Rの家(ノベルズ化に当たって「ロビンソンの家」へ改題)






作者:打海文三
発行:マガジンハウス 2001.01.25 初版
価格:\1,800

 打海文三の小説作法は基本的に独創的な人物の造形に尽きると思っていたのだが、それも散文化を極めすぎると、こういう自由構成のような脱線現象となる、ということなのだろうか。アーバン・リサーチという枠組みによるシリーズの締めつけから解放され、独立したものという見方よりはむしろ、ハードボイルドという寡黙な技法から離れ、ずっとずっと饒舌に語られ始めようとしたときに、この『Rの家』という無味乾燥な作品ができあがったのかもしれない。

たとえば寡黙な技法であるなら、ストーリーを回してゆくしかない。人物を次々と行動に走らせ、そのパターンを冷たく距離を置いて描写してゆくしかないのだ。しかし饒舌技法でいいのならば、ストーリーなどは不要になってしまう。すべてが語られる題材となり得るような饒舌さ。それが実にこの作品の前半を牛耳ってしまう。

『Rの家』は雑誌『鳩よ』連載中は『ロビンソンの家』というタイトルだったらしい。作中では漂流者の巣であるかのように語られる。ひととき翼を休めた空の旅行者たちが集い、時間に飽かせて語り合うエピソードの数々が本書前半のすべてだと言っていい。その自由度、奔放さに面食らわされる。基本的にすべてが寄り道。これが、端的にストレートに、物語り芯だけに依拠して書いてきたあの打海文三だったか、と。

ミステリから大きく後退りして、村上春樹のような、不明で区分けしにくい、ジャンルの迷い小路に入り込んでしまったミクロで抽象的な物語。ストーリーというべきものはほとんどなく、ただただ喪失と漂流を繰り返すような作り。剥いても剥いても本質に行き届かない玉ねぎのような構造について、羅列されるエピソードという皮で何重にも被われたかのような散文詩のような作品。

アバンギャルドと言いたいのかもしれないそんな作法による、饒舌でおよそ非現実的な作家の新しい顔を、けれん味たっぷりに覗かせた作品。

秘密があるのかもしれない。読む人によっては深いと言える構図なのかもしれない。もしかしてそうした人々にとっては深淵を覗きこむようなスリルに満ち満ちたような作品であるのかもしれない。

だけどぼくには、何を読んでいるのかわからなくなるような距離感が終始離れなかった。現代版『母をたずねて三千里』なのだろうか。その母がこれほど奇妙な事情で息子から遠くに離れてしまっているのだとしても。マザコン話と切り捨ててはいけないのだろうか。ぼくという水準ではこういう本は心底<愚作>と言うのだけれどもそう言い切ってはいけない作品だとでも言うのだろうか。
最終更新:2006年11月24日 01:07