デイヴィッド・ヒューム


概説

デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)は、スコットランド・エディンバラ出身の、英国経験論を代表する哲学者。スコットランド啓蒙の代表的存在とされる。ジョージ・バークリー観念論現象主義を継承して発展させ、自我さえも「感覚の束」であるとしてその実在性を否定した。この自我論は後に無主体論とも呼ばれ、現代の心の哲学では主流の立場になる。

ヒュームは懐疑主義を徹底し、それまでの哲学が自明としていた知の成立過程の源泉を問い、それまで無条件に信頼されていた因果律を、論理的なものでなく連想の産物であると見なし、数学を唯一確実な学問とした。また科学哲学においては自然の斉一性仮説を提唱した。

知覚――印象と観念

ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。

ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。

ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。

ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。

印象というものの存在性格について、二元論者であるジョン・ロックは、それを直接には知ることはできないが、客観的に存在すると考えられる外部の物質が、人間の心に働きかける結果生じるのだとした(知覚因果説)。ジョージ・バークリーは純粋に観念論者であり、印象や観念とは人間の心の中にのみ生じるものであって、それに対応する外部の客観的実在を想定するのはナンセンスだといった。ヒュームは懐疑主義者であり、印象とは我々が心の中に感じる経験ではあるが、我々はその経験をそのままに受けとめ、問題にすればよいのであり、経験する主体とその客体を対立させて、それぞれの存在性格を云々するのはナンセンスだとする。

因果関係論

ヒュームは帰納法は演繹法と違って論理的なものとみなさなかった。そして因果関係とは帰納法によってしか見出せないものである。従って彼は原因と結果の結びつきを我々の心の習慣にすぎないものと考え、『人間知性研究』で以下のように述べている。
すべての出来事は完全にばらばらに分離(loose and separate)しているように思える。一つの出来事は別の出来事に続いて起こる。しかし、私たちはそれらの出来事の間にいかなる結びつきも決して見出すことはできない。それらは連接(conjoined)しているように見えるが、結合(connected)しているようには決して見えない。

因果関係の特徴はとは「必然性」、つまり「でなければならない(must)」という考えにあるが、しかし原因と結果の間に必然的な結合と言えるような結びつきはなく、「である(be)」あるいは「起こる(occur)」でしかなく、「must」は存在しないと彼は主張した。因果関係といわれる二つの出来事のつながりは、ある出来事と別の出来事とが繋がって起こることを繰り返し体験すること、すなわち「恒常的連接(constant conjunction)」を発見することによって、観察者の中に「因果」が成立しているだけのことであり、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかない。過去と未来の出来事の間に必然的な関係はありえず、「原因」と「結果」といわれるものを繋いでいるのは、経験に基づいて未来を推測するという心理的な習慣であるという。

この因果関係論のエッセンスをわかりやすく例えれば、持っていた石を手放したら地に落ちるということが10回続いたからといって、11回目もそうなるとは限らないということである。ただしヒュームは因果関係が存在しないことを主張しているのではない。ヒュームの論旨は、因果関係は論理的な関係でなく自然的な関係であるということである。ヒュームは経験によって帰納的に法則を見出し、 自然の斉一性仮説を提唱したと考えることができる。ただし今までそういう法則があったからといって、これからもその法則が持続することは論理的に保障されないということがヒュームの論旨であり、このヒュームの因果関係論からはグルーのパラドックスが派生することになる。

そのヒュームに対し、一般化できない特異な、分割も比較もできない出来事が継起するのが事物の本来のありかた(持続)とするのがベルクソンである。科学の記述は持続をそのまま記述することはできない。同一性によって持続を記述しようとするためアキレスと亀のような錯誤が生じるとベルクソンは考える。

バートランド・ラッセルは、因果関係の必然性を否定したヒュームの懐疑論を克服した哲学は、カントをはじめとしたドイツ観念論も含め、いまだに現れていないとの見解を示している(『西洋哲学史』)。また現代の科学哲学においても、ヒュームの因果関係論は重要な問題として議論されている。

なおヒュームの因果関係論に対しては、ジェイムズ、ホワイトヘッド、パースなどアメリカン・リアリズムに属する立場の哲学者から批判がある。ジェイムズは、「経験どうしの関係はそれ自体が経験される」として、実在的なものとして扱うべきだと主張している。

実体

ヒュームは現象主義の立場から、実体の概念について、個々の知覚をもたらす原因として客観的に在ると想定されたものにすぎないとしている。物体の客観性や同一性という概念は、経験によって得られた信念である。物体についての知覚はあくまで印象であり、その背後に実体があることを意味するわけではない。精神もまた実体ではない。精神とは絶え間なく生成消滅する知覚の束にすぎないのである。

自我の否定

デイヴィッド・ヒュームはデカルト批判を透徹し、コギト=自我そのものの存在を解体した。ヒュームの方法はオッカムとバークリーの経験論を継承して極限まで進めたものだ。バークリーによれば存在するものは全て、実在でなく自我の中における感覚・表象の束にすぎない。ヒュームは更に問う。その自我なるものは存在するか? そう問うのは一体何なのか? 自我という感覚・表象は実際に無い。我々はさまざまな観念から「自我」という抽象概念を抽出しているだけなのである。「自分」と呼ばれるものの中を詳しく見ればわかる。そこにあるのは個別的な感覚や観念だけである。その個別的な感覚や観念なしには決して「自分」と呼ばれるものを捉えることはできない。つまり自我というものはさまざまな感覚・観念の経験によって構成されたものであり、実在ではない。水面に現れては消える泡のような個別的な感覚・観念たちが、「私の感覚」「私の観念」とすり替えられ、個別的体験の結果に過ぎないものたちから原因、すなわち「主体」となるものを想定した結果、作られたのが自我という抽象概念なのである。このヒュームの自我論は、たとえるなら中世普遍論争において、「自我」について唯名論の立場を取ったものである。

ヒュームは自我(魂)を共和国にたとえる。共和国では、部分としての個々の人々は相互に結び合わされており、その部分が絶えず入れ替わり変化するなかにあって、この同じ共和国を伝えていく他の人々を生み出している。共和国はその成員を変えるだけでなくその法律や組織も変えることができる。それと同じように、個人がその同一性を失うことなく、印象や観念だけでなく性格や気質を変えることができる。彼がどんな変化を受けようとも、彼の個々の部分は因果性の関係によってなお結合されているとする。

ヒュームの観念論と自然科学の関係


自我までも否定し、全てを「知覚」に還元するヒュームの現象主義は、いわば裏返しの唯物論であり、原子論の「原子」を「知覚」に置き換えたような構造となっている。これは自然科学が前提にしてる科学的実在論と完全な表裏の関係となり、相性がいいかもしれない。ジョン・サールの見解によれば、現代の哲学者のほとんどは、自我の問題についてはヒュームの考えに同意しているという。これは現代の分析哲学の多くが、自然科学の知見を前提とした自然主義を前提にしているからであり、超越的な自我、つまり精神や肉体を超えて個人の人格の同一性を担保する「何か」の存在を認めるのは、自然科学の立場上困難だからだ。しかし「心」というものを継起する知覚の束であるとするヒュームの立場を取るならば、その「何か」を想定する必要が無いのである。

イマヌエル・カントはヒュームが解体したルネ・デカルトの「コギト(自我)」を、「物自体」を想定した上で、さらに全ての表象に「我思う」を伴わせる力として悟性の統覚の能力を想定して「形式」として復活させた。しかしその物自体も厳密に分析し、解体していけば、やがて時間や延長さえ必要のないものになり、最終的には単に表象をもたらす「能力」にまで還元できる。そのことを見抜いたショーペンハウアーは物自体を「意志」と置き換えるわけであるが、ヒュームの哲学からすれば、その「意志」は自然の「法則」であり、かつ斉一性があるに過ぎないということになる。

派生問題――知覚の同一性と意識の連続性

(以下は管理者の見解)

ヒュームは知覚の重要な原則として、
1、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること
2、その別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと
という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていたとは重要である。これはおそらくヒュームが自我を「共和国」との類比で理解していたことと関係するのだと私は考える。「共和国の成員は時代によって変わるが、共和国はそのままである」とするならば、そもそも共和国という「枠組み」は何によって成り立ち継続するのか、と疑問が生まれるからだ。 ヒューム本人は「もしもろもろの知覚が別々に存在するのなら、それらが一つの全体を作るのは、ただ結合されることによってだけである」(『人性論』p.135)と述べている。

ヒュームの疑問への解答として、カントは「統覚」の能力を想定したと思われるが、しかし生成消滅する知覚・観念が真に個別的であるというなら、 数ある観念のうちには個別の観念たちの紐帯となる「我思う」というような自己を省みるタイプの観念がある、と考えればいいだけのはずである。ちなみに、アルフレッド・エイヤーはヒュームが矛盾だとした知覚の二つの原則は、論理的に矛盾していないと分析している。

「自己」や「私」というものを、それ自体で存在するものでなく、別個な知覚の集合であるとした場合、前述のように数ある観念のうちには個別の観念たちの紐帯となる「我思う」というような反省的なタイプの観念があると考えれば、人格の同一性について深刻なアポリアは生じないと思えるが、それでも「知覚」の同一性について疑問が残ることになるはずである(これは人格の同一性における派生問題として別に考究しているので参照されたい)。

また、意識の連続性についても問題が派生するだろう。私の意識は夜寝るまで、覚醒しているときはずっと持続的に存在しているような感じがある。反省的意識や記憶の想起などによって自己を省みるような意識現象が生じた時だけ、「私」が存在しているようには思われない。もし知覚がそれぞれ別個な存在であるなら、眠りから覚めたときに感じるような意識の断絶感が、昼間の覚醒時にも頻繁にあってよいような気もする。しかし、そのようなことがないのは実感としてだけでなく、科学的にも確かなようであり、脳波というものを測定すれば覚醒時と睡眠時は明らかに異なるパターンを示している。つまり覚醒時は、私の心は常にアウェアネスな状態にあり、それが継続しているようである。このことから、なぜ自己、または「私」は、途切れることなく存続しているのかという疑問が生じる(ヒュームが「矛盾」を感じたのは自然なことだろう)。この意識の連続性問題はきめの問題意識の境界問題と関係しているかもしれない。

心の哲学の立場からすれば、この問題は意識というものを、多数の意識トークンの連続とみなすことで解消するしかないかもしれない。つまり意識は絶え間なく持続しているのではなく、たとえば毎秒十数回発生している程度のものと考えるのである。脳波を測定すれば常にアウェアネスの状態にあるように見えても、実は連続して見える映画が一秒間に二十四コマであるように、アウェアネスな状態も一秒間に十数回程度かもしれないということだ。もし純粋に持続しているとすると意識は無限分割が可能なことになり、これは人間の脳細胞の処理能力から考えても不可能である。私は覚醒時に何かの「変化」を知覚しても、眠りから覚めた時のような意識の断絶感を感じることはない。しかしそれは実は相対的な問題であって、覚醒時には僅かなインターバルで「私」の正体といえる反省的意識が生じているので、実際には意識の断絶感はあるのに、それと気づかない、また気づく必要が無い程度のものなのかもしれない。眠りから覚めた時は大きな「変化」を知覚するので、意識の断絶感も大きいというだけかもしれないのだ(この意識の連続性問題については、ジョン・サールが『MiND-心の哲学』で言及している(p.369)。またデイヴィッド・チャーマーズも『意識する心』において「意識の一貫性」という形で僅かであるが触れている(p.378)。よろしければ参照されたし)。

なお、穿った考え方かもしれないが、ヒュームが知覚の二つの原則を矛盾だとしたのは、無主体論的な立場では「今この私」という特異点の説明ができないことに気づいていたからかもしれない。私が今ここで偶然生まれた一個の観念に過ぎず、すぐに消え去る存在なら、「なぜ他の観念が〈私〉ではなかったのか?」と疑問に思わざるを得ないからだ。ただし、このような疑問はデカルト的自我――「主体」を想定する立場でも類比的に提起されることになる。すなわち、「なぜ〈私〉は1990年に東京で生まれた人物Aなのだろう? ニューヨークで生まれた人物Bが〈私〉であってもよかったはずだ」、というように。このような問題は意識の超難問として考察されている。つまりヒュームの感じた矛盾は、デカルト的自我を想定したとしても、問題がスライドされるだけとなる。なお、このような無主体論が孕む問題については、ヒュームと同型の無主体論を選択した大森荘蔵のページで、無主体論と独今論というテーマで考究している。よろしければ参照されたし。


  • 参考文献
デイヴィッド・ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎 訳 中公クラシックス 2010年
木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』新書館 2002年
神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史4』講談社 2012年
ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年
真船えり「ヒュームにおける人格の同一性について」哲學 103, 35-56, 1998-12
  • 参考サイト