雨上がり


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昨日から降っていた雨が朝がたに止み、道沿いにはキラキラと輝く水溜りがいくつもできていた。

大学2回生の春。
梅雨にはまだ少し早い。
大気の層を透過して、やわらかく降り注ぐ光。
軽い足どりで歩道を行く。
陽だまりの中にたたずむようにバス停があり、ふっと息を吐いて木目も鮮やかなベンチに腰を掛ける。
端の方にすでに一人座っている人がいた。
一瞬、知っている人のような気がして驚いたが、すぐに別人だとわかり深く座りなおす。

・座っている人=間崎京子。五色地図のタリスマンの件から見て間違いない。
知っている人=京介。京子と似ているという描写から、ほぼ確実。


髪型も全然違う。
それにあの人がここにいるはずはないのだから。

バスを待つ間、あの人に初めて会ったのは今ごろの季節だっただろうかと、ふと思う。
いや、確かもう梅雨が始まっていたころだった。
1年たらず、前。
彼女は別の世界へ通じるドアを開けてくれた人の一人だった。
そのドアを通して、普通の世界に生きている人間が何年掛かったって体験できないようなものを見たり、味わったりしてきた。
もちろんドアなんて、ただの暗喩だ。
けれどそれが、そこにあるもののよう感じていたのも事実だった。

そのドアのひとつが、閉じた。
もう開くことはないだろう。
春が来たころ、ひっそりと仕舞い込まれる冬色の物のように、彼女は去っていった。
そのことを思うとひどく感傷的になる自分がいる。
結局、気持ちを伝えることはできなかった。

・ウニは京介に何か特別な思いがあったのだろうか。

それが、心の深い場所に澱のように溜まり、そして渦巻いている。

目の前でカラスが一羽、鳴いて飛び立った。
だれも通る者もいない春のバス停で、まどろむようにそんなことを考えている。

「夢を見るということは、   に似ているわ」

空から、ピアノの音色が聞こえた。
そんな気がした。
ベンチの端に座っている女性が、前を向いたままもう一度言った。

「夢を見るということは、   にも似ている」

春のやわらかな地面から氷が沸いてくるような感覚があった。
それがミシミシと心臓を締めつけはじめる。
急に錆付いたように動かなくなった首をそれでもわずかに巡らせて、横を見る。
顔を覆うかのような長い黒髪の女性。
空色のワンピースからすらりと伸びた足が、かなりの長身を思わせる。
もう一度言った。

「夢を見るということは、    」

また、一部分が聞こえない。
いや、聞こえているのに、頭の中で認識されないような、不思議な感覚。
彼女は目を閉じている。

「あなたは誰ですか」

わかっていた。
大脳のなかの、古い動物的な部分が反応している。
彼女が誰なのか知っている、と。

「あの子が持っているものが欲しかった。手に入れても手に入れても、蜃気楼のように消えた。これも、あの子と、同じ長さにしたつもりだったのだけれど」

彼女は左手で髪に触れた。
細く、しなやかな指だった。

・京介は高校の頃はロングだった(血より)。
「したつもりだった」ということは、実際には同じ長さでは無かったことを知っている?
すなわち、ショートにした京介に会っていることになる。


「たったひとつしかないものを、永遠に手に入れるには、方法はたったひとつしかない。いちどは、それに届いたと思ったのに」

・たったひとつしかないもの=京介?
手にいれる方法=ドッペルゲンガーを作り片方を戴く?
しかし京介のドッペルゲンガーの初出は小学生だったはず。

この雨上がりの清浄な空気に、あまりに似つかわしい涼やかな声だった。

「あの手ざわりが、まぼろしだったなんて」

すっと手を下ろした。
目を閉じたまま前を向いている。
その横顔から目を逸らせない。
わかりはじめた。
同じ長さ。だったのだろう。彼女にとって。

・京介はドッペルゲンガーのことを「相変わらず無表情で、自分にしか認識できなくて、自分ではあるけれど少し若いようにも見えるそれ」(ドッペルゲンガーより)と表現している。
もしかしたらドッペルゲンガーは高校生の京介と同じ容姿だったのかもしれない。

あの日、あの人は自分の「半身」を失った。

・「あの日」とは「怖い夢」の前夜のことか。すなわち大学二回生の春。雨上がり自体も同時期。
「あの人」とは京介。「半身」はドッペルゲンガーのことか。
ただし「怖い夢」は悪夢を食べる悪魔を失う話であり、半身を失ったという表現の意図は不明。

その謎が今解けた。

「目が・・・・・・」

見えないんですね。
そう言おうとして、言葉が宙に消えた。
喋っているのに、頭の中で認識されないような、感覚。
肯定するように白い手がベンチの上に寝かせている杖を引き寄せる。

「あの子のたったひとつしかないものは手に入らなかったけれど、かわりにすばらしい世界をもらったわ」

音楽のように言葉が耳をくすぐる。
まるで麻薬だ。
その声をもっと聞きたい。
壊れやすい宝石のように、会話は続く。

「夜がその入り口になり、わたしは恋を知った少女のように新しい世界を俟っている。眠りが卵になり、わたしはそれを抱いてあたためる。そして夢を見るということは    」

言葉が消える。
けれどわかる。
彼女は、あの人の悪夢を手に入れたのだ。

・間崎京子と京介が呼び出した悪魔を京介から奪ったということだろうか。

悪夢を食べるという悪魔が呼ぶ悪夢。
あの人を苦しめてきた悪夢。
あの強い人が、どんなことがあっても、もう二度と、ただの一度でも見たくないと言った、その悪夢を。

・京介は「魚」のいる自宅以外では眠らず、自宅では魚/悪魔によって悪夢を食べられるはずだ。
少なくとも一度はその悪夢を見たことがある?
そんな描写がどこかにあったか?

彼女はなにかを呟いている。
聞こえているのに聞こえない。
まるで現実感がない。
太股を抓ろうとして、躊躇する。
彼女が、それを待っているような気がして。
あの人の「半身」は彼女によって消滅させられた。
彼女は、それをあの人だと思っていたのだ。

・彼女=間崎京子、あの人=京介だろう。

あの人が「少し若くみえる私」と表現していたのを思い出す。
つまり、あの人にしか見えず、触れず、知覚できなかった「半身」は、いつか喫茶店の誰もいない椅子に座っていたその「半身」は、髪が長かったころのあの人の姿をしていたのだろう。
目が見えず、手が触れられない場所にいた彼女は、人知の及ばない何らかの方法でその「半身」を見、そして捕らえた。
あの人を手に入れたつもりで。
そして「半身」と「悪夢」は消えた。

・半身が消えるのはいいが、なぜ悪魔まで消えるのだろう?

あの人は、あの人を長年苦しめ惑わせたふたつのものから同時に解き放たれた。
そして去っていった。

「ラ・マンチャの男はあいかわらずかしら」

美しい旋律のような声が踊る。
すぐにその言葉の意味を理解する。
ナイトだと言いたいのだろう。
あの人を守った人物のことを。

「あいかわらず、法螺を吹いています」

・ウニがここまで毒づく人物、師匠だろう。
「あの人」が誰を指しているのか不明、京介ならば京介救出劇に師匠が関与したことに。

少し上擦ってしまったその言葉に、彼女は満足したようにかすかに頷く。
今にして考えることであるが、彼女が彼のことをラ・マンチャの男に例えた裏には、あの人の、ドルシネア姫でありながらまたアルドンサでもあるという2面性を暗に物語っている。
このことは、のちに彼の秘密に近づいたときその真の意味を知ることになるのだが、それはまた別の話だ。

・ラマンチャの男ドンキホーテは騎士に憧れる余り自らを騎士と思い込み、村娘アルドンサ・ロレンソを思い姫ドゥルシネーア・デル・トボーソに勝手に仕立て上げた。
ドンキホーテ=師匠の思い姫と言えば加奈子もしくは倉之木綾だろう。
つまりこのときの「あのひと」は加奈子もしくは綾ではだろうか。


沈黙があった。
少し前に飛び立ったカラスの気持ちがわかる。
いまこのバス停の周囲には、二人のほか、動くものの影ひとつない。
ただやわらかな大気に包まれているだけだ。

彼女のいる方向を「空間が歪んでいる」と以前あの人が語ったことを思い出す。
目を閉じたままでいると、まるで眠っているように穏やかな横顔だった。
彼女は少なくとも高校時代には盲目ではなかったはずだ。
いったいなぜ視力を失うに至ったか、想像することも躊躇われる。

・そういえば「追跡」で綾著の「追跡」の中で盲目になる少女の話があった。
公園で遊んでいた少女とあるので、高校を卒業した間崎京子が公園で遊ぶとは思えないが、果たして。

もし視力を失っていなければ、そして奇跡のような取り違えが起こらなければ、とてもあの人や彼が敵う相手ではなかった。

・まるで間崎京子とあの人=京介?彼=師匠?が闘ったかのような表現。
悪魔VS間崎京子・京介・師匠の図式ではなく悪魔・間崎京子VS京介・師匠の図式だったのか?
そして彼=師匠は本当か?
「怪物」によれば、京介に憑いた悪魔を払うのは夜を彷徨うものたちの役目のようだったが?

推測などではなく、わかるのである。
格などという言葉は使いたくない。
使いたくはないけれど、つまりそういうことなのだった。

排ガスの匂いをまといながらバスがやって来た。
その瞬間に、このバス停を覆っていた不思議な膜のような空気が霧消したような錯覚があった。
解放されたのだろう。
少し離れてバスは止まり、ドアが開いた。
自分が乗るつもりだったバスだろうか。
なぜか思い出せない。
どこに行こうとしていたのか。
しかしこれに乗らなくてはならない。
そんな気がした。

ベンチから立ち上がり、笑いそうな膝を奮い立たせて歩く。

「これを」

彼女がそう言ってすっきりと伸びた首元から、ペンダントのようなものを取り出した。
タリスマンだ。
あの人が以前、五色地図のタリスマンと呼んだ物。

「どこかに捨てて。もうわたしにはいらないものだから」

彼女がはじめてこちらを向いた。
足をとめ、正面からその顔を見る。

「さあ」と言って手を伸ばし、目を閉じたまま微笑を浮かべるその顔を生涯忘れることはないだろう。
こんなに綺麗な人を、見たことがない。
このあとの人生の中で、どんなに美しい人を見たとしてもあれほどの深い感動を受けることはないと思う。
吸血鬼と謗られたことなど、まるでとるに足りない。
そんな言葉では彼女の側面を語ることさえできない。
そう思った。

「さあ」

もう一度彼女は笑うように言う。
震える手で、受け取った。
ジャラリと鎖が鳴る。
かすかに錆の匂いがした。
不思議な模様が円形のプレートの一面に描かれている。
けれど、それだけだ。
「この世にあってはならない形をしている」と称された物とはとても思えない。
平面に描かれたどんな地図も、必ず4色以内で塗り分けられるという。

四色定理として知られ、二次元平面をいかなる方法で区切っても必ず四色で塗り分けられるというもの。
一応証明されている、らしい。


試すまでもなくわかる。
きっとこれも4色ですんなりと塗り分けられるのだろう。
少なくとも、彼女の手を離れた今は。

遠慮がちにクラクションが鳴らされる。
昇降口にそっと足を掛ける。
2度と会うことはないだろう彼女に背を向けて。
乾いた空気の音とともに扉が閉まる。
別の世界へ通じるドアが、またひとつ閉じたのだった。

やがて間の抜けたテープの音が次の目的地を告げる。
動き出したバスに揺られ、衝動的に振り返った。
彼女が、まるで最初からいなかったかのように消えてしまっている気がして。
けれど揺れる視界の中で、一枚の絵のように切り取られた窓の中で、遠ざかりつつある雨上がりのバス停に彼女はいる。
そしてベンチから立ち上がり、白い杖をついて、ゆっくりと、ゆっくりと歩き出そうとしている。
その細く長い足が、戸惑うような頼りない足取りで水溜りを跳ね、それが淡く銀色に輝いて見えた。
彼女を見た最後だった。
ツールボックス

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