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渡辺 - 01/07/02 20:01:43
「片づくる」の件再び


コメント:
柳さん:> 01/07/02 19:20:33
>さて、中島16師団長の日記を虐殺の根拠としてあげていらっしゃるようですが、「大体捕虜はせぬ方針」が即ち全員処刑だったというのは短絡的ではないでしょうか。
「片付ける」の意味も即処刑とはいいがたいですね。

こんにちわ、何度も同じような内容の質問がありますので、以前こちらに投稿したものを2つを再度掲載します。(捕虜収容を「片端よりこれを片づくる」と言いますかね?)

----(1)-------
「捕虜はとらぬ」方針とは、「捕虜は殺す」という意味であることは明白です。

第一六師団 中島今朝吾日記 12月13日
---------------------------
だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、五千、一万の群衆となればこれが武装を解除することすらできず、...<一部省略>
その仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり、なお続々投降しきたる。
この七、八千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のヶ処に導きて処理する予定なり。
--------------------------

第一一四師団 歩兵第一二七旅団 六六連隊 12月13日戦闘詳報
--------------------------
[一三日午後二時]連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第一二七旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。
--------------------------
[以上、偕行社「南京戦史資料集」に掲載されていますが、ここでは笠原「南京事件」(岩波新書)P154-155 と P156 から再引用しました。]

石川達三「生きている兵隊」より中島今朝吾日記の内容を支持する個所
--------------------------
(句容付近の追撃戦での中島師団[本文中では中島師団は高島部隊とされている]についての記述。)(今回追記:なお「生きている兵隊」は十六師団三十三連隊に取材したものです。)

「捕虜は捕らえたらその場で殺せ」それは命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された。
[石川達三「生きている兵隊」中公文庫,1999年 P115](「生きている兵隊」は昭和13年中央公論3月号で発表されましたが、ただちに発禁になりました。)
--------------------------

「方針」はどこからきたのだろうか?一六師団長 中島今朝吾の「上部」は皇族の朝香中将、その上は松井岩根大将、その上は天皇しかいない。
具体的な方針は中島今朝吾が出したと思われますが、第十軍でも同様な命令が出されていたので、上海派遣軍だけの「方針」ではなかったようです。中島今朝吾日記の記述からはさらに上部の方針とみられるので、中支那方面軍の総責任者 松井岩根大将がこの方針を了解していたと考えざるをえません。

笠原「南京事件」(岩波新書)は是非ご一読ください。
----(1)終わり----
-----(2)--------
江口圭一・芝原拓自編「日中戦争従軍日記」(法律文化者)=小原孝太郎の氏の日記
----------------
十二月十五日 (丹陽を少し南京方向に行ったあたりの村での記述)

そこに驚くべき光景にぶつかった。竹矢来で囲まれた広場の中に、無慮二、〇〇〇人の捕虜が我が軍の警戒裡にうよ[うよ]してゐるのだ。これには驚いた。後で分ったのであるが、これは南京総攻撃に於てこれだけの捕虜があったのだと。話によると、約七〇〇〇人の捕虜があったさうだ。彼等は白旗を掲げて降参したのを武装解除させたものである。
中には勿論戦闘中に捕虜になったものもあり、色々だ。
彼等の中には支那服を軍服の上に着てカムフラージュしてゐるのもあると。そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放するなりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の屍体が山のやうになってゐるさうだ。

十二月十七日 (白水橋?あたりで記述

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渡辺 - 01/07/02 23:57:41
追伸:「壕」


コメント:
柳。さん 01/07/02 19:20:33:>
>「片付ける」の意味も即処刑とはいいがたいですね。
第一、処刑するのであれば「戦意を失ってぞろぞろ」とついてくる筈ないと思いますが? ふつう、逃げるでしょう。
壕、は彼らを収容するためのものだったのでは?
と思います。


まず、「捕虜」とは戦意を失しなった者のことです。
「壕、は彼らを収容するためのものだったのでは? 」とのことですが、「壕」は具体的に何んだと思われてこのようにおっしゃっているのでしょうか?
壕は戦闘中に身を隠すためのもので、通常は長細く直線的ではありません。こんなところに捕虜をどうやって収容するんでしょうか?捕虜は柵で囲うか、適当な建物に収容するのが普通です。
「七、八千人」の死体を入れるには「相当大なる壕を要」する(生きたままなら、壕の長さは何キロにもなります。)のでできない。
だから「百、二百に分割したる後、適当のヶ処に導きて処理する予定なり」ということになったのです。「適当のヶ処」は文脈から「壕」のことではありませんよ。

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K-K - 01/07/03 00:15:24
返信:柳さん


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、柳さん。

>第一、処刑するのであれば「戦意を失ってぞろぞろ」とついてくる筈
>ないと思いますが? ふつう、逃げるでしょう。

 これは、以下の文と密接な関係があると思われます。

中島日記
『一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百二分割したる後適当のカ処に誘きて処理する予定なり』

 中国兵側から考えれば、すでに戦意を失っており投降したつもりになっていたのでしょう。だから、無駄な抵抗をせず、「ぞろぞろ」ついて来たのだと考えられます。

 そのことは日本軍側も十分理解していたことは、「適当のカ処に誘きて」という文で判断できます。日本軍は、中国兵を捕虜にすると見せかけて誘い出したものだといえるでしょう。

 中国兵は捕虜にされるものだと思って「ゾロゾロついて来」たのであり、処刑(殺害)されるとは考えいなかったのだと思います。


>壕、は彼らを収容するためのものだったのでは?
>と思います。

 「収容」するのに誘い出す(「誘きて」)必要はあるのでしょうか?「収容」するのでしたら通常に引率すればいいでしょう。戦意を失い、抵抗を止めている集団なのですから、誘い出す必要は無いと思います。

 また、7~8千の兵士を、100~200に分割して収容するというのは、余りにも手間がかかりすぎると思います。最小35、最大80の集団が出来るわけですが、その1つ1つの集団に対して警備を行わなければならなくなり、非効率に思われます。

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柳。 - 01/07/04 00:10:16
一理ありますね。皆様へのレスです。


コメント:
まず、最初にお願いしたいのですが、鹿児島の某掲示板では、どうも論点が散逸してしまうので、ここに場所を移したいのですが、よろしいでしょうか。
ぼくとしても、単身、乗り込んでゆくようなものですから(笑)相当の覚悟がいるわけですが。
ところで、何ゆえか掲示板本体の記入フォームが機能しないのですが(前の記事を参照しつつ書くと言うことができないので非常に不便です) 、私の側の問題でしょうか。
動作確認をお願いします。

■戦意を失ってぞろぞろついてくることに関する疑問について
『一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百二分割したる後適当のカ処に誘きて処理する予定なり』
これを、処刑と捉えた場合ですが、やはり疑問が残ります。
>中国兵側から考えれば、すでに戦意を失っており投降
>したつもりになっていたのでしょう。だから、無駄な
>抵抗をせず、「ぞろぞろ」ついて来たのだと考えられ
>ます。
しかし、それでは「片端より之を片付くる」という前文
と矛盾しませんか?
処刑ではなかったとしたら、矛盾しませんが。
なぜなら、最初の数百人の時点で、銃撃音や悲鳴が響き
渡る筈で、それでもなお、「捕虜にされるものだと思っ
てゾロゾロついて」くるわけがないでしょう。

>中国兵は捕虜にされるものだと思って「ゾロゾロつい
>て来」たのであり、処刑(殺害)されるとは考えいな
>かったのだと思います。
当然、そうですが、だからこそ不当な大量処刑が行われ
ていなかった、と考えるのが自然ではないでしょうか。

■「壕」に関する渡辺氏の指摘に関して
これは、私の推論で、根拠はないものなのですが、「防
空壕」や「退避壕」という言葉もあるので、細長いもの
と断定はできないと思います。

■投降兵の収容に関する件
>「収容」するのに誘い出す(「誘きて」)必要はある
>のでしょうか?
「誘導」といった言葉もあるので、膨大な投降兵に通訳
不足した日本軍がなんとか誘導する、という意味ではな
いでしょうか。

>また、7~8千の兵士を、100~200に分割して
>収容するというのは、余りにも手間がかかりすぎると
>思います。
しかし、支那軍の投降兵の中には、小銃などを捨てたも
のの、手榴弾などを隠し持っていたり、こちらが少数と
みるや多数を頼んで暴動を起こすものなどが多く、多人
数を一箇所に収容しておくのは危険です。
むしろ、一箇所に集めていなかった事の方が自然に思わ
れます。

■「捕虜」に関する件
>まず、「捕虜」とは戦意を失しなった者のことです。
それだけでは戦時国際法に基づく「捕虜」にはなり得ま
せん(主にハーグ陸戦規定)。
「交戦者の資格」を満たした者が、はじめて、投降して
「捕虜」としての扱いを要求できるのです。
私服ゲリラ(便衣兵)が投降しても、それは「出頭した
犯罪者」に過ぎません。

■「片付くる」の意味
>収容を「片端よりこれを片づくる」と言いますかね?) そうはいわないでしょう。
日本軍の方針は「適宜、武装を解除したのち、戦場から
追放する」という方針だったと思われます。

中島師団長日記
「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づく
ることとなしたる(れ)ども、千、五千、一万の群衆とな
ればこれが武装を解除することすらできず、...」
ですが、「片端よりこれを片づくる」が「片端よりこれを
処刑する」と解釈すると、なぜいちいち「武装を解除」し
たのでしょうか。投降してきたそばから撃つなり斬るなり
した筈です。
逆に「片づくる」を「武装解除の後、追放」と解釈すると
文章に不自然がありません。

■第一一四師団 歩兵第一二七旅団 六六連隊 12月13日
戦闘詳報
これに関しては、はじめてみました。
これだけ読むと、どうもわからなくなります。

>「笠原「南京事件」(岩波新書)は是非ご一読くださ
>い。
ありがとうございます。

■(2)にあげられた資料について。
>彼等の中には支那服を軍服の上に着てカムフラージュ
>してゐるのもあると。
この個所は、支那軍がハーグ陸戦規定「交戦者の資格」に
反して軍事行動をとっていたことを意味しませんか?

>そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放する
>なりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の
>屍体が山のやうになってゐるさうだ。
「銃殺」されたのは「しらべて」戦時国際法違反であるこ
とが判明したものについてでしょう。これは合法。
「解放」という語は上段で言う「武装解除ののち追放」が
方針であったという主張の傍証になるでしょう。

そのたの記事は伝聞や風聞なので、事実の証拠と即断
はできません十五日には南京城外の捕虜の監視する。第六中隊と共に七千名の支那兵、..

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渡辺 - 01/07/04 04:39:32
捕虜


コメント:
柳。さん:>
>日本軍の方針は「適宜、武装を解除したのち、戦場から
追放する」という方針だったと思われます。

戦場から追放するって、上海から南京まですべて戦場だったんですよ。何万人も「追放」したら兵士の日記に記録が残るはずですが、発掘された日記には、多かれ少なかれ、殺したという記事がほとんどで、追放したなんて見たことがありません。

「片端よりこれを片づくる」を捕虜開放の意味に使いますか?言葉を置き換えても意味が通るという問題ではないと思いますが。
だいたい、捕虜開放になぜそんな遠回しな言い方をしなければいけないのですか?そのまま言えないことだから、遠回しに言っているのでしょ。
また、昭和13年になぜ、捕虜は殺す「方針」だったと石川達三は書いたのでしょうか?そういう事実があったからでしょ?

>まず、「捕虜」とは戦意を失しなった者のことです。

これは、なぜ捕虜が従順であっかを説明したもので、捕虜の定義は話題にはなっていませんでしたよ。

捕虜がどのように集められ、処刑されたかという実例は、小野賢二「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(大月書店)に収集された兵士の日記や偕行社「南京戦史資料集」に掲載の日記などにあります。
多くの場合は、処刑されるとは知らないので従って行ったのです。また、その事実を知って嘆願して泣き叫んだというものもあります。
想像だけで、恣意的にこうとも言える、こういう意味にもとれるとやっていれば、こういう言葉で置き換えたら意味が変わると部分的にはいくらでも解釈ができます。
しかし、他の資料でも、捕虜を開放した事例はほとんどありません。
また、いなかに防空壕はありませんし、なぜ防空壕に捕虜を収容しなければいけないのでしょうか?

戦闘詳報には捕虜殺害の事実がちゃんと書かれていますよ。例えば、偕行社「南京戦史資料集」にある33連隊の戦闘詳報では12月13日に捕虜約3000人を殺害したと明記しています。

「交戦資格」というのは「民兵と義勇兵」に対する条文です。第1条をごらんください。制服は義務ではありません。これは、ゲリラを交戦者から除外するための条項で、正規兵の服装のことではありません。現に交戦していないのですから、「特殊徽章」も問題にはなりません。
また、なんらかの制裁を加える場合は軍律裁判を開く必要がありますので、その場で殺害することはできません。
なお、当時、南京やその付近で軍律裁判をした事実はありません。それから「交戦資格」がないことは犯罪ではありませんよ。

>そのたの記事は伝聞や風聞なので、...

さかなのエサの件は断定です。また、なぜそんなうわさがたったのでしょうか?それは、そういう事実があったからです。書かれたままではないかもしれないが、うわさの元になる事実があったのでしょ。実際、下関で捕虜が殺害されていたことは複数の証言があります。

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柳@昼休み - 01/07/04 13:05:30
「片付くる」


コメント:
>渡辺さん
■「片付くる」
この言葉を、即ち投降兵の処刑か追放か、で考えるから不条理が生じるのであって、片端より「投降兵に関する事案を処理する」という意で捉えれば、不自然ではないと思われますが。

■うわさ
>書かれたままではないかもしれないが、うわさの元にな
>る事実があったのでしょ。
そんなイメージで判断していたのでは、プロパガンダに容易
に扇動されるだけだと思います。
責任者のはっきりしない情報は、ソースとして扱うべきで
はないと判断します。

そもそも、資料原文をどのように解釈するか、は大切な争点ではないでしょうか。それを否定しないでいただきたいと思います。

しばらく、でかけてきますので、次にこれるのは金曜の深
夜か土曜になると思います。
よろしくお願いします。


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K-K - 01/07/04 23:38:07
返信:柳さん 7/4


コメント:
>まず、最初にお願いしたいのですが、鹿児島の某掲示板では、どう
>も論点が散逸してしまうので、ここに場所を移したいのですが、よ
>ろしいでしょうか。

 問題ありません。


>ぼくとしても、単身、乗り込んでゆくようなものですから(笑)相当
>の覚悟がいるわけですが。

 お気になさらずに。この掲示板を見ている人は、非常に少ないので(笑)。


>ところで、何ゆえか掲示板本体の記入フォームが機能しないのです
>が(前の記事を参照しつつ書くと言うことができないので非常に不
>便です) 、私の側の問題でしょうか。
>動作確認をお願いします。

 早急に改善します。


>しかし、それでは「片端より之を片付くる」という前文
>と矛盾しませんか?
>処刑ではなかったとしたら、矛盾しませんが。
>なぜなら、最初の数百人の時点で、銃撃音や悲鳴が響き
>渡る筈で、それでもなお、「捕虜にされるものだと思っ
>てゾロゾロついて」くるわけがないでしょう。

 中島日記の記述は「片端より之を片付くることとなしたるも」です。つまり、「片端より捕虜を片付けたい」という、希望を記しています。しかし、この希望は「千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来」ないことにより、果たせませんでした。だから、「部隊をトラックにて増派して監視と誘導」をしたようです。この「監視と誘導」には武装解除が含まれていると思われます。

 つまり、中国兵が殺害されると気付いたときには、すでに武装解除が行われており、逃げ出すことも出来ない状況になっていたと考えられます。その後に殺害されることになったのでしょう。

 しかし考えてみると、この「百二百二分割したる後適当のカ処に誘きて処理」というのは、あくまでも「予定」なので実際にどの様に「処理」されたのかは解りません。もしかすると、別の方法である可能性もあるでしょう。


>当然、そうですが、だからこそ不当な大量処刑が行われ
>ていなかった、と考えるのが自然ではないでしょうか。

 「ゾロゾロついて来る」のは「誘くる」前であり、殺害を行う前です。「ゾロゾロついて来る」ことが、「不当な大量処刑が行われていなかった」根拠とはなりません。


>これは、私の推論で、根拠はないものなのですが、「防
>空壕」や「退避壕」という言葉もあるので、細長いもの
>と断定はできないと思います。

 常識的に考えて、戦場で「壕」といえば塹壕を指すものと思われます。しかも、総勢7~8千人の人数を収容できるほど戦場に防空壕・退避壕が存在したとは思えません。


>「誘導」といった言葉もあるので、膨大な投降兵に通訳
>不足した日本軍がなんとか誘導する、という意味ではな
>いでしょうか。

 これは、中島中将の表現です。中島中将が、「誘きて」つまり「誘い出して」と表現しているのです。「誘導」とは意味が違います。

 また、中島中将は、別の箇所で「誘導」という言葉を使っているので、「誘きて」と「誘導」を使い分けているようです。


>しかし、支那軍の投降兵の中には、小銃などを捨てたも
>のの、手榴弾などを隠し持っていたり、こちらが少数と
>みるや多数を頼んで暴動を起こすものなどが多く、多人
>数を一箇所に収容しておくのは危険です。
>むしろ、一箇所に集めていなかった事の方が自然に思わ
>れます。

 トラックを増派した時点で、武装解除を行っていると見るべきでしょう。とすれば、武器を隠し持つことは不可能です。また、分割したところで、少数(日本軍)対多数(中国兵士)の構図が変わるわけではありません。すでに戦意を失い、武装解除もされた時点で、仮に収容するのに100~200という様な小分けにすることは不自然です。


>■「捕虜」に関する件
>>まず、「捕虜」とは戦意を失しなった者のことです。
~略~
>私服ゲリラ(便衣兵)が投降しても、それは「出頭した
>犯罪者」に過ぎません。

 渡辺さんの指摘は投降兵に関するものであり、便衣兵の問題ではありません。


>■「片付くる」の意味
>>収容を「片端よりこれを片づくる」と言いますかね?) そうはいわ
>>ないでしょう。
>日本軍の方針は「適宜、武装を解除したのち、戦場から
>追放する」という方針だったと思われます。

 16師団司令部の方針が「捕虜の殺害」であったことは明白だと思います。

●第16師団 佐々木支隊所属 独立攻城重砲兵
第2大隊 第1中隊 観測班長 砲兵中尉
沢田正久氏 証言
『やがて友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を揚げて正午頃投降してきました。その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、”直ちに銃殺せよ”と言ってきたので拒否しましたら、”では中山門まで連れて来い”と命令されました。”それも不可能”と断ったら、やっと、”歩兵四こ中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い”と言うことになり、私も中山門近くまで同行しました。』


●第16師団 歩兵第30旅団 歩兵第38連隊 副官
児玉義雄氏 証言
『 連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」と電話で伝えられた。私はこれはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
 師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
 部隊としては実に驚き、困却しましたが、命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。』

 「16師団」・「軍司令部」と、軍上層部が捕虜殺害の命令を出していることが、証言として存在しています。また、石川達三の文章にあるとおり、捕虜殺害の方針の存在したと思われます。

石川達三「生きている兵隊」
『「捕虜は捕らえたらその場で殺せ」それは命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された。 』



>中島師団長日記
>「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づく
~略~
>逆に「片づくる」を「武装解除の後、追放」と解釈すると
>文章に不自然がありません。

 それでは、部隊の安全が損なわれます。上記の証言にあるように、末端部隊としては投降してきた兵士を捕虜として受け入れるのは当然のことであり、捕虜として受け入れるからには武装解除をすることは当然です。その後に、捕虜の処置を軍上層部に訊き、その結果、「捕虜にしない方針」である「捕虜の殺害」を命じられたものと思います。


>>彼等の中には支那服を軍服の上に着てカムフラージュ
>>してゐるのもあると。
>この個所は、支那軍がハーグ陸戦規定「交戦者の資格」に
>反して軍事行動をとっていたことを意味しませんか?

 もちろん、そうともとれるとは思います。この行為が「交戦者資格」に反して処刑されたのでしたら、それはやむ得ないものもあるでしょう。

 しかし、それには手続きが必要です。軍律裁判を開いた後に処刑するというのが当時の国際慣行です。日本軍はその様なことを行っていません。

 また、これは個別に判断すべきことです。つまり、「支那服を軍服の上に着てカムフラージュ してゐる」者を個別に裁判をして、処刑すべきことなのです。1人便衣を着ている者がいたからといって、その集団を総て殺害する理由とはなりません。


>>そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放する
>>なりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の
>>屍体が山のやうになってゐるさうだ。
>「銃殺」されたのは「しらべて」戦時国際法違反であるこ
>とが判明したものについてでしょう。これは合法。

 「銃殺」したのが、『「しらべて」戦時国際法違反であることが判明したもの』であるのかどうかは判りません。何を基準に殺害し、使役とし、解放したのかは判りません。


>「解放」という語は上段で言う「武装解除ののち追放」が
>方針であったという主張の傍証になるでしょう。

 この資料では、「殺害」・「使役として利用(拘引)」・「解放」と3通りのケースに分かれています。「武装解除ののち追放」とは意味が違います。


>そのたの記事は伝聞や風聞なので、事実の証拠と即断
>はできません十五日には南京城外の捕虜の監視する。第六中隊と共に
>七千名の支那兵、..

 それは違うと思います。
 何よりも、件の「小原孝太郎日記」の以下の部分が伝聞・風聞であることは明白です。

小原日記
『話によると、約七〇〇〇人の捕虜があったさうだ。彼等は白旗を掲げて降参したのを武装解除させたものである。
中には勿論戦闘中に捕虜になったものもあり、色々だ。
彼等の中には支那服を軍服の上に着てカムフラージュしてゐるのもあると。そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放するなりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の屍体が山のやうになってゐるさうだ。』


************************************************************
K-K - 01/07/04 23:42:25
横レス:柳さんへ


コメント:
>■「片付くる」
>この言葉を、即ち投降兵の処刑か追放か、で考えるから不条理が生じ
>るのであって、片端より「投降兵に関する事案を処理する」という意
>で捉えれば、不自然ではないと思われますが。

 すでに、沢田証言・児島証言・石川達三の記述を示したとおり、捕虜の殺害が方針であったと思われます。

 「事案を処理」するのだったら、「片端より」と表現するのも変でしょう。「片端」とはいわゆる「カタッパシ」という意味なのでしょうから、自然な表現としても「殺害」を意味していたと思われます。


>そんなイメージで判断していたのでは、プロパガンダに容易
>に扇動されるだけだと思います。

 日本軍の間での噂なのですから、プロパガンダというのは変だと思います。


>責任者のはっきりしない情報は、ソースとして扱うべきで
>はないと判断します。

 そうでしょうか?例えば、柳さんが「合法」的殺害と判断した以下の文章中の情報について、その情報はどの様に判断しているのでしょうか?

小原孝太郎日記
「彼等の中には支那服を軍服の上に着てカムフラージュしてゐるのもあると。そこで一応しらべて、銃殺なり使役に使ふなり解放するなりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の屍体が山のやうになってゐるさうだ。 」

 この記述はどれも、伝聞であることは明白です。誰から訊いた話なのかは出てきません。しかし、やはり考慮すべき資料であると私は思います。


>そもそも、資料原文をどのように解釈するか、は大切な争点ではな
>いでしょうか。それを否定しないでいただきたいと思います。

 渡辺さんが「資料原文の解釈を否定した」とは思えません。渡辺さんは、「噂が立ったこと自体がその存在の証明である」と主張し、柳さんは噂だから「ソースとして扱うべきではない」と主張しているのだと思います。私はどちらも、資料批判として成立していると思えます。


>しばらく、でかけてきますので、次にこれるのは金曜の深
>夜か土曜になると思います。
>よろしくお願いします。

 ごゆっくりしてください。特にあわてる問題ではありません。

************************************************************
渡辺 - 01/07/06 01:04:17
参考資料


コメント:
資料というのは、他の資料とも突き合わせて内容や当否を判断すべきです。
参考として、十六師団などについて他の軍人は何と言っているかご紹介いたします。

谷寿夫の南京軍事法廷での申弁書(1948年1月15日)
----
又南京に於て中島部隊と共に南京大屠殺を発動せりと論せられあるも、被告の聞知する所にては南京大屠殺は、中島部隊の属せる南京攻略軍の主力方面の出来事にして、其被害者者に対しては真に気の毒なるも、柳川軍方面の関係なき事項にして、即ち被告の部隊に関係なき事項なり。
[「南京作戦の真相 熊本第六師団戦記」(東京情報社,昭和40年)P226 よりかな表記にして引用]
[註]中島部隊=中島今朝吾の第十六師団
----

岡村寧次
----
岡村寧次の日記抄
(1947年)三月十日
....
中国側も谷寿夫の第六師団よりも中島今朝吾第十六師団の方が遥かに罪状が重いことを知っていて、わが連絡班に対しても、中島師団長、同各団隊長《これらの氏名は先方は既に調査済であった》の所在、場所を調査して報告せよと命じてきたこともあったが、中島は既に死亡、その他団隊長等の所在は当地当班では調査不可能と答えておいたことがある。
 罪の深い第十六師団関係者は罰せられず、ほとんど罪のない方を代表して谷中将のみ極刑に処せられる。感無量。
[「岡村寧次大将資料(上)](原書房,昭和45年)P150]
[註]なお、第六師団も「掠奪強姦などの非行を軽視する」と新任の稲葉師団長から第六師団司令部で聞いたと記している。[P291]

回想「武漢攻略前後」
....
それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければいけないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。
 上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
 一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
 一 第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。
   註 後には、荷物運搬のために俘虜を同行せしめる弊も生じた。
 一 上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。
 一 最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕らえられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。
[「岡村寧次大将資料(上)](原書房,昭和45年)P290-291]
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柳。 - 01/07/06 20:44:51
すみません、会社から。


コメント:
本日、帰宅してからよく手元の資料と検討した上で再度書きこみさせていただく考えでしたが、仕事の都合で叶わず、会社より(爆!)簡単なレスをさせていただきます。
うろ覚え頼りですので、間違っていたらご指摘下さい。

>トラックを増派した時点で、武装解除を行っていると
>見るべきでしょう。とすれば、武器を隠し持つことは
>不可能です
武装解除もできず、がゆえにおっとり刀で駆け付けた部
隊が武装解除を満足にできているとは思えません。
別の記録で、小銃を捨てても拳銃や手榴弾を隠し持って
いるものがあったという記録があったと記憶しています。

>16師団司令部の方針が「捕虜の殺害」であったこと
>は明白だと思います。
しかし、それだと16師団は日本軍として矛盾した行為を
していたことになりますね。
1933年の陸軍歩兵学校で示された対支戦術の研究、
及び陸軍次官通達(調べておきます)では、適宜、解放
して可なり、とあります。

>1人便衣を着ている者がいたからといって、その集団
>を総て殺害する理由とはなりません。
そんな事実はなかったと考えます。そういったものを摘
発して、それら戦時国際法違反のものをまとめて移動さ
せて処刑したことは当然にあるでしょうけれど。

>それでは、部隊の安全が損なわれます
しかし、膨大な捕虜を抱える余裕はなく、ましてそれが
数千、数万であれば、その捕虜のために人員を裂かれる
ことのほうがデメリットになるので、おかしいとは思え
ません。また、先述資料にも、それで可としてあります。

すいません、舌足らずでして。
よく、勉強してきます。ただ、石川達三氏の著作に関して
は、非常にきになっています(「従軍慰安婦」問題で敗訴
した吉田清治のような例があるので、戦後、その件がクロ
ーズアップされて以降の回想文は信用できないと思うので
す)。
どうも資料毎に違う事が書かれていたりするので、あた
まの中を整理するのがたいへんです(′人`;;)

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柳@昼休み - 01/07/07 13:17:49
16師団に関して。


コメント:
しかし、どうしても「投降兵即時処刑」と読みとるのは納
得できないのです。
今一度、その疑問点を整理させていただきます。
1)「投降兵即時処刑」が方針だとすると、それは16師団
以外の師団にも下知されていた筈だが、公式記録において
はそれがない。
2)「片端」とはいわゆる「カタッパシ」という意味なの
でしょうから、とKーKさんが指摘したように、原文に忠
実に解釈すれば、やはり「ゾロゾロついてくる」のは不自
然。このことに関してぼくはまだ納得していません。
3)同じく「カタッパシ」であれば、「その場で直ちに処
刑」する筈であり、中島師団長が部隊を「トラックにて増
派して監視と誘導」にあたらせるのは不自然。「増派して
片端より之を処刑」であれば通じるのだが、そうは書かれ
ていない。
やはり、中島師団長の陣中日誌を「虐殺」の証拠とするこ
とは出来ないと思います。

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yanagi - 01/07/07 13:18:22


コメント:

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柳。 - 01/07/07 13:29:58
投降兵の処置


コメント:
では、日本軍の投降兵の処置はどうであったかを考えて
みます。
ぼくは、日本軍は「投降兵は武装解除ののち、戦場から
追放」が方針だった、と書きました。
それにはいくつかの根拠があります。
これは、1933年陸軍歩兵学校が刊行した『対支那軍戦闘法
の研究』の中の『捕虜の処置』という項目です。
「…必ずしもこれを後送監禁して、戦局を待つを要せず、
特別の場合のほか、これを現地又は他の地方に移し、釈
放して可なり」
こえが根拠です。

> ************************************************************
> K-K - 01/07/07 22:16:43
> 返信:柳さんへ
>
>
> コメント:
> >武装解除もできず、がゆえにおっとり刀で駆け付けた部
> >隊が武装解除を満足にできているとは思えません。
>
>  それは違うと思います。「武装を解除することすら出来ず」に、「騒擾せば始末に困る」から「部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ」たのですから、部隊の増派の目的が部隊の安全をはかることだと読みとれます。部隊の安全のために「増派」したのですから、武装解除が出来なかったら「増派」した意味がありません。
>
>
>
> >別の記録で、小銃を捨てても拳銃や手榴弾を隠し持って
> >いるものがあったという記録があったと記憶しています。
>
>  これは、私も何か読んだ記憶がありますが、それが中島日記の記述の件と同じものであったかどうかは解りません。この点は、調べてみます。
>
>
>
> >しかし、それだと16師団は日本軍として矛盾した行為を
> >していたことになりますね。
> >1933年の陸軍歩兵学校で示された対支戦術の研究、
> >及び陸軍次官通達(調べておきます)では、適宜、解放
> >して可なり、とあります。
>
>  それは、この事でしょうか?
> //// 秦郁彦「南京事件」P195 ////
>  軍閥戦争時代は、捕虜を寝返らせて手兵を増やす便法が習慣化していた。その影響か、昭和8年1月に歩兵学校が作成した「対支那軍戦闘法の研究」と題する教科書には、「捕虜は他列国人に対する如く必ずしも之れを後送監禁して戦局を待つを要せず、特別の場合の外之を現地又は他の地方に移し釈放して可なり」と述べている。
> ///////////////////////////////////
>
>  しかし、「捕虜にしない方針」=「殺害」は、16師団固有の問題ではなく、すでに渡辺さんが指摘しているように、114師団は明確に「捕虜は全部殺すべし」という命令を出しています。このことは、上海派遣軍(16師団)だけではなく、第10軍にも「捕虜にしない方針」=「殺害」が伝わっていたことが読みとれます。つまり、この「捕虜殺害命令」は、上海派遣軍・第10軍より上の組織から命令が下され、その結果、捕虜殺害を行った考えるのが妥当でしょう。
>
>  また、沢田証言「軍司令部に報告したところ、”直ちに銃殺せよ”と言ってきた」とあるように、「師団司令部」ではなく「軍司令部」と表現していることから、この命令が「上海派遣軍」もしくは「中支那方面軍」から伝えてきた命令であると考えることができます。
>
>
>
> >そんな事実はなかったと考えます。そういったものを摘
> >発して、それら戦時国際法違反のものをまとめて移動さ
> >せて処刑したことは当然にあるでしょうけれど。
>
>  国際法違反であるかどうかを審判するのは軍律裁判です。軍律裁判によって審判していない「処刑」は違法行為です。
>
>  また、「戦時国際法違反のものをまとめて移動させて処刑した」という話は聞いたことがありません。歩兵第33連隊の戦闘詳報には
> /////////////////////////////
> [俘虜] 将校14、准士官・下士官兵3、082、馬匹52
> [備考]1、俘虜は処断す
>     (略)
> ////////////////////////////    
> となっており、将校を含めた3096名の捕虜を殺害していることが書かれています。この戦闘詳報には解放した捕虜については書かれておらず、おそらく、この3096名がこの連隊の総ての捕虜だと思われます。そして、この捕虜すべてが殺害されました。つまり、『そういったものを摘発して、それら戦時国際法違反のものをまとめて移動させて処刑した』のではなく、なんの区別をせずに捕虜を殺害したと思われます。
>
>
>
> >しかし、膨大な捕虜を抱える余裕はなく、ましてそれが
> >数千、数万であれば、その捕虜のために人員を裂かれる
> >ことのほうがデメリットになるので、おかしいとは思え
> >ません。また、先述資料にも、それで可としてあります。
>
>  私が指摘している「安全」とは、「人員を割かれる」というようなものではなく、実質的な被害(自軍兵士の死傷)についてです。
>
>  まず、捕虜にしない方針、つまり捕虜を殺害する方針がある。しかし、武装解除もせず(大人数で出来ない)に「投降してきたそばから撃つなり斬るなりした」のでは、すぐに中国兵に日本軍が投降を受け入れないことを察知され、反撃が行われ被害がでる。だから部隊を増派して武装解除を行った。武装解除を行い安全となったところで、捕虜を殺害する方針を実行する。
>
>  「膨大な捕虜を抱える余裕」が無かったのは、部隊を増派する前です。捕虜を殺害する方針であると読むならば、その捕虜をいかに効率的に殺害するか、そして自軍に被害が無いようにするかという為に、人員を割くのは当然の事と思います。
>
>
>
> >ただ、石川達三氏の著作に関して
> >は、非常にきになっています(「従軍慰安婦」問題で敗訴
> >した吉田清治のような例があるので、戦後、その件がクロ
> >ーズアップされて以降の回想文は信用できないと思うので
> >す)。
>
>  『「従軍慰安婦」問題で敗訴した吉田清治』というのが、どういう裁判であったかよく知りませんが、吉田清治氏の問題になっている部分が捏造であるとは思っていませんし、この問題を現地で調べたという秦郁彦氏のレポートには多くの問題が含んでいると思っています。
>
>  とりあえずその様な問題は置いておくとして、石川達三の著作を「非常に気に」しているようですが、児島証言・沢田証言・中島日記記述という石川達三の記述を裏付けるものがある中、なぜ、この様に裏付けのある一記述を「回想文」であるとして疑問を投げかけるのか理解できません。
>
>  この記述自体の意味が理解できません。
>
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K-K - 01/07/07 22:18:13
返信:「16師団に関して」


コメント:
>しかし、どうしても「投降兵即時処刑」と読みとるのは納
>得できないのです。
>今一度、その疑問点を整理させていただきます。

 少し誤解があるようです。私は、「投降兵即時処刑」とは考えていません。捕虜として受け入れた後(武装解除、出来れば身体拘束などをした後)に殺害したと考えています。

 当然のことでしょうが、「方針」なのですから、その具体的実行手段については命令・指示・方針を受けた各部隊が考えて実行したと思われます。ですから、部隊によっては投降兵を即時殺害したところもあったかも知れません。しかし、別便で述べたとおり、それでは部隊の安全が損なわれます。

 もう少し詳しく説明するならば、「捕虜はせぬ方針」というのは軍の方針であり、「片端より之を片付くる」というのは中島中将の希望であると考えています。



>1)「投降兵即時処刑」が方針だとすると、それは16師団
>以外の師団にも下知されていた筈だが、公式記録において
>はそれがない。

 これは、既に渡辺さんが指摘しているように、114師団に同様の捕虜殺害の命令が出ています。


>2)「片端」とはいわゆる「カタッパシ」という意味なの
>でしょうから、とKーKさんが指摘したように、原文に忠
>実に解釈すれば、やはり「ゾロゾロついてくる」のは不自
>然。このことに関してぼくはまだ納得していません。

(1)中国兵が「ゾロゾロついてくる」理由は日本軍が投降を受け入れる考えた、という点では柳さんも同意見であると考えていいのでしょうか?

(2)この「千~1万」の投降兵(原文「千五千一万の群衆」)は、「ゾロゾロついてきた」時点で、投降兵が殺されている様を見たのでしょうか?

 この二点がはっきりすれば、問題は解決すると思います。つまり、中国兵は日本軍が投降を受け入れると考え、ゾロゾロ付いてきた。しかし、ゾロゾロ付いていき、日本軍に武装解除されたのちに殺害された。こういう状況であったと思います。

 そして、「カタッパシ」というのは中島中将の希望であり、それは、「千五千一万」という大人数であったことにより実行は不可能だったことは、日記に記された通りです。



>3)同じく「カタッパシ」であれば、「その場で直ちに処
>刑」する筈であり、中島師団長が部隊を「トラックにて増
>派して監視と誘導」にあたらせるのは不自然。「増派して
>片端より之を処刑」であれば通じるのだが、そうは書かれ
>ていない。

 すでに、上記に説明した通り、「千五千一万」という大人数で「カタッパシ」から殺害が出来る状況では無かったから、『部隊を「トラックにて増派して監視と誘導」にあたらせ』たのだと思います。その『「カタッパシ」から殺害が出来る状況では無かった』というのは、その様なことを行えば部隊の安全が損なわれる状況、つまり、大人数で武装解除出来ない状況です。

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K-K - 01/07/07 22:18:23
返信:「投降兵の処置」


コメント:
>では、日本軍の投降兵の処置はどうであったかを考えて
>みます。
>ぼくは、日本軍は「投降兵は武装解除ののち、戦場から
>追放」が方針だった、と書きました。
>それにはいくつかの根拠があります。
>これは、1933年陸軍歩兵学校が刊行した『対支那軍戦闘法
>の研究』の中の『捕虜の処置』という項目です。
>「…必ずしもこれを後送監禁して、戦局を待つを要せず、
>特別の場合のほか、これを現地又は他の地方に移し、釈
>放して可なり」
>こえが根拠です。

 しかし、秦郁彦氏の指摘によれば、この処置の仕方は「軍閥戦争時代は、捕虜を寝返らせて手兵を増やす便法が習慣化していた」影響ではないか、とのことです。

 だだ、1933年の陸軍の教科書にそう書いてあったからと言って、南京事件の中支那方面軍の投降兵の処置がそうであったことにはなりません。ここで問題になっているのは、南京攻略戦における中支那方面軍が実際に行った投降兵・捕虜に関する処置の方法です。

 児島・沢田両証言、114師団、山田支隊(ここでは議論になっていませんが)にあるとおり、実際に捕虜殺害命令は出ており、中島日記には、捕虜殺害について書かれたと思われる記述が存在するのです。また、同じく秦氏の指摘に依れば、すでに上海戦の頃から捕虜処断の数を戦果として戦闘詳報に記している様ですので(秦「南京事件」P194)、捕虜殺害は当時の日本軍の暗黙の了解であったと考えられます。

 秦郁彦「南京事件」P196~199には、「日本軍の捕虜観念」として考察が記されているので読んでみてはいかがでしょうか?「捕虜処刑の習慣は日中戦争全期を通じて変わらなかったようだ」と結論付けていますが、私も同感です。

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柳。 - 01/07/08 21:42:58
矛盾する命令が出ていた事になります。


コメント:
たしかに、現状でぼくがそれに反証する事はまだ不勉強
なのでできない「殺害命令」文書があったようですね。
まだ、不勉強なので、何ともいえなくなってきました。
(申し送れましたが、ぼくは素人の一介のアマチュア歴
史研究者の魚屋に過ぎません)少しづつ、勉強していき
ます。

しかし、逆にこういった資料があるので、提示させてい
ただきます。
■12月13日歩兵第六旅団「右翼隊命令」
<1、城内の残敵を掃蕩す。
 2、掃蕩に際しては入城に関する注意事項を厳守す。
   但し、敵の抵抗する地帯は此の限りに非ず。>
■「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」
<1、皇軍が外国の首都に入城するは、有史以来の盛事
にして(略)正々堂々将来の模範たるべき心組を以て、
各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為等、絶対に無から
しむるを要す。
2、部隊の軍紀風紀を厳粛にし、支那軍民をして皇軍の
威風に敬仰せしめ、いやしくも名誉を毀損するが如き行
為の絶無を期するを要す」(12月7日)

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K-K - 01/07/09 23:52:09
返信:柳さん


コメント:
 私は、中支那方面軍がどの程度、捕虜の殺害についての違法性を認識していたか非常に疑問を持っています。秦郁彦氏は、上海戦時の戦闘詳報に捕虜の処断が戦果として記載されていることを指摘していますが、戦闘詳報という公文書に違法な捕虜の殺害が記載されているということは、当時の日本軍の捕虜に対する認識を理解出来るのではないでしょうか?

 その上海戦の後の南京攻略戦では、第16師団長中島中将が「捕虜にしない方針」があったことを日記に記し、おそらく多くの捕虜を殺害したようです。114師団では捕虜の殺害を命じる文書記録が残っています。中支那方面軍の直轄部隊であった山田支隊は捕虜殺害の命令を受けて、1万4千人以上の捕虜を殺害しています。

 上海戦でも南京戦でも、日本軍は捕虜の殺害が違法であるとして明確に禁止をしたり、その旨の命令・通達を出してはいません。日本軍のその様な態度から考えると、捕虜の殺害が彼らにとって「名誉を毀損するが如き行為」であるとそれ程認識していなかったとも考えられます。

 私には、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」が捕虜殺害命令に明確に反するものであるとは思えません。


tuduku
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