587 :VIP番長:2006/11/23(木) 17:16:59.91 ID:IfoqpWnc0
「っちゃ……急に降り出しやがって……」
 僕は、冬の初め、突然夕方に降り始めた冷たい雨の中を走っていた。
 テストの成績が思いのほか悪く、職員室に呼び出されて長い事説教されてこのザマだ。
「おっ……あそこで雨宿りさせてもらおう……」
 立派なお屋敷の門の下に入る。別にこの程度なら文句は言われないだろう。金持ちは寛容であれ。
「……ううっ」
 しかし、随分と濡れてしまった。背筋にぞくぞくと悪寒が走る。
「風邪ひいちゃうよ……」
「あら……?」 
「え?」
 突然僕の目の前に現れたのは、クラスでも美人で有名な女さんだった。顔立ちも、おかっぱのような黒い髪も。全てが神様の緻密な作業によって作り上げられた芸術品のように美しい。
「男くんじゃありませんか、どうしましたこんな所で?」
「お、女さん!? い、いや、僕はただ、ここで雨宿りさせてもらってて……」
「……そうですか」
 女さんはそこで、顎に少し手を当てるようにして何かを考えるようにする。
 ……どんな仕草も絵になる人だ。
「では、中でお茶でもいかがですか?」
「え? え、中って……」
「ここは、私の家ですから」
「ええ!?」
 この広さどころか時代も錯誤したこの武家屋敷が!?
「驚かれましたか? 私も時代錯誤だとは思うんですけれど……こういうのも、割と風情があっていいものですよ?」
「あ、ああいや。どんなことは思ってないけど、それよりも、いいの? 僕なんか」
「あなたじゃなければ、ダメなんです」
 女さんは、眼を細めて、まるでモナリザのアルカイックスマイルの様に笑ってみせる。
「……それじゃ、遠慮なく……」
「はい」


588 :VIP番長:2006/11/23(木) 17:18:08.94 ID:IfoqpWnc0
「ただいま帰りました」
「お邪魔します……」
 女さんが、まるで江戸時代から直輸入しましたとでも言わんばかりの唐傘を閉じ、傘立てに入れる。
「はいはい、お帰りなさいませ」
 そして廊下の奥から、割烹着を着た少女……少女? が、とてとてと走りながらやってくる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ええ、ただいま。それと、挨拶もいいのだけれど、私とこの方の分のお茶を用意してくださるかしら?」
「え?」
 どうやら使用人のようなものらしい、そのやけに小さな女の子は、その言葉でやっと僕の存在に気づいたようで。
「――――」
 絶句、した。
 え? なんで? 俺何かした?
「は……はい。今すぐ用意いたします」
「後…………で、よろしくね」
 女さんが、何かを耳打ちする。
 それに、少女はびくっと震えたようにしたが、か細い声で「わかりました」と呟いた。
「それじゃ、こっちにどうぞ」
「あ、ああ」
 その妙な様子を少しいぶかしみはしたものの、ただそれだけで、僕は女さんの後をついていく。
「ねえ、あの子は……使用人みたいな人なの? 偉く小さいけど……」
「……そうね、そんなようなものよ」
「ふーん……」
 そこで、また、『ぞくっ』と悪寒がする。
 雨で冷えたせいでは、無い。


589 :VIP番長:2006/11/23(木) 17:18:57.75 ID:IfoqpWnc0
 女さんの、細められた眼が、こちらを向いていた。
「気になります?」
「……い、いや、ただ、偉く小さかったから。ただそれだけ」
「そうですか」
 ふっ、と、肩が軽くなった気がした。
 女さんもにっこりと笑う。
「……」
 武家屋敷のお嬢様ともなると、触れずして相手の動きを封じる術も学んでいるのかもしれなかった。
 しかし何故使用人さんのことを聞いただけで、にらまれなければいけないんだ……?

「ここです」
「……すげー……」
 まるで高級旅館だ。いや、きっとここは旅館なんかとは比べ物にならないほど凄い場所なのだと実感する。
 敷き詰められた畳、飾られた鎧に刀。高そうな壷、そして極めつけは、障子によって四角く区切られ――まるで絵画のような額縁に入れられた絵のように見える。庭だった。
「ここは、客間なんですよ」
「へえ……」
 感嘆の声しかでない。
「あ、あの。お茶をお持ちしました」
 襖を開けて、使用人の少女が入ってきた。
 お盆に置かれたお茶を、机の上に置く。
「……ごゆっくりどうぞ。男様……」
 え、なんで僕の名前を……と聞くまえに、使用人さんは出て行ってしまった。
「さあ、お茶をどうぞ? 冷えていらっしゃるでしょう?」
「あ、うん……」
 湯のみを手にとり、一口。
「おいしい……」
 きっと、一般市民は気楽に飲む事なんて到底出来ないような、高級なお茶なのだろう。
「そうですか、良かったです」
 女さんも、上品に湯のみに口をつける。


590 :VIP皇帝:2006/11/23(木) 17:19:43.80 ID:IfoqpWnc0
 そして数分、無言で茶を飲んでいたのだが、女さんが不思議そうに口を開いた。
「あの……。なんとも、ありませんか?」
「え? なにが?」
「……いえ」
 女さんの眼が、すっと細まる。――また、あの眼だ。
「私、ちょっと部屋に取りに行くものがありますから。少しだけここで待っていてくださいますか?」
「あ、ああ。うん」
「それでは」
 女さんは、二つの空になった湯のみを乗せたお盆を持って、足音も立てずに廊下に出て行った。
「……う」
 今度は尿意で、ぶるっと震える。こんな時にでも体は正直だ。
「ト、トイレ……どこだろ。女さんまだいるかな……」
 いや、厠とでも言うべきなのだろうか。まあどうでもいいけど。
「いないな……」
 少しだけ探検気分で、廊下を歩いてみる。
 すると……。
「ぁぅっ……ぁっつ……ぎぁっ……!」
 そんな、うめき声、いや苦痛に歪んだ声が、耳に届く。
「……!?」
 どうやら、台所らしき場所かららしい。少し隙間の開いた扉から、覗いてみる。
「……っ」

「この……愚図! 男さんの湯のみには薬を入れるよう、言ったでしょう!?」
「も……申し訳……げっ……ありません……!」
 女さんが、横たわる使用人の少女の体を、踏みつけにしていた。
「せっかくめぐってきたチャンス。あなたは台無しにするつもりかしら? 偶然から生じたたった一度しかありえないような奇跡を無にするつもりかしら?
この生ゴミにも劣るカスが! まだ生ごみのほうが肥料になるだけ使用価値がある! 聖書にあるわよね? 塵は塵に灰は灰にって、あなたも塵にしちゃおうかしら?」
 ドス、ドス、ドスと。まるで容赦なく少女を踏みつける。人ではない、物を扱うかのように、踏みつける。


591 :VIP番長:2006/11/23(木) 17:20:42.32 ID:IfoqpWnc0
「……っ……っ」
 少女が、声を出さなくなる。踏まれるたびにびくびく震える体だけが、生きていることを告げていた。
「……ふん、そこで頭を冷やしてなさい」
 唾棄するかのように吐き捨て。女さんは湯のみを手にとる。
「男さんの、においがする……」
 そうして、僕が口をつけた箇所を、べろりと舐めまわした。
「ん……」
 そうして満足したのか。女さんは何故か勝手口から外に出て行ってしまった。
「………………」
 見てはいけないものを見た。今まで生きていた人生でこの言葉がもっとも似合うシチュエーションだった。
 今のが、女さんの本性だったのか? それに、チャンスって。
「後ろの正面だーぁれ?」
 突然、いた。
「!?」
 後ろから、肩を掴まれる。
「お、女さん……」
「あんまり見られたくないとこ、見られちゃいましたね。…でも、私の気持ち、わかってもらえたかしら」
「き、気持ち……?」
「あなたのことが、好きです」
「……」
 今のを見た後では、素直に喜ぶことなど出来ない。
「今まで、ずっと我慢してきたんですよ? 学校ではあまり話すこともできなくて……家も遠くて……私、奥手だったから……」
 でも――と、女さんが続ける。
「今日、あなたが私の家の前にいた時に、何かがね? ぷつんって、切れたの。私は思ったわ。これは神様がくれたチャンス。ここで男くんを物にしなければ後は無いって」
 肩に置かれた手が、段々と上に上がってくる。
「ね……? どうかしら? 私達、とっても素敵な夫婦に、なれると思うの」
 首にまで手がかかったところで、止まり。ぐっと、力が込められる。
「ぐっ……げあっ……!」
 どんな力してんだ……!?
「頷いて、くださいよ?」


592 :VIP番長:2006/11/23(木) 17:22:20.77 ID:IfoqpWnc0
「逃げてぇっ!!」
 衝撃。
「っ!」
 使用人の少女が、女さんに体当たりを仕掛けたのだった。
「げほっ……げほっ……」
 僕は咳き込みながらも立ち上がり、二人の方を見る。
「くっ……離しなさい!」
「お、男様、早く、お逃げくださいっ!」
 なんだ、どういうことなんだ? 混乱する。ぼ、僕は、彼女を見捨てて逃げていいのか?
「早くっ! はや――」
 少女の言葉は、そこで途切れた。いや、途切れさせられた。
 胸に刺さった短刀によって。女さんに刺された短刀によって……。
「出来の悪い使用人ね。また連れてこなくちゃ……」
 少女の体を蹴り飛ばし、女さんが立ち上がる。
「…………男くん、どうかしましたか?」
 まるで、会ったときと変わらない笑み。
「……うわ……」
「床の用意もしてあるんですよ? ねえ、早く来てくださいよ。私とあなたの――いえ、全てあなたの物なんですから。私を自由にしてくくださっても構いませんのよ?
蹴っても殴っても切り刻んでくださっても、何でも受け止めて差し上げますから」
 ぶつぶつ、ぶつぶつと、呟きながら。近づいてくる。
「う……うあ……うわああああああああああっ!」
 僕は、絶叫して逃げ出した。
「男くん、男くん男くん男くん……」
 女さんが、追ってくる。まるで足音がしないのい、なんて速い……!
「……っ!」
 急いで靴を履き、外にでる。土砂降りになっていたが知ったものか。暗い闇の中をとにかく走る!
「はっ……はっ……はっ……」
 かなりのスピードで走っているのに、女さんの呟きはまるで耳から離れない。土砂降りの音をすり抜けて、近づいてくる――!
「うわああああっ!」

593 :VIP番長:2006/11/23(木) 17:23:22.23 ID:IfoqpWnc0
 がむしゃらで、滅茶苦茶だった。僕はただ怖くて、目を瞑って走っていた。
 そこで――。
「男さんっ……危ないっ!」
 女さんの、初めて、焦ったような声を聞いた。
「え?」
 目の前に、トラック?」

 ……信号は、赤。
「あ……あはは……」
 ゆっくり流れる時間の中で、僕は信号無視の交通事故なんていう、つまらない死に方をするのかと理解して……。目を、閉じた。
 ガンッ!!
 鈍い音がする。
「……?」
 だけど、いつまでも、死がやってこない。それとも、僕はもう死んでいるのか?
 ゆっくりと目を開いて――僕は信じられない物を見た。
「お……とこ……さん。無事……ですか?」
 トラックに轢かれ、ぐちゃぐちゃになった、女さんの体……だった。
「え……」
 女さんが、僕を、庇った、のか?
「よかった……まにあっ……て……あは……あはは……」
「きゅ、救急車を……!」
 トラックは既に消えていた。逃げたのだろう。……だけど、追うよりも先に救急車を……!」
 119番の番号を押し、場所を伝える。とにかく早くこいと急かす。
「……男さんが、無事で……よかったあ……」
「お、女さん……!」
 確かに、彼女は人を殺した。……だけど、自分を庇ってくれた人に、何も感じないわけがない。
「また……会いに、行きますね?」
595 :VIP番長:2006/11/23(木) 17:24:50.58 ID:IfoqpWnc0
「女さんっ!」
「――――」
 もう、彼女は何も言わなかった。
 ただ、雨の音だけが、ざーざーと響いていた。


 数日後、女さんと使用人の少女の葬儀が行われた。
 少女は女さんに殺されたのだが、女さんも直後に事故で死んだのだから、誰も罪に問われることは無かった。
 トラックの件などで、いろいろと警察に質問されたけど、ただそれだけだ。

「………………はあ」
 部屋の中で、うずくまる。
「僕が、あそこで逃げなければ……」
 好奇心で動かなければ。

 誰も、死なずに済んだのに――。

「…………?」
 何か、聞こえた気がした。
 か細い声の、童謡。
「かごめかごめ……?」
 その歌は、段々近づいているように思う。
 そして――
「後ろの正面、だーぁれ?」

 僕は、また彼女と出会う。

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最終更新:2006年11月23日 17:24