山﨑武司


  • すなわち、希望と絶望、光と闇、アルファでありオメガである。

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  • 1968年11月7日生 愛知県知多市出身 右投右打
  • 苗字は「やまさき」と読み、濁らない。また登録名は「山﨑」だが本名は「山」である。

  • 楽天における、野村再生工場の最高傑作。
  • 「東北楽天ゴールデンイーグルス」を象徴する選手の一人――だった。
    二代目ミスターイーグルスといっても過言ではない。

  • 1986年、ドラフト2位で指名され中日ドラゴンズに入団。
  • プロ入り当初のポジションは捕手。だがあまりにも(ryだったので外野手にコンバートされる。
    一時はサードの練習もしていたらしい。
  • 本塁打王に輝く(1996年)など、主軸となることを期待された存在だった。
    しかしあまりの勝負弱さや当時の監督との確執もあり、2002年オフ、オリックスへトレード。
  • そのオリックスでもまったく打てず、そのうえ監督とも揉めて干されていた。
    ところが、この試合に出られなかった数年間がいい意味での休息に。
    結果的には選手生命を長引かせることになる。
  • 2004年にオリックスを解雇され、一時は引退を考えたものの、現役にこだわり新球団へ。
  • 背番号の「7」は娘さんの名前にちなむ。野球を続けてほしいという子供達の思いに応えるためにつけた。
    本来7番は竜太郎に与えられる予定だったが、頼み込んで譲ってもらったそうだ。
  • 余談だが中日時代の背番号「22」は当時監督だった星野仙一の親友でもある田淵幸一にちなんで与えられたという。
    おそらく強打の捕手となることを願ってのもの。

  • イーグルス入団後、一年目から4番を任され、チーム最多の25HR・65打点を記録する。
  • さらに翌年、野村克也が監督に就任し、打撃が開眼。
    2007年には43HR・108打点を叩き出し、39歳で二冠王を獲得した。
  • 捕手陣への説教を盗み聞きし、配球論を打撃に生かしたエピソードは有名。
    だが、打撃向上は田尾安志の存在もあることを本人は語っている。
    中日の先輩でもある田尾に、バッティングフォームの改善など指導を受けたそうだ。
    また山崎自身も年齢を重ね、人の話を聞けるようになったことが大きいらしい。
  • ところがそこに野村監督就任。
    「今度こそオレも終わった」と思っていたら、監督の方も丸くなっていたので事無きを得た。
  • 野村監督はというと、最初山崎を「わがままな選手」と思っていたそうだ。
    だが練習での真摯な態度、進んで若手を指導・説教する姿勢、並大抵のケガでも休まない姿を見て
    「チームの中心」と考えを改めたとのこと。

  • そして現在も、とてもアラフォーとは思えないバッティングを披露してくれる。
    当たったら飛ぶ。マジで飛ぶ。バットを払ったような当たりでスタンドまで持っていく。
  • ただしここ数年は併殺王という不名誉な記録も持っているのがいかにもジャーマンらしい。
  • ついでに、毎年一回は盗塁をする。走る様からは「ドスドス」という擬音が見える。
  • チャンスでゲッツー、どうでもいい場面でソロHR。一番打者にすりゃいいんじゃね?
  • 2009年は39HR・107打点(いずれもリーグ2位)とチーム初のAクラス、及びCS出場に貢献。
    CS敗退後、目を潤ませてインタビューに応じる姿には全わしせん民が涙した。

  • 無言会員の多いイーグルスの中で、最年長ということもあってか一番トークがうまい。
    お立ち台に上がる前には、何か面白いことを言おうとあらかじめ考えている。
    しかしヒロインで毎度巨大なフラグをおっ立てては成立させているのは気のせいか?
  • 「ジャーマン」は中日時代、凄まじいまでに打てず「邪魔崎」と呼ばれるようになったのが始まり。
    邪魔崎がいつしかジャーマンへと変化していった。ジャマハハハハ
    • Wikipediaにも載っているが……いいの?
    • 英語の「German」とはむろん関係ない。たぶん。でもジャーマンスープレックスはできるかもしれない。
  • 毎年のように「山崎ももう引退だな」と言われるが、気がつくとチームトップのHRと打点。
    なんだかんだで20本は打つ。

  • 2011年にはプロ入り時の監督だった星野監督が就任。
  • そのためか本人の気合も並々ならぬものがあり、「結果が出なかったらユニフォームを脱ぐ」とたびたび語る。
    震災のことも心情に影響したかもしれない。
  • 事実シーズンが始まると、積極的な走塁で三塁打を放つなど、いつもの春先とは一味違った姿を見せる。
  • 統一球が導入されたため数は減ったが、毎年同様チームトップのHRを稼いだ。
  • ……が、6月11日の交流戦(対竜)にて空振りした拍子に剥離骨折してしまい、戦線離脱。
    オールスターに間に合わせ、1ヶ月で復帰したものの、いかんせん打撃は急降下するばかり。
  • 「やめちまえ」「スタメンで使うな」とわしせん民がヤジる中、10月9日に自由契約となったことが発表される。
    スレが大パニックになったのは言うまでもない。
  • 球団からはコーチ職の提示もあったが、あくまで現役続行を希望。
    他球団でのプレーを目指し、自由契約という形で退団することになった。
  • そして翌10日、あまりにも急すぎる形で楽天での最後の試合に出場することに。
  • 試合後、選手はもちろん打撃投手、ブルペン捕手らベンチスタッフ総出で胴上げ。
    この日球場に山崎コールが絶えることはなく、いつまでも響いていた……。
  • 後に、中日に復帰が決まる。ブランコとの併用か、代打のどちらかであろう。
    • 山本昌よりは先に引退しないと宣言。中日に行っても応援してるで!
  • しかしいざ開幕してみると、開幕戦こそ4番に座り先制適時打を放つも、衰えは隠せず成績は下り坂。
    一時期は、好調のブランコを控えに回してスタメンで出続けていたため、D専民からは聖域扱いを受けた。
  • 翌年2013年7月28日、今季限りでの引退を発表。またひとり初年度メンバーが球界から去ることになった。本当にお疲れ様でした。

  • スーパーカー大好き、ミニカー大好き。ミニカーのコレクションは5000台を越える。
  • 山本昌とのラジコンの会、山山会を組んでいることでも有名。
  • 早寝早起き、お酒もタバコもやらない健康優良児。
  • 恵まれた体格の持ち主で、今でもウェイトトレーニングは一切やらないらしい。
  • 中学時代、相撲部の助っ人として出場した県大会で優勝し、複数の部屋からスカウトされたことがある。
    しかもこのとき、練習したのはたった数日だったとか。
  • 仙台には単身赴任で生活。ホテルを自宅代わりにしていた。
  • いかにも豪快な性格に見えるが、実は悩みすぎてドツボにはまる面も。
  • 実は合コンしてみたいが、まさおに誘ってもらえないそうだ。
  • 野村・星野という話題には困らない監督の下ですごしたからか、トークも上手であり、まさおに次いでTV出演も多い。
  • 日本球界屈指の武闘派。中日時代のガルベス(元G)との乱闘は有名。
    オリックスでは伊原監督に「俺を辞めさせるならお前も辞めさせる」と言い放ったりした。
  • イーグルスに来てからも、栄村球審に「ヘタクソ!」等の暴言を吐いて退場になったこともある。
    ナナちゃんが見てるからいい子にしようね。

ジャーマンメーター

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 邪魔崎   帳尻崎   山崎    必要崎    神崎    伝説崎

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最終更新:2014年01月07日 15:41