永井均

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#contents ---- 永井 均(ながい ひとし、1951年11月10日 - )は、日本の哲学者。日本大学教授。自我論・倫理学などを専門分野とする。歴史上のあらゆる哲学は「なぜ私は私なのか、なぜ私は他の誰かではないのか?」というアポリアに答えを与えられず、その意味で哲学は始まってすらいないと言い、「独在性」という概念によって、独自の[[独我論]]を展開する。独在性の問題は[[意識の超難問]]の一種といえる。永井の独我論は[[ウィトゲンシュタイン]]に大きな影響を受けている。 永井の主張は大きく分けると二つあり、ひとつは「なぜ私は他の誰かではないのか?」という問いが擬似問題ではなく真性の問題であるということ。もうひとつはその「私」の本質は決して他人に理解されてはいけないということである。 **独在性 独在性とは永井均の自我論・独我論において用いられる用語。〈私〉という術語を用い、自分の「ただ独り在る性質」というような意味で用いられる。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。これを永井自身は[[ウィトゲンシュタイン]]の「自我(主体)」の概念と同じであると解釈し、「眼が視野に属さぬように、主体は世界に属さない」というウィトゲンシュタインの言葉が援用される。またカントの「統覚」の概念が類比として用いられ、経験の主体を世界の中に位置づけるのは間違いで、主体は世界を成立させる作用そのものだから、〈私〉は世界の中の一対象として現れることはできない、という。この考えは、主体が客体を認識するという伝統的な認識論の構図とは異なり、客体――世界そのものを成立させるのが〈私〉であるとみなすものであり、世界と〈私〉は不可分の関係にある。それゆえ「私は私の世界である」というウィトゲンシュタインの独我論と近似する。 永井は独我論を二つに分ける。ひとつは「認識論的独我論」であり、これはある一つの心にとって、その外部にあるものの存在は認識できないとする一般論であり、普遍化できる独我論である。もうひとつが「存在論的独我論」であり、これは世界に何十億といる人間の中で、なぜ永井均が「この〈私〉」なのかという普遍化できない偶然性の問題である。 なお、永井の独在性概念は初期の頃から微妙にニュアンスを変えていることを注意する必要がある。1996年出版の『〈子供〉のための哲学』では、「徳川家康が〈ぼく〉であったり、ポチが〈ぼく〉であったり……することもできたはずなのに、永井均が〈ぼく〉であった」(p.64)と、自身の「生誕」が独在性の問題であるかのように述べられている。しかし2001年出版の『転校生とブラックジャック』では、[[人格の同一性]]問題において、デレク・パーフィット思考実験――自分の複製体が作られた場合、どちらが〈私〉になるかという問題については、「今の〈私〉には関係ない(中略)未来には――過去もだけど――独在性原理は働かないからね。それぞれ現在の〈私〉の統覚原理だけが働いて作られているというべきだな」(p.110)と、時制を限定した表現になっている。そして2004年出版の『私・今・そして神 開闢の哲学』では、「開闢」というそれ以上遡行不可能な「奇跡」があるとし、あとから他のものとの対比が持ち込まれて〈私〉とか〈今〉とか〈現実〉という概念になるという。つまり他人との対比が持ち込まれれば〈私〉であり、過去や未来との対比が持ち込まれれば〈今〉ということである。〈 〉で囲んだほうが存在することが世界の開闢そのものであるが、しかし対比が持ち込まれた後では、「他人」――「私」というように、もともと存在していた〈 〉内のものが共通項の一つとされる。すなわち開闢それ自体が、それによって成立したはずのものの内部に位置づけられるという倒錯が行われる、という(pp.40-42)。ここでは「開闢」なるもの(おそらくカントの「統覚」)が、他者と絶対的に排他的なものとして位置づけられている。 **累進構造 永井は〈私〉の語りえなさを「累進構造」によって説明する。世界には沢山の人がいて、それぞれが自分だけが「私」だと思っているが、何かを見たり痛みを感じたりする本当の自分は〈私〉だけである。〈私〉とは唯一無二の、比類の無い存在なのである。しかしその〈私〉とは魂を意味するものでない。自分に魂があるだけでは自分が〈私〉であることにならない。皆も魂を持ってると想定しうるからである。〈私〉であることはそれを越えた〈奇跡〉である。しかしその奇跡も皆が持っていると主張したら、さらに差別化が必要で、結局無限にその繰り返しである。これが「累進構造」であり、この問題を永井は[[ウィトゲンシュタイン]]を援用し、「他人は私がほんとうに言わんとすることを理解できてはならない、というのが本質なのだ」という。〈私〉の本質とは唯一無二の比類のないものなのだから、言葉で表現できてはならない。つまり真の独我論(存在論的独我論)、そして〈私〉は普遍化されてはいけないと考える。決して普遍化できない、「語れない」ものが〈私〉の本質なのだ。〈私〉を普遍化し、言葉で表現しえたものは〈私〉の本質である唯一無二性を喪失したものである。言い換えれば、本質を喪失した形でしか〈私〉の問題は語れないのだ。 **脱人格的自我 脱人格的自我とは、永井均が独在性の議論で〈私〉の概念と対比させて使う用語。「魂」と似た概念である。例えば、ある人が今度生まれる際はどの国に生まれたいかと考えるとき、その人は現在の自分の肉体や精神・人格を離れた、生まれ変わりの主体となる「自分」を想定していることになる。このように肉体や記憶を離れて存在することが想定しうる自我が、脱人格的自我である。 脱人格的自我は世界の中に位置づけられているがゆえに〈私〉の概念とは異なっている。永井の〈私〉は開闢された世界そのものなのである。 **非還元主義 「自己」、または[[人格の同一性]]の問題について、永井は非還元主義の立場をとる。これは人格を、それ自体として存在するものでなく「他の要素の集合」とする[[デイヴィッド・ヒューム]]やデレク・パーフィットとは対極の立場である。永井は端的に私であるという事実は、私が持っている個々の心理的事実とは何の関係もなしに成立しているとし、私であるためには心理的継続性を超える説明不可能な事実が必要であるという。またそのことから、〈私〉が「隣の席の人」であったことが可能であると考え、そしてまた「隣の席の人」に「なる」ことが不可能なことに、〈私〉の存在性格に関する最も本質的な問題があると考える。(『転校生とブラックジャック』p.4,p.72) 思考実験として、宇宙のどこかに地球と同じ星(双子地球)があり、地球の人物Aと物理的性質が同じ人間、人物A2がいるとする。その人物A2が人物Aと同じように物事を考えることが出来たとしても、即ち精神的性質が同一だったとしても、やはり人物A2は「人物Aにとっては〈自分〉ではない」ということは明白である。このように物理的性質や精神的性質を超えて人物Aを〈自分〉たらしてめているものが永井のいう〈私〉であり、彼はそれを「奇跡」とみなす。(『〈子供〉のための哲学』pp.78-79)なお、この場合に「その人物A2にとっても人物Aは〈自分〉ではない」ということが出来るが、これは永井にとっては「脱人格的自我」に関しての議論である。また永井は、肉体も記憶もそのままでありながら自分が〈私〉でなくなる可能性もありうると考える。(『〈子供〉のための哲学』pp.49-53、『私・今・そして神』pp.64-65) 永井は還元主義者の代表である[[デイヴィッド・ヒューム]]について、自分内部を観察しても個別的な心理現象しかない、ようするに「自分」はないとするもので、これは水中で水を探したり、空中で空気を探すに等しいと批判する。そしてカント、フィフィテなどのドイツ観念論やフッサールなどの現象学もこんなやり方で「自我」が存在するかを考えているという。(『〈子供〉のための哲学』p.48) **機能主義的な思想 転んで膝を擦り剥いて泣いているる子供がいたとする。その時子供が膝に感じている感覚を定義によって『痛み』と呼ぶ。痛み以外の感覚を感じている可能性は0.001パーセントもなく、『痛み』という言葉の意味の源泉はそこにしかない。これは色彩にかんしても同様であり、トマトや血のような色を他の色から区別・識別して『赤』と呼ぶ。それが各人にどう見えてるかはもともと考慮に入れられていない。『赤』が『青』く見えてる人など存在しえない。「たとえ『赤』が『青』く見えていても……」という仮定じたい成り立たないと永井は述べる。言語とは公的なものである為に、クオリアの主観性は語りえない。言語は公的なものであるため、語った瞬間にクオリアの本質である主観性が失われるという立場である(『翔太と猫のインサイトの夏休み』pp.79-80)。これは、心的現象はその機能によって定義されるとする[[機能主義]]の立場である。 **永井均に対する批判と疑問 (以下は当サイト管理者の見解) 1、永井のいう〈私〉は、デレク・パーフィットがいう[[自己]]についての「非還元主義」の一種である。非還元主義では、[[人格の同一性]]は単に心理的連続性や物理的連続性だけでなく、それら以外の根本的な「何か」により成り立っていると考える。しかし、永井はその「何か」が同一性のための必要条件であることを論証できていないと私は考える。永井の主張する独在性問題の核心部分はウィトゲンシュタインと共通のものであるが、そのウィトゲンシュタインの独我論は還元主義的な見方によって否定することも可能なのである(詳細は[[ウィトゲンシュタイン独我論の派生問題>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/75.html#id_13477f70]]を参照のこと)。 またパーフィットは思考実験として、人間を火星に転送する装置によって自分の複製体が火星に生まれてしまうことを想定する。永井によればその時どちらが〈私〉であるかは「まったくの偶然」によって決まると考える。(『転校生とブラックジャック』p.111)パーフィットはさまざまなスペクトラムの思考実験によって、ヒュームと同様に自我や人格の概念を解体し、人格とはヒュームが仮定したような知覚の束など、他の要素によって成り立っているものであるとする。このパーフィットの還元主義の立場をとるならば、自分の複製体がいくつ生じても「どれが本物の私か」と問うのは「空虚」な問いであり、問題そのものが存在しないということになる。しかし永井の立場をとるならば、合理的な解答が困難になる。特にパーフィットが行った混合スペクトラムの思考実験(自分の脳細胞を他者の脳細胞と少しづつ置き換えていく)や、脳分割の思考実験(自分の左右の脳が二人の人物の頭蓋に移植され二人の人物になる)に対しては、永井の立場では解答は不可能であるよう思われる。(最も、パーフィットの還元主義的な立場を取ったとしても新たな問題が派生する。詳しくは[[人格の同一性の派生問題>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/128.html#id_2ac94681]]を参照のこと) 2、永井は『なぜ意識は実在しないのか』で[[デイヴィッド・チャーマーズ]]を批判的に検証している。まず[[逆転クオリア]]の思考実験については、クオリアを通常の実在物と見立てて相互に比較できるかのように扱うナンセンスであるとし、クオリアの逆転はありえないという(p.87)。しかしこの批判は的を得ていない。これはチャーマーズがクオリアの存在論的な位置付けについて語っているのに対し、永井がクオリアを意味論的に位置付けて機能主義的な立場から批判を行うというズレが原因である。また[[哲学的ゾンビ]]が論理的にあり得ると主張するチャーマーズに対して、公的に共有される言語は私秘性(現象的意識)が失われているとする立場から、「あなたの言わんとすることは言えない」と批判する(p.103)。しかしこの批判も的を得ない。そもそも[[逆転クオリア]]や[[哲学的ゾンビ]]は機能的な意味では「語りえない」ことは既に前提されており、チャーマーズがいわんとしていることは「語りえないけど想像できる」ということであり、だからこそ哲学的ゾンビの思考実験は「想像可能性論法」といわれるのである。現に私は他者に現象的意識があると想像できるし、それならば同時にその現象的意識が私と違っているかもしれないと想像できるのである。したがってもしチャーマーズを批判するならば、「語りえない」というのでなく、「想像できない」と言わなければならないし、想像できないことを論証しなければならない。また永井はチャーマーズについて、「この世界のふつうの他人たちには意識があると信じて疑わないのは不思議というほかはありません」(p.80)というが、これは認識論的独我論を前提した指摘である。そもそもチャーマーズの[[自然主義的二元論]]は、自然科学と相克せずにクオリアの問題を物理学の理論に包含させて、物理学を拡張させることが目的である。つまり他者に意識があるという仮定は、素朴心理学や素朴実在論・科学的実在論を前提とした議論の条件なのであり、永井の批判は的を得ていない。心やクオリアの問題は論点先取的な仮定をしなければ語れないものであり、実は永井自身もその[[実在論]]的な仮定によって問題提起を行っているのである。(後述) 3、世界に何十億とさまざまにいる人間の中で、なぜ永井均が〈私〉なのかという問題提起があるが、これは前述のように実在論を前提にしているよう思える。A、B、Cと三人の人物がいれば、AにはA-mind、BにはB-mind、CにはC-mindというように三つの精神があるというのが素朴実在論的な見方である。言い換えれば「一人の肉体には一つの精神が宿っている」という見方である。だが、そもそも心の哲学の最大の難問は、物理主義的に、時空に還元できる「肉体」と、時空に還元できない「精神」とがどう作用し合っているかというものだった。永井はその異なる性質の両者を、「一人の肉体には一つの精神」という独我論的でない仮説を前提に〈私〉の存在を「奇跡」と捉えて、考察を進めているよう思える。独我論の立場からは、上に述べた精神A-mindは、人物Aが「所有している」とは言えないはずであり、人物Aが〈私〉であるとも言えないはずである。言えるのは〈私〉が精神A-mindであった場合、人物Aは精神A-mindに「対応しているように見える」ということだけだ。しかも三人の人物と三つの精神の対応関係は「一対一」であるとも言えないはずである。すなわち永井の独在性の哲学は、「肉体に精神が宿る」「肉体と精神の対応関係は一対一である」という二つの素朴実在論的な前提があるように思う。永井は思考実験として一つの肉体に二つの精神が宿るケースなどを想定しているが、それも上記の素朴実在論的前提の上に行われたものである。実際、永井は『〈子ども〉のための哲学』で以下のように述べている。 >ふつう、独我論というのは反実在論の極端な形態であると考えられている。認識論的独我論は、自分と自分に現れるもの以外の存在を否定するのだから、たしかに反実在論的だ。でも、ぼくが問題にしてきたような存在論的独我論は、むしろ実在論的なのではあるまいか。(p.125) 同書で永井は、自分は「認識論的独我論」に関心は無いと述べているが、その認識論的独我論の重大な問題を無視して実在論を前提にするのは論点先取に近い飛躍であると私は考える。ほんとうに「認識論的独我論」的に考えるならば、「自分の肉体」や「自分の脳」は、「他人」と同様に意識に現れる表象に過ぎないはずである。すなわち、「自分の肉体」は端的に「他者」なのである。もし実在論が間違っているとしたら、存在論的独我論は擬似問題であるかもしれないのだ。 4、永井は「現在」の概念との類比で「私」の唯一性を論じている(『なぜ意識は実在しないのか』p.30-32)。永井によると、「現在」という概念には二つある。一つは、現に今ある「本当の現在」であり、もう一つは、たとえば十六世紀の人が「今現在」と思った時の現在である。それぞれの時点で「唯一の現在」があるが、しかし「本当の現在」は「この今」という一点だけだという。そして「他者」に対する「私」の在り方――唯一性、本物性もそれと類似しているという。つまり多くの人が自分は唯一の「私」だと思っているが、「本当の私」はこの「私」だけだということである。 私は、そのような永井の問題の立て方は擬似問題であると考える。永井のいうような、十六世紀の人にとっての「今現在」は既に過去であり、すなわち[[実在]]でないことが、現に今ある「本当の現在」の唯一性と本物性の前提とされている。これは実在性が否定できない「他者」との類比、つまり「私」の唯一性と本物性の類比にはなりえない。十六世紀の人にとっての「今現在」は、正確には「過去」というべきである。すなわち、十六世紀には確かに「現在」というものがあったのだが、二一世紀には無くなっている。問題の本質はある時点では「在る」ものが次の時点では「無い」ものになっているということであり、これは[[パルメニデス]]が主張した「変化」というものの矛盾であり、哲学の歴史上いまだ解決されないアポリアである。つまり永井は本来「過去」というべきものを、「ある時点での現在」と言い換えることにより、「現在」と言う言葉の意味を分割し、パルメニデスが提起した問題の本質をスライドさせているだけである。 5、永井の独在性の主張には矛盾があるように思える。前述したように『私・今・そして神 開闢の哲学』では、「開闢」というそれ以上遡行不可能な「奇跡」があるとし、あとから他のものとの対比が持ち込まれて〈私〉とか〈今〉とか〈現実〉という概念になるという(「開闢」という語は永井の著書にしばしば見られる)。その「開闢」概念は一見、[[大森荘蔵>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/106.html]]の「立ち現われ」概念と類似であるように思われる。しかし大森が過去というものをカントの「物自体」と類比的に捉えて「過去自体」とし、過去とは立ち現われの一分類に過ぎないと考えたのに対し、永井は過去自体が存在したことを認めているように思える。事実大森が『時は流れず』で、時間の実在性を否定したマクタガートと自分の時間論を「同根のもの」としたのに対し、永井は『私・今・そして神 開闢の哲学』で、マクタガートの時間論を否定している。加えて永井は『転校生とブラックジャック』(p.194)で、「記憶」には時間を隔てた自己同一性を作り出す特権的な能力があると述べ、パーフィットの「擬似記憶」の思考実験と、パーフィットが人間の性格を「堆積のパラドックス」における「堆積」と同様のものとみなしたことを批判する。また『西田幾多郎』でも、一時期の西田が今日の自分と過去の自分の関係を、自分と他者との関係の類比とみなしたことを批判し、以下のように述べている。(p.16より引用) >昨日の意識と今日の意識が一つの意識でありうるのは、今日の意識が昨日の意識に記憶という紐帯によって確実に届いているからである。昨日の私はもういないので、ここには対抗馬がいないのだ。対抗馬がいないゆえの確実性である。対して、自分の意識を他者に意識に確実に届かせる紐帯は存在しない。ここには他者自身という強力な対抗馬がいるからだ。対抗馬がいるゆえの不確実性である。 これは「記憶」というものを証拠に、昨日の自分と今日の自分との同一性を主張するもので、明らかに「開闢」の概念と矛盾している。記憶というものをほんとうに開闢的に捉えるなら、大森荘蔵が「過去は想起という様式で経験される」といったように、現在経験の一様式とみなさなければならないはずである。 私は、永井のこの矛盾は彼の宗教観の現われではないかと考える。永井に独特の宗教観があることを示す証左がいくつかある。2012年8月18日に大阪中之島にある朝日カルチャーセンターで永井と[[入不二基義>http://wiki.livedoor.jp/irifuji/]]の講義と対談が行われ、私も受講した。そして講義終了後、受講者の一人から永井に対し、『私・今・そして神 開闢の哲学』で、「神を信じている」と書いたことの真意について質問があった。(以下p.70より該当の部分を引用 >(私は神を信じているにもかかわらず宗教というものに対する不審の念はとことん深い) 永井の解答は曖昧な感じ(私の心証)で、はっきり肯定も否定もしなかった。ただその本で書いた「神」とは、どの宗教の定義とも違う神だという説明だった。 また、『〈私〉の存在の比類なさ』では以下のような記述がある。(以下p.47より引用) >「魂」は、その本質規定を維持するためには〈魂〉であるほかはなく、それは〈私〉と一致せざるをえないのである。 永井はキリスト教的な魂の存在には否定的であるが、上の一文を換言すると、「魂」というものの本質は〈私〉である、ということになる。 [[ジョン・サール]]の見解では、「[[自己]]とは何か」という問題に関して、現代の哲学者の多くは[[デイヴィッド・ヒューム]]に同意し、個別的なクオリアと、それに対応した個別的な脳の作用に加えて、さらに「自己」なるものが必要であるとは考えていないという。つまり昨日の人物Aが「青い海」を見ていて、今日の人物Aが「赤い夕陽」を見ている場合、それらは異なったクオリアでありながらも、同一の「私」の経験だとみなされているのはなぜかというような問題は、現代の心の哲学では優先順位の高いトピックとなっていない。それはむしろ心理学的な問題とみなされ、心の哲学の分野では[[ジョン・サール]]や[[デイヴィッド・チャーマーズ]]などが、「自己」については何らかの原理が必要かもしれないとは認めてはいるものの、積極的には考究されていない。これは心の哲学というものが[[自然主義>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]を前提とし、[[実証主義的>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E8%A8%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]な姿勢で考究されているからであり、考究の対象はあくまで個別の脳作用と、それと因果関係をもつ個別のクオリアや現象的意識に限られるからである。結果として「私」なる主体を問題としないという立場は、[[無主体論]]や、[[人格の同一性]]問題における「還元主義」に接近している。 永井が「魂の本質と同一」であるという〈私〉なるものを措定し、〈私〉への記憶の現わが、昨日の私と今日の私を時間を隔てながらも同一の存在とみなせる根拠とするのは、多くの哲学者が立脚している自然主義と実証主義の立場からは導かれない論理の飛躍である。これは永井の宗教観の反映と思わざるを得ない。実証主義的には、昨日の人物Aが「青い海」を見ていて、今日の人物Aが「赤い夕陽」を見た後、「昨日は青い海を見た」と想起する時、そこにあるといえるのは「昨日は青い海を見た」という現象的意識と、それに対応した脳の作用だけである。信仰のようなものがなければ、上述の同一性についての論理の飛躍は出来ないのだ。 ---- ・参考文献 永井均『〈魂〉に対する態度』勁草書房 1991年 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書 1995年 永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫 2007年 永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年 永井均『〈私〉の存在の比類なさ』勁草書房 1998年 永井均『転校生とブラック・ジャック――独在性をめぐるセミナー』岩波書店 2001年 永井均『私・今・そして神――開闢の哲学』講談社現代新書 2004年 永井均『西田幾多郎――「絶対無」とは何か』NHK出版 2006年 永井均『なぜ意識は実在しないのか』岩波書店 2007年 ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年 ・参考サイト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%9D%87 ----
#contents ---- 永井 均(ながい ひとし、1951年11月10日 - )は、日本の哲学者。日本大学教授。自我論・倫理学などを専門分野とする。歴史上のあらゆる哲学は「なぜ私は私なのか、なぜ私は他の誰かではないのか?」というアポリアに答えを与えられず、その意味で哲学は始まってすらいないと言い、「独在性」という概念によって、独自の[[独我論]]を展開する。独在性の問題は[[意識の超難問]]の一種といえる。永井の独我論は[[ウィトゲンシュタイン]]に大きな影響を受けている。 永井の主張は大きく分けると二つあり、ひとつは「なぜ私は他の誰かではないのか?」という問いが擬似問題ではなく真性の問題であるということ。もうひとつはその「私」の本質は決して他人に理解されてはいけないということである。 **独在性 独在性とは永井均の自我論・独我論において用いられる用語。〈私〉という術語を用い、自分の「ただ独り在る性質」というような意味で用いられる。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。これを永井自身は[[ウィトゲンシュタイン]]の「自我(主体)」の概念と同じであると解釈し、「眼が視野に属さぬように、主体は世界に属さない」というウィトゲンシュタインの言葉が援用される。またカントの「統覚」の概念が類比として用いられ、経験の主体を世界の中に位置づけるのは間違いで、主体は世界を成立させる作用そのものだから、〈私〉は世界の中の一対象として現れることはできない、という。この考えは、主体が客体を認識するという伝統的な認識論の構図とは異なり、客体――世界そのものを成立させるのが〈私〉であるとみなすものであり、世界と〈私〉は不可分の関係にある。それゆえ「私は私の世界である」というウィトゲンシュタインの独我論と近似する。 永井は独我論を二つに分ける。ひとつは「認識論的独我論」であり、これはある一つの心にとって、その外部にあるものの存在は認識できないとする一般論であり、普遍化できる独我論である。もうひとつが「存在論的独我論」であり、これは世界に何十億といる人間の中で、なぜ永井均が「この〈私〉」なのかという普遍化できない偶然性の問題である。 なお、永井の独在性概念は初期の頃から微妙にニュアンスを変えていることを注意する必要がある。1996年出版の『〈子供〉のための哲学』では、「徳川家康が〈ぼく〉であったり、ポチが〈ぼく〉であったり……することもできたはずなのに、永井均が〈ぼく〉であった」(p.64)と、自身の「生誕」が独在性の問題であるかのように述べられている。しかし2001年出版の『転校生とブラックジャック』では、[[人格の同一性]]問題において、デレク・パーフィット思考実験――自分の複製体が作られた場合、どちらが〈私〉になるかという問題については、「今の〈私〉には関係ない(中略)未来には――過去もだけど――独在性原理は働かないからね。それぞれ現在の〈私〉の統覚原理だけが働いて作られているというべきだな」(p.110)と、時制を限定した表現になっている。そして2004年出版の『私・今・そして神 開闢の哲学』では、「開闢」というそれ以上遡行不可能な「奇跡」があるとし、あとから他のものとの対比が持ち込まれて〈私〉とか〈今〉とか〈現実〉という概念になるという。つまり他人との対比が持ち込まれれば〈私〉であり、過去や未来との対比が持ち込まれれば〈今〉ということである。〈 〉で囲んだほうが存在することが世界の開闢そのものであるが、しかし対比が持ち込まれた後では、「他人」――「私」というように、もともと存在していた〈 〉内のものが共通項の一つとされる。すなわち開闢それ自体が、それによって成立したはずのものの内部に位置づけられるという倒錯が行われる、という(pp.40-42)。ここでは「開闢」なるもの(おそらくカントの「統覚」)が、他者と絶対的に排他的なものとして位置づけられている。 **累進構造 永井は〈私〉の語りえなさを「累進構造」によって説明する。世界には沢山の人がいて、それぞれが自分だけが「私」だと思っているが、何かを見たり痛みを感じたりする本当の自分は〈私〉だけである。〈私〉とは唯一無二の、比類の無い存在なのである。しかしその〈私〉とは魂を意味するものでない。自分に魂があるだけでは自分が〈私〉であることにならない。皆も魂を持ってると想定しうるからである。〈私〉であることはそれを越えた〈奇跡〉である。しかしその奇跡も皆が持っていると主張したら、さらに差別化が必要で、結局無限にその繰り返しである。これが「累進構造」であり、この問題を永井は[[ウィトゲンシュタイン]]を援用し、「他人は私がほんとうに言わんとすることを理解できてはならない、というのが本質なのだ」という。〈私〉の本質とは唯一無二の比類のないものなのだから、言葉で表現できてはならない。つまり真の独我論(存在論的独我論)、そして〈私〉は普遍化されてはいけないと考える。決して普遍化できない、「語れない」ものが〈私〉の本質なのだ。〈私〉を普遍化し、言葉で表現しえたものは〈私〉の本質である唯一無二性を喪失したものである。言い換えれば、本質を喪失した形でしか〈私〉の問題は語れないのだ。 **脱人格的自我 脱人格的自我とは、永井均が独在性の議論で〈私〉の概念と対比させて使う用語。「魂」と似た概念である。例えば、ある人が今度生まれる際はどの国に生まれたいかと考えるとき、その人は現在の自分の肉体や精神・人格を離れた、生まれ変わりの主体となる「自分」を想定していることになる。このように肉体や記憶を離れて存在することが想定しうる自我が、脱人格的自我である。 脱人格的自我は世界の中に位置づけられているがゆえに〈私〉の概念とは異なっている。永井の〈私〉は開闢された世界そのものなのである。 **非還元主義 「自己」、または[[人格の同一性]]の問題について、永井は非還元主義の立場をとる。これは人格を、それ自体として存在するものでなく「他の要素の集合」とする[[デイヴィッド・ヒューム]]やデレク・パーフィットとは対極の立場である。永井は端的に私であるという事実は、私が持っている個々の心理的事実とは何の関係もなしに成立しているとし、私であるためには心理的継続性を超える説明不可能な事実が必要であるという。またそのことから、〈私〉が「隣の席の人」であったことが可能であると考え、そしてまた「隣の席の人」に「なる」ことが不可能なことに、〈私〉の存在性格に関する最も本質的な問題があると考える。(『転校生とブラックジャック』p.4,p.72) 思考実験として、宇宙のどこかに地球と同じ星(双子地球)があり、地球の人物Aと物理的性質が同じ人間、人物A2がいるとする。その人物A2が人物Aと同じように物事を考えることが出来たとしても、即ち精神的性質が同一だったとしても、やはり人物A2は「人物Aにとっては〈自分〉ではない」ということは明白である。このように物理的性質や精神的性質を超えて人物Aを〈自分〉たらしてめているものが永井のいう〈私〉であり、彼はそれを「奇跡」とみなす。(『〈子供〉のための哲学』pp.78-79)なお、この場合に「その人物A2にとっても人物Aは〈自分〉ではない」ということが出来るが、これは永井にとっては「脱人格的自我」に関しての議論である。また永井は、肉体も記憶もそのままでありながら自分が〈私〉でなくなる可能性もありうると考える。(『〈子供〉のための哲学』pp.49-53、『私・今・そして神』pp.64-65) 永井は還元主義者の代表である[[デイヴィッド・ヒューム]]について、自分内部を観察しても個別的な心理現象しかない、ようするに「自分」はないとするもので、これは水中で水を探したり、空中で空気を探すに等しいと批判する。そしてカント、フィフィテなどのドイツ観念論やフッサールなどの現象学もこんなやり方で「自我」が存在するかを考えているという。(『〈子供〉のための哲学』p.48) **永井均に対する批判と疑問 (以下は当サイト管理者の見解) 1、永井のいう〈私〉は、デレク・パーフィットがいう[[自己]]についての「非還元主義」の一種である。非還元主義では、[[人格の同一性]]は単に心理的連続性や物理的連続性だけでなく、それら以外の根本的な「何か」により成り立っていると考える。しかし、永井はその「何か」が同一性のための必要条件であることを論証できていない。またパーフィットは思考実験として、人間を火星に転送する装置によって自分の複製体が火星に生まれてしまうことを想定する。永井によればその時どちらが〈私〉であるかは「まったくの偶然」によって決まると考える(『転校生とブラックジャック』p.111)。パーフィットはさまざまなスペクトラムの思考実験によって、ヒュームと同様に自我や人格の概念を解体し、人格とはヒュームが仮定したような知覚の束など、他の要素によって成り立っているものであるとする。このパーフィットの還元主義の立場をとるならば、自分の複製体がいくつ生じても「どれが本物の私か」と問うのは「空虚」な問いであり、問題そのものが存在しないということになる。しかし永井の立場をとるならば、合理的な解答が困難になる。特にパーフィットが行った混合スペクトラムの思考実験(自分の脳細胞を他者の脳細胞と少しづつ置き換えていく)や、脳分割の思考実験(自分の左右の脳が二人の人物の頭蓋に移植され二人の人物になる)に対しては、永井の立場では解答は不可能であるよう思われる。 2、永井は『なぜ意識は実在しないのか』で[[デイヴィッド・チャーマーズ]]を批判的に検証し、「この世界のふつうの他人たちには意識があると信じて疑わないのは不思議というほかはありません」(p.80)というが、これは認識論的独我論を前提した指摘である。そもそもチャーマーズの[[自然主義的二元論]]は、自然科学と相克せずにクオリアの問題を物理学の理論に包含させて、物理学を拡張させることが目的である。つまり他者に意識があるという仮定は、素朴心理学や素朴実在論・科学的実在論を前提とした議論の前提なのであり、永井の批判は的を得ていない。心やクオリアの問題は論点先取的な仮定をしなければ語れないものであり、実は永井自身もその[[実在論]]的な仮定によって問題提起を行っているのである。(後述) 3、世界に何十億とさまざまにいる人間の中で、なぜ永井均が〈私〉なのかという「独在性」の問題提起があるが、これは前述のように実在論を前提にしている。A、B、Cと三人の人物がいれば、AにはA-mind、BにはB-mind、CにはC-mindというように三つの精神があるというのが素朴実在論的な見方である。言い換えれば「一人の肉体には一つの精神が宿っている」という見方である。だが、そもそも心の哲学の最大の難問は、物理主義的に、時空に還元できる「肉体」と、時空に還元できない「精神」とがどう作用し合っているかというものだった。永井はその異なる性質の両者を、「一人の肉体には一つの精神」という独我論的でない仮説を前提に〈私〉の存在を「奇跡」と捉えて、考察を進めているよう思える。独我論の立場からは、上に述べた精神A-mindは、人物Aが「所有している」とは言えないはずであり、人物Aが〈私〉であるとも言えないはずである。言えるのは〈私〉が精神A-mindであった場合、人物Aは精神A-mindに「対応しているように見える」ということだけだ。しかも三人の人物と三つの精神の対応関係は「一対一」であるとも言えないはずである。すなわち永井の独在性の哲学は、「肉体に精神が宿る」「肉体と精神の対応関係は一対一である」という二つの素朴実在論的な前提があるように思う。永井は思考実験として一つの肉体に二つの精神が宿るケースなどを想定しているが、それも上記の素朴実在論的前提の上に行われたものである。実際、永井は『〈子ども〉のための哲学』で以下のように述べている。 >ふつう、独我論というのは反実在論の極端な形態であると考えられている。認識論的独我論は、自分と自分に現れるもの以外の存在を否定するのだから、たしかに反実在論的だ。でも、ぼくが問題にしてきたような存在論的独我論は、むしろ実在論的なのではあるまいか。(p.125) 同書で永井は、自分は「認識論的独我論」に関心は無いと述べているが、その認識論的独我論の重大な問題を無視して実在論を前提にするのは論点先取に近い飛躍であると私は考える。ほんとうに「認識論的独我論」的に考えるならば、「自分の肉体」や「自分の脳」は、「他人」と同様に意識に現れる表象に過ぎないはずである。すなわち、「自分の肉体」は端的に「他者」なのである。もし実在論が間違っているとしたら、存在論的独我論は擬似問題であるかもしれないのだ。 4、永井は「現在」の概念との類比で「私」の唯一性を論じている(『なぜ意識は実在しないのか』p.30-32)。永井によると、「現在」という概念には二つある。一つは、現に今ある「本当の現在」であり、もう一つは、たとえば十六世紀の人が「今現在」と思った時の現在である。それぞれの時点で「唯一の現在」があるが、しかし「本当の現在」は「この今」という一点だけだという。そして「他者」に対する「私」の在り方――唯一性、本物性もそれと類似しているという。つまり多くの人が自分は唯一の「私」だと思っているが、「本当の私」はこの「私」だけだということである。 私は、そのような永井の問題の立て方は擬似問題であると考える。永井のいうような、十六世紀の人にとっての「今現在」は既に過去であり、すなわち[[実在]]でないことが、現に今ある「本当の現在」の唯一性と本物性の前提とされている。これは実在性が否定できない「他者」との類比、つまり「私」の唯一性と本物性の類比にはなりえない。十六世紀の人にとっての「今現在」は、正確には「過去」というべきである。すなわち、十六世紀には確かに「現在」というものがあったのだが、二一世紀には無くなっている。問題の本質はある時点では「在る」ものが次の時点では「無い」ものになっているということであり、これは[[パルメニデス]]が主張した「変化」というものの矛盾であり、哲学の歴史上いまだ解決されないアポリアである。つまり永井は本来「過去」というべきものを、「ある時点での現在」と言い換えることにより、「現在」と言う言葉の意味を分割し、パルメニデスが提起した問題の本質をスライドさせているだけである。 5、永井の独在性の主張には矛盾があるように思える。前述したように『私・今・そして神 開闢の哲学』では、「開闢」というそれ以上遡行不可能な「奇跡」があるとし、あとから他のものとの対比が持ち込まれて〈私〉とか〈今〉とか〈現実〉という概念になるという。その「開闢」概念は一見、[[大森荘蔵>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/106.html]]の「立ち現われ」概念と類似であるように思われる。しかし大森が過去というものをカントの「物自体」と類比的に捉えて「過去自体」とし、過去とは立ち現われの一分類に過ぎないと考えたのに対し、永井は過去自体が存在したことを認めているように思える。事実大森が『時は流れず』で、時間の実在性を否定したマクタガートと自分の時間論を「同根のもの」としたのに対し、永井は『私・今・そして神 開闢の哲学』で、マクタガートの時間論を否定している。加えて永井は『転校生とブラックジャック』(p.194)で、「記憶」には時間を隔てた自己同一性を作り出す特権的な能力があると述べ、パーフィットの「擬似記憶」の思考実験と、パーフィットが人間の性格を「堆積のパラドックス」における「堆積」と同様のものとみなしたことを批判する。また『西田幾多郎』でも、一時期の西田が今日の自分と過去の自分の関係を、自分と他者との関係の類比とみなしたことを批判し、以下のように述べている。(p.16より引用) >昨日の意識と今日の意識が一つの意識でありうるのは、今日の意識が昨日の意識に記憶という紐帯によって確実に届いているからである。昨日の私はもういないので、ここには対抗馬がいないのだ。対抗馬がいないゆえの確実性である。対して、自分の意識を他者に意識に確実に届かせる紐帯は存在しない。ここには他者自身という強力な対抗馬がいるからだ。対抗馬がいるゆえの不確実性である。 これは「記憶」というものを証拠に、昨日の自分と今日の自分との同一性を主張するもので、明らかに「開闢」の概念と矛盾している。記憶というものをほんとうに開闢的に捉えるなら、大森荘蔵が「過去は想起という様式で経験される」といったように、現在経験の一様式とみなし、「過去自体」と峻別しなければならないはずである。 私は、永井のこの矛盾は彼の宗教観の現われではないかと考える。永井に独特の宗教観があることを示す証左がいくつかある。2012年8月18日に大阪中之島にある朝日カルチャーセンターで永井と[[入不二基義>http://wiki.livedoor.jp/irifuji/]]の講義と対談が行われ、私も受講した。そして講義終了後、受講者の一人から永井に対し、『私・今・そして神 開闢の哲学』で、「神を信じている」と書いたことの真意について質問があった。(以下p.70より該当の部分を引用 >(私は神を信じているにもかかわらず宗教というものに対する不審の念はとことん深い) 永井の解答は曖昧な感じ(私の心証)で、はっきり肯定も否定もしなかった。ただその本で書いた「神」とは、どの宗教の定義とも違う神だという説明だった。 また、『〈私〉の存在の比類なさ』では以下のような記述がある。(以下p.47より引用) >「魂」は、その本質規定を維持するためには〈魂〉であるほかはなく、それは〈私〉と一致せざるをえないのである。 永井はキリスト教的な魂の存在には否定的であるが、上の一文を換言すると、「魂」というものの本質は〈私〉である、ということになる。 [[ジョン・サール]]の見解では、「[[自己]]とは何か」という問題に関して、現代の哲学者の多くは[[デイヴィッド・ヒューム]]に同意し、個別的なクオリアと、それに対応した個別的な脳の作用に加えて、さらに「自己」なるものが必要であるとは考えていないという。つまり昨日の人物Aが「青い海」を見ていて、今日の人物Aが「赤い夕陽」を見ている場合、それらは異なったクオリアでありながらも、同一の「私」の経験だとみなされているのはなぜかというような問題は、現代の心の哲学では優先順位の高いトピックとなっていない。それはむしろ心理学的な問題とみなされ、心の哲学の分野では[[ジョン・サール]]や[[デイヴィッド・チャーマーズ]]などが、「自己」については何らかの原理が必要かもしれないとは認めてはいるものの、積極的には考究されていない。これは心の哲学というものが[[自然主義>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]を前提とし、[[実証主義的>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E8%A8%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]な姿勢で考究されているからであり、考究の対象はあくまで個別の脳作用と、それと因果関係をもつ個別のクオリアや現象的意識に限られるからである。結果として「私」なる主体を問題としないという立場は、[[無主体論]]や、[[人格の同一性]]問題における「還元主義」に接近している。 永井が「魂の本質と同一」であるという〈私〉なるものを措定し、〈私〉への記憶の現わが、昨日の私と今日の私を時間を隔てながらも同一の存在とみなせる根拠とするのは、多くの哲学者が立脚している自然主義と実証主義の立場からは導かれない論理の飛躍である。これは永井の宗教観の反映と思わざるを得ない。実証主義的には、昨日の人物Aが「青い海」を見ていて、今日の人物Aが「赤い夕陽」を見た後、「昨日は青い海を見た」と想起する時、そこにあるといえるのは「昨日は青い海を見た」という現象的意識と、それに対応した脳の作用だけである。信仰のようなものがなければ、上述の同一性についての論理の飛躍は出来ないのだ。 ---- ・参考文献 永井均『〈魂〉に対する態度』勁草書房 1991年 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書 1995年 永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫 2007年 永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年 永井均『〈私〉の存在の比類なさ』勁草書房 1998年 永井均『転校生とブラック・ジャック――独在性をめぐるセミナー』岩波書店 2001年 永井均『私・今・そして神――開闢の哲学』講談社現代新書 2004年 永井均『西田幾多郎――「絶対無」とは何か』NHK出版 2006年 永井均『なぜ意識は実在しないのか』岩波書店 2007年 ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年 ・参考サイト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%9D%87 ----

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