野村克也


  • 1935年6月29日生まれ 京都府出身 右投右打
  • 在籍時の背番号は「19」
    • 監督なのにえらく若い背番号だったのはこの番号が現役時代に着けていたものだったから。

  • 日本球界史上最高の捕手。
  • 1954年、南海ホークス(現ソフトバンクホークス)に契約金なしのテスト生として入団。
    「カベ」と蔑まれるブルペンキャッチャーからのスタートだった。
    • 実は入団テストにすら落ちていたりする。
      他の合格者が辞退し、また高校の先生が送った手紙を読んだ鶴岡監督の温情もあってプロ入りできた。
  • 捕手としては肩が弱く、一時はクビになりかけたり一塁にコンバートされたりした。
    しかしチャンスをつかんで三年目には正捕手の座を得る。
  • クビを言い渡された会見の場で「帰りに南海鉄道へ飛び込み、自殺します」と言い、クビを逃れた話はあまりに有名。
  • 以後の活躍は周知の通り。

  • 1965年、戦後初の三冠王に輝く。世界初の捕手の三冠王でもあると同時に唯一の例でもある。
  • 1970年には南海の選手兼任監督(プレイング・マネージャー)に就任。
    「監督兼正捕手兼4番」という、さながら「昔のマンガかお前は!」とつっこみたくなるような肩書きである。
  • 福本豊の盗塁阻止のために世界で初めてクイックモーションを開発、先発完投が当然だった時代に「プロ野球に革命を起こさんか?」と口説き落とし、
    江夏豊をリリーフ転向させ、本格的なリリーフ投手の概念と投手分業制を確立させるなど、その後のプロ野球に果たした役割は数知れない。
  • しかしどんなに活躍しても、顧みられることのないパリーグの話。
    また同時代のセリーグには王・長嶋といった大スターがおり、話題性で到底かなうことはなかった。
  • 当時のパリーグがどれくらい酷かったかというと、捕手として初の600号本塁打を野村が打った日の観客は6000人程度しかいなかった、と書けば大体想像できるのではないだろうか?
  • 話題性で敵わなかったというエピソードに、捕手として初の2000本安打達成した翌日のスポーツ新聞全ての一面が「長嶋、決勝犠牲フライ」だったという、現在であれば到底信じられないような話がある。
  • これを指し「王や長嶋が向日葵なら俺はひっそりと日本海に咲く月見草」と発言したのはあまりにも有名。
  • 選手としても監督としても南海黄金時代を支えたが、1977年「公私混同」を理由に解任される。
  • 在任中に後継者を育てなかった上、野村退任時に野村を慕っていた江夏ら主力選手が離脱した為、南海は身売り先のダイエー時代も含めてここから20年連続でBクラスという低迷に陥る。
  • 当の野村は「生涯一捕手」を胸にその後ロッテ、西武を経て1980年に26年に及んだ現役生活に幕を下ろす。ときに45歳。
  • 本人曰く、「長いプロ野球生活で唯一自慢できるのは45歳の時に新球団とはいえ西武と契約を結んだこと」らしい。
  • 引退後は解説者、評論家として活動。
    ストライクゾーンを9分割にして打者の得意・苦手を分析した「ノムラスコープ」など今までの解説者にはないような視点での解説が好評を博した。

  • 1990年、請われてヤクルトの監督に就任し、現場へ10年ぶりに復帰する。
  • 素質ある若い戦力と共に、「ID野球」を駆使してヤクルト黄金時代を築き上げた。
    この時の教え子の多くがのちに楽天のコーチとなり、また球界に広がっている。
  • 「終わった」といわれる選手を起用し、復活させる手腕は「野村再生工場」と呼ばれた(例:小早川毅彦、山崎武司)。
    ――と同時に酷使で投手陣の寿命を縮める事でも有名だった。特に伊藤智仁がルーズショルダーであることをコーチ等から知らされていたにも関わらず酷使し、結果寿命を縮めた事は未だに批判されている。
  • 古田や高津がバラエティに出て目立つ様な言動を取る事に対して王貞治が苦言を呈したのだが、「お前はガラガラの球場で野球をやった事が無いから分らんのや」と答えた事があるらしい。野球選手は人気があってナンボだ、と考えている事を表すエピソードである。
  • 1998年に監督を退くが、即、同リーグの阪神タイガース監督に就任。
    • 同じパターンで星野仙一も中日勇退後に即阪神の監督に就任している。
    • 因みに勇退即同リーグのチームに監督就任という前例は西本幸雄がいる(阪急→近鉄)。
  • 生え抜き重視の阪神フロントがVIP待遇で迎え入れ、暗黒時代真っ最中の阪神ファンも「これで暗黒時代に終止符を打てる!」と大いに喜んだのは想像に難くないだろう。……ところが就任3年間で一度も最下位を脱出出来ず、夫人の脱税容疑もあって無念の退任。
  • 後の優勝に繋がる人材(井川、濱中、赤星ら)は育てた、阪神得意の「フロントと現場間のゴタゴタ」で手腕を発揮出来なかった、
    という意見も見られる。
  • フロントとのゴタゴタは後にTVで語った所によるとこうである。
当時ノムさんはフロントに「即戦力の投手」を希望していたのだが、1年目は高卒出の藤川球児(芽が出るのに7年掛かっている)、2年目は投手と言ってるにも関わらず遊撃手の的場寛一(フロントは10年に1度の選手だからここで獲得しなければ、といってとったが、体が小さい上に肘を故障しており、実際試合に使うとダメだったという)そして3年目に漸く藤田太陽が来るが、キャンプになっても一向に投げず、痺れを切らしたノムさんが「お前はいつ俺にピッチングをみせてくれるんだ」と聞いたところ「じゃあ今日投げます」と言って投げたのだが・・・なんと肩を壊しているのにも関わらず逆指名してもらうまで巨人と競った、という事である。(因みにこの年の巨人の逆指名は阿部慎之助)実際当時のフロントはあまりにも酷く、後任の星野もオーナーに面と向かって「ここまでになったのは失礼ですが、オーナーであるあなたの責任ですよ」という程のものだったらしい。
  • 実際退任から2年後の2003年に阪神が優勝した際、「野村の蒔いた種が芽を出した結果」と見るファンや解説者も少なくなかった。

  • 再び大好きなグラウンドから離れるも、今度は社会人野球に姿を現す。
  • 2002年秋、シダックスの監督兼GMに就任。
    わずか数ヶ月でシダックスは社会人野球ベーブルース大会で全国制覇を成し遂げる迄に成長した。
  • このときのシダックス出身者で楽天に進んだ選手として中村真人小山桂司がいる。
    他球団には野間口貴彦(巨)、武田勝(公)、庄田隆弘(元虎)、森福允彦(鷹)。

  • 2005年オフ、田尾安志を一年足らずで解任した楽天フロントから白羽の矢を立てられる。
    時に70歳、3年契約での監督就任である。
    「このおじいちゃんに監督の要請が来る事自体、プロ野球に後継者が育っていない事を意味している」と警鐘を鳴らすコメント。
  • 元々のネームバリューもあり、毎試合後のコメントは勝ち負け関係なく「ぼやき」として全国ニュースで大きく取り上げられる。
    本人も宣伝を意識してやっていたらしい。
  • 基本的にあまり選手と会話しない為、自分に対する評をニュースで知ったという選手も多かったという。
    おそらく一番割を食ったのはであろう。

  • 3年契約の満了後、戦力向上や人気面での貢献を評価され契約は1年延長される。
  • その2009年シーズンは得失点差マイナスながら2位を達成。
  • 初のAクラス、CS出場で続投の声が盛り上がる中、フロントは退任は規定路線であり、再びの契約延長はないと言明。
  • 監督本人のややこしい性格も合わさり、CSを前に去就問題で外野は大盛り上がり。
    リンデンのクビ騒動も加わって、1stステージを控えた空気にまさしく水を差すゴタゴタであった。
  • ノム自身は続投を望んだが果たせなかったと語り、「クビ」にされたと強調している。
  • 出した結果でのみ評価される勝負事の世界に生きてきた人間にとって、フロントの主張に納得出来無くても当然だろう。
  • 最も、年齢から来る体調面での不安が心配されており、この時点での交代は「妥当」という声も。
    一度、試合終了後に救急車で運ばれた事もあったという。
  • 選手交代を告げに行く際も、名前を言い間違えるのでコーチが必ずそばについていたらしい。

  • ぼやきコメントからも分る様に、いい意味でも悪い意味でもマスコミを意識した言動をする。
  • 嘗ての「名将」のイメージのまま、マスコミや外野には采配面で無条件に褒め称えられていた。
  • 最近は愛すべきおじいちゃんキャラで売っているが、生々しいワシ育て的なコメントもかなり多い。
  • 南海をクビになった経緯、カツノリの贔屓起用など、私人としては問題のある人物ではある。
  • とはいえ、結成当初は文字通り「寄せ集め」だったチームをまとめあげ、コーチ陣を含め戦力を上昇させたのは事実。
  • 少なくとも「話にならない」レベルから「普通に弱い」迄には成長した。
  • 彼の一番の凄さは、半世紀以上も野球を最前線で見続け、なお携わろうとする熱意ではないか。
  • 野球好きなのは本物で、楽天フロントとのゴタゴタもグラウンドへの強い執着心がそうさせたのだと思われる。
  • CS前のミーティングでは選手・コーチ陣らを前に涙を見せた。
    「もう一年このチームで野球をやりたかった」と語ったという。
  • ヤクルトの監督になった際も、就任前に入院した為に健康を不安視されていた。
    しかしいざシーズンが始まるとかえって健康になって太ってしまったくらい。
  • 自分と同様に野球好きな人間には、口ではボロクソに言いながら最後には情けをかける。
    一言で言えばツンデレ。
  • 楽天球団には恨み節にも似たツンな態度をとっていた。
    が、通算1500勝を祝うパーティーにて「24年間監督を務めて、楽天で1500勝できた。十分感謝している」と
    初めてデレな態度をみせた。

  • 監督を務めたのは計24年。通算成績1565勝1563敗76分(勝率.5003)。監督通算勝利数は単独5位。Aクラス12回、Bクラス12回、優勝5回、日本一3回。間違いなく名将にふさわしい成績である。
    • 勝率はなんとかギリギリで5割を超えている。もっと勝っているイメージがあるがこれは暗黒時代真っ只中の阪神、創立間もない楽天を率いていた為である。

  • 2020年2月11日、84歳で永眠。
    楽天のみならず、日本の野球界に多大な貢献をしてきた巨星が、遂に堕ちた…


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最終更新:2020年02月23日 10:25