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『Am Tag des Regens im Mai~子犬とワルツをベルリンで』
1945年4月、南下するソ連軍にくわえ連合軍のノルマンディ上陸を許したドイツ軍は次第に劣勢に追い込まれ、
首都ベルリンまでソ連軍が迫った今、ドイツ降伏は時間の問題となっていた。


1945年4月29日午後9時:ドイツ第三帝国首都 ベルリン:天気・曇り
 よどんだ曇り空が落ちる中、ドイツ第三帝国の首都であるベルリンはかつての優雅な街並みをどこかに置き去りにしてきたように、
瓦礫に包まれたゴーストタウンと化しつつあった。
 「おい、ハンス」
 廃墟と化した地下鉄駅の階段にしゃがれた声が響く。ハンス=カウフマン兵長が振り向くと、そこにはハンスと同じ陸軍の制服を着た壮年の男が立っていた。
「ほら、コーヒーだ」そういって男は熱いコーヒーの入ったブリキのカップを階段の途中に置く。
 「ありがとうございます、クラウス軍曹」
 そのままヨゼフ=クラウス軍曹はハンスの横にどっかりと腰を下ろした。とても徴兵によって引っ張られてきたとは思えない、軍人のような
がっしりとした体が顔をのぞかせた。
実際に先の大戦でアルデンヌの前線を潜り抜けてきたという話もあるが、本人曰く『生き残ったって言うより前線出て3日で毒ガスでやられて、
そのまま終戦まで野戦病院たらい回しだった』らしい。
「…………さっき偵察機が見たらしいが、次の戦闘で久しぶりにコミー共が地雷犬を出してくると」
「……そうですか」ハンスの顔に陰りが見える。
地雷犬。それは全ての意味で最悪の兵器だった。獣人に爆弾を括り付けて戦車に突撃させ、敵戦車と共に敵の士気さえもいっぺんに殺ぐ兵器。
「ハンス……地雷犬が出るってコトはお前の出番ってことだ」
「そう言われてもあまりいい気分はしないですね」
「戦場なんてそんなもんだ」
クラウス曹長は階段の中ほどに放置されたハンスの武器、もう一つの最悪の兵器―――火炎放射器を見た。
長年使い込んだ事でタンクがところどころかすれ、放射口の先端が欠けて無くなりかけており、それはこの火炎放射器とハンスの戦歴を物語っていた。
「いつ終わるんでしょうかね、この戦争」
もう夜も深いと言うのに、あちこちで舞い上がった炎のせいでベルリンは煌々としていた。


1945年4月29日午後9時:ソヴィエト軍ベルリン侵攻前線基地:天気・雨
「ふむ……向こうの大隊はよくやっているようだな」雨音の中即席で作られた見張りやぐらの上で、アレイシア=ライカ中尉は双眼鏡から眼を離した。
ベルリン陥落は時間の問題。とでも力強く物語るようにベルリンからは行く筋もの炎が舞い上がり、それは20km以上も離れたここからでも確認できるほどだった。
「これでは、要請した増援もあまり必要がないな」彼女は先日、先行の部隊がドイツ軍戦車隊の抵抗が激しいと言うので本国に要請していた増援のこと
を思い出していた。
だが、抵抗も徐々に規模が小さくなってきている。ここまでくれば陥落はすぐに……それこそあと一週間、そのくらいで落ちるだろう。
そう思いながらライカ中尉はキャンバス地が張られた見張りやぐらを降り、自分の天蓋へと戻る。途中、雨が激しくなってきたので軍帽を深く被りなおした。
と、やっつけ作業で作られた掘っ立て小屋のような格納庫の前を通ったときだった。
「中尉~」
雨に混じって聞こえた小鳥のような声にライカ中尉は振り返る。
そこには、犬の獣人である少女が色の薄い金髪とボロ布のようなシャツを雨に濡らし、ずぶ濡れの状態で立っていた。
「こんばんわ」
「こんなとこで何やってる?Z-09」
Z-09と呼ばれた犬耳の少女は、にはは。と可愛らしく笑う。
「雨が気持ちよかったんで外でたんですよ」
それを聞いてライカ中尉は呆れた、とばかりにため息をつく。
「風邪を引くからすぐに宿舎に戻れ」
「ダイジョウブですよ」
まあ、いいか。と中尉は再び足を進める。
その後ろでぴちゃぴちゃと雨の中で遊ぶ音がいつまでも響いていた。
ベルリンへの総攻撃は明日、それまでには雨も止んでいるといい。と考えながら、ライカ中尉は帽子をはずした。
そこには、Z-09と同じ犬耳があった。
あのバカ娘のせいだ。と思いつつ、何故かすがすがしい気持ちになっていたのは、久々に雨に打たれたからだろう。自分でも気づかないうちに
鼻歌を歌いながらライカ中尉は基地内を歩いていった。

1945年4月30日午前11時:ドイツ第三帝国首都 ベルリン:天気・雨
前日の夜から振り出した雨に、重い火炎放射器を装備したハンスはうたれていた。
 目の前には昨日より腫れぼったく思える灰色の瓦礫と空家が並ぶ通りの真ん中、地下鉄駅の残骸の脇にひと筋の希望とでも言うべきくたびれた鉄の巨獣が腰を下ろしている。
Ⅳ号戦車J型。どこかの戦車小隊が逃亡した際に捨てていったドイツ陸軍の主力戦車だ。
さすがにKVシリーズ(ソヴィエト軍の重戦車)は無理だが、T-34(同軍の主力中戦車)程度や軽装甲車。それに歩兵なら簡単に撃破できる。
ハンスはこれを地雷犬から守るために、戦車の前で地雷犬を追い払う役だ。本当なら歩兵用の火炎放射器などではなく、戦車に車載型の火炎放射器を積む所なのだが
あいにく劣勢も劣勢のドイツ軍にそんな余裕はない。
 雨のせいか、いつも立ち昇っている埃と煙の匂いが、この日だけはなりを潜めていた。
「ハンス兵長。やっこさん、来たぞ」戦車の砲手が声を上げた。
「そうですか」ハンスは火炎放射器を構える。
ここにベルリンを巡る最後の戦いの、一つの戦闘がここに幕を開けた。

瓦礫まみれになった通りの奥から、ソヴィエト軍が突撃してくる。
その数は目測で60人ほど。戦車や装甲車は無く、先頭に爆弾の入ったチョッキを来た犬の獣人―――地雷犬、その後ろにバラライカ(PPshマシンピストル)を持った歩兵。
「弾種榴弾、距離500、フォイエル(発射)!」
砲手が軍勢の真ん中に照準を合わせてそう叫んだ次の瞬間、轟音と爆風と共に戦車の砲弾が発射され、軍勢の真ん中に榴弾が打ち込まれ、多くの兵士や地雷犬がその破片で吹き飛ぶ。
だが、奴らは突撃をやめない。
「第二弾、フォイエル(発射)!」
再び轟音と爆風が通りに広がり渡り、何人もの兵や地雷犬が吹き飛ぶ。
さらに通りの廃墟と化した建物群の窓々や陰から機関銃やマシンピストルの乾いた断続的な銃声が響きだし、やはり多数の肉片が飛び散った。
 そのうち、戦車に恐れをなした兵士達は前進を躊躇い後退、もしくは躊躇の隙を突かれて射殺されるが、それでも地雷犬の突撃は止まらず、いつの間にか彼女達は戦車の近くまで迫っている。
 着火装置に手をかける。途端、放射口から炎が小さく噴出した。
 「アーメン……」
 そう小さく呟くとハンスは放射口を彼女たちに向け、引鉄を引く。
 次の瞬間、放射口からは暴力的なまでに紅く、猛った炎が放射され、地雷犬の群れを焼いていった。
 燃料が正規のゲル化ガソリンではなく重油カスのため粘性が低いが、すぐに消えないことは同じであり、
彼女たちのチョッキや皮膚の上で轟々と踊り狂う炎は彼女たちの体を焼き、生きるための酸素を奪ってゆく。
 さらにはチョッキの中の爆薬に引火し、爆発が後続の地雷犬の命すらも奪ってゆく。
 振り続く雨も重油によって燃え盛る炎をすぐに消せるほどの力はなく、ただ地雷犬の悲鳴を和らげて行くだけだった。
 その炎の暴力の中でハンスは一人、慣れた手付きで次から次へと地雷犬を焼き払っていった。
 幾度も悪あがきのように前から飛んでくるバラライカの弾丸が体をかすめたが、弾丸の有効射程外から撃たれたトカレフ弾で引火するほど火炎放射器はやわではないし、
戦車を盾に取ればそれほど怖くもない。
 それどころか逆に地雷犬たちは暴炎に恐れをなして逃げてゆき、隠蔽された機関銃に次々と撃たれ、爆発に巻き込まれながら一匹、また一匹と果てていった。
 だが……
 「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 一匹の地雷犬がしなやかな動きで火炎の帯をくぐり抜け、ハンスの間近へと迫っていった。
 「畜生!」ハンスは火炎放射器を素早くその地雷犬に向け、引鉄を引く。放たれた炎は地雷犬に届いたと同時に燃料が表皮に染み込み、彼女の白い肌の上で舞い踊る。
 「ぁぁぁぁぁっ!」
 しかし、彼女はそれでも前進を止めなかった。
 それどころか、炎をもろともせずにその地雷犬はハンスに飛びついた。
 「……ッ!」
 ハンスは引鉄を引こうとしたが、その間も無く地雷犬に大きくつき飛ばされ、ぽっかりと口をあけた地下鉄駅の残骸の中へと落ちてゆく。
 そのまま幾度も壁や床に叩きつけられ、激痛のせいで薄れゆく意識の中でハンスは雨の感触と何かが爆発する音と、それ以外の轟音を聞いたのだった。

1945年 月 日午後 時 ドイツ第三帝国首都ベルリン 天気:曇り

気づいたのはいつ頃だろうか。轟々と響く音の中でハンスは自分の体の存在を確かめると、けだるい体をゆっくりと起こす。
 目覚めたそこは見渡す限りの暗闇だった。
 「ここは……」
 ハンスは自分の記憶を必死に呼び起こす。
 そうだ、俺は地雷犬を焼き払っていて、その途中でつき飛ばされて……。待て、地雷犬を焼き払っていた?という事は……
 (そうだ、こいつがあったじゃないか)
 ハンスは自分の身の回りをごそごそとまさぐり、近くに転がっていた火炎放射器の機関部を掴んで引鉄を軽く引く。だが……
 「壊れてる……」
 あれだけ叩きつけられれば当たり前と言えば当たり前だろう。引鉄はいくら引いても反応しなかった。
 ハンスは火炎放射器の機関部から手を離す。
 (……そうだ)
 ハンスは軍服のポケットの中を探り、手にひんやりとした感触を感じると、それをポケットから出した。
 チン。と軽い金属音を立てて蓋をあけると、数回ほど中の火打石を擦る。たちまち擦り跡だらけのオイルライターを中心に光が発生した。
 正直、廃墟の中から取ってきたライターこんなところで役に立つとは思わなかった。
 光はあたりの壁や床を映し出し、それでハンスはここがすぐにどこなのか判断できた。
 「地下鉄の駅か……?」
 見まごう事なくそこはベルリン地下鉄の駅の構内だった。
 おそらく突き飛ばされた時に戦車の脇にあったあの出入り口に落ちたんだろう。そう考えるとハンスは火炎放射器を下ろして、階段の方向へ歩いてゆく。
もはや火がつかない以上、こんなもの重石にしかならない。
 何時間ほど伸びていたかはわからないが、さっさとここを出てもう一度小隊と合流しなければ。
 もたもたしてコミーに捕まればシベリア送りは確実だ。
 ハンスは足早に階段を上がってゆく。が、
「嘘だろ……」
 自分が転げ落ちてきた階段は、大量の瓦礫で埋もれていた。
 破片一つ一つの大きさが大きいために隙間はあることにはあるのだが、赤ん坊でなければこんな隙間通れやしない。もちろんハンスなど論外だ。
 (待て、こっちの階段が使えないって事は……)
 そう。もう片方の階段は一週間前の空襲で崩落しており、この駅の出口は全て塞がっている。
 その上地下鉄内を無闇に移動すればソ連兵に見つかってしまう。火炎放射器が壊れた今、ハンスは武器と言える武器は何も持っていない。
 つまりハンスは事実上、この地下鉄駅に閉じ込められたわけだ。

 「…………ぁ……」
 轟々と響く雨音に混じって、かすかな声が暗い構内に反響する。
ハンスはその声に気づくと、素早くライターを左右に振って、周りを確かめた。
 声の主はすぐに見つかった。
 犬の獣人の少女が崩れた階段からそう離れていないコンクリートの床の上に転がっていた。
色の薄い金髪と垂れた耳は雨でじっとりと濡れており、白い肌のあちこちに酷い火傷と擦り傷がある。
 「さっきの地雷犬……か?」
 爆薬入りのチョッキの残骸であろう焼け焦げた粗悪な布地があたりにちらほらと散らばっている。
 (俺を突き飛ばした時に一緒に落ちたんだろうな……)
 ハンスは警戒しながら少女に近づく。ひゅー、ひゅー、と小さく呼吸する少女の顔には、生々しい火傷の跡が刻まれており、
途端にハンスの中で罪悪感が生まれてしまう。
 (……ごめんな)
 ハンスは上着を脱いで少女の体にかぶせると、顔をあげて崩れた階段を眺め始めた。
 瓦礫の隙間からのぞく空は、先ほどとなんら変わり無い、よどんだ空だった。

「…………ん」
 朝なのに目の前が暗い。
雨の音が聞こえる。
体が重く、だるい。
「あ、気づいたか」聞いた事のない、男の人の声がする。
そして、私は目をあけた。

少女が目を覚ましたのは、彼女が見つけられてからいくらか経った頃だった。
「……ここ、どこ?」
近くでひっくり返ったナチスのヘルメットの中から炎がちろちろと揺れており、その明りが周りの様子を照らしてゆく。
「地下鉄の廃駅だよ」
そう言った声の主は、炎のそばで大きめの木箱に腰掛けている。角度の問題で顔は見れなかったが、先程の声と同じ人間だ。
その時彼女は、自分の上に毛布ではない何かがかぶせれている事に気づいた。
「これ……ナチスの軍服」
「ん、ああ。それは俺のな」
そう言って、こっちを向いた男の顔は……
「あ……ああ」
自分の同胞達を燃やしていった、あのナチスの兵隊。
「うああああああああああああああっ!」
兵隊―――ハンスにとっては案の定。と言った所か、少女は叫びながら立ち上がると先ほどのように獣人の強い脚力で自分の首元へと迫っていた。
(予想はしてたよ……)
見つけた時に殺せばこんな事は無かったはずだ。だがそれでも殺さなかったのは―――いや、殺したくなかったのは、ひとえにハンス自身のの出来心だった。
鋭い爪を持つ右手は、ハンスの首元数センチのところでふるふると震えながら止まる。
少女の顔には涙が幾筋もの軌道を描き、歯をかみ締め、体を震わしながらハンスをじっと睨んでいる。
対するハンスは、覚悟と後悔の入り混じった顔で少女を見つめる。火炎放射器を失ったハンスに武器は無く、もしあってもここまで近寄られたら使用は不可能だろう。
そのまま、二人の間に数分ほど膠着状態が続いた。
「どうして……」先に口を開いたのは少女だった。「どうして何もしないの……?」
意外とも思えたその問いに、ハンスは自嘲気味に口を開く。何故か殺される手前だと言うのに言葉はすらすらと出てきた。
「まず第一に君につき飛ばされた時に火炎放射器が壊れて、今俺は武器をもってない。それにこの間合いじゃ武器を持ってても使えない」
炎の揺らめきに合わせて、コンクリートの白い壁に二人の影が浮かび上がった。
「あと、君の火傷を見てて殺すのが嫌になった。すまん」
その時、少女はようやく自分の顔から腹部に駆けて、左半身に大きな火傷が出来ているのがわかったのだった。
少女はハンスの首元から手を下ろす。少女のその行為にハンスは驚きの表情を隠せなかった。
そして、代わりにハンスの腰あたりに少女の手が回ってきて、少女はそのままはんすをぐっと抱き寄せた。
「えぐ……ずるいよぉ……ぐす……ていこうしないと……ひっく……ころせないじゃない……ぐす」
ハンスは、ただそのまま動かなかった。
「やけどじゃなくて……うぐ……ちゃんところしてよぉ…………えぅ……ころしてよ……ていこうしてよぉ……」
少女の悲痛な叫びは、地下鉄駅の構内に幾重にも響いていった。

1945年4月30日午後7時 ドイツ第三帝国首都ベルリン 天気:曇り

「もう7時か……」ハンスは盤面のガラスがひび割れた腕時計を見る。普段なら廃墟の中で戦友達と粗末な飯を食っている最中だろう。
だが、何の因果か。自分はコミー共の地雷犬と地下鉄駅に閉じ込められているのだ。
幸いこの地区から人が出ていくまで防空壕として使われていたのか、水や食料のストックはぎりぎり2人で5日分ほどあったのが救いだったが、それまでの間に救助が来るかは不明だ。
それに地下鉄の路線を通ってきたコミーに出くわせば、5日もしない内に死んでしまう。
「うう……いたいよぉ」応急処置のため包帯まみれの犬耳少女は、包帯の上から火傷を押さえる。もちろんそんな事しても意味は無い事はわかっているようだ。
先ほど取り乱していたのが嘘のように彼女は落ち着いて、だがハンスには近づこうとしないで、距離をとったままである。
「そういや、まだ名前聞いてなかったな」ハンスは少しでも気を紛らわそうと口を開く。双方軍人、しかも少女にとっては同胞の仇と言えど人間と獣人、
結局は孤独には勝てないのだ。
もはやハンスは割り切って彼女と接するようにしていた。
実際の所、火炎放射器がないせいなのかもしれないが。
「…………人の名前を訊く時はまず自分からですよ」
少女はぼそりとに呟く。
「そうだよな」ハンスはヘルメットの中で揺らめく炎を眺めながら口を開いた。「俺はハンス=カウフマン兵長、24歳だ。」
少女はハンスの軍服のすそを握り締めながら、ハンスから目をそらして呟いた。
「Z-09(ズィー・ナイン)…………」
「……本名は?」
「無い」少女はきっぱりと言い切った。
「そう……」ハンスは木箱の中に入っていた黴の生えかけたチーズを炎で炙って、欠片を口へ投げ込む。保存状態が悪かったにしては味は結構いけた。
「ノイン、喰え」ハンスはナイフに刺したチーズを少女へ差し出す。
少女は最初、誰の事だかわからずにきょろきょろと辺りを見回したが、この閉鎖空間の中には自分たち以外だれもいない。
そして、少女はすぐにそれが自分の事だと気がついた。
「……今のは?」
「ん……ああ、君の名前。Z-09(ツェット・ノイン)でノイン。かなり適当だけど」
そう言うハンスの苦笑を見て、少女―――ノインはここにいるハンスは、火炎放射器で同胞を焼き払ったハンスじゃないと感じた。
火炎放射器も、ヘルメットも、軍服も無く、苦笑する横顔を見てハンスに感じていた恐怖感はいつの間にか消えていた。
ノインはそれを聞くと、ハンスからナイフを受け取って、ささったチーズをかじった。
黴を何とかする為に必要以上に炙ったせいで半ばスモークと化していたが、ノインには久しぶりに口にする食事であったため、かなり美味しかった。
たぶん、美味しく感じられたのにはもう一つ理由があるのだろうが。

「あの、ハンス……兵長?」
「階級は言わなくていいよ。」
「ここから……出られないんですか?」ノインはか細く呟く。
 「……二つある出入り口の一つがこの前の空襲で潰れた。もう一つの出入り口は……」
 「さっき、戦車が爆発したときに一緒に崩れた瓦礫で……」
 ノインの言葉にハンスはやっぱりな、とうなずいた。
 「それに地下鉄の路線をたどっていっても、ソ連兵に見つかったら殺される。たとえノイン、お前がいてもだ」
 現在の赤軍の規律は無いに等しい、それはノインも痛感していた。
 もしソ連兵に見つかれば、たとえハンスが捕虜でも、ノインがソ連兵でもだ。彼らは容赦なくハンスを撃ち殺し、ノインに乱暴を振るうだろう。
 「……この瓦礫を片付けるか、戦争が終わるかすれば、きっと出れるさ」
 「じゃあ、それまでは……」
 ハンスは一息ついて、言う。
 「当分ここで二人っきりだな」
 「……そうですか」
 ノインの声は沈んでいた。


1945年5月1日午前9時 ドイツ第三帝国首都ベルリン 天気:雨

二日前からのぐずついた天気は変わらず、外ではまた雨が振り出したようだ。
俺達がここに閉じ込められてはや一日になる。その間、ドイツ軍の救援は一向に来ない。
いや。外を闊歩するソ連兵の声からして、この一角はきっとソ連軍の手に落ちたのだろう。
「……やっぱり、ここの瓦礫を崩せば簡単に外に出れる」
ハンスは瓦礫の山となった階段の一部から雨音がよく聞こえる場所があるのをつい先ほど発見し、おそらく兵隊が捨てていったのであろう中身の無い缶詰の缶で瓦礫を掻き分けていた。
「出れるんですか……?」ノインはかすかな希望を捨てたくない。と少々弾んだ声でハンスに訊く。
だがハンスは大きめの瓦礫をよかすとその手を止め、代わりに口を開いた。
「たぶん出られるとは思うが……、問題は出たあとだ。出てきた所をコミーに囲まれたら……」
ノインは沈んだ声で「そうですよね……」と呟いた。
ヘルメットの中で揺らめく小さな炎と、雲にさえぎられた陽光が瓦礫越しに射す暗い地下鉄駅の廃墟に、二人分の重い沈黙が数分以上横たわった。
その間にも雨音と銃声は幾度もコンクリートの壁に残響する。
「あの」先に口を開いたのはノインだった「ハンスさん、どうして私を生かしておいたんですか?」
「……昨日話しただろ」コンクリートの壁によりかかったハンスは大きなため息をついた。
「あの時は取り乱してましたし……」
ハンスは再び大きなため息をついて、淡々と話を始めた。
「…………何度も言うけど、まずあの時俺は君を殺せる武器を持ってなかった。火炎放射器は落ちたときにボコボコになってパアだし、拳銃は普段から持ってない。もちろん素手じゃ勝てない。
それに、火傷見ててこれ以上何かする気も無くなっていたし、君を殺してまで意地汚く生きるつもりも無かった」
「……優しいんですね」
「……でもその火傷は―――」
「でも、殺さなかった。それだけでも十分優しいです」
ノインの言葉に、ハンスはただただ沈黙するしかなかった。
雨音と砲声、そして二人の細い吐息だけがまた薄暗い地下を支配する。
ヘルメットの中で燃える光も、この国の行く末を案じるかのように、だんだんとその勢いを失いつつあった。
何分立ったろうか、再び沈黙を破ったのはノインの声だった。
「……ハンスさんは、この戦争が終わったらどうするんですか?」
少しの沈黙の後、ハンスはゆっくりと口を開く。
「母さんの手紙には実家はジョンブルに焼かれたって言うし、家族は一家でスイスに逃げたって言うし……。まぁ、適当にどこかで暮らしていくよ……」
「スイスに行かないんですか?」
「どこに住んでるのかもわからないんじゃ行くだけ無駄だ」ハンスはそのまま床に寝転がると、一息置いて「そう言うお前はどうなんだ?」と訊いた。
「……お嫁さん」ノインは今にも消えそうな声で呟く。あまりにもここには場違いなその一言にハンスは思わず笑ってしまった。
「笑わないで下さい! いいじゃないですか、女の子なんですから!」
「いや……ごめんごめん」口をへの字に曲げるノインをハンスがなだめる。「でもいろいろ可愛かったから、つい……」
「……可愛い……ですか……」いつの間にかノインはへの字に曲げていた口を元に戻していた。「本当……ですか?」
「ああ。めちゃくちゃ可愛い。なんで火炎放射器使ったんだろってくらい可愛い。」
「……そうですか」
炎はパタパタと揺れるノインの尻尾をコンクリートの壁に映して、燃えていた。


1945年5月1日午前11時 ドイツ第三帝国首都ベルリン 天気:雨

小ぶりだが弱まる気配のない雨は、炎を孕み続けるベルリンの街を潤していた。
戦車を失くし、市街地から逃げるように―――いや、逃げに逃げてきたクラウスは仲間とはぐれ、一人雑貨店の中に身を潜めていた。
「どうする……コミーに手を上げるか?それとも……」カウンターの裏で足を伸ばすクラウスは、横に立てかけられたモーゼル小銃を見る。
弾も数発ほど残っているので、いざとなれば銃口をくわえて自決することもできる。
どうせ捕まってもシベリア送りは避けられないはずだ。それに意地汚く生きる気もない。
「まさか、自分でモーゼルの弾くらって死ぬとはな……」
前の戦争の、塹壕でジョンブルを撃っていた時には、そんなこと思いもしなかっただろう。
クラウスはモーゼルに手を伸ばし、銃のボルトを引く。そして銃口を自分の方向へ向けた瞬間。
「ドイツ兵諸君! 出てきたまえ!」流暢なドイツ語で誰かが叫ぶ。ショーケースから少し顔を上げて通りを見ると、そこにはソ連兵とソ連軍の将校が立っていた。
どうやらここら一体に立てこもっているドイツ兵に呼びかけているらしく、まだこちらには気づいてはいない。
「今すぐ武器を捨てて投降しろ!」士官のだみ声はさっさと出てこいと言うが、出てくるやついなどいるはずもない。
「新任の尉官か……道連れにはちょうどいい」
そう言うとクラウスはモーゼルを構え、気づかれぬように塹壕戦の要領でショーケースから見を出すと、士官に照準を定めた。
照準内に士官の体を入れると、クラウスは撃鉄に指をかける。
そして士官の体ははね飛ばされ、雨に濡れた石畳の上に落ちた。
『少尉! 少尉!』店の外でロシア語で倒れた士官に兵士が呼びかけている。
「誰だよ……今撃ったのは」どさ。とクラウスは結局火を吹かなかったモーゼルを持ったままショーケースにもたれかかった。「誰だか知らんがご愁傷様だな。」


1945年5月1日午後9時 ドイツ第三帝国首都ベルリン 天気:曇り

 雨はまだ振り続いているものの、少しづつ止んでは来ている。
「明日まで……持つか?」
横で子犬がすうすうと寝息を立てている横で、ハンスが呟いたのはヘルメットの中の重油のことだった。もはやヘルメットの中の炎は小さくなってきている。
拾ってきたライターもオイルは無限では無い。いずれはオイルが切れるだろうし、拾った物なのでそれがいつかすらわからない。
「たぶん大丈夫……だよな」そう考えるとハンスはヘルメットの中へ息を吹き込んだ。
このまま、明日は晴れればいい。晴れれば明かりをつけずにすむ。毛布にくるまったハンスは思った。


1945年5月2日午後2時 ドイツ第三帝国首都ベルリン 天気:曇り

 「ん……」ハンスは不意に視界が明るくなったことに目を覚ます。
光の正体は、雲が無くなったためにその光を照らし続ける月だった。
「んー……いい月だ」これでピルスンビールと、黴の生えてないチーズさえあれば最高なのに。と考え、ハンスがそのまますぐに眠ろうとした瞬間。

ガタン
ハンスは物音のした方向を見ると、そこには少女の姿の何かが立っていた。
(ノインがトイレでも行ってたのか?)そう思うとすぐに目を閉じる。
が、それが命取りだった。
「―――がはっ!」
突然ハンスの体は何かに圧し掛かられ、押さえつけられる。もちろんハンスも反撃しようとするが、相手の力のほうが強いためかすぐにねじ伏せられる。
ハンスが再び目を開けると、上を向いたハンスの目線の先にはノインがいた。

――――いや、正確には『ノインの姿をした誰か』だった。

月明かりに写るそれの両目はノインのアイスブルーではなく血のような紅。

「ハンスさん、起きましたか?」それはノインの声でハンスに語りかけた。
「がっ……くっ……」俺は必死の抵抗を試みるが、やはり無駄のようだった。
「暴れないでくださいよ。私ですよ、ノインですよ」それはノインそっくりの笑みを浮かべる。だが、その両手はハンスの両腕を押さえつけて逃そうとしない。
それは彼女の顔の左半分を覆う包帯を取り去り、膿のわきはじめた火傷跡をあらわにし、ハンスの右手をそこに導いた。
「この火傷の責任……とって貰いたいんです……」
殺される。ハンスは本能的にそう思った。
が、その手を振り払いはしなかった。
したくても力負けしていたのもあるが、殺される。と叫んでいる頭の別のところで、大丈夫だ。と言っている。
その頭の声に従っただけだ。
「…………本当に優しいんですね。ハンスさん」
それ―――ノインは顔をハンスの顔に近づける。
そして、直後ハンスの腹の辺りを鈍痛が襲った。
「じゃ、ちょっとの間おやすみなさい。ハンスさん」
薄れゆく意識の中で、ノインの声が彼方から聞こえてきた。