後ろ傷



題名:後ろ傷
作者:東 直己
発行:双葉社 2006.10.25 初版
価格:\1,700

 この本を読んだ行きつけの呑み屋のマスターとカウンター越しに話したのは、とにかくいろいろなところからネタを引っ張ってきたね、というものだった。

「東君の小説は」とマスターは口癖のように言う。「ネタがないと終わりなんだわ。警察も、宗教団体も、若い子の猟奇殺人も書いちゃったんで、次もう書くことがないんだわ」

 札幌だけにこだわって書くということには、事件やネタに枯渇する懸念がつきまとうということが言いたいらしい。他の作家のように、東京でも海外でもどこにでもネタを探しにゆくことができればいいのに。札幌のススキノ界隈にばかりネタを求めたって大事件なんてひとところにいくつも起きやしないよ、ということが言いたいのである。

 そこに持ってきて本書は、ひさびさにネタの宝庫である。しかしマスターに言わせれば、ネタの大きさではなく、ネタの多様性である。まず大学の不祥事は、浅井学園の補助金不正取得および横領事件から。道警への告発はいつものように挨拶のようにのっけからだし、やくざのオレオレ詐欺紛いの怪しげな葉書も時勢というものだろうか。今もつれにもつれているサハリン・プロジェクトの話題もあれば、ロシアン・マフィアの話題まで。

 しかし、本書は、以上のつれづれの話題はさておいて、団塊の世代に向けての作者の挑戦状とも取れる批判精神が満載なのである。本書のテーマはほとんどこれなんじゃないかと思えるくらい。主人公のハーフボイルド青年よりもむしろ、ススキノ便利屋の口を通して60年代安保の虚構と、その後の拝金主義に対する告発をやらかしている印象が強いのだ。

 私は、ススキノ便利屋とも作者とも同じような世代である。私が一歳下……ということは、お……、花村萬月氏と同い年かな、東氏は……。ともかくだからこそわかる三無主義の時代、群れようにも群れるセクトが既に原形をとどめていなかった世代なのである。

 これから2011年に向けて団塊の世代が高齢者となって巷に溢れることになる。彼らはかつての安保世代であり、その後の企業戦士であり、自然淘汰を生き抜くための競争原理を戦ってきた類い稀な活力の世代であるが、この存在をうるさく感じながら、異なる価値感で生きてきたのがその後の我らが世代であるのかもしれない。

 世代などという抽象的な概念でひと括りにしてはさすがにまずいと思うが、本書の悪党は、まさに団塊の悪い面を戯画化してみせたようなキャラクターとして造形されており、こういう人物と、今どきの二十代学生が、はたまた便利屋という五十歳前後の世代がどう絡んでゆくことになるのかは、コミカルに楽しめる本書の謎解きの中でも、特に楽しめるテーマである。

 何しろこのテーマに関する予兆は『駆けてきた少女』でも既に見られていたのだ。様々なネタを小道具に使ってまでここにこだわる何かを、作者は前作で掴んだのではないだろうか。

(2007/01/19)
最終更新:2007年01月20日 02:01