからこそ、頭に入りにくかったのかもしれない。そのことを察したドルチェは、一旦トオヤの方を振り返って確認する。

「言っていいよね、トオヤ?」
「あぁ」
「パンドラとの契約の代償として、団長殿に植え付けられた一つの魔法。それは、団長殿、あるいはその血族がパンドラに弓引いた場合、団長殿の命を奪う、というものだそうだ。まぁ、血族というのが、どこまでを指すのかは分からないけどね」

 それを聞いたゴーバンは、さすがに少し動揺した表情を浮かべる。

「で、でも、それ、自業自得だろ! あいつが勝手にそんなことやったんだから!」
「その通りだ。君がドギ君を助けに行き、ケネス団長が死ぬ。それは自業自得と言って間違いはないだろう。だが、あのまま君が一人で飛び出して行っても、今の君にはドギ君を助ける力は無いよ」
「それは、まぁ、そうだけどよ……」

 さすがに、巨人を前にして腰を抜かすという醜態を晒した直後だけに、それを言われるとゴーバンも何も言い返せなかった。

「ドギ君も戻ってこないし、君もどこかで命を落とす。そしてケネス団長も命を落とす。それが、あの後で待っていた未来さ」
「でも、だからと言って、これ以上あの城の中にいたら、俺……」

 少し躊躇しながらも、ゴーバンはトオヤに向かってこう言った。

「……お前がやらないなら、俺があのジジイの首、取るぞ」

 それに対して、再びカーラが声を上げる。

「ボクが怒っていたのは『一人で突っ走ること』だよ。誰かを頼りなさい、一人で行くな、って言いたかったの!」
「じゃあ、お前ら、協力してくれるのか? 俺がドギを探しに行くのを」

 現実問題として、協力したいのは山々であるが、そもそも手がかりすら見つからない現状では、どう動けばいいのか分からない、というのが彼等の本音である。これに対しては、まだ哀しそうな顔を浮かべたままのトオヤが答えた。

「あぁ、そのことに関しては、いくらでも協力する。だから、今だけ、少しだけ、俺の話を聞いてほしい。少しだけ落ち着いてくれ。少し落ち着いて、話を聞いてくれ」

 そのトオヤの表情から、彼が本気で自分と同じ「怒り」と「悲しみ」の感情を共有していることをゴーバンは理解しつつ、改めて問いかける。

「じゃあ、お前、どうするつもりなんだ? キャティのことをドギとして、その嘘を見て見ぬ振りして、その嘘をつき続けるのか?」
「それはダメだ。それで誰かが傷ついているのなら、見過ごすことは出来ない。だが、今すぐにドギを連れ返せる訳じゃない。だから、今出来ることを冷静に考えてくれ。それがたとえ、あのお爺様の情報網を使うことだったとしても。ひとまずは冷静になってくれ。闇雲に探したって、絶対に見つかることはない」
「それはまぁ、そうだけどよぉ……」
「お前がしようとしたことは正しいよ。でも、正しいだけで、そこには力も何も伴っちゃいない。それじゃあ何も成功しない。ドギも助けられない」
「確かにな、今の俺には力はない。それはよく分かった……」

 実際のところ、現時点でドギの行方に関しては、誰も何の手がかりも持っていない。この森の中の混沌濃度が高まっている状況を考えれば、もしかしたらここにパンドラの者達が潜んでいる可能性も考えられなくはないが、チシャが周囲の混沌の流れを確認してみたところ、徐々に混沌濃度が下がりつつあることを実感する。おそらくこの状況は、以前に一度、大きな混沌災害が起きた状況の残り火のようなものであろう。
 そのことを彼女が伝えると、今のこの中で一番冷静な心境にあるドルチェが、淡々と状況を分析する。

「そうなると、件のパンドラの首領がここで何かをやろうとしていたとしても、既にもうこの場からは立ち去っている可能性が高いかな」

 そうなると、少なくともこの森を調査しても、おそらく手掛かりは見つからないだろう。そのことを踏まえた上で、ゴーバンは、自分の中である一つの「決意」を固めた。

「分かった。とりあえず、俺は強くならなきゃいけないんだな。まず力がないといけない。で、さっき稽古をつけてもらって分かったんだが、あの城にいる限り、俺は強くはなれない。俺が城でのうのうと暮らしている間に、お前らが前よりも強くなってたことは良く分かった。まぁ、どうせそれも手加減はしていたんだろうけどな」

 そう言って、一瞬カーラを睨みつつ、彼はそのまま話し続ける。

「どっちにしても俺は、強くなるためにも、情報を得るためにも、あの城にいる訳にはいかない。あの城の中にいても、何の解決にも繋がらない!」

 確かに、それはそれで正論である。だが、城を離れた上で、今の未熟な、それでいて高貴な血筋の彼が、どこに向かえば良いのか? カーラの脳裏には一瞬、「預かり先」としてヴェラの姿が浮かんだが、さすがにそれは色々な意味で問題がある。ヴェラならばおそらく、ゴーバンの心情に共感してくれるだろうが、共感しすぎて、自ら率先して彼と共に出奔しかねない。それでは再び「あの騒動」を繰り返してしまう恐れもある。
 そんな中、クレアが警備していると思しき方向から、また何かと彼女が戦っていると思しき物音が聞こえてくる。

「すまない、ドルチェ、ちょっと様子を見てきてくれ」
「任された!」

 そう言って、ドルチェは現場へと向かうことにした。邪紋使いの彼女にとって、クレアはあまり関わりたくない相手ではあるが、今のこの場で、一番の「部外者」である自分が行くのが適切であろうと、彼女も考えていたようである。

3.5. 女騎士の見解

「どうしました、クレアさん?」

 彼女がクレアを発見した時には、彼女は既に魔物を倒し、その混沌核を浄化吸収している最中であった。その混沌核の大きさからして、それほど強大な魔物ではなかったらしい。

「手助けは不要ですか?」
「えぇ。ところで、そちらはどういう状況ですか?」
「なにぶん、国の中枢部に関する話なので、私からどこまで話して良いかは分かりませんが、もうしばらくお時間を頂きたいと思います」
「なるほど」

 そう答えたクレアの表情が、どこか心配そうな様子に見えた。

「何かお気になることでも?」
「えぇ……、あの子のことは、よく覚えていますから」
「ゴーバン君ですか?」
「はい、彼がまだ今よりも小さな子供だった頃、この国に招かれて君主としての心得を説いた時、彼が最も目を輝かせていた。もっとも、彼の周囲の人々は、その状況に対して、あまり快く思っていなかったようですが」

 おそらく、それはゴーバンが聖印教会の教義に染まってしまうことを、ケネスの側近の者達が危惧していたのだろう。実際のところ、ケネス達としてはそもそもゴーバンをその場に出席させたくはなかったのだが、「大陸の立派な騎士様の話を聞ける会」が開かれると聞いたゴーバンが自ら熱望して、潜り込むように話を聞きに行くことになったのである。

「とはいえ、非常に見所のある少年だと思いました」
「実際、私もそう思いますよ」
「ただ、君主にも色々な種類がいる。私が国を持たずに放浪を続けているのが、私が国を治めるのには向かないと思っているからです」
「でも、その放浪した先々で人を救っている」
「そう、私に出来ることはそれしかない。一方で、王侯貴族として土地を治めるのに向いている人々がいる」
「でしょうね。何人か名前は思い浮かびますが、『そういった人達』とゴーバン殿とでは、互いに相容れないところもあるのでしょう」

 実際、客観的に見れば「聖印を継げない病弱な親族を切り捨てて、その土地の人々の生活を立て直すための資金を得る」というケネスの所業は、人道的な側面はともかく、統治者としては間違っているとも言い切れない。だが、それをゴーバンが許せないと思うのも当然であるし、おそらくクレアが同じ立場だったとしても、ケネスを支持することは出来ないだろう。君主としての「あるべき道」は、決して一つではないのである。

「ところで、あなたはあのトオヤという方の部下、なのですか?」
「まぁ、部下だね、今は。雇われ傭兵の身であるけど」
「あなたから見てあの方は、国を治める君主か、人を救う君主か、どちらに見えます?」
「そうだな……、正直、どちらにも見えないんだよね」
「ほう?」
「国を治めようとするには、ちょっと正義感が強すぎるし、人を救おうとするには、少し屈折している」

 それが彼女の実感であった。だからこそ、トオヤは今回の件に関して、ゴーバンの気持ちに同調しつつも、ケネスのことを憎み切れずにいるのであろう。

「けど、なんというんだろうか、人を惹きつける魅力のようなものを、彼は持っているよ。まぁ、私の色眼鏡が入っているかもしれないけど、これまで彼と一緒にヴァレフール中を回ってきた中で、彼がいたことによって『動かされた人々』も多いんだ。そういうところを見ると、期待してみたくもなるじゃないか」
「実際、私もどちらなのかはよく分からない。もしかしたらあの方は『どちらにもなれる人』なのかもしれない。私は楽観主義者なので、つい、そう期待したくなってしまう」
「かもね。何者にもなれる……、いいじゃないか。私はあの人に少なからず好印象を抱いているからね。そういう評価をしてくれるのは嬉しいよ」

 珍しく、心からの笑顔を浮かべながら、ドルチェはそう答える。その笑顔にクレアはどこか安堵しつつ、もう一つ気になっていたことを聞いてみる。

「では、あの伯爵家のご子息については?」
「……まぁ、人を救う方、だろうね。国を治めるのも、やって出来ないことはないだろうが、多分、どこかで本人が嫌になってくるさ」
「私も、彼が幼少の砌から、そう思っていました。彼は『私と同じ目』をしている」
「なんだい、彼を勧誘に来たのかい?」
「そのつもりはなかったのですが、彼がそれを望むのであれば、それもまた一つの道ではないかと。彼は生まれてくる家を間違えたのかもしれない。しかし、人はそこから自分の道を選び取ることも出来る。かつての私がそうであったように」

 クレアの過去について知る者は少ない。一説によれば、彼女はとある大国の姫君であったとも言われているが、真相は不明である。そして当然、ドルチェにはそのことを追求する気はなかった。彼女自身、過去の自分が何者であったかを知らないまま、今を生きている。そのような生き方がゴーバンにも可能なのかは分からないが、少なくとも、それもまた彼の選べる道の一つではあるだろう。

「それもそれで面白そうだね。ただ、彼を本当に連れて行ったら、あなたがこの国の色々なところから敵視されるだろうけど」
「どちらにしても、私を嫌う人達はいくらでもいます。無論、あくまでもそれは、あの少年がそれを望むならば、ですけどね」
「ふーん……、面白い意見だとは思うよ。でも、それを決めるのは私ではないさ」
「そうですね。まだ彼とのお話は終わってないのでしょう?」
「えぇ」
「では、お戻り下さい。私はもうしばらく、ここで警備を続けていますから」
「分かりました、よろしくお願いします」

 そう言って、ドルチェはトオヤ達の元へと戻って行った。

3.6. 少年の選択

「ただいま、トオヤ。今戻ったよ」
「すまない、大丈夫そうだったか?」
「あぁ、魔物の方なら問題ない。僕達より、よほど腕が立つ人だからね。で、そっちは何か話は進んだかい?」
「いや……」

 実際のところ、彼女がクレアと話をしている間に、これといった進展は見られなかった。ゴーバンは「強くなるには、どうしたらいいか?」ということを、一人で考え込んでいる。また、彼はトオヤに対しては今でも強い信頼を寄せているが、ネネの一件もあって、チシャに対してはまだ不信感を拭えない。ドギがチシャに懐いていたことを知っていたからこそ、彼の中では色々な思いが込み上げてきて、素直にチシャのことを信用する気にはなれない。さすがにゴーバンもそのことを直接チシャには言えないが、チシャも彼のその感情は理解出来たからこそ、何も言えずにいた。

「とにかく俺は、あそこにいたらダメなんだ。強くなるためには、やっぱり俺も実戦に出ないと。俺一人じゃダメだっていうなら……、いや、でも、お前がついて行く、って訳にもいかないんだろ? お前はお前でやらなきゃいけないことがあるんだろ? よく分かんねえけど……」

 それに対しては、トオヤも即答は出来ない。一緒に探しに行きたい気持ちは彼の中にもあるが、今のこの状況で、この国の人々の命運を背負う重要な立場にいるトオヤが、自分の独断だけで、いつ帰れるかも分からない旅に同行するとは言えなかった。
 トオヤがしばらく黙っていると、ここでドルチェが再び口を開いた。

「君がそこまであの城に戻りたくないというのなら、無理に戻らない方がいいだろうね。強引に僕が連れ戻したところで、いずれ嫌になって飛び出して来るだろうから。君だって、それは否定しないだろう?」
「多分な。我慢出来なくなると思う」
「それなら、いくつか選択肢はある。このまましばらく僕達はレア姫を連れてヴァレフールの諸侯を周りに行かなきゃいけない。それについて来るというのが一つ」

 実際、それが一番現実的な選択肢ではあった。ただ、そうなると当然、今後もトオヤが彼を庇って戦い続ける必要が出てくるであろうし、彼等と一緒に行動することによって、いずれ「レア」の正体が彼に知られてしまう恐れもある。そうなった時の彼の反応を考えると、今のトオヤ達にとっては、あまり積極的に推奨出来る道ではなかった。

「他には?」
「僕達以外で実力の伴った誰かについて行く。幸い、近くに一人いるね」

 それを言われたゴーバンは、ハッとした顔を浮かべる。

「そうか! クレア師匠だったら……」
「ただ、件の爺さんはいい顔はしない。それ以外の人達もね。君はこの街の人達にとっても希望の星なんだ。国を出て、危険な旅へと向かうことを望まない人も多いだろう」
「でも、そうかもしれないけど、俺はここにいるままじゃ、強くはなれない。それに、俺でなくても、あの偽物のドギでもいいんだろうし、俺の偽物でもいいんだろう? この国にとって必要なのは。でも、ドギには俺でないとダメなんだよ。他の誰もあいつを救おうとはしないんだろう? そりゃあ、俺でも救えるかは分かんないけどさ。身体乗っ取るとかも、 どういうことなのかよく分かんないし」

 なお、チシャの知る限り、他人の身体を問答無用で乗っ取る魔法などというものは、エーラムには存在しない。古代の魔法文明の時代には、それに近い技を用いる者がいたという説もあるが、少なくともその解除の方法は伝わっていない。どちらかというと、「魔法」というよりは「呪い」とでも呼ぶべき技法なのかもしれない。

「あとはまぁ、ヴァレフールの他の諸侯の元に出向して修行する、という手もあるよ。トオヤの弟のロジャー君のようにね。まぁ、君は立場が立場だけに、受け入れ先も限られるだろうけど、七男爵家くらいなら問題はあるまい。さすがにグレンさんやファルクさんのところ、という訳にはいかないだろうが、中立派のオディール、クーン、テイタニアあたりなら波風は立たないだろう。押し付けられた方がどう思うかは知らないけどね」

 淡々とドルチェがそう語るのに対して、ゴーバンは困った顔を浮かべる。

「正直、俺、今のこの国の中で、誰が味方で誰が敵なのか、よく分かんねーんだよ。今まで、色んな連中が俺のところに挨拶に来たりもしたけど、俺が本当に信用出来るのは……、トオヤと、あとはクレア師匠くらいなんだよ。この二人だけは絶対に曲がったことはしない。この二人の言ってる言葉には芯がある」

 そう言われたトオヤが、どう反応していいか分からずにいる中、ゴーバンはつい勢いで、もう一人の「親族」について語り始める。

「正直、俺、レアねーちゃんはさぁ、分かんねーんだよ。いや、悪い奴じゃないとは思うんだけど、時々ちょっと不気味に感じる時があるというか、なんというか、こう、人が変わったように見える時もあるというか……」

 唐突にそう言い始めたゴーバンを見ながら、ドルチェは面白半分に呟いてみる。

「昔はそうじゃなかったのにね」

 そう言われたゴーバンは、ふと一つの仮説に思い至る。

「もしかして、レアねーちゃんも誰かに……、あ、いや、そんなことはないよな。さすがにレアねーちゃんまでもがそんな……。いや、悪かった、トオヤ、正直、悪いけど、俺、そこまで疑心暗鬼になってるんだよ。もしかしたらそうなのかも、なんて思っちまうくらいに。だから、今のは聞かなかったことにしてくれ」

 さすがに、レアのことまでも偽物呼ばわりすると、トオヤが怒ると思ったらしい。実際には、トオヤ達は今の発言で、別の意味で心を乱していた。もし、彼が「もう一つの真相」を知ってしまった場合、果たして彼はそれでもトオヤのことを「本当に信用出来る」と言ってくれるのだろうか……。
 微妙な空気が流れる中で、ゴーバンは一つの「答え」を導き出した。

「その三択だったら、俺、クレア師匠に頼んでみてもいいかな?」
「彼女はきっと歓迎してくれるさ」

 ドルチェは笑顔でそう答えると、クレアを呼びに行くために再び森の奥地へと向かう。その間に、トオヤがゴーバンに語りかけた。

「お前の気持ちは分かった。ただ、今すぐ決める必要はない。というか、ジジイに言いたいことがあるなら、ここを去る前に言った方がいい。言うなら今だ。多分、もうジジイもそんなに長くはない。お前にとってジジイは一生憎い存在かもしれない。今言わなかったら、言う機会は一生ないかもしれない。それが怨嗟の言葉であってもいい。旅立つ前に一回、ジジイに会っておくべきだ。そのために、城に戻ろう」

 トオヤとしては、自分が父と完全には分かり合えないまま死別してしまったことが、今でも心残りとなっている。だからこそ、互いに気持ちをぶつけ合えないままの旅立つことには反対せざるを得なかった。

「そうだな……、そうしよう」
「もし、ジジイがお前を無理矢理城に縛りつけようとするなら、俺はお前が城を出るのを手伝う。約束する」
「分かった。じゃあ、俺もお前を信じる。あと、俺がもし、我慢出来なくなって、あのジジイに剣を向けたくなったら、その時はお前が止めてくれ」

 ゴーバンがそう言ったところで、ドルチェがクレアを連れてきた。トオヤが彼女にここまでの諸々について感謝の意を述べると、彼女は静かにそれに答える。

「あなた方はあなた方で、色々と大変なことがあるのでしょう。私は自分にはその責務が務まらぬと考えて、その立場を放棄した身です。私には出来ぬ形でこの世界の人々の秩序を守るために戦っているあなた方には、一定の敬意を示しています。無論、それはあなた方のおこないが、この国のためになるならば、という前提の上での話ですが」

 彼女はそう言いながら、ゴーバンに向かって微笑みかける。彼女はドルチェから、おおよその事情は聞かされていた。

「クレア師匠、俺……」

 ゴーバンはそこまで言ったところで、一旦口をつぐむ。まだ、彼女について行けると決まった訳ではない。トオヤに言われた通り、ケネスに対して言うべきことを言い切ってから、改めてクレアへの同行を申し出るべきだと、自分に言い聞かせていた。
 こうして、彼等は再びアキレスへと帰還する。クレアはひとまず、何かあったらすぐにカーラが呼びに行くという前提で宿屋へと戻り、トオヤ達はゴーバンと共に、ケネスの待つ城へと向かうのであった。

3.7. 決意の対談

 ゴーバンとトオヤ達が飛び出して行って以来、アキレスの城内は明らかに混乱していた。せっかく準備していた歓迎会の主役達が、御曹司と共に不在となってしまった以上、それは当然の反応であろう。そこへ彼等が帰ってきたことで、使用人の人々は一瞬安堵した表情を見せるが、ゴーバンが極めて険しい表情を浮かべているのを見て、「何か良からぬことがあった」ということを実感し、再び不安そうな面持ちとなる。
 そんな中、カーラは「ケネスとの会談が物別れに終わり、ゴーバンが強行突破でこの城を出なければならなくなった場合」を想定して、一旦彼等と別れて、部下の兵士達に、すぐにタイフォンに向けて出発出来る準備を進めておくよう、通達に回ることにした。ゴーバンが一時的に城を抜け出したとしても、すぐに追っ手が放たれることは明白であるし、その状況ではクレアも彼を連れて旅に出る訳には行かなくなるであろうから、一旦ゴーバンをタイフォンで匿う必要がある、と彼女は考えていたのである。

「え? これから歓迎会じゃなかったんですか?」
「申し訳ない、本当に申し訳ないが……」
「いや、まぁ、俺達が歓迎会に出られる訳じゃないし、俺達は俺達で昨日たらふく飲み食いさせてもらったから、別にいいんですけどね」

 実際のところ、彼等もそれほど嫌がってる訳ではない。ただ、カーラの必死の申し出に対して、戸惑っているだけである。
 カーラが兵士達にそう言って頭を下げて回っている間に、ドルチェは再び「カーラ」の姿になった上で、ゴーバンと共にケネスに対談を申し出ると、ケネスは再び彼等を私室に招き入れる。そのケネスの傍らには、今度はアマンダの姿もあった。
 ケネスはゴーバンに対して、神妙な表情で問いかける。

「殿下、どこまで話を聞かれましたか?」
「よく分かんねーけど、ドギが偽物で、誰もドギを助ける気がない、ということは分かった。だから、俺はドギを助けに行く。でも、今の俺にはその力はないということも分かったから、俺は修行の旅に出る。俺はここにいても、強くはなれない」

 そう言われたケネスは、ため息を吐きつつ、話を続ける。

「修行の旅と言っても、殿下一人でどこに行くつもりですか?」
「俺一人じゃねぇ。俺よりもずっと強い、そして、俺がトオヤの次に信頼している、クレア師匠の元で修行するつもりだ。あの人と一緒に旅をして、ドギの情報を集めて、俺がドギを助け出す」

 この提案はさすがにケネスも想定外だったようで、若干表情を歪める。

「クレア殿……? なるほどな…………。トオヤ、お前の入れ知恵か?」
「いえ、ゴーバンが自分で選んだ結論です」

 実際には、ゴーバンに入れ知恵をした人物はその傍らにいるのだが、今の時点でそのことを明かす必要もない。それに、誰の入れ知恵があったにせよ、最終的にはゴーバンが自分の意思でその道を選んだことは、紛れもない事実である。

「私がそれを許さぬと言ったら、どうされます?」
「俺は力づくでも出て行く」
「ではトオヤ、ゴーバン殿下が力づくで出て行こうとした時、お前はどうする?」
「俺はゴーバンの味方です」

 その不退転の決意を込めた二人の瞳を目の当たりにして、ケネスも決意を固めた。

「分かった。ならば仕方があるまい。ここで孫達を相手に争っても仕方がない。ゴーバン殿下、あなたがそれを望むのであれば、私にはそれを止める権限はない。あなたはお父上によく似ている。そんなあなたを無理にここに縛り付けておくことは、おそらく誰にとっても良い未来をもたらさぬでしょう」

 ケネスとしては、本音では既に今の時点で「レアの継承」を認める方向へと傾きつつあったが、それでも、ワトホート派に対しての牽制材料として、「もう一人の継承権の所有者」としてのゴーバンを手元に残しておきたかった。だが、こうなってしまった以上、もはやそれも叶わぬことと諦めざるを得なかったのである。

「その上で、一つお伺いしますが、儂のことを恨んでおりますかな?」
「恨んでるに決まってるだろ。でも、お前を殺してもドギが帰って来ないんだったら、今ここでお前を殴っても意味はない」

 自分に言い聞かせるようにそう言ったゴーバンに対し、ケネスは更に問いかける。

「儂のしたことを世間に公言する気はありませんか?」

 祖父のその言葉に対して、ゴーバンは露骨に嫌悪感を示した顔を浮かべる。

「結局、それが問題なのかよ……。あー、もういいよいいよ、いちいちそんなことバラすつもりもない。バラしたところで、どうなるものでもない。ここでドギの偽物相手に勝手に芝居してたいんだったら、好きにしろ。そんなことより、俺はあいつを連れ戻すことに専念する。ただし、俺が本物のドギを連れ戻した時は、ちゃんと偽物と入れ換えろよ。たとえその時、本物のドギがまだ聖印が使えない状態だったとしても。それが出来ないっていうなら、俺はもうここには戻らない。俺の偽物を作るでもいいし、俺が死んだことにして偽物のドギに伯爵家を継がせたいなら、そうしろ」

 思いつく限りの辛辣な言葉を並べてそう言い放ったゴーバンであったが、ケネスは淡々とその言葉を受け止める。

「分かりました。どちらにしても、殿下がパンドラの首領を倒して、弟君を連れ帰ったのなら、その時点で殿下の聖印は伯爵級以上になっているでしょう。そうなれば、殿下はインサルンド家の聖印を継承するまでもなく、この国を治める権利がある。そうなった時にドギ様が聖印を持てる身体であるかどうかは、どうでもいいことです」

 無論、ケネスとしては、そんなことが実際に可能だとは思ってはいない。いかにクレアが優秀な騎士であろうとも、このブレトランドのどこかで何百年も前から潜伏しているという神出鬼没の闇魔法師を、そう簡単に見つけられるとは考えられなかった。

「では、公的には殿下は修行の旅に出ているということで、来年おこなわれるであろう次期伯爵位を決める会議までに殿下が戻って来れば、当然、殿下にも継承の権利がある。戻ってこなければ、レア姫や他の誰かが継ぐことになる。それでよろしいですかな?」
「あぁ、もうそれでいい。勝手にしろ。正直、俺はもう王族だとか貴族だとかが何なのかもよく分からない。それは俺がまだガキだからかもしれないけど、少なくとも今の俺はもう興味はない。だから、戻ってくるかも分からないし、俺の偽物を置きたければ好きにすればいい」
「そういうことなのであれば、かの高名なクレア殿と共に、より立派な君主となるために修行の旅に出られた、と公表してよろしいですかな?」
「そうだな。まぁ、帰ってくるかどうかも分かんねーけどよ」

 ここでケネスはトオヤの方に向き直って、問いかける。

「トオヤ、お前はこれでいいのか? これで、お前の逃げ場は一つ無くなるぞ」
「逃げ場?」
「ゴーバン殿下が次の伯爵となる可能性はかなり低くなった。今のドギ殿下に継がせることも出来なくはないが、儂もエーラムを騙しきれる自信はない以上、積極的に推す気はない。つまり、これでレア姫が爵位を継ぐ可能性はかなり高くなった。そうなれば、そろそろお前もなんらかの『覚悟』を固める時であろう」

 そこまで言ったところで、ケネスはトオヤに返事を求めることなく、ここまでずっと表情を変えぬまま黙って話を聞いていたアマンダに、こう告げる。

「宴会の準備をしている者達に、宴会の題目を一つ追加するように言え。というよりも、そちらの方が主題になるな。我等が英雄の帰還を労う祝賀会と、新たな未来の英雄の壮行会、そう看板を書き換えておけ」
「分かりました」

 アマンダはそう言って、粛々と部屋を去って行く。一方、ゴーバンは傍らに立つトオヤを見上げながら、問いかけた。

「これでいいか、トオヤ?」
「あぁ」

 トオヤも、ようやくこれで話が一段落したことに安堵していたが、その一方で、あまりにも多くの出来事がありすぎて、自分の中の気持ちの整理がつかない状況に陥っていた。そんな彼の心境を慮りつつ、ドルチェもゴーバンに視線を送りながら、内心で「ある決意」を固める。問題は、どの時点でその決意を表に出すかどうか、ということであった。

3.8. 祖父の本音

 その上で、トオヤとしてはまだケネスと一対一で話したいことがあったため、一人その場に残ることにした。その際に、彼はチシャに小声でこう告げる。

「チシャ、すまないが、しばらくゴーバンの様子を見ていてあげてくれないか? 確かに、今は君のことを警戒しているのかもしれないが、今、目を離すのは怖いから」
「……分かりました」

 そう言いながらチシャ達がゴーバンと共に退室したのを確認したところで、トオヤが何から話そうかと迷っている間に、まず先にケネスの方から語りかけた。

「どうにか、思ったよりも綺麗にまとめてくれたようだな」
「俺がまとめた訳ではありません」
「ゴーバン殿下がパンドラに本格的に弓引くことになれば、その時点で儂の命は断たれることになるだろうが、まぁ、それはどうでもいい。出来れば、お前に騎士団長の座を譲るところまで待ってほしいところではあるがな」

 そうは言いつつも、実際のところ、そこまで短期間でゴーバンがパンドラの居場所に辿り着けるとはケネスは考えていなかった。そんなケネスに対してトオヤは、今の自分の中の疑問を率直に投げかけてみる。

「俺は今、あなたの本音が聞きたい。ドギ様が攫われて、パンドラから密約を持ちかけられた時に、どう思いましたか?」
「腹わたが煮えくり返る思いだった」

 いつも冷淡な態度で慎重に言葉を選びながら答えるケネスが、この時はあっさりと即答した。そして、この時の彼の瞳には、今までトオヤが見たことがないような「本気の怒り」が込められていた。

「それは、三度目の敗北を喫したことへの怒りでもあるし、自分が我が一族を守れなかったこと、そして臣下としての最低限の務めも果たせなかったことへの怒りでもある。正直に言えば、その時点で自害することも考えた」
「でもあなたは、自分の怒りを飲み込んで、領主として、臣下として、汚点を飲み込んででも、自分の命を天秤に掛けてでも、パンドラの誘いに乗って、最低限、得るものだけは得た、ということですか?」
「そうだな。少なくとも、儂が命を絶ったところで、何も解決はしない。そして実際、破綻寸前だったこの国が、あの手打ち金のおかげでかなり持ち治った。こちらも、最初の提示額から倍額になるまでふっかけたが、向こうも首領の身が掛かった問題である以上、それを受け入れざるを得なかったようだ。その代償としての『これ』でもあるがな」

 そう言って自らの胸を指差しつつ、彼は話を続ける。

「その上で、儂は思った。やはりゴーバン殿下には、この国を継がせるべきではない。このヴァレフールは四百余年の間、様々な虚構と虚飾で塗り固められて成り立ってきた。今までもパンドラの首領ジャック・ボンキップは、様々な王族の身体を乗っ取って、生き永らえてきたらしい。この国の家系図を紐解いて見れば、行方不明とされている人々が大勢いる。おそらくその中の何人かは、同じように『器』にされてきたのだろう。その度に、裏で儂と同じように『手打ち』がおこなわれていたのかもしれん。そんな国の舵取りを、あれほどまでに真っ直ぐな性根の方に任せるのは無理だろう」

 それについてはトオヤも実感していた。だが、仮に本物のレアが帰ってきたとしても、彼女に務まると言える根拠もない。そして、彼女がそのような難局に直面した時に、自分が彼女を適切な形で支えられるかどうかも、まだ確証は持てずにいた。というよりも、トオヤ自身、同じ立場になった時にどう決断するのが「適切な判断」なのかが、まだ分からない。唯一、彼の中で定まっていたのは、ケネスの選んだ選択肢が「少なくとも、正解ではない」という確信だけであった。

「正直、儂はネネからこの話を聞かされるまで、『血統』なるものはどうでもいいものだと思っていた。所詮それはただのまやかしであり、たとえ実際には偽物であろうと、不義密通の子であろうと、形さえ整っていればそれでいい、とな。そして実際、それで国は治まる。そう考えてみると、本当の血族にこだわっているのが実はパンドラの方だったというのは、皮肉な話だな」

 そして「不義密通の子」という言葉を口にした時点で、ケネスは「あること」を思い出し、トオヤにこう告げる。

「ネネは今後、パンドラはもう我々を襲わないと言っていたが、実際には、あの組織は中がどうなっているのかは分からない。もしかしたらお前達の前に、また新世界派の連中が立ちはだかることになるかもしれんが、その時は迷わずに戦え」

 ケネスのその言葉に対して、トオヤが何か反応しようとする前に、彼はそのまま語り続けた。

「それは、儂がもう自分の命が惜しくないから、ということだけではない。チシャもそうだが、お前も『儂の血族』ではないからだ。詳しいことは、プリスに聞け。お前が今、どこまで何を察しているかは知らんが、お前は儂の血を引いてはいない。だが、それでも儂はお前のことを『孫』だと思っている」

 唐突に重大な事実を突きつけられたトオヤであったが、内心、その可能性も考えてはいたため、今の時点ではそれほど大きな衝撃ではなかった。というよりも、今の彼にとっては、自分自身の出自の真相すらどうでもいいと思えるほど、今回の事件の顛末が衝撃的すぎたのである。

「あなたの決意は、俺の志とは合いませんが、君主としての『一つのあり方』の形なのでしょう。しかし、俺はあなたのその決意を踏みにじることになっても、新世界派の首領ジャックのことは許せない。このツケは必ず払わせる」

 そう語りながら、彼の心の中の聖印が、少しずつ形を変え始める。だが、聖印を発現させていない今のこの状況では、そのことには誰も気付いていなかった。

「それでいい。その思いは儂も同じだ。だが、残念ながら今の儂にはその力はない。だから、その思いはお前達に託すことにする。そもそも、ドギ殿下を元に戻す方法があるのかどうかも分からんがな」

 ケネスが肩を落としながらそう呟くのを聞き終えたところで、トオヤは部屋を出て行く。祖父の信念を否定しつつも、まだ自分の信念を固めることも出来ない苛立ちと葛藤を抱える彼には、これ以上、祖父と語らうべき言葉は残っていなかった。

3.9. 侍女の本音

 一方、部屋を出たゴーバンは、微妙な表情のまま、無言で自分の部屋の前まで来たところで、一緒に歩いてきたチシャに対して、こう告げる。

「なぁ、チシャ。悪いけど俺、部屋で一人になりたいから……」

 そう言われたチシャは、やや心配ではあったものの、さすがにここで彼の部屋の中にまで入れてほしいとは言えなかったため、一応、万が一に備えて、彼の扉の前で警備することにした。ゴーバンの部屋は二階であり、その気になれば窓から飛び出すことも出来るものの、さすがに今のこの時点で、彼が何も言わずに逃亡するとは考えにくい。それでも、外から何者かが介入してくる可能性もあるため、万が一に備えてトロールを窓の外に配置するという選択肢もあったが、さすがにそれは目立ちすぎて周囲に不信感を与えると考え、自重することにした。
 こうして、チシャがゴーバンの部屋の前で一人になったところで、廊下の右手側の方から、彼女の前に一人の女性が現れた。アマンダである。

「私のことを恨んでいますか?」
「いえ、まぁ、その……」
「私がネネ様の正体に気付かなければ、今もごく平穏な家族のままいられたでしょう」

 無論、それはパンドラに対して、ヴァレフールの内情が筒抜けとなり続けることを意味している。たとえ今のパンドラ均衡派がヴァレフールとは実質的な共闘関係にあるとは言っても、長い目で見れば、その状況は決して望ましいとは言えない。だが、アマンダの本音としては、たとえ未来のヴァレフールに害を為す可能性があったとしても、大恩あるネネの家族を守ることの方が大切だと思っていた。自分のその想いが伝わらないまま、ネネを失踪させてしまったことが、アマンダにとっては今でも大きな悔恨として残っている。

「ですが、今でもネネ様はあなたの身を案じていらっしゃる。そのためになさったことは許されることではないのでしょうが、あの方のあなたに対する想いだけは、分かってあげて下さい。あの方も、孤独な方なのですから……」

 そう言い残して、アマンダは宴会の準備に戻るためにその場を立ち去る。今のチシャには、彼女に対してどんな言葉をかければ良いのか、分からなかった。

4.1. 奔走する従者

 アマンダからの通達を受けて、祝賀会の看板が急遽立て替えられている様子を見たカーラは、即座に事態を理解して胸をなでおろしつつ、すぐさま兵士達に「緊急出発の準備の中止」を再通達することになった。

「もう、何なんですか、隊長〜」
「えっとね、ゴーバン様が修行の旅に出たいと言ってたんだよ。でも、反対されるかもしれないから連れて逃げ帰る覚悟を決めてたんだけど、無事に送り出してくれることなったみたいなんだ。よかったね!」

 兵士達にしてみれば、唐突にそれだけの説明を聞かされても、何を言っているのか理解出来る筈もなかったが、ともあれ強行軍での再出発が中止されたことは、彼等としても望ましい話ではあった。
 カーラは混乱させたお詫びに、部下達のために厨房の料理をこっそり横流しするように手配しつつ、改めて城下町のクレアの宿屋へと向かい、改めて彼女にもゴーバンのことを頼みに行くと、クレアは真剣な面持ちでその話に聞き入った上で、深く頷いた。

「分かりました。ご家族の方々の許可が得られたのであれば、私としても、もう迷う必要はありません。どのような事情があるにせよ、聖印の力に選ばれた一人の少年が、正しき力を得るために修行の旅に出たいと言うなら、その手助けをすることが、先駆者としての責務でしょう。彼がその力の使い方を正しく見極めるための見識を得られるよう導けるよう、責任を持って指導させて頂きます」
「ありがとうございます。それでですね、これから出立の歓迎会もありますので……」
「分かりました。では、私も御相伴に与ることにしましょう」

 クレアはそう言って、簡易礼装の服へと着替え始める。カーラはどうにか万事が丸く収まりそうな方向に進みつあることに安堵しつつ、内心では「投影体全般の存在を嫌う聖印教会」の一員であるクレアに彼を預けることへの心配も抱いていた。おそらく、今のクレアはカーラのことを「投影体」とは認識していないだろうが(実際のところ、カーラはそう呼ぶべきか微妙な存在ではあるのだが)、もし彼女がカーラの正体を知った場合、彼女がどんな反応を示すかは分からない。
 そんな状況を踏まえた上で、カーラは旅立ち前のゴーバンに対して、「あること」を伝える決意を固める。彼がそのことをどこまで理解してくれるかは分からないが、このことはどうしても今この機会に伝えなければならないと、彼女はこの時、はっきりと確信していた。

4.2. 送迎の宴

 こうして、当初の開始時間を大幅に遅らせることになったものの、どうにか(その主旨が微妙に曖昧な位置付けとなった)祝宴の幕が開かれることになった。
 来賓となった城下町の内外の有力者達は、今や救国の英雄として持て囃されつつあるトオヤ達の帰還を歓迎する一方で、唐突なゴーバンの旅立ちの宣言に対しては、明らかに困惑気味の様子であった。

「トオヤ殿達の活躍に触発されたのだろうか?」
「あるいは、弟君の突然の覚醒に焦りを感じた、とか?」
「ともあれ、あの高名なクレア様と一緒ならば大丈夫だろう」
「だが、あの方は聖印教会の人だろう? ケネス殿はそれで良いのか?」

 彼等の一部は宴会場の隅でそのように小声で囁き合っていたものの、目の前にゴーバンが現れると、ひとまず笑顔でその決意を讃える。

「ゴーバン殿下、お帰りをお待ちしております」
「あぁ、俺は絶対に強くなる。父上よりも、トオヤよりも強い、世界一強い君主になる」

 ゴーバンはそう返しつつも、「強くなって帰って来る」とは言わない。彼は彼なりに、今の自分の心中をごまかそうとしているらしい。あるいは、ひとまずそう自分に言い聞かせることで、自分をごまかそうとしているのかもしれない。本当は他にも心の中に引っかかっていることはあるが、今は焦って色々なことを考えても仕方がない、今は強くなることだけを考えよう、と自分に言い聞かせることで、自分の中のモヤモヤした感情を押さえ込んでいるようにも(事情を知る者達の目には)見えた。
 一方、「ドギ」は相変わらず、ゴーバンに対してどこかよそよそしい態度で接している。彼(彼女)には、既にゴーバンやトオヤ達に正体が知られているということがアマンダから伝えられており、だからこそ、本音としては、どんな顔で彼等と接すれば良いかも分からなかったのだが、そんな怯えた内心を必死で抑えつつ、必死の笑顔で取り繕っていた。トオヤ達(特にチシャ)は、彼等の様子を複雑な心境で遠目に眺めている。
 そんな中、クレアは来賓達の人波を掻い潜るようにゴーバンの元へと近付く。

「ゴーバン殿下、厳しい旅になると思われますが、よろしいか?」
「あぁ。俺はクレア師匠と一緒にこの世界を回って、色々な見聞を手に入れる。その上で、世界で一番強い、世界で一番頼られる君主になる」

 彼がそう力強く宣言すると、周囲の人々は改めてゴーバンに喝采の拍手を送り、クレアも温かい笑顔を浮かべながら頷く。そんな彼女に対して、トオヤは改めて頭を下げた。

「先程は本当に助かりました。ありがとうございます」
「いえ、むしろ出過ぎた真似をしすぎたかと思っています。しかし、正直少し楽しみでもあります。あの少年、きっと強くなりますよ。聖印に対する想いの強さは、私よりも上かもしれない。きちんと育てられるように、私も頑張るつもりです。もっとも、まだあんな大きな子供を持つような歳でもないのですけどね」

 彼女の年齢は不詳だが、巷で流れている噂によると、20代前半程度だと言われている。

「ゴーバンのこと、よろしくお願いします」
「あなたもあなたで色々あるのでしょうが、あなたはあなたの道を歩んで下さい」

 そんな二人の間で流れる微妙な「お堅い空気」を和ませようと、カーラがトオヤの前にデザートの皿を持って割って入った。

「あるじー、お菓子だよ!」
「お、おぉう、これは、あの『ラ・ミセール』のクッキーじゃないか。久しぶりだなぁ。色々各地を回ってきたけど、やっぱり、食べ慣れた味もいいよなぁ。クレア殿も一つ、どうです?」
「あぁ……、私は、その……、そろそろ、食べたものがそのまま体型に影響する年齢なのでな」
「いやいや、そんなことはないでしょう」
「まぁ、では、少しだけ」

 そう言って、クレアも皿へと手を伸ばす。傍目には、今のクレアは肥満からは程遠い、女騎士として理想的な、均整の取れた立ち姿であるが、油断するといつそれが崩れるかも分からない、というストイックな警戒心が、今の彼女の体型を維持させているのだろう。だが、それと同時に、騎士として最低限の「空気を読む力」も持ち合わせてはいるらしい。
 カーラはその様子に満足しつつ、ゴーバンとドギにも同様に菓子皿を勧める。

「しばらく、これも食えなくなるのか……。それも寂しいな……」

 張り詰めていた緊張の表情が一瞬緩んで、子供らしい表情を見せながらそう呟いたゴーバンのことを、まだ少し彼等と距離を取っているチシャと「レア」は、黙って静かに見守っていた。

4.3. 「影武者」の告白

 やがて宴会を終え、一人自室に戻ろうとするゴーバンが廊下を歩いているところで、改めて彼の目の前に「レア」が現れた。

「やぁ、ゴーバン殿下、宴は楽しめましたか?」

 まるで従者のようなその口調に、ゴーバンはやや違和感を感じつつも、自分の中で気になっていたことを率直に問いかける。

「レア姉ちゃん……、どこまで事情を聞いてんだ?」
「全部聞いていますとも。ケネス団長が考えていることも、トオヤがどう思っているかも、あなたの決意も。全て聞きましたとも、あなたの口からね」

 明らかにいつもと様子が異なる「彼女」に対して、更にゴーバンは困惑する。「彼女」が何を言っているのか分からないし、なぜこんな口調で語りかけているのかも分からない。そんな彼に対して、「彼女」はボソッと呟くように付言する。

「いっときは、ゴーバン殿は真相にたどり着きかけましたのに……」
「ん? な、何言ってんだ、レア姉ちゃん?」

 彼がそう言ったところで、彼の目の前で、「彼女」は「ドルチェ」の姿へと変身した。唐突な出来事に、ゴーバンは「困惑」を通り越して、「恐怖」を感じ始める。

「え? ど、どういうことだよ……、まさか本当にお前……、だ、誰なんだ! お前!?」
「私の名前はドルチェ。レア・インサルンドの影武者です」

 淡々とそう答えるドルチェに対して、ゴーバンはまだ困惑しつつも、必死で状況を整理しようとする。実際のところ、王族や貴族の人々が、時として「影武者」なる存在を用いることがある、という程度のことは、当然彼も知っている。レアに影武者がいるという話は、ゴーバンは聞いたことがなかったが、自分の弟がまさに「影武者」に入れ替わっている現状であればこそ、当然のことながら、それも十分に有り得る話であると彼には思えた。
 とはいえ、話が唐突すぎて、彼としてはまだ半信半疑の状態である。そもそもいつから入れ替わっていたのか、誰の命令でそうなっているのか、思い浮かぶ疑問点はいくらでもあったが、まず彼は最初に、一番気になったことから問い質そうとする。

「トオヤは知ってるのかよ?」
「もちろん」
「……あのジジイは?」
「あぁ、ケネス団長は知りませんよ」
「じゃあ、本当のレアねーちゃんは? パンドラに捕まってるのかよ?」
「まぁ、パンドラ絡みではないですが、事情があってこのブレトランドに帰れなくなってるという意味では、ドギ殿下と同じでしょう。そして、ある意味、これから先のあなたと同じような身でもあるのです。いつ戻ってくるかも分からない。しかし、いつか戻ってくるのを信じて、あの人のために出来ることをしたいと、今の私は考えています」

 少し遠い目をしながらそう語るドルチェに対して、ゴーバンは今ひとつ話の全容を理解出来ない様子であった。

「じゃあ、レア姉ちゃんも、今どこにいるのか分からねーのか?」
「えぇ」
「トオヤはそれでいいのかよ。あいつ……、あいつだって、本当はレア姉ちゃんのことを……」

 そんな彼の言葉を遮るように、その場にトオヤが現れた。

「おや、トオヤ、聞かれていましたか?」
「あ、いや、その、ちょっと通りかかって……」
「嘘ですね。この先にはゴーバン殿下の私室くらいしかありませんよ」

 図星を突かれたトオヤは、焦った表情を見せる。そんな彼を目の当たりにして、ドルチェはつい、「いつもの口調」に戻る。

「そんなこと言って、本当は僕が心配だったんだろう? それとも、ゴーバン様かい?」
「……両方」

 苦笑を浮かべながらそんな会話を交わす二人を目の当たりにして、ゴーバンはどこか拍子抜けしつつ、明らかな違和感を感じる。ゴーバン自身は、今まで誰かに対して「恋」と呼べるような感情を抱いたことはない。だが、子供ながらの鋭い感性で、レアとトオヤはずっと「両想い」だと思い込んでいた。だからこそ「レアが行方不明のまま影武者に摩り替えられている」という現状において、トオヤと影武者が極普通に仲睦まじく話している姿は、どう考えて異様な光景に見える。少なくとも、今の自分は「ドギの影武者」の前で、こんな自然な態度で接することは出来ない。

(なんだよトオヤ……、そいつ、偽物なんだろ? なんで偽物だと分かってる相手に、そんな顔出来るんだよ……? そんな、本物のレア姉ちゃんに会ってる時と同じような……、あれ? いや、待てよ……、そもそも、いつから入れ替わってたんだ? もしかして、ずっと前から、俺が知ってるレア姉ちゃんって、小さい頃からずっと偽物だったのか? じゃあ、もしかして、『トオヤが好きなレア姉ちゃん』って……)

 ゴーバンは、利発すぎる弟との対比において、愚直な性格だと思われがちだが、それは座学への適性が欠けているが故に知識量が足りないだけで、むしろ無知であるが故に固定観念に囚われていないからこそ、柔軟な思考力に関しては人並み以上に持ち合わせていた。だからこそ、ここでも彼は、困惑しながらも「真実」に限りなく近い仮説に到達しかけていたのだが、彼がその考えをまとめる前に、トオヤが語りかける。

「さっきのお前の問いかけに答えるならば、いい訳がない。でも、レアなら必ず帰って来ると俺は信じている。だから、その時に何もせずに待っているのは釈だったから、それまでにこの国を立て直しておこうと思ったんだ」

 このトオヤの言葉から、ゴーバンの中で生まれかけていた仮説は白紙に戻った。少なくともトオヤは「本物のレア姉ちゃん」を知っている。まだ事情も何も分からないが、直感的にゴーバンはそう確信した。

「俺は、お前みたいに飛び出して行くことは出来なかった。でも、それ以外に出来ることはあると思ったから。俺は今でも自分の選択が間違っていたとは思わない。俺なりに出来ることをやってると思ってる。けど、お前の選択も間違っている訳ではない。いや、本当は俺も、お前のようにすべきだったのかもしれない。今の俺は利口ぶって、今の立場を捨てることが出来ない、それは俺の弱さなのかもしれない」

 複雑な表情でそう語るトオヤを目の当たりにして、ゴーバンはしばらく黙って考え込んだ後に、頭を抱えながら叫んだ。

「あー、もう、わっかんねー! 何が正しいのか、わっかんねー!」

 当然の反応である。そんな彼に対して、ドルチェは改めて語りかけた。

「それでいいのさ。僕等にだって、何が正しいのかなんて分からない。ただ、これがレア様のためにも、僕のためにも、トオヤのためにも、一番いい選択なんだと思い込みながら、ただ足掻いているにすぎない。僕自身の存在がそうであるように、世界は欺瞞に満ちている。それは君も痛感しただろう? そんな世界だからこそ、自分の思うところだけは、信じられるんだ」

 それが「偽物」としての彼女が伝えられる、精一杯の言葉だった。

「そうか……。なんか、よく分かんねーけど……、まぁ、いいや。考えるのやめた! もうこれ以上考えても分かんねー! 分かんねーから、とりあえず、旅先でレア姉ちゃんの情報を見つけたら、手紙でこっちに伝える。それでいいか?」

 ゴーバンとしては、まだ気になることは沢山ある。だが、これ以上聞いても、自分の中で話を整理出来る自信がなかった。何が正しいかは分からない状態のままだったが、それでも今の自分の中で、それが「一番いい選択」なのだと思い込もうとしていた。そして実際、それはおそらく、今この場にいる誰にとっても「一番いい選択」であった。

「そうだね。それはすごく助かる。僕等も、君を混乱させるために、こんなことを言ったんじゃない。ただ、知っておいてほしかったんだ。ドギ様を救うためにこの国を出ようとしている君に、どこか『同類みたいなもの』を感じたから、勝手にそう思っただけかもしれない。まぁ、でも、君の決意は聞いたし。この世界が欺瞞に満ちていると知ってなお、君には進んで行ける強さがあるんだろう?」
「まだ俺には、そんな強さなんかねーよ。でも、絶対、強くなる!」
「それでいいのさ。トオヤだってそうだろ?」
「あぁ。ただ……」

 トオヤは少し考えながら、言葉を選びつつ、ゴーバンに今の自分の率直な想いを伝える。

「たとえ人は強くなったところで、疲れてしまうこともある。そんな時は帰って来い。俺はレアだけでなく、お前やドギが帰ってくるための場所も守りたいと思ってる。お前はもうヴァレフールは自分の故郷ではないと思っているかもしれないけど、ふと疲れた時に、この国のことを思い出してほしいんだ。お前の帰る場所は俺が守る。疲れた時は、少しの間だけでもいいから、帰って来い。それでもし腑抜けたことを言ったら、すぐにまた蹴り出してやる」

 そのトオヤの言葉を率直に受け止めつつ、ゴーバンはここで「ふと思ったこと」を、そのまま口にする。

「一応、聞いておくぞ、トオヤ。お前は『本物』だよな?」
「お前なぁ……、さすがに俺まで偽物だったら、何なんだよ、ってカンジだろ?」
「あと、これも言っておく。俺は『本物』だからな」
「知ってるよ。お前みたいにそうやって、自分の地位とか家とか捨てて出て行ける奴なんて、そういないだろう?」

 そう語り合う二人の口調は、先刻までの重苦しい雰囲気から、少しだけ和らいでいるように見えた。その様子を確認した上で、ドルチェは最後にこう告げる。

「ゴーバン殿下、これからのクレアさんとの旅で、何か少しでも君の為したいことを見つけられることを祈っているよ。戯言に付き合ってくれて、ありがとうね。トオヤ、戻ろうか」
「あぁ」

 そう言って、二人はゴーバンの元から立ち去っていく。彼等の後ろ姿を見送りながら、ゴーバンは全ての迷いを振り払うかのように、一人静かに拳を握りしめるのであった。

4.4. 守ることと戦うこと

 ゴーバンと別れてしばらくしてから、トオヤは隣を歩いているドルチェに、ふと語りかける。

「なぁ、ドルチェ」
「ん? なんだい?」
「少し、聞いてほしいことがあるんだけど」
「言ってみたまえ」
「今回の件でさ、ドギをパンドラの首領に連れて行かれて、ジジイが取引をしたって話を聞いた時に、自分が止められなくなりそうになったんだ……。何か言い返そうとしたけど、何か言った瞬間、大事なものを奪われた怒りで、ジジイに飛びかかりそうだったんだ。だから何も言えなかったんだけど……」

 トオヤはその時の状況を思い返しながら、再び感情が高まるのを抑えつつ、平静を装いながら訥々と語り続ける。

「その後、ゴーバンを追って行った先で怪物と戦った時は、今までみたいに守ろうと思って戦ってたんじゃないんだ」
「じゃあ、何を思ってたのさ?」
「壊したかったんだ。目の前にいる巨大な敵を。ただ今まで通りに守ろうと思って戦うんじゃなくて、壊したいと思って戦ったんだ」

 あの時、トオヤの鎧がいつもとは異なる、どこか禍々しい形状になっていたのは、どうやらそんな彼の心情が影響していたらしい。

「俺は確かに何かを傷つけるのは不得意だ。それでも普通の人に比べたら鍛錬も積んでいるし、聖印の力だってある。だから、これから先、その力を、自分の怒りに従って、誰かに、力のない人に向けようとした時は、その時は……」

 そこまでトオヤが言ったところで、ドルチェは深くため息をつく。

「今回のようなことがあって君が怒るのは、当然のことだ。良い悪いの問題じゃない。それはすごく人間的にだし、ある意味、そこで怒ることが出来ることすら、トオヤの優しさなのかもしれないよ。で、君が怒りに任せて力を振るったら、どうなるんだい?」
「どうなんだろう? 何か壊してしまうかもしれない。あの時、戦いが終わって、ふと我に返った時に、なんていうんだろう……、本当に恐ろしかったんだ。だから、俺が間違えそうになった時は……」
「ぼくに止めて欲しい、ってか?」
「あぁ。頼む。お前なら、俺の鎧なんて関係なく止められるだろうし」

 ドルチェの邪紋を用いた攻撃は、どんな鉄壁の装甲の持ち主が相手でも、鎧や盾をすり抜けるように、敵の身体を内側から蝕むことが出来る。ある意味、彼女はトオヤのような君主にとっては天敵とも言うべき存在であった。

「いいんじゃない? 適任だ。そうなった時、君が僕を傷つけられるとも思えないしね」
「まぁな」

 相手の攻撃を避けることに関しては誰よりも優れているドルチェに対して、トオヤの振るう剣が当たる筈がないし、当たったところで深手を与えられるとも思えない。更に言えば、それ以前の問題として、いかに彼が理性を失っている状態であろうとも、彼が最愛の存在であるドルチェに対して剣を向けられるとも思えなかった。

「それにしてもねぇ。僕だって、大切な人を殴りたくないんだけど? 極力、そういうことにならないようにしてほしいところだね」
「分かった。変なことを頼んで悪かったな」
「まぁ、いいさ。それは了承しておこう」
「ありがとう」
「なんでだと思うかい?」
「うん?」

 再びドルチェはため息をつく。

「トオヤなら絶対にそんなことにはならないって、信頼してるからさ。それだけだ」
「あぁ、ありがとう」
「まったく、辛気臭い話の後に、辛気臭い話を重ねるんじゃないよ。宴の席でも『レア姫』の姿だったから、殆どトオヤとも話せなかったし……。これでも、ちょっとは寂しかったんだよ」

 珍しく、少し本気で拗ねているような顔を見せる。おそらくそれは、二人きりだからこそ見せられる「本当の自分の素の表情」なのだろう

「そうだな。まぁ、済まなかった。なんか、あれだよな、今はさ、レア姫として君は行動している訳だけど、レアが帰ってきたら、君はどうする?」
「『ただのドルチェ』に戻るんだろうね。いや、戻るという言い方は正しくないか。『ドルチェ』になったのは最近だしね」
「まぁ、そうだな。いや、そういうことが聞きたいんじゃなくて……、影武者として、レアのそばに居続けるのかどうかを聞きたいんだ」
「じゃなかったら、なんなのさ?」
「いや、その、俺も、君と会えなかったり、今こうして話せないのが寂しいな、と、なんとなく思っただけ」
「寂しいと思ってくれてるんだ。それは嬉しいな」
「それはそうだよ」
「心配しなくてもいいさ。影武者ってのは、そんなに忙しい仕事じゃないんだ。本人がその場にいればね」
「いや、でも、身の振り方によっては、あれじゃないか、その……、俺はレアの味方では居続けるつもりでいるけど、立場によっては、そういかなくなるかもしれないし……」

 ドルチェは三度目のため息をつく。

「あぁ、もう、面倒臭いなぁ。レア姫が帰ってきたら、それこそ、影武者はいらなくなるかもしれないし。僕は君と一緒にいたいさ。それじゃダメかい?」
「そうか……」
「オディールで言ったこと、忘れたとは言わせないよ」
「いや、そのことを忘れている訳じゃなくて……」
「じゃあ、いいじゃない」
「……ありがとう」
「こうなった以上ね、悩んでもしょうがないことは悩まないようにしてるんだ」
「それが正しい生き方、か……」
「あぁ、その場その場で一番大切なことを考える。影武者って難しいからさ。いちいち余計な難しいことまで考えてたら、務まらなくて」
「あぁ、きっと、俺が想像するよりも難しいんだろうな。これからも色々苦労を強いると思うけど、よろしく頼む」
「お任せあれ。あ、そうそう、その苦労に見合うだけ御褒美くれたらいいよ」
「分かった。 色々考えておく」
「はーい、じゃあ、楽しみにしているね」

 彼等がそんな「二人だけの会話」を交わしている中、廊下の反対側から、ほろ酔い状態のカーラの鼻歌が聞こえてくる。どうやら、彼女はこちらに近付いて来ているらしい。

「あれ? 今の話、聞かれたかな?」

 ドルチェは思わずそう呟く。今の二人の関係は、カーラやチシャにもまだ話してはいない。別に、カーラに知られたところでさほど困る話でもないのだが、もし彼女の近くに他に誰か身内以外の者がいた場合、少々面倒な事態に陥る可能性もある。
 だが、幸いなことに、近付いてきたカーラの近くにいたのは、チシャだけだった。ご機嫌な面持ちのまま、酒瓶を片手に千鳥足で歩くカーラの少し後ろから、少し心配そうな顔でチシャが追いかけている。

「おい、カーラ! 大丈夫か?」

 トオヤがそう声をかけると、カーラはやや赤らめた顔で、手に持った酒瓶を軽く掲げながら答える。

「だーいじょぶだいじょぶー」
「大丈夫じゃなさそうだな……」

 そんな彼女の後方からチシャが追いつき、軽く支えるように傍らに立つ。

「済まないな、チシャ」

 トオヤがそう言うと、チシャも苦笑を浮かべながら答える。

「まぁ、色々ありましたから……」

 実際のところ、カーラがどんな心境で泥酔しているのかは、チシャにもトオヤにも正確には分からない。ただ、この数時間の間に、あまりにも色々なことがありすぎて、泥酔したくなる気持ちはトオヤやチシャにも十分に理解出来た。

「あるじー、これねー、めっちゃ甘くて美味しかったよー」

 そう言って言いながらカーラは酒瓶をトオヤに見せつける。どうやらそれは蜂蜜酒らしい。確かにこれなら甘党のトオヤの口にも合うだろうが、今のトオヤにはもはやこれ以上の糖分は不要と思えるほどに「甘すぎる空気」が、ドルチェとの間に広がっていたのであった。

4.5. 侍女の懺悔

 カーラを介抱しながら、ひとまず彼女の宿舎へと送り届けたチシャが、自分の客室へと向かうと、その扉の前には「ドギ」の姿があった。チシャが少し驚いた顔を見せると、「彼」は穏やかな笑顔を浮かべながら語りかける。

「ちょっと少し、中でお話しさせてもらっていいかな?」
「……分かりました」

 複雑な心境で「彼」を部屋の中へと迎え入れると、チシャが扉を閉めたと同時に、「彼」はその場に膝を付き、その頭を床に擦り付ける勢いで土下座を始める。

「申し訳ございませんでした! 私が油断していたがために、ドギ様を……」

 突然のその行動に対し、チシャは慌てて起き上がらせようとする。

「顔を上げて下さい。起きてしまったことは仕方がないことですから、そんなに謝らないで下さい」

 そう言って宥められた「ドギ」は、改めて、チシャに自分の正体が分かっていることを自覚した上で語り始める。本来、「ドギ」の姿のままこのような態度を取ることは「彼(彼女)」の中でも抵抗はあったが、「彼(彼女)」はドルチェとは異なり、自分の意思で姿を変えられる訳ではない以上、そこはどうしようもなかった。

「ドギ様は、本当に、チシャ様にお会い出来ることを楽しみにしていました。チシャ様が帰って来る時までに必ず、御自身で考えていた『この国を豊かにするための案』を聞かせるのだと。私自身、正直、学がないので、あまり助言も出来ず、それでも何度かお手伝いしようと思っていたのですが……」

 「ドギ」はそう言いながら、懐から小さくまとめられた「紙の束」を取り出す。

「これは、ドギ様が御自身で様々な書物を読んだ上で、書き記されていたものです。これをチシャ様にお渡しするんだと仰って、その日が来るのをずっと心待ちにしておられました」

 そこに描かれていたのは、ブレトランドの地図と、それぞれの土地の地理的特性などをまとめたものである。あくまでも既存の書物の情報をまとめただけのメモ書きであるが、僅か9歳の子供の「自由研究」としては十分すぎるほどの内容である。もし彼が、エーラムに留学して同世代の初等教育課程の子供達と共に学んでいたら、学年でも一、二位を争う優秀な生徒として表彰されていたであろうほどの才覚が伺えた。

「本当は、今朝の時点でお渡ししようかと思っていたのですが、正直、私では、書かれている内容をきちんと理解出来ていた訳でもないので、詳しい話になった時に、ボロが出てしまうのではないかと思い、言い出せませんでした。しかし、もう真実を知ってしまわれたのであれば、せめてこのドギ様の想いをお納め下さい。もし、それが未来のヴァレフールのために、お役に立てて頂けるのであれば、ドギ様の想いをこの国に残すことに繋がると思いますので」
「分かりました……。ありがとうございます……」

 チシャはそう言って、その紙片の束を受け取る。幼いながらも、この国を愛し、この国を支えようとした小さな賢者の想いは、確かに彼女の心に伝わった。そのことを確認した上で、「彼(彼女)」はこれから先も「ドギ」として生きることを改めて誓い、静かに部屋から立ち去って行くのであった。

4.6. 「叔母」の告白

 翌朝、トオヤ達はタイフォンへと出発する準備を進める。この時点で、「レア」もそのまま彼等と共にタイフォンへ向かうと宣言し、それに対してケネスからは特に異論も出なかった。ケネスとしても、このまま彼女をトオヤに同行させ続けることで、二人の縁談が「既定路線化」すること(あるいは「既成事実」が生まれること)を望んでいたようである。
 一方、クレアはアキレス近辺の混沌が再収束する可能性を考慮した上で、しばらくはこの地に残って森の警備を続けつつ、安全を確認してから海路でゴーバンと共に大陸へと旅立つという方針であった。
 そんな中、カーラは一通りの準備を終えた後で、自分達を見送りに来たゴーバンに対して、以前のような「堅苦しい(無理のある)敬語口調」ではなく、あえてトオヤやチシャと話す時のような「軽い口調」で語りかける。

「昨日、ボクのことについて、意味深なことだけ言ってやめた気がするから、軽くでいいから聞いといてよ」
「ん? あぁ、分かった」
「ボクのお父様は、ヴァレフールの初代伯爵のシャルプ様。お母様は、宝剣ヴィルスラグのオルガノンだよ」
「は!?」

 昨夜のドルチェに続き、またしても唐突すぎる、しかも、あまりにも突飛すぎる話を聞かされたゴーバンは、思わず声を上げる。だが、カーラはあえてそのまま、あくまでも「一つの御伽噺」を聞かせるような口調で語り続けた。

「うん、まぁ、そうなるよね。それで、お父様には既に奥方がいらっしゃったけど、お母様がお父様のことを好きになって、恋仲になっちゃったんだよね」
「え? え?」
「それで、ボクが生まれて、うーん、そうだねぇ、今のゴーバン様くらいまではお母様と一緒に暮らしてたんだけど、色々あって、ボクも、お母様も身を隠さなきゃいけなくなったんだ」

 さすがにカーラとしても、そこはあまり深く話す気にはなれない。そして当然、ゴーバンは混乱したままの様子であったが、そのまま彼女は話を続ける。

「で、それからずーーーーっと眠ってたボクのことを起こしてくれたのが、あるじ達なんだけどね。だから、ボクは君の、遠い遠い遠ぉぉぉい『叔母』にあたるんだ。ボクから見れば君は、お母さんが違う兄弟の子孫になる訳だからね。って、『お母さんが違う兄弟』の意味は分かるよね?」
「それは、アレだろ? 俺の父ちゃんとヴェラおばさんみたいな……」

 身近にそのような例がある以上、子供といえども、ゴーバンにもそのことは分かる。だが、彼の中で理解しきれていないのは、その前段階の話である。

「バッチリその状態。だから、それであの時、『おばさん』と言ったんだ。まぁ、ボクはそういう事情もあるし、半分剣だということもあって、普通の家族みたいな関係を持ったことがないんだ。だから、君達みたいな普通の家族関係を見て、いいなぁ、手助けしたいな、と思ってた」

 淡々とそう語るカーラに対し、ゴーバンは困惑した状態の中から、必死で内容を理解しようと頭を回転させる。繰り返すが、彼は座学が苦手であるが故に「無知」であるだけで、決して「愚劣」ではない。そしてまた、彼は自分が無知であることを自覚している。だからこそ、自分の知識の及ばない事象に対しても、比較的に素直に受け入れることが出来る。ましてや、昨日から、あまりにも色々なことが起こりすぎたこともあって、彼の中では、ここまで不思議な話を聞かされても、それを頭ごなしに否定する気にはなれなかった。

「じゃあ、つまり、俺の死んだ父ちゃんや爺ちゃんよりも、もっとずっと年上ってこと?」
「うん、だから『おばさん』なんだ。でも、『おばあちゃん』とは言わないでほしいな」

 実際のところ、この二人の関係を表す適切な言葉など、この世界に存在しない。そのような関係性の人物が同時代に存在する事例が他にあるとも思えない以上、それが一般名詞として存在する必要など、ある筈がなかった。

「そっか、なるほど、なるほど……、うん、よく分かった。俺、この世界のこと、全然分かってないわ。全然分かってないってことが、よく分かった」

 ある意味、それが一番の正解である。そして、その「真理」に辿り着いたゴーバンは、ここ数日の中で最も「すっきりした顔」を浮かべながら、語り続ける。

「まだまだ分かんないことがいっぱいあるんだったら、やっぱり、旅に出ることにして正解だな。色んなことを、よく分かんないことを、もうちょっと理解出来るようになるように、頑張るよ」

 そう言ったゴーバンの頭を、カーラは笑顔でワシャワシャと撫で始める。少し前までの彼女であれば決してこんなことは出来なかっただろうが、彼女の中でも何かが吹っ切れたらしい。その上で、彼女は少しだけ真剣な瞳でゴーバンを見つめながら、最後にこう告げる。

「『根本的に考え方が違う人』もいるってことは、分かっておいてほしいかな。ボクだって、お母様が慕わしいってことは分かるんだけど、あるじ様同士が敵対したら、お母様とも戦うことになるかもしれないし。今のあるじはレア様に忠誠を誓ってるから、そんなことにはならないと思うんだけど……」

 カーラとしては、聖印教会の思想(反投影体思想)に染まりすぎないように釘を刺そうとしているのだが、言いたいことが錯綜して、今ひとつ言葉としてまとまりきらない。だが、それでもゴーバンには概ねその想いは伝わった。

「分かった。とにかく、お前は悪い投影体じゃない。でも、悪い投影体もいる。その悪い投影体を、俺が倒せばいいんだろ? あと、悪い魔法師もいる。でも、チシャ姉ちゃんは悪い魔法師じゃない。ドギを乗っ取ってるのは悪い魔法師。そういうことだよな?」

 本当にそれでいいのかどうかは、誰にも分からない。ただ、少なくとも今のゴーバンにとって、それ以上の「正解」を導き出すことは不可能であった。

4.7. 聖女と魔女

 一方、少し離れたところでその様子を眺めていたクレアは、あえて彼等の話については半分聞き流しつつ、チシャに対して神妙な表情で話しかける。

「私は聖印教会の人間ですので、率直に言わせてもらえば、エーラムのことは嫌いです。しかし、パンドラの方がもっと嫌いです。そして、あなた方が言うところの『人々のために魔法を使う』という行為は好ましいとは思えませんが、それを理由にあなた方と争うつもりはないです。だから、あなた方がパンドラを倒すために必要であれば、また今後、パンドラに関する情報があれば、あなたにお伝えすることもあるでしょう」

 それが、聖印教会の中でも穏健派と言われる彼女の中での、最大限の譲歩である。彼女とチシャの間には、確かに「超えられない壁」はある。だが、逆に言えば、その壁を壊そうとしない限り、共生は無理でも、共存は可能な関係でもあった。そのことを踏まえた上で、クレアは更に語り続ける。

「この小大陸でも『聖印教会の教義に従う人々』と『そうでない人々』の争いはあるようですが、聖印教会の中にも色々な考えの人々がいます。中には皆さんと相容れない立場の人々もいますが、彼等にも彼等の正義がある、ということは分かってあげて下さい。その上で、出来れば、人と人の争いは避けたいです。彼等との争いを避けるために私に出来ることがあれば、協力させて頂きます」
「よろしくお願いします」

 チシャは短くそう答えた。今は、それ以上の言葉をかけられる関係ではない。だが、それ以上踏み込まなければ、互いに殺し合う必要もない。それが、異なる世界に住む聖女と魔女にとって、最低限守るべき「暗黙の了解」であった。

4.8. 故郷への帰還

 こうして、アキレスを出発したトオヤ達は、無事にその日の夕方にタイフォンに帰還する。村民達が熱烈に歓迎する中、カーラは兵士達に対して「ひとまず休暇だー」と言って、気前良く遊興費を渡して、村の酒場へと送り出す。
 そんな楽しそうな様子を目の当たりにしながら、ドルチェも、そろそろ兵士達の間での「部隊間格差」が問題になりそうなので、自分も何か彼等の尽力に報いるためのサービスが必要なのかな、と考え始めていた(彼女はこの時点でも「レア」の姿のままなので、「ドルチェ」としてカーラのように堂々と兵士達を労うことは出来ない)。
 一方、チシャは離れていた間の政務について、政務官のウォルターから話を聞く。村民達の間では特に大きな揉め事もなく、稀に起きる小さな混沌災害に対しても、領主代行を務めていたガフが迅速かつ的確に処理してくれたことで、大事に至ることは一度もなかったらしい。
 そして、そんなガフの待つ領主の執務室へとトオヤは向かった。

「ようこそお戻りになられた。これでようやく、私もお役御免ですな」

 ガフは満面の笑みを浮かべながら、あえていつもよりも丁寧な、というよりも、やや大仰な口調で、雇い主を出迎える。

「いや、もうしばらくは、この地に残ってもらいたい。また何かあったら、すぐに出なければならなくなるかもしれないからな。とはいえ、しばらくの間は兵士達共々、この地でゆっくりするつもりだ」
「分かりました。私もこの村が気に入りましたし、執政官殿ともそれなりに打ち解けてきたところですから、それで一向に構いません。ところで、最近、ちょくちょく見かける御母堂様が、どうも色々と思い詰めているようで、その点が少々気になるのですが……」
「思い詰めている?」
「しばらく前に、奇妙な風貌の『ヴァイオリンを持った男性』が現れまして。それ以来、何かを気に病んでいるようで……。そのことについてウォルター殿にお伺いしたところ、『そのことは絶対に口外するな』と言われたのですが、これは私は立ち入らない方が良い問題ですかな?」

 その男が誰なのかは、すぐに察しがつく。故に、トオヤは即答した。

「申し訳ないが、その件については、俺と母上の二人で話し合うつもりなので」
「分かりました。では、私はそれには関わりません」
「済まない」

 実際のところ、ガフもその点については深く立ち入るつもりはない。そして、トオヤの仲間達もまた、この問題はあくまでトオヤ個人の問題である以上、あえて関わろうとはしなかった。トオヤは、これまで隠され続けてきた「自分自身の正体」という謎に迫る機会が近付きつつあることを実感しつつ、改めて、その真実に向き合う覚悟を決めるのであった。

4.8. 母の懺悔

 トオヤの母・プリスは、騎士団長ケネスの長女である。彼女は夫レオンを亡くした後、領主の館の敷地内に設置された離れの小屋にて、一人静かに余生を過ごしていた。トオヤがそんな彼女の小屋の扉を叩くと、彼女は喪服姿で現れた。これが今の彼女の「正装」である。

「お帰りなさい、トオヤ。長城戦ではロジャーとも会いましたか?」
「はい。ロジャーも元気そうでした。そういう母上は、少し、やつれましたか?」

 それに対してプリスは微妙な表情を浮かべつつ、訥々と語り始める。

「先日、古い知人が訪ねてきました。旅先であなたに会った、と。 心当たりはありますね?」
「あの、オトヤという……」

 言いにくそうな表情でそう口にしたトオヤに対して、プリスは決意を込めて、17年間隠し通してきた「真実」語り始める。

「正直に言いましょう。あなたが生まれる前、そして私が我がレオン様と結ばれる前、私は彼と恋仲にありました。そして私は一度、本気で彼と一緒になろうと思って、この地を出奔したことがあるのです」

 トオヤが生まれる直前の時期まで、彼女と「旅の地球人」が恋仲にあったという噂は、トオヤも聞いたことがある。だが、出奔したという話は初耳であった。トオヤが平静を装いつつ話に聞き入っているのに対し、プリスはまず、最初に語るべきことを告げる。

「先に言っておきます。あなたは自分がレオン様の子ではないと思っていたことがあったようですが、それは違います。あなたは間違いなく、あの方の子です。でも、私の子ではないのです」

 衝撃的なその発言の意味をトオヤが理解する前に、彼女は話を本題に戻した。

「私は一度、出奔しました。あのオトヤという地球人と共に二人で幸せに暮らそうとしました。しかし、それは出来ませんでした。これが、あのオトヤという男性個人の流儀なのか、それとも地球という世界の流儀なのかは分かりませんが、彼は一人の女性に収まる人物ではなかった。彼は行く先々で様々な女性に声をかけ、そして私を口説いた時と全く同じ口調で、彼女達に対して愛を語り続けたのです。彼は『Ladyに出会ったら声をかけるのが、男としての最低限の礼儀だ』と言ってましたが、私にはそのような文化は受け入れられなかった。彼はそれでも私を繋ぎとめようとしましたが、私は途中で気付いたのです。私はこの人とは生きるべき世界が違うのだ、と」

 実際のところ、アトラタンの住民達の中にも、そのような価値観の男はいない訳ではない。だが、少なくともそれは普通の男女の倫理観とは異なっているし、ましてや清く正しくあることが求められる貴族家の令嬢であったプリスには、納得出来る筈もない。というよりも、そのような無節操な男がいるということ自体、彼女の価値観では信じられないことであった。

「そして、自分の愚かさに気付いた私は、彼と別れ、恥を忍んで故郷に戻ってきました。すると、そこには『私』がいたのです。私の身代わりに、私の影武者として、ドロップス家のプリスとして、レオン様と結ばれていた、一人の『私の姿に化けた邪紋使い』が」

 邪紋使いの中でも、姿を変える能力を持つ邪紋使いの存在は珍しく、一般的にはあまり知られていない。だが、今のトオヤならばすぐに理解出来る。今、彼の身近にいる、彼と最も親しい仲間にして恋人が、まさにその力を持つ邪紋使いなのだから。

「私が出奔する前から、私とレオン様の縁談はまとまっていました。しかし、当時の私はレオン様よりもオトヤの方に惹かれてしまっていたから、家を飛び出してしまった。お父様としては、さすがにそれでは世間体が悪いと思ったのでしょう。一人の邪紋使いを私の代役に仕立てていたのです。私は、戻っていいかどうか迷いつつも、他に行くアテもなかったため、やむなく城に密かに帰還したところで、その邪紋使いは私の姿を見るなり、生まれたばかりの赤子を抱いて、私に一言だけ告げて去って行きました。この子の名前は『トオヤ』です、と」

 その名が「オトヤ」と酷似していることが、彼女に対する当て付けだったのか、ただの偶然だったのか、何か別の意図があったのかは分からない。ただ、それ以来、その邪紋使いは姿を消し、二度とプリスやレオンの前に姿を現すことはなかったという。

「お父様が言うには、その邪紋使いは、昔からヴァレフール伯爵家において、様々な人物の影武者を務めてきた人物だそうです」

 もし、この場にドルチェがいたら、その人物の正体にすぐに気付いていただろう。だが、ここにいるのはトオヤとプリスだけであり、ドルチェはトオヤに対して、自分の師匠の話を告げたことは一度もない。少なくともこの瞬間において、そのことに勘付ける人物は誰もいなかった。

「そして、レオン様にもそのことは正直に告げました。その上で、あの方は受け入れてくれました。こんな愚かな出戻りの私を。だからこそ、そんなあの方のことを私は一生支え続けると、そう誓ったのです。残念ながら、私ではあの方を守ることは出来なかったのですけれど……」

 もっとも、戦場で夫を守るための力など、そもそもプリスは持ち合わせていなかった。彼女は貴族の娘ではあったが、聖印は受け取っていない。それは父ケネスの方針であった。彼女には君主としての才覚がないと判断したが故の措置であり、彼女もその評価に対して異論を挟むつもりはなかった。あくまでも、「嫁ぎ先の君主を支える良妻賢母となること」を目指して育てられた、そんな深窓の令嬢だったのである。結果的に言えば、そのような「世間知らずのお嬢様」だったからこそ、地球人という異質すぎる存在に対して、彼女は惹かれてしまったのかもしれない。

「あのオトヤという地球人は、何度も同じ姿でこの世界に現れては消え、また現れては消える、ということを繰り返していたようです。私が、若かった頃の容貌を失った今になっても、彼は再びあの姿で私の前に現れた。しかも腹が立つことに、年老いた今の私を見ても、私にはまだ変わらぬ美しさがあると、おそらくは心にもないようなことを平気で言ってのける」

 そう言いながら、愛憎入り混じった感情を露わにする母親に対して、トオヤはそろそろ口を挟んでも良いかと思い、おずおずと問いかける。

「色々と、言いたいこととか、聞きたいこととかありますが……、それで彼は今回、ここにやって来て、どうしたのですか?」
「彼は『旅先でトオヤに会った』と言った上で、彼はトオヤが『自分の子供』であると勘違いしているみたいだから、そこははっきりさせておいてやれ、と私に告げました。『言いにくいなら自分が話そうか?』とも言ってましたが、あの男に語らせるくらいなら、私が自分で話そうと決めたのです」

 逆に言えば、オトヤが何も現れなければ、プリスとしては話すつもりはなかった。自分の罪を隠したかったからではない。トオヤに、自分が「偽物(影武者)の子供」であるという負い目を感じてほしくなかったからである。家系的にはレオンもテイタニア男爵家の支流とはいえ、家格的には騎士団長家であるドロップス家の方が格上である以上、そのドロップスの血筋を引いていないことが明らかになれば、様々な点でトオヤにとって不利益になると彼女は考えていたのである(もっとも、どちらにしてもオトヤとは全く無関係の理由で、ケネスの方から断片的にその真実を聞かされることになっていたのであるが)。

「私が言いたいことは、ここまでです。レオン様はもともとこの地の領主でしたから、あなたがこの土地の領主になることには、血筋的な正統性はある。その上で、私のことを、一度縁談を破棄して出奔した愚かな女として処罰するなら、それでも構いません。私にはこれ以上、この世界でやり遂げたいこともない。これまでも罪の意識と葛藤しながら、もう十分すぎるほどの人生を生きてきました。残りの余生はせめて、レオン様のことを想いながら、レオン様の存在を忘れないために生きていようとは思いましたが、あなたがちゃんとレオン様の子だということを分かってくれるのであれば、私がそんな自己満足にこだわる必要はありません」

 母親がそう語り終えたところで、息子は静かに答えた。

「母上がおっしゃった『罪』というものは、父上がもう既に許したのでしょう? ならばそのことについて、改めて俺がとやかく言う必要はないでしょう。ただ、息子として一つお願い出来るのであれば、あなたの出来る範囲でいいから、もう少しだけ、俺のことを見届けて頂けませんか? せめて一年後の七男爵会議で、レア姫様が即位されるまで」
「あなたは、レア姫様を支えると決めたのですね?」
「えぇ」

 その返事にどこまでの意味が含まれているのかは分からない。ただ、少なくとも、それは紛れもない真実の言葉であった。

「分かりました。では、その上で、もし私に出来ることがあれば、何なりと言って下さい。所詮、私は『騎士団長家の娘』であるということ以外何の取り柄もない、ただの愚かな女ですが、もしそんな私でも、レオン様が愛したこの国を守るために出来ることがあるならば、それを探していきたいと思います」
「分かりました」
「あなたの御武運を、これから先も私は祈り続けています。領民達も、あなたの帰還を待っていました。救国の英雄となろうとしているあなたの噂話を聞いた彼等は、あなたのことを深く慕い、そして誇りに思っています。色々とお忙しいでしょうが、出来ればもうしばらく、この地にとどまっていて下さい」
「そうですね。あまり長く居られる保証はありませんが、しばらく父上の墓参りもしていませんので、当面はこの地で、領民の暮らしを見守りたいと思います」

 彼はそう答えると、丁重に一礼して、その場を後にした。今、この場で自分が真実を知ることに、どんな意味があったのかは分からない。ここに至るまで、様々な「知りたかった真実」や「知るつもりがなかった真実」に直面してきたが、その中には「知らなかった方が良かった真実」もあったのかもしれない。だが、それでも、彼はそれらの真実を受け入れた上で、ここまで仲間達と共に歩んできた。そしてこれから先も、彼等は多くの真実と向き合い、そして戦っていくことになるのだろう。
 虚飾と真実が入り乱れたまま、やがてこのブレトランドは新たな風雲急を告げることになる。それまでの間のしばしの貴重な休息を、トオヤ達はこのタイフォンの地で、静かに過ごすことになるのであった。

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最終更新:2017年11月27日 21:40