放課後。
「お料理倶楽部」の部室になっている家庭科教室の前で、僕は立ち止まった。
深呼吸をひとつ、ふたつ。
ごくりと唾を飲み込む。
心臓は、たった今走ったばかりのようにどくどくと脈打ち、
それとは逆に、身体中の血がどこかへひいて行くような感覚。
「……」
意を決してドアに手をかける。
横に引く。
「こんにちはー」
「こんちゃー」
部屋の中にいた部員が一斉に声をかけてくる。
「こ、こんちは……」
気おされたように声がつまった。
いつもより小さな声で挨拶をして、とにかく中に入る。
いつも使っている奥の調理台まで小走りに行き、
荷物を置いて、はじめてあたりを見渡すことができた。
守宮は……いない。
いるはずはない。
彼女は、今日、学校を休んでいたから。
でも、僕は、守宮がひょっとしたら部活には出てきているのではないかと思っていた。
それは恐怖だろうか、それとも……期待だろうか。
だが、彼女は、授業と同じく、部活も休んでいた。
ほっとしたような、しないような感覚。
だが、すぐにそれは、胸を塞ぐような暗い感覚に取って代わられる。
恐怖と、屈辱と、嫌悪。
昨晩の経験を思い出して、僕は目の前が暗くなった。

他人に意のままに服従させられる。
力と快楽によって。
交わりたくない相手に、むりやり犯される。
犯されて、精を吐き出さされて……。
……交わりたくない相手?
僕は混乱した。
「守宮……」
思わず、ここにいない娘の名をつぶやいてしまう。
昨日、僕を蹂躙した、<異種族>の娘。
人間社会に<擬態>で溶け込み、本能に従って生存目的を果たす、
僕とはまったくちがった生命体、<獣人>。
無理やり犯された記憶は、恐怖と嫌悪の塊だった。
……だけど、それは信じられないくらいに気持ちいいことでもあり……。
僕は、頭を振った。何がなんだか分からない。
今、この部屋に守宮がいないことにほっとしているのと同時に、
確かに僕は、それを残念に思っているようでもあったからだ。
(そんなことはない)
そう、思うたびに、僕の脳裏に、白い女の子が浮かぶ。
大人しく、物静かな女の子が、僕の上で、激しくあえぐ様が。
白くて長い髪が、汗で貼り付き、淫らな律動にあわせてうねる様が。
薄い桜色の唇が、男女のあからさまな交合を語り、僕に聞かせる様が。
金色の瞳が僕をみつめ、そして──。
「もっりたー!」
不意に呼びかけられて、僕は我に返った。
井守が、僕の目の前に立っていた。
「よ、よう……」
上ずった声で返事をして、僕は、この娘も<獣人>であることを思い出した。
守宮と血縁関係にはないけど、姉妹のようによく似た娘。
だとすれば、この娘も、守宮と同じような力がある。
僕を、意思に反して無理やりに従わすだけの腕力と、それを使う事をためらわないむき出しの本能が。


「……!!」
がたーん、と言う音を立てて、僕は椅子から立ち上がった。
「……ど、どしたん?」
井守は、けげんそうな表情で僕を見上げた。
そう。
井守は、僕より背の低い女の子で、だけど──僕より強い力を持っている。
「……ん?」
井守が、いつもと変わらぬ笑顔で一歩近寄った。
思わず、後ずさる。
井守が、「え?」というような表情になった。
クラスメイトのその顔に、僕は、自分が何をしたのかに気がついて愕然とした。
「……どしたの、森田……?」
井守の声は、さっきよりも慎重で、気使いに満ちていた。
「いや、なんでも、ない……」
僕は、一歩後ろに下がった自分の足を見詰めて、ようようと答えた。
「具合悪いの? 保健室に……」
「大丈夫だ」
「でも……」
心配そうな井守に何か答えようとしたとき、
教室のドアがノックされ、僕たちはドアのほうを振り返った。
「高等部の森田君はいるかな?」
白衣を着た女の先生が入ってきて僕の名前を呼んだ。
授業を受けたことはないが、校舎内で何度か見たことがある、先生。
けっこう若いようだけど、噂では、<とても偉い人>らしい。
<人類の未来にとって最も重要な>この<学園>は、
各界から<ものすごくえらい人>が集まっているというが、普通の職員と見分けがつかない。
「――あ、はい、……僕です」
返事をすると、先生は、金縁の眼鏡をくいっとあげて僕を見た。そして、
「少し時間をもらえるかね?」
と問いかけてきた。
「――単刀直入にいこう。守宮真由君が妊娠した──可能性がある」
席につくなり、先生の口から飛び出した言葉に、僕は呆然となった。
<本館>。
<第一職員室>。
その奥にある、<相談室>。
白衣の先生が、僕を連れてきたのは、その部屋だった。
テーブルと椅子と小さな本棚以外には何もないその部屋で、
美人、と言ってもいい女の先生の口から飛び出して僕にぶつかったことばに、
僕は一瞬、脳みそが停止したかと思った。
だが、先生は、そんな僕にお構いなしにことばを続ける。
「……詳しい検査結果は出ていないが、
彼女の妊娠は、この二十四時間以内の性行為によるものと思われる。
<卵>の父親は……君かね?」
空気が足りない。
釣り上げられた魚のように、口をぱくぱくとする僕を先生はじっと見詰めた。
「……はい。……そうだと、思います」
何分時間がかかっただろうか。
僕は、ようやくそれを言うことができた。
「そうか。では──帰ってもよろしい」
「え?」
「帰ってもよろしい」
白衣の先生は、手元の書類を眺めながら、同じ言葉を繰り返した。
「だって、その……」
「……守宮君は、<卵の父親>について頑として語らないでいる。今現在もだ。
彼女の関係者の中でその可能性がある人間を推測したのが、これはあくまでも非公式のことだ。
彼女自身が言わないつもりなら、――<卵の父親>は不在でもかまわない。
<上>が興味があるのは、これから守宮君が生む純血種と獣人のハーフだからね」
書類をめくりながら、先生は淡々と言った。


「そんな……」
「いずれ、<非公式>に、君の遺伝子等を調査させてもらうことにはなると思う。
入学のときの<身体測定>でのデータだけでは不十分だろうからね。
もちろん調査は痛かったり苦しかったりすることはない。
極秘で何回か<病院>に来てもらうだけだ。
それ以外に君の生活が変化することはないはずだ」
「そんな……だって、守宮は妊娠……してるんですよね?」
なぜ、そんな反駁のことばが口から漏れたのかは分からない。
「うむ。そして、彼女はその相手のことについて、我々の質問に答えないでいる。
よって、君には、関係のない話だ。――遺伝子上のことを除けばね」
白衣の先生は、眼鏡を外し、レンズを拭きながら、そう言った。

「……」
<職員室>がある<本館>をいつ、どうやって出たのか、よく覚えていない。
気がつけば、あたりはもう陽が沈みかけていて、僕は<裏山連峰>のふもとにいた。
<学園>の校舎地区(になる予定の場所)の裏手にあたるそこは、
奥のほうに踏み入れば、原生林の険しい山々だが、
手前にはなだらかで低い小山だ。
僕は、いつの間にか、その一つに続く小道の上にいた。
どこかから景色を見下ろしてみたい、と思ったのかもしれない。
「どうしようか……」
思わずつぶやく。
無意識にここまできていたけど、これから小山に登るのは、時間的に微妙だった。
<学園>の広大な敷地の多くは未開発で、僕の目の前の小山も、
舗装もされてない道を除けば、街灯も何もない。
まさか、遭難はしないだろうけど──いや、ありうるのがこの<学園>だ。
足が止まった。
かといって、きびすを返してもとの道を帰る踏ん切りもつかない。
小道の上で、馬鹿のように突っ立っている自分は、とても滑稽だった。
「どうしようか……」
もう一度つぶやいたとき、
「あれ、森田ー!?」
右手のほうから声がした。
「え?」
振り返ると、斜面になっている下のほうで、井守が手を振っていた。

柔らかな土を何度か滑りながら下まで降りると、
そこはちょっとした広場になっていた。
井守は、そこの真ん中、何か木でできた小屋のようなものに腰掛けている。
……小屋?
に、しては妙に高さが低いし、その割りになんだか横はサイズが大きい。
「なんでこんなところにお前がいるんだよ」
「あ、ひどいこと言うなー。ここはあたしの縄張りだよ」
井守は、けらけらと笑って足をばたばたとさせた。
「縄張り?」
「そ、ここって、昔井戸だったみたい。落ち着くんだ」
井守は自分が座っている場所を指差した。
人差し指でなく、親指を立てて、くいくいと下を指す仕草が、
いかにもこの女らしい。
「井戸……」
たしかに、井守が座っているのは小屋ではなかった。
石でできた枠の上に、屋根らしいものを固定したものだ。
使わなくなった井戸の屋根を下ろして、蓋の代わりにしている──そんな感じだった。
井守は、その縁(ふち)の石枠が露出しているところに腰掛けていたのだった。
「そうか……お前……」
「イモリ獣人でござーい、あはは」
井守は何がおかしいのか、上機嫌で笑い、また足をばたばたとさせた。
「……」
僕は、守宮の変貌を思い出して、ちょっと息が止まった。


夕闇が迫る山の中で、一人、古井戸の上で上機嫌な少女。
普通ではない。
そして、獣人は──普通ではない。
どれだけ、普通であるように見えても。
「……」
ぐびり、と自分の喉が鳴ったのを僕は自覚した。
もののけ。
昔、この国では獣人をそう呼んだ。
人にして、人にあらず。
自分たちと異なる生命と心を持つもの。
僕は、その前に立っているのだ。
昨晩の事を思い出して、僕は、思わず後ずさった。
「お、どしたの?」
「……」
僕は、返事ができなかった。
井守は、僕を見て首をかしげた。
彼女の見慣れたその姿さえ、今の僕には恐怖の的だった。
夕方の風にうねる黒髪。
スカートの中から伸びる漆黒の尾。
闇よりも深い黒瞳。
どれもが、目の前の娘が人外の存在だと告げていた。
そう。
昨晩の、あの白い少女と同じく、
この黒い少女も──<獣人>。
身体が、勝手に、後ろに進む。
「あっ!」
草の根に足をとられて、転んで尻餅をつく。
不意に沸き立つ恐怖。
ここは──こいつのテリトリーだ。
他に助けもない、薄暗がりの山中の。


「だ、大丈夫?」
井戸の縁から飛び降りて立ち上がった井守が、こちらに駆け寄ろうとするのを見て、
僕の恐怖心は限界を突破した。
「よ、寄るなあー!!」
金切り声をあげ、僕は尻餅をついたまま、後ずさった。
井守は、立ち止まった。
「……森田……?」
「ち、近寄るな……!」
「ちょっ、どうしたのさ、森田……」
井守は、苦笑いを浮かべながら、歩み寄ろうとする。
いつもと同じ、その仕草に、僕は最大の恐怖を覚え、思わず叫んだ。
「そ、それも<擬態>かっ! <擬態>なんだなっ!?」
「<擬態>……」
井守が、呆然とつぶやいて、足を止めた。
「あ……」
僕も、呆然とした。
自分の口から漏れた、その単語に。
それを叫ぶことで、自分が何に恐怖し、何を嫌悪していたのかを知って。
僕は、昨晩の守宮を恐怖し、嫌悪したのは、
無理やりに犯されたこと、従わされたことに対してではなかった。
それ自体は、――むしろ、甘美な性衝動を伴ってさえ、いた。
僕が、守宮の取った行動で、受け入れられず、拒否したのは、<擬態>。
それまでの、守宮のあらゆる行動や態度が、
「目的」のために僕を騙し続けていた、という事実だった。
突然、僕の目から、涙があふれ出た。
激しい喪失感が、僕を襲う。
今なら、わかる。
僕は、守宮のことが好きだった。
大好きだった。
はじめて会ったときから。


つつましく、ひかえめで、おとしやかな少女は、
純血種では絶滅して久しいといわれる大和撫子のようで、
そして、僕はそれに惹かれていた。
だけど、それは、守宮が被っていた仮面。
生き抜き、目的を果たすための偽りの姿。
そして、僕を騙すためにつかった<擬態>。
僕にとってそれは、どうしようもなく、
本当にどうしようもないくらいに悲しい現実だった。
「守宮……」
僕は、声をあげて泣き出していた。


「そっかー、そんなことがあったのかー」
井守は、「スーパーミックスジュース・井守オリジナル」を
ストローでかきまわしながら言った。
「……」
僕は、ドリンク・バーから取ってきた飲み物に手を伸ばす気にもなれず、
ただただ黙って、コップの水面を見つめていた。
あれから、井守に半ば引きずられるようにして小山を下りた僕は、
そのまま<学園>近くのファミレスに連れ込まれた。
泣いたあとのぐしゃぐしゃの顔のまま、女の子といっしょに席に着いた男の子は、
傍から見たら恥ずかしいを通り越して異様だっただろうが、
一度堰を切った僕の心は、誰かに「それ」を聞いて欲しくてたまらなかった。
井守は、黙ってそれを聞き続けてくれ、
そして、聞き終わってさきほどの言葉をつぶやいた。

「……」
僕は、井守のつぶやきに返事をすることもできずにいた。
何分、そうしていたのだろう。
ズズズッ。
突然、大きな音がした。
驚いて顔を上げると、井守は、自分のドリンクを
ストローで勢い良く飲んでいるところだった。
大き目のグラスに目一杯についで来た不思議色の超液体を一気に飲み干すと、
黒髪の獣人は、僕にびっと指を突きつけた。
「……まあ、それはそれとしてだ、森田。
ダンナの義務として、嫁さんのトコに行って来い!」
「……え?」
「え、じゃない! 妊娠したての妊婦さんは不安定なんだ。
彼氏がそばに付いてないでどーする!」
「ちょ、ちょっ……」
今までの会話(もっともそれは、僕が一方的にしゃべるだけだったが)
を一切無視した、一方的な断言。
だが、井守は、突きつけた指をぐっと押し出して僕の顔に近づけ、
──僕の鼻先をぴん、と弾いた。
「いてっ!」
何しやがる、と言いかけた僕を、テーブルの向こうから獣人の娘が見詰めていた。
強い光が宿る、黒い瞳で。
「あ……」
先ほど感じた、<人外の者>の気配。
昨晩の守宮のような、異種族の論理と生存目的に支えられた意思。
井守は、それを満々とたたえた黒瞳で僕を見詰め──いや、睨みながら言った。
「<擬態>ね。うん、真由は、<擬態>してたよ。
だから、――あんたは真由のところにいかなきゃならないんだ。
だって、<擬態>するってことは──」
「……え?」
僕は、井守の言ったそのことばを、思わず聞き返した。
だって、それは、信じられないことだったから。

<擬態>するってことは、――好きなもののそばにいたいからだよ。

黒髪の獣人娘は、そう言ったのだ。

翌日。
授業が終わって、済ませる用事を済ませてから、僕はすぐに<学園>を飛び出した。
井守から教えてもらったアパートは、すぐに見つかった。
<学園>の敷地に隣接する一角は、学生向けの賃貸住宅が立ち並んでいる。
もちろん<獣人特区>の一部だ。
もっとも、今年開校したばかりの<学園>の生徒は、
当初の予定よりもかなり少なく、半分以上が空き家だ。
<特区>は<世界政府>肝煎りで作られているから、
大屋さんに取りっぱぐれはないだろうけど、寂しいと言えば寂しい風景だ。
と言っても、学生にとっては、逆に綺麗なマンションを選びたい放題という利点もある。
だけど、守宮の住まいは、20階建てオートセキュリティ付マンションではなく、
つつましやかな木造二階建てアパートだった。
全室東向き。
部屋に朝日が差し込むか否かは、
爬虫類や両生類など変温動物の<因子>を持つ獣人にとって
とても大事だと聞いたことがある。
地図を見て、アパートの裏手の通りに出たことを確認した僕は、
昔ながらのブロック塀に囲まれた小路を抜けて玄関のある方に出ようとして、立ち止まった。
アパートの前に、学生街には似つかわしくない黒塗りの車が止まっている。
リムジン──ではなく、スポーツ・カー。
ゾディアック・<サンダーバード>・コランダム・<2000Ver>。
フロントバンパーの赤く光るセンサーと音声対応万能ナビが特徴的な<旧車>だけど、
その後継機と言われ、あらゆる機能が上回っているはずの
フォワード・<シェンムー>・ムスタング・<3000Ver>と比べても、圧倒的な人気を誇る。
ファン曰く、「夢とロマンと信頼性が違う」。
「……」
僕は立ち止まり、そしてその車の中から誰かが出てくる気配を感じ、思わずブロック塀の陰に隠れた。
中から出てきたのは──昨日、相談室で話をした女の先生と、守宮だった。

「――では、体調には気をつけるように」
運転席から降りた先生は、やっぱり白衣姿だ。
「――はい。ありがとうございました」
後ろの座席から降りてきた守宮がぺこりと頭を下げる。
小さくうなずいた先生が<サンダーバード>に乗り込む。
センサーの機械音以外には音もなく、黒いスポーツカーが滑るように走り出した。
フルチューンでゼロヨン480km、といわれる加速能力は、
狭い路地での安全運転の中でも、シルクのようになめらかな動きでわかる。
アパートの玄関前から、僕が隠れた路地を通過するまで、10メートル。
そのわずかな一瞬、<サンダーバード>の窓から、
先生がちらりとこちらを見たような気がした。
「あっ……」
思わず声をあげたけど、黒い車はすぐに疾風になって向こうの角へと消えた。
残されたのは、――僕と守宮。
深々と頭を下げて見送った白いおかっぱが、ゆっくりと戻り、
きょろきょろとあたりを見渡す。
今、僕の上げてしまった声を聞いたのだろう。
僕は、覚悟を決めて路地に出た。
「……」
「……森田君……」
守宮の目が大きく見開かれる。
離れた僕にも分かるくらいの、深呼吸。
そして、白い女の子は、アパートの玄関に飛び込んで逃げようとした。
「待って!!」
声が出た。
先ほどまでは、かすれ声さえ出ないと思ったくらいにからからだった喉から、
自分でもびっくりするくらいに大きな声が。
守宮の身体が、びくりと震え、駆け込む足が止まった。
「……」
「……」
後姿で立ち尽くす、白い守宮。
それを見詰める僕。
息が苦しくなってくるような、二人の静寂の時間。
それからどれくらい経っただろうか。
何十秒、何十分?
やがて、守宮は、後ろを向いたまま、
「……中に入ってください……」
と、か細い声で言った。
その背中を追って、僕はアパートの中に入った。
広くないけど、きちんと整った部屋は、守宮らしく感じた。
……どういう意味で、僕はそう思ったのだろうか。
「守宮らしい」とは、なんだろう。
それは、僕が勝手に抱いているイメージではないのか。
こないだまで、外見や話した程度で勝手に思っていた、
クラスメイトとしての守宮のイメージ。
でも、それは<擬態>で、ヤモリの<因子>を持つ獣人の娘の本質ではないかも知れない。
それでも、やっぱり、「そうとしか言えない感じ」を僕は抱いた。
だから、僕はその部屋を、こう捉えた。
守宮らしい部屋、だと。
だから、僕は、空気を固まらせている沈黙に押しつぶされることがなかったのだろう。
そう。
部屋は、物は、たとえ無機質であっても、「感じ」というものが、ある。
この国では。
この東の果ての島国、僕と、守宮が生まれて育った国では。
どんな空間でも、この国の中にあるのならば、そこには雰囲気──空気がある。
そして、このちっぽけな島国産まれの生き物は、それを読む術に長けている。
「空気を読む」ことに。
そして、僕が感じ取った、この部屋の「空気」は、
僕と、僕がこれから取ろうとしていることに対して、とても「好意的」だった。
だから、それを深呼吸で目一杯吸い込んだ僕の吐息は、
自分でも驚くくらいに自然にそのことばを発することが出来た。
「守宮、妊娠してるの……?」
質問。
答えのわかっている、質問。
守宮は、頷いた。

「はい。――さっき、ディロン先生がナノマシンで調べてくれました。
今は、受精卵の状態だそうです。」
「僕の子ども、だよね?」
「……はい」
守宮は、一瞬つまり、目を逸らしながら答えた。
それから、僕のほうを向いて、
「でも、安心してください。この子は、私一人で育てます。
森田君には迷惑はかけません。<特区>も、支援してくれるそうです。
ディロン先生たちもそう言ってくれました。」
ディロン先生と言うのは、白衣の女先生のことだ。
<学園>は、ただの学校ではない。
次世代の<超人類>誕生に、人類の未来を賭ける<世界政府>の総力を挙げた研究機関でもある。
淡々と、だけど畳み掛けるように一気にことばを継いだ守宮に、
僕は、でも飲み込まれることなく、返事をした。
「うん。でも、僕たちの赤ちゃんだ。――君と、僕の」
「……!!」
守宮が、息を飲んだ。
視線が、部屋のあちこちを彷徨う。
「でも……」
「父親の義務は果たすよ。ううん。果たさせてほしい」
僕は、正座したまま、膝を進めた。
守宮は、びくっと肩を震わせ、きっと僕を睨んだ。
「ダメです」
「なぜ?」
「……森田君は<純血種>で、私は<獣人>だから」
「理由にならないよ!」
「なります。貴方と私は種族が違います。
貴方が好きになったのは、私の<擬態>の姿に過ぎません」
守宮は、らんと光る金色の瞳で僕を見詰めた。
強い獣性の力が宿った、異種族の瞳で。

「――大丈夫」
ごく自然と、僕はそう答えていた。
なぜだろう。
後から考えると、やっぱり、それは、この部屋のせいだったのかもしれない。
守宮の部屋、僕が守宮らしいと思った部屋。
それさえも、守宮の言う<擬態>かも知れない。
<純血種>の目から、本性を隠し、身を守るための。
でも、それは──。
「うん。知ってる」
「……え?」
「<擬態>でしょ。守宮が、<純血種>の社会に、
……ちょっと自惚れさせてもらえれば、僕に好かれようとして、やってたこと」
「!!」
「守宮はさ、なんで僕に近づいたの?」
「そ、それは、貴方が、私に合う<因子>を持っている人で──」
「それって、つまり……僕のことが好きってことじゃないかな……」
「!!」
単純なこと。
昨日、何で気が付かなかったんだろう。
井守に言われるまで、考えたこともなかった。

<擬態>をしてまで好かれようとするのは、相手のことがそれだけ好きだ、と言うこと。

だって、生き方まで、<本能>まで、捻じ曲げるんだぜ?
それって、ものすごいことだよ?
そんなことができるなら、<獣人>だとか、<純血種>とか、そういう間の壁だって乗り越えられる。
あとは、――僕が、それに見合うだけの勇気を持つだけ。
「大丈夫」
僕は、もう一度つぶやいた。今度は、僕自身に向かって。
そして、僕は、守宮に近づいて、キスをした。

「……森田君……」
「何?」
「貴方は、……かなり……考え無しな人だったんですね」
長いキスが終わって、守宮が小さなため息をついた。
生真面目な声は、ずいぶんとあきれているようだった。
「ん。そんなことないよ。けっこう考えてる。
来期から、<学生食堂>が始まるんだって。さっきバイト、申し込んできた。
直談判して、特別に夜のお偉いさんの<接待料理>のほうでも働かせてもらえそう。
お金が足りなきゃ、<学園>辞めてでも……」
「……」
くすり、と守宮が笑った。
「そういうことではなくて……」
「何?」
「……いえ、貴方は、本当にこの国の人なんだなあ、と……」
「うん、――君もね」

<獣人>と、一番仲が良い国のニンゲン。
好きな女の子が<獣人>だったら、<獣人>が好きになるニンゲン。
そんなニンゲンは、<獣人>の女の子に好かれることができる。
だから、<獣人>との間に子供を作ることも出来る。

もう一度キスをすると、守宮は、いたずらっぽく微笑んで、
自分の尻尾の先を軽く噛んで、僕に向けた。
「これ……?」
「吸ってみてください。私の尻尾の体液──強い精力剤です」
「間接キスだ!」
「……そう考えるのですか。森田君は、意外とスケベなんですね」
「守宮だって、……これって、……エッチしようってことだろ?」
「……知りません」
未来のことは分からないけど、なんとなく楽観的に考えて、僕は僕の妻になる<人>に抱きついた。
*  *  *  *  *

グルメレポート 「ぎんちよ」

<獣人特区>に名店は多かれど、どこか一つ、となれば、やはりこの店。
昼食時になると<学園>の学生と近所のサラリーマンでごったがえす大衆食堂だが、
ご主人は、<学園>高等部の最初の卒業生の一人で、
卒業後は、<学園>学食に勤務、拡大する<特区>と<学園>を見詰め続けた。
<学園>のシンボル<天空の学食街>の初代総料理長をつとめ、
「寸胴鍋でカレーから<神食>までつくる」とうたわれた伝説の料理人でもある。
学食の引退後にこの店を構え、日本食の最高峰を極めたと呼ばれる腕で、
一食五百円の定食を作って<特区>の胃袋を満たす。

「とニかく美味シい!ノ、一言デす」(「卵尽くし定食」を注文したヘビ獣人の女医)
「安くて、美味くて、量が多い!」(「焼肉定食」を注文した河馬獣人の女子高生)
「精力がつくのでつがいに勧めている」(カップルで「特Aランチ」を注文のワニ獣人女子高生)
「あっ! こら! 馬鹿夫! まちゃれ!!」(「特Xランチ」を同伴者に食べさせようとするワニ女子学生)

「値段の秘訣は、安い食材でも丁寧に下ごしらえすることかな」
とご主人の森田氏(66)は笑う。
普通は味が劣るといわれるデスマスク種の<黄金蟹>も、森田氏の手にかかれば
最高級のマニゴルド種に劣らない味わいを引き出される。
「後は、うちは娘とか孫とかが多いから、バイト代が安くあがってるかな?」
たしかに、「<特区>最初期の異種族カップル」だったという、ヤモリ獣人の奥様との間には、
18人の娘、86人の孫娘がいらっしゃって、今でも8人の配膳は全員が孫娘さん。
「ぎんちよ」の料理は精力バツグンという噂も頷ける。
昼休みの行列も、並ぶだけの価値アリです。

FIN

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最終更新:2008年08月06日 19:40