義八郎商店街



題名:義八郎商店街
作者:東 直己
発行:双葉社 2005.2.25 初版
価格:\1,700

 どちらかと言えば寡作家であったこの作家も、最近ではコンスタントな仕事をきちんとするようになっているみたいだ。コンスタントな仕事そのものの是非は別として。

 日本の作家が職業的にコンスタントに仕事をしようとすると、大抵は月刊文芸誌に短編を掲載し始める傾向になるみたいだからだ。かくしてどの作家も短編集ばかり沢山出すようになる。短編がそこそこ面白い作家であれば問題はないが、そうでもない作家が、長編の代わりに月決めで、予め要求された原稿枚数を入稿するようになると、世の中にやたらと氾濫してゆくのが、連作短編集という形式。

 このスタイルにしても、得意とする作家ならばそのほうがいいのかもしれないが、本来の長編作家としての魅力を、雑誌社のほうで崩してしまうという功罪も、時にはあるのではなかろうか。

 というわけで、長編崩れのような連作短編集の横行というところに、日本出版文化に対する不自由度を、ぼくなどは痛感するものである。できたら長編小説という、流れの途切れない形での小説を、連作短編集に代えて出版する方向で進んで頂きたい。作家もそうした方向に作品作りを努めていただきたい。

 そんなことを思うのは、この本一冊が、まさにそうした連作短編集であるからだ。そしてそこそこ短編の切れ味も持ってはいるが、完全独立した形とも言えないのが、連作短編集の中途半端なところなのである。一冊の本としての印象の弱さなのである。それぞれの短編作品は、やはり全体の流れにどこか依存している。こんなことでは連作短編集は、ホンマモンの短編集に勝つことはできないし、もちろん長編小説にも太刀打ちができないではないか。

 ちなみに、連作短編集という形は、時にはそれを纏めた一冊の本自体で、大きな流れとしての起承転結を持っている場合がある。横山秀夫はどちらかと言うとそれを持っていない部類で、連作であっても短編小説としての自立性を、それぞれの作品が保っており、全体としても連作のメリットを体感できる、といった本に対するこだわりが感じられるのだが、この『義八郎商店街』の場合は、果たしてこの形式である必要があったろうか? との疑問符が残る。

 つまり、特に連作短編集という形でなくても、それぞれが章に分かれた長編小説でも、これは問題のない物語だったのではなかろうか、ということである。厳密に言えば、それぞれは短編なのだけれど、やはり東直己の本分は、長編作家である。連作短編集として、あまりにも大きな流れである起承転結がこの作品集の場合はっきりしており、「転」に当たる作品もあまりに明確である。これは本当は長編小説だろう? との疑惑ばかりが前に出てしまうのである。

 つまり、そのくらい本書は長編小説的な一冊であり、次の展開が、短編一作ごとに気になるという構造なのである。最初から、謎めいた人、謎めいた解決の方法を思い切り読者に提示してしまいながら、その、どこかファンタジックか、ホラーかわからない展開の要素が、最後にはつまびらかにされるのであろうと、読者を引きずる。かくして予想通りの展開になってきたぞ、と、話が「転」をすれば、さらに一波乱あって、読者の予測を、今度は見事にさらなる「転」によって裏切り、最後にこの小説の持っている大テーマが、明確になってゆく、という構造なのだ。

 強く明るく人間らしい絆に溢れた、愛と冒険のある街の物語に、東直己の本来持っている、ノワール的な陰影の部分、反文明、反体制、反国家などの要素があまりに強烈なスパイスを振りかけてゆくのが、本書の醍醐味である。

 後味がどうであれ、すぱっと読み終わるのでではなく、読者に残す余韻こそが、作者の思惑であったのだろう。お寺の鐘のように長く残る余韻を、読者がどう感じるか、といったところに価値を見出したい一冊である。

(2005.5.15)
最終更新:2007年01月05日 02:05