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ゆうさんのページ| 渡辺さんのページ| 掲示板に書き込む

渡辺 - 02/08/21 12:56:22
電子メールアドレス:なんか変なの


コメント:
読んでいると頭がいたくなるような議論というか何というか、K-Kさんは、相当の精神力ですね。
松尾氏は、自信ををもって断定的に書きますが、調べてみると、おかしいなと思うことが多々あります。

へたに投稿して、議論になるのもいやなので、こちらに一点投稿します。
下記投稿
-----
井上久士の写真判定力 投稿者:松尾一郎  投稿日: 8月21日(水)09時12分30秒
(途中省略)
...揚子江岸の死体の吹き溜まりの一番手前の死体は裸で足にはゲートル、これが軍人と言わずして何というのか?
(以下省略)
----

これは、村瀬守保『私の従軍中国戦線』p.48の写真のことだと思います。
しかし、「一番手前の死体は裸で足にはゲートル」ではないようです。
ゲートルと言うのは、ひざの下まで長い帯を巻付けるもので靴下ではありません。南京戦にはいろいろの軍装の部隊がいますが、私の調べた範囲ではゲートルについてはみな同じで、件の写真は、どう見てもゲートルには見えません。生前の職業はこれでは分からないとしか言えませんけど...

なお、以前、 02/07/28 14:52:17 の投稿で指摘しましたように、ほとんどは後ろ手に縛られていますので、戦闘による死者ではありえません。

渡辺 - 02/08/21 00:56:47
電子メールアドレス:中国軍の数


コメント:
資料中に、日本の新聞がないのに気が付いたので、東京朝日新聞からの記事を引用しますので、ご利用ください.
なお、は新聞記事と同じ個所に改行を入れました。

-----
昭和十二年十二月十一日 東京朝日新聞 朝刊 (一面)

【上海十日發同盟】 焦土抗戦を豪語して南京城を死守せんとした支
那軍第八十七師、第八十八師、教導総隊の約三萬は十日午後一時
半を期して行われた総攻撃僅か二時間にして早くも動揺崩壊の色を現
し、我が軍は一斉に累壁の敵を撃破し城内に突入したが、敵は尚も
家屋を盾に執拗なる抵抗を試みて居り炎々たる猛火に包まれた城内
は銃砲銃声街路に谺し凄愴を極めてゐる
-----
[引用者註] 笠原氏は、八七師第二六一旅旅長からの聞き取りとしてこのように述べている。
「当時国民党軍の一旅は七〇〇〇の兵員からなり、戦闘兵が五〇〇〇人、運送などにあたる後勤部隊が二〇〇〇人とのことであった。そして中国では一般に(日本軍と違って)後勤部隊を兵数に数えないとのことだった。」
[『南京大虐殺の研究』(晩聲社、1992年)笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」P.256]
なお、八七師、八八師など、通常は2旅から成り、教導総隊は3旅ある他に、砲兵団、騎兵団などから成る。

-----
昭和十二年十二月十一日 東京朝日新聞 夕刊 (一面)

敵兵十萬籠城す
死物狂ひの防衛強化
(途中省略)
【上海十日發同盟】外人方面の情報によれば南京衛戍司令唐生智は
昨九日午後二時各国大使館に対して残留外国人の即時避難撤退を要求
午後五時に至るや、下関に通ずる城門を固く鎖し城内
と城外を連絡する電信電話を一切断ち斯くて城内十萬の敵
は完全に籠城状態に陥つた。
-----

K-K - 02/08/20 00:49:26
電子メールアドレス:とほほさんへ


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、とほほさん。
 ご苦労さまです(笑)。

>電脳はかなり組織化しとるね(^^;
>あーも次々と同じでたらめを違う人間が繰り出すのは日本茶以上だね(笑)

 組織化しているかどうかは解りませんが、おそらく、投稿者よりは実在の人数の方が少ないでしょうね(笑)。


>松尾ってのはネット素人だと思っていたが結構組織的基盤はあるかもね。
>それともただの「夏休み」なのかな?(^^;

 夏休みの方ではないでしょうか?
 松尾さんは、性格的に「一匹オオカミ」的なものがありそうですから、あまり、組織的なことを行うにはふさわしくない様に思えます。
 しかし、組織に憧れがあるようにも見受けられますね。組織を追い出された(飛び出した?)後の、あの執拗な攻撃などは「可愛さ余って憎さ百倍」の様に見えます。

とほほ - 02/08/19 17:41:26
電子メールアドレス:それにしても


コメント:
電脳はかなり組織化しとるね(^^;
あーも次々と同じでたらめを違う人間が繰り出すのは日本茶以上だね(笑)

松尾ってのはネット素人だと思っていたが結構組織的基盤はあるかもね。それともただの「夏休み」なのかな?(^^;

K-K - 02/08/19 00:18:09
電子メールアドレス:ゆうさん、渡辺さん


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、ゆうさん、渡辺さん。
 資料を提供してくださって有り難う御座います。
 非常に助かりました(笑)。

 向こうで投稿するだけで、時間的にイッパイイッパイなので、こちらでのお返事ができません。申し訳ないです。これからも、ご指導をお願いします。


---- 引用 ----
で、412さんの指摘によればこの人が所属していた支那方面艦隊第三艦隊ってのは、支那方面艦隊第二遣支艦隊のこと。しか
しこの遣支艦隊の創設は、昭和14(1939)年11月15日ということで、1937年の8月には存在しないはずなんですねぇ・・・
---- 終わり ----

 上記の記述ですが、『南京戦史資料集1』P725の「編成表・職員表」を見ると以下の通りになっています。
---- 引用 ----
・支那方面艦隊
  第三艦隊 司令長官・中将長谷川清(海兵31) 参謀長・少将杉山六蔵(海兵38)
  第十一戦隊 少将近藤英次郎(海兵36)
   上海海軍特別陸戦隊司令官 少将大川内伝七(海兵37)
  第四艦隊 司令長官・中将豊田副武(海兵33)
---- 終わり ----

 また、「11歳」の件ですが、社会評論社に問い合わせをしておきましたので、返信が有り次第、こちらでもご紹介しようとおもいます。
 松尾さんの方でも書いたのですが、おそらく、1916年生まれの間違いだと思います。

渡辺 - 02/08/18 16:27:48
電子メールアドレス:ラーベと発電所復旧(12月18日)


コメント:
資料「ラーベと発電所復旧」を下記URLに投稿いたしましたので、ご利用ください。
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=15037&range=1

渡辺 - 02/08/18 00:17:24
電子メールアドレス:Re:見れ。:訂正


コメント:
前投稿訂正:
-----
陸軍刑法
戦地又は帝国軍の占領地において住民の財物を略奪したも
のは一年以上の有期懲役に処す。前項の罪を犯すにあたり
婦女を強姦したるときは無期または7年以上の懲役に処す

田所さん!「連れて帰って」って、そんなことして大丈夫なんですか!?
-----

そうか、これは第八十六条なのか。失礼。
要するに「住民の財物を略奪」するにあたって「婦女を強姦」したときだから、「田所さん」は大丈夫です。
強姦には「陸軍刑法」ではなく「刑法」が適用され「親告罪」になっていたので、それでは武器の前では拒否できないとして、岡村寧次が「陸軍刑法」に「強姦罪」を加えたのです。
もっとも、取り締まる憲兵がいなければ、法律があるというだけでのことです。
なお、略奪と言うといけないので、「徴発」と言っていたわけです。16師団は略奪で有名で、松井司令官も、師団長本人も日記に書いていますが...

渡辺 - 02/08/17 21:11:01
電子メールアドレス:Re:見れ。


コメント:
これは下記投稿への返信です。
-----
Stwr@Shinden - 02/08/17 15:13:11
電子メールアドレス:見れ。

コメント:
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/8906/
-----

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/8906/
に記述されていることと、それに対する「答」

-----
証言者の一人、第16師団歩兵第33連隊第1大隊所属の鬼頭 久二さんは1926年生まれ、御年76歳でいらっしゃいます。
さて、南京攻略って何年前でしょうか・・・?

答えは65年前の昭和12年・・・1937年です。 そう、65年前の南京攻略当時、現在76歳の鬼頭さんはなんと11歳、ということ
になります。 学徒動員もなかった1937年当時、帝国陸軍は11歳のハナタレ坊主を従軍させるほどに逼迫した戦況にあっ
たのでしょうか・・・?
-----

答:生年月日は、証言者の発言ではなく、編集者が記載したもの。前後の記事を見れば、この人だけ10年違っているので 単なる誤植でしょ?

----
第16師団歩兵第38連隊第1大隊の田所 耕太さん(86)は、当時21歳。1873年発布の徴兵令によりますと徴兵は二〇歳以
上の男子とありますので、田所さんは徴兵一年目の新兵にも関わらず最前線の南京に送り込まれたことになります。小学
生の動員といい、当時の帝国陸軍はよほど苦戦していたんでしょう(w

また、支那方面艦隊第3艦隊大1船隊第24○○(判読不能)艦隊の三上 翔(83)さんは当時18歳。志願して行ったとの発言
がありますが、志願兵も17歳からとなっていますので、彼もまた新兵なのに最前線に投入されたことになります。

で、412さんの指摘によればこの人が所属していた支那方面艦隊第三艦隊ってのは、支那方面艦隊第二遣支艦隊のこと。しか
しこの遣支艦隊の創設は、昭和14(1939)年11月15日ということで、1937年の8月には存在しないはずなんですねぇ・・・

●上記412さんの挙げているソースの信憑性が低いためこの部分は保留とします。私は連合艦隊しか解りませんので、大陸方
の艦隊派遣に詳しい方おながいします。

●志願兵について、海軍志願兵は少年水測兵、少年電信兵で14歳8ヶ月以上、その他水兵は15歳以上の様です。
----

答:●印の個所に回答が、ちゃんとあります。より正確に言うと、
(1) 南京戦は長谷川長官の支那方面艦隊第三艦隊が参戦した。(笠原『南京事件』p.81など、少し調べればすぐ分かる。)
(2)支那方面艦隊第二遣支艦隊は、1937年11月20日第四艦隊と交代、内地へ帰った。(防衛庁防衛研修所戦史室『中国方面海軍作戦<1>』p.454)
(3)「志願兵 海軍は採用人員が少ないため平時は志願者を中心に徴兵を補充に充てる。兵役は徴兵の三年に対して五年と長く、再役は二年ずつ。年齢は兵種によって違い、水平、航空兵、機関兵、看護兵、主計兵は一六歳以上。電信兵、偵察訓練生は一五歳以上、軍楽兵は一六歳以上である。」(原剛他『日本陸海軍事典』p.254)

ーーーー
第16師団歩兵第33連隊第3大隊の町田 義成さん(89)は、「軽機関銃で」「腰の位置からバラバラと」捕虜の人々を撃ったと証言しています。

この当時、帝国陸軍に制式採用されていた軽機関銃はこちらのサイトに載っている十一年式6.5mm軽機関銃と九六式6.5mm軽機関銃。どちらも重量9キロ前後の据置式銃器で、こんなモノを腰ダメで撃ったって、反動で銃口がお天道様を向いてしまいます。
ついでに、軽機関銃の正しい使い方はこの特集のオープニングの映像にしっかり映ってたりします。これです。
----

答:「一一年式軽機関銃 (一部省略)彼(南部麒次郎)の苦心は給弾装置であり、三八式小銃の五発セットを六段重ねて上方から入れる方式だった。」原剛他『日本陸海軍事典』p.302)つまり、弾薬は三八式小銃と同じで、10Kgと重めなのに、「反動で銃口がお天道様を向いてしまいます」という人が、半部以下の重さの三八式で撃ったら、いったいどこを向くことやら...なお、後に作られた、もっと重い九九式軽機関銃には銃剣が付けられるようになっており、突撃できるようになっていた。(同書 p.303)

-----
その上この銃は個人装備ではありませんので、使用には隊の許可が必要です。「邪魔やし撃ったれ」バラバラバラ・・・なんて気軽に使ったら懲罰もんですよ、弾丸だって貴重な物資なんですから・・・
-ーーーー

答:戦地で銃を撃つのに、その度に「隊の許可が必要」とは、聞いたことがないとしか言いようがない。

-----
田所 耕太さん(86)は、徴発時の強姦に関してこんな愉快な発言もされています。

「見て良かったら」というのは、「民家に押し入って見つけた娘がいい女だったら」という意味なのですが、これを(おそらく強姦するために)部隊に連れて帰ると言っています。さて、ここで当時の「軍規」、陸軍刑法を紐解いてみましょう。

陸軍刑法
戦地又は帝国軍の占領地において住民の財物を略奪したものは一年以上の有期懲役に処す。前項の罪を犯すにあたり婦女を強姦したるときは無期または7年以上の懲役に処す

田所さん!「連れて帰って」って、そんなことして大丈夫なんですか!?
-----

答:典拠は示すべし。引用されているのは、昭和17年(1942年)改正の陸軍刑法の不正確な引用ではないのか?
なぜ改正されたかは、以下を読んでください。
--
 第三編
   二十 戦地強姦

私の第十一軍司令官時代強姦の非行が多くそれについていろいろ配慮したことは第四編において詳述するとおりであるが、私は当時の陸軍刑法において強姦に普通刑法同様親告罪であることも、また根本的に間違いであると考え、昭和十五年二月内地に帰還したとき阿南陸軍次官に対しこれを改め戦地強姦罪を設くべき旨申言したところ、正義の士である阿南次官は即座に同意し改正すべき旨を断言した。それから二年を経過して昭和十七年漸く戦地強姦罪が制定されたのであった。
しかし、この北支方面軍時代は第十一軍時代に比べて強姦罪が著しく少なかったのは幸いであった。予後備兵が極めて少なく、大部は年若い現役兵や補充兵であったこともその原因の一つであったと思う。
これら若い兵隊が軍法会議で陳述した内容が共通していたことは、家郷を出発する送別宴の席上などで、既に戦地の務めを終えて帰郷した先輩から、中国戦線では良いことがあるぞと強姦を示唆されていたので、ついムラムラとその気が起きたということで、最初中国戦線に出動した予後備兵が、昔時の出征兵と比べて、如何に風紀観念が乏しくなっていたかを知ることができたのである。
[「岡村寧次大将資料(上)」, P282-283]

 第四編
   十 軍、風紀所見(その三)
  <一部省略>
 (二) 慰安婦問題を考える。昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥ずかしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦事件が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。
 現在の各兵団は、殆どみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。
  <一部省略>
 (三) 憲兵報告の一節。蚌埠在住の中国人に嫁した日本中年女性は言う。中国兵は、掠奪するが強姦はしない。日本兵は、掠奪しないが強姦をする。可否何れにかあらん。頼みとするのはただ天主教の神父のみと。
 刑罰種目中最も多いのは上官暴行と強姦である。そうして犯人の年齢別を見るに最多数は三十三歳である。
  <一部省略>
 (四) 来陣した中村軍務局長の言によれば、戦地から惨虐行為の写真を家郷に送付する者少からず、郵便法違反として没収したものすでに数百に達しているという。
 好奇心も甚しいというべし。
[「岡村寧次大将資料(上)」, P302-303]

陸軍刑法(昭和17年(1942年)改正で第八十八条ノ二を追加)
  第九章 掠奪及強姦ノ罪

第八十六条 戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ住民ノ財物ヲ掠奪シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス
2 前項ノ罪ヲ犯スニ当リ婦女ヲ強姦シタルトキハ無期又ハ七年以上ノ懲役ニ処ス

第八十七条 戦場ニ於テ戦死者又ハ戦傷病者ノ衣服其ノ他ノ財物ヲ褫奪シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス

第八十八条 前二条ノ罪ヲ犯ス者人ヲ傷シタルトキハ無期又ハ七年以上ノ懲役ニ処シ死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス

第八十八条ノ二 戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ一年以上ノ懲役ニ処ス
2 前項ノ罪ヲ犯ス者人ヲ傷シタルトキハ無期又ハ三年以上ノ懲役ニ処シ死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役ニ処ス

第八十九条 本章ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
--

-----
ちなみにこの後、久米弘が朗読した証言では、「憲兵にバレるとまずいので」強姦した女を撃ち殺したという話が出てくるんで
すよ。なんだかなー。。。
-----

答:当時は常識だったが...上砂中佐のような、まじめな憲兵に捕まって有罪になったら、今までの功績は白紙になって大変なことになってしまう。
--
 (昭和12年12月)25日
  ○上砂中佐事務打合わせに来部
  中佐曰く近頃強姦事件不起訴に付せらるるもの多く 憲兵が折角検挙せしものに斯く致さるることとなると努力の甲斐なしと <一部省略>
  自分答ふ <一部省略> その他純理論よりすれば姦淫は当時の情勢上刑法一七八に所謂抗否不能に乗ずるものと認むべきも中には斯かる者全部なりと断ずるを得ざるべく容易に要求に応じたる者も之あることを考へざるべからず 斯く観じ来たるときは姦淫したる事実あれば直ちに強姦なりと断ずるは早計たるを免れざるにあらずや
[小川関治郎「ある法務官の日記」(みすず書房,2000年), P127-128 ひらがな表記にして引用]
--

これだけ書くのに、どれだけ時間がかかったことか。
戦地で苦労した人の話は、ちゃんと聞け、ちゃんと読め。他人のいいかげんなHPを受け売りしないで、いろいろ調べて、参考書を自分の力で「見れ!」アホンダラ!

Stwr@Shinden - 02/08/17 15:13:11
電子メールアドレス:見れ。


コメント:
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/8906/
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http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/8906/
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ゆう - 02/08/17 08:05:14
電子メールアドレス:モーゼル拳銃


コメント:
ラーベ「南京の真実」(文庫版)P363に、「日本兵はモーゼル拳銃と銃剣を持っていましたが」という記述があり、これが結構、「ラーベは中国の反日工作撹乱隊を日本軍と誤認した」という根拠で使われているようです。

試みに、「日本軍がモーゼル拳銃を使用していた」という資料を、いくつか紹介します。


「南京戦史資料集?機廝丕械坑機/綯?荘日記 十二月十四日
<敵の捕獲小銃で鳥を射ったら見事一発で命中した。敵の小銃モーゼルは性能が良いのだろうか。公園にでて鳥を射って見たが、全々駄目だった。先刻の命中は紛れだったかも知れない。>


「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P253 天野軍事郵便 十二月十七日
<唯捕虜移動の為め多忙になりましたから乱筆になります。逃ぐる者は射殺します。今も銃声がしましたから射殺せるものと思はれます。拳銃は敵のものをぶんどって使用しています。>


「野戦郵便旗」(正)P218  十二月十七日
<門廊の外に出て中島部隊兵器部の片岡少佐といっしょに記念撮影をする。野戦郵便のトラックで中山門砲撃の野砲弾を運んだので、片岡少佐と私たちは知己となったのである。少佐は中川書記にその申出もあったので、鹵獲品のモーゼル拳銃を贈呈するという。>


こんな記述も、ありました。

<最後にモーゼル銃をもって強姦を事とした日本兵は居る筈がないとされた事で思い出したのであるが、筆者が調査の護身用として鹵獲品のモーゼル銃をもらって用いていた事があって中国人が日本人に化けて非行を働いていたと言う事は客観情勢から無理ではあるまいか。>
(五十嵐善之亟「決定版 南京事件の真実」 P98 「ザ・レイプ・オブ・南京の研究」についての批評)


以上、「日本軍がモーゼル拳銃を持っていても不思議はない」、と私は判断します。

渡辺 - 02/08/17 01:57:58
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064414/http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=15018&range=1
電子メールアドレス:「夏服の日本軍」資料(改訂版)


コメント:
「夏服の日本軍」資料 を下記URLに投稿いたしましたので、必要に応じてご利用ください。
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=15018&range=1

ゆう - 02/08/15 22:49:56
電子メールアドレス:田中(田上?)日記


コメント:
K-Kさん、とほほさんに、お手数をおかけしているようで、申し訳ありません。

本来は私が自分で反論しなければならないところなのですが、「2ちゃんねる」(「IP抜き放題」の噂がある)や、「松尾氏の掲示板」(「討論姿勢」を除けば結構真面目な方だと思うのですが、どうもやはりIPを知られてしまうのは抵抗が・・・)には、ちょっと登場しにくいので・・・。



さて、「田中義信陣中日記」ですが、校正してみたら、何箇所かミスがありました(真黒暗→真暗闇、五百余名→五百名、など)ので、正確な形に修正します。


「田中義信陣中日記」(歩七、第三機関銃中隊)

十二月十四日―南京城内の市街戦

一、午前八時整列、城内掃蕩の為出発、敵最後の陣地攻撃す。
一、首都南京も遂に我軍の手に入り、あわれ八十八師軍は西門の彼方で最期を消したので有る。
一、今日の戦闘は実に面白かった。
一、支那軍の野戦病院も見学した。
一、午後九時、真黒暗の城内市街を約二里半位帰隊行軍。
一、支那軍の屍は山を築き、血河をなして、兵器は皆捨て、馬はすて、道路上は実に無残なる近影で有る。
一、五百余名の支那軍捕虜兵を第八十八師の営庭で銃殺及び刺殺。

十二月十五日

一、午前七時半出発。
一、支那第八十八師軍兵舎の附近で第三大隊は駐警す。其の後警備隊形に有る。
一、午后十時起床、支那軍捕虜兵、千七百名余名銃殺す。
一、陸戦隊警備地付近にて、見る間に屍は山となり、揚子江は血河流屍の流失で(二字不明)寒さはぞット身にしむ?
一、血生ぐさき江流の絵巻は寒風深夜の風に何処の彼方に消え行く。


十二月十六日

一、真黒暗の支軍の銃殺終りて、帰舎時に午前六時。
一、西門城の屍を乗越え、拂暁に到着。
一、午前中は休養。



また、今後「信憑性」を問題にしてくる方が出てこないとも限りませんので、論文の関連記述も引用しておきます。

(日記本文の直後)
<田中氏の陣中日記は私が古書店で見付けて購入したもので、田中氏本人については調査していないが、本人の手記であることは疑えず。>

(注記。なぜかこちらでは名前が「田上信彦」となっています。「田中」と「田上」のどちらが「誤記」なのかは、本稿の文章だけでは判然としません)
<「田上義信陣中日記」は四分冊だが、後になるほど簡略になる。出発時の小隊長は村本少尉、第六分隊長は湊一郎、分隊員は平藤作・田上義信・中島喜久雄・山本久雄・前本勝守・上山浄・和田練一・上元勇吉・菅田力吉・青木孝松の各氏。南京在住頃は伊佐部隊棚橋部隊伊勢隊に属していた筈。一二月九日、一○日と戦死傷者続出で残る人は至って少なかった様子で、分隊員は次々に補充され、南京入城時の分隊員不詳。田上氏も一○月二五日に左眼を負傷したが分隊を離れなかった。「日記」は昭和一三年に入るとなぜか詳述され、五月一日で途切れている。私は田上氏には会っていないが、死亡されたものと推定している。もし右記の人々で生存者があるものなら教えて頂けると有難い。皆石川県人の筈で、生きておれば八五歳前後であろう。>


なお、「八十八師営庭」での捕虜処断は、東京日日新聞の佐藤振壽記者によっても目撃されているようです(「南京戦史資料集?供廝丕僑娃后繊崕招海箸亙發?こと」)。同時に入手した、岡野君江氏の「第九師団と南京事件」(「環日本海研究」2号、1996年)の示唆で気が付きました。


・・・しかし、「南京戦―閉ざされた記憶を尋ねて」が、なかなか掲示板の話題になりませんね。私など、その情報量の多さに、「消化不良」を起こしているのですが(笑)。

K-K - 02/08/15 21:50:42
電子メールアドレス:JOHN_VOIDさんへ


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、JOHN_VOIDさん。
> 杉原夫人がヒレル=レビンの「千畝」を出版した清水書院に対して出版差し止め請求
>の訴えを起こしたというニュースがでていました。
> 同書は大正出版の研究書に比べて不正確な記述が多く、問題があると感じていまし
>たので、裁判の過程で誰が変な情報を混ぜ込んだのか分かるとありがたいです。
> あの本を使わなくて良かったと少しほっとしています。
 その様な情報があったとは気付きませんでした。
 さっそく、調べてみたら読売新聞のHPに載っていました。
http://www.yomiuri.co.jp/04/20020814i501.htm
 一時期、この問題はAML(http://www1.jca.apc.org/aml/)などで取り上げられていたものの、最近、あまり話が出てこなかったので、てっきり、立ち消えとなったのと勘違いしていました。

 戦時中の数少ない日本人の功績を汚す様なことをするというのは、どうしても理解ができませんね。 仰るとおり、裁判を注視していこうと思います。
 何か情報がありましたら、また、提示してください。

K-K - 02/08/15 21:42:34
電子メールアドレス:ゆうさんへ


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、ゆうさん。

 反論、ご苦労さまです。私も松尾さんの方で反論を出しておきました。それにしても、彼等も何の説明なしに「私はこう思う」的なものを書いて、それが「反論」になると考えているようですから、何というかお気楽なのか、気宇壮大なのでしょうね(笑)。

 ところで、北陸史学については、非常に興味深く読ませて頂きました。もし宜しかったら、「田中義信陣中日記」を資料集の方に掲載したいのですが、宜しいでしょうか?これは、非常に貴重な資料だといえるでしょう。

 それにしても、この様な貴重な資料が、いまだ古本屋に流れているのですね。私も頑張って探さなければ(笑)。

ゆう - 02/08/15 18:14:22
電子メールアドレス:RE;必要ないでしょ


コメント:
う~む、さすがは「喧嘩慣れ」しているとほほさん。

私も半日考えて、同じ結論に達しました(^^; 。

「補足」という形であれば、まあ、いいんじゃないかと・・・。

とほほ - 02/08/15 17:45:07
電子メールアドレス:必要ないでしょ


コメント:
>機会を見て、構成の変更をお願いした方がいいかもしれませんね。

そんな必要は無いでしょう。
誰がよんだって、ゆうさんの書いていることを誤読する人はいません。なんでもかんでも書いても無いことを印象操作ででたらめを作り上げるわけです。書き換えたら書き換えたで何言われるかわかりませんよ(^^;

ゆう - 02/08/15 17:43:55
電子メールアドレス:「反論」の修正です


コメント:
折角「反論」(というより、解説)を書いたのですが、どうやら「ゆうさんのページ」をめぐる議論はもう終わってしまったようです(笑)。

とはいうものの、こちらの掲示板を見ない人も多いと思いますし、今後のこともありますので、一応、「ゆうさんのページ」Article1の「追記」として、次の文を加えていただけるとありがたいです。

松尾さんの掲示板にも、ひとり「あわてもの」がいらっしゃるようですし(笑)。人の文章を「トリミング」呼ばわりするのなら、せめてしっかりと内容を読んで、自分の頭で判断してほしいものです。

朝の「反論」は、でかける前にあわただしく書きましたので、以下、「反論の改訂版」です。もし直した方がいいと思われる箇所がありましたら、ぜひご指摘下さい。



Article1で、私は、どう読んでも「日本側の射撃」にしか見えない文章を、巧妙なトリミングにより「中国側の射撃」に見せかけた東中野氏の「印象操作」を批判しました。

ところが、一部の掲示板に、その趣旨を理解しない、頓珍漢な反論がありました。

とはいえ、これは半年以上も前、私が「南京事件」にとりかかったばかりの頃に書いた文章です。今読み返すと、私自身、必ずしも満足のいくものではありません。

そこで、趣旨を明確にするため、以下、「補足説明」を行いたいと思います。(しかし、冷静に読んでいただければ、誤解のしようがない文章だったと思うのですが・・・(笑))


私が問題にした東中野氏の文章は、以下のとおりでした。

<南京とその周辺はまだ完全には制圧されていなかった。>

<大寺隆上等兵の陣中日記は上元門まで六里(約十八キロ)を進軍した十七日、「時々小銃弾が頭の上をかすめて行く」という危険な状況を記す。釈放された支那兵が再びゲリラ活動に転じる可能性は否定できなかったのである。 >

上の文章を読んだら、誰でも、「銃撃しているのは中国側」である、と思い込むでしょう。

「危険な状況」「支那兵が再びゲリラ活動に転じる可能性」という言葉で、東中野氏は読者を意図的にその「誤解」へ向けて誘導しています。


以下、これに対応する、「南京戦史資料集」の原文、「十二月十七日」の記述の全文です。

大寺隆日記 十二月十七日 (南京戦史資料集?供。丕械苅后?

<五時起床、今朝は鴨汁だ。郡君が来たのでご馳走してやる。

七時四十分整列、上元門まで約六里、途中には敗残兵又は地雷があるから注意せよ、との中隊長の話あり、敗残兵が居り小銃隊の尖兵が射撃す。足の調子は非常に良かったが天気が良すぎて汗が出る、皆水トウの水を不足させクリークの水を呑み始めた。今日は支那には珍しく山又山、峠ばかりを歩いて居た。時々小銃弾が頭の上をかすめて行く、昼食前に殺されて居る将校らしき者が、二百円ばかり持って居り皆で分ける、俺も四十五円ばかり貰った。

午後三時頃、今日朝香宮及松井大将が来られて南京入城式が行はれたそうだが、飛行機が三機編隊で九組も帰へった。峠を上ると南京の城が見える、もう少しだと元気を出す。午后五時両角部隊の屯する揚子江沿岸に着き、糧秣をもらって宿舎に着く。夕方から風が吹き、小雪さへ加はり寒い夜になった。我々之ねぐらは六尺位の棚に六人づつだ。きゅうくつではあったが割合に暖かだった。>


この文章から、「銃撃しているのは中国側である」と断定するのは不可能です。前後を読んでも、「敗残兵」が存在すること、そしてそれに向けて日本側が射撃していること、しか読み取れません。どう見ても中国側の銃撃がある、というムードではなく、前後の文脈から見て、銃撃しているのは明らかに日本側である、というのが、私の判断でした。

だいたい、入城式当日の「十二月十七日」段階で、「時々」日本軍に向けて「射撃」を行う、元気な「敗残兵」が存在したら、これは「通説」をくつがえす、ちょっとした「事件」です(笑)。

以上、東中野氏は、ここで、「ウソではないけれども明らかに誤った思い込みを読者に与える」という、古典的テクニックを使っているわけです。


蛇足ですが、「将校らしき者」から金品を略奪するなど、この日記の全体としてのトーンは、のんびりしたものです。この日記の文章から、「釈放された支那兵が再びゲリラ活動に転じる可能性は否定できなかったのである」という文章につなげるのは、飛躍が大きすぎます。




なお、私の「メッセージ」は、「東中野氏の資料引用のいいかげんさ」、あるいは「原典のイメージを全く変えてしまう印象操作ぶり」という、ただの一点です。

今読み返すと、正直な話、Article1とArticle2は「論点」としてはちょっと細かすぎたかな、という気もしていますが(何しろ、これを投稿した時は、まさかこんな風にHP化していただけるとは想像もしていませんでしたから(笑))、私の「南京事件問題」への取り組みの、ひとつの「メモリアル」にはなるでしょう。


これから読み始める方へ。どうか、Article1とArticle2あたりだけを読んで、やめてしまわないよう、お願いします。

後のArticleになるほど、私の「南京事件」に関する知識が増えてきて、少しは面白くなってきている・・・と思うのですが(笑)。

ゆう - 02/08/15 09:00:33
電子メールアドレス:とり急ぎ、反論します


コメント:
「ゆうさんのページ」批判がかまびすしいようですので、一応、反論しておきます。

Article1で、私は、どう読んでも「日本側の射撃」にしか見えない文章を、巧妙なトリミングにより「中国側の射撃」に見せかけた東中野氏の「印象操作」を批判しました。

私が紹介した東中野氏の文章は、以下のとおりです。

<南京とその周辺はまだ完全には制圧されていなかった。>

<大寺隆上等兵の陣中日記は上元門まで六里(約十八キロ)を進軍した十七日、「時々小銃弾が頭の上をかすめて行く」という危険な状況を記す。釈放された支那兵が再びゲリラ活動に転じる可能性は否定できなかったのである。 >

上の文章を読んだら、誰でも、「銃撃しているのは中国側」である、と思い込むでしょう。「危険な状況」「支那兵が再びゲリラ活動に転じる可能性」という言葉で、東中野氏は読者を明確にその「誤解」へ向けて誘導しています。


他の掲示板にも紹介されたようですが、以下、原文です。

大寺隆日記 十二月十七日 (南京戦史資料集?供。丕械苅后?

<五時起床、今朝は鴨汁だ。郡君が来たのでご馳走してやる。

七時四十分整列、上元門まで約六里、途中には敗残兵又は地雷があるから注意せよ、との中隊長の話あり、敗残兵が居り小銃隊の尖兵が射撃す。足の調子は非常に良かったが天気が良すぎて汗が出る、皆水トウの水を不足させクリークの水を呑み始めた。今日は支那には珍しく山又山、峠ばかりを歩いて居た。時々小銃弾が頭の上をかすめて行く、昼食前に殺されて居る将校らしき者が、二百円ばかり持って居り皆で分ける、俺も四十五円ばかり貰った。

午後三時頃、今日朝香宮及松井大将が来られて南京入城式が行はれたそうだが、飛行機が三機編隊で九組も帰へった。峠を上ると南京の城が見える、もう少しだと元気を出す。午后五時両角部隊の屯する揚子江沿岸に着き、糧秣をもらって宿舎に着く。夕方から風が吹き、小雪さへ加はり寒い夜になった。我々之ねぐらは六尺位の棚に六人づつだ。きゅうくつではあったが割合に暖かだった。>


この文章から、「銃撃しているのは中国側である」と断定するのは不可能です。前後を読んでも、「敗残兵」が存在すること、そしてそれに向けて日本側が射撃していること、しか読み取れません。どう見ても中国側の銃撃がある、というムードではなく、前後の文脈から見て、銃撃しているのは明らかに日本側である、というのが、私の判断でした。

しかも、「将校らしき者」から金品を略奪したり、全体としてのトーンはのんびりしたものです。上の文章から、「釈放された支那兵が再びゲリラ活動に転じる可能性は否定できなかったのである」という文章につなげるのは、どう考えても無茶です。

東中野氏は、ここで、「ウソではないけれども明らかに誤った思い込みを読者に与える」という、古典的テクニックを使っているわけです。

しかし「原文」を読んでも、なお私の意図が理解されないとは・・・。「否定したがり屋」さんたちの強弁にも、困ったものです。


とはいうものの、Article1とArticle2あたりは、私も、「南京事件」についてはまだ「初心者」の状況のまま、手探りで書いた「試作」でした。今読み返すと、ちょっとつまらん議論だったかな、と思わないでもありません。まさかこんなところに「突っ込み」が入るとは予想もしていませんでしたし・・・。「少しはモノがわかってきた」頃に書いた、Article3あたりから始めた方が、HPとしての完成度は高かったかもしれません。

実際、きちんと最後まで読んで、私の「東中野氏の資料引用のいいかげんさ」というメッセージを受け止めてくれる方も多いのですが、一部には、私の「試作」である最初の部分だけで読むのをやめてしまっている方もいるようです。

機会を見て、構成の変更をお願いした方がいいかもしれませんね。

JOHN_VOID - 02/08/14 17:50:33
電子メールアドレス:杉原千畝


コメント:
 杉原夫人がヒレル=レビンの「千畝」を出版した清水書院に対して出版差し止め請求の訴えを起こしたというニュースがでていました。
 同書は大正出版の研究書に比べて不正確な記述が多く、問題があると感じていましたので、裁判の過程で誰が
変な情報を混ぜ込んだのか分かるとありがたいです。
 あの本を使わなくて良かったと少しほっとしています。

渡辺 - 02/08/14 14:40:28
電子メールアドレス:「田中義信陣中日記」


コメント:
ゆうさん、
お疲れのところご苦労様。
私は、まだ自分の原稿で四苦八苦していますので、他の人の投稿にコメントするような立場ではないのですが、「田中義信陣中日記」は、第九師団の状況が分かってくるような内容ですね。
時間ができたら、部隊ごとに時系列に資料をならべてみたいと思っています。

『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』(社会評論社)は、これだけ年月が経ってからのものとしては、よくできています。特に三三連隊の証言を探していたので、いいタイミングでした。ただ、どういう問いに対しての証言だろうかと、その部分が気になりました。
というのは、私も、メールや手紙で1930年代のことを、関係者に尋ねているのですが、質問をするというのは、けっこう難しく、私の場合、一度回答をもらうと次々と疑問が生じてきて、質問が一度で終わることはありません。注意しているのは、誘導尋問にしないことです。資料的価値が減少しまいます。また、どういう質問に対する答えかということでも、その意味が違ってきます。
それから、質問者もよく相手の当時の状況を把握していないと、いい質問はできません。例えば、この件は当時の資料からは、間違いなくこの時期だと思っても、相手は記憶違いをしていることがあります。次の機会に、ある公文書にこういうことが書いてありましたが、それはご存知でしたかと質問しましたら、その確認のために昔の手紙を出してこらて、いままでの証言より正確で詳しい内容を、手紙の引用で教えたいただいたということがあります。その結果、私の推測が正しいことがわかりました。こういうときに、いや、この頃の話じゃないですかとか、こんなことがあったはずですがと誘導したら、証言の意味はなくなってしまうわけです。

ところで、「Rテ二○○○○人銃殺す」は、普通に読めば「連隊で20,000人銃殺した」という意味ですね。「二」が誤記か誤読とすると伏せ字で「○○○○人」ということありえますが、原文を見ないとなんとも言えませんね。

ゆう - 02/08/14 05:57:35
電子メールアドレス:少し元気が出ましたので・・・


コメント:
「北陸史学」第49号 高野源治氏論文に掲載された、「田中義信陣中日記」を紹介します。私もこの日記のことは知りませんでしたし、ネットで検索する限りではネット上で紹介されたこともありません。一応、ここで紹介しておく価値はあろうかと思います。


「田中義信陣中日記」(歩七、第三機関銃中隊)

十二月十四日―南京城内の市街戦

一、午前八時整列、城内掃蕩の為出発、敵最後の陣地攻撃す。
一、首都南京も遂に我軍の手に入り、あわれ八十八師軍は西門の彼方で最期を消したのである、
一、今日の戦闘は実に面白かった。
一、支那軍の野戦病院も見学した。
一、午後九時、真暗闇の城内市街を約二里半位帰隊行軍。
一、支那軍の屍は山を築き、血河をなして、兵器は皆捨て、馬はすて、道路上は実に無残なる近影である。
一、五百名の支那軍捕虜兵を第八十八師の営庭にて銃殺及び刺殺。

十二月十五日

一、支那第八十八師軍兵舎の附近で第三大隊は駐警。其の後警備隊形に有る。
一、午后十時起床、支那軍捕虜兵、千七百名余名銃殺す。
一、陸戦隊警備地付近にて、見る間に屍は山となり、揚子江は血河流屍の流失で(二字不明)寒さはぞっト身にしむ?
一、血生ぐさき江流の絵巻は寒風深夜の風に何処の彼方に消え行く。


十二月十六日

一、真暗闇の支軍の銃殺終りて、帰舎時に午前六時。
一、 西門城の屍を乗越え、拂暁に到着。
一、午前中は休養。


筆者はこれを、「伊佐部隊長日記の十二月十六日にある「三日間に亙る掃蕩にて約六五○○を厳重処分す」の裏付け」として利用しています。

この十五日の下蘭に「Rテ二○○○○人銃殺す」という書き込みがあるようで、筆者はこれについて考察を行っていますが、引用が長くなりますので省略します。


あともう一つ、「百人斬り」について、興味深い記述がありました。

<私の在所のS氏が南京中山門を目前にして負傷して帰り、老衰で去年死亡、もう一人のH氏も、たしか輜重兵(金沢市野田)に属して出征し、湯名な百人斬り競争の二少尉のどちらかが、中国人を迎えては斬るのを見ていた話を聞いたが、そんならと聞き取りに行こうとしたら、家の評判が悪くなるとて息子に反対されたからと断られ、行かずにいたら去年亡くなった。雑談の中で彼のその話を聞いた者は私一人ではないのだが、今となっては取返しができない。>


書き忘れましたが、筆者は「戦前の石川県労働運動」の研究家であるそうです。「自由主義史観」グループの「大活躍に刺激されて」南京事件にも関心を持ったようです。なお、論文の日付は、2000年2月13日となっています。

ゆう - 02/08/13 21:40:33
電子メールアドレス:「北陸史学」第49号 高野源治氏論文


コメント:
以前話題にした、「北陸史学」の高野氏論文「第九師団、南京大虐殺否定論批判―大戸宏氏『月刊アクタス』所載論稿に関連して―」を入手しました。

以下、内容を紹介します。


これは、大戸宏氏の「石川近代史秘話<第二十三話>大陸の第九師団」なる論考(北國新聞社刊『月刊アクタス』1998年12月号)に対する、反論であるようです。私は大戸氏論文の方は入手できませんでしたが、高野氏論文を読む限りでは、「通俗的否定論」の域を出ないものであるように感じます。

大戸氏論文は、(石川県の)「郷土部隊・・・が、終戦後極東裁判(東京裁判)で糾明された「南京大虐殺」に関係していたかどうかを問い、その無関係を証明しようとした」内容だそうです。それに対して高野氏は、大戸氏論文は「資料が一方的というか、判断が甘いと見る。そのため、大戸氏の使われた資料・証言を再吟味しながら、南京大虐殺を虚構とする説は無理であり、第九師団は無関係というのも無理であろうことを立証したい」と考えて、この論稿を起こした、とのことです。

内容については、見出しをあげれば、凡その内容の見当はつくと思います。

一、軍服を脱いだ兵をゲリラ兵とする無理
二、逮捕した者は全員釈放したという伊佐部隊証言は虚構
三、南京市の人口について
四、南京大虐殺三十万人説について―特に第九師団第七連隊による虐殺のこと―

それぞれ面白い考察でしたが、とりあえずは、以前話題にした、「南京戦史資料集の一部省略」についてだけ書くことにします。以下、関連部分の前後を含めた引用です。

<その三、「初年兵の手記」(歩七、第一歩兵砲小隊)
この人の日記が『初年兵の手記』としてガリ版印刷し製本されて戦友たちの間で愛読されている。ガリ版切りをした人が羽咋市の人なので、私も一冊頂いたし、体験者本人にも会った。その南京入城前後の部分は前掲『南京戦史資料集』にも収録されている。しかしその十二月十五日のそれと同様に詳細に記録された十六日の部分はたった五行となっている。それは戦友会の人たちが、これでは戦死した戦友たちに傷がつくということで削除させたからである。そこには歩兵第七連隊の歩兵砲小隊が「残敵掃蕩」の名のもとに南京大虐殺に参加したか、それを目撃して描写してあったからと見るのが妥当である。中国人虐殺は歩兵中隊か機関銃中隊が中心の筈で歩兵砲小隊を使うのはどうかという気もするが、私は当人に会ったとき、削除されたと聞いてがっかりして、その矛盾に気付かず、問うのを忘れたというより思い付かなかったのは不覚であったが、もう生存されていれば八十五歳ぐらいの筈で、私の町の同年兵の方はもう老衰化していて聞けないのだから、もう一度聞き取りに行く気も起こらないのだが。>

この後に、筆者が古書店で見付けて購入したという、「田中義信陣中日記」(歩七、第三機関銃中隊)の抜粋もあります。帰省ラッシュに巻き込まれて今日は疲れ果てておりますので、また元気が出ましたら紹介します。

K-K - 02/08/09 23:22:09
電子メールアドレス:渡辺さんへ


コメント:
 K-Kです。
 お忙しいところ、すみません。
 早まったことを書きました(笑)。

 もちろん、渡辺さんのご希望通りに致します。
 原稿の方、頑張ってください。中帰連を楽しみにまってます。


 ところで、ようやく『南京戦----閉ざされた記憶を尋ねて』を買うことが出来ました。今日は、これからじっくりと読みたいと思います。

渡辺 - 02/08/09 22:38:46
電子メールアドレス:K-Kさん


コメント:
K-Kさん:>
>これは勝手にやらせていただきましょう

「公文書」の内容も発表していないので、「中帰連」原稿ができるまで待ってて。
あまり情報源を公開していないのは、昨年からハギワラなる人が、Timperleyを否定的な方向で調べていて、不用意に情報源を知らせたくないという理由があります。その人は、メイン州の元奥さんのところへも行っていますから、私のような貧乏アマチュアでないことは確かです。

この件は、証言がどう歪むかという実例として まとめてみたいと思います。元気があったら、故意に証言を歪めた場合の例として、陸軍法務官・小川関治郎氏の日記と、東京裁判での小川氏の証言の比較も付けてみたいと思います。

K-K - 02/08/08 21:32:32
電子メールアドレス:渡辺さん


コメント:
 こんにちは、渡辺さん。

 ご苦労さまです。中帰連の連載を楽しみにしています。
---- 引用 ----
ちなみに、Timperley は、日本に新婚旅行へ行こうとしていたことが公文書で分かりました。で、二つの謎が解けました。(1)Timperley夫妻が南京から上海に来たのは、1937年9月上旬(だいたい5日頃)、(2)福田証言には2重の混同があり、ひとつは、福田氏が多分関与したクレーガーが南京を出る許可の話をTimperleyと混同した、もうひとつは、日高氏が Timperley が結婚のために(南京)を出るのを助けたというのは、実は、日高氏が広田弘毅にハネムーンで日本に入国できるか問い合わせ、OKをもらったという話、これらがごちゃまぜになったわけ。これで、なぜ上海にいた日高氏が証言に出てくるかという疑問が解けました。だいたい、福田証言というのは、又聞きが入っていて危ないわけですが、そんな証言でも、事実が、どう ちりばめられているかを示す、良い教材になりそうです。
---- 終わり ----

 うーん、本当、調べれば解るものなんですね。この話は、なかなか有名な話でしたが、ここまで明確にしたのは渡辺さんが初めてです。
 短いですが、これもログとして流すのは勿体ない。何かの形で、「渡辺さんのページ」に反映させていただきます。渡辺さん自身、忙しそうですので、これは勝手にやらせていただきましょう(笑)。反映させたら、また、ご報告することにします。


---- 引用 ----
そうそう、南京事件は、日本の軍部では何が問題とされたのかな。河邊虎四郎少将回想応答録にある「南京のあたりで変な事が出来た後でありますから其の悪い連中を帰して独立混成旅団が四つか五つか出来て来るからさうしたら...」(『南京戦史資料集?』p.222)とある「其の悪い連中」に16Dが入っていることは間違いないけど、何を「悪い」としているのかな?
---- 終わり ----

 この判断は難しいところです。というよりは、安易に「市民殺害を指している」としてしまうと、おそらく否定派の人は反対意見を出すでしょう。この判断の基となる情報が外務省からのものであれば、市民殺害を含めたものであるとも言えるのですが・・・。この点も、即断は避けるべきかもしれません。


 ところで、『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて――元兵士102人の証言』松岡環編著が、配本になったようです。版元である社会評論社では、8月7日発行となっています。明日にでも、書店にいって買おうと思っています。
http://www.shahyo.com/topics.html#anchor114354

K-K - 02/08/08 21:21:19
電子メールアドレス:eichelberger_1999さんへ


コメント:
 こんにちは、eichelberger_1999さん。

 ありがとうございます。
 メールでいただいた原稿の方を、さっそく、HPに載せたいと思います。

 掲載しましたら、この掲示板を含め諸掲示板にてお知らせいたしますので、その時にでもご確認をお願いします。
 面白いネタがありましたら、また、投稿をお願いします。
 

渡辺 - 02/08/07 10:34:05
電子メールアドレス:訂正


コメント:
松井岩根→松井石根

渡辺 - 02/08/07 03:09:13
電子メールアドレス:いとまごい


コメント:
『季刊 中帰連』の原稿締切りが迫っていますので、掲示板からは遠ざかっています。しばらく、姿を消します。

上海租界の勉強は難しかった。上海だけで何冊もバインダができてしまいました。これを短くまとめるのはつらい。しかし、昔から日本の政策の意思決定は誰がしていたんだろうか。現在でもはっきりしないことが多いけどね。
松井岩根司令官も、田中正明の「美化工作」で人物像が、だいぶ歪められいるみたい。この方は、なかなかの曲者。しかし、平泉澄、大川周明とか荒木貞夫なんか、大亜細亜協会や「日本精神」とかで、思想的にも人脈的にも通じるものがあるな。
『「南京事件」の探求』のレベルで記事を書いていいというなら楽ですが、良心の許す範囲で妥協しても大変だわ。
ちなみに、Timperley は、日本に新婚旅行へ行こうとしていたことが公文書で分かりました。で、二つの謎が解けました。(1)Timperley夫妻が南京から上海に来たのは、1937年9月上旬(だいたい5日頃)、(2)福田証言には2重の混同があり、ひとつは、福田氏が多分関与したクレーガーが南京を出る許可の話をTimperleyと混同した、もうひとつは、日高氏が Timperley が結婚のために(南京)を出るのを助けたというのは、実は、日高氏が広田弘毅にハネムーンで日本に入国できるか問い合わせ、OKをもらったという話、これらがごちゃまぜになったわけ。これで、なぜ上海にいた日高氏が証言に出てくるかという疑問が解けました。だいたい、福田証言というのは、又聞きが入っていて危ないわけですが、そんな証言でも、事実が、どう ちりばめられているかを示す、良い教材になりそうです。

そうそう、南京事件は、日本の軍部では何が問題とされたのかな。河邊虎四郎少将回想応答録にある「南京のあたりで変な事が出来た後でありますから其の悪い連中を帰して独立混成旅団が四つか五つか出来て来るからさうしたら...」(『南京戦史資料集?供?.222)とある「其の悪い連中」に16Dが入っていることは間違いないけど、何を「悪い」としているのかな?

eichelberger_1999 - 02/08/06 16:08:17
電子メールアドレス:ありがとうございます。


コメント:
K-K様

 拙文を評価していただいて、ありがとうございます。

>もしよろしかったら、今回の論文も私のページに載せた
>いのですが、構わないでしょうか?

 もちろん、かまいません。ただ、あれから再度見直したら、高級指揮官の顔ぶれを少し訂正しなければならないことに気づきましたので、訂正版を失礼ですが、メールで送らせて頂きました。
 掲載していただけるのであれば、訂正版のほうでお願い致します。

K-K - 02/08/01 22:56:02
電子メールアドレス:eichelberger_1999さんへ


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、eichelberger_1999さん。

 お返事遅れてすみません。
 それにしても、非常に面白い視点の論文です。

 確かに、南京戦後の各将校の処遇については、eichelberger_1999さんの様な視点で見れば、非常に明確ですね。松井大将については、なかなか有名なのですが、その他の将校についてはeichelberger_1999さんの指摘があるまでは、あまり知りませんでした。

 eichelberger_1999さんもご指摘の通り、南京戦において主たる役割を果たした師団長たちが、その後冷遇された事実を知ると、やはり軍上層部に、南京事件に対する【何らか】の評価があったと考えるのが妥当だと思います。

 また、朝香宮の処遇についても、こう考えてみるとなかなか興味深い。とくに、東久爾宮と比べることで、その違いが一目瞭然です。しかも、本来は朝香宮の方が評価が高かったのが、上海派遣軍司令官以降、その立場が逆転していることは非常にこの論証を明確にしています。もしかしたら、この辺の評価を示す資料が残っているのかも知れません。私も資料を読むときは、この点に留意しながら読んでいこうと思います。

 非常に簡単な感想を書いてみましたが、これからもう少し読み込んでみようと思います。挙げられた師団長たちの経歴をさらに洗い直してみたいと思いますし、特に朝香宮については興味が出てきました。今回の論文は、前回とは別の意味で啓発を受けました。有り難うございます。


 もしよろしかったら、今回の論文も私のページに載せたいのですが、構わないでしょうか?
 ぜひ、ご検討下さい。

eichelberger_1999 - 02/07/30 20:02:26
電子メールアドレス:中支那方面軍への人事考課


コメント:
 K-Kさん、それから渡辺さん、お返事が遅れましたが、メッセージありがとうございます。2chにも南京事件関連の掲示板があるのですね。

 前回のが好評だったので、調子にのってもう一つ、紹介します。
 これは、今は無くなってしまったYahoo掲示板のトピック(世界史カテゴリーの「南京事件●陸軍高官が「クロ」と認識」)への投稿に少し手を入れ、訂正したものです。

 このデータ分析そのものは「南京大虐殺の証明」に直接つながるものではさらさらありませんが、このような人事がなされたことは、陸軍中央が中支那方面軍の統帥に対してきわめて辛い評価を下していたことを示します。
 
 日中戦争の初期、ほぼ同じ頃に中国で戦闘活動に従事した日本陸軍には、華北の北支那方面軍と華中の中支那方面軍の二つがありました。中支那方面軍が活動していた時期(37.8~38.2)の、それぞれの師団長以上(方面軍参謀長、旅団長などで中将以上の指揮官を含む)の構成は以下のとおりです。

○北支那方面軍(37.8~38.2)(駐蒙兵団を含む)
方面軍司令官1、軍司令官2、師団長等11(内2は中支那方面軍に転出)、参謀長1:計15人
現役大将1、現役中将12、予備中将2:計15人、現役率は12/15(80%)

○中支那方面軍(37.8~38.2)
方面軍司令官1、軍司令官2、師団長10(内2は北中支那方面軍から転入):計13人
予備大将1、現役中将8、予備中将4:計13人、現役率は8/13(61%)

 両方面軍の高級指揮官たちが、その後どの程度出世したのかをみてみましょう。予備役だとほぼ進級の余地がないので、現役の中将、大将の進級を見ます。

 北支那方面軍では、現役の大将1人がのちに元帥となり、中将6人が大将に進級しています。7/13ですから進級率は53%。途中で中支那方面軍に転出した2人は、大将に進級していないので、これを控除した、純粋に北支那方面軍傘下指揮官をとれば、7/11すなわち63%にあがります。
(元帥:11寺内寿一、大将:14西尾寿造2A、16板垣征四郎5D、16土肥原賢二14D、17後宮淳26D、18山下奉文支那駐屯兵団、18岡部直三郎参謀長)
*人名の頭にあるのは士官候補生の期数、後に書いたのは指揮をとった団隊名(Aは軍、Dは師団)です。 
 
 いっぽう、中支那方面軍では、現役中将8人のうちその後大将にまで進級したのは、わずか1人です。1/8、すなわち進級率は12.5%にとどまります。北支那方面軍に比べこの差は有意といわざるをえません。

 中支那方面軍で唯一大将に進級したのは、皇族の朝香宮鳩彦王(上海派遣軍司令官)のみ。皇族ですので戦場での功績による進級とはいえません。大将に進級できなかったので、朝香宮以外の7人はすべて中将のまま予備役に編入されまました。100から進級率を引いた87.5%が予備役編入率となります。

 次に両軍の予備役編入者をリストにすると、以下のとおりです。△はノモンハン事件による予備役編入と見なしたほうがよい人事です。

○北支那方面軍
 38年中予備役編入1(14香月清司1A)
 39年中予備役編入3(15川岸文三郎20D、15徳川好敏航空兵団、△16磯谷廉介10D)
(*香月中将の予備役編入は作戦指導をめぐる方面軍との確執に由来する)
 
○中支那方面軍
 38年中予備役編入0
 39年中予備役編入3(15谷寿夫6D、15中島今朝吾16D、17吉住良輔9D)
 40年中予備役編入1(△17荻洲立兵13D)
 41年中予備編入2(14山室宗武11D、16藤田進3D、18稲葉四郎6D)
 (*第6師団長は1937年12月28日付で谷から稲葉に交代) 
 
 高級指揮官クラスの人事考課をみるかぎり、大激戦の上海・南京戦を戦い、敵の首都を陥落させる大功績をあげたはずの中支那方面軍に対しての、陸軍中央の評価はかなり辛かったことがわかります。
 これが何に由来するのかは皆さんのご想像にまかせましょう。中支那方面軍で最初に予備に編入されたのが、第6、9、16師団すなわち南京攻略戦の主力師団の指揮官であったことは大いに示唆に富みます。

 最後にめでたく大将に進級できた朝香宮ですが、彼はどうやら干されていたのではないかと思われます。彼のその後の経歴を士官学校で同期であった兄弟の東久邇宮と比べるとそのことがよくわかります。同い歳の2人の陸軍内での昇進はそれまでまったく同じように進むのですが、日中戦争以降に微妙に変わってきます。

 東久邇宮稔彦王:士官候補生20期、1933・8中将・第2師団長、34.8第4師団長、35.12軍事参議官、37.8兼航空本部長、38.4第2軍司令官、39.1軍事参議官、39.8大将、41.12兼防衛総司令官、45.4軍事参議官、45.8内閣総理大臣

 朝香宮鳩彦王:士官候補生20期、1933.8中将・近衛師団長、35.12軍事参議官、37.12上海派遣軍司令官、38.3軍事参議官、39.8大将、45.12予備)

 1933年の段階では、朝香宮が近衛師団長で、東久邇宮は第2師団長。この配置から、ここまでの軍人としての部内評価は朝香宮のほうが上だったはずだと考えてまずまちがいないでしょう。
 だからこそ、日清戦争以来40年ぶりの皇族の外征軍の軍司令官就任の話も、東久邇宮でなくて、朝香宮のところにいったのだと考えると、よく納得できます。
 ところが、朝香宮は凱旋後は軍事参議官という名誉はあるが、実質的には何の権限もない職についたまま、ついにその軍歴を終えます。上海派遣軍司令官を拝命した時点で彼はまだ満50才ですから、老け込む年齢ではありません。
 いっぽう、同い年の東久邇宮は入れ替わりで第2軍司令官となり、武漢作戦に従軍します。彼の率いる部隊はもとの上海派遣軍の構成師団(3D、13D、16D)からなりたっていました。
 その任務をすませたあと、2人とも仲良く大将に進級し、軍事参議官となりますが、わかれめは太平洋戦争を前にしての防衛総司令官(内地の陸軍の総司令官)に朝香宮ではなくて、東久邇宮がなった点です。
 ここで、陸軍内の評価が1933年時点とでは、はっきりと逆転しているのがわかります。この2人に対する評価のちがいは、もちろん中国での軍司令官としての統率での軍司令官としての統率ぶりに対する評価の差に由来するとみても、大きな間違いとはならないでしょう。

渡辺 - 02/07/28 14:52:17
電子メールアドレス:ティンパーリ「戦争とは何か」のことでしょう


コメント:
ゆうさん:>
-----
<(1938年)十一月二十七日、晴。侍従武官が視察するので、場所整備のため武昌南二十里の咸寧に
出張した建築隊の技手(軍属)が帰ってきて私に話した。・・・「咸寧県庁に英人の書いた排日の本で漢訳
されている本があった。中の写真が猛烈で、日本の兵隊が輪姦しているのなどがある。七十の老婆まで
強姦されたとある、兵隊が?の首を斬っている写真もあった」>((続)P161。おそらくティンパーリ「戦争と
は何か」のことでしょう)
----

いまや、この本の「専門家」となりつつあるので一言...(原稿締切がせまっているので、それどころではないけど...)

中国語訳には32枚の写真が巻頭にあります。
邦訳で「鬼畜の様な日本兵に蹂躪されたる婦女」という複数の写真のことですね。
32枚の中で「南京」とキャプションがあるのは3枚で、うち2枚がラーベの写真と思われます。(1枚は「南京の真実」の写真18)余談ですが、ラーベの写真で「南京の真実」の写真13となっているものは、チャイナ・ウイークリー・レビュー1938年5月19日号に掲載されています。
この中の写真で、海軍兵士が生首をもっている写真、僧侶のような服を着た青年の斬首の連続写真は、ケン・マガジンにも鮮明なものが掲載されています。
日本兵が南京で現像に出したものが流出し、フィッチが1938年1月末に南京から持ち出したものと思われます。
ティンパーレーは出版社の求めで写真を集めていたので、それらの一部になったかも知れません。
フィッチが持ち出したものであれば、イエール神学図書館にあるはずですので、将来は調べてみたいと思います。

一般に写真は歴史の資料には使いにくいので、十分検証されることが少ないようです。また、たしかに誤用もあります。そのため、否定論に利用されやすいのですが、機会を見て、1937-38年のものを中心に調べてみたいと思います。

なお、
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/kokumin-shinbun/100916propaganda.html
にある「写真?Α廚砲弔い董△海ΔいΣ鮴發砲覆辰討い泙后?
「新河鎮戦の形勢が不利になり、一斉に河に飛び込んだ中国兵の戦死体あるいは水死体が川に沿って流れ河岸に一定方向に積み重なった場面を撮影したことが判明している。」

しかし、村瀬氏の大きな写真をよく見ればわかりますが、ほとんどの遺体の手が後ろに廻っており、一定方向に積み重なってはいません。
(それ以外にも武器は見当たりません。クツがあるのに衣類がないのは、焼かれた証拠です。)
はっきり縛られているのがわかるのは、中央やや下、やや右側の おしりがでている遺体です。しっかり両手が結ばれています。したがって、戦闘によるものではないですね。
(凄惨なお話しで失礼しました。)

ゆう - 02/07/28 06:28:19
電子メールアドレス:自己レス


コメント:
佐々木元勝氏の「(捕虜7200名を) 一挙に殺す名案を考究中・・・・船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか・・・・」は、「野戦郵便旗」ではなく、「証言による南京戦史」に記載された、「『野戦郵便旗』を書く際の資料だった従軍日誌」(洞氏「南京大虐殺の証明」P300)の記載であるようですね。

K―Kさんが、ちょっと前に書いていたのを、思い出して、確認しました。

ゆう - 02/07/27 09:06:36
電子メールアドレス:佐々木元勝「野戦郵便旗」


コメント:
秦氏の本も大井氏の本も、私は普通の書店で入手しています。東京あたりにお住まいのようですから、たぶん、ちょっと捜せば見つかると思いますよ。

「サヨでないけど」氏が秦氏の文を引用して、議論にケリをつけたようですので、一安心です。


ところで先日、「野戦郵便旗」(現代史出版会。「正」「続」2冊)をネット古書店で入手して、ようやく読み終えました。読んでいる方には、何を今更、ということになろうかと思いますが、結構貴重な記録ですので、以下、内容を紹介します。


筆者は、1937年から1939年8月にかけて、「上海派遣軍野戦郵便局長」として、日中戦争に従軍しました。本書はその従軍日記で、1940年に出版されたものを、検閲伏字部分等を復元するなどして、1973年に再刊したものです。

筆者は「南京大虐殺」に対して、次のような立場をとります。

<南京大虐殺事件につき被虐殺者三十万という報道があったと私は聞いたが、この三十万の実証的根拠はどこにあるのか。私はこの数字に承服できない。>((続)P317)

ただし筆者は「数」を否定しているだけで、「南京事件」の存在そのものを否定しているわけではないようです。現に、「南京陥落」の章には、敗残兵二百名の掃蕩」や、「下関の局近くの河岸」での「敗残兵掃蕩の銃声」など、「事件」を思わせる記述がかなり見られます。


戦地の描写がリアルです。死体描写、トイレ事情等が詳しいので、ちょっと食事時には読めません(笑)。私の印象に残ったのは、上海戦当時に「日の丸部落」(対日協力部落)を訪れた時の次の記述です。

<入口の土間に籠があって、一、二歳の児がはいっている。口の右端が裂かれ腐って金蝿がたかっている。はじめ私は頬瘻なのかと思ったがlこれは刀傷であった。母親に抱かれているのを後から親ごと斬られたのである。・・・軍医が腕にも包帯してやっている。キャラメルをやると無心に喰べる。その傷にたかる金蝿、戦争がいかに悲惨なものであるか、私は電撃された。>((正)P75)

凄い描写力です。キャラメルを無心に食べる、大怪我をした赤ん坊。どうやら、「母親殺害」のあおりを食らったようです。「親ごと斬られた」ことについての「感想」が何もないところを見ると、当時の日本軍にとって、これは日常の風景だったのでしょうか。


「南京事件」について、筆者が噂で聞いていたのではないか、と思わせる記述も散見します。

<狭い舗道で時々姑娘にも会うが、行き違う時ひどく不安気に避けるのがいる。>((続)P68、1938年8月、南京にての記述)

<(1938年)十一月二十七日、晴。侍従武官が視察するので、場所整備のため武昌南二十里の咸寧に出張した建築隊の技手(軍属)が帰ってきて私に話した。・・・「咸寧県庁に英人の書いた排日の本で漢訳されている本があった。中の写真が猛烈で、日本の兵隊が輪姦しているのなどがある。七十の老婆まで強姦されたとある、兵隊が你の首を斬っている写真もあった」>((続)P161。おそらくティンパーリ「戦争とは何か」のことでしょう)



さて、ネットで「野戦郵便旗」を検索していたら、結構「ニセ写真」問題との絡みで取り上げられるのを発見しました。

例えば、「國民新聞」の「「レイプ オブ ナンキン」の改竄写真」です。 

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/kokumin-shinbun/100916propaganda.html

(写真10)
<逓信省から派遣され野戦郵便長として南京戦に従軍した佐々木元勝氏は回想録『野戦郵便旗』(1973年)でも、

 「37年11月22日、司令部で郵便物の検閲に当っていた憲兵から当時、残虐写真やエロ写真が出回っていてカツラをかぶってのやらせシーンは内地からの逆輸入説もあり版元は不明との話を聞いている」

 「支那女が泣きながら立って下半身裸になっているのもある。支那軍か日本軍のどちらが撮ったかわからない」

 と日記に書き留めているという。>


どうも、原文とはニュアンスが違いそうです。その前後を含め、原文のパラグラフ全体を引用します。

<エロ写真の出所は一ヶ所と推定される。写真はいつも同じ褐色のハトロン紙に包んである。一つつみに十二枚で山、川、流、蘭などハトロン紙の端に墨書して区別してある。東洋、というのもある。これは日本ものである。支那人、半島人、ロジヤ人、黒人、ヨーロッパ人、様々な人種が出てくる。二人、三人、一人、四人、いろいろである。この秘密出版の巣窟はどこか。内地から逆輸入されているといううわさもある。日本のは支那人が鬘をかぶって撮影したものだともいう。奇々怪々、まさに心散魂飛の息づまる情炎の万華鏡である。上海と女、戦争とエロ写真、それはなんと必然一体の結合ではないか。エロ写真は疫病のごとく素晴らしい勢で蔓延していった。エロ写真を見ると今までそこここで熱心に撮った写真なんか興醒めしてしまう。エロ写真のほかに戦闘の残虐写真がある。無惨な死体のさまざまな写真である。支那女が泣きながら立って下半身裸になっているのもある。これらの写真は日本軍か支那軍かだれが撮影したものかわからない。>((正)P177~P178)


前半の文章の「やらせシーン」とは、「支那人」がかつらをかぶって日本人のふりをしたやらせエロ写真、という意味です。「ニセ写真」とは関係ありません。(最後に「・・・という」とありますから、原文を読まずに、誰かの話を鵜呑みにしたんでしょうね)

後半も、そんな写真があるよ、と言っているだけで、筆者は何も断定していません。


この本は、版により微妙な相違があるようで、例えばこのサイト(第16師団関係)で紹介されている秦氏の引用文、「(捕虜7200名を) 一挙に殺す名案を考究中・・・・船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか・・・・」 は、私の持っている「現代史出版会」版には見当たりません。

結構重要な記述だと思いますので、他の版を持っている方、できれば確認していただけませんか? 


・・・申し遅れましたが、アクセス数40000突破、おめでとうございます。

K-K - 02/07/26 23:04:18
電子メールアドレス:こんにちは、ゆうさん。


コメント:
>ところで、「二十三連隊兵士の日記」の件ですが、秦郁彦
>「昭和史の謎を追う」(上)(文春文庫)に、かなり詳し
>く経緯が紹介されています(ご存知でしたら「余計なお世
>話」なのですが・・・)。ちなみに、相手方の元ネタは、
>大井満氏「仕組まれた南京大虐殺」であるようです。

 その様ですね。私は、いずれも持ってなく、近くの図書館にもないので未だに参照できてません。しかし、松尾さんのページには「世界日報」の記事があるので、有る程度、内容を知ることが出来ました。
 それにしても、「世界日報」という新聞は、朝日新聞がよっぽど憎らしいようですね(笑)。書いている内容がネット並なので、読んでいて不思議な気がします。

http://members.tripod.co.jp/jhistory/nanking/asahi.html



><吉川はすべての責任を朝日にかぶせているが、連隊会の方
>も途中から日記は本物だと知りながらつっ走ったのだから、
>相打ちであろう。どうやら真相は、連隊会からただされた宇
>和田未亡人が、面倒を恐れて日記は焼き捨てたと述べたこと
>、その前に連体史のため宇和田日記を借り出して読んだ人が
>、読んだと言いそびれてしまったことにあったようだ。
>>(P196)

 これは知りませんでした。非常に助かります。
 でも、この記述で決定的です。名前がちゃんと判明したうえに、その日記をすでに読んでいた人間が存在したのですから、日記自体の存在性は明白ですね。

 ところで、この日記は結局、どうなったのでしょうか?「宇和田未亡人が、面倒を恐れて日記は焼き捨てたと述べたこと」と書いているところからすると、実際は焼き捨ててはいないのでしょうか?ここまで明らかになったのでしたら、ぜひ、この日記の全文を明らかにして欲しいものですね。
 

>「サヨでないけど」氏には、かなり早い時期に「ゆうさんのペ
>ージ」をご紹介いただいた恩があります。勉強熱心な方である
>ようですので、ぜひ早いうちに、こちらにも顔を出していただ
>きたいものです。

 そうですね。勉強だけではなく、気骨のある方のように見受けられます。ぜひ、こちらに来て戴きたいですね。しかし、向こうでも相当レスを付けなければならないようですから、しばらくは難しいかもしれませんね。
 いずれにせよ、「さよじゃないけど」さんと知り合えたことは、素晴らしいことだと思います。この点は2ちゃんねるに感謝しなければなりませんね(笑)。


<なお虐殺風景を書きとどめた宇和田日記の信頼性だが都城連隊には、たしかに虐殺はあった、と主張する元兵士(秋吉正行伍長)もいるし、確実と考えてよいと思う。>(P196)
>「秋吉証言」というのを、ぜひ一度読んでみたいものです。

 これは、調べてみる価値がありそうですね。さっそく、明日にでも調査してみます。貴重な情報を有り難うございます。

ゆう - 02/07/25 23:47:54


コメント:
・・・と思ったら、「2ちゃんねる」に、早速大井氏の本と秦氏の本が紹介されていましたね。

ちなみに、私の方が、18分早い(笑)。


秦氏の締めの言葉を忘れていました。

<なお虐殺風景を書きとどめた宇和田日記の信頼性だが都城連隊には、たしかに虐殺はあった、と主張する元兵士(秋吉正行伍長)もいるし、確実と考えてよいと思う。>(P196)

「秋吉証言」というのを、ぜひ一度読んでみたいものです。

ゆう - 02/07/25 23:20:55
電子メールアドレス:「熊本兵団戦史」その他


コメント:
飲み会の後の、支離滅裂な「独り言レス」のことは、どうか忘れて下さい(^^;

「南京事件をどうみるか」、確認しました。そうですか、同じ「幕府山」でも、魯甦証言と、山田支隊の事件は、別物でありましたか。見事に勘違いをしていました(^^;


下関から渡河しそこなった「避難民」が揚子江沿岸地区に多数存在したことは、容易に推察されます。私はそれを裏付ける日本側資料を捜しているのですが、怪しげな「両角手記」以外、なかなか見つかりません。


かろうじて、最近入手した「熊本兵団戦史 支那事変編」(熊本日日新聞社)に、次のような記載がありました。

<・・・南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。>(P128~P129)

この記述に対応する「証言」は掲載されていませんが、かなり綿密な取材の上で出来上がった本のようであり、おそらくはしっかりとした「裏付け」があることが推察されます。「南京大虐殺」を否定する立場からの記述ですので、信頼性はあると思います。



ところで、「二十三連隊兵士の日記」の件ですが、秦郁彦「昭和史の謎を追う」(上)(文春文庫)に、かなり詳しく経緯が紹介されています(ご存知でしたら「余計なお世話」なのですが・・・)。ちなみに、相手方の元ネタは、大井満氏「仕組まれた南京大虐殺」であるようです。

秦氏の見方は、次の通りです。申し訳ありませんが、時間がなくて議論をあまりじっくりとウオッチできていませんので、的外れな引用になるかもしれませんが、ご容赦下さい。(なんせ、帰宅してから、食事をしながらパソコンに向かっている・・・。「ふろしき残業」はどうしよう(^^; )

<吉川はすべての責任を朝日にかぶせているが、連隊会の方も途中から日記は本物だと知りながらつっ走ったのだから、相打ちであろう。どうやら真相は、連隊会からただされた宇和田未亡人が、面倒を恐れて日記は焼き捨てたと述べたこと、その前に連体史のため宇和田日記を借り出して読んだ人が、読んだと言いそびれてしまったことにあったようだ。>(P196)

「日記」の該当箇所の写真も、しっかりと掲載されています。


「サヨでないけど」氏には、かなり早い時期に「ゆうさんのページ」をご紹介いただいた恩があります。勉強熱心な方であるようですので、ぜひ早いうちに、こちらにも顔を出していただきたいものです。

渡辺 - 02/07/25 03:09:08
電子メールアドレス:幕府山下の五万七四一八人


コメント:
ゆうさんへ、

谷壽夫判決で、「軍人・民間人五万七四一八人」が下関草鞋峡で射殺された(『南京事件資料集 2中国関係資料編』p.298)と記述されている件ですが、Yahoo!の掲示板などで、これを山田支隊の事件のことが過大に記述されているかのような投稿があるようです。
しかし、東京裁判に提出された「南京地方院検察処敵人罪行調査報告」によりますと、このようになっています。
----
陥落後、男女老幼五、六万を幕府山附近数ケ村に監禁し、其飲食を断ち、十六日、針金を以て二人宛縛し、四隊に別ちて草鞋峡に連行し悉く機銃掃射を加え、其上銃剣にて滅多刺に突刺し、更に石油を浴せて放火して之を焚き、残余の屍体は之を揚子江に投入せり。
[『日中戦争史資料 8』p.143]
----

「幕府山附近数ケ村」は、どうやら誤訳で「幕府山下の四、五所村」が正しいようです。
この元になった文書は、「魯甦陳述日軍在草鞋峡集体屠殺的結文」(『侵華日軍南京大屠殺档案』p.55-56)で、「五万七四一八人」とあり、記述も一致ます。
これによると、「圏禁于幕府山下之四、五所村」となっています。
四所村、五所村は、幕府山下ではありますが「附近」ではなく、むしろ南京城に近い場所にあります。従いまして、「四、五所村」に拘束された「軍人・民間人」は、山田支隊の事件のことではないという結論になります。
この件は、まだ他に証拠や証言がないようですが、多数の市民が拘束された場所の可能性の一つとして考慮する必要があると思います。

詳しくは、藤原彰編『南京事件をどう見るか』(青木書店)p.64-70 に書かれています。

渡辺 - 02/07/24 02:37:39
電子メールアドレス:発掘調査


コメント:
とほほさん、
こんなところじゃ、だめでしょうか?
http://www.mmjp.or.jp/nankin1937/ikotsu.html

とほほ - 02/07/23 23:31:03
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064414/http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/2/nhzqrf/mtbqrf.html#mtbqrf


コメント:
すみません、私のところの掲示板で南京事件の遺体の発掘調査について質問が来ているんですがこうした方面の調査研究の現状について何かご存知の方おられませんでしょうか?

渡辺 - 02/07/23 13:01:03
電子メールアドレス:俘虜処罰法


コメント:
K-Kさん、
ご苦労様。

「問答有用」にこちらのURLの案内と、『参考資料:「俘虜処罰法」の国際法上の根拠について』を投稿いたしました。すでに、「解決」している問題ですが、必要でしたら適宜引用転載してください。
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=14758&range=1

K-K - 02/07/23 00:43:24
電子メールアドレス:資料追加のお知らせ


コメント:
 K-K@南京事件資料集です。

 HPの資料追加のお知らせをいたします。

 この度、「俘虜処罰法」を追加しました。捕虜に対する処罰方法を定めた法律です。WEB上では、公開されたものが無いようですので、ご参考にしてください。

 

K-K - 02/07/21 20:18:23
電子メールアドレス:渡辺さんへ


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、渡辺さん。

 「俘虜処罰法」の件、有り難うございます。今日、件の本から写し取ってきました。ついでに、俘虜取扱規則もあったのでそれも写し取りました。

 HPに反映させ次第、この場(もしくは幾つかの掲示板)でお知らせ致しますので、しばしお待ちください。

渡辺 - 02/07/20 20:21:16
電子メールアドレス:俘虜処罰法


コメント:
K-Kさんへ、
「俘虜処罰法」は茶園義男『十五年戦争極秘資料集?? 俘虜ニ関スル諸法規類聚』(不二出版)p.54以下に掲載されていました。ただし、明治38年のものは載っていません。
また、敗戦直後の文書の焼却が陸軍大臣の「指令」によることを示す資料が掲載されています。

K-K - 02/07/17 23:54:07
電子メールアドレス:eichelberger_1999さんへ


コメント:
 こんにちは、eichelberger_1999さん。

 「2ちゃんねる」の方にも、eichelberger_1999さんの投稿を紹介したところ、大変好評でした。この解釈の意味の大きさが、改めて確認できました。
 
 また、何か発見等がありましたら、ご投稿をお願いします。

K-K - 02/07/17 23:50:02
電子メールアドレス:渡辺さんへ


コメント:
>家族構成と男女比に着目した、人口統計による死亡者数の規模の推定に
>ついて、以前、投稿したことがありますが、この議論は、よく検討した
>上で、『季刊 中帰連』23号(冬)の記事に含める予定です。

 おぉ、楽しみですね。
 以前反論をしてみましたが、基本的には着目点が素晴らしいと思っています。


>ただし、被害の大きい周辺農村部からの人口流入が、旧郷区にかなりあったよ
>うです。

 その様に考えるのが妥当ですね。
 私もそう思っています。


>スキャナーを買う資金ができましたら、戦後の地図をお送りいたします。

 すみません。
 これは、非常に助かります。
 貴重なものですから、必ずHPに載せましょう。


>また、該当部分の『南京』の記述も、機会を見て こちらに投稿いたしたいと
>思います。(統計は、東中野『~の徹底検証』にも掲載されています。)

 これも、非常に助かります。
 おそらくあまり世に出ていないものですから、これも非常に貴重なものと言えるでしょう。

 ぜひ、お願いします。

渡辺 - 02/07/17 22:35:44
電子メールアドレス:山田支隊他


コメント:
eichelberger_1999様、
大変、興味深い考察をありがとうございました。
地図がつきましたので、誰にでも、すぐ その意味が分ると思います。

K-K様、
家族構成と男女比に着目した、人口統計による死亡者数の規模の推定について、以前、投稿したことがありますが、この議論は、よく検討した上で、『季刊 中帰連』23号(冬)の記事に含める予定です。

南京日本商工会議所編『南京』に、南京戦前後の統計の信頼性について記述があり、また、連続性があるとの前提で使えそうなことがわかりました。
気になっていた「南京市」の範囲ですが、大きな変更点は 浦口を「南京市」に含めないことで、その他、行政区域の範囲や名称に変更がありました。全体としては、統計の連続性を損なうものではないようです。
ただし、被害の大きい周辺農村部からの人口流入が、旧郷区にかなりあったようです。
スキャナーを買う資金ができましたら、戦後の地図をお送りいたします。
また、該当部分の『南京』の記述も、機会を見て こちらに投稿いたしたいと思います。(統計は、東中野『~の徹底検証』にも掲載されています。)

eichelberger_1999 - 02/07/17 18:40:41
電子メールアドレス:お礼


コメント:
K-K様

 私の拙い考察を掲載してくださって、ほんとうにありがとうございます。
 
 やはり、地図があるとわかりやすいですね。
 
 とりいそぎ、お礼まで。

K-K - 02/07/17 00:03:36
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064414/http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/butaibetu/yamada/eichel.html
電子メールアドレス:更新のお知らせ   待望のeichelberger_1999氏投稿を掲載


コメント:
 K-K@南京事件資料集です。

 この度、私のHP『南京事件資料集』において、eichelberger_1999氏の山田支隊の命令系統について考察(投稿)を掲載しました。

 山田日記の軍上層部からの命令と、飯沼日記にある榊原少佐の行動は、従来、整合性が欠くと言われていました。この2つの記述について、eichelberger_1999氏は非常に合理的な説明をしています。

 私もいろいろと書籍や掲示板等を見ていますが、おそらく、eichelberger_1999氏の見解はどの解釈よりも合理的だと思われます。

 よかったら、ご一読ください。

「問題別資料----山田日記の解釈(eichelberger_1999氏の投稿より)」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/butaibetu/yamada/eichel.html

WP『南京事件資料集』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/

K-K - 02/07/15 00:34:27
電子メールアドレス:KOILさんへ


コメント:
>ども、紹介したソフトが
>お役に立ててなによりです(^○^)/

 本当に助かりました。
 なにせ向こうでは泥仕合となっているので(笑)。


>証言の掘り起こしという地道な作業の成果として、
>一冊の本が出版されるというのは、
>端から見ていても気持ちがいいです。

 そうですよね。
 私も、このような素晴らしい成果を目の当たりにして、非常に気持ちいいです。
 何よりも、研究の素材を提供するということは基本中の基本ですから、その業績の大きさははかりしれないものがあると思います。


>しかし、4200円という価格は貧乏学生にとってはかなりイタイっす(T△T)

 (笑) ホント、そうですよね。
 4200円・・・・。
 102人だから、一人の証言につき42円かぁ。
 なーんて、苦し紛れの計算をしても、しょうがないんですが(笑)。

 イタイですよね。

K-K - 02/07/15 00:22:07
電子メールアドレス:ゆうさん、とほほさんへ


コメント:
 K-Kです。
 ゆうさん、とほほさん、新聞記事を紹介してくださって有り難うございます。

 第16師団といえば、南京事件中、一番、その行為の犯罪性を問われている師団ですが、よくこのような大量の証言が得られたと思います。いろいろな苦労があったと思います。この業績には、心から敬意を表したいですね。

 紹介されていた証言のなかで、いくつかのものは、もしかしたら裏が取れるものがあるかも知れません。たとえば、
>●故郷に帰してやると騙(だま)したら、中国兵は喜んで船に乗った。
>揚子江で船に乗せ、何百人と乗ったところで重機関銃で撃ち殺した。
>(第33連隊第1機関銃中隊)

 この証言は、次の資料と多少類似する行為だと思います。
---- 引用 ----
井手純二氏 投稿文「私が目撃した南京の惨劇」 増刊『歴史と人物』1984年12月号
飛行第8大隊付き陸軍航空兵 軍曹

その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に江岸で数人の兵が指さしながら見物しているので、”何ですか”と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた舟を揚子江の中流まで漕ぎ出して捕虜を突き落し、舟の上から機銃で射ち殺しているところだった。
洞富雄『南京大虐殺の 証明』朝日新聞社 P145
---- 終わり ----

 また、同様の殺害方法に言及している資料もあります。
---- 引用 ----
野戦郵便局長(佐々木元勝陣中日記) 証言による南京戦史(9)

 夕靄に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遇ふ。乞食の大行列である。誰一人可憐なのは居ない。七千二百名とかで、一挙に殺す名案を考究中だと、引率の将校がトラックの端に立乗りした時に話した。船に乗せ片付けようと思ふのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか・・・・

洞富雄『南京大虐殺の証明』朝日新聞社 P300
---- 終わり ----

 船が無いのでこの場合は別の方法を取ったという記述になっていますが、方法として「船に乗せて云々」と言及しています。この証言集の内容を精査すれば、同じような事例が出てくるかもしれません。

 出版されましたら、さっそく買ってみようと思います。もし、みなさんもご覧になりましたら、この掲示板に感想をお書きください。私も、重要な内容を少しずつ、この掲示板もしくはHP上に載せていこうと思います。 

とほほ - 02/07/14 16:12:59


コメント:
毎日新聞に同様の記事が出てます、WEBで読めます。
<a href="http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200207/13/20020714k0000m040087001c.html" target="_blunk">南京大虐殺:旧日本軍の元兵士102人を調査 近く出版</a>

渡辺 - 02/07/14 00:33:48
電子メールアドレス:33i


コメント:
ゆうさん:>
本日の朝日新聞(夕刊)より(全文)
...南京「虐殺」 102人の証言集  教員ら、来月出版

おお、ありがとう。
実は、北村稔『「南京事件」の探求』を4回で完結した後、発表の場はまだ決まっていませんが、石川達三『生きている兵隊』の内容を検証する記事を書く予定です。
この「小説」は、33連隊の、恐らく戦闘詳報を書いた人から取材しているので、33連隊の記事も収集し始めたところです。
『生きている兵隊』は、クライマックスであるべき南京への入城の場面がなく、突然、南京城内の状況になってしまうのです。
石川達三は、うまく文章ではアレンジできないくらいのことを、13日以降に33連隊がしたことを知っていたのではないかと疑っています。
『讀賣新聞』昭和21年5月9日3版2面に掲載された、石川達三の回想が Yhaoo!にされたことがあります。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835559&tid=fn5fe5tbba6a4oa4ga4ca4abeea42a4h3nbfaea47a4fa4a4a4k&sid=1835559&mid=1847

この記事の内容は、自分で見たことと、取材で聞いたことが混同されているようです。
102人の証言集は、『生きている兵隊』の内容を検討する上でも役立ちそうです。

ash_28 さんの投稿の一部(2000年10月24日 午後11時25分)
-----
入城式に おくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大@なものだつた、大きな建物へ一般の中国人數千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中
で悶死させたまた武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使うのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した戰争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、三重縣からきた片山某といふ從軍僧は讀経なんかしツちのけで殺人をしてあるいた、左手に珠數をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その數は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡單に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか
『讀賣新聞』昭和21年5月9日3版2面
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なお、結論を言いますと、石川達三は、かなりいろいろなことを知っており、『生きている兵隊』は小説というよりノンフィクションで、他の資料と併用すれば、十分に史料的価値があると思います。
例えば、捕虜は殺す方針であったこと、日本兵が市中に火を付けていたこと、慰安婦は軍属が「命令」で手配していたこと、中島師団長が骨董品を戦地で収集していたことなどが書かれています。

KOIL - 02/07/14 00:16:24
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064414/http://alpha01.manekineko.ne.jp/s32311/index2.html
電子メールアドレス:K-Kさんへ


コメント:
ども、紹介したソフトが
お役に立ててなによりです(^○^)/

ところで、朝日新聞夕刊で紹介されていた本はこれですね↓
http://www.shahyo.com/korekara.html#anchor707332

証言の掘り起こしという地道な作業の成果として、
一冊の本が出版されるというのは、
端から見ていても気持ちがいいです。

しかし、4200円という価格は貧乏学生にとってはかなりイタイっす(T△T)

ゆう - 02/07/13 18:37:29
電子メールアドレス:見出し訂正


コメント:
ハエ殺すようにように → ハエ殺すように

大変興味深い記事ですので、「朝日」を購読されていない方のために、全文書き写しました。(「アサヒコム」にはないようです)

「筆写」ですので、他にもタイプミスがあるかもしれません。

ゆう - 02/07/13 18:32:06
電子メールアドレス:本日の朝日新聞(夕刊)より(全文)


コメント:
(見出し)
ハエ殺すようにように/30万人も死なぬ  南京「虐殺」 102人の証言集  教員ら、来月出版

(リード)
日中戦争時、南京攻略戦に従軍した日本軍兵士の証言集が8月に出版される。登場するのは102人の元兵士。60年余前の記憶を呼び起こし、初めて「虐殺」を語った、という人がほとんどだ。一方、手柄話のように話を続ける人や、口を閉ざそうとしたり、虐殺の事実を否定したりする人もいる。これだけ多くの兵士の声が集められたことはこれまでなかった。

(本文)
証言の聞き取りをしたのは、大阪府内の小学校教師の松岡環さん(54)ら3、4人の市民たちだ。37年12月からの南京戦に参戦した9個師団のうち、京都に本拠を置いた16師団の歩兵33連隊と38連隊を中心に約240人をリストアップ。97年から5年がかりで、元兵士を訪ね歩いては、ビデオや証言テープを回してきた。

最初から南京虐殺について尋ねたわけではない。「戦争の本当の姿を伝えたい」と戦争体験を聞くことから始めた。それでも、話が南京戦にかかわると「うかつなことは言えない」と突然口が重くなったり証言を拒んだりするお年寄りも。追い返されたこともある。

「中国人が夢に出てきよる。70歳になってからじゃ」と胸の内を語りながら、強姦体験を話した兵士もいた。

証言集には、召集時のことと、南京戦前後にしぼって収録。関西弁の語り口はそのまま残した。所属部隊は入れたが氏名は匿名にしてある。

全員がすでに80歳を超えており、インタビューから間もなく亡くなった人も10人近くいる。

聞き取りをまとめた松岡さんは「記憶を呼び起こす中で、中国の被害者に人間らしい心を寄せて下さった方もいた」と話している。

証言集は単行本で350ページほどになる予定で、『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて―元兵士102人の証言』と題して社会評論社から8月初めころに出版される。

(欄外囲み)
●南京陥落の次の日でしたけれど、南京城内の倉庫がいっぱいある所でした。兵隊が中国兵をいっぱい連れてきてね、倉庫に詰め込んでいるんです。中国人を殺すのに「もう弾が足りない」言うてね、燃える物持ってきて積み上げて火をつけたんです。(第33連隊第1機関銃中隊)

●南京大虐殺。あれはみなうそです。30万の人間が死ぬはずがない。機関銃で撃つのやったらね、まあえろう撃って10人、20人ぐらい。(第38連隊第3機関銃中隊)

●南京で5人の首を切りました。ハエを殺すのと同じ感覚ですよ。首の前の皮を残して切るのがコツですわ。あぐらをかかせ腕を組ませてるから首を切ったとき前かがみに倒れるんですわ。(第38連隊第1機関銃中隊)

●故郷に帰してやると騙(だま)したら、中国兵は喜んで船に乗った。揚子江で船に乗せ、何百人と乗ったところで重機関銃で撃ち殺した。(第33連隊第1機関銃中隊)

●下関(現地の地名)辺りに徴発(略奪のこと)に出たときじゃ。家の長持ちのふたを開けると中に若い嫁さんが隠れとっちゃんじゃ。纏足(てんそく)で速く逃げられんで、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。やった後、「やめたれ」言うたんやけどな(仲間が)銃で胸を撃って殺した。(第33連隊第3連隊)

ゆう - 02/07/13 07:28:13
電子メールアドレス:岡田さんへ


コメント:
早速こちらの掲示板にお出でいただき、ありがとうございます。

私はあの「ヤフー」投稿の直後に、渡辺さんの投稿(問答有用掲示板)を紹介する投稿をしています。実は、岡田さんを渡辺さんと出会わせてみたくなったのです。「問答有用」掲示板ではすれ違ってしまったようですので、これでやっと念願が叶いました(笑)。

「無断引用」は、確かに法的・モラル的には問題ないのでしょうが、やはりあまり気分が良くないのではないかと懸念しましたので・・・。どこぞの掲示板には、自分の投稿を大量に引用されて、「弁護士に相談する」と息巻いている方もいらっしゃるようですし(笑)。まあ、こちらにご招待申し上げるための「テク」だった、とご理解ください(笑)。


あの投稿の後、「否定派」の勘違い投稿が続きましたが、あっさり撃退されて終わりました。そこまでは良かったのですが、誰もレスしなくなったのでトピ自体が沈んでしまい・・・。私は、トピが消える直前にあわてて全ログをコピペさせていただいています。


これから「北村信者」を見かけたら、「渡辺さんのページ」と岡田さんの投稿にリンクを貼れば・・・。完璧ですね(笑)。

これからも、よろしくお願いします。

岡田 - 02/07/13 01:37:43
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064414/http://www2c.biglobe.ne.jp/~y-okada/nannkin/matuo_1ro.html
電子メールアドレス:訂正 Re:歴史研究における無断引用


コメント:
岡田の先日の書き込みも、読み返してみるとちょっと不適切な部分があるようなので
訂正をします。

>公開されている掲示板で歴史について議論を行っている場合、その内容を
>無断で他の歴史研究の場に引用することは、(出所明示や同一性保持などの条件を
>満たしていれば)法律上もモラル上も問題はありません。

 上記の主張は(基本的には間違っていませんが)やや不正確だったようです。
 歴史研究の為の無断引用自体は問題ありませんが、出所明示、同一性保持以外に、
引用の内容を利用している事も必要なようです。

# 「研究の目的上正当な範囲内」が成立するためには、引用内容の利用
#(批評/評価/批判/自説の根拠にする)などが必要なようです。
# したがって、先日の岡田の書き込みはやや不正確だったようです。
# 失礼しました。

 尚、「岡田の書き込みを(出所明示や同一性保持などの条件を満たした上で)
無断引用することは、法律上もモラル上も何の問題も無い」と書いた部分には
変更はありません。

# 希望を言わせてもらえれば、引用した後にでも「何所そこに、○○という書き込みを
#引用しました」と連絡して貰えれば嬉しいですが、連絡は別に義務でも何でもありません。

岡田 - 02/07/12 02:59:25
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064414/http://www2c.biglobe.ne.jp/~y-okada/nannkin/matuo_1ro.html
電子メールアドレス:歴史研究における無断引用


コメント:
ゆう>
>あの投稿はもうネットから消えてしまいましたが、ぜひ保存しておくべきだったと思います。
>私はトピの全文を保存しておりますが、「無断引用」するわけにもいきませんので・・・。

 ゆう様
 ちょっと勘違いがあるようなので、一言述べさせて貰います。
 ゆう様は「無断引用するわけにいかない」と考えておられるようですが
公開されている掲示板で歴史について議論を行っている場合、その内容を
無断で他の歴史研究の場に引用することは、(出所明示や同一性保持などの条件を
満たしていれば)法律上もモラル上も問題はありません。

# 著作権法第三十二条には以下のような記述があります
# 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、
#その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究
#その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

# 公開されている掲示板に書き込まれた文章は「公表された著作物」に
#該当します。
# 公開されている掲示板で歴史について議論されている内容を、他の
#歴史研究の場で紹介する行為は「研究の目的上正当な範囲内」になります。

 また、歴史に限らず研究者の間では、他人の主張を断り無く引用するのは当たり前です。
# そもそも、無断引用が出来なければ、学術論文はほとんど書けなくなる。
# もしも、引用には許諾が必要ということになれば、批評や批判もほとんど出来なくなる。
# 過去の人の学説を利用することもできなくなる。(死人から許諾をとる方法があるのか?)
# もともと、学問というものは過去の人の業績を下敷きにして、その上に各研究者が
#己の研究を積み上げて進めていくものです。過去の人の研究成果を利用するのは当たり前。

 したがって、歴史研究という目的の為に、公開された掲示板の歴史についての
書き込みをルールに従って無断引用することは、法律上もモラル上も問題はありません。

 少なくとも岡田の書き込みを(出所明示や同一性保持などの条件を満たした上で)
無断引用することは、法律上もモラル上も何の問題もありません。

# ついでに言うと、学説そのものには著作権は及びませんから、要約の場合には
#出所明示や同一性保持の必要すらありません。

岡田 - 02/07/12 01:50:21
ホームページアドレス:http://web.archive.org/web/20070315064414/http://www2c.biglobe.ne.jp/~y-okada/nannkin/matuo_1ro.html
電子メールアドレス:北村稔氏「南京事件の探求」はトンデモだ


コメント:
K-Kさん
 ここでは始めまして。岡田です。

 以前に岡田がヤフー掲示板に書いた『「南京事件の探求」はトンデモだ』について
問い合わせがあったようですので、同じ内容を書きます。

# もしも、ヤフー掲示板に書いた文章と違う部分がありましたら、失礼します。
------------------------------------------------------------------------------
「南京事件の探求」はトンデモだ

 北村稔氏の『「南京事件」の探求』を読んで見ました。

 なかなか笑える内容でした。
 『「南京事件」の探求』では「歴史研究の基本に立ち戻る」と主張されているようですが、
客観的に見ると、「歴史研究の手法を無視している」と言ったほうが正しいようです。


 『「南京事件」の探求』序論の20pには次のような記述がありました。
『「南京大虐殺三十万人説」は成立しがたいと論断すれば、・・・日本国内の「虐殺派」からも
「まぼろし派」か「中間派」のレッテルを貼られるであろう。』

 上記の6ページ前には(北村氏が虐殺派と指摘する)笠原氏と吉田氏の説も紹介されています。
『<殺害された人数について>』
『笠原 - 十数万から二十万人前後。』
『吉田 - 十数万。』

 北村氏が虐殺派と断定している笠原氏も吉田氏も、三十万人説など主張していない。
 これでは『南京大虐殺三十万人説否定したら、日本国内の虐殺派から「まぼろし派」か「中間派」の
レッテルを貼られる』が成立するわけがない。

# ・・・序論からこれである。
# 北村氏はわずか数ページ前で自分が書いたことも覚えていないのだろうか?


 『「南京事件」の探求』には「南京で大虐殺があったという認識がどのような経緯で出現したかを
順序だてて確認する」と主張されているようですが、「南京で大虐殺があったという認識がいつ出現したか」を
検証している部分が見当たりませんでした。
 「南京で大虐殺があったという認識は極東軍事裁判で出現した」と決め付けて、極東軍事裁判の資料や
証人を調べているだけのようです。

# 南京で大虐殺があったという認識が出現した「時期」について調べもせずに、南京で大虐殺があったという
#認識が「出現した経緯」を語っても無意味でしょう。

# 極東軍事裁判の資料や証人を調べたら「極東軍事裁判における南京大虐殺の判断」についての調査には
#なりえますが、「南京大虐殺自体」の調査にはなっていません。
# 一般に戦勝国による茶番と考えられていて、歴史研究ではさほど重要視されていない極東軍事裁判に異議を
#唱えたからといって、「南京大虐殺自体」の歴史研究になるわけもありません。


 一番笑えたのはスマイス報告に関する部分を読んだときでした。
 『「南京事件」の探求』によると、スマイス報告の調査方法は以下のようなものです。
 「調査員が遭遇した村落3つに1つの村を選び、その村の10 家族につき1家族を選んで調査した」
 スマイス博士は、そこから1家族の平均被害状況を出した後、平時の人口調査の結果の総戸数18万6千を
掛けて、推定殺害数を出しています。
 北村氏はスマイス博士の計算をトリックと非難し、「調査結果を30倍にすれば、推定被害数が出る」と
断言されています。

# 上記部分を読んだときには開いた口がふさがらなかった。
# 北村氏は中学生の数学を理解できていない。(標本検査の計算は中学のカリキュラムと記憶している)
# 北村氏の計算で出てくるのは、調査員が遭遇した村の推定被害数である。地域の推定被害数ではない。
# スマイス博士の計算は地域の推定被害を出すためには、原則として正しい。(実際には、南京城内の市民
#のうち数十万人が農村部に逃げたと推定されるので、スマイス報告の農村部の犠牲者数は実際より少な目のと
#考えられる)
# 北村氏は中学生レベルの計算ミスをした挙句、「スマイス報告はトリック」と見当はずれの中傷を
#行っている。
# 一時、小中学校レベルの算数ができない大学生が増えたという話を聞いたことがあるが、北村氏の場合は
#中学校の数学を理解していない大学教授というわけだ。

 ・・・つっこみどころが満載の本でした。

K-K - 02/07/12 01:38:52
電子メールアドレス:『渡辺さんのページ』更新のお知らせ


コメント:
 この度、この掲示板でも投稿をなさっている渡辺さんの投稿集『渡辺さんのページ』に、記事を追加しましたのでお知らせを致します。

追加記事◆北村稔『南京事件の探求』批判  歪んだ国際法議論

『渡辺さんのページ』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/articl7.html

K-K - 02/07/12 01:22:51
電子メールアドレス:KOILさんへ


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、KOILさん。

 いやー、便利ですね。
 こんなものがあるとは、知りませんでした。
 今まで、コピペ、コピペ、コピペ・・・・・ってやっていたのがウソの様で(笑)。

 助かりました。
 有り難うございます。



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