書評2


『現代哲学ラボ 第4号 永井均の無内包の現実性とは?』

本書は永井均の「無内包の現実性」という概念をテーマに、2016年9月23日早稲田大学で行われた永井均、入不二基義、森岡正博の三者による議論を電子書籍化したものである。

「無内包の現実性」には自我論と時間論という二つの論点があり、この二つは私の関心の対象でもあるので、それぞれを論じてみたい。
※なお本書はamazonのkindle版につき表示環境によってページ数が異なると思われるので、引用の際のページ表記は省略する

・〈私〉の存在論
永井は「現実の〈私〉が一人だけいる」という事実は「事象内容的な問題と無関係」と語る。たとえば自分の複製人間がいて、自分と同じ物理構造をしていて同じ意識現象があっても、〈私〉は端的に一人である。つまり物理構造や意識という事象内容と〈私〉は無関係だということである。このことから自分が「現実」の〈私〉であることは、事象内容に依拠しないという意味で「無内包の現実性」だと主張する。そして世界で唯一であるその無内包の現実性が、他の人々に理解され、自分も同様に無内包の現実性だと主張され続けられる累進構造が独我論の核心だとして次のように語っている。
ウィトゲンシュタインが「独我論は語りえない」と言ったのと、マクタガートが「時間は矛盾しているから実在しない」と言ったのは、実は同じことを言っている

私は独我論の語りえなさという点は否定しないし関心もない。私の最大の関心は〈私〉の存在論である。確かに自分の複製人間がいても〈私〉は端的に一人なので、〈私〉は事象内容に依拠しないという意味での「無内包の現実性」と言えるように思える。しかし逆に内包(クオリア)がなければ〈私〉は存在できないようにも思える。私が死んで意識が消滅しても〈私〉があると考えることは困難だからだ。では内包と無内包の現実性とは存在論的にどのような関係にあって〈私〉を成立させるのだろう。以下この問題を考究したい。

内包と無内包の現実性の関係――〈私〉の存在論を考究するには、面倒ではあるがどうしてもチャーマーズによる一次内包と二次内包、および哲学的ゾンビの議論についての理解が必要になるので、以下簡潔に解説しておく。

チャーマーズによれば一次内包とは直接経験であり、「痛み」を例にすれば「痛み」のクオリアである。二次内包とは物理学的知識であり、その痛みを感じているときにある脳の神経科学的状態である。この区分に加えて永井は『なぜ意識は実在しないのか』で〇次内包の概念を考案したが、これはクオリアの私秘性に焦点を当てたものであり、一次内包と〇次内包はともに「クオリア」として理解して差し支えない。

近年の急速な脳科学の発展によって人の行動や意識は全て脳に還元して説明可能だという物理主義が優勢になってきた。実際に脳の特定の部位が損傷すれば特定のクオリアが現れなくなる。しかし逆に特定のクオリアによって脳を損傷させることは不可能に思える。この脳とクオリアの非対称的な依存関係を「付随性」と呼ぶ。この付随性を前提に立てられた物理主義の仮説が「心脳同一説」である。脳とクオリアを別のものだとみなす「心身二元論」では付随性のために「心的因果」が説明できず、何のためにクオリアが存在しているかわからない。しかし心脳同一説では、脳とクオリアは同一状態として存在しているとみなすので、心的因果を認めることができる。――これらの問題によって現代では物理主義が心脳問題においては圧倒的に優勢であり、二元論者は絶滅危惧種であると言ってよい。

このような物理主義全盛の状況下において、チャーマーズは物理的性質が同一でありながら、クオリアが欠如した人物が思考可能であると主張した。これが「哲学的ゾンビ」である。これは物理主義の弱点を端的に指摘したものである。たとえば私に「痛み」のクオリアがあるとき、自分の脳の状態をfMRIなどで見たなら、物理主義では、痛みのクオリアと脳の状態は「同一」だとみなさなければならない。しかしこれは同じ時点に認識される異なる存在者が同一だと主張するもので、不合理に思える。哲学的ゾンビが「思考可能」である理由がここにある。ちなみにこのゾンビ論証はクリプキが『名指しと必然性』で行った議論をチャーマーズが飛躍させたものである。

以上のゾンビ論証に含まれている「付随性」「思考可能性」という概念が、内包(クオリア)と無内包の現実性の関係――〈私〉を考究する道具となる。

私は自分の本質をデカルトのコギトだと思っている。一切を疑っても「疑っている何か」は否定できない。それは一種の意識現象=クオリアである。では、永井が「〈私〉とは無内包の現実性だ」と言う場合の〈私〉や無内包の現実性とは、クオリアとは別の「何か」だろうかという疑問が当然生じる。

森岡は私と同じ自我論の持ち主ではないが、自分を指して「この存在が、生きられている存在である」と言うことで現実性が語り得るとし、自分の死後はその存在を指せないとして、
「無内包の現実性」というものは、〔……〕「生きられていること」の手のひらには出ないんじゃないの

と端的に疑問を呈している。森岡の言葉には説得力がある。実際に私が死んで肉体が消滅すればクオリアも消えるだろう。クオリアがないのに無内包の現実性としての〈私〉があると考えるのは困難である。つまり無内包の現実性はクオリアに「付随」していて、クオリアがあることは無内包の現実性があること、すなわち〈私〉があることの十分条件であるように思える。

クオリアと無内包の現実性には付随関係があり、それが〈私〉を成立させているのは明らかだが、問題はその付随性の強弱である。チャーマーズは付随性というものを「論理的」と「自然的」に分けている。論理的な付随性とは脳とクオリアの数的な同一性を示すものであり、自然的な付随性とは双方の非同一性を示すものである。そして哲学的ゾンビが思考可能な理由を、脳とクオリアの付随関係が自然的なものだからだとした。

永井は自分の身体や意識がそのままでありながら〈私〉が他人となり得ること――つまり「世界の開闢点」が変わり得るという思考実験をよく行っている。そして『存在と時間 哲学探究』では自分が安倍晋三と入れ替わる想定をし、次のように述べている。
「私は他のあらゆる精神ではなくて、この精神に宿っている理由を見出せないのだ」と表現されるべきなのである。(『存在と時間 哲学探究』pp.37-38)

永井の主張は要するに〈私〉と精神(クオリア)は異なるものであるということであり、すなわち無内包の現実性とクオリアとの付随関係は「論理的」ではなく「自然的」なものだということである。また永井の問題を「デカルトの枠内」と指摘した中島義道に対し、自分の問題は「カントの枠内」にあると反論し、
心と物のあいだの問題ではなく、カント用語を使って言うなら物自体と現象のあいだの問題(前掲書 pp.41-42)

と述べている。つまり物自体が無内包の現実性である〈私〉との類比であり、現象がクオリアだということである。しかしこの種の永井の思考実験と論証は不十分であると私は考える。

〈私〉とクオリアが別のものであると主張するためには、永井均である〈私〉が身体もクオリアもそのままでありながら他人に移動することが思考可能だというだけではなく、身体もクオリアもそのままでありながら、永井均は〈私〉でなく、かつ他の誰の〈私〉でもない、ということが思考可能でなければならない。つまり永井均は身体もクオリアもそのままでありながら、誰の無内包の現実性でもない、ということが思考可能でなければならない。無内包の現実性のみを失った人物は、哲学的ゾンビになぞらえて「現実性ゾンビ」と言ってよい。

チャーマーズが「クオリアとは物理的な脳のことではない」と主張するためには哲学的ゾンビが思考可能でなければならなかったように、永井が「無内包の現実性である〈私〉とはクオリアのことではない」と主張するためには現実性ゾンビが思考可能でなければならないのである。

現実性ゾンビは思考できるだろうか? いや、そもそも〈私〉とは世界の開闢点であり、他の人々は〈私〉としての世界内部に位置づけられているにすぎないから、「他の〈私〉」というのは意味不明だという批判もあり得る。これは「一般的な独我論」であり、他我の不可知性という伝統的な哲学的難問でもある。しかし永井の場合はこの種の懐疑論には批判的で、他者に意識・クオリアがあることは自明な前提としているので、「他の〈私〉」も仮定しなければならないはずである。

現実性ゾンビは思考不可能であるように思える。「魂のない人」という通俗的な発想をすることはできるが、具体的には思考不可能である。「痛み」が実在するならば、それは必ず誰かの「現実の」痛みでなければならないし、それは一つの「世界」の開闢点である。魂の欠けた痛みなどと言っても詩にしかならない。ここには哲学的ゾンビを思考可能ならしめた物理状態とクオリアとの「認識のギャップ」のようなものがない。

あるいは「過去の痛みには現実性がない」と考える人がいるかもしれない。しかし現在主義に基づいて言うと過去とは完全に「ない」ものであるから、そもそも「痛み」自体が存在せず、存在するのは「痛みの記憶」でしかない。逆に永久主義に基づいて言うと、過去の痛みは四次元時空の特定のポジションに「現実に」存在しているのだから、そこには「事象内容に依拠しない」という意味での無内包の現実性が歴然として「ある」わけである。

「誰の痛みでもない痛み」など思考不可能である。すなわち現実性ゾンビは思考不可能である。したがってクオリアと無内包の現実性には、脳とクオリアの関係以上の強い付随性が成り立っている。それは形而上学的に必然的な付随性だとみなすことができるし、論理的付随性までも示されていると私は思う。

しかし私は決して「無内包の現実性や〈私〉はクオリアに還元できる」と主張しているのではない。ここは重要な点である。永井が言うように、自分と同じ物理構造をしていて同じ意識現象(クオリア)があっても、〈私〉は端的に一人である。ならば〈私〉はクオリアに還元して考えることはできない。

しかし前述したとおり、クオリアがなければ〈私〉は存在することができないのである。したがって次のような相反する二つの原理が成立することになる。
〈私〉の原理1: 〈私〉は事象内容・クオリアには依存しないという無内包性
〈私〉の原理2: 特定のクオリアがなければ〈私〉はないという内包依存性

原理1と原理2は一見対立しているように思える。これは一体どういうことだろう?

結論するならば、次のように考えてはいけなかったのである。
誤謬1: クオリアがあり、「加えて」無内包の現実性がある
誤謬2: 無内包の現実性があり、「加えて」クオリアがある

つまりクオリアというのは確かに存在するのだけれど、「単なるクオリア」など存在しないのである。逆に言うと「単なる無内包の現実性」も存在しない。クオリアと無内包の現実性は同じ対象――〈私〉の二つの性質と言ってよい。

たとえば私に「痛み」があるとする(正確に言うなら「痛みがある」ということが即ち「私がある」ということである)。この場合、事象内容が何であるかを問題とするなら、それは「痛み」のクオリアである。そして他者との相違を問題とするならば、それは事象内容的に語りえないという意味での、無内包の現実性である。つまりクオリアと無内包の現実性は存在論的に「同一の対象」である〈私〉なのであり、それらは論点の相違によって語り分けられ、呼び分けられているということなのである。

クオリアとは「単なるクオリア」ではなく、無内包の現実性は「単なる無内包の現実性」ではない。それらは比類のない全一的な存在である〈私〉から切り分けられた二つの性質なのである。

以上が内包と無内包の現実性の関係の内実であり、〈私〉のありかたである。

細かい話になるが、永井は『私・今・そして神――開闢の哲学』で、〈私〉を成立させる原理として「カント原理」や「ライプニッツ原理」を想定しているが、いずれも〈私〉とクオリアとの関係を明確にしてはいない。クオリアと無内包の現実性を統合させて〈私〉とみなす私の考えは、「デカルト原理」と言えるかもしれない。

ところで世界には夥しい人がいて、夥しいクオリアがあるように思える。しかしそう考えると不思議なことになる。〈私〉とは全く比類するものがない唯一の存在であるはずだ。ところが世界に多数いる人がそれぞれ比類のない〈私〉だと主張することになる。比類のないものが多数存在するというのは「並ぶものがないものが並んで存在する」と言うに等しい語義矛盾である。これは単に多元宇宙とか言って終わる問題ではない。この矛盾の困難こそが永井の独我論――独在論の核心問題なのである。

・時間の矛盾
永井はマクタガートのA系列を、A事実(現在が端的に現実である)と、A変化(現在が過去になる)とに分けている。そしてA事実・A変化・B変化によって時間を理解している。これは「無内包の現実性である〈私〉」を時間論に敷衍して、「無内包の現実性である〈今〉」の動性を時間変化の本質とみなすものである。

入不二は時間変化の本質を、表象可能な変化ではないと見ており、表象されえない無内包の「絶対的に潜在的な時間変化」とし、「時間の動性はA系列からも逃れる」と語っている。また「現実性は現前性ではない」とし、次のようにも語っている。
「現実の」というのは「現在・過去・未来」にいわば遍在的に・非中心的にかかっている

この入不二の説明は難解であり、そのままで理解できる人は少ないだろう。これには解説が必要である。

マクタガートは時間特有の変化に晒されるものを、「物」ではなく「出来事」と考えた。物は、たとえばある時点では「青いつぼみ」だったものが、別の時点では「赤い花」に変化するように思える。しかし客観的に記述するなら「時点1では青いつぼみがある」「時点2では赤い花がある」となるだけであり、ここには「変化」がないように思える。しかし出来事は元から変化・発生・消滅といった概念を含んでいる。したがって「青いつぼみが赤い花になる」ということを出来事Eとするならば、客観的に記述しても「時点1では出来事Eは現在である」「時点2では出来事Eは過去である」と、出来事Eは過去・現在・未来という時制変化に晒されるということになる。これがマクタガートが時間特有の変化は「物」ではなく「出来事」と考えた理由である。

入不二は『時間と絶対と相対と』でこのマクタガートの考えを批判し、出来事についての時間変化からもまた、同一不変の「高階の出来事」を切り出すことができるとしている。たとえば出来事Eも、「出来事Eが時点1で現在であること」と考えれば高階の出来事が取り出せる。その高階の出来事自体は変化しない。するとマクタガートは「物」と「出来事」を区別したつもりでも、実際は出来事もまた物と同様に客観的には「時点1では高階の出来事E1がある」「時点2では高階の出来事E2がある」となるだけであり、変化を客観的に記述できないということになる。

そこで入不二が考えたのが、その「高階の出来事」にまで及ぶ時間変化である。もちろん「高階の出来事」には「その上の高階の出来事」が想定されるし、また「更にその上の高階の出来事」が想定される。したがって入不二は次のように述べる。
通常、困難や欠点として指摘されることの多い、この無限後退(の可能性)は、むしろ時間変化の「高階性」を示唆していると見なすべきである。
〔……〕
時間変化の「高階性」は、時間変化の「汎浸透性」でもある。時間変化に晒されることから、逸れる固定的なものなどない。(『時間と絶対と相対と』pp.106-107)

以上の説明によって、
「現実の」というのは「現在・過去・未来」にいわば遍在的に・非中心的にかかっている

という前述の入不二の言葉が示唆するものが、漠然とではあるが理解できると思う。要するに入不二は現在・過去・未来の全ての「物」と「(高階性を持つ)出来事」に時間変化が浸透しなければならないと考えているわけである。また入不二は永井が主張する無内包の現実性について、〈私〉や〈今〉という中心性が残っているため無内包性が不十分だと論じているのだが、その理由もここにあって、時間変化の「汎浸透性」を自我論にまで敷衍しようという目論見が感じられる。

しかしこの私が死んだとしたら「無内包の現実性としての〈私〉」も消えることは明らかだが、「無内包の現実性としての〈今〉」があり続けることは思考可能である。〈私〉と〈今〉は異なるものである。〈私〉とは本質的に時間軸において絶対的な「中心」を持たざるを得ないものであり、相対化できないものである。それを「非中心的」に理解することは困難である。入不二の主張する無内包の現実性は、時間論としてはともかく自我論としては未完成であるという印象を受けた。

私はマクタガート、永井、入不二、それぞれの時間論には異論がない。彼らが時間の本質と考えたものはみな或る意味で正しいと思う。それらは「何によって時間を考えるか」という観点の相違によって語り分けられているのだと私は考える。出来事に到来する変化という観点から考えるならマクタガートのA系列は正しい。そして無内包の現実性という観点から考えるなら、マクタガートのA変化にA事実を組み合わせた永井の時間論も正しい。そして時間変化の高階性という観点から考えるなら絶対的に潜在的な時間変化という入不二の時間論も正しい。

そして、それら時間論はいずれも立派に矛盾している。

そもそも「変化」とは、「同一でありながら異なるものである」という矛盾概念である。「AがBになる」という場合、この「なる」とはAとBが異なるものでありながら同一だとするものであって、矛盾である。時間の根本にはこの矛盾がある。

時間というものをどのような観点から語ろうとしても、「変化」「なる」を抜きにして語ることはできない。したがって時間はどのように考えても矛盾であり、逆に言うと矛盾しているからこそ時間なのである。時間は本質的に矛盾しているのだから、そもそも「正しい時間論」というものがない。人にできるのは自分が問題意識を持つ観点から、どの時間の矛盾について語るかということのみなのだと私は考える。


最終更新:2017年02月06日 19:18