一九七二年のレイニー・ラウ




作者:打海文三
発行:小学館 2004.12.1 初版
価格:\1,400

 秘密があるのかもしれない。読む人によっては深いと言える構図なのかもしれない。もしかしてそうした人々にとっては深淵を覗きこむようなスリルに満ち満ちたような作品であるのかもしれない。

 かつてこの作家の『Rの家』という作品はぼくを面食らわせ、そのおかげで感想自体がこのように、疑問だらけの文章になってしまった。自分の不明に対する悔しさのほうが浮き彫りにさせられたような気がしてならなかったのだ。

 本書は短編集である。最初と最後が前書き後書きの代用なのだろうか、告白と言えばあまりにも重たい。小説のふりをして作者が自分のかけがえのない過去の恋人、過去の親友、あるいは彼らから受けたインスピレーションの強烈さを独白している。

 短編群はどれも凝りに凝った文章で綴られた丁寧な恋愛小説である。どれもアジアの風に吹かれて、クールでタフなほうは常に女性のほうだというあたり、これまた打海らしい。その起源が前書きに書かれたものであるとも読めるから、この作家の秘密に肉薄するには楽しい短編集であると言える。

 最後にアジアと離れていきなり『Rの家』の続編、あるいは『Rの家』の説明的意味合いを持った短編作品が収録されてくる。等身大の作者が自らの年齢を削り取って創作人物である別の作家に仕立てていながら、その実『Rの家』に触れる部分は相当に思いが込められているように見える。作者が思いのたけをこめた作品でありなはら、世界から打ち捨てられたような小説は、当初のタイトルさえ改題されて出版されたという部分、それが文庫化に当たってもとのタイトルで甦った部分。カバーイラストの部分。どれもきっと事実だ。

 小説の形を取らない本当の「あとがき」では恋愛小説は誰にでも書くことができると作家は語る。起こらなかった恋愛を小説という形で書くことができる、と。実際に起こってしまった恋愛は閉鎖された個人的な物語だが、起こらなかった恋愛を小説にしたものは、共有できるドラマである、と。

 個人的な成就しなかった思いとは、翼を持たず、どこか中空に常にとどまっているものなのかもしれない。それは小説と言う形でようやく心の片隅に葬られるものなのかもしれない。

 作者の分身が言う。

「自分は生きることができない人生でも、書き言葉をつうじてなら生きることができる」
「小説家は」
「読者も」

 打海の小説作法の、ある核心に触れたシーンであると思う。

 短編小説集としては、稲見一良『ダックコール』以来の価値づけをぼくはこの一冊にしてしまった。かほどに懇親の作品集であるということ。かほどにハードでタフで夢に溢れた一冊、ということである。