クオリア


概説

クオリア(英:複数形 Qualia、単数形 Quale クワーレ、またはクアリ)とは、客観的には観察できない意識の主観的な性質のこと。日本語では感覚質と訳されることもある。もとはラテン語で「質感」を表す単語であるが、1990年代の半ばから意識の不思議さを象徴する言葉として科学者や哲学者の間で広く使われるようになった。「現象」「表象」「感覚与件」は類似の概念である。

クオリアという用語は厳密に定義されておらず、論者によって用いられ方が異なる。ブレンターノやフッサールは志向性が意識の本質だとし、心的状態は全て志向的だと考えた。この"ブレンターノ・テーゼ"に従ってクオリアも志向的であるとする論者がいる。しかしクオリアは非志向的であるとし、意識の「高階の性質」としてクオリアを定義する者もいる。たとえばティム・クレインは、「歯痛」とは歯に対する有向性(志向性)と、歯痛特有の性質(クオリア)を持っているとする。またジョン・サールは、全ての意識状態はクオリアを持つとしながら、「痛み」を感じている場合、「痛み」はそれ自身を超えるものを何も表していないので、志向的ではないとしている。

茂木健一郎によると、クオリアには階層構造がある。クオリアが階層的に集合してより複雑な表象(representation, vorstellung)が生じる。例えばガラスの透明な質感や、ガラスの表面の色はクオリアであり、このようなクオリアが集合して「コップ」という表象が構成されるという。

また茂木は、クオリアをめぐる最大の謎として、クオリアがプラトンのイデアのように「完全」であるよう思われることを挙げている。クオリアを生み出す脳の神経活動は時間的に連続しているわけでなく、離散的(1秒間に数百回、そして1回あたり1ミリ秒のパルス的な活動膜電位)であり、情報処理とは無関係なノイズに満ちているという。茂木はクオリアの同一性について以下のように述べている。
バラを見ている時、その花びらの赤い色は、その微妙なニュアンスの変化を含めて、まさにプラトン的完璧さをもって心の中に感じられている。しかし、そのような「赤」のクオリアを生み出している脳内の神経細胞は、入力した刺激と関係なく時々刻々と変化するノイズに満ちており、しかも離散的である。いったん目を閉じた後また目を開けてバラを見る時、その時の神経活動は、前にバラを見た時とは異なるはずである。それにもかかわらず、私たちの意識は、前と同じ完璧な「赤」のクオリアを通して、えも言われぬその花びらのテクスチャを捉える。(茂木 2004: 203)

このクオリアを科学的・存在論的にどう考え、どう説明するかが、科学と哲学にまたがる現代の心身問題の最大の焦点になっている。またクオリアがどのように生じるかという問題については、還元、創発、汎経験説などが提唱されている。

意識とクオリアの違い

心の哲学では意識に含まれる個々の質感のことをクオリアと言うケースが多い。つまりクオリアは意識の一部であるが、意識そのものではないという考え方が一般的である。

しかしジョン・サールや茂木健一郎は、意識とクオリアを同一視しており、意識というものは「痛み」などの感覚的なものだけではなく、どんな思考作用でも、数字などの概念的なものでも、必ず質感(クオリア)を持っているという考えである。

サールは『MiND 心の哲学』で次のように述べている。
あらゆる意識状態はそれにつての質的な感覚を備えている。意識状態はそのような意味で、つねに質的である。先に、この性質を記述するにあたって「クオリア」という用語を導入した哲学者たちがいることに触れたが、その用語は贔屓目に見てもまぎらわしいものだ。なぜならその用法は、ある意識状態は質的ではないこと示唆しているからだ。(中略)もしあなたが二足す二は四に等しいと考える場合、そこに質的な感覚がないと考えるなら、それをフランス語やドイツ語で考えてみよう。たとえ、2+2=4 という志向内容が英語の場合とドイツ語の場合とで同じだったとしても、「zwei und zwei sind vier」と考えることは英語で考えるのと全くちがう感じがする。意識という概念とクオリアという概念は完全に同じ対象を指しているのだから、私は意識から区別されるなにものかとして「クオリア」という概念を使わないつもりだ。(p.179)
ちなみサールは以前の著作では「クオリア」という語を用いていた。これは、機能主義では「意識」というものの本質を「機能」だと考えるのに対し、二元論者がクオリアの存在を根拠にその機能主義を批判していることが理由だと思われる。サールは『ディスカバー・マインド!』では以下のように述べている。(p.44)
「クオリア」と呼ばれるものをめぐっての論争があって、「機能主義はクオリアを説明できるか」という問いが想定された。この争点によって明らかになったのは、心というのは、いわば徹頭徹尾クオリアからなっているということだ。

茂木健一郎は『意識とはなにか――〈私〉を生成する脳』で以下のように述べている。
  • 意識とはクオリアのかたまりである
クオリアは私たちの意識の中で、〈あるもの〉が〈あるもの〉であると感じられることに深くかかわっている。私たちの意識の中で、〈あるもの〉が〈あるもの〉として成り立つということは、それが、ある特定のクオリアとして感じられるということである。「ギラギラ」や「ピカピカ」といった、質感そのものとも言える〈あるもの〉はもちろんのこと、数字や記号、言葉といった、一見質感そのものとは独立した抽象的な形で私たちの意識の中に存在するかのように見える〈あるもの〉もまた、それが意識の中で〈あるもの〉として感じられる以上、一つのクオリアである。(pp.030-031)

歴史と類義語

クオリアという言葉の歴史は古く、4世紀に執筆されたアウグスティヌスの著作「神の国」にも登場する。現代的な意味でこのクオリアという言葉が使われ出すのは、20世紀に入ってからのことである。まず1929年、アメリカの哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが著作『精神と世界の秩序』において現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を使用した。※クオリアの詳細な歴史についてはWikipediaを参照されたし。

クオリアと似たような意味の言葉は歴史上数多く存在してきた。「表象」や「現象」、「感覚与件(sense data)」、ジョン・ロックの「二次性質」という概念、デイヴィッド・ヒュームの「印象」という概念などもクオリアとほぼ同義の言葉である。また東洋哲学においては仏教における「六境」という概念がクオリアに近い意味を持つ。

それら類義語に対し、クオリアとは自然科学的なスタンスから使われる用語である。

クオリアについての論争

20世紀後半になってトマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどのようなことか」や、フランク・ジャクソンの、マリーの部屋などの思考実験によって、クオリアの問題は現代の物理学では扱われていないという主張がなされた。そして1995年からデイヴィッド・チャーマーズが発表した一連の論文によってクオリア問題は大きな転換点を迎える。チャーマーズは哲学的ゾンビという「想像可能性論法」によって、クオリアは物理的性質に論理的に付随しないことを主張したのである。これは物理主義の否定であった。このことによってクオリアについての議論が劇的に活発化する。

物理主義では、たとえば「脳作用Bの時には心的現象Pである」と、脳と心の関係は必然的に決定されるとする。しかしチャーマーズの主張は「脳作用Bであっても、心的現象はPであることもAであることも想像できる」というものであり、脳作用と心的状態が論理的な結合関係でなく、自然的な結合関係であることを論証しようとするものである。この想像可能性論法の重要な点は、想像されるものが現実に存在すると実証されなくても、想像が論理的に可能であれば物理主義を否定できるということである。物理主義では、複数の脳が同一の物理状態にあれば、心的状態も必ず同じであり、異なるクオリアが生じる可能性は全く認められないからだ。従って物理主義の立場を取る哲学者は、哲学的ゾンビが想像可能なことを、われわれの「知識の不足」が原因であるとし、脳についての十分な知識が得られれば哲学的ゾンビが現実には不可能であることがわかると主張する。たとえば「空飛ぶアフリカ象」は想像可能であるが、物理学の知識を十分得たならアフリカ象が空を飛ぶのは不可能であることがわかる。哲学的ゾンビの想像可能性も同様だというわけである。

なお大森荘蔵ソール・クリプキは、心的なものを含む日常言語による描写と、心的なものを除外した科学的描写は、それぞれカテゴリーとして異なることを指摘し、片方をもう片方に還元することはできないと主張している。

また茂木健一郎は、心的性質をカテゴリーの超越によって強引に物理的性質に還元しようとする物理主義を、中世の「錬金術」になぞらえて「錬心術」と呼んで批判している。

還元主義的物理主義と二元論

クオリアは既知の物理現象に還元して説明できるという考えが物理主義であり、心脳同一説機能主義がこの立場である。逆にクオリアは物理的なものへの還元はできないとする立場が二元論である。二元論には心と身体は別の実体だと考える実体二元論と、同一の実体の二つの属性だと考える性質二元論がある。またクオリアと物理的な肉体との関係は人間には理解困難だとする新神秘主義という立場もある。

デイヴィッド・チャーマーズは脳とクオリアの関係についての問題を二つに分けた。物質としての脳はどうやって情報を処理しているのか、という神経科学的な問題を「意識のイージー・プロブレム」と定義し、そもそもクオリアとは一体何なのか? 物質としての脳作用から、どうやってクオリアが生まれるのか? という類の問題を「意識のハード・プロブレム」と定義した。

外在主義と内在主義

外在主義とは認識論において、人の知識や志向内容は行為者と世界(外在)との因果関係によって構成されるのであって、心(内在)的な性質ではないとする。この立場の哲学者にはヒラリー・パトナムがいる。対して内在主義では、私たちの知識や志向内容はもっぱら自分たちの頭の中に存在すると解釈する。ジョン・サールはこの立場である。なお、ここでいう「知識」とは広い意味があり、論者によって使われ方が異なる。ケヴィン・オレーガンの場合はクオリアまでも含めている。

クオリアに関する思考実験


クオリアの全一性

(以下は管理者の見解)

全一とは、完全に一つのまとまりとしてあり、部分を持たないことをいう。全一性とは、全一であるため他の何かに還元不可能な性質のことをいう。古代ギリシャの哲学者クセノファネスが用いた「ヘン・カイ・パン(一にして全、一即全)」が語源であると思われる。

クオリアには全一性があるよう思える。たとえば「赤」や「愛」や「郷愁」などのクオリアに、部分があることを想定することはできない。またそれらを他の何かに還元することも困難である。

まず「赤」や「愛」や「郷愁」という言葉は、概念として全一的であり、他の概念とは相互排他的であることが前提とされているために、論理的に他の概念に還元することはできない。たとえば「赤とは365個のクォークから成る」、「愛とは赤と情熱から成る」、「郷愁の10%は愛である」などと言ってたとしても、何の説明にもならない。

そして概念ではなく、それらの言葉が指示しているクオリアも全一性があるよう思われる。たとえば「痛み」のクオリアのどこを探しても「赤」のクオリアはなく「郷愁」のクオリアもない。「痛み」を構成する他のクオリアなどというものは想像することさえ困難である。やはり「赤」も「痛み」も「郷愁」も、完全にひとまとまりの、他の何かに還元不可能で、部分を持たない全一的なクオリアだと思われる。

一般に性質二元論者が、クオリアを物理的な性質に還元できない、と主張する場合、それはクオリアの全一性の主張であるともいえる。しかしクオリアが全一的であることを認めると、クオリアがどのように生じるかという問題がアポリアとなる。他の何かに還元できないということは、他の何かから生まれることはできず、他の何かから合成されることはない、というのと同じことだからだ。

物理主義の主流は心脳同一説を前提に、クオリアは物理的存在に還元できるとする。クオリアは物質である脳の活動に並行して生じているよう観測されるからであるが、しかし脳とクオリアの関係で見出せるのは、あくまで隣接関係のみである。両者の結合や同一性は決して観測されない。そして前述したように「愛」などという心的な用語と、「クォーク」などという物理的用語は、概念として論理的に異なっているので、両者が同一である、また一方がもう一方に還元できる、という主張は決して論理的に証明できない。また物質は一定の空間を占めるが、クオリアはそうではない。「愛」や「痛み」に面積はない。両者の在り方はあまりにも異なっている。

クオリアというものが一体どのようにして生じているのかという問題については、還元、創発、汎経験説などが提唱されているが、いずれも説得的でないのは、クオリアの全一性を説明できないからである。

心の哲学の最大の問題は、クオリアというものを存在論的にどう位置づけ、どう説明するかということであるが、それはクオリアの全一性をどう考えるかという問題を出発点とすべきだろう。


  • 参考文献
大森荘蔵『知の構築とその呪縛』ちくま学芸文庫 1994年
金杉武司『心の哲学入門』勁草書房 2007年
小林道夫『科学の世界と心の哲学』中公新書 2009年
茂木健一郎『意識とはなにか――〈私〉を生成する脳』ちくま新書 2003年
茂木健一郎『脳内現象』NHKブックス 2004年
スーザン・ブラックモア『「意識」を語る』山形浩生 森岡桜 訳 NTT出版 2009年
ティム・クレイン『心の哲学』植原亮 訳 勁草書房 2010年
デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年
ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年
ジョン・R・サール『ディスカバー・マインド!』宮原勇 訳 筑摩書房 2008年
  • 参考サイト