岩村明憲
- 1979年2月9日生まれ 愛媛県宇和島市出身 右投左打
- 2回のWBCを経験した元大リーガー。
- CSでWBCの再放送があると、岩村のかっこいい姿に色々な意味で涙する住民多数。
- 第2回大会では内野陣のリーダーとして、セカンドで堅実な守備とここぞという時に打撃で侍ジャパンに貢献。
- 宇和島東高校出身でBIGさんの後輩。
当時エースピッチャーだったBIGさんとバッテリーを組んだこともある。
- 1997年にヤクルトへ入団。
走・攻・守三拍子揃った三塁手として活躍し、池山隆寛からMr.スワローズの証、背番号「1」を受け継いだ。
- 2006年オフ、ポスティングでタンパペイ・デビルレイズ(当時)へ移籍する。
BIGさんが(一応)三塁を守れるのは、当時岩村の穴を埋めるために、コンバートしたから。
- 暗黒だったレイズを、2008年に初の地区優勝、惜しくも敗退したがワールドシリーズへ導く立役者となる。
- 岩村が受けた激しいスライディングが元で、退場者11名を出す大乱闘になったことがある。
- 一時、レイズで監督をはじめ選手にモヒカンが流行ったのは実質的にチームリーダーであった岩村の影響である。
- レイズ時代、ヤンキースの選手だったラズナーと対戦したこともある。結果は2打数1安打1三振。
- 2009年オフ、ピッツバーグ・パイレーツへトレード。
岩村の特長である左方向への強い打球がなくなるなど、深刻な打撃不振に陥り、9月に戦力外となってしまう。
- オークランド・アスレチックスが獲得したが、目立った成績を残せず解雇。
- 高年棒も移籍先を探すにはネックとなったことから、日本球界復帰となった。
- 2010年11月14日、楽天が獲得したことが発表される。背番号は「1」。塩川、涙目…。
- 契約前、星野監督から電話で「お前と野球がしたかったんや」と包み込むような声で言われたらしい。
- 同じメジャー帰りの松井稼頭央とはAKB(Akinori Kazuo Brothers)を結成。
命名の理由はおそらく、岩村が記者に「(松井を)兄貴のように慕っています」と言ったから。
- 盛り上げ役を買って出てでもいるのか、わしせん民の心をぐっとつかむようなことをよく口にしてくれる。
- また開幕前からメディアへの露出が非常に多い。
スポーツ紙の取材はもちろん、「run for money 逃走中」(フジ)にも出演。残念ながらあっさりバテて捕まってしまう。
- なぜか長野でのひじりーと千尋たん(檻)のイベントにゲストで登場している。
この日岩村と初対面のひじりーはガチガチだったらしい。
長野とは縁も所縁もない岩村がどうして参加したのかはいまもって謎。
- ごつい体格と日に灼けた外見がルイーズと似ている。
- スレでは「左のルイーズ」と呼ばれることも。
- ニコ生のキャンプ中継では、「岩村、痩せろ」とコメントがついた。
だがこのとき、ルイーズ以上の扇風機になろうとは誰が予想しただろうか……。
- ヤクルト時代の2003年ごろから強烈なメジャー志向を表していたらしい。
そのためか当時から英語がペラペラ。外国人選手とも仲が良かったそうだ。- なお、スペイン語もいけるらしく、レイズ時代はコミュニケーションで困ることはなかった。
- 英語を社内公用語とする楽天本社の納会に参加した際には、流暢なあいさつを披露した。
一方、まさおは「Nice to see you. I'm Masahiro Tanaka... あとは日本語でいいですか?」とギプアップ。
半袖にいたっては「Hi!」「Do my best!」で乗り切っていた。
- 伝説の怪童、中西太を打撃の師と仰いでいる。ブログのタイトル「AKI何苦楚魂」も中西の座右の銘が由来。
- ヤクルト時代は広角に打てるバッティングで三振とヒットを量産していた。
MLB移籍後は、トップバッターとして起用されたこともあり、出塁を重視したスタイルに。
- 自ら認めるほどのスロースターター。OP戦ではその貫禄に住民を大いに心配させた。
- 震災で開幕が延期されたが、開幕戦で2安打を放った以降はスロースタートどころかそれ以前の問題。
- 打棒も不調なら守備もエラーが頻発と、1ヶ月もしないうちにわしせん民がキレはじめる。
- 左投手相手のスライダー、カーブに背を向けて見逃し三振に倒れるなど住民が呆れる様な打撃を見せる。
- あまりに打てない守れないなので、「ノリさんの方がマシ」「元背番号1のほうが使い道があるぞ」という声すら出た。
- とある試合にて、解説の駒田が「岩村に復調の気配がある」と発言。
実際に打球が前へ飛ぶようになっていたので期待するわしせん民もいた。
――が、結局どん底は変わらず。とうとう二軍へ落とされた。
- 6月28日に1軍登録。今までも夏は活躍してきたことが多い。今までの分の返上、頑張れ。
- すると登録された翌日のソフトバンク戦で抑えの馬原から左中間へまさかのサヨナラ打を打った。
住民総土下座。
- ヒロインで「朝、テレビの占いで1位だったので、それを意識して打席に立った」と語る。
- おそらくみずがめ座が1位だったフジの「めざましテレビ」。
「うれしいサプライズ演出を受け感激。願っていた以上の展開に心ウキウキ。アドバイス:ダメもとで行動する」
予言?!
- 8月14日の試合中、サードに来たファウルボールのゴロを何とトンネルした。それを見逃さなかったファンは強烈な野次を発した。
- 結局、その後にケガで再び二軍落ちし、そのままシーズン終了。
打率.183、HR0、打点9。さらに肝心な場面でのエラーなど期待を大きく裏切る結果となり、完璧に「ダメジャー」の烙印を押される。
- シーズン終了後の秋季キャンプではおっさんと共に自主参加。
- 写真や映像で姿を見せるたび、痩せた痩せないでわしせん民がよく騒いでいる。
- ところがどっこい、2012年もOP戦は絶不調。HRを打った試合でエラーをすることも。
さらに練習中に肉離れで開幕絶望に。
- 開幕は2軍だったが、1軍に故障者が続出したり、2軍でそこそこの成績を残していたので6月に1軍からお呼びがかかる。
- 打率が低迷していたが、外野によく飛ぶようになり一部住民からは「去年の凡退よりはまとも」という声が相次ぐ。監督も期待の表れなのか、定期的に出場させていた。
- 7月あたりから好調になり始め、マルチ安打も続いた。7月7日には楽天入団初のHRを放ち、住民の手のひら返しを炸裂させてくれた。
- ちなみに7月7日の試合はプロ初の4番として出場。燕時代も機会がなかったのは、恐らくペタジーニやラミレスがいたからであろう。
- その後は、打率は.200前後と停滞気味なものの、四球での出塁が多く出塁率が3割に乗り、打率を考えるとかなり高めに推移する。
- しかし、怪我で再び離脱しジ・エンド。割といい出塁率だけでは評価されず、銀次、枡田の台頭もあり、戦力外通告を受ける。
- 結局先輩の宮出同様、東京ヤクルトへの復帰が決まった。まあ、よかったよかった。
2012年7月に行われた
緊急入団会見ヒーローインタビューの模様。楽天ファンの涙を誘った。
最終更新:2015年10月07日 14:35