コウモリの視点


アメリカの哲学者トマス・ネーゲル(Thomas Nagel, 1937年7月4日 - )は、論文「コウモリであるとはどのようなことか?」(1974年)で、機能主義的な物理主義に対する反論として、意識・クオリアの主観性をコウモリを例にして主張した。

コウモリはどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握している(反響定位)。コウモリはこの反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか……。コウモリの感じ方を問うことは出来るが、しかし人間はその答えを知る術を持ってはいない。

この問いで注意すべきなのは、人間がコウモリのような生活をしたらどのように感じるかということではない。それは人間である私にとってどのようなことか、という「私の視点」にすぎない。ネーゲルが問うているのは「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」という「コウモリの視点」なのである。

この問題から導き出されるのは、機能主義的な立場からコウモリの知覚について神経生物学的に十分な説明があったとしても、その説明からはクオリアの情報が抜け落ちているということである。コウモリの活動を決定する神経構造とその機能的な作用に完璧な知識を持った人がいたとしても、コウモリであるとはどんな感じがするのか? コウモリであるとはどのようなことか? という問題は決してわからない。またコウモリだけでなく、意識を備えた存在であれば、その経験には「そのような存在であるとはどのようなことか」と問える側面がある。それこそが意識を客観的に説明する際に抜け落ちるものなのだ。客観的な説明は、意識の主観的な特徴を説明できないからだ。

ネーゲルは思考実験によって、物理主義者が水をH2Oに、稲妻を放電現象に還元したようには、心理現象を物理現象に同定したり還元したりできないことを証明しようとし、論文で意識の主観性を以下のように述べている。
ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが――しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが――存在している場合であり、またその場合だけなのである。(トマス・ネーゲル 『コウモリであるとはどのようなことか』永井均訳 (1989年、p.260)
また物理主義の還元的手法を以下のように批判する。
還元は、還元されるものから種に固有の視点が排除される場合にしか成功しないのである。(中略)それは内面に対しては一つの視点ではなくその本質をなしているからである。(同 p272)

なお、ネーゲルがこの思考実験によって問題にしたのは、体験がその所有者のみに知られるという私秘性に関してのみではない。心身問題とこの思考実験との関係は、体験の主観的な性質について一般的に語ることを可能にする、という点もある。人間、あるいはコウモリ、あるいは火星人であるとはどういうことなのか、に関する事実がどのような身分であるにせよ、そのような事実は特定の「視点」を具現しているのである。ある対象にある体験を客観的に帰属させることができるのは、第三人称においてと同時に第一人称においてその帰属を理解することができるような主体だけだからである。つまり、他者の体験の私秘的な部分を理解することは不可能であっても、「他者が特定の視点を具現しているような事実を理解すること」は可能なのである。

以上のようなネーゲルの考え方はウィトゲンシュタインの独我論と対照的であり、哲学的ゾンビを有意味な問いとみなすデイヴィッド・チャーマーズの立場に近い。


  • 参考文献
トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』 永井均訳 1989年 勁草書房
ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 2006年 朝日出版社