ダニエル・デネット


概説

ダニエル・デネット(Daniel Clement Dennett, 1942年3月28日 - )はアメリカの哲学者。2005年2月現在、タフツ大学教授。同大学認知科学センター監督官。1963年ハーバード大学卒業後、1965年オックスフォード大学にてPh.D取得。ハーバードではW・V・O・クワインに、オックスフォードではギルバート・ライルに師事。心の哲学では物理主義の代表的な人物である。

他者の内省報告を観察データとして認める「ヘテロ現象学」(Heterophenomenology)を掲げ、行動主義に陥ることなく、観察可能なデータから主観的意識の問題を扱えると主張する。

デネットは意識と脳の神経的なプロセスを異なる次元のものとして考えてきた心身二元論というデカルト以来の哲学的伝統を批判する。意識をつかさどる中央処理装置カルテジアン劇場(Cartesian Theater)の存在を否定し、それに代わるものとして意識の「多元的草稿理論」(Multiple Drafts Theory)モデルを提唱している。意識とは「カルテジアン劇場」のような中枢となる何かに依存しない、空間的・時間的に並列して進行する複数のプロセスから織り出され構成されるものだという。これが意識のパンデモニアム・モデル(pandemonium、混沌の状態)である。そして以上のようなプロセスを経て構成される意識を「物語的重力の中心」(Center of Narrative Grativity)と呼んでいる。 これを要約すると、意識や知覚というものは、ひとまとまりのものではなく、多数の階層と流れがあって、そのうちごく一部の特定の閾値に達したものが報告可能なものであるということである。

クオリア批判

デネットは観察可能なデータにはなりえないクオリアの概念に対して批判的であり、著書『スウィート・ドリームズ』において、クオリアは意識の神秘性を確保しようとする哲学者たちの「甘い夢」であると批判している。

デネットは「チェンジ・ブラインドネス」を最初に考案した人物であり、これを一つの根拠にクオリアの概念が無意味だと主張している。チェンジ・ブラインドネスとは一種の心理実験である。被験者に対してほんの数秒間、極似しているが微妙に異なる二つの風景写真を順番に見せる。つまり間違い探しのようなものである。ほとんどの被験者は二つの写真の違いを指摘することができない。このことは、一つの眼球運動によって得られる情報は「ある種の風景写真」という意味論的なものであり、それは非・視覚的なものであるということになる。一般的には、風景写真に写る多様な色彩や形状、つまり多数のクオリアを見ることが、「写真を見る」ということだと思われているが、チェンジ・ブラインドネスの実験では、そのような多数のクオリアは保存されていないことが確かめられ、意味論的な「ある種の風景写真」という、報告可能で志向的意識の存在しか確認できないということである。

なおデネットはクオリアの否定によって、「意識の存在を否定している」と批判されることもあるが、これは誤解であり、スーザン・ブラックモアのインタビューで、「意識とはみんなが思っているようなものではないと言ってるだけだ」と答えている。

人工知能擁護

デネットは、人間の思考プロセスはコンピュータ(ジョン・フォン・ノイマン・マシーン)によってシミュレートすることが原理的に可能なものだと考える。したがって彼はチューリング・テストの意義を認め、またジョン・サール中国語の部屋の思考実験で否定した「強いAI」が実現可能であるという立場である。このデネットの考えには、意識が創発するものだという主張が含意されている。人間の脳であっても個別のニューロンの活動は機械的である。そのニューロンから意識が創発するのならば、人工知能を構成する機械から意識が創発しても不自然はないということである。

批判

デネットの意識についてのアプローチに対しては、ジョン・サールデイヴィッド・チャマーズ、トマス・ネーゲルらが、意識の本質的な主観性に迫ることができないと反論している。

(以下は管理者の見解)
チェンジ・ブラインドネスによるクオリア批判は、知覚のゲシュタルト形態の誤用であると思う。たとえば「点画」というものがある。100個ぐらいの点で鳥を描いたとする。それは鳥に見えるのだが、鳥と同時に人は必ず点を見ていることになる。点が見えなければ鳥も見えないのである。この場合、3つか5つの点を消しても同様の鳥に見えたとしても、点を見ていないということを意味しない。また個別の点を志向的に意識できなくても、点を見ていないとはいえない。つまり点(クオリア)と、鳥という意味論的認識は、「同時に」存在しているのであり、分割不可能だということである。知覚においては全体が部分の総和を超えるというゲシュタルト質が確かにあるのだが、部分がなければゲシュタルト質も生じないということである。


  • 参考文献
スーザン・ブラックモア『「意識」を語る』山形浩生 森岡桜 訳 NTT出版 2009年
  • 参考サイト