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池山隆寛
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池山隆寛
1965年12月17日生まれ 兵庫県尼崎市出身 右投右打
イーグルス在籍時の背番号は「77」
現役時代はヤクルトに在籍。ブンブン丸、イケトラコンビの1人(もう1人は広澤)、Mr.バックスクリーンとして有名。
ブンブン丸と呼ばれるとおり、豪快なフルスイング、三振の多いバッターだった。
しかし、90年にヤクルト新監督として就任した
野村監督
からは、三振を減らせといわれてしまう。
その命令で不振に陥るも、「2ストライクまではフルスイング」というシンプルな理論で3割30本をマークした。
飯田
や古田、高津、伊藤智などといった選手達とともにスワローズを優勝・日本一に導く。
3割30本を遊撃手として初めて達成したり、Mr.スワローズである若松勉氏の背番号1をもらうなど、スワローズ黄金期の象徴的存在。
のちに、宮本慎也の台頭でサードにコンバート。もともとサードにコンバートしたいという気持ちはあったとか。
さらに2000年からは
岩村明憲
の台頭でサードも埋まってしまい、代打の切り札を務める。2002年に引退。
通算本塁打は304本(スワローズで歴代最多)、通算三振数は歴代13位の1440。1987年~1992年は6年連続100三振。さすがブンブン丸というべきか。
守備も405守備機会連続無失策(セ・リーグ記録)を記録するほど上手い。
しかし90年代は川相やノムケンがいたので、ゴールデングラブ賞は1992年の遊撃手部門の1度だけ。
お茶目な性格なのか、結構珍プレー番組で取り上げられた。
引退後は解説者を務め、2006年に恩師の野村監督のもとで打撃コーチに就任。
2009年に野村監督が解任されるとともに退団した。
自身と同じく三振の多いバッター、
T.リンデン
の打撃フォームを改造すると言って期待させたが、出来ずじまい。
2011年からは古巣ヤクルトで2軍打撃コーチに。
2016年に復帰し、
田中和基
などを育てるも、2018年に退団。
その背景には関係があまり良くない古田派の
石井一久
がGMになったからだと言われているが、そんな争いがあったかどうかはご想像にお任せする。
鉄平
を中日の代走・守備固めから首位打者になったり、
渡辺直人
がいやらしいバッティングで遊撃のレギュラーになったのは
実はこの人のおかげかもしれない。
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最終更新:2018年11月22日 21:44
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