独我論



概説

独我論(英: solipsism)とは哲学における認識論の立場の一つ。自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神現象だけであり、それ以外のあらゆる存在は疑いうると考える。デカルトが「方法的懐疑」で到達した「今私が考えているということ以外全て疑いうる」という極限の懐疑主義を出発点とし、ジョージ・バークリーの「存在するとは知覚されることである」という現象主義を経て発展した。哲学の歴史上、独我論は認識論における一つの方法論として機能してきた。

各種の独我論

ジョン・R・サールは独我論を以下の三タイプに分けている。
1、心的状態を持つのは自分だけであり、他者とは私の心に現れる現象に過ぎないとする立場。
2、他人も心的状態を持っているかもしれないが、それを確かめる事はできなとする立場。
3、他人も心的状態を持っているとしても、その内容は私と違っているかもしれないという立場。例えば私が赤いりんごを見ていたとしても、同じりんごを見ている他人にはそれが青く見えているかもしれないということで、これは逆転クオリアの思考実験として知られている。

永井均は独我論を二つに分ける。ひとつは「認識論的独我論」であり、これはある一つの心にとって、その外部にあるものの存在は認識できないとする考え方であり、普遍化できる独我論である。もうひとつは「存在論的独我論」であり、これは世界に何十億といる人間の中で、なぜ永井均が「この私」なのかという問題であり、普遍化できない独我論である。これは意識の超難問と類型である。

フッサールの独我論は、客観的な実在に対する判断を停止して、自分に現れる現象の構造を探究し、それによって自分がどのようなプロセスで「主観と客観」と呼ばれる世界理解を成しうるかを記述しようとするものである。つまりバークリー的な独我論と性質を異にし、フッサールの場合は方法的な独我論である。デカルトが「全てを疑っても、その疑う自分自身の存在は疑えない」という原理から始めたのに対し、フッサールの方法は「全てを疑えるにしても、そのように疑う前提となる対象が現象しているということは疑えない」というものである。

ウィトゲンシュタインは、自己と他者の非同一性の考察から出発した、世界の人間のうち、一人だけ本当の私がいて、他の人間は意識的な存在者ではあっても、この私ではない。すなわち、本当の「私」は自分一人のみであるという主張であり、その独我論的世界観は「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」ということで表現される。

バートランド・ラッセルは、推理によって自分の直接的経験を超える存在を認めない限りは、「今・ここ・私」という、瞬時における自我だけが存在するという独我論の可能性を否定できないとした。

※ウィトゲンシュタインとラッセルの見解は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を最も厳密に規定したものであり、「私が今見ているもの」以外は全て実在ではない、また「私」ではない可能性を示唆している。特にラッセルの場合はデイヴィッド・ヒュームと同様に人格はそれ自身で存在するのでなく、他の何かの集合であるとする人格の同一性における還元主義を含意しており、ヒュームの場合それは観念論的な立場の「知覚の束」であったが、ラッセルは中立一元論の立場から「出来事」と呼んでいる。


  • 参考文献
永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年
バートランド・ラッセル『哲学入門』高村夏輝 訳 筑摩書房 2005年
ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年
S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 勁草書房 1999年
  • 参考サイト