10年後、少年は青年へと成長し。少女は女へと成長した。
「異常は?」
「ありません、少尉。・・・・・・今頃、戦端が開かれているでしょうか?」
「どうだろうな。気になっても仕方がない。私達は、彼らが安心して戦えるように、彼らの家族を護っているのだから、それに集中しろ」
「了解であります、少尉。では」
人間と獣人の争いの歴史は既に200年程立っていた。
獣人の、その能力は遥かに人間を凌駕する獣人達ではあるが、数で勝る人間は彼らに対等以上に戦を進めてきた。
だが、それも10年前に一変する。
「アンゼリカ・・・・・・」
数十キロに渡って作られた城壁の上で、先ほど、少尉と呼ばれた青年は茜に染まる空を眺めて呟いた。
ゆるゆると追い詰められていた獣人たちの下に、彼女が現れたのは8年前だった。
ユーラシア大陸の、チベット高原付近で行われた獣人1万と人間23万との戦。
それまでどおり、多大な犠牲を払いながらも勝つと思われたその戦は、人間側の大敗に終わった。
戦場の推移を知った青年の育ての親は、戦場に死を呼ぶ黒い羽が舞ったと、天を仰いでいたのを覚えている。
「もうすぐ、夜か」
夜はやつらの世界だ。
太陽はもう半ば沈んでいる。透き通るような空には、黄昏と夜が混在していた。
この周辺の夜は寒い。昼と夜との気温差が20度程もある。
不意に、視界の端に打ち捨てられた建物郡を見た。
昔は関所だった、この長城を通ろうとした者たちが賑せたという交易市。
しかし今では半ば崩れかけ、過去の繁栄など見る影もない。
「――っ」
服の、胸元を皺が残る程強く握る。言いようのない恐怖が成年の中から湧き出ていた。
青年は身を翻して城壁の中へと歩を進めた。酷く、気分が悪い。
闇に沈んだ階段の向こうへ、青年の後姿は消えていった。

獣人なんて、全て滅んでしまえばいいのに。

空が、輝き始めた。


始まりは、酷く呆気ない音だった。
空から落ちてきた槍。それが、寸分違わず偵察兵の一人を、上下に貫いた。
呻き声と共に、血飛沫を上げて倒れる。周囲の仲間は、その光景をただ見ているしか出来なかった。
――その、一瞬のタイムラグを、彼らは見逃さない。

直後。
数百の槍が、そこに居るものたちを地面に縫い付けた。


「セイル少尉・・・・・・! て、敵襲です!」
自室で一人過去の幻影と戦っていた青年の下へ、形相を変えた衛兵が現れたのは5分も経った頃だった。
「何!? どこから現れた!」
長年使い続けた愛用の椅子を蹴飛ばすように立ち上がる。
仕官のみに与えられた狭い個室の石床に、大きな音が響き渡る。
――そして、兵士は、音もなく崩れ落ちた。
「空から、よ。久しぶりね? ・・・・・・10年かしら」
入り口の死角。扉の淵から、白い足が伸びた。
鉄製なのか、鈍く光るブーツが頭部に短剣を刺して倒れる青年の部下を、苛立たしげに蹴飛ばす。
突如現れたそれが何なのかを理解する前に、机の上においていた剣を抜いて、青年は跳躍した。
軍人であった父のもとで、10年かけて培った戦闘術。そして、判断力。
18歳の若さで少尉という階級は、これによるものが大きかった。
同年代の人より、幾らか小さな体躯が、ランプの明かりに照らされた薄暗い室内を舞う。
右手には、1メートル弱の両刃の剣。たとえこれがよけられても、左に隠した短剣が敵の胸元を貫くだろう。
そんな思考は、腹部を襲った強烈な衝撃に、かき消された。
「かはっ――!?」
「強くなったね、セイル。あの日の誰よりも。でも、相手が悪かったかな」
薄れ行く意識の中で、青年は、懐かしい声を、聞いた――


「あ、起きた?」
強い光に促されるように青年が瞼を開くと、眼前に少女が居た。
思考が動き出すより先に、体が動いた――いや、体は、動こうとした。
右手首と、右肩の間接に鈍い痛みが広がる。見れば、体全体が丈夫そうな皮のベルトできつく縛り付けられている。
「ふうん。お母さんに聞いてた話より、けっこう凶暴なんだ。でも、うん。顔は合格」
いつかの少女と重なる顔で、笑う。紅く光る瞳が、青年を値踏みするかのように輝いていた。
「お前は、誰だ」
精一杯の虚勢を込めて、声を低くして青年は言った。
「こんな状況になっても強気なのね。意思も強そう。やっぱり、お母さんの話と全然違うな、お兄ちゃん本当に、セイルって人?」
「お前は誰だと言っている。動けなくても、やれることはいくらでもあるんだ。早く言わないと――」
「そんなに急かさなくても教えてあげるよ。私の名前はセリカ。お兄ちゃん・・・・・・ううん。お父さんの、子供だよ?」
「・・・・・・冗談を言うな、第一僕は彼女だっ――」
「本当よ? セイル」
掛けられた言葉、いや、その声に、少年の体は震えた。
「え、あ・・・・・・?」
「お母さんだ。おかあさーん」
少女が走っていた先に、女性が居た。走り去る少女の背中には、漆黒の翼。
それをはためかせて、文字通り飛ぶように少女は女性へと飛び込もうとした。
だが、そんな少女を伸びた女性の手が制した。
「ダメじゃない。セリカ。私より先に、お父さんに会っちゃ」
「でもでも――」
「セリカ」
「う・・・・・・はぁい・・・・・・」
あの翼は感情の起伏も表しているのだろうか、明らかに力なくしぼんだ羽を、少女はばつが悪そうに揺らす。
そんな少女を見て満足したのか、女性は少女を一度、抱きしめた後、青年の下へと歩みを進めた。
「お前は・・・・・・」
言い知れぬ恐怖を感じながら、青年は気丈に尋ねる。
女性は答えずに、傍らにおいてあった小さな机の、その上に置いてあった薬瓶を手にとって、中に入っていた小さな錠剤を3錠、取り出して口に含んだ。
「お前、何を――うぐ!?」
声を張り上げた青年の唇を、やわらかい感触をした何かが塞いだ。
それが女性の唇だと気づいた時には、どこか甘い味の唾液と共に、青年の口内に塊が三つ、流し込まれている。
「ぐ――」
音をたてて、喉がそれを嚥下した。
「あーあ。お母さん。火がついちゃったか・・・・・・がんばってね。私、弟が欲しいなー」
背後でその光景を眺めていた少女が、つまらなさそうに言って、部屋の外へと出た。
「ん、ん――!」
少女の言葉を示すかのように、女性は止まらない。
いつかのように、青年の口内がねちゃ、とした水音と共に蹂躙されていく。
恐怖と緊張で強張っていた体の、その節々から力が抜けて行く。同時に、その肩に忘れた痛みが蘇ってくる。
抵抗しようとしても、体が動かない。口から送り込まれる甘い感覚が、青年から反抗の意思を奪っていく。
口と口の隙間から泡だった白い粘液が漏れ、青年の頬を濡らす。その軌跡が、熱い。
どれほど経ったのか、女性が吐息を漏らして唇を離した時には、青年の舌は乾き、痺れてしまっていた。
「あ・・・・・・はぁ、久しぶり。本当に・・・・・・どれほど私は、セイル。貴方に会うのを、夢見てたことか」
「お前は、まさか・・・・・・」
「そう、アンジェリカ。興亜村で、貴方の隣に住んでいた。人形のアンと、呼ばれていた・・・・・・」
人形のアン。
青年の記憶の中で、目の前の女性はとても物静かな――静か過ぎる少女だった。
いつも、どこか遠くを眺めて、数少ない村の子供達の遊びにも加わらず、一人で居たのを覚えている。
それはやがて、子供らしい残酷な虐めに発展し・・・・・・そしてやがて皆、興味を失ったように少女を無視し始めた。
青年は、そんな少女を、あの日、故郷が燃える日まで、気にかけていた
「死を呼ぶ凶鳥が、なぜここにいる。前線の方はもういいのか」
吐き捨てるように言った青年の、そむけた顔は直後、驚愕に歪む。
「ええ。まだ、教えてなかったわね・・・・・・人は、負けたのよ」
「――え?」